夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、数多くの皆様には感謝しながら、良いお年とお迎え下さい・・。

2010-12-31 15:22:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
2004(平成16)年の秋、民間会社を定年退職後、直ちに年金生活にして、
身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごしてきたが、
私は随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書に続いて、文章を綴るのが好きである。

偶然に退職まもなくして、ブログの世界を知り、ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として毎日数通投稿し、綴ったりしてきた。

その後、2007(平成19)年に【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できる【OCN Cafe】を知り、
今年の2010(平成22)年の7月まで加入していた。

この間、このサイト【gooブログ】に加入してきたが、【gooブログ】に専念するために、
今年の2010(平成22)年の8月より、このサイトに単独とした。

投稿の内容は、定年後の身過ぎ世過ぎの年金生活の日々の思い、
過ぎ去った幼年期から定年退職するまでを余すことなく綴り、心の発露として投稿を重ねてきた・・。


このように私はパソコンが故障、或いは国内旅行をしていない限り、
毎日投稿をしてきたので、少なくとも定年退職後の丸6年過ぎた日々の思いは、
私の日常の証(あかし)のひとつでもある。

もとより、人それぞれ誰しもが光と影を持ちあわせているが、
つたない私もささやかな光、秘められた影があるが、余すところなく綴ったりしてきた・・。

昨今、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになっているので、
数多くのお方にお読み頂き、感謝の一言です。


何よりも数多くの皆様の投稿文を拝読し、
それぞれの人生を過ごされていると改めて感じてながら、多々ご教示を頂いたり、
季節感あふれる美麗な写真を拝見し感銘を受けたり、
ときには数多く人から励まされたりして、拝読したり、拝見しているのが本心である。
改めて、数多くの皆様には感謝する次第です。

そして私が投稿を重ねることが出来たのは、こうした思いを深く感じ、人生の教科書と思い、
支えられたことは事実である。


我家では、大晦日の今宵は、お年取りのささやかな酒宴を致しますので、
今年の最後の投稿となります。

今年も暗いニュースが余りにも多く、私なりに憂(うれ)いたりしましたが、
来年こそは明るいニュースで共に笑いあったりしたい、と祈願しています。

皆様には、良いお年とお迎え下さい。


           2010(平成22)年12月31日
                 『夢逢人』

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定年退職後、過ぎし『大晦日』の日々に思いを馳せ、古き投稿文を読み返し・・。

2010-12-31 09:39:59 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
今朝、カレンダーは『大晦日』と明記されていたが、今年も過ぎ去ってしまえば実に早い、
と実感している・・。

私の住む地域の天気情報は、朝の6時はマイナス1度で庭の黒土にうっすらと霜の情景で、
昼下り9度前後、夜の6時は6度前後が予測されているが、
冬晴れに恵まれて、穏やかな日を迎える。

先ほど、ぼんやりと定年退職後の『大晦日』の日をどのような思いで過ごしてきたか、
私が投稿してきた文を読み返えしをした・・。



定年退職後の2004(平成16)年の秋、直ぐに年金生活に入り、まもなくブログの世界を知り、
初めての年末を迎えた時、あるサイトに投稿した文のひとつである。

【『冬のソナタ』に寄せて・・。】
と題して、投稿しているが、再掲載をする。

【・・
家内と昨日の夕方、駅前に買物に行く。
街は歳末の雑踏だった。

スーパーの一軒に家内が入り、私は入り口に近い所にある、小さめの家電量販店に佇んでいた。

『冬のソナタ』の主題歌が流れてきた・・。

振り向くと、量販店の店頭にテレビ販売のデモとして、『冬のソナタ』のビデオを放映していた。

3人の家族連れで、50歳前後の奥さんがこの『冬のソナタ』を見て、
25歳前後の娘に『あら・・』と見入っていた・・。

主人の方は、『なんで、こんなのがブームになるのか、俺はわかんねえ・・』
と奥さんを急きたてた。

私はこの主人について、
奥さんとコミニューケションを日頃から取っているのかしら、と疑った。


以前、眠りが浅く、深夜目覚めたとき、
何気なしにテレビを点けたら、『冬のソナタ』を放映していた。

1時間半前後、見ていたが、
この監督は岩井俊二・監督の『Love Letter』《中山美穂・主演》の映画に影響を受けている、
と瞬時に感じたりした。

『冬のソナタ』は甘くせつない作品で、ありふれた作品であり、
ただ切り口が巧いと思えた。

日韓の文化交流の一環として、貢献出来た事は喜ばしい、と感じている。


一部の男は家庭を守る上で、会社人間になり、
妻の従順に甘え、50歳を過ぎた頃、子供は成長を見て、順風と錯覚しまう。

妻側からして、世間並みの生活が保ってきたが、空虚さを感じ始める・・。

主人に『あたしを見つめて・・』と言いたいが、主人は気づかない・・。


『冬のソナタ』の主演男優に夢中になっている40、50歳代のご婦人をみると、
このように感じてしまうのである。
若い20歳前後の女性ならともかく、お気の毒ですね、と思う。

何はともあれ、日韓の交流の一環として、日韓がより一層深まってくれるよう、
切望する次第です。

尚、家内は『冬のソナタ』には、興味を示すことなくはない。

・・】



翌年の2005(平成17)年の大晦日になると、
【 一年を振り返り時・・♪】
と題して、投稿している。

【・・
東京の郊外は、早朝は強い風が吹き、目覚めた・・。

先程まで煎茶を淹れたり、家内のコーヒーを枕元に置いた後、
新聞を読んだりしていた。

先程、玄関庭に出たら、風は微風に変わり、
陽射しが何時ものような情景となった。

穏やかな静寂の大晦日の朝である。

昨夜、家内の母が、予定通り夜の7時過ぎに来宅して、
夕食をしたが、やはり話題は、ここ一年を振り返る話に尽きた・・。

私は弐合徳利をお替りして、数の子、祝い鯛、蒲鉾、ゆずの輪切りを食べながら、
色々と話し込んだ。

しばらくした後、眠くなったので、煎茶を枕元に於いて、
文庫本を持ち込んで数ページ読んだ時、眠りについた・・。

さしずめ、この本は歴史学者のA.L.サッチャー氏の『燃え続けた20世紀』である。

この本は、10回前後、読み返している本である。

社会、政治、外交、軍事、経済、宗教が揺れ動いている現在、
私の脳裏に冷静な思考を保たせる最適な本である。

・・】



そしてこの後の2006(平成18)年の大晦日に於いては、
【『除夜の鐘』に寄せて・・♪】
と題して、投稿していた。

【・・
大晦日の夜、日本の各地で除夜の鐘を撞(つ)くが、古来より108回となっている。

知識人・藤野邦夫の解説に寄れば、

《・・
仏教で人間の煩悩(ぼんのう)が、108あるとされることによるっている、
と明示されている。

煩悩とは、身体や心の欲望、他人への怒り、ないもののへの執着などとされている。

仏教に於いては、

①生まれてくる苦しみ
②年をとる苦しみ
③病気の苦しみ
④死の苦しみ
4大要素を『四苦(しく)』とし、

⑤欲しくても手には入らない苦しみ
⑥愛する人と別れる苦しみ
⑦いやなことをさせられる苦しみ
⑧その他の色々な苦しみ
『八苦(はっく)』があるとされている。

そして、この『四苦八苦』の四苦(4x9=36)と八苦(8x9=72)を加算すれば、108になる。

108回の来歴については、他にも諸説があるが、
一年の様々な思いをかきたてる除夜の鐘は、
旧年中に107まで撞(つ)き、
最後の1回を新年に撞くのが慣例である。

尚、『除夜の鐘』は、中国の宗(960年~1279年)の時代に始まった風習だと云われて折、
『除夜』とは、旧暦で一年の最後の夜のことである。

・・》
以上、無断であるが、引用させて頂いた。


私は11時過ぎに家を出て、独りで川辺の遊歩道を散策した。
陽射しの中、風もなく、のどかな情景であった。
私にとっての煩悩とは・・しばらく鴨の親子が水面をゆったりと泳いでいるのを見詰めながら考えた。

絣(かすり)の似合う女性で、昭和40年頃までの小説、随筆、映画など知る文学少女かしら、
と思ったりした。
この時代を知る人であったら、さしずめ若くても50代の女性となる。

こうした美女と語り合い、そして弐合徳利、ぐい呑みでお酒を呑みながら、料理を食べたりしたい。
そして別れ際、そおっと手を握り、握手をして去る・・。

こうしたのが私の見果てぬ夢かしら、と思っている。

私はこんな他愛のない、ひとときの夢をみていたが、
いつの間にか煙草を喫ったりしていた。

帰宅したら2時過ぎの昼下り、玄関庭の白梅が陽射しをさんさんと受けていた。
枝先は早くも莟(つぼみ)かしら、と夢幻のひとときを脳裏にかすめた。

・・】



そして2007(平成19)年に於いては、
【大晦日の昼下りの音楽は・・♪】
と題して、投稿していた。

【・・
家内と家内の母は、年末年始の買物に出かけているので、
先程から音楽を聴いている・・。

最初は、昨夜レコード大賞を受賞されたコブクロに敬意を示し、
『蕾(つぼみ)』を聴き、彼等のメジャー・デビューの前、
9年前から無名の3年間、路上で唄い続けた心情に熱く思いを寄せたりした。

そして、夢はみるものでなく、明日を信じて労苦の言動した日々を思う時、
胸が熱くなるのである。

この後は選曲は少し迷ったけれど、
モーツァルトも好いが、やはりベートーヴェンの『第九』だろうと、
と思いCD棚が取り出した・・。

今回はたまたま小澤征爾に寄るサイトウ・キネン・オーケストラであるが、
大晦日に相応(ふさわ)しいかしら、と微笑んでいる。

・・】


そして一昨年の2008(平成20)年に於いては、
【 大晦日を迎えても、『年々歳々 花相似 ・・』・・♪】
と題して、投稿している。

【・・
私は民間会社を定年退職後、年金生活の5年生の身であり、
大晦日を迎えて朝、何を綴ろうかと思案したりしていた。

やむえず、このサイトを開き、過去の綴った投稿文を読み返していた・・。

《略》

このように年金生活後の一年生から昨年の四年生までの大晦日に綴った1部であるが、
齢ばかり重ね、果たして私の心は深化してきたのだろうか、
と思ったりしたのである。
私は安楽に年金生活を過ごすのは、
何よりの堕落の一歩と思考しているひとりであるので、深く反省したりしているのである。

そしてこの後は、
中国初唐の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺されたひとつの詩に
思いを重ねたのである・・。

年年歳歳花相似 歳歳年年人不同        

毎年たんたんと美しい花を咲くが、
この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学び初めて、40数年の歳月が流れている。

そして、果たして昨年、一昨年の今頃はと思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりしている。
・・】


昨年の2009(平成21)年に於いては、
【 我が家の年末年始の休日は・・。】
と題して12回の連載で投稿し、最終回を綴っているが、今回は省略する。


このような『大晦日』の午前中に投稿した一部を再掲載したが、
あのような思いで過ごしてきたのか、と微苦笑をしている。

私は昼下り、家内からの依頼の買物をしたり、その後は散策を兼ねて本屋、古本屋に寄る予定である。
そして、どのような本に魅せられるか、私にとっての何よりの楽しみでもある。


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今年の我が家の3大ニュース、私達夫婦のささいな出来事は・・。 【下】 最終

2010-12-31 08:00:40 | 定年後の思い
          第3章  私の『お酒代』が激少し

私は過ぎし、11月29日に於いて、
【 私は高齢者2年生のメタボの私は、遅れぱせなから減量に、ふたたび挑戦し・・。】
と題して、このサイトに投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
私の住む市では国民健康保険に加入している40歳以上は、
年に一度の『特定検診』と称されている健康診断がある。

私は2004(平成16)年に定年退職後の翌年度から、
勤めていた企業の保険グループから国民健康保険に切り替えて、
今回は5回めの健康診断を過日の9月16日に大きな総合病院で受診した。

今年の夏は猛暑が多く、散策もさぼったりし、
エアコンの冷風の中で、簡易ベットに横たわりながら、本を読んだり昼寝をすることが、
平年より多かったので、
体重が増えて困ったなぁ、と苦笑したりした。

この検査が終って、3週間過ぎた頃に、健康診断の結果表が郵送配達されて、
『糖尿病で、内科に受診して下さい』
と明記されていたので、私は青ざめたた・・。
そして、翌日に自宅から徒歩10分の内科を専門の病院に行った。


私は2004(平成16)年の秋に定年退職した時は、
身長は170センチ、体重は70キロ弱で少しメタボであったが、
採血、心電、尿検査、血圧測定、そして胃がん、大腸がんの検診も含めて、
至って健康のマークを頂いていた。

私は退職後、直ちに年金生活に入り、
純米酒の辛口好きの私は晩酌の時は、現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或いはビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んできたので、
この結果、毎年少しずつ体重が増えたのである。

そして一昨年の2008(平成20)年の秋に、健康診断の結果、
78キロとなり、私としてもこれは対策をしなければならないと自覚し、
この後、市の斡旋する『メタボの研修』を翌年の2009(平成21)年2月より、
半年に及び、受講した。

この時は、うら若き保健師の女医さんの優しい指導で、
ビールでしたら350mlの缶ビールを2本までにして下さいね、
と云われりしたのである。
そして、軽い室内体操を毎日10分ばかりした。

そして『メタボの研修』以降は、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、地酒をある程度は呑んだりしたが、
缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきたのである。

もう少し呑もうかしら、と思うと、
何故かしら優しい保健師の女医さんの笑顔が蘇(よみがえ)り、
缶ビールの350mlを2本まで夜が圧倒的に多かったのである。


そして昨年の2009(平成21)年秋に2月健康診断を受診した時は、
体重は3キロばかり減少て、75キロとなり、
優しい保健師の女医さんのおかげかしら、と私は微笑んだりした。
そして私は悦びながら、家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、云われたりしたのである。


この後、私は相変わらず缶ビールの350mlを2本までを守り、
幾たびか旅行を重ね昼はビール、夕食の時は地酒も呑み、
平素は散策と買物ぐらいの運動不足、その後の猛暑でエアコンの冷風に頼ったりしたので、
今回の健康診断の結果、ふたたび78キロに戻ってしまったのである・・。


この結果の上、『糖尿病で、内科に受診して下さい』とと明記され、
私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、
検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

私は定年の5年前の頃から、60代は五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
と公言してきたが、家内との共通趣味は国内旅行であり、
糖尿病の場合はもとより食事制約があり、
家内は旅行先の美味しい夕食で、私は食べてはいけない料理だったら、
余りにも惨(みじ)めであると思ったりしたからである。

医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、
軽い運動を毎日して下さい、と私は云われた・・。

昨今、ここ6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を造って貰い、
朝夕頂いている。
そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、煎茶を飲んだりしている。

昼食はフルティ・ランチのようなリンゴを一個、そして柿一個としている。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日している。


この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少している。
ズボンのウエストも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んでいる。

しかし、以前ゆっくり歩いた散策の時は、
この時節の晩秋の朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景に、深い心を寄せられることができたが、
ウォーキングとなれば、風景が通り過ぎるように心を寄せる瞬時の思いが、
なくなってしまうのである。

やむえず私は、公園を目指して、ウォーキングに専念した後、
公園内で汗をふきながら、ゆっりと散策して過ぎ行く美麗な錦繍の情景に心を寄せ、
そして帰路は、ウォーキングして、ここ三週間の日中のひとときの定例事項としている。
・・】

このように投稿しているが、その後も国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、
ビール、地酒をある程度は呑んだりしたが、
相変わらず昼食はフルティー・ランチのようなリンゴを一個、そして柿一個としている。
そして、平素の夕食は煎茶を友にして、頂いているのである。

過日の青森の初冬の旅路を8泊9日でしてきたので、地酒、ビールの酒宴が多かったので、
昨夜、体重計の測定は、無念ながら73キロであった。
そして、確か旅行前の時は、72キロだったのに、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。


このように日々を過ごしているが、何よりも驚いたのは11月の『お酒代』が0円になった・・。
私達は1976(昭和51)年の春に結婚し、
これ以来、毎月『家計簿』をお互いに確認している。
そして、お酒大好きな私は、自動車で云えばガソリン代と思いながら、長らくサラリーマンの職場で奮闘してきたので、
『お酒代』は独立させて家計簿に計上してきたのである。

ある年は、一年間は大きめの冷蔵庫が購入でくる金額が、自宅で呑む『お酒代』になったり、
血気盛んな40代の初めには、2台分になったりして、
少し燃費が悪いかなぁ、と思いながら驚いたりした。

過日、12月の初めに、家内と11月の家計簿を締(し)めたが、
11月の『お酒代』が0円になったのは驚き、この前後も激少しているのである。
『あなたは若き頃に・・人の一生分も呑まれたのですから・・
今後は健康にも良いし・・』
と家内は微笑みながら私に云った。


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今年の我が家の3大ニュース、私達夫婦のささいな出来事は・・。 【中】

2010-12-30 13:55:02 | 定年後の思い
          第2章  国内旅行も大きく変貌し

私達夫婦の共通趣味のひとつには、国内旅行であるが、
昨年と今年とでは内容が、大きく変貌した。

昨年は私達夫婦は家内の母を誘い、3人で、
長崎・雲仙に2月11日より2月19日で8泊9日、
鹿児島・霧島に4月12日より16日で4泊5日で周遊したりしりた。

そして私達夫婦だけで奈良に1月24から25日の1泊2日、
新島に5月10日から11日の1泊2日、
京・祇園祭に7月15日から17日の2泊3日、
南三陸・松島・岐阜の群上八幡、高山に9月27日から30日の3泊4日、
このような旅路を重ねてきた。


今年は滞在型が中核となり、その地の目的を明確とした旅となった。

小笠原の父島に2月24日から3月7日の11泊12日、
青森の不老不死、竜飛岬、酸ヶ湯、蔦に5月24日から6月2日の9泊10日、
岩手の浄土ヶ浜、鴬宿に8月30日から9月4日の5泊6日、
そして再訪として蔦、不老不死に12月14日から12月22日の8泊9日を訪れた。

これらの詳細については、このサイトのカテゴリーの【旅】に於いて、
すべて記載しているので、省略する。

この間、家内は家内の母と2人で、
広島、道後に4月17日から24日の7泊8日で、
母娘の旅路をしている。


                               《つづく》

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今年の我が家の3大ニュース、私達夫婦のささいな出来事は・・。 【上】

2010-12-30 11:10:06 | 定年後の思い
             序 章

東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
過日の22日に青森の初冬の8泊9日の旅を終えた翌日、
家内の洗濯、掃除の合間、私は家内にコーヒーを淹れて小休憩をしていた時、
『XXちゃん・・世間では今年の10大ニュースが発表されたりしているけれど・・
我が家の今年の出来事は・・今までの35年の結婚生活で・・何よりも変ったことは・・何だろうねぇ・・』
と私は家内に云ったりしていた。

この後、私は主庭のテラスで冬枯れの落葉樹を眺め、煙草を喫いながら、
今年の私達の生活で大幅に変貌したことを思い浮かべたりした・・。


そして、三つばかり出来事が思いだしたりした。

◎私達夫婦は家内も年金の受給者になり、お互いに年金の身となる。

◎共通趣味の国内旅行の内容が、大きく変貌した。

◎私の『お酒代』が激少した。

この後に、このような出来事を家内に云ったりしたら、
そうだったわょねぇ・・、と微苦笑しながら同意した。



         第1章  私達夫婦は家内も年金の受給者になり

私は2004(平成16)年の秋に35年ばかり勤めた民間会社を定年退職後、
直ちに年金生活に入った。
私は1944(昭和19)年の秋に生を受けたので、
この後の2年間は、報酬比例部分だけの年金受給であった。

そして2年後の定額部分、配偶者加給が加わった通常年金総額からすれば、
ほぼ55%受給額で、片翼飛行のような状況で定年後の2年間は過ごした・・。


家内は1949(昭和24)年の初冬に生まれたので、
私の退職後の関係で、この間は国民年金を支払っていた。

昨年の晩秋に、家内は60歳を迎える直前に年金受給資格を得て、
今年の初めより支給された。

私と結婚する前に短期間に働いた成果で、年金支給されると、
『ほんのわずかだわ・・』
と家内は少し落胆していた。

『長年・・専業主婦だったから・・やむえないょ・・
それより・・俺の退職後から国民年金を支払ってきたことを思えば・・
支払う側から支給される立場となったのだから・・天と地の違いだょ・・』
と私は家内に微笑みながら云ったりしたのである。

このように我が家に於いては、今年から私達夫婦は完全年金受給者となったのである。

                               《つづく》

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年の瀬、昨日より年末年始の休暇が始まり・・。

2010-12-30 05:06:57 | 時事【社会】
東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨日、家内から依頼でスーパー、専門店などに買物に行ったりしたが、
スーパーの御節料理の関係のコーナーは賑っているが、たまたま入った専門店などは人が少なく、
路線バスの通る大通りも自動車が少なく、年末年始の休暇が始まった、と実感したりした。

一昨日の28日に官庁は『御用納め』、民間企業は『仕事納め』となり、
昨日の29日より、帰省ラッシュでふるさとに向かい新幹線、在来線の乗客、
或いは自動車で高速道路を利用され帰省される方が多い、ニュースなどで報じていた。

私のふるさとは、今住んでいる近くが生家の実家なので、
帰省の方たちを見かけると、少し羨(うらや)ましいのが本音である。
過ぎし一年の思いを秘めて、ふるさとの親、親族、そして友人たちに再会して、共に語る合う情景が浮かび、
どうかご無事で行かれ親愛を深めて下さい、と祈願したりしている。

そして、日本の各地、或いは海外に旅行される方たちにも、
せっかくの年末年始の休暇を楽しまれて下さい、と思ったりしている。

或いは自宅で年末年始を過ごされる方たちには、
昨日よりご家族で大掃除、買物などをされ、ゆったりと新年をお迎え下さい、
とニュースを見ながら思ったりしている。

そして、年末年始も仕事で業務に携(たずさ)わる方たちには、
大変ですね、お身体を程々にご自愛して下さい、と心を寄せたりしている。


我家は、私の定年退職後は、独り住まいの家内の母を大晦日の数日前に迎え、
新年の4日まで私達夫婦と3人で生活を共にする恒例となっている。

ここ1週間は家内の孤軍奮闘の大掃除、年末年始の料理等であり、
私は齢を重ねた買物メール・ボーイとなり、
幾度なく家内の指示された買物に通ったりしていた。

一昨日の28日に家内の母が来宅され、私達3人は、夕食を兼ねてささやかな酒宴をし、
互いに談笑を重ねたりしている。

たまたま昨夜の場合は、夜の9時過ぎに酒宴を終り、
私は寝室で布団にもぐり読書をしているうちに眠ってしまい、早朝の3時に目覚めてしまい、
居間で読み残した週刊『ダイヤモンド』の特集《2011総予測》を読んだりし、
昨夜は少し早く寝すぎたかしら、と微苦笑をしたりしている。


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石川ひとみちゃんの『まちぶせ』の名曲、ときには高齢者の私さえも心の中で唄いながら・・。

2010-12-29 19:21:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
朝の6時は3度、昼過ぎは11度、夜の6時は9度で、
冬晴れに恵まれ、午後の3時過ぎから曇り空となった・・。

私は平年より暖かいかしらと微笑みながら、
家内からの依頼で、午前中のひとときスーパーなどに買物に行ったりした。
長袖の下着のシャツ、襟ありのフリース、そしてスリー・シーズンのフィールド・ジャット、
下半身はバンズに冬の長ズボンの容姿であったが、寒くはなくのである。


昼下りに、パソコンを置いている机の横にデスク・スタンドを置きたいと思い、
最寄り駅より電車で3駅先にある家電の量販店に買い求めに行って、
照明器具のフロアーでシルバーメタリックの堅牢な品が魅了させられ、購入した。

最寄の駅より右手にデスク・スタンド収納された細長い段ボールのケースを提げて、
自宅に15分ばかりの道のりを歩いていた時、
突然、心の中でひとつの歌を唄いだした・・。


♪夕暮れの街角 のぞいた喫茶店
 微笑み見つめあう 見覚えある二人

【 『まちぶせ』 作詞、作曲・荒井由美 】


私は何気なしに、この歌を心の中で唄っていたのであるが、
何故かしら私にとっては元気付けてくれるの歌で、
定年退職の数年後の励ましの心の常備薬になったりしている。


この歌は確か数年前、NHKの音楽番組で、
徳永英明さんが『まちぶせ』、『恋におちて ~Fall in Love』を唄っていたので、
この影響かしら、と苦笑している。

この『まちぶせ』に関しては、確か1981(昭和56)年の頃だったと思われるが、
可愛らしいアイドル歌手のひとり、石川ひとみが、
ユーミンの作詞、作曲された曲を唄っていたのを思いだした。

そして4年前の頃から、この『まちぶせ』等の女性が唄った名曲を徳永英明さんが、
カバーした3枚のアルバムが大ヒットしているのは、ニュースなどで見ていた。

私はこの『まちぶせ』は、私の好きな歌のひとつであり、
はからずも有力な男性歌手の徳永英明さんが唄ったので、
声も衰えた高齢者の男性の私でも、恥ずかしながら心の中で唄うようになったのである。

もとより作詞されたユーミンさんは、
少女の多感な揺れ動く心情を的確に表現した歌、と私は長年に於いて友人たちに話しながら絶賛してしるが、
もうひとりの私は、齢ばかり重ねてきた私の心の中の励ましの歌になっているのである。


♪好きだったのよあなた 胸の奥でずっと
 もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる

【 『まちぶせ』 作詞、作曲・荒井由美 】


このような歌を曇り空の夕方の中、私は人気のない歩道で、
小さな声で唄いながら自宅に向う帰路を歩いた・・。


http://www.youtube.com/watch?v=rYm9LOEi6bU
☆【『まちぶせ』 作詞、作曲・荒井由美、編曲:松任谷正隆、唄・石川ひとみ】☆


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内藤やす子の『悲しい色やね』の名曲は、私のささやかな『仕事納め』の想いでと重なり・・。

2010-12-29 12:10:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨日の朝、カレンダーを眺めると、『官公庁の御用納め』と明記されていたので、
民間会社もこれに準じて『仕事納め』になる、と微笑んだりしたのである。

そして私は、民間の中小業に35年ばかり勤めた体験があったので、
昨今の政治は混迷、経済の低迷、社会は劣化の中、
たえず成果を問われる民間のサラリーマン諸兄諸姉に、今年も大変な年でしたねぇ、
と働いて下さる諸兄諸姉の健闘に感謝の言葉を心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

この後、ぼんやりと私の現役時代の『仕事納め』のことを思い浮かべたりしたが、
私にとっての鮮明な想いでは、若き40代の始めの頃のひとつの『仕事納め』の出来事であった。


私の現役時代の時、あるレコード会社に勤めていたが、
この当時は、官公庁の御用納めの翌日に年内最後の業務となり、納会をした。

御用納めの該当日に昼食の為に、
料理屋に行った時、この当時は近くに防衛庁(現在は『東京ミッドタウン』)があり、
この方達が少し赤い顔して、テープルを一角を占領していた。

『官公庁はいいよなぁ・・午前中で終りかょ・・』
と私は同僚達と呟いたりしていた。


会社の年内の最終日は、夜の6時に業務完了時なると、
1番大きな会議室で立食のパーティ形式となった。

私は日頃に業務に接する人達とは
歓送迎会、居酒屋での『呑みニケーション』をしているので、
このグループは避けて、他部門の方達と話し合ったりした。


私は、1983(昭和58)年の時は、情報畑でシステム開発に悪戦苦闘し、
日曜日以外は殆ど出勤し、奮闘していた・・。

土曜日の休日に会社に独り出勤し、
システム開発・運営までのスケジュール概要の試案を作成していた時、
気分転換にひとつのレコートの見本盤をセットし、煙草を喫いながら聴いたりしていた・・。

そして演歌のような要素を秘めているがブルースの基調があり、
ハスキーな歌声で圧倒的な歌唱力で歌い上げた歌に、私は鳥肌がたった・・。

そして曲が終ると、ジャケットを見て、内藤やす子の『悲しい色やね』であった。

この歌手に一昨年に他社から移籍し、程ほどのヒットを我が社から4枚ぐらいだして、
この見本盤は『I Miss You~愛のつづれ織り~』と題され、 
この当時として稀な原曲をカバーしたカバー・アルバムであり、
たぐい稀な歌唱力で編成されていて、この中のひとつが上田正樹さんの原曲の『悲しい色やね』であった。

たまたま偶然に聴き惚れた私は、この後、私は買い求め、
自宅で何百回もこの曲を聴きながら、心身励まされたりした。
そして、この曲を私は、人に会うたびに絶賛していた。


そして1984(昭和59)年の半ば、新システムは何とか軌道にのり、
この年の暮れの『仕事納め』の社員の立食のパーティを行っている時、
たまたま内藤やす子さんがマネジャーに付き添われて、参列された。

私の近くにくると、私は近づき、
『貴女の『悲しい色やね』に励まされて・・私のシステム開発が・・何とか軌道にのりました・・』
と私はビールを呑みながら、内藤やす子さんに云った。

『嬉しいわ・・』
と内藤やす子さんは驚いた表情を浮かべた後、
周囲の社員達に大声で、
『この方が、あたしの『悲しい色やね』のお陰で・・担当されているお仕事・・
上手(うま)く行ったですって・・』
と云った・・。

傍にいるマネジャーは、私に握手を求めてきた。

そして、内藤やす子さんも私に握手を求めてきて、
あたり一帯、先輩、同僚、後輩達の拍手で盛り上がった・・。

私は恥ずかしげに、内藤やす子さんの手を握った・・。


このような私のささやかな『仕事納め』の想いである。
最近、【YouTube】サイトで、この名曲が掲載されているのが、
私は気付き、私と同様に魅せられた人に近親感を深めながら、この名曲を転載する。

http://www.youtube.com/watch?v=PEP5CPHJ-2g
☆【『悲しい色やね』 作詞・康珍化、作曲・林哲司、編曲・中村暢之、唄・内藤やす子 】☆


その後、私が50代の初め、年賀状に於いて、
あるレコード会社に勤め、音楽の制作と直接に関係しない管理・情報畑の部門であったが、
人並みに音楽が好きな方であったので、下記のように認(したた)めている。


・・・
この間あまたの歌がありましたが、私の脳裏から離れない歌を綴って・・。

バルバラ『ナントに雨が降る』

中島みゆき『HALF』、『エレーン』

井上陽水『傘がない』

五輪まゆみ『少女』

長渕 剛『昭和』

S.アズナーブル『遠い想い出』

グロリア・ラッソ『サ・セ・ラムール』

シャーリー・バッシー『別れの時まで』

戸川昌子『ボンボヤージュ』EMI盤

パティ・キム『離別(わかれ)』

大塚博堂『私は女です』

内藤やす子『悲しい色やね』

金子由香里『愛の砂漠』、『スカーフ』

イーグルス『ホテル・カルフォルニア』

別格 モーツァルト『ピアノ協奏曲第20番』


このように書き込んだのであるが、思い込みの激しい私が、
25歳で中途入社して、50歳前後まで私なりに惚れ込んだ曲であるが、
このことは少しばかりの私の信条が見え隠れするので、
と今の私は微苦笑している。

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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 最終回 定年後は自宅でのんびりと過ごし

2010-12-29 08:18:53 | 定年後の思い
          最終章  私の定年退職後は気楽に自宅でのんびりと過ごし

2004(平成16)年、1月下旬にJR『びゅう』で予約し、雪景色を観たく、
花巻温泉に2泊3日で冬の旅を終えた後、
私は定年退職時の秋に向けて、心も身も一心にして勤務していた。

家内の父が、ここ7年ばかり入退院を繰り返していたが、
8月に危篤となり、家内の母と家内は交代で大学病院の夜を中心に、
つきそいながら見守っていたのである。

そして、私の定年退職日の直前に死去され、
お通夜、告別式、初七日、納骨の法事を終えている間、
私の定年退職にまつわる書類の手続き、銀行間のささやかな資金の調整、
そして厚生年金、企業年金の手続きなどで、慌ただしい秋から晩秋を過ごしたのである。

そして12月になると、独り住まいとなった家内の母を年末・年始の間は、
我が家で、ゆっくりと共に過ごそう、と私達は話し合ったのである。

これ以降の年末年始は、私達夫婦と家内の母と三人で、過ごしている。
このようなことは、このサイトに於いて、この時節になると投稿しているが、
たとえば一昨年の2008(平成20)年の場合は、
【 我家も、昨夕から年末年始の休暇・・♪ 】
と題して、12月29日に投稿している。

【・・
東京の郊外は、昨日は風もなく穏(おだ)やかな冬晴れであった。

私達夫婦は、家内の母の来宅時を心配していたが、例年より早く午後3時前に我家に到着した。

『おかあさん・・早かったじゃないの・・
でも・・良かった・・夕方の寒くなる前で・・』
と私は、家内の母に微笑みながら云った。

我家では、これからの年末年始に於いて、
私達夫婦と家内の母の3人で生活を共に過ごすのは、今回で5度目である。

家内の父が死去されて、独り住まいとなった家内の母に、
年末年始の時は、我家に来て頂きたい、と私達夫婦の発案であった。

居間の17畳ばかりに一角に6人用の炬燵で設置し、
奥の6畳の和室と書棚の3畳のスペースで休んで頂くのが、恒例となってきている。

居間の炬燵の中で私達夫婦は、
家内の母から八千代市の自宅から我家までの年の瀬の街の情景を聴いたりした後、
今年、私達3人で旅行で訪れた話となった。
家内、家内の母はビール、私は弐合徳利の純米酒の辛口を呑みながら、
ささやかな料理を食べ、談笑したのである・・。

2月の中旬に箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在し、
芦ノ湖の遊覧船に乗船したり、ロープーウェイを利用し、周辺を観て廻ったりした・・。

5月の下旬には、富山市の郊外の呉羽山温泉に5泊6日で滞在し、
富山市の街並み、周辺の公園、観光地などを散策したりした。

8月の初旬になると、直江津港から佐渡島を訪れて、
両津港の郊外にある温泉地で3泊4日で滞在し、島内の観光地を観たりしたのである。

このように今年は、私達3人で訪れたささやかな旅行であったが、
家内の母の希望した場所もあったので、それなりに心の思いは深く残った、
と私に熱っぽく話された・・。

こうした話題をあの時は・・などと話し込めば、
2時間ばかりの酒宴は過ぎてしまった。

私は夜9時過ぎには寝室の布団の中で読書としたが、
30分ぐらいで寝付いてしまった。


今朝は3時過ぎに目覚め、4時頃からパソコンで投稿文を認(した)めた後、
配達された新聞を読んだりしていた。

そして7時過ぎに、昨夜は11時過ぎまで母と炬燵の中で談笑し・・、と私は家内から聴き、
私は微笑みながら、我家でも年末年始の休暇が始まった、と実感したりしている。
・・】

このような状況が毎年、我が家の年末・年始となっている。

しかし、私も66歳の高齢者2年生の身であり、家内は61歳の年金受給者になり、
もとより家内の母は、私より14歳ばかり齢上の後期高齢者の身であるので、
いずれいつの日にか、だれかが欠けたならば、
恒例となっている三人の気楽な年末年始の休暇は解散となるが、
こればかりは天上の神々の采配で決まるので、せめて今年の年末年始ぐらいは、
明るく気楽に過ごそうと思ったりしているのである。


                              《最終》

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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ④自宅でのんびりと過ごし、翌年からふたたび 

2010-12-28 17:38:44 | 定年後の思い
          第6章  自宅でのんびりと

2001(平成13)年は、我が家は築後26年近くになっているせいか、
家のところどころが老化なっているので、修理の時であった。

外壁のモルタル修理は2回目となり、戸袋、雨戸廻りなどを修理をして頂き、門扉も新調したり、
歳末近くに宅地の植木を大幅に入れ替えて、道路際は赤芽モチなどに変更したりした。

この間、私の勤続30年の特別休暇を頂き、4泊5日で北海道の冬の旅で、
流氷、札幌の雪祭りなどを観たりし、
或いは親戚、知人の方たちが亡くなったりすることが多かったのである。

こうした中で私は定年退職時の2004(平成16)年に備え、
パソコン、机、脇机、椅子などを新調して、年金生活の準備をしたりした。

こうした中で12月を迎え、年末年始の旅行などを家内と話し合ったのである。
我が家としては、年末年始を配慮しても程ほど高価な旅行費であり、
結果としては前回の『能登・輪島温泉』は惨敗、前々回の『湯野浜温泉』は成功であったが、
今回は何かと費用を要した年だったので、のんびりと自宅で過ごそうと決定したのである。



          第7章  北海道てっぺん周遊記【2002.12.31..~2003.1.2.】

2002(平成14)年は、妹の次男が結婚し、ディズニー・シーの周辺で、
結婚式・披露宴をすることとなり、
恥ずかしながら家内はディズニーのファンであり、
この際、デイズニー・シーをゆっくり観たいわ、と懇願され、
私はやむえず祭日、代休を重ねて『シュラトン・ホテル』に3泊4日で宿泊したのであった。
何より私が悦んだのは、長兄の長男、次男、そして妹の長男、今回の次男・・
私にとっては甥っ子の4人が、私の定年退職前に結婚してくれればと秘かに願っていたので、
心の中では小躍(こおど)りしていたのである。

そして12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていたのである。

こうした時、旅行会社から送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

翌日、2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、
高台にある神社に初詣し、市内のホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に云ったりし、参加したのであった。


大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
タクシーを予約して、暗い中、自宅から羽田空港までタクシーを利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私達は冬の北海道はたびたび体験し、
それなりの防寒服を着たりしているので、マイナス10度ぐらいは心身順応出来るのである。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、
と感じたりしたのである。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆき女史が『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。

私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆき様が私の方を見ながら微笑んでいたのである。


尚、紋別で宿泊した観光ホテルは無念ながら思い出せないが、
稚内は全日空ホテルであった。

http://www.ana-hotel-wakkanai.co.jp/
☆ 稚内 全日空ホテル ホームページ ☆



          第8章  秋保温泉滞在記【2003.12.31.~2004.1.2.】

この年の2003(平成15)年の2月、雪の奥入瀬渓流、十和田湖の情景を観たく、
『古牧温泉』に2泊3日で旅行した後、
翌年の定年退職時2004(平成16)年の秋に備え、
私達は4年前に定年後の概要設計をしたのを詳細設計をした年であった。

もとより定年退職後は、私は年金生活をする為に、
特に私の場合は1944(昭和19)年生まれであるので、年金の満額支給時は満62歳となる。
そして満60から年金を申請すると、この間の2年の支給は報酬比例部分だけであり、
ほぼ満額の半分程度であるので、片翼で飛行を続けるような状況であった。

こうした未知の年金生活であるので、退職金、退職時の貯金残額を念頭に、
定年後の生活設計の詳細を家内と調整をしていた。


12月に入ると、年末年始の旅行を検討したのであるが、
旅行会社から送付されてくる中から、それほど思案することなく、選定したのである。

仙台市の奥座敷として知られている秋保温泉に連泊して、帰路は松島湾を周遊する観光船、
瑞巌寺に参拝できる団体観光ツアーであった。

私達夫婦は31日の大晦日、朝の9時過ぎに新宿より観光バスで発ち、
東北自動車の高速道路、そして秋保温泉の宿泊する『ホテルクレセント』に到着したのは、
午後の3時過ぎであった。

http://www.h-crescent.co.jp/
☆ 秋保温泉 『ホテルクレセント』 ホームページ ☆

私達夫婦は、付近の小高い丘にある森林スポーツ公園に行き、私達が宿泊する観光ホテルは、
秋保温泉の中心の街から離れていたことが判ったりした。

私達は夕食の時、食事処は浴衣はご遠慮下さい、
と云われ、都市のホテルなら理解できるが、たかがリソート地にある観光ホテルなのに、
と嫌な感情を持ったのである。
そして、このようなことを私達の団体グループの人たちに、
夕食を頂く時、隣席方に私は話したりした。

多くの方が同意していたせいか、翌日の夕食は、私たちのグループの大半は浴衣姿であった。

尚、当日は和食料理、2日目はフランス料理で、程ほどの味であった。


2004(平成16)年の元旦、朝から風もなく快晴であった。
私達夫婦は、暖かな陽射しの中、秋保温泉の中心の街を散策した。
数多くの観光ホテルの横を通ったりし、小学校の前にある商店街の中にある素朴な店に入った。

ひと昔前は文房具屋さんであったが、今はコンビニなどで文房具用品を買い求める学童が多く、
駄菓子、おもちゃ、日常品などがあり、私が昭和30年の少し前に見かけた品が数多く置かれていて、
私達夫婦は懐かしく、店の主人と30分ばかり立ち話しをした。
そして家内は、五品ばかりの菓子を買い求めたのであった。

その後、数々の観光ホテルの横をはずれを歩いたり、住宅街のはずれも歩き、
やがて田畑の中のあぜ道を歩いたり、五時間ばかり散策すると、
ぼんやりと秋保温泉の全貌が判ったのである。

そして、帰路、観光ホテルの『佐勘』に立ち寄り、
この地の古きから伝統のある和菓子と地酒を買い求めて、帰還したのである。


翌日の2日は曇り空の一日であったが、予定通り松島湾を周遊する観光船に乗ったりした後、
瑞巌寺を参拝、五大堂を観たりした後、帰京したのである


                        《つづく》

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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ③ ときには滞在旅行も落胆することも

2010-12-28 16:25:28 | 定年後の思い
          第5章  能登・輪島温泉滞在記【2000.12.29.~2001.1.2.】

2000(平成12)年、私は出向先の勤務に馴染み、
朝の起床は4時45分で少しばかりの遠方の神奈川県・厚木市の郊外にある物流センターに行き、
帰宅は早くても夜の9時過ぎであり、これ以降は定年退職時の2004(平成16)年まで続いた。

この年は、5月の連休も倉庫間の移動で出勤したりして、
この前後の休日も倉庫内部の整備などで休日出勤をすることが多く、
体力のギリギリまで奮闘した年でもあった。
世にいわれる過酷な勤務であったが、私の40歳前後の時にシステムの開発時に比べれば、
出向の身であったので、最終の責任、成果は問われることがなかったので、
こうした面は楽であった。


この間に、長兄の次男の結婚もあり、自宅の庭の大幅な剪定を初めて植木屋さんに依頼して、
定年後に備えて、短くして頂いた。

そして、12月になると家内と年末年始のことで話し合った。
過酷な勤務状況が続いているので、家でのんびりしょうか、と思ったりしたが、
やはりせっかくの休暇なので、前回の山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉の体験もあり、
あとは雪が舞い降る状況であったならば、申し分ない、と私達は思ったりしていたのである。

私は以前から、総合月刊雑誌の『文藝春秋』の中で広告として掲載されている、
石川県・能登半島にある輪島市にある『ホテル高州園』が、
渡り廊下から見える浪の花・・
確かこのような文面に魅せられて、いつの日にか、と夢を膨らませていたのである。
このようなことを家内に話したら、数日後に家内は駅前からJTBとJR『びゅう』のパンフレットを頂いたりした。

私は家内と『ホテル高州園』の掲載されているページを見ながら、
露天風呂があたかも波打ち際にあるような写真の横に、
《 日本海は庭園です。
       一望千里の大海原 》
こうした文面に魅せられて、年末年始の旅行を決めたのである。

仕事納めの翌日の12月29日から4泊5日で予約し、
雪が舞い降る中、風も吹く街並み、郊外を散策して、
海辺で浪の花が観られれば最良だし、そして『ホテル高州園』の露天風呂から日本海を眺めよう、
と私達は大いに期待していたのである。


2000(平成12)年12月29日、私達夫婦は自宅を8時過ぎに出て、
東京駅より上越新幹線の『あさひ』に乗車し、越後湯沢駅で乗り換えて、
在来腺の特急『はくたか』で金沢駅に向った。
越後湯沢の駅の売店で買い求めた駅弁とお茶、地酒を越後湯沢から30分過ぎた頃から、
車窓から雪景色を眺めながら、私は駅弁を食べ、地酒を呑みながら、
やっと旅に来たか、と満足した思いであった。

そして、金沢駅は改築中であり、金沢駅前から能登半島の輪島駅前までの特急バスの乗り場が解かりづらかったが、
何とか見つけ私達はバスに乗った。
車窓から情景は、残り雪がところどころ観られ、ときおり風が強く吹く冬景色であり、
雪景色を期待していた私は失望した。

輪島駅前でバスに下車したのは午後3時半過ぎであり、
暖かい陽射しに少し戸惑いながら、タクシーで『ホテル高州園』に向った。

http://www.koushuen.co.jp/
☆能登半島・輪島市 『ホテル高州園』ホームページ ☆


チェック・イン後、部屋から観た情景は、岸壁に建つホテルに打ち寄せる波、
そして遥か彼方まで観えるおだやかな日本海の波間、
私は荒々しい日本海の冬を想定していたので、戸惑いを重ねたりした。

そして、露天風呂に入ると、日本海の波打ち際をまじかに観る状景から程遠く、
何よりもプラステックの青いトタンが日本海の半分ぐらいを遮(さえぎ)り、
写真と違う、と大いに落胆したのである。

夕食前のひととき、家内と館内を見て廻ったのであるが、
ロビーのはずれ、階段の踊り場などで、テレビ・ドラマの撮影に使用されたらしく、
記念写真が飾られていて、私は嫌な予感をしたのである。
たかがテレビ・ドラマに出演した主役の人たちとホテルの方が記念写真を撮り、
これを売り物のひとつにする程度の低さには、あきれたのである。

こうして私は綴りながら、食事の料理を思い出そうとしたが、何を頂いたか、すっかり忘れているので、
安易な食事だった、と思える。

そして、この『ホテル高州園』が街中に経営している土産屋を私達に盛んに薦めるので、
更に程度の低いホテルに宿泊した、と私達夫婦は失望したのである。

現在はどのように変貌しているか知らないが、あくまでこの当時のことである。



翌日の12月30日、私達夫婦は何かしら街中の観光より、曽々木海岸を散策しょう、
とホテルを10時過ぎに出た。

路線バスの輪島駅前の周辺のスーパーに寄り、
やはり年末なので、店内には御節料理の単品の数々、そしてこの地域の魚介類などが多く並べられて、
この中で食べたい品を昼食の代わりとし、地酒も買い求めたが、
こうしたこの地方独自の食べ物が購入でき、私達は思わず微笑んだりしていた。

路線バスの輪島駅前は、帰省客が圧倒的に多く、この地方の方言が飛び交う中、
私達は曽々木海岸方面のバスに乗った。
風もなく穏やかに晴れ渡たり、左は日本海、右は険しい山里の状景が続き、
そして千枚田の冬枯れの情景を車窓から眺めたりした。


私達夫婦の能登半島の旅に関しては、10年前の頃の2月に、
団体観光ツアーの1泊2日で、小松空港から安宅海岸、兼六園、そして北上して千里浜から能登金剛を観た後、
和倉温泉の観光ホテル『のと楽』に宿泊し、特にこの『のと楽』の大浴場の更衣室までの情景に好感した。
翌日は、金沢市内の郊外にある焼き物センターに寄り、小松空港から帰京した短じかな旅をしたりしていた。

私自身は1961(昭和36)年の秋、学園祭の期間と休日を利用して、
悪友と2人だけで、羽咋駅で下車した後、岬の先端まで西海岸を出来る限り歩こう、
と貧乏旅行の5泊6日をした。

この後の私は、1963(昭和38)年の夏、ワンターフォーゲの夏季合宿の打ち上げを千里浜で行った後、
独りで金沢市内を散策した後、山陰地方を周遊した。


この程度ぐらいの体験であり、私はバスの車窓なら能登半島の北部の情景を眺めたりしていた。

曽々木海岸で下車した後、私達は岩の多い浜辺を散策したりした。
私達は岩に座り、快晴の陽射しの中、蒼い海原の光る海を眺めたり、
私は地酒を呑んだりし、煙草を喫ったりしていた。
家内は煎茶を飲みながら、スーパーで買い求めた和菓子を食べたりしていた。

私は高校二年の時の貧乏旅行をした時の思いで話を家内に語りかけた・・。

悪友と私は、それぞれザックの大きいキスリングを背負いながら、
バス代を倹約する為に、出来る限る歩いたりし、宿だけは民宿に宿泊していた。
そして、ある日、この曽々木海岸で昼食にした。
岩の多い海岸で、飯盒(はんごう)でご飯を炊き終わり、簡素な食事をしょうとしていた時、
大通りに団体観光バスが止まり、数多い観光客の方たちが下車してきて、
海が綺麗ねぇ・・やはり曽々木海岸は名所よ・・
と歓声まじりの声が聴こえてきた。

悪友はサラリーマンの家の坊ちゃまで、
恥ずかしいから、岩陰に退散しょうよ、
と私に云ったが、私は農家の児として育った身なので、無視して悠然と昼食を終えたのである。

まもなく観光客を乗せたバスが立ち去った後、悪友は昼食を食べ始めたのである。

そして私は岩のはずれで海を見ながら、オシッコをしたのであるが、
悪友はカメラを持ち出して、この時の私の状景を撮ったりしていた。
この一葉の写真は、今でも私のアルバムに貼ってある。


このようなことを私は家内に云いながら、談笑したりした。
その後、海岸を北上しながら歩き、景観の良き処で、
スーパーで買い求めた昼食代わりのおつまみの数々を頂いたのである。


私達は3時過ぎに、輪島の市内に戻ったのであるが、
街並みの情景より、私達はバスの車窓から眺めた能登の景観、
曽々木海岸の人気の少ない歩道の方が遥かに魅せられたので、
30分ばかり散策して、ホテルに戻ったのである。


翌日の12月31日の朝、どんよりとした曇り空であり、
街中の朝市まで散策したのである。
昨日の曽々木海岸に行くまで朝の7時半過ぎに、朝市のある路上を見て、
この地の野菜、鮮魚そして干物などの即売を眺めたりしたのである。

鮮魚の販売する高齢の小母さんの前で立ち止まると、
わずかで元気のない鮮魚があった。
『悪天候が続き・・漁にも出られなかったので・・このような肴(さかな)ばかりでして・・』
と小母さんは申し訳なさそうに、このような意味合いの言葉を重ねていたのである。


このようなこともあり朝市を通り過ぎ、大晦日の街中を2時間ばかり散策して、
ホテルに帰館したのである。


2001(平成13)年の元旦は、霧雨の降る朝を迎えた。
私達は、街中にある住吉神社に参拝した後、
雨の降る中、傘を差しながら街の岬の汐見橋まで30分ばかり歩いたり、
帰路は漁労の倉庫街から入り江に近い歩道を歩き、
フィールド・ジャケット、ズボン、軽登山靴は濡れて、ホテルに戻った。

2日の朝、チェック・アウト後、曇り空の中、金沢市内の兼六園でゆっくり散策しょう、
と特急バスで輪島をあとにした。


途中の千里浜を通り過ぎる時、強い風で樹木が傾きかかったり、
金沢市内の住宅地を通過する時は、風もなく、穏やかな陽射しの中をバスは走破した。

そして、兼六園を散策していると、雨が降り出してきて、
やむえず園内の簡素な食事処で雨やどりをしたのである。
ときおり風が吹き、雨を眺め、止む得ず私は地酒を注文し、おでんを食べながら、呑んだりしたのであった。
家内は煎茶と和菓子を食べたりした。

この後、駅前に近い全日空のホテルの喫茶店で、
私達はコーヒーを呑み、家内はケーキを頂き、私は煙草を喫ったりして、
今回の年末・年始の旅行は失敗だった、と私は家内に云ったりした。
何よりも悪かったのは、『ホテル高州園』の露天風呂の看板に偽りあり、
そして館内の状景であった。

帰宅後、一週間過ぎた頃、兼六園は20センチばかりの雪景色、
と報じられて折、私は普段の行いが悪かったのかしら、と微苦笑したのである。

                        《つづく》

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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ② 母の死後、私達は滞在旅行の始まり

2010-12-28 15:19:03 | 定年後の思い
          第3章  母の死後、私達は滞在旅行の始まり、稲住温泉滞在【1998.12.31.~1999.1.3.】

私が1997(平成9)年の大晦日、私の母と同居していた妹から、
母の容態が悪化し、救急車で病院に入院した、と教えられたのは夜の9時過ぎであった。

私は風邪をこじらせて毎年の御節料理のメールボーイを19年間続いていたのであったが、
やむえず家内に代わってもらい届け、この後の数時間後であった。
この当時の母は、入退院を繰り返していたが、新年を病室で迎えるのは、初めてであった。

家内の父も体調を崩していたので、大晦日の夜、我が家の恒例の『お年取り』も中止となり、
我が家は2人だけの新年を20年ぶりに迎えた。

そして、私の実家の長兄宅の2日に行われた『新年会』も、母が不在で、
前年の母の『喜寿の祝い』を兼ねた華やいだ雰囲気がなくなり、
改めて母の周囲をくつろがせる社交の妙味を実感させられた。


そして、新春の13日の深夜、母は死去し、
14日に『仮通夜』、15日の『お通夜』、16日に『告別式』を終え、
『初七日』、納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったのである。
世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
50歳を過ぎた私でも心は重かったのである・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に云った。

そして私達夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたのである。

この旅行に関しては、以前にこのサイトに投稿している部分が多いが、
あえて再掲載をする。

【・・
秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。
何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、山奥の素朴な温泉地としたのである。

大晦日の早朝、東京からバスで東北自動車を古川ICで降り、
鳴子温泉を通り抜け後、雪はまばらに田畑にあった程度である。
しばらく登り坂を走破するとトンネルを抜けると、あたり一面、雪景色となった。

山里の丘から道路に掛けて、30センチ程度であったが、我々の観光客は歓声を上げた・・。
私達を含め、秋田県の奥まった処の温泉地で雪を観て、年末年始をくつろぐ、
というのは大方の周知一致した思いであった。

日暮れ時にホテルに着いて、大晦日の夕食を迎えた。

http://www.inazumi.co.jp/
☆ 秋の宮温泉郷 稲住温泉ホームページ ☆

翌日、私達は防寒服で身を固めて、積雪の幅5メートルぐらいの閑散として県道を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れいた。

しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。

ゆるく蛇行した道を歩き、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
車も通らず、人影も見えなかった・・。

雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。

このように1時間ばかり歩いたのだろうか。

そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私達夫婦だけで、
こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。

私は東京郊外の住宅街に住む身であり、
とても家の中の一角に薪ストーブを置けるような場所もなければ、
薪の補給を配慮すれば、贅沢な暖房具となっているのである。

私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、
田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。

薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。


薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『お姉さん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。

そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。


ホテルに雪の降る中を歩いて戻ると、
ホテルの外れに茶室があり、積雪が深まった庭先の中を歩いた・・。

茶室は人影が見当たらず、ひっそりとしていた。

その晩、家内の実家にロビーで電話を掛けて、新年の略式の挨拶をした。
その後で、私は電話口で、
『お義父さんの好きな『喜びも悲しみも幾年月』と『二十四の瞳』の監督・・
木下恵介さん・・亡くなりましたが、
日本のマスコミは余り記事の扱いが粗末で、マスコミも鈍感になりましたね・・』
と私は言った。
・・】

このような思いで、私は母に死去された初めての年末年始を旅先で、
私達夫婦は過ごしたのである。



           第4章  湯野浜温泉滞在【1999.12.29.~2000.1.2.】

1999(平成11)年の1月9日に母の一周忌の法要を終えた後、
この当時の私は、あるレコード会社に勤めていたが、数年前から各社がリストラが実施され、
私も2月より、ある物流情報センターに出向となった。
殆ど本社で30年近く勤務してきたので、失墜感があり、盛夏の頃まで心の奥底に感情のわだかまりがあったが、
何とか吹っ切れて業務に専念できた。

この後、初秋に妹の長男、秋に長兄の長男の結婚式などがあり、
私自身、公私共々波乱に満ちた年でもあった。

こうした思いかあり、せめて年末年始は日本海の雪降る温泉地に滞在して、のんびりしょうよ、
と私は家内に云ったりした。

結果として、選定したのは山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉に、
12月29日から4泊5日の旅となったのである。


東京駅より新幹線で新潟駅、その後は在来線の特急『いなほ』で鶴岡駅で下車したが、
乗車時間はわずか3時間半が、車窓から雪景色が観られず、少し落胆したのは本音であった。

鶴岡駅の駅の近くにラーメンの美味しい店がある、と事前に調べていたので、
ここで昼食と私達夫婦は決めていたのであるが、郊外に移転したと教えられ、
やむえずタクシーで三キロばかり利用した。
郊外に洒落たレストラン風に変貌し、客は賑わっていたが、
期待する余りなのか、ラーメンの味は並であり、私達は互いに苦笑したのである。

そして、鶴岡駅までのんびりと歩きながら田畑の広がる情景を観て、
庄内平野の広さを実感したりした。
その後は街のはずれで町工場のような木造二階建てを眺め、
社員の方たちか仕事納めの前なのか大掃除をされていた。
私は会社の年末年始の休暇で一日早く休め、気楽に旅行などをしていたので、
何かしら申し訳ない気持ちになったりした。


鶴岡駅の駅前は、帰省客を出迎える家族、知人たちが多く、
私達夫婦は駅前より路線バスで湯野浜温泉に向ったが、
やはり車中の乗客は帰省される方が圧倒的に多く、
この地方の方言が飛び交わされ、私は心の中で微笑んだのである。

私はその地方の風土、文化を学ぶ第一歩は、
その地域にお住まいの人たちが平素に於いて利用される公共交通機関に共にできれば、
確かに教示されることが多い、と信念のように思っていたからである。


終点の湯野浜温泉に到着すると、まもなく予約している観光ホテルの『亀やホテル』が観えた。

http://www.kameya-net.com/
☆ 湯野浜温泉 『亀やホテル』ホームページ ☆

私達は年末年始の宿泊料金は高くなると知っていたが、
この一年の波乱万丈の苦楽の年であったので、慰労の意味を込めて、
少し背伸びし29日、30日、大晦日の31日、そして元旦、と連泊としたのである。

程ほどゆったりした客室、客室から観える海、そして鳥海山の雪景色の展望、程よい大浴場、
何よりも魅せられたのは、その夜に応じた日本海に面した特色のある料理の数々であった。
素材も良く、創意工夫された料理・・
私達夫婦はある程度は日本各地の観光ホテルに宿泊して、
宴(うたげ)のひとときの夕食を頂いてきたが、今でもこれ以上の料理を味わったことがないくらい、美味であった。

その上、日中に今宵はXXを食べてみたいなぁ、と何気なしに家内に云ったりしていたところ、
この料理が夕食のお膳の片隅にさりげなく置かれていたので、
私達は驚きながら、微笑んだのである。


私達夫婦は、長兄の奥方が鶴岡市の郊外で生を受け、高校生までこの地で育ち、
何かと冬は積雪がある上に寒い、と聞いていたので、
今回の湯野浜温泉の滞在旅行は、フィールド・ジャケット、セーター、ズボン、軽登山靴を用意をして、
一部はこの観光ホテルに宅配便で送付していた。

翌日の30日は、このような防寒の容姿で、羽黒山のふもとにある『五重塔』に向ったのであるが、
何かしら温暖で陽射しの中、路線バスで鶴岡駅で乗り換えながら行ったのである。
見渡す限り田畑の中に人家がある情景であったが、羽黒山のふもとに近づくと、
バスの終点であり、私達は下車し、閑散として食事処で、山菜蕎麦を頂いたりした。

そして畑の外れに赤く実った柿が観え、あれが庄内柿か、と私は理解した。

この後、大きな杉木立の中、地表は5センチ前後の残り雪を踏みしめ、
小さな川の清冽な流れを見ると、深閑とした情景であった。
このような所を少し登ると、突然に『五重塔』が観えたのである・・。
杮葺(こけらぶ)きで素木(しらき)造りの塔であり、長い歳月の風雪に耐えた景観に私は心を寄せられたのである。

私はこうした情景を眺めながら、春のとき、夏のひととき、秋のとき、そして冬、
このような季節をめぐる中、時と共にひとときを過ごせたら、
この上にない贅沢な時を享受できる、と私は立ちすくんで感じたのである。


この後、鶴岡駅からホテルに戻る路線バスの車窓から、
市内の中心の街並みを眺めたり、寺院の外れの一角で正月飾りの即売店を見たりした。
門松、注連(しめ)飾り、輪飾り、そして松、万両などが観られ、
多くの人が買い求めている光景を見ると、改めて歳末を実感させられたのである。


翌日の大晦日は、深夜に羽黒山の祭殿の付近で、『松例祭』が名高いので、
滞在している観光ホテルで夕食を頂いた後、私達はタクシー向かったのである。

もとより羽黒山は、月山、湯殿山と共に出羽三山と称されているが、
拝殿の近くに行くと、この時節に羽黒山に参拝すれば出羽三山を拝観したことになる、
このような意味合いが明記されていたので、私は少し笑ったのである。

奥のはずれにある大きな待合室は、市内の人々か、大勢の方たちが折、
私は神社の売店にいる巫女(みこ)を見たりしていた。
高校生ぐらいの少女たちで、大人には少し無理であどけない表情をたたえているが、
庄内地方が育てたまぎれない美少女、と私は秘かに感じたりしたのである。

この後、この外れの広場で、地元の有志の若き青年諸君が、
上半身を肌蹴て歓声と喊声をあげながら、互いに前進したり、
大きな松明(たいまつ)を燃やしながら、歩き廻った・・。
確かこのような情景だったと記憶しているが、
無念ながら10数年前のことであるので、定かでない。

この後、神社の外れで、10数軒立ち並ぶ簡素な食事処は、
参拝客が多い中、私は地酒を呑みながら、おでんを食べたり、
家内は温かいお饅頭と共に甘酒を飲んだりしていると、深夜の一時過ぎとなった。

新たなる2000年の年か、と思いながら、ホテルも帰還するタクシーを捜したが、
やっとの思いで15分後に見つかり、帰路に向ったのである。

羽黒山を下山するタクシーの車窓からは、
市内の方から初詣に来られる方たちの自動車のライトが次々の登ってくるような状景に、
新年早々の初詣か、と感心しながら下方を眺めたりした。

元旦の日中は、湯野浜の海岸を2時間ばかり散策した。
暖かな冬の陽射しの中を家内は貝殻を拾ったり、私は珍しそうな小石を探したりした。


翌日の2日は帰京する日なので、市内の神社に参拝した後、
駅前の老舗の和菓子屋で寄ったのである。
平素、何かと長兄の奥方からは、この地域の地酒を私は頂いているので、
幼年期からの長兄の奥方の好み和菓子を探して買い求めたり、懐かしいと思われる地元の地方新聞の二紙を購入し、
私達は、まもなく鶴岡駅をあとにしたのである。

このように1999(平成11)年の年末、そして新たなる2000(平成12)年の新年を、
山形県・鶴岡市の海岸にある湯野浜温泉で過ごしたのである。


                        《つづく》

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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ① 新婚時代、その後は家内が御節料理で奮闘

2010-12-27 23:41:36 | 定年後の思い
           第1章  新婚時代

私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
先程、ぼんやりと年末年始に関して、私達夫婦はどのように過ごしてきたが、振り返ったりした。

私が家内と結婚して独立家庭となったのは、1976(昭和51)年の春であり、
千葉県の市川市のはずれの江戸川が流れる付近の賃貸マンションで新婚生活が始まった・・。
京成腺の『国府台』駅が最寄駅であり、駅より5分ぐらい歩いた処で、
付近は学校が多く、寺院、公園もあり、学園街のような情景であった。

私はこの当時、あるレコード会社に勤め、
コンピュータの専任者としてシステムの開発も加わり、奮闘し多忙な時期で、
勤務先の六本木本社に一時間ぐらいで通勤していた。
家内は専業主婦で、週に2回お茶の稽古で、京成線の『八千代台』駅付近の師匠のところに通ったりしていた。

家内の両親は、この『八千代台』駅から10分ばかりの住宅街の中の一軒屋に住まわれていた。

私達夫婦が初めて迎える大晦日の夜、家内の両親宅は恒例の『お年取り』をしていたので、
私達夫婦は自宅から45分ばかりで、午後3時過ぎに訪問した。
家内の妹、弟も加わり、にぎやかな酒宴となった。

この当時の家内の父は、サラリーマンである自動車メーカーの栃木県にある製造工場に単身赴任をしていたので、
久々の家族一同、そして新婚の私達夫婦が加わり、華やいだ宴会となった。

家内の父は、お酒も好きな人で、私も晩酌を欠かさないタイプであり、
初めてお逢いした頃から、何かと心身波長があったりした。
家内の父は真蛸(マダコ)を食べながら、熱燗の日本酒を呑み、
私は酢蛸(スダコ)を頂き、温(ぬる)め日本酒を呑んだりした。

『お義父(とう)さんの真蛸・・明石ですか・・
僕は東京郊外の農家の児だったので・・やはり蛸は酢蛸の北海産が合います・・』
と私は義父に向かい、談笑を重ねたりした。

そして、午後9時過ぎに家内の両親宅を辞して、家内と共に『八千代台』の駅に歩きながら向う時、

♪年の始めの 例(ためし)とて、
 終(おわり)なき世の めでたさを、
 松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
 祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ。

【 『一月一日(いちがついちじつ)』 作詞・千家尊福、作曲・上真行 】

と私は酒の酔い、そして何かしら人生の階段を上がったような開放感があり、
大きな声で唄ったのである・・。
大晦日の夜の住宅街であり、恥ずかしいわ、と家内は呟(つぶや)きながら、微笑んだりしていた。

そして、新年の元旦は、賃貸マンションの一室で、家内と花札の『コイコイ』をして過ごしたのである。
私は新婚生活を始める時に、何かと費用を要したので、
家計の安定ことが何よりと感じ、倹約の目的もあり、
自宅で遊べる花札の『コイコイ』を家内に教えてたのである。

数ヶ月過ぎると、何故かしら家内の勝ちが多く、
ときおり家内が誘われるようになっていた時期でもあった。

2日は私の生家の実家で『新年の祝い』が恒例であったので、
私達夫婦は自宅を午前9時過ぎに出て、
午前11時過ぎに現在私が住んでいる近くの調布市の長兄宅を訪問した。

私の母も川崎市の登戸でアパート経営をしながら、アパートの隣家に住んでいたが、
この日は長兄宅に駆けつけた。
そして、私の叔母、叔父さんも加わり、盛大な一族再会のような集(つど)いとなった。
もとより長兄夫婦が接待役であったが、
実質は元気だった私の母が、明るくふるまいが主役であった。

そして午後3時過ぎに散会し、私達夫婦は帰宅に向う途中で、
明治神宮に参拝した後、新宿のテパートに立ち寄り福袋などを買い求めて帰宅した。


このような形で、2年が続いた後は、
私が長兄宅の近くに一軒屋を建てると、年末年始の過ごしかたも変貌したのである。


           第2章   家内が御節料理で孤軍奮闘

私が東京郊外の調布市の長兄宅の実家から離れて、
神奈川県・川崎市の登戸でアパート経営をしながら住んでいる母の宅に同居した後、
千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を2年ばかり過ごし、
実家の近くに一軒屋を構えたのは1978(昭和53)年の春であった。

私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。
何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々、ボーナス時の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったのである。

まもなく家内は、突然に付近のお菓子の製造所にパートに働きに出たりした。

晩秋になると、母は私の正月用にと、羽織と着物のアンサンブルが手渡された。

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節料理の材料を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの材料であった。
家内は大掃除、お節料理などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

大晦日の昼過ぎ、家内が御節料理の完成を告げた後、
独り住まいの母用に、三段のお重に風呂敷でしっかりと結び、
私は独りで母の所に届けたのである。

そして、途中で酒屋に寄り、地酒の四合瓶を買い求め、母の所に行ったのである。
その後、母のところで、出前のお寿司を食べながら、私は持参した地酒を呑み、
母とふたりだけで他愛のない話を数時間を過ごしたのである。

こうしたことは、母の亡くなる1998(平成10)年の新春の前の年まで、
20年間続けられたのである。

そして、新年の2日の私の実家の長兄宅の『新年の祝い』に於いて、
家内は9時前に長兄宅に行き、長兄の奥方と共に、料理の仕上げ、席の準後などをしたり、
私は新年会の始まる30分前頃まで長兄宅に行き、
長兄の家族はもとより、叔父、叔母さんなどに新年の挨拶をしたりした。
この間、母、次兄、妹の家族も加わり、11時頃から新年会となった。

そして、3時頃に散会し、家内は長兄の奥方と共に後片づけをしたりしている間、
長兄、長兄の子供らと私は茶の間で談笑したりした。

こうした長兄宅での新年会は、母の亡くなる前の年まで続いた。


私達夫婦が1978(昭和53)年の春に新居を構えた後、
1980(昭和55)年の大晦日に家内の両親に来宅して貰い、『お年取り』を復活させた。
私は家内の父と心身の波長が合うので、程々に遠慮なく、食べたり、呑んだりし、
私達4人ながら心身盛り上がったりしたのである。

そして宿泊して頂き、元旦の新年を迎え、昼下がりに家内の両親は帰宅されたのである。
その後、家内の弟が加わったり、家内の妹夫婦に宿泊してもらったりし、
家内の父の体調が悪化するまで、20年ぐらい、続いたのである。

                              《つづく》



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誰でも解かりやすい『2011年度の予算案』のニュースを読み、そして私は・・。

2010-12-27 17:07:58 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
読売新聞を愛読しているひとりであるが、
過日の25日、 政府が24日夕の臨時閣議で2011年度予算案を決定したニュースを読んだりした。
そしてこの中のひとつのニュースを何度も読んだりした・・。

この記事と同一内容記事が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
掲載されていた。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・
      借金頼み限界予算…一般会計92兆4116億円

政府は24日夕の臨時閣議で2011年度予算案を決定した。
国の予算規模を示す一般会計の総額は、
10年度当初予算比0・1%増の92兆4116億円に上り、当初予算としては3年連続で過去最大となった。

新規国債の発行額は、過去最悪だった前年度並みの44兆2980億円で、
当初予算としては2年連続で借金が税収を上回る異常事態だ。
借金と「埋蔵金」などの税外収入に頼った国の財政運営が限界に達していることが浮き彫りになった。

政府は、赤字国債の発行に必要な特例公債法案などの予算関連法案を年明けの通常国会に提出するが、
参院で与党が過半数割れしている「ねじれ国会」の下で、成立のめどが立っていない。
子ども手当は現行法が10年度限りのため、新たな法案が成立しないと支給できなくなる。

(2010年12月25日05時58分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20101224-OYT1T00900.htm?from=nwla
☆ 【YOMIURI ONLINE】 借金頼み限界予算…一般会計92兆4116億円 ☆

私はこの右下段に明示されている図表『2011年度予算案』を見ても、
高齢者2年生の私は少しボケてきたのか、理解できなかった。

やむえず読売新聞をくまなく見たりして、13面の【経済面】のひとつの記事に微笑んだのである。

読売新聞の有光裕・記者の綴られた記事であり、
無断ながら転記させて頂く。

《・・
2011年度の政府予算案について、一兆円を10万円に置き換えて、
一年間の家計のやりくりに例えてみた。
カンさんのお宅の台所は火の車だ。


カンさんの来年度の年収(税収)は約400万円の見込みで、今年度より少し増えそうだ。
ただ、奥さんをなだめて約72万円のへそくり(税外収入)を使わせてもらっても、
年収を上回る約443万円(新規国債の発行額)の借金をしないと、家計が成り立たない。

家のリフォーム(公共事業費)や地方の大学に通う娘への仕送り(地方交付税交付金等)を減らすが、
同居する親が高齢になって医療や介護にかかるお金が増える。
子供と約束したお小遣い(子ども手当て)のアップの見送りも考えたが、
痩せ我慢で少し増やした。


一方、過去に繰り返した借金(国債残高)は約6680万円に上り、
ローンの返済(国債費)だけで約215万円もかかっている。

借金の山を減らすには、まずは収入を多くする必要がある。
カンさんは給料を増やすための計画(新成長戦略)を立てたが、
若手のチュウゴク君やインド君が働き盛りてせ会社の出世競争は激しい。

出費を減らさないといれないが、家族の反対が怖くて、決心がつかないでいる。

・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


そしてこの記事の横に、
『2011年度予算案をカンさん家の家計に例えると・・』として図表が掲げられている。

左側の収入として            右側は支出として

ローン借り入れ             ローン返済
(新規国債の発行額)          (国債費)
       443万円              215万円

妻のヘソクリ              地方への仕送り 
(税外収入)              (地方交付税など)
        72万円              168万円


夫の年収                生活費
(税収)                (一般歳出)  
       409万円              541万円
                      このうち親の世話や育児、医療など
                      (社会保障費)
                          287万円


このような表が掲載されて折、少しボケた私でも、理解できたのである。

さて、国民の誰しもが、それぞれの思いと願いがあるが、
日本の国の財務概要として悪化の一途をたどっているのが実態である。

もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っている。
つまり、現役世代がその時の高齢者を支えているのである。

このような現状の制度のままで放置すれば、
超高齢化社会の中で、高齢者の半数ぐらいは既得権を享受し沈黙しているが、
働いて下さる現役の諸兄諸姉に過大な負担をかけて、
やがて耐え切れず反乱されても致しがたいであろう、と私は危惧している。

少なくとも、働いて下さる現役の諸兄諸姉は、高齢者の人たちは負担させるばかり人たちと思い、
邪魔な存在と感じながら、益々粗末にする社会風潮のなる世界である。

私はこのような世代間の対立を回避したく、
このサイトに幾度も現状の『消費税5』を廃止して、
新たなる社会保障費の専用にした『社会保障税』の新設で、誰しもが安心できる制度を
政府は迅速に成立させるべきてあると、高齢者の私さえ投稿を繰り返してきた・・。

しかし、高齢者の巨大な層の有権票の反対が怖くて、政治家の諸兄諸姉議員の多くはためらい、
今日に至っている。

まなく団塊世代の方たちが、年金完全受給時となり、果たして・・
政府はどのような施策を掲げるか、私は注視しているひとりである。


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今年も、あと5日ばかりとなり、高齢者2年生の私は戸惑いながら・・。

2010-12-27 07:39:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
ここ数日は初冬の陽射しに恵まれ、
今朝の6時は0度、昼下がりは9度前後、そして夜の6時は5度前後が予測され、
穏やかな快晴の一日を迎えている。
先ほど、カレンダーを眺めたりすると、本年もあと5日ばかりとなり、
過ぎ去る日々が早い、と高齢者2年生の私は戸惑ったりしている。

私は身過ぎ世過ぎの年金生活をしているが、
日常は定年直後から買物担当をしているが、買物、散策の時に季節のうつろいを享受し、
随筆、ノンフェクション、現代史、歴史書などの読書をするが多い。
そして、ときおり古き良き時代の20世紀の映画作品を自宅の居間で鑑賞したり、
音楽をジャンルを問わず聴いたりしている。

こうした中で、小庭の手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、四季折々の美しい日本の情景に、
愛惜を深めたりしているが、過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じている。

こうした年金生活をしているが、日々の思い、思索していることなどを
心の発露として文章に認(したた)めることが好きなので、このサイトで綴ったりしている。


現役時代のサラリーマンだった頃は、
仕事納めはあと何日、それまではこの業務は完了させねば、と奮闘していたりしていた。
そして年末年始の休暇になれば、歳末の数日は、庭を掃き清め、
家内の年末年始の最後の買物にお供をして、荷物を持つ役目をしたりしていた。

そして私の母が13年前に亡くなるまで、
20年間は家内が作ってくれた御節料理を母の宅に届けるメール・ボーイをしていた。
大晦日の昼下り、母の宅で、御節料理を手渡した後、お互いにおしゃべりの身なので、
数時間過ごし、帰宅すれば家内の両親が来宅していて、
御歳取りと称して大晦日を過ごし、翌朝の元旦の昼下り、家内の両親は帰宅した。


このように過ごしてきたが、母が亡くなり、そして家内の父も死去となった6年前から、
我家は大いに変貌となっている。

この間、私の母が亡くなり、家内の父が亡くなる6年間前後は、
私と家内は、年末年始に日本の各地に滞在した旅行をし、過ごしてきた。


家内の父が病死した後、家内の母は独り住まいとなり、
年末の数日前に来宅して貰い、新年の4日過ぎまで、
我家で私達夫婦と共に3人で年末年始を共に過ごす、という形になったのである。

あと今年も5日ばかりとなったが、家内が最後の大掃除、年末年始の料理、
そして家内の母を7泊8日で迎えるので、それなりの準備で忙しいのである。

私は家内の孤軍奮闘ぶりを見ると、
茶坊主と買物専従に徹し、ときおり『コーヒー・・飲む?・・』
『何か・・買ってくる物・・ないの・・』
と家内に声をかけたりしている。

しかし年の瀬となっているので、何となく落ち着かなく、
買物を頼まれた時は、いそいそと出かけたり、散策をした後、買物を済ませ帰宅することが、
国内旅行から帰宅後のここ4日の実態であったし、
残こされた5日も同じような状況になるかしら、と微苦笑している。


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