夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

急増する最新の墓「ビル型納骨堂」、初めて私は真摯に学びながらも、私たち夫婦は別の方法で・・。

2018-07-31 16:07:10 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している文藝春秋の公式サイトのひとつ【文春オンライン】を見ている中で、
『 急増する最新の墓「ビル型納骨堂」を選んではいけない  』
と見出しを見てしまった。

私は都心の郊外の調布市に住む年金生活をしている73歳の身であるが、
最寄駅のひとつには寺院が多い街並みとなり、この中のひとつの寺院に於いて、
ここ10年、都心に見られる「ビル型納骨堂」と同じような形態ができて、驚いたのは3年前であった。

私は最新の形態のお墓「ビル型納骨堂」は無知であったので、どのようなことですか、
と思いながら記事を精読してしまった。

この記事は、『老いる東京、甦る地方』(PHPビジネス新書)などで
私が愛読している
牧野知弘(まきの・ともひろ)さんの寄稿文であり、
【文春オンライン】に7月31日に配信され、無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

            

          
《・・(略)人間誰しもが亡くなれば入居するのが墓である。
亡くなった方を想うお盆の季節、今回は墓の問題を考えてみたい。

 
☆毎年40万人減っている

日本の人口は、2015年の国勢調査で初めて減少に向かっていることが発表された。
人口が減少する理由は、生まれる赤ちゃんの数より亡くなる人の数が多い、
つまり「人口の自然減」の状態に日本があることを示している。


2017年の出生数は94万1000人だったのに対して、死亡者数は134万4000人。
なんと日本は人口の自然増減においては、年間で40万人もの純減を記録している。

実際の日本の総人口は、22万人ほどの減少と発表されているが、
この差は在留外国人の数が急激に伸びているからである。

今や日本の人口減を、一生懸命外国人在留者の伸びという「社会増」で、
補っているというのが現代日本の姿なのである。

            

☆今後10年で約1000万人が死んでゆく

さて日本は高齢社会に突入したといわれているが、
この影響は今後死亡者数の激増という形で、社会に様々な問題を投げかけてくる。

1966年(昭和41年)日本の死亡者数は、67万人と戦後最低を記録している。
当時の日本は、戦後生まれの男女が世の中を闊歩する若々しい社会だったのだ。

それがこの50年間で、死亡者数は倍増したことになる。
医療施設が整い、高齢者施設が数多く建設され、長寿社会が実現したとはいえ人間、いつかは死ぬ。
そしてこれからの日本は「死ぬ」可能性の高い人が、激増する状況にあるのだ。


厚生労働省の予測によれば、2040年には死亡者数は166万人と
今よりさらに24%も増加するとしている。

それもそのはずである。
2015年9月総務省の発表によれば、現在国内では80歳以上の人口が1002万人。
対前年比で38万人の増加となり、初めて1000万人の大台を超えたという。

さらに90歳以上の人口は206万人、100歳以上の人口でも6万7000人となっている
(2017年総務省厚労省発表)。

どんなに長寿社会になるからといっても、この数値だけから判断して、
今後10年くらいの間で、1000万人近くの人が亡くなっていくことは、誰が見ても明らかだからだ。


            

☆墓地を作る場所がない!

いっぽう現在、日本の人口の約3分の1が、
東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県で構成される首都圏に集中している。

つまり、今後は首都圏での死亡者数が、激増することが容易に予測できる。
ところが、首都圏で墓地として提供できる土地は、少ないのが実態だ。


墓を持つ側のニーズにも、変化が表れている。
墓地といえば、これまでは地方の実家の近くにある、
あるいは郊外の山などを造成して開発した霊園に多く存在したが、
こうした施設に対する不満も多い。

年に数回の墓参りに行くにも、遠くて交通利便性に欠ける、墓参り時の天候に影響を受ける、
墓の清掃や雑草取りなど手間暇がかかる、土地使用料や墓石代などの費用が高いなど
といった理由が挙げられている。

何事にも合理的に考える世代が台頭していく中で、既存の施設に対する不満が高まっているのである。

            

☆「手軽」、「ハイテク」、「安上がり」の罠

このような状況を反映して、現在人気なのがビル型納骨堂(以下、墓ビル)である。
墓地の形態をとらずに、建物の中に収容する納骨堂は、何も今に始まったものではないが、
最近増加しているのが、ビルを建てて、あるいは既存のオフィスビルやマンションを改装して
建物全体をお墓の収容場所にしようというものだ。

墓もマンションのように、みんなで「一緒に住む」という時代になったのだ。


墓ビルでは、ハイテク化も進んでいる。
以前は建物内に棚を設えて、骨壺などを並べるだけの簡素なものだったのが、
機械化され、参拝者は決められたブースに来て、ICカードで登録番号を読み取ってもらい、
該当するお札などの一式が、目の前に出現するのを待つ。

まるで銀行の貸金庫室に行って、自分の金庫を取り出すときのような感覚だ。
線香などもあらかじめ備わっているので、手ぶらで参っても大丈夫。
何事も手軽に済ますことも、人気の秘訣になっている。


費用も墓地であると区画にもよるが、
墓石などを含めるとなんやかんやで200万円から300万円程度はかかってしまうが、
自動式納骨堂であれば100万円程度。
永代使用権や永代供養料なども含まれているものが多いので、安上がりである。


また近年は少子化が進み、「おひとりさま」需要も増える中、
墓守をする後継者がいない人にとっても、負担が少ないといえそうだ。



さて一見すると、良いことづくしの墓ビルであるが、実は多くの問題を抱えている。
墓地は土地の中に収容されるスタイルであることから、
土地が永遠に存続する限りにおいては、墓としても永久に存続していくことが前提となる。

ところが建物内に収まっている墓ビルは、当たり前のことだが、
建物は「永久不滅」でないということを考えなくてはならない。

            

☆1万基100億円の「おいしいビジネス」

墓ビルは、建物内を自動化して収容力を高めている。
中には1棟で1万基もの収容力を持つビルまであるという。

1基100万円だとして1万基で100億円にもなるのだから、おいしいビジネスともいえる。
だがこれらも「満杯」になったあとは、ひたすら「管理」していくことが必要になる。

一般的には管理費などを徴求する形をとっているが、さて管理費はいつまで取ることができるのだろうか。
最初に永代供養としてまとまった費用を徴求できたとしても、墓守は永遠である。

            


☆大規模修繕できるのか

建物は「有限」であることから、当然のことだが大規模修繕も必要になる。
50年、60年先には、「建替え」も必要となるかもしれない。
そのときこうした費用は、どこから出ていくのだろうか。

墓ビルに対しては、宗教法人施設の敷地内限定とする、
あるいは宗教法人が一定以上関与する法人の所有に限定するなど、規制を施す自治体もあるが、
どのようにして建物を維持管理していくのか、まだ不透明な部分も多いのが実態だ。


建造費や管理費に莫大な資金がかかるため、
約5000基を管理する自動搬送式納骨堂を建造した寺が、破産(福井県永宮寺)したり、
寺院ではなく運営会社が、脱税で逮捕される(大阪府「梅旧院光明殿」)といった事件も起こっている。


維持費用が途絶え、誰も管理せず、放置されるような墓ビルが
将来都内のあちこちに出現したらどうなるのだろうか。

墓ビルが「スラム化」して、お化け屋敷になるなどという笑えない話にもなりかねない。
墓ビルそのものが、都市における大量の「墓碑」そのものになっていくのだ。

永遠に存続することができない器に、
「永久に存在するはずの」お墓を管理していくことの矛盾に、まだ多くの墓ビルが気付いていない。・・》

注)記事の原文、あえて改行を多くした。
            

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
分家のような形で、実家の近くに住んでいる。

しかしながら実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、
たまたま私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りとなる。

いつの日にか、私たち夫婦が亡くなった後、長兄の子供である甥っ子ふたりに何かと面倒をかける、
と思いながら、長らく躊躇(ためら)ってきた・・。
           
やがて
私たち夫婦は、死者は土に還ることがふさわしい、とお墓は樹木葬と決め、
いずれも永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしている。

そして二年前にある里山にある樹木葬ができる一角を買い求めて、
私か家内が亡くなった後は、100年ばかり指定された地に眠り、この後は合同で管理される、
こうした希望で私たち夫婦は、ある寺院と確約している。

                    

そして葬儀に関しては、私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、
和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、とここ15年ぐらい言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職し、早や13年半が過ぎた年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは、遥かに遠い平凡な人生を歩んできたりした。

こうしたことで、遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。

そして私の生家(実家)は曹洞宗なので、やはり生家(実家)の墓地のある寺院の方に読経して頂くが、
通夜、告別式の5分ぐらいの簡略なお経でよい、と思ったりしていたが、
これらを省略しても差し支えないと思ったりする時もある。

こうした私の思いは、葬儀、墓地にも寺院には、わずかに影響すると思われるが、
ここ10数年、従来の形態の寺院が衰退していく事情を真摯に学んだが、
私の諸事情もあり、勘弁して欲しい、というのが本音となっている。


                   

今回の記事で、「ビル型納骨堂」について、初めて私は真摯に学んだりした。

確かに「ビル型納骨堂」の墓、余りにも利便性もあるが、寄稿文を綴られた牧野知弘さんのご指摘通り、
《・・維持費用が途絶え、誰も管理せず、放置されるような墓ビルが
将来都内のあちこちに出現したらどうなるのだろうか・・》こうしたことにも動顛したりした。

やはり亡くなわれた御方は、生きている御方の慰めであったとしても、
従来の墓石のあるお墓が望ましいと私は思ったりしている。

そして私たちのような一代限りで、死後に関係者に迷惑を配慮し、
私たち夫婦は、やむなく樹木葬をし、死者は土に還る・・と思い深めたりしている。

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余命宣告、医師から「1年」、それから5年後も生存している患者の困惑、私は動顛しながら学び、やがて私は・・。

2018-07-30 15:09:01 | ささやかな古稀からの思い

先ほど、ネットでニュースを見ようと、バソコンを立ち上げて、私は【YAHOO! JAPAN】を設定しているので、
トップ画面には、トビックスのニュースが表示されている。

こうした中のひとつには『 余命宣告後も生存 患者の困惑 』と見出しがあり、
どのようなことですか、と私は思いながらクリックしてしまった。

そして記事が表示されて、
『 余命宣告トラブル 医師から「1年」、
             それから5年・・・仕事や財産手放し困惑 』と題された見出しが明記されていた。

やがて私は記事を動顛しながら読み、やがての私が、いつの日にか大病に遭遇して、
余命宣告された時は、果たしてどのように・・と真摯に思い馳せたりした・・。

この記事は、『西日本新聞』が報じた記事であり、ネットに7月30日に配信され、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

《・・余命宣告トラブル 医師から「1年」、それから5年・・・仕事や財産手放し困惑なぜ

             

「余命1年もないと医師に宣告されながら、5年たっても生きています」。


難治性血液がんの成人T細胞白血病(ATL)と診断された男性から、西日本新聞の特命取材班に悲痛な声が届いた。
死を受け入れ、仕事や財産などの整理も済ませたという。

「何も手元に残していない。どう生きていけば・・・」。
そもそも余命宣告とは-。

声を寄せてくれたのは、福岡県久留米市の笠井駿さん(71歳)。
自宅を訪ねると、日記帳をめくりながら経過を説明してくれた。

             

☆2013年、ATLと診断

2013年1月、顔と上半身に、紅斑が現れた。
同県内の病院に検査入院し、難治性血液がんの成人T細胞白血病(ATL)と診断された。
体内にウイルスHTLV1があることは知っていたという。

ATLは、主に母乳を介して感染するHTLV1が原因。
保有して必ず発症するわけではないが、発症すると免疫機能が低下したり、リンパ節が腫れたりする。
根治が難しく、「発症後の平均生存期間は、半年から1年と短い」という研究成果もある。


☆親族に別れの手紙も

笠井さんは
「医師から『次の誕生日は、120パーセント迎えられない』と説明を受けた」と言う。

取引先にあいさつして回り、経営する設計企画事務所を閉じた。
財産は売却したり、子どもに譲ったりしたほか、親族には別れの手紙を書いた。
ホスピスにも一時入所した。

診断から5年。
体に痛みがあり通院しているものの、「死」が訪れる気配は感じていない。

抗がん剤治療の影響で、歩行が難しくなり、車の運転もできなくなった。
生きていることは喜ばしいことだが、
「ATLというのは誤診だったのでは。納得できない」と憤る。

笠井さんによると、双方の代理人弁護士がやりとりした書面の中で、
病院側は「次の誕生日は120パーセント迎えられない」との発言を否定。

「診断に誤りはなく、治療が奏功して、症状が改善した」などと説明しているという。
病院側は、本紙取材に「コメントを控えさせてもらう」とした。

             

☆余命宣告「どんな患者でも動揺」

九州大の萩原明人教授(医療コミュニケーション学)は
「医師が『120パーセント』という言葉で説明することは、一般的に考えにくい」としつつ、
「いさかいの原因は、医師の説明と患者の理解に、食い違いがあったのではないか」と推察する。

一般的に、余命について医師は、
同じ病の患者の平均的な生存期間である「生存期間中央値」や、
診断を受けて5年後や10年後に生存する患者の比率を示す「5年生存率」、
「10年生存率」を説明する場合が多いという。

過去の多くの患者から計算された平均的なデータにすぎないが、
「個人差があることを考えずに、受け取られる恐れがある。
医師は工夫が必要だ」という。

患者の心理状態も影響する。
「どんな患者でも動揺する。
医師の説明を、自分が理解しやすいように、楽観的に解釈する場合もあるし、
悲観的に捉えて、頭に刷り込むこともある」

             

☆「財産整理など、大きな決断する前に第三者の意見を」

トラブルを避けるには、医師の説明を若い人も交えた複数人で、聞くことが有効とされる。
病院の相談窓口や、同じ病気を患う患者団体で、悩みを打ち明けることも患者の負担を和らげる。

患者が主治医以外の医師から意見を聞くセカンドオピニオンもあり、
「財産整理など、大きな決断をする前には、第三者の意見を求めた方がいいかもしれない」と萩原教授。

終末期医療に詳しく、在宅ケアに取り組む「にのさかクリニック」(福岡市)の二ノ坂保喜院長は
「信頼関係は当然必要だが、医師の言うことはあてにならないと思うくらいでいい」と言う。


☆「患者自身も賢くなる必要がある」

HTLV1撲滅を目指すNPO法人スマイルリボン(鹿児島市)の菅付加代子代表は
「患者は、医師の説明をうのみにせず、最終的には自分で判断しないといけない。
患者自身も賢くなる必要がある」と話している。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は年金生活の73歳の身であるが、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、ささやかに過ごし、
そして私たち夫婦は、幸運に大病に遭遇せずに今日を迎えている。

私の父は、私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死された。

私の母は、私が54歳の時、婦人系の癌で広尾にある赤十字の病院で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月中旬に亡くなった。

この母の病状に関しては、最初に入院した後に、兄と妹ふたりと共に私は病院に出向き、
担当医師から、治療はできる限りしますが残念ながら長くはないです・・と
私たちに告げられたりした。

そして母には悪性の腫瘍と告知されていたが、やがて治療過程で母は癌であることは、
気づいたと思われたが、私たちには言葉にはしなかった。

こうした中で、母が自宅にいる時は、従来のペースで私たちは訪れたり、
入院している時は、私、家内とか、ときおり訪れたりした。

やがて亡くなる一年前の晩秋に、妹ふたりは母を誘い、奈良と京都を訪れ、
母と娘の旅路をしたりした。

この時の元気そうな笑顔を浮かべた母のスナップ写真を、私は妹から3枚頂き、
今でも居間にある本棚の一角に掲げている。

             

今回の記事を読み終わった後、いつの日にか私が大病に遭遇して、
たとえば医師から、余命1年、と宣言されたならば・・と思い馳せたりした。

そして何かと気弱な私は動揺して、うつろな日々を過ごして、
やがて数か月過ぎた頃から、残された家内の今後の生活・・、
そして私の終末期として、身辺を整理する・・、と漠然と思い馳せたりした。

私は定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、まもない時、
私は、いつの日にか私は、家内より先にあの世に旅立つことを思い、
残された家内が生活に困苦しないように、私は公正証書の遺言書を作成したりした。

こうした理由には、亡き母が生前に遺産などで困苦した時代もあり、
或いは親戚に当たる兄弟間で、相続で長らくもめて、やがて裁判までなった、
と私は聞いたりしていたからである。

このような私が亡くなった後、このようなことを避けたく、
水戸黄門様の紋章のような公正証書の遺言書を作成したりした。


私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、一代限りの身であり、

私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ15年ぐらい言ったりしてきている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。

その後、四十九日の納骨が終われば、何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された家内は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。
 

こうした中で、家内には老朽化した我が家を処分して、マンションの小さな部屋を買い求めて、
生きがいとして趣味を強くして、老後を過ごして欲しい、と私は幾たびも言ったりしてきた。

             

このように残された家内の今後の生活には、ある程度は想像はできるが、
肝心の私の終末期として、身辺を整理することに関しては、思い馳せたりしたが、
やはりその時の揺れる心とふるまいの状況は、
その時になってしまった時しか、判らない、と思ったりしている。

まして今回の記事のように、医師から、余命1年、と宣言され、
不安な病状と心を共にしながら、私は年金生活の中で、入退院を繰り返す日々・・
やがて5年の歳月を迎えることが出来た時の深情は、私は想像を遥かに超えてしまう・・
と思い馳せたりした。

コメント (2)
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セカンドライフのゆとりある時間の過ごし方のひとつ、映画鑑賞のおトクな割引制度を学び、やがて微笑み返し・・。

2018-07-29 14:26:07 | ささやかな古稀からの思い

 先程、ときおり愛読しているネットの【ファイナンシャルフィールド】を見ている中、
『 映画鑑賞は、老後のゆとりある時間の過ごし方のひとつ!
                 おトクな割引制度をおさらいしてみましょう 
』と見出しを見たりした。

私は年金生活の73歳の身であるが、セカンドライフのゆとりある時間の過ごし方には、
それぞれの御方は自在にお過ごしと思いながらも、私なりに関心があるので、
記事を精読してしまった。

この記事は、AFP認定者(補足・ファイナンシャル・プランナーとして必要かつ十分な基礎知識を持ち、
相談者に対して適切なアドバイスや提案ができるファイナンシャル・プランナー技能を習得した者に与えられる資格)の
上野 慎一(うえの・しんいち)さんの寄稿文であり、
ファイナンシャルフィールド】に7月29日に配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・
昨今は長寿高齢化が進展して「人生100年時代」へ。

結果として余生期間、すなわちセカンドライフがより長くなります。

そのため、そこに向けての準備やいざ迎えた時の心構えなどが、
以前よりも多く世の中で語られているようにも思われます。

◎リタイアすると時間にゆとりができますが、問題はどう過ごすかでしょう。

             

退職してリタイアすると、時間にゆとりができます。

退職したり、年をとったりしてよかったと思うことを聞かれた際に、
「時間にゆとりがある」という声が圧倒的に多いようです。

そのほか、「ストレスが少なくなった」、「趣味や好きなことを楽しめる」、
「心のゆとりができた」などもあるようですが、それらも時間的ゆとりが、もたらしたものといえます。


時間にゆとりがあるのは結構なことですが、
いきなり「毎日が日曜日」の状態に放り込まれると、日々の過ごし方に戸惑いあがくこともあるでしょう。


セカンドライフを本当に楽しく充実したものにするためには、
「自発的にやりたいことが20個ほど必要」との意見を聞いたことがあります。


その中身のバランスも大切で、夫婦で一緒にできるもの、仲間たちと楽しむもの、一人でできるもの、
身体を動かすもの、静かに楽しむもの、屋外型、屋内型などなど、
要は引き出しを、いかにたくさん用意できるかがポイントのようです。

             

◎映画鑑賞をシニア層がおトクに楽しめる制度とは・・・

映画鑑賞も、このような引き出しの有力なひとつに数えられるでしょう。

新作映画でも、公開開始後に数カ月~1年以内程度には
DVD化やネット配信される時代ですが、やはり封切りを映画館でいち早く、
そして迫力ある画面と音響で鑑賞できるのは格別です。


そんな映画鑑賞をシニア層がおトクに楽しめる割引制度として代表的なものは、次のとおりです。


1.夫婦50割引
<利用できる映画館>大手系ほか多くの映画館(※)
<利用できる年齢>夫婦どちらかが50歳以上(同時間に同一作品を鑑賞する場合に限る)
<割引内容>夫婦2人分で2200円に割引


2.ハッピー55(G.G)
<利用できる映画館>イオンシネマ
<利用できる年齢>55歳以上
<割引内容>1100円に割引(一部、対象外となる作品あり)


3.シニア割引
<利用できる映画館>大手系ほか多くの映画館(※)
<利用できる年齢>60歳以上
<割引内容>1100円に割引

(※)利用できることを事前に確認しておくと無難です。

映画割引は上記以外にも、特定の日にち・特定の曜日・特定の時間帯、レディースデー、
あるいは各映画館グループのマイレージ・ポイント・クーポンなどのメンバーカード制度
(入会金・年会費ほかの費用がかかる場合あり)、携帯電話やクレジットカードなどの会員特典、
会員制割引優待サービス、前売り券、個別の映画館や映画作品で用意されているもの…などなど、非常に多くの制度が設定されています。


また、各映画館グループ会社の株主となって、株主優待券で映画を楽しむやり方もありますね。

             

◎まとめ

一般社団法人日本映画製作者連盟(映連)の公表(2018年1月)によると、
2017年の映画入場人員数は1億7400万人あまりでした。


単純に割り算すると、映画館に足を運ぶ回数は、国民一人当たり年間1.4回足らず。
ピーク時(1958年)の同人員数11億2700万人あまりに比べると、見る影もありませんが、
時代や娯楽の中身、そして映画そのものの視聴形態も大きく変容したということでしょう。


数カ月前、筆者も一人で(「シニア割引」を利用して)映画館に足を運びました。

先ほどご紹介した3つの割引制度は、年齢要件さえ満たせば映画料金(現在の一般料金1800円)が
いつでも回数無制限で40パーセント近くも割引される、大変おトクな制度です。


ゆとりある時間を有意義に埋めてくれる楽しみのひとつとしても有用でしょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私は民間会社で35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、

多々の理由で年金生活を始め、早や14年生となった身である。

午前中のひとときは、我が家の平素の買物を自主的に担当となり、
家内から依頼された品を求めて、私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている
買物メール老ボーイとなっている。


この後は、帰宅後も私は独りで外出して、自宅から3キロ以内の周辺にある住宅街、遊歩道、小公園などを
本格的に意識して、歩き廻り、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

 

             
          
やがて午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、ブログの投稿文を綴ったり、数多くの御方の投稿文を読ませて頂き、
多々シニア世代の日常生活を学び、人生の確かな教科書と学んだりしている。

私は恥ずかしながら青年時代に、映画、そして文学青年の真似事をして敗退し、
やがて音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めた為か、
書物やビデオ・テープ、DVDなどの映画作品、或いはレコード、カセット、CD、DVDなどの音楽作品は、
程々に所有している。

たとえば、その日に観たい映画は、居間にある映画棚が引き抜いて、
少し大きなテレビ画面を通して、鑑賞している。

             

そして私なりのつたない鑑賞歴でも、魅了された作品は、何回でも観るタイプである。

例えば邦画の場合は、『二十四の瞳』、『東京物語』、『浮雲』、『雨月物語』等である。

洋画に関しては、『街の灯』、『市民ケーン』、『第三の男』、『逢びき』、『ライムライト』、
『ジョニーは戦場に行った』等は、10年ごとに観たりしている。

或いは最初の一ヶ月に於いて、少なくとも10回以上熱中して観る映画もある。
邦画の『七人の侍』、『用心棒』、『駅~STATION~』、
洋画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『ディア・ハンター』、
『ゴットファーザ Ⅱ』などが鮮明に記憶に残っている。
               
このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966(昭和41)年頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。

             

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。

そして私は、その時に観たい映画作品は、何故かしら、やはり季節に応じて観てしまう。
          
冬の季節の時などは、『アラビアのロレンス』、『プラトーン』、
『イングリッシュ・ペイシェント』等の砂漠、荒野、ジャングルの背景が多くなる。

そして夏の時節は、『ドクトル・ジバコ』、『カサブランカ』、『かくも長き不在』等の
寒冷地、静寂な戦争を背景にした選定が多くなったりしている。

不思議なことであるが、猛暑の夏の時、『アラビアのロレンス』の砂漠、
『戦場にかける橋』の熱帯林の背景は、やはり暑くて落ち着かないのである。

かといって、居間を寒いぐらいに冷房を冷やして、
鑑賞するのは映画の内容からして、おかしな事と思ったりしている。

このようにして私は鑑賞しているが、1950年代、1960年代の公開された作品が圧倒的に多く、
ときおり私は、どうしてかしらと微苦笑したりしている。

                          

そして私の拙(つたな)いなりの観賞歴であるが、過ぎし年に私はベストテンを勝手に選定している。

映画専門雑誌の名高い『キネマ旬報』の1999年10月上旬特別号 として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の外国映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の洋画のベストテンである。

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)
②『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)
③『イングリュシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ監督(1979年)
④『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン監督(1993年)
⑤『かくも長き不在』アンリ・コルピ監督(1961年)
⑥『街の灯』チャールズ・チャップリン監督(1931年)
⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)
⑧『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ監督(1948年)
⑨『ジョニーは戦場へ行った』ドルトン・トランボ監督(1973年)
⑩『逢びき』 デイヴィッド・リーン監督(1945年)

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、
もとより酷な作業で、『時』が人生にもたらす影響をヒントに選定したが、
いずれがベストワンになっても良い作品とも思ったりしている。

そして選定の際に於いて、 『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)、
『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)、『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)、
『許されざる』クリント・イーストウッド監督(1992年) 、『カサブランカ』マイケル・カーチス監督(1943年)等は
最後まで検討させられた作品でもある。 《1999年9月29日、私の日記より》

そして小説、映画、音楽などの選定する時は、その人の性格、人格、思想を表わす、と改めて気付かされたりしている。

             

この後も、キネマ旬報』の1999年10月下旬特別号として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の日本映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の邦画のベストテンである。

①『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)
②『用心棒』黒澤 明・監督(1961年)
③『人間の條件(全六部作)』小林正樹・監督(1959~61年)
④『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)
⑤『七人の侍』黒澤 明・監督(1954年)
⑥『浮雲』成瀬巳喜男・監督(1955年)
⑦『雨月物語』溝口健二・監督(1953年)
⑧『飢餓海峡』内田吐夢・監督(1964年)
⑨『切腹』小林正樹・監督(1962年)
⑩『砂の器』野村芳太郎 ・監督(1974年)

洋画と同様に、【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定したが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品でもある。《2003年8月16日、私の日記より》

こうした選定作業の時、その人の人生を歩いてきた思考の全てが反映する、と改めて感じたりした。

このように当時の私は選定したが、邦画に関しては、ここ数年は、
小学5年生の時に、独りで映画館で観た『楢山節考』木下恵介・監督(1958年)が、
私のベストワンだ、と思い返したりしている。

                          

今回、記事を読み終わった後、映画館で映画を鑑賞しょうと思ったりしたが、
ここ10年、映画館に行くのがおっくうとなり、
後日にソフト販売店で年に3枚前後DVDかブルー・ディスクを買い求めて、
我が家の居間で鑑賞しているのが実態となっている。

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匿名で運営しているブログ、本名をばらされたら賠償請求できる?、ブログ14年生の私は学び、やがて微苦笑して・・。

2018-07-28 15:23:01 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの【ファイナンシャルフィールド】の『暮らし』を見ている中、
『 匿名で運営しているブログやSNS。
             本名をばらされたら賠償請求できる? 
』と見出しを見たりした。

私はブログを投稿して早や14年目になる年金生活の73歳の身であるが、
好奇心に負けて、精読してしまった。

この記事は、【ファイナンシャルフィールド】の編集部が、弁護士の石垣美帆(いしがき・みほ)さんに監修を得て、
まとめられた記事で、ファイナンシャルフィールド】に7月27日に配信され、無断ながら転載をさせて頂く。

《・・
ハンドルネームを使って、ブログやSNSを利用している人もいますよね。 
実名でないからこそ、自分の作品をネット上で公開したり、
思ったことを自由に発信できる面もあるのではないでしょうか。

 
しかし、閲覧者の中には、有名なブロガーや人気のSNS利用者に対して、
中傷したり、個人情報を明かそうとしたりする人もいます。

もし、匿名で活動している人が、ネット上で本名をばらされたら、
相手に賠償請求することは可能なのでしょうか。

 
             

人気主婦ブロガーのMさんの例を見てみましょう。

カリスマブロガーのMさん。ある日ネットで本名をばらされて・・・。  

Mさんは、小学生の子どもをもつ専業主婦です。 
子どもが学校に行っている間は、暇を持て余していたため、
趣味の料理をテーマにブログをはじめました。

本名を出すのは気が引けたため、ハンドルネームを使っています。

 
何の気なしにはじめたブログでしたが、口コミで人気が広がり、
ついにはブログの広告収入で、月数十万円稼ぐほどに。
先日は出版社から料理本発売の話が来たところです。

 
誰もがうらやむシンデレラストーリーを実現したMさんですが、
その成功を妬む人たちも現れました。

ネットの掲示板では、悪口を言われることもしばしば。
Mさんは、極力そのようなものは、見ないようにして過ごしました。

 
しかし、ある日のことです。
小学校の保護者会で、あるママ友が声をかけてきました。
 
「Mさん、ネットで本名晒されてるけど、大丈夫?」
 
Mさんは、ぞっとしました。
家に帰ってパソコンを開くと、ブログのコメント欄に、
Mさんの本名と年齢、住んでいる地名が、書き込まれていました。

慌てて削除したものの、すでに他の掲示板やSNSで、拡散されてしまったようです。

 
今までも批判的なコメントはありましたが、
本名で悪口を言われるのは、精神的なダメージが比になりません。

Mさんは、本名をばらした人に対して、強い憤りを感じました。
相手の身元を明らかにして、損害賠償を請求するつもりです。

*物語はフィクションです。

              

匿名で運営しているブログやSNS。本名をばらした人に対して賠償請求は可能なのでしょうか。
東京桜橋法律事務所の石垣美帆弁護士にお伺いしました。

このようなケースで損害賠償を請求することは、可能だと思います。 
自己の情報をコントルールする権利があると考えられるため、
プライバシーの侵害として、請求できるのではないでしょうか。

 
賠償請求の金額に関しては、ケースバイケースであるため、状況によって異なります。
匿名で活動している人の本名をばらした人に対して、損害賠償請求することは可能

Mさんのようなケースでは、損害賠償請求することが、可能だということが分かりました。
 
ネット上だから問題ないと軽い気持ちで、人の個人情報を書き込んだり、
誹謗中傷したりしてはいけません。

みんなもやっていると高をくくっていると、逮捕されたり、賠償請求されることもあります。

 
また、Mさんのように、誰にも知られず、ネット上で活動したいという人は、
プライバシーの管理に気を付けましょう。
もし被害に遭ってしまったら、弁護士に相談することも検討してみてください。・・》

 
T注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたりした・・。

やがて年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、殆ど毎日投稿してきたので、
早や丸13年半となっている。
                     

我が家に於いてインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。

この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったりした。
          
そして年金生活を始めて間もない時、ネットの世界にも殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

こうした根底には、自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

              

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
 
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

                 
    
そして私は、2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

タイトル名の『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』に於いて、~団塊世代のひとりとして~、と副題をしたのは、
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、大学の新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、それぞれの時代の苦楽を共にした心情が根底にあったりした。

この当時、インターネットのWebの世界に未熟な私は、
ブログの知識のないまま戸惑いながら投稿をはじめ、日記投稿欄の書き込み、送信に、
この当時は幾たびかエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、何度も書き直し投稿をしたりした。

この間、初めてコメントを頂いた時、喜び小躍(こおど)りしたりしていたが、
まもなく賞金ランキングのような形式が公示され、私のブログの思いの主旨と違うので、投稿をやめた。

                      

そして私は他ブログ・サイトを探し、ブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したり、
或いはブログ・サイトの【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入し、
『年金青年のたわむれ記』とタイトルを掲げて、無知なりに1年近く政治、経済など難題を投稿した。

この当時の【gooブログ】は、入会している会員数は確か100万人であり、
ブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】は、こじんまりとした10万人ぐらいの会員数であった。

私は個人的な幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
お読み頂いた方に、リアルな私を判明しずらい会員数の少ない【goo簡単ホームページ】を選定した。

                       

私はブログの投稿文を綴ることの内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも、ときには書くことのためらう影の内容を秘めたりしている。

たとえば幼児の時は、何かといじけたことが多く、
やがて小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であったりした。

そして私は若き20代の前半に文学青年の真似事した時期、新人賞に応募し、
最終候補6作品の寸前で3回ばかり落選し、敗退したりした。

或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて成人して、
里子先で結婚されて、やがて私たち兄妹の母親となったりした・・。

または次兄が自営業の資金繰りに失敗し、自室で睡眠薬を多量に飲み自裁した。

この当時の私は住宅ローン返済で苦慮していたので、
次兄から私を資金に関しては無力と感じとられて、結果的には私としては何の役にも立てずにいた・・など、
私なりに心に秘めてきた屈折した出来事を、余すことないように投稿してきた。

こうした出来事のことは、小心者の私としては、匿名であることで初めて発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。

                       

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私はここ11年半近く、発信名は『夢逢人』と命名したりした。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたように恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。

                        

この間、幾たびかブログサイトに彷徨(さまよい)い2010年(平成22年)の7月から、
この【gooブログ】に於いて統合して、やがて7年半前の頃に『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』と
タイトルを改名した。

やがて、いつまでも年金青年は違和感がありと思い、
『夢逢人かりそめ草紙』とタイトルを短縮して、現在に至っている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、殆ど毎日投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

                       

こうした中、確か4年半前の頃、電子メールで、XXさんと思いますが、後輩のXXです、
と私が35年近く勤めていた音楽業界のあるレコード会社の後輩のひとりから、
丁重なお便りを頂いた。

何かしら私のブログの投稿文を偶然に読み、
リアルの私本人が判明し、会社時代の最近更新された名簿録から、電子メールのアドレスが解り、
私宛に後輩本人の近況を含めて、お便りを送信された、と私は知ったりした。

そして私は匿名の投稿文でも、ありのままの真情の投稿文を重ねると、
リアルな本人は判明してしまった、と少しばかり微苦笑させられたりした・・。
         
たとえば勤めていた音楽業界のレコード会社の各社に於いて、
私の定年後に、ある他社のレコード会社の社長が自裁されたり、
或いは他業界からあるレコード会社の買収案が新聞紙上でニュースになった時、
無力な私でも、いたたまれない心情となり、私は幾つかの投稿文を発信したりしてきた。

こうした私の投稿文をお読み頂ければ、現役サラリーマン時代の先輩、同僚、後輩、
そして知人は、あの人だ、とリアルの私本人は判明してしまう。

或いは私の現役時代の最後の5年間は、リストラ烈風の中、
私は出向となり、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社に勤めた私が、
この当時の真情をくまなく投稿文に綴ってきたので、
やはりリアルの私本人は、一部の方に判明してしまう、と思われたりした。

                       

こうした中で、私は定年後の年賀状を発信する時、私の近況を書く中で、
《・・このような身過ぎ世過ぎの年金生活をして、あふれた思いをブログの投稿文を重ねたりし、
生きがいのひとつとなっています。・・》
このような意味合いの文を11年ばかり綴たりしてきた。

このような状況であるので、先輩、同僚、そして知人の中の人たちの一部に於いて、
私のブログの投稿文を偶然に読み、リアルな私を判明し、微苦笑されていると思われる。
そして私にあえて告知せずに、静観して、お読み頂いている、と私は思ったりしている。

                       

私は今年の9月に誕生日を迎えると、恥ずかしながら74歳を迎える。

そして私は残された人生の歳月は、自助努力も肝要であるが、もとより神様か仏(ほとけ)さまの采配に寄る。

こうした中で、私はブログに関しては匿名であろうと、リアルの私本人が判明しょうが、
これまでと同様に、脚色もないありのままの思い、そして真情を投稿文に認(したた)めようと、
早や4半年が過ぎて、微苦笑を重ねたりしている。

            


今回の記事、
カリスマブロガーのMさんの状況に、私は苦笑しながら震撼させられたりした・・・。 

ブログの世界には、アフィリエイトと称せられる投稿文で収入を得る制度があり、
たまたまMさんの優れた投稿文は多くの御方に読まれて、カリスマブロガーとなり、
月に数10万円の収入を得る程になった。

こうした中で、掲示板に悪口をコメントされたり、
やがてリアルな御本人Mさんを暴露され、もとよりMさんは困窮している・・このように私は解釈したりした。

私はMさんのように才覚が乏しく、多くの御方に読まれていないが、
もとより私は収入を得る為に、投稿文を重ねていないので、
カリスマブロガーのMさんは、月に数10万円の収入を得ているのが、ある一部の御方に嫉妬された結果、
恐怖の報酬のような魔界の出来事と私は思ったりしている。

            

つたない私の投稿文に於いても、
コメント上で私は卑劣なコメントを幾たびも受けたりしてきた。

たとえば2005年(平成17年)の当時に、
あるブログに準じた簡易サイトに加入していた時、コメント欄に書き込みをして頂いた方があった。
《 タイトルは、《あいうえお》
  内容は、ゲボリッチ
      ゲボリッチャン
  発信人は、f4rr
  発信時間は、20.39 》
と綴られて、ご丁寧に8回連続されていた。

この時、私はこれには、困ったなぁ、と感じたりした。
私は大学中退の身であるが、書き込みをされた方は、たとえ大学、大学院などを卒業されても、
心の貧しい人と思っている。
          
或いは私の投稿文について、確か10年前の頃だったと思われるが、
文節が良くない、文法を無視することもある・・などと執拗に幾度かコメントされたことがあった。

私はつたないながら独創的な文体を目指(めざ)して、今でも悪戦苦闘しているが、
高等学校の国語の文法の先生のようなことをコメントするなよ、と私は無視したりした。

そして7年前に於いて、同一のお方からコメントを頂いたが、
私を精神XX病・・と書かれた上、ご丁寧にもある大学病院の10ぐらいの科を記載されていた。

そして私は、これには困ったなぁ、と苦笑しながら、コメントを削除した。

            

このようにネットの世界は、なんでもありの不思議な世界であり、
たとえと匿名の多いブログの投稿文であっても、心の貧しい方がいるので、やむなく私は苦笑して、
早や13年半が過ぎている。

コメント (2)
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お湯ではなく、水を使って急須で淹れる「冷やし茶」、30数年ぐらい愛飲している私は、微笑み返しをして・・。

2018-07-27 13:20:32 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの【@DIME】を見たりした中で、
『 お湯ではなく水を使って急須で淹れる「冷やし茶」のススメ 』と見出しを見てしまった。

ここ30数年ぐらい、私は熱い季節には、水道水を使って煎茶を淹れる美味しさを体験しているので、
同じような方法かしらと思い、記事を精読してしまった。

この記事は、日本茶アーティストとして名高い茂木雅世(もき・まさよ)さんの寄稿文であり、
@DIME】に7月27日に配信され、無断であるが記事の前半を転載させて頂く。

《・・
「お茶」と聞くと、あたたかい飲み物というイメージを持つ人が多いようですが、
そんな多くの人達に、声を大にして伝えたいことがあります。

「夏に飲むキンキンッに冷やしたお茶こそ、死ぬほどおいしいのだーー!!!!」
ということで、今回は、読み終わった頃には、すぐに真似したくなること間違いなしの、
「夏のスペシャルお茶レシピ2018」を大公開しちゃいます。

実は意外と知られていないのですが、
急須を使って淹れる「葉っぱのお茶」は、お湯だけでなく、お水でもおいしくはいります。

                 

もちろんお湯より、お茶がはいるまでの時間は長くかかりますが、
お茶の葉によっては、1時間~2時間で水出しのおいしいお茶が
出来上がってしまうものもあるんです。


もしお家に余っているお茶があれば、水出し用のお茶のボトルなどにたっぷり入れて、
お水を注ぎ、手始めに一晩冷蔵庫に置いてから、飲んでみてください。
苦みもなく、甘くておいしいお茶ができあがるはずです。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
                 

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

確か30数年前の頃、私はサラリーマンで奮闘していた熱い季節、
帰宅して後、洗面した後、着替えて浴衣となったりした。

そして冷蔵庫に冷やしてある急須に入った煎茶を飲んだりして、
ほっと一息を私は付いたりした。

何かしら家内が大きめの急須に煎茶を淹れて、台所にある水道水を入れ、
冷蔵庫に保管しているだけであった。

この冷えた煎茶が美味しく、これ以来、この暑い季節には私は愛飲している。

この間、
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めると、
午後からは、何かと家に居ることが多くなったりした。

そして翌年の初夏、
家内は冷茶用に1リットル入り前後のポットを買い求め、
煎茶を多めに入れ、水を入れて、冷蔵庫で保管する簡略方法としている。

こうした日常生活の中、私は大き目の湯呑茶碗で、この時節は日に7杯前後は飲んだりしているが、
アイス・コーヒーも2杯程度は頂いている。

                 

コーヒーに関しては、手軽なインスタントのゴールド・ブレンドを50年近く愛飲しているが、
アイスに限り、水に溶けやすいエクストラとし、
多少のコーヒーの香りと濃い味でブラックで飲めれば、私は充分である。

このような安易な方法で、お盆に冷茶とアイス・コーヒーを乗せ、
居間にあるパソコンの置いてある少し大きめ机の脇の近くに、
或いは食卓用の大きなテーブルに置いたりしている。

余談であるが、外出で駅前に出たりする時は、
駅前に多くあるコーヒー・ショップの『ドトール』を殆ど利用しているが、
Lサイズのアイス・コーヒーにガム・シロップをひとつだけ入れて、飲んだりしている。

そして、遊歩道、公園の散策、国内旅行先に於いては、
ペットボトルの煎茶の伊藤園かサントリーの『濃い味』を愛飲している。
こうした中、自動販売機などで、この『濃い味』にめぐり逢えない時、何故か悲しくなる。

このような熱い季節の飲み物を愛飲しているので、
たまたま今回、日本茶アーティストとして名高い茂木雅世(もき・まさよ)さんが、
水を使って急須で淹れる「冷やし茶」の記事に、
確かに美味しいですよねぇ・・と私は微笑み返しをしてしまった。

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『タメ口』って・・どういう意味合いの言葉なの、高齢者の私は、昨日初めて知り、動顛して・・。

2018-07-26 13:48:57 | ささやかな古稀からの思い

昨日、私はブログの投稿文に於いて、
『   昭和生まれ、平成生まれの言動の差異、昭和19年生まれの私は、微苦笑しながら多々教示されて・・。 』
と題して投稿したが、ひとつだけ意味合いが不明であったりした。

・・昭和生まれ(500名)に、“この人は平成生まれだな”と感じる言動を聞いたところ、
5位「上司にタメ口で話す」(28.0%)・・恥ずかしながら私は無知で、
この『タメ口』って・・どういう意味合いの言葉なの、と思ったりした・・。

この夜、私は少し気になり、ネットで調べたりした。

そして『実用日本語表現辞典』に寄れば、
《・・タメ口
み方:ためぐち

敬語や「です」、「ます」などの丁寧体含まないような話し方総称
特に、目上相手年上相手に対して
同年齢の友人接する時と同じような話し方をすることを指す場合が多い。

「タメ口でしゃべる」、「タメ口でいいよ」などと使われる。・・》

このように明記されていたが、私は少し認識力が衰えた為か、
少し抽象過ぎると思ったりした。

             

この後、私は Yahoo! JAPANの『Yahoo! 知恵袋』に縋(すが)り、
具体的な意味合いを調べたした。

まもなく、ベストアンサーに選ばれた回答、読んだりした・・。

《・・ID・・非公開さん 2004/7/13

会社の部下から上司に、あるいは学校の後輩から先輩に、--といった感じで、
本来なら「敬語/丁寧語」で話さなければいけない場面で、
あたかも同僚や同級生に対するように話すこと。

<例>
上司「●●くん、この書類なんだが」
部下「え?なに?」
上司「あ、いや。数字が間違ってるんだよ」
部下「あ、ゴメンゴメン。間違えちゃった」
上司「いや、間違えちゃったじゃなくてだなぁ」
部下「いいじゃん、人間なんだから間違いぐらいあるでしょ」
上司「.....」
部下「あれぇ?課長、どうしたの、急に黙っちゃって。あ、分かった。図星だからでしょ」
上司「(怒)」・・》

             

この例文を私は読み終わった後、動顛しながら『タメ口』の意味合いを、
生まれて初めて理解した。

私は昭和45年(1970年)の4月、民間会社に中途入社したのは、25歳の時であり、
上司、先輩を見習って、少しでも早く職場に馴染めるように、私なりに奮闘したりした。
職務の内容はもとより、言葉遣い、勤務動作まで、習得するように心がけてきた・・。

そして私は35年ばかりサラリーマン時代を過ごしたが、
このような『タメ口』に関して、余りにも人格が欠けた言葉は、部下、後輩からも、もとよりなかった。

             
 
私は平成16年(2004年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めた身であるが、
ここ20数年、たまたまテレビの番組を視聴したり、日常生活の外出などで耳にするたびに、

私は気になり、険悪する言葉のひとつがある。

『ムカツク』・・この表現も険悪する。

このような言葉を口にだしたら、相手の御方は・・
こうした心情を思えば、少なくとも大人と思う人は使えないはずである。

私の現役のサラリーマン時代の50代の前半期、職場で若い30歳前後が10数名がいて、
初めて『ムカツク』という言葉が聴こえた時、
私は感性の乏しい人、人格形成の薄さを感じてしまったりした。

そして定年退職の7年前頃、街中で若き女性同士が立ち話しをして、
この『ムカツク』と蓮(はす)っ葉な言葉が聴こえた時、私は動顚しまったりした・・。


私の幼年期の頃、農家で育った中で、言葉が乱暴であったりした時、
祖父、父はもとより、近所の小父さん、小母さんから叱咤を受けたりした。

『その言いかたは何だ・・言葉を粗末にするなぁ・・』
と私はたとえ5歳の幼児であっても、小突(こづ)かれたりしてきた・・。

私は言葉ひとつとっても、貧富とか社会の地位とかは関係なく、
その御方の人格を表わす、と確信している。

             

このように私は信愛しているので、年金生活の中でも、
私は亡き母の遺伝を素直に受け継いで、恥ずかしながら男の癖におしゃべりで、
平素は何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策している中、情景にみせられてデジカメで撮ったり、
或いは休息にベンチで座ったりしていると、見知らぬ男性とか女性グループの御方たちと、
話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、殆ど毎日過ごしている。

こうした中でも、ご近所の奥様、ご主人など、もとより心の節度が配慮しながら、
明るく談笑したりしている。

特に見知らぬ男性とか女性グループの御方たちとは、一期一会であり、
言葉づかい、しぐさの節度を十二分に配慮しながら、明るく談笑したりしているのが実態となっている。

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昭和生まれ、平成生まれの言動の差異、昭和19年生まれの私は、微苦笑しながら多々教示されて・・。

2018-07-25 15:34:48 | ささやかな古稀からの思い

先程、ソニー生命保険が2018年5月8日、「平成生まれ・昭和生まれの生活意識調査」の結果を公表されたのを、
たまたま私は読んだりした。

何かしら全国の平成生まれの男女(20歳~28歳)と
昭和生まれの男女(52歳~59歳) を対象にした調査で、
両時代生まれの人たちの間に横たわる、価値観や人生に対する考え方の違いを明らかにしている。

こうした中で、私が一番興味を深めたのは、『昭和生まれからみた平成生まれ』、
そして『平成生まれからみた昭和生まれ』の言動のおける調査の結果であった。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
こうした関係で息子、娘にいなく、まして孫もいないので、何かと世間の疎(うと)くなっている。

このような私でも、好奇心ばかり強く、どのようなことですか、と思いながら、
精読してしまった。

無断ながら、この部分を転載させて頂く。


             

《・・・【昭和生まれからみた平成生まれ・平成生まれからみた昭和生まれ】

それでは、昭和生まれは平成生まれを、
平成生まれは昭和生まれをどのように感じているのでしょうか。


まず、昭和生まれ(500名)に、“この人は平成生まれだな”と感じる言動を聞いたところ、
1位は「すごい、感動などの意味で『ヤバイ』と言う」(45.6%)でした。

昭和生まれにとっての“ヤバイ”は、
“不都合だ”、“危ない”など、もっぱらネガティブなシチュエーションで使う言葉だったため、
美味しい料理や、感動的なシーンを前に、“ヤバイ!”を連発する平成生まれに、
戸惑っているかもしれません。

以降、2位は「固定電話を持っていない」(40.2%)、
3位は「驚いたとき『マジっすか』と言う」(36.4%)、
4位「ニュースは新聞よりネットで見る」(31.0%)、
5位「上司にタメ口で話す」(28.0%)となりました。 (図28)
 

(図28)



              

また、平成生まれ(500名)に、
“この人は昭和生まれだな”と感じる言動を聞いたところ、
1位「あたり前田のクラッカーと言う」(41.8%)、
2位「カップルのことをアベックと言う」(38.6%)、
3位「『D』の発音を『デー』と言う」(36.6%)、
4位「飲み会の席で頭にネクタイを巻く」(31.2%)、
5位「『ザギン』(銀座のこと)など業界用語を使う」(30.4%)となりました。

昭和生まれにとっては、聞き慣れたセリフでも、
平成生まれからは、一発で“昭和生まれ認定”となるようです。


そのほか、「小指を立てて『彼女』、親指を立てて『彼氏』と言う」(6位)や
「ズボンのチャックを『社会の窓』と言う」(7位)、
「ショックなときに『ガーン』『ガビーン』と言う」(11位)、
「親指と小指を立てて『電話』と言う」(15位)も、
“この人は昭和生まれだな”と思われるセリフ・しぐさで上位15位以内にランクインしました。 (図29)

 

(図29)

 


             

このように掲載されて、私は微苦笑しながら、過ごしてきた社会状況が違うからょ、

と深く感じたりした。

私は昭和19年(1944年)の秋に生を受け、
やがて昭和が終わった昭和64年1月(1989年)まで『昭和の時代』を過ごしてきたので、
もとより数多くの愛惜もある。


私たち夫婦が結婚したのは1976年(昭和51年)の春であるが、
この当時は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、

そして家族全員で、明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中で、私たち年代を含め多くの先輩、後輩の男性は、
一家の主(あるじ)、或いは夫として、もとより家計の責務で奮闘して働いていた。

そして妻の多くは後方支援となり、育児、料理、掃除、洗濯、交際など専業主婦として奮戦し、
昭和妻の責務を果たしてきた。
            
やがてバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
まもなくソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変した。

そして世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などの労働力の安価の国際競争力に敗退し、
かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
そして殆どの日本の民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。

             

やがて私は確か8年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年)の時点の頃から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

周知の通り、失われた15年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化した後、
ここ10数年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となっている。

そして大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、
多くの会社は正社員は6割、契約社員、アルバイトなどは4割、と知り、深く憂いたりしてきた。

このように私は漠然としながら、感じ受け止めてきた・・。

             

平成の時代を短的に表現すれば、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化、
このような状況であれば、何かと心に余裕はなく、言葉、しぐさも乱れている、
とブラス思考の私でも、ときおり憂いたりする時もある。

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長寿社会の今日、「100歳まで生きたい」人はわずか2割、高齢者の私は学び、多々教示されて・・。

2018-07-24 15:16:36 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの【@DIME】を見たりした中で、
『 長生きは望まれていない?
        「100歳まで生きたい」人はわずか2割 』と見出しを見てしまった。

私は年金生活の73歳の身であるが、晩年期は体力の衰えを益々実感しながら、
せめて心だけは溌溂過ごし、いつの日にか、この世をさよならする時は、神様か仏様の采配に寄る、
と漠然と思ったりしている男である。

このような長生きに関して思っている私は、《・・「100歳まで生きたい」人はわずか2割・・》は、
少しながら驚ろきながら、記事を精読してしまった。

この記事は、アクサ生命保険が、特設サイト「人生100年の歩き方」を開設に伴い、
2018年6月20日~26日に於いて、20代~60代の男女1000名に対して、
Webアンケート調査を行った結果を、
@DIME編集部が記事に纏められ、
関連のネットの【@DIME】に7月24日に配信され、無断であるが殆ど大半を転載させて頂く。

                 

《・・
平成最後の夏。
来年2019年5月1日に「平成」は改元し、新たな元号で人生100年時代を迎える。

(略)
不確実な時代に合った人生設計をサポートする「ライフプラン」サービスを提供するアクサ生命保険は、
お客さまと「人生100年時代」を一緒に考えていく特設サイト「人生100年の歩き方」を開設した。

サイト公開に合わせて、人生100年時代に対する人々の意識とその実態について調査すべく、
20代~60代の男女1000名を対象に「人生100年時代に関する意識調査」を実施した。

                 
★来たる「人生100年時代」最もポジティブで楽観的なのは「20代」


昨年、新語・流行語大賞にもノミネートされた「人生100年時代」をどのように捉えているかについて、
本調査対象者全員となる20代~60代男女1,000名に尋ねたところ、
約半数にあたる50.7%が「ポジティブ」、49.3%が「ネガティブ」と回答。

老後の生活については「楽観的に見ている」が38.9%、「悲観的に見ている」が61.1%となった。

全年代でみると、意見は大まかに二分される結果となりましたが、
年代別でみると「20代」が他年代と比べて高く、
これから起こりうる時代の変化にも柔軟に適応していく世代観が垣間見える結果となった。


                 
★長生きはもう望まれていない!?「100歳まで生きたい」はわずか2割に


調査対象者全員に対し「人生100年時代において、あなたは100歳まで生きたいと思いますか?」と尋ねたところ、
「あまりそう思わない」41.9%、「まったくそう思わない」36.9%と、
約8割にあたる78.8%が「100歳まで生きたいと思わない」と答え、
100歳まで生きることを望む層は、わずか21.2%と少数派であることが明らかとなり、
その理由として様々な意見が寄せられた。

かつては普遍的だった「長生きは喜ばしいこと」といった価値観もこれから変化していくことが予想される。



長生きしたくない理由

・健康で自分の事は、自分で出来るのであれば、長生きしたい。
・無理な治療費や介護が必要であれば、そうは思わない。(20代女性)
・長生きしても、生活に余裕がないのではないかと思うから。(30代男性)
・お金がない状態と医療費の増える時期と重なりそう。(40代女性)
・無理して長生きするより、短くても楽しく充実した生活をしたい。(50代男性)
・心身共に健康でいる自信が無い。(60代男性)など

                 
★4人に3人(78.6%)が実感する「長生きリスク」トップ3


調査対象者全員に対し「長生きすることは、リスクになると思いますか?」と尋ねた質問では
4人に3人にあたる78.6%が「そう思う」と答え、
その内容について聞くと「身体能力の低下」、「収入の減少(賃金不安)」、「年金制度」が、
長生きの3大リスクとして挙げられた。


こうした課題に対する漠然とした不安は、大なり小なり8割以上(81.6%)が実感している一方で、
実際に充分な備えができている人は、わずか16.0%という現実も明らかに。

経済的な理由を除いては「何を備えれば良いのかがわからない」といった意見が最も多いことがわかった。



★生きる意欲は備えから? 「100歳まで生きたい」:「備えている人」の意欲は2.5倍!


「備えること」と「生きていく意欲」、この2つに関して興味深い相関性がみられた。

人生100年時代に起こりうるリスクに対し、
「備えられている」と答えた人のうち、42.7%が「100歳まで生きたい」と答えたのに対し、
「備えられていない」と回答した人のうち、83.1%が「100歳まで生きたいとは思わない」と答え、

「備えられている」人は「備えられていない」人の2.5倍生きる意欲が高いことが明らかになった。
生きる意欲の動機づけは、「備え」に対する日々の意識に影響されているのかもしれない。

                 

★理想的な年の取り方をしている著名人


最後に、本調査対象者全員に対し、理想的な年の取り方をしている、
その象徴となる著名人について聞いた。

男性1位に「所ジョージ」さん、次いで「タモリ」さん、「加山雄三」さん、
女性1位には「黒柳徹子」さん、次いで「吉永小百合」さん、同率3位に「樹木希林」さん、「夏木マリ」さんが挙げられた。

変化が激しく、価値観が多様化している時代の中で、自分らしい生き方を選択し、
体現されているその姿勢は、人生100年時代の生き方を考えるうえで、とても示唆に富んでいる。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
                 

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに幸運にも、入院する大病には遭遇せずに今日に至っている。

過ぎし私が65歳になった頃、
男性の多くは、70代となれば体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と学んだりしてきた。

こうしたことを学んで以来、平素の買物専任者の私は、買い物の責務を終えた後、
帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある住宅街、遊歩道、小公園などを
本格的に意識して、歩き廻り、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。


                 

過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。                                                         

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・(略)・・
年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》

                                                  
このようなことを私は深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動、ご著書も購読したりして、信愛を重ねている。

そして私は、いつの日にか大病か介護・要になってしまった時、自身で食べ物を口に運べなくなった時は、
この世にお別れする時だ、と深く思ったりする時もある。

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ときには『おひとりさま』の私は、猛暑の中、我が家の冷気の中で、とりとめなく過ごして・・。

2018-07-23 16:04:46 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
雑木の多い中で、古ぼけた戸建てに住み、

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中、私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に戸建てに住み、
私より14歳年配で87歳の身となり、デイ・サービスに通った成果で、市の福祉課が再審査を得て、
『要介護2』から『要支援2』と回復して認定されたりしてきた。

そして長女の家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に殆ど宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除に専念したり、
或いは整形外科の通院、ときには買い物の付き添いなどしている。

たまたま今回、家内の担当となり、過ぎし7月19日より8泊9日予定で、家内の母宅に行き、
この間は、我が家で私は独りぼっちの『おひとりさま』の生活となっている。

              

過ぎし6月29日に気象庁より梅雨明けと宣言されて以来、
35度前後の熱い日が続き、何かと熱さに苦手な私は戸惑ってきた。

こうした中、何かと気弱な私は熱中症になって、救急車で病院に搬送されて、
気が付いたら病院のベットだった・・こうしたことは困苦するので、
せめて我が家の室内でエアコンの威力に頼り、冷風と冷気に甘えたりして、
水分補修として冷茶、アイスコーヒーなどを飲んだりしている。

しかしながら何かと愚図の私でも、『おひとりさま』の生活となると、少しばかり慌ただしくなる時もある。

              

朝、目覚めた後は、やがて台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『ベットボトル』、『古紙・新聞』、『燃えないゴミ』などの指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりしている。

やがて朝食は、家内は炊き上げた十六穀米の入った白米のご飯を、
半合単位にラップに包んで、冷蔵庫の片隅に保存してくれているので、
私は電子レンジで温めて、頂いたりしている。

こうした中で、私の朝食の前菜は、
新タマネギと生ワカメとあえたりした常食をミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

この後は、電子レンジで温めた十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
納豆、しらす干し、コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、サバの味噌煮の缶詰としてきた。


昼食は、ヨーグルトを箱の2分の1を食べた後は、大きめのトマトを2個ばかり、
そしてアンパンをひとつ食べている。

その後は、台所でかぼそい声で鼻歌を唄いながら、大皿、小皿、小鉢、茶碗、グラスなどが散乱していたので、
恥ずかしながら一日一回だけ、皿洗いの水遊びをした。

              

午後の時間は、いつものようにブログの投稿文を送信した後、
私が愛読している御方のブログの投稿文を読ませて頂いたりし、
或いは本を読んだり、音楽が聴きたくなった時は、音楽棚からDVDを取り出して、
ライブ盤などはテレビを通して、視聴したりしてきた。

たまたま7月20日の朝、NHKのニュースを視聴する中、脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)さんが、
死去されたことを知り、哀悼を重ねたりした。

私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であり、
高校生活も相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍さんの『切腹』を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

こうした中で、橋本忍さんは映画の脚本家としては、突出した御方であり、
やがて私は映画青年にも敗退してしまった身であるが、今でも敬愛している御方である。

このような深情のある私は、村井淳志・著作の『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書、2005年)、
橋本忍・著作の『複眼の映像  ~ 私と黒澤明 ~』(文藝春秋、2006年 ==>文春文庫、2010年)、
この二冊を本棚から引き抜き、ここ3日再読したりしている。


                           

やがて夜の8時前後に入浴した後、家内が温めて食べられる料理を数多く準備してくれているのを、
夕食として食べたりしている。

そして健康の源(みなもと)は、程々の食物から形成されると学んだりしてきたので、
前菜として、ニンジンを千切りにして、電子レンジで少し温めて、
ゴマドレッシングに少しお醤油をかけて、食べている。

そして家内が4泊以上になる時は、家内が準備してくれた料理は品切れとなり、
私がスーパーのお惣菜(総菜と同意語)売場で買い求めた品を並べて、
食べているのが実態となっている。

こうした中で、話し相手がいない私は、ウィスキーを濃い水割りを数杯を呑みながら、
殆ど映画棚から、その日に観たい作品をテレビを通して、視聴したりしてきた。

やはり今回は、私は脚本家の橋本忍さん御逝去に伴い、遺(のこ)された数多くの作品を
居間にある映画棚のビデオテープ、DVDをテレビを通して、鑑賞したりした。

たとえば『羅生門』(1950年、黒澤明・監督)、『生きる』(1952年、黒澤明・監督)、
『七人の侍』(1954年、黒澤明・監督)、『切腹』(1962年、小林正樹・監督)、
『上意討ち 拝領妻始末』(1967年、小林正樹・監督)を鑑賞したりしてきた。

そして今宵からは、『砂の器』(1974年、野村芳太郎監督)、『八甲田山』(1977年、森谷司郎監督)などを
改めて鑑賞する予定である。

              

洗濯に関しては、洗濯から乾燥できるまでの洗濯機に頼り、

せめて下着、タオル、パジャマぐらいはしょう、と当初は私は思ったした・・。

しかしながら家内より、着替えはたくさんあるでしょう、私が帰ってからします、
と強い口調で私は言われてしまい、助かるよぅ・・と私は即答したりしてしまった・・。

このような洗濯機の機能も知らずに、今日まで至っている軟弱な私となっている。

掃除に関しては、多少の埃(ほこり)がたまっても・・とグウダラな心情で、
二日に一回・・電気掃除機を曳いて、掃除したくらいである。


平素の我が家では、私は何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、殆ど毎日過ごしている。

今回、たまたま『おひとりさま』になった為か、
ご近所の奥様、ご主人などと長話になることが多くなったりしている。
       
このように私は手抜きの『おひとりさま』の生活
をしているが、
家内は料理、掃除、洗濯などの家事は優等生であり、私などはいつまでたっても初心者以下あり、
もとより落第生だよなぁ・・と微苦笑を重ねたりしている。

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環境省の『熱中症予防情報サイト』、初めて高齢者の私は学び、改めて熱中症予防を教示されて・・。

2018-07-22 13:46:04 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットの【YAHOO! JAPAN】の中にある『ライフ』のニュースを見ている中、
【 環境省の熱中症予防情報サイトに注目 
                    「水分・塩分を補給」「日傘や帽子の使用」
                                           「子どもとお年寄りは特に注意」
】と見出しがあった。

私は都心の郊外の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

昨日の昼下がり、私はテレビのニュースを視聴していると、
東京消防庁は、21日の都内の救急出動件数(稲城市と島嶼〈とうしょ〉部を除く)が3091件(速報値)となり、
1日あたりの出動件数としては、救急業務を始めた1936年以降で最多だったと22日発表した。

熱中症の疑いがある搬送者数も311人(同)で、
今月18日の317人(同)に次いで今年2番目の多さだったという、
このようなことが報道されていた。

そして気象庁によると、21日は東京都青梅市
で36・4度、練馬区で36・3度、
都心で34・9度を観測するなど都内各地で厳しい暑さとなった。

1日あたりの救急出動件数は今月17日以降、過去最多を3度も更新しており、今回で4度目。
続く暑さの影響で体調を崩す人が増えていることなどから、
救急車の利用が集中しており、到着までに時間がかかる恐れもあるという。

 猛暑は22日も続いており、午前9時現在の熱中症の疑いでの搬送者数は、10人。
同庁は引き続き、注意を呼びかけている。

このようなことも報道され、私は震撼させられたりした。

このような深情のある私は、改めて熱中症に対して学ぼう、と記事を精読した。



この記事は、初めて知るネットの【ねとらぼ】であり、環境省の熱中症予防情報サイトを紹介する内容で
沓澤真二さんが纏められた記事であり、7月18日に配信されていた。

小学生から高齢者まで、誰でも分かりやすいので熱中症予防情報であり、
多くの御方と共有致したく、あえて無断ながら転載させて頂く。


・・連日の猛暑で熱中症による事故が報じられるなか、
環境省の熱中症予防情報サイトに注目が集まっています。

気象庁気象研究所研究官の荒木健太郎(@arakencloud)さんが
同サイトを引用して注意喚起したこともあり、Twitterを中心に広まっています。


サイトトップ トップページには暑さ指数の実況と予測も


基礎知識ページでは、高気温や風がないといった環境面、
二日酔いや寝不足による体調不良などの身体面、
激しい運動や屋外作業といった行動面から、熱中症の要因を説明。

予防策として、「日陰の利用」、「日傘や帽子の使用」、「水分・塩分補給」を挙げています。


予防策 体調不良のときは特に注意


応急処置ページでは、対処方法をフローチャートで説明しています。

熱中症を疑う症状がある場合、患者が呼びかけに応えられないときはすぐに119番を。
そうでないケースでも、涼しい場所へ避難し服をゆるめ身体を冷やすなど、
状況に合った対処法を示しています。


フローチャート 状況に合った対処法を分かりやすく提示


環境省は詳細なマニュアルも公開。
「子どもや高齢者は、特に注意」とするコラムや、
運動や仕事に臨むうえで重要な項目をまとめたチェックシートなど、
留意すべき点が多数掲載されています。


高齢者 高齢者の場合は、のどのかわきや暑さを感じにくくなるため、意識して水分補給をする必要があります

子ども 子どもは背が低く、観測上の気温以上の熱にさらされるため、より注意が必要に

チェックシート チェック項目を参考に体調管理を


このように誰でも分かりやすい環境省の『熱中症予防情報サイト』であり、
体力の衰えた私でも、自分の身体は自分で守り、熱さ寒さは彼岸まで、の古人から伝えもあり、
多くの高齢者の方達と、涼しくなる初秋を迎えましょう、と微笑んだりしている。

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熱中症と勘違い 猛暑で増える肺血栓塞栓症に突然死リスク、高齢者の私は動顛しながら学び・・。

2018-07-21 12:12:48 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの【日刊ゲンダイ】を見ている中、
『 熱中症と勘違い  猛暑で増える肺血栓塞栓症に突然死リスク 』と題された見出しを見た。

私は都心の郊外の調布市に住む73歳の年金生活をしている身であり、
過ぎし6月29日に気象庁より梅雨明けと宣言されて以来、
35度前後の熱い日が続き、何かと熱さに苦手な私は戸惑ってきた。

こうした中、何かと気弱な私は熱中症になって、救急車で病院に搬送されて、
気が付いたら病院のベットだった・・こうしたことは困苦するので、
せめて室内で冷房の冷風に甘えたり、水分補修として冷茶、アイスコーヒーなどを飲んだりしている。

しかしながら、今回の《・・肺血栓塞栓症・・》って、どのようなことですか、
と思いながら記事を精読したしまった・・。

この記事は、【日刊ゲンダイ】の中で『ヘルスケア』の掲載されているひとつの記事で、
昨年の2017年7月25日に配信された古い記事であるが、
猛暑が続く今、何よりも自身の身体を守ることが大切であり、無断ながら記事の大半を転載させて頂く。

             

《・・
今年は9月まで全国的に猛暑が続くとの予想が出ている。
熱中症対策に気をつけなければならないが、
もうひとつ、夏に増える「突然死に要注意の病気」も頭に入れておきたい。

「熱中症対策にご注意を」というフレーズを、テレビのニュースなどで聞かない日はない。

「だからでしょうか、この時期、体調不良を感じたら『熱中症だ』とすぐに思い込み、
体を冷やしたり安静にするなど熱中症対策で様子を見がち。
それも大切なのですが、肺血栓塞栓症の可能性も考えてほしいのです」

こう話すのは、池袋大谷クリニックの大谷義夫院長だ。

             

◎全身倦怠感、動悸、冷や汗がサイン


肺血栓塞栓症は「エコノミークラス症候群」の別名でも知られる。
足や下腹部の静脈に血栓(血の塊)ができ、それが肺に飛び、肺の血管を詰まらせる病気だ。


「速やかに肺血栓塞栓症と診断され治療を受けられた場合の死亡率は2~8%。
しかし、診断が受けられなかった場合は、死亡率が高くなり、30%といわれています」


原因は主に3つある。
「静脈の血管が傷ついた」
「静脈の血流が悪くなった」
「先天的、あるいは後天的に、血液が固まりやすい体質」だ。

このうち、夏は2つ目の「静脈の血流が悪くなった」に注意したい。


「夏は熱を放出するため、血管が広がり、血圧が下がって、血流が悪くなる。
加えて、水分補給が十分でなく脱水症状を起こすと、
血栓ができやすくなり、肺血栓塞栓症のリスクが増すのです」


重症例では、突然、失神や心停止を起こす。
しかし軽症、中等症では、呼吸困難、全身倦怠感、不安感、動悸、冷や汗などで、
特有の症状はない。

「なんとなく、具合が悪い」といった訴えもあり、熱中症と間違えやすい。

             

◎普通に歩けていた人が、急に心肺停止


大谷院長が実際に診たケースはこうだった。
50代の男性は、以前から喘息で、同クリニックにかかっていた。

猛暑のある日、「熱中症かもしれないですが・・・」と来院した。

大谷院長は、さまざまな検査に加え、心不全のマーカーとなる物質の値を測定。
すると、やや高めだった。

肺血栓塞栓症か判断に迷う値だったが、念のため、
応急処置もできる近くの東京医科歯科大学病院に連絡を取り、向かってもらった。


「10数分で到着したのですが、それまでは体調は悪いものの自分で歩き話せていた患者さんが、
東京医科歯科大の呼吸器内科の待合室で、心停止に至りました。

幸いなことに病院の中だったので、命は助かりましたが、
数分遅れていたら、難しかったかもしれません」


血液が固まりやすい体質など、肺血栓塞栓症のリスク因子を調べたが、問題なし。
ただ、仕事が忙しく、睡眠不足が続いていたうえ、水分補給をほとんどしていなかった。
それによる脱水症状が、大いに関係していると、主治医も大谷院長もみている。


             

「夏の肺血栓塞栓症の予防は、熱中症と同じく十分な水分補給です。
喉が渇く前にこまめに取る。

そして、いつもと違う不調を感じたら、肺血栓塞栓症も疑ってください。
特に息苦しさをはじめとする呼吸器系の症状があれば、呼吸器内科をすぐ受診するべきです」


血栓ができやすいということは、脳梗塞のリスクが高まることも意味する。
ろれつが回らない、言葉が出なくなる、顔に歪みが出る、
片方の手足に、力が入らない・・・しびれがあるなどの症状があれば、すぐに救急車を。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私は民間会社で35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、

多々の理由で年金生活を始めたが、平素の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

そして家内から依頼された品を求めて、私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

こうした中、確か私が65歳になった頃、
男性の多くは、70代となれば体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と学んだりしてきた。

こうしたことを学んで以来、私は買物メール老ボーイの責務を終えた後、
帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある住宅街、遊歩道、小公園などを
本格的に意識して、歩き廻り、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

 

             
          
こうした中、夏の暑い季節は、陽射しが燦燦と照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落り、微苦笑したりしている。
          
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。


やがて休憩ねぇ、と思いながら、小公園に寄り、幾重か大きな樹の下にあるベンチに座り、

コンビニで買い求めたペットボドルの煎茶を飲み、水分補給をしたりしている。

             

こうした根底には、高齢者は、脱水を起こしやすい要素をいくつも持っていて、
放置すると、寝たきりや認知症を招く結果になりかねない、と学んだりしてきた。

そして高齢者は脱水を起こしやすい理由として、
●筋肉量の低下
●喉の渇きを自覚しづらい
●腎機能の低下
●食事量の減少
●利尿作用のある薬の服用
●認知症で暑さが平気に
●認知症で自律神経の働きが低下・・・

このようなことを私は学び、震撼させられたりしてきて、
脱水にならないことは、やはり喉の渇きを感じる前に、こまめに水分補給は大切だ、
と思いながら実施してきた


そして私は、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
32度前後を超えた熱い時の場合は、やむなく利便性の良い路線バスに乗り、
バスの車内の冷気に甘えて、帰宅している。

そして平素の散策も少しばかり歩く程度となり、ときには熱中症で倒れたら困苦するので、
散策も中止して、我が家の部屋の中で、エアコンの冷風を受けたりして、冷気の中で、
本を読んだりしている。

こうしたことが出来るのは、年金生活の特権のひとつだ、と甘享したりしている。

             

今回、《・・肺血栓塞栓症に突然死リスク・・》私は動顛しながら学んだりし、
《・・夏の肺血栓塞栓症の予防は、熱中症と同じく十分な水分補給です・・》と教示されたりした。

そして何かと単細胞の私は、たとえオシッコが近くになっても、冷茶、アイスコーヒー、
ときにはペットボトルの麦茶、ウーロン茶を飲んだりして、初秋を迎えよう、と思い深めたりしている。

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脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さん御逝去に伴い、つたない人生航路を歩んだ私でも、深く哀悼を重ねて・・。

2018-07-20 15:24:54 | ささやかな古稀からの思い

過ぎし5月29日、橋本忍(はしもと・しのぶ)さんは、
ご自宅で100歳を迎え、弟子で当たる監督の山田洋次さん、脚本家の中島丈博さん、
そして監督の亡き黒澤明さんを共に支えた
野上照代さんが駆けつけ、
数字の「100」の形をしたロウソクを勢いよく吹き消し、誕生祝いなされた、と私はニュースで読んだりした。

今朝、私は6時過ぎのNHKのニュースを視聴する中、
脚本家・橋本忍さんが死去されたことを知り、
とうとうお亡くなりになされてしまった、と私は思ったりした後、深く哀悼を重ねた・・。

             

私は都心の郊外の調布市に雑木が多い小庭の中で、古惚けた戸建に住んでいる。
そして近くに生家があり、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

こうした中、この頃に生家にある本と云えば、農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、私は少年心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。
                                   
こうした中で、私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、
独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら授業は楽しく感じて、
読書の魅力にも取りつかれたりした。

こうした中、新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍さんの『切腹』を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

                                                           

やがて専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、数多くの作品を映画館で鑑賞しながら、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
                      
しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、劣等感を秘めて私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

             
                                              

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

こうした中、出向先は遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

             


私の家内は5歳年下で、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に、古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

このような拙(つたな)い人生
航路を歩んだ私でも、
長らく脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんを敬愛してきたので、今回ご御逝去知り、
深く哀悼を重ねてたりした・・。


この後、私はネットでこのニュースを検索したら、朝日新聞社の基幹ネットの【朝日新聞デジタル】に於いて、
『 脚本家の橋本忍さん死去 「七人の侍」黒澤8作品に参加 』と題して、
編集委員の石飛徳樹さんが迅速に綴られ、7月20日午前3時に配信され、
的確に明記されて、これだったら橋本忍さんの偉業が、或る程度は読者に伝わる、と思ったりした。

私としては、多くの御方に知って欲しく、あえて無断ながら転載させて頂く。

             

《・・「羅生門」(1950年)、「七人の侍」(1954年)、「日本沈没」、「砂の器」など、
映画史に残る名作、ヒット作を数多く手がけた脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんが
19日午前9時26分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。100歳だった。
葬儀は近親者のみで営む。喪主は長女綾(あや)さん。


兵庫県生まれ。会社勤めをしながら伊丹万作監督に学ぶ。
1950年、芥川龍之介の小説を脚色した「羅生門」が黒澤明監督の手で映画化され、脚本家デビュー。

この作品がベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を取り、注目を集めた。
黒澤監督の脚本チームの一員となり、「生きる」(1952年)、「七人の侍」(1954年)、
「蜘蛛巣城(くものすじょう)」(1957年)、「隠し砦での三悪人」(1958年)など計8本の黒澤作品に参加した。


骨太のエンターテインメントを得意とし、「張込み」(1958年)、「黒い画集 あるサラリーマンの証言」(1960年)、
「ゼロの焦点」(1961年)など松本清張の社会派推理小説の脚色は十八番だった。


映画製作会社の橋本プロダクションを設立し、
製作者としての第1作は清張の長編を自ら脚色した「砂の器」(1974年、野村芳太郎監督)、
続く第2作「八甲田山」(1977年、森谷司郎監督)とともに、当時の大作ブームの流れに乗って大ヒットを記録した。


テレビでも、戦時下の庶民の苦しみを描いたドラマ「私は貝になりたい」(1959年)が
芸術祭賞を受け、自身の脚本・監督で映画化もされた。


他の脚本の代表作に、1963年のカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得した小林正樹監督の「切腹」(1962年)、
山本薩夫監督の「白い巨塔」(1966年)、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」(1967年)、
森谷監督の「日本沈没」(1973年)など。


著書に黒澤監督との仕事を中心につづった自伝「複眼の映像 私と黒澤明」(2006年、文藝春秋)がある。

注)記事の原文にあえて改行を多くし、年代表示を補記した。
             

この記事を読み終わった後、八海事件の裁判の係争中に、冤罪(えんざい)青年を救う為、
橋本忍さんは自ら歩いて検証して脚本した『真昼の暗黒』(1956年、今井 正・監督)は、
この年のキネマ旬報ベスト第一位も、記載されていないよなぁ・・と微苦笑したりした。

或いは三船敏郎さんが三船プロダクションを設立した中で、
映画の出来栄えを左右する基本は脚本だ、と認識していたので、橋本忍さんに脚本を依頼した
『上意討ち 拝領妻始末』(1967年、小林正樹・監督)は、
この年のキネマ旬報ベスト第一位も、この記事に記載されていない。

             

私は橋本忍さんの底知れぬ才能に再確認をされられたひとつに、名作のひとつ『砂の器』がある。
この原作は松本清張さんであるが、脚本は、原作と余りにもかけ離れている。

たとえば映画で圧倒的に魅了される遍路シーンは、原作では数行となったりしている。

過ぎし2006年12月3日、私は読売新聞に於いて、特集連載の【時代の証言者】に於いて、
この1週間、《喜劇監督 山田洋次》が連載されていた。

私は山田洋次さんの監督として作品は、余り観ていない。
『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』、『霧の旗』、『家族』、『幸福の黄色いハンカチ』、
『遥かなる山の呼び声』、『キネマの天地』、『たそがれ清兵衛』等であり、
『男はつらいよ・・』のシリーズは苦手なので、
数本観たが、忘れてしまった。

このように山田監督の作品に関しては、評価は出来ない立場であるが、
脚本家としては優秀な作品を観ているので、この連載は私の興味となっている。

それにしても、この読売新聞の担当記者、山田洋次の前に喜劇監督と称されているが、
不勉強も甚(はなは)だしい、と思っている。

昨日のこの連載に於いて、山田洋次さんが『砂の器』の脚本、映画までの完成を語っていた。

私は何かしらで読んだり、観たりしているが、山田洋次さんの証言は創作の秘密を明言されているので、
この人の高潔さを感じたりした。

新聞記事を無断であるが、あえて転記させて頂く。

《・・『ゼロの焦点』に続いて、1962年(昭和37年)頃、
野村芳太郎さんが監督する『砂の器』の脚本作りに、再び橋本忍さんと取り組みました。
公開は1974年ですが、脚本は10年以上前に出来ていたんです。

松本清張の原作は、話が入り組み過ぎていて、とても映画になりそうもない。
『これは無理ですよ』と言うと、
橋本さんは、『その通りなんだ』とにやにや笑い、
『でも、ひとつだけ方法がある』と言って本を開きました。

それには、捜査会議で刑事がハンセン病の男と息子の足取りを語る場面に、
赤鉛筆で傍線が引いてありました。

『追われるように古里を出、島根県の亀嵩(かめだけ)に現れる。
その間どこに回ったかは、この親子にしか分からない。
この分からない、というところを絵にするんだ』。

物乞いをしてこの国のあちこちを回り、どんな目にあったか。
どんなにつらかったか。
それをクライマックスにして物語を作っていくということです。

捜査会議が再開されたのが、犯人の新曲発表コンサートの晴れの日。
刑事が話し始めたところで音楽が始まる。
その音楽に乗せて、親子の旅の回想がはさまれる。

『どうだ、良いだろう』と橋本さんは自分の発想にとても興奮し、
すぐに旅館を押えてくれ、と言いました。

夜を日に継いで、仕事を進めたかったんですね。
その時は、横15センチ、縦10センチくらいのカードに、場面を書いていました。
いらないものは捨て、必要なら挿入する。

最近カードで整理する、というのははやりましたが、
橋本さんは40年以上前に実践していた。

ものすごい勢いで橋本さんがカードに書き込み、 それを僕が原稿用紙に写す。
10日か2週間くらいで、完成しました。

親子があちこち行く場面は、僕が考えました。
村の子供にいじめられるとか、
小学校の校庭をじっと見つめているとか、
橋の下で親子で楽しそうに食事しているとか。

でも、真冬の雪の中は書いていません。
あの場面は野村さん(注・野村芳太郎監督)が加えたのです。
物乞いの人達は、寒い時に北には行きません。

でも野村さんはあえて、親子に酷寒の青森県・竜飛岬を歩かせた。
それが映像的な緊張感、過酷さを描き出し、あの映画の象徴となっています。

それにしても、企画が中断しても10年以上あきらめず、
ついに実現させた野村さんの執念には頭が下がりますね。・・》
 
注)新聞記事の原文より、あえて改行を多くした。
             

この作品に関しては、私は脚本が完成されてから、作品の完成までは、
色々と映画専門雑誌、新聞記事などで読んできたが、
松竹が暗い映画だと短絡的に判断し、中々製作の許可がならなかった、と読んだりしていた。

監督の野村芳太郎さんは、作家の松本清張の原作の映画化を数多くする中、
『霧プロダクション』を設立し、製作、監督を数々を行った御方である。

そして『砂の器』は、橋本忍さんは松竹から長らく製作の許可が出ないのに、
やむなく野村芳太郎さんに資金の協力も得ながら、ご自分のプロダクションを設立し、
資金を投じて、製作も兼ねている。

やがてこの映画が完成され、原作者の松本清張さんが鑑賞された後、
『小説より、この映画の方がはるかに優れている』と私は読んだことがある。

そして私はサラリーマンで奮闘する中、この『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めたのは、
1975(昭和50)年1月過ぎであった。

              

私は脚本家の橋本忍さん御逝去に伴い、遺(のこ)された数多くの作品を
居間にある映画棚のビデオテープ、DVDをテレビを通して、鑑賞しょうと思ったりしている。

或いは村井淳志・著作の『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書、2005年)、
橋本忍・著作の『複眼の映像  ~ 私と黒澤明 ~』(文藝春秋、2006年 ==>文春文庫、2010年
)、
改めて再読しょうと、本棚から引き抜いたりしている。 

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リハビリに“買い物”取り入れる狙い、高齢者の私は真摯に学び、やがて微笑みながら賛意を深めて・・。

2018-07-19 15:38:32 | ささやかな古稀からの思い

過ぎし3日前、ときおり愛読しているネットの【NEWS ポストセブン】の見たりした中で、
『 リハビリに“買い物”取り入れる狙いは “役割”を取り戻すこと 』と題された見出しを見てしまった。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに幸運にも、入院する大病には遭遇せずに今日に至っている。

こうした中、私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住み、
私より14歳年配で87歳の身となっている。

過ぎし年、私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
我が家より2時間半を要する千葉県のある市で独り住まいの生活をされて、早や13年半となっている・・。            
     
これ以来、長女の家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の大掃除、支度などで、6泊7日前後で行ったりしてきた。

              

やがて家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、        
こうした後、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりして『要介護2』となってきた。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

まもなく家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に殆ど宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母はデイ・サービスに通った成果で、市の福祉課が再審査を得て、
『要介護2』から『要支援2』と回復して認定されたりした。
           
このように、家内は家内の妹と逐次連絡しあって、家内は独り住まいの家内の母宅に行っている時は、
私は我が家で独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごし、早や13年半を迎えている・・。

しかしながら、家内の母が、『要介護2』から『要支援2』と回復したことは、
ときおり家内から私は聞いたりしているので、今回の《・・リハビリに“買い物”・・》の格言に、
私は家内の母の願いのひとつを思い馳せて、記事を精読してしまった。

この記事の原文は、『女性セブン』の2018年7月19・26日号に掲載された記事のひとつであり、
関連のネットの【NEWS ポストセブン】に2018年7月14日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

              

《・・親が認知症や要介護になって、まっ先に制限するのは、“買い物”かもしれない。
だが、高齢者も含めた現代人にとって買い物は、もっと奥深い意味があるようだ。

生活者の感覚を取り戻すべく、買い物をリハビリとして取り入れたデイサービスが注目されている。

株式会社エムダブルエス代表・北嶋史誉さんに聞いた。

今年6月、群馬県前橋市にあるスーパー、「フレッセイ大利根店」の店内で、
“買い物リハビリ”が始まった。

これは同店に併設された通所介護事業所、予防デイトレセンター大利根で提供されるデイサービス。
要支援の人が対象だ。

「デイサービスの名札を下げ、万歩計をつける以外は、一般の買い物客と同じ。
必要があれば、スタッフが付き添いますが、
高い棚に手を伸ばすのも、腰をかがめて下段の品物を取るのも、リハビリの一環。

広い店内で、欲しいものや家族から頼まれたものを探す。
冷蔵庫の在庫を思い出しながら、買い物メモを見ながら探すと、自然と歩けるのです。
脳も体もしっかり使う、有酸素運動です」(北嶋さん)

同行させてもらった70代の女性は、普段の買い物は同居する娘さんがやっているが、
「何せ5人家族だからね」と、うれしそうに繰り返した。

食べ盛りのお孫さんのために、バームクーヘンをカゴへ。
自分の好物のソースせんべいがなかなか見つからず、通路を行ったり来たりしていた。

支払いは自分の財布から(自己負担)。
レジで小銭を数えて出すのも、脳トレだ。

「店側とは、しっかりと打ち合わせができていて、店員さんがさり気なくサポートしてくれたり、
レジでまごついても『ゆっくりでいいですよ』と声をかけてくれたりします。


今後、慣れてきたら、30~40分で2000~4000歩(約1~2km)の歩行を目指します」(北嶋さん)

              

また、少し介護度の進んだ『要介護1』以上の人向けには、
2012年から、日高デイトレセンター(群馬県高崎市)など
5つのデイサービスを移動販売車が巡回し、買い物リハビリを行っている。


「移動販売車は、杖や車いすの人でも、充分に買い物ができる大きさで、
生鮮食品ほか、その日に店長が選んだ品が、棚の上から下までぎっしり。

体を使って商品を探して取り、旬の青果で季節を感じ、
アテンドする運動指導士からは“不足しがちな動物性たんぱく質は、
たとえばこんな食品から摂れますよ”などとアドバイスがもらえることも。

買い物をすることで、“しっかり食べる”ということにも、つながるようです。
でもみなさん、品物を選ぶときは、本当にいいお顔をされるのです。
買い物リハビリに参加したくて、当社のデイサービスを選んで来てくださるかたも多いようですよ」

              

◆買い物は生活者の日課“役割”を取り戻す行為

介護予防のリハビリとして、北嶋さんが買い物に着目したのは、
学生時代に学んだ役割理論からの発想だという。

「人はたくさんの役割を持って生きています。
たとえば私なら、会社では社長、家では夫、長男には厳しい父親、末っ子には少し甘いお父さん。
これらのチャンネルを、その場その場で変えて演じている。

ところが高齢や病気になると、役割が担えなくなったり、周りから役割を奪われたりしがちです。

すると、たとえ家族と一緒にいても、心は孤立し、健康が損なわれてしまいます。
そんな状態から、模擬的でも役割を取り戻すことで、リハビリになると考えました」

今の時代、食生活を支えるのは、買い物。
生活者としては、確かに重要な役割だ。

「たとえば今夜、自分が食べたいもの、
嫁に頼まれた牛乳1本、孫のおやつ、夫の酒肴でも、
自分や誰かのために買うことで、1つの役割を担える。
家族や社会の一員という感覚を取り戻せるのです」

生活者としての充足感は、高齢者の生活に張りを持たせ心を健全にするという。

「介護予防や自立支援は、運動・栄養・社会参加の3つが必要。
筋肉だけ鍛えても、ダメなのです。
その点買い物は、体を動かし、栄養摂取に直結し、役割も担えます」

健康寿命を延ばすためにも、こんな買い物の効用を心に留めておきたい。・・》

※記事の原文に、あえて改行を多くした。
              

私は記事を読み終わった後、確かにそうですよねぇ・・と微笑みながら賛意を深めたりした・・。

家内の母が『要介護2』だった当時は、
家内の母宅の中で廊下、トイレ、浴室、部屋などに手すりを設置していても、動くと痛い、
と家内、或いは家内の妹に幾たびもこぼしたりしていた。

そして動かないと益々悪化するので、健康マッサージの安楽椅子を購入して、
身体をほぐしたりしていた。

こうした中、整形外科に週二回に家内、或いは家内の妹に引率されて治療に行ったりしたが、
路線バスが近くになく、やむなくタクシーを利用して通院をしたりしてきた。

家内の母宅の周囲は、ゆるやかな傾斜地であり、付近の道路も自動車の往来もあり、
万一、家内の母宅が独りで果敢にリハビリをして、転んで骨折などをして、入院した後、
寝たきりになってしまうことなどを、もとより家内の母、家内、或いは家内の妹は危惧してきた。

そして時折、家内、或いは家内の妹に引率されて、付近を散策したり、
タクシーを活用して、最寄の駅前にあるスーパーなどで買い物をしたりしてきた。

              

やがてケア・マネジャのアドバイスにより、あるデイサービスを紹介された。

このデイサービスは、各家にマイクロバスで巡回して、同乗しているスタッフの担当者が引率し、
デイサービスのセンターまで送迎して下さるシステムであった。

そして週に二回、家内の母宅の門扉、そして玄関まで、このスタッフの担当者が来て下さり、
家内の母は引率されて、デイサービスのセンターに通っている。

こうした中で、このデイサービスのセンターに於いては、
家内の母は、通院者の御方と共に軽い運動をしたり、認知予防のささやかな頭の体操をしたり、
通院者の御方と談笑をしたりしている。

そしてスタッフの担当者に導かれて近くのスーパーなどに、買い物をして、
家内の母は、元気そうに帰宅して、
家内、或いは家内の妹は安堵したりしてきた。

やがて半年過ぎた頃、市の福祉担当者から、家内の母は『要介護2』から『要支援2』に認定され、
回復したことに、もとより家内の母、家内、或いは家内の妹は悦んだりしてきた。

そして家内の母は、娘ふたりに食事、掃除、洗濯などを全面的に頼り、
家内は月に6泊7日を2度ぐらいして、家内の妹は1泊2日を幾たびもしている。

この間の家内の母は、独りになってしまった時は、
家内は我が家より、家内の母に連絡事項、安否確認の為に、毎晩長らく電話連絡をしたりし、
家内の母は娘ふたりが作ってくれた料理を温めたりして
食事をしているのが、現状となっている。

今回の《・・リハビリに“買い物”・・》の効用に関して、
何かと無力な私でも、確かに・・そうですよねぇ、と微笑んだりしている。

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熱帯夜の危険な眠り方と正しい快眠法、遅ればせながら高齢者の私は学び、やがて微笑みを重ねて・・。

2018-07-18 12:28:09 | ささやかな古稀からの思い

昨夜ときおり愛読している生活総合情報サイト【All About(オールアバウト)】に於いて、
『 熱帯夜の危険な眠り方と正しい快眠法  』と題された見出しを見た。

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、過ぎし6月29日には、私の住む地域では気象庁より梅雨明けの宣言がされて以来、
熱さに苦手な私は、今から秋のお彼岸まで熱い夏が続くのかょ・・と苦笑したりした。

ここ一週間は快晴の中、日中は厳しい35度前後の日々が続き、夜は熱帯夜の日々が続き、
どうしてなのょ・・と天上の気候の神々の采配に、戸惑ったりしてきた。

このような深情を秘めてきた私は、熱帯夜の危険な眠り方と正しい快眠法・・フレーズに導かれて、
何かと好奇心が強く、こっそりと読んでしまった・・。

             

この記事は、医師で 睡眠ガイドをされている坪田 聡さんの寄稿文のひとつであり、
【All About(オールアバウト)】に2018年7月17日に配信され、
無断であるが記事の前半を転載させて頂く。

◆夏バテ・体調不良を防ぐ熱帯夜の睡眠のコツは?

蒸し暑い熱帯夜は、寝苦しく、すっきり快眠するのが難しいもの。
昼間の疲れが上手く取れず、夏バテ気味という人も少なくないでしょう。


快眠のための工夫も様々ですが、意外と多くの人がしている「夏の間違い快眠術」があります。
健康のためにエアコンを切って眠ったり、扇風機を固定で使っていたり、
水分の摂りすぎに気を付けたりしている人は、注意が必要です。

健康に良い、真夏の正しい快眠のコツを解説します。

             

◆「エアコンを切って眠る」と睡眠の質が下がる

健康のためにエアコンを切って眠る、という人がいますが、これは間違い。
最低でも寝ついてから、3時間はつけておくのが正解です。


熱帯夜の場合、一晩中エアコンをつけておくことで、
理想的な温度・湿度の環境が実現でき、快眠することができます。


室温は26度以下、湿度は50%前後に保てるよう設定しましょう。

体感温度は気温だけでなく、寝室の壁や天井、床の温度にも影響を受けます。
寝室全体を最適の温度にするためには、眠る30分ほど前からエアコンをつけておくと良いでしょう。


「経済的な面や、節電を考えると、一晩中エアコンをつけておくのはイヤだな」
と思う方は、眠ってから3時間ほどと、目覚める前の30分~1時間くらいに
エアコンがつくように設定することをおすすめします。



睡眠の前半には「ノンレム睡眠」という、主に脳の睡眠が多く現れます。
特に、寝ついてからの3時間ほどには、深いノンレム睡眠が集中していて、
脳の休息に大事な役割を担っています。

ですから、眠ってからの3時間は、しっかりエアコンを使って、寝室を理想の温度・湿度に保つべきです。


また、体温は1日のうちで1度くらい上下し、
夕方から夜にかけて最も高くなり、早朝に最も低くなるリズムを持っています。

しかし、ノンレム睡眠中は、脳が休んでいるため、体温調節がうまくできません。
ですから、室温をちょうど良い温度に調整しておいて、
体温が下がりやすい状態にしておく必要があります。

             

夏の朝には、暑さのため、予定の起床時刻より早く目覚めることがあります。
これが繰り返されると、睡眠不足で体力を消耗してしまいます。

目覚める少し前から寝室を涼しくしておくと、熱帯夜でもスッキリ目覚められます。
そのため、目覚める前の30分~1時間くらいにエアコンがつくように設定しておきましょう。


寝ついてからのしばらく、あるいは目覚める前のどちらか一方にだけエアコンを使うなら、
眠るときにだけつけておくのが健康的です。
そのほうが、睡眠の質が良くなるからです。


目覚める前の時間帯には、夢を見て体を休息させるレム睡眠が多くなります。
レム睡眠では、脳の働きが活発になっているので、ノンレム睡眠に比べて自分の力で体温調整をしやすくなります。

また、体温のリズムから見ても、早朝には少しずつ体温が上がってきたほうが、目覚めやすくなります。


さらに、睡眠の前半でたくさんの汗をかいていると、
エアコンの冷気でそれが冷やされて体温が下がりすぎ、
睡眠の質が悪くなったり風邪をひきやくなったりします。

ですから、睡眠の始めか終わりかのどちらか一方なら、眠り始めにエアコンを使うのが良い、ということです。


             

◆「扇風機のそのまま使用」は、こむら返りや倦怠感を招く

扇風機を何となくそのまま固定で使用している場合、「首振り機能」を必ず使うようにしましょう。

エアコンに比べて扇風機の消費電力は、20分の1程度の少なさです。
同じ室温でも秒速1メートルの風が吹くと、体感温度が1度も下がります。
ですから、熱帯夜は節電のためにも、扇風機を上手に使うことが求められています。


睡眠の前半に体温が下がらないと、睡眠の質が悪くなります。
熱帯夜に寝苦しいのは、体温が十分に下がらないことが原因のひとつです。

暑い夜には、体温を下げようとして、汗をかきます。
汗が蒸発するときに、体の表面から気化熱が奪われて、体温が下がるからです。
適度な扇風機の風は、汗の蒸発を助けて体温を下げ、よい眠りに導いてくれます。


ほとんどの扇風機には、「首振り機能」が備わっています。
眠るときにはこの首振り機能を、きちんと使うようにしましょう。

首振りせずに扇風機を使うと、体の1カ所だけに風が当たり、冷え過ぎてしまいます。
筋肉が冷え過ぎると、夜中にこむら返りやケイレンが起こったり、
目覚めた後にだるさや倦怠(けんたい)感を感じたりします。


もし、首を振らせることができない扇風機を使っているなら、
弱い風を頭だけに、当てるようにしましょう。

睡眠の目的の1つが、脳のクールダウンです。
そのために頭部の皮膚を通して、脳を冷やすというのは、理にかなっています。
実験でも、頭を集中的に冷やすことで、睡眠が改善することが分かっています。


扇風機の首を振らせながら風を体に当てても、体の片側だけに風が当たり、
不均一な冷やし方になる恐れがあります。


理想的には、体に直接風を当てず、体の上空に風を送って、
空気をかき混ぜるようにすると、体への負担が少なくなります。

はじめは物足りない感じがしますが、
しばらくすると弱いながらも風を感じることができるはずです。
最近では左右だけでなく、上下方向にも首を振れる扇風機もありますから、この機能も十分に活用してみてください。


タイマーの使い方も大切です。
寝ついてから3時間は扇風機が回っているようにセットしてください。
最近の扇風機では、一度、電源が切れた後にもう一度スイッチを入れられるものもあります。

これが使えるなら、寝ついてからの3時間と、
目覚める前の30分~1時間に扇風機が回るようにセットすると、目覚めもスッキリします。


             

◆「夜に水分を控える」と、心筋梗塞や脳卒中での死亡リスクも

夜中にトイレへ行きたくないとか、睡眠中にあまり汗をかきたくないと思って、
眠る前に水分を控える人がいますが、それはとても危険なことです。
眠る前に500mL以上の水分をとるようにしましょう。


平成28年6~9月の熱中症による死亡者数は、厚生労働省の発表によると、
全国で579人に上りました。

前年に比べて死亡者数は減っていますが、平成22年以降7年連続で500人を超えたままです。
熱中症の症状が出るのは、主に暑い日中ですが、その準備段階は睡眠中に始まっています。


熱中症は、高温多湿の環境にいて多量の汗をかき、体内の水分や塩分が失われることで起こります。
睡眠中にも汗をかきます。

汗を自覚しない状態でも、一晩でコップ1杯ほどの汗が出ています。
これが熱帯夜になると、一晩で500~1000mLも汗をかくことも珍しくありません。


これだけの水分と塩分を失った後、
暑い日中にさらに汗をかくと、熱中症になりやすくなります。
また、早朝には血液が濃くなっているので、心筋梗塞や脳卒中の危険性が高まってしまいます。


熱中症の予防には、汗として失った水分と塩分の補給がもっとも大切です。
さらに良いのは、汗をかく前に失われると予測される水分と塩分の一部を、
あらかじめ補給しておくことです。

睡眠中にこまめに起きて水分補給することは現実的でないので、
眠る前までに500mLくらいの水分を余分に飲んでおくと良いでしょう。


ただし、眠る直前に大量の水分をとると、トイレへ行くために起きる回数が増えてしまいます。
夕方から眠る少し前までにかけて、ゆっくりと水分を補給しましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

記事を読み終わった後、医師で睡眠に関して第一人者の坪田 聡さんの懇切丁寧なアドバイスに、
多々教示されて、やがて微笑んだりした・・。

私は午前中のひとときは、我が家の家内から依頼された平素の買い物を終えた後、
ここ一週間は平素は我が家の3キロ範囲を散策しているが、
熱中症が怖くて、30分ぐらい歩く程度となっている。

この間、家内は平素の室内の掃除を終えて、
居間のエアコンの冷房を省エネの28度に設定している・・。
やがて居間、玄関の内部、洗面所、トイレ、台所など完全冷房となっている。

この間、家内は室内の掃除を終えて、
居間にあるエアコンを冷房の省エネの28度に設定して、居間はもとより、
やがて玄関の内部、洗面所、トイレ、台所を完全冷房としている。
こうした中で私たち夫婦は、居間の17畳ぐらいの洋間で、午後の大半を過ごしている。

こうした中、私は居間の片隅に折り畳みができる簡易ベットを敷いて、
横たわりながら本を読んだり、昼寝をしたりしている。

家内はソファーに座り、本を読んだり、テレビを視聴したり、
或いは山ガールより朝の起床が早いので、居間の片隅で夏掛けの布団にくるまり、昼寝をしたりしている。

この間、熱中症で救急車にお世話になることは避けたく、買い物とか散策の時はもとより、
居間でも冷茶、アイスコーヒー、ときにはペットボトルの麦茶、ウーロン茶を飲んだりして、
水分補給はしている。

             
やがて夕食の前に、2階の寝室のエアコンを最強の16度にセットし、
日中の熱い陽射しが差し込み、寝室の和室6畳でも、天井、壁面まで粗熱で熱く、
数時間は冷房で冷却したりしている。

この後、9時過ぎには早寝早起きの家内は、寝室に行き、エアコンを止めて、
冷気の中で寝てしまう。

私は居間で本を読んだり、ネットの記事を読んだりしている。

やがて私は、冷気が残る布団にもぐるのは、真夜中の12時前後であり、
目覚めるのは朝の5時半ぐらいが多くなっている。

こうした中で、現役サラリーマン時代だった時と違い、悩みは激少している為か、
たとえ震度3ぐらいの地震でも、 目覚めることなく熟睡している。

そして目覚めた時、ぼんやりと昨日は・・と思い浮かべたり、
今日は・・と予定事項を思い浮かべたりしている。

このような時、家内が寝室に来て、エアコンを冷房25度に設定してくれる。
こうした冷気の中、私は本を読んだりして、この世の贅沢なひとときを甘受している。

やがて一時間を過ぎた時、オシッコだ、と感じて、布団から起きだすことが多くなっている。
       
ここ一週間は、このように私は過ごしたりし、何かと気弱な私の夏の陣としている。

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納得のいく「要介護認定」を受けるため「介護認定調査」の詳細項目、初めて私は学び、やがて微苦笑を重ねて・・。

2018-07-17 14:55:28 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの公式サイト【マネーの達人】の『シニア』を見たりした中で、
『 納得のいく「要介護認定」を受けるためには? 
      「介護認定調査」の概要と正しく認定されるためのポイントを紹介
と題された見出しを見てしまった。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住み、
私より14歳年配で87歳の身となっている。

過ぎし年、私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
我が家より2時間半を要する千葉県のある市で独り住まいの生活をされて、早や13年半となっている・・。            
     
これ以来、家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行ったりしてきた。

やがて家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、        
こうした後、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりして『要介護2』となってきた。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

まもなく家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に殆ど宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母はデイ・サービスに通った成果で、市の福祉課が再審査を得て、
『要介護2』から『要支援2』と回復して認定されたりした。
           
このように、家内は家内の妹と逐次連絡しあって、家内は独り住まいの家内の母宅に行っている時は、
私は我が家で『おひとりさま』の生活となっている。

こうした関係で、ときおり私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごし、
早や13年半を迎えている・・。

              

そして私は、家内の母の『要介護認定』に関しては、或いは『介護認定調査』については、
家内から漠然と聞くだけで、どのような詳細のことは無知であり、
いつの日にか私か家内が介護を受けることに備えて、この記事を精読してしまった。

この記事は、介護職歴10年以上で介護福祉士、福祉住環境コーディネーターをされている中村 楓さんの寄稿文であり、
【マネーの達人】に2018年7月10日に配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・家族に介護が必要になった時、まずは要介護認定の申請をします。

              

この要介護認定を受けるために行われるのが「介護認定調査」です。

しかし、この介護認定調査については、よくわからないと不安に思っている人も多いでしょう。

そこで、今回は介護認定調査の概要と実際の調査で気を付けたいポイントを紹介します。

「介護認定調査」は、介護を受ける人の普段の様子を知るための調査です。

介護認定調査とは、要介護度を認定するために行われる調査です。

介護認定調査員が対象者の自宅に訪問して、動作の確認や普段の様子を聞き取ります。
入院している場合には、状態が落ち着いていれば、病院での調査も可能です。

調査は原則1回の訪問で終わらせることになっているため、調査時の様子で判断されると思われがちです。
しかし実際には、項目によって1週間から1か月の本人の様子を聞き取って審査にかけられます。

ですから、調査を受ける際には、いかに普段の様子を、漏れなく伝えることができるかが大切となるのです。

              
介護認定調査では、大きく分けて「動作確認」と「聞き取り調査」の2つの調査が行われます。

それぞれについてみていきましょう。

              

☆動作確認

実際に対象者本人に体を動かしてもらい、確認する調査です。

動作確認を行うものは次の10種類です。

・麻痺の有無
・関節の動く範囲
・10分程度の座位保持
・10秒程度の両足立位保持
・1秒程度の片足立位保持
・5メートルの歩行
・立ち上がり
・起き上がり
・寝返り
・ベッドから椅子へなどの移乗

実際に行ってもらうことが望ましいとされています。

しかし、5メートル連続して歩ける場所がなかったり、
布団で寝起きしていて、寝返りなどの確認が難しい場合には、聞き取りで確認することもあります。


日によって体調に波があり、調査時と普段の様子が違う場合には、
その旨を調査員にしっかり伝えましょう


              

☆聞き取り調査

聞き取り調査には、対象者の心身の状態や日常生活などについて、5分野45項目の質問があります。

具体的には、以下のような内容について聞き取りが行われます。

・入浴、排せつ、食事
・衣服の着脱や整容の様子
・外出頻度
・視力、聴力
・もの忘れや徘徊などの行動
・介護の手間がかかるような認知症状
・金銭や薬の管理
・14日以内の医療行為

認知症に関わる質問では、本人を目の前にして答えられないこともあるでしょう。

その場合には、別室や玄関先など本人のいない状態で聞き取りもできます。

前もって紙にまとめておき、本人にわからないよう調査員に渡すのも一つの手です。
特に、認知症状で家族が困っている場合には、
具体的に普段の様子や家族の介護の手間を伝える
ようにしましょう。

              

☆新規申請の時にはできるだけ同席しよう

介護認定調査を初めて受ける場合には、普段の様子を伝えるためにも、
主たる介護者が同席するようにしましょう。


もし、仕事などで同席の都合がつかない場合には、電話での聞き取りを頼むのも一つの手です。
同席できないときには、申請の段階で電話での聞き取りをお願いしてください。

普段の様子を漏れなく正確に伝え、納得いく要介護認定を受けましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
              

私は確か65歳の頃、
男性の多くは、70代となれば体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から学んだりした。

そして公的介護保険には、『要支援』1から2、そして『要介護』1から5まで、日常の動作、病状によって認定される、
と学んだりしてきた。

要支援1 :
日常生活上の基本動作については、ほぼ自分で行うことが可能ですが、
要介護状態への進行を予防するために、IADL(手段的日常生活動作)において、何らかの支援が必要な状態。
 

要支援2:
要支援1と比べて、IADL(手段的日常生活動作)を行う能力がわずかに低下し、
機能の維持や改善のために、何らかの支援が必要な状態。

 
要介護1:
要支援の状態からさらにIADL(手段的日常生活動作)の能力が低下。
排せつや入浴などに、部分的な介護が必要な状態。

要介護2:
要介護1の状態に加えて、歩行や起き上がりなどに、部分的な介護が必要な状態。 

要介護3:
要介護2の状態からさらにIADL(手段的日常生活動作)およびADL(日常生活動作)が著しく低下し、
立ち上がりや歩行が自力ではできず、排泄や入浴、衣服の着脱などにも、ほぼ全面的な介護が必要な状態。

 

要介護4:
要介護3よりも動作能力が著しく低下し、日常生活ほぼ全般を介護なしで、行うことが困難な状態。 

要介護5:
要介護4の状態よりさらに動作能力が低下し、意思の伝達も困難になり、
介護無しには、日常生活を送ることが不可能な状態。
 


☆IADL(手段的日常生活動作):買い物、家事全般、服薬管理、支払い手続き、趣味の活動など
☆ADL(日常生活動作):食事、排泄、整容、移動、入浴などの日常生活で基本的な行動

この後、介護費の負担を減らすための、介護保険の支給限度額の自己負担額など、
漠然としながらも、学んできた。

              

今回の介護認定調査について、過ぎし5年前の頃、私の親戚の叔父さん、叔母さんのことが、
思いだされた・・。

何かしら叔父さんが要支援2の状態で、叔母さんに見守られながら過ごされていたが、
ある時、自治体の区から若き30代の女性が「介護認定調査」で来宅された時、
叔父さんは元気そうに要支援1のようにふるまって、困ったわ、と叔母が私たちに話されたりした。

このようなことを私は思い浮かべて、日常の生活状態をありのままに伝えなければ、
あとで本人が困苦するのになぁ・・と私は微苦笑したりした。

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