夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

昼食後の猛烈な眠気を防ぐ "シンプルな方法"、 こっそりと私は学び、やがて微笑み・・。

2023-06-30 14:19:50 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【 プレジデント・オンライン 】を見ている中、
『 「原因は"食べ過ぎ"だけではない」
             昼食後の猛烈な眠気を防ぐ"シンプルな方法"
                        最大の原因は自律神経の"急転換"
 』、
と題された見出しを見たりした。

 
こうした中、朝食と夕食は、私は家内と共に談笑しながら頂いているが、
昼食だけは、お互いに自由に食べたりしている・・。



こうした根底には、定年退職
前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言し、家内に依頼された品を求めて、
独りでスーパーなどに行ったりした後、自宅の周辺にある遊歩道、公園などを散策して、
季節のうつろいを受容している。

やがて帰宅後、昼食はお互いに束縛しないで、自由に食べたりしている。

この後、空腹感が満たされて、美味しかったよなぁ・・と思いながら、
気がゆるんだためか、眠くなる時がある・・。

過ぎし現役サラリーマン時代は、多くと御方と同様に睡眠時間を削り、奮闘してきたので、
少し甘えて昼寝をしてしまう時がある。

こうした実態のある私は、今回の《・・昼食後の猛烈な眠気を防ぐ・・"シンプルな方法"・・》学びたく、
記事を読んでしまった。

この記事は、【 プレジデント・オンライン 】の『ライフ』に於いて、
2021年6月29日に配信され、無断であるが、記事の大半を転載させて頂く。



《・・どうすれば昼食後の眠気を防ぐことができるのか。

順天堂大学医学部の小林弘幸教授は「昼食前にコップ1杯程度の水を飲むといい。
そうすることで、自律神経の急転換を防ぎ、疲れも眠気も防ぐことができる」という――。

※本稿は、小林弘幸『自律神経にいいこと超大全』(宝島社)の一部を再編集したものです。

☆昼食後に眠くなってしまうのはなぜなのか

食事をすると、胃腸が活発に動く。
そうすると、胃腸に血流が集中して、頭に血が行かなくてぼうっとしてしまう。

胃腸が動くことで、急激に副交感神経が優位な状態になる。
クルマにたとえれば、アクセルではなく、ブレーキを思いきり踏んだ状態だ。
眠くなるのは当たり前。

心身が急激に弛緩=リラックスの状態になってしまうからである。
けれども、昼食をとる際、ほんのちょっと工夫をして
副交感神経の働きの上がり具合をコントロールすれば、食後の疲れや眠気を抑えることが可能だ。

☆眠くならないための2つのポイント

疲れない、眠くならない、昼食のとり方のポイントは二つ。

一つめは、食べる前にコップ1~2杯の水を飲むこと。

二つめは、「腹六~八分目」の量を、できるだけゆっくりよく嚙みしめながら食べること。

それだけで、昼食を疲れない、眠くならない「力めし」に変えることができる。

でも、それはなぜなのだろうか。

食事をすると、誰でも副交感神経が優位になる。
けれども、副交感神経が優位になるのは、じつは食後から。

食事中は、「咀嚼する」という行為も含めて体が活発に動いているので、
体にとっては運動しているときと同じで、交感神経が優位になる。

さらに、「嬉しい」、「おいしい」、「楽しい」というメンタルも作用して、
交感神経がますます優位になっていく。

つまり、食事をしている最中は、クルマにたとえれば、アクセル全開の状態。
昼食をとっている最中に眠くなったという人は、ほぼいないはずだ。
むしろ、食べている最中はアクセル全開で、やる気も全開である。

けれども、二つのポイントを押さえずに、
ただ無意識に食べたいものを、がつがつ早食いしてしまうと、
食べ終わって胃腸などの消化器官が働き出した途端に、
さっきの元気はどこへやら、ガクンと疲れて眠くなってしまう。

それはひと言でいえば、食事をすることで交感神経が一気に優位になる、
けれども食後に消化器官が動き出すことで、一転、副交感神経が優位になる、
この「急転換」が、昼食後の疲れと眠気の最大の原因なのだ。


とすれば、自律神経の急転換を防げれば、
心身のパフォーマンスを維持したまま、疲れも眠気も防ぐことができる。
そのためのポイントが先の二つなのだ。



☆「おいしい」という感覚は最初のふた口で満たされる

朝、昼、夜、3食全部、炭水化物をがっつりとってしまうと、
私の経験上でも、体重のコントロールが難しくなる。
3回の食事のうち、炭水化物をしっかりとるのは、1回だけにするなどの工夫がおすすめである。

そのほうが断然、午後の仕事がはかどる。

逆に、短時間でがっつり炭水化物メインの昼食をとると、
交感神経の働きが急上昇し、食後、そのリバウンドで副交感神経が一気に優位になってしまう。
すると、疲れて眠くなり、午後は使いものにならないという結果を招いてしまう。

理想は朝、ごはんでもパンでも炭水化物をしっかりとって、
昼は軽めのものをゆっくり食べて、腸を穏やかに動かすという食べ方だ。
とはいえ、昼食も、炭水化物がっつりの好きなものを食べたいという日もきっとあるだろう。・・(略)・・

食べる前から、半分に分けておく。
この方法は、一見、強い意志が必要のように思われるが、
やってみると、じつはまったくそうではない。

なぜなら、「食べたい」、「おいしい」という感覚は、
じつは最初のひと口ふた口で、満たされているもので、
あとは、「全部食べなくては満足できない」という錯覚で食べているだけだからだ。



☆昼食を食べないのはむしろ逆効果

昼食を、午後の自律神経のバランスアップ、
心身のパフォーマンスアップのための「力めし」にする食べ方のポイントの一つは、
「最初から半分に分けておく」ということだ。

そうすれば、特別に強い意志がなくても、
誰でも、「おいしく」楽しんで食べながら、きちんと半分残すことができて、
しかも満足感、幸福感も十分得られるようになる。

小林弘幸『自律神経にいいこと超大全』(宝島社)
小林弘幸『自律神経にいいこと超大全』(宝島社)

さらに、昼食のとり方をより質の高いものにし、
ランチタイムを心身ともに充実させる時間に変えるもう一つのポイントは、
「無理に食べない」ということである。・・(略)・・

昼食は、3食のなかでも、もっとも軽めに適当にしても、まったく問題はない。
ただし、昼食をまったく抜いてしまうというのは、やはり避けていただきたい。

昼食を抜いたまま夕食を食べると、血糖値が急激に上昇してしまい、
夕食でとったカロリーが、エネルギーとしてうまく代謝されずに、
そのまま脂肪として体内に蓄積されてしまうからである。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


順天堂大学医学部の小林弘幸教授の『自律神経にいいこと超大全』に導かれて、
多々教示されたりした。

昼食後の猛烈な眠気を防ぐ2箇条は、
◎食べる前にコップ1~2杯の水を飲むこと。
◎「腹六~八分目」の量を、できるだけゆっくり、よく嚙みしめながら食べること。

今回、《・・「食べたい」、「おいしい」という感覚は、
じつは最初のひと口ふた口で、満たされているもので、
あとは、「全部食べなくては満足できない」という錯覚で食べているだけだからだ。・・》
この数行に驚嘆して、二回ばかり読み返したりした・・。

余談であるが、減量したい時は、昼食は半分だけ食べることとして、
「最初から半分に分けておく」方法を活用すれば、眠気も防げるよなぁ・・、
と微笑んだりした。

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『槿花一朝の夢』の木槿(ムクゲ)、78歳の私、恋して27年が過ぎ・・。

2023-06-29 10:01:29 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
民間会社の35年近く勤め2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で、年金生活を始めたひとりである。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりした後、
この後は、独りで住宅街の中の道を歩いたりし、
川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした年金生活をした翌年の初夏、いつものように買物に行った時、住宅街を歩いていると、
ある御宅の庭先で宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が咲きはじめていた・・。

私は宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の底紅で花びらは白く、
心澄んだ気品を秘めたような花と魅了されて、少なくとも27年は過ぎている。


               

私が50歳の頃までは、公園、ご近所の御宅にも咲いていたと思われるが、
意識させられたのは、一冊の文庫本であった・・。

今は亡き作家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)さんの作品を
確か1985年(昭和60年)の頃から愛読してきた私は、
たまたま1994年(平成6年)年の夏、山口 瞳さんの『男性自身 木槿の花』(新潮文庫)を読み、
亡くなわれた作家・向田邦子さんへの鎮魂曲のように綴られた随筆を読んだりしていた。

この随筆を読み終わった後、山口 瞳さんは白の花の木槿、と綴られていたのであるが、
向田邦子さんの作品であったなら、宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が相応しい、
と私は勝手に思い重ねたりした。

この時以来、私は宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を見るたびに、山口 瞳さんの随筆に導かれて、
向田邦子さんの顔立ちを思い浮かべながら、
向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた作品を甦(よみがえ)ったりした。

いつの日だっか、都立公園で丹精込められた五種類ばかりの彩(いろど)り豊かな木槿(ムクゲ)を観たが、
近くの御宅で、さりげなく咲いている宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の方に、遥かに魅了される。

このような思いを私なりに秘めているので、
山口 瞳さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆の作品、
そして向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆、テレビドラマ・脚本の作品、
散策をした時などで、不意に私の心の片隅みから蘇(よみが)ってくることがある。
               

このような心情のある私は、いつの日にか我家では宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を植えよう、
と思ったりしていた。




過ぎし2007年(平成19年)の6月に、伊勢神宮に近い鳥羽の観光旅館で、
2泊3日の滞在型の団体観光ツアーの旅の帰路、
鳥羽港から伊勢湾フェリーを下船後、渥美半島の伊良湖岬から団体観光バスに乗車してまもなく、
休憩を含めて、道の駅で下車した。

そして私たち夫婦は未知の地であったが、私は道の駅のドライブ・インの売店の外れで、
小さな園芸店の即売されている幼い樹木が数多くあり、
この中に偶然に木槿(ムクゲ)の幼い樹を見かけた・・。

簡素な黒いビニール鉢に入り、樹高が20センチ足らずで、花芽は5つ前後付いていた・・。
値段は確か200円程度であったと記憶している。

そして売店の女性の販売員の御方に
『宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)は、ありませんか?・・』
と私は尋(たず)ねたのであるが、
無念ながら、販売員の御方は花木に全く無知の方である上、観光バスの出発も迫ってきたので、
私は妥協して買い求めたりした。

帰宅後、まもなく地植えにしたが、かぼそい樹形であったが、
夏の終りの頃まで、10数輪咲いてくれた。

そして毎年成長して、3年過ぎた初夏に、
樹高は2メートルを超えて、100輪ぐらい花を咲かせ、私は悦んだりした・・。


               
☆14年前の頃、記念に撮ったりした☆

私はここ35年ぐらい、我が家の小庭にある樹木・花木・草花に関しては、
太陽の恵みの陽差し、そして雨、その地の土に馴染んで成長しなさい、と身勝手な主(あるじ)の私であるが、
この木槿(ムクゲ)は、自力で私の期待に応(こた)え、勢い良く成長してくれた。

しかしながら数多くの花は咲くが、花火のように多彩な色合いを彩(いろど)るのである。
無念ながら宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の純白の色合いには遠く、
紫紅色の花が彩(いろど)ってくれる高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)に近い花びらもあり、
或いは淡い紅色の花びらもあり、どうしてなの、と私は戸惑ったりしてきた。
               
花木の園芸の栽培の御方が、たわむれに各種の木槿(ムクゲ)を取り混ぜて、
この中のひとつとして、我が家にある花火のような色々な花びらを咲かせる木槿(ムクゲ)になったのかしら、
と無知な私は思ったりしている。



☆14年前の頃、記念に撮ったりした☆


確か6年前、駅前の園芸店で純白の色合いである宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を見かけて、
立ち止まって眺めて、樹高30センチで花びらが6輪咲いていた。
そして価格札には、野口英世のお札の値段と同じで、私は心が動いた・・。



そして30秒ぐらい思案したが、結果として私は断念した。

確かに底紅で花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)には、
気品ある美を感じて、圧倒的に魅了されて27年過ぎてきたが、
我が家の雑種のような木槿(ムクゲ)は、健気(けなげ)にも我が家の地に馴染んで、
早や16年が過ぎ、愛(いと)おしさを増してきている。

そして我が家の木槿(ムクゲ)でも、朝の冷気が残る頃、花びらは秘かに開き、
日中の熱い陽射しを受けながら、凛とした色合い見せて、
夕暮れの時に閉じ、花の命(いのち)は終わりを告げるように、儚(はかな)さを感じさせる。
               
このような一輪が花びらは、儚(はかな)くも一日で命を果てるが、
たわわな莟(つぼみ)からは、競演するように初夏から盛夏に向けて彩(いろど)り、
古来より『槿花(きんか)一朝の夢』と伝えられていることに、
 この時節にときおり私は眺め、深く教示させられている。




のような心情を秘めている私は、市内にある都立の『神代植物園』にある『むくげ園』に、
この時節、幾たびも青年が麗しき女性に恋焦がれるように、訪ねてきた。




たまたまここ一週間、曇り空の中、私は記憶のかたみとして撮ったりした。








恥ずかしながら私の思いを発露した写真、このようになっているが、
思いを寄せる深情は、人一倍強いと思われるが、

いつになったら写真は上達するのよ、と微苦笑したりしている。

いずれにしても、儚(はかな)い美しさに魅了されて、27年が過ぎている。

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加齢とともに、耳が聞こえづらくなった私、こっそりと原因を学び・・。

2023-06-28 16:15:41 | 喜寿の頃からの思い

《・・ 加齢とともに、耳が聞こえづらいと感じていませんか。
いつまでも、友人たちと食事に出かけて、おしゃべりを楽しみたいもの。

ただ難聴といっても、さまざまな種類がある。
なかにはアルツハイマーの要因になるものも。
そのメカニズムを専門家が解説する。

☆コロナ禍以降『耳が聞こえづらい』人が急増

「久しぶりに参加した同窓会だったのに、不完全燃焼のまま終わりました。
立食パーティーだったから、大人数で輪になって話していたんですが、
同級生たちの声が全然聞き取れない。

父が晩年、大音量でテレビを流していたことや、
『え?』と何度も聞き返す姿が、脳裏をよぎって不安になりました」

主婦の村田陽子さん(仮名・60代)は、そう言って肩を落とす。


目と耳の治療院『日本リバース』院長で、整体師の今野清志さんによれば、
最近、村田さんのように難聴に悩む人が増えているという。



「コロナ禍以降、『耳が聞こえづらい』と訴えて来院する人の数が、
1・5倍以上に増えています。

自粛生活に伴うストレスによる自律神経の乱れや、
マスク生活での酸素不足、運動不足による血流の低下によって、
耳まわりの筋肉がこわばっていることが、大きな理由だと考えられます。

加えてイヤホンやヘッドホンを日常的に装着する習慣が、
一般化したことも耳に負担をかけている。

実際、WHOの発表によれば、
難聴の患者数はこの5年で50万人も増加しているのです」(今野さん)


●難聴の原因は、鼓膜の前と後ろで大まかに分かれる

耳の器官
難聴の原因は鼓膜の前と後ろで大まかに分かれる(画像/PIXTA)

☆聴力は脳の機能と大きく関係

一口に難聴と言っても、その原因は多岐にわたるが、
大まかには「伝音難聴」と「感音難聴」、両者の合併する「混合性難聴」に分けられる。

伝音難聴は、中耳炎や外耳炎など、耳の入り口から鼓膜までの部分に
障害が生じることで引き起こされるが、症状に応じた治療をすれば、
多くの場合はもとの聴力に戻る。

一方の感音難聴は、内耳(ないじ)から脳までの間の一部に
問題が起こることで発症するもので、加齢による難聴は後者だ。


筑波大学医学医療系耳鼻咽喉科教授の田渕経司さんが解説する。

「内耳には『蝸牛(かぎゅう)』というカタツムリのような形をした器官があり、
入ってきた音を振動として感知し、電気信号に変えて、脳に伝えています。

しかし老化に伴い、蝸牛にある『有毛細胞』の機能が低下して、
音の振動を察知しにくくなるのです。

また、電気信号を認識する脳の神経細胞が衰えることも
難聴を悪化させるといわれています」(田渕さん)

 
つまり、聴力は、脳の機能とも大きく関係しているのだ。



☆アルツハイマーの原因の約1割は難聴

川越耳科学クリニック院長の坂田英明さんが言う。

「私たちが、ほかの人の話し声を『言葉』として理解できているのは、
耳で音を聞くだけでなく、脳が音を言葉として、認識しているためです。
大脳を中心に海馬などと連携しているのです。

『音は聞こえるが、何を言っているのか、理解できなくなった』、
『複数人が同時に話すと理解できない』という人は、
耳だけではなく、脳の機能が落ちている可能性が高い」

さらに恐ろしいのは、その“聞こえづらい”状態を放置すると、
認知症になるリスクが上がることだ。

「難聴になったことがきっかけで、認知機能が低下し、
アルツハイマー型認知症を発症するケースは少なくありません。

実際、アルツハイマー型認知症の約1割は、
難聴が原因だという研究データもある。

耳が聞こえづらくなることで、人づきあいも減り、
外出がおっくうになって、家にこもりがちになり、
筋肉が落ちて、フレイルの状態になるケースも少なくありません。

そのまま、寝たきりになる可能性すらあるのです」(坂田さん・以下同)・・ 》


注)記事の原文に、あえて改行など多くした。




恥ずかしながら聴力と難聴に関して、初めて学んだりした。

《・・
伝音難聴は、中耳炎や外耳炎など、耳の入り口から鼓膜までの部分に
障害が生じることで引き起こされるが、症状に応じた治療をすれば、
多くの場合はもとの聴力に戻る。

一方の感音難聴は、内耳(ないじ)から脳までの間の一部に
問題が起こることで発症するもので、加齢による難聴は後者だ。
・・》

私は懇親会、冠婚葬祭などの会合で、
亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりで、
積極的に談話したりしているが、こうした時は相手方の会話は十二分に聴き取れ、
不自由したことはない。

ただ家で、ぼんやりとテレビを視聴している時は、
齢を重ねてきた私は、無念ながら聴力が衰えてきた・・。

今回、ドキ・・としたことは、いつの日にか、
《・・難聴になったことがきっかけで、認知機能が低下し、
アルツハイマー型認知症を発症するケースは少なくありません
・・》
こうしたことに注意して、過ごそうと思ったりした・・。


いずれにしても70歳の頃から体力の衰えを実感し、
ときおり物忘れもあり、独り微苦笑をしたりしている。
 
そして好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

 
このような私でも、あと1年半少しで・・80歳の誕生日を迎える時に、
何とか健康寿命で迎えたい、と念願している。
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桔梗(ききょう)の花、改めて78歳の私は、過ぎし青年期より心を寄せて・・。

2023-06-27 14:17:43 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
いつものように自宅の3キロにある公園、遊歩道、住宅街の歩道を散策すると、
過ぎし3週間前の頃より、あじさい(紫陽花)は多彩に彩ってきた・・。

この後、
公園の中で、桔梗(ききょう)、木槿(むくげ)が咲き始めて、
今年も咲いてくれた・・と微笑みながら、見惚(みと)れてきた・・。



そして遊歩道の片隅にも、咲き始めて、初夏の彩りの情景に、
心は和(なご)んだりした・・。



過ぎし3年前の2月より、新型コロナウィルスの烈風に伴い、幾たびの自粛に私は戸惑い、
閉塞感のある世の中に息苦しく感じていた私は、
多種多彩な木槿(むくげ)の花に、心が浄化されたりした。




このような心情で散策していると、10日前に桔梗(ききょう)にめぐり逢えて、

青年期に恋焦がれた恋人に逢えたような心情で、
長らく見惚れたりした・・。



私が桔梗(ききょう)の花に魅了されたのは、
思い馳せれば東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋より、数年後であった・・。

東京オリンピックが開催される直前、私は二十歳の誕生日を迎え、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した後、アルバイトをしながら、
養成所に通い映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を喰(た)べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

                       

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたりした・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしたりした。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。


私は作家・立原正秋氏に関しては、確か純文学の月刊誌を購読してまもない頃、
氏の著作の『剣ケ崎』(新潮社)の短編集を購入し、

深く魅せられて、過去に発売された単行本の『薪能』(光風社)を古本屋で買い求めたりした。

そして、これ以降は作品、随筆が発表されるたびに、
買い求めて、熱愛し、精読していた・・。

この当時の私は、契約社員で警備員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。

しかしながら、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした中、街中の園芸店で、片隅にあった
桔梗(ききょう)の花に、

立原正秋氏の書物から感じられる香りに、漠然としながら感じたりした・・。

やがて春の彼岸の時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。



やがて、1980年(昭和55年)の夏、立原正秋氏は無念ながら病死され、

これ以降も追悼などで、立原正秋氏の綴られた未刊の小説、随筆が出版されたり、
或いは立原正秋氏の友人、知人らに寄る氏に関する随筆が出版され、
私は買い求めていた・・。

こうした中、私は園芸店で桔梗(ききょう)を10前後買い求めて、
庭先の片隅に植えたりし、まもなく我が家の小庭は、
桔梗(ききょう)の花が20数輪彩ったりした。

その後、三周忌記念出版として、『立原正秋全集』全24巻が角川書店から、
昭和59年(1984年)から発刊され、私の書棚には単行本が少なくとも30数冊はあったが、
心新たにの思いで購入した。

そして、愛惜を重ねながら、毎月配本されるたびに改めて精読したのである。

私は拙(つたな)い読書歴なかで、小説・随筆に関して、

明治以降の作家の中で、最も影響を受けたのが、立原正秋氏となった。

作品はもとより、文体、そして庭園、茶事、食べ物、日本酒、焼き物など、
私の青年期から30代の終わりの頃まで、多大に教示された人であった。



そして私は、氏が埋葬されている北鎌倉にある寺に、
心の節度としてお墓参りに訪れた時、境内に桔梗(ききょう)の花が7輪咲いていて、
御手本のように整然と植えられて、感銘させられたりした。

しかしながら、まもなく会社の業務も多忙となり、庭の手入れもままならず、
やがて宿根草の桔梗(ききょう)でも雑草にまみれて、あえなく消え去ってしまった。

これ以来、我が家の小庭には桔梗(ききょう)はなく、
自宅の3キロにある公園、遊歩道、住宅街の歩道を散策した時、
めぐり逢えた時、愛惜を重ねながら、お待ちしていましたょ・・、
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく見惚れたりしている。


余談であるが、桔梗(ききょう)は万葉集の中で、
秋の七草と称され「朝貌の花」は本種であると、学んだりしてきた。

そして秋の七草覚えるには、
・女郎花(オミナエシ)
・薄(ススキ)
・桔梗(キキョウ)
・撫子(ナデシコ)
・藤袴(フジバカマ)
・葛(クズ)
・萩(ハギ)

上から頭の文字をつなげて「お好きな服は(おすきなふくは)」という覚え方が、
やさしいですょ・・と年配のうるわしき女性から、
私が40代の初めに教えて頂いたりしてきた。

このように桔梗(ききょう)の花に、青年期より心を寄せたりしている・・。

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ときにはパソコンに保存している『写真』の整理をして、やがて微笑み・・。

2023-06-26 17:05:42 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
午後のひととき、パソコンに収納している『写真』の整理をした・・。

私のこれまでの写真は、パソコンの内部の【 ピクチャ 】に保存し、
万一の場合に備えて、外部ハード・ディスクにコピーしている体制としている。

しかしながらパソコンの反応が鈍(のろ)くなり、
ここ3日間、ときおり写真の一部を破棄してきている・・。

過ぎし4月の下旬、パソコンの内部の【 ピクチャ 】を、
とりあえず2004年から2017年までパソコンに付いているブルーディスク(BD-R)にコピーし、
8枚となり、こんなに撮ったの・・と、我ながら微苦笑したりした。

この続編のように『写真』の整理をしたりした・・。

 

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
私は独りで外出して、 自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、
季節のうつろいを享受している。

こうした時は、殆どデジカメをネクタイのように首回りから下げて、
颯爽と歩き、 歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

或いは家内と共通趣味の国内旅行を幾たびも重ねる中、
その地の情景に圧倒的に魅せられて、撮ったりしてきた。
 
こうした中で、恥ずかしながら私は、齢を重ねるたびに忘れることもあり、
やむなく記憶のかたみ、として撮り続けてきた・・。
 
そして過ぎ去った日々の写真を見たりすると、
あんな情景があったのか、と愛惜を重ねたりしている。
 
 





たまたま、昨日の
散策コースは、初夏の多彩な情景を、
心の友として、近くの都立の『植物多様性センター』、
そして『神代植物公園』を
散策した・・。。


いつものように最寄り駅のひとつの京王線の『つつじが丘』の駅前より、
路線バスで調布市の『総合体育館前』で下車した後、

体育館前のゆったりとした広場を通り過ぎたりした。





そして隣接の都立の『植物多様性センター』を散策したりした・・。

まもなく桔梗(キキョウ)に、微笑みながら挨拶して、撮ったりした・・。


 
この後、いつものように園内を散策した・・。







やがて都立の『神代植物公園』に向かった後、
いつものように定点観測のように好感している景観を撮ったりした・・。

 



 



まもなく10前後咲いていた蓮(ハス)を見ながら、
今年も麗しい姿を見せてくれて・・と心の中で呟きながら、記念に撮ったりした。







この後、ベンチに座って、買い求めた煎茶のペットボトルを飲んで、
水分補給をしていた時、前方にキキョウの美麗が見えたので、
撮ったりした・・。




やがて木槿(ムクゲ)のコーナーに行き、
待ち焦がれた多彩な美麗の木槿(ムクゲ)に恋するように撮ったりした・・。










このように無我夢中で撮ったりすると、写真の枚数が増えるはずだよなぁ・・
と微苦笑したりした。


この後、私は幸運な男だ、と思いながら撮ったりした。







この後、私の好きな里道・・小躍りするように歩いて、やがて帰路に向かった・・。










このような散策をしたりすることが多く、やはり写真の枚数だけは、
増えるはずだ・・と独り微苦笑したりしている。

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「マイナ保険証」移行ゴリ押しの行く末、国民の3人に1人が“医療難民”に陥る恐れ、私は学び動顛して・・。

2023-06-25 15:34:02 | 喜寿の頃からの思い
『 「マイナ保険証」移行ゴリ押しの行く末・・・
         国民の3人に1人が“医療難民”に陥る恐れ 』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、



私はマイナンバーカード制度にも専門知識はないが、
国が国民に対して実施する場合は、利用する国民から信頼されることが第一歩と思っている。

総務省、厚生労働省、デジタル省などがマイナンバーカード制度に関わり、
総体的な責任元が不明確であるので、一元化した専門の『マイナンバー省』を新設し、
これらがすべて管轄責任とする。

それまで凍結して、これから3年前後、改めて開発、運営まで、不備がないようにした上で、
初めて国民に利用しやすいようにするのが、政府のありかた、
と私は思い深めている。


このような心情のある私は、今回の記事を読んだりして、
動顛したりした・・。

 

「マイナ保険証」移行ゴリ押しの行く末…国民の3人に1人が“医療難民”に陥る恐れ|日刊ゲンダイDIGITAL

「マイナ保険証」移行ゴリ押しの行く末…国民の3人に1人が“医療難民”に陥る恐れ|日刊ゲンダイDIGITAL

「国民に対して丁寧に説明しながら、国民の不安を払拭してまいりたい」──。マイナンバーカードと健康保険証が一体化した...

日刊ゲンダイDIGITAL

 

「マイナ保険証」移行ゴリ押しの行く末…国民の3人に1人が“医療難民”に陥る恐れ|日刊ゲンダイDIGITAL (nikkan-gendai.com)

     
 

 

記事を読み終わって、私は動顛したりした・・。

《・・現時点でマイナカード所持者は、人口の約73%。

全員がマイナ保険証に切り替えたとしても、
残る約3割は、保険証代わりの資格確認書を1年ごとに申請するハメになる。

申請しなければ、国民3人に1人が保険診療を受けられない無保険者、
事情によっては“医療難民”に陥りかねない。・・》

果たして、このような事態に、厚生労働省など国民の健康の守る所管部署、
何より時の政府、首相は放置はできない、と私は思っている。

まさか立正大名誉教授の金子勝氏(憲法)の論旨、
《・・国民の情報を一元的に管理したい政府にしてみれば、
現行の保険証とマイナ保険証の併用を認めることは、“敗北”に等しい。

だから、問題なく機能している現行の保険証を“人質”にして、
マイナ保険証の普及に躍起になっている。

無保険者がいくら出ようが、知ったこっちゃないわけです。
憲法25条が定める国民の生存権をもてあそんでいるとしか思えません。

むしろ、無保険者が増えれば、
社会保障費を圧縮できるとすら考えているのではないか。
政府にとって、負担になるような国民を切り捨てるつもりでしょう・・》

まさか、このような事態を予測して、マイナ保険証の実施した場合、
政権与党は、国民の健康を守る責務を放棄したので、
自公の与党政府は、ふたたび野党に転落する・・と私は妄想したりしている。

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敬愛する和田秀樹さんより、認知症リスクを下げる方法7種、私は学び・・。

2023-06-24 11:49:48 | 喜寿の頃からの思い
先程、ヤフー・ジャパンより配信されたニュースの中で、
『 和田秀樹 
   80歳過ぎで「節制」「がまん」なんてしてたら命とりになりかねない。
        WHO推奨! 認知症リスクを下げる方法7種を紹介 』、
と題された見出しを見たりした。


こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活を丸18年を過ごしてきた。




そして好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

 
こうした中で、70歳の頃から体力の衰えを実感し、
ときおり物忘れもあり、独り微苦笑をしたりしている。
 
このような私でも、あと1年半近く・・80歳の誕生日を迎える時に、
何とか健康寿命で迎えたい、と念願している。
 


このような深情を深めている私は、
今回の《・・認知症リスクを下げる方法7種を紹介・・》って、
どのようなことですか、真摯に学びたく、記事を読んでしまった。

この記事は、【 婦人公論jp 】の2023年5月19日に配信されていた記事で、
無断ながら大半を転載させて頂く。



・・厚生労働省が発表した「簡易生命表(令和3年)」によると、
男性の平均寿命は81・47年、女性の平均寿命は87・57年(2022年度)と、
いずれも40年前から9歳程度伸び、80代となりました。

一方「なぜ人は80歳を境にガクッと衰えるのか、あらためて考えてみた」
と語るのは、老年医学を専門とする精神科医・和田秀樹さんです。
和田先生いわく「人とのコミュニケーションこそ、最高の脳トレ」だそうですが――。


☆「認知症」を防ぐ方法

2019年、WHOが、認知症リスクを下げるためのガイドラインを発表しました。

この記事では、それも参考にして、「認知症」を防ぐいろいろな方法を紹介しておきましょう。



・人とよく付き合う

   人とのコミュニケーションこそ、最高の脳トレです。

   逆にいえば、WHOのいうところの「社会的な交流の不足」は、認知症発症の大きなリスクになります。

   高齢になっても、なるべく人と会い、話すことです。

   「家族との対話」「社会との接触」が認知症を防ぎます。

 

 

・「睡眠不足」を防ぐ

   睡眠中、脳の中では、脳脊髄液(のうせきずいえき)が循環して、老廃物を排出しています。

   そのため、睡眠時間が短く、質が悪いと、
   アルツハイマー型認知症の原因物質の蓄積がすすむとみられています。

『80歳の壁[実践篇] 幸齢者で生きぬく80の工夫』(著:和田秀樹/幻冬舎)
 

・朝の光を浴びる

   朝日を浴びると、脳内神経伝達物質のセロトニンの分泌がすすみます。

   すると、うつの予防になるとともに、
   睡眠ホルモンであるメラトニンがたっぷりつくられます。


・よく嚙んで食べる

   「咬筋(こうきん)」をよく動かすと、
   その刺激によって、脳により多くの血液が送り込まれ、脳の働きが活発になります。

   さらに、モノを嚙むと、歯の歯根膜が圧力を受け、その刺激が脳を元気にします。

 

 

食べたいものを食べる

   高齢になってからの「節制」や「がまん」は、命とりになりかねません。

   「粗食」は、ほぼイコールで、低カロリー・低栄養を意味します。

   節制するよりも、食べたいものを食べたほうが、脳も免疫機能も元気に働きます。

 

・歌う

   「歌う」としぜんに腹式呼吸になり、より多くの「酸素」を取り込めます。

   脳にもたっぷりの酸素を送り込み、活性化できます。

 

 

・「ごく小さな旅」に出る

   初めての場所に行くと、ほぼ自動的に脳は活発に動きはじめます。

   未知の環境では、好奇心が高まり、観察力も注意力も働くからです。

   私は「遠出をしろ」といっているわけではありません。

 

   いつも使う路線で、これまで降りたことのない駅で降りてみて、
   しばらく散歩するだけでも、いいのです。

   そうした小さな旅行の「旅先」でも、脳は活発に働きはじめるのです。・・》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。



記事の最後に、
《※本稿は、『80歳の壁[実践篇] 幸齢者で生きぬく80の工夫』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。》、
と明記されていたので、私は微苦笑したりした。

私は過ぎし2022年の6月に、和田秀樹さん著作の『80歳の壁』(幻冬舎)を購読して、
私が80歳の誕生日を迎えることが出来た時、
こうした行動、心構えで生きれば、悲観することなく、元気で過ごせる・・・
光明を感じたりした・・。

そして本書は、この『80歳の壁』(幻冬舎)の続編のような『実践編』と思い、
今回の《・・認知症リスクを下げる方法7種・・》を復誦するように、
多々学んだりした。

・人とよく付き合う
・「睡眠不足」を防ぐ
・朝の光を浴びる
・よく嚙んで食べる
・食べたいものを食べる
・歌う
・「ごく小さな旅」に出る

このような7箇条であるが、敬愛する和田秀樹さん書物から学び、
殆ど実行しているが、私は人前で『歌う』ことは苦手である。



現役サラリーマン時代は、何かの会合などで、お付き合いでやむなく、
人前でカラオケを唄ってきた・・。

しかし年金生活の中、遊歩道を散策しながら、人影のない所で、
かぼそい声で、その時に思っている歌を唄うことがある。

たとえば、一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、
   ♪君と好きな人が 百年続きますように・・
かぼそい声で唄ったりして、 早や17年の月日が流れている。 

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『沖縄慰霊の日』、国民のひとりの78歳の私、ささやかな沖縄の思いは・・。

2023-06-23 11:03:48 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
今朝、洗面した後、玄関の軒下に下り立ち、襟を正して南の空に向かい、
黙祷したのは朝の7時半過ぎであった。

私は1944年〈昭和19年)9月下旬に今住んでいる近くで、農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に、日本は敗戦となった。

そして敗戦時は、一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として学んできたひとりである。


先程、テレビでNHKのニュースを視聴したりした・・。

《・・沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から78年の「慰霊の日」を迎え、
最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園では、
朝早くから遺族などが平和への祈りをささげています。

戦争を実際に体験した県民は、全体の1割を下回っているとみられていて、
沖縄戦の記憶を次の世代がどう継承していくのか、問われています。


昭和20年の沖縄戦では、激しい地上戦の20万人以上が亡くなり、
県民の4人に1人が命を落としました。


沖縄県は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を
「慰霊の日」と定めています。


最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園には朝早くから遺族などが訪れ、
戦没者の名前が刻まれた平和の礎に花を手向け犠牲者を悼んでいました。


平和祈念公園では、正午前から戦没者追悼式が行われます。 (略)・》
 

このようにニュースを視聴して、改めて終結から78年となった・・、私は深くかみ締めて、
やがて私なりの沖縄のささやかな思いを馳せたりした・・。

          

たまたま過ぎし2018年10月21日より、
沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテルに4泊5日で滞在旅行をして、
こうした中で、私なりの沖縄のささやかな思いを投稿してきたので、
この中の一部を、あえて再掲載をする。

『 新北風(ミーニシ)の吹く爽やかな中、沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテル滞在記 』
(2018.10.21.~10.25.)

第5章 とりとめなく館内で沖縄のささやかな思いを馳せれば


滞在している『ザ・ブセナテラス』の室内のベット、窓際の安楽椅子、

そしてバルコニーにある安楽椅子で、ときおり持参した本を読んだりした・・。

              

この本は、昨年の1月下旬、平素の買物で駅前に行った時、本屋に寄った時に見かけて、
瞬時に読みたくなり、講読した一冊であり、感銘を受けて、改めて今回再読したく持参したりした。

そして館内のゆったり休息処の安楽椅子に座りながら、再読した・・。

              

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国のポッタム宣言を受け入れて、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、
そして8月15日の敗戦なのに『終戦記念日』称している日には皇居に向い、黙祷を重ねたりしてきた・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
ここ50数年、黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。


そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。


          

沖縄に関して、恥ずかしきことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。

そして高校時代以来、何かと時事に関心を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かな時であったので、知識人の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。

これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに、後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、沖縄に於いては、安易な観光気分で訪れることが出来なくなり、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。

この後、名嘉正八郎、谷川健一両氏の編集に寄る『沖縄の証言 ~庶民が語る戦争体験~』《上》、《下》(中公新書)を
1977年11月に購読してきた。

そして太田昌秀・著作の『沖縄の帝王 高等弁務官』(朝日文庫)を1996年2月に購読して、
敗戦後の沖縄にアメリカ軍政下の実態を多大に学んだりした。


もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、沖縄戦は事実上集結した日である。

そして沖縄県は『慰霊の日』として、戦没者追悼式が毎年行われている。

          

何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
せめて『慰霊の日』は、沖縄に向って黙祷を重ねたりしてきた。


私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記されている。

そして私は若き人たちと共有致したく、今回もあえて転記させて頂く。

《・・ 太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で、守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。

          

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。 
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951年(昭和26年)から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。 ・・》

注)原文よりあえて改行を多くした。

私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
          

                         

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。

そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。

          

私は『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年このような日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

                     

そして今回、掲載した数々の写真は、過ぎし2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。

家内の母は、1930年〈昭和5年〉生まれであり、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。

家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。

この後、佐野眞一・著作の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(2008年、集英社インターナショナル)、
『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年、集英社インターナショナル)を読み、
沖縄の光と影を学んだりしてきた。

或いは福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)、
改めて敗戦後の怜悧な国益に基づいた実態史を多々教示されたりしてきた。

そして大久保潤、篠原章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
ロバート・D・エルドリッヂ著作の『オキナワ論』(2015年、新潮新書)、
高良倉吉・編著作の『沖縄問題 ~リアリズムの視点から~』(2017年、中公新書)、
篠原章・著作の『外連の島・沖縄 ~基地と補助金のタブー~』(2017年、飛鳥社)、
沖縄の現実の難題を多々学び、無力な私は憂いたりしている。

この間、改めて沖縄戦の過酷な実態は、ユージン・B・スレッジ・著作(訳・伊藤 真、曽田和子)の
『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術新書)を読み、戦地でそれぞれ置かれた人が、
狂気のふるまいに、映像では表現しずらい多くのことに、震撼させられてきた。

          

私は沖縄問題にも専門知識がない浅学のひとりであるが、時代に翻弄される沖縄県民に、
ときには深く感傷させられる時もあるが、
長い展望でそれぞれの家族ひとりひとりが少しでも豊かさを求めて欲しい、
と政治の思惑より現実経済向上を願うひとりである。

このような思いを重ねて、今日に至っている。




余談であるが、私は沖縄、石垣島を旅をした時、最も魅了された歌は、
恥ずかしながら吉川安一さんが作詞された『芭蕉布』である。

もとよりBEGIN(ビギン)の『島人ぬ宝』、夏川りみの『涙そうそう』であり、
そして喜納昌吉の『花』、宮沢和史の『島唄』もある。
或いは寺島尚彦さんが作詞され、森山良子さんが唄われた『さとうきび畑』もあり、
いずれも私は、百回以上聴いている満天の星空のような名曲である。

私は沖縄、石垣島を旅路の中、時折かぼそい声で唄ったりした・・。

♪海の青さに 空の青
 南の風に 緑葉(みどりば)の
 芭蕉(ばしょう)は情(なさけ)に 手を招く
 常夏(とこなつ)の国 我(わ)した島沖縄(うちなー)
【 『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

そして長き沖縄列島の歴史の中に、翻弄されてきた島民の苦楽、哀歓に、
無力ながら思い馳せたりしている・・。

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ときおり働いて下さる諸兄諸姉に、年金生活の私は、感謝を重ねたり・・。

2023-06-22 12:28:46 | 喜寿の頃からの思い

今朝7時過ぎ、ぼんやりと玄関の軒下に降り立つと、
曇り空を眺めたりした・・。


こうした中、門扉の前の道路で、40代風の男性が夏のスーツをきっちりと着て、
ビジネスバックを提げて通り過ぎて行った・・。

この後、ワイシャツ姿の男性2名が足早に通り過ぎて、
ぼんやりと私は眺めたりした・・。


まもなく私は、もうあのような時代には戻れない・・、
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、微苦笑したりした・・。  

       


過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、明日が見えないような生活をしたが、
やがて4年が過ぎる頃に、はかなくも敗退した。

そして止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフト科に、
1年間ばかり学んだりした。

やがて1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく創立された外資系のレコード会社に移籍させられ、
音楽に直接に携わる制作畑でなく、上司より叱咤激励されながら、
商品、情報、経理、営業に配属され、何かと悪戦苦闘が多い中、奮戦して、
やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職した身である。


           

この間、中小業の多いレコード会社であったので、
幾たびリストラを何とか障害レースを乗り越えたが、
最後の5年はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか出向先で定年退職を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

この間、家内は長年に於いて専業主婦として、私を支えてくれたが、
こうした状況の中で、私は働くことを断念して、年金生活を始めたりした・・。


         
          
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
第二の人生は、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、
私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
                                
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
利便性のよい路線バスに乗るのことなく、殆ど歩いて往還してきた。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。


 
この間、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたりした。

そして糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
ひたすら歩くことが多くなっている。
                                               
この後の日中の大半は、居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

新聞は『読売新聞』を長らく購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】に縋(すが)り、
多々教示されている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、
聴いたりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。



そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
               
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねきた・・。

現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

こうした中で私たちは観光ホテルなどに滞在して、
周辺の山里、遊歩道、街並みの中を歩きながら

その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。
           
                

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうして私たち夫婦は、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
     
このように私は安楽な年金生活を過ごしてきたが、もとより年金が基盤となっている。
           


日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、

高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして年金も現役世代が払う保険料で
高齢者に年金を支給する「世代間扶養」の仕組みを取っているので、
団塊の世代が過ぎし65歳を過ぎてから、社会保障を長らく支えてきた団塊の世代が、
「支えられる世代」となって、若い世代に重い負担を強いることになってしまった現状である。

そして周知の通り、失われた20年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ20年近く、たえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、安住できない時代となってきた・・。

こうした過酷の中で働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、
このように熾烈な状況の中で奮戦している。
           
  

そして過酷な現実として、年金、医療、介護などで、少なくとも毎年一兆円が増加している。


こうした状況が放置すれば、現役世代の諸兄諸姉からすれば、高齢者は過重負担する人たち、
と思いながら険悪し、粗末にする風潮も予測できるので、
私は働いて下さる諸兄諸姉に、ときおり感謝を重ねたりしている。

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年金生活の大切な「きょういく」、「きょうよう」を学び、早や14年が過ぎて・・。

2023-06-21 15:07:59 | 喜寿の頃からの思い
私はある民間会社に

こうした中、年金生活を始めて2年過ぎた62歳の頃、
会社時代のOB懇親会が開催され、
私は御世話になった16歳上の大先輩と談笑したりしていた。


こうした中で、大先輩より、
『年金生活の中、病気になって病院にお金を運ぶか、
或いは自身の好きな趣味に使うか・・人それぞれだよねぇ・・』
と私は言われたりした。

そして私は

『確かにセカンンドライフを過ごす中、天と地ですよねぇ・・』
と私は漠然としながら応じたりした。


      
この2年が過ぎた会社時代のOB懇親会の中で、
私の上司だった7歳上の御方と歓談している中で、この御方より、
『ところで・・年金生活で健康に過ごすひとつに、
「きょういく」、「きょうよう」・・、知っている?』、
と私は尋たず(たず)ねられたりした・・。

この後、親切なこの御方より、
『「きょういく」は、今日行くべきところ「きょういく」で、今日行く・・、
 「きょうよう」は、今日やるべき用事がある「きょうよう」で、今日用・・』
このように退職後の年金生活でも、溌剌と日々を過ごしなさい・・
と駄洒落なような格言なの・・、
と私に教えて下さったりした。

そして『教育』も『教養』も、ボケない程度に自身の為に・・、
と微笑みながら、私に教えて下さったりした。




我が家の平素の買い物に関して、年金生活を始めた当初より、

私は自主宣言をして、家内から依頼された品を求めて、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に独りで行っている買物メール老ボーイとなっている。

しかしながら3年半前の2月に新ウィルスコロナの烈風後は、
感染が怖くて、『三密(密集、密接、密閉)』に伴い、
3日に一度ぐらいに集約して、素早く店内の品を確認し、買い物をしている・・。

こうした根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言し、今日に至っている。


 




そして昼食だけは、私たち夫婦はお互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

こうした根底には、やはり






この間に、年金生活を始めて間もない時に、
ブログの世界を知り、パソコンの故障、国内旅行、入院などで自宅不在でない限り、
原則として一通は投稿している。

ブログの大半は、年金生活を過ごしている今、
日々に感じたこと、思考したことなどの心の叫び、思いなど、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。



こうした日常生活を過ごし、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。


そして何とか80歳を迎える頃まで、
ボケないで過ごせるかしら、と空を見上げたりしている。
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早食いの人は、身長が縮みやすい!? 、78歳の私は学び、やがて微苦笑して・・。

2023-06-20 16:25:01 | 喜寿の頃からの思い
『 早食いの人は身長が縮みやすい!?  日本人対象の調査結果 』、
と題された見出しを見たりした。

私は私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、
早食いに関しては、私は大学一年生以来より、『早食い』の悪しき習性がある。

たまたま私は、ワンダーフォーゲル部に入部して、先輩の指導の基づいて、
テントで宿泊して、山歩きをしてきた・・。


こうした中で、山歩き訓練、合宿などで、
1年、2年生は共同のテント設営、簡易な料理を担当するが、

肝要の食事の時も、先輩の3年、4年生に最優先に食事をだした後、
この間に、私たち一年生は食事をして、やがて後かたずけを素早くする暗黙の規則があったりした。

こうした習慣で、何かとノロマの私でも、『早食い』となり、
やがて年金生活の今でも、悪しき『早食い』の習慣は治らず、独り微苦笑したりしている。



このような習性のある私は、今回の《・・早食いの人は、身長が縮みやすい!?・・⦆、
78歳の私は、遅ればせながら学びたく、記事を読んでしまった。

この記事は、勤務薬剤師/「薬剤師のジャーナルクラブ」共同主宰の青島周一さんの寄稿文であり、
【日刊ゲンダイヘルスケア】に2023年5月28日に配信され、
無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・
食事の速さは、健康状態の変化と関連することが知られており、
特に早食いは、糖尿病や肥満のリスクを高める可能性が報告されています。

また、過去の研究報告によれば、肥満は低身長と関連しており、
肥満と低身長は、ともに心臓病の発症と関連することが示されています。

一方、早食いが、身長に影響を及ぼすかどうかについて、
詳しいことは、よく分かっていませんでした。

そんな中、食事の速さと身長の関連性を検討した研究論文が、
「プロスワン」という科2023年4月264月26日付で掲載されました。


この研究では、日本人労働者8982人(平均51歳)が解析対象となりました。
食べる速度は、「遅い」、「普通」、「速い」の3つに分類され、
過体重(BMIで25以上の太り過ぎ状態)や、
身長が低下(男性で年間1・8ミリ、女性で年間2・06ミリ)した人の割合が比較されています。
なお、研究結果に影響し得る年齢、性別、飲酒状況、喫煙状況などの因子について、
統計的に補正して解析されました。


平均で3年半にわたる追跡調査の結果、
過体重となった人の割合は、食事の速度が「遅い」人と比べて、
「普通」の人で1・96倍、「速い」人で2・92倍、
統計学的にも有意に増加しました。

一方、食事の速さと身長の関連性については、
被験者の体格によって異なりました。

過体重でない人は、食事の速度が「速い」人で身長低下が34%多かった一方、
過体重の人では逆に、食べる速度が「速い」人で身長低下が48%少ないという結果でした。


身長の低下については、解析結果の一貫性を欠くものの、
論文著者らは「中年以降に始まる身長の低下は、心臓病の危険因子であり、
食事の速度を遅くすることは、身長の低下と心臓病の予防に有益かもしれない」と結論しています。・・


注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



私はある民間会社にこうした中、年金生活を始めた当時は、身長170センチ、体重は70キロであったが、
やがて5年後の健康診断の時、体重は75キロ前後のなってしまったが、
身長は169センチとなったりした。

そして私は身長が1センチ縮んだので、付近にいた医療スタッフの女性に、
『身長が縮んでしまいましたが・・』、
と私は驚きながら、尋ねたりした。

『お年を召されますと、身長は縮む傾向がありますので・・』、
と医療スタッフの女性は、微笑みながら私に言った。

そして私は、俺も老人の始まるかょ・・と心の中で呟(つぶや)きながら、
やがて愕然としたりした・・。

そして78歳の今、今年の健康診断で、
身長168・5センチ、体重は73キロ、と測定されたりした。

そして定年後、身長は1・5センチ縮んでしまい、
いよいよ老人になってしまったか・・と微苦笑したりした。

このような私の体験から、早食いの人は、身長が縮みやすい・・、
関係はないよなぁ・・と思ったりしている。



むしろ早食いの私は、誤嚥(ごえん)に注意している。

私は朝食、夕食の時、家内と共に頂いているが、
私は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりが好きで、

何かと家内と談笑したりしている。

そして私は、食べながら家内に話したりしていると、一か月に一度ぐらい、
食物が食道へ入るべきものが気管に入ってしまうらしく、

一分ぐらい、むせたり咳き込んだりすることがある。

こうした時、家内は

『高齢者になると誤嚥(ごえん)になる人が多いから、気を付けてねぇ・・』
と私は言われたりしている。

私は5年前の頃までは、こうした体験がなく、

やはり高齢者になると食べ物がのみ込む力の嚥下(えんげ)の力が衰えたのかしら、
と戸惑いながら不安を秘めたりしている。

そして家内も、数か月に一度ぐらいあるから、私も気を付けるわ、
と私に微苦笑しながら言ったりしてきた。



こうした私たち夫婦は、誤嚥(ごえん)について、
少しばかり体験をしてきたので、やはり注意1秒で食べる時、お茶を飲む時は、
ゆっくりと頂くことが肝要だなぁ・・と思い深めたりしている・・。
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ときおりボケる78歳の私、言い訳のひとつには・・。

2023-06-19 12:26:29 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、

こうした中、確か8年前の70歳の頃から、
齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、

その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。





こうした中、ブログの投稿文の中に於いても、
ボケたことをして、苦笑したりしている。

ボケたひとりの『言い訳』を恥ずかしながら、発露する・・。

16日の投稿文の中で、《・・
ぼんやりとを眺め・・》、
と明記している癖に、

17日の投稿文のタイトルに於いては、
《・・梅雨の間の晴れ間、初夏の多彩な花に、めぐり逢えて・・。》、
と明記していて、投稿して夕食後に気付き、赤面したりした・・。



もとより『』は、梅雨の時節に不意に訪れる晴れ間、
古来から伝えられ、
6月に使われる時候の挨拶ともなっている。

恥ずかしながら、17日のタイトルは、
物思いに耽(ふけ)りながら、梅雨の間の・・晴れ間だよなぁ、と明記してしまった。

ときおりボケたような私の悪い癖で、苦し紛れの言い訳である。



余談であるが、古来より太陽より舞い降りる光を、
『日差し』と表現される世の中が多いが、
私は中学一年生の頃より、太陽より恵んで下さるので『陽射し』と表現してきた。

そして英語の辞書を引くと、
日差し → sunlight
陽射し → sunshine 
と明示され、微苦笑し、英語に苦手な私でも、『sunshine』の方が好みかしら・・、
と微笑んだりしている。

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マイナンバーカード、最も怖いのは個人情報漏洩、高齢者の私は学び、動顛して・・。

2023-06-18 15:06:52 | 喜寿の頃からの思い

《・・ マイナンバーカードで取った住民票が、赤の他人のものだった──
今年3月以降、神奈川・横浜市や川崎市、東京・足立区など、
各地のコンビニでこんな“珍事”が相次いでいる。

「最大2万円分のポイントを付与」など、これまで国を挙げて大キャンペーンを行い、
政府が事実上の義務化を目指すマイナンバーカード。
だが、ここに来てトラブルが多発しているのだ。

住民票誤発行のほかにも、
公金受取口座がまったくの別人の名前で誤登録されていたケースが748件あり、
本人ではない家族名義の口座の誤登録はなんと13万件もあった。

加えて6月9日には、マイナポータル(政府が運営するオンラインサービス)で、
他人の年金記録が閲覧できる問題も明らかになった。




昨年8月にも、滋賀県でマイナ保険証の利用を希望していない市民の保険情報が、
職員のミスによって、カードに誤登録されるケースが発生。

ただの人的ミスなら、登録を解除すれば済むはずだが、
職員が解除手続きしようとしたところ、国は「手順を整備していない」として、解除を拒否。

つまり、一度マイナ保険証に移行してしまったら、
それが誤りであっても、二度ともとに戻すことはできないのだ。

その一方で、「医療機関で提示したマイナ保険証に、
まったくの別人の情報が登録されていた」というケースも多数報告されている。

これだけミスや不祥事が世間を騒がせているにもかかわらず、
6月2日、現行の健康保険証を2024年秋に原則廃止することを盛り込んだ法案が、
国会で成立した。

「マイナ保険証」への移行が実質的に義務化され、現行の保険証は「実質廃止」となる。



☆1つの番号に全情報をひもづける「フラット型」のリスク

経済ジャーナリストの荻原博子さんが、警鐘を鳴らす。

「マイナポータルでは、マイナンバーカードをつくれば、
さまざまな行政サービスがスピーディーに受けられるとうたわれていますが、
これだけのトラブルを目の当たりにしては、とても信頼できません」(荻原さん・以下同)

荻原さんは、今後はカードを持っているだけで、
さらなる不利益が生じる可能性があるとみる。

もっとも気がかりなのはやはり、個人情報の漏えいだ。

マイナンバーと暗証番号さえわかれば、
住所や氏名、生年月日はもちろん、勤務先、収入状況、病歴まで、
ほぼすべての個人情報が漏れてしまう恐れがある。

「マイナンバーカードのように、1つの番号に全情報がひもづけられている管理方法を『フラット型』といい、
アメリカやシンガポールでも、同様の方法が取られています。

ですが、アメリカでは、過去にこれを利用した詐欺で、年5兆円が奪われました。
シンガポールでも、2018年に150万人の医療情報が盗まれる事件が起きている。

このため諸外国では、フラット型の利用範囲を狭めているのに、
日本はそれに逆行しているのです」

マイナポータル規約には〈デジタル庁の故意又は重過失によるものである場合を除き、
デジタル庁は責任を負わない〉と書かれている。

つまり「基本的に、何が起きても、国は責任を負いません」と明記しているのだ。

「“デジタル後進国”である日本が、
国民の個人情報を犯罪者から守れるとは、とうてい思えません」・・》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。



私はマイナンバーカード制度にも専門知識はないが、
国が国民に対して実施する場合は、利用する国民から信頼されることが第一歩と思っている。

総務省、厚生労働省、デジタル省などがマイナンバーカード制度に関わり、
総体的な責任元が不明確であるので、一元化した『マイナンバー省』を新設し、
これらがすべて管轄責任とする。

それまで凍結して、これから3年前後、改めて開発、運営まで、不備がないようにした上で、
初めて国民に利用しやすいようにするのが、政府のありかた、
と私は思い深めている。



尚、この記事に続いて、『マイナンバーカード「口座連携」解除の3ステップ』、
図表で掲載されていたので、私は見ながら苦笑したりした・・。

マイナンバーカード「口座連携」解除の3ステップ

マイナンバーカード「口座連携」解除の3ステップ


 

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梅雨の間の晴れ間、初夏の多彩な花に、めぐり逢えて・・。

2023-06-17 14:40:29 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
今朝、ぼんやりと地元の天気情報をテレビで視聴していたら、
朝の6時は21度、昼下がりは31度前後、夕方の6時は27度前後、
梅雨の間の晴れ間となりますが、30度を超える熱い日中となります。

お子様、御年配の御方はもとより、皆様は熱中症に注意して、
水分補給は充分して下さい、このように私は聴こえて、
微苦笑したりした・・。

そして私は、いつも散策しているコースで、
桔梗(キキョウ)、木槿(ムクゲ)の花は咲いたかしら、
ぼんやりと思い浮かべたりした・・。

まもなく
本日の散策コースは、近くの都立の『植物多様性センター』、
そして『神代植物公園』を
散策しょうと思い、まもなく家を出たりした。


いつものように最寄り駅のひとつの京王線の『つつじが丘』の駅前より、
路線バスで調布市の『総合体育館前』で下車した後、

体育館前のゆったりとした広場を通り過ぎたりした。





そして隣接の都立の『植物多様性センター』を散策したりした・・。

まもなく桔梗(キキョウ)が昨年咲いていた処に行くと、
今年も逢えたねぇ・・と微笑みながら撮ったりした・・。


 


 
この後、可愛らしい野花にめぐり逢えて、記念に撮ったりした。



やがて都立の『神代植物公園』に向かった後、
いつものように好感している景観を撮ったりした・・。

 


 

まもなく10前後咲いていた蓮(ハス)を見ながら、
いつもより早いじゃないの・・と心の中で呟きながら、記念に撮ったりした。







この後、ベンチに座って、買い求めた煎茶のペットボトルを飲んで、
水分補給をした後、木槿(ムクゲ)のコーナーに向かい、
咲いていますように・・こっそりと願いながら歩いた・・。

やがて少ないながら、今年も咲き始めていた・・。










このような木槿(ムクゲ)に心を満たされた後、
私の最も好きな景観の処を歩き廻ったりした・・。







こうした中、30度近い陽射しの中、やはり高齢者の私は、
熱中症は天敵であるので、まもなく『神代植物公園』を辞したりした。

この後、隣接している『深大寺』に寄ったりした・・。



今回は『本堂』でお賽銭百円ばかりで、お願いをたくさん祈願し、
まもなく家路に向かったりした。
 

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無念ながら齢を重ねれば、私だって・・と微苦笑して・・。

2023-06-16 14:06:49 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、先程、ぼんやりとを眺め、
1月3日の夜10時過ぎ、
私は心臓の左胸が圧迫され、強く痛みを感じて、
やむなく救急車で循環器専門の『榊原記念病院』に搬送されたりした。

そして『榊原記念病院』に到着後、10数名の医療スタッフの中で、
私は中央診察台で心電図、造影剤を入れてカテーテル、そしてCTスキャンなどの精密検査、
或いはレントゲン終えたのは、早朝3時半過ぎであった・・。

やがて『胸膜炎』(追記・急性冠症候群)と病状とされ、しばらく経過観察したく・・
と入院が余儀なくされて、結果的に8泊9日の入院となったりした。




こうした中、退院の一日前、40代の男性の担当医師より、
『私もタバコを喫っていましたが、やはり身体によくないと思い、
3年前にやめまして・・貴方もタバコやめることはできませんか・・』、
と私に言ったりした。

私は、困ったなぁ・・と溜息をしたりした後、
『これを機会に、タバコやめます!』
と私は担当医師に向かって言ったりした。

そして自身を鼓舞するように、人生は気合だ、と心の中で叫んだりし、
これを機会にタバコにお別れとなったりした。

こうした根底には、やはりタバコは身体に良くないと、担当の医師から進められて、
何かを断念しなければ、この先はないと思い、断腸の思いで禁煙したのは本音であった。

断念しなければ、この先はないと思ったからである。



これ以降、
誕生日を迎えるたびに、何とか80歳を迎えたいなぁ・・
と思い深めたりしている。

そして私の念願として、80歳の誕生日の時は
心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命で迎えられますように、
と時折祈願したりしている。

こうしたことは、もとより自助努力も欠かせないが、
こればかりは仏様か神様が采配することだよねぇ・・、
と何かとプラス思考の私でも思ったりしている。

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