夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『明日(あした)から12月かょ・・』、と心の中で呟きながら、過ぎゆく日々が余りにも早いと・・。

2012-11-30 12:33:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅み住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜8時過ぎに降りだした雨は、未明時に止んだ。
今朝はどんよりとした曇り空で迎え、雨上がりの清々しい情景となっている。

何気なしにカレンダーを眺めると、11月30日と明記されていたので、
『明日(あした)から12月かょ・・今年も残すところ一カ月か・・早いねぇ』
と心の中で呟(つぶ)やいたりした。

齢ばかり重ねた私は、定年後の年金生活の過ぎ去り日々が余りにも早く感じたりしている。

その後、9時過ぎに雨上がりの情景を甘受しょうと自宅を出て、付近を散策した。

私の住む地域は、11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となり、
やがて数多くの葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。

このような思いも秘めて、この時節は特に歩き廻ったりしている。

     

                    

                    

このような雨上がりの錦繍(きんしゅう)の情景を見れば、
確かに今年の秋が受容できた、と思いながら帰宅した。

我が家の小庭は、数多くの葉が落葉して散乱したり、剪定後の枝が未整理であるが、
過ぎゆく晩秋に愛惜があるので、たわむれに3枚ばかり撮ったりし。

                 
10月8日に『伊予地方産の柚子(ゆず)の樹、東京郊外でも季節の移ろいと共に過ごし、愛(いと)おしく・・・。』
と題して投稿した伊予柚子(いよ・ゆず)であるが、春先に大幅に剪定して樹が小振りとなり、
10月からほぼ毎晩ひとつづつ私は食べたりしてきたので、残りは30数個かしら、と感じている。

                 
この樹に関しては、11月11日に於いて、
『つたない私の定年退職時の記念樹、やがてめざましく成長し、早や9年生・・。』と題して、投稿した樹である。
3月初旬から芽吹き、若葉のなることは樹高5メートルに伸び、
やむなく10月下旬に大幅に剪定した樹であり、少しばかり色あいを染めている。

                 
このモミジは私のカメラの技量が乏しく、実態は鮮明である。

たまたまデジカメを11月19日に買い改めたので、つたない技量と不慣れな液晶画面を頼りに撮ったりし、
その上にブログに添付する写真も11月4日に、8年近く散文だけて投稿してきて、初めて掲載を始めたので、
この写真の全般が不鮮明が証明するように、園児が幼稚園に通いだした心情の心酔する時期と同じようであり、
ご容赦の程を。 

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錦繍の時節、名所は確かに美麗であるが、それぞれの方のお住まいの地域が何よりと思い深め・・。

2012-11-29 11:49:30 | 定年後の思い
9月の中旬を過ぎた頃から北海道の大雪山の山麓が早くも色づき始めたり、
或いは日本で一番紅葉が遅いと称されている房総半島の中央部にある亀山湖を11月の月末に旅してきた私は、
日本の各地であまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染める錦繍(きんしゅう)の情景に、
齢ばかり重ねてきた私でも魅了されてきた・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅み住む年金生活の68歳の身であるが、
私の住む地域は、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となり、
やがて数多くの葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。

こうした中で、日本の各地の名所、旧跡などで、美麗な錦繍(きんしゅう)の情景が、
テレビなどで放送されたりし、私も過ぎ去りし日々に旅先で観た光景も重なり、
確かに綺麗な情景だ、と思ったりしてきた。

古来、日本の幾数千年に及び常緑樹、落葉樹の森や里に恵まれた中、
人々はそれぞれ育(はぐく)み、生活を営んできた。
そして特に室町時代の頃から権力者に命じられ中で、作庭師たちは英知とたゆまぬ研鑽で、
日本の各地に四季折々の情景を独創的な形で作庭し、この中の一部が今日の名所、旧跡となっている。

もとより時代を超えた山間の情景、そして名所、旧跡は突出した情景に数多くの人に確固たる美を感じさせる。

このようなことを私は若き日の20代の頃から思ったりしてきた。

私は自宅の小庭に経済力に乏しく、やむなく落葉樹を中核に植えて、
35年を超えて、四季折々の情景と共に過ごしてきた。
或いは通勤、散策、買物の時などは最寄りの住宅街の歩道、旧街道、遊歩道などの場所を歩いたり、
ときには小公園、大きな都立公園などを訪れてきた。

こうした中で、過ぎし日の思いが突然に甦(よみが)ったりして、微苦笑したりする。
幼年期に母や叔母に手を引かれて歩いた場所や少年期にあてどもなく近くを歩き廻った所、
或いは失恋して途方にくれて歩いた場所など生家に近い私の自宅の周辺をひたすら歩くことが多い。

そして日々の生活を過ごしている中、このような近い場所にこんなに美しい状景があったの、
と思いがけない光景にめぐり逢ったりしている。

昨今の私は、名所、旧跡などを訪れるのもよいが、
住まいの近くを歩いたりし、過ぎゆく錦繍(きんしゅう)の情景を過ごしている。
たまたまデジカメを19日に買い改めたので、つたない技量と不慣れな液晶画面を頼りに、撮ったりしている。




             
自宅のくに流れる野川の川沿いの遊歩道、隣接した『喜多見ふれあいひろば』の小公園があり、私の散策の好きなコースのひとつで、
週に3回ぐらい歩いたりしている。
                  
ときには幼年期に遊んだ霞嶺(かすみね)神社に四季折々に訪ねたりしている。
                  
日常の買物コースのひとつに、欅(ケヤキ)の樹があり、早春の芽吹きの時から冬木立まで、
私は見たりしている。

このように年金生活の中、過ぎし日々に愛惜を深めたり、予期せぬ情景にめぐり逢ったりして、
過ぎゆく今年の錦繍(きんしゅう)の時期を過ごしている。
そして誰しもが日常生活の中で、お住まいの地域が愛(いと)おしく、過ぎ去り日々に愛惜を重ねたりし、
これから到来する時節を迎え、ささやかな期待を秘めて過ごされていると思われる。

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東京の郊外に住む私、ときおり小雨降る中、過ぎゆく秋を散策すれば・・。

2012-11-28 15:59:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅み住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝は曇り空で迎え、やがて空は明るくなり淡き陽射しが見られたが、
午前9時過ぎから小雨が降ったり、やんだりし、思いだすように霧雨が降ったりした。

私はめまぐしい天気に戸惑い、地元の天気情報を見ると、
朝の6時は5度、昼下がりは9度前後、夜の6時は7度前後、
曇り時々晴れ、と表示されていたが、小雨は降るし寒い日中であり、
12月の下旬のような寒い一日かしら、と感じたりした。

私は午前中のひととき、銀行と郵便局に寄った後、買物もあるので、
徒歩5分ぐらいの団地に向った・・。

私の住む地域は、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となり、
やがて葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。

こうした中なので、この時節は私は読書も中断して、付近を歩き廻ることが多い。

            

そして近くにながれている野川の遊歩道も歩いたりしている。
                        
或いは団地に隣接したマンションの雑木林に見惚れたりしている。
           

このような情景を四季折々眺め、この時節の欅(ケヤキ)などの落葉樹に、
圧倒的に魅せられて、足を止めて長らく見上げたりしている。

そして帰宅すれば、小雨降る中、小庭のモミジを眺めたりしている。
                   

このようなコースを本日歩いたりし、明日はどの周辺を歩き過ぎゆく秋を受容しようかと、
霧雨降りしきる情景を眺め、晩秋の午前中のひとときを過ごしたりした。

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東京郊外の私の住む地域は、早くも錦繍の数多くの葉は舞い、そして故郷のひとつを訪ね・・。

2012-11-27 15:57:18 | 定年後の思い
私は定年退職後に年金生活を始めた直後から、我が家の平素の買物担当となっているので、
いつものように午前中のひととき、最寄りのスーパーに出かけた。
雲ひとつない青空の快晴であったが、ときおり北風が強く吹き、
欅(ケヤキ)、コナラ、桜(サクラ)、梅(ウメ)などの落葉樹の葉は、空中をさまようように舞い、やがて地上に落下し、
路の片隅に吹き寄せのように朱紅色、黄色の色あいが重なるようになったりしている。

私の住む所は東京郊外の調布市であるが、世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれにあり、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。

毎年、11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となる。
この後は公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が主役となり、彩(いろど)りを見せ、
舞い散る頃に12月の『師走(しわす)』の初旬を迎えている。

私は買物を終えて、自宅に向う途中、大きな公孫樹(イチョウ)の樹は、たわわな葉は黄色に染められ、
強い北風を受けても葉を落とす様子もなく悠然と受けて、平年と変わらないねぇ、と私は思わず微笑んだりした。

帰宅後、私は自宅周辺を散策した・・。
付近に流れている野川の遊歩道を歩こうと、近くの橋に向った。
                    
澄み切った青空の中、北風は強く吹き、近場を歩こうとして、糟嶺(かすみね)神社に向った。
この途中で、大きな公孫樹(イチョウ)の樹が見えて、思わず私は足を止めた。
                    
たわわな葉は黄色に染められていたが、一部は早くも葉を落とし、地上に散乱していたので、
少し早いじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この後、再び霞嶺(かすみね)神社に私は向った。
     
             
ここは私が幼年期から小学低学年まで遊んだ場所のひとつである。

何かしら陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘を仲良くふたつに別れて、
高い所には老樹に囲まれた糟嶺神社があり、隣接した低い所には明照院がある。
糟嶺神社に関しては、農業の神、糟嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
私は教えられてきた。
そして推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。
                  

しばらくして神社を辞する前、神社の片隅にある前方に視えた公孫樹(イチョウ)の樹を見たりした。
                 
私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
糟嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と改めて深く感じたりした。

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石川さゆりちゃんの『津軽海峡・冬景色』、私たち夫婦は竜飛岬の旅路を思い馳せ・・。

2012-11-26 14:31:18 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝はどんよりとした曇り空となり、9時過ぎから小雨が降りだした。
私は新聞の読み残しを居間で読んでいた時、隣室の台所で家内は皿洗いをしながらラジオを聴いていた。
まもなくひとつの唄声が流れ、途中から思わず私も聴いたりした。

この後、家内は居間に戻り、茶坊主の私は家内にコーヒーを淹れて、
私は煎茶を飲んだりした。
『さっき・・石川さゆりちゃんの『津軽海峡・冬景色』の歌が聴こえたのだが・・
竜飛岬を訪れた旅を思い浮かべてしまったょ』
と私は家内に話しかけたりした。

過ぎし2010〈平成22〉年5月下旬、私たち夫婦の結婚して35年目となり、
記念旅行と称して9泊10日間で北東北地方の青森県の一部を周遊した。
私たちの共通趣味のひとつは国内旅行であり、各地の四季折々を訪れたりしたが、
いつの日にか日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテルに宿泊して、
海辺にある露天風呂の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の湯に身体をゆだねて、
海上を見つめたい、と念願してきた。

その後は竜飛岬を周遊し、そして八甲連峰の酸ヶ湯温泉、十和田湖の奥地の蔦温泉を廻り、
帰京した旅路となった。


東京駅を特急『こまち』に乗車し、盛岡駅経由で終点の秋田駅で下車した後、
大半は五能腺を走る特急『リゾートしらかみ』で秋田駅から青森駅を結ぶ路線に乗車し、
そして私たち夫婦はウェスパ椿山駅で午後4時20分に下車し、
駅前で待機していた宿泊先の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の送迎バスに乗り込み、
3連泊して、特に打ち寄せる波のまじかにある海岸の露天風呂に身も心もゆだねたりした。

その後、『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルに別れを告げ、
『リゾートしらかみ』で青森駅に向い、 青森駅から電車で津軽半島の海沿いの蟹田(かにた)、
そして終点の三厩(みんやま)津軽腺に乗車した。

終点の三厩駅で下車した後、路線バスで竜飛岬の漁港前まで乗車したが、
竜飛岬近づくたびに、どんよりとした曇り空、そして夜のとばりがまもなく迎える頃も重なり、
住居の殆どはつつましく最果ての集落と感じ、わびしい心情になったりした。

いずれにしても私達は、この地の竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3日間宿泊し、
周辺を散策する。
このような思いでぼんやりとしていると、ホテルの送迎用の乗用車が近づいてきた・・。

そして、私達は『ホテル竜飛』の3階の中央部にある部屋に通され、
洋上が正面に、彼方に北海道・・と戸惑いながらも明確に観え、
左側には竜飛漁港、そして帯島の美景となっていた。
   

竜飛崎は、風の岬として多くの人たちから愛称されているが、
私が訪れたかったひとつは、青函トンネルに関して、興味があった・・。
トンネルの工法はもとより地質なども無知な私であるが、
海の底を掘り続け、悪戦苦闘の末、完成させた成果に感動を覚えたからである。

今回の旅の前に、秋永芳郎・著作の『青函トンネル』(講談社)を20数年ぶりに再読したりて、
この当時の前後の青森市、蟹田(かにた)村、三厩(みんやま)村、そして竜飛岬の状況を学び、
各関係者の労苦に感銘を受けたりした。

翌日に『青函トンネル記念館』を見学した後、人影のない広い道を歩き、
竜飛崎の灯台に向っている時、霧雨が降りだしてきた・・。
傘を開きだした時、

♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
 見知らぬ人が 指をさす
【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】

と聴こえてきたので、彼方の方を見ると、
石碑の前で60代ぐらいの婦人が傘を差しながらたたずんでいた。

私はその方面に歩き出しながら、石川さゆりちゃんの『津軽海峡冬景色歌詞碑』は、
ここだったのか、と理解した。

そして、初期の目的地である『竜飛崎灯台』に向って、
帰路に寄ればよい、と思いながら霧雨から小雨に変る中を歩いた。
                        
                               
岬の高台にある『竜飛崎灯台』は風もなかったが、
見渡す限りの海上を眺めたりしたが、彼方の北海道は小雨でけむり、
かすんで視えなかった・・。
明日が晴れ間になるから、もう一度来よう、
と私は家内に言ったりし、先程の『津軽海峡冬景色歌詞碑』に向った。

人影もない歌詞碑の前にたたずみ、中央にある赤いゴムを押すと、
石川さゆりちゃんの歌声が周辺まで響きわたった・・。

         ☆右手の人は家内ですが、傘を差しながら土産屋で買った品をビニール袋に入れて持っています(笑)
私はこのような立派な歌詞碑が建てられて、
さゆりちやんは努力のしがいがあったね、と思いを重ねたりした・・。

私は歌手・石川さゆりさんに関しては、熱愛ファンではないが、
少しばかり気になる人である。

私は1970〈昭和45)年に大手企業に中途入社し、
この中の音楽事業本部のひとつの大きなレーベルが外資系のレコード会社として新設され、
私もこの新しいレコード会社に転籍辞令を受けて、やがて私は管理畑のコンピュータ専任者として、
従事したが、制作状況は無知である。

私は歌謡曲関連には、苦手なジャンルであったが、
1974〈 昭和49)年頃になると、『中三トリオ』と称して、
森 昌子、桜田淳子、山口百恵がヒット曲で賑わしていた。
そして、グループとしては、キャンディーズ、その後ピンク・レディーが破竹の勢いの時代であった。

こうした中で、ひとりの美少女がデビューしたが、
他社の歌手であったが、少し気になったのが、石川さゆりであった。
私なりの美少女の基準として、こうした中でひときわ可愛い存在であった。

何かしら風の噂として、森 昌子、山口百恵、石川さゆりは、ホリプロに所属し『3人娘』として売る出す構想であったが、
日本テレビは森 昌子、桜田淳子、山口百恵を『花の中3トリオ』と命名し活躍したが、
石川さゆりは取り残された。
その上にヒット曲に恵まれず、やっとヒットしたのが1977(昭和52)年の『津軽海峡・冬景色』であった。

石川さゆりが、遅咲きでご免なさい、と言った思いで、この曲を熱唱しているように私は聴こえた。
この直後の『能登半島』で第一線の歌手として軌道にのった時、
私はレコードのアルバムを購入した。

過日、レコード整理していた時に、このアルバムのジャケットを見たが、きわだった美少女であった。

その後、私は石川さゆりから、遠ざかったが、
1986〈昭和61)年『天城越え』、1991〈平成3)年『ウィスキーが、お好きでしょう』は魅了されている。

この程度しか、石川さゆりに関しては知らないが、
唄声、しぐさ、そして表情が妖艶となり、齢を重ねた私でも、
さゆりちゃん、と呟(つぶや)きながら、香(かぐわ)しい女性の魅力に心酔させることのできる稀(まれ)な存在である、
と感じたりしている。


この『津軽海峡・冬景色』の歌に関して、
今は亡き作詞家・阿久悠(あく・ゆう)氏が作詞された当時の1976(昭和51)年頃は、
青函連絡船もあり、数多くの人々から利用され、
1988(昭和63)年に青函トンネルが完成し、連絡船は終わりを告げた。

私はたった一度だけ1962(昭和37)年に北海道に修学旅行の時、
津軽海峡を青函連絡船に乗船して、往還した。
上野駅発の夜行列車に乗り、翌朝に青森港から青函連絡船に乗り、
函館が観えた時、やっと北海道に来た、と感動を受けた思いもあったりした。

青函連絡船が廃航路となり、青函トンネルが利用される今日、
ひとつの大きな時代が終わり、多くの人たちに愛惜を重ね、
この中のひとつの心情として、この『津軽海峡・冬景色』の歌は不滅の歌となった。

このように私は思いながら、家内と共にこの歌詞碑から去った。


そして翌日、この周辺を歩いたりした。

9時過ぎに宿泊している観光ホテルを出て、国道でありながら歩道で階段の道を下り、

海岸に近い道路に下り立ち、
歩道を歩き、波除のテトラポットにカモメが群れていた。

この後、作家・太宰治、版画家・棟方志功のゆかりの宿として名高い『龍飛館』に向った。
私が館内で何よりも感銘を受けたのは、
画家・高野元高氏が描かれた『北の浜』であった。
私は絵の世界はまったく判らないが、私なりの感覚として魅せられたのである。

海岸沿いの岩をノミなどの荒い削りで、トンネルを通し、
このトンネルの先は海岸に波のしぶきがかかるような道、
そして彼方に人家がある過酷な厳冬の情景であった・・。

私には、この地を表現された数多くの創作者がいるが、
このたった一枚の絵こそ、まぎれない渾身の作品として、受け止めたのである。

この後、岬に連なっている帯島を観たりし、
ふたたび階段の国道の歩道を上り、灯台を観ながら、展望台の周辺を2時間ばかり散策した後、
宿泊の観光ホテルに戻った。

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都心に近い甲州街道の欅(ケヤキ)、この時節はあまたの葉は染められ・・。

2012-11-25 10:25:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の午前中に駅前で買物を終えて帰宅した後、秋日和に回復した青空の中、
家電量販店に出かけた。

過ぎし19日にデジカメを買い改め、このカメラケースを取り寄せ注文していたので、
受け取りに家電量販店に出かけた。

我が家の最寄駅のひとつ京王線の『仙川』駅より『新宿』駅に向う3つばかり先の『八幡山』駅で下車し、
徒歩5分ぐらいにある家電量販店である。

この間、国道20号で甲州街道と命名される大通りの歩道を歩くと、
道路に面した歩道側に植えられている数多くの欅(ケヤキ)が、あまたの葉は色づき、
私は思わず足を止めて、デジカメで5枚ぐらい撮ったりした・・。

   

もとより甲州街道の都心に近い欅(ケヤキ)は、1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催され、
この街道はマラソンコースとして活用され、
その記念に甲州街道の世田谷から杉並の間の6キロにわたって約千本が植えられ、
四季折々の情景を数多くの道行く人、自動車で走行する方たちを和(なご)ませ、
今や風物詩のひとつとなっている。

                     
私が撮った場所は、環状8号線と交差する要所の所に近い処で、
郊外と都心を結び自動車、トラック、バスなどが頻繁に走行する地点である。
                            
このような所であるが、植えられて50年に近くになると、欅(ケヤキ)並木のようになっている。
                     
欅(ケヤキ)は春の芽吹き、爽やかな若葉、夏の陽射しの時にはたわわな葉で遮(さえぎ)り、
冬木立は陽射し越しに美麗であり、秋のこの錦繍時期も綺麗であるが、やがて落葉の時はあまたの葉が散乱する。
こうした落葉時期は、付近のお住まいの方、商店街の人たち、自治体の関係者のたゆまぬ協力、
そしてボランティアの数多くの方たちの懸命な労力の結晶で、
私たちは欅(ケヤキ)の美麗を享受している。

このようなことを片隅に思いながら、私は数多くの欅(ケヤキ)が染められいる美景に、
見惚(みと)れたりした。

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欅(ケヤキ)の樹を見上げると、やがて私は幼年期の頃に思いを寄せて・・。

2012-11-24 16:06:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の23日は午前9時過ぎから小雨が降ったり、やんだりし、
思いだすように霧雨が降ったり、そして本降りとなったりした日中であった。

今朝もどんよりとした曇り空の中、ときおり小雨が降ったりしていたが、
雨は9時過ぎに上がり、昼過ぎから快晴が予測されていたので、
私は10時過ぎに自宅を出て、駅前に買物に向った・・。

そして途中にある大きな欅(ケヤキ)の樹を見たく、団地の中の道路を歩いたりした。

この団地は私が高校生の頃に亡き父の知人の3人の田畑、雑木林が買収され整地された後、出来た団地であるが、
ゆったりとした敷地の中に、大きな落葉樹が多く植えられ、
私は散歩の時に四季折々眺めて早や50年近くになっている・・。

特に私は欅(ケヤキ)の樹に魅せられて、ときおり立ち止まり見上げたりしてきた。
本日も雨上がりの欅(ケヤキ)の樹を眺めたりした・・。
                 
この後、私は脇道を歩くと、朱紅色に染められた桜の樹の枝越しに、
欅(ケヤキ)の樹に見惚れたりした・・。
            
この後、駅に向って旧街道を歩いていた時、私は幼年期の生家の情景が想い馳せたりした。

私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

こうした中で生家の母屋の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、家族一同は暖をとっていた。

薪(まき)は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(ケヤキ)などを植えてあり、
間隔が狭まった木を祖父、父が毎年数本切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、陽当たりの良い所で乾燥をさしていた。

私は小学生に入学する前年の頃、秋に田んぼの稲の米を収穫した後の晩秋期、
祖父、父が小作人だった人の助けを借りて、大きな欅(ケヤキ)の樹を倒した後、
大き目の鋸(のこぎり)で輪切りにした。
そして作業が一段落した後、祖父は鋸(のこぎり)の目立てをしたりしていた。
この後、輪切りにした欅(けやき)を鉈(なた)で薪(まき)割りをした記憶が、今でも心の片隅に残っている。

そして、枝葉は竈(かまど)で薪(まき)を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。

このようなことは、生家の近くの旧家で多く観られた。

その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

昨今、私が地元の小学校に通った旧街道を散策すると、旧家の4軒は、
大きな欅(ケヤキ)が数10本並び、市道となった道路との垣根の代わりに聳(そび)えている。
そして私はこの旧街道を歩くたびに、幼年期の頃の生家の情景が想いだされ、
そうだったよねぇ、と遠い昔に思いを重ねたりしている。

或いは大きく変貌となった昨今の情景の中で、大きく聳(そび)えている欅(ケヤキ)を見かけと、
私は立ち止まり、しばし眺めることが多いのである。

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現役の諸兄諸姉は『勤労感謝の日』、私は『年金感謝の日』と高齢者の私は受けとめて・・。

2012-11-23 15:20:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝はどんよりとした雲の空で迎えたが、午前9時過ぎから小雨が降ったり、やんだりし、
思いだすように霧雨が降ったり、そして本降りとなったりしていた・・。

カレンダーを何気なしに見ると『勤労感謝の日』と朱記されて折、
思わず恥ずかしくなり、苦笑した。

私は2004(平成16)年の秋、35年ばかり中小業の民間会社でサラリーン生活を終えて定年退職した後、
年金生活で過ごしているので、昨今は恥ずかしながらも曜日の感覚が衰えている。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域では『勤労感謝の日』の頃になると、
自宅の小庭、付近の遊歩道、小公園の落葉樹が、
紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られる錦繍(きんしゅう)の華やかな情景のピークとなり、
私は過ぎし11月3日の『文化の日』の頃から、色合いを染め始めるので、
と毎年待ち焦(こが)がれているひとりである。

そして『勤労感謝の日』を過ぎる頃になれば、落葉が吹き寄せのように幾重にも重ねたりした後、
イチョウのたわわな葉が黄色の色合いを深めて、12月の初旬に落葉して、晩秋から初冬に移り変わる・・。

先ほど、小雨降る中、庭のテラスの片隅に於いて、
庭の片隅にあるモミジを撮ったりしたが、やはり雨の中は無理だったと苦笑したりしている。
                  
このような思いで年金生活を過ごしているが、私のサラリーマンの現役時代には、
『勤労感謝の日』に際しては、それなりに想いである。


私の30代は、会社の販売締切日がたまたま20日であり、
コンピュータの専任者であったので、『勤労感謝の日』はコンピュータの月次処理作業で追われていた。
休日出勤務をしていたが、経理の決算の担当者も出勤されていたので、
『働けるうちに・・こうしていられるのも・・幸せかも知れない・・』
と私は言いながら、疲れ切っていたが、元気良く社内で働いていた。

40代になると、システムの開発と運営の併行業務となり、
たえず身体も張り、ときには週一回休めれば良い方で、土日、祭日の休日もなくなった時期が多かった。
そして、ときおり徹夜となり、早朝を迎えると、
『今・・働らなくて・・いつ働くのよ・・』と心の中で呟(つぶや)きながら、自身を励まして奮闘していた。

そして50代は情報畑から他部門に異動したり、後半は業界のリストラ烈風の中で出向となったりしたが、
相変わらず心も身もギリギリまで業務に専念したりし、
特に勤務地の遠い出向先に於いては、『50代後半でも体力勝負は・・勘弁してほしい』と、
心の中で呟(つぶや)くことが多く、サラリーマン生活を卒業したのである。


昨今、過重労働などと新聞で読んだり、テレビで視聴すると、
私たちの時代も同じであった、と思ったりしている。

ただ、昭和の時代が終る頃までは、
日本の経済は躍進していたので、真摯に職責を果たせば多くの人々が明日に希望が持てる時代であったので、
少なくとも団塊の世代、少し齢上の私たち世代、そして先輩の人たちは、幸運な時代に恵まれていた、
ときおり私は深く感じたりすることがある。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

こうしたささやかな生活をしているが、もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えているのである。

こうした現状を思考すれば、私は現役世代の諸兄諸姉に感謝をしながら、
思わず11月23日は、年金生活をしている私は『年金感謝の日』と命名した。

昨今は政治は混迷、経済は低迷、そして社会は劣化となる中で、
サラリーマンの諸兄諸姉は、たえず成果を問われる時代となり、
せめて祭日の『勤労感謝の日』から始まる3連休の方は多いと思われるので、
ご家族でのんびりと過ごされれば、と霧雨舞い降る庭を眺めたりしている。

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11月22日『いい夫婦の日』と称されても、私たち夫婦は微苦笑を重ねて・・。

2012-11-22 16:02:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
今朝、ぼんやりと家内とNHKのテレビ・ニュースを視聴していると、
《本日は『いい夫婦の日』の日を迎えていますが・・》
とキャスターのひとりが発言されて、夫婦のあり方について小特集されていた。

私は68歳で、家内はまもなく63歳となる身であるが、
『いい夫婦の日といわれてもなぁ・・』
と私は微苦笑しながら、家内に話しかけたりし、いつものように旅先のこぼれ話しなどを談笑したりした・・。

私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐこととなり、結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。
その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。

そして何とか1976〈昭和51〉年3月30日に結婚式、披露宴を終えて、
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、新居の件で色々と思案したが、結果として私の生家の近くに空き地があったので、
この地に一戸建てとした。
家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの生活の合間に、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
若さ勢いで母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核としたり、
私は奮戦しても家計は赤字が多く、突然に家内はデパートに契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、三年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。

こうした間に、私たち夫婦は子供に恵まれなかった。
ある日に叔母の入院見舞いに病室に私たち夫婦が訪れたた時、
貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
そして診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。

私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

このような私たち夫婦の日常を、くまなく見ていたのは、
居間の片隅に置いてある《ぬいぐるみ》の洗いガエルである。
                   
この《洗いガエル》は、私たち夫婦が新婚の生活を始める準備をしていた時、
電気洗濯機を買い求めに、最寄りの家電量販店に行き、
たまたま家内があるメーカーの気に入った洗濯機の内部に、
宣伝キャラクター商品として添付されていた《ぬいぐるみ》であった。

この《洗いガエル》は、少し凹(へこ)んだりしているのは、
家内が日中のひととき、昼寝をした時に枕の代わりにして、少し歪(ゆが)んでしまったり、
少し汚れているのは私たち夫婦の37年を見続けて、少しへたばっているからである。


私の定年退職後、年金生活を始め、私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は専守防衛長官の専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などの時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主もしている。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

そして家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行き、孤軍奮闘をしているのが定年後の状態でもある。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、
特別演習かしら、と思いながら私は過ごしている。


我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。
『ご苦労であった!』
と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。
その後、思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

このように私は、『いい夫婦の日』といわれても、どのようなご夫婦のことなの、
と微苦笑を重ねたりしている。

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定年後の私の愛(いと)しき散歩道のひとつ、錦繍(きんしゅう)の情景の中を歩けば・・。

2012-11-21 17:18:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋に大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画・文學青年の真似事をしたが、
あえなく敗退して、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通ったりした。

そして何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、情報畑、管理畑などを含め35年近く奮戦してきた。

この間、音楽業界は、1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめ、
リストラ烈風となった。
そして私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となり、その後は年金生活を始めて、
日常は買物担当となった私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

定年した後、年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
このように自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの何かと多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして自宅の小庭の雑木の四季のうつろいを眺めたりし、
朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、微苦笑したりしている。


こうした中で、本日も買物を終え自宅に戻った後、いつものように散策に出かけた・・。
たまたま今回は、新しく買い求めたデジカメを持ち、つたない私でもどのくらい撮れるのかしら、
と思い持参したのである。

近くに流れる野川の川沿いの遊歩道があり、私の散策の好きなコースのひとつで、
週に3回ぐらい歩いたりしている。

特に野川の川沿いの遊歩道を歩くコースとしては、京王線の『柴崎』駅と『国領』駅の中間点に野川が流れ、
下流に向い小田急線の『喜多見』駅から『成城学園前』駅の中間点に野川の流れているが、
この間の地域に私は結婚前後の5年を除き、63年ばかり住み共有してきたので、
私の縄張りのようなホームグランドと秘かに思ったりしている。

こうした中で、曲がりくねっていた野川も本格的に東京の郊外の川として50数年前に護岸工事の上、
整備されたり、その後も遊歩道や小公園も新たに設けられたりしてきた。

   

               
下流に向い右岸の遊歩道を歩れば、
   
               
私が四季折々、立ち止まり眺めたりしている。

その後、最寄の公園に立ち寄ったりした。
   

   

              

             
この小公園は、10数年前の頃から開園され、定年後の私は四季折々の情景を享受されている。
             
この小公園の名称は、このような看板があり、ご近所のご家族の人たちからも数多くの区民、市民から、
利用されている公園のひとつである。

この後、私は野川の遊歩道を歩き自宅に向った。
            

今回は、黄色、朱紅色に染められた落葉樹の多い錦繍(きんしゅう)の中を歩き、
この後の晩秋の黄色、朱紅色の葉が舞い散る時節までの季節は、少しばかり私はそわそわとし、
歩き廻ったりしている。

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雪舞い降る便(たよ)りを知り、私たち夫婦は初冬の旅を立案を始め・・。

2012-11-20 17:17:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であり、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。

ここ数週間、北海道、東北の各地で雪が降りました、とテレビのニュースを視聴したりすると、
なぜかしら私は心の片隅みで微笑んでしまうのである・・。

そして私は家内に、12月に旅先で雪舞い降る情景を観に行こうょ、
と私は初冬の旅を誘い、どの地域に訪れようか、と日中のひととき話し合ったりした。

この後、庭のテラスに下り立ち、落葉樹の数多くの葉が朱紅色、黄色に染めらた錦繍の情景を眺め、
やがて落葉の時期を迎え、その後は初冬と時節が訪れる、と思ったりしていると、
遥か遠い昔のことが思いだされた・・。


私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。

1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に木造の正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
簡易に造ったブリキの中で、薪(まき)が燃やされていたのである。

私たち学童は、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。

こうした幼年期に体験した私は、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。

このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうのである。


たまたま昨年の12月は、20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊し訪れた。

私たち夫婦は何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら帯広の地域は、二度ばかりしかない。
最初は周遊観光で晩秋の時に、道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりし、
その後は、5月の知床半島のクルーズに魅了された後、旅の終わりとして十勝川温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。

私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。

私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたく、郊外を2時間ばかり歩いたりした。
   


この後は、いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地に行き、
やはり付近を散策した。
   
このようなささやかな初冬の旅をしてきたので、今年の12月もどちらかな訪れようか、
と思案している。

尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの
思いからである。

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デジタルカメラ、高齢者の私のささやかな思い、そして本日突然に・・。

2012-11-19 21:44:40 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
愛用しているデジタルカメラは、2004〈平成16〉年の秋に定年退職する2か月前に、
我が家から最寄りの家電量販店で買い求めた。

購入する数が月間は、会社の近くのカメラ売り場を見て、色々と思案させられた・・。
この当時の2004〈平成16〉年の初夏の頃は、
液晶画面を見て撮るコンパクト・カメラが流行していたが、
やはり私は一眼レフのようにファインダーを見て構図を決定するのに、こだわっていた。

ニコン、キャノンなどの一眼レフの1000万画素前後のカメラに魅了させられたが、
標準レンズの20~55mm、そして望遠ズームの55~200mmを付けたりすると、
確か80万円を超える金額であった。

私は若き1960〈昭和35〉年の春に、都心の私立の高校に入学して、
クラブとしては写真部に所属し、人を写すポートレートは照れ臭いので、
風景画に専念し、現像などを含めて、ニコン、キャノン、アサヒベンタックスなどのフィルム一眼レフのカメラから、
写しだされる奥行、深さも少しは学んだりした。

その後のサラリーマン時代の多忙の時代は、フィルムのコンバクト・カメラで、
ともすれば忘れるので、記憶のメモ代わりに撮ったりしてきた。


定年後は年金生活を予定していた私としては、一眼レフのカメラだと、
レンズの買い増しなどの購入などでエスカレートすると費用も際限がなくなるので、やむなく断念し、
この当時としては高質とされていた800画素でズームレンズのあるカメラ一体型で、
程ほどの良質なキャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定した。

結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
総合教養雑誌の『サライ』でも賞賛されていたコニカミノルタの『DIMAGE A2』とした。
そしてデジカメ本体にカメラ・ケース、充電器、リチウムイオン電池の予備、
記憶媒体はCF(コンパクト・フラッシュ)であるので、512MBを購入し、
確かこの当時30万円を超えた。

http://www.konicaminolta.jp/about/release/2004/0213_06_01.html
☆【コニカミノルタ】公式サイト<==《DIMAGE A2》☆

このデジカメはズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
通常、周遊観光に於いて、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフのレンズ交換を考慮すると、
確かに私のデジカメは構図が素早く決められ、機動力がある、と秘かに思っている。

そして記憶媒体はCF(コンバクト・フラッシュ)は512MBを使用していたが
512MBの記憶媒体で500画素程度にすると、128枚前後撮れる。
800画素にすると、64枚前後となるので、フィルム時代からすれば隔世の感があった。
この後、1Gのコンバクト・フラッシュを2年後に買い求めると、
たった2年間で、5分の1程度の価格となったのに驚いたりした。

このデジカメの世界も画質は年々向上し、価格も下落する状況となっている。

こうした中で私は相変わらずコニカミノルタの『DIMAGE A2』を愛用し、
『高級な一眼レフに比べれば確かに劣るが、撮る思いは一流である』と旅行先の美景を撮り続けてきた・・。
しかし恥ずかしいことを告白すれば、安芸の宮島に訪れた時は夜景を撮るのに失敗した。

夕食後、遊覧船に乗り、海上から大鳥居、厳島神社がライトアップさせられた中、
風もない穏やかな海上で、遊覧船は大鳥居に近づき、そして大鳥居の中を遊覧船は通り抜けた・・。
前方に厳島神社が観え、後方には五重塔が聳(そび)えている。
幻のような景観であったが、確かに目の前の光景となっていた。
この情景が殆ど撮れていなく、その後の薄暗いシーン、花火も失敗作となったりした。

デジカメか私のつたない技量か解らないが、ここ半年ぐらい秘かにデジカメの最新を注視してきた。

本日、家内が家電の量販店で『電気毛布』を買い求めに行くので、
いつものように私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり一緒に出かけた。
そして電気毛布を購入した後、デジカメの売り場も寄ろう、と私は家内を誘ったりした。

デジカメ売り場で、私がここ数か月思案していたデジカメを手に取っていたら、
家内が見ていて、
『貴方の持っているデジカメより、可愛らしいわ・・軽そうだし・・
その上・・お値段も廉(やす)いし・・』
とデジカメにまったく無知な家内でも、私に言った。

http://www.nikon-image.com/products/camera/compact/coolpix/performance/p510/
☆【ニコン】公式サイト<==《クールピクス P510》

『今の持っているデジカメより、遥かに画質も向上しているし・・価格も廉(やす)いよ』
と私は家内に言ったりした。

『欲しかったら・・お買い求めになれば・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

結果として私は、売り場の精算場所で、この新しいデジカメ、そしてカメラケース、記憶媒体のSDHCの8GBを、
デジカメの世界の熾烈な競争の中で、私は4万円以下で、手にすることができた。
そして何よりも私が驚いたのは、この中の記憶媒体がたった1680円で、
私の定年後の丸8年過ぎた中で、世界市場の過激な実態を実感させられたのである。

こうして私は新しいデシカメを手にし、
思いがけない家内からのクリスマス・プレゼントかしら、と喜びながらも、
余りにも進んでいる機能をマニアル本を見ながら、デジカメを触ったりしている。

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ブログに写真を添付を始めて、海のように広く奥深い、と私は戸惑いながら・・。

2012-11-18 14:39:16 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
中小業に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなく本屋の書物からブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、丸8年を迎えようとなっている。

こうして中で、諸兄諸姉の多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ5年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

そして『文化の日』の翌日の4日に於いて、昼下がりのひととき、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞う人もいなく、
やむなく加入している【gooブログ】の使い方の中に於いて、
《画像入りの記事を投稿する》の解説を読んだりした・・。

そして《【画像ファイル】
  ・goo ブログ標準 ※画像の比率を保持したまま、320×240に収まるサイズに自動的に縮小されます
  ・オリジナルサイズ ※縦サイズもしくは横サイズが1920pxを超えるまでは、縮小されずにアップロードされます》
と明記されていたが、どのような意味合いも解らず、
何とか一枚の写真を添付する投稿文ができた・・。

その後は、失敗も繰り返したりしながら、《オリジナルサイズ》で表示したが、
確かに鮮明であるが、プログ上に表示すると、読んで下さる方には画面一杯に表示してしまうので、
ご迷惑限りない、と大いに反省をしたりした。

そして《goo ブログ標準》の《320×240に収まるサイズに自動的に縮小》を活用し、
ブログ上の表示の時は、《大きな樹》のマークをクリックして、程ほどの大きさで表示させたりした。

その後は横並びに2葉の写真を掲載することも学び、
愚図の高齢者の私でも、何とか出来たんだ、と安堵を重ねて微笑んだりしたのは、
15日からであった・・。


この後、駅前の本屋に行った時、平素の私は小説、随筆などの単行本、新書本、文庫本の文藝コーナー、
或いは雑誌コーナーに寄って魅せられた本を買い求めたりしているが、
たまたまコンピュータ・コーナーに行き、ひとつの本の背文字を見て、
手にとってパラパラと内容を見たりして、驚いてしまった・・。
             
特に写真の専用の【Picasa(ピカサ)】を少し見て、遅ればせながら学ぼうと買い求めた。

昨日、雨の降る日中のひととき、【ピカサ】をさらさらと読んだ限りであるが、
どうして海のように広く、奥深いの・・と溜息〈ためいき〉を幾たび重ねたりした・・。

私は若き1960〈昭和35〉年の春に、都心の私立の高校に入学して、
クラブとしては写真部に所属し、人を写すポートレートは照れ臭いので、
風景画に専念し、現像などを含めて、一眼レフのカメラから写しだされる奥行、深さも少しは学んだりした。

その後のサラリーマン時代の多忙の時代は、フィルムのコンバクト・カメラで、
ともすれば忘れるので、記憶のメモ代わりに撮ったりしてきた。

私が現在愛用しているデジタルカメラは、私は定年退職の記念として購入したので、
旅行などで、日本の四季折々の情景を撮ったりしている。

定年退職する数か月前、デジカメは液晶画面を見て撮るコンパクトカメラが流行していたが、
やはり私は一眼レフのようにファインダーを見て構図を決定するのに、こだわっていた。

しかしながら、一眼レフだと後で凝ると費用も際限がなくなるので、
この当時としては高質とされていた800画素でズームレンズのある程度の商品で、
キャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定した。

結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
雑誌の『サライ』でも賞賛されていたコニカミノルタの《DIMAGE A2》にした。

ズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
通常、周遊観光に於いて、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフのレンズ交換を考慮すると、
確かに私のデジカメは構図が素早く決められ、機動力がある、と秘かに思っている。


このような恥ずかしい写真への思いであるが、【ピカサ】の世界は深いのである。
《アルバムのスライドショー》、《スライドショーとムービーに音楽を使用》などを読むと、
奥深く、ネットのWebの大海は進化している、と戸惑いながら読んだりした・・。

しかしながら私はブログの投稿文は、
定年退職後の年金生活の中で、何かと身過ぎ世過ぎの生活の中で、
日頃感じたことや思索したことなどがあふれる思いとなり、心の発露として描写することが第一目標であり、
写真はイラストの代わりに添付を始めたのである。
或いは表現力が未熟な私は、表現の補佐として、写真を添付している。

こうした意味合いも含めて【gooブログ】の画像機能をある程度にマスターした上で、
それから【ピカサ】の世界を学ぼうと思ったりしている。

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奥入瀬渓流、初冬の12月中旬はときおり雪舞い降り、静寂な情景となり・・。

2012-11-17 13:00:34 | 旅のあれこれ
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦の共通趣味のひとつである国内旅行に四季折々旅を重ねてきた。
そして特に雪舞い降り情景に、私は魅了されている。

こうした心情の中で、たまたま過ぎし2010〈平成22〉年の12月中旬に、
青森県の十和田湖の山奥にある蔦(つた)温泉の『蔦温泉旅館』を再訪して、4泊ばかり連泊した。

再訪した理由は、この年の5月に偶然に『蔦温泉旅館』を訪れた・・。
そして建物、館内の本館は天井、柱は周辺の森から切り出された材木がふんだんに取り入れ、
エンジュの長押、トチの樹のコブを生かした装飾の数々・・
一部は築後100年近いもあり、書院造りの床の間も豪壮で、
そして別館へのは本館から60段の優美な存在感のある階段は圧巻であった。

私達の宿泊した部屋は、20数年前の建てられた西館で近代的な造りであったが、
窓辺からのブナの森が隣接していたので、
早朝、朝、昼下がり、夕暮れの陽射しのうつろいが、樹木の枝葉を照らす輝き、
見飽きることのない光景であった。

そして、夜には満天の星空が観られた、格別に景観の良く、
私達は幾度も、その時々に見惚(みと)れたりしたのである。

或いは浴室の男女別の『泉響の湯』、そして男女交代制の『久安の湯』に、
何度も通い、肝要の湯舟であるが、ホームページにある言葉をお借りすれば、
《・・ 蔦温泉のお風呂はいずれも源泉の上に浴槽があり、
ぶなを使用した湯船の底板から湧き出す、手が加えられていない「生の湯」をお楽しみいただけます。

「湯がこなれている」「こなれていない」という表現をしますが、
湯が空気に触れた度合いを言葉で表現したものです。
こなれていない温泉は刺激があり最初熱く感じます。

蔦温泉の「生の湯」というのも「こなれていない」湯のことであり、
当然最初は熱く感じます。

しかし二度三度と入るにつれ、やさしい湯であることが実感できるはずです。
・・》

このように解説されているが
湯船の底板はブナの感触を楽しみ、鈍(にぶ)児の私は最初からやさしい湯と感じ、
ヒバ材をふんだんに使用され、天井も遥か三階のような高さを見上げたり、
10分ぐらい浸かっていると、身も心も温まる湯であった。

そして夕食は私としては苦手な部屋食であったが、
山菜のタラの芽、山ウド、ゼンマイ、ワラビ、フキノトウなど、
素材を生かし、創意工夫のある料理である。

そして朝食も含め、何気ない素材でも、料理された方の良心が感じられる数々で、
都心の少しばかり高級な食事処より遥かに素朴で上品な味であった。

確かに私は、この旅館にも魅せられたのであるが、何よりも建物の背景にブナ林があり、
            

遊歩道も整備され、身近にブナ林を散策でき、芽吹き、新緑、若葉の春の情景、
            

夏はたわわな葉で涼しく、
錦繍の時節には、黄色、朱色などに染まり、そして落葉、
そして落葉樹は舞い降る雪となり、静寂な冬眠のような情景、
いずれの季節も、多くの方たちに魅了させる稀な立地かしら、と私なりに思ったりしている。

そして数多くある観光ホテルより、館内の建物、人も、 素朴さと品格のある圧倒的な存在さである。


この蔦温泉の旅館、ブナ林を私たち夫婦が初めて知ったのは
5月24日に東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
『リゾートしらかみ』に乗り換えて北上し、ウェスパ椿山駅で下車した後、
日本海に面した青森県の黄金崎温泉の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の新館に3泊した。

この後は、『リゾートしらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊したが、
幼年期に農家の児として育てられた私は山里の情景も恋しく、旅先の3週間前の頃に追加した。

そして青森駅前よりバスで70分ぐらい乗った先の山里にある酸ケ湯(すかゆ)温泉の『酸ケ湯温泉旅館』に1泊した後、
たまたま蔦温泉の『蔦温泉旅館』の西館に2泊した体験であった。

ときおり旅先で辛らつな言葉を発言する家内さえ魅了された蔦温泉旅館であったので、
今回の再訪となり、前回に宿泊した部屋を指定して、4連泊としたのである。
            

正面玄関に隣接しているロビーというより談話室の感で、
トチの樹のコブを生かした板張りで、薪(まき)ストーブ、石油ストーブが暖となっていた。

薪(まき)ストーブは、薪が燃え、はじける音が静かな室内に響き、
私は滞在中に幾たびか談話室に訪れ、この薪が燃えながら、時折はじける音が魅了されていた・・。

壁面にひとつの絵が掛けられて折、
山里のゆるやか斜面には残り雪があり、数多くの落葉樹の根元周囲だけは雪が解けて、
芽吹きからたわわな幼い葉が見られ、
遠方の頂上の付近には常緑樹の中、落葉樹が赤めの芽吹きが観られて春紅葉の情景となり、
私は幾度も眺めたりしていると、
秘かな『春待ちわびる晩冬の山里の雪解け』と命名していた。

窓辺は木枠のガラス戸、厚手のビニール越しに15センチぐらいの細い丸太が、
幾重にも縦横と縄で縛った雪囲いが、地上から二階の棟まで傾斜して建てられていた。

私はこの雪囲いの丸太に、雪が積もったり、その下に氷柱(つらら)が競うように並び、
柔らかな陽射しを受けると、やがて激しい音と共に地表に落下した。

そして、厚手のビニールは、暖房もさることながらも、木枠のガラス戸を保護することも、
学びながら、私は見惚(みと)れたりしていた。


そして滞在している中、再訪するブナ林は、雪の降りはじめた12月の機会に、
森閑する中を散策したい、という願いも私達夫婦にあった・・。

到着した翌日の午前10時前、私達は防寒服、防寒登山靴、そして防寒帽子で身を固めて、
旅館の横手にある遊歩道を歩きはじめた・・。

積雪は20センチ前後で、吹き溜まりは30センチぐらいで、
遊歩道であるがこの冬の時節には、もとより除雪はされていなく、
ブナ、ミズナラの大木が数多く聳(そび)える中を歩いた・

            

そしてヤダモチ、オニグルミ、サワグルミなどの枝、小枝にわずかに雪が積もって折、
ときおり微風が吹くと、小枝は揺れて、花吹雪のように雪が空中を舞うように、
ゆっくりと地上に散乱した。

この後、ふたたび森閑とした森に還り、静寂となった。

このような情景に見惚(みと)れながら、ときおり立ち止まりデジカメで撮ったりし、
雪を掻き分けるように蔦沼までの遊歩道らしき路を歩いた。

蔦沼は、氷結はしていなかったが、森厳の中、静寂であった。

帰路も雪と戯れるように、ゆっくりと歩いたりしていたので、
2時間ばかり過ごした後、手先に寒さを感じ、遊歩道の入り口にあるビジターセンターに戻ったりした。


こうした中で、私たち夫婦は、蔦温泉に滞在している間、冬の奥入瀬渓流の散策を予定し、
当初は蔦温泉より11時32分発の一番バスの路線バスに乗り、
渓流の半ばにある石ケ戸の周辺を散策して、
石ケ戸を午後の2時4分発の路線バスで蔦温泉に戻る計画であった。

もとより冬の奥入瀬渓流の遊歩道に沿った路線バス、トイレも少なく、
今回の旅の往路からの八甲田山連峰のロープウェイの案内スタッフから、
遊歩道、トイレなどの閉鎖箇所もあるので、現地の方、宿泊先に確認されたら、
と教示を受けたりしていた。

私たち夫婦は確か10数年前の真冬の2月、古牧温泉に2泊3日で滞在したいた時、
この観光ホテルのサービスとして、無料の周遊バスで、
積雪の中の谷地温泉の立ち寄り湯、そして焼山の奥入瀬渓流館で自由食、その後は十和田湖までの
奥入瀬渓流の情景を観たりし、魅了されてた。

この時の奥入瀬渓流の遊歩道の近くには、積雪20センチ前後の中、
写真愛好家、絵を描かれる方、散策する愛好家などが見られていたが、静寂であった。

もとより奥入瀬渓流の景観は、多くの方を魅了させる情景であり、
私たち夫婦も現役サラリーマン時代の40代の時に、5月連休、そして夏季休暇を利用して、
北東北の周遊観光団体の旅行で訪れてきたが、私たちのような観光客でにぎわっていて、
とてもゆっくりと遊歩道を散策することはできなかったのであった。

こうしたささやかな体験もあったが、私は迷ったりしていたのである。


私は蔦温泉の館内の談話室で煙草を喫っていた時、
偶然に公衆電話の横にあるタクシー、貸切観光タクシーの料金表が掲載されていた。

たとえば、蔦温泉から石ケ戸まで3500円、蔦温泉から子の口までが5500円、
或いは貸切観光タクシーとしては、蔦温泉~奥入瀬渓流~子の口まで12000円(一時間50分)
と明示されていた。

この後、家内と話し合い、タクシーで石ケ戸、そして阿修羅の流れ付近まで利用しょう、
と思い立ったのである。


翌日の朝の10時、旅館前で私達は前日と同様に防寒着で身を固めて、
残り雪の多い冬晴れの中、タクシーを待ったりした。
まもなく、60代ぐらいのタクシー・ドライバーの方に、
『石ケ戸、そして阿修羅の流れまで・・その後は状況次第で・・』
と私はタクシー・ドライバーの方に言った。

走り出してまもなく、私が首からぶらさげたデジカメを見て、
『ご主人・・写真がお好きなんですか?』
とドライバーの方は私に言った。

このひと言が、私たち夫婦とドライバーの方との三人だけの物語の始まりであった。

ドライバーの方は、旅行の写真専門誌に幾たびか掲載される写真を撮る名手である、
とこの後に私は知ったりした。
そして途中でタクシーを停めて、
この風景が宜しいかと思いますが、と私にアドバイスをして下さったのである。

その後も私たち夫婦に微笑みながら、道脇から渓流沿いの冬季に閉ざされた遊歩道を案内して下さったり、
私たち夫婦の記念写真まで撮って頂いたりした。

そして、何気ない会話を重ね、すっかり意気投合したかのように、
幾たびか停止し、私はデジカメで冬の奥入瀬の情景を撮ったりした。

  
  

            

結果としては、十和田湖の湖岸のひとつ子の口まで行き、湖岸の波打ち際の氷柱を観たり、
湖岸の樹木の根に氷柱の情景も教示して頂いたりした。

   

帰路も渓流の14キロぐらいの道のりを利用したが、
路面は除雪の後の真っ白な道、道路の路肩は除雪の雪で60センチぐらい、
そして周辺の樹木は雪をたたえて、ときおり雪が舞い降る情景であった。

何よりも驚いたのは、この時節に渓流の遊歩道を散策する観光客もいなく、
この長い道のりで、人影を見かけたのは自治体の職員らしい方を石ケ戸の休息所の館内に3名、
そして道路を補修管理されている方が3名だけで、
まるで奥入瀬渓流を私たち夫婦が借り切ったよう錯覚さえ感じたりした・・。

            

この12月中旬の時節は、もとより働いて下さる諸兄諸姉は師走の時などで、
より一層奮闘される時であり、
学生たちも期末試験、主婦の方は年末を控え何かと多忙な時、
中小業で35年近く悪戦苦闘が多い後に年金生活をしている私に許された特権かしら、と感じたりした。

そして私達は蔦温泉までの時を略歴を交わしながら楽しげに話し合ったりし、
映画の話になり、私よりひとつ齢上の方と判明し、互いに笑ったりしていた。
家内も、ときおり言葉を重ねて、談笑した。

旅館前に帰還した私たち夫婦に、
『後ほど・・この旅館にご夫妻の記念写真をお届けいたします』
とドライバーの方は明るい表情で言った。

二時間後、このドライバーの方は、ご自身が撮られた特選の奥入瀬の若葉の頃、
そして錦繍の頃、いずれも美麗な二葉の四つ切写真であり、
私たち夫婦の写真も備えられて、届けられた。

この世に一期一会(いちごいちえ)という言葉があるならば、
こうしたことの意味合いかしら、と私は家内と微笑んだりし、
ドライバーの方の表情、しぐさを思い重ねたりした。

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『冬木立』の情景、つたない私は齢を重ねるごとに魅了され・・。

2012-11-16 18:22:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
過日の10日に小庭の樹木の剪定をしたが、玄関庭だけであったので、
本日の秋日和の中、朝の9時過ぎから午後3時過ぎまで主庭の剪定に奮闘した。

我が家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であるが、
前回に続き、家内の支援もあり、今年最後の剪定を終えることができた。

こうした中で、お互いに休憩している時、落葉樹の淡い黄色、朱紅色に染められた情景を見ながら、
煎茶を飲んだりした。
『あなたの好きな錦繍の時期が終わった後ても・・その後の冬木立の情景がお気に入りで・・』
と家内は微笑みながら私に言った。
『そうだよねぇ・・朱紅色、黄色に染められた錦繍も好きであるが、
この葉が舞い散り吹き寄せのような情景も良いが、この後の冬木立にも魅せられるょ』
と私は家内に応(こた)えた。
『今年の梅の咲き終わる頃まで・・植物園に幾たびか行ったわよねぇ』
と家内は私に言ったりした。


この後、3時過ぎに庭の手入れを終えて、風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は主庭のテラスの片隅みで簡易椅子に座り、ぼんやりと煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。
そして私たち夫婦は、今年の早春の時節に、神代植物園に6回ぐらい、
家内を誘って行ったりした。

我が家の近くに野川が流れ、この野川の遊歩道を上流に向って45分ぐらい歩くと、
深大寺の正門に着き、この隣接した場所に都立の神代植物園がある。

私たち夫婦は神代植物園の深大寺入口から殆ど入園し、1月の下旬の時は、
やはり梅園の梅の開花が気になり、寄ったりすることが多い。

そして莟〈つぼみ〉でまもなく咲きますょ、という状況であったり、
或いは恥ずかしげに咲き始めているのに微笑んだりして眺めたりする。

そして園内を廻ったりしているが、冬木立の情景が広がっている。
  
園内の最後には、私が圧倒的に魅せられる情景に、
ここ10数年は齢を重ねるごとに、しばらく佇(たた)ずんで長らく眺めている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職したのは、2004(平成16)年10月20日であった。
そして定年退職後、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた。

こうした中で落葉樹の芽吹きの時節、朱紅色、黄色に染められた葉が舞い散り時、
そして冬木立の暖かな陽射しを受けている情景に圧倒的に魅せられて、
何かと身過ぎ世過ぎの年金生活を過ごしたりしている。

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