夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

鳩山首相、5月4日沖縄訪問の時は、『沖縄県民の前で土下座をする責務がある』

2010-04-30 21:25:51 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、時事通信社のネットのニュースを見て、改めて憂いを深めている。

《 普天間移設案を説明へ=鳩山首相、5月4日沖縄訪問 》

と見出しされた記事である。

無断であるが転載させて頂く。

《・・
鳩山由紀夫首相は5月4日、就任後初めて沖縄県を訪問し、
仲井真弘多知事らに米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)移設案を説明する。
政府は同県名護市の米軍キャンプ・シュワブ沿岸部に移す現行計画を微修正する案を固めており、
首相は県内移設を表明する見通し。
ただ、地元はこれに反対の姿勢で、一段と反発を強めるのは必至だ。

首相が固めた移設案は、
(1)シュワブ沿岸部の浅瀬に「くい打ち桟橋方式」で代替滑走路を建設
(2)普天間のヘリ部隊を鹿児島県・徳之島に最大1000人を移転-が柱。
政府関係者は30日、「桟橋方式で進める」と明言した。

首相は日帰りの沖縄訪問で、仲井真知事と会うほか、名護市で稲嶺進市長とも個別に会談する。
首相としては、環境に配慮して沿岸部を埋め立てない代替施設の建設とヘリ部隊の一部県外移転を組み合わせることで、
全体として沖縄の負担軽減につながると説明、理解を求めたい考えだ。 

首相はこれまで移設先について「最低でも県外」と発言。
県外移設は事実上の衆院選公約だったが、修正案はこれを覆すものだ。
これに対し、知事は県外移設を求める姿勢を強めているほか、稲嶺市長は移設受け入れを拒否。
首相が掲げる「5月末決着」は絶望的だ。

首相は知事との会談の一方、普天間飛行場とその周辺地域や、キャンプ・シュワブを視察する。
県内のその他の市町村長や、基地周辺住民との対話も検討している。
(2010/04/30-18:49)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2010043000946
☆ 時事ドットコム 普天間移設案を説明へ=鳩山首相、5月4日沖縄訪問 ☆


私は民間会社の中小業のサラリーマンを定年退職し、
政治にも疎(うと)く年金生活をしている無力な身であるが、今回の『普天間基地の移設問題』に関しては、
ときおり注視してきた。
このことはこのサイトに於いても綴ってきたので省略するが、何よりも鳩山首相の言動に困惑してきたひとりである。

国の根幹となす防衛のひとつの『普天間基地の移設問題』であるが、
沖縄県民はもとより国民の多くを愚弄してきたことは罪は重く、国際の主要国もあきれ果ている現状である。

鳩山首相がそれりに沖縄に対して深い思いがあるならば、
就任後、いち早く関係国のアメリカはもとより、国内の関係者に働きかけるべきであり、私は不可解であった。

今回、昏迷している『普天間基地の移設問題』を解決する第一歩として、
沖縄訪問の際は、少なくとも沖縄首脳陣の方たちはもとより、数多くの県民の前で、
少なくとも土下座してこれまでの昏迷したことにお詫びする・・、
これしか私には対応策として浮かばないのである・・。

今回のような迷走となっている場合は、鳩山首相が沖縄に下り立った時、
たとえ警察官の守られながらも、県民の多くから石を投げつけられてやむえない現状であるので、
せめて鳩山首相ができることの第一歩として、
ひたすらお詫びを重ねながら土下座をし、スーツが泥まみれになっても、
こうした言動こそ私は切望するのである。



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齢ばかり重ねた私でも、思わず『鯉のぼり』の歌を唄い・・。

2010-04-30 14:29:11 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり.
まばゆい陽射しで朝を迎え、庭の若葉は光帯びて、ゴールデン・ウィークに相応しい天気だ、
と微笑えんだりした。

昨日は快晴の『昭和の日』の祝日となったが、快晴に恵まれていたが、
ときおり強く風が吹き荒れ、昼下がりは23度の陽気になり、少しばかり驚いたりしていた。

私は先程、最寄の郵便局、銀行を廻り、スーパーで買物をした帰路、
いつものように住宅街を通り過ぎたが、この中のひとつのお宅の二階のベランタ沿いに、
鯉幟(こいのぼ)りが掲げられていた。

この住宅街は、私が高校2年の1961(昭和36)年の頃に、
大きな団地が出来て、その周辺に分譲地となった地帯であり、早くも50年近くになっている。

昨今は『おふたりさま』の高齢者の夫妻が住まわれたり、
或いはお子様の家族に引き継がれて住まわれたり、
或いは2所帯住宅で1階は親、2階はお子様の家族が住まわれて、親子孫の三世代が同居されている家もある。

こうした家並みが並ぶ中を私は歩いていたのであり、
我が家は子供に恵まれなかったが、たまたまこの中の家のお方が、
お孫さんの為に、鯉幟りが掲げられているのかしら、と私は微笑を頂いたりした・・。

私の住む周辺は、家並みが密集しているので、
旧家でない限り、とても鯉幟(こいのぼ)りを悠然と泳がせるスペースがなく、
ここ数10年は観かけることが少なく、たまたま鯉幟りを偶然に観て、思わず足を止め、
小振りな3つばかりの鯉が微風を受けて泳いでいたのを長らく見つめたりした・・。


帰宅後、私は昨日の強風で散乱している葉、散り落とされた花などが、
我が家に面した歩道に散っていたので、私は立ち箒(ぼうき)で掃き清めていた時、
心の中で、ひとつの歌を唄っていたのである・・。

♪甍(いらか)の波と雲の波、
 重なる波の中空(なかぞら)を、
 
【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

私は幼年期に祖父、父を健在の頃、農家の宅地の外れに高く掲げられ、
あの当時はどの家も男の子のために鯉幟りをこの時節に掲げられていた・・。


♪橘(たちばな)かおる朝風に、
 高く泳ぐや、鯉のぼり。

【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

このように心の中で唄ったりし、過ぎ去った時の流れを思い馳せたりした。


http://www.youtube.com/watch?v=HCOPPFP1MI8&feature=related
☆【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳、唄・真理ヨシコ  文部省唱歌 】☆



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『昭和の日』に際して、私なりの思いは・・。【下】

2010-04-29 15:04:24 | 時事【社会】
ときおり私は、『昭和』の時代を45年近く社会の空気を共にし、
『平成』の時代も22年近く生活をしてきて、
平成の時代になってから、私たち日本の国民の多くは何を手にいれたのかしら、と考えたりすることがある。

もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989(昭和64)年1月7日により、
平成元年は1月8日から始まり、本年は平成22年5月となり、若者の成人された一部のお方は『平成』生まれで、
『昭和』の時代が無知なのに、私は驚いたりする。

私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989年11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』の出来事と重ねてしまうのである。

世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変したからである。


このような思いもさることながら、平成の時代になって、
私達の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと。
そして水をペットボトルなどで購入したこと、思い浮かべたのである・・。

音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってDVDに変貌し、昨今はブルー・ディスクを迎えいる。

こうしたことは実感度は薄いが、パソコンが普及し、インターネットの急激な浸透である。
1995(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、
大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及した。

もうひとつの変貌は、携帯電話であり、カメラ機能もある上で、
今や財布代わりの機能となり大きく変貌をしてきている。

映画のオリバー・ストーン監督の『ウォール街』は1987(昭和62)年にアメリカで公開された作品であるが、
冷酷で貪欲な投資銀行家が浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃はラジカセのように大きな形の携帯電話であり、
この当時としては破格な高価な品であった。

平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、昨今は日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用している。

私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
平成の時代は、ネットと携帯電話、と断言したくなる。


もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多いのである。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。


私は煙草の愛煙家のひとりであるが、日本に嫌煙ブームが始まったのも平成になってからである。
喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)き喫煙可となり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。
私が酷いギックリ腰で入院生活を1991(平成3)年の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒していたのである。

昨今の社会状況は、諸兄姉はご存知であるから、省略する。


こうしたことを思いつくまま昭和の時代が終わり、平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、そして黒髪などが少なくなり、
どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。

何よりも戸惑うのが、ジーンズの膝付近に、あえて穴を開けたり、
わざわざ磨耗したような生地にしたりすることである。

私は10代から30代の頃まではジーズンを愛用したひとりであるが、新品を購入し、
数年過ぎればそれなりの磨耗した状態となる。
ジーズンは普段着のズボンであり、気軽な労働服のような思いながら穿(は)きつぶしてきたが、
決してファーション着ではないのである。

こうしたことを余り綴ると若き諸兄諸姉に嫌われるので、これ以上は記載しないが、
平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた20代の世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた65歳の私は限りなく関心がある・・。




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『昭和の日』に際して、私なりの思いは・・。【中】

2010-04-29 11:43:53 | 時事【社会】
私は『昭和の時代』を45年近く空気を共にしてきたので、つたない身ながら、それなりの深い想いがある。

こうしたことの思いひとつとしては、
【 私は長渕剛 (ながぶち・つよし)氏の『昭和』を聴きながら、昭和天皇に愛惜を重ね・・。】
と題して、今年の1月7日に於いて、このサイトで3回に及び投稿をしたが、
今回は編集を兼ねて、大幅に補筆したものを掲載する。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、何気なしにカレンターを見たら、『七草』と明記されていて、思わず微苦笑したりした。

私は、昭和天皇が崩御された朝の方が、遥かにインパクトがあるので、
主庭のテラスに下り立ち、まばゆい朝の陽射しに向い、思わず両手を合わし、しばらく黙祷をしたのであった。


私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。

1988(昭和63)年の晩秋、私はこの頃、あるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして、私の勤めていた会社でも、音楽の世界では世界的な有名な『ボン・ジョヴィ』と命名したロック・グループが、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになり、テンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、なぜか中止となり、
せっかくのチャンスだったのに、と私なりに落胆をしたりしていた・・。


そして1989(昭和64)年の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

この後、私はいつものように会社に出勤した後、
朝礼の時、専務取締役のひと言で、私達部の一同は皇居の方面に向かい、黙祷をしたのである。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。


まもなく、他社の東芝EMIからシンガー・ソングライターの長渕剛が、
アルバム『昭和』というタイトルで3月25日に発売されて、
私自身レコード会社に勤め、音楽に直接たずさわる制作畑でない私であっても、
この時期に『昭和』を掲げた長渕剛の感性に注視させられたのである。

そして、まもなく長渕剛が『昭和』と題したツアーを行い、
横浜アリーナで1989年7月13日、14日の両日で行われた公演から
収録されたライブ盤の『長渕剛 LIVE’89』の2枚組CDを買い求め、
特に『昭和』の歌に感銘を受け、少なくとも百回以上は聴いたりしているひとりである。

このライブ盤に収録された一番最後の曲として、『昭和』(作詞・作曲:長渕剛)があり、
私はこよなく愛聴しているのである。

私は無念ながら私の所有しているCDから、このサイトに添付する技量はないので、
やむえず【YouTube】のお力をお借りした中で選定した『昭和』の名曲を掲載させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=82PhpraMei4&feature=PlayList&p=95B31D81E1936AF6&playnext=1&playnext_from=PL&index=30
☆【『昭和』 作詞・作曲・唄 長渕剛 】☆


私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の9月に生を受け、
昭和天皇に関しては、多くの日本人と同じように複雑な思いで、
何かと敗戦後から今日まで、注視してきたひとりである・・。

私もこのサイトに於いて、昭和天皇に関しは数多く投稿してきたが、
今回はこの中のひとつを再掲載をする。
【 私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 ② 】
と題し、昨年の2009年10月19日に於いて投稿しているが、敗戦の一年近くの頃の昭和天皇に関して、ふれている。

【・・
小学校の高学年になると、1葉の写真を見た時は、その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。

この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。

そして私の生を受けた9月27日の1年後であったので、なおさら印象深く、私の心に残った。

読売新聞の『編集手帳』に綴られていたこともあるので、無断であるが引用させて頂く。

《・・
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問したのは、
1945年(昭和20年)9月27日であった。

2日後に新聞各紙に写真が残った。
モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ。
勝者と敗者の違いを伝えて、余すところがない。
・・》

私は小学生の頃から昭和50年の頃までは、アメリカに対して複雑な思いでいた。
そして、敗戦の間際にソ連が北海道占領プランがあった、とおぼろげながら何かの本で読んだりしていた。

昭和50年のなかば、一冊の本に出会った。
『ドキュメント昭和史』(平凡社・発行)の全8巻を購入し、読み耽っていた。

この中で、第6巻目に《占領時代》を読み、この敗戦直後の状況を教示してくれた。

《・・
日本分割占領案が歴然と存在していた。
各国の国益をかけた外交が行なわれ、最終的にはアメリカのトルーマン大統領の国益の基に、
アメリカ人の連合国司令官の下で統治された。
・・》

この書物のお陰で、アメリカを静観した形で、アメリカを見ることが出来た。

あの敗戦の1年後に近い9月27日は、
陛下と元帥の写真を蘇るたびに、勝者から観た歴史の背景を知り、より一層鮮明な日の想いとなった。


このことと同時に敗戦後の日本の状況が鮮明に、私なりに理解できたのである。

日本の敗戦の1945(昭和20年)年8月15日は、もとより『敗戦記念日』であるが、
国土の大半は戦禍にまみれ、食料、衣料、住宅が国民の大半は困窮していた。

日本は国連軍の名の基にアメリカ軍隊の下で、占領された。
そして、占領軍は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、
現行公布されている日本国憲法をはじめ、
農地改革、財閥の解体、要人の追放、言論の弾圧などが実施された。
そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の最高責任者はマッカーサー元帥である。

このような占領軍の最高責任者ともなれば、
アメリカ大統領の意向、そしてアメリカ議会の状況、アメリカ国民の世論さえ配慮すれば、
敗戦国の日本などは自在に裁量できる帝王のような存在である。

こうした日本の中の動乱期の折、
米ソの冷戦、中華人民共和国の建国、そして朝鮮戦争の勃発、と各国の怜悧な国益に基づき、歴史は動いた。

このした中で、『対日講和条約』により占領下から独立でき、
朝鮮戦争の特需も含め日本の経済躍動のはじまりが、『対日講和条約』と私は思っている。

『対日講和条約』に関しては、知識人の藤野邦夫氏の言葉を借りれば、
《・・
第二次大戦の末期、日本が降伏勧告の宣言である『ポツダム宣言』を受け入れたのは、
1945(昭和20年)年8月14日。
これによって戦争は終結したが、この宣言には、幾つかの条件と共に、
日本が民主的で平和な政府が出来れば、直(ただ)ちに占領軍は引き上げるという条項が明記された。

しかしそのあと、アメリカと旧・ソヴィエト連邦の対立が激しくなり、
またアメリカ国内にも、軍事的な目的から占領状態の継続を望む国防省のような勢力があって、
対日講和は進展しなかった。

ところが、1950(昭和25)年6月に『朝鮮戦争』が勃発。
アメリカは日本を西側の陣営の一員として再建する為、講和条約を早く結ぶ方針の転換した。

こうして1951(昭和26)年9月8日、
サンフランシスコで、連合国と日本の間の戦争状態の終結を意味する『講和条約』に署名が行われ、
翌年の1952(昭和27)年4月28日に発効した。

この時の当事国は、45ヶ国。
幾つかの国とは、個別に講和条約が結ばれた。

これは結局、西側諸国を中心とした講和条約であり、
また連合国との協定によってアメリカ軍が駐留を続けたので、その後の日本の国際的位置が決定づけられた。
・・》

このような日本が激動する中、朝鮮半島は冷戦の大国の怜悧な国益に基づき、
過酷で悲惨な朝鮮戦争が行われていた。

私は高校生の時から時事好きで、教科書、雑誌、歴史書などで学び、
同じ民族の北朝鮮と韓国がお互いの半島地域を戦場を大国のもくろみで、
ローラーように南進したり、北進したりする戦争状況を過酷過ぎると思ったりしていたのである。

もとより韓国の強い背景となったのは、国連軍と称したアメリカ軍であり、
最高司令官に任命されたのはマッカーサーである。

そして中華人民共和国の大軍が半島になだれ込み、
結果として劣勢になったマッカーサーは中華人民共和国の本土に原子爆弾を落とす決意をするのであるが、
時のアメリカ大統領からマッカーサーは解任される。

こうしたことは高校生で学んだのであるが、
私は何よりも太平洋戦争のフィリンピンの統治下で日本軍の襲来で撤退、
そして日本の敗戦後の占領軍として、その後の朝鮮戦争の原子爆弾を落とす決意など含め、
マッカーサー自身の軌跡、思い、周辺の状況を知りたくて、数多くの本を読んだりして、今日に至っている。
・・】


そして、かの大戦で敗戦となり、これらの私なりの心情を、
【 64回目の『敗戦記念日』に際して・・。 】と題して、投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは早朝の5時過ぎであった。

私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そしてこの8月15日は、
たった一枚の赤紙と称せられた召集令状で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
そして戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


そして、私はここ3年に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。


   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         

                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々

                       平成天皇


私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代の歳月に思いを馳せ、鎮魂曲のような感じている。

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と何かの新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。


私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
私はテレビを見ていて『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正し、黙祷をした後、しばらくするとこのふたつの歌を思い重ねている。


尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦であり、
都合よく『終戦』と命名された方たちは、国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることなのである。

そして、命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無念ながら『敗戦記念日』と思っているひとりである。
・・】

このように私なりの昭和天皇に関しての思いなどが多々あるが、
このサイトに投稿しているので、これ以上は省略する。

                                   《つづく》

『昭和の日』に際して、私なりの思いは・・。【上】

2010-04-29 07:59:46 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と朱記されていても齢ばかり重ねた私は、赤面しながらネットでこっそりと調べたしたのである。

私は日頃から何かとお世話になっているフリー百科事典と名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』を開いたら、
《・・
昭和の日(しょうわのひ)は、日本国の国民の祝日の1日である。
平成19年(2007年)から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。

国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正により追加されたもので、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日。
同法における定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となる。
ゴールデンウィークの中の1日である。

昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御により、
同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、
祝日法の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。

当時から同日を「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させようという意見が出ていたが、
左派の反対からそのような案は見送られ、同年以降の4月29日は『みどりの日』という名称の祝日に改められた。

その後、『昭和の日』の実現を目指す運動に呼応・共鳴する国会議員により、
平成12年(2000年)の第147回国会(参議院先議)、
平成14年(2002年)の第154回国会(衆議院先議)においていずれも議員提出法律案として審議に付され、
ともに先議の議院では可決したものの、国会会期終了・衆議院解散などにより後議の議院での可決に至らず廃案となった。

平成16年(2004年)の第159回国会において、
都合3度目となる改正法案提出(議員立法形式・衆議院先議)がなされ、
継続審議を経て平成17年(2005年)の第162回国会で成立した。

同改正法は平成19年(2007年)から施行され、
同年以降の4月29日は『昭和の日』、従前の『みどりの日』は5月4日に移動した。
(略)
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。

このように明記されてことで私は何となく理解できたが、
私は昭和19(1944)年に農家の児として生を受けたので、
昭和64(1989)年の1月7日の昭和天皇が崩御される前年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、
『天皇誕生日』の祝日である、と安堵していたのである・・。

昭和天皇が崩御された後、4月29日は『みどりの日』として制定され、
私は中小業のサラリーマンの時代で、悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であったので、
この時節は日本の多くが若葉に染められ、美しい日本の風土かしら、
と単細胞の私は感じたりしていた・・。

『昭和の日』と改称されたのは平成19(2007)年から施行されたと遅ればせながら今回学び、
私は定年退職は平成16(2004)年の晩秋であり、
その後は念願の年金生活となったので、少しボケた私は気付かずに今日に至っていたのであった・・。

そして、今回『昭和の日』に際して、私の『昭和』の時代は少なからず45年近く生活をしてきたので、
私なりの昭和天皇への思い、そして懐かしき『昭和』のことを綴ってみようかしら、と思ったりした・・。

                                《つづく》


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『都心は、4月としては史上最大の雨量なり』、私は微苦笑し・・。

2010-04-28 14:27:41 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
先程、ニュースを検索していたら【YAHOO! JAPAN】の中に掲載されていた、ひとつのニュースを見ていて、
思わず微苦笑さられた・・。

《 関東で大雨や強風=都心は4月の史上最大雨量-気象庁 》

と題された記事であり、
4月28日10時39分に時事通信社から配信された記事のひとつである。

《・・
関東地方では28日午前、局地的に強い雨や風が観測された。
気象庁によると、1時間の降水量は神奈川・辻堂(藤沢市)で午前7時までに40ミリ、
東京・大手町で午前8時40分までに26ミリとなり、
いずれも4月の観測史上最大を記録した。

同庁は静岡県の伊豆地方に大雨警報、神奈川県東部に大雨・洪水警報や土砂災害警戒情報を発表した。

この大雨は、日本列島の東側に高気圧、西側にいくつかの低気圧があり、気圧の傾きが大きくなったのが原因。
関東の大雨は28日昼ごろに峠を越える見込み。

辻堂と大手町では、3時間降水量も4月の観測史上最大となった。
静岡・天城山では午前6時半までの3時間に102ミリの雨が降った。 
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/typhoons/?1272413397
☆ 時事通信社 《関東で大雨や強風=都心は4月の史上最大雨量-気象庁》 ☆


我が家は東京郊外の調布市の片隅にあり、世田谷区と狛江市の隣接した所で30数年住んでいる。
昨日の午前11時過ぎから雨が降りだして、今朝の私は雨脚の音で目覚めた。
その後、私は玄関庭り軒下で本降りの雨を眺めたり、
居間から主庭に強く降る雨を眺めたりし、一部が水たまりとなり、
台風の時ぐらいしか、水たまりが出来ないので、どうしてなのと、空をみつめたりしていた。

昨今、天上の気候の神々はきまぐれで、過日の22日、23日は小雨降る2月のような寒い日となり、
私は困惑したりし、その後は快晴となり平年並みの暖かさを迎えていたのであるが、
突然の大雨となったのである。

しかし、午後の3時過ぎに雨が上がれば、この先の一週間の予報は、
すべて『晴れマーク』となっていて、少しは驚いたりしている。

明日より多くの方たちが待ち焦(こ)がれた『ゴールデン・ウィーク』を迎えるので、
天上の気候の神々は、その前のささやかな『打ち水』で、各地を清めてくれたのかしら、
と私は微苦笑しながら解釈したのである。



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雨降る日は、私はとりとめなく過ごし・・。 【下】

2010-04-28 12:21:35 | 定年後の思い
私達夫婦は、小雨降る庭を眺めながら、遅い昼食を頂いた後、
私は一昨日の26日に綴った【宮脇灯子(みやわき・とうこ)・著の『父・宮脇俊三への旅』を読みはじめ・・。】で記した通り、
文庫本で再読したのであるが、
小説、映画、音楽の分野でも同じように、
再読すれば、思いもかけないように新たな書かれた文章の深さに気付かされたり、
そして行間の著作者の思いが感じられことが多い。

今回の作品は、ご長女から見た父の作家・宮脇俊三氏の力量の時代の著作された状況、
そして筆力と体力の衰えた時の思いを描写されているが、
この行間に宮脇俊三氏の秘む思いを私は感じたりしていたので、
中々次ページに進まず、この後は夕寝を一時間ばかりした・・。


夕食の前に、読売新聞の夕刊を見て、テレビ番組表で、午後8時50分よりBS2に於いて、
『アメリカ映画ベスト100 10周年版~AFI選出~』と題された番組放送を知ったのであるが、
たまたま我が家は夕食となるので、やむえず収録ビデオをセットした。

我が家は子供に恵まれなかったせいか、食事の時はお互いに他愛のない話をしたりし、
食事をするので、テレビは殆ど視聴することなく、観たとしてもニュースぐらいとなっている。

9時半過ぎに私は独りで『アメリカ映画ベスト100 10周年版~AFI選出~』を視聴したのであるが、
司会としてモーガン・フリーマンが担当されて、
俳優のジェーン・フォンダ、ジョディ・フォスター、ダスティン・ホフマン、ライザ・ミネリ、ピーター・オトゥール等、
そして監督のマーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグ等が選出された作品の思いを語り、
私なりに驚きながら深く視聴させられた。

もとより、今回のベスト100作品に関しては、
アメリカ映画協会(AFI)に所属する監督、脚本家、俳優、編集者、批評家ら1500人が、
1997年以来10年ぶりに2007年に歴代のアメリカ映画のベスト100を選出し、発表されたドキュメンタリーの作品である。

私は番組の途中から視聴したので、番組が終ると、
収録していた番組の最初から観はじめ、収録したビデオが終ったのが深夜の一時過ぎになり、
少しため息をしながら、寝室の布団に向ったのである。


尚、アメリカ映画協会(AFI)の選出された作品の思いは、後日、後述する。


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雨降る日は、私はとりとめなく過ごし・・。 【上】

2010-04-28 09:53:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり.
今朝、雨脚の音で目覚め、私は布団の中で、やはり雨の降る日かょ、とぼんやりと感じたりした・・。

昨日は曇り空で朝を迎え、いつものように読売新聞の朝刊を読みはじめ、
一面のトップに掲載された作家・堺屋太一氏の『未来小説 2020年』に憂い、
この後、地元の天気情報を見たりした。

朝の6時は10度、昼下がりは15度前後、夕方の6時過ぎは11度前後、
昼近くから雨が降るはじめ翌日の午前中まで降り続けます、と報じていた。

家内は洗濯をした後、家の近くの干す竿(さお)につるしたりしていたが、
私は買物担当の身であるので、雨の降る前に買物をしょうと思ったしたが、
最寄のスーパーの2軒は、10時より開店であるので、少しばかりは落ち着かなかったりした。

そしてスーパーに10時過ぎに入店したが、平素より込み合って、
どなたでも雨の降る前に買物を済ませよう、という心情に私は微苦笑をした。

自宅に戻り、家内は台所で皿洗いなどをし、
『雨が降りだしたら・・教えてね』
と私に云ったりした。

私は庭のテラスに下り立ち、読売新聞の朝刊で気になっていた記事のひとつを、精読したのである。
17面の【生活Wideわいど】に於いて、
《 広がる竹害
     手入れ追いつかず 林は荒れ放題 》
と見出しされた記事で、
《タケノコがおいしい季節。
旬の味覚をもたらしてくれる竹林だが、国産のタケノコの価格下落などで放置されているケースが増え、
「竹害(ちくがい)」と呼ばれた各地で厄介物扱いされている。
間伐を進めて竹を活用し、この事態を解消というボランティアや企業の取り組みも広がり始めた》
このように読売新聞の宮本優美・記者が綴られ、
具体的な詳細記事を読んだりしたのである。

私は幼年期は農家の児として育ち、竹林もあり、タケノコを祖父と父が中心となって、
青果市場に出荷し、生計の確かな一部としていたので、
私なりに深い哀惜があるので、このサイトでも数多く綴ってきた。
このような心情があり、昨今の竹林の実態を学び、ため息をさせられたのである。

私は無念ながら高齢者の65歳で体力も衰え、資金の余力もなく、
人生もうひとつあれば・・と思いを重ねたりした。

このような思いでいると、雨がポッリと降りはじめ、
『XXちゃん・・雨・・降ってきたょ・・』
と私は大声で台所にいる家内に云ったりしたのである。

そして、洗濯物の干し場から家内は取り込んで、私は受け継ぎながら、居間の片隅につるしたりした。
この後、家内は乾燥機で乾かすか、居間で暖房をして部屋干しにするか迷ったりしていた。

この後の私は玄関の軒下で、煙草を喫いながら、
小雨降る玄関庭の樹木を眺めたり、空を見上げたりし、
このサイトに投稿していないことに気付き、【堺屋太一(さかいや・たいち)・著の『未来小説 2020年』・・。】
と題して投稿が終えたのは昼の12時半過ぎであった。


                               《つづく》


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堺屋太一(さかいや・たいち)・著の『未来小説 2020年』・・。

2010-04-27 12:56:32 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり.
今朝、いつのように読売新聞の朝刊を読みはじめたのであるが、
一面のトップに、

《 若者 職求め中国へ
            国は借金漬け 円暴落の一途 》

と見出しされていたのに驚き、

よく読むと作家・堺屋太一氏の綴られ『未来小説 2020年』ということが理解できた。
そして読売新聞が【日本の針路】と命題された連載記事で、第4部の『迫る財政破局 1』として、
《・・財政悪化や少子高齢化の進行で、日本経済が地盤沈下していくとの懸念が広がっている。
(略)
元経済企画長官の堺屋太一氏に2020年の日本の姿を「未来小説」で寄稿してもらった。》
と解説されていた。

私は堺屋太一氏の『未来小説 2020年』を読み終わった後、憂鬱な心情となった・・。

堺屋太一氏の予測小説として『油断!』(1975年)、『団塊の世代』(1976年)、
『破断界』(1976年)、『ひび割れた虹』(1978年)、『世紀末の風景』(1985年)、
『平成三十年 ~何もしなかった日本~』(2002年)、そして小説の数冊を読んだりしてきた。
そして『高齢化大好機』』(2003年)に於いては、団塊の世代に対しては応援歌のように感じたりしてきたので、
私としては氏から喚起されたことは全般として、楽観主義かしらと感じたりしてきたのである。

今回の『未来小説 2020年』は、ご自身が経済企画長官の重責を終えられた後、
ここ数年の日本経済の衰退に、憂いはがゆい思いで、やむに止まれず描写された希望のない未来図と理解はしたが、
政治、官僚の方の諸兄諸姉はもとより、経済危機感の甘い日本人の方たちのまぎれない警告書である、
と小心の私は確信している。


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コメント (5)

宮脇灯子(みやわき・とうこ)・著の『父・宮脇俊三への旅』を読みはじめ・・。

2010-04-26 18:31:22 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
駅前まで歩き、歯科医院で治療が終った後、本屋に寄ったが、
思いもかけずにひとつの文庫本にめぐり逢えて、購入した。

私が『昭和』から『平成』の時代に移り変る前後に、
鉄道に乗車しての旅をされる紀行作家の第一人者の宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)氏の著作に心酔し、
その後も氏の綴られた数多くの作品を殆ど愛読したひとりである。

今回、めぐり逢えた文庫本は、亡き作家の宮脇俊三氏のご長女・宮脇灯子さんが、
解説文に明記されている通り、
《・・娘がたどる「父・宮脇俊三」から「紀行作家・宮脇俊三」への旅――。》
である。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200910000379
☆角川文庫 宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』 ☆


帰宅してしばらくした後、私は読み始めたのであるが、何となく読んだことのあるような綴りであったので、
この文庫の最後のヘージを開き、

《この文庫本は、2006年12月、グラフ社より刊行された単行本を文庫化したものです。》
と明記されていたので、
あれぇ、と思いながら、書庫に行き、宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』(グラフ社)を見かけて、
苦笑したのである。


私はこの単行本に関しては、このサイトの2007年2月23日に於いて、
【 宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』・・♪ 】
と題して投稿しているので、この時の思いもあるので、あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外は、小雨が降り続いていた・・。

昼過ぎに本を一冊携えて、布団にもぐり、読みはじめた・・。

昨夜から、読み始めた宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』であり、
娘からの父親に対する視線で描かれて折、鎮魂歌のように表現されている。

私は今は亡き紀行作家としての宮脇俊三氏の作品は、殆ど読んでいるので、
娘の愛憎には少し驚いたりしたが、単なる感傷にしたる父恋い記でない。
中でも《母と娘の後悔》は飛び抜けて表現力が優れている・・。
やはり、作家の血を受けた著作者と思ったりする。

本を読み終えた後、宮脇俊三氏の作品の数々を想い返しているうちに、眠り込んだ・・。

先程、目覚めると、雨はあがって、静寂な庭を眺め、
白梅の満開の花に宮脇俊三氏の紀行文を重ねたりしている・・。
・・】


このように投稿しているが、今回たまたま文庫本となったのを私は見かけて購入したが、
3年も過ぎ去っているので再読に良いかしら、と微苦笑を重ねたりしている。
それにしても、たった3年ばかりであるが私は忘れてしまっているので、
忘却とは忘れることなり、とある高名な方の言葉を思い出しながら、新鮮な気持ちで再読となっている・・。

その上、今回の文庫本の解説を作家・酒井順子さんが綴られて折、
宮脇俊三氏がご健在の時、この当時としては女流としては珍しく
鉄道に関して弟子志願のような思いで氏との対談で語られた酒井順子さんであったので、
最適な方が綴られている、と思いを重ねたりしている。



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東京郊外は、若葉の中、風光る日々に恵まれ・・。

2010-04-26 09:05:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
過日の23日の金曜日までは平年よりも10度前後寒い日々が続き、
その後の一昨日の24日の土曜日、昨日の25日の日曜日、16度ばかりの快晴の昼下がりを迎えて、
陽春の時節になったかしら、と私は微笑んだりしていた・・。

今朝も地元の天気情報に寄れば、
朝の6時は7度、昼下がりは19度前後、そして夕暮れの6時は15度前後が予測され、
快晴の一日となる。


このような陽春の陽射しにつつまれた中、たまたま本日は駅前の歯科医院で、
11時に治療の予約しているので、川沿いの遊歩道を歩こうと思っている。
徒歩20分ばかりの道のりであるが、ときおり私は足をとめて、
若葉を眺めたり、川辺の大半は菜の花が黄色い帯のように咲いているのを観たりするので、
駅前までは1時間ぐらいかしら、と微笑んだりしている。

そして歯科医院で治療が終れば、買物をしたり、本屋に寄ったりした後、
自宅の帰路はふたたび遊歩道を歩き、陽春の情景を享受する・・。

こうしたさりげない時を過ごせるのは、
現役のサラリーマン時代は何かと多忙な時が多かったので、私にすれば夢のような時であり、
年金生活の今、一日の時のうつろいを甘受していることが多い。



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たがが『キューピー・マヨネーズ』、されど『キューピー・マヨネーズ』・・。

2010-04-25 18:31:01 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
先程、ニュースを検索していたら【YAHOO! JAPAN】の中に掲載されていた、ひとつのニュースを見ていて、
思わず微笑んだりした・・。

《 米アマゾン部門売り上げ1位  キューピーマヨネーズ大人気 》

と題された記事であり、
4月25日10時12分配信 J-CASTニュースで配信され、

《・・
    米アマゾンで高評価のキューピーマヨネーズ。

日本のキューピーマヨネーズが売れている。
欧米のマヨネーズと違い、「どんな料理にも使える」というのが受けているようで、
米国アマゾンの場合、レビューはほとんど満点、海外の有名食品メーカーを抑え、
マヨネーズ部門売り上げ1位となっている。
・・》
このように明記されていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100425-00000000-jct-bus_all
☆J-CASTニュース  米アマゾンで高評価のキューピーマヨネーズ ☆


たまたま私は、昨日の昼下がり、昼食としてトンカツを食べることとし、
キャベツを千切りにし、この上にキューピー・マヨネーズとブルドック・ソースで頂いたのであり、
ここまで欧米人に愛されていることとは無知であった。

私の少年期、実家に於いては1956(昭和31)年頃からマヨネーズとしては、
何かしらキューピーとなっているので、かれこれ55年となっている。

そして、私なりにキューピー・マヨネーズに関しては、ささやかな想いであり、
このサイトで、昨年の2009年11月6日に於いて、
【 キユーピーの工場は、『新世界』のメロディーと共に・・。 】
と題して投稿しているので、今回あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、思わず微笑をしたのである。
『武蔵野版』の中のひとつの記事であり、

     《キユーピー 仙川工場 閉鎖へ 》

と見出しされた記事である。

私は調布市には結婚前後5年を除き、60年間ばかり住む、
私なりにキユーピーの仙川工場には思いでがあるので、精読した。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。


キユーピーは、調布市の仙川工場(仙川町2)を、2011年3月をめどに閉鎖すると発表した。
半世紀以上にわたって地域に親しまれた老舗工場の閉鎖に、
地元関係者からは惜しむ声が上がっている。

同工場は1951年操業開始。
1961年から始まった工場見学では、製造工程をそのまま見られる点が人気を呼び、
地元小学校の社会科見学を中心に、年間約2万人の見学者を受け入れてきた。
また、季節に合わせて衣装が替わる、工場入り口の特大キユーピー人形も、
通行人らの目を楽しませてきた。
市産業振興課は「『調布を代表する企業』というイメージがあったのに」と残念がる。

同社広報室によると、工場再編に伴う閉鎖で、
同工場で製造していたマヨネーズを茨城、兵庫県の2工場で、
卵加工品を府中市などで製造することになり、年間9億円のコスト削減が見込まれるという。

ただ、跡地は売却せず、グループ内で活用するという。
調布市商工会の原島芳一会長(70)は、
「寂しいが、完全に撤退する訳ではないので、
今後も、良いお付き合いができれば」と話した。

注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。

この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。

私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。

私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。
この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。

こうした時代にキユーピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。

いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえたのである・・。

学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。

『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解かねぇけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。

その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせたのである。


私はキユーピーの工場と聞くと、今でもドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章を重ねてしまうのである。
そして、今回のキユーピーの仙川工場の閉鎖を知り、私は小学生の頃の情景を思い浮かべたのであった。


http://www.youtube.com/watch?v=ZI-d96nZ-NI
☆ ドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章 ☆


http://www.kewpie.co.jp/index.html
参照・・キューピー ホームページ

・・】

このようにささやかな思いでがあり、世界の多くに愛されているキューピー・マヨネーズに微笑んでいるひとりである。


尚、私はキューピーの会社に関して、親戚まで含めても関係のない人である。



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ふたたび、我が家は『おふたりさま』の平常時となり・・。

2010-04-25 10:47:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一戸建てに住んでいる。

私達のお互いの両親は無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から2時間ばかりの地で独り住まいの生活をされているので、
家内は季節の変るたびに、家内の母宅に大掃除で行ったりしたり、
ときおり私達夫婦と三人で国内旅行をしたり、或いは年末年始には我が家に来宅して貰い、共に年末年始を過ごしたりしている。

たまたま今月の7日から11日までの4泊5日で、家内は母宅で大掃除で孤軍奮闘し、
そして30数年ぶりの母娘だけで広島、道後温泉に滞在し、17日から昨夜の24日まで7泊8日の旅行となった。

この間は私は『おひとりさま』の生活となってしまったが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、食べたりしている。


昨夜の8時過ぎに家内が帰宅した時は、私はお風呂に入っていた時であった。
昨日の私は昼過ぎにスーパーに二軒ばかり買物をした後、
少しばかり大掃除をした後、台所で『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』を改めて圧縮したり、
丼(どんぶり)、皿、茶碗などを水洗いなどをした。

そして少し小奇麗になった後、昼下がりに平素できない食事をしたのである。
スーパーのお惣菜コーナーで買い求めた『とんかつ』の大盛り、そして一昨日買い求めたキャベツを大量に千切りにし、
ソースと芥子で調味させて頂いたのである。

居間のテーブルを窓際に寄せて、樹木の新緑を眺め、そして微風を受けながら、
食べだした・・。

私はメタボの予備軍のひとりであるが、昨年の新春に市の斡旋する『メタボの研修』を受け、
麗(うるわ)しき若き保健女医の優しい指導の下で、ビールは缶ビールを2本まで、脂身のある揚げ物は駄目、
と指きりの固い約束をしたので、旅行、冠婚葬祭などを例外として、殆ど守ってきた。


このような事情もあったが、昼下がりの異例なビールを呑みながら、
天敵の揚げ物のトンカツを頂いたのであり、何かしら厳禁となれば気弱な私は開放感を感じたりした・・。
1時間ばかり2人前ぐらいの量を食べながら、
家内は旅先の松山空港午後4時50分発の航空であるので、我が家に到着できるのは、
夜の9時前後かしら、と思ったりしていた。

この後、私は昼間にビールを呑んだり、大量の食事をしたりした為か、
眠くなり、寝室の布団にもぐり、夕寝を2時間ばかりしてしまった。

そして薄暗くった時に目覚めて、雨戸を閉めたり、夕刊をぼんやりと読んだりした後、
ご入浴の時間とばかり、お風呂に入ったのである。


私は家内と一週間ぶりの対面であったが、家内は元気そうに微笑えんだりしていたが、
少し疲れた表情だった。

この後、家内は家内の母とで羽田空港で夕食をしたと聞いたりので、
とりあえず家内に風呂に入ってもらい、
この間の私は夕食としても昼下がりに盛大な食事をしたので、お腹も満腹のようなので、
小魚をあぶり、ビールを呑む簡素な夕食とした。

そして一時間ばかり旅先のこぼれ話しを私は聴いたりし談笑したが、
家内は少し眠そうな表情をしたので、まもなく家内は寝室に行った。

私は居間でぼんやりとした後、夕寝したせいか眠くないので、
NHKのBS2で『サハラ』砂漠のドキュメンタリ番組を視聴したりし、深夜の1時半過ぎとなった。
そして私は寝室に行き、家内の寝息を聴きながら、寝付いたのである。


今朝、目覚めたのは5時であったが、少し朦朧としたので、もう一度目をつぶったりした後、
二度寝となり、ふたたび目覚めたのは7時過ぎであった。

家内は洗濯と掃除で奮闘して折、私はぼんやりし朝の陽射しをみつめていた。
そして我が家はいつものように『おふたりさま』の生活が再び始まったのである。



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女優・高橋恵子(たかはし・けいこ)様の『「いまが一番幸せ」って』、改めて教示され・・。

2010-04-24 08:51:58 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり.
昨日までの2日間は平年より10度ばかり低く冷たい雨が降る日々であったが、
今朝は雨上がりのまばゆい陽射しで迎え、樹木の新緑に見惚(みと)れたりしていた・・。

いつものように読売新聞の朝刊を読んだりしていたのであるが、
数多くの記事が記載さる中で、一番学んだのは雑誌の広告からである。

マガジンハウスが発行する『クロワッサン』(5月10日号)の広告であり、
特集として《美しい40代のつくり方。》であるが、
この横に、女優・高橋恵子さん『「いまが一番幸せ」って』、と発言されたようなことが明示されていたので、
私は微笑みながら、『そうですよね・・この人生は・・』と共感しながら、
改めて人生の哲学を発露されたのに、教示されたのである。

もとより高橋恵子さんは女優としても幾多の波乱に満ちた人生を過ごされ、
若き40代の女性の方たちに、
『いまが一番幸せ』と感じることこそ、この人生で何よりも大切であり、生き生きと充実した日々をお過ごす下さい、
と声援のような言葉を発言された、と私は解釈している。

このことはもとより若い方でも高齢者の女性でも適応する言葉であり、私のような年金生活の65歳の男性でも、
この人生の肝要な人生哲学の名言かしら、と微笑んだりした。

この名言に敬意し、この雑誌のホームページを掲載する。
http://magazineworld.jp/croissant/780/
☆ マガジンハウス 『クロワッサン』 ☆

この後、私は女優・高橋恵子様の公式ホームページを開き、
『共用フォトギャラリー』に於いて、素敵なしぐさの数々を長らく見惚れたりしたのが、
朝のひとときであった。
http://www.blow-up.jp/
☆ 株式会社ブロウアップ 高橋恵子の公式ホームページ☆


尚、私は女優・高橋恵子様とは言葉も交わしことなく、
サラリーマンの現役時代は民間の中小業で長らく悪戦苦闘したひとりである。




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この時節、私の好きな食べ物のひとつは、筍(たけのこ)・・。

2010-04-23 16:20:27 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
本日も昨日と同じように平年より10度ばかり低い冷たい雨の降る一日となっている。

家内が家内の母とふたりで国内旅行に行っているので、
過日の17日より『おひとりさま』の生活をしているのであるが、
食べ物に関しては、家内が作ってくれた料理、或いはスーパーのお惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定しているので困ることはない。

私がこの時節の好きな食べ物のひとつは、筍(たけのこ)である。

過ぎ去った10日前、昨日と長兄宅から、筍(たけのこ)を頂いたりし、
この間もスーパーのお惣菜コーナーの売り場で、筍の料理を見かけると、
何かしら最優先のように買い求めて、殆どここ9日間ばかりは、筍(たけのこ)づくしとなったりしている。

過日、家内から、
『あなたは・・毎晩・・たけのこ・・飽きずに頂いているわねぇ』
と呆(あ)れ顔で私は云われたりしていた。

『少なくとも幼年期まで農家の児だったから・・飽きることがないよ・・
この時節・・私は一番好きな食べ物よ・・』
と私は微笑みながら、家内に云ったりしていた。

私はこのサイトに於いても、筍(たけのこ)に関しては数多く綴っているが、
私の筍(たけのこ)に対する深い愛着と愛惜の思いをお解り頂く為に、あえて一部を再掲載する。

昨年の2009年4月29日に於いては、
【 私なりの筍(たけのこ)の深い思いは・・♪ 】
と題して、投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている。

或いは国内旅行で、孟宗竹の竹林を観た時も、私は時間が許す限り、眺めたりしている。

私の幼年期は、実家が農家で竹林を保有していた時代もあり、
私なりに孟宗竹の筍、そして竹林には深い思いでがあるので、多少こだわりがある。

このような心情なので、このサイトに於いて、たびたび綴ったりしてきた。

先ほど、私は過ぎ去った幼年期に思いを馳せていた時、孟宗竹の筍なども読み返していた・・。


2007年7月2日に於いて、
【 ひととき夢の中で・・♪ 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日と同様に、昼過ぎに塩野七生・著の『ローマ人の物語』(新潮文庫)第23巻を読んでいるが、
居間で簡易ベットに横たわりながら、1時間程過ぎた頃、眠りに付いた・・。


私は東北新幹線のある駅からタクシーで15分走り続けた場所で降ろされた。
周囲は里山を背景に放置された田畑が幾重にもあり、広大な荒地となっていた。

ひとりの年配の老人が私に、
『あんたかいなぁ・・竹の物狂いのお人というのは・・』
と云った。

私は煙草を老人に勧めた後、私は煙草に火を点(つ)けた。

私はこの老人の方に熱弁を奮(ふる)っている・・。

日本の古来から孟宗竹をこの地一面に植え、竹の文化村を作りたい。
平地の土地は、土壌を四尺ほど、改良し、
建物以外は公園のように遊歩道を設ける以外は、孟宗竹・・一色とする。

建物は筍(タケノコ)主体の専門料理店、筍の加工食料品所、
そして竹に関しての日常品から工芸品に至るまで加工所、販売店まで手がけたい・・。

お客さんは、駅からマイクロバスでお迎えして、
筍づくしの料理と里山で栽培した山菜を食べて頂いた後、孟宗竹の中の遊歩道を散策して頂き、
お土産売り場で保存のきく筍、筍と山菜、そして竹細工の多種をお買い上げて頂く・・

『あんたなぁ・・採算あうのかいなぁ・・』
と老人は私の言葉を遮(さえぎ)った。

『採算はギリギリですが・・
孟宗竹の四季の移ろいの美しさを観て・・その方なりに感銘をして頂ければ・・』
と私は老人に云った。

『そりやぁ・・そうだが・・
あんたに以前云った値段で・・売るよ・・
だけどもね・・あんたは・・夢を見るのがお好きな人だね・・』
と老人は苦笑しながら、私に云った。


私は目覚めた・・。
サラリーマンを定年退職し、年金生活の3年生の私には、とてもこのように気力も資金もない。

私は庭に下り立ち、雨の舞い下りる庭の樹木を眺め、
煙草を喫いながら、どうしてあのような夢を・・と思い返している。


私は東京の郊外で農家の子として生を受け、
父、祖父が亡くなる小学幼年期まで田畑、雑木林、竹林の中で育った。

竹林は、孟宗竹の専用とした2反(約600坪)程あり、5月頃には筍を青果市場に出荷し、
竹は秋の頃に竹細工の方達が買い求めに来宅していた、
このような記憶が今でも鮮明に残っていたる。

ここ50年ばかり筍を作られている場所を見たり、
テレビで視聴したりすると、あれは本物の筍じゃない、と思っているのである。

私の幼年期に観た竹林は、前年の秋に根が浅くなった所を最低三尺掘り下げて植え直し、
春先には地割れと土壌が固くなるので、私達の子供は近寄れなかったのである。

4月の下旬から5月の初め、
地割れの箇所をたよりに祖父と父が専用のスコップで掘ったりしていた。
すべて地中で育ち、根元は最低15センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、商品価値が激減するのである。

私は地上から5センチほど芽がだした筍は皮が黒ずむので、
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。


このような想いがあったのか、ときには考えられない夢を見ることがある。

齢を重ねた私は、今でも夢は甘く、ときには苦いものである。
・・】


そして、2006年5月6日にも、
【 タケノコ、されど筍(たけのこ)・・♪ 】と題して、投稿していた。


【・・
     第1章

以前、筍については、私はたびたび綴ってきた。

私の幼少の頃、竹林があり、青果市場に出荷していたので、鮮明な思い出とこだわりがある。

地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、ということである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、同期の方が福井県、福岡県の友がいた。

このような話をしたら、半信半疑の目付きをされたので、困っていた。


私の新婚旅行の時、京都の筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の実家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。

幸いにして、昨日の読売新聞で私の証言に近い記事があったので、
嬉しく感じ、記事を精読した。

  
     
     第2章

昨日の読売新聞の中、【彩事記】が随時掲載をされているが、榊原智子・記者が綴られた記事を無断であるが引用させて頂く。

《・・
・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。
  (略)
・・》

東京の郊外の私の実家でも、程々にひろい田畑を耕していた農家に於いても竹林を保持し、筍を青果市場に出荷していた。
竹になったのは、竹細工の業者が買いに求めに来た、記憶が残っている。

目黒方式と違うのは、秋になり、根が浅くなったのを、
最低50センチ前後に深く掘った後、枯れた竹の葉を肥料を施して、地中に埋めた。

地上は生育した竹以外は黒土1色で、冬を越え、春の4月頃に地割れを見つけ、
専用のスコップで掘り出した。

この間は、子供は竹林に入ることは、足跡、靴跡が残るので、厳禁となっていた。

芽が地面より5センチ以上になったものは、柔らか味が薄れるので、
買取り価格が安くなり、家庭で食べたりしていた。

特にこれ以上伸びた筍は、竹の皮が黒ずみ、子供の私さえ、カラスと呼び馬鹿にしていた。

東京の郊外は、地中でいかに大きく育てあげるかが鉄則であった。


     第3章

東京の郊外は、東京オリンピックが開催された前、どの家も筍の青果市場への出荷は終えた・・。

わずかに竹林はあるが、かつてのような手入れがされず、ただ伸ばし放題の竹林が残っている。


このような形の竹林は、まだ私が小学生の頃、付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。
傾斜に竹林が密集し、下方に池があった。

私は小学3年ぐらいの時、下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが芸術家かょ・・難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと解っていないなぁ』
と子供心に私は心の中で呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は駅前の本屋に行った時、店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなき武者小路実篤と明示されて折、私はあのお爺さんが、と気づかされたのである。


私は筍を出荷した竹林は、ある程度に間引いた上、黒土の1色で早春を迎え、
筍が出やすい状況のこだわりがあった。

孟宗竹が密集し、その間から筍が出てきて、地上から10センチ以上に成育した時に、
収穫するのは邪道と思っている。

こんな思いもあるが、
実家の長兄宅でも、わずかに竹林を残し手入れが行き届かない処から、毎年10本前後生えてくる。

子供の頃、カラスと馬鹿にしたのを実家から、毎年頂いている。

このような思いが私の心の片隅にあるので、かってのような整備された孟宗竹の群生を旅行先で見かけると、
私は少し涙ぐんで、立ちすくんだりしている・・。
  
・・】



これ以前にも、2005年4月24日に於いて、
【 筍(たけのこ)が食卓に・・。 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日、長兄の宅より大きな筍を頂いた。家内は、早速台所で筍をむき始めた。

遠い昔、私が幼児であった頃、祖父、父が農家をしていたので、竹林が二反あった。

秋になると、地表に根が出そうになったのを三尺近く堀起こし、地中深く根を埋めていた。
次兄と私は、穴が掘られたのを子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。

柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを二、三尺を堀り、やがて大きな筍を掘り出した。

芽が地表にだしたのは、柔らか味が出てしまい身が固くなるので、カラス、と呼んでいた。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

その後、残した筍は、日増しに大きくなり、やがて若い竹となり、
子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。


夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、さわさわとした葉ずれの音を聴き、
心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けに来宅した。
この頃、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで何処の家も使われていた。

その後、昭和28年に父が亡くなり、まもなく祖父も他界した。


私の実家は、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。
今、長兄の宅は、五、六坪の竹林に留めている。
手入れも昔ほど出来なくなったので、地表に出た、カラスを掘り起こしている。

そして私の幼年期に観た竹林の情景は、この付近の郊外では消え去ってしまった。
・・】

このように数多く筍、竹林のことなどを4つばかり再掲載したが、
私は昨今テレビなどで筍を掘り起こす情景を偶然に視聴したりする時、
遠い昔の幼年期に見た筍とは違う、と苦笑したりしている。



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