夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『十五夜』のお月さま、台風の影響で雲隠れ、やむなく私は遠い昔の幼年期に思い馳せて・・。

2012-09-30 20:16:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、『十五夜』と明記されていたので、
早くも『中秋の名月』を迎えたのか、と微笑んだりした。

もとより、9月7日頃から10月8日頃の間に於いて、
月が満月になる日を『十五夜』、或いは『中秋の名月』と称されている。

しかしながら台風17号が本土に襲来すると天気情報が報じていたので、
私の住む地域ても、お月さまにお逢いできないだろう、と思ったりした。

やはり悪い予感が当たって、夕方より風が吹いたり、ときおり雨が降り、
無念ながら、お月さまは雲隠れしていた。

そして私は、やむなく私の幼年期の頃、生家でささやかな月見の祝いをしていたことが、
脳裏の片隅みから思いだしたりして、思いを馳せたりした・・。


私が地元の小学校に入学したのは、1951〈昭和26〉年の春である。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けたが、祖父、父は、
2人男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思ったので、今度は女の子を期待していたらしく、
三男の私としては、幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
と幼年期を振り返り時、想いだしたりしている・・。

この時節の満月を迎える中秋の名月の時は、
母屋の主庭に面した縁側で、月が観える位置に飾りを供(そな)えていた。

三方(さんぽう)と称された檜(ヒノキ)の白木で作った方形の折敷(おしき)に三方に穴が開いた台に、
半紙を敷いて、お米の粉で作った団子を15個ばかり供えられていた。

薄(すすき)が活(い)けられ、その脇には収穫された農作物の里芋(さといも)、
サツマイモ、蓮(の根)などが置かれていた。

私は祖父から不憫に感じられたせいか、ときには可愛いがわられて、
祖父の冷酒を呑む横に座って、満月を眺めたりしていた。

今、こうして想いだすのは、農家であったので、
春から育てられた農作物が何とか夏の日照り、台風などの被害を受けることなく、
無事に秋の収穫を迎えることができ、感謝をささげる意味から、
このように形式がとられたと解釈している。

こうしたささやかな『月見』も数年後、父が死去し、祖父にも死別され、
大黒柱を失った生家は衰退の一途となり、このような儀式には余裕がなく、消滅した。


昨今の私は、この時節になると、
ときおり家内と共に月を眺めたりした時、
『お月さま・・綺麗だね・・』と私は誉(ほ)めたりしている。

そして昨夜も10時過ぎに、私は独りで玄関の軒下に下り立ち、眺めたりした。
夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
お月さま・・私に向って微笑んでいるみたい、と私は感じたりした。

こうした思いを深めた私の心の奥底には、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしているが、
このような心情を察した天上の神々から、人生の後半の贈り物のひとつ、と私は解釈しているからである。

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蜻蛉(とんぼ)が小庭に舞う情景を眺めて、齢ばかり重ねた私は微苦笑して・・。

2012-09-30 08:37:19 | 定年後の思い
昨日の昼下がり、残暑の余韻のような少し熱い30度前後の快晴の中、
私はテラスに下り立ち、主庭に群生させた純白色の玉すだれ〈タマスダレ〉を見たり、
可憐なピンク色した花が咲く秋海棠〈シュウカイドウ〉を眺めたりしていた。
いずれも我が小庭で、晩夏から初秋の時節を彩〈いろど〉ってくれる花でもある。

そして眩(まばゆ)い陽射しを見たりし、
小庭の片隅にある金木犀〈キンモクセイ〉の樹にたわわな莟〈つぼみ〉がなっているかしら、
と見たりしたが、今年は平年より遅れている、と少しばかり落胆したりした。

毎年、10月の初旬になると、枝先の周辺にたわわな実が付け、
橙黄色の小花が咲くと、時節の到来を毎年教えられてきた。

そして私は少し離れた所からでも、微(かす)かな匂いが漂う金木犀(キンモクセイ)の芳香は好きであるが、
盛りを過ぎる頃、樹の周辺に橙黄色の小花が黒土の上に落ち、
彩〈いろど〉る情景に幼年期の頃から魅了されている。

このように思っている私は、いつ頃に咲くのかしら、と思ったりしていると、
主庭の樹木と樹木の間を20前後の蜻蛉(とんぼ)が舞っていた。

そして群れをなして悠然と舞っているが、ひとつの蜻蛉だけは群れから勝手に離れて、
自在に舞っているので、私に似ているのかしら、と私は思わず微苦笑したりした。

蜻蛉の群れは3分ぐらい舞った後、青い空に向かい、
そして独りぼっちの蜻蛉も群れに遅れながらも、何処に去って行った。


私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職後した。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

サラリーマンの現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、
乱したくないので、決意して実行してきた。

具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。


そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
残された方は落胆しながらも、強い趣味があれば、やがて薄らいで、命果てるまで生きがいのひとつとなるので、
互いの趣味の時は大切にしている。

日常は私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


定年後の年金生活を始めて、予期できなかったことがある。

小学生の4年の頃から映画に熱愛し、大学を中退し、映画青年の真似事をした体験のある私は、
映画の作品のDVDに興味が薄らいだのである、
或いは音楽の作品のCD、DVDにしても、私の感性が衰えてきたのか、作品自体が劣化した為か解らないが、
年金生活の8年生の今日まで、映画作品は3作品、音楽のアルバムは6作品ぐらい買い求めてきた程度である。

やむなく居間にある映画棚から、映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。


会社の時代にめぐり逢えた先輩、同僚などの交流が薄らいだこともある。

殆どの方は年金生活をされて、ご自身の趣味を楽しまれながら、
ご自身の子供の家庭、そしてお孫さんが在て、愛おしく思いながら日々過ごしている、
と年賀状に認(したた)められている。

たまたま私が勤めてきた音楽業界は、1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。
そして私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


定年した後、年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。


私は年金生活を始めて数年以内に、先輩、同僚の死去に接し、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈った。

私は現役サラリーマンの55歳の頃から、 定年退職の60歳から10年間だけ五体満足に生かしてくれれば、
70歳以降の人生は余生である、と公言し一部の方から険悪されたりしてきたが、
この根底は、長らく勤めた方のささやかな勲章として、
せめて退職後の10年は、ご自身の安息な時を過ごせるように、と念願したりしていたのである。

私は年金生活を始めて、まもなく丸2年を迎えようとした2006〈平成18〉年8月下旬、
山口文憲(やまぐち・ふみのり)・著作の『団塊ひとりぼっち』(文春新書)を読んだりした。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39年〉の秋に、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、あえなく敗退し、
やむなくある企業に何とか中途入社できたのは、
1970〈昭和45〉年の春で、満25歳の時だった。

この時代、定期採用で新入社した人達は、団塊の世代の人々であった。
そして机を並べ、この業界の荒波の多い時代の苦楽を共にし、何かと友人には団塊の世代の人々が多かった、
団塊の世代の多くは、2007〈平成19〉年に定年を迎えるに際し、
数多くの団塊の世代について出版されていた・・。

山口文憲・著作の『団塊ひとりぼっち』からは、多々教示され、
団塊世代の多くは、これからの時期も《ひとりぼっち》と学んだりした。
私は中途入社の身であったので、彼ら同期で何かと励まし合いながらも時代を過ごしてきたのを、
羨ましく感じたりしてきたので、私は衝撃を受けたのである。

そして私は定年後の年金生活は、何かと『ひとり遊び』の読書、本屋に寄ったり、散策などが多いので、
彼ら団塊世代も《ひとりぼっち》かょ、と微苦笑したりし、今日に至っている。

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コメント (3)

NHK『テレビ番組のインターネットへの同時送信』事業化の方針、齢ばかり重ねた私でも賛意し

2012-09-29 12:25:10 | 時事【社会】
先ほど、たまたま読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
『エンタメ』のニュースのひとつに、
《 番組ネット送信、事業化の方針示す…NHK経営委員長 》
と題された見出しを見て、どのようなことなの、と高齢者68歳の私は思ったりした。

そして、何事も好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と信念のある身なので、
この掲載された記事を精読した。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20120928-OYT8T00463.htm?from=yoltop
☆【YOMIURI ONLINE】
       <==【エンタメ】<== 《 番組ネット送信、事業化の方針示す…NHK経営委員長 》☆

私は読み終わった後、NHKがテレビ番組のインターネットへの同時送信を事業化を推し進める懸案事項は、
無知であった。
そして《現在、放送法で認められているネット送信は、放送後の番組のみ。》、
このことも恥ずかしながら無知であった。

今回、NHKの浜田健一郎経営委員長が、
《「視聴者が求めているのは間違いない。産業の流れに取り残されないようにすべきだ」
とNHK執行部側に対応を求める姿勢を見せた。》
と発言に対して、
《民放は「テレビ視聴のための受信料を財源として行うべきものでない」と反対している。》
ということも私は初めて学んだ。


私はインターネットに関しバソコンで情報を選択して受信したり、プログ、電子メールなど発信する専用機として、
テレビ番組は古き時代より頑(かたく)なにテレビで視聴するタイプである。
しかし、ここ数年は若い世代の人の一部に於いて、
テレビを所有せず、バソコンでテレビのニュース、ドラマ、スポーツ番組などを視聴している人もいる、
と知り、驚きながらも時代の流れだ、と私は受け止めている。

或いは私自身インターネットから情報を選択しいると、
ときおりNHK、民間放送の各社から、テレビで放送されたニュースなどを視聴すると、
世の中は確かに便利になったなぁ、と感じることもある。

民間放送が同時送信を反対している理由として、
もとよりNHKは基本収入の大半は受信料で運営され、各民放は公平な番組競争ができない、
主旨も理解できる。
しかしながら各民放は、電通、博報堂などの広告会社を通して、各企業から提供される資金で、
番組を制作、編成されて放送されている実態から、インターネットへの同時送信を反対している、
と私は想像する。

各民放はそれぞれ番組に於いて、視聴率の悩ましい難題があり、
このことは各企業から提供される資金の大小に大きく影響される。
ましてインターネットへの同時送信されれば、更に視聴率が不明確になり、
番組に提供して下さる各企業に説得力が低下する。

このようなことをテレビ業界の実態も疎(うと)い私は、思案したりした。

しかしながら時代は、好きな時に、好きな内容(今回はテレビ番組)、視聴する場所も問わない、
念願の時代の到来となっている。

このことは携帯電話の地上デジタル放送を視聴できるワンセグ機能の流行っていた2007年の頃には、
ワンセグ携帯1000万台、と普及してきたし、
ましてここ数年はスマートフォンの時代となってきている。

このような時代の大きく変貌した今日、テレビ番組のインターネットへの同時送信、
NHKの浜田健一郎経営委員長が、事業化の方針示したことは、私は賛意する。

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『あなたの基本性格』の占い、齢ばかり重ねた私でも、こっそりと挑戦して・・。

2012-09-28 15:23:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
先ほどパソコンを開き、トップページとして【YAHOO! JAPAN】を設定しているが、
ニュースを見ようかと思ったりしたが、たわむれに【占い】コーナーを見たりしていたが、
この中のひとつの見出しに、《 あなたの基本性格 》と明記されていた。

私は齢ばかり重ねた身であるが、
何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念を秘めたりしているので、
こっそりとクリックしてしまった。

http://charge.fortune.yahoo.co.jp/sion/g-david/input/gd0000.html
☆【YAHOO! JAPAN】<==【占い】
       <==【G.ダビデ研究所 オフェリア・麗 監修 『真実の占星術』】☆

このような画面が現れて、すごい絵柄の画面だ、と私は驚いてしまった。
そして気を取り直して、入力項目の『名前』、『生年月日』、『出生地&現在地』を入れたりした後、
指定された『真実を占う』クリックした。

そして次画面が現れて、
【 あなたの基本性格 】
《 天秤座は、誰よりも社交的な星座といえます。
  
  天秤座の人は、対人関係には人一倍の関心があり、仲間や異性との交際が人生の大きな価値を占めます。
  また、ファッションや芸術など、美への関心が強いのも特徴。
  流行にも敏感でかっこ悪いことを何よりも嫌うタイプです。
  オシャレなライフスタイルの代表選手といえるかもしれません。

  人生を拓くのも、不運を嘆いて過ごすのも、あなたの心ひとつ。
  自分の望むイメージをしっかり持って生きていきましょう。

                       オフェリア・麗  》

このように診断されて、しばらく私は微苦笑してしまった。

私は幼年期の頃から女性に憧憬し、小学生の時などは、
父の妹の叔母になついたりし、この叔母のお友達の女性が来宅すると、
まぶしく感じながら、ときめいたりしていた。

こうした悪い癖は、定年退職後の年金生活でも変わらず、
買い物、散策などで、ご近所の50代、60代の奥様、
ときには、うら若き40代の奥様と立ち話をして談笑することが多い。
齢を重ねても女性の言葉、しぐさに魅了されてしまうのである。

こうした中で、ある日に小雨が降りしきる駅前のバス停でバスを待っている時、
見知らぬ70代の女性に話しかけたりして、バスが到着するまで、談笑を重ねたりすることもある。

私は小学生の5年生までは、無口であり、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖、ときたま怒り出すので、伊豆七島のひとつの大島の活火山の由来だった。
この後、おしゃべりの男に変貌し、サラリーマンの長き時代も、
上司から一言(ひとこと)多いねぇ、と多弁な私を苦言されることもあった。

私は洋装に関しては、たとえばスーツはダーバン、ビジネス靴はリーガルを長らく愛用してきたが、
これ以上の高級なスーツ、靴は、収入面を配慮すれば、恥ずかしくて望むことはなかった・・。

定年後は、アウトドアーの登山専門店などで、
フィールドジャケット、スポーツシャツ、長ズボン、靴などを買い求めているが、
私が魅せられた品を選定してきた。

そして多少高価であっても、最初の頃は国内旅行、都心に出かける時、懇親会で、
その後は日常の買い物、散策に着たり、最後には庭の手入れの時などに身につける。
私は根がケチなせいか、良き品を長らく愛用するタイプでもある。

しかしながら美に関しては、つたない私でも譲れないことも多く感じるので、
独断と偏見で断定してしまい、悪友に公言したり、ときにはブログサイトで綴ったりしている。


このような齢を重ねても、可愛げのない男であり、
今回の占いの【あなたの基本性格】の診断結果に微苦笑している。
そして、ケガは治(なお)るが、癖は直らない、と古来の人から伝承されている名言に、
今更、性格は直らないよなぁ、と重ねたりして苦笑している。

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満68歳の誕生日を迎えた私は、この人生に乾杯、と恥ずかしながら心の中で呟(つぶや)き・・。

2012-09-27 14:20:19 | 定年後の思い
私は恥ずかしながら、本日満68歳の誕生日を迎え、
過ぎし2009〈平成21〉年に初めて高齢者の入門を許されて、
私の住む調布市から『介護保険証』が郵送され時は、私は驚きながらも高齢者なってしまったのか、
と微苦笑を重ねたりしてきた。
そして本日は、高齢者の4年生に進級したのか、と微苦笑したりした。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和45)年に大学を中退し、
アルバイト、或いは契約社員をしたりしながら、映画・文学青年の真似事をした。

ある年、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正をした。
コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、これを梃子(てこ)にした上、
ある知人のご尽力もあり、この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、
中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。

この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社転籍させられて、
本社に30年ばかり私なりに奮闘して務めた後、
音楽業界のリストラ旋風の中、私も出向を5年ばかり苦節の体験して、
定年退職となったのは2004(平成16)年の晩秋であった。

このように私は、大学を卒業して、大企業で邁進されたサラリーマンのエリートの方たち、
或いは官公庁で栄達された方たちとは、
遥かに遠い拙(つたな)い身なので、もとより年収も退職金も程ほどに少なく、
せめてその時代に流行(はや)った名曲と共に、時代を深く共有できたのが、
心の宝物のひとつかしら、と微苦笑している。


私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

我が家は年金生活なので、原則として厚生年金とわずかな企業年金の年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。


私たち夫婦は若き新婚の頃から幾たびか国内旅行をしてきたが、
年金生活を始めた翌年の2005〈平成17〉年の5月下旬に、
知床半島のウトロから出港してオホーツク海を北上して、半島の先端の知床岬で日の出を洋上から観る
早朝クルーズに惹かれて、3泊4日で道東をめぐる観光団体観光ツアーに参加した。

この後、3日目の昼下り、阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。

私たち夫婦は団体周遊旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。

この時も年配のご主人と湖畔の喫煙場で、私は話し合ったりした・・。

『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思いだされたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に言った。

『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。

私は改めて、このご主人から、60代は人生の黄金期と学んだのである。


このようなことを私は思い馳せながら、
私たち夫婦は、お互いに歯の治療ぐらいで、入院する程の大病にすることなく、
8年目の年金生活を過ごしている。

ときおり家内は、『働くなくても・・こうして生活を過ごせるのだから・・』
と微笑みながら、私に言ったりしている。


昨日、私は我が家の小庭を手入れをし、汗まみれ泥まみれで孤軍奮闘した。

我が家の敷地は変形で、家屋の関係により玄関庭と主庭に分離された上、
隣接にマンションなどが建っているので、冬の時節は一部が陽陰となったりしている。
そして無念ながら私の実力不足で、わずか100坪ばかりの敷地なので、
大きく伸長する欅(ケヤキ)、山桜(ヤマザクラ)などが植えられず、
何かと拙(つたな)い人生を過ごしてきた我が身に相応しい、と苦笑をしたりした。

そして樹木の下に這(は)いつくばったりして草むしりして、
何とか小奇麗になった小庭を眺めたりしていると、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり、こうした古ぼけた家でも維持管理するのは、
苦楽が伴なうので住めないだろう、と私は改めて感じたりした。

そして現在の古ぼけた一軒家の生活は、
あと10年ぐらい私たちは五体満足で生かしてもらいたい、と思ったりした。
この時は私は77歳となり、家内は70歳となる。

その後は身体も衰え、やむなくスーパー、病院、公園の利便性のあるマンションに転居し、
互いに思いやりを増して、どちらかが終末となり、残された人は『おひとりさま』の生活となる。

このようなことをぼんやりと思ったりしたが、
果たしていつの日か解らないが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

いずれにしても、体力は少し衰えて心は溌剌としたゴールデン・イヤーズと称せられる60代の今、
私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』
と家内は笑われたりする時もある。

或いは『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』と家内は苦笑されたりしているが、
私は長き37年の人生の苦楽を共にした良き叱咤激励と思いながら、
何よりも気楽に寝食を共にでき、談笑できる相手がいれば良いと思ったりしている。

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初秋の快晴の中、庭の手入れをすれば、私は汗まみれ泥まみれで孤軍奮戦し・・。

2012-09-26 15:52:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
朝の7時過ぎに、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
雲は三つぐらい浮かぶだけの青空を眺めたりし、ときおり微風を受けると秋めいた風の匂いに微笑んだりした。

朝方、天気情報は朝の6時は17度、昼下がりは26度前後、そして夕暮れの6時は23度前後で、
さわやかな快晴の日中を迎えます、と報じていたので、
B型のお調子者の私は、庭の樹木の枝葉も伸び、草も生い茂ってきているので、
初秋の情景にふさわしいように、庭の手入れをしょう、と思い立った。

玄関庭は過ぎし夏の間に彩(いろど)ってくれた紫紅色の花の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)が、
いじらしく10数輪咲いているが、残り花のように感じたりした。
そして塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花も残り花のように咲いていた。
この時節の玄関庭は、平年と同様に、群生させた可憐なピンク色した花が咲く秋海棠〈シュウカイドウ〉、
純白色の玉すだれ〈タマスダレ〉が咲いて、晩夏から初秋の時節を彩〈いろど〉ってくれる。

そして紫式部〈ムラサキシキブ〉は、それぞれの枝にたわわに薄紫色に色合いを染め始め、
花梨〈カリン〉の実は50ぐらいに成っているが、色合いは少し黄緑色で、
数週間過ぎれば淡い黄色に染められるのが、平年の習〈なら〉わしとなる。
あとは椿(ツバキ)、白梅(ハクバイ)、モミジなどの雑木の樹木となっている。

9時過ぎより、樹木の剪定を早々と済ませて、難問の草むしりをしたのであるが、
ドクダミの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥だらけになる。

陽射しの26度前後の中、孤軍奮闘していると、
やはり晩夏の余韻の暑さで汗まみれとなり、一時間ぐらい過ぎると、
玄関の軒下に簡易椅子を置いてに腰かけ、10分ばかり休憩する。

ときおり微風が吹き、身をゆだねると、秋めいた風は心地よく、微笑んだりした。
そして、冷茶を飲み、煙草を喫ったりし、
庭の草むしりの終えた場所を見つめたりし、残りはまだまだあり、
と実感させられながら、体力の衰えを感じている私は、今しなくてはいつするのよ、
と心の中で気合いを入れて、昼食抜きで奮戦することとした。

結果としては、12時過ぎに玄関庭は終了したが、
主庭の手入れを始めて、やはり夏に彩(いろど)ってくれたアメリカン芙容(フヨウ)の20数本を、
来年の4月にお逢いしのしょう、と愛惜を重ねながら切り倒したりした。
しかし幼い3年生までは、秋を迎えると葉は黄色く染られるので、
私はうつろう時節を共に過ごしたく、残したりした。

そして奮戦して草むしりをしたが、2時過ぎに体力の余力はなく、私は断念した。


庭のそれぞれの片隅にある金木犀〈キンモクセイ〉の樹は2本ばかりあるが、
10月の初旬になると、枝先の周辺にたわわな実が付け、
橙黄色の小花が咲くと、時節の到来を毎年教えられてきた。

私は微(かす)かな匂いが漂う金木犀(キンモクセイ)の芳香は好きであるが、
盛りを過ぎる頃、樹の周辺に橙黄色の小花が黒土の上に落ち、
彩〈いろど〉る情景に幼年期の頃から魅了されている。

このように思っている私は、主庭の中途半端な手入れとなってしまったので、
せめて次回は金木犀の咲く前に、手入れをしょう、と決意したりした。

そして私は若き40代のサラリーマン時代は、休日の時に炎天下の中でも、
7時間ぐらいは気力で、体力にまかせて庭の手入れをしたりしたが、
あの頃の自分の若さには適〈かな〉わない、と高齢者3年生の私は苦笑したりした。

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“マダガラ女子”って、どのような女性なの、と好奇心あふれる高齢者の私は検索して・・。

2012-09-25 13:49:58 | 時事【社会】
先ほど、たまたま読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
《“マダガラ女子”》と確かに見えていたので、
“マダガラ女子”って、どのような女性なの、と私は思ったりした。

私は高齢者の3年生であるが、何事も好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、
と信念のある身なので、このサイトを巡り、【ネット】のコーナーのニュースのひとつに掲載されていた、
http://www.yomiuri.co.jp/net/news/mobile/20120925-OYT8T00718.htm
☆【YOMIURI ONLINE】
       <==【ネット】<== 《 “マダガラ女子”のスマホデビュー、「iPhoneで」が1位 》☆

私は読み始めて、《まだガラケー(従来型携帯)を使っている女性を称して“マダガラ女子”》
と理解できたが、読んでいる中で、
世の中の時流に程ほどに身をゆだねて過ごしている麗(うるわ)しき女性は、
大変な時代を迎えている、と微苦笑させられたのである。

私は恥ずかしながら、携帯電話を覚えることなく、2004〈平成16〉年の秋に定年退職時を迎え、
サラリーマンを卒業してしまったので、もとよりスマートフォンも使えない私は、
この地球上に豪雨のように降りそぞぐ情報の洪水に、
どこまで進んだら人々は気が済むの、と昨今は微苦笑したりしているひとりである。

そして携帯電話、スマートフォンも使えない私は、インターネット情報に関しては、
せめてと思いながら、自宅のディスクトップ型で日々ネットで検索したり、
ブロクの投稿文を綴ったりしている。
しかしながら、銀河系のように果てしなく溢(あふ)れる情報の選択に、
ときには戸惑うこともあり、齢ばかり重ねた私は、パソコンからの情報で充分である、と思ったりしている。


ここ一年半前の頃から、駅前の広場などで、働いて下さる諸兄諸姉が、
前かがみで何かを見ながら歩くことが多くなってきた。

私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎のような方が増えた、
と私は苦笑したりした・・。

もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪(まき)を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。

私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
何かと話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、と解った。

この後日、私は久々に電車に乗ろうと改札口に入り、
地下にあるプラットフォームに通じるエレベータ乗った時、
隣にいる若き20代の女性が、このスマートフォンを忙しそうに画面を変えていた。

そしてエレベータの降り口から平坦となったプラットフォームを歩いていても、
スマートフォンの画面から目を離さないので、人の多い所で危ないなぁ、
と私は危惧したりした。
その後、やはりこの女性は40代ぐらいの男性にぶつかり、目礼しながら謝ったりしていた。

私は身体の衰えた高齢者、或いは構内のベンチとかに、ぶつかったり、
最悪の場合は電車が入線してきたら、と私の方がハラハラしてしまうのである。


麗(うるわ)しき女性の魅力のひとつとして、歩く時は颯爽と歩くのは何よりも素敵であるので、
せめて歩く時ぐらいはスマートフォンの画面から目を離して欲しい、
と私は秘かに念願している。

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中西輝政・著『迫りくる日中冷戦の時代』は、日中間の日本の国益を学ぶ確かな教科書【下】

2012-09-24 18:08:12 | 読書、小説・随筆
本書の中西輝政・著『迫りくる日中冷戦の時代』からは、私は多々教示された。

特に、第3章の『日本「奪取」をはかる中国の対日戦略』の中で、
『日本の世論をいかに操作したか』である。

《・・(略)・・
1960年代の「日中記者交換協定」へとつながっていく。
この協定は1964年に結ばれ、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞、
西日本新聞、共同通信、NHK、TBSの9つの日本の報道機関が、
北京に記者を常駐させることとなった(産経だけは、のちに中国から追い出される)。

ところが、日本のマスコミには中国側から「政治三原則」が押し付けられて、
各社はそれを吞んでの常駐だった。

1、中国を敵視してはならない。
2、「二つの中国」(中国と台湾のこと)をつくる陰謀に加担しない。
3、中日両国関係が正常化の方向に発展するのを促す。

古森義久氏(産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。国際問題評論家。)によると、
この三原則は、いまでも明らかに残っているという。

しかし、民主主義の国のジャーナリズムであれば、
この三原則を守り続けることは、明らかに外国に奉仕することで、
「売国奴」呼ばわりされてもおかしくないことである。
(略)
さらに1968年3月には、中国にとってはあらゆる種類の不利益な報道は原則禁止と通達された。
これではもう報道にならない。
しかし、朝日の特派員だけは北京に居続けた。
これは戦前に日本の軍部に迎合した以上にの、新聞社としての汚点であろう。
しかし、朝日をはじめ、どのメディアもいまだに十分な自己検証を行っていない。

1971年、中国が突如、尖閣諸島の領有を主張しだす。
時はあたかも、『朝日新聞』で本多勝一記者による、
あの「南京大虐殺」を日本に逆輸入した『中国の旅』の連載が始まり、
大人気になっていた時期である。
なぜあれほど日本人は愚かだったのだろう。

その年の12月、日本政府は尖閣付近の海底資源の調査を日本企業にいったん許可しておきながら、
再び禁止した。
翌年の1972年には田中角栄内閣が誕生、日中国交正常化が実現する。
そして1978年には福田赳夫内閣によって日中平和友好条約が結ばれ、
続いて1979年、大平正芳内閣が莫大な対中ODAの供与を始める。
(略)・・》
注)引用元・ページ118~120
  原文にあえて改行を多くした。

このようなことは、間接的に小説家・曽野綾子氏の随筆に於いて、
正視して中国のことを綴れば、何かしら寄稿文はボツになる、
このような意味合いを読んだりしてきたが、遅ればせながらこの『三原則』の実質を学んだりした。

この後の『文化人が対日工作に”貢献”』の章も具体的に明記し、
私が予想した以上に著名な作家、画家、音楽家などが、
「日中友好の使者」として利用されてきた実態が明記されている。


本書は、日中間の政治、外交、軍事はもとより、経済までの多岐に及び明示され、
発生した原因、経過、現状、そして今後予測される事柄を明記されているので、
日中間で、これまでの実態を学び、日本人としての国益を学びたい人の確かな教科書である、と読了後、深めている。

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中西輝政・著『迫りくる日中冷戦の時代』は、日中間の日本の国益を学ぶ確かな教科書【上】

2012-09-24 16:53:42 | 読書、小説・随筆
国際政治学者の中西輝政(なかにし・てるまさ)氏が『迫りくる日中冷戦の時代 』(PHP新書)が、
過日発刊されて、副題は『日本は大義の旗を掲げよ』と題して、
《 日本は中国にいかに対峙してきたか? 
  今後どのように付き合うべきか?
  歴史的考察を踏まえた国際政治学者からの提言。 》
と概要テーマが掲げられている。

そして出版社からの解説文とはて、
《 いま、アジアを舞台に新たな冷戦が始まろうとしている。
  冷戦の次の主役は中国だ。
  アメリカが世界唯一の超大国だった時代は終わりを告げたのである。

  急速な経済成長を遂げ、アジア太平洋への露骨な膨張政策をとる中国をいかに封じ込めるか? 
  2012年7月に露首相が国後島へ再上陸し、八月に韓国大統領が竹島に不法上陸、同月香港の活動家は尖閣諸島に強行上陸した――
  これら一連の出来事の背後にある大きな構図に目を向けよ。

  アメリカはすでに新国防戦略で対中封じ込め政策へと軸足を移している。
  日本が対中戦略でもつ最も有効な武器は何か? 
  「人権・民主化」という大義の旗を明確に掲げることである。
  日米同盟の再活性化に全力で取り組む以外に、もはや日本の選択肢はないだろう。
  大中華圏なるものは、たとえ二十二世紀になっても現出しないのだ――。 》

私は政治・経済も専門知識もなく素人の疎(うと)い身ながら、昨今の日中の国難に憂い、
読売新聞を読んだり、NHKのテレビのニュースを視聴したりしてきた・・。

そして拙(つたな)い私さえ、困惑を重ねてきた。

私はやむなく二年前の2010年9月25日に、このサイト上で、
【 やがて中国はアジアの宗主国と君臨し、日本は属国となり・・。】
と題して投稿して、ささやかな日中の難題に投稿してきたので、
今回、あえて再掲載する。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
日本の文化を限りなく愛し、読書をしたり、散策をしたりし、季節のうつろいに心を寄せたりしている。
そして、ときには家内との共通趣味の国内旅行をし、
その地の風土、お住まいの人たちと談笑を重ねたり、美景な情景を享受している。

こうした私でも、日本の政治の混迷、経済の低迷、社会の劣化などを憂い、
無力ながらNHKのニュースを視聴したり、新聞、雑誌を読んだりしている。

このように拙(つたな)い身であるが、過ぎし一昨年の2008年の夏、
中国の首都で、『北京五輪』が開催された時、開会式の実況中継をNHKで視聴し、
心の片隅で戦慄を感じたりした・・。

祭典の初めに紙、墨字による文字と絵、印刷、航海などの絵巻物のような美麗なシーンを観て、
かって中国の明の時代に思いを馳せたのである・・。

この当時の明王朝は、ヨーロッパの主要国より、あらゆる面に遥かに凌駕していた。
紙はもとより、印刷に寄る大量の書物があり、数多くの図書館が存在していた。

そして明王朝の最盛期には、軍事力を背景とした経済力で、
周辺各国の異民族の宗教、文化、習慣を束ね、圧倒的な海軍によりアフリカの沖まで航路し、制覇した。
その結果、海上貿易で巨額な収益をもたらし、繁栄をした。

この頃は、世界の主要国の中で、圧倒的な軍事・外交・経済の超大国として、
明王朝は存在していたのである。

やがて清の時代になと、イギリスからアヘン戦争を仕掛けられ、
その後は世界の列国から侵略などによる剥奪され、
中国の長い歴史上からしても屈辱の長い期間となった。


今日の中国は、外交・軍事・経済の背景とした政治が行われ、
超大国への道を国家の理念とし、確実に躍進させ、
今回のスポーツの祭典のひとつ『五輪』としても、大国の威信をかけて、実現させた。

そして世界各国の首脳陣を招き、
鳥の巣と称される9万人が収容される国家体育場で、
国家主席が高らかに開催宣言を発せられると、会場に居る中国の民衆の熱気はもとより、
13億人の民の熱気を私は感じられながら、戦慄を感じたりした。

果たして、五輪後はどのように中国は躍進しながら変貌するのかしら、
そして東アジアの宗主国となるか、やがて中国はアジアの宗主国と君臨となるのか。

或いは異民族問題が多発したり、沿岸都市部と内陸農村部での格差問題などで、共産独裁国は崩壊するか。

このような思いで、政治はもとより軍事、外交などに疎(うと)い身ながら、
ときおり注視したりしてきた。


先ほど、総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていたら、
『シリコンバレーで考える 安藤茂彌』の連載記事で、
『第36回 海底に国旗を立てて領有権を主張する中国に日本はこんなに無防備でいいのか』
と題された記事を何気なしに読んだのがあるが、私なりに多々教示された。

無断であるが転載させて頂く。

《・・
   【シリコンバレーで考える】 安藤茂彌 [トランス・パシフィック・ベンチャーズ社CEO、鹿児島大学客員教授
 
     『第36回 海底に国旗を立てて領有権を主張する中国に日本はこんなに無防備でいいのか』2010年9月22日

最近中国は、近隣諸国と領有権紛争が起きている東シナ海において、
乗員3人を乗せた深海潜水調査艇を海底まで沈め、中国の国旗を海底に植え込んだ。
日本の「しんかい」にそっくりな深海潜水艇である。
中国のテレビ局はその様子を撮影したビデオを国家的快挙として大々的に報道した。

ニューヨーク・タイムズが中国日報の報道をスクープし、
同紙の一面に掲載してアメリカでも話題になった。
この事件は多くのアメリカ国民に2007年にロシアが取った行動を想起させた。

ロシアは北極点の海底にロシア国旗を立てて領有権を主張したのである。
だが日本のメディアは、尖閣諸島で同じことが起きる可能性が強いにもかかわらず、
中国のこの事件を一切報道しなかった。

中国はなぜこんなことをするのか。
海底に眠る豊富な地下資源を支配下に置くためである。

一例をあげよう。
電気自動車の電池材料として注目されている希少金属リチウムは、中国国内に豊富に埋蔵されている。
従来はその多くを他国に輸出していたが、
戦略物資と分かるや否や他国への輸出を制限し始めた。
最近日本政府が中国政府に輸出制限の解除を交渉したが、全く応じる様子はなかった。

今回の行動はその「海底版」である。
海底に眠る希少金属をできるだけ多く支配下に置くことで、
地下資源を独占し、輸出制限を通じて他国の生産能力を奪い、自国経済を更に拡大することを目論んでいる。
アメリカ政府はこうした中国の戦略を既に察知し、
希少金属に頼らない代替材料の開発を促す政策を採っている。

今回の国旗植え込み事件は、
現在領有権で争いになっているベトナム沖の海底であると推測される。
中国はベトナム沖の西沙諸島を自国の領土であると主張し、
領海を侵犯したとしてベトナム漁船を数多く拿捕している。

中国はベトナムと個別の交渉に応じることはあっても、
多国間の交渉には応じられないとしている。
ベトナムは個別の交渉であれば、
中国の軍事力と威嚇でねじ伏せられることを恐れているのである。

中国の暴挙に堪りかねたベトナムは、米国とASEAN諸国を抱き込み、
ASEAN会議の議題にして集団で中国に立ち向かう外交を展開している。

中国の領土主張の被害国は、ベトナムに止まらない。
シンガポール、マレーシア、インドネシアとの間でも同様な紛争を起こしているからだ。

去る7月に米国のクリントン国務長官はアセアン会議で
「ASEAN諸国のこの海域での航行の自由を守ることが重要だ」
と発言し、中国代表との間で厳しい論戦を展開した。
ASEAN諸国が狙うのは、米国と連携した「中国包囲網」作りである。

中国の挑発行為は、日本に対しても行われている。
今年4月には中国海軍の艦艇10隻が沖縄本島と宮古島の間の公海を南下し、
中国のヘリが監視中の自衛隊の護衛艦に、異常接近する事態が発生している。

今月に入ってからも尖閣諸島で、海上保安庁の巡視船と中国の漁船が衝突する事件が起きている。

すでに新聞等で報道されている通り、中国は猛烈なスピードで軍事力を増強している。
軍事予算は過去20年間に18倍に膨れ上がり、今では米国に次ぐ第2位の軍事大国になっている。
2009年での軍事予算は米国の6610億ドルに対して、中国は1000億ドルとまだまだ開きがある。
だが、米国が近年軍事予算を削減しているに対し、中国は毎年予算を大幅に増やしており、
その差は縮まりつつある。
因みに、日本は510億ドルで第6位である。

日本と在日米軍の軍事力は、中国、北朝鮮、極東ロシアの兵力と比較すると明らかに見劣りする。
日米の戦力を合わせても桁が一桁少ない。

中国のこうした軍備増強は、1982年に策定された「海軍海洋計画」と呼ばれる国家計画に基づいている。
それによると、2000-2010年に沖縄、台湾、フィリピンを結ぶ「第1列島線」内の制海権を確保し、
2010-2020年には「小笠原諸島、グアム、インドネシアを結ぶ「第2列島線」内の制海権を確保して航空母艦の建造を行う。
そして2020-2040年には
「米海軍による太平洋、インド洋の支配を阻止する」最終ゴールを達成する計画となっている。

中国は今年中に原子力航空母艦の建設にも着手することを明らかにしたが、
これも「海軍海洋計画」に沿って実施されるものである。
数年後にこれが完成すれば極東の米軍兵力にかなり接近した兵力になると考えられる。
日本近海に中国の航空母艦が出没するのも時間の問題になっている。

戦力の比較は、単なる装備の数値比較では計れない状況が起きている。
サイバー戦力が重要になっている。
これは地球を旋回する人工衛星によって、敵の動きを把握しコントロールする能力を指す。
カーナビや携帯に位置情報を送るGPS(全地球測位システム)衛星もそのひとつで、
衛星の大半は米国が押さえている。
米国がその気になれば意図的にGPSを遮断することができるのである。

現在、中国上空を通過するGPS衛星の95%は米国が所有している。
中国は2020年までに世界のGPS衛星の1/3以上を中国版にして、
中国上空から米国の衛星を追い出す計画である。

こうすれば自国の通信網を守れる、米国に覗かれないで自由に軍事行動を取れる。

もうひとつのサイバー戦力は、ウイルスによる敵のコンピュータ網への攻撃である。
米国の軍事機密情報を盗み出すために、
国防総省のコンピュータシステムにサイバー攻撃が仕掛けられたというニュースはよく聞く。
米国内ではこうした攻撃を組織的に行っているのは、中国であると見ている。


では米国は、中国の軍事力増強をどう見ているのだろうか。
米国国防総省は8月16日に「中国の軍事力に関する年次報告書」を発表した。
中国軍が「国産空母の建設に着手し、南シナ海などで広範囲に行動を拡大しているうえに、
外交上の利益を得るために、軍事力を活用する度合いが増えつつある」と指摘している。

米国の軍関係者は、中国は口先では
「古い兵器の改良である」「中国は覇権主義をめざさない」と言っているが、
実際の行動を見るとまったく違う、と指摘する。
その上、軍事交流も拒否している。
中国国防省は今年1月の米国の台湾への武器売却の決定に反発して、
米軍との交流停止を発表した。
その後ゲーツ国防長官が訪中を申し込んだが断られた。
中国側と軍事面での意思疎通は途絶えたままである。


では米国は、日本をどう見ているのだろうか。
こういう微妙な時期に日本政府の行動は不可解であると見ている。
鳩山首相はアジア共同体構想なるものを持ち出して米国から離れようとした。
これがアメリカ政府の不信をかき立てた。
米国大統領は、鳩山首相を相手にしなかったし、面談も拒否し続けた。

鳩山政権から菅政権に変わった。
鳩山氏より数段マシであるし、小沢氏より良い選択であると認識しているようだ。

小沢氏のように対等な日米関係を表立って口にしないし、国連主義も主張しない。
だが、菅氏の国防戦略の具体的なものは何も聞こえてこない。
まずは普天間問題をどう解決するのか見てから菅首相の評価を決めたいというのが本音ではないだろうか。

米国側は日米防衛協議の場で、
日本側にRole and Mission(役割と使命)を求めてくるようになったという。
これは「自国の領土を自分で守る覚悟を示せ」と日本側に求めていることだという。

米国にしてみれば、中国の脅威が高まる中で、
前首相は現状認識を誤り、あらぬ方角に走り出すし、普天間の移設問題もいまだに解決できていない。

米国政府にしてみれば今こそ日米同盟を強化して、
共同して中国の脅威に立ち向かうべきと考えているのに、
日本政府の方向性の定まらない動きに苛立ちを感じている。

一方で、米国内ではG2(Great2)という考え方が台頭しつつある。
Great2とは超大国である米国と中国の二カ国を指す。
日本を同盟国と当てにしていては極東戦略が何も進展しないので、
重要事項は日本には関係なくGreat2で決めればよい、とする考え方である。
この考え方は日本をバイパスするジャパン・パッシングである。


中国の脅威は軍事面、領土面のみならず資金面でも感じられるようになっている。
バングラデシュ、スリランカ、パキスタン、ミャンマーといった国々に対して、
中国は港湾建設、道路建設、通信網建設といったインフラ・プロジェクトに多額の海外援助を行っている。
もちろん、そうしたプロジェクトでは中国の業者が特注して工事を請け負うことになるが。

こうした海外援助も見方を変えれば、軍事的な意図を含んでいる。
こうした地域に張り巡らせた港湾や道路や通信網を中国側が制御すれば、中国軍の軍事行動がとり易くなる。
またその国と経済摩擦や利害衝突が起きた場合には、中国が軍事力を背景に交渉を有利に進められる。
いままで中国のこうした投資を歓迎してきた諸国も、最近では警戒心を強めるようになってきた。


日本では、中国の資金面での脅威はどこにあるのだろうか。
最近の顕著な動きは、中国が膨大な対米黒字から得たドル資金を米国国債の購入ではなく、
日本国債を買うようになったのである。
確かに米国財務省の資料を見ると、中国はこの半年間に米国国債の保有高を1割ほど減らしている。

日本国債の93%は日本の金融機関が保有しているが、
残る7%の中で中国政府が最大の債権者になった模様である。
日本政府は中国政府の購入を歓迎しているようであるが、国債管理はより難しくなったと見るべきだろう。

中国がもし日本国債を大量に売却すれば、
金利は高騰し、日本の財政収支は一気に悪化する。
中国側がこの手段を意図的に使うと大きな攪乱要因になる。

中国政府の動かせるドル資金の規模が極めて大きいだけに、
為替市場への影響も無視できない。
最近の80円台なかばへの円高は、中国による国債の大量購入がひとつの原因と考えられる。
このことは何を意味するのか。
中国政府は日本国債の大量購入により円高を作り出し、
日本の輸出にブレーキをかけることができるようになったということである。


中国は今後、軍事面、領土面、資金面で、
日本を含むアジア諸国に更に強い影響力を及ぼすであろう。
中国が日本にとって最大の貿易国であるにもかかわらず、軍事面、領土面での中国は違う顔を覗かせる。

アメリカにとっても今や最大の貿易相手国は中国である。
だが、アメリカ政府は、中国に対して経済面の親密さと、軍事面の脅威とを峻別して考えている。

日本ではこの峻別ができていない。
中国を情緒的に捉えている。
今回の民主党の代表選挙でも、国防が全く論点にならなかったのは、
こうしたところに原因があるのではないだろうか。

日本国民が、国防の観点から大きな決断をしなければならない時は、刻々と近づいてきている。
米国と同盟強化を図るのか?
それとも、曖昧なままズルズルと中国の強硬な外交圧力に屈していくのか?
日本人はこの数10年、明確な国家戦略を持ったことがない。

だが、もしこの決断ができなければ、
日本は「自国を取り囲む現状の認識が甘い上に、自国の運命を自分で決められない国民である」
というレッテルを諸外国から貼られても仕方がない。
それでも本当に良いのだろうか。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は今年の5月の時、読売新聞に【意見広告】として、
市民意見広告運動事務局という団体が広告を出され、
《 基地はいらない
      核の傘もいらない
           人間らしく生きたい・・》
日本国憲法の第9条、第25条も掲載されており、
私は読みながら、どうしてこうした平和ボケの多い人たちがいるのかしら、と苦笑したのである。


私は若き日には映画・文学青年の真似事をした後、あるレコード会社に35年ばかり勤めて定年退職となり、
こよなく文化を愛するひとりであるので、政治・外交・軍事・経済などは恥ずかしながら疎(うと)い身である。

しかし、国際主要国はもとより怜悧な国益に基づいて、
外交、軍事、経済力などを背景とした政治が行われている現状ぐらいは少し判っているつもりである。

かの世界第二次大戦の敗戦後、何とか日本が戦争に巻き込まれなかったのは、
『第9条』とは関係がなく、長らくアメリカとソ連との巨大国に寄る冷戦であり、
互いの核の強化で均衡のような形で続き、お互いに恐怖を抱き、牽制しあったからである。
そして日本はアメリカの軍事力に守られ、隣国の大国である中国、ソ連に脅かさせられることもなく、
幸運にも経済だけに専念できて、経済大国となってきたのが怜悧な実情と思ったりしている。


ここ10年、中国の大躍進を私なりに思考すると、かって中国の明の時代に思いを馳せたりする・・。

1400年代の明の永楽帝の時代に於いては、盛んに勢力を広げ、
隣国の元朝の余党を遠征により制圧したり、満洲では女真族を服属させ、
南方ではベトナムを陳朝の内乱に乗じて征服した。

そして海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、
一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。

この頃の明王朝は、ヨーロッパの諸国より遥かに凌駕し、
世界の諸国の中で、圧倒的な軍事・外交・経済の超大国として、
そして陸路はもとより、海上貿易で巨額な収益をもたらしていたのである。

やがて清の時代になると、イギリスからアヘン戦争を仕掛けられ、
その後は世界の列国から侵略などによる剥奪され、中国の長い歴史上からしても屈辱の長い期間となった。

今日の中国は、軍事・経済の超大国への道を国家の理念と思われ、
日本が幼児のように指をくわえていれば、太平洋さえもアメリカと分け合いながら躍進すると思われる。

私は平和は何よりも大切と思っているが、
この前提としては自国を守れる防衛能力が必要なのである。
単なる念仏のように『戦争は嫌いだ・・平和こそが・・』と唱えても、過去の歴史が証明するように、
隣国から侵されれば、お終いとなる。
そして、憲法など戦勝国に簡単に変えられる。

このように私は軍事力は必要悪と思い、『平和を維持するために、防衛能力が・・』と、
確固たる自国を守れる軍事力が必要と確信している。

この上、何よりも軍事力も険悪し、平和こそがと唱える人たちは、隣国の大国を限りなく喜ばせ、
中国を宗主国としてあがめ、属国人として生き延びるのかしら、と妄想をする。
或いは江戸時代のように一部だけ海外と交易し、あとは国内だけで清き貧しく共に生活を送るのかしら、
と思ったりしてしまうのである。

現世の国際の主要国はもとより怜悧な国益に基づき、
他国と競合したり、やむえず協調する時代であり、
アメリカの少年・少女たちにも判ることなのに、日本の一部に平和ボケの人がいるのに唖然としている。

このように私は日頃思ってきたので、
今回の安藤茂彌氏の寄稿文の『シリコンバレーで考える』の連載記事で、
『第36回 海底に国旗を立てて領有権を主張する中国に日本はこんなに無防備でいいのか』
精読したのである。

私はこのままの日本の政治の混迷を続けれならば、
中国はしたたかな国家戦略に基づいて、数年のうちに沖縄、台湾、フィリピンを結ぶ「第1列島線」内の制海権を確保し、
アメリカが少しでも弱体化すれば、あと10年ぐらいで、
「小笠原諸島、グアム、インドネシアを結ぶ「第2列島線」内の制海権を確保し、
太平洋をアメリカと分かち合い、
中国は東アジアの宗主国と君臨し、日本は属国のように低下する。

この後、中国は更に躍進し、アジアの宗主国と君臨し、もとより日本は属国なる、
と妄想を重ねたりしている。
・・】

このような思いを無力の拙(つたな)い私は、国民のひとりとして二年前の頃から思案したりしてきた・・。
                                 
                                 《つづく》
                                                             
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『シルバー川柳』、遅ればせながら初めて知り、高齢者の私は読んでみたい本のひとつとなり・・。

2012-09-23 11:34:01 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
一昨日の朝、購読している読売新聞を読んでいたら、一面の最下段にある各出版会社の広告が掲載されていて、
この中のひとつに思わず読んでしまった。
《 シルバー川柳
   社団法人全国有料老人ホーム協会、ポプラ社編集部編 》
と題されて、3句が掲載されていた。

この中の《 誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ 》に微苦笑させられ、
《 恋かなと 思っていたら 不整脈 》この句に瞬時に圧倒的に魅せられて、
私は読んでみたく購入しょう、と決意したりした。

昨日、家内と駅の近く寺院のお墓参りをした後、
駅ビルの中の本屋を訪れて、この『シルバー川柳』(ポプラ社・編集)を探したが、
残念ながら店内在庫はなく落胆した後、やむなく店員さんに取り寄せ依頼をしたりした。


私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』など人さまが詠めれた句を、
ときおり読むのが好きである。

短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。

俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。

そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。


私は民間会社を35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身であるが、
現役のサラリーマン時代の50代の頃から、
『サラ川』と称せられている第一生命が主催されている『サラリーマン川柳』を愛読してきた。

この間、幾たびかリストラ烈風の中、最後の5年は出向となったりし、
中小業の音楽業界のあるレコード会社に勤めていたので、
それなりに時代にも翻弄され波乱万丈があり、苦楽の激しいサラリーマンの時代でもあった。

このようなつたない私の半生であり、
何かと『サラリーマン川柳』が好きで、読みながら励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、
『サラ川 傑作選』の本を4冊を所有している。

そして私は『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつと思い、
限りなく人生の哀歓と確信し、ときには本を開いたりしている。

或いは定年退職時の一年前頃に、『遺言川柳』(編集・UFJ信託銀行、発行・幻冬舎)を購読し、
人それぞれ晩生期の思いに、多々教示されながら微苦笑したりしていた。


このような思いを秘めている私は、今回遅ればせながら、
社団法人全国有料老人ホーム協会が、毎年『敬老の日』に向け公募していることを知り、
今年で第12回を迎えられた、と学んだりした。

こうした数多くの公募作品の中から、傑作川柳の88本の句が、今回の本として上梓されたと知り、
確かにシルバーの諸兄諸姉は、確かに身体は衰えても心は元気溌剌と思い、
私も高齢者の身であるので、ぜひ読んで見たくなったのである。

尚、余談ながらここ数年、『ツイッター』が世界の多くに愛用されているが、
何かしら『つぶやく』ことの多い伝波の最新機器と私は思ったりしている。
私は無念ながら使うことが出来ない身であるが、
日本に於いては、これこそが日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と確信を深めているひとりである。

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『秋分の日』、祖先を敬い亡くなった人々を偲び、私たち夫婦はお墓参りを重ねてきて・・。

2012-09-22 15:32:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
まもなく68歳を迎え、高齢4年生に進級するが、
今朝、どんよりとした雨上がりの曇り空を迎え、少し肌寒いじゃないの、と感じる程、
昨日までの残暑の厳しい名残りの気温から、急激に低下した19度に私は戸惑ったりしたのは、
朝の7時過ぎであった。

やはり寒さ暑さは彼岸まで、と古人から伝えられている通り、
おだやかな『秋分の日』の朝を迎え、暑さに何かと苦手な私は微笑んだりした。

『秋分の日』は、『祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日』と称せられ、
私たち夫婦も、毎年この日は私の実家の長兄宅に行き、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、辞してお墓参りに行く。

その後は、お寺の境内、墓地は、『春分の日』と同様に、にぎわう日でもある。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
生を受け、まぎれなく両親、祖父母、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、『春分の日』、『お盆の日』、この日の『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをし、
私の母が亡くなって14年目となるが、これ以来毎年の習わしとなっている。


このような心情を私は重ねてきたが、
今朝いつものように朝の9時半過ぎに、私たち夫婦は私の実家の長兄宅に行くと、
親戚の叔父さんが来宅されていて、和室の居間で挨拶を交わしたりした。
そして長兄が叔父さんは膝がしらの負担を配慮して、
応接間の洋間に移動して、長兄夫婦と叔父さんをまじえて私たち夫婦の4人で、談笑したりした。

叔父さんは私より10年齢上の方で、この地域で住んでいる代々農家のひとりであったが、
田畑を耕し労苦を重ね、やがて植木業をしながら賃貸マンションなどを経営して生計している人であり、
この地域の旧家によくある型でもある。

こうした叔父さんであるので、私は地元の情景の変貌などを、
敗戦後の1945〈昭和20〉年から、私が地元の小学校を卒業した1957〈昭和32〉年頃まで、
話題にしたのであった。

私の育った地域は、田畑、竹林、雑木林など圧倒的に緑の豊かな地帯であったが、
都心のベットタウンとして、私の小学生の高学年に急速に住宅街に変貌していたので、
私の幼年期のおぼろげな記憶をたどりながら、
叔父さんの確かな視線と思情を頼りに、話題の中核とした。

一時間半ばかり談笑を重ねた後、叔父さんも帰宅されたので、
まもなく私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩数分にあるお寺に、向った。


寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり広い方であるが、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦は隣接しているお墓に向った。

お墓は少し清めた後、墓石を水で清め、
途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を4束のお花が奉(ささげ)、お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。

お線香の紫煙が淡き陽射しの中を立ち昇る中、
祖先はもとより、亡くなった祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。


こうした思いを重ねた後、母のおもかげがよぎっていった。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その一年半も過ぎない時に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

そして私が54歳の時に母は亡くなわれたが
ときたま今でも生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる・・。

そして淡き陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。


この後、私は70代の後半と見られるご高齢のご夫妻を見かけ、
お互いに労〈いたわ〉りながら、お墓にお花を捧げている情景を見たりした。
そして私は、私たち夫婦もこのように人生を過ごすことができれば、と深く感じさせられ、
墓地の小道をすれ違う時、私は黙礼をしたりした。

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昨今、街中を私は扇子を手にして歩けば、若き諸兄諸姉はスマートフォンを手にし・・。

2012-09-21 15:36:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
定年後の年金生活から自主的に日常の買い物を担当となっているので、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりしてきたが、
根がケチなせいか路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしてきた。
その後は、自宅から数キロ以内を歩き廻ったりしていることが多かった・・。

過ぎし初夏の頃から、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、
夏の帽子を深めに被り、サングラスをして、ときには扇子を取りだして煽(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちるのである・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭(ぬぐ)いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いてきたのが本心であった。
そして暑さに負けそうと思った時は、冬の寒さの情景を思い浮かべて、歩いたりしてきた。

このように残暑の厳しい一週間前、たまたま駅前に買い物に出かけ、
路線バスも通る道路の歩道を歩き、駅前の商店街を目指して坂道を上(のぼ)り切ると、
汗ばみ、私は扇子を取りだして煽(あお)いだりして歩いた。

やがて商店街の近くになると、隣接した都立高校の生徒、音楽専門学校の桐朋学園の生徒も多く観られる中、
私のような高齢者の男女、40代前後の奥様と見られる女性が多い中の商店街を通り抜けたりした。

そして駅前の本屋に立ち寄った後、駅前の広場に出ると、
働いて下さる若き諸兄諸姉の姿も多く、殆どの方はスマートフォンを手にしていた・・。
こうした群衆の中でも、高校生らしい方も立ち止まり、両手で何か検索しているらしく、
スマートフォンと戯(たわむ)れている、と私は知りながら、苦笑したりした。

私は恥ずかしながら、携帯電話を覚えることなく、2004〈平成16〉年の秋に定年退職時を迎え、
サラリーマンを卒業してしまったので、もとよりスマートフォンも使えない私は、
この地球上に豪雨のように降りそぞぐ情報の洪水に、
どこまで進んだら人々は気が済むの、と昨今は微苦笑したりしているひとりである。

そして携帯電話、スマートフォンも使えない私は、インターネット情報に関しては、
せめてと思いながら、自宅のディスクトップ型で日々ネットで検索したり、
ブロクの投稿文を綴ったりしている。
しかしながら、銀河系のように果てしなく溢(あふ)れる情報の選択に、
ときには戸惑うこともあり、齢ばかり重ねた私は、パソコンからの情報で充分である、と思ったりしている。

若き高校生たちの生徒が、携帯電話かスマートフォンで、
ゲームか漫画になどに戯(たわむ)れている時間があったならば、
本の一冊でも読んだ方が、自身の自己形成に遥かに深めることが出来るのになぁ、
と苦笑したりしている。

私は音楽を聴きたい時は、自宅の音楽棚からCDアルバム1000枚ぐらいから選定し、
ラジカセCDで聴いたりし、
外出先で聴きたい場合は、1990〈平成2〉年の頃から、CD携帯プレーヤーのウォークマンを愛用し、
今でも散策の時など、CDアルバムを数枚を簡易バックに入れて、CDプレイーヤーで聴いている。、
しかし、世の中の音楽の愛好者はデジタル携帯プレーヤーに寄る250曲以上も収録できると聞いたりすると、
私なりに眩暈(めまい)を感じている。

その上、ここ10年は音楽配信が急増し、携帯電話、そしてスマートフォンからも聴く方が圧倒的に多く、
私はため息を重ねたりしている。

もとよりCDアルバムは、アーティストが渾身して曲を創作され、
一曲の曲が生まれ、曲の編成順にこだわり、色々な思いも加味され、
音源制作会社、レコード会社などの思惑の上、完成され発売となる。
そしてアーティストにとっては、その時代に創作活動の発表となるので、
ある面に於いて、自己存在を掛けたアルバム作品となる。

このような心情が私なりにあるので、一枚、一枚のアルバムを深い思いで聴いている。
今度のアルバムの中の曲は・・ 何故、この曲は三曲目に・・
とそのアーティストの心を思い馳せながら聴いているのであるる。

或いはデジタルカメラに関しては、私は定年退職の記念として、
購入したのを旅行などで、日本の四季折々の情景を撮ったりしている。

定年退職する数か月前、デジカメは液晶画面を見て撮るコンパクトカメラが流行していたが、
やはり私は一眼レフのようにファインダーを見て構図を決定するのに、こだわっていた。

しかしながら、一眼レフだと後で凝ると際限がなくなるので、
この当時としては高質とされていた800画素でズームレンズのある程度の商品で、
キャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定した。

結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
雑誌の『サライ』でも賞賛されていたコニカミノルタの《DIMAGE A2》にした。

ズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
通常、周遊観光に於いて、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフのレンズ交換を考慮すると、
確かに私のデジカメは構図が素早く決められ、機動力があるので愛用している。

このように単細胞の私は、電話は自宅の『ひかりのプッシュホーン電話機』、
テレビは薄型50インチの高画質、高音質で視聴し、
音楽はラジカセCDかCD携帯プレーヤー聴いたり、写真はデジタルカメラで撮ったりしている。
今や稀な国民のひとりとなっている古きひとりてある。


余談であるが、本日の午前中に最寄りのスーパーに買い物に行った時、
スーパーの前の広い3メートルぐらいの歩道で、立ち尽くして、
ツーピースを召した60代の女性が、両手に手にしたスマートフォンらしいと思われる物を、
小首を傾げながら、触れていた・・。

私は瞬時に好感できる顔立ち、容姿であったので、10数秒見惚(みと)れてしまったが、
その後は微苦笑させられたのである。
そして昨今、女優の大竹しのぶさんが、シニア向けの「らくらくスマートフォン」の宣伝を、
たまたま私はテレビで視聴したが、
これからシニア層もスマートフォンを愛用する時代になるのかしら、と苦笑したりした。


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とりとめなく初秋の匂いを求めて、東京の郊外に住む私は過ごして・・。

2012-09-20 13:57:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし17日の『敬老の日』、一昨日の18日も午前のひとときに雨が降った後は、
晴れ間となったりして、どうしてなの、と天上の気候の神々の采配に私は戸惑ったりしてきた。

そして昨日の19日は『彼岸入り』となったが、早朝がら激しく雨が降ったり、ときおり止んだりした
午前中となったりした。
やむなく私は、一雨(ひとあめ)ごとに初秋に向っているのね、
と何よりも暑さに苦手な私は微苦笑したりした。

今朝、早朝に目覚めて、庭のテラスに下り立ち、
樹木、草花を眺めたりし、地面は黒土となり、しっとりとして、
空は曇り空であったが、微風を心身受け止めると心地よいのである・・。

そして私は、ぼんやりと、
『XXちゃん・・軽井沢か蓼科高原みたい・・』
と私は家内に言ったりした。

そして、このような情景を眺めていると、
♪風立ちぬ 今は秋
 今日から私は 心の旅人
☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一 】
と私の心の中で、唄いだしたのである。

そして7時過ぎに眩(まばゆ)い晴れ間となったが、
一週間前の燦燦と照らす35度に近い陽射しより明確に和(やわ)らぎ、
微風も初秋の匂いを感じて心地よいのである。

この後、9時半過ぎに遊歩道を散策しながら、
♪風のインクで したためています
 SAYONARA SAYONARA
☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一 】☆
と私の心の中で、唄ってしまったのである。

このような高齢者の私でも、思わず松田聖子ちゃんの『風立ちぬ』を心の中で唄ったのは、
今年の残暑は平年より厳しく感じてきたが、
暑さ寒さ彼岸まで、 と心の中で呟(つぶや)いたりしながら、
何とか今年も暑さをのりきったと実感したりしている。
そして確かに今年も朝夕の秋めいて、風も初秋の匂いとなり、
待ちわびた初秋の到来となってきたので、心の思いとして唄ってしまったと思われる。

夕暮れになれば、小庭から鈴虫(スズムシ)の鳴き声が盛大に聴こえ、
蟋蟀(コオロギ)も鳴き、やがて合唱となる。

こうした中で、鈴虫(スズムシ)は声高に鳴き、
蟋蟀(コオロギ)は少し遠慮して鳴いているように聴こえ、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私は、
なぜかしら蟋蟀(コオロギ)に私は愛(いと)おしさを感じたりしている。

そして、この時節を迎えると、何かと月を眺め誉めたりしているが、、
遥か千年の前の人々も同じように眺めていたのかしら、と心を馳せたりして、
過ごしている。

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岡本裕明さんの『収入の多寡は必ずしも有意義な人生を担保しない』、高齢者の私は微笑み

2012-09-19 11:20:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
早朝から雨が激しく降ったり止んだりし、昼下がりまで不安定な天気となるので、
いつものような午前中のひとときに、買い物に行ったり、その後に散策をやめにすることにした。

そしてをパソコンをぼんやり開き、【YAHOO! JAPAN】の【雑誌】コーナーを見たりしていたが、
この中のひとつの見出しに、
《 収入の多寡は必ずしも有意義な人生を担保しない --- 岡本 裕明 - アゴラ編集部 》
の見出しに魅せられて、この記事を微苦笑しながら読んだれりした。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120917-00000304-agora-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【アゴラ編集部】<==岡本裕明氏の寄稿文《 収入の多寡は必ずしも有意義な人生を担保しない 》 ☆

私は微苦笑しながら読み終わった後、思わず微笑んだことは、
《・・生涯賃金が何億あろうと人生を如何に楽しめるかがポイントであって、
1億しか稼げない人でも楽しい人生はあると思うのです。

バンクーバーで20年前に生活を始めたとき、
第一印象としてこちらの人はお金を使わないで、人生を楽しむ方法を知っていると感じました。
それは「時間」という価値をお金と同じぐらいの重きあるものとして捉えているからです。
カナダ人と会話すると「私には時間がある」という言葉を端々で聞くことがあります。
これは幸せであるという意味そのものではないでしょうか?
・・》

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事をしたりしたが、あえなく敗退した。
そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
中途入社できたのは1970〈昭和45〉年の春であった。

数ヶ月した頃、音楽事業本部り片隅に勤めていた私は、
この中の大きなレーベルのひとつが外資系のレコード会社と新設され、
私も新たなレコード会社に転籍の辞令を受けて、配置された。
もとより音楽業界のレコード会社の各社は、中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたした。

こうした中で音楽業界は、1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社で30年近く勤めいたが放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

こうした中で、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
遅ればせながらる退職後の老後の生活設計を、改めて真剣に話し合ったりした。

生活資金と貯金などを配慮しながら、私の60歳の定年退職後、お互いにどのように過ごしたいか、
結果的には、人生の後半戦といわれても死去するまで幾10数年か解らないが、
もとより限りある残された人生であるので、
年金生活を始めて、お互いの趣味を互いに尊重して、清く慎(つつ)ましく過ごすことにした。

そして 私は出向先で2004〈平成16〉年の晩秋に定年退職を迎えたのである。


年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住みながら、何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

このように私たち夫婦は、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

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創作者・山田太一さんから、脚本のように思い通りに進まないのが人生、と誌上で教示され・・。

2012-09-18 13:04:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、購読している読売新聞の朝刊の中から、月刊の生活情報誌の『はいからEst(エスト)』が添付されてきた。

そして首記に《シニアなんて呼ばせない!》と大きく明記され、
何かしら50代からの生活の全般に関わる情報誌と解ったりしたが、今月の9月18日発行に於いては、
トップ面のインタビュー記事として、敬愛しているテレビ脚本家、小説家として著名な山田太一氏が掲載されていたので、
精読したりした。

私はここ20数年のテレビ脚本家は無知であるが、
1970年の頃から、倉本 聰、向田邦子、山田太一の3氏に限り、ときおり視聴したりしてきたひとりである。

そして、山田太一氏に関しては、
平原日出夫・著の『山田太一の家族ドラマ細見~愛と解体と再生と~』(小学館、発刊・1994年11月10日)、
蕪木和夫・著の『TVドラマの鉄人BIG4』(蒼洋社、発刊・1995年6月10日)に於いて、
倉本 聰、向田邦子、山田太一、橋田寿賀子の4氏の評論集を読んだりしてきた。
或いは小説として、純文学書下ろし特別作品『冬の蜃気楼』(新潮社、発刊・1992年11月)などの作品を
数冊読んだりしてきた。

その後、山田太一氏がテレビに出演されて、松竹の大船撮影所の思いで、自作のテレビドラマを語られることなど、
偶然に視聴したりしてきた。

そして読売新聞で『時代の証言者』として、過ぎし2010年2月に山田太一氏の連載を読みながら、
私なりに改めて、創作者としての山田太一氏から、多々教示されたりした・・。

読売新聞の編集委員の鈴木嘉一氏の綴られた記事で、無断であるが、引用させて頂く。

◎テレビドラマについて
《・・ (略)
自ら殺人などの犯罪は禁じ手としました。
犯罪ものは時代や社会のゆがみを描きやすい。
でも、多くの人は犯罪に走る手前で踏みとどまっている。
ドラマチックじゃないけれど、大多数の人の現実を書こうと。

「ある男がなぜ殺人を犯したかより、なぜあの奥さんと結婚したかの方がスリリングだ」。
(略)
映画に比べると、衝撃力は弱いかもしれないが、
弱いからこそ、日常のささいなことや細部を延々と描くことができる。
テレビは大きなストーリーより細かい部分を大切にすべきです。
(略) ・・》

◎ノンフィクションとフィクションの効用の相違
俳人などで名高い亡き寺山修司氏と大学時代から交流していた氏は語られ、
《・・ (略)
(寺山修司)その俳句や短歌をめぐり
「母親が花売りだった、などというのはウソ」との指摘は当時もありました。
父を戦争で失い、母一人子一人なので、親子関係は複雑だったでしょう。
リアルに書いたら角が立ち、
フィクションだからこそ真実が表現できたと思います。
(略) ・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

このように私は氏の発言した精読し、少なくとも引用させて頂いた氏の証言は、
私にとっては千金の重みのある言葉である。


このような私のささやかな山田太一氏への思いがあるが、
今回のインタビュ―記事を読んで、強く惹かれたのは、この人生の思惑を語られたことである。
《・・(略)
『男たちの旅路』『早春スケッチブック』『ふぞろいの林檎たち』等、
山田さんはテレビ史に残る連続ドラマを次々と生み出してきた。

山田さんの描く”人間”は、私たちにとても近い存在だ。
誰もが無意識のうちに抱えている重いを、
山田さんは明確に表現して、観ている者に『気付かせて』しまう。
それほどのリアリティを再見しながら、
作品全体に、どことなくファンタジックな雰囲気も漂う。
山田さんしか創り出せない独自な世界観だ。

「僕のドラマは、『世の中とフィットしない人たち』を描いているとよく言われます。
でも、現実は皆そうじゃないかなぁと思うんです。
うまく合わせているように見えるだけで、
本当は誰もが苦しみ、もがき、いろいろなことを我慢して、傷だらけで生きている。

世の中に完璧や絶対がない限り、
何をするにしても、僕らはある程度のところで、妥協しているわけですよね。

結婚にしても、『私にはこの人しかいない』なんてことは、本当は有り得ない。
もしかしたら運命の相手は、タイあたりにいるかもしれない(笑)

自由に選んでいるように見えて、実はごく狭い世界での選択です。
間違っているかもしれないけれど、それが正しいと信じて、
どこかで踏み切るしかないんです」

山田さんは目を細めた。
穏やかな目尻のしわに、78年という人生の深みが感じられる。

「生きていくって、そういうふうに少し欺瞞(ぎまん)で、
でも、それが悪いことだとは思わないんですよ。
脚本のように思い通りに進まないのが人生ですからね」
(略)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

このようにインタビューの一部を転記させて頂いたが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の時が多く、
思い馳せれば成功体験の事柄より、遥かに失敗体験の数々が思いだされてしまうのである。

こうした思いを秘めている私は、今回の山田太一氏のインタビューの発言を読み終わった後、
多々教示されながら、
『そうですよねぇ・・確かに・・この人生は・・』
と私は心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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