たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

懐かしい映画と映画音楽・その82

2024年11月08日 20時49分36秒 | 懐かしいあの曲

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがある。「アクセス数」を気にしてでのことではなく、すっかり忘れてしまっているような、随分前に書き込んだ古い記事にアクセスが有ったりするのを、楽しみにチェックしている風なのだ。
そんな記事に目に止まった瞬間、「エッ、こんな記事にアクセス?」と驚くと
同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりしているのだ。
「gooブログ」=「記憶力がまるで無くなっている爺さんの自分のための記憶補助ツール」等と、勝手に決め込んでいる爺さんには、「アクセス解析」もまた、便利で有難いツール、大いに活用しているという次第。
先日、4年前に、ブログ・カテゴリー「暮らしの記録」に書き留めていた記事、「翼よ!あれが巴里の灯だ」にアクセスが有ったことに気が付いた。
「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクすることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


懐かしい映画と映画音楽・その82
映画「翼よ!あれが巴里の灯だ」と挿入曲(再)

4年前、2020年6月18日のこと、
「録画してある映画でも 観る?」
夕方になって、手持ち無沙汰な時間、
テレビ奉行の妻から、声が掛かった。
その日は、「キョウヨウ無し」「キョウイク無し」の1日だったようで、
たまには、映画鑑賞も良かろう、となったのだと思う。
映画は、「翼よ!あれが巴里の灯だ」だった。
リンドバーグが、大西洋横断飛行を成し遂げた時の言葉として有名であり、
その映画も、若い頃に1度は見たことが有るような気もしないではないが、
映画の記憶は、まるで残っておらず、初めて見る感覚だった。
「へー!、こういう映画だったのか」
目から鱗・・・だった気がする。

今更になってネットで調べてみると、
映画「翼よ!あれが巴里の灯だ(原題 The Spirit of St.Louis)」は、1957年(昭和32年)に、ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・ステュアート主演で、製作、公開された、アメリカ映画だった。
チャールズ・リンドバーグ著作「The Spirit of St.Louis」を原作とした、チャールズ・リンドバーグの伝記映画である。
歴史的な大西洋横断飛行を成し遂げたリンドバーグの話は、余りにも有名であるが、この映画により、リンドバーグのひととなりや、ニューヨーク、ルーズベルト飛行場離陸からパリ、ル・ブルジェ飛行場着陸その過程、様子が詳しく分かった。
リンドバーグが、1927年(昭和2年)に、「スピリット・オブ・セントルイス」と名付けた単葉単発単座のプロペラ機で、ニューヨークのルーズベルト飛行場を離陸、睡魔と機体の着氷と戦い、推測航法に苦難しながら、パリのル・ブルジェ空港に着陸するまでを描いた作品だが、飛行中に、回想シーンや同乗者?の蝿とのエピソード等が盛り込まれたりしている。
若きジェームズ・ステュアートの演技が光っている映画でもある。

(NHKテレビから拝借画像)

(ネットから拝借画像)


映画「 翼よ! あれが巴里の灯だ」 opening credit original source  (YouTubeから共有)


サトイモの一部、収穫、他

2024年11月08日 17時35分07秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

当地、今日も「晴時々曇」、最低気温=5℃、最高気温=16℃、
早朝、真冬並みに冷え込み、日中も、やや雲が多かったが、
清々しい1日だった。
すでに、10日前頃から、葉、茎が、枯れ、倒れ、
収穫適期になっていたサトイモ(トウノイモ)、
なんやかんや有って、延び延びになってしまっていたが、
今日は、やるべし・・、
午前中、やおら重い腰を上げ、Go To 畑! と相成った。

(1)サトイモの一部(トウノイモ)収穫、

植え付け後の発芽、生育、極めて悪く、
残っていた種芋を、急遽、植え直した今年のサトイモ、
やっぱり、出来は、イマイチ、
小粒ばっかり・・・、
まあ、諦めていた分、満足?

(2)コマツナ、収穫、

(3)ダイコン、1本だけ試し掘り(初収穫)、
   ちょっと、早いみたい?、

畑地のど真ん中で、開花しているトレニア、
野鳥が運んできたのか、どこから迷い込んできたものやら・・・、
「邪魔なんですけど・・・」、
と言いながらもの
引っこ抜くには、忍びなく・・・、

 

やり残し有り・・・だったが、
足、腰、痛!、痛!、
無理せず、
今日は、これまで・・・、
やれ、やれ、


立冬

2024年11月07日 17時52分22秒 | 暮らしの記録

(日本気象協会 tenki.jp から拝借)

今日は、「二十四節気」のひとつ、「立冬」
正確には、11月7日~11月21日が、「立冬」で、その最初の日である。
つい先日まで、「夏日」「真夏日」が有ったりした今年の秋だが、
折しも、今日は、日本付近、西高東低、冬型の気圧配置が強まり、寒気が南下、
北海道等からは、「初雪」「積雪」の便りが届き、富士山も、「初冠雪」
東京地方等では、冷たい北風が吹き荒び、「木枯らし1号」と発表されたり、
全国的に、急激に気温が下がり、
いよいよ、本来の晩秋、初冬の気候になったようだ。

(ネットから拝借画像)




古い写真から蘇る思い出の山旅・その67

2024年11月06日 14時40分40秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等、夏山登山をしていたが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。長男、次男が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、10数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していて、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込み、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼ったりしていたものだが、その後、「デジブック」が終了したことで、ブログから写真が消えてしまい、改めて、順次、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)しようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その67
「本仁田山・川乗山」(再)

かれこれ22年前、2002年5月5日、妻と二人で、東京都の西部、奥多摩の山「本仁田山(ほにたやま)・川乗山(かわのりやま)」を訪れたことが有った。
当時はまだ、自営業を続けていた頃で、時間的余裕、精神的余裕も無かった頃だったが、5月の連休中、たまたま、予定が入っておらず、行楽気分で、急遽出掛けたような気がする。
バカチョンカメラ(ポケット型小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、証拠写真?的スナップ写真、数枚しか撮っていなかったようだが、そのプリントした写真が古いアルバムに貼って有り、ブログを始めた頃に一度、スキャナーで取り込んで、ブログに書き込んだことが有った。
その写真、外付けHDに保管されており、改めて引っ張り出して、コピペ、リメイクしてみることにした。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながらも、あの日あの頃を思い出しているところだ。


山行コース・歩程等

奥多摩町営氷川駐車場→本仁田山登山口→大休場→(大休場尾根)→本仁田山山頂→
コブタカ山→大ダワ→十字路→川乗山山頂→大根ノ山ノ神→JR鳩ノ巣駅
(標準歩行所要時間=約7時間)

(昭文社の「山と高原地図」から拝借)

自宅を早朝に出発、奥多摩町氷川駐車場に着いたのは、午前7時30分頃だったようだ。
奥多摩町営氷川駐車場は、30台程度駐車可能の駐車場だったが、連休中とあって、
すでに満車寸前だった気がするが、係員の誘導で危うく滑り込みセーフだった気がする。
JR青梅線奥多摩駅、奥多摩役場、北氷川橋、女天橋、氷川国際ます釣り場、除ヶ野集落等を進み、
8時20分頃、安寺沢集落、ワサビ田の前の「本仁田山登山口」へ。
熊出没要警戒の看板も有り、前後にハイカーの姿も無く、不安が過る。
いきなり、暗い杉林の中、ジグザグ急登が始まった。


途中、明るいカヤトが有り、御前山、鷹ノ巣山、六ッ石山等が、眺望出来た。
9時頃、川乗山から続く尾根、大休場尾根の上、「大休場」に到着。
標高差500m程の急登に喘いだ後で、「大休場」の地名に納得、
夫婦連ハイカーが休憩中で寸談、
コースに仲間が有って、なんとなく安心した気がする。

「大休場」からも、尾根歩きとは言うものの、厳しい登りが続き、
夏のような暑さで汗だくになりながら、ひたすら高度を上げ・・・、
10時15分頃、本仁田山山頂(標高1,224.5m)に着いたようだ。
予想外にも、3~4組の夫婦連れや単独行のハイカーが休憩中で、
結構、訪れる人多いコースであることを知った気がする。

本仁田山山頂からは、一旦下り、やや平坦な尾根道となり、再び急下降、
ところどころに、ミツバツツジは見られる程度で、目立った花も無く・・・、
「鉄砲指」、「コブタカ山」、を通過、
11時頃、「大ダワ」に着き、少休憩、

「大ダワ」から歩き始めて直ぐに分岐が有り、少し下降気味の右コースを辿ってしまったが、
巻き道的なコースで、30分以上時間ロスしたような気がする。
「船井戸」、「水場」、「十字路」を通過、

12時40分頃、川乗山山頂(標高1363.7m)に到着したようだ。
山頂は、細倉橋、百尋ノ滝方面から登ってきたハイカー、登山者で溢れており、
ほとんど、高尾山状態?
ここで、昼食とした。

13時15分頃、川乗山山頂を出発、
「水場」「船井戸」「大ダワ」まで、往路を引き返し・・・。

「大ダワ」から、下り一辺倒、
小さな祠が有る「大根ノ山ノ神」を、15時頃通過、
15時30分頃、JR青梅線鳩ノ巣駅に、着いたようだ。
駅周辺は、ハイカー、登山者がいっぱいだったが、
ほとんどが、青梅、立川、東京方面行き列車待ち、
奥多摩駅方面への乗客は極くわずか、
15時54分発、奥多摩行き列車に乗車、
なんとびっくり、
特別仕立ての普通列車で、車体全体カラフルな絵模様、
座席全席が南向き(多摩川向き)、窓が広い展望車風、
車内には、奥多摩風景写真展を模して、作品が飾られており、
わずか2駅だったが、楽しめた気がする。
16時、奥多摩駅に着いたが、
やはり、青梅、立川、東京方面に帰るハイカー、登山者、行楽客で、
駅周辺溢れかえっており、通勤ラッシュ並み?の混雑。
その中をすり抜けて、駐車場へ。
予想通り、奥多摩街道、青梅街道共、青梅を抜けるまでは大渋滞、ノロノロ運転で、
帰着したのは、19時だったようだ。
あの頃はまだ、「また来る時にも笑っておくれ♫」的な気分だったと思うが、
足、腰、痛!、痛!の今となっては、「本仁田山」も「川乗山」もまた、
遠い思い出の山となってしまっている。
あの日、思い立って訪れていて、本当に良かったと、つくづく思う。

 


誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに

2024年11月05日 17時49分57秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・、になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、数年前から、「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきたが、そのいずれの区分にも属さないとされる歌も沢山有り、引き続き、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにした。


百人一首で、
「春」「夏」「秋」「冬」「恋」を詠んだ歌以外の歌
その12

誰をかも 知る人にせむ 高砂の
松も昔の 友ならなくに

出典
古今集(巻十七)

歌番号
34

作者
藤原興風

歌意
年をとった私は、
いったい誰を友達にしようかなあ、
昔を知っている相手と言えば、
長寿の高砂の松くらいだが、
その高砂の松も昔馴染みの友達ではないことだから。

注釈
「誰をかも(たれをかも)」=「いったい誰を」の意。
「知る人にせむ」の「知る人」は、
自分を理解してくれる人、知己の意。
「高砂の松」=枕詞、
現在の兵庫県高砂市の松のことで、
長寿の松として、歌に詠まれていた。
「友ならなくに」の「ならなくに」は、
「無いことだがなあ」と訳す。
高砂の松を長生きするものの比喩として擬人化し、
老残の孤独、寂しさが、切なく歌われている。


藤原興風(ふじわらのおきかぜ)

日本最古の歌論書「歌経標式」の著者藤原浜成の曾孫。
紀貫之等と共に、「古今集」歌壇、有数の歌人、
管弦の名手、三十六歌仙の一人、


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)