第3章 母の死後、私達は滞在旅行の始まり、稲住温泉滞在【1998.12.31.~1999.1.3.】
私が1997(平成9)年の大晦日、私の母と同居していた妹から、
母の容態が悪化し、救急車で病院に入院した、と教えられたのは夜の9時過ぎであった。
私は風邪をこじらせて毎年の御節料理のメールボーイを19年間続いていたのであったが、
やむえず家内に代わってもらい届け、この後の数時間後であった。
この当時の母は、入退院を繰り返していたが、新年を病室で迎えるのは、初めてであった。
家内の父も体調を崩していたので、大晦日の夜、我が家の恒例の『お年取り』も中止となり、
我が家は2人だけの新年を20年ぶりに迎えた。
そして、私の実家の長兄宅の2日に行われた『新年会』も、母が不在で、
前年の母の『喜寿の祝い』を兼ねた華やいだ雰囲気がなくなり、
改めて母の周囲をくつろがせる社交の妙味を実感させられた。
そして、新春の13日の深夜、母は死去し、
14日に『仮通夜』、15日の『お通夜』、16日に『告別式』を終え、
『初七日』、納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。
年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったのである。
世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
50歳を過ぎた私でも心は重かったのである・・。
このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に云った。
そして私達夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたのである。
この旅行に関しては、以前にこのサイトに投稿している部分が多いが、
あえて再掲載をする。
【・・
秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。
何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、山奥の素朴な温泉地としたのである。
大晦日の早朝、東京からバスで東北自動車を古川ICで降り、
鳴子温泉を通り抜け後、雪はまばらに田畑にあった程度である。
しばらく登り坂を走破するとトンネルを抜けると、あたり一面、雪景色となった。
山里の丘から道路に掛けて、30センチ程度であったが、我々の観光客は歓声を上げた・・。
私達を含め、秋田県の奥まった処の温泉地で雪を観て、年末年始をくつろぐ、
というのは大方の周知一致した思いであった。
日暮れ時にホテルに着いて、大晦日の夕食を迎えた。
http
://www.inazumi.co.jp/
☆ 秋の宮温泉郷 稲住温泉ホームページ ☆
翌日、私達は防寒服で身を固めて、積雪の幅5メートルぐらいの閑散として県道を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れいた。
しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。
ゆるく蛇行した道を歩き、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
車も通らず、人影も見えなかった・・。
雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。
このように1時間ばかり歩いたのだろうか。
そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。
スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私達夫婦だけで、
こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。
私は東京郊外の住宅街に住む身であり、
とても家の中の一角に薪ストーブを置けるような場所もなければ、
薪の補給を配慮すれば、贅沢な暖房具となっているのである。
私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、
田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。
板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。
薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。
樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。
そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。
薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『お姉さん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。
そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。
ホテルに雪の降る中を歩いて戻ると、
ホテルの外れに茶室があり、積雪が深まった庭先の中を歩いた・・。
茶室は人影が見当たらず、ひっそりとしていた。
その晩、家内の実家にロビーで電話を掛けて、新年の略式の挨拶をした。
その後で、私は電話口で、
『お義父さんの好きな『喜びも悲しみも幾年月』と『二十四の瞳』の監督・・
木下恵介さん・・亡くなりましたが、
日本のマスコミは余り記事の扱いが粗末で、マスコミも鈍感になりましたね・・』
と私は言った。
・・】
このような思いで、私は母に死去された初めての年末年始を旅先で、
私達夫婦は過ごしたのである。
第4章 湯野浜温泉滞在【1999.12.29.~2000.1.2.】
1999(平成11)年の1月9日に母の一周忌の法要を終えた後、
この当時の私は、あるレコード会社に勤めていたが、数年前から各社がリストラが実施され、
私も2月より、ある物流情報センターに出向となった。
殆ど本社で30年近く勤務してきたので、失墜感があり、盛夏の頃まで心の奥底に感情のわだかまりがあったが、
何とか吹っ切れて業務に専念できた。
この後、初秋に妹の長男、秋に長兄の長男の結婚式などがあり、
私自身、公私共々波乱に満ちた年でもあった。
こうした思いかあり、せめて年末年始は日本海の雪降る温泉地に滞在して、のんびりしょうよ、
と私は家内に云ったりした。
結果として、選定したのは山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉に、
12月29日から4泊5日の旅となったのである。
東京駅より新幹線で新潟駅、その後は在来線の特急『いなほ』で鶴岡駅で下車したが、
乗車時間はわずか3時間半が、車窓から雪景色が観られず、少し落胆したのは本音であった。
鶴岡駅の駅の近くにラーメンの美味しい店がある、と事前に調べていたので、
ここで昼食と私達夫婦は決めていたのであるが、郊外に移転したと教えられ、
やむえずタクシーで三キロばかり利用した。
郊外に洒落たレストラン風に変貌し、客は賑わっていたが、
期待する余りなのか、ラーメンの味は並であり、私達は互いに苦笑したのである。
そして、鶴岡駅までのんびりと歩きながら田畑の広がる情景を観て、
庄内平野の広さを実感したりした。
その後は街のはずれで町工場のような木造二階建てを眺め、
社員の方たちか仕事納めの前なのか大掃除をされていた。
私は会社の年末年始の休暇で一日早く休め、気楽に旅行などをしていたので、
何かしら申し訳ない気持ちになったりした。
鶴岡駅の駅前は、帰省客を出迎える家族、知人たちが多く、
私達夫婦は駅前より路線バスで湯野浜温泉に向ったが、
やはり車中の乗客は帰省される方が圧倒的に多く、
この地方の方言が飛び交わされ、私は心の中で微笑んだのである。
私はその地方の風土、文化を学ぶ第一歩は、
その地域にお住まいの人たちが平素に於いて利用される公共交通機関に共にできれば、
確かに教示されることが多い、と信念のように思っていたからである。
終点の湯野浜温泉に到着すると、まもなく予約している観光ホテルの『亀やホテル』が観えた。
http
://www.kameya-net.com/
☆ 湯野浜温泉 『亀やホテル』ホームページ ☆
私達は年末年始の宿泊料金は高くなると知っていたが、
この一年の波乱万丈の苦楽の年であったので、慰労の意味を込めて、
少し背伸びし29日、30日、大晦日の31日、そして元旦、と連泊としたのである。
程ほどゆったりした客室、客室から観える海、そして鳥海山の雪景色の展望、程よい大浴場、
何よりも魅せられたのは、その夜に応じた日本海に面した特色のある料理の数々であった。
素材も良く、創意工夫された料理・・
私達夫婦はある程度は日本各地の観光ホテルに宿泊して、
宴(うたげ)のひとときの夕食を頂いてきたが、今でもこれ以上の料理を味わったことがないくらい、美味であった。
その上、日中に今宵はXXを食べてみたいなぁ、と何気なしに家内に云ったりしていたところ、
この料理が夕食のお膳の片隅にさりげなく置かれていたので、
私達は驚きながら、微笑んだのである。
私達夫婦は、長兄の奥方が鶴岡市の郊外で生を受け、高校生までこの地で育ち、
何かと冬は積雪がある上に寒い、と聞いていたので、
今回の湯野浜温泉の滞在旅行は、フィールド・ジャケット、セーター、ズボン、軽登山靴を用意をして、
一部はこの観光ホテルに宅配便で送付していた。
翌日の30日は、このような防寒の容姿で、羽黒山のふもとにある『五重塔』に向ったのであるが、
何かしら温暖で陽射しの中、路線バスで鶴岡駅で乗り換えながら行ったのである。
見渡す限り田畑の中に人家がある情景であったが、羽黒山のふもとに近づくと、
バスの終点であり、私達は下車し、閑散として食事処で、山菜蕎麦を頂いたりした。
そして畑の外れに赤く実った柿が観え、あれが庄内柿か、と私は理解した。
この後、大きな杉木立の中、地表は5センチ前後の残り雪を踏みしめ、
小さな川の清冽な流れを見ると、深閑とした情景であった。
このような所を少し登ると、突然に『五重塔』が観えたのである・・。
杮葺(こけらぶ)きで素木(しらき)造りの塔であり、長い歳月の風雪に耐えた景観に私は心を寄せられたのである。
私はこうした情景を眺めながら、春のとき、夏のひととき、秋のとき、そして冬、
このような季節をめぐる中、時と共にひとときを過ごせたら、
この上にない贅沢な時を享受できる、と私は立ちすくんで感じたのである。
この後、鶴岡駅からホテルに戻る路線バスの車窓から、
市内の中心の街並みを眺めたり、寺院の外れの一角で正月飾りの即売店を見たりした。
門松、注連(しめ)飾り、輪飾り、そして松、万両などが観られ、
多くの人が買い求めている光景を見ると、改めて歳末を実感させられたのである。
翌日の大晦日は、深夜に羽黒山の祭殿の付近で、『松例祭』が名高いので、
滞在している観光ホテルで夕食を頂いた後、私達はタクシー向かったのである。
もとより羽黒山は、月山、湯殿山と共に出羽三山と称されているが、
拝殿の近くに行くと、この時節に羽黒山に参拝すれば出羽三山を拝観したことになる、
このような意味合いが明記されていたので、私は少し笑ったのである。
奥のはずれにある大きな待合室は、市内の人々か、大勢の方たちが折、
私は神社の売店にいる巫女(みこ)を見たりしていた。
高校生ぐらいの少女たちで、大人には少し無理であどけない表情をたたえているが、
庄内地方が育てたまぎれない美少女、と私は秘かに感じたりしたのである。
この後、この外れの広場で、地元の有志の若き青年諸君が、
上半身を肌蹴て歓声と喊声をあげながら、互いに前進したり、
大きな松明(たいまつ)を燃やしながら、歩き廻った・・。
確かこのような情景だったと記憶しているが、
無念ながら10数年前のことであるので、定かでない。
この後、神社の外れで、10数軒立ち並ぶ簡素な食事処は、
参拝客が多い中、私は地酒を呑みながら、おでんを食べたり、
家内は温かいお饅頭と共に甘酒を飲んだりしていると、深夜の一時過ぎとなった。
新たなる2000年の年か、と思いながら、ホテルも帰還するタクシーを捜したが、
やっとの思いで15分後に見つかり、帰路に向ったのである。
羽黒山を下山するタクシーの車窓からは、
市内の方から初詣に来られる方たちの自動車のライトが次々の登ってくるような状景に、
新年早々の初詣か、と感心しながら下方を眺めたりした。
元旦の日中は、湯野浜の海岸を2時間ばかり散策した。
暖かな冬の陽射しの中を家内は貝殻を拾ったり、私は珍しそうな小石を探したりした。
翌日の2日は帰京する日なので、市内の神社に参拝した後、
駅前の老舗の和菓子屋で寄ったのである。
平素、何かと長兄の奥方からは、この地域の地酒を私は頂いているので、
幼年期からの長兄の奥方の好み和菓子を探して買い求めたり、懐かしいと思われる地元の地方新聞の二紙を購入し、
私達は、まもなく鶴岡駅をあとにしたのである。
このように1999(平成11)年の年末、そして新たなる2000(平成12)年の新年を、
山形県・鶴岡市の海岸にある湯野浜温泉で過ごしたのである。
《つづく》
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