夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

今年初めての真夏日となり、やがて昼寝から目覚めて、とりとめなく・・。

2015-05-31 16:47:56 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む齢ばかり重ねた70歳の年金生活の身であるが、
午前中のひととき、いつものように買物専任者の私はスーパーに行った後、
最寄りの遊歩道を散策したが、熱いじゃないのょ、と思いながら扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら帰宅した。

そして汗ばんだ夏用のストレッチパンズの長ズボン、半袖のスボーツシャツ、下着まで脱ぎ捨て、
水風呂に入ったりした。

やがて冷茶を飲みながら、地元の気象情報を視聴したりした。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるが、
過ぎし今年初めての台風一過となった13日から、急激に30度近い暑さとなり、
何かと暑さ苦手な私は、苦笑したりした。

降水量も少なかったため気温が高い日が続き、都心では30度の真夏日と報じたりし、
天上の気候の神々の采配に、戸惑ったりしてきた。

そして都心より1度ぐらいは涼しい所であるが、5月は25度以上の夏日が多く、
20数日となり、気象庁の統計が残る1876年(明治9年)以来、最多となり、
まだ5月なのに夏本番は、どのような暑さになるのょ、と私は大いに戸惑いを重ねてきた。

何かしら本日は、私の住む地域でも30度の真夏日と報じ、
私は1944年(昭和19年)生れであるが、5月としては記憶がある限り、生れて初めての体験だょ、
と苦笑したりした。
          

午後の1時半過ぎ、居間で扇風機の風に当たりながら本を読んでいると、眠くなり、
やむなく和室に移動して、簡易ベットに横たわりながら本を読んだりした。

たまたま読んでいる本は、過ぎし日に買い求めた
福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(中公新書)であり、
やがて眠りに落ちた・・。

やがて一時間ぐらい過ぎた頃、目覚めても15分ぐらい、ぼんやりとした・・。

そして何故かしら、今後のアメリカ、中国、そして日本の状況が浮かんだりした・・。

私は遅ればせながら読書に高校入学して突然に目覚め、これ以来55年ばかり乱読を重ねてきた為か、
この本からも喚起させられて、時空を飛び、
つたない私でも想像力をめぐらしたのである・・。

この後、無力な私は、せんなきことだよなぁ、と苦笑しながら、、
洗面所で顔を洗い、そして冷茶を飲み、やがてアイス・コーヒーを飲んだりした。

やがて、今日で5月が終わってしまったか、と過ぎし日々に愛惜を重ねて、
微苦笑したりしている。


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幸せの『青い鳥』は、それぞれのお住まいの身近な所にいる、と確信を深めて・・。

2015-05-30 16:55:09 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の身であるが、今朝いつものように読売新聞を読んでいる中で、
出版社の広告が掲載されていた。

幻冬舎新書のベイトセラーとして、下重暁子(しもじゅう・あきこ)さん著作の『家族とのいう病』の広告であり、
《家族ほどしんどいものはない》

《日本人の多くが「一家団欒」という呪縛にとわれているが、
「家族」とは、それほどすばらしいものなのか?
実際には、家族がらみの事件やトラブルを挙げればキリがない。
それなのになぜ、日本で「家族」は美化されるのか。(略)・・》

そして具体的な事象を各章と明記されて、私は流し読みしたが、
人はマイナス思考とブラス思考があるが、下重暁子さんは『家族』をマイナス思考で描いている、
と私は苦笑したりした・・。

もとより友達、知人は自身が選ぶことができ、こうした中で悪感情の末、疎遠になったり、解消できるが、
家族の親子、兄妹は、愛憎、確執があっても、一生つきまとい、手を切ることができない間柄となっている。
しかしながら肉親、夫婦、親子、兄妹だけが知りえる互いの喜びがあり、互いに共有してるのが家族である。

このように家族に対しては、私はブラス思考となっている。
そしてモーリス・メーテルリンクさんの童話『青い鳥』のように、
幸せな『青い鳥』は、人誰しもそれぞれのお住まいの身近な所にいる、と私は確信を深めたりしている・・。
          
       
私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
この当時の私は民間会社に勤めて6年生の31歳であり、
母が賃貸アパートを経営し、別棟に母と同居をしていた。

こうした中で、私は血気盛んで多くの女性と交際を重ねてきたが、大半は失恋の方が多かったが、
紹介を受けた女性は、交際を重ねる中、家庭を営(いとな)んでも堅実そうな方と思われ、
私は好感をしたりした。

こうした中、結婚して相手方の財産をあてにするのは、男として最低だからね、と母は私に言ったりした。

私は相手方のご両親が大切に育ててきた娘さんであり、
私に嫁いでくれるので、もとより相手方の財産などは眼中になく、
お母さん・・社会の心の節度として常識です、と私は笑いながら母に言ったりした。
                    

やがて1975年〈昭和50年〉の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、
ボタンの掛け違いのような行き違いが発生して、両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。

そして何とか1976年〈昭和51年〉3月30日に、学士会館で結婚式、そして披露宴を終えた。
この間の結婚式で、花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と私は改めて思いながら緊張を増したりした。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                    

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、千葉県の市川市の片隅にある国府台で、
2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも家賃を支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したりした。

やがて結果として、私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの新婚生活の合間でも、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核としたりしたが、
まもなく私は孤軍奮戦しても、家計は赤字が多く、私は困苦したりした。

やがて突然に家内は、デパートの和服販売店に契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
                          

この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。
こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。
          

私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
                 

そして50代になると、1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となり、
出向先は各レコード会社がCD、DVDなど音楽商品を委託している物流会社であった。
         
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

やがて出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の先輩、同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
                                    

この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始め、早や11年目となった。


私の父は、私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死された。

やがて私が54歳の時に、母は喜寿と称される77歳を迎えてまもない時に、
婦人系のガンで3年ばかり入退院してきた中で、死去した。

家内の父は、私が定年退職する2004年(平成16年)秋の直前に、
腎臓のガンに5年ばかり入退院してきた中で、78歳でこの世を去った。

そして私たち夫婦の両親は、私より14歳齢上の家内の母だけとなっているが、
3年前に膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)をついて歩いたりしているが、心は溌剌としている。
                              

こうした中で、家内の両親が健在だった私が35歳過ぎた頃から、年末年始に我が家に招き『お歳とり』を行ったり、
やがて私たち夫婦は1泊2日ぐらい旅行を毎年誘って、招待したりしてきた。

そして独り住まいとなってしまった家内の母に対しては、
当初私たち夫婦は年金生活を始めた頃で、温泉滞在、観光地めぐりなど6泊7日前後で、
幾たびも招待したりしてきた。

私は家内の実家からは金品の支援を受けるは、お嫁さんを頂く日本男児の立場として恥と思っているが、
しかしながら、我が家を新築した時は、家内の両親からお祝い品を頂いたり、
私たち結婚10周年の時は、デパートの商品券を多額に頂いたり、
或いは私の定年退職時には、やはり多額なお祝いを頂いたりしてきた。
                              

人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。
          
         
             
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして我が家の周辺は住宅街の片隅に住みにあり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
          
2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初から、私は平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
          
                           
こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

私は年金生活の中で、日中の大半を随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりする時間を確保したく、積極的に買物メール老ボーイとなった。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供となり、
最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時、荷物持ちの責務を果たしている。
                    

或いは私がときおり小庭の手入れをする時、年に4回ぐらい家内が手助けをしてくれる。

こうした私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら日常生活の実情は、私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
          

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、幾たびか各地を旅路を重ねてきた。
          

私は70歳の身であり、私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や11年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
ここ10年は安楽の日々を過ごしてきた。

世の中は少年時期から青年時期を過ごした後、やがて後年になって、ボクの青春時代はあの時期だった、
と走馬灯ように、その時の出来事を思い馳せたりすることがある。
このようなこともあるので、今こうして過ごしている私たち夫婦は最良の日々かしら、と私は感じたりしている。
          
       

これからの日々は、体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。

こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。
          

このように思案している私は、こうして過ごしている昨今こそが、
いつまで続くか解らないが、私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている。


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「保険はできるだけ入らない」が世界の常識、遅ればせながら学び、微苦笑して・・。

2015-05-29 15:30:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
本日の午後のひととき、ネットでニュースを見たりしていた。

やがて「保険はできるだけ入らない」が世界の常識】と見出しを見て、
どういうことなのょ、と思いながら、クリックしてしまった。

ビジネスニュースサイトとして名高い『東洋経済オンライン』が、
2015年04月15日に配信して下さった記事で、
保険を知り尽くした男と称賛されている橋爪 健人 さんが、寄稿された文と私は知った。

そして標題は、「保険はできるだけ入らない」が世界の常識、
副題して、日本の保険はガラパゴス状態、だから日本人は保険で損をする として明記され、
私は精読して、多々教示され、少なくとも30年前に学んでいたら、と苦笑したりした。

無断であるが転載させて頂く。
          

《・・「社会人になったら保険の1本ぐらいは入っておこう」
「結婚したら愛情の証として、子供が生まれたら親の責任として保険を契約しよう」
これが平均的な日本人の保険の入り方です。

でも、このように考えているのは、おそらく世界中で日本人だけです。
こうした保険の入り方は、欧米諸国の人たちにはとても理解のできない、日本特有のものなのです。

それでは、世界一の保険大国・米国では、どのような場合に保険に入るのでしょうか。
まずもっとも利用されるのは、住宅ローンを組んだ時です。
死亡によりローンが返済できなくなった場合の担保として保険が必要となります。

次は、相続対策として生命保険が必要な場合です(主に金持ちの人たちです)。
どちらもスキームの中に保険が組み込まれているケースです。
その他の場合、米国人は特に生命保険に入ろうとは考えません。
          

☆絶対に必要な保険にまで入らない米国人

社会人になったからとか、結婚したからとか、そんな理由で保険に入る米国人は、まずいません。
日本では固定観念に近い、子供ができたら生命保険に入る、という感覚も
共働きが当たり前の米国人は持ち合わせていません。

夫婦のどちらかが死んだ場合でも、遺された方が自分の収入でなんとか子供を育てあげられるなら
保険はいらないと考えます。

「できるだけ保険に入らない」という米国人気質が典型的に現れたのが、
医療保険の分野です。
米国には、日本のような公的な健康保険制度がありません。

そのため民間保険会社の医療保険に加入していないと、病気の際に治療してもらえません。
だから米国では、医療保険は生活する上で必須の保険です。


ところがその医療保険ですら、5000万人近い人たちが入っていなかったのが実情です。
米国が長らく悩み続けている無保険者問題です。

ついにオバマ大統領は「オバマケア」と呼ばれる、医療保険加入を強制化する法律を成立させ、
昨年より施行されています。

このように、必要な保険までなかなか入らないのが、保険大国と言われる米国の実態なのです。
          

☆ヨーロッパではもっと「保険に入らない」

欧州に目を転じても、英、仏、独といった先進諸国の人たちは
「保険にはできるだけ入らない」と考えています。
その傾向はむしろ米国よりも強いと思われます。

保険発祥の国・英国で売られているのは、ほとんどが一時払いの年金保険です。
フランスでは、伝統的に銀行での保険販売が盛んですが、
売られているのは、投資信託などと同じ運用目的の保険です。
どちらの国の人々も、日本では代表的な死亡保険にはほとんど入りません。

生命保険料総額では、世界の1位が米国、2位が日本、3位英国、そして4位仏国と続きます。
しかし、その中身をよく見てみると死亡保険、がん保険、医療保険のような保障系の生命保険は、
日本以外ではわずかしか売れていません。
日本こそが世界トップの保障保険大国なのです。
          

では、なぜ日本人はこのように保険好きなのでしょうか。
その大きな理由として、次の3つが挙げられると思います。

ひとつ目は、戦後からバブル崩壊まで、長い間続いた高度成長経済です。
この間、人々の給与は上がり続けました。
そして豊かになったフトコロが、膨張する保険料負担を支えました。
経済的余力があったからこそ、日本人は多くの保険に入ることができたのです。
          


2つ目は、成長経済下で育まれた日本人の「一億総中流」意識です。
そもそも生命保険は、中間所得層向けの金融商品です。
富裕層はお金があるので保険を必要としません。
低所得貧困層の人たちは、保険料を負担する経済的余裕がないので保険に入れません。

唯一、保険の引き受け手となるはずの巨大な中間所得層が、かつての日本には存在しました。

そして、まわりの人たちが次々と保険に入る様子を見ながら、
何となく自分も保険に入らねば、との思いも生まれます。
中流意識と日本的ヨコ並び意識が相まって、保険加入の流れが加速されたのです。

そこでは欧米のような、何のために保険に入るのか、保険は必要なのか、
といった根源的な疑問が生じることがありませんでした。
          

3つ目は、保険情報の閉塞性です。
人々が目にする保険情報は、ほとんどが保険を売るサイドから発信されるものばかりでした。
「売らんかな」のバイアスがかかった情報ばかりに振り回され、
いつしか人々は、売り手の思惑通りに行動するようになりました。

「どの保険が選ぶのがよいのか」を迫る保険情報によって、
「何のために」「そもそも必要なのか」といった視点は覆い隠されてしまいます。

その結果、いつの間にか「保険は入るもの」が日本人の常識になってしまいました。
          

☆日本の保険はガラパゴス状態

こうした日本人の保険観は、世界の潮流から取り残された保険ガラパゴス的産物と言えるかもしれません。
そこからは、欧米のような「保険はそもそも必要なのか」という疑問は生まれません。

そして、「必要がなければ保険はできるだけ入らない」という当たり前の発想も
ついに出てきませんでした。

日本人は、必要でない生命保険に入り過ぎています。
日本は、とうの昔から欧米諸国並みに社会保障制度の充実した国になっています(場合によっては欧米以上です)。
ですから、屋上屋を重ねるような多額の生命保険に入る必要はありません。

不要な保険に入る、ということは、それだけ他の生活費を圧迫する、ということです。

「保険は入るもの」と情緒的、感覚的に信じ込み、
何となく生命保険に入る時代は、とうに終わっているのです。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は過ぎし昨年の9月の誕生日を迎え、古希と称される70歳となり、
家内は昨年の12月に65歳の高齢者入門となったりした。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
       

私は25歳で民間会社に中途入社して、会社に来社する保険のセールスレディに、
結婚したら生命保険に入りますから、と幾たびも断り続けたりしていた。

やがて31歳の時に、遅ればせながら結婚して、新妻に対して責務のひとつとして、
程ほど額の生命保険に入ったりした。

その後、一戸建てを新築した時、住宅ローンが多額であったので、生命保険は倍額としたり、
死亡保険、医療保険、傷害保険にも加入したりした。
          

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めた直後、
私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした中、健康保険に関して定年退職後も、勤めていた企業の所属する健康機関に継続していたが、
支払い請求額の通知を受けて、少し高いなぁ、とため息をついたりした。

現役の企業の諸兄諸姉が所属していた健康機関なので、
何かしら病気とか万一の病死などは手厚く保障されていたが、
私の現役サラリーマン時代は給与から自動的に毎月差し引かれていたので、
余り気にせずに、高いとも低いとも感じていなかった。

やがて私は定年後に年金生活に入ったが、昭和19年9月生まれであるので、
年金満額支給は62歳になってからであり、それまでの2年間は年金支給額は、ほぼ半額程度であった。

このような収入時期の時代で、やはり企業の所属する健康機関は手厚く保障されていたが、
支払う毎月の保険料も高かった、と遅ればせながら気付いたりした。

やむなく私は、健康保険を企業の所属していた健康機関から国民健康保険に切り替え後、
最初の『国民健康保険料』の夫婦合算の請求支払額が余りにも激少したので、微苦笑したりした。

もとより国民健康保険料は、前年度の収入に基づいて、
家族構成、お住まい地域の自治体により差は発生するが、算出されている。


この後、保険関係をすべて見直して、
現役サラリーマン時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとしたりした。
                           

やがて私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。

その後、2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と家内の妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、
年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は教えらた、と家内の帰宅後に私は聞いたりした。

この後、何かと愚図の私は、現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

そして私は厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を視(み)たりした結果、
公的の『国民健康保険』と『介護保険』さえ加入していれば、
我が家としては、『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。
                 
         
そして、私は解約の手続きを開始したのは、私たち夫婦は年金生活を7年過ぎた頃であった。  

こうした中、家内は年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあれば、
万一、大病やケガで多額の医療費が要した時は、「高額療養費制度」を活用させて頂く、と思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。
                    

こうした中で 「高額療養費制度」は、何かしら手術や治療で、
月に100万円かかることになったとしても「高額療養費制度」を活用すれば、
実際の負担額は月9万円を超えることはない、と学んだりした。

たとえば100万円の医療費のうち、70歳未満なら、
まず3割が自己負担なので、窓口で支払うのは30万円。

さらに「高額療養費制度」を利用すると、1か月の医療費が約9万円を超えた分については、
加入する健康保険に申請すると、払い戻してもらえ、約21万円が後から戻ってくる、と知ったりした。
                    
このように「高額療養費制度」を学び、何よりも私のような高齢者に頼りになる制度、
と私は信愛を深めたりしてきた・・。
                 

今回、この記事から多々教示され、私も現役サラリーマン時代に、
保険に精査して、加入額を減少させていたら、少なくとも1000万円は貯金が増やせたかしら、
微苦笑を重ねたりしている。


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甘い物は苦手な私でも、ささやかな和菓子の想いでは・・。

2015-05-28 16:31:01 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
お酒は過ぎし65歳までは呑兵衛だった為か、
何かと甘い物は苦手で、和菓子、洋菓子は殆ど食べないひとりである。

しかしながら私たち夫婦が旅行先などで、煎茶、抹茶などを頂きながら、
和菓子を食べさせてくれる処では、家内と共に頂いたりしている。

日常、知人宅に訪問する時は、お子様が高校生ぐらいの場合は、洋菓子を買い求めるが、
これ以上のお歳を召している場合は、和菓子を使っている。
          

家内は中学生の時から茶事を学んできたので、程々に和菓子に関しては詳しく、
私は和菓子も無知な方であるが、
季節感が醸(かも)し出されていれば、独断と偏見で選定する。

旅先で和菓子の買い求める場合、
その地で長い歴史を育(はぐく)んだ老舗の和菓子店を使うのが、圧倒的に多い。

私は差し上げたお方から、こうした場合は喜ばれている。

その地に生まれ、人々から買い求められ、
味そのもの長年培(つちか)われた和菓子となっているので、
まぎれない和菓子と私は確信している。

そして和菓子は、その地の風土、文化を代表するひとつと思っている。


このような思いで、ときたま家内と和菓子について話したりすると、
貴方は人前では和菓子について話されないように、
と和菓子の基本も由来も無知な私に、家内は苦言されたりしてきた。
          

私たち夫婦の共通趣味は、国内旅行であり、
確か7年前、たまたま北海道の釧路市の街並みを散策したりしていた。

そして偶然に駅前の和菓子屋を通り過ぎようとした時、
『あのお店の和菓子・・美味しそう・・』
と私は家内に話しかけたりした。

店内に入り、数点の和菓子を見ていたら、
私は買いましょう、と家内に小声で云ったりして、私は積極的に数多く選定した。

私達は店を辞した時、『柳月』と看板が観えたりした。
http://www.ryugetsu.co.jp/
☆公式ホームページ【柳月】☆


この後、旅先の観光ホテルに帰館した後、まもなく私たちは買い求めた和菓子を頂いている中で、
私が決めた和菓子に関しては、殆ど家内に苦笑されることが多かったが、
このお店の和菓子に限り、思った以上に美味しいわ、と賛意を得たりした。

こうした中で、私がこの中で瞬時に魅せられて、小声で家内に絶賛したのは、
『百代餅 (ももよもち)』であった。
http://www.ryugetsu.co.jp/online_shop/detail.php?id=5
☆公式ホームページ【柳月】==>『百代餅 (ももよもち)』☆

まもなく家内は、
『先ほどのお餅・・確かに品位もあり美味しいかったけれど・・
貴方は・・やはり農家の児ね・・』
と家内は微笑みながら、私が幼年期の農家だったことを云ったりした。
          

古来より味覚は幼年期で決まる、と名言があり、私は和菓子に関しても無知なひとりであるが、
まぎれく確かな味の白みそ、柚子などの『百代餅 (ももよもち)』だった、
と心の中で呟(つぶや)いていた。

尚、『柳月』に関しては、私も親族も知人にも一切関係のなく、
たまたま賞味したひとりであり、味、風味はもとより、心にも深く残った銘菓である。


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熱さの中、高齢者の私でも、家内のホディガード兼お供として、散策して・・。

2015-05-27 16:51:47 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、夕食を頂いた後、やがて茶坊主の私は家内用のコーヒーを淹れて、
居間の食卓テーブルの片隅に置いた。

『明日、駅前の歯医者さんに行く日ですから・・』
と家内は私に微笑みながら言ったりした。

『XXちゃんさぁ・・解っていますょ・・確か予約は12時と記憶していますょ』
と私は笑いながら応(おう)じたりした。
          

本日の7時少し前、私はテレビで地元の気象情報を視聴したりした。

5月の初旬から太平洋高気圧や移動性高気圧に覆われる日が続き、
降水量も少なかったため気温が高い日が続き、都心では本日も30度の真夏日となります、
と報じて、何か熱さに苦手な私は苦笑したりした。

私の住む地域は、東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の所であり、
都心より一度ぐらいは涼しい所であるが、今月の5月は25度以上の夏日が多かったのである。

この後、補足説明のように、5月は本日も夏日が19日目を迎え、
気象庁の統計が残る1876年以来、最多となります、と報じていた。

私は1944年(昭和19年)生れであるが、1876年って・・いつ頃の年なの、
と調べたら、明治9年と解り、遥か遠い昔のことだょ、と苦笑したりした。

何よりも天上の気候の神々は、雨を地上にもたらす責務も忘れたらしく、雨量は平年の10%と知り、私は動顛しながら、
雨乞いの代わりに、せめて八代亜紀さんの『雨の慕情』をかぼそい声で、
♪雨雨ふれふれ ・・と唄い、祈願しょうと思ったりしたが、
小学生の音楽の通信簿は『2』の劣等生であったことを思いだして、断念したりした。
          

家内は幾たびか歯の治療を自宅周辺の歯科医院に受けたりしてきたが、
私は妹から、9年前の頃に小田急線の『喜多見』駅前の歯科医院が良いみたい、と聞いたりしたので、
これ以来、私の歯の老化を含めて、この『喜多見』駅前の歯科医院で私たち夫婦は、治療を受けたりしてきた・・。

そして利便性のある路線バスを利用すれば、我が家より10分前後で到着するが、
最短距離として野川の遊歩道を歩けば、20分前後を歩けば到着するし、
何よりもこの遊歩道の片側は、細長い小公園が帯のように続き、四季折々の情景が見られるので、
私たち夫婦はこのコースを愛用してきた。

難点といえば平日などは、人影も少ない時があるので、
家内が出かける時は、私がホディガード、お供として、共に歩いたりしてきた。
                     

10時半過ぎに私たちは早めに自宅を出て、まもなく野川の遊歩道を歩き、『喜多見』駅前を目指して歩いたりした。
       
家内は白いワンピースで、おしゃれなウォーキング・シューズを履き、日傘を差して歩いたりした。

一歩遅れた私は、夏用のストレッチパンズの長ズボン、アロハシャツ、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、颯爽と歩いたりした。

こうした中で、紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしているが、
ときおりバックから扇子〈せんす〉を取り出して、扇〈あお〉ぎながら歩いたりした。

       
やがて駅前に着き、家内は歯科医院で治療を受けている間、私は周辺の小公園を散策したりした。
                    

私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となり70歳の身であり、
家内は私より5歳若く65歳となっている。

私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ10年の年金生活は安楽の日々を過ごしてきた。

こうした中で私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちはお若いわ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
          

私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。
          

私は何かと母の遺伝を受けたらしく男の癖におしゃべりなので、
家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。

そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
       
もとより子供がいれば、圧倒的に育てる喜びもあるし、子供の笑顔に何よりも癒(いや)されるし、
ときには苦渋することもあると、知人たちから教えられてきたが、
無念ながらこうしたことの体験は、私たち夫婦は欠落している。
          
そして果たしていつの日まで、情愛さえも子供にも頼ることができない私たち夫婦は、
ささやかな日々が続くのだろうか、と私はよぎることもある。
                           
          

やがて私は駅前の片隅にあるコーヒーショップの『ドトール』で、
家内を待機しながら、コーヒーを飲んだりした。

まもなく家内と合流した後、駅前のスーパーで買い物をした後、
やがて私たちは、初夏のような熱い中を遊歩道を歩き、自宅に向かった。


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サラ川を読むと、昨今の時代の風潮に疎(うと)い私は、理解できないことが多く・・。

2015-05-26 13:18:05 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、配達された読売新聞の朝刊を読んだりした。

こうした中、サラ川と愛称されている第一生命が主催されている『サラリーマン川柳』コンクールに於いて、
本年度の上位10作品が選定された、と知り精読した・・。

私は無念ながら短歌や俳句を詠(よ)む素養はなく、
人さまが詠(よ)まれたのを読ませて頂くのが好きなひとりである。
          

もとより短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。

そして俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。

或いは川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。

つたない半生を歩んできた私は、せめて川柳ぐらいは・・と時折一句でも吐くことあるが、
やはり素養に乏しく感じ、やむなく『ブログ』の世界で散文のような拙(つたな)い綴りを
殆ど毎日投稿をしている。
                                     

こうした中で、ときおり私は『サラ川』と称せられている『サラリーマン川柳』を愛読している。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、幾たびかリストラ烈風の中、最後の5年は出向となったりし、
それなりに時代にも翻弄され波乱万丈があり、苦楽の激しいサラリーマンの時代でもあった。

このような悪戦苦闘が多かった私は、何かと『サラリーマン川柳』が好きで、
現役のサラリーマン時代から愛読し、励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、
『サラ川 傑作選』の本を4冊を所有している。

そして私は『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつと思い、
限りなく人生の哀歓と確信し、年金生活11年生の今でも、ときおり本を開いたりしている。
       
        ☆本棚から特に愛読している2冊を取りだして、たわむれに記念撮影☆


今回、『第28回 サラリーマン川柳コンクール』の選定された上位10作品を精読したが、
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始め、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭の為か、
ここ10年近くは何かと社会状況が疎(うと)くなっている。

このような事情もあり、今回の川柳の意味合いが解らない句が多いのが、本音である・・。

無断であるが、選定された上位10作品を転記させて頂く。

①皮下脂肪 資源にできれば ノーベル賞

②湧きました 妻よりやさしい 風呂の声

③妖怪か ヨー出るヨー出る 妻の愚痴

④壁ドンを 妻にやったら 平手打ち

⑤記念日に 「今日は何の日?」 「燃えるゴミ!!」

⑥増えていく 暗証番号 減る記憶

⑦あゝ定年 これから妻が 我が上司

⑧オレオレと アレアレ増える 高齢化

⑨ひどい妻 寝ている俺に ファブリーズ

⑩充電器 あったらいいな 人間用
          

このように転記させていただきながら、
③の『・・ヨー出るヨー出る・・』意味合いが解らないである。

或いは④の『壁ドン・・』は、どういうことなの、と私は困苦してしまう。

そして⑨の『・・ファブリーズ』などの横文字などは、まったく理解できないのである。


時代遅れの私は、年金生活を10年ばかり過ごしてきた中で、
上位10作品の中で、素直に同意させられたのは、
⑦の『あゝ定年 これから妻が 我が上司』である。

そして私は実感を深めて、そうですよねぇ、と微苦笑したりした。
          

余談ながら長年『サラリーマン川柳』を愛読してきた中で、瞬時に深く魅せられて、
今でも心の片隅に残っている二作品がある。

◎ 破れてる ジーパン繕い 怒られた
                   詠み人・優しいばあちゃん

◎ うちのパパ おとなのくせに ママとねる 
                   詠み人・めだかの学校のせんせい

私は小説、随筆、ノンフィクション、近現代史など55年ばかり濫読してきた身であるが、
短かな言葉で人生の機敏を的確に表現する川柳の世界に於いて、
このお2人の圧倒的な文才に、ふるえる程に感銘して、思わず脱帽したりしてきた。

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ぼんくらの私は、年金生活を始めた当初は、ときには揺れる思いを重ねて・・。

2015-05-25 16:07:26 | ささやかな古稀からの思い
午前中のひととき、我が家の平素の買物専任者の私は、
いつものように家内がスーパーのチラシに、赤丸を付けた必須の購入品を買い求めに行った。

たまたま最寄りのスーパーであったので、徒歩10分足らずであったので、まもなく到着した。
そして店内で必須の品をカートの上の籠(かご)に入れた後、
何か魅了された品をないかしら、と店内を私はカートを押しながら探したりした。

やがて野菜売り場で、ピーマンのバラ売りが新鮮であり、ひとつ26円であったので、
値段の割に最上品と感じ、買い求めことを私は決意した。

そしてよく見ると、4つで94円と小さく明記されていたので、
私は年金生活をしている方の応援団のように瞬時に感じ、籠(かご)に入れたりした。

この後、店内でカートを押して品を探している女性の後に、まとわりつくように60代風の男性が歩き、
私は年金生活を始めてまもないご夫婦かしら、と微苦笑したりした。
          


私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始めた。

そして私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
            
家内は長年専業主婦として少なくとも洗濯、掃除、料理してきたので、
その間のささやかな息抜き・・趣味ごとを邪魔にするのは、
まぎれなく天敵と私は確信し、せめてながら平素の買物専任者を自主宣言をしたりした。

そして独りで最寄りのスーパー、駅前のスーパーとか専門店に往還したり、
帰宅後は独りで自宅付近の3キロ範囲の遊歩道、小公園を歩いたりして季節のうつろいを享受してきた。

或いは私は両親から血液B型をさずり受けたお調子者の為か、
家内が煎茶かコーヒーを飲みたいことを素早く察知して、茶坊主に徹し、日に6回前後は淹れたりしている。
          

2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
家内から依頼された特売の洗剤を買い求めに行った。

そして年金生活で貢献できるのは、せめて廉(やす)い価格の品を多めに、と思いながら、
5個ばかり買い求めて、意気揚々として帰宅した。

やがて帰宅後、家内に頼まれた洗剤を手渡すと、
『あら、違うわ・・ライオンのトップでも《部屋干し》をお願いしたはずょ・・』
と家内は言った。

『違った・・!?』
と私は言った。

『違っています・・うちはずっと《部屋干しトップ》なの・・
貴方・・よく仕事ができたわねぇ・・』
と家内は追い討ちをかけてきた。

『じゃ・・取り替えてくるよ・・』
と私は言った。

やがて洗剤はひとつでも1・1Kgあり、5個買い求めていたので、少し重い洗剤を提(さ)げて、
再びスーパーに向かった。

そして仕事は給料を頂いて緊張感の中、責務を果たしてきたので、
気軽な買物と違うょ、と心の中で呟(つぶや)きながら歩いたりした・・。
          

或いはトマトを買い求めた当初は、苦い失敗談があったりした。
確か翌年の2005年(平成17年)の6月初旬の頃だった・・。

たまたまスーパーの店内に於いて、野菜売り場の近くにトマトの販売コーナーがあり、
家内はトマトが好きであり、少し高い値段であったが何より新鮮であったので、3つばかり買い求めたりした。

帰宅後、家内に手渡すと、
『わぁ・・立派なトマト・・美味しいそうだわ・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

やがて家内は、値段を訊(き)かれて、私は応(こ)えた。

『でもねぇ・・高過ぎるわょ・・我が家は年金生活ですから・・程ほどにして下さい・・
貴方は幼年期の頃、農家の児だったでしょう・・トマトの見極めぐらいは解っているでしょう・・
私は長い間、程ほど品をお廉(やす)く買い求めてきたわ・・』
と私は家内から叱咤されたりした。

『XXちゃんさぁ・・専業主婦25年選手でしょう・・
ボクは買物一年生だょ・・気を付けますょ』
と私は抗弁したりした。

これ以来、私は野菜、果実(くだもの)は、新鮮さを見極めながら、
程ほど品を廉(やす)く買い求めたりしてきた。
          


我が家の日常生活の実情は、私は家内のことを、
婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいる。

家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

こうした時、私は現役サラリーマン時代の50代後半期に、年収は1000万円を少し超え奮戦していたが、
年金生活の中は、もとより大幅に生活は変貌となり、形無(かたな)しだよなぁ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
苦笑したりした。


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女性がキレイになれる初夏フルーツ3選を学び、男性の私はスイカ・・!?

2015-05-24 13:03:06 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨日の午前中は、我が家の小庭の草むしりに奮戦して、疲れ果ててしまい、
本日は休養日とした。

こうした中で、ネットでニュースを見たりしている中で、
【買って後悔なし!キレイになれる初夏フルーツ3選】と見出しを見て、
幼年期に農家の児として育った私は、スイカも入っているかしら、と思いながら、
好奇心に勝てずクリックしてしまった。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150523-00261238-jspa-life
☆【YAHOO! JAPAN】<==『雑誌』
    <==『女子SPA! 』<==『 買って後悔なし!キレイになれる初夏フルーツ3選』

そして私は女性専用の公式サイト『女子SPA! 』と解り、 5月23日に配信された記事と解った。

私は小学一年生の頃から、何かと女性に憧憬してきたので、
女性は幾つになっても、お若いわぁ、お綺麗ですねぇ、と誉められたい、と高齢者の私でも確信を深めたりしている。

家内は65歳、そして家内の母は84歳であるが、
私は歳の割に・・元気・・若い・・などと言ったりしている。

やがて記事を読み終わった後、『マンゴー』、『チェリー』、『ビワ』と学び、
微苦笑したりした。



独り住まい家内の母が、年末年始に我が家に来て貰い、
5泊6日前後共に過ごすのが、ここ10年の恒例となっている。

そしてマンゴーは身体に良いわ、と家内の母から私は日頃から聞いたりしているので、
こうした中、私は幾つかの駅前のスーパーに、母を訪ねて3000里のように、
マンゴーを探し求めて苦渋したことがあったりした。

やがて通販で冷凍されたマンゴーで代用したりしている。
          

平素の買物専任者の私は、家内の愛食はバナナとトマトであり、殆ど一年中買い求めることが多く、
まもなく到来する時節としては、スイカ、ときおりメロンを購入したりしている。

『チェリー』とか『ビワ』は、家内は余り好きでなく、
年に一度ぐらい、季節物として食べたりするくらいである。

そして家内は『マンゴスチン』が好みで、ときおり私は買い求めたり、
旅先の食事処で、『マンゴスチン』にめぐり逢うと、家内は最優先として頂いている。
                              

私は幼年期に農家の児として育った為か、フルーツは婦女子の食物と思い、
ときおり少しばかり食べている程度である。

そして何かと単細胞の私は、これからの時節は『スイカ』を愛食して、
熊本産から始まり、やがて8月初旬には北海道の富良野産まで買い求めているが、
毎年の習性となっている。

或いは遠い昔、祖父と父が健在だった私は小学2年の1952年(昭和27年)頃まで、
畑の地面に麦藁(みぎわら)を敷いて、『ウリ』を育成し、
やがて収穫し、井戸の水で冷やして食べたことが深い想いでとなり、私は素朴な『ウリ』が、
今や幻(まぼろし)の果実(くだもの)となっている。


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雑草との戦いだ、と草むしりをしている中、過ぎし苦い思いが浮び、微苦笑して・・。

2015-05-23 15:57:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨今の私は何かと小庭の手入れが多くなっている・・。

私の住む地域は住宅街となっているが、片隅にある我が家はご近所のお宅より少し広く、
この時節は、小庭の雑草がまたたくまに追い繁るので、私は汗まみれ泥まみれになり、奮戦している。

そして疲れながら奮闘していると、雑草との戦いだ、と心の中で叱咤激励しながら、
草むしりをしている。

雑草との戦いだ、と的言されたのは、遠い昔の明治の末期、作家の徳富蘆花(とくとみ・ろか)さんが、
私の住んでいる近くに、都心の青山より田園生活の中で農作業をされていた。

こうした中で農作物を畑で育成していると、この時節は雑草と戦いだ、このような趣旨を綴られていた。
私はこうしたことを思い重ねて、確かにそうですよねぇ、と私は微苦笑したりしてきた。

今朝4時半過ぎに起床して、5時半過ぎに玄関の軒下に降り立ち、
草むしりを始めた。

やがて家内は蚊(か)の出る前に、樹木の剪定を残した樹があるから、
と薄手のトレーナー姿にエプロンした容姿で、夏用の大きな帽子を被(かぶ)り、
適度な台に乗り、剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、小枝を切り落としたりした。

この日の私は、草むしりに専念したが、雑草を抜いたりしている中、過ぎし年のことが浮かんだりした・・。
          

私は1951年(昭和26年)の春に地元の小学校を入学したが、
この当時は、祖父、父が健在で、程ほど広く田畑を小作人だったの手助けを借りて、農業をしていた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた男の子で三男坊の身であり、
跡継ぎ候補が2人であったので、今度は女の子と期待されていたらしく、
また男の子かょ、と云う視線を幼年期の頃から何となく感じたりしていた。

そして幼児の頃から屈折したいじけたような思い過ごし、
兄2人が通っていた小学校に入学した。

長兄は原則として跡継ぎの身であったので、祖父と父たちは家庭教師を付けて、
長兄はそれなりに応(こた)えて、XX小学校60年開校で初めて国立の中学校に入学できた、
と村中の評判となっていた。

次兄は活発で運動神経にも優れ、クラスの人気者であったので、
何かと私はあいつの弟、という視線を先生、同クラスの人々から見られた。

そして兄達は通信簿を頂く際、『5』と『4』の優れた成績で、
私は同じ小学校を通っても『3』と『2』で占められいた。

ともかくいじけ屈折した可愛げのない子で、日陰のような子であった。

こうした中で、小学校一年の秋、 初めて運動会で50メートル競争に出場した・・。

この当時は、6人で同時に走ったが、そのうちに頑張れば、
と私は思っているうちにゴールに着いた。

結果は、後ろから2人目の5位だった・・。
この頃は、走り終えると、1位の旗から6位まで並列されていたので、
もとより私は『5』の旗の後に並ばされた。

そして私は何故かしら、小学校を卒業するまで、
6人で走るといつも5位が続き、勉強の成績と同様に劣等生であった。
          

やがて私が長兄、次兄の全(まった)く影響のない私立の都心の高校に入学してから、
心が解放された為か、勉強に初めて目覚めて、授業も楽しくなり、優等生グループになったりした。

そして体育の授業でも、長距離の5キロ競争は、いつか追いつけると走りながら思い、
上位グループに属した。
          

後年、私は音響・映像メーカーに何とか中途入社できたのは、25歳の時であった。
この会社はこの当時は大企業であり、音楽事業本部の一部門に勤め始めたが、
まもなく大きなレーベルが独立会社として発足して、外資系のレコード会社となり、
私は転属させられたりした。

やがて半年過ぎた頃、正社員登用の研修を上司から指示された。
何かしら研修センターで3泊4日で、研修を受けて、この中で審査の結果で、
初めての正社員になることができる制度であった。

この時、研修センターで審査を受けられたは中途入社メンバーであり、
100名ぐらいであり、私は緊張して研修を受けたりした。

こうした中で、偶然に私と同じ25歳の入社組のふたり知り合って、
この後、数年はお互いに連絡を取り合ったりしていた。

やがてひとりは別会社に配置されたが、まもなくリストラの中で、解雇されたりした。

もうひとりの勇士は、やがて大病され、休職した後、退社されたりした。
          

私は中小業の多いレコード会社であり、大波小波の中で、
障害レースのような幾たびのリストラの中をくぐり抜けたりした。

しかし最後の5年半はリストラ烈風の中、無念ながら出向となってしまった。
そして各レコード会社が音楽商品を委託する物流会社に勤めて、定年を迎えた。

定年後、多々の理由で年金生活を始めた時、
雑木の多い小庭のにある古ぼけた一軒家、そして程ほど貯金しか残せなかったょ、
と私は家内に苦笑しながら言ったりした。

このような幾たびも敗れながらも何とか残り、定年退職を迎えることができたので、
敗残者と私は思ったりしている。

そしてサラリーマン時代をあえて大相撲の世界で表現するならば、
8勝7敗かしら、と私は思ったりして微苦笑したりしてきた。
          

しかしながら亡き作家・色川武大(いろかわ・ぶだい)さんが、
『人生もバクチも9勝6敗のやつが一番強い』と発露された名言を思い馳せ、
つたない人生航路を歩んできた私は、うなだれることもある。

このようなことが草むしり最中、思い浮かんだりした。
やがて10時過ぎに家内は剪定を終え、そして私も10時半過ぎに草むしりを終了として、
初夏のような熱さの中、5時間ばかりの奮戦は疲れたよなぁ、と汗まみれ泥まみれ私は苦笑したりした。


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「認知症」防衛、7つの基本を学び、真摯に多々教示されて・・。

2015-05-22 15:44:39 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいた。

過ぎし年の現役サラリーマンの当時は、素早く15分前後で読んだりしてきたが、
年金生活をしていると30分ぐらいとなり、興味のある記事の場合には1時間ぐらいとなることもあり、
ゆっくりと読めるので、時間に余裕のある年金生活の特権のひとつだ、と微笑み時もある。

昨日の朝も、ゆったりと読んでいると、7面の『国際』面の最下段に、
週刊誌の広告が掲載されていた。

やがて『週刊新潮』の本日発売の5月28日号と解り、
私は見出しを読んでいる中で、気になった見出しを精読してしまった・・。

          

転記させて頂くと、下記の通り表示されていた。

《・・「認知症」防衛 7つの基本
      ▼30分以内の昼寝が発症リスクを8割も減らす
      ▼赤ワインは◎でも一人酒はなぜ×なのか?
      ▼不道徳な老いらくの恋が招く前頭葉の機能低下
      ▼読書やパズルもいいけれど楽器と囲碁と将棋がベター
      ▼最強の予防方法はウォーキングよりも社交ダンス
      ▼神経細胞を殺す「アミロイドβ」を溜めない食品群
      ▼危ないのはリタイア後に別荘地で悠々自適の隠居ライフ ・・》

このように明記されていたので、私にとって『認知症』は、今後の老後の最大の難問と思ったりしているので。
購読しょうと決意したりした。
          

私は過ぎし高校に入学し、遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。

これ以来、単行本、新書本、文庫本の書籍、そして雑誌の月刊誌、週刊誌は、
原則として本屋で買い求めてきた。
若き頃は、たとえ食事を抜いて、お金をためて購入したこともあったりした。

この間、図書館を利用したのは、数万円以上する高価な民芸品、美術品の豪華本に限り、
お借りして読ませて頂いたりしてきた。

私はどのような分野の本、音楽のレコード、CD、DVDは、
ネット上で公開されている以外は、無料という世界は避けているひとりである。

こうした私の信条を的確に表現していたは、内田樹(うちだ・たつる)さんが、
『街場のメディア論』(光文社新書)に於いては、表現されている。

私は2011年(平成23年)の春に購読している中、
《・・著作者は書き手から読み手への「贈り物」です。
だから、贈り物を受け取った側は、それがもたらした恩恵に対して、敬意と感謝を示す。
それが現代の出版ビジネスモデルでは「印税」というすかたちで表現される。

けれども、それはオリジネイターに対する敬意が、
たまたま貨幣のかたちを借りて示されたものだと僕は考えたい。

すばらしい作品を創り上げて、読者に快楽をもたらした功績に対しては、
読者は「ありがとう」と言いたい気持ちになる。
(略)
それはいくばくかの貨幣のかたちをとってオリジネイターに向けて返礼される。・・》
(引用元ページ・147、148ページ)
注)原文にあえて改行を多くした。

こうした書物に対する信条を私はあるので、たとえ週刊誌でも内容を知りたければ、
買い求めて読むことにしている。


このような心情で、昨日は小事で買いそびれ、
本日、最寄のスーパーで買物した帰路、やむなくコンビニで、『週刊新潮』の5月28日号を
購入した。
              

そして該当の特集記事を開くと、
《・・「認知症」防衛 特集
人生を忘れたくない人に 7つの基本・・》
と大きくタイトルを掲げて、3ページに及び、詳細記事が掲載されていた。

私は定年後の60代の年金生活の10年は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である、と思ったりしてきた。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受してきた。

今回、この詳細記事を読み、真摯に多々教示された。

具体的な詳細内容は、著作権に抵触するので、関心のあるお方は、購読して下さい。


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セカンドライフの三種の神器は、やはり『生きがい』、『健康』、『お金』と思い深め・・。

2015-05-21 15:00:44 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社のこの当時は大手企業に何とかし中途入社できたのは、1970年(昭和45年)の春であり、
まもなく分離独立した会社が設立され、私は転属させられて、
この中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した身である。

そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、やがて出向先で定年を迎えた。

日本は長年、大手企業数は1%で、中小企業数は99%の実態の中で、
大手企業と中小企業の企業間格差について『7・5・3』があり、
大手企業に対し中小企業は、月給が7割、賞与5割、退職金は3割、と一般的にそれぐらいの差がある、
と伝えられきた・・。

私は中小業の会社に勤めて、この間に幾たびのリストラの中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。


このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
          


そして60代の10年間の年金生活を過ごして、
昨年の9月に古稀と称される70歳となり、何とか70代の入門が許されたひとりとなっている。

ときおり60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。

こうした中で、セカンドライフの三種の神器と問われれば、
やはり『生きがい』、『健康』、そして『お金』と思いながら、確信を深めたりしている。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住み、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいる。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったで、たった2人だけ家庭であり、
お互いの趣味を尊重して過ごしている。
          

『生きがい』は、何よりの最優先課題である。

過ぎし年の1989年(平成元年)の頃に、評論家・樋口恵子さんが、
定年後に家でゴロゴロしていて、地域活動なとで忙しい妻に、まとわりつく夫の社会風潮を憂い。
掃いてもへばり付いてくる状態をたとえて、『濡れ落ち葉』と的言された。

或いは過ぎし年の2007年(平成19年)1月下旬の頃、私は読売新聞の新刊本の広告を偶然に見て、
小川有里さんの著作の『定年オヤジのしつけ方』(講談社 定価1470円)の広告記事は、
定年直後の男性の一部の人達にとっては、この世で最も恐い本のひとつ、と確信を深めながら、
微苦笑したことがあったりした。

《・・ああ、うっとうしい! 毎日家にいる夫。
   家庭内2007年問題を解決する痛快エッセイ!

   「定年迷子」をかかえた妻たちよ。 今立ち上がれ!

【定年オヤジの特徴!】
①テレビがお友達
②お昼は作ってくれるものと思っている
③毎日、ごろごろ居間にいる ・・》

このように綴られていて、定年後の迷子のような心が定まらない男性を正鵠に把握していると思い、
微笑んだり、苦笑したりしてきた。

セカンドライフを過ごされる男性は、それぞれの趣味を深めて過ごされれば、
目に輝きがあり、溌剌と過ごしている方が多い。

そして不幸にも、たとえ最愛の妻に先立たれて、おひとりさまになっても『生きがい』があれば、
その後の人生も溌剌と生きられる、と私は思ったりしている。
                    

『健康』
私は現役サラリーマンの当時、懇親会でOBの先輩から、
定年後の生活で、病気に遭遇して病院に医療費を支払うか、
好きな趣味でお金を使うか、天と地の差だからねぇ、と教示して下さったりした。

私たち夫婦は幸いにも、大病に遭遇せずに過ごせてきた。
そしてお互いに歯の老化で、幾たびか歯科医院で治療を受けたりしたが、
こればかりは齢に勝てない、と程々の治療を支払い、税務署より医療費の控除を少し受けたりしてきた。
          

『お金』
私は定年退職する数年前の頃、経済にも疎(うと)く、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

こうした中で、デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができる、
と学んだりした。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と教示されたが、
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、「教育資金」は不要となったので、
少し多めの預貯金ができたこともあり、定年した直後から年金生活を開始ができたのも確かなことである。

我が家は私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

しかしながら乗用車、スマホも所有できず、
まして海外旅行は、英語を思いだすように単語を並べる程度しか言えない私は、遠い異国の世界である。

更に世界の有数なクルーズ航路、別荘、ヨットなどは、遥かに遠い彼方のことであり、
せめてと思いながら国内旅行をして、各地の四季折々の旅路を幾たびか遊学している。
          

このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛を深めたりしている。


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ときには地元の駅前の周辺を遊学すれば、ささやかな悦びを享受して・・。

2015-05-20 16:22:32 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
本日も午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、
独りで家内から依頼の品を求めて、最寄スーパーに行ったりした。

やがて帰宅した後、殆ど毎日私は独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
この時節のうつろい情景を享受しているが、
本日は駅前の出かけて見ようと思い、11時過ぎに出かけた。
          
快晴の初夏ような熱さであったで、夏用のストレッチパンズの長ズボン、スポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、颯爽と歩いたりした。

こうした中で、紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしているが、
ときおりバックから扇子〈せんす〉を取り出して、扇〈あお〉ぎながら歩いたりした。

たまたま今回めざした最寄駅は、京王線の『仙川』駅であり、
路線バスの利便性は良いが、何かしら根がケチな為か、片道15分ばかり大通りの歩道を歩き、
周囲の情景を眺めながら、歩いたりした・・。

この地域には、我が家からも私の生家にも近く、私は結婚前後の5年を除き、早や65年近く住んでいるので、
過ぎし定年後に、調布の里っ児、と思ったりしてきた。

やがて大きな坂道を上がり切ると、旧家の畑も見られ、歩道と境界線に野花があり、
こんな処に名も知れぬ野花が咲いていたので、見惚(みと)れたりした。
            
          
やがて都立の神代高校を過ぎると、お寺の多い地域の中を歩いた。
この周辺は関東大震災の時代、東京の下町一帯が焼失する中にあった数多くの寺院が、
この仙川の地帯に移転してきた。

こうした中、ある寺院には山門の前に、格言が掲げられたりしていたので、
私は足を止めて、ハンドタオルで顔などを拭(ぬぐ)いながら、読んだりした・・。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内は65歳となり、雑木の多い小庭に築後37年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

この世のすべて仮(かり)のものである、と教示されても、
霞(かすみ)を食べる生活できるわけでないので、勘弁して欲しいょ、と私は心の中で呟いたりした。

まもなく歩き出すと、音楽専門の桐朋学園が見えた。


私は過ぎし50数年前の高校生の頃は、
棉か絹のブラウスとスカートの容姿で、楽譜を抱きしめるように持ちながら、
真摯に音楽を学ぶ学生に、私は眩(まぶ)しく見え、好感したりしていた。

やがて私が27歳前後に、あるレコード会社でコンピュー専任者として奮戦している中、
ある他の音楽専門大学を卒業した25歳の女性でピアニストをめざしている方に、
交際を重ねて、私の生家に来て頂いたり、
幾たびかこのお方のご自宅に行き、このお方の母親に私は可愛がれたりした。

まもなく私はプロポーズしたが、サラリーマンに相応(ふさ)しい奥さんには私はなれないの、
とこのような意味合いの言葉を私は言われてしまい、はかなくも私は失恋した、苦い体験もある。

こうしたささやかな体験がある私は、現代の桐朋学園の高校生、大学生の人たちを見かけると、
少しばかり複雑な心境で苦笑しながら、今・・頑張ばらなくて・・いつ学びのよ、
と心の中で声援したりしている。

私は恥ずかしながら楽譜も読めなく、どの楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、
ときたま音楽を聴くのは好きであり、その日に応じた感性を頼りに、音楽を聴いたりし、
ときおり何かと単細胞の私は、感動するあまりに、涙ぐむ時もある。
          

やがて私は仙川の商店街を通り抜けて、駅ビルの中にある本屋に寄った。

そして雑誌の文芸コーナーの雑誌、単行本、新書、文庫本のコーナーを読みたい本を探したりした。

結果としては、単行本のコーナーで、新潮社・編集の『私の本棚』(新潮社)を手に取り、
私も数年前に大量処分したが、少くなくとも3000冊を保有しているので、
23名の読書家は、どのように保管されているか、好奇心で買い求めたりした。
               

新書のコーナーに於いては、大久保潤、篠原章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(新潮新書)、
そして福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(中公新書)を選定した。

私は年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、小説は殆ど魅了されることなく、
高校生の時から歴史と時事に興味を深めてきたので、ノンフィクション、近現代史の分野の本を購読しているが多く、
この二冊も学びたく購入した。
          

この後、家内のお好みのパン屋の『アンデルセン』に立ち寄り、5品ばかり買い求めた後、
帰路とした。

そして坂道を下りながら、作家・曽野綾子さんの『都会の幸福』を思い馳せながら、
都心に近くに住む私は、このようなささやかな地元の駅前の周辺を遊学すれば、
しあわせのひとときを享受したりした。

そして歩きながら、何故かしらクラシックの珠玉なメロディーが、
私の脳裏から舞い降りて、私は高揚しながら歩いたりした。


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ペスクタリアンは、がん発症予防に良いらしい、と学びながら、やがて私は微苦笑して・・。

2015-05-19 13:04:51 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の身であるが、過ぎし4日前に散髪屋(理容店)に行ったが、
待会所で待機している間、近くにあった健康雑誌を読んだりした・・。

こうした中で、ペスクタリアン、と私は未知の言葉であったので、次行を読もうとしている中、
私の散髪の順番が来たが、やむなく斜め掛けしてきたバックの中から、
メモ用紙を取り出して、『ペスクタリアン』と私は書き込んだ後、指定された席に着席した。

私は何かと外来語に苦手な上、齢ばかり重ねて無念ながら忘れてしまうことが多いが、
気になったことは、メモ用紙に書き込む習性となっている。

やがて散髪を終えて、帰宅したが、何かと『ペスクタリアン』という言葉が気になり、
やむなくネットで検索したりした。

やがて多く解説、事例がされている中、【がん発症予防に奇策なし ペスクタリアンが良いらしい】
という記事を偶然に見つけて、私は大いに気になり、精読してしまった・・。

この記事は総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】の中で、
『男の病気』コーナーのひとつの記事と知り、2015年5月1日に配信されて。
医学ライターの井手ゆきえさんが綴られた記事であり、無断ながら転載させて頂く。
          

《・・先月、国立がん研究センターから39都道府県別のがん罹患率状況が公表された。

その結果、胃がんは日本海側で、大腸がんは北海道、東北、山陰地方で多い傾向が、
肝がんはC型肝炎ウイルス感染率が高い西日本で多いことが判明した。

地域差が生じた理由として、北国の塩分が多い食生活やピロリ菌感染が胃がん発症に影響しているとする一方、
大腸がんには肥満の影響が考えられるとしている。

ウイルス感染が誘発する一部を除き、がんの発症予防に特別な一手はない。
やはり、食生活の改善など地道な努力がものをいう。

先日、米国から菜食で大腸がんリスクが20%低下するとの報告があった。
          
          
調査は北米在住の男女、約7万7000人を対象に行われた。
対象者の半数は普通の非菜食主義者。

残りは菜食主義者だが、完全菜食主義者(ビーガン)、
乳製品や卵は食べる乳卵菜食主義者(ラクト・オボベジタリアン)、
肉はダメだが、乳製品と卵を少なめに魚を主に食べる魚菜食主義者(ペスクタリアン)、
肉は食べるものの、週に1回未満の半菜食主義者(セミ・ベジタリアン)の4タイプが参加している。

7年間の追跡調査の結果、非菜食主義者に比べ、菜食主義者全体では、大腸がん発症リスクが約22%低下した。
また、菜食主義のタイプ別では、ビーガンの発症リスクは16%低下にとどまったが、
魚と野菜が主のペスクタリアンは43%と、大幅に発症リスクが低下することが示されたのだ。

ラクト・オボベジタリアンは18%、セミ・ベジタリアンは6%の低下だった。

大腸がんに関しては、以前から食物繊維の予防効果がいわれている。
しかし、今回の調査からは、「やり過ぎ」がせっかくの効果を半減させる可能性が示唆された。
何事もほどほどが良いようだ。
          
          
魚介や野菜を主菜に、乳製品と卵は少なめで肉は食べないペスクタリアンの食生活は、
和食に慣れた日本人にとって、さほどつらいものではない。

ついでに塩分少なめなら、胃がんと高血圧の予防効果も期待できます。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


記事を読み終わった後、ペスクタリアンは《肉はダメだが、乳製品と卵を少なめに魚を主に食べる魚菜食主義者》
と学び、微苦笑を重ねてしまった。
           
         
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で直ちに年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

こうした中で、純米酒の辛口が好きの私は、晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或い日はビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだり、
ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした・・。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。
         
この当時の私は、朝食は五穀米の入った白米のご飯を腹いっぱい食べながら、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬けなど、
そして魚を煮たり焼いたりする代わりに、せめてと思いながらシャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしていた。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合ったりしていた。

そして夕食は牛肉、豚肉、ラム肉、鶏肉などをそれぞれの日に於いて、たらふく食べたりしてきた。
                    
        
やがて2008年(平成20年)の秋に健康診断を受診した後、肥満体と診断されたり、
その後の2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記され、
私は青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを頂いたりした。

そして医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

       
そして朝食前、夕食前に大きな皿にキャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを大皿で食べたりしている。
こうした結果、朝食のご飯は半分ぐらいとなり、夕食の食べる肉も減少した。

これ以来、キャベツは愛食となっているが、寒さを感じる時節は、電子レンジで少し温めて、
ミッカンぽん酢か、ときにはもずく三杯酢をかけて盛大に頂いている。

しかしながらキャベツは、もとより農作物であり、天候の不順で不作の時はスーパーなどの店頭にない時は、
サニーレタス、或いはタマネギを代用している。

タマネギの場合は、スライスし、ワカメであえて、ミッカンぽん酢をかけて、
盛大な前菜としている。
          

そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

昼食は婦女子のようなフルティ・ランチで、リンゴを一個、そして柿一個としたり、
或いはフランスパンを4分一ぐらい食べたりした。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日していた。

この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少し、
ズボンの腰回りも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んだりしていた。
          
この間、私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。
                                         
かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、
過ぎている・・。

このように私は20代から何かと日本酒、ビールを中核にワイン、ウィスキーも呑んできたが、
歌を忘れたカナリヤのようにアルコールから遠ざかり、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会、そして我が家で週に一度ぐらい呑むぐらいとなり、激少となった。

この後、国内旅行で家内と共に各地を幾たびも行ったりすると、
やはり宿泊処で地酒を呑んだりしてきたが、体重が増えてしまった。
          

やむえなく糖分の多い日本酒とお別れして、ウィスキーに氷を入れただけのオンザ・ロックとし、
弱くなったので少しだけ水を入れた濃いめの水割りで呑むこととした。

そして糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

ここ数年木は、お世話になっている最寄の内科専門医院に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。

そして私は世の中に数多くの健康食品よりも、キャベツをこよなく愛食して、早や5年生となっている。
                    
私はこれまでの60代の10年の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
そして私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
          

このような私の年金生活11年生になっている今、
ペスクタリアンは、がん発症予防に良いらしい、と学んでも、
《・・肉はダメだが、乳製品と卵を少なめに魚を主に食べる魚菜食主義者・・》には困苦してしまう。

やはり夕食の時には、キャベツの前菜を多く頂いた後、
美味な牛肉、豚肉、ラム肉、鶏肉などを、それぞれの日に於いて食べていたいのである。

食物、そして味覚は幼年期に決定され、その後の人生に大きく影響される、
と私は書物から学んだりしてきた。

そして私は幼年期に農家の児として育ったので、里彦であり、
山辺に育った山彦、海辺に育った海彦には、到底なれないである。
          

今回、がん発症予防に良いらしい魚を主に食べる魚菜食主義者には、このように私は変貌できなく、
私は微苦笑を重ねたりしている。

こうした中で、ときおり街角の居酒屋、炉端焼きなどで、魚を積極的に食べたりし、
国内旅行で海辺に近い所に滞在している時は、食事処で魚介類を選定していて、
美味しいよねぇ、と私たち夫婦は頂いたりしている。


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60代より70代こそが、人生の黄金期かしら、と私は微笑みを重ねて・・。

2015-05-18 12:34:55 | ささやかな古稀からの思い
私は昨年の9月に60代を卒業した70歳の身であるが、
70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

昨日も自治会の回覧板を手渡しに、あるお宅に訪ねて、談笑もしてしまった。

何かしら、孫の結婚式に妻と共に参列して、感激してしまったょ、
このような趣旨の内容を楽しげに、78歳のご主人が私に話して下さった。

奥様とは、私は買物とか散策の時、ときおりお逢いしたりしているが、
心身溌剌として、私たち夫婦として見習いたいなぁ、と私は感じたりしている70代後半のご夫婦である。
                    

ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

10数年前に作家・堺屋太一(さかいや・たいち)さんが、まもなく団塊の世代の定年退職の到来に、
この世代の個性ある活発な消費で、経済が活性化することと願い、
『黄金時代』とか『ゴールデン・イヤーズ』と命名されたと私は解釈をしたりしてきた。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
          
            、

こうした中で、私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

しかしながら、私の友人、ご近所の大半は70代の人も多いが、
殆どお元気で、私は挨拶をしたりすると、嬉しげに立ち話をしたりしている。

そして私は体力が衰えを感じたりしているが、アップダウンの少ない里道、遊歩道などは、
数時間歩き続けても、大丈夫となっている。

しかしながら、高尾山(約600メートルの低山)などは、下から歩いて頂上をめざす体力は、
無念ながら欠落している。
          

昨今の70代の大半は、体力の衰えを感じながらも海外旅行や国内旅行の観光、
登山、マラソン、ジョギング、ゴルフなどスポーツ楽しまれ、或いはご家族で行楽をされたり、
活発な行動をされて、心身溌剌としている。

或いは地域の公民館や図書館、博物館などの社会教育施設の中で学習されたり、
高齢者向けの講座に学ばれたりして、それぞれ交流を重ねたりしている。

このような思いになると、航空機でたとえるならば、
60代は空港内の滑走路を走行して、そして離陸し、上昇し、航路を定めて飛行し・・、
やがて安定飛行は70代と感じられ、人生の黄金期は60代より70代かしら、と私は微笑んだりした。
                    

こうした中で私は、過ぎし日に本屋で読みたい本を探している中で、
随筆家・桐島洋子(きりしま・ようこ)さんの『ほんとうに70代は面白い』(海竜社 )に於いて、
《・・聡明な女は素敵に老いる・・》の一節に私は微苦笑させられたりした。

そして私は確か5年前の頃、作家・曽野綾子(その・あやこ)さんの『晩年の美学を求めて』(朝日文庫)を購読し、
まえがきの中で、深く教示され勇気づけられた一節があった。

《・・晩年の意味は、年を追う毎(ごと)に濃厚になり、発見も多くなる、
とすれば、そこには楽しみな部分も増えるだろう。・・》

そして私は、曽野綾子さんの一節を鑑(かがみ)として、
私たち70代の夫婦は、過ごせれば最良と思ったりしている。

或いは曽野綾子さんは1931年(昭和6年)生れで、昨今もご健在のお方であるが、
数多くのエッセイの中で、60代、70代は楽しく充実していたわ、
このような趣旨を綴られて、私は大いに励まされている。

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脳を育てるには「好奇心」と「集中力」が大事と学び、70歳の私は苦笑して・・。

2015-05-17 14:37:21 | ささやかな古稀からの思い
私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
過ぎし2004年(平成16年)の定年退職までの半生は、何かと悪戦苦闘が多かったので、
定年後の年金生活の10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
          

昨夜、ネットでニュース記事を読んだりしている中、
【脳を育てるには「好奇心」と「集中力」が大事。この2つを簡単にアップする方法とは?】
と見出しを見て、齢ばかり重ねた私でも好奇心に負けてしまい、クリックした。

そして提供したサイト元が『OurAge 』と私が知らないサイトであったので、
こっそりと調べたら、《・・集英社の雑誌MyAgeのオンラインメディア、「OurAge」のサイトです。
OurAgeは、女性の美と健康を応援します。》と記載されていた。

女性専用のサイトであったで、私はたじろぎながら、戸惑ったりした。

やがて私は若き40歳の頃に、シンガーソングライターの中島みゆきさんの音楽に熱愛していたので、
もとよりCDは買い求めたり、本の単行本、文庫本の随筆を購読していた。
或いはインタビュー記事が、女性専用の雑誌の『With』に掲載されていると知り、
恥ずかしながら買い求めて精読したりしてきた。

こうした体験があったので、好奇心こそが我が命、と思いながら、記事を読んでしまった。
          

『OurAge 』が5月15日(金)に配信された記事で、無断ながら転載させて頂く。

《・・脳を育てるには「好奇心」と「集中力」が大事。この2つを簡単にアップする方法とは?

長年、人工知能のエンジニアとして脳の研究をしてきた黒川伊保子さん。
脳を「装置」と見立て、どのような入力に対してどのような演算が行われ、
どう出力されるのかを追求してきた脳の専門家だが、
脳を健やかに育てるためには運動が不可欠という。

「脳神経回路は毎日書き換わりますが、
新しい回路を作り出すためには『好奇心』と『集中力』が必要になります。

好奇心がないと新しいものを取り入れるのがつらくなり、集中力がないと頭の中が散らかってしまう。
このふたつは、とても大切な要素なのです」。

好奇心は「ドーパミン」、集中力は「ノルアドレナリン」という脳内神経伝達物質から生まれる。
これらふたつのホルモンを同時に作り出すためには、適度に運動をすることが必要なのだという。
          

「理想的なのは、ウォーキングのような『少し汗ばむ程度の有酸素運動を30分~1時間続けること』といわれています。
スポーツ以外にも、家事、楽器演奏、歌うことなども効果があるんですよ」と黒川さん。

また、筋肉の収縮は「交感神経系」に、筋肉の伸張は「副交感神経系」に働く。
このように、筋肉の動かし方と、刺激される脳の部位には深い関係があるという。

「筋肉の動かし方が偏ると、思考までもが偏ってしまうことになります。
筋肉をまんべんなく使うことは、脳のためにも大事です」。

気持ちが落ち込んだりイライラしたりするときは、後ろ向きに歩く(!)だけでも気分が変わるそうだ。
「いつも前向きに使っている筋肉が、後ろ向きに歩くことで「後ろ」方向へ動かされるからです。

また、寝る前にヨガなどのストレッチを行うと、より効果的。
普段はしないようなポーズをとって、いつもと違う「ねじれ」方向へ筋肉を動かしましょう」・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は幼年期から『好奇心』があるので問題はないが、
65歳の頃から体力の衰えを感じたり、現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、
ときおり『集中力』が欠けることもある。

たとえば家内が台所で夕食の料理をしている中、
私は今宵の調味料などを居間のテーブルに運んだりしている。

こうした時、冷蔵庫に保管しているソース、ミッカン味ぽん、食器棚の下段にある醤油、
この三つを同時に揃えようとする時、ひとつは忘れてしまい、二度手間となり苦笑する時がある。


私は殆ど毎日、自宅の周辺の遊歩道、小公園を歩いたりしている。
そして人影のない時は、かぼそい声で唄ったりしている。

この程度であり、《・・ヨガなどのストレッチ・・》などは、未知の世界であり、
今回の脳を育てる鍛錬で総合的には、小・中学時代の通信簿は『2』と『3』が多かった劣等生であった為か、
年金生活の今、やはり優等生には程遠い、と苦笑したりしている。


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