夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

長渕剛さん、卒業控えた高校生に弾き語りでエール、高齢者の私も感動して・・。

2023-02-28 00:05:21 | 音 楽

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
夜の8時半過ぎ、たまたまヤフー・ジャパンより配信されたニュースを見ている中、
下記の見出しを、瞬時に見たく、視聴したりした・・。

「まっすぐ生きよう」長渕剛さんが高校生に弾き語りでエール(MBC南日本放送) - Yahoo!ニュース

 

「まっすぐ生きよう」長渕剛さんが高校生に弾き語りでエール(MBC南日本放送) - Yahoo!ニュース

「まっすぐ生きよう」長渕剛さんが高校生に弾き語りでエール(MBC南日本放送) - Yahoo!ニュース

鹿児島出身のシンガーソングライター長渕剛さんが、卒業を控えた高校生にエールを贈りました。鹿児島女子高校の体育館に集まった、およそ700人の生徒たちを前に登場し...

Yahoo!ニュース

 

私は楽譜も読めなく、楽器も弾けない身であるが、
音楽を聴くのが好きで、特にシンガーソングライターに寄る、
作詞、作曲、そして自身の歌を唄われる表現者に深く魅了されている。

もとより長渕剛さんも、遅ればせながら私は1989年の頃から魅了され、
ファンのひとりとしてCDを購入して、聴いたり、
DVDでライブ盤を視聴したりしている。

こうした中で、今回、長渕剛さんが地元の卒業控えた高校生に、
弾き語りでエール・・いいよなぁ・・と思いながら視聴したりした。

こうした卒業控えた高校生には、人生のひとつの階段の時に、
良き思いのひとつとなると思い深めると、
無縁な年金生活の私でも、感動し、まぶたが熱くなったりした。

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森山直太朗さん、デビュー20周年、77歳の私は学び、ささやかな私なりの想いを馳せて・・。

2022-03-14 15:12:46 | 音 楽

先程、ヤフー・ジャパンが配信されたニュースを見てる中、
『 森山直太朗 デビュー20周年 
           思い出の一曲は憧れの歌手とのコラボ
           「1ミリだけ近づけたような気持ち」』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む77歳の年金生活の身であるが、
森山直太朗さんは・・デビューして20年になられたか・・、と私は思い、
やがて、デビューされた頃の私なりのささやかな思い、思い馳せたりした・・。



私のサラリーマン現役時代は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界のCDを中核とした売上げがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。
この前後に、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われた。

私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であり、
もとより若き入社時代から、人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
私が勤めていた会社でも、組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの烈風となった・・。

このような形で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。

          

私も55歳を迎える年に、1999年(平成11)年の初春、リストラ烈風の中、
各レコード会社の音楽商品のCD、DVDなどの物流を委託している物流会社に、
あえなく出向となったりした。

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

出向先は、少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられたりした。

そして約2万5千種類の音楽のCD、DVDなどの商品が並ぶ棚の大きな倉庫の中で、
センター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

こうした中、ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
全国のCD販売店、卸店などからの注文に応じて、即日出荷するのが、業務が大半で、

或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

そして
私は、主要曲の出荷量を予測したりし、
効率よく迅速に出荷できるような業務も責務のひとつであった。

          

こうした中で、2003年(平成15年)3月の初め発売された森山直太郎さんの『さくら(独唱)』のCDシングルは、
発売日の初回枚数が、わずか1500枚前後であったと記憶している。

この当時、かって勤めていた出向元のあるレコード会社からは、
毎月発売されている新譜と称されるCD、DVD等の音楽商品に関して、
邦楽、洋楽、クラシックなどは、少なくとも100種類はあった。

その上に既に前月までに発売されてた旧譜と称されるの商品は、
2万5000種類は超えて、この中の一部にヒット曲もあり、主要曲として出荷量の大半を占めていた。

こうした状況であったので、3月5日に発売された森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、
初回枚数が余りにも少なく、私は注視することがなかった。

やがて桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したりした。
               
しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚単位のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、現場を駆けずり廻っていた。

                    

この頃の私は、通勤時にビジネスバックの中に、CDウォークマンを入れて、数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年近くレコード会社で情報・管理畑、営業畑で体験した身でも、需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、人々の好みを予測し、この中の一部の方が一枚を購入して下さるので、
まぎれなく生きた心の商品でもある。

結果として、森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの大型連休の頃、ミリオン・セラーと称せられる百万枚となり、その後も出荷を重ねた。

私にとっては、たまたま定年退職の前の年に、この曲が私の予測を遥かに超え、
思いで深い曲のひとつとなった・・。

                    

この当時の頃のCDシングルは、何曲も収録されているのが、流行だった。
このCDシングルも『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別の情緒が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。

このように私なりに体験をしたので、本社に勤務を含めた35年間でも、
数多くのヒット曲にめぐり逢えたが、とりわけ森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の歌は、
思いで深い曲のひとつとなっている・・。

          
       

やがて出向先の大手企業の傘下の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

そして、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、敗残者のような深情で年金生活を始めた・・。     

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、早や丸17年半が過ぎている。

                

ここ10幾年、中学生、高校生の間で、卒業式の愛唱歌として、
森山直太朗さんの『さくら(独唱)』の歌が、唄われる、と私は風の噂で聞いたりすると、
作詞も良し、メロディーも、そして唄声も心に残る、と私は確信を深めて、
そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、微笑(ほほえ)む時もある。

このようなことを私は思い馳せたり、この森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の出荷作業に奮闘していた時から、
早くも19年の歳月が過ぎてしまった、と微苦笑したりして、
そして年金生活をしていると実に早く過ぎ去ってしまう、と思いを重ねたりしている。

こうしたささやかな
森山直太郎さんの私なりの思いもあるので、
今回の《・・森山直太朗 デビュー20周年・・》の記事を読んでしまった。

この記事は、【 スポニチ 】に於いて、3月14日に配信され、
無断であるが、転載させて頂き。

《・・

スポニチアネックス



私は記事を読みながら、微笑みを重ねたりした震撼したりした・・。

もとより私は森山直太朗さんの唄声も好感しているひとりであるが、
ここ10年、玉置浩二さんの唄声に改めて再認識し、絶賛していて、
特に『メロディー』
の歌は、幾度も聴きながら、感銘している・・。

このような私の思いもあり、今回の
森山直太朗さんが、
玉置浩二さんに寄せる思い・・私なりに微笑みを重ねたりしている。

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大竹しのぶ、安倍寧、ピアフを語り尽くすトークショー「音故知新 ピアフ~恋に生き、歌に生き」を観覧して・・。

2018-10-11 14:48:25 | 音 楽

読売新聞は「音故知新」の特集記事を音楽評論家の安倍寧さんが中核となり連載しているが、
今回、女優の大竹しのぶさんをゲストとして招き、
公開のトークショーが10月10日にシアタークリエで行われた。

女優の大竹しのぶさんが2011年以来、過去3度にわたってシアタークリエの舞台「ピアフ」に主演し、
多くの方からピアフが乗り移ったと賞賛された迫真の演技を披露され、
今年11月には4度目の再演を控えている。

こうした中で、舞台「ピアフ」の開演する前の序曲として、500名の御方の観覧者の前で、
音楽評論家の安倍寧さんに導かれて、女優の大竹しのぶさんがピアフを語り尽くす、テーマであった。

音楽評論家の安倍寧さんは、美空ひばりさん、越路吹雪さん、フランク・シナトラ、エルヴィス・プレスリー、ビートルズ等、
今や伝説となったアーティストをリアル・タイムで見聞きし、論評してきた御方である。

或いは、浅利慶太さんの学生時代からの盟友でもあり、
劇団四季取締役として、「キャッツ」、「オペラ座の怪人」、「マンマ・ミーア!」などの
日本公演の企画、交渉に深く携わった、と私は過ぎし年に関係者から聞いたりしてきた。

そしてピアフの歌を数多く唄っていた越路吹雪さんにアドバイスされた安倍寧さんが、
女優の大竹しのぶさんにピアフを演じたら・・進言されたことは、伝説となり始めている。

今回、こうしたおふたりが、安倍寧さんが、女優の大竹しのぶさんにピアフを演じたら、と進言された
エピソードを談笑するように語り合ったりした。

               

そしてピアフの壮絶な人生の中、ピアフが愛した人を語ったりあう中で、
こうしたひとりに公演旅行に同行させたシャルル・アズナブールも・・と語り合ったりした。

そして過日、日本の公演で圧倒的に好評だったシャルル・アズナブールの力量にお互いに感動した後、
シャルル・アズナーブルを囲んで、数多くのバラの花束を抱えた大竹しのぶさん、そして安倍寧さんの一期一会の写真が
今回、掲げられたりした。

或いは大竹しのぶさんは、舞台「ピアフ」の主演を、公演開催期間、
連日してきたが、その日、その日の思いで演技してきたので、
もとより( 映画、テレビのように )同じことはない。

このような意味合いの言葉、真摯に大竹しのぶさんは、発露されていた。
https://www.tohostage.com/piaf2018/
☆ 大竹しのぶ・主演『ピアフ』オフィシャル サイト ☆

こうしたトークショー
が終わった後、エディット・ピアフの命日のあたり、
10月10日にカバーアルバム『SHINOBU avec PIAF』を発売に際して、
この中の二曲をアコーディオンの演奏する中、披露された。

最初は『アコーディオン弾き』、この後は『愛の賛歌』であった。

私は音楽好きで、この名曲ふたつも数多くの歌手が唄うのを聴いたしていたが、
やはり大竹しのぶさんは、良き意味合いで舞台「ピアフ」の主演を演じてきたので、
舞台女優としての圧倒的な表現力で唄われて、歌手の領域と違う魅力させる力量が十二分に発露した。

この後、大竹しのぶさんは、最初の曲は美輪明宏さんの訳詞で唄ってきたが、
今宵は、初めて岩崎時子さんの訳詞で唄い、少し戸惑った、と発言されていた。

こうした言葉、しぐさが、若い女性のような可愛らしさがあり、
大竹しのぶさんは、もとよりテレビドラマ、映画、舞台、CMなど多彩に活躍され、
何よりも第一線で45年近く継続している稀(まれ)な御方である。

人は誰しも光と影があり、大竹しのぶさんは、特に影の深淵も深く演じられる稀(まれ)な御方であり、
テレビドラマ、映画、舞台の第一線の演出される御方が、大竹しのぶさんを抜擢したがる
稀(まれ)な御方、と私は感じたりしてきた。

この後、大竹しのぶさんはアルバムの制作過程に触れて、それぞれのミュージシャンの演奏と共に、
同時に唄った、発露された。

こうした録音方法は、過ぎし1970年代までに流行った方法であるが、
これ以降はそれぞれのミュージシャンの演奏され、歌い手も別の機会で唄われたり、
こうした後に、マルチ録音方法でつなぎ合わせることが殆どとなっている。

現代、余程の自信のある歌い手、或いはミュージシャンの演奏と共に、唄いあげる効果が曲の思いが深まる、
と信愛している歌い手、と私は思っているので、
大竹しのぶさんは、舞台経験を重ねた為か、この高揚感が御存知だ、と私は好感を増したりした。

               

この後、大竹しのぶさんは、私生活の面を発言されていた。
過ぎし9月1日に老衰のため死去した母(享年96歳)への思いを語り、
『あっぱれな人生でした』と語り合うように明言された。

そして『行ってきます』、『ただいま』を言う人がいなく、
母親って、こんなに大きな人だったんだな・・と喪失感を発露されたりした・。

この後、今回の観覧料は3000円であるが、主催社の御厚意で、
大竹しのぶさんの最新アルバム『SHINOBU avec PIAF』を無料で、
観覧者500名に、大竹しのぶさん御自身で、手渡すイベントが実施された。

今回、私は観覧者のひとりとして鑑賞したが、20代後半から70代まで幅広い世代で、
女性が7割前後であった。

こうした中の最後に、大竹しのぶさん御自身で手渡すイベントに於いて、
観覧者の御方が、大竹しのぶさん御自身に、その御方なりの思いを言葉にして、
アルバムを受け取っていた・・。

しかしながら、おひとりさまが30秒の熱き思いを大竹しのぶさんに伝えると、
時間が要した。

やがて私の順番になると、大竹しのぶさんは既(すで)に一時間以上の手渡し応対に、お気の毒と感じて、
『お疲れさまですねぇ・・』と短く微笑みながら握手をしたが、
想定した以上に大竹しのぶさんの手は、若く柔らかく感じたりした。

そして私は、シアタークリエを辞して、帰宅に向かった。

尚、コメント欄は、再開致しました。

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吉岡聖恵ちゃんの唄声に、60代を年金生活を過ごしてきた私でも、何かと励まされて・・。

2014-11-05 13:03:54 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳を歩き始めた身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

確か一週間の前の夕暮れ時、ラジオを聴いていたら、偶然に私の好きな『YELL(エール)』の曲が流れ始め、
吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえた・・。

この『YELL(エール)』など数多くの名曲を創られたのは、『いきものがかり』というバンドであり、
水野良樹(みずの・よしき)さんと山下穂尊(やました・ほたか)さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによる
三人構成のスリーピース・バンドである。
              

私が遅ればせながら、偶然にボーカリストの吉岡聖恵ちゃんの唄声に初めて魅せられたのは、
2004年(平成16年)秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
やがて2008年〈平成20年〉の初秋、私たち夫婦は家内の母を誘い3人で
富山市の郊外にある呉羽山に5泊6日の温泉滞在旅行に、観光バスで行く途中であった・・。

日本海の近くにある高速道路のあるサービス・エリアに休息となり、バスから下り立った時、
お土産売り場の外れのスピーカーから、
何かと好きな徳永英明(とくなが・ひであき)さんの歌に続いて、未知の歌声が流れてきたのである。

♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ・・
ぼんやりと聴いていたが、のびのびとした爽(さわ)やかな唄声に、瞬時に魅了されたのである・・。
       

偶然にこの曲を知り、たまたまその唄声に魅了され、
やがて後日、水野良樹さんと山下穂尊さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、『帰りたくなったよ』という曲名を知ったりした。

その後の私は『花は桜 君は美し』、『SAKURA』、『うるわしきひと』等も知り、
ときおり聴いたりしていた。

そして、彼らが無名時代に夢に向かって路上ライブを長年した後、
メジャー・デビューして3年過ぎ、各地のライブ・コンサートは賞賛を受けている、
と後日にNHKのBS2で『いきものがかり ライブ』を視聴して、改めて知ったのである。


私は偶然に、遅ればせながら彼等の音楽を知り得たのであるが、
何かとすれ違うことの多い人生の中で、
この当時の私は63歳の身であったが、夢中にさせてくれたことに感謝をしたりした。

私は彼らが夢に向かって、無名な時に路上ライブを長年し、
何より詞と曲の良さ、そして聖恵ちゃんの特有な伸びのある唄声で、多くのファンを獲得された、と思ったりした。
       

確か2009年(平成21年)9月下旬に私が高齢者入門の65歳になった時、
ラジオから『YELL(エール)』の曲が流れ始め、私は聴いたりしていると、
私の高齢者入門の門出を励ますように感じたりした・・。

しかしながら後日に、第76回NHK全国学校音楽コンクール・中学校の部の課題曲『YELL(エール)』と知り、
そして水野良樹さんが作詞と作曲を担当されたと学んだりした。
何かと多感で不安を秘めた中学生や高校生に人生の途上を励ます歌だろうと解釈したが、
高齢者の私だって、大いに励まされるょ、と独り微笑んだりした。

Yell

YouTube【いきものがかりの『YELL(エール)』作詞、作曲・水野良樹、唄・吉岡聖恵 】
     ☆視聴して下さるお方は、画面の左上の『Yell』をクリックして下さい☆


過ぎし一昨年の7月の初め頃、私は居間で新聞、本を読んだりしている時、
家内はテレビを視聴したりしていると、
テレビから吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえる時が多くなったりした。

その後に気付いたのであるが、第30回夏季オリンピックがイギリスのロンドンで7月27日から開催され、
NHK放送テーマソングとして、いきものがかりの『風が吹いている』が選定されて、
このグループの女性ボーカルの吉岡聖恵ちゃんが唄っていた、と解ったりした。

そして今日まで、我が家は何かとのNHKテレビ放送を視聴することが多く、
オリンピック開催中に伴い、少なくとも一日に数回は、
吉岡聖恵ちゃんの『風が吹いている』の唄声を聴いたりし、
齢ばかり重ねた高齢者の私でも、励まされるような心情となったりしてきた。
       

或いは2010〈平成22〉年の5月頃、いつものように私は朝の7時より、
NHKの総合ニュース『おはよう日本』を殆ど視聴していた。
そして家内は、洗濯、掃除に追われているが、
私は家内の茶坊主でコーヒーを淹れたりするくらいで、ぼんやりとニュースだけは見ることが多かった。

そして8時半過ぎまでは、テレビを点(つ)けて、ときおり家内が見るのが、
我が家の習性のようになっていた。

こうした時に、いつものように見ていたのであるが、
『特集 いきものがかり』と表示されながら、彼ら三人がインタビューを受けたり、
ライブのシーンがあったりして、
体力の衰えた私でも、思わず微笑を浮かべたりした・・。
       

この少し前の4月の初めの頃だったか、私はパソコンでこのサイトを8時過ぎに開いていたら、
♪ありがとうって伝えたくて・・とテレビから流れて、
私は『聖恵(きよえ)ちゃんの唄声だ・・』
と思わずテレヒの番組を見たりした。

そしてNHKの連続テレビ小説の『ゲゲゲの女房』の主題歌で、
いきものがかりの『ありがとう』の歌だ、と少し判りかけたのである。

そして彼らの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられている私は、
肝要のテレビ小説の『ゲゲゲの女房』内容よりも、
殆ど吉岡聖恵ちゃんの唄声を聴き、励まされた・・。

余談であるが、私は現役サラリーマンの時代は、あるレコード会社の管理畑に35年ばかり勤めた身である。
そして無念ながら、彼ら『いきものがかり』の専属契約先のレコード会社とは関係がないが、
良き音楽作品とアーティストに私が魅了された場合は、
齢を重ねても絶賛する性格なので、綴った次第である。

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クリスマス・ソング、高齢者の私が圧倒的に魅了されている歌は・・。

2013-12-18 06:46:24 | 音 楽

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
12月初旬の頃から、新聞の折り込みチラシのデパート、スーパーなどで、
クリスマスに関しての贈り物、或いは駅前の洋菓子専門店のケーキが広告チラシとして掲載されてきた。

生家は仏教の曹洞宗の中で育てられ、キリスト教には無縁であるが、
中学生の頃から何かとアメリカの文化を影響されてきた私は、
この時節を迎えると、クリスマスのシーズンかしら、と微苦笑したりしてきた。

過日、家内の依頼で商店街の洋菓子店に行った時、
店内にはクリスマス・ツリーが置かれて、思わず私は微笑んだりした・・。
そしてクリスマスの歌も流れて、高齢者の私でも少し高揚感となり、苦笑してしまった・・。

この帰路、数多くあるクリスマス・ソングの歌を思い浮かべたりし、
この中で私が圧倒的に魅せられた歌に思いを重ねたりした・・。
            
     ☆過ぎ去り2008年の12月下旬に『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観に行った旅路で、
      『サッポロファクトリー』に入店し、喫茶店の外庭のテーブルに座っていた時、
      レンガの煙突にサンタさんが這い登る情景に魅せられ、たまたま雪が舞い降り始めた☆


確か1995〈平成7〉年のクリスマス・シーズンの前、
たまたまドナ・サマーのクリスマス関係の名曲の数々に惹かれて、一枚のCDアルバムを私は購入したりした。

ダンス・クィーンなどと称されていたドナ・サマーが、
1994年に名プロデューサーのマイケル・オマーティアンとの共作に寄る
『CHERISTMAS SPIRIT』と題されたアルバムである。
          
そして日本ではマーキュリー・レーベルから発売され、
アルバム・タイトルは、『ホワイト・クリスマス/ドナ・サマー』となっている。

①ホワイト・クリスマス
②クリスマス・ソング
③神の御子は今宵しも
④クリスマス・イズ・ヒア
⑤クリスマス・メドレー
  a.このみどり子は誰なるぞ
  b.ドゥ・ユー・ヒア・ホワット・アイ・ヒア
  c.もろびとこぞりて
⑥クリスマスはわが家で
⑦クリスマス・スピリット
⑧プレイス・オブ・ヘヴン
⑨オー・ホーリー・ナイト
⑩ラム・オブ・ゴット

私は初めて聴いた後、真の大人の歌手が圧倒的な歌唱力で唄い上げ、
オーケストラとゴスペラ・コーラスを背景にした作品であり、
黒人霊歌を根底に育ったドナ・サマーが、真摯に唄うクリスマス・ソングの一曲でも聴くと、
まさに使い古された言葉であるが、鳥肌が立ち、思わず襟を正された・・。

かといって、どなたでも親しみのある名曲ばかりであるので、
たとえ一流のホテル、街のお洒落な居酒屋でも聴きやすいアルバムでもある。

私はクリスマス関連のアルバムを10数枚を所有しているが、
このアルバムのドナ・サマーが、『クリスマス・ソングス』、『神の御子は今宵しも』
そして『もろびとこぞりて』等を聴いたりすると、
やはり日常生活でキリスト教に信愛し、親しみを持たれた類(たぐい)稀(まれ)な歌手に、
底知れぬ唄声に降参し、魅了されるのである。

私はドナ・サマーに関しては、このたった一枚のアルバムしか知らないが、
毎年クリスマス・シーズンになると、
このアルバムを盛んに聴いたりして、早や18年は過ぎている。


私のサラリーマン現役時代の時、確か1983年のこの時節に初めて聴いて、
巧過(うます)ぎる歌だなぁ、と瞬時に感じた山下達郎さんの『クリスマス・イブ』である。

この後に、JR東海のCMに盛んにテレビで放映され、
離れ離れの若き男女で、待ちわびて、そしてやっと逢える、といった情景だったと思い浮かべている。

山下達郎さんのこの曲の唄声を背景に、
その後も毎年のように幾つかの若い男女のせつなく、もどかしい情景が映しだされ、
私は微笑みながら、秘かに若い男女に幸せあれ、と心の中で祈ったりしていた・・。

そして昨今は、携帯電話、スマートフォンなどを若い方たちは愛用しているので、
待ちわびる、と言った情感は死語になってしまい、愛惜感も増す名曲である。

そして私は、若き男女のおふたりに、冬の天の川のように心寄せながら、
ときめき、もどかしさ、せつなさの恋情を齢を重ねた私さえ、
感じられ、感銘させてくれる歌である。


クリスマス・ソングの中で、園児から高齢者まで高揚させてくれる歌は、『赤鼻のトナカイ』である。
年金生活を始めて、確か翌年のクリスマスの直前だった、と記憶している。

平素の買物専任者の私は、午前のひととき、私は二軒ばかりのスーパーに買物に行った。
数多くの人々が三連休の最終日、その上、クリスマス・イブなので、
何時もの平日と違い、込み合っていた・・。
ご家族の方たち、現役の40代のご夫婦等が見受けられ、私なりに微笑ましく、感じられた・・。

店内からは、

♪真っ赤なお鼻の トナカイさんは
 いつもみんなの 笑いもの

【 『赤鼻のトナカイ』 作詞・新田宣夫 作詞・MARKS JOHND 】

メロディが流れた・・。

私は何かしら追われるように、買物の選定をしたのであるが、
クリスマス・ソングの中で、誰しもが知っていて、親しまれ、心を高揚させる曲は、
『赤鼻のトナカイ』は、突出した最高の曲と思ったりした。

買物の客が、何かしら追われるようにクリスマス関係商品を数多くお買い上げ頂ければ、
と店長の発想であったならば、優秀な店長と私は誉(ほ)め讃(たた)える。

そして選曲を『ホワイト・クリスマス』などにした場合、
買い物客は、何かしらしっとりと聴きこんでしまい、お買い上げの向上に図れないと思う。

たかが、クリスマス・ソング、されど選定された曲は何かしらの向上に役立つ、
と私は微苦笑したのである。

この時節、元気のない人は、『赤鼻のトナカイ』の一曲を聴けば、
心身元気を取り戻す特効薬かしら、と微笑んでいる。
          

このように選曲していたが、私は読み返しながら、
歌の世界から、私の人生に於いて、最も影響を受けたひとりのお方を忘れていたのである。
古い表現で云うと、シンガー・ソングライターの中島みゆき・女史である。

私は40代の1989〈昭和64〉年に、偶然に中島みゆきさんの『エレーン』を聴き、
この当時の私は情報畑で、消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴き、人生の心のピンチを救われたりした。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたり、
私が勤めていた会社がリストラ烈風の中、55歳から出向時代していた中で、
『ヘッドライト・テールライト』が支えのひとつとなったりした。

そして何よりも『HAFE』は少なくとも55年間で数多く音楽を聴いた中で、
最も影響を受けて感銘しさせられた作品である。

私にとっては、やはり中島みゆき女史は、たぐい稀な女神であり、
この思いは、ここ25年近く、敬愛している。

このような私であるので、中島みゆき女史のクリスマス・ソングは知っているし、
秘かに心の中で唄ったりしている・・。

『歌麿』と題したコンサート(1986年)の中で、
この中の一曲として『クリスマスソングを唄うように』である。
          
この世に、珠玉、という言葉があったならば、
まぎれなく『クリスマスソングを唄うように』の歌は最もふさわしい、
と思いを重ね、私なりに最も愛すべきクリスマス・ソングである。


このように独断と偏見がある私が選定した歌である。
もとよりクリスマス・ソングは、松任谷由実さんの『恋人がサンタクロース』、
竹内まりやさんの『今夜はHearty Party』、マライア・キャリーの『恋人たちのクリスマス』、
ワム!の『ラスト・クリスマス』などが多々あるが、私は上記の曲に圧倒的に魅了されている。

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吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの『風が吹いている』の唄声に、高齢者の私でも励まされて・・。

2012-08-01 13:59:02 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし7月の初め頃、私は居間で新聞、本を読んだりしている時、
家内はテレビを視聴したりしていると、
テレビから吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえる時が多くなってきた。

その後に気付いたのであるが、第30回夏季オリンピックがイギリスのロンドンで7月27日から開催され、
NHK放送テーマソングとして、いきものがかりの『風が吹いている』が選定されて、
このグループの女性ボーカルの吉岡聖恵ちゃんが唄っていた、と解ったりした。

そして今日まで、我が家は何かとのNHKテレビ放送を視聴することが多く、
オリンピック開催中に伴い、少なくとも一日に数回は、
吉岡聖恵ちゃんの『風が吹いている』の唄声を聴いたりし、
齢ばかり重ねた高齢者の私でも、励まされるような心情となっている。


確か2010〈平成22〉年の5月頃、いつものように私は朝の7時より、
NHKの総合ニュース『おはよう日本』を殆ど視聴していた。
そして家内は、洗濯、掃除に追われているが、
私は家内の茶坊主でコーヒーを淹れたりするくらいで、
ぼんやりとニュースだけは見ることが多い。

そして8時半過ぎまでは、テレビを点(つ)けて、ときおり家内が見るのが、
我が家の習性のようになっている。

こうした時に、いつものように見ていたのであるが、
『特集 いきものがかり』と表示されながら、彼ら三人がインタビューを受けたり、
ライブのシーンがあったりして、
体力の衰えた私でも、思わず微笑を浮かべたりした・・。


この少し前の4月の初めの頃だったか、私はパソコンでこのサイトを8時過ぎに開いていたら、

♪ありがとうって伝えたくて

とテレビから流れて、
私は『聖恵(きよえ)ちゃんの唄声だ・・』
と思わずテレヒの番組を見たのである。

そしてNHKの連続テレビ小説の『ゲゲゲの女房』の主題歌で、
いきものがかりの『ありがとう』の歌だ、と少し判りかけたのである。

そして彼らの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられている私は、
肝要のテレビ小説の『ゲゲゲの女房』内容よりも、
殆ど吉岡聖恵ちゃんの唄声を聴き、励まされた・・。


私が偶然にボーカリストの吉岡聖恵ちゃんの唄声に初めて魅せられたのは、
2008〈平成20〉年の私たち夫婦は家内の母を誘い三人で
富山市の郊外にある呉羽山に5泊6日の温泉滞在旅行に観光バスで行く途中であった・・。

高速道路にあるサービス・エリアに休息となり、バスから下り立った時、
お土産売り場の外れのスピーカーから、
徳永英明さんの歌に続いて、未知の歌声が流れてきたのである。
のびのびとした爽(さわ)やかな歌声に、瞬時に魅了されたのである・・。

♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ
 大きく手を振ってくれたら 何度でも振り返すから

【『帰りたくなったよ』 作詞、作曲・水野良樹、唄・吉岡聖恵 】

偶然に彼等を知り、たまたまその歌声に魅了され、
後日、水野良樹と山下穂尊、そして同級生の妹・吉岡聖恵によるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、『帰りたくなったよ』という曲を知ったのである。

私はその後『花は桜 君は美し』、『SAKURA』、『うるわしきひと』等も知り、
ときおり聴いたりしていた。

そして、彼らが無名時代に夢に向かって路上ライブを長年した後、
メジャー・デビューして3年過ぎ、各地のライブ・コンサートは賞賛を受けている、
と後日にNHKのBS2で『いきものがかり ライブ』を視聴して、改めて知ったのである。


私は偶然に、遅ればせながら彼等の音楽を知り得たのであるが、
何かとすれ違うことの多い人生の中で、
この当時の私は63歳の身であったが、夢中にさせてくれたことに感謝をしたりした。

私は彼らが夢に向かって、無名な時に路上ライブを長年し、
何より詞と曲の良さ、そして聖恵ちゃんの特有な伸びのある唄声で、多くのファンを獲得された、
と思ったりした。

尚、私はあるレコード会社の管理畑に35年ばかり勤めた身であるか、
彼ら『いきものがかり』の専属契約先のレコード会社とは関係がないが、
良き音楽作品とアーティストに私が魅了された場合は、
齢も重ねても絶賛する性格なので、綴った次第である。

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南 沙織、山口百恵、キャンディーズ、ささやかな私なりの思いを馳せて・・。

2012-07-27 16:43:26 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、いつものように7時過ぎに入浴した後、
居間でエアコンの冷気で涼んでいた時、家内はテレビを視聴していた。

そしてテレビの画面に、山口百恵ちゃんが健気に唄っている姿があり、
百恵ちゃんかょ、と私は心の中で呟いたりした。

この後、私も視聴したりしていると、
TBSテレビの『甦る昭和の歌姫伝説 2』と解り、山口百恵ちゃん、この後に南 沙織ちゃん、
そしてキャンディーズの歌の数々を視聴したりした。

こうした中で、南 沙織ちゃんに関しては、沖縄返還40周年の今、
故郷の沖縄に対する複雑な思いが発露されたりしていたのが、私は心に残ったりした。

この番組の南 沙織、山口百恵、キャンディーズを視聴した後、
家内は入浴したので、私はテレビのスイッチを切り、
そうだったよねぇ・・あの当時は・・あのようなスターがいて、あのような名曲が・・
と私は思い馳せたりした・・。

たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に勤めた身なので、
他社のCBS/ソニーの所属した南 沙織、山口百恵、キャンディーズであったが、
懐かしげに思いを馳せてしまったのである。

この当時の私の状況は、このサイトに於いて、
《 尾崎紀世彦さんの死去を知り、私なりのささやかな思いは・・。》
と題して、投稿している。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20120602
☆【 夢逢人たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
<==6月2日《 尾崎紀世彦さんの死去を知り、私なりのささやかな思いは・・。》

このように私は、レコード会社の本社の片隅みで、コンピュータ専任者として勤務していたが、
自社はもとより、他社の音楽状況下の歌に気になっていたのである。

私が勤め始めた1970〈昭和45〉年の4月の当時は、
ビクター系のRCAレコードから藤 圭子の前曲の『新宿の女』に続いて、
『女のブルース』が音楽情報誌のオリコンのランキング首位であり、次作の『圭子の夢は夜ひらく』と、
破竹の勢い旋風であった。

こうした中で、東芝レコードから由紀さおりの『手紙』が前作の『夜明けのスキャット』に続いて、
首位を獲得して善戦したりしたが、
この後、東芝レコードから渚 ゆう子の『京都の恋』、次作の『京都慕情』も大ヒットを重ねたりしていた。

翌年の1971〈昭和46〉年の3月になると、
ポリドールからは加藤登紀子の『知床旅情』が前年発売された曲であったが、次第に売れ始めて、
首位を獲得して、7週間独走したりした。
そして7月にワーナー・バイオニアから小柳ルミ子の『わたしの城下町』、
CBS/ソニーからは、南 沙織の『17才』、
共に大ヒットを重ねて、鮮烈にデビュー作となった。

私は渚 ゆう子の『京都の恋』、『京都慕情』、加藤登紀子の『知床旅情』、小柳ルミ子の『わたしの城下町』を
聴いたりしていたが、
この当時としては国鉄(現在・JR)が、盛んに『ディスカバー・ジャパン』の宣伝広告をしていたので、
こうした背景の中で、稀なヒット作となった、と私なりに理解をした。

そして南 沙織の『17才』に関しては、沖縄返還で日本の数多くの人が注視していた時代の時、
CBS/ソニーのマーケット・リサーチの結果、
沖縄県のスターを誕生させた、と私は理解していた。

1972〈昭和47〉年になると、CBS/ソニーからは、天地真理の『水色の恋』が発売され、
やがて次作の『ちいさな恋』より5曲連続の首位を獲得して、
ひとつの時代を築いた。
この間、ワーナー・バイオニアから小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』、次作の『京のにわか雨』も大ヒットを、
重ねたりしていた。

その後、翌年の1973〈昭和48〉年になると、
ビクターレコードから麻丘めぐみ『わたしの彼は左きき』、
ワーナー・バイオニアからアグネス・チャンの『草原の輝き』、
大ヒットとなったりした。

そして1974〈昭和49〉年7月になると、
CBS/ソニーからは、山口百恵の『ひと夏の経験』が大ヒットとなり、
社会にも衝撃をもたらし、その後の曲も何かと話題に乗り、ヒットを重ねたりした。

その後、ビクターレコードのピンクレディの旋風の中、
CBS/ソニーのキャンディーズの歌の数々が発売されて、ヒットを重ねて、
やがて1977〈昭和52〉年の7月に引退宣言し、
そして山口百恵も1980〈昭和55〉年10月に、ファイナルコンサートで引退された。

私は南 沙織の引退は、潔(いさぎ)良しと好感したりしたが、
特に山口百恵は人気絶好調で、突然の引退に戸惑ったりした。

この以前に関係者は、山口百恵自身が引退の決意が固いと知った時、
関係者はどのような動きをしたのかしら、と私は想像した・・。

そして伝説の神話にさせるために、かって東宝映画の専属スターの原 節子さんは、
やはり人気のある大女優でありながらも引退され、
永遠の伝説の女優となったりしている。

この事例を倣い、関係者は、引退後に大衆の前で二度と披露しない絶対条件に基づいて、
引退前後のあのような百恵フィバーを演出した、と私は妄想してしまったのである。

そして関係者の想像を遥かに超えて、山口百恵は永遠の伝説の歌い手となった、と思ったりした。

この後は、1980〈昭和55〉年4月に、CBS/ソニーから松田聖子の『裸足の季節』でデビューされ、
やがてワーナー・バイオニアから発売される中森明菜と共に、
アイドルとしての女性のトップスターの時代となる。


このようなことをあるレコード会社の片隅みにいた私は、
上記に列記したスターは、すべて他社のアイドルスターであるが、
ぼんやりと女性の主軸のアイドルスターを思い馳せたりしたのであった。


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パリ祭に無縁な私でも、ささやかな私の若き頃のシャンソンの想いは・・。

2012-07-15 00:22:37 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
この数週間前の頃から、7月14日の『パリ祭』に向けて、テレビ、ラジオ、新聞などで、
数多くのシャンソンの歌が流れたり、掲載されてきたので、私は微笑んだりしてきたひとりである。

もとよりパリ祭に関しては、フランスで7月14日に設けられている国民の休日(Fête Nationale)であり、
1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、
この事件の一周年を記念して翌年1790年に行われた建国記念日(Fête de la Fédération)が起源となっている。

そして、フランスでは単に「Quatorze Juillet(7月14日)」と呼ばれ、
「パリ祭」は日本だけの独自な名称である。

私は東京オリンピックが開催されていた1964〈昭和39〉年に映画青年の真似事をしていた時、
たまたま名画座でルネ・クレール・監督の『QUATORZE JUILLET』(1933年)を鑑賞し、
邦題として『巴里祭』と命題されていたが、
日本では、この名画の影響で7月14日のフランスの国民の休日(バスティーユの日)を「パリ祭」とも呼ぶようになっている、
と伝えられている。

私は無念ながらフランスの歴史にも疎(うと)く、パリ祭も無知であり、
せめて私の若き頃にシャンソンに魅了された時代もあったので、ささやかなシャンソンの想いを綴る。


私は映画・文學青年の真似事をして、あえなく挫折した後、
やむなくサラリーマンに転身して、民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
そして入社した会社の一部門が、まもなく外資元の要請で、レコード会社として新設されて、
私も移籍の辞令を受けて、音楽を直接に制作する部門でない管理畑で奮闘していた。

そして26歳を迎えた頃、それまでのシャンソンの知識としては、
越路吹雪、岸洋子さんぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、ダミアの『暗い日曜日』は、私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としての範囲であった。

この当時、たまたまバルバラの『私自身のためのシャンソン』アルバムのレコードで、
この中の『ナントに雨が降る』の歌を知り、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されたのである。

そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。

この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした。

そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも100枚は超えていた。

やがて、バルバラ自身が『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
そして日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。

いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりで、熱愛した時期もあったりした・・。


この間、私は銀座の一角にある『銀巴里』に定期便のように行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。

『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。


こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。

私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいたぐらいであり、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。

『失くした愛』と題されたアルバムの中に、B面の一曲目に『リリー・マルレーン』があるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。

こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを少なくとも100回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝(レコード)で・・発売された戸川昌子さんのアルバム・・凄いですよ・・
私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。


私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。

齢を重ねた今、改めて振り返れば、これまでの私の人生に於いては、
シャンソンの限りなく深い百数十曲が
確かに心の片隅に残って折、心の宝物かしら、と微苦笑している。


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『青い眼の人形』の歌、幼年期の私は限りなく誤解して、解釈し・・。

2012-06-05 15:02:58 | 音 楽
私が1966〈昭和41〉年の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
たまたま詩人、童謡の作詞家と名高い野口雨情(のぐち・うじょう)氏の遺(の)された作品を読んだりした。

そして大正時代の後期に『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』
『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などの童謡の名作品を読んだりした後、
特に『青い眼の人形』に関して、私の幼年期に聴いたりしていたが、
私は限りなく誤解して、解釈していたと気付き、思わず赤面した下を向いたりした。

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。

そして、この実家から一キロぐらい歩いた先に駅があり、その付近に小学校があり、
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学した。

こうした中で、翌年の頃に、生家のラジオから、『青い眼の人形』の歌も盛んに流れて、
幼年ながら鮮明に心に残った。

日本の著作権保護期間が過ぎたと思われるが、名作『青い眼の人形』を転記させて頂く。

♪青い眼をした お人形(にんぎょ)は
 アメリカ生まれの セルロイド

 日本の港へ ついたとき
 一杯(いっぱい)涙を うかべてた
 「わたしは言葉が わからない
 迷子(まいご)になったら なんとしょう」

 やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ
 仲よく遊んで やっとくれ
 仲よく遊んで やっとくれ

【『青い眼の人形』 作詞・野口雨情、作曲・本居長世 】

この歌を聴いて、まもなくした後、小学2年生の私はいつものように小学校に通学し、
下校の時に付近にある甲州街道に行った。

この当時の1952〈昭和27〉年の頃は、ときおり自動車、トラックが走るぐらいであったので、
幼年の私としては、物珍しい自動車を見たりしていた。
こうした中で、たまたま進駐軍のジープが府中にある基地から都心に向けて走ってきた。

先頭のジープには、四人の兵士が乗り、後部座席の二人の兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
そして大きな自動車が続き、最後のジープも兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
いずれの三台もスピードを上げて、疾走した・・。

こうした情景を見惚れていた私は、この時に『青い眼の人形』の歌が甦(よみがえ)り、
日本を占領した進駐軍であるが、日本人に対し、アメリカ人と仲良くしてほしい、
と敗戦後に作られ宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのである。

『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と私は心の中で屈折の多い多感な幼年であったりして思ってしまった・・。


日本は1945〈昭和20〉年8月15日に、世界第二次大戦のひとつの太平洋戦争に敗退した。
そして日本の戦争のの終結に際して、
ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の連合国最高司令官総司令部が配置され、
「連合国軍」の名の下で、多くの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人、少数のイギリス軍人で構成されていた。

そして、こうした占領軍は、日本の国民の多くは進駐軍と呼び、ひたすら恐れ慄(おのの)き
その後の1952(昭和27)年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効されるまで、
続いたのである。

こうした進駐軍の圧政下、日本人の大人はもとより子供まで感じとっていた社会風潮の時代であった。
このような状況下であったので、幼年の私でも、
『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と何かと感じ取ることが多かった・・。


後年、1966〈昭和41〉年の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
野口雨情の『青い眼の人形』を調べた時、1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表と知り、
私は動顚してしまった。

大正リべリズムの下、「国際愛を歌った」と野口雨情は語っていて、
野口雨情は、キューピーから思いついたのは、青い眼の人形であり、
アメリカ生まれのセルロイドは、キューピー人形のことである、と学んだりした。

そして、おもちゃのキューピー人形、青い眼の人形は、
アメリカから親善使節として、日本の子ども達にたくさん送られてきたが、第二次大戦により焼かれる運命を迎えた、
と知ったりした。

人は誰しも誤りがある、と古来より伝えられているが、
幼年期の私は『青い眼の人形』の歌は、敗戦後に作られ進駐軍の宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのは、
もとより大きな誤りで、遥か以前の1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表した作品であり、
初めて気付き、無知ほど怖いものは無い、と大いに反省させられながら、赤面して下を向いたりした。


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尾崎紀世彦さんの死去を知り、私なりのささやかな思いは・・。

2012-06-02 11:09:18 | 音 楽
昨夕、テレビのニュースでボーカリストの尾崎紀世彦さんの死去を知り、
私は少し動揺しながら、突然の訃報に接し、長年圧倒的な存在の歌い手のひとりに、
『波乱万丈の人生を過ごされたと思いますが・・ゆっくりとお休み下さい・・』
と心の中で呟(つぶや)きなから冥福を祈ったりした。

私は1963〈昭和38〉年に大学に入学したが、この少し前の頃から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で翌年に大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人のアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをし生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。

この間、純文学の新人賞に応募したが、最終候補の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

やむなく何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、近所の家電販売店の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知ったりした。

日本ビクターという会社で、中途入社の募集があり、確か経理、情報分野の要員であった。
私はこのお方のご尽力もあり、入社試験、そして面接を二回ばかりした後、ほぼ内定となった。

この当時の日本ビクターは、確かビジネス情報誌のひとつ『週間ダイヤモンド』に於いて、
民間企業の申告所得ベスト100位以内に常連する大企業であり、
私は内定する直前、このお方から会社に来るように云われた。

私は大企業の重役の役員室は初めて訪れ、内定の確定ができるかどうかの瀬戸際であり、
緊張したのである。
『情報畑も良いけれど・・経理畑はどうかしら・・』
とこのお方は柔らかな視線で私に言った。
『経理関係は・・どうも不得意の分野でして・・』
と私は言った。

このお方にしてみれば、事業本部単位の独算採算制もを経営方針のひとつでにあり、
経理本部は何かと昇進などで有利、と私は学んできたので、あくまでご好意の上、私に言っ下さった。

『私は情報分野でも苦手で・・できましたら音楽事業本部に入れて下されば、最も嬉しいことでして・・』
と私は厚かましいことを懇願して、このお方に申し上げたりした。

『君がどのように想像しているか解からないが・・レコード分野は決して華やかな部署ではないょ・・
音楽の管理畑でいいねぇ・・』
とこのお方は私の要望を受け入れて下さった。

この頃の私の根底には、ハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、ソフト商品の方が波長に合う、
同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと創作などにも刺激があると思い、
無理難題を申しあげたのが本音であった。

このような状況で何とか日本ビクターに中途入社が出来たのは、
1970(昭和45)年4月であり、25歳の時であった。

私は日本橋にある本社に初出社後、音楽事業本部の仮正社員となり、
ともかく現場を学べと指示されて、いきなり横浜工場にある商品部に配属となった。
製造部でレコード、カセット、ステレオ8(エイト)の商品を製造された後、
商品の中央拠点であり、各営業所の商品在庫までコントロールする部署の商品部であった。

この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座であった。
本体のビクターレコードの森 進一、青江三奈など、RCAレコードで内山田 洋とクールファイブ、藤 圭子など、
フィリップスレコードからは森山良子をはじめ、前年に『黒ねこのタンゴ』などが、ヒットを多発していた。

私は入社早々、商品部の音楽テープ課で商品センター働き始めた時、
森 進一、青江三奈などの曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と職場の方は私の音楽に無知にあきれていた。
私は程ほどに文学、映画には詳しいと秘かに自負していたが、音楽は映画音楽分野しか知らず、
殆ど無知であった。

やむなく私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、
ビクターの販売している歌手の曲を学んだり、
そして音楽月刊誌のクラシック専門誌の『レコード芸術』を購読した。

数ヶ月した頃、フィリップスレコードが親会社のフィリップスの要請により、
レコード会社と独立すると知ったのである。
この当時、数年前にCBSがソニーと折半でCBS/ソニーのレコード会社が設立され、
外資の資本参加のはじまりでもあった。

私はこのフィリップスレコードが独立した日本フォノグラムというレコード会社に転籍の辞令を受けて、
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたした。

こうして新レコード会社で商品管理の現場を学び、
半年過ぎた頃に中途入社の対象の正社員登用の3泊4日の研修を受けた後、
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまった・・。

システムの運用、開発に関しては、既にビクターの音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだのである。
このような関係でビクターの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。

こうした中で、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなった・・。


私は本社でコンピュータ専任者として奮戦していたが、もとよりレコード会社なので、
営業部の片隅み勤務していたが、何かと音楽を聴くことの多い職場であった。
そして音楽情報誌の『オリコン』、数多く業界紙も読んだりして、
他社のレコードも買い求めて聴いたりした。

何より他社は邦楽のヒット曲を連発しているのに、わが社は邦楽が不調で、
ポール・モーリア、イムジチの『四季』などの洋楽は好調であったりしていたが、
私は個人的にはシャンソンの歌の数々に傾倒し始めたりしていた。

このような私の心情の時、1971〈昭和46〉年2月25日にわが社で『また逢う日まで』が発売された。
私は宣伝、販促を兼ねた見本盤を発売前に社内で聴いたりしたが、
斬新な詞の内容と圧倒的な唄い上げる歌唱力を瞬時に感じた。

私は作詞された阿久 悠さんに関しては、前年の10月5日発売された『ざんげの値打ちもない』を買い求め、
この当時の17センチのレコードのシングル盤のジャケットには、
劇画家・上村一夫・氏が印象に残る絵を書かれ、何よりも作詞の斬新さに圧倒的に魅せられ、
この曲以前に、森山加代子の『白い蝶のサンバ』に書いたことも知った。

そして私は、『また逢う日まで』を聴いた後、
これだけジャンルを書き分けられる作詞の才能に、動顚しながら、
この作詞家・阿久 悠さんに、これ以降の作品に何かと注視させられた。


さて今回のテーマである尾崎紀世彦さんに関して、
前年の8月25日に発売された『別れの夜明け』の曲は知っていたが、
歌唱力のある方が唄っていた、という印象ぐらいであった。

そして次曲となった『また逢う日まで』(作詞・阿久 悠、作曲・編曲・筒美京平)は、
斬新な詞の内容と圧倒的な唄い上げる歌唱力の相乗効果の賜物(たまもの)と私は感じたのである。

この当時のレコード会社の各社は、
かってのように専属の作詞家、作曲家を専属契約で所属させる余裕のない時代となり、
大半は多くの音楽出版社が音源まで創り原盤所有の時代となっていた。

この曲も有数な音楽出版社の『日音』の基で創られた曲であり、
レコード会社は音楽出版社、プロダクションなどと連携して発売権に基づいて制作・宣伝・販促し、
そして販売活動をして、全国の5000店前後の契約した販売店に流通させている。
やがて販売店のレコード店などを通して、人々に手に渡っていた。

そして『また逢う日まで』は、音楽情報誌の『オリコン』のベストランキングのシングルに於いて、
発売後、辛口の音楽評論家まで賞賛されながら、5月17日にベストワンに輝き、
その後9週間連続となり、私は片隅でヒットの形跡を初めて間接ながら体験した。

或いは邦楽に不調だった私の勤めていた会社は、たったひとつの大ヒットで業績の躍進を学び、
ひとりのアーティストでレコード会社を変貌させる、という業界の哲学のひとつを実感させられた。

この『また逢う日まで』が上昇している4月25日に、30センチレコードのアルバム『ファースト・アルバム』が発売された。
このアルバムは、当時の洋楽で流行っていた有数な曲が選定されていた。
たとえばトム・ジョーンズの『思い出のグリーン・グラス』、『ラブ・ミー・トゥナイト』、
エンゲルト・フンパーディングの『太陽は燃えている』、『ラストワルツ』、
プレスリーの『この胸のときめきを』、『好きにならずにはいられない』などであったが、
私は国内の歌手で初めて世界の第一線の歌手と肩が並べられる歌唱力のある人と実感した。

その後、シングルでは7月25日『さよならをもう一度』、11月25日『愛する人はひとり』もヒットされ、
この年の日本レコード大賞、日本歌謡大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場され、
私としては嬉しげに歳末を迎えることができた。

私はその後の今でも覚えている圧倒的にシングルの印象的な曲としては、
翌年の7月5日『ゴッドファーザー~愛のテーマ』(作詞・L.Kusik、訳詞・千家和也、作曲・ニーノ・ロータ、編曲・前田憲男)、
その翌年の第2回東京音楽祭銀賞受賞曲された6月5日『かがやける愛の日に』(作詞・阿久 悠、作曲・筒美京平、編曲・葵 まさひこ)である。

その後もアルバムが発売されたたびに、私は買い求めたりした。

こうした中で、風の噂として、尾崎紀世彦はテレビなどで同じ曲を何回も唄うのはいやがって、辞退することが多い、
と聞いたりしていた。

その後、確か1977〈昭和52〉年の時だったと記憶しているが、
尾崎紀世彦さんのディナー・ショウが品川のホテルパシフィック東京で開催されることを知り、
私は前年に結婚し、新妻の家内を誘って行った。

この時に、尾崎紀世彦さんは数多くのアルバムの中から、のびのびと10曲ぐらい唄い、
私は聴いたりしながら、大人のお客さんも満足させることのできる圧倒的な歌唱力で、
そのショーのたびごとに、ご自分が好きな曲を選定して唄う稀(まれ)なアーティスト、と好感した。

そして私は、今でもCDとなったアルバムを時折聴いたりしている。

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一 青窈(ひとと・よう)さん、《新たな挑戦》をサイト上で、偶然に学び・・。

2012-04-21 19:00:33 | 音 楽
先ほど、ネットでニュースを見ようと、【YAHOO! JAPAN】を開いた後、
下段に美麗な女性が表示され、
《 今週、話題になった あの”ヒト”、あの”コト” 》
と見出しされた中、
この中のひとつとして、《 一 青窈、新たな挑戦 》の見出しを見て、
たまたま私は昼下がりに、
【 一 青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌、麗春のこの時節になると、秘かに私は唄い・・。】
と題して、ブログの投稿文を綴り、投稿した身なので、
偶然とはいえ驚きながら、と思わずクリックした。

http://smash.music.yahoo.co.jp/top/repyjm00990/
☆【YAHOO! JAPAN】
       <==【YAHOO! MUSIC】<== アーティスト紹介
         <《 昭和歌謡のカバーアルバム、岡村靖幸やMummy-Dとのコラボなど多岐に歌に向かう一青窈の思いとは? 》☆

私は記事を精読した後、何よりも驚いたのは、【YAHOO! JAPAN】のトップページに掲載された
美麗な女性が表示されていたのが、
一 青窈(ひとと・よう)さん、だったことであった。

この写真は、《昭和歌謡のカバーアルバム》のイメージ写真と思われるが、
女性は幾たびか変貌するといわれてきているが、
今回の写真に瞬時に魅了されてので、投稿した次第である。

そして私なり女性を67年ばかり見たりしたが、
女の人って・・解らないなぁ、と微笑みながらも苦笑している。

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モンゴル800の『あなたに』の歌、ラジオから流れ、私は思わず沖縄の旅を思い馳せて・・。

2012-02-26 00:15:26 | 音 楽
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む67歳の身であるが、
いつものように夜の7時半過ぎに風呂から出た後、
パジャマを着た後、居間に戻った。
そして家内が入浴するので、ぼんやりと私はガウンを羽織った後、
居間にあるラジオのスイッチを何気なしに入れた・・。

そしてラジオからは、暖かな南国のように空気につつまれて、
ひとつの歌が流れてきた・・。

♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】

モンパチ(モンゴル800の略称)の『あなたに』の歌だ、
と私は心の中で呟(つぶや)き、しばらく聴き入った・・。

そして私はモンゴル800の『あなたに』の歌を心の中で唄いながら、
この歌を初めて唄った頃のことを思いだし、独り微笑みを重ねたりした。


過ぎし2007〈平成19〉年の夏が過ぎた頃の夜、
家内は独り住まいの家内の母と定例的な電話連絡を終えた後、
『お母さん・・死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したいって・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言った。

『やはりお義母(かあさん)さんは・・昭和5年生まれだったし、
戦時中は(新潟県)高田の女学校で、軍事工場の支援に強制従事させられた、
と聞いたことがあったし・・』
と私は家内に言ったりした。

『そうなのよねぇ・・何か平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、言っていたし・・』
と家内は私に言ったりした。

この頃の私たち夫婦は、私が定年退職する直前の2004〈平成16〉年の秋、
家内の父は病死した後、
独り住まいとなった家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行を重ねたり、
家内の母の要望で、飛行機に初めて乗って、初めての北海道の旅を叶(かな)えさせたりしてきた。

『お義母(かあさん)さんの・・死ぬまでに一度は・・
俺たちにとっては、何よりも弱い言葉だし・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。

結果的には、この年の2007年10月下旬から、私たち夫婦が高齢者の家内の体調を配慮して、
沖縄本島の一部を8泊9日で訪れた。


私の沖縄に関しての思いは、1964(昭和39)年の秋に東京オリンピックが開催された時、
大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしていた時、
中野好夫、新崎盛輝、両氏による共著の『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。

高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かであったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、
基軸となったのである。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、
更に思いを深めたりした・・。


そして今回の沖縄の旅する10日前の頃に、総合月刊誌の『文藝春秋』に於いて、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿文で、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、副題は『沖縄の悲劇を胸に』と題され、
『ずゐせん学徒隊』のことを学び、多々教示を受けたりした。

私たち3人は、那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊した日中、
『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をしたり、
この後、『ひめゆりの塔』の資料館を見たりし、塔の前で花をささげて黙祷をしたりした。

そして、私は近くにあった大きなクファデーサーの樹の下で、煙草を喫いながら、
皇后陛下が詠まれた歌に思い浮かべたりした。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下

両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた時、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は1995(平成七)年にひとつの歌を詠まれた・・。

この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。

この後、『平和の礎』のある『平和祈念公園』に、私たち三人は行った。



那覇市に2日滞在した後、私たちは快晴の中、風光明媚なリゾート地 を目指して、
タクシーで北上した・・。
私は周辺の情景を眺めていると、沖縄の住民の方達には申し訳ないが、
過酷な沖縄戦を忘れさせるかのような心持となった。

やがて、かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテルに到着した。
『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』であるが、
家内が中部観光には何かと利便性があり、大浴場もあり、6連泊滞在には最適と決めたホテルであった。

この後、『ブセナ海中公園』に行き、
空は青く、明るい陽射し、そしてさわやかな風を身体で受けると、
沖縄の風光明媚を心身感じ、リゾート気分を満喫できた。

遅い昼食を名護市の近くの『名護曲レストラン』で頂いたが、
素朴な沖縄料理を私たち三人は、オリオンビールを呑みながら、色々と食べ比べをしたりした。

店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。

そして、私はひとつの歌に耳をかたむけた・・。

♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
 あなた疑う心恥じて 信じましょう心から

【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】

私は沖縄の歌に関しては、『さとうきび畑』を最初に知り、
『芭蕉布』、『花』、『涙そうそう』を聴いている程度であった。

たまたまモンゴル800の方達は、一ヶ月前頃に偶然テレビで、
沖縄列島の島々でコンサートしながら、南下する二時間のライブ版を観た。

この当時の私は齢ばかり重ねた63歳の身であったが、
好感できる若者である程度しか、さほど印象には残らなかったが、
この名護の付近の素朴なレストランで聴いた時、少しふるえ、そして和(なご)みを感じながら、
瞬時に魅了された・・。

私はこの時以降、リゾート・ホテルの部屋のベランダで海を見つめながら、
或いは散策をしている時、鼻歌を唄ったり、心の中で唄ったりしている。

♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】


その後、11月3日に私たち3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉に魅了されることがあるが、
植物も愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。

遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。

植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。

私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。

私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。


滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で、
ときおりブログ投稿していた。

この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。

このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。

私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。

この相談所の女性たちと、私は幾たびか談笑を重ねたりした・・。

こぼれ話のひとつとしては、モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は言ったりしていた。

『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。

私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。

この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。


たまたま今宵は、ラジオから偶然にモンゴル800の『あなたに』の歌を聴き、
このような過ぎし沖縄の旅を思い重ねて、
私はモンパチの『あなたに』を小声で唄ったりしたのが、夜の8時少し前であった。


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♪カチューシャ・・、とAKB48のひとつの歌、高齢者の私でも、小声で唄えば・・。

2012-01-02 10:46:32 | 音 楽
昨日の元旦の午前10時半過ぎに、我が家の門扉の近くにある郵便受け入れ箱に、
年賀状が配達されて、この後30分ぐらいで拝読した。
そして、私が年賀状を書いていない方から頂いたので、返信を認〈したた〉めて、
最寄りの郵便ポストに投函する為に出かけた。

そして帰路、近くに流れる野川の橋を渡りきると、
橋の近くで、川の水辺の近くに鷺(サギ)、鴨(カモ)が数多く観られ、
そして鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)も飛来してきているが、
私は小鳥には興味がなく、淡い陽射しを受けた川面、清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景を眺めたりしていた・・。

こうした時に、♪カチューシャ・・、
と私はひとつの歌を小声で唄いだしたのである。

私は平素は、井上陽水、中島みゆき、徳永英明さんの歌を小声で唄ったり、
心の中で唄うことが圧倒的に多いので、
AKB48のひとつの歌である『Everyday、カチューシャ』を唄うのは、
どうしてなの、と我ながら戸惑いながら、微苦笑してしまった。


一昨日の大晦日の夜、我が家ではお年取りのささやかな酒宴を致し、
家内、家内の母はビール、私は弐合徳利で純米酒の辛口を呑みながら、
御節料理のそれぞれ単品を談笑しながら頂いていた。
そして稀なことであるが、NHKテレビの『紅白歌合戦』を観たりしていた。

ぼんやりと私はときおり視聴した限りであるが、
やはりAKB48、KARA、少女時代の前では、ほかの方たちは霞んでしまい、
世界で最も実績もあり活躍しているレディ・ガガのビデオ放映か、
或いは幼年の芦田愛菜 鈴木福ちゃんが唄う『マル・マル・モリ・モリ!』が対抗でるぐらいかしら、
と酔いを感じながら思ったりしていた。


私は東京郊外に住む年金生活の67歳の身であるが、
現役のサラリーマン時代は、たまたま音楽業界のあるレコード会社の管理畑の片隅みに
35年ばかり勤めていたので、この当時は、もとより音楽専門誌『オリコン』、『日経エンターティメント』、
流行月刊情報誌『日経トレンディ』なども精読して、
ソフト全般の動向には、ある程度は理解できていた・・。

レコード業界は1998年の売上のピークで、これ以降今日まで下降している。
主因としては、経済の低迷化の中で、ネットの違法な音楽配信の蔓延化、
そして社会全般の多趣味化である、と私は思ったりしている。

そして正規な音楽配信元の音楽利用料金が、著作権を有するアーティストに対して、
CDと比べて余りにも廉(やす)過ぎる、と私は風の噂で聞いたりしている。

このような環境化で、肝要の音楽アーティストの多くは、
収入の激少化となり、生活もままならず、創作意欲がなくなってしまうのではないか、
或いは転職を余儀なくされてしまうのではないか、と憂いている。


ここ数年このように思っている私は、アイドル・グループのAKB48が、
2009年10月発売の『RIVER』でオリコン1位を獲得してから約2年以上、
11曲連続1位を獲得し続ける国民的アイドルグループとなっていることに、悦んでいるひとりである。

特に昨年の3月11日に東日本大震災で死者・不明者約2万人、そして福島第一原発事故で深刻な被害など、
余りにも悲惨な出来事が多く、私は動顚したり、憂(うれ)いたりし、
何かと重苦しい閉塞感の中、
『なでしこジャパン』が日本代表として、FIFA主催の世界大会優勝という快挙を成し遂げ、
私はサッカーに無知であったが、圧倒的な感銘を受けた・・。

そして5月25日発売に発売されたAKB48の『Everyday、カチューシャ』のCDシングル盤が、
初日“実売”94.2万枚、と知り、
たとえ総選挙投票権付きシングルでも、このような驚異的な売上げを悦んだりした。

こうした時に、我が家でもデジタル対応のテレビを購入する為に、
私たち夫婦は家電量販店に行き、テレビを選定していた時、
各メーカーのそれぞれのテレビに於いては、プロモーション・ビデオが映し出され、
私が見える限りの30数台のすべてが、AKB48の最新ビデオであった。

もとより家電量販店などは、最も話題が高く、多くの人が知っている映画などを、
プロモーション・ビデオとして映しているので、
AKB48は歌の世界だけでなく、社会の一面を変貌させた、と瞬時に実感させられたりした。


こうした思いもさることながら、何よりも健気〈けなげ〉なしぐさ、踊り、そして唄声に、
高齢者の私でも大いに励まされた。

このような思いが私の心の片隅にあったので、旧作の『Everyday、カチューシャ』の歌を
私は、♪カチューシャ・・、の歌詞の後は、無念ながら数行しか唄えないが、
私にとっては、何よりの励ましの薬と思いながら、唄ったと思ったりしている。

尚、『AKB48』に関しては、私の勤めていたレコード会社とは、
残念ながら別会社であることを付記する。

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X JAPANの『The Last Live』ビデオ、高齢者2年生の私でも、大音量で視聴し・・。

2011-08-13 18:09:32 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
家内が今朝から家内の実家に行っている。

家内の父は、私の定年退職時の直前に病死され、残された家内の母は独り住まいなので、
家内は年に5度ぐらい、5泊前後で大掃除、季節変わりの衣料整理などを行っている。

私は昼下がりのひととき、X JAPANの『The Last Live』DVDの2枚組を視聴した。

平素の私たち夫婦は、程々の音量でテレビを視聴しているが、
家内の留守を幸いにして、数か月前に購入したテレビの音響能力も試したく、
久々にX JAPANを大音量で視聴したのである。

私が選定したテレビは50型、スピーカーの実行出力30Wで、
スコーカーは16センチX4センチの角形が2つばかり付き、
ウーハーは10センチの丸型が可愛らしくひとつ付いている。

私は若き頃には、オーディオを少しばかり熱意して購入してきたが、
齢を重ねるたびに、居間で程ほどに音量が出れば良い、と妥協してきた。

このような思いで、X JAPANの『The Last Live』を視聴したが、
想像した以上に、明確な画面と音響に驚き、微笑んだのである。


私がX JAPANに魅了させられたのは、遅ればせながら解散前の頃であったが、
偶然『Rusty Nail』を聴いた時、瞬時に圧倒的に魅了された上、鳥肌がたった・・。
この当時の私は、52歳であった。

それからの日は、明けても暮れても、音楽はX JAPANとなり、
CDアルバムを買い求め10枚を直ぐに超え、今ではDVDを含めと30枚ぐらいとなっている。

このラスト・ライブのコンサートは
1997年12月31日に東京ドームで行われたが、
私の母が危篤となり、無念ながら行けなくなった。

その後、NHKで『X JAPANの軌跡 感動のドームライブ』と題されたのが、
1998年1月30日に放送されて、ビデオテープに収録した。

それからの日々は、このビデオを毎晩観て心酔し、
熱狂の期間は少なくとも6ヶ月ぐらい続いていた・・。

そして友人、知人に、X JAPANは心身のビタミンです、と公言していた。

このX JAPANの『The Last Live』に関しては、
CDの3枚組は、2001年5月に発売され、
今回のDVDの2枚組は、2002年3月に発売された。

従って、齢ばかり重ねた隠れファンのひとりの私としては、
ラストライブに関しては、NHKで放送された『X JAPANの軌跡 感動のドームライブ』を含めて、
この3種類を聴いたり、観たりしている。

尚、ライブは観る物であり、スタジオ盤は音楽を聴く物、
と私は原則として自覚している。

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この時節を迎えると私は、思い馳(はせ)る歌として、『少年時代』、そして『故郷(ふるさと)』となり・・。

2011-08-12 01:20:04 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜、NHKのテレビのニュースを視聴し、
お盆を故郷(ふるさと)で過ごそうとする人たちで、高速道路の下り線の渋滞が始まり、
羽田空港の混雑が映し出され、
そして新幹線も、東京駅発の下りの混雑のピークも12~13日と予想される、
と報じていた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、
家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。


私はサラリーマンの現役時代に於いて、
友人、知人たちが会社の夏期休暇を利用して、故郷に帰省するのを、
羨(うら)やんだりしていたこともあった。

夏季、年末年始に帰省するたびに、
自分の半年を振り返ったり、今後の心の整理に良いのではないか、
と想像を重ねたりしていた。

実家のご両親に逢われ、或いは兄弟の親睦、友人、知人たちの再会、
と良い環境と思ったりしていたが、ある一面は何かと大変な面も教えられた・・。
しかし、良きことが多い、と感じたりしている。
いずれにしても、せっかくの貴重な休暇の時、混雑でお気の毒であるが、
ご無事で帰京されること祈願したりしていた。

このように心情を思い馳せると、私はふたつの歌を心の中で思い浮かべてしまう。


ひとつは、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた『少年時代』である。

私はこの歌を最初に聴いた時は、

若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。

と私なりに妄想させられてしまった・・。

この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。

私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。

私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、
長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむえず業界から去っていたりした苦い時代でもあったが、
昨今は愛惜を重ねて、この歌を聴いたりしている。


もうひとつの歌は、文部省唱歌となっている『故郷(ふるさと)』である。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

この頃の我が家から徒歩15分ぐらいに最寄りの駅があり、
駅に接近した商店街を5分ばかり離れると、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林が圧倒的に多く、
のどかな田園地帯であった。

このような心情を秘めている私は、
高度成長期より地方出身のお方達が、大都市で勤務し、生活されている方の大半の人々が、
夏のお盆に帰省され、心を癒す、ことに思いを重ねてしまうのである。

もとより時代は大きく変貌し、私の住む周辺でも田園地帯から住宅街に
1955(昭和30)年頃から急激に変貌し、この当時の私は少年期であったので、
この地域の変貌に驚いたり、悲しみを覚(おぼ)えたりした。

地方出身のお方達も、生家の周辺の大きく変貌し、
帰省するたびに驚きを隠せない、と私は想像したりする。


このような思いをしていた私は、失われた故郷の情景、
そして過ぎ去った自身の時の流れに愛惜を重ね、
この時節になると、このふたつの歌が想いだされてしまうのである。


付記)『少年時代』・・作詞・井上陽水、作曲・井上陽水、平井夏美、編曲・星 勝、唄・井上陽水
   『故郷(ふるさと)』・・作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一作曲 文部省唱歌


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