私は旅先に於いては、原則として投稿をしない方針である。
もとより携帯電話も使えない身であり、モバイル・ノートパソコンもないので、
今回、青森地域の旅行の間は、投稿はできないので、
これまで『冬の旅』を重ねてきた一部で、年末年始の旅を除き、再掲載する。
昨年の1月24日に奈良の『若草山 山焼き』を観る為に、
奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れた。
『東京駅』から『名古屋駅』まで新幹線の《こだま》に乗車した後、
観光パスで、大和路の『西大寺』に寄り、
『若草山 山焼き』観た後は奈良市内のホテルに宿泊する。
翌日は、『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行である。
この旅に於いて、『若草山 山焼き』は家内のお好みで、
私は何より未知の『室生寺』にあこがれがあるので、小雪が舞い降る中で『室生寺』の情景が観られれば、
無上の悦(よろこ)びと思っている程度の男である。
第一章 みゆき舞い降る『西大寺』
新幹線の『名古屋駅』を下車後、指定の観光バスに乗車する寸前、
晴れ渡った中、ひとひら、ふたひらと小雪が舞ってきた。
奈良市の街中の『西大寺』まで、小雪が降ったり、晴れ間となったりし、
うつろいやすい冬の情景が変貌したりした。
無学な私は『西大寺』が街の中で、ひっそりと程々の規模であったのはあったので、
私は少し驚いたのである。
奈良時代の天平期に創建された頃は、
東の東大寺と対応するように西の大寺として西大寺があったが、
平安時代には衰退し、鎌倉時代の中期の頃に、
ひとりの名僧の叡尊により復興した、と伝えられている。
http://www.naranet.co.jp/saidaiji/
端正ですこやかな『釈迦如来立像』、
つぶやな瞳で何かを訴えるような『善財童子』はさることながら、
私はやはり西大寺を復興させながら、多くの僧侶からはもとより、民衆からも尊敬され、
親しまれた叡尊に心を寄せられたのである。
そして、このお方の『興正菩薩叡尊坐像』に見惚(みと)れたのである。
家内と多くの人たちは、『愛染明王坐像』の秘佛特別開扉で、
説明を聞き入っていたが、私は興味がなく、
小雪の舞う中、境内を歩き廻ったり、しばらく土塀を眺めたりしていた。
そして、遙かかなたの時代、民衆の貧しくも苦楽の営みの中、
天皇はもとより、時の権力者に対し、仏教による民衆の救済を武器に、
毅然と求道しながらも、確かなひとつの権力者への軌跡をたどった人に思いを馳せた。
第二章 『若草山 山焼き』の後には
『西大寺』を観た後、宿泊する『日航ホテル 奈良』に観光バスは向ったが、
市内の道路は、『若草山 山焼き』を観に行く方たちで、
自動車で渋滞であった。
そして、予定時間より遅れ、『日航ホテル 奈良』に到着した。
http://www.nikkonara.jp/
ホテルに入室後、窓べから市内の街並み眺めた後、
私達夫婦は『山焼き』を観る為に、4時半過ぎに三条通りを歩き始め、
春日大社の方面を目指した。
私は途中で『猿沢池』に立ち寄り、
私が敬愛している亡くなわれた作家・立原正秋氏を偲(しの)ぶ為、
しばらく湖面や周辺の情景を眺めていた。
作家・立原正秋氏が若き頃に、大和路を歩かれた折、
馬酔木(あしび)さく奈良公園に
たたずむもなみだながせし二十歳(はたち)のなつかしき
作・立原正秋
このような短歌を私は想いだし、亡き作家に愛惜を重ねたのである。
そして、前方の状景を改めて見上げた時、『興福寺』の五重塔がひっそりとたたずんでいた・・。
この後、私達は春日大社の長い表参道を歩いたが、
無念ながら大社の門は時間が過ぎて閉門なり、
『山焼き』を観る場所は、視界の開けた飛火野の地が最良と思い、
『山焼き』の開始前の合図として花火を打ち上げるのを待ちわびたのである。
http://www.kasugano.com/wakakusayama/
暗くなった夜空に、星が10数個がまばたいて折、
私の住む街よりも美麗であった。
そして、花火の打ち上げの音(ね)の後、数秒後に夜の空を彩(いろど)ったのである。
この後は、若草山は予定通り点火され、山裾から燃え始めたのであるが、
過日に雨が降ったためか、期待したより燃え上がらず、
私達は諦(あきら)めて、『東大寺』に行ったが、
やはり閉門と知り、宿泊先のホテルに戻ったのである。
風呂を上がった後、ぼんやりと純米酒を呑みだし、
秋篠の名をなつかしみ
そのかみこの道を行きし
正秋
と捺印された一枚の色紙を想いだした。
この一枚の色紙は、
角川書店が立原正秋三周忌記念出版として『立原正秋 全集』(全24巻)を
昭和59年に発刊した時、
予約した中で希望者に抽選で配布された稀な色紙である。
私は敬愛している作家であったので、即急に予約し、
幸運にも頂けたひとりであり、私のカラス戸のある本棚で
いつでも拝見できるようにし、早くも25年が過ぎようとしている。
第三章 『長谷寺』は限りなく優(やさ)しく
観光バスが『長谷寺』の近くを走ると、車窓からは里の情景となった。
私は『長谷寺』は初めて訪れるので『仁王門』を見上げた後、
ゆるやかな昇り廊を歩き始めが、
歩幅は和服の裾が乱れることなく歩ける、と余計なことを思ったりした。
そして、左右に牡丹(ボタン)園となって折、幾重にも牡丹が植えられて、
寒牡丹がひっそりと10数輪が彩っていた。
http://www.hasedera.or.jp/
『花の御寺』として名高く、四季折々、花木と草花で彩(いろど)られ、
この時節には、寒牡丹、山茶花(さざんか)、蝋梅(ロウバイ)、福寿草、雪割草、
と解説書に明記されているが、
私は花がなくとも、それなりの時節を想像できるので、
あればそれに越したことはないと思う程度である。
本堂にある大きな『十一面観世音菩薩』、
金文字で大きく『大哀閣』と明示された額などは興味はなく、
ただ山の中腹に張り出すような板の間からの前方の雄大な展望は、
遠方の空を眺めたりすると、それぞれの時の権力者の姿が浮べ、
歴史に埋もれた人たちも浮かび上がってくるように思えたりしたのである。
この後、早春の暖かな陽射しにつつまれた中、
『弘法大師御影堂』を観たり、『五重塔』を眺めたりした後、
歩道を下り、休み処で椅子に腰掛けて、温かいペットボトルの煎茶を飲んだりしていた・・。
そして、煙草を喫いながら、前方の傾斜の落葉樹を眺め、
見上げると『五重塔』が観えて、視界全体が一幅の絵のように私は観えたのである。
私は少しため息をしながら、見惚(みと)れていたのである。
私はこの寺院全体は、限りなく優(やさ)しい情景に思え、
まるで6歳ぐらいの少年が母親の胸元に顔を近づけて甘えているしぐさ、
とも感じられたのである。
長谷寺を辞去すると、土産売り場の店並みがあり、
この中で『奈良漬』の店に家内の後に続いて入ったのである。
私はお酒大好きな呑兵衛のひとりであるので、奈良漬は苦手である。
店内のうり、きゅうり、すいか、かぶら、しょうが、守口大根の種類の多さに驚き、
家内の勧めで、しょうがをひと口を頂いたのであるが
まぎれなく美味で、私は思わず、
『晩酌の・・付け出しにぴったり・・』
と私は家内に囁(ささや)いたのである。
結果として、しょうがを2袋、ネギのように細長い守口大根を1袋を買い求めたのであるが、
このひと味でも、私は少なくとも一日は幸福感をかみ締めることができたのである。
家内と店先を去るとき、
《 本家 白酒屋の奈良漬 》
と私は垂れ幕が見えたりした。
第四章 秘かに私は恋していた『室生寺』は・・。
観光バスが『室生寺』の近くづくと、周辺の山なみはなだらか状景から鋭角な風景に変貌した。
『室生寺』を参拝する前に、昼食として『山菜料理』を頂くことになって折、
私達は『橋本屋旅館』に入った。
http://www.jtb.co.jp/kokunai/Sight.aspx?bookid=A3903180&categorytype=4
2階の大広間の私の座った処からは、
『室生寺』の門前に架けられた太鼓橋と称された朱色の橋が観え、
そして、室生川は清冽な水が流れ、山里の情景であった。
http://www.mapple.net/spots/G02900020703.htm
サイトの解説に明記されているとおり、
ワラビ、タラの芽、ゼンマイ、ウドなど室生で採れた山菜が小鉢に盛られ、
山菜づくしの料理であり、
素朴な食材を丁重に味付けをしていたので、何よりの私好みの料理であった。
この後、私達は初めて訪れる『室生寺』の大きな仁王門を通り、
鎧坂の自然石の石段を登り上がると、忽然と金堂が観えたのである。
http://www.murouji.or.jp/
私は無念ながら仏像を視(み)る素養がないので、
少しばかり見たりした後,
本堂を通り過ぎ、石段を昇ると、杉木立の中に、五重塔があった。
大きな杉木立の中、森厳につつまれ、優美で気品を秘めた姿であった。
しばらく私は見惚(みと)れて、ため息をした・・。
私は20代のなかばより、いつの日にか、この方にお逢いしたい、
と片思いを続けてきた男のひとりであった。
そして、まぎれない美を目の前にすると、
私は心が高まり、少し照れながら、塔の全貌を眺めたりしたのである。
この後は、奥の院に向う歩道は、
樹齢何百年か定かでないが、杉の巨木が山の斜面に限りないほどあり、
その間の空間からは前方の山なみが観え、広大な一幅の絵となり、
圧倒的な存在の光景となり、確固たる森厳の中、
山林仏教を求道した古人の僧侶たちの思いが、少し解かったような思いとなったのである。
帰路、お守りなどを販売している所で、
一冊の本に目が止まり、買い求めたのである。
『女人高野 室生寺』と題された美麗な本で、表紙には五重塔であり、
《 国宝 室生寺五重塔 落慶記念 》と帯に明記されていた。
私は2500円と見本品の隅に書かれていたが、
この『女人高野 室生寺』の本は、どこにも定価は印刷されておらず、
私が高校時代より数多くの本を買い求めてきたが、初めての経験であり、
私は微笑しながら、昔の女子学生のような大切に本を抱(かか)えながら、
観光バスの駐車している集合場所に向ったのである。
最終章 旅の終わりは、同行グループのご夫婦と談笑し・・。
今回の短か奈良の旅も名古屋駅で、東京駅行きの新幹線の『こだま』に乗車する為、
駅の構内で時間調整をしていた。
団体観光ツアーだったので、所定の集合場所と時間を決められていたが、
早めに所定の場所に私達夫婦は行った。
私達が参加した今回のツアーは40数名で、何かしらキャンセル待ちの人々がいた、
と聞いたりした折、旅行会社の企画としては成功部類かしら、
と私は微笑んだりしていた。
このような思いでいたら、家内は私達と同じツアーのご夫婦と談笑していた。
私は今回の団体観光ツアーの人たちとは、
観光バスで休息地、観光先、ホテルのチェック・アウト後のひとときなどで、
同行グループとは余り会話をすることがなかったことに改めて気付き、
異例のことでもあった。
家内とご夫婦の方と、以前に旅行した思い出話をしていたが、
奥様が私の方を見て、微笑みながら、
『ご主人さま・・あなた方を見ていて・・羨ましいわ
だって・・ご主人は奥様のことを・・XXちゃん・・とお名前を呼ばれるんですもの・・
最初・・聴こえた時は・・びっくりしたわよ・・』
と云われたのである。
『・・婚約する前から・・呼んでいましたので・・』
と私は少し戸惑い、そして照れながら云ったりしたのである。
この後、私は主人と旅のこぼれ話を談笑したのである。
私より5歳ぐらい齢上の方の主人であったが、
私達夫婦は40代の頃から、団体観光ツアーに参加した折、
ご夫婦の方たちのしぐさ、言葉、そして会話をしたりし、
人生の教科書として、多くを学んだりしてきた。
そして、私達もあのように60,70代を迎えたいね、
と私は家内の話したりしてきたのである。
東京駅から自宅に着くまで、1時間で有ったので、
日曜日のせいか10分早かったね、と私は家内に云いながら、
門扉を開けた。
そして玄関までの薄暗い中、石段を上がる途中、
玄関庭の白梅が5輪ばかり咲き、私達を出迎えてくれた。
(終わり)
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今回、青森地域の旅行の間は、投稿はできないので、
これまで『冬の旅』を重ねてきた一部で、年末年始の旅を除き、再掲載する。
昨年の1月24日に奈良の『若草山 山焼き』を観る為に、
奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れた。
『東京駅』から『名古屋駅』まで新幹線の《こだま》に乗車した後、
観光パスで、大和路の『西大寺』に寄り、
『若草山 山焼き』観た後は奈良市内のホテルに宿泊する。
翌日は、『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行である。
この旅に於いて、『若草山 山焼き』は家内のお好みで、
私は何より未知の『室生寺』にあこがれがあるので、小雪が舞い降る中で『室生寺』の情景が観られれば、
無上の悦(よろこ)びと思っている程度の男である。
第一章 みゆき舞い降る『西大寺』
新幹線の『名古屋駅』を下車後、指定の観光バスに乗車する寸前、
晴れ渡った中、ひとひら、ふたひらと小雪が舞ってきた。
奈良市の街中の『西大寺』まで、小雪が降ったり、晴れ間となったりし、
うつろいやすい冬の情景が変貌したりした。
無学な私は『西大寺』が街の中で、ひっそりと程々の規模であったのはあったので、
私は少し驚いたのである。
奈良時代の天平期に創建された頃は、
東の東大寺と対応するように西の大寺として西大寺があったが、
平安時代には衰退し、鎌倉時代の中期の頃に、
ひとりの名僧の叡尊により復興した、と伝えられている。
http://www.naranet.co.jp/saidaiji/
端正ですこやかな『釈迦如来立像』、
つぶやな瞳で何かを訴えるような『善財童子』はさることながら、
私はやはり西大寺を復興させながら、多くの僧侶からはもとより、民衆からも尊敬され、
親しまれた叡尊に心を寄せられたのである。
そして、このお方の『興正菩薩叡尊坐像』に見惚(みと)れたのである。
家内と多くの人たちは、『愛染明王坐像』の秘佛特別開扉で、
説明を聞き入っていたが、私は興味がなく、
小雪の舞う中、境内を歩き廻ったり、しばらく土塀を眺めたりしていた。
そして、遙かかなたの時代、民衆の貧しくも苦楽の営みの中、
天皇はもとより、時の権力者に対し、仏教による民衆の救済を武器に、
毅然と求道しながらも、確かなひとつの権力者への軌跡をたどった人に思いを馳せた。
第二章 『若草山 山焼き』の後には
『西大寺』を観た後、宿泊する『日航ホテル 奈良』に観光バスは向ったが、
市内の道路は、『若草山 山焼き』を観に行く方たちで、
自動車で渋滞であった。
そして、予定時間より遅れ、『日航ホテル 奈良』に到着した。
http://www.nikkonara.jp/
ホテルに入室後、窓べから市内の街並み眺めた後、
私達夫婦は『山焼き』を観る為に、4時半過ぎに三条通りを歩き始め、
春日大社の方面を目指した。
私は途中で『猿沢池』に立ち寄り、
私が敬愛している亡くなわれた作家・立原正秋氏を偲(しの)ぶ為、
しばらく湖面や周辺の情景を眺めていた。
作家・立原正秋氏が若き頃に、大和路を歩かれた折、
馬酔木(あしび)さく奈良公園に
たたずむもなみだながせし二十歳(はたち)のなつかしき
作・立原正秋
このような短歌を私は想いだし、亡き作家に愛惜を重ねたのである。
そして、前方の状景を改めて見上げた時、『興福寺』の五重塔がひっそりとたたずんでいた・・。
この後、私達は春日大社の長い表参道を歩いたが、
無念ながら大社の門は時間が過ぎて閉門なり、
『山焼き』を観る場所は、視界の開けた飛火野の地が最良と思い、
『山焼き』の開始前の合図として花火を打ち上げるのを待ちわびたのである。
http://www.kasugano.com/wakakusayama/
暗くなった夜空に、星が10数個がまばたいて折、
私の住む街よりも美麗であった。
そして、花火の打ち上げの音(ね)の後、数秒後に夜の空を彩(いろど)ったのである。
この後は、若草山は予定通り点火され、山裾から燃え始めたのであるが、
過日に雨が降ったためか、期待したより燃え上がらず、
私達は諦(あきら)めて、『東大寺』に行ったが、
やはり閉門と知り、宿泊先のホテルに戻ったのである。
風呂を上がった後、ぼんやりと純米酒を呑みだし、
秋篠の名をなつかしみ
そのかみこの道を行きし
正秋
と捺印された一枚の色紙を想いだした。
この一枚の色紙は、
角川書店が立原正秋三周忌記念出版として『立原正秋 全集』(全24巻)を
昭和59年に発刊した時、
予約した中で希望者に抽選で配布された稀な色紙である。
私は敬愛している作家であったので、即急に予約し、
幸運にも頂けたひとりであり、私のカラス戸のある本棚で
いつでも拝見できるようにし、早くも25年が過ぎようとしている。
第三章 『長谷寺』は限りなく優(やさ)しく
観光バスが『長谷寺』の近くを走ると、車窓からは里の情景となった。
私は『長谷寺』は初めて訪れるので『仁王門』を見上げた後、
ゆるやかな昇り廊を歩き始めが、
歩幅は和服の裾が乱れることなく歩ける、と余計なことを思ったりした。
そして、左右に牡丹(ボタン)園となって折、幾重にも牡丹が植えられて、
寒牡丹がひっそりと10数輪が彩っていた。
http://www.hasedera.or.jp/
『花の御寺』として名高く、四季折々、花木と草花で彩(いろど)られ、
この時節には、寒牡丹、山茶花(さざんか)、蝋梅(ロウバイ)、福寿草、雪割草、
と解説書に明記されているが、
私は花がなくとも、それなりの時節を想像できるので、
あればそれに越したことはないと思う程度である。
本堂にある大きな『十一面観世音菩薩』、
金文字で大きく『大哀閣』と明示された額などは興味はなく、
ただ山の中腹に張り出すような板の間からの前方の雄大な展望は、
遠方の空を眺めたりすると、それぞれの時の権力者の姿が浮べ、
歴史に埋もれた人たちも浮かび上がってくるように思えたりしたのである。
この後、早春の暖かな陽射しにつつまれた中、
『弘法大師御影堂』を観たり、『五重塔』を眺めたりした後、
歩道を下り、休み処で椅子に腰掛けて、温かいペットボトルの煎茶を飲んだりしていた・・。
そして、煙草を喫いながら、前方の傾斜の落葉樹を眺め、
見上げると『五重塔』が観えて、視界全体が一幅の絵のように私は観えたのである。
私は少しため息をしながら、見惚(みと)れていたのである。
私はこの寺院全体は、限りなく優(やさ)しい情景に思え、
まるで6歳ぐらいの少年が母親の胸元に顔を近づけて甘えているしぐさ、
とも感じられたのである。
長谷寺を辞去すると、土産売り場の店並みがあり、
この中で『奈良漬』の店に家内の後に続いて入ったのである。
私はお酒大好きな呑兵衛のひとりであるので、奈良漬は苦手である。
店内のうり、きゅうり、すいか、かぶら、しょうが、守口大根の種類の多さに驚き、
家内の勧めで、しょうがをひと口を頂いたのであるが
まぎれなく美味で、私は思わず、
『晩酌の・・付け出しにぴったり・・』
と私は家内に囁(ささや)いたのである。
結果として、しょうがを2袋、ネギのように細長い守口大根を1袋を買い求めたのであるが、
このひと味でも、私は少なくとも一日は幸福感をかみ締めることができたのである。
家内と店先を去るとき、
《 本家 白酒屋の奈良漬 》
と私は垂れ幕が見えたりした。
第四章 秘かに私は恋していた『室生寺』は・・。
観光バスが『室生寺』の近くづくと、周辺の山なみはなだらか状景から鋭角な風景に変貌した。
『室生寺』を参拝する前に、昼食として『山菜料理』を頂くことになって折、
私達は『橋本屋旅館』に入った。
http://www.jtb.co.jp/kokunai/Sight.aspx?bookid=A3903180&categorytype=4
2階の大広間の私の座った処からは、
『室生寺』の門前に架けられた太鼓橋と称された朱色の橋が観え、
そして、室生川は清冽な水が流れ、山里の情景であった。
http://www.mapple.net/spots/G02900020703.htm
サイトの解説に明記されているとおり、
ワラビ、タラの芽、ゼンマイ、ウドなど室生で採れた山菜が小鉢に盛られ、
山菜づくしの料理であり、
素朴な食材を丁重に味付けをしていたので、何よりの私好みの料理であった。
この後、私達は初めて訪れる『室生寺』の大きな仁王門を通り、
鎧坂の自然石の石段を登り上がると、忽然と金堂が観えたのである。
http://www.murouji.or.jp/
私は無念ながら仏像を視(み)る素養がないので、
少しばかり見たりした後,
本堂を通り過ぎ、石段を昇ると、杉木立の中に、五重塔があった。
大きな杉木立の中、森厳につつまれ、優美で気品を秘めた姿であった。
しばらく私は見惚(みと)れて、ため息をした・・。
私は20代のなかばより、いつの日にか、この方にお逢いしたい、
と片思いを続けてきた男のひとりであった。
そして、まぎれない美を目の前にすると、
私は心が高まり、少し照れながら、塔の全貌を眺めたりしたのである。
この後は、奥の院に向う歩道は、
樹齢何百年か定かでないが、杉の巨木が山の斜面に限りないほどあり、
その間の空間からは前方の山なみが観え、広大な一幅の絵となり、
圧倒的な存在の光景となり、確固たる森厳の中、
山林仏教を求道した古人の僧侶たちの思いが、少し解かったような思いとなったのである。
帰路、お守りなどを販売している所で、
一冊の本に目が止まり、買い求めたのである。
『女人高野 室生寺』と題された美麗な本で、表紙には五重塔であり、
《 国宝 室生寺五重塔 落慶記念 》と帯に明記されていた。
私は2500円と見本品の隅に書かれていたが、
この『女人高野 室生寺』の本は、どこにも定価は印刷されておらず、
私が高校時代より数多くの本を買い求めてきたが、初めての経験であり、
私は微笑しながら、昔の女子学生のような大切に本を抱(かか)えながら、
観光バスの駐車している集合場所に向ったのである。
最終章 旅の終わりは、同行グループのご夫婦と談笑し・・。
今回の短か奈良の旅も名古屋駅で、東京駅行きの新幹線の『こだま』に乗車する為、
駅の構内で時間調整をしていた。
団体観光ツアーだったので、所定の集合場所と時間を決められていたが、
早めに所定の場所に私達夫婦は行った。
私達が参加した今回のツアーは40数名で、何かしらキャンセル待ちの人々がいた、
と聞いたりした折、旅行会社の企画としては成功部類かしら、
と私は微笑んだりしていた。
このような思いでいたら、家内は私達と同じツアーのご夫婦と談笑していた。
私は今回の団体観光ツアーの人たちとは、
観光バスで休息地、観光先、ホテルのチェック・アウト後のひとときなどで、
同行グループとは余り会話をすることがなかったことに改めて気付き、
異例のことでもあった。
家内とご夫婦の方と、以前に旅行した思い出話をしていたが、
奥様が私の方を見て、微笑みながら、
『ご主人さま・・あなた方を見ていて・・羨ましいわ
だって・・ご主人は奥様のことを・・XXちゃん・・とお名前を呼ばれるんですもの・・
最初・・聴こえた時は・・びっくりしたわよ・・』
と云われたのである。
『・・婚約する前から・・呼んでいましたので・・』
と私は少し戸惑い、そして照れながら云ったりしたのである。
この後、私は主人と旅のこぼれ話を談笑したのである。
私より5歳ぐらい齢上の方の主人であったが、
私達夫婦は40代の頃から、団体観光ツアーに参加した折、
ご夫婦の方たちのしぐさ、言葉、そして会話をしたりし、
人生の教科書として、多くを学んだりしてきた。
そして、私達もあのように60,70代を迎えたいね、
と私は家内の話したりしてきたのである。
東京駅から自宅に着くまで、1時間で有ったので、
日曜日のせいか10分早かったね、と私は家内に云いながら、
門扉を開けた。
そして玄関までの薄暗い中、石段を上がる途中、
玄関庭の白梅が5輪ばかり咲き、私達を出迎えてくれた。
(終わり)
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