夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

定年後の年金生活の中、たかが保険されど保険と思いながら、やがて我が家は・・。【下】

2014-08-31 07:58:57 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
その後、私が購読している季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)を
2012年(平成24年)10月下旬に、駅前の本屋で買い求めたりした。
       
たまたま《 老後のお金 》の特集であり、
表紙の右上には《 今すくに出来る65歳からの賢いお金の使い方 》と明記されていたので、
何かと小心者の私にとってびったりの内容だ、と思いながら精読し、多々教示された。

そして経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、やはり高齢者にとっては預貯金が肝要である、と思ったりした。
               
  
今回、『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)の特集の《 老後のお金 》の特集の中のひとつ、
《保険編》に付いて、ライフネット生命保険代表取締役副社長・岩瀬大輔(いわせ・だいすけ)氏の寄稿文を
無断ながら要約させて頂く。

             
《・・現役から退いた高齢者には原則として『生命保険』は必要はない・・
長年加入してきた『生命保険』がある場合は解約して、その資金を老後間の生活費に充当すべきた。

「自分の身に起きる確率の高い事象」については、保険では貯蓄等の資産形成によって準備されるべきものである。
老後の生活費は必ず必要になることが分かっているお金てある。
「偶然の事故に備えて大勢が少しつづお金を出し合う仕組み」である保険には適さない。

老後の生活に入ってからの死亡や病気は「発生確率が低い事象」ではない。
誰しも老いたら体は弱くなり、病気にも罹(かか)りやすくなる。
保険数理的には十分に起こり得る事態なのであるから、
しっかりと現実と向き合って備えるべきの事柄である。

老後の生活において私たちにふりかかる死亡・病気等の事象に対しては、
原則として保険ではなく貯蓄による現貯金で対応すると考えるべきである。

追加の収入がなかなか見込めない老後の生活においては、いかに自由になる資金を確保するかが大切である。
人生の最終ステージに入った後は、もっとも憂慮すべき「万が一」のリスクは、
死亡や病気ではなく、悲しいことだが想定以上に長生きしてしまうこととも言えるかも知れない。
          

このような観点からも、『生命保険』の入り方はついては慎重に検討されたい。
          

『生命保険』は「何に備えるか」という観点から、大きく三つに分けることができる。
◎死亡による所得喪失(死亡保障)
◎病気による医療費支出(医療保障)
◎長生きのための費用(生存保障)

死亡による所得喪失に備える保障は、定年退職してからは働いていないわけだから、
失うべき「所得」がそもそも無い。
子供たちはもう独立しているから、経済的に困る家族もいない。

世帯主が亡くなっても、残された配偶者に年金が支給され続ける。
老後の生活は、これまで形成してきた資産と、年金に頼ることになる。
従って、老後の生活において死亡保障は不要と考えるべきだ。
                    

医療保障は貯蓄で対応。
高齢者になれば医療費の自己負担金額はさほど大きくない。
公的医療保険は70歳以上の高齢者であれば、自己負担一割で医療は受けられる。

その上、高額医療費制度によって、高齢者は自己負担額は限定されている。
70歳以上であれば、外来の場合、毎月の上限額は1万2000円となっている。
(現役並みに課税所得がある人は、4万4400円)

このような理由から、「いざという時に医療費に回せる貯蓄が数百万円あれば、
民間医療保険は必要はない」。

このように公的医療保険が手厚い理由は、民間保険と異なる三つの性格を持っている。
◎公的医療保険は持病があるか否やによって保険加入を拒まれることはないし、
 保険料が高くなることもない。
 健康な人がその分も負担しているので、健康リスクの移転が行われている。

◎社会保険料は所得比例となっているが、給与が高い人が病気になる確率が高い訳ではなく、
 所得の再分配も行われている。

◎高齢者の公的保険は、実際には現役世代からの「仕送り」によって、
 大半が賄われているので、世代間の所得移転がある。

もとより財政が逼迫する中、医療費の抑制を目的として、今後の高齢者についても
自己負担額の増加が求められる可能性がある。
それでもなお、高齢者の医療と年金をある程度、保障することは現代国家の中核の責務である。
                     

生存保障・介護保険は入るべきか。
老後でもっとも心配なのが、介護の費用・・
「要介護」の手前の「要支援」、或いは重度の「要介護」の実態分布を明確にした後、
その上に民間の『介護保険』が説明されている。

そして老後資金の中から、80歳を超えて長生きした時の介護資金として、
500~1000万円程度は介護資金として織り込んでおくか、
まさにそれぞれの人の「保険観」によって決まることになろう。


もっとも、以上は現状の介護保険制度が前提としている。
財政が逼迫する中、今後は制度が見直しされることも充分ありえる。
その場合は、公的保険も民間保険も共に、給付条件等を見直される可能性がある。

この場合でも確実に頼りになるのは現金だろう。
手元にある程度自由になる現預金を確保しておくことが不可欠だ。・・》
                    

このように私は岩瀬大輔氏の寄稿文から、多々教示を受けて、
程ほどの現預金だけしかない我が家は、公的の国民健康保険、介護保険を頼りに、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約し、現預金の目減りを程ほどに抑えてきたことが、
正解だったかしら、と私は微苦笑している。


この後、私たち夫婦が万一、高額医療費を要する大病をなった時、
「高額療養費制度」について調べていた時に、
ネットで 《 高額医療費の負担を抑える「高額療養費制度」の支給申請方法 》と題された記事を見て、
多々教示したりした。
          

この記事は『週刊ポスト』2014年1月10日号で掲載された記事であり、無断ながら転載させて頂く。
         
《・・自宅で平穏に死にたいと思っていても、
自宅で介護・医療を受け続けるには経済的負担も大きく、実際に自宅で死ねる人は少ない。
そこで、高額療養費制度や介護保険などを利用して、
自宅で“終の生活”を送るために必要なお金を減額することも視野に入れなければならない。

医療費を軽減するために利用できる制度として、絶対に知っておくべき筆頭は、高額療養費制度だ。
これは医師による治療や検査代、薬代などで支払った医療費が、
1か月で一定額を超えた場合、その超えた分が支給される。

負担の上限額は、年齢と所得によって変わってくる。
70歳以上では、「一般所得」の人の自己負担額の上限は月額1万2000円、
住民税が非課税の「低所得者」では8000円、
住民課税所得が145万円以上の「現役並み所得者」の人では4万4400円となっている。
          
          
介護問題に詳しいノンフィクションライターの中澤まゆみ氏が解説する。
「一つの医療機関の支払いが自己負担上限額を超えない時でも、
同じ月に複数の医療機関を使っていたり、同じ健康保険に加入している世帯の別の人の医療費が高額であれば、
その自己負担分を合算することができます。

たとえば、在宅医療を行なっているが、2週間の入院をすることになって15万円かかり、
在宅医療費も2週間で2万5000円を支払ったという時には、それらを合算して払い戻しを受けることができます。

ただし、70歳未満では一つの医療機関の支払いが2万1000円以上であることが条件になります」

高額療養費の支給申請の方法は、75歳未満では加入している公的医療保険に支給申請書を提出、または郵送する。
75歳で後期高齢者医療制度を使うようになると、
各広域連合から「高額療養費の支給申請のお知らせ」が届くので、それを市区町村の担当窓口に提出して申請する。
申請は初回のみに必要で、その後に支給される分については改めて申請する必要はない。・・》
                    

この後、関連事項として、《 月100万円の医療費負担を9万円おさえることができる制度 》と題された記事があり、
私はクリックした。

この記事は『女性セブン』2014年3月13日号に掲載された記事であり、無断ながら転載させて頂く。
《・・マメ知識を知っておくと、意外とお得になるのが医療費だ。
例えば、大病やケガで多額の医療費がかかったときには「高額療養費制度」というものが頼りになる。

もしも、手術や治療で月に100万円かかることになったとしても「高額療養費制度」を利用すれば、
実際の負担額は月9万円を超えることはない。
100万円の医療費のうち、70歳未満なら、まず3割が自己負担なので、窓口で支払うのは30万円。

さらに「高額療養費制度」を利用すると、1か月の医療費が約9万円を超えた分については、
加入する健康保険に申請すると、払い戻してもらえる。つまり、約21万円が後から戻ってくるのだ。
                    
          
『読むだけで200万円節約できる 医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30』(ダイヤモンド社刊)
著者・早川幸子さんは、こう説明する。

「1年に4回以上この制度を使った場合、4回目以降は自己負担の上限額がさらに4万4400円に下がります」

どんな病気になっても、最大でこの程度の負担ですむなら、とりあえずは安心。
高額療養費制度が使えるのは保険診療のみで、食事や差額ベッド代、交通費などは実費となる。
高額療養費制度の申請をしないまま大金を払い続けている人も多いので注意を。

「支給申請の通知は郵便でくるので、必ず確認。
わからない場合は、加入する健康保険の窓口に問い合わせましょう」(早川さん)・・》

          
このような記事を私は読んだりし、万一、私か家内が大病になってしまった時、
年金生活の我が家でも、何かと「高額療養費制度」を活用させて頂ければ、安心かしら、
と改めて私は思ったりしている。

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定年後の年金生活の中、たかが保険されど保険と思いながら、やがて我が家は・・。【上】

2014-08-31 07:56:56 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
2004年(平成16年)の秋に定年退職後の年金生活を始めた直後、
私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした中、健康保険に関して定年退職後も、勤めていた企業の所属する健康機関に継続していたが、
支払い請求額の通知を受けて、少し高いなぁ、とため息をついたりした。

現役の企業の諸兄諸姉が所属していた健康機関なので、
何かしら病気とか万一の病死などは手厚く保障されていたが、
私の現役サラリーマン時代は給与から毎月差し引かれていたので、高いとも低いとも感じていなかった。

私は定年後に年金生活に入ったが、昭和19年9月生まれであるので、
年金満額支給は62歳になってからであり、それまでの2年間は年金支給額は、ほぼ半額程度であった。

このような収入時期の時代で、やはり企業の所属する健康機関は手厚く保障されていたが、
支払う毎月の保険料も高かった、と遅ればせながら気付いたりした。

やむなく私は、健康保険を企業の所属していた健康機関から国民健康保険に切り替え後、
最初の『国民健康保険料』の夫婦合算の請求支払額が余りにも激少したので、微苦笑したりした。

もとより国民健康保険料は、前年度の収入に基づいて、
家族構成、お住まい地域の自治体により差は発生するが、算出されている。


この後、保険関係をすべて見直して、
現役サラリーマン時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。
          

こうした中、東京都の住民である私は、わずかな掛け捨てで、交通災害保険を知り、加入した。
何かしら 『ちょこっと共済』と称された可愛らしい名称で、
自動車、電車、船舶、航空機などの交通機関で、万一交通事故に遭われた時、
わずかであるが保証される保険である。
              
年金生活を私が始めた当時、大通りの歩道を自転車で疾走する下校時の学生、
買物の主婦など、中には携帯電話を話したり、見たりする方たちがいて、
何かと前方を不注意の方も見かけたりした。

或いは、我が家の近くの大通り、そして住宅街でも、
特に高齢者の方が覚束ない自動車を運転される方たちを見かけたりしてきた。

こうした状況を見かけて危惧してきた私は、万一、交通事故に事故に遭遇した時の用心として、
この後に、『ちょこっと共済』加入した。

          
私たち夫婦は、それぞれが毎年1000円ほどの掛け捨て保険をして、
確かに若き時代よりも、身体は衰え、少しボケてきたと感じる時もあり、
外出の時の『お守り』代わりに加入して、早や9年を迎えている。

この間、『ちょこっと共済』の『お守り』の効力の為か、
幸いにして私たち夫婦は交通事故に遭遇しないで、無事に今日に至っている。
          

この間、私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。

そして2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は教えらた、と家内の帰宅後に私は聞いたりした。

この後、何かと愚図の私は、現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

そして私は厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を視たりした結果、
公的の『国民健康保険』と『介護保険』さえ加入していれば、
我が家としては、『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。

         
そして、私は解約の手続きを開始したのは、私たち夫婦は年金生活を7年過ぎた頃であった。  

こうした中、家内は年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあればと思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。
          
                      《つづく》

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退職後の年金生活の前後、悩ましき預貯金に思案させられた軌跡は・・。

2014-08-30 08:15:23 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

      
この間、私たち夫婦は自分たちの老後の生活の改めて話し合ったのは、
1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、業務の大幅な見直し、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
                                

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、この当時も各出版社から数多くの本が発売されていたので、私なりに買い求めた。

そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを購読した。

或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、この当時の夫婦平均寿命までの年を総括表にしたりした。

そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に、1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れたりしていた。
                                        
こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

       
しかしながら私はつたないサラリーマン時代の軌跡であったので、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの年収、そして退職金などは、遥かに及ぶことなく、遠い存在である。
                    

2004年(平成16年)の秋に定年退職し、年金生活を始めた直後、私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした時、ある銀行の窓口で私の退職金を引き出した時、支店長から応接間に招待され、
支店長から『一時払い終身保険』を私たち夫婦に説明して頂ながら、勧誘させられたりした。

しかし10年間の運用利回りが良いと言われても、長期に及び資金が固定されてしまうので、
魅力は感じることなく、対象外とした。

この直後、支店長から3分の2はある投資信託で高い金利、残りの3分の1を安全利回りで運用されれば確実に増えます、
と勧誘するように助言されたりした。
そして支店長が自分もしていますよ、と自身の投資額と金利の推移表のカードを
私たち夫婦に見せて、先月は5万少し・・と提示して、微笑みながら勧誘した。

しかし私たち夫婦は、もとより金利の変動は良いことあれば悪いこともあり、
悪化しマイナスになった場合は、残された人生に狂いが生じるので、安全な国債などした。

私は小心者のせいか株、投資信託などのハイリターン、ハイリスクで、
残された大切な人生に一喜一憂するのは、何よりも心身によくないと思ったりした。

そして、貯金関係は殆ど国債の元本保証プラスわずかな金利、そして定期貯金を選定したのである。
          

こうした私たち夫婦の根底には、バブル期の終了まじかに、投資信託に失敗したことがあったことが主因であった。
バブル期、私は現役のサラリーマンであり、同僚たちが盛んに株の売買で、高揚していた。
私は基本的な私たちの生活資金として、この当時は預貯金は1000万に到達していない上、
小心者の為に株のハイリターン、ハイリスクは避けて、ボーナスを頂くたびに定期貯金に加算したりしていた。

やがてある証券会社より、投資信託の勧誘のパンフレットが郵送され、
何かしら四半期毎に8%~12%の利回りがあった、と直近の四半期実績推移表が添付していた。
そして天下のXX証券が、世界中の資金を運用するプロの集団だから、と信頼して、
取りあえず100万円だけ、我が家は投資した。

一年過ぎた頃、結果として元本の100万円の消えて、精算は85万円にお詫び状が付いていた。
そして我が家は少なくとも15万円も損失したので、これ以来とのような証券会社より勧誘が来ても、
無視をしたりしてきた。


我が家は国債を二千万円足らずを購入しているが、絶対的に大丈夫、と問われれば、
『国債が駄目になった時は日本が滅びる時である・・その時は私たちの生命財産はもとより保障されないので・・』
と私は今でも公言をしている。

このように我が家は預貯金に関しては、元本保証プラスわずかな金利主義となっている。

確か年金生活を始めた翌年の2005年(平成17年)頃に、
外資のシティバンクの新聞に《・・金融資産1億円の方に・・》と掲載していた。
私はこっそりと読んだりしたが、金融資産と住宅の敷地の固定資産評価額を加算したら1億円は超えるが、
とても金融資産1億円は・・と項垂(うなだ)れたりした。
          

昨年の2013年(平成15年)、ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』が、
『ゆとりある老後 必要な資金は』の記事をネットで提供された記事を私は精読していた・・。

ジャーナリストの山本信幸さんの寄稿文を無断ながら、長く引用させて頂く。
《・・(略)・・定年後の生活にいくら必要か?  という質問にひと言で答えるなら「1億円」である。
大卒社員の生涯賃金の3分の1に相当するお金を、老後のために確保することなんてできるのだろうか?  

まずは老後の生活には毎月いくらかかるかという話から始めよう。
2010年度の総務省・家計調査報告によると、
夫65歳以上、妻60歳以上の高齢無職世帯の夫婦の1カ月の平均支出が26万4948円。
対する収入は22万3757円。毎月4万1191円の赤字である。

ここで注目すべきは「年金面では恵まれているリタイヤメント世代でも、
公的年金だけでは生活ができない」ところにあるとFP(ファイナンシャルプランナー)の大竹のり子氏は指摘する。
しかも「収支が赤字になる状況は、現役世代がリタイヤする頃になっても解消されないどころか、
もっと厳しい状態になる」(大竹のり子氏)ことはほぼ確実だ。

この生活で夫婦ともに90歳まで生きると仮定して、60歳以降、年金以外に必要なお金は約3000万円だ。
ところがこの平均的な支出では、旅行やレジャー、趣味を楽しむゆとりのある生活はできないと多くの人は考えている。
                   
        
2010年度「生活保障に関する調査」(生命保険文化センター)によれば、
夫婦で老後にゆとりある生活を送るには36万6000円の収入が欲しいという。
その場合、30年間で必要な額は約6700万円にも膨れ上がる。

とはいえリタイヤ直後の65歳と、20年後の85歳では生活の仕方も変わるはずだから、
生涯にわたって毎月36万6000円使うというわけではない。
老後のお金に詳しい経営コンサルタントの岩崎日出俊氏は、こう試算している。

60歳まで生きた男性の平均寿命は82.84歳、女性は88.37歳まで生きるという統計(2010年簡易生命表)がある。
余裕を持たせて夫87歳、妻92歳まで生きると仮定し、
最低限の生活のためには月24万円、ややゆとりある生活のためには月30万円かかるとすると、
最低限生活では1億776万円、ゆとり生活では1億1856万円確保しなければならない。

しかし年金が7274万円支給されるので「不足分は最低限生活で3502万円、
ゆとり生活で4582万円になります」。・・(略)・・》

ここまで私は読んだら、年金生活のスタート時点に4500万円あれば、ゆとり生活ができる、
と苦笑したりした。

そして私の現役時代の先輩、同僚、或いは友人の中で、
不幸にも定年退職時の前に、リストラ烈風で退社を余儀なくされて、不遇な方もいる。

或いは父親の商店を受け継いで、何とか生活しているよ、と私は中学校時代のの有志会で、聞いたりしてきた。
                    

こうした中で、私は総務省が「家計調査」実態の公表を読んだりした。
昨年の2013年(平成25年)6月末現在の平均支出額として、
60歳から69歳の世帯で月額25万9695円、70歳以降が19万6500円。

或いは金融広報委員会の調査に於いては、老後の生活費として現役世代が見込んでいる金額は平均で26万円。

こうした実態であるならば、年金だけでは老後の生活費をまかなうことはできない、と私は思われた。

そして肝要の年金受給額の実態は、日本年金機構の公表に於いては、
一昨年の2012年(平成24年)2月現在として、モデル世帯の年金月額は約23万円。
そして内訳は、夫の老齢厚生年金が約10万円、老齢基礎年金が約6万5000円、妻の老齢基礎年金が約6万5000円。

そしてモデル世帯は、夫が厚生年金に40年加入し、妻が第3号被保険者を含め、国民年金を40年納めた場合であり、
ここ15年前後、経済が衰退する中でリストラ烈風もあった中で、モデル世帯のような条件の良い世帯は現実には少数派、
と私は感じたりした。

そして実際の年金額の平均としては、日本年金機構の統計の昨年の2013年(平成25年)7月現在に寄れば、
厚生年金が10万8348円、基礎年金が5万3716円。
そして夫が会社員、妻が専業主婦というモデルに合わせた場合、平均の年金額は21万5780円。
そして60歳から69歳の支出額に、約4万4000円不足。

このような年金生活の実態を私は学んだりしてきた。
                    

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

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年金生活まもなく丸10年を迎える中で、何よりも困窮したことは・・。

2014-08-29 07:53:05 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は定年後の年金生活を始めて、まもなく丸10年を迎えるが、
先程ぼんやりと年金生活を過ごしてきた中で、一番困窮したことは・・と思い馳せたりしたした・・。

やがて困窮したことは、この出来事が何よりも困ったよなぁ、と独り苦笑したりした。

私が初めてパソコンを購入したのは、 確か1983年(昭和58年)の頃であったと思われ、
NECのPC8801だったと記憶している。

そしてフロッピー・ディスク装置、プリンター、この当時は漢字の表示が出来なかったので、
やむえなく漢字対応させる為に漢字ロムを付加させたりしたので、
この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私としては高価なパソコン・セットであった。

そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、この当時はネットの世界が一般の方に普及していなく、
独学の勉強のひとつとして、新古今和歌集を入力したりしていた。

        
その後、1998年(平成10年)の夏に、会社と自宅で使うので、買い改めたりした。
ノートパソコンで『ウィンドウズ 98』の基本ソフトであり、たまたま富士通を選定し、
この当時は付属の記憶装置はフロッピーであった。

そして自宅の居間で、表計算ソフトを活用して、会社の資料を作ったり、
或いは日記ソフトを買い求めて、私自身の日記を書いたりしていた。
         

やがて2001年(平成13年)の秋になると、定年退職時が2004年(平成16年)の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。
          

この当時はウィンドウズ旋風の中で、ウィンドウズの基本システムは
『ウィンドウズXP』であり、たまたま富士通のディスクトップのタワー型を選定した。

そしてこの当時は、液晶ディスプレイが普及し始めていたが、迷いながらも何よりも安定性を配慮し、
19型のこの当時の最後の画面のブラウン管ディスプレーを買い求めたりとした。

選定したパソコンの基本の付属の記憶装置は、DVD-ROM、CD-R/RW、フロッピーであり、
10年ぐらいは大丈夫かしら、と漠然と思ったりしていた。
そしてプリンターも新調し、民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

こうした中で、私が何より私は困り果てるのは、パソコンの無知な家内が、
パソコンは半永久的商品よねぇ、と確信したように思い続けていることであった。

私が現役時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、
オーディオ、テレビ、パソコンなどの商品は幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金、積み立てきた個人年金からの収入には、
もとより限度があるので、私は気弱になり、予算を計上するできなかったことが多い。

こうした根底には、故障もしていないパソコンを買い改め費用があるならば、
国内旅行で、旅先の滞在日数を増やしましょう、
と家内が私に提案することが予測されるので、私はパソコンの予算計上をためらったりしてきた。
                              

やがて私は2004年(平成18年)の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私は無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の人と、
お互いにコメントを交わしていたブログ熱中時代の時であった・・。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、2006年(平成18年)9月中旬に、予告もなく突然にダウンして、
まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに・・どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒い画面を見つめ大いに落胆したりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、1週間後に我が家に来宅することをなり、私は困窮した・・。
我が家は無念ながらパソコンはたった一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と悩んだりした。

この当時の私は、ブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いたりし、半日以内に必ず返信していたが、
もとより返信が出来なくなり、相手のお方はどうしたのかしら、と戸惑うと思いながら、悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がないのである。
もとより匿名の世界であっても、何よりも信頼が大切なのに、と困苦したりした・・。
          

          
そして私はこの修理の期間、パソコンのレンタルを量販店に依頼をしたが、
弊社は扱っていません、と素っ気ない返事を私は受けたりした。

やがて修理が最悪の場合に備えて、このパソコンの量販店に最新のパソコンの下調べに行き、
魅了されたパソコンが販売価格25万円にため息をしたのである。
そして我が家の予算計上にしていないので、困り果てた・・。

この帰路、25万円・・空から舞い降りてこないかしら、と思ったりして帰宅した。

         
そして待ち焦(こ)がれたパソコンの量販店の修理の技術者が予通り来宅した時、
パソコンの故障を点検して結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超える、と私は言われた・・。

私の現役サラリーマン時代の50代の頃は、冷蔵庫、クーラーなどを新調しょう、
と私は家内に気軽に言ったりして、購入したりしていた。

しかしながら、この当時の我が家の年金生活の年次購入予定品目もなかったが、
やむなくパソコンの新製品を買い改めることに決意した私は、家内にどう説得するかであった。

私は長らく中小業の民間会社のサラリーマンをしていたので、多事多難の対処には鍛(きた)えられ、
こうした中で多少の悪知恵も備えられてきた。

家内は冷蔵庫、洗濯機をよく手入れをするタイプで、
過剰に掃除し過ぎ、やむえず新調した体験があったのを、思いだしたりした。

私は居間に置いているパソコンから、台所にいる家内に近くに寄り、
『XXちゃんさぁ・・昨今のパソコン自体、飛躍的に進歩しているし・・
前に買ったパソコンより遥(はる)かに廉(やす)くなっているの・・
この際、思い切って新しいのにしょうねぇ・・』
と私は少し懇願するように家内に言った。

          
結果として、データ強制移行料などを含めて、27万円弱で、魅了されたパソコンに新調し、
やはり最新のCPUは速い、と私は微笑んだりした。

          
私が魅了されて買い改めたのは、『ウィンドウズXP』の液晶の富士通のディスクトップで、
ディスプレイは、この当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、
付属の記憶装置は、DVDスーパーマルチ等で、この当時としては、程ほど最強版となっていた。

パソコンのデザインも良く、安定したドライブの配置もあり、好感し、
年金生活の中で、日々こよなく愛用して、文字通り私の愛機となった・・。

こうしたことは一般の御家庭すれば笑い話になるが、
私としては年金生活まもなく丸10年を迎える中で、何よりも困窮し危機一発の出来事であった。
          

尚、この後のパソコンは2011年〈平成23年〉6月に於いて、
この当時の主流の『ウィンドウズ7(セブン)』の新機種を買い改めた。
選定した機種は、ソニーのディスクトップのテレビ不要型で、
ディスプレイは、この当時から流行したワンタッチパネルの21.5型のワイド画面で、
CPUはインテルの最強版、メモリは4GB、ハードディスクは1TBであった。

そして付属のドライブ装置は、ブルーディスク対応で、
この上に、外部ドライブ装置として、ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させたりした。

このような苦い体験があったので、私の少しばかり広い机には、
やむなく従来の『ウィンドウズXP』と新たな『ウィンドウズ7(セブン)』を
当面2台のパソコンを置いたりしている。
                     
           ☆この当時の記念写真・・右側は旧機の『ウィンドウズXP』、左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』☆

このような私のささやかなパソコンの足跡があるが、
『ウィンドウズXP』は2014年(平成26年)4月9日に賞味切れとなるので、
やむえなく私も『ウィンドウズXP』に別れを告げて、
2013年(平成25年)12月中旬に最新の『ウィンドウズ 8』を対応させた。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は買い求めた『ウィンドウズ 8』☆

          
そして選定したのはノートパソコンで、ソニーの秋冬モデル『VAIO Fit 15E』であった。
何かしら『Windows 8 64bit インテルCore i7-4500U(1.80GHz)、メモリ 8GB、HDD 1TB、15.5型の高輝度液晶』
このように記載されていた。

このように私が買い求めたパソコンの買い替え、そして性能も詳細に綴った理由は、
この20年余りにも急速に進化してきたので、どこまで進化したら気がすむのょ、と
ときおり戸惑ってきたからである。

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定年退職の直後から、私が年金生活を始めた理由は・・。

2014-08-28 08:04:25 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とかこの当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)の春であった。

音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
          
              ☆すべて今回掲載した写真は、一週間前に自宅の付近を散策した時の情景☆

こうした中で中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1998年〈平成10年〉に売上の主軸となるCDがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。

この前後に、それぞれのレコード会社は再構築がよぎなくされ、リストラが具体的に実施された。

私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
公言しなくても暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であった。
そして、もとより若き入社時代から人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
この少し前の年から私の勤めた会社も同様に、 組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職などのリストラ烈風となった・・。

このような状況下で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。

やがて私自身も1999年(平成11年)の2月、55歳の少し前に出向となってしまった。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
          

この間、私は出向を命じられた時、改めて家内と私の定年後の第二の人生を話し合ったりした。
具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
私たち夫婦の共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、という事になったりした。

こうしたことを実現するためには、私は各出版社から数多くの本が発売されていたので、購読した。

そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを読んだりした。

或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金などの推定、
そして年金の推定額も算出し、収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。

やがて毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。
                    

こうした中で、最大の難関は私の場合は厚生年金に加入していたので、
厚生年金は『報酬比例部分』と『定額部分』で成り立っている、と知った時である。

たとえば厚生年金の総計を年間で230万円と仮定した場合は、『報酬比例部分』は150万円(65%)、
そして『定額部分』は80万円(35%)となっていた。

この『定額部分』の支給開始時期は、生まれた世代によって差異がある、と学んだりした。

◎1941(昭和16)年4月1日以前の方は・・・60歳から支給。
◎1941(昭和16)年4月2日~1943(昭和18)年4月1日の方は・・・61歳から支給。
◎1943(昭和18)年4月2日~1945(昭和20)年4月1日の方は・・・62歳から支給。
◎1945(昭和20)年4月2日~1947(昭和22)年4月1日の方は・・・63歳から支給。
◎1947(昭和22)年4月2日~1949(昭和24)年4月1日の方は・・・64歳から支給。
◎1949(昭和24)年4月2日~1953(昭和28)年4月1日の方は・・・
                 『定額部分』は、『基礎年金』に一本化されて65歳から支給。

このように明記されていたので、私は1944年(昭和19年)9月の生まれであるので、
『定額部分』の支給開始時期は、満62歳からと知った。

私は厚生年金に関し、友人たちと『報酬比例部分』は『定額部分』などの合算で、満額と称しているが、
悩ましいのは私の前後だけでも差異があることであった。

私たちの世代は、社会人になった頃の1970年〈昭和45年〉の当時は定年退職時は55歳が多く、
まもなく60歳に改定されてきたので、それぞれ人生設計の基幹としてきた。

そして私は、遅ればせながら、1994年(平成6年)の年金改正に於いて、
60歳代前半の老齢厚生年金の『定額部分』の支給開始年齢を、
2013年(平成25年)までに段階的に60歳から65歳に引き上げがされた、と学んだりした。

その後、2000年(平成12年)の年金改正では、
老齢厚生年金の『報酬比例部分』を2025年(平成37年)までに、段階的に60歳から65歳に引き上げ、と知ったりした。
        
このような関係で私の場合は、定年退職後の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からであった。

この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となる、と遅ればせながら知った。
         

そして1941年(昭和16年)4月1日以前の先輩たちは、
もとより『報酬比例部分』、そして『定額部分』の支給開始時は、定年退職の60歳と同時に頂けるので、
いいよなぁ、と私は溜息をつきながら感じたりした。

しかし私の後輩の団塊世代の人たちは、私より『定額部分』の支給開始が遅れて、
この間の生活も大変だよなぁ、と思いを新たにさせられた。

この当時、民間会社の大手、中小業にしても、定年退職時は満60歳が多く、
その後に、単純に現役の処遇で継続できる人は、殆ど皆無である。

こうした現実の中で、定年後の年金満額までの期間をどのように生活するのか、
何よりの最優先の命題、と私は実感させられた。
          

こうした間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風となる中、
私はサンドイッチのような板ばさみの心情となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であり、金融資産も程ほどとなり、
何かと多くの方の半生史は自慢史が多い中、つたない私はもとより対象外となっている。
          

私の定年退職は10月20日であったが、10月初旬に家内の父は病死し、葬儀を終えてまもなく、
退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、慌ただしい日々を過ごしたりした。

        
こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方たちの真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したりした。

そして家内の父の死去に伴い、定年退職記念旅行と失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。


私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、長らく住んでいる。
そして生家も近く、住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
付近の住宅の敷地より、少し広いかしらと思ったりしている。

こうした中で私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

世の中の多くの人生の3大支出は、「教育資金」、「住宅資金」、「老後資金」と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
          

私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

この間、定年退職の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からの満額となるまで、
この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となり、
予測した以上に赤字となり、小心者は何かと気弱になったりした。

やがて満62歳から満額の厚生年金となり、予定通り年金生活は安定飛行となり、
私たち夫婦は、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としているが、
今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合って、互いに微苦笑したりしている。

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まもなく古希を迎える私、60代に何かと愛惜を重ねることが多く・・。

2014-08-27 08:51:57 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
昨夜は10時半過ぎに寝付いた為か、今朝は5時に目覚めて起床して、
玄関の軒下に下り立つと、しとしと小雨が降っていた・・。

過ぎし24日までは真夏日が続き、陽射しが燦々と照らす中、買物、散策で汗を流したりしてきたが、
一昨日の25日から一転して、小雨が降ったり、どんよりとした曇り空が多く、
一雨(ひとあめ)ごとに初秋に向っているのかしら、と感じたりしてきた。

この後、居間に戻り、ぼんやりとカレンダーを見つめると、27日と明記され、
あと一か月で60代とお別れかょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

          
こうした中で、私は今年の9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。


過ぎし8月の初めの頃、いつものように自宅の近くに流れている野川の両岸にある遊歩道を散策していると、
道端で咲く花に見惚(みと)れたりして、足を止めたりした・・。
そして野に咲く花が私には相応(ふさわ)しいかしら、と微苦笑しながら、安堵(あんど)したりした。
                    
               
私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

この中のひとつとして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
               
そして年金生活を始める時、秘かに私は残された人生の日々に、
『清く貧しく美しく』と信条を掲げた。

この発想の根源は、定年後の年金生活を始めた当初、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
60歳のお若いのに、悠々自適な生活で羨(うらや)ましいわ、と言われたりしたが、
もとより私は一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進(まいしん)され栄達したエリートのお方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態であった。

その上、私は屈折した日々の多い半生を歩み、何とか定年を迎えることができたので、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。

或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、謙虚となりながらも卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。
                    

私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年〈昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。

この根源は、敬愛している松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。

こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。
          
『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられ、まもなく私なりに命名した。

海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若さの勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
家内が免許状の昇進と共に、礼金も重なったりし、こうしたことは暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
         
そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。

やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。

私はこの1985年〈昭和60年〉の夏の時節以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきた。
                   

こうして私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。

《・・人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。・・》
そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。

          
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『清く貧しく美しく』、『野に咲く花のように』、そして『人生を深く生きる』言葉を
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。

このようなことを根底に私は過ごしてきているので、
野に咲く花は、素朴で気負いもなく、何かとやすらぎを覚えたりしてきた。

このように私は三つの言葉をささえに、年金生活を過ごし、10年生となっている。
                    

数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人からの便りを受けたりしてきた・・。

私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、過ぎしこの10年の60代の年金生活は、安楽な過ごせてきた時代の為か、
何かと愛惜を重ねたりしている。

そして60代の年金生活を10年過ごしてきた心の軌跡を発露し、さまざまに思いを総集編として、
心の証(あかし)を残したく、ブログのカテゴリー『夢幻のような安楽な60代』と命題し特設し、
今回は第一回として、今後も幾たびも投稿する決意である。

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雨の降る前に、愚図の69歳の私は、何かと忙しく・・。

2014-08-26 14:17:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜は深夜まで読書をしてしまい、目覚めたのは7時であった。

やがて家内と共に朝食を頂いた後、天気情報を見たりして、
朝の6時は23度、昼下がり26度前後、夕方の6時は23度前後、
午前中は曇り、午後より本降りの雨・・と報じられたいた。

この後、私はブログで私が愛読している方の未読を15通ばかり読ませて頂いた・・。
こうした中で特に、心清らかで麗(うるわ)しき女性が、『写真のないブログ』と題されて投稿文があり、
読み終わった後、私も自身のブログ上で思考してきた命題だょ、と20分ばかり思案させられたりした。

この後、近畿地地方からの男性のコメントの一通を読ませて頂いたりした。

やがて私は散髪屋と称している理容店に本日の午前中に行き、
この後に平素の買物を行くので、雨の降る前に帰宅できるかしら、と何かと愚図の69歳の私は思ったりした。


そして私は理容店に行くのは、後日に延期症かしら、と思案したりしたが、
高齢者の見苦しいのは駄目ょ、と家内から平素から言われていたので、
4週間サイクルの到来日であったので、どんよりとした曇り空の中、傘を持参して理容店に向った。
          

私が行っているが理容店は、私が20年ばかり愛好している処で、
店主、奥様とは、付近の四季折々の情景のうつろいを語り合うことが多く、
私は安息のひとときとなっている。

そして定年後の年金生活を始めてから、私は働いて下さる諸兄を配慮して、
土曜日、日曜日は避けて、平日に通ったりしてきた。

やがて私は理容店を辞した後、スーパーに向った。
店内は平日にしては多いなぁ、と私は瞬時に感じたりしたが、
やはり私のように雨降る前に買物を終えて帰宅したい、と微苦笑したりした。

そして私は明日は降ったり止んだりする雨の日中が予測されていたことを思いだし、
家内から依頼された数々の品に、食料品、パンなど多く買い求めたりした。

やがて6つばかりレジ袋を両手に提げると、重く感じて少し買い過ぎたかしら、と思いながら、
帰宅に向った。

そして門扉を開けて、玄関の軒下にたどり着くと、
雨の前に帰宅できたょ・・平素の行いが良かったかしら、と思いながら、
何かとプラス思考の私は、独り微笑んだりした。


家内と昼食を頂いている時、小雨が降りだしてきた・・。

やがて私は、ブログでコメントを頂いた方に返信を認(したた)めた後、
この投稿文の本日文を思案したりしたが、
齢ばかり重ねた私は、やむえず本日の午前中の出来事を書き始めたりした。

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年金生活の我が家、熱きの季節の私たち夫婦の最良の避夏地は・・。

2014-08-25 09:33:51 | 定年後の思い
今朝、ぼんやりとカレンダーを見つめると、25日の月曜日と明記され、
8月も一週間を残すばかりかょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

世の中の多くは、特に学童たちが夏休みの期間の7月、8月は、
家族で国内や海外に旅行されたり、或いは行楽地に行かれたり、お盆休みに実家に帰省されたりした情景を
とテレビのニュースで視聴しながら微笑んだりしてきた。

私も現役のサラリーマンだった時代は、夏季休暇を利用して、
家内と国内温泉地に2泊3日前後で滞在し、周辺の観光地を周遊したり、
或いは人の混雑を懲(こ)りて、庭の手入れをしたりして、汗まみれになりながら専念したりした。

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。
          

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味であり、四季折々国内の各所を幾たびも旅行を重ねてきたが、
私は何よりも暑さに苦手な身で、この熱い季節には数えるばかり少ないのである。

年金生活をしてから、夏の季節に旅をしてきたのは・・と思い馳せ、
過ぎし年の記憶があいまいとなってきたので、
やむえなく私のブログのカテゴリーの『旅』の欄を読んだりした・・。

そして短絡的にメモれば、下記のような状況となった。

★2006年8月4日~6日 『秋田竿燈』、『青森ねぶた』祭り
    家内は祭り見物が好きで、ある旅行会社の団体ツアーに於いて、
    秋田市内のホテルに宿泊~白神岳の麓(ふもと)にある十二湖を散策~、青森市から夜行で帰京。

★2006年9月Ⅰ日~2日 『おわら風の盆』
    ある旅行会社の団体ツアーに於いて、おわら風の盆を鑑賞した後、
    深夜に金沢のシティホテルで宿泊した後、五箇山などを鑑賞して、帰京。

★2007年8月7日~10日 館林市の郊外の城沼で『蓮の花』
    私は幼年期から蓮の花に魅了されているので、家内の母を誘い、
    私たち3人で城沼に隣接している観光ホテルに3連泊して鑑賞。

★2008年8月3日~6日 佐渡・『秋津温泉』滞在
    家内の母が、佐渡の賽(さい)の河原を見たい、要望により、
    私たち3人で、観光ホテルに3連泊し、周辺を遊学。

★2009年7月15日~17日 京の『祇園祭』
    市内のシティホテルに連泊して、祇園祭を鑑賞

★2010年8月30日~9月4日 『浄土ヶ浜』~鶯宿(おうしゅく)温泉
    家内が浄土ヶ浜の蒼い洞窟が観たく、浄土ヶ浜のホテルに3連泊した後、
    盛岡市の奥地にある鶯宿温泉に連泊し、帰京。
    
    この翌年の3月、東大日本震災で訪れた三陸の浄土ヶ浜の過酷で悲惨な状態に動顚したりした。

これ以降は夏の旅路は皆無となっている。
私は熱さの季節は、人出の多い先は齢を重ねるたびに苦手意識が増して、
私たち夫婦は何かと雪舞い降る冬の旅路が、圧倒的に多くなっている。

こうした中、熱い夏の季節の私の最良の避夏地は、と振り返ったりした・・。
          

午前中のひととき、私は平素の買物専任者であり、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしてきた。

その後も私は独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
夏のうつろい情景を享受してきた。

私は夏用のストレッチパンズの長ズボンの数種類、アロハシャツかスポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをして、
扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、颯爽と歩くことが多い。

そして紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
買い物したり、散策したりしている。
          
しかしながら燦々と照らす道を歩いたりすると、汗がひたたり落ちることが多い・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭(ぬぐ)いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情である。

こうした中で、暑さに負けそうと思う時、単細胞の私は冬の寒さの情景を思い浮かべて、歩いたりしている。

そして喉の渇きを感じたら、最寄りの自動販売機で、冷たい煎茶を買い求めたりしている。
或いは疲れを感じたら、大きな樹の下の付近のベンチに腰掛けて、緑陰に心身寄せたりしてきた。
          


この熱き時節、我が家では、簾〈すだれ〉を各部屋に掛けている。
洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸、そしてカーテンを外して簾〈すだれ〉とする。
和室も同様に、雨戸、網戸、障子、簾〈すだれ〉としている。

そして陽射しを更に遮断する為に、簾〈すだれ〉の上に薄い布地を下ろしたりしている。

朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。
             

帰宅後、居間の冷気の中で私たち夫婦は昼食を頂いた後、
私はブログの投稿文を綴った後、愛読している数多くの方の投稿文を読ませて頂くことが多い。

やがて私は居間の片隅に簡易ベットに敷いて、夏掛けの布団を掛けて横たわりながら、
好きな本を読み、ときには昼寝をしたりしてきた。

やがて目覚めれば、冷茶かアイス・コーヒーを飲んだりしている。

そして簾(すだれ)越しのほのかな暗さを通して、小庭の樹木、草花を眺めたり、
ときおり元気のある蝉(セミ)の鳴き声を聴こえたりしてきた。
             

家内はこの季節は早朝の3時過ぎから洗濯を開始し、やがて日の出と共に外干すの竿に干したりしている。
その後も掃除をしたり、料理に孤軍奮闘している。

昼下がり、居間のソファに座りテレビを視聴したり、雑誌を読んだりすることが多いが、
さすがに疲れ、居間の片隅で夏掛けの古びた布団を敷いて、バスタオルを2枚掛けて床に横たわっている。
そして、本棚が6冊ばかり雑誌を取り出して枕代わりし、ときには軽い寝息をしたりしている。

午後の4時過ぎに、お互いに起き上がり、整理をするが、
家内の仮枕の雑誌を見ると、私はいつも微苦笑させられる。

月間総合雑誌として名高い『中央公論』、『文藝春秋』であり、
日本広しといえ、この雑誌を枕代わりにしているのは、我が家の家内ぐらい、と思っているのである。

このように私たち夫婦の夏の季節の最良の避夏地は、冷気のある居間となっているのが実情となっている。

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処暑の時節が過ぎれば、東京郊外でも朝夕は涼風となり、私は微笑みを重ねて・・。

2014-08-24 14:11:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活のまもなく70歳を迎える身であるが、
昨日の朝、ぼんやりとカレンターを見つめると、『処暑(しょしょ)』と明記され、
私は思わず微笑んだりした。

私の住む地域は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に於いては、
残暑厳しい35度近い日々が続いていた。
私は何かと暑さに苦手な身で、いつまでも熱さがつづくのょ、と天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

昨日の午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、
いつものように独りで歩いて10分ばかりのスーパーに向った。

そして買物を終えて帰宅に向う途中で、予告もなく小雨が降りだしてきて、
日中は晴れ時々曇りで、夜の7時過ぎからは雨が予報されていたので、
どうして早く降るのょ、と戸惑いながら急いて帰宅した。
          

帰宅するし、家内が早朝から奮闘した洗濯物の数多くが、外干しの竿に見られていたので、
玄関に入ると、
『XXちゃん・・雨が降ってきたょ・・』
と私は大声で家内に伝えたりした。

我が家は夏季の期間は、各部屋には簾(すだれ)を吊るして、陽射しの熱さを少しばかり遮断しているので、
小雨が降っていても、奥まった部屋にいると、雨しずくも聞こえないのである。

家内は急いで数多くの洗濯物を取り込んで、途中から私も受け取りながら、
部屋の片隅に臨時置き場としたりした。

やがて家内は乾燥機に洗濯物の一部を入れたりしていると、
本降りの雨となり、小庭の樹木、草花を濡らしたりした。

一時間ばかり降った後、曇り空となり、幾種類かの蝉(セミ)の一群は盛大に鳴き響いてきた・・。
先程は本降りの中、中断して鳴きをひそめていたが、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったようにダンス・ミュージックの一団が奏(かな)でるように、
蝉(セミ)の一群は鳴き響き、私は苦笑したりした・・。

そして私は玄関の軒下に下り立つと、32度ぐらい暑かった熱気を押し流すように、
27度ぐらいの涼しげな空気となり、
乾ききった地面、樹木、そして草花も潤(うるお)し、清々しい情景に変貌し、
残暑の厳しい状況から初秋のように移り変わり、
改めて天上の気候の神々の確かな力に、私は敬意したりした・・。
          
         
我が家の小庭では、この時節の朝は鈴虫(スズムシ)が鳴いて、
蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となる。

そして日中の暑い中は、蝉(セミ)が独壇場のように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように鳴き響いている・・。

こうした中で、鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈している。

そして夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型、と少しボケた私でも理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

そして私は愛(いと)おしく、少し哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、
やがて初秋になれば、蝉(セミ)は消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

やがて鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願ったりしている。
          

          
このように思いながら過ごしてきたが、 昨夜、玄関の軒下に下り立つと、
微風が吹く中で、心も身もゆだねると心地よく、
今朝も清々しい空気につつまれて、朝涼のひとときと感じながら、
この時節は古人から処暑(しょしょ)と称され、改めて実感させられたりした。

もとより旧暦に於いては、暑さが止むと云われているが、
新暦の今日では朝夕は涼しく感じられ、日中の残暑があるが、
過ぎ去った一時の連日の35度前後の猛暑を思い浮かべれば、
それなりに暑さに苦手な私でも、笑って受け止めることが出来る。


今朝、我が家の近くに流れている野川には両岸が遊歩道があり、付近の小公園も
私は散策したりした・・。
          

風の匂いも初秋めいて、今週が過ぎれば8月も終わり、学童は夏休みが終わってしまうよなぁ、
とぼんやりと思ったりしていると、人影の少ない遊歩道を歩いたりした。

やがてシンガーソングライターの井上陽水さんが創られた『少年時代』の歌を、
かぼそい声で唄ったりした・・。
まもなく過ぎ去る熱かった時節に愛惜を重ね、やがて心の中で唄ったりした。

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『シニア・ナビ』の加入に勧誘されても、年金生活の私でも、何かと日々忙しく・・。

2014-08-23 13:10:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

       
年金生活を始めた当時、家内は結婚後やがて2年ばかり除き、長らく専業主婦だったので、
家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、平素の買物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後も私は独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                                 
そして散策し帰宅後、何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。

新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】に縋(すが)り、
多々教示されている。


ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。

このような年金生活をしている中で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
          
          
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

          
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。


こうした中で、多くのお方の投稿文を読ませて頂き、
たとえば日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、
淡々と綴られているのに、圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしている。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られたそのお方の人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深め教示されている。

このように読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりする時もあり、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。
          
       
或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、単なる絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊(ことだま)を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。

          
こうした中、数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、ときおり
そのお方にコメントをしたりしている。

               
       
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
何よりも数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、
私は人生の励ましを感じたり、ときには微笑んだりして過ごせてきたので、改めて感謝している。
                    

こうした生活を過ごす中、ときには我が家の小庭の手入れをしたり、
家内との共通趣味のひとつの国内旅行を重ねたり、
ある日には気心知れた長年の友と居酒屋などで談笑したりしている。

このように年金生活を10年近く過ごしてきたが、
何かしら愚図な私であるが、年金生活の中でも、一日が早く過ぎていることを実感したりしている。
          

過ぎし20日に於いて、私のブログサイトにシニア・ナビ事務局から、コメントを頂いた。
《・・はじめまして。シニアナビ事務局と申します。
突然のコメントで申し訳ございません。

私たちはシニア向けのコミュニティサイト「シニア・ナビ」を運営しております。
シニアナビはお持ちのブログ登録が出来き、シニアナビ内でこちらのブログを公開する事ができます。

メンバーにいつまでも楽しんで頂けるよう、また新しい趣味や生きがいをお探しの方に役立つサイトを目指して、
日々、イベントなどを企画して発信しております。

こちらで日々書かれている素晴らしいブログをシニアナビでもご披露いただけないでしょうか?
私達は、皆様が書かれているブログを通してシニアの皆様にそれぞれの生活、趣味、生き方をお伝えし、
ご自身の生活をより豊かなものにしていただきたいと考えています。

まずは、シニア・ナビに遊びに来ていただけると嬉しいです♪・・》

こうした礼節ある丁重なシニア・ナビの加入の勧誘を頂いた。
私はシニア・ナビに関して、無知であったので、この公式サイトを開いた・・。

そして30分ばかり拝見して、それぞれの加入しているシニアの方たちに好感を感じたりしたが、
私はこれ以上フィールド(範囲)を拡げると、肝要な読書の時間も減るし、
私が愛読しているブログの投稿文を読む時間も減ってしまう、と危惧したりした。

或いは愛読しているブログの投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、ときおり
そのお方にコメントをしたりしているが、
殆どはコメントをするのに時間に余裕なく、単なる隠れキリシタンのような愛読者のひとりとなっているのが、
実情である。

こうした心情のある私は、シニア・ナビの加入して交遊する時間があったならば、
これまで愛読している人にコメントをする時間にしたい、と強く思いながら、
シニア・ナビの加入を断念した。
            

私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓のひとつとしている。

《・・人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。・・》

そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。

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齢ばかり重ねた私、夏期の『おひとりさま』の特別演習を終えて・・。

2014-08-22 12:37:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の午後のひととき、いつものように居間の冷気の中、
簡易ベットを敷いて、横たわりながら本を読んだりしていたが、やがて寝付いてしまい、
年金生活の最大の恩恵である昼寝のひとときを享受したりした。

やがて目覚めて、小庭を眺めると陽射しは燦々と照らし、残暑が厳しいなぁ、
とぼんやりと感じたりし、再び横たわりながら、まどろんだりしていた・・。

こうした中、玄関のチャイムが『コッキラコン・・』と二回ばかり居間の片隅に響き、
私は何かしらと思いながら、寝ぼけ眼の私は玄関に向かった。

そして玄関の軒下で、家内が両手に紙袋を提げて、立っていた。

『XXちゃん・・少し早いじゃないの・・お疲れ様でした』
と私は家内に言ったりした。

家内は家内の母宅に滞在している昨夕、私は電話連絡の中で、
日中は残暑が厳しいから、夜の7時過ぎに帰宅した方が、少しは楽だょ、
と私は家内に言ったりしていたが、早めに我が家に帰館としたので、少し驚いたりした。
          

家内は過ぎし8月13日より家内の母宅に8泊9日で行き、
この間は家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
残された私は我が家で『おひとりさま』の独りぼっちの生活となってきた。

そして何かと愚図で齢ばかり重ねた私は、季節ごとに独り住まいの家内の母宅に6泊7日前後で、
孤軍奮闘している家内をときおり思いながら、
残された私は『おひとりさま』の特別演習かしら、と思いながら手抜きながら生活を過ごしてきた。

こうした理由は、このサイトで過ぎしの16日に於いて、
【『何かと愚図でグウダラな私でも、ときには『おひとりさま』の独りぼっちの生活を過ごせば・・。】
そして実態は、このサイトで18日に於いて、
【ときには『おひとりさま』の生活を過す中、支離滅裂のようなことが多く・・。】
と題して投稿しているで、省略する。

やがて夜の6時半過ぎ、お互いに風呂に上がった後、
家内が帰宅の途中で、デパートの地下階のお惣菜コーナーで買い求めた5品ばかり、
私はウィスキーをオンザロックを呑み、家内は缶ビールを呑みながら、夕食とした。

こうした中で家内の母の情況を私は教えて貰ったり、
私の『おひとりさま』の生活の失敗談を話したりして、一時間半ばかり談笑し、
ふたりだけの宴会をしたりした。

やがて家内も8泊9日の孤軍奮闘で疲れ、8時過ぎに寝室に行った。
            

私は中小業のある民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
こうした中で年金生活をした当初、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
          
       
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。
                

定年後の年金生活の日常の大半は、平素の買物専任者の責務を終えた後、
散策したりした後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

そして若き青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで散文のような形式をめざして、毎日投稿するのが、
生きがいのひとつとなっている。

このような年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ったりしている。
                    

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から、数多く旅を重ねたりしているが、
定年後は旅程の制約から解放されて、5泊6日前後で観光ホテルに滞在し、
周辺を歩いたりして遊学している。

このような旅路が多いが、私たち夫婦がそれぞれ意欲と体力があるうちに、
ノコノコと出かけて歩き廻ることが多いのである。
                              
          
そして私はこれまでの60代の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごし、
家内も心身溌剌としている。

もとより健康でなければ自身の日頃のささやかな願いも叶わないこともあり、
実践のひとつとしては、何よりも怖いのは、痴呆症などであり、
これだけは回避したく、ひたすら歩いたりしている。

我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。

その直後、『ご苦労であった!』と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。
その後、思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
                              

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけ、
仲良し恋し、と社交辞令のお世辞を頂いている私たちでも、
実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

私たち夫婦の結婚生活は、私が定年するまでは波乱もあり、この先に何かと憂いたりしてきたが、
定年後の年金生活は、私が65歳高齢者となった頃から、体力の衰えを共に感じて、
ときおり私は、二人で一人前だよねぇ、と家内に言ったりして過ごしている。
          
         
このように老後の生活を迎えている私たち夫婦は、甘味な年金生活を続ける中、
いずれは私か家内か大病となり、やがてどちらかが『おひとりさま』となるので、
私たち夫婦としては、今が人生最良の時期かしら、と思ったりしている。

しかしながらこればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、
日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。

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血液型B型の私、ときには理性を失くして、物狂いになることもあり・・。

2014-08-21 12:36:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、ネットを彷徨(さまよ)っている中で、
【 B型の人は独特の感性でイメージ展開 ひらめきや直感に富む 】
と見出しされた記事を見つめた・・。

私は、恥ずかしなから血液型はB型のひとりであり、
齢ばかり重ねた私でも、好奇心に負けて、クリックしてしまった。     

《・・占いのように思われがちだが、最近では会社の人事に取り入れられるケースも見受けられるのが血液型診断。
O型とA型で約7割を占める日本人。
その煮詰まりやすい社会のなかに、発想転換のヒントを与えるとともに、潤滑油として「楽しさ」を与えるのがB型だ。
 
B型に向いているのは、音楽や芸術分野に関わる仕事。
独特の鋭い感性でイメージを展開したり、ひらめきや直感に富んでいるので、
クリエイティブな分野の仕事には最適だが、持続力がないのが弱点。
 
『人生の9割は血液型で決まる!』(世界文化社刊)の著者で、
これまで20数年もの間、多くの人に対して「血液型と性格・性質」について研究を行なってきた小萩喜一氏がこう語る。

「B型の人に大切なのは“どこまでも真剣に遊ぶこと”です。
これはと思うものに出会ったら、思い切りそこに照準を合わせ、夢をかなえるために一心不乱に取り組むと成功します」

占いなどでは「変わり者」扱いされがちなB型だが、その熱中ぶりや波瀾万丈さを評価する声も。
クリエイティブな企画者として独創性を認めてもらえるかどうかがB型の人の分岐点なのである。
※週刊ポスト2013年1月1・11日号・・》
          
          
私は今回の記事を読み終わった後、B型の長所、短所が明示され、
何かしら素肌を視られたように恥ずかしさの余り、赤面させられたりした・・。

そして何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
これまでの軌跡を思い馳せると、拙(つたな)いなりに当っている面もあるよなぁ、と苦笑してしまった。

年金生活の今、ときおり過ぎし日々のことに愛惜し、思い馳せたりすることもある。
そしてこれまで歩んできた人生の中で、ときには熱病のように無我夢中となったりする時があった。
              
大半は一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりしてきた。
          
                     
たとえば音楽の場合は、1971年(昭和46年)に偶然にシャンソンの作詞、作曲もされるバルバラの歌を聴き、
瞬時に魅了され、これをきっかけにシャンソンの世界にに熱中した・・。
そして銀座の片隅にあるシャンソン喫茶の『銀巴里』に、少なくとも週2回ぐらい通いだして、
出演された多くのシャンソン歌手の唄声に心酔した。

こうした中で、金子由香里さんなどに夢中となったり、この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
往還時に『ヤマハ銀座店』に立ち寄ったりしてアルバムを買い求めて、2年たらずで100枚を超えて、
本場のフランス、そして日本の歌手を居間で擦り切れる程度に聴き惚れていた・・。

やがて1989年〈昭和64年〉に、遅ればせながらシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴いた。
『エレーン』の歌であり、この当時の私は民間会社の情報畑で奮闘していた時代で、
消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴いたのである。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたり、
齢を重ねた今は、『ヘッドライト・テールライト』が支えとなっている。

この間、カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、今でも私の秘かな女神となっている。

そして1997年(平成9年)の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。
                    

映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

この間、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、古本屋まで行って買い求めたりし、
一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だと特にデビット・リーン、そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。
                                                    
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職した後、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。
                    

私は幼少の頃から、根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋の方が多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦(こ)がれて時もあった。

         
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることが多い。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの、と思ったりすることがある。

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「健康寿命」を延ばすための習慣を学び、69歳の私は微苦笑を重ねて・・。

2014-08-20 13:40:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜のひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っていた時、
『100歳でも元気!「健康寿命」を延ばすために今から身につけたい習慣9個』
と明記された見出しを見て、どういうことなのょ、と何かと好奇心も旺盛な私はクリックしてしまった。

この記事は、働く男を応援するライフスタイルマガジンクックと称した『nikkanCare.ism(ニッカンケアイズム)』の
公式サイトと解り、生まれて初めて見るサイトであったが、退職後の老兵のような私でも、
こっそりと読んでしまった・・。

無断ながら転載させて頂く。

《・・“健康寿命”という言葉をご存じでしょうか。

平均寿命とは違い、“健康上の問題なく、自立した日常生活をおくれる期間”のことなんです。
日本人の平均寿命は延び続けていますが、いくら長生きしても「介護なんてされたくない」
「人の手を患わせるぐらいなら……」という方も少なくないですよね。
だからこそ、この“健康寿命”を延ばすことが重要性を増してきているのです。

そこで、今回は白澤卓二氏の著書『100歳でも元気な人の習慣』より、
健康寿命を延ばすために身につけておくべき習慣を抜粋してご紹介します。
          
          
■100歳まで病気を寄せ付けない「食」の習慣

(1)食事の王道は1日3食、腹7分目、バランス良く何でも食べる。

(2)朝食には「わかめのみそ汁」を飲む。

(3)肉と魚の比率を1 対1 にする。

やはり食はバランスが大事。
楽しみながらバランスを考えた食事をとるためには、自分で料理をするのもいいかもしれません。
          

■100歳までボケない「心」の習慣

(1)万事クヨクヨしない。いつもニコニコ。

(2)口癖は「今が一番幸せ」。

(3)ときめきで脳の神経細胞が5倍多く生成。

どうやら、何事もポジティブに捉えることがボケを予防してくれるようです。
さらに、“ときめき”も健康寿命を延ばすためには重要とのこと。
しばらくときめきから遠ざかっている方は、これを機に新しい出会いを探してみるのもアリかもしれません。
          

■100歳まで生きる「生活」の習慣

(1)とにかく歩く(週3回、1回30分で骨粗しょう症を防ぐ)。

(2)両手と舌を動かしていれば、脳はサビつかない。

(3)読んで(読書)、書いて(手紙)世界とつながる。

とにかく体を動かし続けることが重要なようです。
人と直接会話をすることも効果がありそうです。
趣味に打ち込んで人との輪を広げていったり、散歩をしながらご近所の人と挨拶を交わしたり、
何気ない日常生活の中に健康寿命を延ばす秘訣があるんですね。


いかがでしたか? 他にもまだまだ健康寿命を延ばす習慣はあるので、
最後の最後まで人生を楽しみたいという方は、ぜひ『100歳でも元気な人の習慣』を参考にしてみてください。・・》

この記事を読み終わった私は、溜息をしたりして、100歳でも元気な人かょ、と苦笑したりした。
          

私は民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた。

私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したり、
そして年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。

年金生活を始めた当初から私は自主的に日常の買物担当となり、
独りで殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
                  
            
私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。

もとより高齢者の方は齢を重ねれば、認知症、痴呆症、寝たきりなどの確立は増すし、
私自身は衰えた体力で日常生活のふるまいの中で、確かな言葉を発言しているうちに、
いつの日にかポックリと死ねたらと念願している。

まして自身が意識なく植物人間のようになって、
生き続けるぐらい当人はもとより、家族の人たちまでが不幸であると思っている。

そして私は寝たきりになった場合は、三ヶ月過ぎたら、
意識のあるうちに自殺と称せられる自裁を決意しているひとりである。

このような私自身の人生の中の健康に対する思い、そして死生観の思考があるが、
昨今の会社時代の懇親会などで、
こうした思いを少し上の先輩の方、同僚たちに一部を発言すると、
困惑する方、或いは嫌な顔をされる方がいて、私は世間からかけ離れているのかしら、と思ったりしてきた・・。
                                             

このような私なりの深い思い根底にあったが、
偶然に2010年8月下旬の頃に、帯津良一(おびつ・りょういち)氏の雑誌での発言が、
新聞の出版広告で偶然に読み、
この雑誌が女性専用誌の『婦人公論』と知り、私は買い求めて精読した。

この医学博士で病院長の帯津良一(おびつ・りょういち)氏の発言された概要を記載させて頂く。
          

《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。
          

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのはせいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。
          

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》

このような秘伝を、この後に6つばかり披露して下さったのである。
          
そして私は、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、深く感じて、
これ以降、氏に注視して、信愛を重ねている。
          

今年のお正月も独り住まいの家内の母に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に新年を我が家で過ごした・・。

家内の父は私が定年退職をする直前に病死された後、
私たち夫婦は独り住まいとなった家内の母に、旅行に誘い幾たびか重ねたり、
年末年始に関しては我が家で共に過ごしてきた。

こうしたある日、居間の炬燵に入り、食事をしたり、談笑したりすることが多かったが、
ある時、家内の母が、
『あたし・・やっぱり・・百まで生きたいわ・・』
と呟(つぶや)くように家内に言ったりした。

私は69歳で今年の9月には古希と称される70歳となり、
家内は私より5歳齢下の65歳を迎えるので、
これを聞いた私は困り果てて、勘弁してょ、と思いながら笑ってごまかしたりした。

もとより家内の母が100歳になる事は、私は86歳、家内も81歳の高齢者となる。
          
私などは定年退職の60歳を迎えた時、
煙草も喫い、時折お酒も呑む私は、身勝手な日常を過ごしているので、
75歳以上は想像がつかない未知の世界と思っている。

そして我が家の中で、家内が私に対して、
『貴方は・・世の中のことを皮肉ぽく・・憎まれ口を言っていますので・・長生きできますよ・・
私の方が・・平均寿命まで無理と思うの・・』
と私に年に数回ぐらい言ったりしている。
          

このようなことを私たち夫婦は言ったりしているので、家内の母が100歳まで生きられたら、
老々介護以前に、私たちのどちらかは片割れになるか、或いは夫婦ふたりとも死後の世界、
と思ったりしたのである。

人それぞれ永(なが)らえるのは、こればかりは天上の神々の采配による、と私は確信しているが、
世の中の日本人の男性の健康寿命の平均として、71歳と公表されたりしている。

私の場合は健康寿命の中で過ごし、溌剌と趣味に生きがいを感じて、80歳の誕生日を迎えられたら、
充分である、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

このように現在は思ったりしているが、果たして私が81歳の時でも、
このサイト(gooブログ)に投稿文を重ねていた場合は、再生したとご理解を頂きたい。

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時代遅れの年金生活の我が家、恥ずかしながら我が家の『三種の神器』は・・。

2014-08-19 13:21:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

そして恥ずかしながら私たち夫婦は、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えないので、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンを利用している。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
          

午前中のひととき、私は講談社・編集の『暮らしの年表 流行語』を取りだして調べものをしていた時、
調べている項目と関係のない『三種の神器』という用語にめぐり逢い、
何かと好奇心の旺盛の私は、ネットで調べたりした。

《・・1950年代後半、神武景気の頃、豊かさやあこがれの象徴として「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が、「三種の神器」と呼ばれた。
高度成長期となった1960年代半ばには、「3C」(カラーテレビ・クーラー・カー〈自家用車〉)がこれに代わった。
平成の今、デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型大型テレビのデジタル家電が「新・三種の神器」と呼ばれている。
家事労働の軽減から余暇の充実へと、あこがれの質の変化が製品を通してうかがえる。・・》
このように『知恵蔵』2012年版で、多摩美術大学教授・武正秀治さんが解説されていた。

もとより『三種の神器』は、恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた鏡・剣・玉のことであるが、
数多くの国民がそれぞれの時代に熱望し、買い求めてきた商品を『三種の神器』と命名されて、
今日に至っている思われる。

この後、ぼんやりとしながらも我が家にとっては、『三種の神器』は何かしら、と思い馳せたりしてしまった・・。
          

『カー〈自家用車〉』
私は若き独身時代の時、生家の自動車を盛んに運転をし、ドライブをしていたが、
その後に結婚したり、定年前の30年間はペーパー・ドライバーとなり、
定年退職後は自動車を購入して、ゆったりとドライブするのも、ひとつの楽しみと思ったりした。

しかし、無念ながら齢を重ね感覚が衰えを実感し、何かと気弱な小心身の私は、
何より人様に対して誤って人身事故をした場合、、
被害者はもとより、加害者の私もお互いに深く心まで傷つきので、自制した。
やがて更新時に免許書を破棄してしまった。

このように我が家は自動車も所有できず、私は根がケチにせいか、利便性の良い路線バスにも乗らず、
平素は我が家の周辺数キロの範囲をひたすら歩いたりしている。
そして冠婚葬祭、国内旅行、緊急の用事などで、タクシーを利用する場合もあるが、
昨年も月平均としては、樋口一葉さんが描かれた5000円のお札を超えることなく今日に至っている。

このような生活をしていると、ガソリンの価格は無知となっている。
         

『携帯電話』
私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
7年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思ったりしている。

そして新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話の各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たり、ときには販売店でお互いに戸惑いながら見たりしてきた。

ここ5年前の頃からスマートフォン(多機能携帯電話)が急速に普及し、
私は戸惑いながら、どこまで進んだら気が済むの、と心の中で呟(つぶや)きながら、
我が家は、世の中の時流から取り残されていると微苦笑しているのが、昨今である。


このように無念ながら我が家は、『三種の神器』にも無縁なのかしら、と落胆していたが、
しばらくすると私は微笑んだのである。
          

『電気冷蔵庫』
我が家は結婚して確か39年目と思われるが、電気冷蔵庫は三代目となっている。
そして私の定年退職の数年前に買い改めた家庭用の大きめの冷蔵庫であるが、
上部から冷蔵庫、野菜室、製氷室とパーシャル、冷凍室に、 大きく分かれている。

この中の冷蔵庫の下部は加工食品、肉や魚などのファインフレッシュルームとなっているが、
この左横には、自動製氷のプラスチックの専用ケースがあり、
この専用ケースに水道水を入れておけば、
やがて適度な大きさの氷が、コトリと優しい音を立てながら、下段にある製氷室に山積みとなる・・。

何よりも昼下がり、夜のしじまの静寂の時などに、居間に私がいても、
台所の冷蔵庫から10メートル離れていても、コトリと音色が聴こえ、賢明に働いている自動製氷機能に、
過ぎし現役時代のサラリーマンだった私の奮闘した状況に思いを重ねて、微笑んだりしている。

この時節、私は冷茶とアイスコーヒーを愛飲しているが、
アイスコーヒーの時は、この新たなる氷を五つばかり入れて、飲んだりしている。
或いは、ときにはウィスキーに氷を入れただけのオンザロックを呑む時、
この氷を入れて、過ぎし日に愛惜を重ねて、呑んだりする。
          

乾燥機能付きの『洗濯機』
過ぎし2010年(平成22年)の新年早々、我が家としては通常の洗濯機を二度ばかり買い改めてきたが、
無念ながら予告もなく故障して、数日後に乾燥機能付きの『洗濯機』に新調した。
                

家内は原則として洗濯物は日々完遂するタイプであり、
洗濯の干し竿に吊るして陽射しの下で乾燥させているが、冬の陽射しの乏しい時、梅雨の時節もあり、
こうした時はガスファンヒーターの暖気で補足してきた。

私は家内に20年前の頃から、喉に、肺にも良くないから、乾燥機を購入するように進めてきたが、
家内はためらい、やがて洗濯機を新調する機会に、乾燥機能付きと結論してきたのである。

この乾燥機能付きの『洗濯機』は、いじらしい程、健気(けなげ)に乾燥機能が働き、
ときおり洗面所に行った時、片隅に置いてある『洗濯機』がまるで孤軍奮闘している状況に、
私は思わず微笑んだりすることが多い。

『エアコン』
我が家は居間と寝室にエアコンを設置しているが、原則として冷房機能として利用している。
寒い時節は、我が家はガスファンヒーターを活用している。

我が家は、6月の梅雨入りの前の頃から秋のお彼岸の頃まで、
簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾(すだれ)にして、庭越しの風を通したりしている。

その後、家内は室内の掃除が終えて、居間のエアコンが静かに作動し、冷気になっているのが、
私が年金生活を始めて以来の習性となっている。

そして私は午前中に買い物、散策を終えた後、居間で過ごしたりすることが多い。
随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読んだりしている。

或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を居間で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

この映画などを鑑賞するテレビにしても、数年前の夏頃にアナグロテレビ放送は廃止と知り、
やむなく一昨年の5月に、デジタル対応の薄型テレビの51インチ、
ブルーディスクの500キガの録画機を買い求めたりした。

そして居間の冷気の中で、ときたま居間の片隅みに簡易ベットを敷いて、
私は横たわり本を読んだりし、ときおり昼寝をし、この世の極楽のひとときを享受している。
             

このような我が家の『三種の神器』を思い馳せたりしたが、
数多くのご家庭からは、このようなことは時代遅れで『三種の神器』じゃないわょ、と非難されそうであるが、
何かと時代遅れの我が家としては、平素の日常生活に欠かせない『三種の神器』となっている。

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ときには『おひとりさま』の生活を過す中、支離滅裂のようなことが多く・・。

2014-08-18 12:57:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
家内は過ぎし8月13日より家内の母宅に8泊9日で行っている。

この間は家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
残された私は我が家で『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

こうした理由は、このサイトで一昨日の16日に於いて、
『何かと愚図でグウダラな私でも、ときには『おひとりさま』の独りぼっちの生活を過ごせば・・。』
と題して投稿しているで、省略する。

13日より私は『おひとりさま』となっているが、気ままに過ごしてきたが、
先程、ぼんやりと振り返った時、実態は支離滅裂のように過ごしてきてしまった、と独り微苦笑したりしている。
          

朝は齢を重ねても元気な児の真似事して5時には起床し、夜に寝付くのは深夜の2時過ぎが多く、
体力の衰えた私は、居間のエアコンの冷気の中、簡易ベットで読書をしながら昼寝をしたりした。

読んだ本は、月刊総合雑誌の『文藝春秋』と『中央公論』の最新号であったり、
単行本は北海道新聞社・編集の『聞き書き 倉本聡 ドラマ人生』(北海道新聞社)であった。

新書本としては木村靖二・著作の『第一次世界大戦』(ちくま新書)を読み終わった後、
嵐山光三郎・著作の『年をとったら驚いた!』(新講社)の単行本を読んでいる最中である。
          

夕食は夜の9時過ぎが多く、ウィスキーをオンザロック風にしている。
大きめのコップに氷を大量に入れたのに、ウィスキーを注(そそ)ぎ込んで、コップが9割方となった後、
少しだけ水を入れ呑んだりしながら、夕食を頂いたりしてきた。

こうしたオンザロック風は平素の場合は、5日毎に呑んだりしているが、
独りぼっちの生活をしていると、毎晩こよなく愛飲してきた。

こうした濃いめのウィスキーを友としながら、私は居間の映画棚から名作と称せられる作品を鑑賞してきた。
『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)、
『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)
『かくも長き不在』アンリ・コルピ監督(1961年)
そして今宵は、『イングリュシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ監督(1996年)するか、
或いは 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)を観ようか、
迷ったりしている。
          

このように過ごす中、『おひとりさま』の生活をしている時、私が亡くなった時の葬儀のことを思案したりした。
年に数回ぐらい私は家内と話し合ったりしてきた中、
私の葬儀は家族葬で祭壇に花がある中で、静かに音楽が流れる中で兄妹たちが談笑してくれれば、
と私は要望したりしてきた。

こうした中で、音楽の選曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、
交響曲第9番の第三楽章、アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしてきたが、改めて聴いたりしてきた。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
何とか60代の年金生活は、我が人生の初めての安らぐ安息の日々で享受してきた為か、
他の曲はないよなぁ、と微苦笑したりしてきた。
          

こうした独りぼっちの生活をしてきて、掃除、食事、洗濯も手抜きながら予定通り過ごしてきたが、
ひとつだけ例外事項を思いだいてしまった。

朝食の時、一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に5分後にセットした後、
『一汁三菜』の真似事の一汁六菜で頂く前、
やはり一合のご飯は多く、4割方はクレラップに包み、冷蔵庫に保管したりした。

そして昼食の時はフランスパンが多い中、
ときにはクレラップに包んだご飯を取りだして、電子レンジで温めて、おにぎりの代用品として、
頂いたりしてきた。

こうしたクレラップに包みが、冷蔵庫の中には、三つ残っているので、
何日に頂こうか、と思い重ねたりしている。

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