夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

新型コロナワクチン予防接種の4回目、77歳の私は本日終えて、少し安堵を重ねて・・。

2022-06-30 11:39:10 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住んでいる年金生活の77歳の身であり、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、私の住む市より、一カ月半前の頃、
『新型コロナワクチン 追加(4回目)接種のお知らせ』が郵送されてきた。


この後、私は『個別医療』を選定して、最寄りの内科専門医院に行き、
接種の予約をして、やがて6月30日午前9時に接種と決定した。




私の住む地域は、昨今35度以上の猛暑日が5日間続き、
本日の朝も、燦燦と照らす雲ひとつない晴れとなり、
6日連続の猛暑日かょ・・と苦笑したりした。

やがて、新型コロナウィルスワクチン予防接種の4回目を受ける為に、
私が熱い陽射しを避ける為に、日傘を差して、最寄りの内科専門医院に行き、

やがて接種を受けたりした・・。

やがて受付の若き女性より、大切な書類ですょ、と私に言いながら、
『新型コロナウィルスワクチン 予防接種済証(臨時接種)』、
A4サイズの通知証を私は受け取ったりした。

何かしら今回の第4回目の接種明細であった。
接種年月日、製造元『ファイザー』製の『コミナティ筋注』、接種場所、
記載されていた。

この下段に『新型コロナワクチン1、2、3回目接種記録』、
それぞれの接種年月日、製造元メーカー、Lot Noが明記されていた。

やがて我が家に向かう帰路、ぼんやりと第1回目、第2回目の接種した時、
思い馳せたりした・・。




昨年の6月5日に1回目の接種を受け、接種前の体温は36・1度で、
直後に何ともなかったので、平素の通り買い物、散策をした後、夕寝を一時間した後、
わずか微熱が出て、36・6度であった。

そして入浴を断念して、寝る前の11時に、
検温したら、平熱の36・2度となり、微苦笑したりした。

この間、一回目のワクチン接種の問診の時、医院長より、
『XXさん・・特に二回目の接種後に、強く痛みを感じた場合に備えて、
お薬をお出ししましょうか・・』
と微笑みながら、私に言ったりした。

そして何かと小心者で感受性の強い私は、
『お願い致します・・何分、気弱な身でして・・』
と私は微笑みながら、医院長に応(こた)えたりした。

こうした私は、炎症を抑える薬、喉の腫れや痛みを抑える薬、
熱を下げる薬・・と称されているイブプロフェン錠を3日分を頂き、
2回目の6月26日の接種後の副反応に備えてきた・・。




そして昨年の6月26日、予定通り2回目の接種を受け、
帰路、明日は雨に備えて、コンビニに寄って、
少しばかり買い物をして帰宅した・・。

接種を受けて3時間過ぎているが、
何かと鈍感な私は、平素の体調と変わらず、微笑んでしまった・・。

もしかしたら何の変化もなく、明日の朝を迎えられるかも知れない、
と漠然と思ったりし、少しばかり安堵した・・。



しかしながら過ぎし日、ワクチンに詳しい北里大学の中山哲夫特任教授がテレビに出演されて、
「1回目のワクチン接種から免疫が働くまでには、10日間から2週間はかかるとみられ、
それまでは免疫応答は何も出ておらず、感染防御能はまずない。

そこから少しずつワクチンの効果が出てくる。
2回目の接種から1週間ぐらいして中和抗体ができることで、
感染や重症化を抑える強い免疫になる。

一方で、ワクチンは2回接種したとしても、
必ずしも100%感染を抑えるわけではないので、
安心して・・あちこち外出していいわけではない。
油断しては、いけない」と私は視聴しながら、学んだりしてきた・・。



こうしたことを学んできた私は、国民の多くがワクチン接種終え、
お互いに自粛すれば、やがて新型ウィルスの烈風が終息化となる・・。

こうした中で、日常生活は蘇(よみが)り、マスクもはずして、遠慮なく談笑でき、
旅行に行けるよなぁ・・と空を見上げながら、祈願したりしてきた。

やがて今年の1月27日、予定通り3回目の接種を受け、
何かと私は鈍感な為か、この後も平熱となり、微苦笑したりした・・。


そして本日、4回目の接種を受けたが、今の処は平熱で、微苦笑したりしている・・。

家内は『高齢者』74歳以下のグループなので、
まもなく市より『新型コロナワクチン 追加(4回目)接種のお知らせ』が郵送されてくる予定となっている。



やがて多くの御方が接種されて、政府より『新型コロナの終息』宣言を私は待ちわびている。

こうした根底のひとつには、私は園児、学童がマスクをしている状況は、
余りにも行動が制約され、痛ましく感じ、閉塞感を深めてきた・・。

もとより私だって、新型コロナ烈風の以前のように、
おおらかに街中の食事処で、談笑しながら、頂いたり、
或いは旅先の宿泊所、移動の交通機関の中で、知人はもとより、
見知らぬ御方と自在に歓談したり、
このようなことを再来することを夢想している。

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猛暑で電力需給ひっ迫、エアコン使用で熱中症予防し、照明等で節電を、私は学び、我が家の夏の陣は・・。

2022-06-29 14:04:08 | 喜寿の頃からの思い
先程、愛読している【ウェザーニュース】を見て、
『 今日も猛暑で電力需給ひっ迫
      エアコン使用で熱中症予防し照明等で節電を 』、
と題された見出しを見たりした。


私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
ここ5日間は35度前後の熱い日々が続いている。



一昨日の27日には、気象庁が関東の南部で『梅雨明け』を宣言され、
平年ならば学童が夏休みに入る7月21日頃に『梅雨明け』であり、
どうしてなのょ、今から真夏のような熱さが続き・・戸惑ったりしている・・。

こうした真情のある私は、今回の《エアコン使用で熱中症予防し・・照明等で節電を・・》、
真摯に学びたく、記事を読んでしまった・・。

この記事は、【ウェザーニュース】に於いて、29日の 7:42配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。



《・・【ウェザーニュース エナジーフォーキャストセンター】 

今日6月29日(水)も東日本を中心に猛暑となり、熱中症の危険性が高くなります。 

冷房による電力需要が増大し、平日であることも影響して、
電力需給がひっ迫する可能性があるため、
経済産業省は東京電力エリアに「電力需給ひっ迫注意報」をだして節電を呼びかけています(特に15~20時)。

 エアコンの使用は、必要不可欠ですので、適切に使用し、
使っていない照明やテレビ・モニター等その他の節電にご協力をお願いします。


☆梅雨明け早々、真夏の暑さ


今週末にかけては梅雨前線が北上して本州から離れ、
日本列島は真夏の暖かく湿った空気に覆われます。

梅雨明け早々に厳しい暑さが続くため、
まだ身体が暑さに慣れていないこともあって、熱中症の危険性が高くなります。

 今日29日(水)の予想最高気温は東京で35℃、
群馬県の前橋などでは40℃と、
ヒトの体温を超えるような危険な暑さとなる見通しです。
この状況は今週末にかけて続く可能性があります。




☆電力需給がひっ迫のおそれ


気温上昇に伴う家庭や企業での電力需要が大幅に高まることや、
国内では今年から2024年にかけて発電設備容量(供給力)が、
例年よりも低い状況が続くことによって、電力需給がひっ迫する予想です。

 特に平日は、企業での電力使用量が多いため、ひっ迫度合いが高まります。

ウェザーニュースのエナジーフォーキャストセンターの電力需給予報では、
電力需要のピークは、昼過ぎから16時頃まで続くとみられます。

 正午前後は、太陽光発電により需給に余裕が出来るとみられますが、
供給可能な電力は夕方にかけて減ってくるため、
最も予備率が小さくなるのは15時~20時の時間帯とみられます。 

電力需給のバランスが崩れると、電力の安定供給ができなくなり、
最悪の場合は、大規模停電に繋がります。
電力会社はそれを防ぐために計画停電などを行うこともあります。



☆クーラーの使用はためらわないで


この猛暑は、今週末にかけて続くおそれがあり、
電力需給のひっ迫も金曜日にかけて続く可能性が考えられます。

 節電のために、エアコンを切ってしまうと熱中症の危険性が高まるため、
決して無理をしないで、冷房は適切に使用してください。

室温が28℃程度になるように調整するのが目安です。
使っていない照明器具やテレビ・モニターの電源を消すなど、
その他の方法での節電にご協力をお願いします。・・(略)・・ 》 

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
 


今回、《エアコン使用で熱中症予防し・・照明等で節電を・・》、
真摯に学だりした・・。


この記事の下段に《・・節電対策、あなたが気をつけていることは?
・・》、
と記載されていた。

やがて我が家の夏の陣・・思い重ねて、やがて微苦笑したりした・・。





私は平素の我が家の買物で、一日おきにスーパー、専門店などに独りで行ったり、
この後は帰宅後に、独りで買い物に行ったりしてる・・。


私は幼年期に農家の児として育てられた為か、寒さには強く、暑さに何よりも苦手な身であり、
家内は寒さに弱いが、夏の暑さは30度ぐらいでは平然としている。
こうした風変わりな夫婦なので、困ったなぁ、と私は幾たびも溜息をしたりした・・。

このような状況であり、家内はクーラーの冷風が苦手であり、
私はクーラーの冷風をこよなく愛するタイプであり、
35年前の以前は、夏の初め梅雨の時節は、我が家は『冷たい戦争』となってきた・・。

家内からすれば、女の人は冷え症の方が多く冷風は禁物なのよ、
と天上の神のような声に私には聴こえたので、
これ以来、私なりに多少耐えてきたのが実情となっている。




私が若き40代の当時、サラリーマンで奮闘していた時、
休日の時、テレビで確か主婦連の女性が、
夏のクーラーは程々に倹約して27度を超えたら、体調を配慮してクーラーを・・、
このような発言をしていた。

我が家は古い温度計しかなかったので、
まもなく私は真夏日の日曜日に渋谷のデパートに出かけて、
西ドイツ(現在・ドイツ)製の堅牢な温度・湿度計を購入したりした。



               
                我が家の居間にあるが、今回は特別に移動して記念写真とした。

そして、この後の暑い日になると、
『XXちゃん・・30度を超えているょ・・
主婦連だって・・体調を配慮してクーラーを・・と言っていたよ』
と私は温度計を指して、家内が見た後、クーラーの冷風をセットするのが、
ここ20年の我が家の習性となってきた。
          


過ぎし7年前の7月中旬、午前中のひととき、

私は平素の買物専任者のメール老ボーイの身であるので、
この日も歩いて10分ばかりのスーパーで買い物をしたりした。

燦々と陽射しが照らす中、夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、
長ズボンの容姿で颯爽と歩いたりしたが、汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりした。
そして帰宅後、洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の片隅で、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。

やがて昼下がりのひととき、私は奥の和室に簡易ベットを敷いて、
私は扇風機の風を受けながら、横たわりながら本を読んだりし、少し昼寝をしたりした。



翌日の午前中のひととき、私はいつものように平素の買物し、
この日は歩いて8分ばかりのスーパーで買い物をし、帰宅した。

この後、私たち夫婦は昼食代わりの素麺(そうめん)を頂いている時は、
30度を超えていたので、
私は扇風機の風に吹かれて、家内と話したりしていた。

『節電の時世・・数年前、確か政府は28度ぐらいの室温に協力を・・と言っていたよねぇ・・』
と私はエアコンの冷気に苦手な家内に言ったりした。

『そうでしたよねぇ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

『確か・・25年前頃・・主婦連の方たちが、夏のエアコンの最適な温度は、
27度ぐらいが理想的・・と記憶しているが・・』

『あの当時は・・エアコンは冷やすものだと・・
各家庭が寒いぐらいに冷やしていた時代だから・・適温を言ったのよ』
と家内は笑いながら私に言ったのである。

『先ほど、そこにある温度計・・30度を超えていたよ・・
我が家でも、今年初めてのエアコン・・セットしょうか?』

『今頃から・・エアコンのお世話になると、非国民と言われますよ・・』
と家内は私に言ったりした。

『非国民かょ・・XXちゃんも昭和24年生まれなのに・・よく知っているねぇ』
と家内より5歳ばかり齢上の私は苦笑したりした。
          


やがて午後3時過ぎ、家内は奥の納戸から収納している簾〈すだれ〉を取りだして、
各部屋に掛け始めた・・。

この間、クーラーの自動掃除をセットしたりした。

平年ならば学童が夏休みに入る21日の頃に、私の住む地域は『梅雨明け』となり、
これに順応して、我が家はクーラーの冷気の生活となるのであるが、
高齢者を大切にしましょう、と私は家内に幾たびか言ったりしていたので、
こうした効果が表れたのかしら、と私は微苦笑したりしていた。

そして、冷風を受けた私は、夏の熱い時期はこの世で一番の贈り物だ、
と確信を深めたりした。


          

このような事は、ここ20数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。



          
            玄関の内部の窓辺、簾〈すだれ〉の上に、黒地の布をして、陽射しの熱さを防いでいる。

この熱い時季は朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。

そして私は駅前までの片道徒歩20分のスーパーに行ったりした後は、
散策も近回りのコースを歩き廻ったりして、ときには扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
          

やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、冬の寒さを思い浮かべて、
足早に歩いているのが実情であった。

こうした中でも、34度前後を超えた場合は、やむなく利便性の良い路線バスに乗り、
バスの車内の冷気に甘えて帰宅することもある。

もとより高齢者の私が、熱中症で倒れて救急車、病院に入院するは、
世の中にご迷惑するので、私なりに自己防衛策としている。

そして帰宅後は、洗面所で顔を洗い、エアコンの冷気の中で、衣服を着替えたりしている。

この間、家内は平素の室内の掃除を終えて、
居間のエアコンの冷房を省エネの28度に設定している・・。
やがて居間、玄関の内部、洗面所、トイレ、台所など完全冷房となる。

そして私たち夫婦は、17畳ぐらいの居間で、日中の大半を過ごしている。




私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、本を読んだりし、ときおり庭を眺めたりする時、
ほのかな暗さを通して、樹木、草花が涼しげに見えたりし、微笑んだりしてきた。
              

この簾〈すだれ〉は、紐でスルスル上げ下げの調整も出来、
その上に布地も少し左右に開くことが出来るようにしたので、
平安時代の高貴な女性の部屋のように思えて、私は家内に我が家は平安朝だよねぇ、
と時折たわむれた事を言ったりしている。

こうした中、居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして昼下がりのひととき、簡易ベットを敷いて、
私は横たわりながら本を読んだりし、ときには昼寝をしたりしている。

家内はソファーに座り、本を読んだりし、テレビを視聴したりしているが、

朝は山ガールよりも早く起床して、洗濯などしているので、
日中のひととき、居間の片隅で夏掛けの布団にくるまり昼寝をしたりしている。

やがて奥の和室の寝室に冷房のセットをしたりしている。




このような我が家の夏の陣としているが、もとより熱中症で救急車のお世話になることは避けたく、
冷茶、アイスコーヒー、ときにはペットボトルの麦茶、ウーロン茶を飲んだりして、
私たち夫婦は熱い季節を過ごしたりしている。

こうした生活を残暑が残る秋のお彼岸の頃まで、過ごすが我が家の実態となっている。
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健康寿命を延ばす野菜、大事なのは腸内環境を整える、77歳の私は学び、多々教示させられて・・。

2022-06-28 13:52:31 | 喜寿の頃からの思い
『 寝たきり老人が極端に少ない謎の島で
      必ず食卓に並ぶ健康寿命を延ばす野菜
           ~大事なのは腸内環境を整えること~ 』、
と題された見出しを見たりした。






この記事は、一般財団法人辨野腸内フローラ研究所理事長の辨野義己さんの

著作の『「腸内細菌」が健康寿命を決める』(インターナショナル新書)の一部を再編集した記事であり、
プレジデントオンライン 】の『ライフ』の『健康』に於いて2021年2月21日に配信され、
無断であるが、記事の殆どを転載させて頂く。


《・・「寝たきり」を防ぎ、最期まで元気に過ごすためには、なにが重要なのか。

細菌学者の辨野義己氏は
「健康寿命を延ばすには、腸内細菌のバランスを整えるための食生活が重要。

おすすめなのは加熱した野菜で、なかでもサツマイモは腸内環境を良くする理想の食べ物だ」という――。





☆腸内環境への関心が高まりテレビ出演

(略)・・テレビ番組が腸内環境を取り上げるようになったのは、
多くの人が腸内環境に関心を持つようになったからでしょう。

テレビ番組の制作に協力するのは一回きりではなく、
何度も毎週のようにありましたから、この関心の高さは一過性のものではなく、
多くの人が腸内環境についての生活の知恵を必要としているからだと思いました。

もともと日本語には「快食快便」という言葉が示すように、
美味しく健康的に食事をして、すっきりとウンチをして、
日常生活をリズミカルに気持ちよく暮らすという理想の考え方がありました。

これは万人の願いですから、消化器への関心が、大昔から強かったということだと思います。


テレビ番組と取材調査に行ったのは「寝たきり期間が短い村」です。

大分県の姫島でした。瀬戸内海西端の小さな島です。
当時の人口は2000人ほどでした。
姫島は、大分県の医者たちから「謎の島」と呼ばれていました。

何が謎かといえば、お年寄りが寝たきりになって、
亡くなるまでの期間が、とても短いからです。
要するに健康寿命が長いのです。




☆健康寿命が飛びぬけて長い大分県の姫島

後期高齢者になっても、元気でばりばりと活動し、長患いすることなく、
天寿をまっとうしていました。

当時の姫島の寝たきり期間は、平均で1・42年です。
これがいかに短いかといえば、全国平均では男性9・22年、
女性12・77年の時代です。

もっと驚くことは、大分県は健康寿命が短いことで知られていたことです。
大分県の男性の寝たきり期間は、全国1位の10・29年、
女性は全国3位の13・89年でした。

その大分県にあって1・42年の姫島は、
飛び抜けて健康寿命が長い島だったのです。

大分の海といえば、美味しい関サバ、関アジが有名で、
姫島はクルマエビの養殖が盛んだと聞いていたので、
さぞかし魚介類の動物性タンパク質を多く摂っているだろうと思っていたのですが、
姫島の人びとは、魚介類はめったに食べないのです。

これは大変に意外なことでした。
魚介類は姫島の貴重な産業製品なので、
島内では、まったくと言っていいほど消費されません。

姫島の人びとの日常食は、畑仕事にいそしんで、
自作する野菜と海岸で獲る海藻(特にひじき)、そしてサツマイモが中心でした。

要するに食物繊維がたっぷりの日常食です。
これは腸内環境を良くする食習慣の典型です。
ただし忘れてならないのは、畑仕事と海藻獲りによる豊富な運動量です。

良い食習慣と豊富な運動量がセットになって、初めて健康長寿が実現できるのです。



☆長寿の地域でよく食べられているサツマイモ

特産の伝統食は、12月の一定時期に収穫したひじきの新芽を
二度ほど釡茹でにしてから、天日干しにした「姫島ひじき」。
これはとても柔らかい。

そして米麴で発酵させた自家製味噌に、
ナスやニンジンの塩漬けを細く切って混ぜ合わせた「納豆味噌」もあります。

さらに姫島では、サツマイモを主食と言っていいほどたくさん食べます。

郷土料理である「いもきり」は、サツマイモの粉を練って、
うどん状にして、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、長ネギといったてんこ盛りの野菜や
豆腐と一緒に煮込んだ日常食です。

定番のおやつには、干した薄切りのサツマイモと
もち米を練り合わせた「かんころ餅」があります。

姫島の人びとの寝たきり期間が短い、すなわち健康寿命が長い理由を、
食習慣から見ると、やはりサツマイモをたくさん食べるところにあるのだろうな
と思わざるを得ませんでした。



もちろん、これらの地域でも研究用のウンチをいただきましたので、私たちは分析に励みました。
そして私は、ひとつの長年にわたる課題に結論を出そうと考えました。
「健康長寿につながる腸内細菌は何か?」。
その答えこそ「長寿菌」グループの特定だったのです。

そもそも「長寿菌」グループを特定するというアイデアは、
健康長寿の地域でフィールドワークを続けていた当時、
あるご家族のウンチを分析したときに浮かんできたものでした。

そのご一家は山梨県の小淵沢(こぶちざわ)にお住まいだったのですが、
健康長寿という年齢層のご一家ではありませんでした。

日常的に野菜を食べる食生活を続けておられ、動物性脂肪類はめったに食べず、
飼っている鶏を食べる機会がたまにあるだけ、という食習慣のご一家だったのです。

その野菜はすべて自給自足で、野菜を育てる肥料は、
自分たちのウンチを落ち葉に混ぜたものでした。
つまりかなり厳密な菜食主義のご一家だったのです。




☆菜食主義者の便から検出された「酪酸産生菌」

こういうライフスタイルのご一家を、旧知の大学教授が紹介してくれたので、
興味を惹かれた私が調査をお願いしたのでした。

このご一家のウンチを分析すると、フィーカリバクテリウム(=大便菌)と
ラクノスピラという腸内細菌が、特徴的に多く検出されたのです。

つまり、菜食主義者のウンチからは、これらの菌が多く検出できるということです。

これらの菌は「酪酸産生菌」と呼ばれ、
「食物繊維」から「酪酸」という物質を作ります。

その酪酸は、がん細胞の抑制、腸粘膜の正常化による免疫向上、
腸管機能向上効果による消化・吸収の促進など、
有益な健康効果があることがわかっています。




とりわけ大便菌は、新しく発見された珍しい菌ではなく、古くからその存在が知られ、
日本人ならば誰でもが持っていると言っていい腸内細菌です。

しかし培養するのがむずかしかったので、その実態がつかめていなかったのです。
それが近年に発達した遺伝子解析法によって、
実態があきらかになりつつある菌でした。

大便菌に代表される酪酸産生菌が弱っていると、
たとえば風邪をひきやすくなるなど、
体の衰えをもたらすことがわかってきていました。

それまでにフィールドワークをしてきた健康長寿地域の人たちのウンチからも
多くの酪酸産生菌が検出されたことから、私はピンときたのです。



☆健康長寿地域の研究から発見された「長寿菌」

「野菜をたっぷりと食べる食習慣は、
食物繊維を大量に摂ることだから、おのずと酪酸産生菌を増やす。

酪酸産生菌が増えれば、酪酸の産生を促進させるので、
これが健康長寿のカギになっているに違いない」

この発想は、健康長寿地域における野菜中心の食生活と腸内細菌を、新たな視点をもって関連づけるものになりました。

そこで私は、大便菌とラクノスピラ、
そしていわゆる「善玉菌」としてよく知られるビフィズス菌の三つの菌を、
ひとつのグループにまとめて「長寿菌」と名づけ、
フィールドワークによって検証してみようと考えたのです。

三つの菌をひとつの長寿菌グループにしたのは、
ビフィズス菌だけが、もてはやされて健康の要として考えられる傾向が強いことに
私は少々の疑問をもっていたからです。



なぜなら、ビフィズス菌は、つねに腸内にいる常在菌であるがゆえに、
他の常在菌と複合的な働きをする、理由や役割があると私は基本的に考えるからです。

ビフィズス菌だけが、ものすごく良い働きをするのではなく、
他の未知なる常在菌の力もあって、
それらが複合的に働くからこそ腸内環境を良くしていると考えたわけです。

そうした考え方から、私は長寿菌と名づけるならば、
それは菌のグループであるべきだろうと発想したのです。



*菜食主義者の便から検出された「酪酸産生菌」

こういうライフスタイルのご一家を、旧知の大学教授が紹介してくれたので、
興味を惹かれた私が調査をお願いしたのでした。

このご一家のウンチを分析すると、
フィーカリバクテリウム(=大便菌)とラクノスピラという腸内細菌が、
特徴的に多く検出されたのです。

つまり、菜食主義者のウンチからは、
これらの菌が多く検出できるということです。

これらの菌は「酪酸産生菌」と呼ばれ、
「食物繊維」から「酪酸」という物質を作ります。

その酪酸は、がん細胞の抑制、腸粘膜の正常化による免疫向上、
腸管機能向上効果による消化・吸収の促進など、
有益な健康効果があることがわかっています。



☆腸内細菌のバランスを整える「切り干しダイコン」

では、どんな野菜を食べたら長寿菌が増え、腸内細菌のバランスがよくなって
健康増進につながるのかを説明したいと思います。

基本の心得は、とにかくいろいろな野菜をたっぷり食べることです。

また、生野菜よりも加熱した野菜の方が大量に食べられることを覚えてください。

とくに私がお勧めするのは、食物繊維を多く含んだ野菜となります。

そうするとセロリやレタスが出てくると思われるでしょうが、
案外そうとも言えないのです。

私が最初にお勧めするのは「切り干しダイコン」です。
切り干しダイコンを100グラム食べると、
約21グラムの食物繊維が摂れます。

食物繊維の一日の推奨量は、男性21グラム以上、女性18グラム以上ですから、
これだけでOKなのですが、100グラムの切り干しダイコンを水で戻して一度に食べるのは、
よほど好きな人でなければ無理だと思います。

50グラム食べて、10グラムほどの食物繊維を摂るという方法が現実的でしょう。




☆サツマイモは腸内環境を整える理想の食べ物

次は「インゲン豆と大豆」です。
インゲン豆は、茹でてサラダやおひたし、
これまた食物繊維に富む炒りゴマで和えるといった、
ごく平凡な調理方法で構いません。

一方の大豆は、納豆や枝豆などさまざまですが、
しかし大豆から作る豆腐は、食物繊維が多くありません。

ところが豆腐のカスだと思われているオカラの方が
はるかに食物繊維が多いので、オカラを食べるのもよい方法です。

そして「芽キャベツ」です。
茹でたキャベツ100グラムでは、2グラムの食物繊維しか摂れませんが、
茹でた芽キャベツ100グラムからは5・2グラム摂れます。

「キノコ」もいいです。
シメジ、シイタケ、エノキダケ、マイタケなどは、
茹でた100グラムから、だいたい3~7グラムの食物繊維が摂れます。

食用のキノコとしてまだよく知られていないアラゲキクラゲは、
茹でた100グラム中に15グラムも食物繊維が含まれています。


先ほど紹介した南方の健康長寿地域で必ず食べられていた「サツマイモ」は、
蒸した100グラムで3・8グラムの食物繊維が摂れます。

便通を促すヤラピンという物質も含まれていますから、
サツマイモは腸内環境を良くする理想の食べ物でしょう。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
 



今回、細菌学者の辨野義己さんより、
《・・「健康寿命を延ばすには、腸内細菌のバランスを整えるための食生活が重要。

おすすめなのは加熱した野菜で、なかでもサツマイモは腸内環境を良くする理想の食べ物だ」という・・》、
具体的な経過の解説より、多岐に学んだりした。

そして私は、サツマイモ・・と明言されていたので、
微苦笑したりした・・。

私は今住んでいる近くで、1944年(昭和19年)9月に、
農家の三男坊として、生を受けたりした・・。

こうした中で、祖父、父が健在の時は、小作人だった御方の助けをお借りして、
程々広い田畑を耕していた。

こうした中で、収穫した農作物を父が青果市場に行き、現金に換えたりしてきた・・。

やがて私が小学2年になると父が病死した後、この後まもなく祖父も病死され、
残された家族は、農業のノウハアも乏しく、やがて生活が困窮してきた・・。

こうした中で、母と父の妹で結婚前の叔母ふたり、
食べ盛りの兄ふたり、私、そして妹ふたりであったが、
私は午後3時前後、蒸篭(せいろ)で蒸かした『さつまいも』だけがあり、
愛食したが、やがて飽きてきて、この後は出来る限り『さつまいも』は、
敬遠してきた・・。



今回、特に学んだのは、《・・姫島の人びとの日常食は、畑仕事にいそしんで、
自作する野菜と海岸で獲る海藻(特にひじき)、そしてサツマイモが中心でした。

要するに食物繊維がたっぷりの日常食です。
これは腸内環境を良くする食習慣の典型です。
ただし忘れてならないのは、畑仕事と海藻獲りによる豊富な運動量です。

良い食習慣と豊富な運動量がセットになって、初めて健康長寿が実現できるのです。
・・》


今回学んだ健康長寿・・『さつまいも』も源(みなもと)のひとつとして、
学びながら、今後は65年ぶりに愛食しょうかしら、と思い深めている。

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初めての『電力ひっ迫注意報発令』、77歳の私は学び、戸惑いながら・・。

2022-06-27 15:24:47 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む77歳の年金生活の身であるが、
先程、ぼんやりとテレビのニュースを見ていたら、
『 “午後4時~5時に特に厳しい予想
     ” 初の電力ひっ迫注意報発令で経産省が会見 』、
と題された見出しを見たりした。

この後、熱い時節に、電力の能力が衰え、
最悪の場合は停電になった場合、首都圏に多大な被害を受けることが遅む、
詳細に学びたく、視聴したりした。




《・・27日 経産省が会見
東電管内で、初の『電力受給ひっ迫注意報』が発令されたことを受け、
経済産業省は27日午前、会見を開き、
「引き続き夕方が厳しい状況にある」と話した。

この猛暑を受け、冷房使用による電力不足の懸念があるとして、
政府は初めて、電力需給ひっ迫注意報を東京電力管内に発令している。





経済産業省によると、東京電力管内では
電力供給の余力を示す「予備率」が、
27日午後4時半から5時に、1・2%まで低下すると見込まれている。

安定供給に必要な3%を下回っているが、
他の地域からの電力融通などを準備しているということだ。

経産省は、さらなる気温上昇があれば、
注意報から警報への切り上げもあり得るとしていて、
「夕方には、熱中症予防のため冷房を使いつつ、できる限りの節電をお願いしたい、と呼びかけている。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
 


今回、東京電力で利用されている地帯に、

初めての『電力ひっ迫注意報発令』を学んだりした。

私は平素の我が家の買物で、一日おきにスーパー、専門店などに独りで行ったり、
この後は帰宅後に、独りで買い物に行ったりしてる・・。

この熱い時節は私の夏模様の容姿は、
制服のようになった半袖のスポーツシャツ、或いはアロハシャツ、
長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスを掛け、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そして紳士バックを園児のように斜め掛けにして、颯爽と歩いたりしている。

しかしながら陽射しが燦燦と照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落り、微苦笑したりしている。





帰宅後はエアコンの冷気に負けて、心地よく過ごしている。

こうした日常から、少し変化させないと、いけないと思いながら、
冷気に甘えている・・。


今回、初めての『電力ひっ迫注意報発令』を学び、
いざ停電になった場合が怖くて、
我が家として、節電を思案している。

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認知症の始まりか、それとも物忘れ?、専門家の解説で77歳の私は学び、少し安堵して・・。

2022-06-26 14:28:04 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【 介護ポストセブン 】を見ている中で、
『 「芸能人の名前が出てこない」は認知症の始まりか、
     それとも物忘れ? 専門家が解説  』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活を丸17年半を過ごしてきた。

そして私は何よりも認知症、心筋梗塞など恐れ、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩き、
ときおり認知症だけは勘弁してねぇ・・と秘かに祈願しながら歩く時もある。


こうした中、私は過ぎし7年前の70歳を過ぎた頃から、
齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。


たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、

その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。

私は体力も衰え、物忘れも多くなり、やはり老化が増したのかしら、
と微苦笑したりしてきた・・。



今回の《・・認知症の始まりか、それとも物忘れ? ・・》、
真摯に学びたく、記事を読んでしまった。




加齢にともなう記憶力の低下は、避けられない現実だ。

中高年にとって物忘れは身近なもので、
多くの人が自分の物忘れを“ひょっとして認知症かも”、
と不安に感じているかもしれない。

『週刊ポスト』読者から届いた体験事例をもとに、
物忘れのケースを示し、それが何を意味するかを専門家が解説する。(略)



☆認知症などを心配する必要がないケース

●「短期記憶」の消去

■本を読んでいて「あれ、この登場人物って、誰だっけ?」
 と数ページ前に書かれていた内容をよく忘れてしまう(61歳男性)

■朝読んだ新聞の内容を、昼食時、話そうとしても思い出せない(72歳男性)

これらは「短期記憶」として、脳に保存された情報を忘れてしまっている状態だ。

短期記憶とは何か。
横浜新都市脳神経外科病院内科認知症診断センター部長の眞鍋雄太医師が解説する。
「人間が目や耳などから得た情報は、
まず脳の中心部に位置する『海馬』に一時的に保存されます。

この情報を『短期記憶』という。
短期記憶は、海馬で『必要な情報かそうでないか』を短ければ数分、
長い場合だと1か月程度かけて選別され、不要と判断されたら消去される。
つまり忘れることになります」

前述の事例では、このような記憶の「消去」が生じていると考えられる。
眞鍋氏は「人間は誰でも、短期記憶のうち8割は1か月もすれば忘れてしまう」と語る。

これは人間にとって正常な生理現象であり、認知症などを過度に心配する必要はない。




●「注意力」の低下

■冷蔵庫にモノを取りにいったのに、扉を開けると
 「何を取りに来たんだっけ?」と忘れている(53歳男性)

■電話を取り次ぐとき、先方の名前を確かに聞いたはずなのに、
 メモを取る前に忘れてしまう(50歳男性)

■さっきまで手に持っていたのに、
 家のカギをどこに置いたかわからなくなることがしばしば(59歳男性)

前出の「短期記憶の物忘れ」と似ているが、
先ほどの事例が「覚えてからしばらくして忘れてしまう」のに対し、
こちらは「覚えてすぐ忘れてしまう」という点で異なる。

これらは、厳密には「記憶力低下」というより、「注意力の低下」に分類される。

「注意力は、男性なら記憶力と同じく60歳前後から低下していきます。
『冷蔵庫の目の前まで来て、何を取りに来たか忘れる』というケースは、
冷蔵庫までの移動中、別のことに気が向いて注意がそれることで、
『モノを取る』ということが課題意識から消えている状態なのです。

またカギの置き忘れは、カギを置く瞬間に別のことに気を取られていて、
どこに置いたかを認識していないと考えられます」(同前)

注意力の低下も、加齢とともに生じる生理現象なので、
特に気にする必要はない。




●「長期記憶」が思い出せない

■テレビを見て、顔を知っている芸能人が出ているのに
 名前が出てこない(72歳女性)

■両親の誕生日を思い出せない(66歳男性)

これらは、短期記憶とは異なり、
「長期記憶」が思い出せなくなることによる物忘れと考えられる。

前述の通り、人間の得た情報は海馬で一時保存されたのち、
必要なものと、不必要なものに、選別される。

「必要な情報」だと判断された情報は、
海馬から“倉庫”の役割をもつ大脳皮質に移し替えられ、
長い間貯蔵される。これが「長期記憶」である。

短期記憶は、忘れやすい代わりにすぐ思い出せるのに対し、
長期記憶は、忘れにくい代わりに、
必要に応じて海馬が大脳皮質内を検索して情報を取り出さなければならないため、
思い出すのに時間がかかることがある。



また、海馬の機能が低下すると、
“貯蔵場所”がわからなくなり、覚えたはずの記憶が思い出せなくなる。

「人の顔はハッキリと覚えているのに、名前を思い出せないケースは、
長期記憶として貯蔵してはいるが、海馬の検索機能が低下して思い出せない状態と考えられます。

特に名前などの固有名詞は、よほど特徴がないと思い出しにくい。

完全に忘却しているわけでない証拠に、
苗字などのヒントを出されると、“ああ、そうだった”と思い出せるはずです。

両親の誕生日も他人から教えられたら、“ピン”とくるはず」





☆認知症などの病気が原因のケース

ここまで述べた物忘れは「老化などにより、誰にでも起こる物忘れ」だが、
これから紹介するケースは、「認知症」など病気が原因である可能性がある。

●「エピソード記憶」が抜ける

■去年の旅行先が思い出せないどころか、
 「旅行に行ったこと」まで忘れていた(67歳男性)

■同じ話を何度も繰り返すようになり、人から注意されても
 「俺、そんな話したっけ?」と思ってしまう(77歳男性)

これらは長期記憶のなかでも、「エピソード記憶」と呼ばれるものが抜けている。
「エピソード記憶とは、“いつ、どこで、誰と何をした”という『体験』を
脳に刻み込んで成立する記憶です。

“旅行にいったこと”や“誰かに何かを話したこと”は、
自分の体験したことであり、忘れた場合は、認知症の初期症状の疑いがあります」(眞鍋医師)

また、同じ話を繰り返す場合、
「10分も置かずに同じことを言うなら、特に認知症の疑いが強い」(同前)という。




●「手続き記憶」の障害

■久しぶりに自転車に乗ったが、
 乗り方をすっかり忘れてしまい運転できない(66歳男性)

■駐車場の壁にマイカーの側面をよく擦るようになった(70歳男性)

これらは認知症である可能性が特に高いケースだ。
自転車や自動車の運転のように
身体で覚えている記憶を「手続き記憶」という。

これらは、一度習得すれば意識しなくても自然に体が動くようになる。
老化現象で忘れることもない。

「手続き記憶に障害が起こる場合は、
脳内で運動や空間把握を司る『頭頂葉』に異変が生じたと考えられ認知症であるケースが多い」
(榎本内科クリニックの榎本睦郎院長)・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
 


今回、《・・認知症などを心配する必要がないケース・・》として、
「短期記憶」の消去、
「注意力」の低下、
「長期記憶」が思い出せない、
具体的なケースで、多岐に学んだりした。

そして《・・認知症などの病気が原因のケース・・》として、
「エピソード記憶」が抜ける、「手続き記憶」の障害、
具体的なケースで、多岐に学んだりした。



こうした中で、短期記憶に関して、
《・・海馬で『必要な情報か、そうでないか』を短ければ数分、
長い場合だと1か月程度かけて選別され、不要と判断されたら消去される。
つまり忘れることになります」

眞鍋氏は「人間は誰でも、短期記憶のうち8割は、1か月もすれば忘れてしまう」と語る。・・》
このようなことを学び、私は安堵したりした。



確か2年前の頃、家内が視聴していたテレビ・ドラマで、私は何気なしに視て、
『この俳優さん・・過ぎし年に亡くなわれた御方であったが、

齢を重ねるたびに深みのある名演技をしていたよなぁ・・』
と私は家内に言ったりした。

しかしながら俳優さんの氏名が言えなくて、内心は苦笑したりする。

やがて15分後、亡くなわれた御方は、津川雅彦(つがわ・まさひこ)さんだったことに気付いたりしている。

そして『先程の俳優さん・・津川雅彦(つがわ・まさひこ)さんだった・・
俺も少しボケてきたかなぁ・・』
と私は照れながら家内に言ったりした。

『あなたぁ・・10年早いじゃない・・』
と家内は微苦笑しながら私は言ったりした。

このような体験をしてきたが、今回学んだ《・・長期記憶・・
忘れにくい代わりに、必要に応じて海馬が大脳皮質内を検索して情報を取り出さなければならないため、
思い出すのに時間がかかることがある。・・》

こうした現象なのかしら、と微苦笑したりしている。
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熱い日々の中、改めて高齢者の私は、熱中症の対策を学び・・。

2022-06-25 12:15:44 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の77歳の身であるが、
梅雨の時節なのに、夏のような熱い日々が続いている。

例えば昨日の24日には32度前後、本日の25日は35度前後、
明日の26日には33度前後が予測されている。

これ以降も30度超えが横一線となり、長年にこの地域に住んでいる私でも、
どうしてなのょ、今から真夏のような熱さが続き・・戸惑ったりしている・・。





こうした中、
        

こうした中で、私の夏模様の容姿は、

制服のようになった半袖のスポーツシャツ、或いはアロハシャツ、
長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスを掛け、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そして紳士バックを園児のように斜め掛けにして、颯爽と歩いたりしている。

しかしながら陽射しが燦燦と照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落り、微苦笑したりしている。

やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。




        
やがて休憩ねぇ、と思いながら、小公園に寄り、幾重か大きな樹の下にあるベンチに座り、
コンビニで買い求めたペットボドルの煎茶を飲み、水分補給をしたりしている。

          
こうした根底には、高齢者は、脱水を起こしやすい要素をいくつも持っていて、 
放置すると、寝たきりや認知症を招く結果になりかねない、と学んだりしてきた。

そして脱水にならないことは、やはり喉の渇きを感じる前に、
こまめに水分補給は大切だ、 と思いながら実施してきた。

やはり高齢者の77歳の私が熱中症で、遊歩道か公園などで倒れて、
気が付いたら病院のベットの上だった・・、
余りにも多くの見知らぬ御方に御迷惑をお掛けする・・。

最悪の場合は、遊歩道か公園などで倒れて、
あの世に旅立つのは、つたない人生航路を歩んできた私でも、
余りにも可哀そう・・思ったりした・・。




このような心情を秘めている私は、遅ればせながら、
昨年に横浜鶴見リハビリテーション病院(横浜市鶴見区)の吉田勝明院長より、
夏本番の熱中症対策について、記事を読み、多々教示させられたりした。



そして何かと忘れることがおおくなった私は、復習が大切だ、
と思いながら、記事を読み返したりした・・。


☆こんな症状は要注意


「熱中症は、暑熱障害による症状の総称です。
暑熱環境にさらされた状況下での体調不良は、
すべて熱中症と考えなければなりません」(吉田院長)


そのうえで吉田院長は、日本救急医学会が2000年以降採用している
重症度Ⅰ度~Ⅲ度の分類を頭に入れておくようにとアドバイスします。


▼重症度Ⅰ度:現場での応急処置で対応できる軽症

▼重症度Ⅱ度:病院への搬送を必要とする中等症

▼重症度Ⅲ度:入院して集中治療の必要性のある重症
box1
 

☆熱中症が疑われるときにとるべき行動

では、自分や周囲の人が熱中症を疑われる場合、
どんな行動をとればいいのでしょうか。


「まず意識があるかどうかを確認し、
意識がなければ、すぐに救急車を要請してください。
意識があれば、急いで涼しい場所へ移動させます。


次に行うべきことは、脱衣と冷却です。
衣服をゆるめて、熱を体から放散させてください。
露出した皮膚に濡らしたハンカチを当て、うちわで風を送るといいでしょう。

自動販売機で冷たいペットボトルを買い、
首の両側、脇の下、太ももの付け根に当てて冷やすのも効果的です。

救急車を呼んでも、到着するまではこのような方法で、
体温の冷却に努める必要があります」(吉田院長)


その後、行うのは水分と塩分の補給になります。

「大量に汗をかいていたら、汗で失われた塩分の補給も必要になるので、
水より経口補水液か、スポーツドリンクが適しています。

意識が不明瞭で自分で飲めない場合は、
無理に飲まそうとせず、医療機関に運んで点滴を打ってもらいます」(吉田院長)




☆応急処置をまとめると


こうした初動の対応は、熱中症にかかった人の命を救えるか、どうかを左右します。
『熱中症環境保健マニュアル2018』(環境省)をもとに、応急処置をまとめるとこうなります。


box4

この中で緊急を要するのは、呼びかけても、意識がない場合です。
近くの人に協力を求めて、最低2人でチームを組み、
1人は、AED(自動体外式除細動器)を探しに走り、
もう1人は、救急車を要請しながら、本人に付き添ってください。


普段通りの呼吸がなかった場合、
救急車が到着するまで、心肺蘇生(心臓マッサージ)を行わなければなりません。


毎年多くの人が熱中症で亡くなっています。
十分な水分補給と暑さ対策で自分の身を守る一方、
万一熱中症が疑われる人に出会ったら、適切な行動がとれるようにしたいものです。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
 
 
今回、改めて横浜鶴見リハビリテーション病院(横浜市鶴見区)の吉田勝明院長に導かれて、
熱中症が疑われるとき、すぐにとるべき行動とは?、
多々教示されたりした・・。


私は殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩いたりし、
3年前までは、熱中症対策をして熱い夏を乗り越えてきた・・。    

陽射しが燦燦と照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
陽射しが燦燦と照らす道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。
        

こうした時、ときおり  ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った
【『三百六十五歩のマーチ』の歌を心の中で唄い、歩く時もある。

このように私は、水前寺清子さんが唄った『三百六十五歩のマーチ』の歌に、
ときおり叱咤激励されて、 何とか健康寿命の範囲にいられるので、
作詞された星野哲郎さんに感謝をしながら、
私にとっては『三百六十五歩のマーチ』の歌は、心身のビタミン剤だ、
と思いを深める時もあったりした。





しかしながら、一昨年の2月の頃より、新型ウィルスの烈風より、
買物、散策、病院の通院など外出の時は、生まれて初めてマスクを付けてきた。

こうした中で、口の周りが熱く汗ばむようで息苦しくなり、
人影のいない遊歩道、公園などで、こっそりとマスクをはずす時もある。

まもなく私は、コロナ対策と熱中症対策の二重苦で、
紳士用の日傘を買い求めて、せめて散策をする時は日傘を差して、
少し涼しいかしら、ときおり独り微笑んできた。



やはり自分の身は自分で守る・・
今まで通りに徹して、気合を入れて歩こう、と思ったりしている。

そして帰宅後には、
天国のような世界が私を待っている・・。
エアコンの冷気の中で、冷やした煎茶、アイスコーヒーを飲んだり、
冷やしたトマトを食べたり、ときには冷やしたスイカを家内と共に食べたりしている。


しかしながら32度以上の熱い日は、体力の衰えを実感している77歳の私は無理だと感じ、
こうした熱い日は、我が身を大切に、自宅のエアコンに甘えて、読書の日かしら、
と微笑んだりしている。

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老眼は進行すれば、遠くも見えなくなる、77歳の私は学び、多々教示させられて・・。

2022-06-24 12:23:44 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
先程、愛読している日刊ゲンダイDIGITAL を見ている中で、
『 老眼は進行すれば遠くも見えなくなる 
      原因は水晶体と毛様体の老化にあり【60歳からの健康術】』、
と題された見出しを見たりした・・。

私は過ぎし7年前の晩秋に、白内障の手術を左眼、そして右眼の受けて、
それまで酷い近眼の0.03であったが、手術後やがて1.0前後となったりした。

そして私は高校生よりメガネを愛用してきたが、メガネが55年ぶりに不要となり、
何かと酷い近眼で劣等感を感じてきた私は、人生観さえ変わったりした。

このように私にとっては、眼に関しては特に注意をしている。




この後、2019年3月の初めの頃、
突然に左眼だけが酷い白内障になったように視力が激変し、
私は困苦しながら、最寄り駅近くにある眼科専門医院に通ったりしてきた。


そして医院長の紹介で、
こうした病状の手術に優秀な医師のいる眼科専門病院で、

診察を受けたりした・・。


              

左眼の水晶体の後方の壁を後嚢(ごうのう)と称せられているが、
これを足場にしている3年半前に挿入した眼内レンズが脱臼(だっきゅう)』して、
硝子体に浮かび、視力が不安定となっている、このようなことを診断して下さった。


そして硝子体の一部の手術となり、
①3年半前に挿入した眼内レンズを摘出。
②硝子体の一部を切除。
③新たな眼内レンズを眼球の一番外側は線維質な膜で覆われている強膜(きょうまく)内に固定。

このような手術の内容を話して下さり、病名は『眼内レンズ脱臼(だっきゅう)』と記載され、
麻酔は『局所』と明記された。


そして6泊7日して左眼の 硝子体手術を受け、正常化になったりした。




この後、白内障の手術を受けてきた眼科専門医院は、この前後を含めて、
少なくとも数10回通院してきたので、 医院長をはじめ10数名のスタッフとも、 顔なじみとなり、
私は少し遠慮しながらも談笑したりしている。

この後も、年は4回ばかり訪れて、眼科の多彩な検診を受けた後、
ドライアイ気味の私は、 いつものように眼を保護し、

乾燥を防ぐヒアレインと名付けられた『点眼液』を頂き、
殆ど一日に3回ぐらい両眼に点眼している。


http://www.rad-ar.or.jp/siori/kekka.cgi?n=9721
☆  くすりのしおり 公式サイト・・私が点眼しているヒアレイン『点眼液』 ☆


こうした中、過ぎし白内障の手術を受けて2週間後の当時、
眼科医院の中で、 若き30代の女性スタッフより、

ヒアレイン『点眼液』の注(さ)し方を教えて下さった。

『点眼液は、たくさん付けても・・眼から外に出てしまいますので、
 たった1滴が最適で、まばたきしなくて、静かに目をつぶって、

 1分ぐらいじっとしておくのが良いですよ・・』、
と私は学び、これ以来忠実に守って、今日に至っている。

そして白内障の手術を受けてきた眼科専門医院より指定された

ヒアレイン『点眼液』を 信愛して、6年半が過ぎている。



私は読書が好きで本を読んだりする時、ここ2年前の頃から、
メガネが不要で文庫本などを読んでいたが、
漢字の小さなふりがなの文字が、うっすらとボケでしまい、
あれ・・老眼になってしまったかなぁ、と思ったりした。

この後、平素の我が家の買物担当の私は、スーパーに行った時、
たまたま2階にある本を見ている横に、簡易な『老眼鏡』の無人売り場があり、
こっそりとこの中のひとつを選び、掛けたりした・・。

そして驚いたことには、記載されていた字が明確に見えて、
微苦笑して、私も『老眼鏡』が必要な齢になってしまったかしら、
と微苦笑をしたりした。

やがてメガネ専門店で、『老眼鏡』を買い求め、
本を読む時の大切なお友達となっている。



このような目に関して多岐な体験をしてきた私は、
今回の《・・老眼は進行すれば・・遠くも見えなくなる・・》って、
どのようなことですか、と思いながら記事を読んでしまった・・。

この記事は、日刊ゲンダイDIGITAL 】に於いて、6月24日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・老視が進むと、どこにもピントは合わなくなる



近くがぼやける、焦点が合わない。
老視(老眼は俗称)は、目の老化現象の代表的な症状だ。

その原因は、眼球の周りのピント調節の働きをする毛様体筋が、
衰えた結果と考えられる。

さらに、レンズの働きをする水晶体の調節力が弱まったことも、
もうひとつの原因だ。

「自由が丘清澤眼科」(東京都目黒区)の清澤源弘院長が言う。
 「水晶体は、カメラのレンズにあたる働きをしています。
近くを見るときは厚くなり、遠くを見るときには薄くなることで、
ピント調節をしています。

ところが年をとると、徐々に水晶体に老廃物がたまるなどして
透明度や柔軟性を失って硬くなり、近くを見るピント調節ができなくなってきます。
これが老視の状態です」  



意外なことだが、ピントの調節力は人体機能の中でも
最も早く老化する器官のひとつだという。

健康な人の調節力は、10歳で14ジオプター(=D:角膜や水晶体の屈折力の単位。
近視・遠視・乱視の強さを表す。
マイナス表示は近視、プラス表示は遠視。

近視の場合はマイナス3Dまでを軽度近視、
マイナス6Dまでを中等度近視、それ以上を病的近視とする)、

20歳10DD、30歳で7DD、45歳で3DD、
50歳で2・5D、60歳になればほぼ1Dへと低下する。

 「正視の人が眼前30センチにピントを近づけるには、
3Dの調節力が必要です。

そのため近視用メガネを必要としなかった人は、
45~50歳くらいで新聞を読むのに手を伸ばすようになり、
老眼鏡が欲しくなります」  

よく「近視の人は、老眼になりにくい」と言われるが、それは間違い。
 「近視の人は、そもそも近くが見やすいために、
老視の自覚が遅れるだけで、年をとれば相応に近くが見えにくくなります。

注意したいのは、近くが見えにくいのは老視の初期症状に過ぎず、
老視が進むと、どこにもピントは合わせられなくなります」



老視の最大の危険因子は年齢だが、
遠視、糖尿病、心血管疾患などでは、40歳未満の早期老視リスクが高まる可能性がある。

その他、抗うつ薬、抗ヒスタミン薬、利尿薬なども早期老視に関連する。  

老視の治療については大まかに、
老眼鏡や遠近両用コンタクトレンズ、点眼薬やサプリメント、手術の3種類が存在する。 

「老視は、水晶体と毛様体の老化が原因であるため、
点眼薬やサプリメント、老眼鏡や遠近両用コンタクトレンズは、
あくまでも対症療法です。

手術は老化した水晶体を人工水晶体に交換するものです。
使われる人工水晶体には、従来からあった単焦点型のものと、
多少でも近方を見やすく設計を改善した多焦点型のものがあります。

なお、白内障と老視は別物ですが、水晶体の老化が原因であるため、同一の手術で対応できます」・・ 》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 


今回、《・・老眼は進行すれば、遠くも見えなくなる・・》学び、
多々教示されたりした。

こうした中で、特に《・・たとえ近くが見えにくいのは老視の初期症状に過ぎず、
老視が進むと、どこにもピントは合わせられなくなります・・ 》、何かと気弱な私は、ドキュとしたりした。


或いは、《・・手術は老化した水晶体を人工水晶体に交換するものです・・
白内障と老視は別物ですが、水晶体の老化が原因であるため、同一の手術で対応できます・・》、
と読んで、私なりにドキュン・・としたりした

過ぎし年に白内障の手術を受けた時は、原則として二度は出来ません、と担当医師から告げられてきたので、
今後、私は老眼は進行すれば・・最悪の場合は、
《・・遠くも見えなくなる・・ 》、こうしたことを学び、
困苦したりしている。



しかしながら私は77歳の身であるので、あと10年・・何とか心身自立した生活をできれば、
つたない人生航路を歩んできた私としては、最上と思っているので、
マイナス要素は忘れて、明るく過ごすことが大切だよねぇ・・、
と自身を鼓舞したりしてる。

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『沖縄慰霊の日』、戦争を知らない無力な77歳の私、ささやかな沖縄への思いを馳せて・・。

2022-06-23 11:16:59 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
今朝、6時半過ぎ、ぼんやりと洗面した後、玄関の軒下に下り立ち、
襟を正して南の空に向かい、黙祷したりした・・。

私は1944年〈昭和19年)9月下旬に今住んでいる近くで、農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に、日本は敗戦となった。

そして敗戦時は、一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として学んできたひとりである。

          


この後、8時過ぎにテレビでNHKニュースを視聴したりした・・。

《・・沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から77年の「慰霊の日」を迎えました。

最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園では、
朝早くから遺族などが平和への祈りをささげています。

昭和20年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、
20万人以上が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。

きょう6月23日は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日で、
沖縄県が「慰霊の日」と定めています。

最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園には朝早くから遺族などが訪れ、
戦没者の名前が刻まれた平和の礎に花を手向け、犠牲者を悼んでいました。

多くの親族が沖縄戦で亡くなったという沖縄県南風原町の70代の女性は
「祖父母や叔父は沖縄本島南部を逃げ回って命を落としたと聞いている。
自分の子や孫に戦争の苦しい思いをさせたくないので、
戦争がない平和な世の中を願っている」と話していました。

平和祈念公園では、正午前から戦没者追悼式が行われますが、
おととしと去年に引き続き新型コロナの影響で規模が縮小されます。

沖縄戦から77年がたち、体験者は年々少なくなっていて、
おととし10月時点では、県民のなかで戦後生まれが占める割合はおよそ9割となっています。

また、平和学習の場として活用されてきた自然洞窟・ガマも劣化が進み
閉鎖されるケースも出ていて、戦争の記憶の継承が課題となっています。

ことしは、沖縄が本土に復帰して50年となる節目の年でもあります。

復帰前に多くの県民が望んだ「基地のない平和な島」は実現せず、
沖縄には今も在日アメリカ軍専用施設のおよそ7割が集中しています。

23日は平和への誓いを新たにするとともに、
沖縄が抱える重い基地の負担の現状に改めて向き合う日でもあります。・・ (略)・・ 》


このようにニュースを視聴して、改めて終結から77年となった・・、私は深くかみ締めて、
やがて私なりの沖縄のささやかな思いを馳せたりした・・。



          

たまたま過ぎし2018年10月21日より、
沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテルに4泊5日で滞在旅行をして、
こうした中で、私なりの沖縄のささやかな思いを投稿してきたので、あえて再掲載をする。

『 新北風(ミーニシ)の吹く爽やかな中、沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテル滞在記 』
(2018.10.21.~10.25.)
第5章 とりとめなく館内で沖縄のささやかな思いを馳せれば


滞在している『ザ・ブセナテラス』の室内のベット、窓際の安楽椅子、
そしてバルコニーにある安楽椅子で、ときおり持参した本を読んだりした・・。


              

この本は、昨年の1月下旬、平素の買物で駅前に行った時、本屋に寄った時に見かけて、
瞬時に読みたくなり、講読した一冊であり、感銘を受けて、改めて今回再読したく持参したりした。

そして館内のゆったり休息処の安楽椅子に座りながら、再読した・・。


              
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国のポッタム宣言を受け入れて、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、
そして8月15日の敗戦なのに『終戦記念日』称している日には皇居に向い、黙祷を重ねたりしてきた・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
ここ50数年、黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。


          

沖縄に関して、恥ずかしきことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。

そして高校時代以来、何かと時事に関心を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かな時であったので、知識人の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。

これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに、後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、沖縄に於いては、安易な観光気分で訪れることが出来なくなり、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。






この後、名嘉正八郎、谷川健一両氏の編集に寄る『沖縄の証言 ~庶民が語る戦争体験~』《上》、《下》(中公新書)を
1977年11月に購読してきた。

そして太田昌秀・著作の『沖縄の帝王 高等弁務官』(朝日文庫)を1996年2月に購読して、
敗戦後の沖縄にアメリカ軍政下の実態を多大に学んだりした。


もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、沖縄戦は事実上集結した日である。

そして沖縄県は『慰霊の日』として、戦没者追悼式が毎年行われている。


          

何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
せめて『慰霊の日』は、沖縄に向って黙祷を重ねたりしてきた。



私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記されている。

そして私は若き人たちと共有致したく、今回もあえて転記させて頂く。

《・・ 太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で、守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。



          

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951年(昭和26年)から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。 ・・》

注)原文よりあえて改行を多くした。

私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。

          

                         

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。

そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。



          

私は『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日の『終戦記念日』は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

                     

過ぎし2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れたりした・・。

家内の母は、1930年〈昭和5年〉生まれであり、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。

家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。





この後、佐野眞一・著作の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(2008年、集英社インターナショナル)、
『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年、集英社インターナショナル)を読み、
沖縄の光と影を学んだりしてきた。

或いは福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)、
改めて敗戦後の怜悧な国益に基づいた実態史を多々教示されたりしてきた。

そして大久保潤、篠原章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
ロバート・D・エルドリッヂ著作の『オキナワ論』(2015年、新潮新書)、
高良倉吉・編著作の『沖縄問題 ~リアリズムの視点から~』(2017年、中公新書)、
篠原章・著作の『外連の島・沖縄 ~基地と補助金のタブー~』(2017年、飛鳥社)、
沖縄の現実の難題を多々学び、無力な私は憂いたりしている。

この間、改めて沖縄戦の過酷な実態は、ユージン・B・スレッジ・著作(訳・伊藤 真、曽田和子)の
『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術新書)を読み、戦地でそれぞれ置かれた人が、
狂気のふるまいに、映像では表現しずらい多くのことに、震撼させられてきた。

          

私は沖縄問題にも専門知識がない浅学のひとりであるが、時代に翻弄される沖縄県民に、
ときには深く感傷させられる時もあるが、
長い展望でそれぞれの家族ひとりひとりが少しでも豊かさを求めて欲しい、
と政治の思惑より現実経済向上を願うひとりである。

このような思いを重ねて、今日に至っている。




余談であるが、私は沖縄、石垣島を旅をした時、最も魅了された歌は、
恥ずかしながら吉川安一さんが作詞された『芭蕉布』である。

もとよりBEGIN(ビギン)さんの『島人ぬ宝』、夏川りみさんが唄われた『涙そうそう』であり、
そして喜納昌吉さんの『花』、宮沢和史さんの『島唄』もある。
或いは寺島尚彦さんが作詞され、森山良子さんが唄われた『さとうきび畑』もあり、
いずれも私は、百回以上聴いている満天の星空のような名曲である。

私は沖縄、石垣島を旅路の中、時折かぼそい声で唄ったりした・・。

♪海の青さに 空の青
 南の風に 緑葉(みどりば)の
 芭蕉(ばしょう)は情(なさけ)に 手を招く
 常夏(とこなつ)の国 我(わ)した島沖縄(うちなー)
【 『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

そして長き沖縄列島の歴史の中に、翻弄されてきた島民の苦楽、哀歓に、
無力ながら思い馳せたりしている・・。





私は沖縄問題にも専門知識がない浅学のひとりであるが、時代に翻弄される沖縄県民に、
ときには深く感傷させられる時もあるが、
長い展望でそれぞれの家族ひとりひとりが少しでも豊かさを求めて欲しい、
と政治の思惑より現実経済向上を願うひとりである。


このような思いを重ねて、今日に至っている。

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心身ともに元気になる25の健康法、77歳の私は学び、微苦笑を重ねて・・。

2022-06-22 15:09:56 | 喜寿の頃からの思い
先程、愛読している講談社のWEBのひとつの【 現代ビジネス 】を見ていたら、
『 脳が若返る! 「好き勝手自分史を書く」という驚きの方法  
      ~ 元気で元気でいれば貯金は減らない ~ 』、
と題された見出しを見たりした・・。

今回、《・・元気でいれば・・貯金は減らない・・》って、私は読みながら、
高齢者夫婦の年金生活の向けの記事かしら、と何かと単細胞の私は思いながら、
記事を読んでしまった。

この記事は、『週刊現代』の6月11・18日号に掲載された記事で、
関連の【 現代ビジネス 】に於いて、6月19日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。



《・・
健康とおカネは、幸せな生活を送るための両輪のようなもの。
どちらか一方が欠けても、人生の道程を真っ直ぐに進めない。

しかしバランスよく両輪を回すために、まず優先すべきは「健康」だ。
健康であれば、カネはかからない。
「健康こそが、カネなり」と言えるからだ。

長く健やかに過ごすには、ちょっとした生活習慣の見直しが大切になってくる。

ここで紹介する25ヵ条は、決してただ面倒くさい「日課」のようなものではない。
むしろマンネリ化している日常に、新しい風を吹き込む斬新な健康法ばかりだ。


 

☆「午前カラオケ」をしよう

まず朝起きてからは、軽い運動をしたい。

7時前からの散歩は、「朝日を浴びる」、
「リズム運動」(散歩やウォーキングなどの規則的なリズムを刻む運動)で、
セロトニンの分泌につながる。

セロトニンは、覚醒、気分、意欲を司る脳内物質だ。
そのため、朝7時前の散歩でセロトニンの分泌を促せば、うつ予防にもなる。

このように午前中に意識的に活動すれば、副次的に様々な健康効果を享受できる。

「午前中のカラオケを試してほしい」と言うのは、
脳科学者でアンチエイジング医学も研究する塩田久嗣氏だ。

「午前中は、自律神経がお休みモードの副交感神経優位の状態から、
身体に活力をもたらす、交感神経優位の状態にスムーズに変わることが必要です。

自律神経失調症などになると、この切り替えが上手くいかないのですが、
心身を『適度な緊張感と興奮』という刺激にさらすことで、交感神経が大いに活発化します。
午前中にカラオケで歌って、交感神経を刺激することには大きな意味がある。


ぼんやり午前中を過ごすと、特に高齢の方は一日中、
副交感神経から、交感神経に切り替わらないまま夜を迎え、不眠の原因にもなります。

逆に午前中に活性化状態に持っていくと、その日が充実した一日になるはずです。
朝から脳が冴えると、注意力も上がって、
高齢者の方にありがちな転倒による怪我のリスクも減らせます」



午前を活発に活動したあとは、お腹も空く。
お昼は馴染みの定食屋で、いつものサバの味噌煮定食でも食べよう・・・。
こういったマンネリ思考は、あまり良くない。

「何を食べるか」と同じくらい「どこで食べるか」は、非常に重要なことで、
通い慣れた店に行く安心感を、ときには捨てることに大きな意味がある。

いつものことを、いつも通りやっていても、脳の活動量は減るばかり。
普段とは違う刺激を与えることで「脳の司令塔」と呼ばれる前頭前野が活性化し、
認知症などの予防につながるのだ。

そのため月に一度は、新しい店で外食をするのも良いだろう。

今日は最近近くにできたフレンチレストランに、夫婦で足を運んでみようかな・・・。
そんなちょっとした好奇心と遊び心が心身に良い影響を与えるのだ。

洒落た店に行くなら、服にも気を遣いたいところだ。
夏でもお洒落は心掛けたい。

どうせ汗をかいてしまうから、と着古したよれよれのTシャツや
ポロシャツばかり着てはいないだろうか。

東京都立大学名誉教授で医学博士の星旦二氏は、
健康のためのお洒落の重要性についてこう話す。

「お洒落を意識することが、健康にいい理由は、服を新調するからです。
商品を見る、店員さんと話す、試着をしたりして、買うか買わないかを判断する、
そして自分の財布からおカネを払う。

服を買う上でのこうした一連の流れが、心身に良い刺激となる。
また、お洒落に気を遣い始めれば、さらなる外出への意欲も湧いてくる。
これも健康を保つ上で、非常に大事なことです」



☆スマホで脳内がゴミ屋敷化

昼食から戻った午後のひととき。
のんびりワイドショーを見る人も多いだろう。

そこでただボーッと見るだけではなく、
あえてワイドショーを批評しながら、見てはいかがだろうか。

「ワイドショーを批評したり、突っ込みを入れたりするのは、
テレビを受け身ではなく、能動的に利用するという考えです。
能動的な行動は、脳の若さを保つ上で、非常に重要なポイントです」(塩田氏)


テレビを見ながら、足踏みをするのも良い。
特にワイドショーの批評のようにあれこれ考えながら、
テレビを見て足踏みをすることには、絶大な効果がある。

頭と身体を同時に動かす運動を「コグニサイズ」といい、認知症の予防に有効だ。
厚生労働省所管の国立長寿医療研究センターが、認知症予防のために開発したもので、
認知症兆候が見られる患者が、コグニサイズによって40%症状が改善したという研究データもある。

 
ワイドショーを見終えたあとの日中の時間、趣味に励む人も多いだろう。



読者好きな人ならば、一風変わった健康の秘訣がある。
好きな小説の名シーンの音読だ。

前出の塩田氏がこう解説する。
「音読は、脳が活性化するだけでなく、聴覚、喉や肺、そして呼吸器系への刺激になります。

注意点は、しっかり声を出すということ。
ボソボソとした話し声だと、あまり喉の筋肉を使わない。

しっかり発声すると、喉やお腹の筋肉も鍛えられ、
高齢者の方の罹患率が高い誤嚥性肺炎の予防にもつながります。

読む本は、できれば青春時代に影響された小説など、昔よく読んだ本がいいでしょう。
好きなフレーズに強く感情を込めて読むといいと思います。
活動的だった当時の記憶も蘇り、気持ちも若返ります」


 

夜、1杯の日本酒を飲む程度の適度な晩酌も良い。

前出の星氏が言う。
「以前、私たちの研究チームが、都市の高齢者1・3万人の飲酒の習慣について
3年間追跡調査をしました。

その調査における3年間死亡率を分析したところ、
男性は『酒をほぼ毎日飲む』群が、最も死亡率が低いという結果が出たのです。

女性も『週に1~2回飲む』群の死亡率がいちばん低く、
逆に男女とも酒を『飲まない』群の死亡率が最も高かった。
適量を楽しく飲む分にはオススメです」


一杯やっているうちに、夜のニュースが始まった。
NHKであれば「ニュース7」、「ニュースウオッチ9」など
複数の番組をチェックするという人も少なくないだろうが、
硬派なニュースを見るのは、一日1回にとどめておいたほうが得策だ。

「ニュース自体は、情報収集のためにも見た方がいい。
ただし、最近はコロナやウクライナ侵攻など、世情も不安定でニュースは
ネガティブな話題が多く、気が滅入ってしまう人も多い。

テレビは、特に同じ話題ばかりやるので、思考も硬直化してしまいます」(前出・塩田氏)

情報収集は、テレビではなく、スマホでやっているという人も要注意だ。
ネットのほうが、テレビよりも、多様なニュースを扱っているから、
思考停止になることはなく、脳の刺激になっていると思うのは早計だ。

雑多な情報を取り入れ過ぎると、脳内が「ゴミ屋敷」状態になってしまい、疲弊してしまう。
スマホとあえて距離を置く「デジタルデトックス」(解毒)が、
いまのスマホ依存社会では重要で、19時以降にスマホを扱うのは、よしたほうが健康のためだ。

夜にスマホから離れることには、他にも良い側面がある。
スマホから発せられるブルーライトが、不眠の原因にもなりかねないため、
日中の使用だけにとどめたほうが良い。



いつまでもスマホをいじっていないで、
夜になったら早めに風呂に入ったほうが、ずっと健康的だ。
お湯の温度は41度の半身浴を推奨する。

「少しぬるめの温度であるが、長く浸かっていられるので、
時間をかけて芯まで温まれる。

また高齢の方は、冷え性も多いので、体をしっかり温めることで、血流も促進されます。
42度以上の湯は、交感神経を活性化させますが、
41度程度のぬるま湯であれば、副交感神経が優位になり、リラックス効果もある」(塩田氏)

 
寝る前は、自分の人生を振り返って、「好き勝手自分史」の執筆を進める。
自分史だからといって、カッコつけることはない。

他人から見たら、顰蹙を買うような武勇伝だったとしても
自分にとってその思い出が輝いているならば、自分史に入れよう。

「過去の細部」を思い返すことは、脳の若返りにつながる。
高校生時代の良き思い出を少し書き記したあと、心地よい気分に浸りながら床につく。

上の表に心身ともに元気になる25の健康法をまとめた。

これを地道に実践して健康を保つことで、結果的におカネに困ることもなくなる。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 


今回、《・・心身ともに元気になる25の健康法・・》学び、
多々教示されながら、微苦笑をしたりした。

たとえ高齢者向けの記事であっても、その人なりに日常生活を過ごされ、
10人10色だよねぇ・・と微苦笑したりした。


今朝、起床した後、洗面所で顔を洗ったりした後、
キッチンにある冷蔵庫に行き、冷やして置いた煎茶を、
お寿司屋さんより頂いた大きめの湯飲み茶わんで一杯飲んだりして、
正気になり微苦笑したりした。

まもなく、大きめのコップにアイスコーヒー、大きめの湯飲み茶わんに冷茶、
このふたつをトレイに載せて、居間にあるビデオ・ケースの上に置く。

こうした中、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

                         
           ☆ 過ぎし日に、たわむれで撮ったれした ☆

私は曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向って、
何かと気弱な癖に、ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
     



こうした中、我が家の平素の買い物に関して、年金生活を始めた当初より、
私は自主宣言をして、家内から依頼された品を求めて、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に独りで行っている買物メール老ボーイとなっている。

しかしながら一昨年の2月に新ウィルスコロナの烈風後は、
感染が怖くて、『三密(密集、密接、密閉)』に伴い、
3日に一度ぐらい、ここ10日は2日に一回集約して、素早く店内の品を確認し、買物をしている・・。
          

我が家の平素の買い物の実態は、買い物の当日になると、
朝食後に家内は、いつものように新聞に添付されているスーパーのチラシを見た後、
赤のサインペンで丸印を付けたりする・・。

やがて私は手渡されて、赤丸が付いたのが本日の買物の対象品であり、
そして私が店内で魅せられた品を追加するのが、我が家の鉄則となっている。

このような年金生活をしている私は、
スーパー、コンビニ、専門店のドラック・ストアー、そして本屋に立ち寄って買い求めたりしている。


そして帰宅後、再び独りで、自宅から3キロ以内にある遊歩道、公園など散策して、
季節のうつろいを享受したりして、健康にも良いかしら、と思ったりしている。



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青年時代、私は映画・文学青年の真似事をして、敗退した思いで・・。

2022-06-21 13:53:05 | 喜寿の頃からの思い

私は過ぎし55年前の頃、青年時代に於いて、
映画・文学青年の真似事をして、敗退したひとりである。
                             
多く人は、若き日のひととき、小説、随筆などを読み、読書に魅せられ、
やがて一部の人が、ある作家たちの作品に魅了され、多くの作品に感銘さえ感じることだろう。

或いは世界、日本文學全集などで読む中で、圧倒的に魅せられる作家を見いだし、
単行本、文庫本、文藝雑誌を読んだりすると思われる。

こうした中で、一部の人は、このくらいの作品であったならば、
私だって書けると錯覚して、習作されると思ったりするが、
もとより読者と創作する作者とは、天と地以上に差異があることに気付かされたりする。

或いは魅了されている作家の作風、文体を真似ていたことに気付き、
創作者にあこがれるが、創作者には到底なれないと自覚させられ、断念する人が多い。

こうした中で、この作品を書き上げなければ、一歩先に進めない、と自覚する方で、
独自な作風、文体を確立しそうな方だけが、作家の第一歩に相応しい、と感じている。


従って、どのような分野の作家も、魅了された先人の創作者の模倣から始まり、
やがて独自な作風、文体を確立できなければ、職業作家としては失格となる。

こうしたことは小説の世界にとどまらず、映画の作品も同様である。
ある作品を観れば、先人の創られた作品に影響され、あるシーンを巧みに模倣している、
と気付いたりすることもある。

或いは音楽の世界でも、メロディーラインも同様なことが発生し、多くの方も気付いていると思われる。

             

私は定年退職後の年金生活17年半が過ぎている中で、読書は好きであるが、
創られる小説を読むことは激減して、随筆、ノンフェクション、近現代史を読むことが圧倒的に多い、
と微苦笑したりしているのが、昨今となっている。


私は1944(昭和19)年の秋に、今住んでいる近くにあった農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学してからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、確か私が小学校1年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、
今の時代で云うと粗雑な藁半紙(わらばんし)で書かされたりした。


この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたりした・・。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。


                           
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。

この当時の私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。



こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、
映画の脚本家になりたくて、中退した。

                                             

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。



この当時の私は、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)さん、
そして立原正秋(たちはら・まさあき)さんの両氏であった。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。

しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、劣等感を秘めて私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。


こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、私は30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
たじろいでしまい、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

                                    

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
やがて中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。



こうした中、私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたりした・・。

こうした心情の奥底の思いは、私と似たような作家志望の人たちに対して、
後年に長年に出版社の光文社で、ご活躍された山田順(やまだ・じゅん)氏が、的言している。

氏の長年の編集者の体験をした発露のひとつ、
《・・私の経験から言うと、作家志望者のほとんどが、実際には印税や名声を望んでいるだけである。
彼らが作品を書くのは、それを得るための手段に過ぎない。

ほとんどの作家志望者は、社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし、
それを裏付ける経験もない。・・》
このように明言され、今後も創作者をめざす人には、貴重な哲学のような銘言と私は感じたりした。

                                     

そして小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだりした。

若き日に私が、たとえば選定者が迷いながらも、偶然に私が純文学の新人賞を得たとしても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多い教養講座の文藝講師などに、ありつければよい方だろう・・。

そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。


こうしたことを私は思い浮かべ、若い青年期だから・・夢想し、混迷し、
やがて敗残した私は、やはり才能、努力が欠落していた・・と独り苦笑したりしている。

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「青春」という名の詩、改めて77歳の私は学び、やがて独り微苦笑して・・。

2022-06-20 15:52:56 | 真摯に『文学』を思考する時

先程、ぼんやりと脇机にある書類を整理していたら、
一枚のプリントされた用紙を長らく見つめたりした・・。

確か10年前の頃、雑誌を読んでいたら、感銘してしまい、
転記してしまいこんだひとつである。

《・・「青春」という名の詩

             幻の詩人サムエル・ウルマン
                     宇野 収
                     作山宗久 著
   青春
       サムエル・ウルマン
 
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意思、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 
青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。
 
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥になる。
 
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
 
霊感が絶え、精神が皮膚の雪おおわれ、悲歎の氷にとざされるとき、
20歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして巳む。・・ 》



このように転記していたが、遅ればせながら、私は67歳の頃に、
初めて読んだりして、微苦笑したりした。

それまでの私は、その人なりの青年期を終えて、大人の扉を開いた時に、
『青春』は終わりを告げる時期・・と思ったりしていた・・。



私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で、交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
クラブとしては写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったりした。

こうした中、女子部のひとり生徒に魅了されて、
新宿御苑などに行ったりして、木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下してしまった。



この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったりした。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は言われしまったりした。


結果として、私はある大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。

そして次兄は高校時代は山岳部、大学時代はワンター・フォーゲル部に所属し、
何かと山の魅力を私は聞いたりした影響もあり、
私は漠然としながらワンダー・フォーゲル部に入部し、山歩きをしたりしたが、
やはり映画館には相変わらず通っていた・・。

そして秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

翌年になると、都心は東京オリンピックの開催される年で、
都心はもとより、周辺も日増し毎に大きく景観が変貌していた・・。

そして私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。



東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

やがて東京オリンピックが終り、翌年の1965(昭和40)年1月から、専門養成所に入学した。

この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。

指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉学院長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
アメリカの白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては、破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。



この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。

そして、この講師から新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしたアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界の方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、監督、そして撮影、照明などのスタッフの方たちはもとより、
ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、改めて教示させられた。

私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。



私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりした。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。

そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子を養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。



やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。

この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。



このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は、理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。



同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだりした。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
この当時として、ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たりした。



そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

映画の脚本、小説の創作にも、あえなく敗れ、私の彷徨した時代に終わり、
遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。



まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこの新設された外資のレコード会社に転籍させられ、
企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたりした。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、
改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。

こうした中で、一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、
私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったりした・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたりした。



このように拙(つたな)い青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない身も心も黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは誰しも叶(かな)わぬ夢であるので、
私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりした。




年金生活18年生の昨今、相変わらず亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、
恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら歓談したりしている。

こうした中、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしているので、
安楽な晩秋期を享受している。
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梅雨の晴れ間、77歳の私は、いつものように自宅の周辺を散策して・・。

2022-06-19 15:01:31 | 喜寿の頃からの思い

私は都心の郊外に住む年金生活の77歳の身であるが、
梅雨の時節、久しぶりに晴れとなったりした・・。

私は平素の買い物に関して、家内から依頼された品を求めてスーパー、専門店に、
ここ10日間は、二日に一度ぐらい行っている買い物メール老ボーイの身であるが、
『梅雨の間の貴重な晴れ間・・写真でもお撮りに行ってみたら・・』
と家内から私は進言されたりした。



本日は自宅の近くに流れている野川の下流の周辺を歩きだしたりした・・。



こうした中、私の容姿は、制服のようになった半袖のスポーツシャツ、
長ズボン、そして帽子を深くかぶり、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そして紳士バックを園児のように斜め掛けにして、颯爽と歩いたりしている。

しかしながら初夏のような陽気となり、歩いたりすると汗ばみ、
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いている・・。

そして陽射しが燦燦と照らす道もあるので、
高齢者の私でも、人生は気合いだ・・、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。



こうした中、魅了された情景を見ると、見惚(みと)れたりした後、
何かと忘れ去ることが多くなっているので、記憶のかたみの代わりに、
デジカメで撮ったりしている。









このような情景に魅せられて、一時間半ばかり散策した。




こうした中、定年後の年金生活で、定位置観測のような風景を撮ったりしている・・。



この状景を毎年、春夏秋冬に撮ったりして、私の心の時系列のような、
移りゆく記録写真となったりしている。

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過ぎ去り日々のそれぞれの出来事に、77歳の私でも、愛惜を重ねて・・。

2022-06-18 15:06:21 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
最近の一カ月の私は、ベットの布団にもぐるのは、真夜中の11時半前後であり、
目覚めるのは朝の6時ぐらいが多くなっている。

こうした中で、現役サラリーマン時代だった時と違い、悩みは激少している為か、
たとえ震度3ぐらいの地震でも、 目覚めることなく熟睡している。

そして目覚めた時、ぼんやりと昨日までの出来事を思い浮かべたり、
今日は・・と予定事項を思い浮かべたりしている。

こうした中、オシッコだ、と感じて、布団から起きだすことが多くなっている。
       
しかしながら、まだ6時半前かょ・・と思いながら、布団に戻ってきてしまい、
まもなく目を閉じているうちに、眠ってしまった・・。

やがて30分ぐらい二度寝した後、目覚めてぼんやりとまどろんだりした・・。

                 


過ぎし日の出来事とか、これからのささやかな願いの数々が、
夢と現(うつつ)の世界を彷徨(さまよ)うようなひとときとなっている。

そしてぼんやりとして正気には程遠く、
やがて起床して、煎茶を飲んだりして、正気になり微苦笑することが多くなっている。

このように朝、目覚めてぼんやりと微睡(まどろ)む時、やがて二度寝ができることは、
貧富に関係なく、この世で最も贅沢なひととき、と私は微笑んだりしている。

こうした私の実態が、いつの日にか介護にお世話になる時まで、
続けられれば・・と微苦笑したりしている。



こうした中、過ぎし15日に月に一度の散髪屋(理容店)に行ったが、
待合室で待機していると、置いてある雑誌の『クロワッサン』を手にして、
読んだりした。

《・・・昔のことを思い出して、懐かしさに浸ることを、
まるで後ろ向きなことのように、思い込んでいるかもしれないが、
「過去を懐かしく思い出すことは、決して現実からの逃避でもネガティブなことでもありません。

むしろ積極的に回想することは、脳の健康を維持するさまざまな効果が
あることがわかってきました」と、脳医学者の瀧靖之さん。

そもそも脳は、“新しいことを知りたい、
学びたい”という知的好奇心をかきたてるものが大好きだというが、
昔のことを思い出すことも、脳のさまざまな領域を使うため、同等の刺激になるという。

まず、過去を懐かしく思い返すことで、得られる効果のひとつが、ストレス解消になること。
「私自身も日頃から脳によいと考えられることを実践していますが、
昔を思い出して懐かしむことはとにかく楽しく、何とも甘酸っぱいような幸福な気持ちに包まれるものです。

この理屈抜きに楽しい、幸せと思う感情は『主観的幸福感』と呼ばれていますが、
脳にも心身にもよい影響を与えてくれます」

たとえば、この主観的幸福感が高くなるほど、心身へのストレスレベルが下がり、
生活習慣病のリスク低減につながることもわかっているという。

「さらに脳の中でも、中枢機能の海馬の神経細胞が新たに生まれる『神経新生』を促し、
脳を健康に保つことを裏付ける研究も多く報告されています」・・ 》


このようなことを私は学び、数年前のことは忘れてしまうことがあるが、
何かしら昔の出来事は、鮮明に思い出すことができるので、独り微笑んだりした・・。



この後、私の幼年期に初めて買物をしたことなどを思い馳せたりした・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農家をしていた。

こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあり、 竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、 
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
この後、妹が生まれた後、溺愛された状態を幼年の私なりに見て、感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、

万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。



私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。

幻燈機は若い方には不明と思われるが、

現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。

総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの
意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。



こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。

この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を数本贈答したり、
年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、

平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。

そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。



やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。



こうした私にとっては、昔の出来事は、思い出いっぱい・・あり、
少しボケた脳の活性化に良いかしら、と独り微笑んだりしている。

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ときには、浄土のような世界、つたない人生航路を歩んだ私でも、夢幻して・・。

2022-06-17 13:24:57 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の77歳の身であるが、
ここ10数年、樹木葬について、幾たびも綴ってきた・・。

私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、一代限りの身であり、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、
和花と洋花に包まれて、ときおり好きな曲が奏でられる中、
出来うる限り質素にして貰いたい、とここ15年ぐらい言ったりしてきている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。

その後、四十九日の納骨が終われば、何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、
という考えの持ち主である。

そして残された家内は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。

この世は予期せぬ出来事もあるので、私が家内に先立たれることもあるが、
この場合も、同じようにご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私は家内から言われたりしてきた。



私の生家は長兄が実家として継いで、確か16代目となって、
祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で、実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。



私が40歳を過ぎた頃の1985年(昭和60年)の2月、
敬愛している亡き小説家・立原正秋さんの作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、
私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

この当時、 私が何かと愛していた『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用し、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。

もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。

私たちは、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。

あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。

人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこうした事だろう、と思い重ねたりした。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。



その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と私は納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。


このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
10数年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、と学び、
やがて2016年の5月中旬、私たち夫婦が樹木葬の墓地(埋葬地)として、最有力地の
この大島にある『千の風 みらい園』に、訪ねた。

http://www.miraien.jp/00miraien-index.html
☆【千の風 みらい園】公式サイト☆

案内人に導かれて、丘陵にある墓地を見たりした後、
私たち夫婦は、風光明媚の情景に見たりして、
これだったら安楽にあの世ですごせるかしら、と思い契約をした・・。



ここ数週間、私は相変わらず、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街の歩道など、
季節のうつろいを享受しながら、歩き廻ったりしてきた・・。

こうした中で、樹木葬の墓地(埋葬地)でも、管理を怠ると、このようになるのかしら、
と独り微苦笑をしたりした。



この後、30分ぐらい歩いていたら、夏椿にめぐり逢えて、私は微笑んで、
見惚(みと)れたりした・・。

私は20代の頃、すっきりした白色の花びらの縁(ふち)には、
こまかいギザギザあり、花の形が椿によく似ていて、夏に開花することから「夏椿」と呼ばれ、
私の生家の近くにある寺院でも、
「沙羅双樹(さらそうじゅ)」と呼ばれてきた。

何かと単細胞の私は、高校時代に習った『平家物語』に於いて、
《・・
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。
・・》、思いを重ねてきた・・。

もとより夏椿は、朝に咲き、夕方には散り、
私は梅雨の時節に彩ってくれる情景に、こよなく魅了されてきた・・。




そして私は、ぼんやりと雨上がりの夏椿の雨露でぬれた地表を眺めた時、
つたない人生航路を歩んだ私でも、浄土のような世界・・と思い馳せたりした・・。

私は農家の三男坊として、1944年(昭和19年)の秋に生を受けて、
仏教としては、日本で多くの曹洞宗であったりした。

こうした中、春分の日、お盆、秋分の日などで、
僧侶が来宅して、お経の後、歓談したりした。

こうした中で、浄土のことも話さわれて、
一切の煩悩や汚れを離れ、仏や菩薩が住まわれる清浄な地・・、

確かこのようなことを心の片隅に残っている。



このような情景を見たりすると、浄土のような世界だ、と私は思い馳せたりした。

つたない人生航路を歩んだ私としては、もとより人生修業も未完成であり、
夢幻のひととき・・と感じた後、空をゆっくりと見上げたりした・・。

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ライフラインを支える「心と体が整う7つの習慣」、77歳の私は学び、多々教示させられて・・。

2022-06-16 15:28:00 | 喜寿の頃からの思い

やストレスがたまりやすい昨今。
それには、「自律神経の乱れ」が関係しているかもしれません。
日々の習慣を見直し、心と体のセルフケアをきちんと行なうことが大事です。



☆自律神経の乱れは、あらゆる不調の原因

新型コロナウイルスの流行によって、今まで当たり前にできていたことができなくなり、
生活が大きく変わって、私たちはよりストレスフルな日々を送ることになりました。

そんな毎日の中で、「体がだるい」、「やる気が起きない」、「疲れが抜けない」など、
「なんとなく不調」を感じている人も、多いのではないでしょうか。

もしかしたら、それは「自律神経」が乱れているからかもしれません。

自律神経とは、簡単に説明すると、
心臓や腸、胃といった内臓器官のすべて、とりわけ血管をコントロールしている神経です。
呼吸も、自律神経がコントロールしています。

ですから、自律神経が人間の生命活動=ライフラインを支えている、
と言っても過言ではないのです。

私はこれまで長年にわたり自律神経について研究してきましたが、
自律神経のバランスが崩れると、免疫力が下がって、病気にかかりやすくなり、
心と体にさまざまな不調をきたすことがわかりました。

自律神経は、夜更かしや朝寝坊といった不規則な生活はもちろんですが、
不安や恐れ、怒りといったネガティブな感情を抱くことでも乱れます。
日々暮らしていれば、私たちは多かれ少なかれストレスを受けます。


このコロナ禍においては、不安や心配がつきないでしょう。
問題は、そうしたストレスをためこみ、自律神経のバランスを崩して、
心身に不調をきたしてしまうこと。

そうならないために、日々の過ごし方を少し見直し、自分にやさしい暮らしを心がけてみましょう。

☆「自律神経」を整えることが健康のカギ!

自律神経は、「交感神経」と「副交感神経」の2種類に大別されます。

車でたとえると、交感神経はアクセル、副交感神経はブレーキです。
交感神経が、優位に働いているときは、
血管が収縮して血圧が上がり、アグレッシブな状態になります。

逆に副交感神経が、優位に働いているときは、
血管が弛緩(しかん)して血圧が下がり、リラックスした状態になります。

車を運転するとき、アクセルとブレーキの両方がうまく働いてこそ、
安心してスムーズに運転できます。

人間の活動も同じです。
もっとも心身の状態がよく、パフォーマンスが高まるのは、
交感神経と副交感神経が、ともに高いレベルで働き、安定して機能しているとき。

交感神経と副交感神経の両方の働きが低い、
もしくはどちらか一方だけが、優位に働く状態が長く続くと、心身に不調をきたします。

ストレス社会で生きている私たちは、どちらかというと交感神経が優位になりがちです。

若い頃は副交感神経の働きが高いため、
ストレスを受けて自律神経が乱れたとしても、すぐにリカバリーできるのですが、
男性は30歳、女性は40歳を過ぎると、副交感神経の働きがガクンと落ち、
10年ごとに約15パーセントずつ低下します。

放っておくと自律神経のバランスが乱れたままになってしまうので、
自分で意識して整えることが必要なのです。

☆自律神経セルフチェック!

まずは、自分の今の自律神経の状態を確認してみましょう。
当てはまるものにチェックを入れてください。

□疲れやすい

□やる気が出ない

□風邪をひきやすい

□むくみやすい

□頭痛がある

□すぐに気が散る、集中できない

□ちょっとしたことでイライラしやすい

□腰痛がある

□冷え性だ

□肩がこりやすい

□寝ても疲れがとれない

□肌や髪が乾燥している

□不安を感じることが多い

□思考力・決断力の衰えを感じる

□緊張しやすく、ストレスを受けやすい

□便秘気味、または下痢の症状がある

1つでも当てはまれば、自律神経が乱れている可能性があります。
また、当てはまる数が多いほど、自律神経の乱れが大きいと考えられます。

☆「自律神経」が整うおすすめの7つの習慣

生活の中にうまく取り入れ、自律神経の乱れをリカバリーしましょう。

●食事の前に1杯の水を飲む

   食事中は、交感神経の働きが高まるのですが、
   食事の前にコップ1杯の水を飲むと、
   胃腸の神経が刺激されて副交感神経の働きが高まり、自律神経のバランスが整います。

   特に副交感神経が優位な状態から、交感神経が優位な状態へと切り替わる朝の時間帯、
   朝食前に飲むと、副交感神経の働きが急激に下がる=イライラするのを防げ、
   気持ちよく1日をスタートできます。

   朝起きたら軽くうがいをし、常温の水を飲むようにしましょう。

●「1:2の呼吸法」を取り入れる

   副交感神経の働きを高めるのにおすすめなのが、
   「1」の割合で吸って、「2」の割合で吐く呼吸法です。

   鼻から3~4秒かけて息を吸い、口をすぼめて6~8秒かけて、長くゆっくり口から息を吐きます。

   1日1回、3分をめどに行ないましょう。
   緊張したりイライラしたりしたときに取り入れると、心がスッと落ち着きます。

●空を見上げる

   心配なことがあったり、気持ちが落ち込んだりしたときは、空を見上げてみましょう。
   上を向くと気道がまっすぐになり、体内に入る酸素量が増えて血管が広がり、
   全身に酸素がいきわたります。

   頭がすっきりして気持ちが落ち着き、自律神経のバランスも整います。
   自然の中でゆったりくつろぎながら空を見上げれば、さらにリフレッシュできるでしょう。

●1日1カ所片づける

   片づけには、副交感神経の働きを高め、気持ちを落ち着ける作用があります。
   リビングのテーブルの上でも、本棚でもどこでもいいので、
   どこか1カ所片づけることを習慣にしてみましょう。

   ただし、片づけがストレスになってはいけないので、決してがんばりすぎないこと。
   長くても30分以内にしましょう。
   「ちょこっと片づけ」を続けると、部屋も心も自然と整います。

●ゆっくり動く

   やるべきことに追われ焦って行動すると、交感神経の働きが急激に高まり、
   自律神経が乱れます。

   イライラしているときや、焦っているときほど、
   ゆっくり食べる、ゆっくり歩く、ゆっくり話すなど、
   「ゆっくり行動する」ことを心がけてみましょう。

   そうすることで、呼吸が深く安定して副交感神経の働きが高まり、
   冷静な行動、判断ができるようになります。

●ストレッチをして体をほぐす

   座り仕事などで同じ姿勢で長時間過ごしていると、
   筋肉が収縮した状態が続いて血流が悪くなり、免疫力が下がってしまいます。

   同じ姿勢の状態が1時間続いたら、
   首や腰を回したり、背中を伸ばしたりして軽いストレッチを行ないましょう。

   すきま時間に気分転換を兼ねて行なえば、
   上がりっぱなしになりやすい交感神経の働きを落ち着かせることができます。

●3行日記を書く

   1日の終わりに、自分が今日感じたことを3行程度の短い日記に記しましょう。
   自分の中にためこんでいたストレスが吐き出されて、
   心の中が整理でき、自律神経が整います。

   おすすめの「3行日記」の書き方をご紹介します。

     (1)今日、一番失敗したことを書く

     (2)今日、一番感動・感謝したことを書く

     (3)ストレスの解消法、または明日の目標を書く

   (3)を書き終えたら、最後に「いろいろあるけど、今日もありがとう」と、
   感謝の言葉で締めくくるのがポイントです。

毎日、よく笑っていますか? 

「笑顔でいると、病気が治る」などと言われますが、
笑顔でいると副交感神経の働きが高まり、リンパ球が活性化して、
免疫力が上がることが実験で証明されています。

私も実際に、人がいろいろな表情をしたときの自律神経の状態を計測、比較する実験を行なったのですが、
心からの笑顔はもちろん、作り笑いでも、副交感神経の働きが高まることがわかりました。

ネガティブな感情に引きずられやすいときこそ、意識して笑うことが大事です。
それだけで緊張が解け、副交感神経の働きが高まります。

副交感神経の働きが高まれば、リラックスして心に余裕が生まれ、
前向きな発想もできるようになります。
ぜひ、大変なときほど鏡の前で、にっこり自分に笑いかけてみてください。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

 
 

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