夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ③ ときには滞在旅行も落胆することも

2010-12-28 16:25:28 | 定年後の思い
          第5章  能登・輪島温泉滞在記【2000.12.29.~2001.1.2.】

2000(平成12)年、私は出向先の勤務に馴染み、
朝の起床は4時45分で少しばかりの遠方の神奈川県・厚木市の郊外にある物流センターに行き、
帰宅は早くても夜の9時過ぎであり、これ以降は定年退職時の2004(平成16)年まで続いた。

この年は、5月の連休も倉庫間の移動で出勤したりして、
この前後の休日も倉庫内部の整備などで休日出勤をすることが多く、
体力のギリギリまで奮闘した年でもあった。
世にいわれる過酷な勤務であったが、私の40歳前後の時にシステムの開発時に比べれば、
出向の身であったので、最終の責任、成果は問われることがなかったので、
こうした面は楽であった。


この間に、長兄の次男の結婚もあり、自宅の庭の大幅な剪定を初めて植木屋さんに依頼して、
定年後に備えて、短くして頂いた。

そして、12月になると家内と年末年始のことで話し合った。
過酷な勤務状況が続いているので、家でのんびりしょうか、と思ったりしたが、
やはりせっかくの休暇なので、前回の山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉の体験もあり、
あとは雪が舞い降る状況であったならば、申し分ない、と私達は思ったりしていたのである。

私は以前から、総合月刊雑誌の『文藝春秋』の中で広告として掲載されている、
石川県・能登半島にある輪島市にある『ホテル高州園』が、
渡り廊下から見える浪の花・・
確かこのような文面に魅せられて、いつの日にか、と夢を膨らませていたのである。
このようなことを家内に話したら、数日後に家内は駅前からJTBとJR『びゅう』のパンフレットを頂いたりした。

私は家内と『ホテル高州園』の掲載されているページを見ながら、
露天風呂があたかも波打ち際にあるような写真の横に、
《 日本海は庭園です。
       一望千里の大海原 》
こうした文面に魅せられて、年末年始の旅行を決めたのである。

仕事納めの翌日の12月29日から4泊5日で予約し、
雪が舞い降る中、風も吹く街並み、郊外を散策して、
海辺で浪の花が観られれば最良だし、そして『ホテル高州園』の露天風呂から日本海を眺めよう、
と私達は大いに期待していたのである。


2000(平成12)年12月29日、私達夫婦は自宅を8時過ぎに出て、
東京駅より上越新幹線の『あさひ』に乗車し、越後湯沢駅で乗り換えて、
在来腺の特急『はくたか』で金沢駅に向った。
越後湯沢の駅の売店で買い求めた駅弁とお茶、地酒を越後湯沢から30分過ぎた頃から、
車窓から雪景色を眺めながら、私は駅弁を食べ、地酒を呑みながら、
やっと旅に来たか、と満足した思いであった。

そして、金沢駅は改築中であり、金沢駅前から能登半島の輪島駅前までの特急バスの乗り場が解かりづらかったが、
何とか見つけ私達はバスに乗った。
車窓から情景は、残り雪がところどころ観られ、ときおり風が強く吹く冬景色であり、
雪景色を期待していた私は失望した。

輪島駅前でバスに下車したのは午後3時半過ぎであり、
暖かい陽射しに少し戸惑いながら、タクシーで『ホテル高州園』に向った。

http://www.koushuen.co.jp/
☆能登半島・輪島市 『ホテル高州園』ホームページ ☆


チェック・イン後、部屋から観た情景は、岸壁に建つホテルに打ち寄せる波、
そして遥か彼方まで観えるおだやかな日本海の波間、
私は荒々しい日本海の冬を想定していたので、戸惑いを重ねたりした。

そして、露天風呂に入ると、日本海の波打ち際をまじかに観る状景から程遠く、
何よりもプラステックの青いトタンが日本海の半分ぐらいを遮(さえぎ)り、
写真と違う、と大いに落胆したのである。

夕食前のひととき、家内と館内を見て廻ったのであるが、
ロビーのはずれ、階段の踊り場などで、テレビ・ドラマの撮影に使用されたらしく、
記念写真が飾られていて、私は嫌な予感をしたのである。
たかがテレビ・ドラマに出演した主役の人たちとホテルの方が記念写真を撮り、
これを売り物のひとつにする程度の低さには、あきれたのである。

こうして私は綴りながら、食事の料理を思い出そうとしたが、何を頂いたか、すっかり忘れているので、
安易な食事だった、と思える。

そして、この『ホテル高州園』が街中に経営している土産屋を私達に盛んに薦めるので、
更に程度の低いホテルに宿泊した、と私達夫婦は失望したのである。

現在はどのように変貌しているか知らないが、あくまでこの当時のことである。



翌日の12月30日、私達夫婦は何かしら街中の観光より、曽々木海岸を散策しょう、
とホテルを10時過ぎに出た。

路線バスの輪島駅前の周辺のスーパーに寄り、
やはり年末なので、店内には御節料理の単品の数々、そしてこの地域の魚介類などが多く並べられて、
この中で食べたい品を昼食の代わりとし、地酒も買い求めたが、
こうしたこの地方独自の食べ物が購入でき、私達は思わず微笑んだりしていた。

路線バスの輪島駅前は、帰省客が圧倒的に多く、この地方の方言が飛び交う中、
私達は曽々木海岸方面のバスに乗った。
風もなく穏やかに晴れ渡たり、左は日本海、右は険しい山里の状景が続き、
そして千枚田の冬枯れの情景を車窓から眺めたりした。


私達夫婦の能登半島の旅に関しては、10年前の頃の2月に、
団体観光ツアーの1泊2日で、小松空港から安宅海岸、兼六園、そして北上して千里浜から能登金剛を観た後、
和倉温泉の観光ホテル『のと楽』に宿泊し、特にこの『のと楽』の大浴場の更衣室までの情景に好感した。
翌日は、金沢市内の郊外にある焼き物センターに寄り、小松空港から帰京した短じかな旅をしたりしていた。

私自身は1961(昭和36)年の秋、学園祭の期間と休日を利用して、
悪友と2人だけで、羽咋駅で下車した後、岬の先端まで西海岸を出来る限り歩こう、
と貧乏旅行の5泊6日をした。

この後の私は、1963(昭和38)年の夏、ワンターフォーゲの夏季合宿の打ち上げを千里浜で行った後、
独りで金沢市内を散策した後、山陰地方を周遊した。


この程度ぐらいの体験であり、私はバスの車窓なら能登半島の北部の情景を眺めたりしていた。

曽々木海岸で下車した後、私達は岩の多い浜辺を散策したりした。
私達は岩に座り、快晴の陽射しの中、蒼い海原の光る海を眺めたり、
私は地酒を呑んだりし、煙草を喫ったりしていた。
家内は煎茶を飲みながら、スーパーで買い求めた和菓子を食べたりしていた。

私は高校二年の時の貧乏旅行をした時の思いで話を家内に語りかけた・・。

悪友と私は、それぞれザックの大きいキスリングを背負いながら、
バス代を倹約する為に、出来る限る歩いたりし、宿だけは民宿に宿泊していた。
そして、ある日、この曽々木海岸で昼食にした。
岩の多い海岸で、飯盒(はんごう)でご飯を炊き終わり、簡素な食事をしょうとしていた時、
大通りに団体観光バスが止まり、数多い観光客の方たちが下車してきて、
海が綺麗ねぇ・・やはり曽々木海岸は名所よ・・
と歓声まじりの声が聴こえてきた。

悪友はサラリーマンの家の坊ちゃまで、
恥ずかしいから、岩陰に退散しょうよ、
と私に云ったが、私は農家の児として育った身なので、無視して悠然と昼食を終えたのである。

まもなく観光客を乗せたバスが立ち去った後、悪友は昼食を食べ始めたのである。

そして私は岩のはずれで海を見ながら、オシッコをしたのであるが、
悪友はカメラを持ち出して、この時の私の状景を撮ったりしていた。
この一葉の写真は、今でも私のアルバムに貼ってある。


このようなことを私は家内に云いながら、談笑したりした。
その後、海岸を北上しながら歩き、景観の良き処で、
スーパーで買い求めた昼食代わりのおつまみの数々を頂いたのである。


私達は3時過ぎに、輪島の市内に戻ったのであるが、
街並みの情景より、私達はバスの車窓から眺めた能登の景観、
曽々木海岸の人気の少ない歩道の方が遥かに魅せられたので、
30分ばかり散策して、ホテルに戻ったのである。


翌日の12月31日の朝、どんよりとした曇り空であり、
街中の朝市まで散策したのである。
昨日の曽々木海岸に行くまで朝の7時半過ぎに、朝市のある路上を見て、
この地の野菜、鮮魚そして干物などの即売を眺めたりしたのである。

鮮魚の販売する高齢の小母さんの前で立ち止まると、
わずかで元気のない鮮魚があった。
『悪天候が続き・・漁にも出られなかったので・・このような肴(さかな)ばかりでして・・』
と小母さんは申し訳なさそうに、このような意味合いの言葉を重ねていたのである。


このようなこともあり朝市を通り過ぎ、大晦日の街中を2時間ばかり散策して、
ホテルに帰館したのである。


2001(平成13)年の元旦は、霧雨の降る朝を迎えた。
私達は、街中にある住吉神社に参拝した後、
雨の降る中、傘を差しながら街の岬の汐見橋まで30分ばかり歩いたり、
帰路は漁労の倉庫街から入り江に近い歩道を歩き、
フィールド・ジャケット、ズボン、軽登山靴は濡れて、ホテルに戻った。

2日の朝、チェック・アウト後、曇り空の中、金沢市内の兼六園でゆっくり散策しょう、
と特急バスで輪島をあとにした。


途中の千里浜を通り過ぎる時、強い風で樹木が傾きかかったり、
金沢市内の住宅地を通過する時は、風もなく、穏やかな陽射しの中をバスは走破した。

そして、兼六園を散策していると、雨が降り出してきて、
やむえず園内の簡素な食事処で雨やどりをしたのである。
ときおり風が吹き、雨を眺め、止む得ず私は地酒を注文し、おでんを食べながら、呑んだりしたのであった。
家内は煎茶と和菓子を食べたりした。

この後、駅前に近い全日空のホテルの喫茶店で、
私達はコーヒーを呑み、家内はケーキを頂き、私は煙草を喫ったりして、
今回の年末・年始の旅行は失敗だった、と私は家内に云ったりした。
何よりも悪かったのは、『ホテル高州園』の露天風呂の看板に偽りあり、
そして館内の状景であった。

帰宅後、一週間過ぎた頃、兼六園は20センチばかりの雪景色、
と報じられて折、私は普段の行いが悪かったのかしら、と微苦笑したのである。

                        《つづく》

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