夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京の郊外は、晩秋から初冬に移ろい始めて・・。

2013-11-30 13:31:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、家内が2階の寝室の雨戸、そしてガラス窓を開けると、
『屋根が真っ白・・霜(しも)が降りていたわょ・・窓も結露していたわょ』
と一階の居間いた私は、この後に私に教えてくれた。

そして私は、晩秋の時節が終わりを告げて、初冬の時節を迎えたか、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住み、この地域は過ぎし11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、淡き黄色、黄色、茶色などに多彩に染めはじめ、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
      
やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。

このように平年ならば長年過ごしてきたが、今年は暖かな秋の影響で一週間ぐらい遅れて、
暖かな秋日和に恵まれている、と私は微笑んだりしてきた。
          
          ☆今回掲載した写真は、昨年の12月5日に最寄りの遊歩道で、晩秋から初冬にうつろう情景である☆
 

昨日は家内と共に駅前まで往還して買物などをしたが、
雲が三つばかり浮かんだ秋日和に恵まれた中、風もなく陽だまりの中を歩き、
ときおり微風が吹くと、数多くのを朱色、紅色、淡き黄色、黄色、茶色の葉が、
空中を彷徨うにして、やがて地表に落下し、片隅には吹き寄せのように集積していた。
『今年も・・まもなく秋も終わりを告げるよねぇ・・』
と私は家内に語りかけたりした。
          

そして過ぎ去り錦繍(きんしゅう)の時節の中、私は最寄りの小公園、都立の神代植物園、
或いは遊歩道、住宅街の路をひたすら歩き、季節の移ろいを受容してきた。

やがて12月の中旬を迎えれば、初冬の冬晴れの中、
落葉樹はあまたの葉を落とし、裸木の冬木立となり、陽射しをうけている情景は私は愛しく、
毎年享受している。
          
そして寒さを感じながら澄み切った青空を眺めたりしていると蒼穹の凛とした光景に魅せられ、
私は遊歩道を歩くのが、定年退職後の習わしとなっている。

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確か数10年前には、『花の金曜日』という風潮があった、と私は思い馳せながら・・。

2013-11-29 16:33:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

年金生活の平素の中、家内は少なくても料理、洗濯、掃除などをしてくれているので、
せめて日常の買物ぐらいと思い、私は自主的に買物の専任者となり、
独りでほぼ毎日スーパー、専門店に行ったりしている。

こうした中で、ときおり家内の要望で、私たち夫婦は駅前に買物をしたり、
年に4回ぐらいは都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
高齢者の私でもボディーガード兼お供、荷物持ちで共に出かけたりしてきた。

本日の朝9時半過ぎから、私たち夫婦は最寄りの銀行に行き、
貸金庫に我が家としては重要な書類を出し入れした。

こうした時、私は貸金庫の出し入れの指定書類を記載していた時、
昨今は曜日の感覚が薄らいでいるので、机上にある時計を見ながら、
平成25年11月29日・・金曜日かと思いながら記入したりした・・。

その後、駅前のスーパー、ドラッグストアー、ホームセンターなど、
家内と共に買物した後、金曜日か・・と思いながら、
私がサラリーマンで奮闘していた時代を思い浮かべたりした・・。
          

私は中小業の民間会社を35年ばかり勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身であるが、
私の現役時代は数多くのサラリーマンの諸兄諸姉と同様に、
月曜日の早朝から業務に精進し、睡眠時間を削り、お互いに奮闘し、
金曜日の夜になると、やっと安息が得られる、といった心情か多かった。
          
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋に大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事をし、やがて挫折した後、
1970〈昭和45)年の春、ある民間企業に何とか中途入社し、遅ればせながら社会人となった。
この頃の勤務形態は、隔週の土曜日が午前中勤務となっていた。

その後、何時ごろか完全5日制となって、金曜日の勤務が終わると、何かしらほっとした・・。

どなたが名付けたのかは知らないけれど、
連休前の金曜日を花の金曜日と称して、『花金』と省略し、
社内で花金だから・・と歓送迎会や懇親会を開催されたり、仲良しグループで呑みに通ったりしていた。
          
私が社内で業務が立て込んで夜の9時過ぎに自席にいると、
『忙しいのだったら・・明日の土曜日に会社に来て、じっくりと仕事をすればよいじゃない・・
ともかく・・いつものメンバーで待っているょ・・』
と気のおけない友人が電話を掛けたりしてきたので、
私は仕事を切り上げて、その場所に駆けつけたりした・・。

どなたも同じと思われるが人事異動のたびに、
歓送迎会が部課間で盛んに行われ、私も異動のたびに、開催してくれた。

50歳を迎えた頃から、人付き合いと体力も疲れ果てて、歓送迎会が実施される以外はある程度のつきあいとし、
私は自宅の最寄り駅の付近の居酒屋で、
毎週の金曜日の10時過ぎに、定期便のように独りでボケッと呑んだりした。

私は弐合徳利のその時に思いついた地酒を2本呑みながら、
板長の進めの単品を3品を食べたりした。
そして絣(かすり)を召した女将や仲居さん達にからかわれながら、
1時間半ばかり心の憩(いこ)いとしていた。

その後、55歳になるとリストラ旋風の中、私は出向となってしまい、
勤務先が遠方の上、始業も早くなり、心身疲れきったので、居酒屋に寄れる余裕もなくなった。
こうした時は帰宅後、風呂に入った後、深夜の11時過ぎに日中の出来事を家内とお互いに話し合いながら、
弐合徳利の純米酒を呑んだりした。

どの時代でもサラリーマンの多くの方たちは、多忙な業務な勤務実態で成果を問われていたが、
私は花金の夜のひとときは、秘かな息抜きで過ごしてきた。
          
退職後の今としては、遠い昔の出来事だった、と改めて感じている。

私が勤めた数10年前の頃には、居酒屋などで私は料理を頂きながら、お酒を呑み、
最近の出来事を公私含めて他愛なく、話し合ったりしてきた。
そして職場上の交流として、憩(いこ)いのひととき、と長年思ったりしてきたので、
働いて下さる現役の諸兄諸姉は、少し寂しくないかしら、と思ったりしている。
          

しかし、ここ平成の時代が明けた頃から、世界の経済の状況も大幅に変貌し、
こうした中で、少なくとも私たちの現役時代は半期決算の時代を過ごしてきたが、
私の定年退職した7年前の頃から、四半期決算などで短期に業績が問われる厳しい時代となり、
大手企業の正社員でも安定した長期の勤務実態が望めなっているのが、現実でもある。

そして民間会社は部署間はもとより、同課内でも常時リストラの過酷な時代となり、
ノミニケーションが薄らいでいる、と新聞、雑誌などで読んだりしたことがある。
                    
このような実態を私は学んだりすると、働いて下さる現役の諸兄は、時代の烈風の中、
せめて金曜日の夜から、休日の時ぐらいは、
愛しき妻、そしてお子様・・何よりも信愛できる家族で、ゆったりとお過ごし下さい、
と私は無力ながら念願したりしている。

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コメントを頂いた後、気弱な私でも、無視する時は・・。

2013-11-28 11:02:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
偶然にブログの世界を知り、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

そして幾つかのブログ・サイトに彷徨(さまよ)いながら加入して、
何とかこの【gooブログ】サイトに定着したのは、2008〈平成20〉年5月であり、
ブログに関しては早や丸9年が過ぎ、10年生となっている。

私は年金生活をしている中、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
          

こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに圧倒的に感動を覚(おぼ)える。
こうしたことに日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを深く学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多いのである。

そして私は、何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしている。
          
或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               
その一方に於いて、本、映画などの批評、小説、詩、短歌、俳句などの創作に於いて、
その人なりの独創性にあふれた投稿文に接した時、震(ふる)える程、感銘を受ける。
          

コメントに関しては、以前のあるブログ形式に準じた10万人ぐらい加入した旧サイトに於いて、
何かしら『お友達リスト』が掲示機能があり、私は数多くのお方とコメントで交流を深めたりしていた。
そしてサイト上に『お友達リスト』のメンバーが明示できるので、
このような関連からまもなく100人は超えてしまい、
やがてこうした影響もあり、ランキングの首位に6年前に4週間ばかりなったりした。

しかし、私は気楽にコメントを書くことはできず、書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
やむなくコメント蘭を閉鎖して、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したのであった。

そして2年後の4年前の頃からは、コメント欄を解放して、来訪しコメントを残して下さった方には、
原則として返信を認(したた)め、今日に至っている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。
                  

こうした中で、政治、社会問題などの私の投稿文に於いて、コメントと頂いた時は、
私は小心者の為か、専門外の疎(うと)い身の私であり今後勉強します、と返信して、
ブログ上に於いては論争しないこととしている。

しかしながらコメントを頂いても、私は無視する時もある・・。

たとえば2005(平成17)年の当時に、
あるブログに準じた簡易サイトに加入していた時、コメント欄に書き込みをして頂いた方があった。
《 タイトルは、《あいうえお》
  内容は、ゲボリッチ
      ゲボリッチャン
  発信人は、f4rr
  発信時間は、20.39 》
と綴られて、ご丁寧に8回連続されていた。

この時、私はこれには、困ったなぁ、と感じたりした。
私は大学中退の身であるが、書き込みをされた方は、たとえ大学、大学院などを卒業されても、
心の貧しい人と思っている。
          

或いは私の投稿文について、確か5年前の頃だったと思われるが、
文節が良くない、文法を無視することもある・・などと執拗に幾度かコメントされたことがあった。

私はつたないながら独創的な文体を目指(めざ)して、今でも悪戦苦闘しているが、
高等学校の国語の文法の先生のようなことをコメントするなよ、と私は無視したりした。

ここ一週間に於いて、同一のお方からコメントを頂いたが、
私を精神XX病・・と書かれた上、ご丁寧にもある大学病院の10ぐらいの科を記載されていた。

そして私は、これには困ったなぁ、と苦笑しながら、コメントを削除した。

昨日もこのお方からコメントを頂き、
《 Unknown (ロモラオ)
 2013-11-27 15:45:49
 あなたは、先祖供養をしなければならない。》
と記載されていた。

私は困ったなぁ、と苦笑しながら、やはりコメントを削除した。

以上、このようなコメントを頂くのは、ただ戸惑い、私は無視することにしている。
そしてこのコメントを削除して、世の中は暇なお方がいるなぁ、と苦笑している。

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ホームセンターに行けば、百花繚乱のような品の中に、早くも年末用商品が・・。

2013-11-27 15:38:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
雲ひとつない青空の朝を迎え、落葉樹のあまたの朱紅色、紅色、黄色、茶色などに染められた葉は
たけなわとなっているが、一部は落葉し始めて、吹き寄せとなったりしているので、
晩秋の時節だなぁ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

その後、家内と共に朝食を頂いた後、私は最寄の散髪屋(理容店)に行き、
ご主人も付近を散策することが好きな人などで、
私は散髪してくれる間、モミジはあの道にある朱紅色が綺麗だった、
あの道にあるイチョウが鮮やかな黄色に染められていた、などを私たちは話し合ったりした。
          
帰宅後、家内から平素の買物専任者の私に、あるホームセンターのチラシを渡された。
そして私はチラシを見ながら、ティシュ・ペーパー お一人様5点(1点は5箱)まで、
お買い得の2本パックと大きく明記されて、クレラップのミニサイズ、レギュラーサイズなどに、
家内が赤いサインペンで、大きく丸印を付けられていた。

我が家は家内が丸印を付けた品は、買物専任者の私としては購入の必須品であり、
店頭で私が魅せられた品を追加として買い求めるのが鉄則となっている。

『少し多いですが、お願いしますね』
と私は家内から言われた。

『ハイ! 了解しました!』
と少しボケてきた私は、せめて返事ぐらいは、
若き自衛隊の諸兄に負けないように明るい声で、家内に応(こた)えた。

やがて私は外出着を整えた後、
『いつもの車で行った方がいいよねぇ?』
と私は家内に訊(たず)ねたりたりした。
『そうねぇ・・買う商品が多いし、重くなるから・・そうして下さい』
と家内は私に応(こた)えた・・。
          

私は定年後に無念ながら感覚が衰えたので、自動車免許証を更新を断念した身であり、
もとより自動車も所有せず、その上に自転車もなく、
根がケチなせいか、路線バスも利用することなく、歩いたりしている。

しかしながら平素の買物専任者の私は、買物をする時に多くの品を購入する時とか、
或いはビール24缶入り1ケース、お米5キロなどの重い品を買い求める時、
買物の曳(ひ)き車と称される『キャリーカート』を利用している。

               
そして私が買い物する品が手で提げられないような場合は、
この『キャリーカート』を私は曳(ひ)きずりながら買物に行き、
スーパーなどの店内で買物をし、支払いが終った後、段ボールを頂き、
この中に購入品を入れたりしてきている。

これだったならば、たとえ特売品を多めに購入しても、負担がないので、
買物が多い時は、この『キャリーカート』は最良の友となり、私の定年後の愛車となっている。
          
          ☆過ぎし5月、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
           ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    

私は秋日和の中、『キャリーカート』を曳(ひ)きずりながら、15分ばかり歩いたホームセンターに着いた。
そして入口のひとつの園芸コーナーから入れば、
冬の寒さに強い草花のパンジー、ビオラ、シクラメンなどが観られたり、
クリスマスのツリー、飾り品、サンターの帽子まであり、私は微笑んだりした。

そして奥に行けば、神棚の幾つかが陳列されて、お宮、神具が揃ったセットも5種類ぐらいあり、
この上の壁面には、《 早めのオススメ! 年末準備 》と明記されていた・・。

このホームセンターは百花繚乱(ひゃっかりょうらん)のように食品以外は、
家庭で使用される殆どあるが、
それにしても、早くも年末に買い清める神棚には、少し早いじゃないの、
と私は苦笑したりした。

やがて私は家内から依頼された数多くの品を買い求めて、
『キャリーカート』を曳(ひ)きずりながら、帰宅したのは昼の12時過ぎであった。

その後、最寄りのスーパーで食品を買い求める為に、
ふたたび私は出かけて、我が家の買物専任者の責務を終えたのは午後1時半で、
そして私たち夫婦は遅い昼食を頂いたりした。

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高齢者の私でも、妻を呼ぶ時は『・・ちゃん』付けとなり、39年が過ぎて・・。

2013-11-26 15:42:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は、結婚して38年生となっている。

私は外見上は、妻とか連れ合いことは、外見上は家内としている。
奥方というのも、つなない私でも遥か高貴の家から降下され嫁いできたくれた方と思い、
女房、というのも、私はあえてさけている。

女房と称される語源は、平安時代に於いて、宮中で私的事務をつかさどった女官の名称、
と若き二十歳の頃に、井口樹生・文学博士から教示された。
そして、『房』は部屋を指し、奥ゆかしき独り専用の広い部屋のことらしく、
我が家としては、私の実力不足で無念ながら家内専用の広い部屋がないのである。

このような理由として、消却してみれば妻を、家内、と私は外見上は公言している。
          
            ☆本日、買物した後、独りで散策した時の情景であり、下記に掲載した写真も同様である☆

しかしながらこの世の中には、内輪の日常生活の中、
『XX』、と男性が愛しき連れ合いを名前で呼び捨てにしている方たちがいる。

もとより私の世代より齢上の方の男性に多く、私より少し若い団塊世代の人の一部に見受けられるが、
私は何となく女中さん、或いは愛人のような存在で、
粗末にしているように感じ受けしまい、名前で呼び捨てにするのは論外としている。

こうした私の根底には、私は幼年期の頃から、女性に対して憧憬する悪い癖があり、
齢ばかり重ねた昨今でも、50代から70代の女性の言葉、しぐさに魅せられている。
特に凛とした女性には、圧倒的に弱く、少しばかり眩暈(めまい)を感じたりする体験が
幾たびもあったりしている。

或いは、妻を『XXさん』というのも、寝食を共にしているので、他人行儀らしく感じてしまう。

このような幾つになっても可愛げのない独断と偏見のある私である。
          

私がこの広い世界の中で、家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
私のすぐ下の妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に、私の生家の長兄宅に同居していたが、
結婚後は嫁ぎ先の義父母宅に同居することでなっていた。

こうした中で、私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
そして私は、義父と何かの時に、たまたま文学のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文学を愛し、
余暇は自宅の一室の10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、やがてこの商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、私たちは交際をはじめた・・。

二度目に私たちは待ち合わした時、私はXXさん、と苗字を言っても何かしら他人のように思え、
いきなり相手の名前、XXちゃんと呼んだ。
相手の女性は、突然に名前を言われたので、少し驚いたような表情を浮かべた・・。

こうした私の発想の根源は、恥ずかしながら告白すれば、
私が二十歳過ぎた頃に愛読していた小説家・福永武彦さんのひとつの作品の『草の花』の中で、
主人公の男性が交遊し好感を重ねていた若き女性に対して、XXちゃん、と名前で呼んでいたので、
流用させて頂いたのである。

私はこれ以降、婚約、やがて結婚、そして子供も恵まれなかったこともあるが、
家内のことを、我が家ではもとより、親族の集いの冠婚葬祭などを含めて、
XXちゃん付けとして呼び、39年が過ぎている・・。
          
しかし世の中は、私の友人のひとりは子供が二人に恵まれて、
何かしら育児に奮闘していた時から、子供の手前、
夫婦間でお互いに、お父さん、お母さん、と呼び合っている情景を私は見たりしてきた。


私たち夫婦は、共通の趣味のひとつとして国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から国内の各地を旅行をしたりしている・・。
ときには団体観光ツアーで各地を周遊したこともある。

バス、新幹線の車内、休憩所の土産売り場、観光ホテルのロビーとかで、
ご一緒に旅をしている人達から、ときおり笑われたりすることもある。

たとえば、新幹線を下車する直前、旅行のバックを持つ前に、
『あなた・・まわりのお方に注意して・・持ってね・・』
と私は家内から言われたりしている。

こうした時、
『はい!』
と私は明るく大きな声で家内に返事をする。

私は日常生活でも家内から何か言われた時、
はぁ~ぃ、と少しだらけた返事は嫌いなので、短めで明るく大きな声で返事をしている。

こうした返事を、旅先でもすると、 なぜかご一緒から、笑われたりする・・。
          

そして私は家内を呼ぶ時には、
『XXちゃん・・さぁ・・』
と私はいつものように、家内の名前を口にしたりすると、
車内の付近から、くすくす笑われたりしている。

私は家内と婚約する前の交際期間から、ちゃん付けで呼んでいるので、
もとより私は平然としている。

家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』、『XXさん』と名前で呼ばれたりするが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

こうした時、ご一緒の特に女性グループ方達から、
『あなた達・・いいわねぇ・・』
と笑いながら家内に言ったりしている。

こうしたことは、私はいつもの日常生活で使っているので、
私は戸惑いながら、ご一緒の方達に微笑返しをしたりしてきた。
          

しかしながら定年後の年金生活を始めてまもない頃、私は平素の買物の専任者となり、
スーパーなどで買物して、自宅に戻ると、この中のひとつが購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりする時もある。
          

こうした中で、私は連れ合いをワイフとかパートナーと呼ぶのは、
何となく違和感を感じているひとりである。
こうした根底には幼年期に農家の児と育てられ、少なくとも日本男児のひとりであるので、
私としては、欧米文化の日常生活のふるまいに何かと苦手となっているのである。

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さだまさし・みのもんた対談、熱き思いでラジオ放送、音楽を語り合い、感銘し・・。

2013-11-25 15:06:39 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 さだまさし・みのもんた対談 「ラジオがんばれ。だからテレビはだめなんだ」 】
と題された見出しを見たりした。

そして私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職する前には、
音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
裏方の管理畑あったが、何かと音楽に接する機会が多く、こよなく音楽を愛聴してきたひとりであり、
こうした理由もあり、興味を秘めてクリックした。

そして私は、この対談の記事を読み前には、
『さだまさし』さんには、30年以上音楽の第一線で活躍する男性アーティストの中では、
井上陽水さんと共に敬愛してきた。

しかし『みのもんた』さんに関しては殆ど無知で、10数年前に民間会社のテレビ番組で偶然に視聴し、
何かしら品位に欠けた人、と私は思い、苦手な人となっている。
その上に昨今は、テレビ局に勤めるご子息のひとりが、社会的不祥事を起して、
『みのもんた』ご自身がお詫びの記者会見のニュースを視聴したが、
当初として被害者に対してお詫びするのが社会の常識であり、こうしたことに触れず、私は失望を増した。

このようなことを私のおふたりに対しての心情があり、対談の記事を読みはじめた・・。
          
この対談は、週刊朝日が企画されて、週刊朝日の11月29日号に掲載され、
対談「『だからテレビはダメなんだ』 さだまさし×みのもんた」の完全版と私は解ったが、
『さだまさし』さん、『みのもんた』さんの両氏のラジオ、音楽に関し、
熱き思いでラジオ、音楽を語り合う発言に、やがて私は感動して、記事を読み終えた後は感銘した。

そして企画された週刊朝日・編集部が、「ラジオの古き良き時代の話」のテーマで自由に発言をさせ、
両氏にこれまで思い自在に対談させた勇断に私は驚いたりした。

もとより両氏は、それぞれの分野で成功者でありながら、本心をさらけ出した発言に、
このようなことまで吐露(とろ)してもいいのかしら、と読み手の私の方が心配したりした。

無断であるが、この発言の幾つかを転載させて頂く。
          

さだ 四谷二丁目の時です。そうです、そうです。
   あの頃は、だけどみのさん、ラジオからヒット曲が出た時代じゃないですか。

みの でました。

さだ で、みのさんが作ったヒット曲結構あるでしょ。

みの いやあ、あるあるあるある。ヒット曲にしちゃったっていうのがね。

さだ ヒット曲にしちっゃていうの、強引にね。

みの すごかった。

さだ だって東海ラジオのカニエアツコさんが、「精霊流し」売っちゃったんですから、一人で。

みの ああ。

さだ そのぐらい影響力あった。

みの すごかった。

さだ はい。

みの とにかく深夜放送の、というかラジオの電波の持ってる訴求力っていうのは今思うとすごかったね。
          
☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

みの (略)だから僕は思うんだけど、あんまり僕は詳しくないけど、今の歌謡界は。

さだ 僕も。

みの あの当時のヒットっていうのは、半端じゃないですよ。

さだ 破壊力があった。

みの すごかったよね。

さだ 売れる枚数じゃなくて。

みの 今の方たちが「ヒットした」って言うけど、もう申し訳ないけど、ええヒット?って言いたくなるような感じ。

さだ なんなんですかね、その差っていうのは。

みの 街歩いているとかかってるんだから。どこに行ってもそのメロディが。

さだ それとね、歌詞覚えやすかったですよね。

みの 言えますね。

さだ 英語混じりじゃなかったから。

みの あっそうねぇ。

さだ だからね、何が言いたいのか、はっきりしてたですよね。

みの それと、あの当時の日本人の心情にあのメロディっていうのがほんと食い込んできましたね。

さだ あの当時のヒット曲ってみんな覚えてますね。どの曲もね。

みの そう、耳に残ってます。

さだ そうでしたねえ。
          
☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

深夜放送の関しての話題に於いて

みの (略)あの当時はもう選曲権っていうのがすごかった。

さだ センキョクケンってなんですか?

みの 選曲する。

さだ 何を選曲するか?

みの レコード、曲を。

さだ うんうん。

みの それはくれないのよ、ペーペーには。

さだ やっぱりD(ディレクター)がやるんだ。

みの それとオオコシさんとかね、ホリとかホッタとかオクセとかね。

さだ ああホッタさんね。

みの 今偉くなっちゃったけど、あれ、それこそモギさんとか。

さだ モギさんね。

みの あの辺はもう選曲権持ってるの?

さだ モギさんはね。

みの 選曲権って何が選曲権、ノートがあるんですよ。今だから言えるけど。
   ぼんと置くの、そしたらレコード会社の営業担当、「キングレコード」担当なになに、曲はなんとかって順番に書いていくの。
   「書いた?」「うん」。
   ばんっ、見ないでこう閉めるの。
   「あーおなかすいたあ」とか言って。
   これね、一番最初にひっぱたかれもん、「お前は10年早い」って。

さだ 「あーおなかすいたなあ」って言うのが?

みの そうすると、必ずね、10分後ぐらいにね、電話がかかってくる。

さだ はい。

みの 「えっ、おおいいよいいよ」なんて電話に出て、「なんかレコード会社がね、飯食いたいらしいんだよ」。
   そういう時代でした。

さだ ずるいなあもう。

みの いや僕がやったんじゃなくて、そういうのを見てたから。

さだ ああそう。

みの だから「セイ!ヤング」スタートした時には、俺もノート置いたもんね。

さだ やっぱり!

みの だって、あれねどこだっけな、A社だっけかな、世界的に有名なバンドを持ってたの。

さだ ああそうです。

みの あの当時さ、あのバンドのアルバム、貴重品で。

さだ 貴重品ですよ。

みの ね。

さだ 貴重品です。

みの A社が来るじゃない、
   そうすると、「ええ、これが、あのバンドのなんだかんだ」と置いていくわけ。

さだ じゃあノベルティもらい放題。ひっどい時代だなぁ。

みの だから、「こんなに。うんわかった、ありがとう」ってもらうわけですよ。
   そのうちの何枚か持って、2時に終わると、ばーっと飲み行っちゃうわけ。
          
☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

さだ だからね、あの当時のみのさんたちがやってた、
   それこそ「オールナイトニッポン」の斉藤安弘さんだとか、今仁哲夫だとか、
   それから土居まさるさんとか落合恵子さんとか、みのさんなんかがやってた、かぜ耕士さんとかやってたじゃないですか。

みの これ書かないでね。

さだ うん書かない書かない。わかった書かない

みの あのね、ある歌手がね、ヒット曲がこうずーっと続かなくて、どうのこうのどうしたらいいんだろうってね、
   ある曲を持ってきて、「これで勝負したいんだ」ってきたわけ。
   「へえ、そうですか。じゃあ食事会やろうか」なんつってね。
   レコード会社の担当は大学の先輩で、「俺が今度この曲担当するんだけどさ、みの、かける?」
   「かけますよ、そりゃ」「飲め」「飲みますよ」「食え」「食いますよ」「3回かけろ」と。

さだ ははははは、そういうことか。

みの 「はいかけますよ」でやるわけ。
   そしたらほんとにね、その曲がチャートを上り始めたの。

さだ うん。

みの そしたらね、ホリさんっていう大プロデューサーが、
   「みのかけてるよな、同じ時間にニッポン放送の今仁哲夫もかけてんだよ」って。

さだ はははははは。

みの 同じ時間に! 両方堂々とかけちゃう。

さだ そうそう。

みの だっから、ラジオのヒット曲っていうのはこうやっても作れるんだなっていうのが経験できましたよ。

さだ テレビは、今もう音楽番組はないですから、テレビからヒット曲が出ないんです。
   それもヒットしてる人たちの顔見せ番組になっちゃってますから、ほとんどね。
   だから、これからの人たち、だから今ミュージシャンが頑張るしかないのはライブなんですよ。
   路上ライブって、やたらいっぱいいるじゃないすか。
   あの中から今度はヒット曲が出てくるんでしょうね。
   つまりね、僕は逆に言うと、今こそラジオの時代だと思っているんですよ。
   あの路上ライブをね、引っ張り上げるだけで、全然世の中が変わってくるのに。
          
☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆

みの いやああのね、僕、文化放送時代からね、試写会の誘いって多いんですよ。

さだ はい、試写会。

みの 僕は試写会絶対行かないの。

さだ ふむ。

みの というのは、僕は映画世代だから、
   もう「鞍馬天狗」の時代から、映画館で木戸銭払ってチケット買わないとね、
   なんかありがたみがないの。

さだ その通りですね。

みの コンサートもそう。

さだ そうそうそう。

みの 自分でチケット買ってね、座るとね、こう違うの。

さだ わかる。

みの 試写会って行ってもね、ぱーっと見てふーんとだけ。
   残んない。

さだ それで問題なのは、タダで見に来るやつが、評論家なんですよ。

みの ……これ、さだくんが言ったんだよ。

さだ タダで見に来るヤツが評論しているんですよ。言いたいこと言うわね。
   で、コンサートも、タダで見に来るヤツが評論してるんです、ほとんど。
   それで、そこで、ものすごいお土産をあげるタレントは、それはよく言いますわね。
   なんかあげないとダメだなって思ってますもん。

みの ほんと、ラジオってすごいなと思います。

さだ 軽いし。

みの それはすごかった、ラジオって。

さだ 見えないし。

みの 何がすごいって、世の中動かせたもん。それも、曲で動かせたんですよ。

さだ 音楽で。ね

みの 音楽で。音楽ってほんとにね、
   僕が言うとおかしいけど、世の中をね、ほんと、揺らすことぐらいできますよ。

さだ あの当時はね。

みの いやあ、いま、なんか迫力ある曲ない?

さだ ううん、今はね、音楽を持たないです。

みの 詞が覚えられないのはほんとですよ。

さだ だから今の人たちはみんなCD買わないです。
   ダウンロードで、聴いて、捨て。
   それでまた新しいのダウンロードして、聴いて、捨て。捨ててくんです。
   もう自分で持っとくってことしないんです。
   CDが売れないんです。
   握手券でもついてれば別ですよ。でもCDはどのくらい残ってますかねえ。
   握手券は残ってても、使っても、つまり、売ってる物が違ってきたんですよ。
   楽曲そのものに力がない。

みの 確かにあれだよなあ、ガンガン音楽かけてるけど、
   パソコンで聴いてるやつたくさんいるもんね、なんか。

さだ いますよ。自分の好きな物だけ聴けますもん。
   で最近の子は、もう耳を塞いでますから、音楽で。

みの でもラジオだよなあ。

さだ ラジオなんです。

みの 僕がいま文化放送でやらせていただいてるんだけど、絶対完奏させるの。

さだ うんうん。

みの 僕いやなの、1番だけとか、1番2番抜かしてとかやるの。
   悪いけど、イントロから最後のところまで、1番2番3番全部かけていくんです。

さだ それはね、みのさんの世代だからですよ。

みの 曲の紹介ってね、そういうもんだよ。

さだ 泣くほどうれしい、その話は。

みの 絶対売れる。聴いてる人は満足。だから、曲数が少ないんですよ。2時間しかないから。

さだ でも関係ないですよ、そんなの。

みの だけど、かけたい曲っていうのはほんといいですよ。

さだ だってみのさんね、「関白宣言」ね、「俺より先に寝るな起きるな」のところで切られてごらんなさい。
   「何言ってんだこいつは」って思われますよ。

みの 生のコンサートの会場で聴くと、ほんと泣けるね。

さだ だけどね、1番だけでコマーシャルにいかれちっゃたらね、「ふざけんなバカヤロー」って言われますよね。
   「なんで、お前より先に寝ちゃいけねえんだ」って。
   いや最後まで聴いてって思うんだけど、聴かないんですもの。
   だからもう、コマーシャルソングみたいな歌ばっかりヒットするのよ。

みの 今ね。

さだ ワンフレーズソングばっかり。俺許せないと思う。

みの やっぱり起承転結、そこにドラマがあるんですものね。

さだ だってドラマなんてもうないですよ、今の音楽に。

みの ダメだな。

さだ ダメっすよ、って愚痴言っててもしょうがないんだけどね、ここで。

みの いや、でもラジオがもうちょっと頑張れば、絶対そうなるんじゃないかな。

さだ ラジオがんばれですよね。
   なんかラジオの応援になりましたよね、今日は。
          

長々と無断で転載させて頂いたが、この対談の一部を抜粋した箇所であるが、
『さだまさし』さん、『みのもんた』さんの両氏のラジオ、音楽に関し、
熱き思いでラジオ、音楽を語り合う発言に、やがて私は感動して、記事を読み終えた後は感銘した。

そして『みのもんた』さんは偶然に私と同世代であるが、
氏は突出した才能があり、しかし誰しも過ちがあるのは人であり
昨今の記者会見などは、こうしたことは氏の欠点を事前にスタッフが補うべきだった、
と私は『みのもんた』さんに評価を改めている。

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昨夜、突然に家内から、デパートに買い物に、と私は誘われて・・。

2013-11-24 17:32:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

年金生活の平素の中、家内は少なくても料理、洗濯、掃除などをしてくれているので、
せめて日常の買物ぐらいと思い、私は自主的に買物の専任者となり、
独りでほぼ毎日スーパー、専門店に行ったりしている。

こうした中で、ときおり家内の要望で、私たち夫婦は駅前に買物をしたり、
年に4回ぐらいは都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
高齢者の私でもボディーガード兼お供、荷物持ちで共に出かけたりしてきた。

昨夜、家内と共に夕食を頂いている時、
『明日、デパートに買い物に買物に行きませんか?』
と家内は私を誘惑した。
『明日は日曜日でデバートは混むよなぁ・・』
と私は家内の誘いを渋ったりした。

私は定年後の年金生活の中、何かと人出の多い所が苦手であったのである。
          
私たち夫婦は、年末年始は独り住まいの家内の母に来宅してもらい、
過ごすのがここ8年ばかりの我が家の恒例行事となっている。

家内の父は私が定年退職する2004(平成16)年の秋の直前に病死され、
独り住まいとなった家内の母を私たち夫婦は温泉滞在旅行などに誘い、幾たび旅行を重ねてきたが、
3年前に膝(ひざ)が衰え、何かと長く歩くことは苦手となってきた。

こうした中で我が家に年末年始7泊8日ぐらいで、共に過ごしたりするが、
寝室、炬燵など膝(ひざ)に負担がないように、或いは浴室で入浴しやすいように備品を買い求めてきたが、
昨今、家内は滑り止めの浴室用のマットを探し求めてきた。
そして最寄りのホームセンターなどになくて、あるデパートの健康器具コーナーにあることが、
3日前に家内は知った・・。


この備品を買い求めたく、家内は私にデパートに買い物に誘い、
そして家内は、私がウォーキング・シューズを買い改める品を探し求めていたが、
無念ながら最寄りの駅前では魅了されている品が無かったので、
この際、デパートで買いましょう、と家内は微笑みながら、私を誘ったのである。
          
今朝、朝食を共にしている時、
『XXちゃんさぁ・・どうせデパートに行くのだから・・
貴女の旅行用の防寒コートを買いましょうょ』
と私は言ったりした。

家内の旅行用の防寒コートは、家内は気に入って10年ぐらい愛用してきたが、
たとえ少し高価な品であっても、と私は思ったりしたので、
程ほどの限度額を言いながら、好感するコートを選べば、と買い改めるように私は進言したりした。
          

そして私たち夫婦は、本日の9時半過ぎに家を出て、
自宅の近くにあるバス停より路線バスに乗車した後、
最寄駅のひとつの『成城学園前』から小田急線を利用して『新宿』で下車し、
あるデパートに入ったの10時15分過ぎであった。

そして家内は婦人服フロアーで防寒コートを選定していたが、
家内はこうした選定は数時間を要することもあり、
この間の私は喫茶店に入ったり、
やがて屋上で秋日和の暖かい陽だまりの中で、持参した文庫を読んだりした。

そして一時間半後、家内と合流した後、私たちはスポーツ・シューズ売り場で、
私はウォーキング・シューズを2足ばかり買い求めた後、
『XXちゃんも・・この際、新たにウォーキング・シューズを買ったら・・』
と私は強く家内に進言した。

この後、私たち夫婦は遅い昼食を食事処でした後、自宅に向かった。
          
昨夜までは、浴室用の滑り止めのマット、私のウォーキング・シューズを1足を購入する予定であったが、
結果的には家内の防寒コート、そしてお互いにウォーキング・シューズを1足つづ加わり、
年金支給分の一カ月分ぐらいを支払ったりしたが、
ときにはこのような買い物を私たち夫婦はしたりしている。

しかしながら、私たち夫婦が一戸建ての新築した30代の時は、
住宅ローンの返済で苦慮した体験もあり、
今回の買い物は少し衝動的だったかしら、と私たちは微苦笑したりしている。

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勤労感謝の日、私のサラリーマン時代の思いで、そして年金生活の今は・・。

2013-11-23 08:59:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、『勤労感謝の日』と朱記されて、
勤労感謝の日で祭日なのか、と昨今は恥ずかしながらも曜日の感覚が衰えている我が身に、
苦笑したりした。

そして小庭にあるテラスに下り立ち、まばゆい朝の陽射しの中、
落葉樹は紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られる錦繍(きんしゅう)の情景となり、
私はぼんやり眺めながら、秋日和の清々しい日中を迎えるなぁ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

やがて私は、現役サラリーマンだった時の『勤労感謝の日』の時は・・と思い馳せたりした。
          
私は民間会社の中小業のある会社に勤め、30代の頃は情報畑のコンピュータの専任者であった。
会社の販売締切日がたまたま20日であり、この後の4日前後は特に多忙な日々であった・・。
この当時は本社でオンラインの前の時代で、本社で一括処理をしていたので、
私は月次処理、月次更新作業などで、こうした中で『勤労感謝の日』の祭日の日も、休日出勤務をしていた。

そして経理の決算の担当メンバーも出勤されていたので、
私は同僚の人たちに、
『働けるうちに・・こうしていられるのも・・幸せかも知れない・・』
と私は言いながら、疲れ切っていたが、元気良く社内で奮戦したりした。

40代になると、システムの開発と運営の併行業務となり、
たえず身体も張り、ときには週一回休めれば良い方で、土日、祭日の休日もなくなった時期が多かった。
そして、ときおり徹夜となり、早朝を迎えると、
『今・・働らなくて・・いつ働くのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、自身を叱咤激励して奮闘していた。

そして50代は情報畑から他部門に異動したり、後半は業界のリストラ烈風の中で出向となったりしたが、
相変わらず心も身もギリギリまで業務に専念したりし、
特に勤務地の遠い出向先に於いては、
『50代後半でも体力勝負は・・勘弁してほしい』
と心の中で呟(つぶや)くことが多く、やがて定年退職を2004〈平成16〉年の秋に向え、
サラリーマン生活を卒業したのである。
          
そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

こうしたささやかな生活をしているが、もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えているのである。

こうした現状を思考すれば、私は現役世代の働いて下さる諸兄諸姉に感謝をしながら、
思わず11月23日は、年金生活をしている私にとっては、
年金生活を始めて『勤労感謝の日』を初めて迎えた時、『年金感謝の日』と実感を深めながら命名したりした。

そして経済はアベノミクスと高揚感ただよう中で、
サラリーマンの諸兄諸姉は、たえず短期に成果を問われる過酷な時代となっているが、
せめて祭日の『勤労感謝の日』と日曜日の連休の方は多いと思われるので、
愛する妻と可愛い子供と共に、ご家族でのんびりと過ごされれば・・と無力の私は願ったりしている。

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元会社員世帯の厚生年金受給者層が『介護難民』にならない為の教科書!?

2013-11-22 07:58:08 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 民間介護施設:一時金なしから4億円豪華版まで 】
と題された見出しを見て、
私は古ぼけた一戸建てに住み、まもなく64歳なる家内と住んでいるが、
いずれは要介護となった時のことも考えて、クリックした。

そしてこの記事を読み終わった後は、私と同じような元会社員世帯の厚生年金受給者が、
いずれ要介護が進んだ時、『介護難民』にならない為の教科書のひとつ、と確信を深めたりした。

ビジネス総合誌として名高い雑誌『プレジデント』の2012年1月16日号に掲載された記事で、
関連の『プレジデントオンライン』は「仕事人×生活人」のための問題解決塾 ...、と銘題している中で、
2013年11月19日(火)に配信した記事のひとつである。
http://president.jp/articles/-/11212
☆『プレジデントオンライン』<==『民間介護施設:一時金なしから4億円豪華版まで』☆

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、ふたりだけの高齢者家庭に属するが、
中小業に35年近く勤めて定年退職後、年金生活をしている身であるが、
老後生活を配慮して程ほどの貯金はあるが、やがて高額な有料老人ホームに入るには、
無念ながら到達できる費用が足りないので、どちらかが介護が進んだ時は
「サービス付き高齢者向け住宅」を検討するひとつと思ったのである。
          
今回の記事を読みながら切実に感じ、考えさせられたのは、下記のことである。
《・・「これまで『老人ホームに入る』というと孤独で寂しい老後のイメージがつきまといましたが、それは古い常識。
高齢者も体が元気なうちは自宅で悠々自適に暮らせますが、
夫婦どちらかが要介護状態になったり、認知症になってしまったら、
他人の手を借りずに生活するのは不可能になります。

しかし、核家族化で家族に頼るのも難しく、介護の担い手となる若者世代も絶対的に不足する超高齢化社会では、
そのときになって慌てて介護施設を探しても、受け入れ先が見つからないことが十分考えられます。
費用の安い施設は順番待ちで入れず、
高額な有料老人ホームに入るには費用が足りないという『介護難民』にならないためにも、
リタイア後の暮らし方について早めに計画しておくことが重要です」

「サービス付き高齢者向け住宅」は、元会社員世帯の厚生年金受給者層の利用を想定しており、
入居時に高額な一時金を支払う必要もないため、
有料老人ホームに比べればリーズナブルに利用できる。

都心か郊外かによっても異なるが、月々の賃料は近隣の家賃相場並み、
都心部ならトータル10万円台後半で暮らせるように設定されている。
          

比較的軽い要介護状態で高齢者向け住宅に居住すると仮定して、家賃が月7万~10万円、
そこに共益費や管理費が2万円、食費3万~4万円、介護保険や医療保険の自己負担分4万円が加わって、
毎月20万円弱が老後の生活費と介護費用の目安となる。

「厚生年金の支給額が1人に月々15万円あるとして、
プラス月々15万~20万円使えるくらいの貯蓄額があれば、かなり安心して暮らすことができますね。
もちろん求める生活レベルによって金額は異なりますが、
これまでのように年金と退職金で老後の暮らしを賄おうと考えている人にとっては、正直なところ厳しい時代です」

さらに、高齢者向け住宅に入居さえすれば安泰というわけでもない。
より重度の介護が必要になったり、認知症がひどくなったりした場合には「サービス付き高齢者向け住宅」では
対処しきれなくなるケースもある。
「高齢者住宅情報センター」のセンター長、米沢なな子さんはこう指摘する。

「ひと口に“サービス付き”といっても、制度がはじまったばかりで実態はまちまち。
介護とは関係ない分野から新たなビジネスチャンスとして進出してきた事業者も多く、
きちんとニーズにこたえているかはわかりません。
基準を最低限満たしていれば、登録できますからね。

介護施設やクリニックを併設して手厚いサービスを提供している優良な住宅もあれば、
基準通りの安否確認と生活相談の担当者が、
日中に常駐するだけのサービスしか提供されない住宅も少なくないでしょう」

後者の場合は、せっかく入居しても介護度が進めば退去を余儀なくされ、最後まで住み続けられなくなってしまう。
入居を検討するときは必ず複数の住宅を見学して、
具体的な仕組みやスタッフの質をしっかり確認する必要があるというわけだ。・・》
          
私たち夫婦は、現在の老朽化した一戸建てに住み、もとより終末を迎えたいが、
この間に、長命となり、どちらかが介護が進んだ場合か、
どちらかがボケないうちに、「サービス付き高齢者向け住宅」を慎重に選定して、
入居するのが望ましいかしら、と思案させられたりしたのである。

私たち夫婦はお互いに10年前より体力の衰えを実感しているが、心身元気に日々を過ごしているが、
いつの日にかは健康寿命が過ぎて・・やがては・・と改めて深く思いめぐらしたりしている。

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錦繍の時節を迎えた昨今、唱歌『紅葉(もみじ)』を心の中で唄いながら・・。

2013-11-21 10:27:54 | 定年後の思い
過ぎ去り日9月の中旬を過ぎた頃から北海道の大雪山の山麓が早くも色づき始めたり、
或いは日本で一番紅葉が遅いと称されている房総半島の中央部にある亀山湖の周囲を
過ぎ去る9年前の11月の月末に旅してきた私は、
日本の各地であまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染める錦繍(きんしゅう)の情景に、
齢ばかり重ねてきた私でも魅了されてきた・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅み住む年金生活の69歳の身であるが、
私の住む地域に於いては、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となる。

やがて数多くの葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが、12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
          
こうした中で、日本の各地の名所、旧跡などで、美麗な錦繍(きんしゅう)の情景が、
テレビで放送されたりし、ネットのブログなどで公開される方を拝見したりすると、
私も過ぎ去りし日々に旅先で観た光景も重なり、確かに綺麗な情景だ、と思ったりしている。

日本の古来より、幾数1000年の時の流れの中で、常緑樹、落葉樹の山や森、そして里に恵まれた中、
人々はそれぞれ育(はぐく)み、生活を営(いとな)んできた。
やがて室町時代の頃から時の権力者に命じられ中で、作庭師たちは英知とたゆまぬ研鑽で、
日本の各地に四季折々の情景を独創的な形で作庭し、この中の一部が今日の名所、旧跡となっている。
          
もとより時代を超えた山、森の情景、そして名所、旧跡は突出した情景に、
数多くの人に確固たる美を感じさせる。

このようなことを私は若き日の20代の頃から思ったりしてきた。

私は自宅の小庭に経済力に乏しく、やむなく落葉樹を中核に植えて、
36年ばかり過ぎ、四季折々の情景と共に過ごしてきた。
或いは通勤、散策、買物の時などは最寄りの住宅街の歩道、旧街道、遊歩道などの場所を歩いたり、
ときには小公園、大きな都立公園などを訪れてきた。
          
こうした中で、過ぎし日の思いが突然に甦(よみが)ったりして、微苦笑したりする。
幼年期に母や叔母に手を引かれて歩いた場所、小学時代の通学の時に歩いた路、
そして下校時にあてどもなく回り道をして歩き廻った道・・。
或いは青年期に失恋して途方にくれて歩いた場所など、
生家に近い私の自宅の周辺を、年金生活の今はひたすら歩くことが多い。

そして日々の生活を過ごしている中、このような近い場所にこんなに美しい状景があったの、
と思いがけない光景にめぐり逢ったりしている。

特にここ10年の私は、名所、旧跡などを訪れるのもよいが、
住まいの近くを歩いたりし、過ぎゆく錦繍(きんしゅう)の情景に心を託(たく)して過ごしている。
          
こうした根底のひとつには、冬の木立、早春の芽吹き、夏の枝葉を伸ばした下の木陰、
そして葉の染める錦繍の時期、やがて落葉の時期、
季節のうつろいを享受しながら、平素の日常生活を過ごしたりしている。


こうした思いを秘めて私は自宅の周辺3キロ範囲を錦繍(きんしゅう)の時節を迎えた昨今、
高齢者の私でも、ひとつの歌を心の中で唄いながら、歩くことが多い・・。
          
♪秋の夕日に照る山紅葉(やまもみじ)、
 濃(こ)いも薄いも数ある中に、
 松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は、
 山のふもとの裾模様(すそもよう)。

 渓(たに)の流(ながれ)に散り浮く紅葉、
 波にゆられて離れて寄って、
 赤や黄色の色様々に、
 水の上にも織る錦。
【 『紅葉(もみじ)』 作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一 文部省唱歌(二年) 】

もとよりこの名歌は、1911(明治44)年の「尋常小学唱歌(二)」にて発表された歌のひとつである。
そして作詞された高野辰之さんは、碓氷峠にある信越本線熊ノ平駅(現在は廃線)から紅葉を眺め、
その美しさに惹かれてこの詞を作ったと、今や伝説となっている。

私も確か小学3年の頃の1953〈昭和29〉年の頃に、
女の先生がオルガンを弾かれて、私たち生徒は導かれて習った記憶が、
ぼんやりとしながらも心の片隅にある歌のひとつとなっている。

今回、余りにも美しい詞なので、作詞された高野辰之さんに私は敬意しながら、
百年以上過ぎ、著作権権利は失効していることもあり、すべての詞を転記させて頂いた。
         
そしてこのような心情を重ねると、誰しもが日常生活の中で、長年にお住まいの地域が愛(いと)おしく、
過ぎ去り日々に愛惜を重ねたりし、これから到来する時節を迎え、
ささやかな期待を秘めて過ごされていると思われる。

こうした思いから、それぞれの方はお住まいされている地域こそが、
心をより一層深められる、と思い重ねている。

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デジカメの愛機、心の思いを寄せて撮り、早や一年が過ぎても、はかなくも・・。

2013-11-20 08:22:59 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業の会社に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなく本屋の書物からブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、早や9年が過ぎている。

こうした中で、諸兄諸姉の皆様の多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ6年ぐらい前の頃からは、殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもあった。

こうした昨年の10月下旬の時、私たち夫婦は、
北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間で滞在し、周辺を散策した。
そして旅から帰宅した後、いつものように投稿文を重ねた・・。

まもなく私の投稿文を読んで下さったひとりの女性からコメントを頂いた。
《・・それにしてもお写真がないのが、とても残念・・》
この女性はブログ上で、ここ数年心の交流を重ねたひとりで、
私は美麗な女性と想像を深めながら、何よりも心清らかな奥方であり、
          
やがて私は、喚起させられて、いま覚えなくていつになったら覚えるのょ、
と自身を叱咤激励しながら、ブログ上で写真を掲載をすることを決意した。

そして過ぎし昨年の『文化の日』の翌日の4日に於いて、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞(こ)う人もいなく、
いろいろと彷徨(さまよ)いながら、これ以降のブログに写真を添付して、今日に至っている。
                      
          ☆現在愛用しているデジカメで、購入してまもない時の昨年の12月7日に於いて、
           最寄りの都立・神代植物園の錦繍の情景をテスト本番として撮った。
           以下、掲載した写真は、この時の情景である☆

私が以前に愛用していたデジタルカメラは、2004〈平成16〉年の秋に定年退職する2か月前に、
我が家から最寄りの家電の量販店で買い求めた。

購入する数が月間は、会社の近くのカメラ売り場を見て、色々と思案させられた・・。
この当時の2004〈平成16〉年の初夏の頃は、
液晶画面を見て撮るコンパクト・カメラが流行していたが、
やはり私は一眼レフのようにファインダーを見て構図を決定するのに、こだわっていた。
          
この当時としては、ニコン、キャノンなどの一眼レフの1000万画素前後のカメラに魅了させられたが、
標準レンズの20~55mm、そして望遠ズームの55~200mmを付けたりすると、
確か80万円を超える金額であった。
          
私は若き1960〈昭和35〉年の春に、都心の私立の高校に入学して、
クラブとしては写真部に所属し、人を写すポートレートは照れ臭いので、
風景画に専念し、現像などを含めて、ニコン、キャノン、アサヒベンタックスなどのフィルム一眼レフのカメラから、
写しだされる奥行、深さも少しは学んだりした。
          
その後のサラリーマン時代の多忙の時代は、フィルムのコンバクト・カメラで、
ともすれば忘れるので、記憶のメモ代わりに撮ったりしてきた。
          
定年後は年金生活を予定していた私としては、一眼レフのカメラだと、
レンズの買い増しなどの購入などでエスカレートすると費用も際限なくなるので、やむなく断念し、
この当時としては高質とされていた800画素でズームレンズのあるカメラ一体型で、
程ほどの良質なキャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定することとした。
          
結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
総合教養雑誌の『サライ』でも賞賛されていたコニカミノルタの『DIMAGE A2』とした。
そしてデジカメ本体にカメラ・ケース、充電器、リチウムイオン電池の予備、
記憶媒体はCF(コンパクト・フラッシュ)であるので、512MBを購入し、確かこの当時30万円を超えた。

http://www.konicaminolta.jp/about/release/2004/0213_06_01.html
☆【コニカミノルタ】公式サイト<==《DIMAGE A2》☆

このデジカメはズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
周遊観光などに参加した場合は、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフのレンズ交換を考慮すると、
確かに私のデジカメは構図が素早く決められ、機動力がある、と秘かに思ったりしていた。
          
そして記憶媒体はCF(コンバクト・フラッシュ)は512MBを使用していたが
512MBの記憶媒体で500画素程度にすると、128枚前後撮れる。
800画素にすると、64枚前後となるので、フィルム時代からすれば隔世の感があった。
この後、1Gのコンバクト・フラッシュを2年後に買い求めると、
たった2年間で、5分の1程度の価格となったのに驚いたりした。

このデジカメの世界も画質は年々向上し、価格も下落する状況となっている。
          
こうした中で私は相変わらずコニカミノルタの『DIMAGE A2』を愛用し、
『高級な一眼レフに比べれば確かに劣るが、撮る思いは一流である』
と心の中で呟(つぶや)きながら、旅行先の美景を撮り続けてきた・・。
しかし恥ずかしいことを告白すれば、安芸の宮島に訪れた時は、夜景を撮るのに失敗した。

夕食後、遊覧船に乗り、海上から大鳥居、厳島神社がライトアップさせられた中、
風もない穏やかな海上で、遊覧船は大鳥居に近づき、そして大鳥居の中を遊覧船は通り抜けた・・。
前方に厳島神社が観え、後方には五重塔が聳(そび)えている。
幻のような景観であったが、確かに目の前に圧倒的な光景が拡がった。
無念ながら、この情景が殆ど撮れていなく、その後の薄暗いシーン、花火も失敗作となったりした。

こうして旅先などで撮ったのを私は、パソコンのハードディスクに保存して、
プリンターで印刷もせず、その上にブログに写真を掲載する技量もなく、7年ばかり過ぎた・・。
          
やがてこのデジカメの性能は世の中の進歩から取り残されたか、或いは私のつたない技量か解らないが、
昨年の2012(平成24)年の春先から、秘かにデジカメの最新を漠然としながらも注視したりした・・。
          

このような心情を秘めていた私が、昨年の11月19日に於いて、
いつものように私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり一緒に出かけ、
家電の量販店に『電気毛布』を買い求めに行った。
そして電気毛布を購入した後、デジカメの売り場も寄ろう、と私は家内を誘ったりした。

デジカメ売り場で、私がここ数か月思案していたデジカメを手に取っていたら、
家内が見ていて、
『貴方の持っているデジカメより、可愛らしいわ・・軽そうだし・・
その上・・お値段も廉(やす)いし・・』
とデジカメにまったく無知な家内でも、私に言った。

http://www.nikon-image.com/products/camera/compact/coolpix/performance/p510/
☆【ニコン】公式サイト<==《クールピクス P510》

『今の持っているデジカメより、遥かに画質も向上しているし・・価格も廉(やす)いよ』
と私は家内に言ったりした。

『欲しかったら・・お買い求めになれば・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

結果として私は、売り場の精算場所で、
この新しいデジカメ、そしてカメラケース、記憶媒体のSDHCの8GBを、
デジカメの世界の熾烈な競争の中で、私は4万円以下で、手にすることができた。
そして何よりも私が驚いたのは、この中の記憶媒体がたった1680円で、
私の定年後の丸8年過ぎた中で、世界市場の過激な実態を実感させられたのである。
          
こうして私は新しいデシカメを手にし、
思いがけない家内からのクリスマス・プレゼントかしら、と喜びながらも、
余りにも進んでいる機能をマニアル本を見ながら、デジカメを触ったりしてきた。
          
そして私は、真新しいデジカメを持ちながら、散策をする時の情景を撮ったり、
或いは自宅から近い遊歩道、小公園、神社などを撮ったり、
恥ずかしながら自宅の小庭まで掲載したりし、何かと外出する時にデシカメを持参する習慣となってしまい、
当人の私でも変貌に微苦笑している。

こうした間に、記憶媒体のSDHCの16GBを買い求めて、旅先の滞在日数の多い時に備えたりした。
          

やがて私はパソコンのソフトの中で、遅ればせながら『ペイント』という機能を初めて知り、
この『ペイント』を活用し始めたのは、今年の5月過ぎであった。

この間、デジカメの世界を遅ればせながら改めて学び、一眼レフには高級、中級、初心者用があり、
コンパクトに於いては程ほどの品、簡易用が区分されて、歴然とした表現力を秘めた機能があることを知った。
そして私はデジカメの一眼レフの中級品の本体に、ズーム28~300ミリぐらいのレンズで撮ったならば、
圧倒的に鮮明に表現できる、と夢想を重ねたりしたこともあった。

しかしながら私が愛用しているコンパクトのデジカメさえ、500グラムぐらいで、
平素は首廻りからネクタイのように前に提げて歩いているが、少し重く感じてしまう。
まして一眼レフの本体にズームレンズにすると、1キロは遥かに超えてしまうので、
常に片手に持ち、撮影を優先するスタイルの散策となってしまうので、あえなく購入することを断念した。
          
こうした私の根底には、私のブログ上は、写真の主体の『写真』ブログの範疇ではなく、
『随筆』そしてシニア系の『日記』に所属しているので、その日のあふれた思いを投稿文を綴り、
無念ながら筆力が乏しいので、写真は付属品のイラスト絵柄のような代わりとして添付している。

このような思いになると、あふれる思いの描写こそが肝要なので、
写真の技量より、文章表現の修行をしなさい、もうひとりの私に叱咤させられている。
          
しかし昨今は、かっての写真添付のない私の投稿文を読んだりすると、
文章だけの投稿文は息苦しく感じ、その上に描写表現に乏しいこともあり、
されど写真掲載は私の投稿文に於いては、今や不可欠である、と微苦笑している。


尚、余談ながら私が愛用しているコンパクトのデジカメは、
今年の2月の中旬に石垣島に9泊10日の滞在旅行をした時、
川平湾のサンゴ礁を鑑賞しやすいグラスボート船に私たち夫婦は乗船した時だった。

私はサンゴ礁を撮っていた時、向き合った席に30歳前後の美麗な女性が同船していたが、
偶然に私と同じカメラであったので、お互いに微笑みあったりした。

この後日、ヨットで《サンセット・クルーズ》に私たち夫婦は乗船したが、
この時の操縦、案内人を独りでしていたのは、アメリカのテキサス州出身の方であった、
そして乗船した観光客は、私たち夫婦だけで、私は英語の片言と日本語でこのお方と交流を深めた。
          
                このお方の承諾を得て、思いで深い記念写真とした。

このお方は写真を撮るのが趣味で、たまたま私のカメラと同一であったので、
お互いに、操作も簡単で程ほどに撮れますよねぇ、と微笑みあったりした。

こうした旅先でささやかな想いもある私の愛機でもある。

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“自爆営業”横行の実態を知り、私はサラリーマンだった時代を思い重ねれば・・。

2013-11-19 13:42:21 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、ニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 日本郵便、局員による年賀はがき“自爆営業”横行の実態~ノルマは一人2500枚… 】
と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、と思いながら、何事も好奇心を失くしたら、この世は終わりだ、と信念の私は、
クリックしてしまった。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130828-00010004-bjournal-bus_all
☆【YAHOO! JAPAN】<==『雑誌』
      <==『Business Journal』<==『 日本郵便、局員による年賀はがき“自爆営業”横行の実態~ノルマは一人2500枚… 』
          
私は郵便局員(日本郵便の社員・スタッフ)さんが、自社商品の年賀はがきなどを
半強制的に購入されている“自爆営業”横行の実態を初めて知り、憂いながら深く溜息を重ねた・・。
          
そして何よりも卑劣で悪質なことは、自爆営業しない場合は、
《・・局長と“話し合い”が行われたり、非正規社員の場合は「正社員になりたいんだろう」などと、人事上の圧力を加えられるそうだ。
その実態について、前出の女性は次のように明かす。

「『郵便局の一番のお得意さまは、郵便局員である』という言葉があるくらいです。
本当にプレッシャーをかけられます」

「(非正規社員からは)ノルマを達成していても正社員になれないという、悲痛な声もたくさんある。
生活できる賃金を出さないで、人を雇うのは本当におかしい」

この女性は、「日本郵便は、知られざるパワハラ職場」と訴える。
労務管理の厳しい日本郵便では、自殺者も出ているという。・・》

このようなことであり、執筆者の佐藤裕一さんが日本郵便の広報室に問い合わせたところ、
一部事実を認めながら次のように回答を寄せた、と記載している。
特にこの中で、苦笑させられ、怒りさえ感じたことは、
《・・「自分で買い取るということは、実際の需要がないということ。
需要がないものを、あたかも売ったようにして、目標を達成したかのようにすることはおかしいと指導している。
社員に買い取らせるようなことはしないように、管理者に話をしている」・・》
          
私はこのような広報室の発言に対して、大いに疑問視してしいる。

もとより郵便物の烈風化の中で、本社としては各郵便局の責任者に、
業績の向上を指示していることは想像できることであり、上層部の方は叱咤激励する中で、
今回のようなことは黙認している、と私は感じてしまうのである。

そしてここ10数年は、諸兄諸姉の社員は短期に成果を求められる時代となっているが、
非正規社員まで日本郵便は、黙認するような状況は、卑劣で悪質と嘆いてしまう。

こうした経営風土は、経営をたずさわる方の責務としては、余りにも心の節度が欠けることである。
          

私は1970〈昭和45〉年の春かに2014〈平成16〉年の秋まで、
中小業の民間会社で35年近く勤めて定年退職した身である。

この間に、友人や知人に自社商品を半強制的に購入を余儀なくされていた実態を知っているが、
あくまで正社員の中で、契約社員までは波及していなかった。
こうしたことは賞与と称されるボーナス時の年に2回の時、
このボーナス額の30%前後、自社の商品を半強制的に購入を余儀されていた風潮があったりした。

私の知人のひとりは、ある音響・映像メーカーに勤める中、私に打ち明けたことがあった。
『テレビ、ステレオも過ぎし年に買ったり、昨年はビデオデッキを・・
今年はやむなくビデオカメラにするしかないょ』
と嘆(なげ)いたりしていた。

或いは家電メーカーに勤める友人のひとりは、
『冷蔵庫、洗濯機、掃除機、クーラー、テレビ、ステレオなど・・3年ごとに買い改めているょ』
と私に話したりしたことがあった。

そしてデパートに勤める知人は、店内にある商品をやはり半強制的に購入を余儀され、
困り果てて、宝石関係の品を買いませんか、と私に電話連絡があり、
後日に葉書に割引を明示した宝石関係の数多くの品が明記されたりしていた。
          

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
このような自社の商品を半強制的に購入を余儀されていたことは、なかったのである。
強いてあったとすれば、経営陣は社員の福祉厚生のひとつ、或いは社員に音楽を良く聴いて欲しく、
音楽商品のレコード、カセット、CD、DVDなどのシングル、アルバム作品を、
確か30%引きで、私は35年近く数多くのアルバムを買い求めたりした。

そして外資系であったせいか、業績によりボーナス額を中核に厳しく査定され、
もとより年収も変動していた。
          

今回の記事を私は読んだりした後、このような私のサラリーマン時代を思い馳せたりしたが、
改めて日本郵便の経営陣は、社員に、そして非正規社員までに対して、
余りにも心の節度が欠けることであり、卑劣で過酷な実態と感じ深めている。

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国内旅行は私たち夫婦の共通の趣味であるが、12月の旅路は果たして・・。

2013-11-18 13:20:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
ここ数が月前、我が家は老朽化してきたが、
特に17畳ぐらいの洋間の居間は、床板の劣化が甚(はなは)だしく、
結果としては、一昨日の16日に於いて現在の床板の上に、
ウッドカーペットと称せられる表面は化粧板でほどこした合板を敷き、私たちは夫婦は強化作業をしたりした。

そして昨日、私は家内の支援を受けて、
書庫、隣室に待避させていたパソコンを置いてある机の脇机の中の書類、
やがて本箱、音楽棚、ビデオ棚などの選定後の作品を戻す作業をしたりした。

こうして作業が一段落した時、
『XXちゃんさぁ・・やはり12月に、どちらかの温泉地で3泊4日ぐらいで行かない?』
と私は家内に言ったりした。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
国内旅行は家内との共通趣味のひとつであり、特に私が定年退職した2004〈平成16〉年秋の後は、
長年のサラリーマン生活から解放されて、幾たびか旅行の日程の束縛されることなく、
国内旅行を享受してきた。
          

今年の旅路は、1月下旬に北海道の帯広市の郊外にある『十勝幕別温泉』地にあるリゾート観光ホテルに、
5泊滞在して、帯広市の市街をひたすら歩き廻ったりした。

その後は、2月中旬に、遥か南の果ての『石垣島』の市内にあるビジネス風のシティホテルに9泊して、
石垣島の島内、或いは竹富島に再訪したりした。
或いは西表島に隣接したパナリ島とも称される上地島に初めて訪れて、
観光客は誰もいない中、私たちは砂浜を散策したり、浜辺で5時間ばかり過ごしたり、
そして後日には小浜島も初めて訪れたりした。

この後は、旅行は行くことなく半年ばかりとりとめなく過ぎた頃に、我が家の老朽化の居間に関して、
思案した後、何とか強化をしてきた間、
今年の残りの12月の日々に私たちは夫婦は、旅行の意欲が薄らいできた・・。


思い馳せれば、昨年の2012〈平成24〉年の12月下旬は、
福島市の郊外の里山にある『高湯温泉』の観光ホテルに3泊して、冬枯れの里山の情景を享受した。
          
           ☆部屋のベランダより、早朝の情景☆

一昨年の2011〈平成23〉年の12月下旬は、
北海道の帯広市の郊外の『十勝川温泉』地にある観光ホテルに2泊した後、
          
           ☆『十勝川温泉』地から帯広市の郊外を散策☆
大雪山のふもとにある『糠平(ぬかぴら)温泉』地にある観光ホテルに2泊したり、
          
           ☆『糠平(ぬかぴら)温泉』地にある付近を散策☆

こうした厳冬の来襲する前のマイナス5度ばかりの中を歩き廻ったりした。


この前の年の2010〈平成22〉年の12月中旬は、
北東北の十和田湖に近い『蔦(つた)温泉』に再訪して、この地に旅館に4泊した後、
          
           ☆『蔦温泉旅館』の初冬の情景☆ 
          
           ☆奥入瀬渓流の遊歩道に隣接した道路、観光客は私たち夫婦だけ静寂な情景☆ 

青森市内のシティホテルに一泊し、日本海の『不老不死温泉』の観光ホテルに再訪した3泊ばかり滞在した。
この時の旅路は、5月の下旬から6月初旬の若葉の季節に初めて訪れて、圧倒的に私たち夫婦は魅了されて、
みゆき降る時節に再訪となった旅路であった。


このようなことを思い馳せると、今年の12月にどちらかの地に訪れたいなぁ、
このまま新年を迎えるのは、余りにも寂しいじゃないの、と私は思ったりしたのである。

我が家は年末年始の時節は、独り住まいの家内の母に我が家に来て貰い、
この期間は共に、生活を過ごすのは、家内の父が病死された2004〈平成16〉年の年末から、
ここ9年の恒例となっている。

こうした事情もあり、家内の母を迎える前の準備作業、そして我が家なりの年末の大掃除、
正月料理にあるので、家内は孤軍奮闘している。
こうした中、愚図の私は、家内の足手まといにならないように、買物する回数が増える程度となっている。
          
このような状況もあり、家内は急に12月の旅行と私から言われても、戸惑いながら思案したりしている。
『3泊4日ぐらいの短い旅・・なるべく源泉かけ流しの観光ホテルなどで・・ゆっくり過ごそうょ・・』
と私は家内を誘惑した。

こうした根底のひとつには、家内は12月は誕生日の月であり、
ここ10数年は家内は私からの品物の誕生日プレゼントより、温泉地でゆっくりと過ごした、と念願の中で、
私たち夫婦は12月の旅路を重ねてきた。

これから私たち夫婦は、12月の旅路を思案するが、果たしてどの地になるか、
私の3ぐらいの候補地から家内が選定することとなっている。

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電話、ネット、テレビも不通として、昨日の我が家は10時間半ばかり過ごして・・。

2013-11-17 08:56:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の16日の朝の7時過ぎ、XXちゃん、我が家の外部情報の基盤を落としますょ、
と私は家内に笑いながら言ったりした後、電源元を落とした。

我が家は門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の配線下となっている。

そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。

そして電話、ネット、テレビも居間にあるNTT東日本の指定の可愛らしい制御装置で、
管轄されている。

この制御装置から配線された電話、ネット、テレビ線を外したので、
もとより電話、ネットは不通となり、テレビも視聴できなくなった・・。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。
或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。


このような状況下であり、ここ数が月前、我が家は老朽化してきたが、
特に17畳ぐらいの洋間の居間は、床板の劣化が甚(はなは)だしく、
何とか資金を少なく改造する方法は、と私たち夫婦は思案してきた・・。
          
            ☆昨年の12月、居間にあるパソコンの置いてある散乱している状景をたわむれに撮った☆

結果としては、現在の床板の上に、
ウッドカーペットと称せられる表面は化粧板でほどこした合板を敷き、強化することにした。
そして私たち夫婦は、幾度も居間の床面積を計測した後、
最寄りのホームセンターに10月6日に正式注文をしたが、
その後に製造元の工場が火災となり、何とか再開して、昨日の16日に我が家に配達する確約となった。

この間、居間にある本箱の中の本、音楽棚、ビデオ棚の作品を、
今後に私が観たり聴いたりする以外のDVD、ヒデオテープの作品は破棄した作業を数日間実施してきた。
こうした作業と今後の床板強化作業のことを思案したりしていると、
平年だと私たち夫婦は国内旅行をしてきたが、このような状況だった為、
お互いに旅行にでかける意欲が、なくなったりしてきた。

こうした関係に伴い、一昨日の15日は私たち夫婦は、
居間にある食卓テーブル関係、本箱、テレビ、音楽棚、ビデオ棚、サイドボード、
そして私のパソコンを置いてある机、脇机などを出来るだけ、
書庫、隣室の和室に移動させたりして準備をしたりした。
          

昨日の16日、過ぎ去りし10月6日にホームセンターで買い求めたウッドカーペットが、
午前11時過ぎに配達されるので、
朝の7時半過ぎに可愛らしい制御装置から配線された電話、ネット、テレビ線を外した。

そして電話、ネットは不通となり、テレビも視聴できなくなった中、
私たち夫婦は、残りの品を移動させた後、家内は入念に床を掃除機で清めた後、
配達されたウッドカーペットを私たち夫婦は老化した床板の上に敷きつめたりした・・。

そして家内の陣頭指揮の下で、何かと愚図の私でも午後3時には終わったが、
居間にあった品を私たち夫婦は、書庫、隣室の和室から戻す作業を行ったりしたが、
夕陽はつるべ落としの時節なので、居間は暗くなり、室内灯の下でお互いに奮戦した。

こうした中で、最優先として食卓テーブル関係、そしてテレビ関係、電話、バソコン関係を戻し、
可愛らしい制御装置にそれぞれ配線を戻した後、
バソコンのネット復旧が終えたのは6時過ぎであった。

そして私も家内も疲れ果てて、この後の作業は明日にしょう、と私は言ったりした。

このように成り果て、本日よりパソコンを置いてある机の脇机の中の書類、
そして本箱、音楽棚、ビデオ棚などの選定後の作品を戻す作業に私は奮闘する。
          

たまたま昨日の日中の我が家は、電話、ネットは不通となり、テレビも視聴できない、
10時間半ばかりを過ごしたが、
遥か遠い昔の60年前の頃は、私が小学4年生の当時は、電話もテレビのない生家であった。

しかしながら現世の若者の大学生、高校生の大半は、
たったスマートフォン1台だけで、写真、音楽、ゲームなども含めて済ませる時代の到来、
たえず送受信が多いと聞いたりしているが、ときにはスマートフォンも休ませてねぇ、
と私は余計な事を思いながら、微苦笑をしたりした。

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本日は我が家のパソコンは、お休み日となり、私は苦笑して・・。

2013-11-16 06:40:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私と家内は、恥ずかしながら携帯電話も使えず、ましてスマートフォンも使えず、
やむなくインターネットは『フレッツ』の回線を通して、ディスクトップ型のパソコンを利用している。

或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。

こうした中で、我が家にインターネットの回線を導入したのは、
私が民間会社を定年退職した2004〈平成16〉年の秋の数か月前であった・・。

そして覚束ない若葉マークと称される初心者で、ネットの技量もなく、
ニュース、趣味の国内旅行などを検索したり、ブログの世界を知り、日々投稿したりしてきた。

このようにネットの世界も疎(うと)い身ながら、退職後の年金生活の中で、
ネットは急上昇するように加速化されて、あふれるネット情報の時代が到来している。
          

こうした中で私は年金生活をしている中、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
                   
ここ数が月前、我が家は老朽化してきたので、
17畳ぐらいの洋間の居間などの床板の劣化が甚(はなは)だしく、
何とか資金を少なく改造する方法は、と思案してきた・・。

結果としてウッドカーペットと称せられる表面は化粧板した合板の床板を敷き、対処することにした。
そして私たち夫婦は、幾度も床面積を計測した後、最寄りのホームセンターに10月6日に正式注文をしたが、
その後に製造元の工場が火災となり、何とか再開して、本日に我が家に配達する確約となった。

この間、本箱の中の本、音楽棚、ビデオ棚の作品を、
今後に私が観たり聴いたりする以外は破棄としたりしてきたので、
平年だと私たち夫婦は国内旅行をしてきたが、このような状況だった為、
旅行にでかける意欲がなくなったりしてきた。

こうした関係に伴い、昨日は居間にある食卓テーブル関係、本箱、テレビ、音楽棚、ビデオ棚、サイドボード、
そして私のパソコンを置いてある机、脇机などを出来るだけ、
隣室に移動させたりして準備を私たち夫婦は行ってきた。
          
本日、午前11時過ぎに配達されるので、
私たち夫婦は、残りの品を移動させた後、ウッドカーペットを敷きつめた後、
居間にあった品を再び戻す作業を行うので、
これに関連してパソコンは朝の8時以降はお休み日となる。

そして私は体力も衰えた身ながら、5歳ばかり若い家内の陣頭指揮のもとで実施するが、
果たして何時になったら復旧できるのかは、定かでない。

パソコン・シャット・ダウン・ディなどと何かと横文字に弱い私は、
バソコン停止日かょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、少し寂しいじゃないの、と思ったりしている。

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