夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『葉月』の8月も過ぎ去れば、暑かった日々も忘れ、東京郊外でも初秋に向かい・・。

2011-08-31 21:59:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日中のひととき、カレンダーを眺めたりすると、『葉月』の8月も最終日となり、
少しため息をしなかせら、微苦笑を重ねたりしていた・・。

思い馳せれば、8月1日は私の住む地域に於いて、『お盆の日』を迎えて、
いつもの年ながら、私達夫婦は私の実家の長兄宅を訪れて談笑した後、
お墓参りをしたりした。

4日の日中、我が家の居間の冷房専用機のセパレート型の下部から、
水滴がポトリ、ポトリと落ち、床を濡らしたので、
どうしたのよ、と私は心の中で叫び、見つめたりしていた。
この冷房専用機は、私が定年退職の4年前の2000〈平成12〉年の初夏に購入し、
遅ればせながら、初めて居間に設置したものであり、熱い日々に孤軍奮闘してきたが、
やむなく買い改めることをした。

そして新たに通常の冷暖房機能のあるエアコンを導入し、
最新の節電と冷房の能力に驚いたりした。


この8月は若き22歳以来、戦争を知らない私でも、
6日には『広島被爆の日』、9日の『長崎被爆の日』、そして15日の『終戦記念日』に於いては、
私は早朝にで手を合わせながら黙祷しているので、
国民のひとりの責務と確信し、行ったりした。


この間、私の住む地域は、昨年と同様に連日の猛暑で、34度前後の残暑厳しい日が続き、
特に18日の木曜日には36度の今年一番熱い日となったりした。
そして19日は、朝の9時半過ぎから、風も伴い大雨となり、ときおり雷鳴を響かせ、
朝の30度から昼下りには涼しげな23度となり、
乾ききった地面、樹木、そして草花も潤(うるお)し、清々しい情景に変貌し、
猛暑から初秋に移り変わり、改めて天上の気候の神々の確かな力に、私は敬意したりした・・。

この後は朝夕は涼しく、日中も30度前後となり、雨も降ったりし、
一雨(ひとあめ)ごとに、初秋に向かっていると実感させられたりした。

こうした中で、我が家の小庭の片隅で、
日中は蝉(せみ)が盛大に鳴き、そして夕暮れから鈴虫、こうろぎの鳴き声の二部合唱なり、
8月の終わりを迎えている・・。

そして台風12号の影響で、昨夜に二度ばかり雨が降ったりすると、
暑さに苦手な私でも、過ぎ去った暑い日々が遠い昔のように感じられてしまった。

亡き作家・演出家の菊田一夫(きくた・かずお)氏の言葉に寄れば、
忘却とは忘れることなり、と名言を遺(のこ)されていたなぁ、
と脳裏の隅によぎったりし、微苦笑を重ねたりしている。


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昨夜、台風の影響で二度ばかり雨が降り、今年の夏に別れを告げて・・。

2011-08-31 11:44:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
今朝はさわやかな初秋の微風を受けて、青空を見ながら、
どうしてなの、と思わず微笑んだりした・・。

昨夜、私の住む地域は、小笠原の近海に台風12号の影響で、
二度ばかり雨が降り、そして明日の31日より、台風の影響で3日間ぐらい雨が予測されているので、
もう今年は暑い日は来ないと思いながら、今年の夏にさよなら、と私は思わず心の中で呟(つぶや)いたりした。

このような心情が私にはあったので、さわやかな初秋の快晴の朝を迎えて、
私は戸惑ったのである。


この後、地元の天気情報を見たりしていると、
朝の6時は21度、昼下がりは27度前後、夕暮れの6時は26度前後、
午前中は晴れのち曇り、そして午後になると台風の影響で雨が降り、
明日の一日は本格的に台風の影響で、雨と風に注意いたしましょう、
と報じていた。
そして、今回の台風は、のろまな私の性格に似て、
ゆっくりと北上してくるのかしら、と苦笑したりした。



この後、玄関の軒下に下り立ち、空を見上げたり、
快適な陽射しが受けている樹木や草花を眺めたりしていた。

紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実は淡い紫色の色合いとなり、
群生した玉すだれ(タマスダレ)の純白な花が咲き、
かすかに鈴虫の鳴き声が鳴き声も聴こえたりしている・・。

そして平年であるならば秋海棠(シュカイドウ)の薄紅色も可憐な彩(いろど)りを観せくれるが、
暑い日々がの日が続いたので、無念ながらわずか数輪が咲きはじめている。

しかしながら、夏の盛りにに彩った高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)は、
今でも20数輪咲き、夏の匂いや香りを残しているので、
私は微笑しながら、しばらく眺めていた・・。

微風が身体を通り過ぎると、
心身心地良く、台風が来る前の穏やかななひとときかしら、と思ったりしている。

このような情景を眺めていると、
今年も暑かった夏の終わりを受けとめて、
初秋の時節を迎え、そして秋のうつろう情景に思いを馳せたりしている。


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年金生活をしている私、なぜかしら『ケチ』な性格に変わり果て、我ながら苦笑し・・。

2011-08-30 18:13:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
平素の買物ぐらいは、私は自主的に担当している。

買物をする前に、家内は新聞の折込みチラシのスーパー、ドラッグ・ストアーなどに、
家内は赤のサインペンで丸印し,
これを必須の購入品とし、あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、
我が家の鉄則となっている。

私は家内からチラシを渡されると、
インスタント・コーヒーなどが、『お一人さま、一点限り』、
そしてティシュ・ペーパーが12ロール入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
或いはトイレット・ペーパーが5箱入った1ケース『お一人さま、2点限り』などを見たりすると、
なぜかしら微笑んでしまうのである。

そして買物の引き車と称される『キャリーカート』を私は引きずりながら、
最寄りの店は徒歩で7分前後、駅前の店であったならば15分ぐらいを歩いている。


私は民間会社に35年ばかり勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職なった身であるが、
現役時代の時は、恥ずかしながらインスタント・コーヒーなどの日常品の価格は無知であった。

私は中小業の会社で月曜日から木曜日まで、時間無制限のように奮闘して、
金曜日ぐらいは早めに退社して、7時半過ぎから仲良しグループ、或いは親睦会、歓送迎会などで、
吞みながら、交流を深めることが多かった。
そして私の40代の頃は、血気盛んであったので、殆ど二次会は参加した後、
自宅の最寄駅で独りで居酒屋などで、週末の祝杯をして、タクシーで帰宅したりしていた。

もとより私は、程ほどの収入を得て、家計の責務を負い、
家内は専業主婦で何かと後方支援に努めてもらい、数多い典型的なサラリーマンであった。


私は目指したスーパーなどで、家内の要望品を買い求めて帰宅した後、
なぜかしら『お一人さま、X点限り』が気になり、
もう一度、あのスーパーに行って買ってくる、
と私は家内に云った後、再び買い求めるために、スーパーに向うことが多いのである。

私の年金は厚生年金と企業年金であり、もとより定額か五年毎に見直しで減少の傾向があるし、
この他の程ほどの国債、定期貯金の金利は、信じられないくらい低利であるので、
収入は限度がある。
こうした心情のせいか、私は年金生活をしていると、
現役時代から大きく変貌して、こうした『ケチ』の性格に変わり果てたのである。

そして帰宅後、我が家の片隅にはティシュ・ペーパーなどの保管場所を見ながら、
これでしばらくは安全基準在庫た、と私は微笑んだりする悪い癖となっている。


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年金生活で買物の担当の私、最良の友は『キャリーカート』かしら、と微笑んで・・。

2011-08-30 09:47:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社を35年ばかり勤め2004(平成16)年の秋に定年退職後し、
私は年金生活を始めた・・。


私の現役時代に於いては、家内は専業主婦で料理、掃除、洗濯など家事の多岐をし,
私はときおり庭の手入れぐらいであったので
定年後まもなくして、家内と分業し、私は自主的に買物を担当したり、
いつでも家内にコーヒー、煎茶を淹れる茶坊主に専念したりしている・・。

私が自主的に買物を担当したのは、
私の現役時代は、数多くサラリーマンの人たちと同様に多忙で、
家内は専業主婦であり、もとより家内なりの日常ペースあり、
家業、休息、趣味の時間などで過ごしていたのである。

このような状況であったので、たとえ年金生活でも、
これまでの家内のペースをなるべく崩したくなく、
私は自主的に独りで外出し、買物、そして本屋に寄ったり、遊歩道、公園などを散策し、
四季折々のうつろう情景に心を寄せたりしている。


こうして平素の買物をする前に、スーパー、ドラッグ・ストアーなどのチラシに、
家内は赤のサインペンで丸印し,
これを必須の購入品とし、あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めている。

食料品の野菜、果物、肉類などはもとより、
コーヒー、ビールなどの嗜好品、お醤油、ソースなどの調味品もあり、
衣服の洗剤の数々、台所の洗剤に加わったり、
そしてティシュ・ペーパー、トイレット・ペーパー等もあり、
その上、時折お米なども加わるので
我家は2人だけの家庭でも、ある程度の量となる・・。


我家は東京郊外の調布市の外れで、世田谷区と狛江市に隣接した地域であり、
ご近所の多くは、殆ど乗用車を保有しているが、我家は所有していない。

私は若い頃は、実家の自動車を盛んに運転をしていたが、
その後に結婚したり、定年前の30年間はペーパー・ドライバーであり、
定年退職後、車を購入して、ゆったりとドライブするのも、
ひとつの楽しみと思ったりした。

しかし、齢を重ね感覚が衰えているので、自身の過ちで事故を起こした場合のことや、
何より人様に対して人身事故で傷つかせたりした場合を考慮すると、
単なる保険の支払いで済まなくなるので、自制し、
退職後まもない更新時に免許書を破棄することにした。

私は一時的な自動車の快適さより、
万一、私が加害者となった時、多大な賠償の上、何より被害者の心身の痛切な思いを想像したり、
或いは交通刑務所などに服役したりした場合のことを考えたりすると、
定年後の大切な生活が狂うのが、何よりも困るというのが本音でもある。

このような小心者の私は、私の住む地域は幸いにして公共交通のバス、電車の便に恵まれ、
ときたまタクシーを利用しても程々の費用で済んでいる。


買物を担当しはじめた頃、歩きながら両手に買物袋を提げたりしていたが、
家内が買物をしていた頃、ときたま買物の引き車と称される『キャリーカート』を利用していたので、
私は家内から譲り受けて、数年前に新車をホームセンターで買い求めたりした。

http://www.naturum.co.jp/item/32200.html
☆ OGK キャリーカート ☆

この『キャリーカート』を私は引きずりながら買物に行き、
スーパーなどの店内で買物をし、支払いが終った後、段ボールを頂き、
この中に購入品を入れる。

これだったならば、特売品を多めに購入しても、負担がないので、私は小躍(こおど)りした。

私は住宅街の歩道をこの『キャリーカート』に段ボールを載せて引いていた時、
ご近所の奥様方にお逢いし、最初の頃は少し驚かれたご様子であった。

私は家内と国内旅行に行く時は、
旅行バックのカートを引きずったりしているので、
これと同じと思いながら、平素のような明るく大きな声で挨拶をしたり、
ときおり奥様方、或いはご主人様と談笑したりしている。

そして、買物が多い時は、この『キャリーカート』は最良の友となり、
私の定年後の愛車となっている。


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晩夏の時節、東京郊外の我が家の小庭は、鈴虫、こうろぎの鳴き声の二部合唱なり・・。

2011-08-29 08:12:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ここ数週間、鈴虫とこうろぎの2部合唱が、早朝、夕暮れ、夜の3度ばかり鳴いている。

日中のひとときは、蝉(せみ)の盛んな鳴き声となり、
私は盛夏の名残りと微苦笑したりしている。

昨夜は私は月を誉(ほ)めようと、
玄関庭に下り立つ、しばらく月を眺めていたのであるが、
月は私に微笑んでいるように観えたりした。
そして、鈴虫は盛んに鳴き、こうろぎは遠慮しているように、
ときおり鳴いている。

何かと定年後から気弱になった主(あるじ)の私に似てか、こうろぎは愛(いと)おしくなり、
鈴虫に少し遠慮してねぇ、と思ったのである。


今朝の6時過ぎに庭に下り立つと、
こうろぎが元気よく鳴いている。
鈴虫はどうしたことか、かぼそい声で鳴いている・・。

私はこうろぎは早朝タイプで、
鈴虫は夕暮れから夜にかけて盛大に鳴いていたので、
鳴き疲れ早朝は元気がない、と思ったりした。

東京郊外の住宅街の片隅にある我家で、盛んに鈴虫、こうろぎが鳴くのは、
私が庭の手入れの際、塀際に面した雑草をあえて残し、
毎年、鈴虫、こうろぎの鳴き声を秋まで享受し、季節の移ろいと共に過ごしている。


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吉永小百合さんに関して、私のささやかな思い、そして教示されたことは・・。

2011-08-28 20:36:14 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
夕方のひととき、映画棚から一枚のDVDを取りだして視聴した。

このDVDは、昨年の2010年8月6日に於いて、
NHK総合テレビの夜の7時半より8時45分まで放映された、
『吉永小百合 被爆65年の広島・長崎』を録画したのを久々に観たのである。

この番組に関しては、NHKの解説文を借りれば、
《・・
女優・吉永小百合は20年以上にわたって、
原爆詩の朗読をライフワークとして取り組んできた。

手弁当で全国をまわってきた朗読会では、
地元の子供たちに詩と音楽で平和を伝えてきた。
しかし今、多くの若者が昭和20年8月6日、9日という日のできごとを知らない。

「このままでは日本から被爆体験が消えてしまう」と、
被爆65年にこれまでの活動の集大成としてNHKホールで、
詩を朗読し事実を語り継ぐ会を開催する。

若者と子供たち、被爆者によって埋め尽くされた客席、
そして吉永の呼びかけに応えて集まったミュージシャンたちのパフォーマンスとともに
コンサートは平和への祈りの場となる。

総合テレビでは、このコンサートとともに、
吉永の原爆との出会いから四半世紀にわたる活動の軌跡をたどっていく。
一人の女優としてヒロシマを知り、一人の人間として原爆詩を語り続ける吉永小百合。

被爆65年の広島・長崎を訪ね、吉永自らが物語る場所に立ち、語る映像とともにドキュメントする。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。


私は吉永小百合さんについては、お逢いしたことがないが、何となくくすぐったい存在の方である。
こうしたことは、私は1944(昭和19)年9月に東京郊外の農家の児として生を受け、
吉永小百合さんは、翌年の1945(昭和20)年3月に都心で生を受けているので、
学年としては同級生のようである。

もとより環境もその後の軌跡もまったく違うが、
同級生なので社会の出来事の空気を共にし、時代を重ねてきた。

私が吉永小百合さんの名前を初めて知ったのは、
私が小学生の時、漫画の月刊雑誌の『少年画報』を愛読し、
この中の『赤胴鈴之助』が連載されていた。

その後、ラジオドラマとして、1957(昭和32)年にラジオ東京から放送されて、
出演されたのが吉永小百合さんであった。

そして1962(昭和37)年に浦山桐郎・監督の『キューポラのある街』は観たが、
私としては苦手な日活の青春映画の数々は避けたりしていた。

その後、ラジオから『寒い朝』、そして『いつでも夢を』が、盛んに流れたし、
私は好感したひとりであった。

この後、吉永小百合さんが出演された映画は、わずかしか鑑賞していない。

『海峡』(1982年、東宝)
『細雪』(1983年、東宝)
『天国の駅 HEAVEN STATION』(1984年、東映)
『おはん』(1984年、東宝)
『夢千代日記』(1985年、東映)
『映画女優』(1987年、東宝)

この程度しか思い出させなく、世に云われているサユリストの方たちからすれば、
遥かに遠い存在の私である。

その後、何かのテレビ出演された時、偶然に私は視聴し、
《・・私は(10代の青春映画も含めて)数多く出演できたのは、
時代に恵まれて・・》

《・・尊敬する女優さんは、メリル・ストリープ・・》

このふたつの発言を私は聴いて、これまでの吉永小百合さんへの評価が、
大きく飛躍したのである。


私は吉永小百合さんが、原爆の被爆などにに関して、
朗読会を行っていると、何かで知ったりしたが、
どのようなことが起因だったのか、知れたらと思い、今回のテレビ番組を視聴したひとつであった。

若き頃、渡哲也さんと共演した映画に於いて、
被爆者の役柄を演じた渡哲也さんと交友し、原爆ドームの中でのシーンを互いに演じて、
これが原点であり、
その後は、『夢千代日記』(1985年、東映)の前後の頃からは・・

このように語られていたので、私は理解したのであった。


私が何よりも感銘をうけたのは、
東京大空襲は1945年3月9日から10日に行われ、
被害は死者はもとより、多大な被害を受けた都心であった・・。
(留意・死者8万4000人、被災者150万人、焼失23万戸)
その直後の3月13日に、悲惨な都心の状況下で生を受けた。

やがて過酷で悲惨な戦争は起こってもほしくないし、
かの大戦を風化させてはならない責務を感じたり、
伝える時代のひとりとして感じながら、今日の朗読会のひとつの原因にもなっている。

このような意味合いの言葉を発露されたことである。

そして番組の中で、朗読会で取り上げた詩を書かれた方たちに、
吉永小百合さんが訪ねて、お気持ちを語り合う・・。

このように最初に視聴した時に多々教示され、
改めて視聴し、その人ご自身なりの秘めた深い心情を発露した状況の言葉・・
もとより重いが、まぎれなくドキメンタリー作品と主軸をなしているのである。


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料理のできない私でも、ときには簡素なサンドイッチで、家内と語り合い・・。

2011-08-28 13:54:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような日常を過ごしているが、家内は洗濯、掃除、料理などの家事を担当して貰っているので、
せめて私は買物と茶坊主に徹している。
茶坊主に関しては、家内がコーヒーか煎茶を飲みたい、といった状況を察知して、
さりげなく家内の前に置くぐらいである。

そして買物は、我が家から7分前後の最寄店の3店、
駅前の徒歩15分ぐらい10店ぐらいのスーパー、ドラッグ・ストアーなどの新聞に入った折込チラシに、
家内が必要と思われる品を赤色のサインペンで丸印を付けたのが必須の購入品とし、
あとは私が店内の品を見て、食べて見たい、と好奇心か、或いは瞬時に魅了された品を
私が買い求めてくる程度である。


昨日の11時過ぎ、私は買い物に出かける時、
家内は奥の和室で、衣料整理の真っ最中であったので、
昼食は簡単な品を買ってくる、と私は家内に云ったりしたのである。

私はお惣菜コーナーの売り場で、それぞれ単品を見たり、
お弁当コーナーで、8種類の創意工夫されたのも眺めたり、
そしてパンのコーナーでそれぞれのしゃれたパンを眺めたりしたが、
心が定まらず、結果として我が家の冷蔵庫にキャベツ、セロリ、トマト、ニンジン、キュウリを思い浮かべて、
美味しそうな食パン一斤、コロッケ2つ、メンチカツ2つを購入した。


帰宅後、私は台所で俎板(まないた)、包丁を洗浄し、
冷蔵庫から最初にキャベツを取りだして、小さめのキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その後にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリを適当に切り、私用は大皿、家内は少し大きめの小皿に盛り合わせ、
この特選の野菜の盛り合わせとした。

私は煮たり焼いたりする料理はできなく、家内の作ってくれた料理を温まる程度しかできない、
齢ばかり重ねた台所の音痴のひとりである。


そして、私は居間の食卓用のテーブルに、テーブル・マットを敷いて、
アイス・コーヒーと冷茶を用意した後、
買い求めてきたコロッケの二種類、メンチカツ、そして食パンを置いた。

『XXちゃん・・用意したから、お昼にしょうよ・・』
と私は奥の和室で衣料整理で孤軍奮闘している家内に、大きな声で呼び掛けた。

そして、私は台所に引き返し、ブルドック・ソース、サラダ・ドレッシングを取った後、
居間の窓際のテーブルの椅子に座った。

野菜の盛り合わせを食べながら、食パンにコロッケ、メンチカツをはさんだ簡素なサンドイッチになったが、
これなりに手軽で美味しいのである。

私達は主庭の樹木を眺めながら、とりとめなく語り合ったりした。
この中のひとつとして、過ぎし3月11日の東大日本大震災後、
我が家も予定より大きく変貌したことを自然と話題になった・・。

私たち夫婦の共通趣味は国内旅行であり、特に私の定年後は、四季折々各地を旅行してきた。
今年の2月は南東北の雪の情景を求めて、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉の旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4連泊して、
街並み、そして付近を散策をした。
その後は、最上地域の『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルの『ルートイン新庄』に1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で、帰京する5泊6日とした。

この後は、五月の中旬に、田沢湖の北にある乳頭温泉郷、後生掛温泉、新玉川温泉を8泊9日で、
それぞれを滞在しながら、付近を散策する案を旅行代理店に仮予約までしていたが、
過ぎし3月11日の東大日本大震災後、ご破算となった。

この後、東京郊外の我が家も、ときおり余震もあり、何かと落着きもなくなり、
私たち夫婦は、私たちの住む近くの市の避難場所まで歩いて確認したり、
周辺を歩いたり、外食をしたり、うつろな日々を過ごしてきた。

こうした状況もあり、旅行に関しては、意欲も薄れ、
秋になったら、どこかに出かけようと、と旅行のプランを話し合ったりしてきた。

もとより被災された方には言葉もないが、私たちの心情としては、
防災用具を点検したり、家の内部の所有品を整理したり、
特に小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後を大幅に処分して整理したりした。
或いは小庭り手入れに専念したりした。
そして、周辺の状況に、何かと気を留めたりした・・。
このような専守防衛の要素が多い日々を私は家内と語りあったりした。


さて、昼食代わりの特選サンドイッチであるが、
若き私たちの30代の時、帝国ホテルで軽食として、
ビールを呑みながら、ローストビーフのクラブサンドを頂いたことがあるが、
これより美味しいかなぁ、と錯覚したくらいであった。

もとより気負いもない生活で平素の容姿で、少なくとも35年以上寝食を共にした私たちは、
積み重ねられた日々もあり、さりげなく言葉にする語り合い、
気楽でよい、と改めて思ったりした。


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曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、私は叱咤激励され・・。

2011-08-28 01:10:07 | 定年後の思い
私は遅ればせながら曽野綾子・著作の『近ごろ好きな言葉 ~夜明けの新聞の匂い』(新潮文庫)を読み、
多々教示を受けたが、この中のひとつに定年後の男性の生活者としての在り方について、
明記されていたので、私は微苦笑させられながら、読んだひとりである。

本書の初出は、総合月刊雑誌の『新潮45』で、
この内容は『暗がりの夫族』と題された一部であり、
掲載されたのは、1995(平成7)年8月6日である。


《・・(略)・・
私たちの同級生の配偶者たちが、もうほとんど定年になる年になった。
私は毎年恒例になっているイスラエル旅行にでかけたが、
その年は大学の同級生の一人がボランティアに来てくれた。

旅の途中で、彼女は、今、真剣に夫に家事をしこもうと思っている、と言った。
もうこの年になると、どちらが先にどうなるかわからない。
死なないまでも、長期入院ということになったら、
家に残った方が、一人で生活しなければならない。

彼女の家ではまず子供たちが、お父さんにエプロンを贈った。
長いこと社長業をしていたような人で、
台所に入ったらどういうことになるか想像がつかない。
優しい子供たちは、何とかそれをユーモラスな出発として励ますことができないかと考えたようだった。

私は彼女の賢明さに打たれた。
もういいの悪いのという選択をしている時間がない。
明日にも、夫婦は一人で生きて行く必要が生じるかもしれない。
配偶者が入院したらその日から、或いは死亡したらその夜から、誰がご飯を作るのだ。
息子や娘たちは皆忙しい年齢である。
離れて住んでいるケースの方が多いだろう。
嫁にご飯を作りに来いなどと呼びつけられると思ったら、それは大変な時代錯誤というものだ。

(略)

私たちの世代の夫族の中で、どれほど生活者として無能な人がいるか、
長い間、私たちはそれこそ笑いの種にして来たのである。

妻がでかけようとすると「何時に帰る?」と聞く。
愛しているから、妻が誰と会うのか、どこへ行くのが心配なのではない。
心配の種は「俺の夕飯はどうなるのだ」ということだけだ。

大学を出ている癖に、夕飯を作る能力も、出前を取る才覚もないから、
奥さんが少し遅れて帰ってみると、電気もつけない薄暗がりの中でじっと座っている。

と言って皆笑うのである。
これはどうしても侮蔑の笑いてしかない。
暗がりの夫族の中には、東京大学の出身者、ことに法学部の卒業生も多かったので、
私たちは自分たちの出身校が秀才校でもないのを棚に挙げて、改めて幼稚な優越感を覚えることにした。

(略)

どうして秀才の夫たちは、ああも能がないのか。
今どきは、炊いたご飯そのものだって、「大盛りですか、普通ですか」という感じで
マーケットで売っているではないか。
デパートや商店街のおかず売り場で、適当に焼魚と野菜の煮ものでも買えば、
それほど栄養が偏(かたよ)るということもなくて済むのに、それができないのである。

昭和初年代の夫族の中に、おかずも自分の靴下も買ったことのない人は結構いるのは、
彼の母の責任だろうかそれとも妻の責任だろうか。
台所に入っても、お湯の沸かし方一つ手順がわからないからうろうろしている。
薬罐(やかん)がどこにあるかも知らないのだ。
洗濯機のボタンを押したこともないし、炊飯器の目盛りの読み方など、わかるわけもないから、
ご飯ぐらい炊けるでしょう、などと言われると、恐怖で不機嫌になる。

(略)

しかし彼らが、人間としたら、生存の資格に欠けていることには間違いがないのである。
つまり自分はご飯の心配もしなくて生きることが当然と思うのは、
実はとんでもない不遜な男かもしれない。
それは「お前作る人、俺は食べる立場」みたいな男女の性差別を容認し、
自分はそういう仕事をしなくて当然の、もっと高級な人間だと思い上がっている証拠なのだ、
と私もこのごろ悪意に解釈することにした。
・・》
注)329ページ~332ページから抜粋。原文にあえて改行を多くした。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社を35年ばかり勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
年金生活をしている。


日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として努めてきた。

私の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をしている。


今回の作家・曽野綾子さんの定年後の男性の生活者としての命題のひとつのテーマであるが、
この作品は1995(平成7)年8月に公表され、
《 私たちの同級生の配偶者たちが、もうほとんど定年になる年になった。・・》
と綴られて、私たちの世代より15歳前後、ご年配の人たちとなる。

曽野綾子さんご自身は、聖心女子大学を1954〈昭和29〉年に卒業された方であるが、
あの当時に女子大学を通うことができたのは、若き女性のほんの一部であり、
クラスの同級生の多くは、中央官庁、大企業のエリート、そして中小業の会社を創業された成功者、
或いは老舗の商店などに嫁がれた方が多いと思われる。

こうした嫁ぎ先のご主人が、第一線を退かれて、関係先の要職を務めて、第二の人生を歩み、家庭人となった現状・・。
このようの中で、一部の人は現役時代の栄誉も、食事のことで困惑する状況を的確に表現されているが、
私たちの世代、そして私のような中小業で奮闘した身となれば、苦笑してしまう。


しかし、私の場合も、『おひとりさま』になる日々もあるので、
単純に笑ってばかりは、いられない時もある。

私達のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から2時間ばかりの地で、一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、7年近くなっている・・。

家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市に里帰りし、同期の人たちと交流を深めたりしている。
確かに80代の初めとしては、身体は衰えても心は元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に5回ぐらい6泊前後で、母宅に泊りがけで行っている。

この間は私は『おひとりさま』の生活となり、のんびりと気ままな独り住まいをしている。


過ぎし8月13日(土)より18日(木)まで、家内は5泊6日で、
家内の母宅で家内は孤軍奮闘していた時、私の大半は下記のように日常を過ごしたりしていた。

起床は5時半過ぎが多く、雨戸、アルミのガラス戸を開け、簾(すだれ)越し外気を取り入れ、
この後に着替え、洗面をする。
そして、連日の猛暑なので、やむなく主庭、玄関庭にある樹木、草花、そして地面に水撒(みずま)きをして、
朝涼のひとときを享受する。

この後は、私は台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
指定された道路に面した門扉に置く。

そして、読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりしている。

食事に関しては、夏場であるので家内の料理は事前に辞退し、
私はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。

肉類などの主食の前に、私は小さめのキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリを大皿に盛り合わせ、
この特選の野菜の盛り合わせだけは、朝、昼、晩と食べて、
この熱い夏の時節には、身も心にも良いと大量に頂いたりしている。

そして、洗濯に関しては、たまたま昨年の早春に乾燥の機能がある洗濯機に買い改めたので、
オール自動セットとし、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、平素より遅かったりしている。


このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素から落第生となっている。


今回、私は曽野綾子さんから、よき叱咤激励を受けたと解釈している。
遠い昔の大学時代、ワンダーフォーゲル部に大学を中退するまで所属し、
もとより食事に関しては、略式ながら料理をした体験があるので、
遅ればせながら我が家で始めるのも、何よりも自身のためだ、と身震いしながら思ったりしている。


尚、余談であるが曽野綾子さんのご主人・三浦朱門氏は、
芸術院の院長をはじめ要職を勤められる中、家庭内では料理もされる達人であることを付記する。


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作家・庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の数々の発刊された本、古本屋で見かけて・・。【下】

2011-08-27 16:40:11 | 真摯に『文学』を思考する時
【・・この頃の私は独身であった上、アルバイトをしながら文学青年の真似事をしていたせいか、
社会人の一員にも中途半端な身でもあった。
こうした体験をしていたいか、夫婦の機敏な深淵を描いた『静物』(1960年)の作品は、うわべしか理解していなく、
作者自身が練馬区の住宅街から東京郊外の多摩丘陵に新居を構え、その周辺の情景、
家族がこの地に馴染んでいく牧歌的うつろいの『夕べの雲』(1965年)に素直に魅了されたのである。

しかし私は庄野潤三氏の文学には、この程度であり、
むしろ同じ第三の新人と称される遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎、北杜夫などの各氏の文学作品に魅せられる方が多く、
他の世代の作家の数多い作家に圧倒的に魅了されていた。


私は1970(昭和45)年の春、ある民間会社の大手に何とか入社できて、
文学青年の真似事を断念して、遅れた社会人として私なりに清進した。

私はサラリーマンをしていたが、ときおり他の作家の小説、随筆を本屋で見かけると、
購入して読んだりしていた。

1988(昭和63)年の春、本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
私は読みながら強く魅せられたのである。
作者のあとがきの後半にに明記されている通り、
《・・
「インド綿の服」が『群像』に載ったのが昭和56年10月で、
「足柄山の春」が昭和62年10月だから、まるむ6年たった。

長女一家が南足柄市へ越して行ったのは「インド綿の服」の出る前の年の春であるから、
長女一家からいえば、雑木林のなかの家で新しい環境に馴染みながら過した最初の7年間の生活が物語の背景となっている。
はじめは夫婦と三人の子供で出発したものが、途中から子供となった。

             昭和62年12月      
                         庄野潤三
・・》
注)作者の原文にあえて改行を多くした。


作者のご夫妻が、ご長女一家が南足柄市の雑木林の多い中で、新居を構えて、
たくましく日々を過ごされるを交流を描写されるのであるが、
私はご長女の感性に魅せられたのである。

そして作者自身が多摩丘陵で新居の生活をはじめた昭和30年代のなかば頃と思いを重ねて、
私も1978〈昭和53)年の春に実家の近くに新居を構え、苦楽の日々も体験したので、
ご長女一家の日々を秘かに応援団のような心情となり、
心酔しがら精読したのである。

この後、私は庄野潤三氏の本を見かけるたびに、購入し、愛読したのである。

私は1988(昭和63)年の春、40代のなかば、
本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
ほほ20年ぶりに庄野潤三氏の作品に読みながら、強く魅せられたのである。

この後の私は、『世をへだてて』(1987年)、『誕生日のラムケーキ』(1991年)、『鉛筆印のトレーナー』(1992年)、
『さくらんぼジャム』(1994年)、『貝がらと海の音』(1996年)、『ピアノの音』(1997年)、
『せきれい』(1998年)、『野菜讃歌』(1998年)、『庭のつるばら』(1999年)、
『鳥の水浴び』(2000年)、『山田さんの鈴虫』(2001年)、『うさぎのミミリー』(2002年)、
『孫の結婚式』(2002年)、『庭の小さなばら』(2003年)、『メジロの来る庭』(2004年)などを愛読して、
サラリーマンを定年退職したのである。


『インド綿の服』を読んだ後の私は、『世をへだてて』の単行本にめぐり逢え、
庄野潤三氏の病院内の闘病、その後のリハリビを過ごされる状況を精読しながら、私の人生観に影響を受けたりした・・。

この単行本の帯に明記されているが、

《突然襲った左半身麻痺・・
 脳内出血の大病を克服してここに綴る

 生と死をさまよう中での
 幻想と幻覚
 そして
 よみがえる生命への歓びと
 新たな観想  》

と記載されて概要であるが、もとより作者の当人の想い、奥様、
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家の暖かな支援と思い、
病室で共に闘病した人たち、担当医師・・
こうした交流が静流の中で、圧倒的な熱い思いが伝わってくるのである。

その後の『誕生日のラムケーキ』以降の作品には、
老いていく自身と苦楽を共にされた奥様の淡々とした日常生活・・
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家との情愛、
ご近所の方たちの交流が描写・・

私は遠い親戚の一族を見るような思いで、この人生の歳月の流れを感じたり、
思いを馳せたりし、
私にとっては、まぎれなく人生の教科書と愛読したのである。

人生は労苦が多く、ほんの安息な日々を享受し、それぞれの生きがいを
その人なりに見出していくのであるが、
私は定年後の人生の指針として、庄野文学から多く教示させられたのである。


私は庄野潤三氏のご逝去の知り、私の二十歳過ぎから読んだ庄野作品を思い浮かべて、回想したのであるが、
私は父親を小学二年の時に死去されたので、庄野潤三氏の人生に思いを馳せると、慈父のような存在の人であった、
と確信を深めたりしている・・。


私は氏のご冥福を祈りながら、
少なくとも『静物』、『夕べの雲』、そして『インド綿の服』、『世をへだてて』を読み、
愛惜のひとときを過ごそうとしている。
・・】

このように私は庄野潤三氏のこ逝去を知り、投稿していた。


私は作家の死を知るたびに、その作家の遺(のこ)された作品は、
愛読者から心の片隅に永遠に残るものである、と深く思っているひとりである。

こうした私の思いは、創作者の作家としての立場からも、
敬愛している作家の曽野綾子(その・あやこ)さんが、
読売新聞の『時代の証言者』に於き、曽野綾子さんご自身の連載25回目の最終の結びに、
《・・文学碑や文学記念館は私の好みじゃない。
作品が1冊か2冊、誰かの心に記憶されれば望外の光栄です。・・》
と作家としての名言を2010〈平成22〉年9月27日の朝刊の紙上で発言されている。

私は作家としての曽野綾子さんの信条を、そうですよねぇ、と好感している。


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作家・庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の数々の発刊された本、古本屋で見かけて・・。【上】

2011-08-27 12:24:37 | 真摯に『文学』を思考する時
私は昨日の日中、ある駅前のスーパーに買い物に出かけた。
この駅前に近い商店街の脇道の奥まった所に、古本屋があると知ったのは、
三週間前で、いずれ訪ねてみょうとしていた店であった。

私は遅ればせながら高校時代に読書に圧倒的に魅せられて、
50年は過ぎているが、年金生活の今も読書が最優先の趣味となっている。

こうした中で、本屋の単行本、文庫新書本、文庫本を眺めて購読したり、
ときには古本屋に行き、読んでみたい本に偶然にめぐり逢えた時は、
小躍(こおど)りしたくなる心情を持つことが多いのである。

このように何か良き本はないかしら、と心に秘めて、古本屋に入店した。
文藝評論、小説、近現代史などの本が多い中、
偶然に亡き作家の庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の単行本が8冊並んでいて、
私は懐かしげに背文字のタイトルを見つめたりした・・。

そして庄野潤三氏の愛読者のひとりが、古本屋に放出されたのかしら、
と思ったりした。


帰路、長い下り道を歩きながら、作家・瀬戸内寂聴さんが、
何10年前に作家・円地文子さんから、
作家は生きている時だけよ・・亡くなってしまったら数年で忘れられるわよ、
と言われた、と私は何かの文藝雑誌で読んだことを思い重ねたりした・・。

私は帰宅後、庄野潤三氏の遺された数多くの作品に思いを馳せながら、
2009年9月24日に、このサイトに於いて、
【 敬愛していた作家・庄野潤三氏が逝去されて・・。】
と題した投稿文を読み返したりした・・。


【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
一昨夕、敬愛しているひとりの作家の庄野潤三氏が逝去されて、
呆然となり、とうとうお亡くなりなった、と心情にかられた・・。

この後、ネットで時事通信社、毎日新聞社、産経新聞社を読んだり、
昨日の朝は読売新聞の朝刊も読んだりしたのである。

私は庄野潤三氏の逝去ニュースに関しては、
毎日新聞社の基幹ネットの【毎日jP】が最も好感したので、
無断であるが、掲載させて頂く。

《・・
       訃報 作家、庄野潤三さん死去 88歳

9月22日15時34分配信 毎日新聞

「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、
「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日、老衰のため死去した。
88歳。

(略)

大阪市生まれ。九州帝大東洋史学科卒業後、海軍予備学生として出征。
復員後、島尾敏雄らと同人誌を創刊した。
中高教師、朝日放送勤務などのかたわら「舞踏」「恋文」などを発表。
1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。
詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。
その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など
人生の機微を追求する家庭小説を書いた。
一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、
脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。

90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。
それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。
「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

父貞一さんは帝塚山学院を創設した教育者。児童文学作家の庄野英二さんは実兄。78年に日本芸術院会員になった。

▽作家、阿川弘之さんの話
 従来の私小説とは微妙に異なる、清純な家庭小説を多く書いた。
 子や孫を大事にする作風が心に残っている。やるべき仕事をやり終えた一生だったと思う。

▽女優、大浦みずきさんの話
 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、
 もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。
 いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。
 本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。
 心よりご冥福をお祈りします。

最終更新:9月23日0時49分
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私が庄野潤三氏の作品を初めて読んだのは、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の頃である。
文学青年の真似事をしていたので、遅ればせながら、
『愛撫』(1953年)、『プールサイド小景』(1955年)、『結婚』(1955年)、
『ザボンの花』(1956年)、『ガンビア滞在記』(1959年)、『静物』(1960年)、『浮き燈台』(1961年)などを読んだりしていたのである。

この後、講談社から『われらの文学』と命名された全22巻の文学全集が、
1966(昭和41)年に刊行されて、
私は《声価高まる「若い」文学全集》と称せられたこの『われらの文学』を愛読していた。

庄野潤三氏の作品が配本されたのは、翌年の3月15日に於いて、
『われらの文学 13 庄野潤三』と刊行されて、私も精読したひとりである。

そして、私は改めて、庄野潤三氏の作品、
『静物』、『夕べの雲』(1965年)、『愛撫』、『プールサイド小景』、『相客』、『道』(1962年)、
『鳥』(1964年)、『秋風と二人の男』、『ガンビア滞在記』(1959年)を読んだりした。

そして、文藝評論家・江藤淳(えとう・じゅん)氏が解説を書かれていたので、
読みながら私は動揺したのである。

《・・
庄野潤三氏り文学の特質は「不安」である。
そして氏の技法の中核をなすものは「暗示」、もしくは「象徴」という手法である。
このふたつの交点から、光によって表現される闇、
もっとも日常的な描写によって表現される形而上的な虚無、
誰でもが体験している時間を横切る永遠、
といったような要素で組み立てられている氏の小説が生まれる。
・・
(略)
・・》
注)解説の原文をあえて改行を多くした。


私は江藤淳氏のこの解説の最初の部分を読みながら、
私なりにの読み込んだ庄野潤三氏の文学を、いかに浅かったかを思い知らされたのである。

・・】

                         (つづく)

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『花の金曜日』は死語になったのかしら、と年金生活の私は、現役時代を思い馳せ・・。

2011-08-26 19:05:07 | 時事【社会】
私は中小業の民間会社を35年ばかり勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職した66歳の身であるが、
最近はとみに曜日の感覚が薄らいでいる。
カレンダーを眺めると、今日は金曜日、と教えられる程度となることもある。

私の現役時代は数多くのサラリーマンの諸兄諸姉と同様に、
月曜日の早朝から業務に精進し、睡眠時間を削り、お互いに奮闘し、
金曜日の夜になると、やっと安息が得られる、といった心情であった。


私は大学を中退し、映画青年、文学青年の真似事をし、挫折した後、
1970〈昭和45)年の春、ある民間企業に中途入社し、遅ればせながら社会人となった。
この頃の勤務形態は、隔週の土曜日が午前中勤務となっていた。

その後、何時ごろか完全5日制となって、金曜日の勤務が終わると、何かしらほっとした・・。

どなたが名付けたのかは知らないけれど、
連休前の金曜日を花の金曜日と称して、『花金』と省略し、
社内で花金だから・・と歓送迎会や懇親会を開催されたり、
仲良しグループで呑みに通ったりしていた。

業務が立て込んで夜の9時過ぎに会社にいると、
『忙しいのだったら・・明日の土曜日に会社に来て、じっくりと仕事をすればよいじゃない・・
ともかく・・いつものメンバーで待っているょ・・』
と気のおけない友人が電話を掛けたりしてきたので、
私は仕事を切り上げて、その場所に駆けつけたりした・・。

どなたも同じと思われるが人事異動のたびに、
歓送迎会が部課間で盛んに行われ、私も異動のたびに、開催してくれた。

50歳を迎えた頃から、人付き合いと体力も疲れ果てて、ある程度のつきあいとし、
私は自宅の最寄り駅の付近の居酒屋で、
毎週の金曜日の10時過ぎに、定期便のように独りでボケッと呑んだりした。

私は弐合徳利のその時に思いついた地酒を2本呑みながら、
板長の進めの単品を3品を食べたりした。
そして絣(かすり)を召した女将や仲居さん達にからかわれながら、
1時間半ばかり心の憩(いこ)いとしていた。

その後、55歳になるとリストラ旋風の中、私は出向となってしまい、
勤務先が遠方の上、始業も早くなり、心身疲れきったので、
居酒屋に寄れる余裕もなくなった。
帰宅後、風呂に入った後、深夜の11時過ぎに日中の出来事を家内とお互いに話し合いながら、
弐合徳利の純米酒を呑んだりした。


どの時代でもサラリーマンの多くの方たちは、
どなたも多忙な業務な勤務実態で成果を問われているが、
私は花金の夜のひとときは、秘かな息抜きで過ごしてきた。

退職後の今としては、遠い昔の出来事だった、と改めて感じている。


ここ10年前頃から、民間会社は特に成果主義の影響で、
部署間はもとより、仲間うちでも競争が激しくなり、
ノミニケーションが薄らいでいる、と新聞、雑誌などで読んだりしたことがある。

私は料理を頂きながら、お酒を呑み、
最近の出来事を公私含めて他愛なく、話し合ったりするのが、
職場上の交流として、憩(いこ)いのひととき、と長年思ったりしてきたので、
働いて下さる現役の諸兄諸姉は、少し寂しくないかしら、と思ったりしている。

しかし、ここ40年は世界の経済の状況も大幅に変貌し、
こうした中で、少なくとも私たちの現役時代は半期決算の時代を過ごしてきたが、
私の定年退職した7年前の頃から、四半期決算などで短期で成果を厳しく問われ、
大手企業でも安定した長期の勤務実態が望めなっているのが、現実でもある。

せめて金曜日の夜から、休日の時ぐらいは、
愛しき妻、そしてお子様・・何よりも信愛できる家族で、ゆったりとお過ごし下さい、
と無力な私は念願したりしている。


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ときには、齢ばかり重ねた私は、家内から『ボケチィン・・』と呼ばれ・・。

2011-08-26 08:02:19 | 定年後の思い
私は民間会社を2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活している66歳の身である。

私達夫婦は子供も恵まれなかったので、2人だけの家庭であり、
東京郊外の調布市で古惚けた一軒屋に住んでいる。

私は日常の買物を担当し、ときおり庭の手入れを責務として、
家内は料理、掃除、洗濯などを担当して貰っている。

家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。


年金生活を始めてまもない頃、私は買物を終えて帰宅後、
台所にいた家内に手渡したのである。

まもなく、家内は冷蔵庫に収納したりした後、
『あらぁ・・お願いした品がないわ・・』
と家内は呟(つぶや)くように、私に云った。

『本当ぉ・・』
と私は云いながら、スーパーのチラシで、
家内が赤丸の印を付けたりのを、見ながら再確認した。

『本当だぁ・・買わなかったょ・・
次から気をつけるょ』
と私は明るく大きな声で家内に云った。

『ボケチィンねぇ・・』
と家内は笑いながら、私に云った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』
と家内は笑いながら、私に云うのである。


私は齢ばかり重ね、少しボケてきたと反省をしながら、
一家の主(あるじ)も失墜したと思ったりした。

そして、現役時代の最後の5年間は年収一千万円台だった私の少しのプライドも、
今としては遠い昔の日々になった、と苦笑したりした。

尚、私は家内を呼んだりする時は、
『XXちゃん・・』
と婚約の少し前から呼び、今日まで35年を超えても、相変わらず一環し呼んだりしている。


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もんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』の歌は、私なりのささやかな想いを秘めて・・。

2011-08-25 21:44:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
夕方の5時過ぎに、家内は台所で夕食の準備をはじめ、
いつもようにラジオを聴きながらしていた・・。

私は居間で本を読んだりしていたが、ラジオから何かしら懐かしい唄声が聴こえてきたので、
本の活字から、この歌に注視して、
もんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』だ、
と思いだして、しばらくこの歌を聴いたりした。

そして、この歌が街の中で流行(はや)った1980(昭和55)年が思いだされた・・。


この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社の本社に勤めて、
資本関係のあるレコード会社からシステム総合管理の指導を受けながら、
たった独りのコンピュータ専任者で奮戦していた時であった。

4月度より商品の物流を委託したり、販売の受託などもあり、
年始早々からは、関係会社との会議、システム改定などで奮闘していた。

確か3月初旬の頃、夜の9時過ぎに職場で、自席に座り、
コーヒーを飲んだり、煙草を喫いながら、システム改定の最終進度をチエックしたりしていた。
私の近くは販売推進系で、たびたびレコード、カセットの試聴盤をかけていたので、
私はポピュラー、邦楽の曲の数々を何かと覚えたりしていた。

この時は、他社の青江三奈のような唄声が流れ、
しばらく聴いたりしていると、
『青江三奈のような唄声で・・音はおもしろく・・勢いがありますね・・』
と私は販売推進の次長に云ったりした。

もとより青江三奈は『伊勢左木町ブルース』、『池袋の夜』などをヒットさせた女性歌手である。

私は楽譜も読めなく音楽の素養もないが、単なる感性から専門外の身でありながら、
その時に感じたことは言葉にしていたので、ときには失笑されることもあった。

『アオエ・・ミナかょ・・もんた&ブラザーズ のデビュー曲で・・『ダンシング・オールナイト』だょ・・』
と販売推進の次長は私に云いながら、微笑んだりしていた。


この曲は4月下旬に発売されて、5月下旬の頃からラジオからもよく流れたりした。

そして、6月初旬にシングルのベスト第一位を獲得して、
この後も8月の中旬まで独走し、通算160万枚を超え、私が推測した以上にヒットとなり、
社内の中でも、驚いたひとりであった。

この間、私の直接に関わった商品の物流を委託のシステム対応も予定通り軌道に乗り、
そして販売の受託のシステム対応も順調に乗り、
この会社からは谷村新司のシングル盤『昴』、そしてアルバムもヒットとなり、
その後はアリスのアルバムも発売もされて、
私の勤めていた会社の業績が大幅に伸長した。


私は7月になると、何とか土曜休日の出勤からも開放されて、
家内がデパートに買物に行っている時、
浴衣(ゆかた)に下駄(げた)の容姿で近所の蕎麦屋に行った。
そして、日本酒の冷酒を二合ばかり呑み、笊(ざる)蕎麦を昼食代わりとしたりした。

この後、帰路に向う途中の大通りで、信号待ちしていた自動車から、
大きな音で『ダンシング・オールナイト』が流れてきて、私は思わず微笑んだりした。


このように私なりに、このもんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』は懐かしく、
1980(昭和55)年に於いては、谷村新司の『昴』共に、
私の心の片隅には『ダンシング・オールナイト』は忘れなれない曲となっている。


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電気使用量、我が家は努力も工夫もせず、前年同月比24%減となり、私は思わず微苦笑し・・。

2011-08-25 00:08:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨夕、いつものように門扉の近くに設置してある郵便受け入れ箱を覗(のぞ)いたら、
たった一枚の東京電力からの『電気ご使用量のお知らせ』が入っていた。

私は居間に戻り、この『電気ご使用量のお知らせ』を見た。
私は従来はこうした書類は殆ど見ないことが多かったが、
ここ半年ばかり節電の風潮の中、
家内は我が家は余り節電に協力していないので、何となく後ろめいたく嫌(いや)だわ、と言ったりしてきた。

このしたことを私は思いだし、私はゆっくりと今回の『電気ご使用量のお知らせ』を見たのであった。

《 23年8月分 ご使用期間 7月26日~8月23日
             検針月日  8月24日 (29日間) 》

そして中央には、さりげなく下記のように明記されいた。

《 昨年、8月分は29日間で、597KWhです。
         今月分は昨年と比べて24%減少しています。》

このように明記されていたので、私は台所で夕食の準備をしている家内の所に行き、
『XXちゃんさぁ・・我が家の電気使用量・・昨年と比べて24%減少だって・・』
と私は家内に言ったりした。

『良かったじゃない・・』
と家内は明るい声で、応(こ)えた。

『我が家は・・これといって節電もしなくて・・24%減少だなんて・・
思いあたることは、二つしかないねぇ・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした・・。

この二つに関して、この後の私は家内に過ぎし日々の我が家の出来事を振り返るように、
云ったりしたのであった。


我が家のエアコンは、一階の居間の17畳ぐらいの広さに壁掛けのセパレート型の冷房専用機があり、
二階の和室兼寝室の6畳には、通常の壁掛けの暖冷房のセパレート型が、8月初めまでの状態であった。

8月4日の昼過ぎ、雨上がりの蒸し暑い中、私は買物を終えて帰宅したが、
洗面所で顔を洗い、着替えた後、
居間のクーラーを点(つ)けて、冷風に心身ゆだねていた・・。

まもなく肝要な冷房専用機のセパレート型の下部から、水滴が落ちはじめて、床を濡らしはじめた・・。
家内が最初に気づき、私はバケツを持ってきて、水滴の落ちるあたりに置いたりした。
水滴がポトリ、ポトリと落ち、どうしてなのょ、と私は心の中で叫び、見つめたりしていた。

この冷房専用機は、私が定年退職の4年前の2000〈平成12〉年の初夏に購入し、
遅ればせながら、初めて居間に設置したものである。

私は定年後は買物と散策以外は、殆ど家の中で過ごすことが多い。
読書をすることが圧倒的に多く、ときには映画をテレビを通して鑑賞したり、
或いは音楽を聴いたりすることがあるので、
肝要の冷房専用機が、この熱い時期に10数年に及び奮戦してくれたが、
敗退宣言のように下部から、水滴が落ちてきても、困惑するばかりであった。

私たちは、涙雨のような水滴を眺めて、寿命かしら、と云ったりし、
やむなく私たち夫婦は、翌日の5日にある家電の量販店に開店時をめざして行き、
通常の壁掛けの暖冷房のセパレート型を買い求めた。

そして7日に設置日となり、専門技術者のお二人に来宅して頂き、無事に設置した。
この新たな最新型のエアコンは、リモコンで28度セットすると、
政府のご用命なのかしら『節電モード』と表示され、
その上に『エコナビ』のスイッチも付いてあった。

私たち夫婦は、これ以降は、この『節電モード』の28度設定した上、
『エコナビ』を愛用して、冷風と冷気を享受してきた・・。


私の住む地域は、昨年と同様に連日の猛暑で、34度前後の残暑厳しい日が続き、
特に18日の木曜日には36度の今年一番熱い日となったりした。
そして19日は、朝の9時半過ぎから、風も伴い大雨となり、ときおり雷鳴を響かせ、
朝の30度から昼下りには涼しげな23度となり、
乾ききった地面、樹木、そして草花も潤(うるお)し、清々しい情景に変貌し、
猛暑から初秋に移り変わり、改めて天上の気候の神々の確かな力に、私は敬意したりした・・。

この後も、4日ばかりの初秋のような涼しげの中で過ごすことができたので、
孤軍奮闘してくれるエアコンに感謝して、夏季休暇のように、お休みをさせた。


このような我が家の経過であったので、
今回の大幅な電気の使用量の削減は、最新型のエアコンの冷風・冷気の飛躍的な向上と節電能力、
そして天上の気候の神々の4日間の初秋のような恵(め)ぐみ、
この二つの寄るものであった、と私は微苦笑しながら、家内に伝えたりした。


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谷山 茂・編の『日本文学史辞典』、年に幾たびか開き、私のひとりの師なり・・。

2011-08-24 09:06:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活をしている66歳の身であるが、
ここ数年、政治は益々混迷を深め、経済も低迷、そして社会も劣化し、
今年は東大日本大震災の復興、福島原発の波及問題などに、
無力ながら憂いたりしている。

ここ数か月ばかり、ときおり世阿弥、観阿弥、足利義満などの軌跡を学んだりしていた。
そして、世阿弥の『風姿家伝』を初めとし、
吉田兼好の『徒然草』、鴨 長明の『方丈記』を思いかえしたりしていた。


私は学生時代に無念ながら国文学を専攻した身ではなく、
ただ近現代文学と称される明治時代から昨今までの小説、随筆に関心がある。

そして、深く読めば読むほど、ある作家たちの作品は、
やはり中世に遺(のこ)された作品に到達することが多いのである。

その上、作品の背景には、もとより人々の営みがあり、
この頃の政治、文化、風土、日常生活、風習などを思考したりしている。


このような思いを1964(昭和39)年に東京オリンピックが開催された頃から思い、
私の拙(つたな)い脳裏で苦楽を友とし、今日に至っている。

私の師は、数多くの書物を頼りに独学で学んでいるが、
サラリーマンの多忙な期間を35年ばかりしてきたので、
断片的で、一貫性がなく、残念ながらほころびが多いのが実情である。


若き40代の頃、私は人生は2度あれば、
大学で国文学を専攻し、やがて教授になり、確固たる国文学の上で足跡を残す、
と苦笑しながら夢想することもあった。

しかし、古今東西の数多くの人が願うように、
無念ながら人生は2度なく、
今の自分を自苦自楽しながら、向上させるしかないのである。


こうした中で、年に幾たびか、谷山 茂・編の『日本文学史辞典』(京都書房)を開き、多々教示されている。
この辞典は、1981〈昭和56)年の秋に、偶然に本屋で見かけ、
瞬時に魅了させられて購入した。
そして戦後の作家の解説などは、幼い解釈もあるが、
貴重な師となっている。

このように私は、現世の社会の混迷を離れ、ひたすら中世などを思索することもある。


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