夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『結婚記念日』、私たち夫婦は年月を重ねると変貌して、私は微苦笑して・・。

2018-03-31 15:28:59 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、たまたま昨日、私たち夫婦の結婚記念日であった。

いつものように平素と変わらず私たちは過ごし、夕食を頂いたりした。
そして私は五日毎に濃いウィスキーの水割りを呑むので、
家内は『菜の花のからしあえ』を特例として加わっただけである。

こうした中、いつものように談笑する中、
『僕たちの結婚記念日も・・変ったよねぇ・・』
と私は家内に微笑みながら話したりした。

『そうよねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら私に言ったりした。

          

私たち夫婦は1976年〈昭和51年〉3月30日に、都心にある学士会館で結婚式、そして披露宴を終えた後、
最寄りにあるニューオータニに宿泊した。

翌年の初めて『結婚記念日』は、私はサラリーマンの多忙時であったが、
この世はロマンも大切だと私は思い深めて、
その週の土、日曜日を活用して、結婚当日の夜に宿泊したニューオータニに1泊2日で滞在した。

当日の夕食の時、家内は水色のロングドレスを着て、私も少し高価なブレザーを着たりしていたので、
ボーイさんから結婚披露宴後の新郎新婦と間違われて、私たちは微苦笑したりした。
そして私は背伸びして、私たちは高級ワインを呑みながら、フランス料理を頂いたりした。

翌日は庭園を散策したり、茶屋風で和菓子を頂き、濃茶などを呑んだり、
至福のひとときを過ごして帰宅した。

                      

翌年になると、幾たびか婚約期間にデートした時のひとつ銀座の食事処で、
夕食を頂き、記念日をお互いに祝ったした。

3年目になると、賃貸マンションから一戸建ちの引越し前後で、慌しい中、
披露宴でキャンドル・サービスの際、大きなキャンドル(蝋燭)を頂き、
これを新居の居間にある食卓テーブルで灯(とも)したりした・・。

この大きなキャンドルは、どうした訳か解からないが、25年まで目盛りが付いていた。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったが、数多くの夫婦は25年過ぎれば、子供達が成人し、
やがて次世代となるからだろう、と漠然としながら私は感じたりした。

私たち夫婦は確か10年目の頃までは、記念日の夕食の時は、キャンドルを灯して、
家内が改まった容姿で、私たちは居間で食事を頂いたりした。
そして互いにプレゼントの品を渡しあっていた・・。

その後は、私たち夫婦は共通の趣味のひとつは国内旅行であり、
私のサラリーマンの職務として、3月決算月は更に多忙期となったので、
2月に2泊3日で各地を訪ねて、記念旅行に変貌した。

          

2004(平成16)年の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活となった私たち夫婦は、
家内からは旅行の宿泊数が多いのが良いわ、との要望で、
この記念日前後は、5泊6日前後の旅行となってきている。

我が家の私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなり、遠い地に独り戸建に住んでいる。

ここ4年、家内は家内の妹と交互に、介護に泊りがけで行く日もある。
こうした時は、我が家は私が『おひとりさま』となっている。

そして結婚記念日の日も、ここ4年の中、私は我が家で『おひとりさま』で迎えた年も、
2回ばかりあったりしてきたが、こればかりはやむえないよねぇ、独り苦笑したりしてきた。

このように私たち夫婦は、年月を重ねると変貌して、私は微苦笑したりしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結婚記念日、恥ずかしながら私たち夫婦は42年目を迎えて、やがて私は微笑みを重ねて・・。【下】

2018-03-30 15:06:30 | ささやかな古稀からの思い

私の定年退職後、年金生活を始め、私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
          
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は、数多くの人たちと同様に多忙であった。

そして家内は専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などの時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と思い深めたりした。

そして昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

こうした中、家内は専業主婦の延長戦のように朝夕の料理、そして掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして少なくとも家内は専業主婦の延長戦のように料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事をしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

       

日常の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
       

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

こうした中、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら実際は日常生活の中で、家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

       

人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、

血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。

       

こうした中、ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、家内の妹と交代で、
看病で宿泊することもあり、
私は我が家で独りぼっちの『おひとりさま』の生活になることもある。

こうした時、いつの日にか、まさかの出来事で家内が私を残して、
あの世に旅立つことも考えられるので、特別演習だよねぇ、と私は叱咤激励をして過ごしたりしている。

私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。

このような私たち夫婦でも、いつの日にか、命果てるまでの残された歳月は、
何か地プラス思考の私でも、自助努力も大切であるが、こうしたことは神様が仏様の采配に寄ると思われ、

この先いつまでも慎(つつ)ましながら、生活ができますように、と念願する時もある・・。

       

私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。

私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、
いつの日にかは、無念ながらどちらかが片割れになる・・このような思いを重ねたりして、歩く時もある。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結婚記念日、恥ずかしながら私たち夫婦は42年目を迎えて、やがて私は微笑みを重ねて・・。【上】

2018-03-30 14:19:05 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
今朝、2階の寝室でまどろみながら目覚め、横に寝ているはずの家内は布団だけとなっていた。

そしてぼんやりと時計を見たら6時半となり、昨夜は深夜まで本を読んでいたので寝坊してしまった、
と起きだして、1階の居間に階段を降りだした。

そして家内は、何かしら洗濯の合間に、
居間の食卓テーブルで、コーヒーを飲みながらNHKのテレビ・ニュースを視聴していた。

私は洗面した後、家内の前に行き、そして少し襟を正して、
『本日は、僕たち42年目の結婚記念日・・
おかげさまをもちまして、楽しく迎えることできまして・・今後もよろしくねぇ・・』
と私は明るく大きな声で家内に言ったりした。

家内は私から突然に言われて戸惑いながら、
『あらぁ・・私たちの結婚して42年目なるの・・』
と家内は呟(つぶや)くように私に言いながら、微苦笑したりした・・。

私は小学生の頃から算数、やがて数学には劣等生で、未(いま)だに苦手であるが、
何故かしら歴史、文化などには興味があり、我が家のささやかな出来事の日々も覚えている変わった男である。

世の中の多くは、妻の方が結婚生活の中での大波小波の出来事は的確に覚えて、
夫の方はかすかに覚えてたり、或いは忘れてしまった、と友人とか知人に私は聞いたりすると、
我が家の夫婦はまったく反対だよ、と私は苦笑する時もある。

       
              
私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。

私のすぐ下の妹は1969年(昭和44年)の秋に嫁ぐこととなり、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の結婚新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。

こうした中、私は義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
休日の余暇のひとときは10畳の書斎の中で過ごすことが多く、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

そして私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
私は特に森鴎外(もり・おうがい)を敬愛していますが、やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、
と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年(昭和50年)の秋であり、私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。
       

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、
ボタンの掛け違いのような行き違いが発生して、両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。

そして何とか1976年(昭和51年)3月30日に、学士会館で結婚式、そして披露宴を終えたが、
この間の結婚式で、私は不馴れな羽織(はおり)、袴(はかま)、そして扇子を持ち、
控室から指定された結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と私は改めて思いながら緊張を増したりした。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。

                

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、千葉県の市川市の片隅にある国府台で、
2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも家賃を支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したりした。

やがて結果として、私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの新婚生活の合間でも、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は孤軍奮戦しても、家計は赤字が多く、私は困苦したりした。

やがて突然に、家内はデパートの和服売り場で契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。

               

この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。
こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。


やがて私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。

       

そして50代になると、1998年(平成10年)に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
社員を自主退職させる希望退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、同じように実施された。
         
やがて私も1999年(平成11年)の新春、あえなく出向となった。          

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

出向先は少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられて、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

こうした中でセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

やがて出向先も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年(平成16年)の秋に何とか定年退職を迎えることができた。

       

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、年金生活を始めた・・。

        


この間、私が出向する時、私たち夫婦は遅ればせながら第二の人生について、話し合ったした。
具体的には、どのような生活をしたいか、幾たびか思案したりした。

やがて年金を受け取り、お互いの趣味を尊重してささやかに生活して、
ときたま国内旅行ができれば・・と漠然としながら私たち夫婦の結論であった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

そして
デフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。


このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの御方には、遥かに遠い存在である。

                 

このような私たち夫婦の結婚生活の日常を、くまなく見ていたのは、
居間の片隅に置いてある《ぬいぐるみ》の洗いガエルである。
          
                   
この《洗いガエル》は、私たちが新婚の生活を始める準備をしていた時、
電気洗濯機を買い求めに、最寄りの家電量販店に行き、
たまたま家内があるメーカーの気に入った洗濯機の内部に、
宣伝キャラクター商品として添付されていた《ぬいぐるみ》であった。

この《洗いガエル》は、少し凹(へこ)んだりしているのは、
家内が日中のひととき、昼寝をした時に枕の代わりにして、少し歪(ゆが)んでしまったり、
少し汚れているのは私たち夫婦の40数年を見続けてくれた結果である。

そして少し疲れた為か、へたばりながら、我が家の守り神となっている。
                                 《つづく》

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100円ショップ 最大手ダイソーの強みとセリア、キャンドゥの特色、73歳の男性の私でも学び、やがて微笑みを重ねて・・。

2018-03-29 15:23:23 | ささやかな古稀からの思い
私は100円均一ショップで買い求めた品、日頃愛用している。

過ぎし私が年金生活を始めた当時の2004年(平成16年)の秋、100円均一ショップは風の噂で知っていたが、

店頭販売価格は100円で買い求めることができる品は、
製造元の原価を推定すると、たいした物はないだろう、と思ったりしていた。

やがて多彩な数多く品を知り、よくぞ製造元の方達は、創意工夫、企業努力で開発されて、
そして100円均一ショップに納品しているなぁ、と私は驚いたりしてきた・・。

我が家は100円ショップで購入してきた品は、収納用品(ケース・ボックス)として小物トレーなど、
収納用品としてはポリ袋、ハンガー、S字のフックなど、生活雑貨としては家具脚カバー、家具脚滑り止めなど、
キッチン収納としては吸盤小物ホルダー、マグネットスポンジホルダーなど、
或いは掃除用品としては洗濯ばさみ、ほうき(ミニ)などを家内は買い求めてきた。

私は100円ショップを知って、まもなくクリアケースとクリアファイルがあることを知り、
廉(やす)くて驚きながら、書類整理に積極的に買い求めたりしている。

そして数年過ぎた頃、文房具屋さんで少し高価なカレンダーを長年購入してきたが、
100円ショップでメモ書き欄のあるカレンダーを見つけて、これ以来、私は毎年買い求めている。

或いは私は旅行などをする時、表紙が堅牢なA4サイズのノートを文房具屋さんより買い求めて持参してきたが、
100円ショップでA4サイズのレポート用紙を見つけて、
これ以来、A4サイズのクリアファイルの中に、レポート用紙を入れて活用している。

このように私たち夫婦が買物に行ったりすると、家内は殆ど100円ショップに立ち寄ったりして、
早や13年半が過ぎている。

             

先程、ときおり愛読しているネットの【マネーポストWEB】の中にある『暮らしのマネー』を見ている中で、
【 100円ショップ 最大手ダイソーの強みとセリア、キャンドゥの特色
 】と題された見出しを見たりした・・。

私は家内のホディガード兼お供で、ときおり駅前に買物に行くが、
こうした時、家内は殆ど100円ショップに立ち寄ってきたので、
73歳の男性の私でも、知的好奇心に負けてしまい、精読してしまった。

この記事の原文は、『女性セブン』の2018年3月29日・4月5日号に掲載された記事のひとつであり、
関連ネットの『マネーポストWEB』で2018年3月24日に配信されていたが、
無断であるが転載させて頂く。

        

《・・100円ショップ 最大手ダイソーの強みとセリア、キャンドゥの特色

小売業界の苦戦が伝えられる中、売り上げを大きく伸ばし、
いまや“勝ち組産業”となった100円ショップ。

その中でも業界トップを走るダイソーの売り上げは、
ここ16年間で2020億円から4200億円と倍以上にアップしている。

ダイソーの成長のカギとなったのは、消費者の「目利き力」にいち早く気づいたことだろう。
創業当初、店を訪れて商品を見て回った主婦が発した言葉に、矢野博丈会長(74歳)は大きな衝撃を受けた。
「ここで、こんなものを買っても『安もの買いの銭失い』だよ。もう帰ろう」

長年にわたって矢野会長を取材し、
『百円の男 ダイソー矢野博丈』(さくら舎)を著した作家の大下英治さんが言う。

「主婦の言葉に、いったんは深く落ち込んだ矢野会長でしたが、
すぐに『ちくしょう、どうせ儲からんのだし、いいもん売ってやる!』と発奮し、
利益を度外視して、高品質の商品を売り始めました。

消費者は、“悪かろう安かろう”をちゃんと見抜くのだと身をもって知ったのです。
ときには商品の原価が98円ということもありました」

1つの商品につき、利益が2円では、普通ならば到底商売としては成り立たない。
それでも矢野会長は、「1円の利益でも1000万個売れば、1000万円の利益になる」
と従業員に発破をかけ、いくら原価が高かろうが、100円で売り続けた。

「矢野会長は、口癖のように“わしは100円の高級品を売っている”と言っていた。
それだけ、1つ1つの商品に心血を注いだのです」(大下さん)

        

その一方で矢野会長は「わしはしゃべりがうまくないから、
とにかく商品をたくさん並べて、商品にしゃべってもらう」とも語っており、
多数のラインナップを取りそろえることにも、尽力していたのだ。

実際、今の「ダイソー」では7万点もの商品数を取り扱っているうえ、
毎月700種類の新商品を開発している。

同社広報担当が言う。
「文具、化粧品、キッチン用品など担当に分かれたバイヤー30人が、
世界45か国、1400社のメーカーと組んで、数多の新商品を世に出しています。

商品の品揃えは大事ですが、何より重視するのは品質。
会長は“世界でいちばん厳しいお客様は、日本人だ”と言いますが、
粗悪品は二度と買ってもらえない。

何度も打ち合わせや試作を重ね、1つ1つの商品に妥協せず、
数か月かけて、お客様に喜んでいただける商品を企画開発します」

        

☆ダイソーを追うセリア、キャンドゥの商品作り

「ダイソー」のぬきんでた商品数と販売力。
それに対抗するため、他社は“ダイソーにはないものを”を合い言葉に、商品作りをしている。

家事アドバイザーの矢野きくのさんが解説する。
「業界2位の『セリア』は、ディズニーなどキャラクターグッズやコスメなど女性向け商品に力を入れていて、
ファッション誌のコスメ特集にもたびたび登場します。

とくにネイル(手足の爪に施す化粧)は、コスメ比較の大手サイト『@コスメ』でも『発色がいい』、
『仕上がりはネイルサロン級』と絶賛されるほどのクオリティーです」

        

業界3位の「キャンドゥ」は、奇をてらわないスタンダードな商品展開が魅力。

経済アナリストの森永卓郎さんが語る。
「収納グッズや容器など、余計な飾りがついていないので、買いやすい。
また、にぎやかで点数が多い半面、どこに何があるかわかりづらい『ダイソー』に比べて、
商品の配置がわかりやすくコンパクトです」

各店の特徴をとらえ、賢く使い分ける消費者も多い。

「ダイソーでは定規や文房具を買って、コスメはセリア一択です」(40代主婦)
「お菓子と飲み物は種類が豊富なキャンドゥで購入し、収納ボックスはデザインのいい セリアです」(20代OL)

各社の熾烈な競争によって生み出された“100円の高級品”によって、
私たちの生活は豊かになっているのだ。・・》

注)記事の原文をあえて改行を多くした。

        

私は記事を読み終わった後、世界広しといえども100円ショップを創業された御方は、
ダイソーの矢野博丈さん、と初めて学んだ。

そして“世界でいちばん厳しいお客様は、日本人だ”と明確に分析されて、
商品の品揃えは大事ですが、何より重視するのは品質・・こうした企業哲学に基づき、
殆どの国民に愛用されてきた、と私は学んだりした。

ここ10数年、100円ショップは世界の主要国に出店され、
各国の御方にも、驚きながらも愛用している御方も多いと知り、
私は日本の文化品のひとつ、と讃えながら、微笑んだりしている。

人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

らくらくスマートフォン、時代遅れの私たち夫婦は思案を重ね、やがて私は戸惑いながら微苦笑して・・。

2018-03-28 14:14:43 | ささやかな古稀からの思い

昨日、【らくらくスマートフォン】と大きく明示されたバンフレットが、
我が家の郵送受け入れ箱に入っていたのを、私は気づき、
やがて居間に戻り、見たりした・・。

表紙には女優の大竹しのぶさんが微笑む表情で、
《・・この春、はじめてのスマホは、
      はじめやすさで選びましょう。》と記載されていた。

そして下段の右下には、【らくらくスマートフォン me】と明記されていた。
         

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、我が家はインターネットに関して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
私は据え置き型のパソコンを利用している。

そして私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
ましてスマホと省略されているスマートフォンも使えなく、
家内だけは、遅ればせながら一昨年の春以来、携帯電話を買い求めて利用している。

私はフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                      

私はNTTの『docomo(ドコモ)
』から郵送された『らくらくスマートフォン me』のパンフレットを見て、
多々驚いたりした・・。
https://www.nttdocomo.co.jp/product/easy_phone/f03k/
☆NTTの『docomo(ドコモ)』公式サイト===>『らくらくスマートフォン me』

私の知人が所有しているスマホより画面が大きく、
高齢者には助かるよなぁ、と感じたりした。

そして音声入力もできて、これだったらネットで検索も簡単にでき、
家内はパソコンのキーボードで入力するのも苦手意識があり、
音声入力を頼りにできるよなぁ・・と私は微笑んだりした。

この後、カメラの機能を見たりすると、約1310万画素と知り、
これだったら綺麗に撮れるよなぁ、と私は驚いたりした。

私が愛用しているデジカメは約1850万画素であり、
ここ5年ぐらいがスマホのカメラの機能が飛躍的に向上して、
コンパクト・デジカメの市場が脅かされていると私は学んできたので、
驚きを重ねたりした・・。
         
我が家の私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなり、遠い地に独り戸建に住んでいる。
こうした中、家内は家内の妹と交互に、介護に泊りがけで行く日もある。
そして家内が我が家にいる時は、家内の母の安否の連絡をしている。

このように何かと家内は、携帯電話は『かけ放題』プランを活用している。

しかしながら、これから私たち夫婦は、齢を重ねるたびに物覚えは悪くなるので、
早めにスマホを覚える必要があることは、漠然としながらも私でも自覚している。

幸いに『らくらくスマートフォン me』は、たくさん通話する方に向けて、
『カケホーダイ』プランもあり、家内にピッタリだ、と私は微笑んだりした。

そしてスマホ本体を購入した後、回線使用料も、
家内が現在使用している携帯電話は『かけ放題』プランと、ほぼ同じ費用となるので、
私は家内に積極的に進めたりした。
         

この後、《ご夫婦で使う場合》のプランを見たりした後、私は苦笑したりした。

私は知人、友人とは我が家の固定電話、
或いはパソコンの電子メールで交信し、不自由を感じたことはなく、過ごしている。

日頃の私は、新聞、雑誌を読んだり、テレビの番組を視聴したり、
その上にネットで多彩な情報は、固定のパソコンで充分であり、情報であふれて、
選定に困苦するくらいである。

こうした中で、私たち夫婦には子供に恵まれなかったので、息子、娘もいなく、
もとより孫もいない身であり、一族の頻繁で、緊急性のある連絡事項は少ないのが実態であり、
このように必要に迫られることなく、結果的には情報機器に時代遅れとなっている。

このような事情で、私は携帯電話、そしてスマホも、覚えようとする努力もなく、
今日に至っている。

たとえ私はスマホを持ったとしても、
私たち夫婦が国内旅行の旅先で、私たち夫婦一族のどなたかの危篤、死去を知ることぐらいであり、
こうした時は、家内のスマホで代用できるし、やはり私はスマホは不要だ、と苦笑したりした。
         

ここ数年、スマホは殆どの多くの国民が所有して、
昨今は買物先でも、スマホで精算さえ一部で実施されている。

そして私の苦手な中国の約13億人の殆どの国民は、現金で買物するのは稀で、スマホで精算している、
と私は学び驚嘆してきた・・。

やがて日本も、企業は消費者の実態分析、予測などのデータ活用で、
私たち消費者は、買物先でスマホしか精算できない時代が、到来するかしら・・・
と私は危惧しながら思案したりした。

しかしながら、日本は現金で支払う文化が根付いているので、
私がいつの日にか、あの世に行くまで、買物難民にならないよなぁ・・と苦笑したりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活の家計のコツ、年金生活73歳の私は改めて学び、やがて微苦笑を重ねて・・。

2018-03-27 14:50:45 | ささやかな古稀からの思い

《・・安心して暮らすために、定年までの蓄えはいくら必要? 
この永遠の問いには、3000万円説、5000万円説、1億円説など諸説ある。
いずれにせよ、多額の貯金が必要なのは確からしい。

そんな中、「60歳で貯金150万円でも大丈夫だった」
と教えてくれたのが現在65歳、経済コラムニストの大江英樹さん。

貯金3000万円以下でも、破産しない老後設計のコツを教えてもらった。

        

☆未知の老後を「見える化」しよう!

まずは65歳で3000万円必要という根拠から。

総務省の調べによれば、高齢・無職夫婦2人の生活で必要なのは、月約27万円。
しかし、夫婦でもらえる公的年金の平均額は、月約19万円。
月約8万円の赤字は、年間で約96万円に。

95歳まで、あと30年生きるとすると、約2880万円不足するので、
その不足分として約3000万円が必要とされているのだ。
ただしこれは、生活レベルによる。

大江さんはこう語る。
「講演会などでは、老後までに3000万円も貯められない、と不安がる参加者がほとんど。
でもそれは、具体的に退職金や年金がいくらもらえて(収入)、
老後どのくらいのお金が必要か(支出)、知らないからなんです」


大江さんは、証券会社に定年まで勤め、60歳で退職した。

しかし、父親が商売に失敗し、その借金を肩代わりしたり、
娘2人を海外に留学させたことなどにより、持ち家があるとはいうものの、
定年時の貯金は150万円しかなかったという。

不安だった大江さんは、2つの疑問に対し、次の【1】【2】の具体的な数字を出そうと決めた。

【1】老後の収入
【2】老後の支出

【1】の老後の収入は、主に退職金と公的年金だ。
退職金がいくらかは会社に聞けばわかるが、
公的年金は、毎年誕生月に送られてくる「ねんきん定期便」を見ればわかる。

ただし見方に注意が必要とは、定年した夫と暮らす社会保険労務士の井戸美枝さんだ。
「年金からは、所得税や住民税が天引きされるし、社会保険料の支払いは、老後も続きます。
ですから、手元に残るのは、金額によりますが、ねんきん定期便に書かれた額より1割減くらいと考えましょう」

        

☆家計を縮小。それでも足りなければ働こう!

固定収入を把握した大江さんが次に取り掛かったのは、【2】の支出(生活費)の“見える化”だという。

「定年前の2年間と定年後1年間だけ、家計簿をつけたんです。
これにより、定年前後で、洋服代・食費、趣味・交際費の3つが激減したことがわかりました。
さらに、携帯代金を夫婦で見直して約半額にし、生活費を約4割削減しました」(大江さん)

大江さんが生活費を34万3561円から22万1417円まで月12万円も減らせたのは、
何にどれくらいかかっているかわかったことで無駄が見え、対策が立てやすかったからだという。

「会社をやめて、ゴルフに行かなくなったので、軽自動車に買い替え、
仕事絡みの年賀状も、スーツ代も不要に。
生命保険をやめたのも、家計的には大きかったですね」(大江さん)

一方、井戸さんも、ご主人が定年したのを機に家計を見直し、生活費を約3万円減らしたという。
「夫が定年後は、家にいる時間が増えたため、食費・光熱費が増えましたが、
雑費や小遣い、服代・クリーニング代は大幅削減。
生活費は月18万円程度あれば足りるようになりました」(井戸さん)

公的年金が夫婦で約19万円とするなら、
大江さんのように約22万の生活費だと月約3万円の赤字に。

これなら、95歳までの30年間に必要な補填額は、1080万円になる。
収入と支出を明らかにするだけで、3000万円もいらないことがわかるのだ。


        

そして、定年時150万円でも、大江さんがやっていけたもう1つの理由は、
定年後も働き続けたからだ。

「30年もある長い“老後”に、趣味だけやっていても、つまらない。
体が動くうちは働こうと思い、再雇用で半年働いた後に独立し、
今の経済コラムニストという仕事を始めました」(大江さん)

働いてみてわかったのは、働いているうちは常に現役、老後じゃなくなるということ。
夫婦で月8万~9万円働けば、冒頭で紹介した家計の平均的な不足分を補える計算になる。

「ファストフードやシルバー人材センターなど、60歳過ぎても、探せば雇用はあります。
なければ私のように、好きな仕事を始めるのも手。

ただし、“大企業で働いてきたから、こんな仕事できない”などの
くだらないプライドを捨てることが、老後の仕事選びには大切ですね」(大江さん)・・》

注)記事の原文をあえて改行を多くした。

        

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                                    
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりした。

やがて警備員などの契約社員をしながら文学青年の真似事をして、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

        
                                             
そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
やがて私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

        
     

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、年金生活を始めた・・。
        

この間、私が出向する時、私たち夫婦は遅ればせながら第二の人生について、話し合ったした。
具体的には、どのような生活をしたいか、幾たびか思案したりした。

やがて年金を受け取り、お互いの趣味を尊重してささやかに生活して、
ときたま国内旅行ができれば・・と漠然としながら私たち夫婦の結論であった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

そして
デフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。


このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの御方には、遥かに遠い存在である。

        

私は年金生活を始めて当初から、平素の買物に関して、家内から依頼された品を求めて、
自動車も所有できない我が家は、私は独りで歩いて
最寄のスーパーか、ときには駅前のスーパー、専門店に行ったりしている買物メール老ボーイの身である。

そして帰宅後、買物の責務を終えた後は、
やはり独りで自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩いたりし、
このようなことが午前中、ほぼ毎日のように過ごしている。

午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
            
こうした中、家内は相変わらず専業主婦の延長戦のように料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

      

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、或いは私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ丸13年半ばかり過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している。

もとより社会の少子高齢化の中で、公的年金は目減りは減少してきたので、
私たち夫婦はお互い趣味の費用を捻出する為に、収支の実態をお互いに確認し、
ささやかに生活を過ごしたく、家計簿の月次決算をしている。

                                

保険関係に関しては、年金生活を始めてまもなくすべて見直して、
現役サラリーマン時代より、生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。

やがて2011年(平成23年)10月初旬、遅ればせながら『高額医療費制度』を学んだりした。
そして程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。


我が家は、30年前、そして20年前にリフォームをした後、
私が定年退職する数年前、雨戸、外壁、垣根、門扉など最小限にリフォームをしたりした。

そして昨今、古惚けてしまった家に住んでいるが、少しペンキが剥がれかかった窓枠などを見たりして、
たとえ家を建て直すと、少なくとも数千万円を要し、老後資金が乏しくなり、
訪れたい国内の各地にも旅行費の捻出に、困苦すると思われるので、やむなく私は微苦笑したりしている。

      
       
こうした中、ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、家内の妹と交代で、看病で宿泊することも多くなっていて、
私は我が家で『おひとりさま』の生活になるが、
こうした時でも、殆ど変わらなく過ごしたりしている。

このように、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても、何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりする。

『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。

今回、記事を読み終わった私は、それぞれの年金生活の御家庭は、十人十色のように、
それぞれの第二の人生の願いに基(もとづ)き、家計が許される範囲で、すこやかに生活されている、
と拙(つたな)い人生航路を歩んできた私でも、学びながら微苦笑を重ねたりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜花、殆どの御方は長らく住まわれた地域こそが、いとしき桜花、と私は確信を深めて・・。

2018-03-26 15:15:50 | ささやかな古稀からの思い

私は年金生活の73歳の身であり、都心の郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
雑木の多い小庭の中で古ぼけた一軒屋に住み、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭となっている。

そして私の生家は近くにあり、私は結婚前後5年を除き、68年ばかりこの地域に住んでいる。

こうした中で、桜花に関しては、平年は3月下旬から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、平年の習わしとなってきた。

そして今年は、二月下旬から早咲きの河津桜を観たりしてきたが、
3月下旬のここ数日は染井吉野(ソメイヨシノ)、山桜(ヤマザクラ)に見惚れて散策してきた。

           

過ぎし私が現役サラリーマンの40代の頃、若き時期に映画、そして文学青年の真似事をして敗退した私は、
情念の残り火りのように西行、鴨長明、芭蕉が遺(の)こされた作品に思いを寄せることが多かった。

もとより西行(さいぎょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人であり、
  ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 『山家集』もある。

そして鴨 長明(かもの・ ちょうめい)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
『方丈記』が代表作となっている。

松尾 芭蕉(まつお ・ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師。
数多い中で私は、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、一句に圧倒的に魅せられてきた。

こうした時、私は家内を誘い、吉野山の桜を愛(め)でる旅路をしたりしてきた。

          

そして私たち夫婦は国内旅行も共通趣味のひとつで、日本の各地の桜花を観たりしてきた。

こうした中のひとつとして、私は2004年(平成16年)の秋に定年退職して
多々の理由で年金生活を始めた翌年の春に、
南東北地方の桜の名所をバスでめぐる観光団体ツアーに私たち夫婦は参加した。

私のノートに記載されたメモを見ると、
2005年(平成17年)の4月18日から1泊2日の短かき旅路であった。

樹齢1000年以上で日本一の紅枝垂桜(べにしだれざくら)と知られている『三春』の滝桜、
蔵王連峰を背に7キロ前後に1000本の咲く『白石』の一目千本桜、
最上川の置賜地域のさくら回廊として名高い『最上川』千本桜、
樹齢1200年でエドヒガンザクラと有名な『長井』の久保桜、
1000本前後の桜が咲き誇る会津の名所の『鶴ヶ城公園』、
1200本の桜が咲く福島の名所である『開成山公園』、
このような6ヶ所の桜めぐる旅てあった。

私は旅行をした後には、その時に感じたことを記載する旅ノートがあり、
この旅路には下記のように記していた。

          

私達夫婦は東北地方の南部地方に、桜の季節を訪ねるのは初めてであったので、
未知の世界でもあった。
    
郡山の近郊にある《三春の滝桜》は、一分咲きだった。

紅枝垂桜(べにしだれざくら)で樹齢千年以上いわれる大木で、
枝は支柱で支えら、里の中の斜面に忽然とあった。

見事な大木であったが、支柱に支えられるのを視ると、何かしら痛ましいような感情をよぎった。

この桜の周辺は、樹齢50年以上の桜が30数本あり、やはり一分咲きであったが、
清々しく、東北の遅い春を現(あらわ)していた。
肌寒かったが、観光客で賑わっていた。

その後、白石市のはずれにある白石川の川堤で、数多くの染井吉野が七分咲きを見せていた。
観光客は少なく、市民の人たちで賑わっていた。

この川べりに7キロ近くわたって千本の白っぽくたわわな桜並木が続いている、
と市民の方から教えて頂く。
こうした情景を観ると、地元にお住まいの市民の方たちの春の訪れを楽しまれていることに、
素朴な喜びを頂いた・・。

この地を後にして、宿泊処は蔵王温泉より高台にある蔵王中央高原にある『国際蔵王高原ホテル』に行くため、
スカイケーブルを乗り継いだ後、根雪が2メートル以上残っているので、雪上車に乗った。

落葉したブナ林の中に、ホテルがあり、その周辺にドッコ沼があった。
浴室から、ブナの樹木を通し、ドッコ沼が見え、根雪が沼に押し寄せていた。
雪解けのひとつの情景である。
   
早朝、部屋からドッコ沼を眺めた・・。
弱い朝陽がブナの樹木を照らし、樹元の根雪は幾分薄く、少し離れた根雪は相変わらず厚く、
沼岸に押し寄せている。

沼の水面は、陽差しを受けて早春の漂いを見せていた・・。

ホテルをチェックアウト後、
スカイケーブルで下山する途中、蔵王温泉の街並みが快晴の陽だまりの中、浮いているようだった。

バスの車窓からは、山形盆地の街並みが一望でき、ここからの景観は何回見ても飽きない光景である。

盆地特有の山並みから緩やかな斜線の中での雑木林が観られ、
その山里には、切り開かれた畑があり、点在した人家が見られた。
盆地の底は、人家の多い街並みがあった。

最上川に面した白鷹町の付近にある河川岸にある千本桜は、固いの蕾(つぼみ)であった・・。
川の流れは急速で、ゆたかな清冷な流れでを見せてくれた。
やはりこの地は、東京の郊外より、暦(こよみ)を一ヶ月もどしたような遠方な地であった。

長井市にある久保桜を観に行くため下車し、歩き始めた時、田畑の道あぜの付近には、
土筆(つくし)、蓬(よもぎ)が見られた。
素朴な情景であったが、この後の江戸彼岸桜はどうでも良い、と思えた。

里の春の訪れを確かに受容できたので、私は満足し、心が豊かになったことを自覚した。

           

久保桜は、一分咲きで樹齢千二百年の風格があったが、
先ほど見た土筆(つくし)、蓬(よもぎ)の方に、私は魅了された。

観光客は多く、地元の方が、この地で採れた蒟蒻(こんにゃく)を串刺しで、
烏賊(イカ)で味付けをしたのが、
家内はイカ味を工夫してあって美味しい、と言った。

私は地酒の試飲をした後、純米酒は美味しく感じられず、やむなく原酒を買い求めた。

会津若松の鶴ヶ城公園の桜も、一分咲きであった。

その後、郡山の開成山公園に行き、満開の桜に出会ったのである。

桜はもとより、白木蓮、日陰の付近に辛夷(こぶし)咲き誇っており、
周辺一帯を白い花で染められていた・・。

旅の終わりに、たわわに咲く満開の桜の樹の下で、家内と言葉を交わした。

『色々と観て廻ってきたが・・ここで春一色とは・・予想もしなかったょ・・』
と私は家内に言葉をかけたりした。


このようなことを拙(つたな)いメモ書きで綴っていた。

          

私は読み返したり、幾たびの旅路を思い馳せたりした後、
漠然としながらも、やはり長年にお住まいしている地域で桜花を愛(め)でるのが最良、
と確信を深めたりした。

もとよりその地にお住まいの御方が、寒い長きの冬の時節を過ごされて、
梅の咲く時節には春がまもなく到来すると感じ、やがて桃の花を眺めて、
そして桜の花が咲き、春爛漫の時節を家族、知人ともに悦ぶ合う季節である。

          
            
このようなことを感じたら、私の場合は近くに流れる野川の桜並木、
そして上流に向かい45分ばかり歩いた先の私が通学した中学校の近くの都立・神代植物園、
過ぎ去る日々の時代の愛惜感も重ねながら、地元の桜が圧倒的に愛(いと)おしいのである。

桜花の三分咲き、やがて満開となり、その後は周辺にも花びらが散乱して、
絨毯のように花びらが重なったりする・・。

こうした中、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり音もなく、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下していた。

古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

そして川は、桜花が重なっていて、水面にゆったりと流れ、花筏(はないかだ)のように情景となっていた。
           
桜花は美麗な情景を見せてくれたた後、はかなくも終わりを告げると、
葉桜の時節となり、その後の夏にたわわな葉が熱い陽射しを遮(さえぎ)り、
そして秋には朱紅色、或いは黄色などに染められ、多彩な色合いを見せてくれた後、落葉する。
やがて冬木立となり、冬の陽射しをあびたりしている。

          
こうした思いを重ねると、殆どの御方は、長らく住まわれた地域は、
めぐる季節と共に桜を眺めてきたし、それぞれの過ごしてきた出来事の数多くの思いもあり、
愛惜も加味され、その御方ご自身の心も深め、いとしき桜花の情景、と私は感じ深めている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

財務省の安倍昭恵夫人への忖度は、消費税率10%への引き上げのためか?、無力な私は学び、やがて驚嘆させられて・・。

2018-03-25 14:39:47 | ささやかな古稀からの思い

昨夜、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.】を見ている中、
【 昭恵夫人への忖度は消費税のため? 財務省は政権の“自然死”待ち… 】と見出しを見てしまった。

私は政治にも疎(うと)い年金生活の無力な73歳の身であるが、
昨今、社会はもとより政界の政局まで混迷させている森友学園問題などは、
園児でもわかる問題だょ・・と昨年の今頃に思い深めて、憂いたりしてきた・・。

こうした思いは、このサイトに於いて、私は昨年の2017年3月26日に投稿した。
森友学園問題、園児でも解るようなことで、マスコミ界は『大人のおもちゃ』にしたことも罪は深い。

このような心情を発露してきた私は、
今回の【 昭恵夫人への忖度は消費税のため? 財務省は政権の“自然死”待ち… 】、
どのようなことですか、と無力な私でも、精読してしまった。

この記事の原文は、週刊朝日の2018年3月30日号に掲載された記事のひとつで、
【AERA dot.】に於いて3月20日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

       

《・・昭恵夫人への忖度は消費税のため? 財務省は政権の“自然死”待ち…

“最強の官庁”が、瀕死の状態だ。
森友学園の決裁文書を改ざんした問題で、霞が関の官庁街でも超エリート集団である財務省の信頼は地に落ちた。


公文書管理法に詳しい右崎正博・獨協大学名誉教授が言う。
「これは大蔵省接待汚職のような単なるスキャンダルではない。
行政に対する信頼が根幹から揺らいでいる。
公文書管理や情報公開について無知、無理解もここに極まれりです」


佐川氏は国会で野党の追及の矢面に立ち、非難を浴びながらも、安倍政権の盾となってきた。
その論功行賞人事で昨年7月、国税庁長官に“栄転”したが、
文書改ざん問題で、辞任に追い込まれた。


麻生財務相に今や「佐川が」と呼び捨てにされ、すべての責任を押し付けられた格好だ。

文部科学事務次官だった前川喜平氏のように、証人喚問で逆襲に出て、
霞が関の意地を見せることはできるのか。

旧大蔵省出身の竹中治堅・政策研究大学院大学教授はこう言う。

「本当に財務省理財局だけの判断だったのか、今後は丁寧に説明していく必要がある。
国会答弁は局長の判断ですることもあるが、今回の真相は本人でなければわからない。

佐川氏は最初の答弁で、事前交渉を一切していないと発言したが、
最初から最後まで話のつじつまが合う答弁をしないと、こうして後々に響く。
政権が政治的圧力はないと言って、世間が理解するのかがポイントだ」

      

財務省の調査によると、当時の飯塚厚理財局次長(現関税局長)ら18人が、決裁に関わったという。

財務省中堅官僚がこう嘆く。

「今回は昭恵夫人のご意向を、過剰に忖度したうちの“自爆”でしょう」

近畿財務局は、もともと森友への国有地売却に乗り気ではなかったが、
昭恵夫人の名前が出て、状況は一変した。
本省理財局にお伺いを立てた結果、“格安”で売却することになった。


近畿財務局が交渉の経過をあれだけ克明に文書に残したのは、
後で何か問題が起きたときに、きちんと説明ができるよう自己保身の意味もあったという。


「昨年2月の問題発覚後、内容を知った理財局が仰天し、
慌てて書き換えさせたので、ボロが出たというのが、真相ではないか」(同前)


では、財務省が昭恵夫人を過剰なまでに忖度した動機は何だったのか。

      

「安倍政権は消費増税に乗り気ではなく、何度も延期してきた。
安倍官邸を仕切るのは、経済産業省出身の今井首相秘書官で、
財務省は影がすっかり薄くなり、なかなか意見が通らない。

森友学園への国有地売却契約が成立する直前(2016年5月)、
2017年4月に予定されていた消費税率10%への引き上げの延期が検討され、
財務省と官邸が激しく対立。

劣勢で焦った財務省が、森友案件で安倍首相に少しでも恩を売り、
予定通りにやってもらおうという意向があったかもしれません」(財務省関係者)


だが、財務省は敗北し、安倍首相はその後、増税を2019年10月まで延期することを表明した。


法政大学の山口二郎教授は、森友問題の本質は「公の崩壊」にあるという。

「改ざんは、官僚の行動様式から考えて、政治の意向がなければ、あり得ない。
文書改ざんがバレたのは、権力者が公を私物化したことに罰が下ったとも言える」


財務省はこのまま、安倍官邸のために、泥をかぶり続けるのか。

「地位も名誉も失った佐川氏が、証人喚問で真実をしゃべる可能性もある」(政治アナリストの伊藤惇夫氏)

政治ジャーナリストの角谷浩一氏はこう見る。
「佐川氏を証人喚問したところで、
『刑事訴追の可能性があるので答えられない』と逃げられてしまうのが落ちです」


だが実は、財務省は巧みな組織防衛術を駆使しているという見方もある。
「財務省は官邸に逆ギレしたりしないし、最後まで安倍首相を守る『悪役』を演じるだろう。

しかし、そうすればするほど、国民は『そんなはずはない』と違和感を募らせ、
安倍首相の支持率は下がり、いずれ“自然死”する。

財務省はそのことを見据え、持久戦で安倍政権を追い詰める構図だ」(政治記者)


金子勝・慶応大学教授も言う。
「ここまで来れば、証人喚問は佐川氏だけでなく、
昭恵夫人、元昭恵夫人付職員の谷査恵子氏、田村国有財産審理室長(当時)も呼ぶべき。
なぜ特例対応になったのか。すべてを公にすべきです」


(本誌・亀井洋志、浅井秀樹、松岡かすみ、森下香枝)・・》

       

たまたま今回の記事を読み、無力な私でも、一寸の虫にも五分の魂・・基づき、
財務省に対してささやかな思いがある。

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年生となっている。

我が家は厚生年金に関して、生活費の基盤なので、何かと注視している。

こうした中で、厚生年金は微減してきたので、将来はどのようになってしまうのか、
ときおり無力ながら、この先どのくらい減ってしまうのか、不安になってしまったことも事実であった。

      

過ぎし2015年の12月下旬に、嘉悦大学教授の高橋洋一さんのひとつの寄稿文、
【「日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした
       ~それどころか…なんと2016年、財政再建は実質完了してしまう! この国のバランスシートを徹底分析 】
と題された寄稿文を読んだりした。

この御方は、1980年、大蔵省(現財務省)入省、理財局資金企画室長、内閣参事官など歴任され、
小泉内閣、安倍内閣では 「改革の司令塔」として活躍され、2007年には財務省が隠す「埋蔵金」を公表し、
政策シンクタンク「政策工房」会長されている人である。

私は読み終わった後、私は大手メディアの新聞、テレビなどは日本の借金は1100兆円を超えている、と報じられているのは、
財務省が国の財政が悪化し、これからも支出の多くを占める社会保障費に危惧して、
資産合計を抜きにして、負債合計だけの1171.8兆円を声高に公表されている、と感じたりした。

そして悪しき表現で明記すれば、財務省は社会保障費は殆ど使用する高齢者を人質に、
消費税など増税しないと財政危機になりますょ、そして年金は激少したり、医療、介護も低下しますょ、
と私は思い馳せて、苦笑させられた。

      

やがて昨年の2017年3月下旬に、信愛している高橋洋一さんの著作
『年金問題は嘘ばかり ~ダマされて損をしないための必須知識~』(PHP新書)を購読して、
私は年金に安堵したりした。
   
この表紙には、財務省、厚労省、金融機関がひた隠す年金の『真実』も明記されて、
やがて私は年金に関しては安堵してきたりした。

      

今回の財務省の問題の根源として、消費税を消費税率10%への引き上げの場合は、
前提として、財務省は、少なくとも国の財政の基盤である資産明細、そして負債明細をマスコミを通して、
義務教育を卒業された国民の誰しもが判る内容を公示するのが、税金で成り立っている公僕として責務である。

そして予算の多くを占める社会保障費などが、
社会保障制度の維持が危惧されると国民が感じた場合は、
やむなく消費税率10%を賛意する、と私は思われる。

今回の森友学園問題の混迷を悪用して、やがて安倍政権が打倒されることは、
ここ10数年、首相の中に於いては、安倍晋三首相としての評価は高く、もとより国益にもかかわることである。

マスコミ、国民も、園児でもわかる森友学園などに、告別して、沈静化した後、
内外に難題が山積する課題に注視するのが、心の節度が問われる、と私は感嘆しているひとりである。


 ☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家庭の金融資産は崩れぬ現金・預金志向、気弱な年金生活の私は学び、やがて微苦笑を重ねて・・。

2018-03-24 14:53:27 | ささやかな古稀からの思い

過ぎし20日に配達された読売新聞の朝刊を読んでいる中、
【 崩れぬ現金・預金志向・・・個人保有 最高961兆円 】
と題された記事を精読した。

やがて何かと気弱な年金生活の私は多々学び、そうでしょうねぇ・・、
と思いながら、やがて微苦笑を重ねてしまった・・。

無断であるが、読売新聞47年購読しているよしみに甘えて、記事の半分を転記させて頂く。

《・・崩れぬ現金・預金志向・・・個人保有 最高961兆円

日本銀行が19日発表した2017年10~12月期の資金循環統計で、
個人(家計)が抱える「現金・預金」は、前年比2・5%増の961兆円に上り、過去最高を更新した。

金融機関は「貯蓄から投資へ」の流れを加速させようと躍起だ。
しかし、将来不安から、お金を抱え込む傾向が続き、デフレ脱却を遠ざけている。

        

現金・預金のほかに株式や保険・年金なども加えた個人の金融資産は12月末時点で、
1880兆円と過去最高を更新した。
株式などの評価額が上がったためだ。

金融資産の全体(1880兆円)のうち、「株式等」は17・3%増の211兆円、「投資信託」は13・1%増の109兆円を占めた。
ただ、それでも、全体の51・1%を占める「現金・預金」には遠く及ばない。
現金だけでも過去最高の88兆円に上った。

 欧米では個人でも、多くの資産を株式や投資信託、保険などに振り向け、現金・預金の割合が低い。
日銀の昨年8月時点の発表では、個人の金融資産に占める現金・預金は、
米国で約13%、ユーロ圏では約33%にとどまる。

 個人だけではなく、日本では、業績が好調な企業も、お金を抱え込んでいる。
金融機関を除く民間企業の「現金・預金」は、
5・2%増の257兆円と過去2番目の多さだった。
日本全体を覆う「現金・預金」志向は鮮明だ
。・・》

        

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

こうした中で、三週間前の頃、私たち夫婦は定期貯金の更新で、銀行に行ったりした、
やがて支店長付の30代後半と見られる女性から、応接間のような室に通されて、
幾つかの投資信託を盛んに進言されたが、私たち夫婦は、微苦笑しながらお断りした。

        

過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職し、多々の理由で年金生活を始めた直後、
私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約を始めた・・。

こうした時、ある銀行の窓口で私の退職金を引き出した時、支店長から応接間のような広い部屋に招待され、
支店長から『一時払い終身保険』を私たち夫婦に説明して頂ながら、勧誘させられたりした。

しかし10年間の運用利回りが良いと言われても、長期に及び資金が固定されてしまうので、
魅力は感じることなく、対象外とした。

この直後、支店長から3分の2はある投資信託で高い金利、
残りの3分の1を安全利回りで運用されれば確実に増えます、

と勧誘するようにアドバイスを受けたりした。

そして支店長が自分もしていますよ、と自身の投資額と金利の推移表のカードを
私たち夫婦に見せて、先月は5万少し・・と提示して、微笑みながら勧誘した。

しかし私たち夫婦は、もとより金利の変動は良いことあれば悪いこともあり、
悪化しマイナスになった場合は、残された人生に狂いが生じるので、
結果的には、国債の元本保証プラスわずかな金利とした。

私は気弱のせいか株、投資信託などのハイリターン、ハイリスクで、
残された大切な人生に一喜一憂するのは、何よりも心身によくないと思ったりした。

そして、貯金関係も定期貯金の元本保証プラスわずかな金利に選定した。
                                                                      
我が家は国債に関しては、程ほどに所有しているが、絶対的に大丈夫、と問われれば、
『国債が駄目になった時は、日本が滅びる時である・・その時は私たちの生命財産はもとより保障されないので・・』
と私は今でも公言をしている。
                                               
このように我が家は預貯金に関しては、元本保証プラスわずかな金利主義となっている。

                  

やがて昨年の2017年4月下旬に、私は愛読している【ヨミウリ・オンライン】に於いて、
ファイナンシャルプランナーの長尾義弘さんの『 老後資金を失うリスクは「退職金貧乏」から 』寄稿文で、

読んだりして多々教示させられた。

この中のひとつとして、なぜ銀行は投資信託、保険、外貨預金などの金融商品を勧めるのか、
明記されていた・・。

《・・銀行は、まとまった額の退職金を、ほかの金融機関に移してほしくないという思いがあります。
しかし、マイナス金利時代ですから、ただ預金してもらっているだけでは、銀行にうまみはありません。 

銀行が望んでいるのは、投資信託、保険、外貨預金などの金融商品を買ってもらい、
その手数料収入を得たいと考えているのです。

         

昨年、65歳で大手電機メーカーを定年退職した千葉県在住のAさんの例を紹介しましょう。
給与振り込み、光熱費の支払い、自動車のローンなどで、地元の銀行と長い付き合いがありました。

ある日、その銀行から「退職金特別プランのご案内」というパンフレットが送られてきました。 

パンフレットを見ると、Aさんは、「金利上乗せキャンペーン」という文字に目を奪われました。

銀行を訪ねて詳しく話を聞くと、定期預金の金利が、なんと5%と言います。
副支店長を名乗る行員は、「今月中に契約してもらえれば、特別に1%上乗せしましょう」と畳み掛けてきます。 

「えっ、じゃあ6%の金利!」
Aさんは、思わず身を乗り出しました。


「ぜひ、そのプランを活用したい」。

はやる気持ちは分からなくもありません。

ですが、ちょっと冷静になって、このプランを見てみましょう。

定期預金の金利がとてもいいのに驚くでしょう。
このマイナス金利の時代にもかかわらず、金利「6%」をうたう特別プランを出している銀行は
珍しくはないのですが、本当でしょうか?

         

実は、これにはカラクリがあります。
この「退職金特別プラン」の多くは、定期預金と投資信託を組み合わせたプランです。


定期預金の優遇金利は、「6%」でとても高いのですが、よく見ると「3か月物」とあります。
これは、「3か月が過ぎると、通常の定期預金の金利になりますよ」ということです。 

もう少し詳しく説明しましょう。

Aさんがすすめられたのは、2000万円を運用するプランでした。 

2000万円の半分の1000万円は、定期預金に預け入れることになります。
3か月物で金利6%だとすると、年利換算で1.5%になります。
つまり、15万円の利息がつきます。
ここまではいいですね。 

残りの1000万円は、投資信託の購入に充てられます。
投資信託を買うための手数料は、通常2~3%。投資信託を3%の手数料で1000万円分購入した場合、
購入手数料は30万円です。

ということは、この時点ですでに2000万円の退職金から、
30万円が減ってしまっていることになります。 

なんと優遇金利よりも、手数料の方が高いのです。 

銀行は、こうした契約を1件得るだけで、15万円の利益が出ます。
つまり、契約者は、最初からマイナス15万円のリスクを背負うことになるのです。

         

元本が保障されている定期預金は、減ることはありませんが、
投資信託は運用が思うようにいかず、元本の半分程度になっていたという例もあります。

そればかりか、投資信託を保有している間、信託報酬と呼ばれる管理手数料がかかります。
長期投資が前提となる老後資金の運用において、常に必要となるこの手数料はかなり大きなコストとなります。
よほど運用がうまくないと、なかなかプラスにはなりません。 

この商品は、リスクが高くリターンが少ない商品とも言えます。
せっかくの大事な老後資金です。
できるだけリスクの少ない金融商品で運用したいものです。・・》

        

こうした記事を私は学び、程々しかない我が家としては、デフレが継続する限りは、
安全第一の現金・預金だよねぇ、と気弱な私は深めて、今日に至っている。


 ☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都心の郊外は春到来、英語に苦手な老ボーイの私でも、Spring has come、心の中で呟(つぶや)き・・。

2018-03-23 16:10:02 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

私の住む地域では、昨年の12月頃から平年より寒く、1月下旬には四年ぶりに20センチ前後の大雪が降り、
私は大いに戸惑ったりした。

この後の数週間後には、数センチばかりの小雪が降ったりしてきた。

そして3月14日、15日には5月上旬のような陽気に恵まれて、
私は春到来だょねぇ・・と微笑んだりしてきた。

       

しかしながら『春に三日の晴れなし』と古人からの伝えがあり、
春の暖かな青空の快晴の日が長く続くことはなく、

少年や少女の多感の心情のように、天上の気候の神々のきまぐれな采配により、私でも戸惑ったりしてきた。

この後、一昨日の21日の『春分の日』には、私たち夫婦は私の生家の実家となっている長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦、そして親戚の御方たちと談笑した後、お墓参りに行っているのが、恒例ようになっている。

       

しかしながらこの日には、朝は小雨降り、長兄宅で談笑している中、まもなく霙(みぞれ)になり、
その後に小雪が舞い降り始めた・・。

やがて私たち夫婦は長兄宅を辞して、帰宅した。

まもなく私たち夫婦はお互いに着替えたりしている中、
『春分の日に、雨が降ってお墓参りを中止したことはあったけれど・・
雪が降って・・お墓参りを中止したのは初めてだねぇ・・』
と私は家内に言ったりして、お互いに戸惑いながら微苦笑をしたりした。

       


まもなく私は玄関の軒下に降りたち、雪が舞降る空を見上げたり、
樹木に少し積もった雪を見たりした。

こうした中、「暑さ寒さも彼岸まで」と古人からの伝えを思いだして、独り微苦笑した。

しかしながら、この時節に舞い降る雪は、冬の季節に別れを告げる春到来を予告するなごり雪であるので、
やがて小雪はやみ、小雨が降りだして、小庭に白いベェールのように彩(いろど)ったわずかな積雪も、
夕方には消え去ったりした。

       

今朝、ぼんやりとテレビで地元の天気情報を視聴すると、
本日より一週間は、晴れ、晴れ時々曇りが続き、平年並みに暖かな日が続く、
と私は学んだりした。

やがて私は、殆ど毎日、家内から依頼された品を求めてスーパーなどに行っている買物メール老ボーイの私は、
家内から本日の買物は結構です、と言われて、
久々に朝の9時過ぎから、遊歩道を歩き、やがて3キロ先の都立の公園まで、歩いたりした・・。

       

こうした中、多彩な春の花にめぐり逢い、記憶のかたみとして、デジカメで撮ったりした。

       

そしてこうした花に見惚(みと)れたりしていると、英語に苦手な私でも、
Spring has come、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

       

そして百花繚乱のような中を歩きながら、独り微苦笑をした・・。

       

私たち夫婦は、ときおり都心のシティホテル、街、公園、国内の旅先で、異国人から話しかけられ、
私は英語の単語をたどたどしく並べて、身振り手振りで応対していた状況を、
家内が傍で見かけて、家内は私に、外国に行ったら頼りにならないわ、と信頼が失墜しているのが実情となっている。

私としてはサラリーマン時代に、会社として台湾、その後はハワイに旅行で遊学したが、
特にハワイの時は、オプション・ツアーで独りぼっちで、やはり身振り手振りで英語の単語をたどたどしく、
微笑みながら対応したりしてきた。

このような事情もあったりしたが、私たち夫婦として、異国の海外旅行に行ったことのない稀な夫婦となっている

そして気楽に日本語が通じる国内旅行を私たち夫婦は重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

       


このようなことであったが、たまたまSpring has come、と心の中で呟(つぶや)いたりしたのは、
確か1957年(昭和32年)の4月、中学校に入学して、
初めて英語の授業で学んだのは、Spring has come、であったりした。

そして昨今、この時節は3月の下旬の初めには新たなる旅立つの園児は『卒園式』、学童、学生は『卒業式』などが祝賀され、
こうした中で働いて下さる新たなる社会人の諸兄諸姉が、不安と希望を秘めてスタートされる時節でもある。

そして社会の中核である働いて下さる諸兄諸姉も、再就職や人事異動などで、
新たなる職場に配属され、戸惑いながらも意欲充分な志(こころざし)で、勤務される時期でもある。

こうした新生活を過ごされるニュース、或いは学童たちは春休みと知ったりしてきたこともあり、
まもなく春到来の時節だ、と私は学んだりしてきた。

こうした幾多の出来事を見たりしてきた私は、本日散策していると、
春が来ましたねぇ・・と実感させられる中、
何かと単細胞の私は、Spring has come、が甦(よみが)り、
脳裏から舞い降りてきた。

やがて公園内を3時間ばかり歩き廻り、帰宅に向かったりした。

       

そして5時間ばかり歩いたので、いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病には、
勘弁してよねぇ・・と空を見上げながら呟(つぶや)いたりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安売りの定番 モヤシに付加価値、買物メール老ボーイの私は学び、やがて微笑みを重ねて・・。

2018-03-22 15:19:22 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
年金生活を始めた当初より、我が家の平素の買物は家内から依頼された品を求めて、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に行っている買物メール老ボーイとなっている。

今朝、朝食後に家内は、いつものように新聞に添付されているスーパーのチラシを見た後、
赤のサインペンで丸印を付けたりした・・。

やがて私は手渡されて、赤丸が付いたのが本日の買物の対象品であり、
そして私が店内で魅せられた品を追加するのが、我が家の鉄則となっている。


この後、家内から、

『本日は・・少し多いですが、お願いしますねぇ・・』
と家内は最寄のスーパーのチラシを私は手渡しながら、私に言ったりしている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、早や13年半が過ぎいるが、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

こうした中、小雨が降っていたので、やがて11時過ぎに、私は最寄りのスーパーに向かった。

我が家は恥ずかしながら自動車も所有できない上、
私は根がケチなせいか、利便性の良い路線バスには乗らず、ひたすら歩くことが多い。

こうした時の私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。

          
         ☆過ぎし日、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
           ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆ 
   


やがて最寄りのスーパーで、野菜系のキャベツ、玉ネギ、長ネギ、ニンジン、ピーマン、モヤシなど、
果物系のバナナ、リンゴ、或いは納豆、コンニャク、シラタキ、ワカメ、しらす干し、ヨーグルト、タマゴ、
そしてブタ肉の肩ロース、家内のお好みの菓子パンなどを買い求めたりした。

私は幼年期に農家の児として育てられたので、農作物を育てることは自助努力しても、
たえず気候により生育が変動させられることは知っているが、
それにしてキャベツ、ピーマンなどは鮮度も乏しく、値段も高いよなぁ・・と感じている。

帰宅後、今朝、配達された読売新聞の朝刊を読み残していた記事もあり、ぼんやりと私は読んでいる中、
【 安売りの定番 モヤシに付加価値 】と大きく見出しされた記事に、
どういうことですか、と私は好奇心に負けて、精読してしまった・・。

この記事は、【 くらし / 家庭 
】欄の記事であり、加藤 亮・記者がまとめられ記事であるが、
48年ばかり購読してきたよしみに甘えて、転記、写真も転用させて頂く。



《・・安売りの定番 モヤシに付加価値 ~高い栄養価/有機栽培/国産の大豆~

安さが売りのモヤシに、栄養価を高めたり有機栽培をしたりして付加価値を持たせた商品が増えている。
従来品は原料となる緑豆の価格が高騰しているが、販売価格は上げにくく、生産者の経営を圧迫していた。
価格は高めだが、人気を集めている。

モヤシ生産大手・サラダコスモ(岐阜県)は2015年から、
大豆が原料の「大豆イソフラボン 子大豆もやし」を生産している。
大豆イソフラボンは骨を健康に保つ機能があるとされ、機能性表示食品として届け出ている。
全国のスーパーで販売。価格は200グラム70円程度と、緑豆モヤシの2倍以上になるが、主婦層を中心に人気だという。

同社は農薬や肥料などを使用せず有機栽培されたモヤシも生産。
同社営業本部長の宮地隆彰さんは「健康や安心安全への意識が高まり、受け入れられているのではないか」と話す。

 
イオンは2016年から、プライベートブランドで有機栽培の緑豆モヤシを販売している。
価格は200グラム38円と、通常の緑豆モヤシより高めだが、売れ行きは好調だという。

 こうした商品が出る背景には、モヤシ生産を取り巻く環境の厳しさがある。 

サラダコスモの「大豆イソフラボン 子大豆もやし」
イオンが販売する有機栽培の緑豆モヤシ
国産大豆を使用したアスナのモヤシ
モヤシは安売りの定番となっている(東京都内で)


モヤシの生産者で作る「工業組合もやし生産者協会」(東京)によると、
原料で8割を占める緑豆は、主な輸入先の中国でトウモロコシなどへの転作が進み、
生産が減ったことから、価格が高騰。

2016年には1トン当たり20万円を超え、1992年の2倍以上になった。

一方、モヤシの販売価格は、1992年の100グラム20円ほどがピーク。
その後、景気が低迷する中、モヤシが安売りの定番商品となり、
2016年は同15円ほどにまで下がった。

2009年には全国に230社以上あった生産者は、100社以上が廃業したという。

同協会長の林正二さんは「モヤシの生産すら危ぶまれており、
付加価値の高いモヤシを作る動きが出始めた」と話す。

国内産の原料を使う動きも。アスナ(岐阜県)は2014年から、
北海道産の大豆を使った豆モヤシを生産している。

軟らかいのにシャキシャキとした食感が特徴だ。
東海地方で販売。
価格は200グラムで100円と高いが、小さい子どもを持つ世帯などに好評だという。

飯塚商店(埼玉県)では、緑豆モヤシが登場する前に
主流だった黒い豆「ブラックマッペ」を使ったモヤシを作り続けている。

緑豆モヤシと比べて細く、根っこが長くて見栄えが悪いが、
強い歯応えで香りが強く、人気を集めている。
価格は200グラムで150円を超える。

社長の飯塚雅俊さんは「食感や味に驚く人が多い。本来のモヤシを楽しんでほしい」と話す。

農畜産物流通コンサルタントの山本謙治さんは
「長らく、モヤシは安ければいいという商品だったが、値段だけではなく、
味わいや用途によって選ぶ時代になってきた。
価格による味の違いを楽しんでみるのもいいのでは」としている。・・》

私は記事を読み終わった後、モヤシ業界の推移を初めて学び、
それぞれの企業が、ひたすら努力と英知で多彩なモヤシが、私たちが買い求めることが出来てきた。

こうした中、《・・品種、価格による味の違いを楽しんでみるのもいい・・》
このような現状に、買物メール老ボーイの私は、微笑えんで、
モヤシを買い求める時に、レパトリーが広がったねぇ、と微笑んだりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『春分の日』、都心の郊外でも『なごり雪』が舞降り、私たち夫婦は戸惑い、やがて微苦笑をして・・。

2018-03-21 13:53:47 | ささやかな古稀からの思い

私は東京都の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた築後39年の家に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、毎年『春分の日』の日は、私たち夫婦は私の生家の実家となっている長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っているのが、恒例ようになっている。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
両親、祖父、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、この日の『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。

       

今朝、小雨降る中、私たち夫婦は9時20分過ぎに長兄宅に行き、
いつもように私たち夫婦は長兄夫婦と談笑したりした。

こうした中で、今年の誕生日を迎えと長兄は79歳、義姉は72歳となり、
私も74歳、家内は69歳を迎えることとなるので、
お互いに無理しないで過ごしましょう、と語り合ったりした。

この後、まもなく亡き父の妹のひとりである私の叔母と娘さん、
そして父の妹の当たる叔母のおふたりの、それぞれの60代の長男のおふたりが来宅され、
兄宅の少し広い応接間で談笑をしたりした。

こうして昔ばなし、最近の出来事を話し合ったりしていると、
小雨は霙(みぞれ)になり、まもなく小雪が舞降り始めた・・。

やがて一時間ばかり過ぎた後、それぞれ御方が帰宅した後、
『今の時節にしては、雪は珍しいですねぇ・・なごり雪ですねぇ・・』
と私は言ったりして、私の義姉を笑わせたりした・・。

まもなく私たち夫婦も長兄の宅を辞して、雪が舞降る中、数分歩いて我が家に帰宅した。

       

この後、私たちはお互いに着替えたりしている中、
『春分の日に、雨が降ってお墓参りを中止したことはあったけれど・・
雪が降って・・お墓参りを中止したのは初めてだねぇ・・』
と私は家内に言ったりして、お互いに戸惑いながら微苦笑をしたりした。

まもなく私は玄関の軒下に降りたち、雪が舞降る空を見上げたり、
樹木に少し積もった雪を見たりした。

       

私の住む地域では、昨年の12月頃から平年より寒く、1月下旬には四年ぶりに20センチ前後の大雪が降り、
私は大いに戸惑ったりした。

この後の数週間後には、数センチばかりの小雪が降ったりしてきた。

そして一週間の前の頃は、二日(ふつか)ばかりは5月上旬のような陽気に恵まれて、
私は春到来だょねぇ・・と微笑んだりしてきた。

しかしながら『春に三日の晴れなし』と古人からの伝えがあり、
春の暖かな青空の快晴の日が長く続くことはなく、

少年や少女の多感の心情のように、天上の気候の神々のきまぐれな采配により、私でも戸惑う時節でもある。

       

このようなことを私は、ぼんやりと思い馳せたりし、
明日より天気が急激に平年並みに回復して、まもなく桜が開花して、私はいつものように愛でながら、
スキップするように遊歩道を散策するだろう・・と微笑んだりした。

そしてこうした中、私たち夫婦は少し遅れたお墓参りをしょう、と微笑んだりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塩月弥栄子さんの「カキクケコ精神」、シニア世代の日常生活の哲学だねぇ、と私は微笑みを重ねて・・。

2018-03-20 13:41:39 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の14年生の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

本日、小雨降りしきる朝を迎えて、やがて家内と共に朝食を頂いた後、
私はブログの愛読者となっている御方たちの投稿文を読んだりしていた・・。

こうした中で、確か私が一年半ぐらい前の頃から、偶然に読んだ御方のブログに瞬時に魅せられて、
これ以来、この御方の愛読者のひとりとなっている。

この御方は、日常生活をユーモアの精神もあり感性も優れ、
前向きに生活をされる状況をたんたんと綴られ、
言霊(ことだま)を大切にされ、読書もされ、短歌、俳句、川柳にも素養のあふれる御方である。

        


この御方のご承諾も得ずに、紹介させて頂くと、
http://itazurakko713.blog.fc2.com/【 おばあちゃんのひとりごと 】

そして、プロフィールとしては、
《・・Author:フェアリーグランマ
ひとり暮らしのおばあちゃんですが、毎日を詩や短歌を作って楽しんで暮らしています。

心に残った本の一節を御紹介させて頂いております。・・》

今回、読ませて頂く中で、さりげなく、記載されていた。
・・  「カキクケコ精神」

 カ……感謝する心、感動する心

  キ……緊張感を大切にする心

  ク……くつろぐ

  ケ……決断力、「イエス」というより「ノウ」と断ること

  コ……好奇心を持ち続けること。孤独をバネに生きること

        {塩月弥栄子さんの本よりです~~~}・・》

私は遅ればせながら塩月弥栄子さんの遺(の)された名言を学び、
読み終わった後、五分ぐらい思案したりして、
シニア世代の日常生活の哲学だねぇ、と私は微笑んだりした・・。

        

過ぎし3月9日の夕食前に、ぼんやりとテレビでニュースを視聴している中、

健康上の理由で日常生活が制限されることなく過ごせる「健康寿命」について、
厚生労働省が年齢について公表されていたことを、報じていた・・。

何かしら2016年時点に於いては、男性72.14歳、女性は74.79歳、
前回の2013年と比べて、男性は0.95歳、女性は0.58歳延び、男女とも過去最長を更新した。
そして厚生労働省は、健康意識の高まりや、高齢者の社会参加の広がりが背景にある、と分析されていた。

この後、健康寿命は3年ごとに公表しており、
初回の2001年には、男性69.40歳、女性72.65歳より、延び続けている。
そして平均寿命も延び続けているが、健康寿命との差(不健康な期間)はわずかに縮まり、
今回、男性8.84年(前回9.02年)、女性12.35年(同12.40年)だった。

このような内容であり、私はシニア世代に於いては、
特に「健康寿命」を保つことが、何よりも肝要だ、と長らく思い続けていたので、
男女とも過去最長を更新に、微笑んでしまった・・。

        

こうした中で、シニア世代の御方は、人それぞれ「健康寿命」を保つことに、自助努力されて、
人それぞれの願いを叶えている、と私も同世代のひとりとして思い深めたりしている。

そしてここ10数年は、高齢者になっても、殆どの御方は溌溂と過ごされ、
こうした根底には、塩月弥栄子さんがシニア世代の深情を的言された「カキクケコ精神」のようなことを意識され、
日常生活を過ごされている、と改めて教示され、私なりな感じ深めたりした。


私は今年の9月に誕生日を迎えたら74歳になるが、
70代を迎えてからは、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるようにと願いながら
プラス思考で過ごしているのが実態となっている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。

      

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

こうして歩く時の私は、紳士バックを園児のように斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりして、記憶のかたみとしている。
             
このように歩いていると、ほぼ1キロを15分ぐらいであるので、
やはり時折、足早に歩いたり、或いは意識して、大股で歩いたりしている・・。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらくねぇ・・、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビールか水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は幾たびか重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりして、
年金生活をささやかに享受している。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お彼岸の時期と常識、齢ばかり重ねた私は学び、そうでしたか、と恥ずかしく赤面して・・。

2018-03-19 15:07:34 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
今朝、テレビで地元の天気情報を視聴していると、
来る21日の『春分の日』は、冬のような寒さの中、小雨の一日、と報じていた。

私たち夫婦は、この日にはお墓参りを40年近くしてきたので、
傘を差してお墓参りかょ・・と微苦笑したりした。

昼食後、
ときおり愛読している生活総合情報サイト【All About(オールアバウト)】に於いて、
『 2018年はいつ? お彼岸の時期と常識 』と題された見出しを見た。

私は恥ずかしながら何かと無知なことが多く、改めて《・・お彼岸の常識・・》と問われても、
理論整然と言えないので、こっそりと読んでしまった・・。

この記事は、暮らしの歳時記の特集のひとつで、
和文化研究家、ライフコーディネーターの三浦 康子さんの定期寄稿文のひとつであり、
2009年3月9日に初回公開され、2018年3月17日に配信され、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

《・・お彼岸の時期と常識

いまさら聞けない……お彼岸ってなに?

天気の話題で「暑さ寒さも彼岸まで」というけれど…なぜ?

「お彼岸」という言葉や「暑さ寒さも彼岸まで」という慣用句は知っていても、
いまいちピンとこない方も多いでしょう。
そこで、いまさら聞けないお彼岸のいろはを解説します。

お彼岸っていつ? 

彼岸には、春彼岸と秋彼岸があります。
それぞれ、春分の日(3月21日頃。その年により変動)、秋分の日(9月23日頃。その年により変動)を中日として、
その前後の3日を合わせた7日間を彼岸といいます。

2018年のお彼岸
【 春彼岸 】 
3月18日(日):彼岸入り
3月21日(水):彼岸の中日(=春分の日。祝日)
3月24日(土):彼岸明け

【 秋彼岸 】 
9月20日(木):彼岸入り
9月23日(日):彼岸の中日(=秋分の日。祝日)
9月26日(水):彼岸明け

春の彼岸を「彼岸」、「春彼岸」と呼ぶのに対し、
秋の彼岸を「のちの彼岸」、「秋彼岸」と呼び分けることもあります。


なぜお彼岸にお墓参りをするの? 「彼岸」の意味は?

夕日
太陽が真西に沈むとき、彼岸と此岸が最も通じやすくなると考えました。

春分と秋分は、太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになる日ですが、
お彼岸にお墓参りに行く風習は、この太陽に関係しています。

仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、
その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)といいます。

そして、彼岸は西に、此岸は東にあるとされており、
太陽が真東から昇って、真西に沈む秋分と春分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考え、
先祖供養をするようになりました。


なぜ日本だけなの? お彼岸の由来

お墓参り
お彼岸は日本独自の文化。

お彼岸はインドなど他の仏教国にはない日本だけの行事です。
日本では、正月など神道にまつわる行事を行う一方、仏教を説いた釈迦の教えも受け入れてきました。
お彼岸は「日願」でもあるため、太陽の神を信仰する神道と結びつきやすかったという説もあります。

また、春の種まきや秋の収穫とも結びつき、
自然に対する感謝や祈りがご先祖様に感謝する気持ちにもつながって、お彼岸は大切な行事となりました。

彼岸の中日である「春分の日」、「秋分の日」は国民の祝日です。
祝日法による趣旨は……
  • 春分の日=『自然をたたえ、生物をいつくしむ日』
  • 秋分の日=『祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ日』

 

お彼岸に供える花は?

「ぼたもち」と「おはぎ」の違いは?

なぜ「暑さ寒さも彼岸まで」というの?

夕暮れのコスモス
秋彼岸を過ぎると太陽の出番が少なくなり、暑さも和らぎます。春はこの逆ですね。

春分と秋分は、いずれも二十四節気のひとつで、暦の上では春と秋の中間地点となります。

そして、春分と秋分に昼と夜の長さがほぼ同じになり、春分以降は昼が長く、秋分以降は秋の夜長に向かいます。

●春分は春(立春~立夏の前日)の中間地点
⇒春分以降、昼が長くなってゆく⇒寒さが和らぎ暖かくなる
●秋分は秋(立秋~立冬の前日)の中間地点
⇒秋分以降、昼が短くなってゆく⇒暑さが和らぎ涼しくなる

ただし、昼と夜の長さがほぼ同じだからといって、春分と秋分の気候が同じになるわけではありません。
暑さの名残で秋分のほうが10度以上も気温が高いのですが、
厳しい残暑や寒さも目処がつくため、「暑さ寒さも彼岸まで」というようになりました。

また、お彼岸は迷い、悩み、煩悩に惑わされている人間が、悟りの世界と通じるときでもあります。
自然に寄り添う暮らしの中で、暑さ寒さやそれに伴う様々なつらさも、
彼岸のころには和らいで楽になるよ・・「暑さ寒さも彼岸まで」には、励ましの意もあったのです。・・》

        


私は読み終わった後、無知だったことが多く、そうでしたか、と心の中で呟(つぶや)いたりし、
恥ずかしく赤面してしまった・・。

そして私は無知なりに、
『春分の日』のお墓参りを思い馳せたりした・・。

たまたま一昨年には、私の投稿文には下記のように綴っていた。

『春分の日』、私たち夫婦は長兄宅に行き、やがてお墓参りを重ねて、早や38年が過ぎ・・。
留意・・お時間のある御方は、お読み下されば幸いです。

このようなことを恒例のように、私たち夫婦は過ごしてきた・・。

今回の記事で、特に学んだことは、
《・・生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、
その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)・・》であった。

      

或いは《・・秋の「おはぎ」には皮ごと使ったつぶあんを用い、
春の「ぼたもち」には固くなった皮を除いたこしあんを用いていたそうです・・》

私は年金生活の中、昼食として四週間に一度だけ、
アンパンの『つぶあん』、『こしあん』をひとつづつ食べている。
本来であれば、もっと愛食したいが、肥満体の近道と恐れて、やむなく自制している。

今回『つぶあん』、『こしあん』を学び、
春の食べ物、秋の食べ物を同時に賞味できるので、やはりこの世の贅沢な食べ物のひとつだ、
微笑んだりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長寿の数も「漢数字」から成り立っている、高齢者の私は恥ずかしながら学び、やがて微苦笑して・・。

2018-03-17 16:02:14 | ささやかな古稀からの思い

先ほど、ときおり愛読している『プレジデントオンライン』を見ている中、
【 米寿は88歳、では茶寿は何歳のお祝いか 
と見出しを見てしまった。

私は齢ばかり重ねた年金生活の73歳の身であるが、何かと無知なことが多くて、
どのようなことなのょ、こっそりと読んでしまった・・。

この記事は、『プレジデント』(2018年1月15日号)の記事のひとつで、
サイエンスナビゲーター の桜井 進さんの寄稿文であり、
関連の『プレジデントオンライン』の2018年3月17日の配信された記事であり、
無断であるが、この記事を大半を転載させて頂く。

      

《・・
2017年9月15日に厚生労働省は、100歳以上の高齢者が全国に6万7824人いると発表した。

そんな長寿社会を象徴するかのように、世界最高齢は、男女ともに日本人がなっている。

兄弟や親戚が集まる数少ない機会に、せっかくだから老親の「長寿のお祝い」をしようということもあるだろう。
その長寿のお祝いで、すぐに頭のなかに思い浮かんでくるのが、77歳の「喜寿」、88歳の「米寿」、
そして99歳の「白寿」といったところではないだろうか。


実はこれらの呼び名の漢字を分解すると、
おのおのの年齢に関係する数字が、出てくるといったら、
「えっ、本当に? 」と驚く人が少なくないはずだ。


そこでまず、「喜寿」から検証してみることにしよう。
「喜」は楷書体だが、これを草書体にすると「七」が2つと「十」の字で構成されているわけで、
「七十七」と読むことができる。


一方、「米寿」については、「米」に注目してほしい。
この漢字を分解すると、引っくり返った「八」と「十」、そして「八」になる。
その3文字を組み合わせると「八十八」になるわけだ。


次に「白寿」であるが、「白」に「一」の文字を足すとどうなるだろう。
「百」にならないか。
つまり「百引く一は九十九」で、99歳のお祝いを「白寿」と呼ぶようになったのである。


先ほどの「米寿」と似ているものに、「半寿」がある。
「半」の漢字を分解していくと、引っくり返った「八」と「十」、そして「一」になる。
つまり「八十足す一は八十一」ということで、81歳の長寿のお祝いのことを「半寿」と呼ぶようになったのだ。


では「茶寿」は何歳の長寿のお祝いか? 
くさかんむりを分解すると「十」が2つになり、
残りは引っくり返った「八」に「十」、そして「八」。
つまり「十足す十足す八十足す八は百八」で、答えは108歳のお祝いということになる。


以前、私はこの連載企画で江戸時代に発展した和算について紹介し、
日本が世界で群を抜く「数学先進国」であったことに触れた。

その日本には、昔からご祝儀のお金を紙に包んで渡す文化がある。
きっと同じような感覚で、長寿の数も「漢数字」で包み込んだのかもしれない。・・》

      

私は小学生より算数、やがて数学には苦手であったので、恥ずかしながら2回ばかり読んで、
何とか理解できて、微苦笑したりした。

私は今年の9月に誕生日を迎えたら74歳になるが、
70代を迎えてからは、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるようにと願いながら
プラス思考で過ごしているのが実態となっている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。

      

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、

ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
                      
こうした中で、何かとブラス思考の私は、人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、
こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配によるよなぁ・・と微苦笑したりしている。

そして私は第一目標として後期高齢者入門の75歳、
この後は77歳の「喜寿」、その後は男性の平均寿命の80歳となっている。

この先は、判らないよなぁ・・と思ったりしているので、「米寿」の88歳は遥か霧のかなたと思い、
今回の記事で多々教示されても、微苦笑するばかりである。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする