夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活の我が家でも、早や1月度の家計決算を終えて、やがて私たち夫婦は微苦笑をして・・。

2018-01-31 15:55:18 | ささやかな古稀からの思い

今朝、私は家内に、本日『家計簿』を締めようかしら、と言ったりした。
家内は電話代などの通信費、電気、ガス代などの光熱費は、本日に自動引き落としとなるので、
明日にすれば・・と躊躇(ためら)ったりした。

しかしながら自動引き落としは、周知の通り、事前に我が家に郵送されていたので、
費用は判明してきた。

私は今月の1月は、お正月、その後は私たち夫婦は私の妹ふたりと母の命日の集い、
そして予期せぬ出来事でパソコンが壊れて、やむなく買い改めてきたし、
或いは家内の妹夫婦の長男が結婚されて、私たち夫婦は予定通り結婚式、披露宴も参列したりした。

そして今月の1月度は、奇数月であり厚生年金の振り込みもなく、郵便局の個人年金ぐらいが収入であり、
出費も多かったので、もとより赤字であり、早く実態を把握したかったのである。

私は都心の郊外の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後39年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

           

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ13年半ばかり過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、平素は月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している理由は、
40数年前、私たち夫婦が婚約する前、
お互いに隠し立ては・・やめましょうねぇ、と私は妻となる人から言われたりしてきた。

そして私たち夫婦は、結婚以来、毎月家計簿を翌月の初めにしているが、
もとより生活費をお互いに確認した上で、私、家内が趣味に使える費用を捻出する為に、
毎月確認し、家計簿の月次決算をしている。

            

本日の昼下がり、一月の月次決算を始めたりした・・。

我が家の家計簿の月次決算は、至って簡素に行っている。

最初に
厚生年金、企業年金などの収入の項目、そして郵便局の個人年金を入力した上、
そして銀行、郵便局、信託銀行などの残高を入力をしたりした。

その後、日常は買物したレシートなどを、家内が一週間に一度ぐらいノートに簡単に集計している程度であるが、
こうした簡略な支出の区分項目を家内が読み上げて、                

私はパソコンの表計算ソフトのエクセルを活用して、入力したりした。

やがて残高が103円ばかり差異があったりしたが、
『大勢には影響はないょ・・食費に加算して合わせておくから・・』
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。

まもなく5表ばかり我が家の独自の資産表と収支別明細表を作成し、
1月の月次決算を終えてしまった・・。

過ぎし8年前に私が65歳の高齢者に入門した頃から、毎年は約100万円の赤字をなってきたが、
これ以上は私が白内障の手術、或いは樹木葬ができる墓地を買い求めた以外、
ほぼ予定通り赤字ながら、安定飛行となっている。

           

こうした中、私たち夫婦の共通趣味のひとつの国内旅行が減少してきた。

私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住んでいる。

一昨年より家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、
私にとっては、まさかの出来事のひとつとなっている。
                          
やがて家内の母が『要介護2』となり、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となり、これも人生だよねぇ、と私は独り微苦笑したりしている。

こうした関係で、確かに国内旅行費は減少しても、家内の母の介護関係にまつわる経費が増えているので、
プラス・マイナスとなり、私たち夫婦はお互いに微苦笑する時もある。

          
我が家の今年の耐久品としては、
家内の要望として、布団乾燥機などとなっている。
これまでは2階の陽当りの良い洋室で、敷布団、掛布団などを干してきたが、
家内は今年の誕生日を迎えると69歳となり、負担を感じることが多くなっているのが実態である。

私は5年前の頃から、布団乾燥機を買い求めて、なるべく楽にした方が良いょ、
と進言してきて、やっと家内は受け入れることとなった。

或いは久々に観光ホテルかリゾートホテルに宿泊して、周辺を歩き回る旅路をしたいねぇ、
と私は家内に言ったりしている。

         
こうしたことには、たとえば過ぎし2013年の2月上旬、石垣島のビジネスホテル風のリゾートホテルに、
9泊10日に滞在して、島内、周辺の島々を遊学したりしてきた。

しかしながら家内は家内の母の介護で、家内の妹と交代しながらしているので、
少し無理かなぁ・・と独り微苦笑をしたりしている。

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私たち夫婦、まもなく42年目を迎え、秘かな守り神は《ぬいぐるみ》の洗いガエル・・。

2018-01-30 18:12:38 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

そして家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、家内の妹夫婦の長男が一昨日の28日に結婚式、披露宴であり、
私たち夫婦は参列したりしてきた。
そして昨日の朝、居間で家内と共にともに朝食を頂いた後、お互いにコーヒーを飲みながら、
ぼんやりとしていた・・。

『僕たちも、まもなく結婚生活42年目を迎えるよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。

家内は私から突然に言われて戸惑いながら、
『あらぁ・・そうかしら・・』
と家内は呟(つぶや)くように私に言いながら、微苦笑したりした・・。

私は小学生の頃から算数、やがて数学には劣等生で、未(いま)だに苦手であるが、
何故かしら歴史、文化などには興味があり、我が家のささやかな出来事の日々も覚えている変わった男である。

世の中の多くは、妻の方が結婚生活の中で、いろいろな大波小波の出来事は的確に覚えて、
夫の方はかすかに覚えてたり、或いは忘れてしまった、と友人とか知人に私は聞いたりすると、
我が家の夫婦はまったく反対だよ、と私は苦笑する時もある。

                     

              
私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。

私のすぐ下の妹は1969年(昭和44年)の秋に嫁ぐこととなり、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の結婚新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。

こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
休日の余暇のひとときは10畳の書斎の中で過ごすことが多く、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

そして私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
私は特に森鴎外(もり・おうがい)を敬愛していますが、やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、
と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年(昭和50年)の秋であり、私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。
                  

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、
ボタンの掛け違いのような行き違いが発生して、両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。

そして何とか1976年(昭和51年)3月30日に、学士会館で結婚式、そして披露宴を終えたが、
この間の結婚式で、私は不馴れな羽織(はおり)、袴(はかま)、そして扇子を持ち、
控室から指定された結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と私は改めて思いながら緊張を増したりした。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、千葉県の市川市の片隅にある国府台で、
2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも家賃を支払い続けることを危惧して、新居の件で色々と思案したりした。

やがて結果として、私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの新婚生活の合間でも、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋を一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は奮戦しても、平常月の家計は赤字が多く、私は困苦したりした。

やがて突然に家内は、デパートに和服売り場に契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。

               

この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった時、
たまたま
私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。


私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
       

そして50代になると、1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
或いは社員を自主退職させる希望退職優遇制度など行われ、リストラ烈風となった。

こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となった。
          

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

出向先は少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、

この中のひとつの物流センターに異動させられて、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

こうした中でセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

やがて出向先も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年(平成16年)の秋に何とか定年退職を迎えることができた。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

          
         
この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたりした。
        
このような私たち夫婦の結婚生活の日常を、くまなく見ていたのは、
居間の片隅に置いてある《ぬいぐるみ》の洗いガエルである。
          
                   
この《洗いガエル》は、私たちが新婚の生活を始める準備をしていた時、
電気洗濯機を買い求めに、最寄りの家電量販店に行き、
たまたま家内があるメーカーの気に入った洗濯機の内部に、
宣伝キャラクター商品として添付されていた《ぬいぐるみ》であった。

この《洗いガエル》は、少し凹(へこ)んだりしているのは、
家内が日中のひととき、昼寝をした時に枕の代わりにして、少し歪(ゆが)んでしまったり、
少し汚れているのは私たち夫婦の40数年間を見続けて、少し疲れた為か、へたばっている。


          

そして定年後に年金生活を始めた時に、私は決意はしたことがあったりした・・。

定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

こうした中、私は家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

或いは昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、

お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

そして午後の大半は私は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、 或いは音楽も聴いたりしている。

こうした中で、家内は専業主婦としての延長戦とし料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

或いは
、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

            

人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

                 


私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住んでいる。

家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、

季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行き、孤軍奮闘をしているのが定年後からの実態となっている。

そして一昨年より家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、

私にとっては、まさかの出来事のひとつとなっている。
                        
やがて家内の母が『要介護2』となり、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となり、これも人生だよねぇ、と私は独り微苦笑したりしている。

いずれは私たち夫婦は、やむなく片割れとなる時に『おひとりさま』となるので、

特別演習かしら、と思いながら私は過ごしている。


       

こうした中、私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら日常生活の実情は、私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

もとより私たち夫婦の結婚生活は、生前の私の母、家内の両親を始め、
兄妹を含めた親族、知人、友人などに支(ささ)えられているが、
こうした中で、たえず微笑みながら私たち夫婦を見守ってくれた
守り神は、
《ぬいぐるみ》の洗いガエルでもある。


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讃美歌の歌、バイオリンの哀愁ある音色を聴き、齢ばかり重ねた私は、涙を浮かべて・・。

2018-01-29 14:37:10 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

そして家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、家内の妹ご夫妻のご長男が結婚することになり、
28日に結婚式、披露宴であり、我が家からは少し遠方に伴い、
私たち夫婦は前日の27日に現地に行き、ビジネスホテルに宿泊することとした。

私たち夫婦は27日の午後一時過ぎに我が家を出て、路線バスで最寄り駅のひとつ小田急線の『成城学園前』に行き、
まもなく小田急線で『新宿』に到着した後、総武本線で長らく乗車して『千葉』で降り立った。

私たち夫婦は久々の『千葉』駅の駅ビルを戸惑うように歩いて、
少し休憩しましょう、と家内の誘惑で、おしゃれな喫茶風の軽食店で、
コーヒーを飲みながら、サラダに付いているローストビーフを食べたりした。

やがて初めて乗車する千葉都市モノレールに乗車して、『千葉みなと』駅で下車した。

結婚式、披露宴の会場は、初めて知る『ベイサイドパーク迎賓館』であり、
『千葉みなと』駅より徒歩数分足らずにあり、隣接にはビジネスホテル『東横イン』があったが、
私たち夫婦は未知の地であったので、あちらかしら、と戸惑いながらも、宿泊する『東横イン』に、
チェックインしたのは午後4時半過ぎであった。

まもなく家内は、私たちと同様に宿泊する家内の妹が、家内の母を引率してきた館内の部屋に行き、
母と娘ふたりで打合せを確認したりした後、まもなく私たち夫婦はのんびりと過ごし、
私は手持ちぶたさに缶ビールを呑んで、何かしら疲れを感じて午後9時前に熟睡してしまった。

          

そして翌日の28日の早朝、私が目覚めたりは5時半すぎであったが、
家内はすでに風呂上りで、コーヒーを飲んだりしていた。

家内は平素の生活でも、山ガールより早い目覚めて、洗濯、掃除をするタイプであるが、
『少し早いじゃないの・・』と私は家内に言ったりした。

本日の結婚式の受付は午前10時、そして挙式は10時半、やがて披露宴は11時半、
このような行程なので、ゆったりとすれば良い、という私の思いであったりとした。

しかしながら何かと几帳面な家内は、要支援・2の家内の母を心配し、
宿泊している部屋に行ったりし、やはり自身の衣装もあり、
このような状況を配慮して、早期事前準備の為であったりした。

やがて私は、のんびりと礼服に着替えて、一階にある朝食サーピス処でコーヒーだけ頂き、
未知の情景の周辺のビル群を眺めたりした・・。

          

そして9時半過ぎに私たち夫婦は、家内の母が宿泊している部屋に出向き、
家内の母を引率しながら、初めて知る『ベイサイドパーク迎賓館』に向かったが、
前方に白いおしゃれな建物が見えて、あそこだわ、と家内が微笑みながら私に行ったりした。

私は結婚式、披露宴は、参列者のプライバシーを配慮して、
デジカメを持参しなかったので、『ベイサイドパーク迎賓館』の館内の情景を
公式ホームページhttp://www.tgn.co.jp/hall/chiba/bpc/で代用する。


まもなく私たちは若き女性スタッフに導かれて、家内の妹夫婦の控室に到着し、
改めて家内の妹夫婦に祝辞の挨拶をした後、家内の妹の主人の弟ご夫妻と談笑したりした。

こうした中、家内の妹の主人が、私たち一同に、
この時節に結婚式を挙げた理由を釈明されたりした。

今回の家内の妹夫妻の長男は、確か40歳を迎えて介護関係で要職の身で、
スタッフの身を案じて、やむなく一月に至ってしまった、
微苦笑しながら私たち一同に、言って下さった。

          

やがて結婚式はキリスト教会風で、50代の神父が入場すると、左側には若き女性がふたり、
右手にはバイオリンを携えた若き女性と電子ピアノ(?)の前に若き女性がいた。

そして今回の主役の妹夫妻の長男、華やかな新婦となられる女性が入場した後、
左側から若き女性がふたりが讃美歌を唄い、右手にはバイオリンの哀愁ある音色を聴き、
そして電子ピアノ(?)も奏でる情景に、私は見惚れたりし、やがて私は涙を浮かべていた・・。

私は家内の妹夫妻の長男に関しては、幼児期、少年期に一度だけ逢い、
やがて家内の父が病死した時に、御通夜、告別式、その後は一回忌など、
総計十回くらいしか面識がなかったりしてきた・・。

この間、家内を通して、何か高校を卒業された後、音楽のバンドを結成したりした後、
やがて敗退して、介護関係に就職されて鍛えられながら多忙な時期を過ごしている、
と私は家内から聞いたりしてきた。

こうした状況を私は思い浮かべて、彼のこれまでの人生軌跡に思い馳せて、
そして私も遠い昔、大学を中退して映画・文学青年の真似事をしてやがて敗退して、
やむなく民間会社に中途入社した体験も加味され、
今回の彼は結婚を迎え、良かったじゃないの、と思い重ね、私は涙を浮かべてしまった・・。

          

やがて披露宴は親族、友人、知人の数多く御方に祝福されながら、
盛会に進んだ。

私は赤ワインを呑みながらフランス式フルコースを食べ、
近くの家内の妹の主人の弟ご夫妻と談笑したりした。

こうした中、記念写真が幾たびもあったりしたが、
私は体力は衰えても、顔立ち、容姿は若いと思い込んでいるので、
スタッフのカメラマンが私たち夫婦にも、撮ろうとした時も笑顔を幾たびも浮かべたりした。

このような厳粛で楽しいイベントも終わりを告げて、
やがて私たち夫婦は、家内の妹夫婦の控室に行き、
『XXちゃん、とても40には見えなくて、覇気も感じられ、お若いわ』
と家内は家内の妹に、今回の主役の長男を誉めたたえたりした。

やがて私たち夫婦は、家内の妹夫婦に別れを告げて、帰路に向かった。

そして我が家に着いたのは、5時半過ぎで、
私は煎茶、コーヒーを淹れた後、『やはり疲れたょ・・齢は隠せないよなぁ・・』
と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。


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私たち夫婦は、17年ぶりに結婚式、披露宴に参列することに、微笑みを重ねて・・。

2018-01-27 11:48:08 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

そして家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、昨年の11月初旬、家内が家内の妹から電話連絡を受け、
家内の妹ご夫妻のご長男が結婚することになったわ、
と家内がこのような意味あいの言葉を、私に言ったりたりした。

やがて家内の妹ご夫妻より、丁重な招待状を郵送されてきたので、
私たち夫婦はデパートに行き、鳩居堂銀座本店が出店している所で、結婚祝いののし袋を買い求めたりした。

そして幾ばくかのお祝い金を同封して、後日、家内が家内の母宅に介護に行った時、
家内の妹と家内の母宅で会ったに手渡したりしてきた。

明日の28日が結婚式、披露宴であり、我が家からは少し遠方に伴い、
私たち夫婦は本日の27日に現地に行き、ビジネスホテルに宿泊することとした。


          

 
ここ一週間、私たち夫婦は、礼服を含めて衣類など、出し入れをしてきた。
こうした中、『結婚式に招待されるなんて・・何年ぶりかなぁ・・』
と私は家内に言ったりしてきた・・。

やがて私は、机の引き出しの中にあるノートを見て、
私の妹夫婦の次男が、過ぎし2001年(平成13)年の初秋に結婚式を挙げて以来で、
なんと17年ぶりに結婚式、披露宴に参列することに、微笑んだりした。

もとより私たち高齢者夫婦には、親戚、知人などの御通夜、告別式には、
私が定年退職後の2004年(平成16年)の秋以来、10幾つかを参列し、
お別れが多かったりしてきた。

          

過ぎし一週間前、私の妹夫婦の次男が、2001年(平成13)年の初秋に結婚式を挙げた時の頃を
私はぼんやりと思い馳せたりした・・。

私はこの当時はリストラ烈風の中、出向となり、奮闘していた時代であった。

私にとっては、妹夫婦の次男であるので甥っ子であり、会場が東京ディズニーランドの近くのホテルで、

結婚式と披露宴をしたのであった。

この時に私は叔父として、家内と共に招待状がきたので、
『この際ですから・・新しくできた【ディズニーシー】・・ゆっくり観たいわ・・』
と家内は私に言ったのであった。

『だったら、泊まるしかないなぁ・・』
と私は言ったので、

『そうしましょう、前から観たかったの・・』
と家内は私に微笑みながら言ったのである。

私はこうしたことが何よりも怖かったのである。

          

遥か遠い昔、1975(昭和50)年、私は家内と交際して婚約する前の頃、
家内は茶事を中学生から習い続けていたことに好感し、
私は無知な和事を少し学べるかしら、と秘かに微笑んだりしていた・・。

そして翌年の春に結婚日が近づくと、
新居の賃貸マンションの一室に、私たちはお互いに荷物を運び入れたりしていた。

この時に、家内の荷物の中から、数多くの茶道具は予期し、
私は家内と共に、梱包された箱から茶道具を取りだしたりしていた・・。
その後、もとより衣服などの箱もあり、そうした箱の横に、ひとつの箱があった。

そして家内は嬉しげに、この箱を開けたら、
何故かしら10センチぐらいの背丈のミッキー・マウスを見た時は、
私は驚きながら、
『俺・・知らなかったよ・・聞いてもいなかったし・・』
と私は小声で家内に呟(つぶ)やき、そして溜息をしたのである。


私は家内と結婚して、苦楽を共にして42年目となっているが、
私の結婚生活で、何より最大の誤算は、家内がディズニーのキャラクター品が好きである、
という現実である。
私は、ネズミを変貌させたミッキーなどが、どうして可愛らしいか、未(いま)だに解らない。

          

家内は、血液型はA型せいか、何事もやるとなったら、きっちりとする言動のひとりで、
家内は翌日、本屋に行って、『ディズニーランド&ディズニーシー』と明記された本を買い求めて、
私が深夜に会社から帰宅した時、精読していたりした。

そして、『ここも寄って観ると楽しい・・と書かれているの・・』
と家内は少し高揚した思いで、私に言ったりした。


この15、6年前、私たち夫婦は家内の妹の家族と共に、
初めてのディズニーランドに行ったが、私としては酷い目に遭った。

ビールを呑みたい、と思っても見つからない。

煙草を喫いたいと思っても、外れの一角であり、何よりも人手が多く、疲れたりした。

その上、夕刻になると更に込み合った上、
ミッキー率いるオンパレードの行進みたいのが始まったりして、
大人がゆっくりとする場所などはなかったりした。

こうした私のささやかな体験から、
ディズニーランドは、小学生から高校生の女の子が最適な遊園地、と確信したりした。
或いは、若いご夫婦が幼児に夢を与えようとして、若い家族連れで行く所、と思ったりした。


家内の解説に寄ると、
ディズニーシーは、ビールを呑めるレストランが多く有り、
ディズニーランドより大人風に出来ているわ、と私に言ったりした・・。

まもなく私は家内に対して、日頃何かと無理を言っているので、
この際だからと、暦も三連休であり、そして一日は代休を頂き、3泊4日で行く事にした・・。

結果としては、ディズニーシーの最寄の『シェラトン・グランド・トーキョベイ』に
三連泊することとなった。


そして私たち達は、結婚式の前日にホテルにチェックインした後、
家内の先導で『ディズニーシー』に行ったりした。

          

そして、翌日の華やいだ盛大な甥の結婚式と披露宴を終え、
ホテルに戻り、着替えが終わると、
『なるべく・・遅くまで、いましょうね・・』
と家内は微笑みながら私に言ったりした。

私は少し疲れていたので、
『程々にね・・』
と苦笑しながら家内に言ったりしていた。

翌日も、数多くの乗り物を乗車したり、あるいは観光船のようなのに乗船したり、そして見世物を観たし、
園内を廻ったりした。

家内はときおり歓声をあげながら元気溌溂であったが、
私は疲れ果てて、そしてため息をしながら、家内の後を付いていたりした。

私の少なからず慰めは、食事処で、ビール、ウィスキーを呑みながら、
各国の料理を食べられたぐらいであった。

そして、この夜、ホテルの部屋からのベランダの傍に椅子に腰掛けて、
花火が観られたのが綺麗だった・・。
風呂あがりでビールを片手に、煙草を喫い、家内と取り留めない話をしたりした。

そして、翌日チェックアウト前、ホテルの庭園を眺めたりした後、帰宅した。

          

こうした私にとっては、苦い行程であったが、
今としては結婚式の場所を活用して、あんなことがあったよなぁ・・

と懐かしさも加わり、微苦笑したりしている。

果たして、今回の17年ぶりに結婚式、披露宴に参列することに、
血液型B型の私とA型の家内との風変わりな私たち夫婦は、どのようになるかしら、
と私は微笑んだりしている。


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都心48年ぶり氷点下4度と昨夕学び、やがて私は過ぎし年の1970年頃の当時を思い馳せて・・。

2018-01-26 14:56:08 | ささやかな古稀からの思い

昨夕、テレビで天気情報を視聴していたら、
非常に強い寒気が流れ込んだ影響で、25日は全国的に厳しい寒さとなりました。
東京都心では1970年1月以来、48年ぶりに氷点下4度の最低気温を観測しました、
と報じられていた。


私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
48年ぶりの寒さと知り、私の住む地域としては寒かったはずだった、と実感しながら、
微苦笑させられたりした・・。


やがてぼんやりと、あの当時の頃を私は思い馳せたりした・・。
          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
小学4年生の頃から独りで映画館に数多くの映画作品を鑑賞してきたので、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老から、これから映画で飯(めし)を喰えるのは極く一部の人だょ、
まして脚本は・・同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、今は良いとしても30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

そしてやはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観たし、
この当時、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
そして映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。

やがて家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
そして幸運にも2週間後に採用通知を頂いた。
                     
このような時、近所の家電販売店の店主が、今私が住んでいる近くに私の生家があるが、
長兄宅に幾たびか来宅していた。


『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・

余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週刊 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

そして購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも弱い私は、無念ながら理解出来ない方が多く、
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。

                     

この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。

こうした中で、石原慎太郎さんが名誉学院長されているある新設されたコンピューター専門学校に、

1969年(昭和44年)4月に入学した。

          
確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であり、近くの大きな広告の看板に、
モデルの小川ローザさんが、車が走り抜けた風圧にスカートがまくり上げられ、
『オー・モーレツ!』とスカートを抑えながら言ったりした看板に、
よくやるよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑したりした。

やがて数が月後に代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。

こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。

そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのであった。

          

こうした間、学友のひとりに誘われて、新宿駅の西口に一度だけ行ったりした。
この当時、フォークゲリラと称された反戦フォークソングを唄って反戦運動を高めようとする若者たちが、
ベ平連の青年たちがギターを持って新宿駅の西口の地下広場で盛んに決起していた。

こうした状況を観た私は、過ぎ去る年にアメリカのケネディ大統領の暗殺、
やがて弟のロバート・ケネディが大統領立候補のさなか暗殺されてしまい、
私は政治の冷酷で怜悧が混沌することに痛感させられ、政治への希望と関心は遠ざかっていたので、
あわゆい効果のない青年のお祭り政治活動だ、と冷静に傍観者の心情で見つめたりしていた。

或いは卒業をまもなく迎える1970年(昭和45年)の3月中旬からは、
『日本万国博覧会』が大阪の郊外で華々しく開催されて、
私は鑑賞に出かけるお金の余裕もなく、漠然と羨望を重ねたりしていた。

やがて1970年(昭和45年)の3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業時期を迎え
卒業式の後を先生方と私たちは謝恩会で高揚した中、私は心の片隅には、
私は劣等生の為に追試を受けたばかりであったので、不安さを秘めていた・・。
そして何とか卒業証明書を頂けたのは3月31日であった。

私は生家の自動車で、代々木にある学校に向かう世田谷街道を走行していると、
車内のラジオから、『よど号ハイジャック事件』が発生して、
犯行した方たちはどのようになるのか、と思いながら学校に到着して、
まもなく先生から卒業証明書を頂く時、私は照れながら受け取ったりた。

こうした中で私の就職活動は、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーの経営陣のひとりが、
私の生家の遠い親戚の方が知人で、私は紹介を受けて、このお方のご尽力もあり、
何とか中途入社の内定を受けたのは3月15日過ぎであった。

この間、入社試験の面接が二回あった後、この会社から依頼された調査の御方が、
私が住んでいた生家の私の部屋の本棚を視察に来た、と私は長兄から聞いたりした。

もとよりこの当時は、全学連、赤軍派の活動があり、世の中を惑わさせる時代であったので、
民間企業としては当然の予防策であったが、殆ど文学の小説と映画の脚本ばかりの本で、
微苦笑しながら帰えられた、と私は長兄より教えてもらったりした。


やがてコンピューター専門学校のソフトコースを1年間学んだ私たち生徒一同は、
それぞれの企業に就職して行った・・。


                     

私は卒業証明書を頂いた翌日の4月1日に、
この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーに何とか中途入社し、

ともかく現場を学べ、と入社する一か月前に厳命させられて、
横浜工場にある音楽事業本部の商品部に配属された。

その後まもなくある大手の音楽のレーベルが独立し、外資系のレコード会社として新設された。

私も異動させられて、新たなレコード会社に勤め、翌年の一月に本社のコンピュータの専任者に辞令されたりした。

そしてコンピュータを活用した情報畑に20年、やがて経理畑、そして営業本部など奮戦して、
35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年を迎えた。

         

しかし正確には、この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

出向先は少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられて、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

こうした中でセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

          

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、           
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。


そして私は年金生活として、早や14年生となっている。

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10年ひと昔、ときには10年前のこの日のブログの投稿文を読み返して、独り微苦笑をして・・。

2018-01-25 14:59:16 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、

雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、ささやかな過ごしている。

先ほど、ぼんやりと10年前の頃、どのような心情で過ごしていたか、と思いながら、

10年前のこの日の2008年1月25日のブログの投稿文を読み返したりした・・。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたりした・・。

やがて年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、殆ど毎日投稿してきたので、
早や丸13年半となっている。

           

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、

そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

このような思いもあり、10年前のこの日のブログの投稿文を読み返した・・。
          
【 今朝の鼻歌は、『冬景色』となり・・♪ 】と題して投稿している。
恥ずかしながら再掲載すれば、下記の通りとなっていた。

《・・東京の郊外は、昨日は冬晴れであったが、

午前11時前後から、ときおり風が強く吹いて、寒い一日であった。

昼下り家内の母より、旅先の佐渡島より電話があり、
両津港~新潟港のフェリーが欠航しているので、帰京を延ばす、
と連絡を受けたりした。

家内の母は、冬の佐渡島を旅友達と3泊4日で観光めぐりをしていたが、

暴風雪に遭遇してしまったのである。

『せっかく行かれたのだから・・
仲良しグループとゆっくりと・・』
と私は家内の母に云ったりしていた。

『そうよねぇ・・』
と家内の母は笑いながら云ったりしていた。

私は家内の母の77歳の身を案じたが、
国内旅行の好きな仲間同士であり、心身健在の時に行きたい時に行かればよい、
と日頃から思っているので、
家内と微苦笑をしながら話あっている。

今朝は6時半過ぎに庭のテラスに下り立つと、
黒土に霜柱が見られた・・。

私はこのような情景を眺めたりしていると、

♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。
【 『冬景色』 作詞・不詳 】
と何気なしに小声で唄ったりした。

♪ただ水鳥の 声はして
 いまだ覚(さ)めず、岸の家。

私はサラリーマンを35年間をした後、
年金生活をしている63歳の身であるが、何かと長年、身過ぎ世過ぎしているので、
こうした歌から濾過(ろか)がされ、心の純潔が取り戻されるようで、私は好きな歌のひとつである。

居間に戻ると、テレビは、
東京の郊外は、朝の6時はマイナス1度、日中は冬晴れで6度前後で風はおだやかです、
と報じていた。・・》
         
こうしたつたない投稿文を投稿していた。

この当時の私は、この【gooブログ】を中断して、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】

に熱中して投稿を重ねていたが、
やがて2007年(平成19年)、肝要の【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、

8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入したりした時代であった。

今回、読み返した後、独り微苦笑をしたりした・・。

古人より、世の中は移り変わりが激しく、10年もたつともう昔のことを十年一昔、
伝えられている。

私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に14年近く前より一戸建てに住んでいる。

今回の10年前には、あの当時77歳だった家内の母は体力の衰えもあったが、心は溌溂としていたが、
やがて一昨年より家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、
私にとっては、まさかの出来事のひとつとなっている。
                          
まもなく家内の母が『要介護2』となり、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となり、これも人生だよねぇ、と私は独り微苦笑したりしている。

         
そして私も10年前には、63歳で心も身も年金青年のように溌溂としていたが、
65歳の頃からは体力の衰えも実感し、
やがて70歳を過ぎた頃から、ときおり物忘れもある。

過ぎゆくセカンド・ライフは、無念ながら、何か失くして過ごしている、
と実感させられてきたので、『十年一昔』・・そうですよねぇ・・と私は微苦笑を重ねたりしている。

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まばゆい雪景色を見ていると、過ぎし年に『帯広』の冬の旅路を思い馳せて・・【下】。

2018-01-24 15:44:13 | 旅のあれこれ

こうした体験があったので、2013年1月下旬、やはりクラブツーリズムのフリー滞在プランを利用して、
帯広の郊外の十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、5連泊ばかり滞在し、周辺を散策したりした。

この地域は、この厳冬期はマイナス10度前後、烈風か寒気団が襲来すればマイナス25度前後と予測して、
防寒着で身を固めて、周辺を歩き廻ったりした。


20日の冬晴れの中、東京の羽田空港で、11時30分発のとかち帯広空港行きを待合所で待機していると、
たまたま冬富士の情景が観えて、
          
『羽田空港から、富士山を見たのは初めてだょ・・』
と私は微笑みながら家内に言ったりして、これからの旅路は何かしら幸運があるのかしら、
と余計なことを思ったりした。

とかち帯広空港に予定通り午後一時に着陸した後、私たち夫婦は帯広市の駅前をめざして、
40分ばかり空港連絡バスに乗車した。

そして指定された『ルートイン帯広駅前』で待機していると、宿泊する送迎車のマイクロバスに乗り込み、
帯広市内の街中を通り、隣接した札内町の街中を走行し、やがて小高い丘を登りきった所に、
私たち夫婦が滞在するホテルが観えた。
          

そして館内に入り、チエックインする前に、私は思わず微笑んだりした。

          

私たちが5泊ばかり滞在するレゾートホテルは、『十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル』である。

そして私たち夫婦は、指定された10階の一室に入り、宅配便で送付した大きめの旅行ケースを確認したり、
室内を見たりした後、ベランダからの情景を観たりした。

          

十勝幕別温泉のリゾートホテルに滞在している中で、
優先的に緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れたかったのであるが、
21日の月曜日は休館日と旅立つ前に知っていたので、やむなく帯広競馬場の『ばんえい』競馬を観る為に、
9時過ぎに訪れた。

私は競馬場に関しても無知であり、わずかながら東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
長兄の友人が来宅していた時に、教えを受けて中央競馬の府中競馬場に於いて、数回ぐらいレース券を購入して程度であり、
まったくの素人であり、ここ50年弱は競馬のレースから遠ざかっている。

しかしながら帯広競馬場は、世界で唯一『ばんえい』競馬を通年開催されている、
と知り、たまたま私たち夫婦は訪れたのである。
          

そしてレースが開催前であったので、競馬場の正門近くにある『とかちむら』で、
《 たくましい十勝の大地が育んだ新鮮野菜や色鮮やかな花々が並ぶ『産直市場』。
  食材の宝庫ならではの味覚が味わえる『キッチン』。
  豊かな気候と風土から生まれたスイーツやオリジナルグッズが揃う『スイーツ&セレクト』。
  3つのゾーンで四季折々の十勝の魅力をお楽しみいただけます。 》
と解説書に明記されていたので、コーヒーを飲んだり、家内はお菓子を食べたりした。

その後の昼食も、この『とかちむら』の食事処で、私は士別産のヒレステーキを食べ、
特選されたステーキだ、と家内に話しながら絶賛した。


競馬場の館内からレース場の近くで、私たち夫婦は見たりした。
          

その後、『ばんえい』競馬の開催中の裏舞台が見られるバックヤードが、
たった100円で見ることができるので、私たち夫婦と60代の女性は解説員の説明を受けながら、
競馬に関する施設、レース場の状況などを観たりした。

やがて隣接してある7頭ぐらいの馬、そしてポニー、ヤギ、ウサギなどがいる『動物ふれあい広場』で、
動物好きな家内は、盛んにニンジンを与えたりした。
          
結果として、家内は日本酒の高級な吟醸酒が買い求めることができる費用、
それぞれの馬にくまなくニンジンを与え、私は微苦笑しながら見たりしていた。

この後、競馬場の前よりタクシーで駅前の近くに出て、
この周辺で一番大きな『長崎屋』で防寒靴などを観たりした。
そして私は何よりも驚いたのは、エスカレータが階段状でなく、動く歩道が上昇しているような状態であった。
                   
私はデジカメを取りだして、見知らぬ女性が乗っていたけれど、記念に一葉だけ撮ったりした。

    
今回の旅路のひとつには、十勝地方を開拓された人を学ぶこともひとつであり、
緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れて学ぶことであった。

幾たびか北海道を旅行し、2008(平成20)年12月21日より4泊5日で札幌に訪れ、
冬の時節としては三度目の冬であったが、初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
市内の各地をゆっくり散策したりした・・。

こうした中で吉田武三(よしだ・たけぞう)・著作の『武四郎つれづれ ~北の風土記』(北海道新聞社)を購読し、
遅ればせながら北海道の名付け親と称せられる松浦武四郎の道内をくまなく踏査の偉業を学んだりした。

そして一昨年の2011〈平成22〉年の12月中旬に、初めての冬の時節に帯広の観光温泉ホテルに滞在し、
十勝地方を開拓に貢献した晩成社を学んだりした。

今回、旅立つ前には、下記の【帯広市 公式サイト】から、改めて多々学んだりした。
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/seisakusuisinbu/kouhoukouchouka/shishi_01.html
☆【帯広市 公式サイト】<==帯広市史<==第一章 自然環境☆

このような思いを秘めて23日の朝の10時過ぎに『百年記念館』を訪れた。

          

そして館内の展示品を見たりした。
          
こうした中、映像装置で『帯広の森』関係のビデオがあったので、
私たち夫婦は指定して30分ばかり視聴し、
過ぎし50年前の当時の帯広市第5代市長の吉村博からの提唱、そして輪郭で、
『帯広の森』が出来、やがて多くの市民の植林~剪定~再利用などの好意の結晶で、
数年前に30周年を迎えて、大きな森となり維持管理されている、と初めて学び感銘されたのである。

ビデオとほぼ同一内容が下記のサイトに明示されている。
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/toshikensetsubu/midorinoka/d070202obimori.data/obihironoima.pdf
☆【帯広市 公式サイト】<==帯広市史<==第一章 自然環境☆


やがて退館後、緑ヶ丘公園の園内を歩き、市民の植林された結晶かしら、と樹木を見ながら歩いた。

          

そして私たち夫婦は、緑ヶ丘公園に別れを告げて、街の雪が残る歩道を20分ぐらい歩き、駅前に出た。

やがて宿泊している『十勝幕別温泉 グランヴィリオホテル』に帰館して、
私たち夫婦は、指定された10階の一室からのベランダからの情景を観たり、
12階の展望風呂から街並みを観たり、ときおり私はグランヴィリオホテルの周囲を歩き廻ったりした。

どんよりとした曇り空の日もあり、或いは澄み切った冬晴れの日もあったりした。

        

快晴の日の出の情景をベランダから撮ったり、ホテルの周囲からホテルを撮ったりした。
     
        
どんよりとした曇り空の中、ホテルの前の積雪の中のふるさと公園を撮ったりし、
この右手の小さな建物は公衆電話がある可愛らしい建物である。
        


そして快晴の夕暮れ時、夕陽が射し込む光景をペランダから観て、思わず見惚れながら撮ったりした。
        
                    


そして旅の前日の絹糸のような霧状の雪雲が低地を覆(おお)いはじめて、やがて雪が舞い降り始めた・・。
   

十勝平野は幾千の川が流れ、ほぼ中央に位置する帯広市は、十勝川、そして札内(さつない)川の大河が流れている。
そして札内川は、十勝川にそそぐ近くに十勝中央大橋があり、この大橋の下流の近くに十勝温泉がある。

この十勝温泉の川沿いに白鳥などの野鳥が飛来する、と書物にも明記され、
或いは川沿いの情景が旅人、写真の愛好家から賞賛されている、と私は学んできたので、
野鳥好きな家内、私は川沿いの情景に魅せられて、この地に向った。

駅前より路線バスに乗り、十勝温泉のあるホテル前で降り、
その後は適当に散策した時、十勝川のはずれの小さな川で、私には川霧のように見えたので、
私たち夫婦は川岸に下り立った。
             

気温がマイナス3度前後と私は感じたりしていたので、もしかしたらホテルの温泉が注(そそ)がれているのかしら、
とも思ったりした。

そして残り雪のある河原を歩いた行くと、野鳥の声が聴こえてきた・・。

             

この右手にある看板の野鳥の説明図の近くにネットで囲まれた中で、
白鳥、カモなどが50数羽見られ、近くには餌台が置かれて、家内は盛んに餌を野鳥に与えたりしていた。
                 

その後、観光温泉のホテル群の小道を歩いたりした後、
路線バスは2時間近く間があったので、駅の近くまで歩こう、と私たちは決意して歩きだした。

                  

やがて十勝中央大橋の積雪ある歩道を歩きながら、札内川が十勝川にそそぐ地帯かしらと思いながら、
デジカメで撮ったりした。

             
                      
そして十勝中央大橋を渡りきった時、記念に歩いてきた大橋の歩道を撮ったりした。
                            
ほぼ直線の道路は業務用のトラックなどの輸送車は疾走し、私たちは歩道をひたすら歩き、
ときおり周辺の情景を観たりした。
                       

その後、路線バスの標識が見えて、時刻表を見たら一時間ばかりあったので、
周囲を見渡すと幸運にも食事処があったので、昼食代わりに入店した。

そして想像したよりも美味であったので、このお店の情景を記念に撮ったりした。
                        

その後は無事に路線バスに乗車でき、やがて帯広駅の隣接した札内駅の近くで下車した後、
札内駅の駅前よりタクシーに乗り、宿泊しているホテルに帰館した。
        

私たち夫婦は24日の快晴の中、十勝川の川沿い、十勝温泉の街並みを散策したり、 
そして札内(さつない)川が十勝川の大河にそそぐ近くに十勝中央大橋の歩道を歩いて渡ったりし、
数時間ばかり魅せられて彷徨(さまよう)ようにひたすら歩き廻ったりした。

そして3時少し前に滞在しているホテルに帰館した後、
部屋のベランダから山里の情景を観たりしていると冬場晴れから曇り空に変貌し、
まもなく右側からは絹糸のような霧状の雪雲が低地を覆(おお)いはじめて、やがて雪が舞い降り始めた・・。

何かしら札幌の郊外、十勝平野の奥地の糠平(ぬかぴら)温泉地で見てきた雪質と違い、
霧状のような雪が舞い降り、私たちは長らく見惚(みと)れたりした。

翌日の25日は旅の最終日であったが、ベランダから稀な雪質に魅了されて、
二葉ばかり撮ったりした。
             

その後、私はホテルの正面にある小公園の情景を記念に撮ったりした。
             
この後、私はホテルの正面入り口を撮ったりした。
                   
早朝からホテルの方たちが除雪車で、くまなく歩道や周囲の道路を除雪し奮戦していたが、
霧状のような雪が舞い降っている。

まもなくホテルのひとりが、正面入り口で除雪され、やがて一段落していた時、
私は声を掛けたりした。
『除雪されるのは重労働で大変ですねぇ・・
しかし私たち旅人にとっては、待ち焦(こが)れた雪舞う情景でして・・
何かしら昨年に札幌で見たスノー・パウダーのような雪質と違い、やはり寒さの関係なのですか』
と私は言ったりした。

確かに帯広のこの時節は、日高山脈などの山なみに囲まれて、
積雪は少ないが、朝夕の気温はマイナス15度前後の厳冬であり、この寒さが雪質に関係しているのかしら、
このような意味合いの言葉を私は交わした。

そして私は、
『雪が降りますと、気温が高くなり、たぶんマイナス3度ぐらいの暖かい朝ですねぇ』
と言ったりして、ホテルのひとりに微苦笑されたりした。
               

私たちはチエックアウト後、ホテルのご厚意でマイクロバスで帯広駅前まで乗車した後、
雪は止み、昨夕から今朝までの新たな雪積15センチぐらい中、街並みは変貌して、
私は見惚れたりした。

その後、帯広のホテルを巡回している経路のとかち帯広空港行きのバスを待っている間は、
駅前の『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジで過ごそう、
と私たちは話し合っていた。

そして駅ビル内で土産品を『六花亭』で買い求めた後、再び雪が降ってきた・・。
私たちは『ホテル日航 ノースランド帯広』に向う途中、私は大きな『長崎屋』ビルに本屋の表示が見えた。

この後、私たちは『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジに入り、
家内がコーヒーを飲んでいる間、
私は札幌で見たスノー・パウダーのような雪が舞降る中、『長崎屋』ビルにある本屋をめざした・・。

私は23日に緑ヶ丘公園の園内にある『百年記念館』を訪れ、
改めて十勝地方を開拓に貢献した人々の苦難が多かった人々を学んだりした。
そして何かしら思い込みの強い私は、この夜の夢の中で開拓に貢献した人々が出てきたのである。

このような思いで、何かしら書物で改めて学ぼうと思ったりしていたので、
本屋にかけ参じたりした。

許された短時間で選定した一冊の本は、
                  
松山善三・著作の『依田勉三の生涯』(ハースト婦人画報社)であり、
本書は1979〈昭和54〉年に潮出版社より刊行され、その後の復刻本である。

私は十勝地方を開拓に多大に貢献した晩成社を率いた依田勉三(よだ・べんぞう)氏を、
私が長年敬愛している映画脚本家、作家である松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏が、
御存じで、しかも書物に著作され上梓していたことに、私は驚きながら買い求めた一冊となった。

そして私はスノー・パウダーのような雪が舞降る中、小躍(こおど)りしながら、
家内が待っている『ホテル日航 ノースランド帯広』のコーヒーラウンジに戻った。

そして私たち夫婦は、窓辺から雪が舞降る情景をコーヒーを飲みながら談笑した。

こうした中、2011年12月に糠平温泉に連泊した後、
『糠平館 観光ホテル』のご厚意で、送迎バスで、とかち帯広空港まで送って頂けた中の状況、
私は家内に思い浮かべながら話したりした。

ホテルの前を午後1時少し前に送迎バスは出発し、雪道の中を上士幌、士幌を通り過ぎると、
路面は除雪した雪は消え、周辺は大雪原の中、小雪も止み、まばゆい晴れ間と変貌した。

ときおり微風が吹くと、大雪原の粉雪が吹き飛ばされて、道路に吹雪のような情景となり、
以前に観た道路際の風雪避けが、こうした時に大いに威力を発揮するが、
広い北海道の大地では限りある、とも感じさせられたりした。

やがて帯広市の郊外、やがて高速道路を疾走し、空港までは送迎バスは走ったが、
100キロぐらいの道のり、1時間半ばかりであったが、
改めて殆ど周辺の情景は大雪原であったので、やはり広い十勝平野を実感させられたりした・・。

このようなことを私は家内に言ったりした後、とかち帯広空港発の午後4時の便であったので、
それまでの待ち時間は家内がお土産を購入した

やがて私たちは、とかち帯広空港行きのバスに乗車し、
雪が舞降る広大な雪原を車窓から眺め、これこそ冬の圧倒的に魅せられ北海道の情景だ、
と私は高揚しながら家内に小声で話したりした。

こうしたことをまばゆい雪景色を見て、あのようなこともあったなぁ、と微笑みを重ねたりした。

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まばゆい雪景色を見ていると、過ぎし年に『帯広』の冬の旅路を思い馳せて・・【上】。

2018-01-24 15:28:13 | 旅のあれこれ

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む、73歳の年金生活の身で、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住み、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
たった2人だけ家庭であり、ささやかに過ごしている。

本日の午前中のひととき、いつものように家内から依頼された買物で、スーパーに行く途中、
一昨日の10時半より雪が降り、やがて4年ぶりの20センチぐらいの積雪となったりしたが、
今でも大半が残り雪があり、陽射しを受ける中、まばゆい冬麗の情景となっている。

こうした情景に私は見惚れていると、過ぎし年に北海道の『帯広』地域に冬の旅路をしたことが、
思い出されたりした・・。


私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであり、特に雪の舞い降る情景に魅せられて、
この時節になると、雪恋し、心情となり、
何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら十勝地方の帯広の地域は、わずかである。

最初は私が現役サラリーマンの40代の半ば、周遊観光で晩秋の時に、
道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりしりした・・。

その後は、年金生活を始めた翌年の5月下旬、
知床半島のオホーツク海を観光船で三時間半ばかり乗船しながら、
早朝の洋上から太陽が昇る、と惹かれて3泊4日の周遊観光をして、旅の終わりとして十勝川の筒井温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。

しかしながら旅人で遊学する私は、やはり北海道は冬の季節が最も魅了されると思っているので、
いつの日にか、雄大な十勝平野の中の帯広市を冬の時節に訪れたい、と念願したりしてきた。

そして2011〈平成23〉年12月20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊して訪れる、滞在型の4泊5日の旅をした。

たまたま今回の旅の企画は、通販の旅行会社のクラブツーリズムが団体観光滞在プランとして、
11月中旬の頃に新聞に掲載されていた。

家内が見て、十勝川温泉と糠平温泉の特色ある旅程に、
この時節は交通機関のことを配慮すれば、私たち夫婦の個人型の旅としては困難さが予測され、
何よりも旅行会社まかせで、旅費も驚くほどに格安であり、
私たち夫婦は瞬時に魅了されて、この団体観光滞在プランに参加した。

私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。
                    
私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。


そして帯広市は、シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた、
と私は25年前に学んだりした。

私は中島みゆきさんを秘かに女神のように信愛し、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきたひとりである。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたい心情があった。

この時の旅路は、十勝平野の中、帯広空港から帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り、
宿泊地の筒井地域を散策し、
その後は糠平温泉郷に向い、送迎バスで士幌、上士幌を通り、宿泊地の糠平〈ぬかぴら〉温泉の観光ホテル周辺を散策した後、
帰路は一路南下して帯広空港のコースであった。

20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊し訪れ、4泊5日の旅をした。

このようにわずかな旅路であったので、もとより壮大な十勝平野の中のほんの一部となる。

2000メートル級の山なみが聳える西方の日高山脈、北方の石狩山地、そして東は白糠丘陵に囲まれ、
平野の中を十勝川を中核とした札内川、戸蔦別川、岩内川、帯広川、売買川、ウツベツ川などの幾重の川が流れ、
中心地にはは帯広駅があり、明治の中期の頃から碁盤目状の大きな区画が四方に広がり、
この間には防風林が設けられている。

こうした壮大な十勝平野は、大豆、小豆、甜菜、じゃがいもなどの畑作を広い耕地、
或いは広大な酪農がされている情景が誰しも感じると思われる。


訪れたこの時節は、この農地や酪農地は30センチ前後の大雪原に変貌し、
快晴の時は、遠方の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)となった。

そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びていた。
こうした時は、朝の6時はマイナス12度前後、昼下がりはマイナス4度前後、
そして夜の6時はマイナス6度前後となった。

或いは小雪が舞い降ると、天上から地表まで、みゆきの世界に変貌し、
ときおり風が吹けば、吹雪となるが、
寒さはマイナス7度前後で、雪が降る時は暖かく、
私は未知の大陸の北中国、朝鮮半島に近い気候かしら、と微笑んだりした。

『みゆき』という表現は、もとより雪のことであり、
万葉集の頃は美由伎、私の敬愛しているシンガーソングライターの中島みゆきさんの本名は、
美雪だったかしら、と思いながら、私の好きな言葉のひとつである。


20日の午後3時20分に予定通り『とかち帯広空港』に着陸した私たち一行は、
宿泊先の帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り込んだ。
ここで初めて私は、今回の旅を共にする方たちのメンバーを知った。

羽田空港で旅行会社の方に参加最終チエックしたが、お互いにフリーの状況であり、
ただ航空便が指定されただけであったので、参加メンバーは不明であった。

私たちは送迎バスの車内で、60代、70代前半の夫婦が多く、
後で知ったのであるが独りで参加される男性5名、女性1名で、総勢23名であった。

私たち夫婦は、この後の宿泊地の食事処、ロビーなどの館内で、
共に旅する70代前半の3組の方たちを中心に、さりげなく談笑を重ねたりした。
そして現地にお住まいの方たちとも、私は何かと教えを受けながら、
ひとときを言葉を交わし、一期一会を享受した・・。

夕暮れが山なみに染め、そして大地は雪原の広大の情景を観ながら、
一時間ばかり車窓から鑑賞し、宿泊地の『十勝川 国際ホテル筒井』に到着した。

この観光ホテルは、私が定年退職の翌年の2005年5月下旬に、
知床観光船で早朝にウトロから出航し、日の出の頃に洋上から知床岬を観る貸切クルーズに魅了され、
団体観光周遊ツアーに参加した3泊4日の中で、たまたまこの観光ホテルに宿泊した体験があったので、
6年ぶりの再訪となった。
                          
しかしながら、忘却とは忘れる事なり、と名言されたれ菊田一夫〈きくた・かずお〉氏の通り、
《 日本随一 天然植物性 モール温泉 》で、
《 肌にしっとりとなじみ、湯上りに肌がしっとりツルツル効果を実感する美人の湯 》
と明記されたポスターを見た記憶だけが鮮明に残っている。

その当時の私は、入浴後にポスターを見ながら、家内たちの女性なら喜ばしい限りであるが、
年金生活の駆け出し私は、温まればどうでもよいわ、と苦笑したりしていた。
          

再訪した観光ホテルは、リニューアルされて、
《 真心美人のおもてなしの宿 》と称されて仲居さんの30数名を見かけたが、
男性の私としては、ひとりの小柄な黒髪の仲居さんに見惚〈みと〉れただけであるが、
全般としては溌剌と笑顔を浮かべながら、健気に動く感じは好感させられた。

私は早寝早起き元気な児に徹し、入浴後はビールを吞み、
持参した新書本の二冊を布団の中で読んだり、まどろみながら昼寝をしたりした。

そして、この間のひととき、この周辺をマイナス数度ぐらいの中、
5キロぐらいを歩き廻り、帯広の郊外の情景を観て、思索を重ねた・・。

シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた情景に思いを馳せたりした。

或いは亡き作家の福永武彦(ふくなが・たけひこ)の遺〈のこ〉された作品を思い浮かべたりした。
私は若き20代の前半に、文学青年の真似事をしたことがあり、氏の作品に魅了されたひとりであった。

たまたま『草の花』を読みだして、圧倒的に魅了された後、
『風土』、『夜の時間』、『冥府・深淵』、『愛の試み』、『心の中を流れる河』、『 世界の終り』、
『廃市』、『告別』、『忘却の河』、『海市』、『死の島』などを精読したりした。

氏は敗戦後の1945年、治療と疎開のため北海道帯広市に移り、
3か月ほど滞在したのち一時東京に戻るが、
翌年り1946年に再び帯広に渡り、帯広中学校(現在・柏葉高校)の英語教師として赴任する。

その年に処女作「塔」を発表された後、冬に肋膜炎を再発し、
1947年秋に手術のため上京し、清瀬の東京療養所に1953年まで入院した。
そして後年に、『心の中を流れる河』の作品は帯広を舞台に綴られている。

このようなことを思い馳せながら、
遠方の2000メートル級の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)、
そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びている中、歩いたりした。
          
家内と共に歩いたりした時は、頬が寒いわねぇ、と家内は言ったりしていたが、
          
凛とした冷気の中、私は微苦笑をしたりした。
                    
夜のひととき、中島みゆきさんの学んだ高校は、時代こそ違うが、
福永武彦さんが一時時期に英語教師をされていた高校と同じと思われ、
中島みゆきさんも『草の花』、『心の中を流れる河』、或いは『告別』を読まれた、
と私は確信を覚えながら、ぼんやりと思ったりした。

そしてやはり私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、雪の大地は凛とし、果てしなく青空が高く観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。

こうした思いを秘めて2011〈平成23〉年の12月20日より、
帯広市の郊外にある十勝川の筒井温泉にに2泊した後、
いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地の旅路をしてきて、
私たち夫婦は魅了された。


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ブログを匿名で発信している私、やがてリアルの私本人が判明させられても、ありのままに投稿を重ねて・・。

2018-01-23 14:16:57 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたりした・・。

やがて年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、殆ど毎日投稿してきたので、
早や丸13年半となっている。
                       

我が家に於いてインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。

この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったりした。
          
私は現役サラリーン時代は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑としてコンピュータの世界の動向、技術革新は、程ほどに解かっていた・・。

やがて人事異動して、利用者側の間接部門となったので、
先端技術、動向も解からず、ただ社内のオンラインシステムの端末機を活用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
ネット世界の環境の飛躍的な変貌には、ただ驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
                      

こうした中、ネットの世界は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

こうした根底には、自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

 
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
                 
    
そして私は、2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

タイトル名の『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』に於いて、~団塊世代のひとりとして~、と副題をしたのは、
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、大学の新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、それぞれの時代の苦楽を共にした心情があった。

この当時、インターネットのWebの世界に未熟な私は、
ブログの知識のないまま戸惑いながら投稿をはじめ、日記投稿欄の書き込み、送信に、
この当時は幾たびかエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、何度も書き直し投稿をしたりした。

この間、初めてコメントを頂いた時、喜び小躍(こおど)りしたりしていたが、
まもなく賞金ランキングのような形式が公示され、私のブログの思いの主旨と違うので、投稿をやめた。
          

そして私は他ブログ・サイトを探し、ブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したり、
或いはブログ・サイトの【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入し、
『年金青年のたわむれ記』とタイトルを掲げて、無知なりに1年近く政治、経済など難題を投稿した。

この当時の【gooブログ】は、入会している会員数は確か100万人であり、
ブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】は、こじんまりとした10万人ぐらいの会員数であった。

私は個人的な幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
お読み頂いた方に、リアルな私を判明しずらい会員数の少ない【goo簡単ホームページ】を選定した。
                       

私はブログの投稿文を綴ることの内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも、ときには書くことのためらう影の内容を秘めたりしている。

たとえば幼児の時は、何かといじけたことが多く、
やがて小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であったりした。

そして私は若き20代の前半に文学青年の真似事した時期、新人賞に応募し、
最終候補6作品の寸前で3回ばかり落選し、敗退したりした。

或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて成人して、
里子先で結婚されて、私たち兄妹の母親となったりした・・。

または次兄が自営業の資金繰りに失敗し、自室で睡眠薬を多量に飲み自裁した。、

この当時の私は住宅ローン返済で苦慮していたので、
次兄から私を資金に関しては無力と感じとられて、結果的には私としては何の役にも立てずにいた・・など、
私なりに心に秘めてきた屈折した出来事を、余すことないように投稿してきた。

こうした出来事のことは、小心者の私としては、匿名であることで初めて発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
                       

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私はここ11年近く、発信名は『夢逢人』と命名したりした。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたように恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。
                        

この間、幾たびかブログサイトに彷徨(さまよい)い2010年(平成22年)の7月から、
この【gooブログ】に於いて統合して、やがて7年前の頃に『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』と
タイトルを改名した。

やがて、いつまでも年金青年は違和感がありと思い、
『夢逢人かりそめ草紙』とタイトルを短縮して、現在に至っている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、殆ど毎日投稿してきた。
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
                       

こうした中、確か4年前の頃、電子メールで、XXさんと思いますが、後輩のXXです、
と私が35年近く勤めていた音楽業界のあるレコード会社の後輩のひとりから、
丁重なお便りを頂いた。

何かしら私のブログの投稿文を偶然に読み、
リアルの私本人が判明し、会社時代の最近更新された名簿録から、電子メールのアドレスが解り、
私宛に後輩本人の近況を含めて、お便りを送信された、と私は知ったりした。

そして私は匿名の投稿文でも、ありのままの真情の投稿文を重ねると、
リアルな本人は判明してしまった、と少しばかり微苦笑させられたりした・・。
         
たとえば勤めていた音楽業界のレコード会社の各社に於いて、
私の定年後に、ある他社のレコード会社の社長が自裁されたり、
或いは他業界からあるレコード会社の買収案が新聞紙上でニュースになった時、
無力な私でも、いたたまれない心情となり、私は幾つかの投稿文を発信したりしてきた。

こうした私の投稿文をお読み頂ければ、現役サラリーマン時代の先輩、同僚、後輩、
そして知人は、あの人だ、とリアルの私本人は判明してしまう。

或いは私の現役時代の最後の5年間は、リストラ烈風の中、
私は出向となり、各レコードがCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社に勤めた私が、
この当時の真情をくまなく投稿文に綴ってきたので、
やはりリアルの私本人は、一部の方に判明してしまう、と思われたりした。
                       

こうした中で、私は定年後の年賀状を発信する時、私の近況を書く中で、
《・・このような身過ぎ世過ぎの年金生活をして、あふれた思いをブログの投稿文を重ねたりし、
生きがいのひとつとなっています。・・》
このような意味合いの文を10年ばかり綴たりしてきた。

このような状況であるので、先輩、同僚、そして知人の中の人たちの一部に於いて、
私のブログの投稿文を偶然に読み、リアルな私を判明し、微苦笑されていると思われる。
そして私にあえて告知せずに、静観して、お読み頂いている、と私は思ったりしている。
                       

私は今年の9月に誕生日を迎えると、恥ずかしながら74歳を迎える。

そして私は残された人生の歳月は、自助努力も肝要であるが、もとより神様か仏(ほとけ)さまの采配に寄る。

こうした中で、私はブログに関しては匿名であろうと、リアルの私本人が判明しょうが、
これまでと同様に、脚色もないありのままの思い、そして真情を投稿文に認(したた)めようと、
早や4年が過ぎて、微苦笑を重ねたりしている。

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雪が舞い降る情景、都心の郊外に住む私は、ときには亡き母のしぐさ、言葉が思い重ねることがあり・・。

2018-01-22 13:44:22 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む、73歳の年金生活の身で、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住み、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
たった2人だけ家庭であり、ささやかに過ごしている。

先ほど、居間にいる家内に私はコーヒーを淹れて、ぼんやりと小庭を眺めていると、
雪が舞い降ったりしている・・。

今朝、テレビで気象情報では、都心でも明日の朝まで10センチ前後、雪が降る、
と報じられていた。

『都心が10センチ前後だったら、この辺は15センチぐらいなるよねぇ・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。

やがて私は空から雪が舞い降ったりしているのを眺めていると、亡き母の葬儀が甦(よみがえ)ってしまった・・。

         

私の母は、婦人系の癌で都心の広尾にある日本赤十字の病院に入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月12日を過ぎ、病室で13日になったまもない深夜に亡くなった。

そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。
             

やがて私の生家である長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父さんなどで取り決めた。

そして13日に『仮通夜』をした日は、どんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日の14日には『本通夜』の日であったが、
朝から雪が降りだして、ときおり風も吹き、この地域として稀(まれ)に15センチぐらいの積雪となったりした。

こうした中、ご近所の御方のご尽力で、生家の庭、お焼香などの場所をテントを設営して下さり、
或いは生家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

こうした中、親戚、数多くの知人、近所の方々に雪が舞い降り、風も吹き荒れる中に来宅して頂き、
私たち兄妹は恐縮しながら、出迎えたりした。

そして公共交通機関にも影響をもたらしていたので、私は会社関係の方たちに辞退の連絡をしたりした。

翌日の15日の告別式は、積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われ、
親戚、数多くの知人、近所の方々が来て下さり、こうした中に私の会社関係の方たちに来て下さたりした。

その後、火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたりした。

やがて帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。

                     

納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に私は喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったりした。

世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
特に私の場合は、小学2年の時に父に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母などに育てられたので、
53歳を過ぎた私でも、心は重かったりした・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に言ったりした。

そして私たち夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたりした。

                      

秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉であり、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。

何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思いながら、山奥の素朴な温泉地とした。

こうした中、翌日は私たち夫婦は防寒服で身を固めて、
付近の積雪のある幅5メートルぐらいの閑散として県道を歩いた。

周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れていた。

しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。

ゆるく蛇行した道を歩き、車も通らず人影も見えなく、秋田県の奥まった処だと、実感できたりした。
そして雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。

このように1時間ばかり歩いたのだろうか。
そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私たち夫婦だけであった。

こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私たち夫婦は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったりした・・。

         

私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、

田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、農家を営んでいた。

家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、

ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。

薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は40センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、陽当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。

         

薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『おネエさん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。

そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。

やがて私たち夫婦が宿泊している観光ホテルに帰館する為、
再び雪の舞い降る中を歩いて戻ると、

観光ホテルの外れに茶室があり、積雪が深まった庭先の中を歩いた・・。

そして茶室は人影が見当たらず、ひっそりとしていた。

            

          
やがて1周忌の法事の日には、
粉雪が舞い降る朝となり、私たち兄妹は、親戚、知人の方達には来て頂くことに、心配したりしていた。

お墓のあるお寺で法事が終り、ふるまいの会場に向かう時、
相変わらず粉雪が舞い降りていた・・。

叔母と妹の2人で私は歩いていたが、
『お母さん・・私を忘れないで・・と降っているのかしら・・』
と私は不謹慎ながら云った。

『そうよねぇ・・義姉(ねえ)さん・・苦労が多かったから・・天上の神様・・覚えていたのよ・・』
と叔母のひとりが私に言いながら微笑んだりした。

私と妹は微苦笑し、粉雪が舞降る空を見上げ、そして会場に急いだ。


私は今でも、雪が舞い降る情景を見たりすると、
ときには亡き母のしぐさ、言葉が思い重ねることがある・・。


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雪舞い降る情景に、東京の田舎者の私は、圧倒的に魅了されて、独り微苦笑をして・・。

2018-01-21 13:25:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む、73歳の年金生活の身で、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住み、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
たった2人だけ家庭であり、ささやかに過ごしている。

そして私の生家に近くにあり、この地域に私は結婚前後5年を除き、早や68
年となっている。

今朝、ぼんやりとテレビでNHKの気象情報を視聴していると、
明日の22日は、本州の南岸付近を低気圧が通過するため、東京23区を含む関東の平野部で積雪が予想され、
気象庁ではこのため、雪や路面凍結による各交通機関の乱れなどに注意するよう呼びかけています、
と報じていた。

そして私は、明日の午後は雪かょ・・と微苦笑した後、過ぎし年を思い馳せたりした・・。

         

私は今の住んでいる近くに生家があり、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けて、
遥か65年前の頃は、この冬の時節に30センチ前後の雪が降っていた。

私は地元の小学校に入学したのは1951年(昭和26年)の春であり、
初めての冬を迎えた時、こうした中で雪が降り、登校した・・。

私はゴムの長靴の中に、母か父の妹が未婚だった頃の叔母の助かれながら、
藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
ゴム長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。

                              

この後、1955年(昭和30年)の頃から、都会などに住んでいた御方たちが周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)の3月であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に急激に大きく変貌した。

やがて1964年(昭和39年)に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降ったりしたが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
                        

こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると幾たびか北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。
                          
私たち夫婦の冬の旅路は、独自の周遊プランを旅行代理店に依頼したり、
或いは通販のクラブツーリズムの滞在型プランを利用して、
観光ホテル、リゾートホテル、旅館などに滞在して、周辺を歩き回ったりしてきた。

そして私たち夫婦は雪舞い降る山里の路、街の中を歩くことは30年を体験してきた。

          
ここ15年ぐらいは、こうした時に愛用してきた軽登山靴はマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの靴で、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの軽登山靴として、
お互いに滑り止めとして簡素なゴム製の金属製スバイク付いた品を装填している。

そして私は肌着の上に冬のスポーツ・シャツ、ジャケット風の襟(えり)のあるフリース、そして防寒コートとすれば、
マフラーはフリースの襟が首回りまであるので不要となっている。

そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。


こうした中で、その地のお住まいの人たちと立ち話をしたりして、その地の風土、文化を学びながら、
雪舞い降る時、そして雪晴れの時などの冬麗の圧倒的な情景に感動させられたりしてきた。

しかし時には風が烈風になると、1メートル先も視界が閉ざされた過酷な世界になるが、
わずかながら体験をしてきたが、お住まいの御方は日常生活の除雪などの重労働などを思い重ねると、
あくまで遊学の旅人の身勝手な思いでもある。

私たち夫婦の冬の旅路は、私のサイトのカテゴリー『旅』で、
つたない投稿文で記載してきたが、今回は省略する。

          

このような思いをぼんやりと思い馳せたりしたが、家内は家内の母の介護で、
家内と家内の妹は交互に、大半は家内の母宅に宿泊して、
家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活をしているが、
落ち着いて雪が舞い降る旅路は、当面延期だよなぁ・・と独り微苦笑したりしている。

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幸せな『青い鳥』は、人誰しもそれぞれのお住まいの身近な所にいる、と老ボーイの私は確信を深めて・・。

2018-01-20 14:13:02 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住んでいる。

一昨年より家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、
私にとっては、まさかの出来事のひとつとなっている。
                          
やがて家内の母が『要介護2』となり、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となり、これも人生だよねぇ、と私は独り微苦笑したりしている。


本日はたまたま『おひとりさま』の生活となる中、月一度ぐらいの散髪屋(理容店)に行った後、
最寄りのスーパーで買物をして、
レジ袋を両手に提げて、帰宅した。

            


私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、           
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。


私が年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、
私は自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

このような午前中の過ごし方を定例事項のように過ごしてきた・・。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の13年半を過ごしてきた。

            
         
私が買物とか散策する時の容姿は、この寒い時節は制服のような定番の服装として、
冬用のスポーツシャツにカーディガン風のフリース、ストレッチパンズの長ズボン、ウォーキング・シューズとなり、
紳士用のショルダー式バックを園児のように斜め掛けをしている。

こうした中、北風が吹く寒さが増す時だけは、防寒着を着たりしている。

そして散策する時には、殆どコンバクト・デジカメをネクタイのように首回りから下げて、颯爽と歩き、
歩いている中で瞬時に魅了された情景を、一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

            

私は定年後に年金生活の始めた直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
                          
或いは雑木の多い小庭に古ぼけたの家に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

この間、私は中小業の民間会社に奮戦している50代の時、同僚が病死されたり、
そして知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
           
やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
まもなく、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。

                                   
                                 
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするのが多くなり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
            
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
                      
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事がセカンドライフ健康体の三種の神器として思い、過ごしている。

私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日を迎えているが、
健康寿命、やがて逝去も余りにも格差がある、と私は思い馳せたりしたりして、
ここ5年ぐらい幾たびか私たち夫婦は、一日を大切に過ごそう、とお互いに言い交したりしている。

            

私は友達、知人は自身が選ぶことができ、こうした中で悪感情の末、疎遠になったり、解消できるが、
家族の親子、兄妹は、愛憎、確執があっても、一生つきまとい、手を切ることができない間柄となっている。

しかしながら血は水より濃いと称されるように肉親、夫婦、親子、兄妹だけが知りえる
互いの喜びがあり、互いに共有してるのが家族である。

このように家族に対しては、私はブラス思考となっているひとりである。

こうした考えをぼんやりと思い馳せると、
モーリス・メーテルリンクさんの童話『青い鳥』のように、
幸せな『青い鳥』は、人誰しもそれぞれのお住まいの身近な所にいる、と私は確信を深めたりしている・・。

                      
       
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると、定年後に年金生活を始めたりした・・。

そして定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

或いは昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

そして午後の大半は私は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしている。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

            

そして人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。

                      
         
こうした中、私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら日常生活の実情は、私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

                    

私は73歳の身であり、私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や14年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

そして私たち夫婦は40数年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ13年半の年金生活は、定年退職するまで何かと悪銭苦闘が多かった為か、
予測した以上に安楽の日々を過ごしてきた。


世の中は少年時期から青年時期を過ごした後、やがて後年になって、ボクの青春時代はあの時期だった、
と走馬灯ように、その時の出来事を思い馳せたりすることがある。

このようなこともあるので、今こうして過ごしている私たち夫婦は最良の日々かしら、と私は感じたりしている。

          
       

これからの日々は、体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。

こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは神様か仏様か解らないが、天上の采配に寄ること思ったりしている。
          
このように思案している私は、こうして過ごしている昨今こそが、
いつまで続くか解らないが、私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている。

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森山良子さんの『涙そうそう』を何かと単細胞の私は、心の中で呟きながら、ここ13年半の写真の整理をして・・。

2018-01-19 16:06:03 | ささやかな古稀からの思い

私は森山良子さんが作詞された名曲のひとつの『涙そうそう』を心の中で呟きながら、
年金生活13年半の写真の修復、整理をしている。

過ぎし1月5日の朝、主力機のパソコンのハードディスクが故障した上、
外付けのハードディスクも不安定な状態となってしまった。

やむなくパソコン、外付けのハードディスクを新たに買い求めたが、
難題は少なくとも2万枚以上ある写真を修復、整理している。

本日も修復、整理している中、年金生活13年半を過ごしてきた私は、多彩な写真を見ながら、
何かと単細胞の私は、森山良子さんが作詞された『涙そうそう』の歌を、
心の中で呟きながら、♪古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた・・・
唄っていたことに気づいて、独り微苦笑をしたりした。

          

もとより周知の通り、名曲の『涙そうそう』は、
森山良子さんが、ライブで共演したBEGINさんと意気投合して、沖縄の曲を依頼した伝説となっている。

やがてBEGINさんから送られたデモテープのタイトルに書いてあった「涙そうそう」は
沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味であると聞き、
森山良子さんが若くしてこの世を去った兄を想う歌詞をつけた公表されている。
そして多くの方に、別れの歌、卒業ソングとして親しまれてきた。

私は森山良子さんのファンのひとりとして、昭和44年頃に発売されたレコード、やがてCDも所有しているが、
ここ10数年、『涙そうそう』も何10回も愛聴してきたので、私の脳裏に残っている。

こうした中で、たまたま年金生活13年半を過ごしてきた写真を、
愛惜を秘めながら修復、整理していると、
何かと単細胞の私は、『涙そうそう』の歌を心の中で呟きながら、唄ったと思われる。
      

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過ぎし13年半前、年金生活を始めた時、秘かに自身を励ます為に人生信条を掲げて・・。

2018-01-18 16:20:07 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

私は昼下がりのひととき、机の引き出しを整理している中、
古いノートに気づき、ノートを開いて読んでしまった・・。

このノートの一部には、私が定年退職する寸前、年金生活を始めるに伴い、
秘かに信条を掲げたことを明記したりしていた・・。

          
        
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、

この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして、私は出向身分であったので、何かとリストラ烈風の希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、           
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

         

私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年〈昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。

この根源は、敬愛している亡き松山善三さんの脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。

こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。
          

       
こうした理由で、人生信条は『清く貧しく美しく』とし、
日常生活を過ごす目標として『野に咲く花のように』とした。

          
『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられ、まもなく私なりに命名した。

海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を新築した時、多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若気の至りで、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
家内が免許状の昇進と共に、礼金も重なったりし、こうしたことは暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
         
そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。

やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。
       

私はこの1985年〈昭和60年〉の夏の時節以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきた。

        

私は年金生活を始め丸13年半前が過ぎているが、
定年退職するまでの半生期は、何かと悪戦苦闘することが多かった為か、
年金生活は私が予期した以上に安楽な生活を過ごしている。
そして私のつたない人生航路は、先憂後楽かしら、と微苦笑したりしている。

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自動車の運転、過ぎし11年前に私は、やむなく断念した秘かな想いは・・。

2018-01-17 14:28:16 | ささやかな古稀からの思い

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職したが、
私は長きの期間のペーパー・ドライバーだった・・。

結婚する30歳の前は生家に住んでいた期間は、生家の自動車を利用して、
若気の勢いで、盛んにドライブなどをして、自動車の利便性も車窓からの情景も享受し、
軽井沢、蓼科、伊豆半島などの各地に行ったりした・・。


そして結婚して三年目に生家の近くに一軒家を建て、
若気の至りで茶室も家の中で設けて、予想以上の住宅と関連ローンの返済となり、
自動車のことなどは考える余裕がなかったのである。

その後、やはり自動車を買い求める事も少し考えたが、
多くのサラリーマンと同様に勤務実態は、激務で合ったので、
ドライブをすることを予測しても、二週間に一回程度しか想像が出来なかった。

       

こうした時、私が会社に行っている時は、我が家にセールスマンが来宅した。
門扉を開けて石段を上り、玄関の近くで、
『トヨペットですか・・』
とセールスマンが明るく大きな声で、玄関に向かい言った。

家内は玄関の横にある洗面所の窓を少し開けて、
『なに屋さんですか・・』
と家内はセールスマンに言った。

私が帰宅後、この話を家内から聞いたりした。
『貴方、可笑しいのよ・・
そのトヨペットという方、黙ってお辞儀をした後・・帰られたわよ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

『その人・・トヨタの乗用車のセールスマンだょ・・』
と私は家内に言った。

そして私は、『そのセールスマン、びっくりしていなかった・・』
と私は家内に訊(きい)た。

『少しばかり困ったような顔をして・・お辞儀をして帰ったわ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

家内は茶事は少し知っているが、自動車に関してはまったく無知であることを、
私の方も改めて知り、苦笑したりした。


その後、私が40歳を過ぎた頃、家内とのんびりドライブすることなどは、
夢のひとつであった。

こうした思いが根底に秘めていたので、定年後には自動車を買い求めて、

家内と共に国内旅行を自在にドライブ旅行をしょうと思ったりしていた。

       

そして2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたが、

無念ながら齢を重ね、判断力も鈍り、今頃から再び自動車を運転して、
人身事故でも起こした場合、何よりも相手方に対して、いつまでも心痛な思いが残ると思われた。

その上に何かと小心者の私は、慙愧に苦しみ、心身痛みを生じ、たとえ金銭上の賠償責任を終えても、
交通刑務所に服役の場合も考えられ、私の残された人生が大幅に狂うと妄想を重ねた結果、
やがて免許証の更新時に、自主的に更新を取り止めたのは62歳の時であった。

こうした思惑のひとつには、我が家より路線バスの
バス停まで5分ほど、
通勤先だったひとつの六本木、買物のデパートの新宿など、一時間以内で行けることもあったりした。

結果として、自動車の維持費と利用度を配慮すると、
必要な時にはタクシー、ハイヤーなどを利用の方が安上がりもあったりした。

                 

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
そして小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となっている。

或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
根がケチの為か路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりしている。
              

そして冠婚葬祭、都心に買物、旅行、知人・友人と懇親会などがない限り、
季節のうつろう情景に享受しながら、齢を重ねた私は歩くことは健康の第一歩、
と確信を深めながら歩いたりしてきた。

                 

都心の郊外にある我が家の周辺は、住宅街であり、
私は散策が好きで、遊歩道、公園の帰路に住宅街も歩いている・・。

そして私と同様に高齢者の宅が多く、殆どのお宅で自動車を所有しているのに、
改めて驚かされる。

そして高齢者の私は、何よりの健康の源は、歩くこと、と確信しながら、
散策したりしながら、季節のうつろいを享受している。

しかしながら自動車が所有していない我が家では、困苦した体験がある。

       

確か2014年12月中旬、家内の母を年末年始に迎える為、
家内は2階の洋間で干していた布団を、二階から一階に階段を降りる時、
滑って落ちてしまった・・。

私が気づいた時、何か頭も打ったりし、手首の近く、左足も打ったり、全身が・・
と家内はうつ伏せになりながら、途切れ途切れに、私に言ったりしたので、
『救急車を呼んで、病院に・・』と私は言ったりした。

しかし家内は、安易に救急車を呼ぶことはためらい、
『ネットで『救急車を呼ぶ前に』を調べて下さい』
と私に言ったので、私は検索した。

そして指定された電話番号先に、家内は現状の原因と状況を伝えた結果、
近くの大きな病院を指定されて、9時より診察開始時間に電話連絡した上、
精密検査を受けて下さい、と家内は言われたりした。

そして応急的にお互いに衣服を整えて、自動車がない我が家として、
私は近くのタクシー会社に連絡したが、空車がないと断られしまった・

やむなく路線バスで私たち夫婦は、指定された大きな病院に向かった。

やがて病院に到着すると、電話で指示された救急受付に行き、
まもなく家内は、各箇所の精密検査を受けたりした・・。

こうした苦い体験も私たち夫婦は、秘めているので、
たとえ公共交通の利便性に恵まれても自動車は不要だ、
と公言できないのが私の思いでもある。

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