夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去りし、この五月は私の人生のターニング・ポイントとなり・・。

2009-05-31 17:50:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
相変わらずこのサイトに綴り、この五月は47通ばかり投稿してきた・・。

私はその日の思い、少しばかり思索していることを心の発露として、
綴っている。

私はこの5月は年金生活が実質四年半となっているが、
先ほど投稿した文を読み返して、
私の人生のターニング・ポイントかしら、と微苦笑しながら読んでいたのである。

このことは、5月20日の投稿文のひとつとして、
【 『人生50年・・』と古来には、表現されていたが・・。 《下》】
と題して、投稿したが、
私の思いを余すところなく明確に表示したのは初めてであり、
残された人生の日々の決意表明であるので、
まぎれなく私のつたないなりの人生のターニング・ポイントである。

最近の投稿文で少しばかり躊躇するがあえて、再掲載をする。

【・・
私は定年退職後まもなくして偶然にブログの世界を知り、
私は若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも心痛な思いで、
綴ったりしてきたこともあった。


私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等性だったこと。

小学二年の時に父が42歳の時に病死され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。
そして、幼年期には本といえば、『家の光』しかなく、
都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、愕然としたこと。


高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、小説らしき習作を始めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなくレコード会社に異動して、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の五年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎えたのである。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の五年前頃からは、
漠然と定年後の十年間は五体満足で生かしてくれ、
後の人生は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、
自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


余談であるが、私と同じような年金生活をしている方で、
生きがいを失くし、目に輝きを失くした方を見かけたりすると、
齢ばかり重ね、孫の世代の人々にお恥ずかしくないのですか、
と私は思ったりしている。

・・】


このような深い思いで綴ったのであり、
私は安楽な年金生活を求めるのではなく、苦節の多い日々を迎えるが、
もとより自身の選んだ道のりであり、生きがいを深めた日々でもある。




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《8》

2009-05-31 16:28:49 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
前回は、徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまったが、
今回はこの続編である。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

【・・
      都落ち

       1

2月ばかり経(た)った。

明治40年の1月である。
ある日田舎の人が2人青山高樹町の彼が僑居(きょうきょ)に音ずれた。
1人は石山氏、今1人は同教会執事角田新五郎氏であった。
彼は牧師に招聘(しょうへい)されたのである。
牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。

彼は千歳村にあまり気がなかった。
近いと聞いた玉川は1里の余もあると云う。
風景も平凡である。
使って居た女中は、江州(ごうしゅう)彦根在の者で、
其郷里地方(きょうりちほう)には家屋敷を捨売りにして
京、大阪や東京に出る者が多いので、うその様に廉(やす)い地面家作の売物があると云う。
江州――琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近い――
大に心動いて、早速郷里に照会してもらったが、一向に返事が来ぬ。

今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込(ひきこ)む者があろうか、
戯談(じょうだん)に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。

江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇(むやみ)と乗地(のりじ)になって、
幸い三つばかり売地があると知らしてよこした。
あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。


一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、
一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍(そ)うて居た。
此等(これら)は彼が懐(ふところ)よりも些(ちと)反別が広過ぎた。

最後に見たのが粕谷の地所で、1反5畝余。
小高く、一寸見晴らしがよかった。
風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木に
しばりつけた土間共15坪の汚ない草葺の家が附いて居る。
家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、
家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。

地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。
其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。
此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。


石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。
江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。
彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。

手金を渡すと、今度は彼があせり出した。
万障(ばんしょう)一排(いっぱい)して2月27日を都落の日と定め、
其前日26日に、彼等夫婦は若い娘を2人連れ、草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、
東京から掃除に往った。

案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。
雲雀(ひばり)の歌が纔(わずか)に一同の心を慰めた。


来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、
先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。
以前石山君の壮士をしたと云う家主の大工とも挨拶を交換した。

其妾と云う髪を乱(みだ)した女は、
都の女等を憎くさげに睨(にら)んで居た。

彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩(いこ)うた。
小さな墓場一つ隔てた東隣の石山氏の親類だと云う家のおかみが、
莚(むしろ)を2枚貸してくれ、
土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、
彼等は莚の上に座(すわ)って、持参の握飯を食うた。


十五六の唖に荷車を挽(ひ)かして、出る人々はよう/\出て往った。
待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。

引越しあとの空家は総じて立派なものでは無いが、
彼等はわが有(もの)になった家のあまりの不潔に胸をついた。
腐れかけた麦藁屋根、ぼろ/\崩(くず)れ落ちる荒壁、
小供の尿(いばり)の浸(し)みた古畳が6枚、
茶色に煤(すす)けた破れ唐紙が2枚、
蠅の卵のへばりついた6畳1間の天井と、
土間の崩れた一つ竈(へっつい)と、糞壺(くそつぼ)の糞と、
おはぐろ色した溷(どぶ)の汚水と、其外あらゆる塵芥(ごみ)を残して、
先住は出て往った。

掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。
彼は憤然(ふんぜん)として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、
ヤケに塵の雲を立てはじめた。
女連も是非なく手拭かぶって、襷(たすき)をかけた。


2月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。
あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。
今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、
女連はへと/\になって居た。

       2

明くれば明治40年2月27日。
ソヨとの風も無い2月には珍らしい美日(びじつ)であった。

村から来てもらった3台の荷馬車と、
厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、
臼田(うすだ)氏、角田勘五郎氏の息子、以上4台の荷車に荷物をのせて、
午食(ひる)過ぎに送り出した。

荷物の大部分は書物と植木であった。
彼は園芸が好きで、原宿5年の生活に、借家に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。
大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。
其等は皆持て行くことにした。
荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立(かぶだち)の榛(はん)の木まで、
駄々を捏(こ)ねて車に積んでもろうた。

宰領には、原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。


加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、
おの/\告別して出て往った。
暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。
隣に住む家主は、病院で重態であった。
其細君は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。
甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別(わかれ)を告げねばならなかった。
別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札が張られてあった。


彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、
手々に手廻りのものや、ランプを持って、
新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を1時間余ガタくり、
馭者(ぎょしゃ)に教えてもらって、上高井戸の山谷(さんや)で下りた。


粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、
武蔵野一円金色の光明を浴(あ)びた。
都落ちの一行3人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。
遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、
先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。
人と荷物は両花道から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。

昨日掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、6畳2室に敷かれて、
流石に人間の住居らしくなって居た。
昨日頼んで置いたので、先家主の大工が、
6畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏を隠す可く粗末な天井を張って居た。


日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。
道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、
荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。

兎も角もランプをつけて、東京から櫃(おはち)ごと持参の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、
彼等夫妻は西の6畳に、女中と三吉は頭合せに次の6畳に寝た。


明治の初年、薩摩近い故郷から熊本に引出で、
一時寄寓(きぐう)して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、
8歳の兄は「破れ家でも吾家(わがいえ)が好い」と喜んで踊ったそうである。


生れて40年、1反5畝の土と15坪の草葺のあばら家の主(ぬし)になり得た彼は、
正に帝王の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。

・・】

このように綴られていた。


徳富蘆花自身、千歳村粕谷に決めるまでは、
京都に近い江州の彦根地方は、家屋敷を捨売りにして
京、大阪や東京に出る者が多いので、破格に地面家作の廉い売物があると聞き、
江州であったならば、琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近いので、
問い合わせしながら思案を重ねたが、明確な返信がなく、待ちわびたのである。


この間も、上祖師ヶ谷で青山街道に近く所、或いは品川へ行く灌漑用水の流れに傍うて居た所もあったが、
此等(これら)は彼が懐よりも些(ちと)反別が広過ぎたので、断念した。

そして最後に見たのが粕谷の地所は1反5畝余があり、
小高く、一寸見晴らしがよかった。
風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木に
しばりつけた土間共15坪の汚ない草葺の家が附いて居る。

家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、
家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。

地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。
其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。
此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。


地主の石山氏は所決に促がされたり、問い合わせた肝要な江州からは便りがなかったので、
粕谷の地所にきめて、手金を渡した、と明記されている。

こうした揺れ動く思いの結果、千歳村粕谷に住むことを決意した後、
2月27日を都落の日と定め、前日に彼等夫婦は若い娘を2人連れ、
草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、
東京から掃除に往った。

そして案外道が遠かったので、娘等は大分弱ったりしながら、到着したが、
前日中に明け渡す約束なのに、先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで折、
この妾と云う髪を乱した女は、都の女等を憎くさげに睨(にら)んで居た。

やむえず彼等は先住の出で去るを待って、
畑の枯草の上に憩(いこ)うた。
そして石山氏の親類だと云う家のおかみから、莚(むしろ)を2枚貸してくれ、
土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、
彼等は莚の上に座って、持参の握飯を食うた。

この後、先住の人たちが去った後、彼等は立上って掃除に向ったが、
引越しあとの空家は総じて立派なものでは無く、
余りにも不潔で掃除の手をつけようもなかったが、
氏自身は、憤然としながら竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、
ヤケに塵の雲を立てはじめた。
そして女たちも、やむえず手拭かぶって、襷(たすき)をかけた、
と記されている。

2月の日は短い中、掃除半途に日が入りかけたので、
あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。

今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、
女たちはへと/\になって居た。

私は読みながら、氏自身迷いながらも千歳村粕谷に住むことを決め、
引越しの前日に大掃除に訪れ、
先住者の住んでいた荒れ果てた不潔な草葺の小屋を掃除したのである。
何よりが、都心の青山・高樹町の住まいから、
彼等夫婦は若い娘を2人連れ、草箒と雑巾とバケツを持って、
結果として往復の長い道のりを歩いたことであった。


引越しの当日の明治40年2月27日、
村から来てもらった3台の荷馬車と、厚意で来てくれた知人等も加わり、
そして4台の荷車に荷物をのせて、昼過ぎに青山・高樹町を送り出した。

荷物の大部分は書物と植木であり、荷車の諸君にこのようなもの、
と笑われたりした上、
栗、株立の榛(はん)の木まで、懇願して、車に積んで貰ったりした。
そして運搬の宰領として、
原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。

その後、彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、
手々に手廻りのものや、ランプを持って、
新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を1時間余ガタくり、
馭者に教えてもらって、上高井戸の山谷(さんや)で下りた。

粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、
武蔵野一円金色の光明を浴(あ)びた。

都落ちの一行3人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。
遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、
先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。
人と荷物は両花道から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。

昨日掃除しかけて帰った家には、
石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、6畳2室に敷かれて、
流石に人間の住居らしくなって居た。
昨日頼んで置いたので、先家主の大工に粗末な天井を張って居た。

日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。
道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、
荷車と荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。

兎も角もランプをつけて、
東京から櫃(おはち)ごと持参の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、
彼等夫妻は西の6畳に、女中と三吉は頭合せに次の6畳に寝た。


生れて40年、1反5畝の土と15坪の草葺のあばら家の主(ぬし)になり得た彼は、
正に帝王の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。


このように引越しの状景を微妙な心情をまじえて綴っているが、
私なりに想像ができる。
このことはもとより徳富蘆花氏の筆力によるものであり、
あの当時はそうでしたの・・と私は深く思いを寄せて読んでいた・・。


                            《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《7》

2009-05-30 18:36:59 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の【みみずのたはこと】に於いて、最初の『故人に』の第1章~第5章まで転載させて頂きながら、
私なりの思いも重ねて綴ったりしている。

この後の【みみずのたはこと】は、『都落ちの手帳から』と副題され、
『千歳村』ではじまる。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

【・・
   都落ちの手帳から

     千歳村

       1

明治39年の11月中旬、彼等夫妻は住家(すみか)を探すべく東京から玉川(たまがわ)の方へ出かけた。


彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇(やそ)の旧跡と、
まだ生きて居たトルストイの村居(そんきょ)にぶらりと順礼に出かけて、
其8月にぶらりと帰って来た。

帰って何を為(す)るのか分からぬが、
兎(と)に角(かく)田舎住居をしようと思って帰って来た。
先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、
往(い)ったら如何だと云う。
伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、
玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。
そうか、では何日(なんにち)に案内者をよこそう、と牧師は云うた。


約束の日になった。案内者は影も見せぬ。
無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓(したつづみ)をうって、
案内者なしに妻と二人(ふたり)西を指して迦南(カナン)の地を探がす可く出かけた。

牧師は玉川の近くで千歳村(ちとせむら)だと大束(おおたば)に教えてくれた。
彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込(こ)んで、
例の如くぶらりと出かけた。

       2

「家を有つなら草葺(くさぶき)の家、
而して一反でも可(いい)、己が自由になる土を有ちたい」

彼は久しく、斯様な事を思うて居た。

東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。
草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳(わけ)である。
最近5年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、
東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。
然し借家借地は気が置ける。

彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑を有って居たが、
其土は銭に化けて追々(おいおい)消えてしまい、
日露戦争終る頃は、最早一撮(ひとつまみ)の土も彼の手には残って居なかった。
そこで草葺の家と1反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。


彼が2歳から中2年を除いて18の春まで育った家は、
即ち草葺の家であった。
明治の初年薩摩境に近い肥後(ひご)の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、
父が求めた古家で、あとでは瓦葺(かわらぶき)の一棟が建増されたが、
母屋(おもや)は久しく茅葺であった。

其茅葺をつたう春雨の雫(しずく)の様に、
昔のなつかし味が彼の頭脳に滲(し)みて居たのである。
彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末(すえ)で、
代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。

彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、
小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。

彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生(ごうせんせい)をする傍、
殖産興業の率先をすると謂って、女(むすめ)を製糸場の模範工女にしたり、
自家(じか)でも養蚕(ようさん)製糸(せいし)をやったり、
桑苗販売(そうびょうはんばい)などをやって、いつも損ばかりして居た。

桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、
彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛(ほう)り出して、
柄(え)の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。
弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、
吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌(いや)になり、疳癪(かんしゃく)を起してやめてしまうが例であった。


父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、
出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹などの苗を仕入れて帰り、
其他種々の水瓜、甘蔗(さとうきび)など標本的に試作(しさく)した。

好事となると実行せずに居れぬ性分で、
ある時菓樹(かじゅ)は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効(こう)があると云う事を何かの雑誌で読んで、
屋敷中の梨の若木(わかき)の膚を一本残らず小刀で
メチャ/\に縦疵(たてきず)をつけて歩いたこともあった。

子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、
実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻(まわ)り、
甘蔗と間違えて西洋箒黍(ほうききび)を噛(か)んで吐き出したり、
未熟の水瓜を窃(そっ)と拳固で打破って川に投げ込んで素知(そし)らぬ顔して居たり、
悪戯(いたずら)ばかりして居た。

十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、
爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。
其家には14になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古(げいこ)もしたが、
1年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。
但右の養蚕家入門中、
桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌(てのひら)の拇指(おやゆび)の根にざっくり切り込んだ其疵痕(きずあと)は、
彼が養蚕家としての試みの記念として今も三日月形に残って居る。


斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。

       3

青山高樹町の家をぶらりと出た彼等夫婦は、
まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。
唯有(とあ)る饂飩屋(うどんや)に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。

松陰神社で旧知(きゅうち)の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿(しゅく)のはずれまで歩き、
交番に聞いて、地蔵尊(じぞうそん)の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。
余程往って最早(もう)千歳村(ちとせむら)であろ、
まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。

妻は靴に足をくわれて歩行に難(なや)む。
農家に入って草履を求めたが、無いと云う。
漸(ようや)く小さな流れに出た。
流れに沿(そ)うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺(くさぶき)の小家がある。
ドウダンが美しく紅葉して居る。
此処(ここ)は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。
彼様な家を、と彼等は思った。


会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家(うち)に寄ってきいたら、
洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、
「粕谷だね」と云った。

粕谷さんの宅は何方(どちら)と云うたら、
かみさんはふッと噴(ふ)き出して、
「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」
と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。


尋ね/\て到頭会堂に来た。
其は玉川の近くでも何でもなく、見晴(みはら)しも何も無い
桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。

病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした50余の婦(おんな)が、
案内を請う彼の声に出て来た。
会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。
彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。

トタン葺(ぶき)の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵(どぞう)など見えた。
暫(しばら)くすると、草鞋ばきの人が出て来た。
私が石山(いしやま)八百蔵(やおぞう)と名のる。
年の頃50余、頭の毛は大分禿(は)げかゝり、猩々(しょうじょう)の様な顔をして居る。
あとで知ったが、石山氏は村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして居るが、
政争の劇(はげ)しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、
白刃の間を潜(くぐ)って来た男であった。

推参(すいさん)の客は自ら名のり、
牧師の紹介で会堂を見せてもらいに来たと云うた。
石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、
福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、
また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、
尊名は初めてだと、飛白(かすり)の筒袖羽織、禿(ち)びた薩摩下駄(さつまげた)、鬚髯(ひげ)もじゃ/\の彼が
風采(ふうさい)と、煤竹(すすたけ)色の被布を着て痛そうに靴を穿(は)いて居る白粉気も何もない女の容子(ようす)を、
胡散(うさん)くさそうにじろじろ見て居た。

然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐を聞いて、
やゝ小首を傾(かし)げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰(もら)い申して、
月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚(おうよう)な態度を石山氏はとった。

兎に角会堂を見せてもろうた。
天井の低い鮓詰(すしづめ)にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、
裏に小さな部屋(へや)があった。

もと耶蘇教の一時繁昌した時、
村を西へ距(さ)る1里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、
其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、
石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、
近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。


会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。


晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風がさ/\尾花を揺(ゆ)する野路を、
夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。
何処(どこ)やらで夕鴉(ゆうがらす)が唖々と鳴き出した。
我儕(われら)の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 
斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。


甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。
唯有(とあ)る店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、
3里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。

・・】


氏は5年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家であったが、
かって熊本の郊外で、2歳から中2年を除いて18歳の春まで育った家は、
草葺の家であり、母屋は茅葺となっていた。
そして、家の周囲には桑畑の広がっていた。

こうした思いが茅葺につたう春雨の雫(しずく)の様に、
氏はなつかしい思いが根底にあり
田舎で草葺(くさぶき)の家に住み、畑の一反でも、己が自由になる土を有ちたい、
と思いが重なっていた。

先輩の牧師にこのような思いを伝えたら、
玉川の附近に教会の伝道地がある、と進められたが、
伝道師にはなるつもりはないが、田舎生活をしたいので、
下見に行く、と返答した。

牧師は案内者をよこす約束をしてくれたが、
当日に肝要の案内者は影も見せず、牧師からの連絡もなく、
やむえず妻を伴い、玉川の近くで千歳村だと教えてくれたのを頼りに、
都心の『青山高樹町』から歩き出した・・。

そして、まだ工事中の玉川電鉄の線路を『三軒茶屋』まで歩き、
昼食代わりに饂飩屋(うどんや)で、饂飩を食べた。

その後、『松陰神社』で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、
交番に聞いたりしながら、、地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。

そして千歳村をめざしたが、会う人々に尋ねながら歩くが、村には到着は出来なく、
この間に妻は靴に足をくわれて歩行の妨げとなったりしたので、
農家に入って草履を求めたが、無いと云われたりした。

この後、小さな流れに出て、流れに沿っていたら、
腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺の小家があり、
ドウダンが美しく紅葉した。

この後、ある家に立ち寄り、洗濯して居たかみさんたちに、
『会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか』
と訊ねた後、
やっとの思いで、会堂に到着したのである。

この地は玉川の近くでも何でもなく、見晴しも何も無い
桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。


この後は、村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして石山氏の宅に寄った後、
会堂を案内してもらったりし、
渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。

そして、晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風が吹き、
尾花を揺(ゆ)する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。

この後、甲州街道に出たが、あるといわれ頼りにした馬車も来なく、
ある店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、
3里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい『新宿』に着いたのである。


こうしたのが概要であるが、
この当時に於いて、案内人もなく、詳細の地図もなく、交通便が乏しい中、
徳富蘆花夫婦は、未知の千歳村粕谷にある会堂をめざして歩いたのである。
そして帰路も、夕暮れの肌寒い中、甲州街道を12キロばかりを歩き、
都心の新宿に着いたのである。

私は読みながらも、原宿、青山高樹町に住んでいた徳富蘆花夫婦が、
田舎生活を目指すために、千歳村の粕谷の情景はどうような思いで感じられたか、
私は昭和20年代の神代村の情景を思い出すと、少しは重なると思いながらも、
胸が熱くなったのは確かなことである。


尚、私が無知であったのは、
【・・
耶蘇教の一時繁昌した時、
村を西へ距(さ)る1里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、
其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、
石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来た
・・】
と氏は綴られているが、
あの当時、私の実家の神代村の隣接した調布町に於いて、
耶蘇教が繁昌した時に会堂まであったことは、
少し驚きながら、特に教示されたのである。


                          《つづく》
                         


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ここ一週間は、我が故郷に、ものぐるいとなり・・♪   

2009-05-30 10:24:22 | 定年後の思い
私は過日の24日(日曜日)から、このサイトに於いて、
【 我が故郷、先人に尋(たず)ねれば・・。 】と題して、6編ばかり連載して投稿している。

まだ連載の半ばであるが、私の現在と幼年期をゆきかいしながら、
明治後期と大正時代の頃を作家・徳富蘆花氏の随筆に導かれて、
深く思いを馳せ、日中はもとより夢の中でも徳富蘆花氏と会話することもあり、
無我夢中になっている。


こうした心情は、『我が故郷、先人に尋(たず)ねれば・・。』の第一回で、
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昭和19年9月に今住んでいる近くの実家で、
農家の三男坊として生を受けた。

私はこのサイトに於いては、私の幼年期から昨今まで、数多く綴ったりしているが
ここ数年、私の生まれる以前の昭和時代はもとより、
大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなったりしている・・。


父は昭和28年に病死され、そして祖父も後を追うように昭和29年に死去し、
私としては小学生であったので、
この頃の情景はある程度は鮮明に残っている。

母は無念ながら10年前に他界したが、
私は敗戦前の昭和時代の頃の我が家の出来事はもとより、
周辺の移ろう情景なども聞いたり、教えられたりした。

この間も、親戚の叔父、叔母、近所の小父、小母さんなどに訊(たず)ねたり、
教示されたりしてきた。

そして、図書館などに行き、『郷土史』などを読んだりしてきたが、
つたない私は、この時代を鮮明に整理を出来なかったのである。


こうした思いでいると、私は数キロ近くに『蘆花公園』があることにに気づき、
思わず微笑んだのである。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html

正式名所は『蘆花恒春園』であるが、このサイトの公園概要に明記されている通り、

【・・
「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、
後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分と
その周辺を買収してつくられました。

蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、
土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、
昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。
・・】
と解説される。

そして作家の徳冨蘆花氏は数多くの随筆を遺されているが、
千歳村の粕谷(現在:世田谷区粕谷)の地に約20年間生活されていたので、
遅ればせながら、何かこの地域に関する随筆はと探した結果、
『みみずのたはこと』の作品を知ったのである。

・・】

この『みみずのたはこと』に誘発されて、精読し、
私の幼年期の昭和20年代と徳富蘆花氏の明治後期、大正時代を交差しながら、
この一週間を過ごしている。


こうした私の悪い癖は、このサイトでも、2007年8月25日に於いて、
【 ときには、ものぐるいとなり・・♪ 】と題して、
投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は定年退職後の3年生の身であり、趣味の本を読んだり、映画を観たり、
そして音楽を聴いたりしているのが多い。

本に関しては、小説、随筆、歴史書、現代史が圧倒的に多く5000冊程度、
映画の場合はVCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後をときおり選択し、居間で観ている。
音楽についてはレコード、カセット、CD、DVDがやはり専用棚として3000枚ぐらい保管して折、
CDラジカセで聴いたりしていることが多い。

友人などに上げたりしてきたが、若き青年時代に映画青年、文学青年の真似事をした折、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれないのである。

古ぼけた一軒屋でこのような中でつつまれていると、
誰しも同じような体験があると思われるが、
私は熱病のように無我夢中となったりする時があった。

一時的な3ケ月前後で終わることが多いが、
少なくとも1年以上続いたのを振り返った時、
私なりに微苦笑しているのである。

音楽の場合は、昭和46年にシャンソンの【バルバラ】、その後は【金子由香里】を盛んに聴いていた。
この頃はレコードであったので、擦り切れる程度の百回以上聴き惚れていた・・。

平成元年の頃には、【中島みゆき】を偶然に聴き、
平成9年の頃に【X JAPAN】をテレビで観て、
惚れ込んでしまった。

映画の場合は、脚本家として【橋本 忍】で東京オリンピックの頃であり、
映画監督の場合だと【デビット・リーン】、【セルジオ・レオーネ】に夢中になったりしていた。

本の場合は、小説分野は【立原正秋】には二十歳の頃、
随筆の場合は【山口 瞳】、紀行文は【宮脇俊三】を平成の初めの頃に知り始めた。

テレビの脚本は圧倒的に【倉本 聰】が多く、随筆も数多く精読している。

昨今は、【藤原正彦】、【塩野七生】の本が増えてきている。


私は単細胞の為か、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様に、
時を忘れ、寝る間をほしんで物狂いになるのである。

いずれにしても私のつたない感性で、
偶然に目に留まったり、聴いたりした人々の方達である。
そして、私なりの人生の心の宝物と思ったりしている。

尚、このように綴ると、私自身の思想、信条、そして日常の心情が解かるので、
発露をするのは少し危険かしら、と微苦笑しているのである。

・・】

恥ずかしながら、齢を重ねても私の悪い癖は、
ときたま活火山のようになるので苦笑する。

尚、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と名言にあるので、私は困ったなぁ、と思ったりすることがある。




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《6》

2009-05-29 17:39:52 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
        第6章

徳富蘆花の『みみずのたはこと』の前章の中於いて、
千歳村粕谷に住む子供たちを、
【・・
雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、
栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。
・・】

このように綴っていた。

徳富蘆花がこの地に住まわれ、『みみずのたはこと』に関しては、
明治の後期、大正時代であるが、
私の幼年期の昭和30年までは、同じような状況であった。

私は6歳ぐらいから、折りたたみできるナイフをポケットに入れ、
初秋の頃から栗の樹の下に行き、落ちた栗いがらを見つけて、
運動靴ではさみ、そしてクリの実を取りだした。
そして、ズボンで少しこすった後、ナイフを取り出し、渋皮を削り、
少し固い実をかじっていた。

幼児の4歳ぐらいは、裸足で宅地を駈けずり回ったりし、
木クズ、クギなどが足に刺さったり、足か手にケガをした時は、
母か叔母に赤チンを少し塗ってもらい、この後も駈けずり回っていた。

この当時、私の住む神代村入間は、昨今のように小児科などはなく、
風邪、腹痛などの場合は、ひどくなった場合に限り、
巡回で定期に来宅される富山の薬屋さんの置き薬である家庭薬を
母か叔母が取りだして、私は呑んだりしていた。


徳富蘆花はこの当時の千歳村粕谷の肴(サカナ)事情について、
【・・
甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
・・】

私の幼年期の昭和29年頃までは、
がっしりした自転車で大きな荷台に木箱を幾重にも積み上げた魚屋さんが、
巡回販売で来宅していた。
生魚はイワシ、ニシン、アジ、サンマ、カツオなど木箱の氷のかけらから取り出したり、
或いは干し物はイワシ、アジが多かったのが、記憶に残っている。

刺身に関しては、日常は皆無であった。
冠婚葬祭の折、仕出し屋さんから、マグロ、イカ等の刺身を人数分だけ小鉢に入れ、
それぞれ座敷で祖父、父たちが頂いたり、或いは出したりしていた。
そして、この時は必ず折り詰めがあり、焼いた鯛、海老などが付いていた。

祖父が招待されて帰宅した時は、
この折り詰めの焼いた鯛を祖父から進められて、よく食べた記憶が
今でも鮮明に残っている。

このような事情なので、サザエなどの貝類はめずらしく、
お互いに海岸のある付近に出かけた時、一軒に数個のお土産としては貴重で、
喜ばれたりしていた時代であった。


徳富蘆花が住まわれた明治後期から大正の初めの変貌する状況を、
都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。

そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を消え掛かり、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にし、
養蚕(ようさん)用に桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、
と氏は綴られている。

こうした中で、『みみずのたはこと』の『故人に』終わりの頃に、
【・・
新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
・・】
と氏は大正元年12月に記している。


あの当時は確かに京王線の笹塚~調布が開通したのは、大正2年であったので、
この千歳村は今では『蘆花公園』、『千歳烏山』の両駅に当り、
腺、駅の施設の土木工事、線路の設置工事などで、
聴こえたと思われる。

この当時の都心への交通便は主幹として、甲州街道だけであり、
リヤカー、人力車、馬車、牛車、そして徒歩が多い国道と想像したりしている。
そして、電車が開通されれば、人の行き交いも増し、
駅周辺はもとより、この地域も大きく変貌しはじめた、
と私は想像を重ねたりした。

                           《つづく》




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雨降る朝、思わず『城ヶ島の雨』を心の中で唄えば・・♪

2009-05-29 09:32:50 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
今朝6時過ぎに玄関庭の軒下で、
過日に庭の手入れをしたので、小雨降る中の樹木を眺め、少しは小奇麗になり、
清めてくれると思いながら、
煙草を喫ったりしていた・・。

しかし、雨が昨日の朝の6時過ぎから降り続けているので、
本格的な梅雨前の一時時期の長雨である走り梅雨と解かっていても、
またぁ・・雨かょ、と云うも本音である。

♪雨はふるふる
 城が島の磯(いそ)に
 利休鼠(りきゅうねずみ)の
 雨がふる

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


と私は心の中で唄っていたのである。

♪雨は真珠か
 夜明けの霧か
 それともわたしの
 忍び泣き

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、
と微苦笑である。

私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。

以前、文藝評論家・河盛好蔵の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
【・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。

のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。

大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・】

こうしたことを思い浮かべると、

♪舟はゆくゆく
 通り矢のはなを
 濡(ぬ)れて帆あげた
 ぬしの舟

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。

この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。

そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。


私の敬愛する作家・嵐山光三郎に寄れば、
【・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・

(略)

白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・】
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。


私は創作者は作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬ、
という哲学じみた暗黙の了解は知っているつもりであるが、
小心者で無力の私さえ、詩人・北原白秋の軌跡に思い馳せる、
と改めてこの人生は大変だなぁ、苦笑したのである。

そして、私はかみ締めるような心の中で読んだりした・・。

♪雨はふるふる
 日はうす曇る
 舟はゆくゆく
 帆がかすむ

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


今朝のひととき、雨降る情景を眺めながら、
このようなことを1時間ばかり思ったりした。



♪【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞、唄・藤山一郎 】
http://www.youtube.com/watch?v=K7uGnSNXXYw



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《5》

2009-05-28 17:15:42 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
       第5章

徳富蘆花の『みみずのたはこと』に於いて、最初の『故人』の第一章~第三章まで転載させてきましたが、
氏自身は、この『みみずのたはこと』の最後に『読者に』の第一章で、

【・・
私は九州肥後の葦北(あしきた)郡水俣(みなまた)という海村に生れ、
熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々(てんてん)して、22歳で東京に出で、
妻は同じ肥後の菊池郡隈府(わいふ)という山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、
私が27妻が21の春東京で一緒(いっしょ)になり、
東京から逗子、また東京、それから結婚14年目の明治40年に
初めて1反5畝の土と一棟(ひとむね)のあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。

戸籍まで引いたは、永住の心算(つもり)でした。
然し落ち着きは中々出来ないものです。
村居7年目に出した「みみずのたはこと」は、
開巻第一に臆面(おくめん)もなく心のぐらつきを告白して居ます。
永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、
分からぬと言うて居ます。

其挙句(あげく)が前述(ぜんじゅつ)の通り十年のドウ/\廻(めぐ)りです。
・・】

このように告白している。

【・・引越した当時は、あばら屋の母屋と1反5畝の畑から生活を始め・・】、
【・・この年の秋に、浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
そして中1年置いて、明治42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。

明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
そして11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった、
そして畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
・・】

このような建物、宅地、そして畑のある『美的百姓』を求める生活の中で、
千歳村粕谷の生活風景が描かれている・・

氏は畑の作業を時々しながら、
最初は作男を雇ったが、反りが合わなく解雇し、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使い、
陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いたり、
大麦が籾(もみ)で3俵ほど収穫でき、6円で売却も出来たのである。

そして、球葱(たまねぎ)を作ったり、
胡麻を逆につるして近所の笑草にされたり、
種苗店の目録を見て、種を買い求めて、蒔(ま)いてする。
こうした中で、秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来たり、
水蜜桃の収穫や苺(いちご)も実り、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来たりした。


そして林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実に食している。

庭の一隅へ移し植えたマテバシイの椎の実に、家族で歓喜したりする。


こうした中で都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。

そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
氏は変貌する状景に悲しみの心情を明記したりしている。

こうした中でも、周辺の人々は筍(タケノコ)が儲かるので、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、と氏は綴られている。


我が家の実家の太平洋戦争前に於いては、
櫟(クヌギ)楢(ナラ)欅(ケヤキ)が多くあり、松林と雑木林があり、
自宅用に炭にしたり、薪にしたり、と聴いている。

私の幼年期の頃には、米の収穫の終わった秋になると、
祖父、父たちが薪を作る為にケヤキの大木を倒し、
大きなノコギリで縦幅一尺ほどに細分に挽(ひ)いた後、
縦割りに斧で薪割りをしていた。
そして、陽当たりの良い場所に幾日も干した後、納戸の脇に山積みをしていた。

孟宗竹の竹林は、5月の節句前にはタケノコを掘り、青果市場に出荷したり、
秋口になると竹細工の加工業者に竹を売却していたのを鮮明に記憶がある。

そして、養蚕に関しては、戦争以前に我が家でも蚕を育成した、
と後年に私は聴いたりしている。
母屋の中二階のような所に配置し、やはり桑畑があり、
付近の旧家の多くも桑畑を保有していた、と母や叔母から教えられたりしていた。


氏は京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴し、
自身が最初買うた地所は坪40銭位であったが、
此頃は壱円以上2円も其上もする様になり、地所買いも追々入り込む、
と証言されている。

この地域の付近にある京王線は、明治43(1910)年9月設立され、
3年後の大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
その後、大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されている。

たまたま祖父の義弟は京王に勤めていたので、
最初に住んでいたのは調布寮で、後に府中と東八王子のある駅の近くに、
一軒屋を構えることができた、
と私はお彼岸、お盆の時などで当人より教示されていた。

そして、遠い親戚の方で、
都心の私立大学に通い、京王線を利用し、千歳烏山の駅で下車した後は、
人力車で狛江村に帰宅した、
と後年に私は教えられたりしていた。

千歳村粕谷に於いては、現在は付近に小田急線があるが、
小田急線の新宿~小田原が開通したのは、昭和2(1927)年4月であった。
成城学園前の駅が現在はあるが、開通する以前は松林が広がり、
大学を誘致し、住宅街として分譲した、と遠い親戚の地主から、
私が二十歳過ぎた頃に聞いたりした。

余談であるが、亡き小説家・大岡昇平が学生時代、
成城学園に通学した時は、小田急腺が開通前であったので、
京王線の千歳烏山から徒歩で通学した、と私は何かの本で読んだりしている。


この後は前回に続き、
徳富蘆花の『みみずのたはこと』の続編を出典の『青空文庫』より転載する。


【・・
             四

儂の家族は、主人夫婦(あるじふうふ)の外明治41年の秋以来
兄の末女をもらって居る。
名を鶴(つる)と云う。
鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。3歳の年貰(もら)って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱(ひよわ)い児であったが、
此の頃は中々強健(きょうけん)になった。

もらい立(たて)は、儂が結(ゆ)いつけ負(おん)ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽(らく)に歩いたものだが、
此の頃では身長3尺5寸、体量(たいりょう)四貫余。
友達が無いが淋(さび)しいとも云わず育(そだ)って居る。
子供は全く田舎で育てることだ。
紙鳶(たこ)すら自由に飛ばされず、毬(まり)さえ思う様にはつけず、
電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車(にぐるま)、
馬と怪俄(けが)させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育(そだ)つ子供は、
本当に惨(みじめ)なものだ。

雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。

儂等(わしら)親子(おやこ)3人の外に、女中が1人。
阿爺(おやじ)が天理教に凝って資産を無くし、
母に死別れて8歳から農家の奉公に出て、今年20歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。
東郷大将(とうごうたいしょう)の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。

明治天皇(めいじてんのう)崩御(ほうぎょ)の際、
妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込(うちこ)むべく大骨折った。
天皇陛下を知らぬ程(ほど)だから、無論皇后陛下(こうごうへいか)や皇太子殿下を知る筈が無い。
明治天皇崩御の合点(がてん)が行くと、曰(いわ)くだ、
ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸(さぞ)困るでしょうねェ。

御維新後45年、帝都(ていと)を離(はな)るゝ唯3里、加之(しかも)20歳の若い女に、
まだ斯様な葛天氏(かつてんし)無懐氏の民が居ると思えば、
イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。

斯無懐氏の女の外(ほか)に、テリアル種の小さな黒(くろ)牝犬(めいぬ)が1匹。名をピンと云う。
鶴子より一月(ひとつき)前(まえ)にもらって、
最早(もう)5歳(いつつ)、顎(あご)のあたりの毛が白くなって、
大分(だいぶ)お婆(ばあ)さんになった。
毎年二度三疋四疋宛(ずつ)子を生む。ピンの子孫(しそん)が近村に蕃殖した。

近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。
徒歩でも車でも出さえすると屹度跟(つ)いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨(ほね)らしい。
一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。

今一疋デカと云うポインタァ種(しゅ)の牡犬(おいぬ)が居る。
甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。
デカダンを意味(いみ)したのでは無い。
獰猛(どうもう)な相貌をした虎毛(とらげ)の犬で、
三四疋位の聯合軍(れんごうぐん)は造作もなく噛(か)み伏せる猛犬(もうけん)だったので、
競争者を追払ってずる/\にピンの押入聟(むこ)となった訳(わけ)である。

儂も久しく考(かんが)えた末、届と税を出し、天下(てんか)晴(は)れて彼を郎等(ろうどう)にした。
郎等先生此頃では非常に柔和になった。
第一眼光が違う。尤も悪(わる)い癖(くせ)があって、今でも時々子供を追(おい)かける。
噛みはせぬが、威嚇(いかく)する。
彼が流浪(るろう)時代に子供に苛(いじ)められた復讎心(ふくしゅうしん)が消えぬのである。

子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛(かあい)がらぬのであろう。
直ぐ畜生(ちきしょう)と云っては打ったり石を投げたりする。
矢張大人の真似を子供はするのであろう。
禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格(しかく)が無い。
犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人(ちょうせんじん)台湾人(たいわんじん)をいじめる大人である。

ある犬通の話に、野犬(やけん)の牙は飼犬(かいいぬ)のそれより長くて鋭く、且外方(そっぽう)へ向(む)くものだそうだ。
生物(せいぶつ)には飢(うえ)程恐ろしいものは無い。
食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。

野武士(のぶし)のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。
其かわり以前の強味はなくなった。
富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱(よわ)くなったのも(のが)れぬ処であろう。

以上2頭の犬の外、トラと云う雄猫(おねこ)が居る。
犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳(たたみ)の上より土に寝(ね)るが好きで、
儂等が出あるくと兎(うさぎ)の如(ごと)くピョン/\はねて跟(つ)いて来る。
米の飯(めし)より麦(むぎ)の飯、魚(さかな)よりも揚豆腐が好きで、
主人を見真似たか梨や甜瓜(まくわ)の喰い残りをがり/\噛(かじ)ったり、
焼いた玉蜀黍(とうもろこし)を片手で押えてわんぐり噛(か)みつき
あの鋭い牙で粒を食(く)いかいてはぼり/\噛ったり、
まさに田園(でんえん)の猫である。

来客があって、珍(めず)らしく東京から魚を買ったら、
トラ先生早速(さっそく)口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎(よだれ)をたらし、
人騒(さわ)がせをしてよう/\命だけは取りとめた。

犬猫の外に鶏が十羽。
蜜蜂は2度飼(か)って2度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。
天井(てんじょう)の鼠、物置の青大将(あおだいしょう)、其他無断同居のものも多いが、
此等(これら)は眷族(けんぞく)の外である。

(著者追記。犬のデカは大正2年の2月自動車に轢(ひ)かれて死に、
猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)


猫の話で思い出したが、儂(わし)は明治42年の春、
塩釜(しおがま)の宿で牡蠣(かき)を食った時から菜食(さいしょく)を廃(よ)した。
明治38年12月から菜食をはじめて、明治39、40、41、と満3年の精進(しょうじん)、
云わば昔の我に対する3年の喪(も)をやったようなものだ。
以前はダシにも昆布(こんぶ)を使った。
今は魚鳥獣肉何でも食(く)う。猪肉や鯛は尤も好物だ。

然し葷酒(くんしゅ)(酒はおまけ)山門(さんもん)に入るを許したばかりで、
平素の食料(しょくりょう)は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食(にくじき)はせぬから、
折角の還俗(げんぞく)も頗る甲斐(かい)がない訳である。

甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
ある時、東京式に若者が2人威勢(いせい)よく盤台を担(かつ)いで来たので、
珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節(なまりぶし)が五六本に鮪(まぐろ)の切身が少々、
それから此はと驚かされたのは血(ち)だらけの鯊(さめ)の頭だ。
鯊の頭にはギョッとした。
蒲鉾屋(かまぼこや)からでも買い出して来たのか。
誰が買うのか。ダシにするのか。煮(に)て食うのか。
儂は泣きたくなった。
一生の思出に、一度は近郷(きんごう)近在(きんざい)の衆を呼んで、
ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪(ゆき)の様(よう)な米の飯(めし)で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。

実際此処では魚(さかな)と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。
近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。
酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖(さば)や鮪に酔(よ)うたのである。
此頃は、儂の健啖(けんたん)も大に減った。

而して平素菜食の結果、稀(まれ)に東京で西洋料理なぞ食っても、
甘(うま)いには甘いが、思う半分も喰(く)えぬ。
最早儂の腸胃も杢兵衛式(もくべえしき)になった。

       五

書(ほん)が沢山(たくさん)ある家(うち)、学を読む家、植木が好きな家、
もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。

儂を最初村に手引した石山君は、
村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村(ちとせむら)を風靡する心算(つもり)であったらしい。
然し其は石山君の失望であった。
儂は何処までも自己本位の生活をした。

ある学生は、あなたの故郷(こきょう)は此処(ここ)では無い、
大きな樹木(じゅもく)を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。
儂は顧みなかった。
古い家ながら小人数(こにんず)には広過ぎる家(うち)を建て、
盛に果樹観賞木を植え、一切(いっさい)永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。

儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕(てんと)であらねばならぬことを知らぬでは無かった。
また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否(いな)むことは出来なかった。
従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。

だから儂は落ちつきたかった。
執着(しゅうちゃく)がして見たかった。
自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。
而して6年間孜々(しし)として吾巣を構えた。
其結果は如何である? 
儂が越して程なく要(よう)あって来訪した東京の一紳士(しんし)は、
あまり見すぼらしい家の容子(ようす)に掩い難い侮蔑を見せたが、
今年来て見た時は、眼色に争(あらそ)われぬ尊敬を現わした。

其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井(くるまい)の釣瓶なぞに随喜したが、
此頃ではつい近所に来て泊っても寄(よ)っても往(い)かなくなった。
即儂(わし)の田園生活は、或眼からは成功で、
或眼からは堕落に終ったのである。


堕落か成功か、其様(そん)な屑々(けち)な評価は如何でも構わぬ。
儂は告白する、
儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌(いや)ではない。
儂はヨリ多く田舎を好むが、都会(とかい)を捨(す)てることは出来ぬ。
儂は一切が好きである。
儂が住居(すまい)は武蔵野の一隅にある。
平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐(かい)東部の山脈が正面に見える。

3年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。
一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、
即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場(たちば)と慾望を示して居るとも云える。
斯慾望が何処まで衝突なく遂(と)げ得らるゝかは、疑問である。

此両趣味の結婚は何ものを生(う)み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。
唯儂一個人としては、6年の田舎住居(いなかずまい)の後、
いさゝか獲(え)たものは、土に対する執着の意味をやゝ解(かい)しはじめた事である。

儂は他郷から此村に入って、唯6年を過ごしたに過ぎないが、
それでも吾(わ)が樹木(じゅもく)を植え、吾が種を蒔(ま)き、
我が家を建て、吾が汗を滴(た)らし、吾(わが)不浄(ふじょう)を培(つちか)い、
而してたま/\死(し)んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭(いくとう)幾羽(いくわ)を葬った一町にも足らぬ土が、
今は儂にとりて着物(きもの)の如く、寧(むしろ)皮膚(ひふ)の如く、
居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪(た)えぬ程愛着を生じて来た。

己(おのれ)を以て人を推せば、
先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端(いったん)を覗(うかが)うことが出来る。
斯(この)執着(しゅうちゃく)の意味を多少とも解し得る鍵(かぎ)を得たのは、田舎住居の御蔭(おかげ)である。


然しながら己(わ)が造った型(かた)に囚(とら)われ易いのが人の弱点である。
執着は常に力であるが、執着は終に死である。
宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。
蛇が衣(から)を脱ぐ如く、人は昨日(きのう)の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。
個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生(うま)れねばならぬ。
儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、
果して此処(ここ)に永住し得るや否、疑問である。

新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。


大正元年十二月二十九日

都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕

武蔵野粕谷の里にて

徳冨健次郎

・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。


氏の綴られたことなどの私なりに受け止めた思いは、
次回に掲載する。


                            《つづく》



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東京の郊外は、『走り梅雨』を迎えて・・!?

2009-05-28 08:51:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
今朝、4時に目覚めたが、曇り空であり、
私は再び布団にもぐり、丸山健二・著の『新・作庭記』(文藝春秋)を読んだりした。

6時頃、『あなた・・雨が降り出したわょ・・』
と居間にいる家内が、2階の寝室にいる私に声を掛けられた。
私は家内の声を聴き、
『気象庁の予測も大したものだ・・』
と心の中で呟きながら、微笑んだりしたのである。


昨日の早朝、明日の木曜日から土曜日までの3日間は雨の降る日が続きます、
と地元の天気予報を視聴した後、
私達夫婦は七時半過ぎに庭に下り立ち、庭の手入れをはじめた・・。
過日の22日に樹木の剪定、雑草の草取りをしたのであるが、
体力の衰えた私のせいか、大半が未整理となっていた。

玄関庭と主庭は雑木が主体であるが、住みはじめて30年になるので、
かぼそかった雑木もそれなりに樹高も伸長するので、
5年於きぐらいで大幅に切り詰めている。

私は剪定バサミを植木屋さんのように腰廻りに身に付けて、剪定ノコギリを持ったりしているが、
家内は高枝バサミと剪定バサミで枝葉を切ったりする。

私は私が樹に登り、剪定ノコギリで枝を切り落としたり、
剪定バサミで枝葉を切ったりしている。
そして、家内の提案である、
『齢を取ったら・・高い枝は大変だから・・
今の時(うち)に・・短くしましょう・・』
と私の定年後の四年半前から云っているので、私は忠実に従い、
大幅に樹高などを短くしている。
そして、ときおり地面に這うように草取りをする。

晴れ時々曇り空の中、昼食抜きでペットボトルの煎茶を飲みながら専念したのである。
そして、枝葉を玄関庭の片隅に積み上げたりし、
何とか手入れが終わったのが、午後の3時半過ぎであった。

家内に入浴している間、私は庭のテラスで簡易椅子に腰かけて、
短くなった樹高を眺めたりしながら、
『このサイトに今日は投稿していない・・
まずいんじゃ・・ないの・・』
と私は心の中で問いかけたりした。

私は定年退職後まもなくし、ブログの世界を知り、
旅行、バソコンの故障のない限り、その日の思いなどを綴り、
少なくとも日に一通は投稿してきた。

ここ4日ばかりは、私の住む周辺の敗戦後の前の変貌を学びたくなり、
小説家・徳富蘆花の『みみずのたはこと』に於いて、
私の住む付近の明治末期から昭和初期までが描かれているので、
読んだりし、私なりの思いを重ねて投稿している。


私は入浴後、パソコンに向かい、
苦心惨憺しながら『我が故郷、先人に尋(たず)ねれば・・。第四章 』の投稿文をまとめた。

夜、10時過ぎに布団にもぐり、
丸山健二・著の『新・作庭記』を読みながら寝付いたのは11時半過ぎであった。


先ほど、地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は17度、昼下がりは18度前後、そして夜の6時には17度前後、
雨の降る一日で4月の下旬のような気温となります、
そして土曜日まで三日間ばかり雨が降り続けますので、
ときおり強雨と風も伴いますので、ご注意しましょう、
と私はこのように聴こえたのである。

私は小雨の舞い降りる主庭を眺めながら、
本格的な梅雨の前ぶれの序曲として、5月中旬から下旬の長雨を、
古来より『走り梅雨』と称してきているので、
走り梅雨かょ、と少し筋肉痛の疲れた身体であるが、
庭の手入れの後の主庭、玄関庭を洗い清めて下さる、と微笑んだのである。



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《4》

2009-05-27 17:15:47 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
     第四章

徳富蘆花は、明治40年より死去するまでの20年間、
幾多の本などで氏の略歴に明記されている通り、
都心の青山高樹町より脱れて、田園生活を求め府下・千歳村粕谷356番地に移り、
『美的百姓』になろう、と記されている。

こうした生活を6年ばかりした後、
随筆『みみずのたはこと』(大正2年、刊行)を本名の徳冨健次郎で発表されている。


出典は、『青空文庫』より転載する。


      みみずのたはこと

                            徳冨健次郎



   故人に

       一

儂(わし)の村住居(むらずまい)も、満6年になった。
暦(こよみ)の齢(とし)は45、
鏡を見ると頭髪(かみ)や満面の熊毛に白いのがふえたには今更(いまさら)の様に驚く。

元来田舎者のぼんやり者だが、
近来ます/\杢兵衛(もくべえ)太五作式になったことを自覚する。
先日上野を歩いて居たら、車夫(くるまや)が御案内しましょうか、と来た。
銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。
後(あと)でぺろり舌を出されるとは知りながら、
上等のを否(いや)極(ごく)上等(じょうとう)のをと気前を見せて言い値(ね)で
さっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。
然し店硝子(みせがらす)にうつる乃公(だいこう)の風采(ふうさい)を見てあれば、
例令(たとえ)其れが背広(せびろ)や紋付羽織袴であろうとも、
着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔(ひげがお)の間抜け加減、如何に贔屓眼(ひいきめ)に見ても――
いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑(にがわら)いして帰って来る始末。

此程村の巡査が遊びに来た。
日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、
15歳を満20歳と偽り軍夫になって澎湖島(ほうことう)に渡った経歴もある男で、
今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。
其巡査の話に、正服(せいふく)帯剣(たいけん)で東京を歩いて居ると、
あれは田舎のお廻(まわ)りだと辻待(つじまち)の車夫がぬかす。
如何して分(わ)かるかときいたら、
眼(め)で知れますと云ったと云って、大笑した。
成程(なるほど)眼で分かる――さもありそうなことだ。
鵜(う)の目、鷹の目、掏摸(すり)の眼、新聞記者の眼、其様(そん)な眼から見たら、
鈍如(どんより)した田舎者の眼は、嘸(さぞ)馬鹿らしく見えることであろう。
実際馬鹿でなければ田舎住居は出来(でき)ぬ。
人にすれずに悧巧になる道はないから。


東京に出ては儂(わし)も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。
儂の生活状態も大分変った。
君が初めて来た頃の彼(あの)あばら家とは雲泥(うんでい)の相違だ。
尤も何方が雲か泥(どろ)かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。

引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室(ゆどの)や女中部屋を建増した。
其れから中1年置いて、明治四42年の春、8畳6畳のはなれの書院を建てた。

明治43年の夏には、8畳4畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。
明治44年の春には、25坪の書院を西の方に建てた。
而して11間と2間半の1間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。
何れも茅葺、古い所で90何年新しいのでも30年からになる古家を買ったのだが、
外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿(かすやごてん)なぞ笑って居る。
二三年ぶりに来て見た男が、悉皆(すっかり)別荘式になったと云うた。
御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。

畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪(よつぼ)になった。
以前は一切無門関、勝手(かって)に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で
驚いて朝寝の眠(ねむり)をさましたもので、
乞食(こじき)物貰(ものもら)い話客千客万来であったが、
今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬(めがき)や、(かなめ)、萩ドウダンの生牆(いけがき)をめぐらし、
外から手をさし入れて明けられる様(よう)な形ばかりのものだが、
大小(だいしょう)六つの門や枝折戸が出入口を固(かた)めて居る。
己(われ)と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑(おか)しくもある。
但花や果物を無暗に荒(あら)されたり、無遠慮なお客様に擾(わずら)わさるゝよりまだ可と思うて居る。
個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩(けんか)、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。

「後生願わん者は糂甕(じんたがめ)一つも持つまじきもの」とは実際だ。
物の所有は隔ての原(もと)で、物の執着(しゅうちゃく)は争の根(ね)である。
儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。
まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、
煉瓦塀(れんがべい)上(うえ)に硝子の破片を剣の山と植(う)えたりはせぬつもりだが、
何、程度(ていど)の問題だ、
これで金でも出来たら案外其様(そん)な事もやるであろうよ。

       二

畑の物は可なり出来る。
昨年は陸穂(おかぼ)の餅米が1俵程出来たので、自家で餅を舂いた。
今年は大麦3俵籾(もみ)で6円なにがしに売った。

田園生活をはじめてこゝに6年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。
去年は月に10日宛(ずつ)きまった作男を入れたが、
美的百姓と真物(ほんもの)の百姓とは反(そ)りが合わぬ所から半歳足らずで解雇(かいこ)してしまい、
時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。

自分も時々やる。
少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗(きれい)になり、
稀に肥桶を担(かつ)ぐと直ぐ肩が腫(は)れる。
元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。
最早(もう)地味(ちみ)に合わぬ球葱(たまねぎ)を無理に作ろうともせぬ。
最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。
甘藷苗の竪植(たてうえ)もせぬ。
心(しん)をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減(かげん)も、
兎やら角やら先生なしにやって行ける。

毎年儂(わし)は蔬菜(そさい)花卉(かき)の種(たね)を何円(なんえん)と云う程買う。
無論其れ程の地積(ちせき)がある訳(わけ)でも必要がある訳でも無いが、
種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。
蒔(ま)いてしまうのも中々骨だから、育(そだ)ったら事だが、
幸か不幸か種の大部分は地に入(はい)って消えて了う。

其度毎(そのたびごと)に種苗店の不徳義、種子の劣悪(れつあく)を罵(ののし)るが、
春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。
馬鹿な事さ。
然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果(けっか)には活きぬ。
馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。


時の経(た)つは速いものだ。
越(こ)した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘(つ)め、今年は新茶が可なり出来た。
砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。
苺(いちご)は毎年移してばかり居たが、
今年は毎日喫飽(くいあき)をした上に、苺のシイロップが2合瓶(ごうびん)20余出来た。

生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅(か)られて萩籬の料になったり、
林の散歩にぬいて来て捨植(すてうえ)にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味(やくみ)になったり、
構わずに置く孟宗竹の筍(たけのこ)が汁の実になったり、
杉籬の剪(はさ)みすてが焚附(たきつけ)になり、
落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物(たまもの)である。

追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。
移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植(いしょく)し、
中1年を置いて
また庭の一隅(いちぐう)へ移(うつ)し植えた2尺8寸廻(まわ)りの全手葉椎(マテバシイ)が、
此頃では梢の枝葉も蕃茂(はんも)して、何時花が咲いたか、つい此程内(うち)の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。
と見て、妻が更に五六粒(つぶ)拾った。
「椎が実(な)った! 椎が実った!」驩喜(かんき)の声が家に盈(み)ちた。

田舎住居は斯様な事が大(たい)した喜の原になる。
一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。
儂が植えた樹木は、大抵(たいてい)根づいた。
儂自身も少しは村に根を下(おろ)したかと思う。

       三

少しはと儂は云うた。
実は6年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。
固有の背水癖で、最初戸籍(こせき)までひいて村の者になったが、
過る6年の成績を省(かえりみ)ると、
儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。

吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。
村のポリチックスには無論超然主義を執る。

燈台下暗くして、東京近くの此村では、
青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。
儂は唯傍観して居る。
郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。

村の小さな耶蘇教会にすらも殆(ほとん)ど往(い)かぬ。
昨年まで年に1回の月番役を勤めたが、
月番の提灯を預(あずか)ったきりで、一切の事務は相番(あいばん)の肩に投げかけるので、
皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。

儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ
植木屋の亭主、位なもので、
村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。

遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。
儂は最初一の非望(ひぼう)を懐いて居た。
其は吾家の燈火(あかり)が見る人の喜悦になれかしと謂(い)うのであった。

多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥(きはず)かしくなって、
儂(わし)は一切(いっさい)説法(せっぽう)をよした。
而して吾儘一ぱいの生活をして居る。

儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。
此は儂の性分である。
東京に居ても、田舎に居ても、
何処までも旅(たび)の人、宿れる人、見物人なのである。

然しながら生年百に満たぬ人(ひと)の生(いのち)の6年は、決して短い月日では無い。
儂は其6年を已に村に過して居る。
儂が村の人になり切れぬのは事実である。
然し儂が少しも村を愛(あい)しないと云うのは嘘(うそ)である。

ちと長い旅行でもして帰って来る姿(すがた)を見かけた近所の子供に
「何処(どけ)へ往ったンだよゥ」と云われると、
油然(ゆうぜん)とした嬉しさが心の底(そこ)からこみあげて来る。


東京が大分(だいぶ)攻め寄せて来た。
東京を西に距(さ)る唯3里、東京に依って生活する村だ。
二百万の人の海にさす潮(しお)ひく汐(しお)の余波が村に響いて来るのは自然である。
東京で瓦斯を使う様(よう)になって、薪の需用が減った結果か、
村の雑木山が大分拓(ひら)かれて麦畑(むぎばたけ)になった。

道側の並木の櫟(くぬぎ)楢(なら)なぞ伐られ掘られて、
短冊形の荒畑(あらばた)が続々出来る。
武蔵野の特色なる雑木山を無惨(むざむざ)拓かるゝのは、
儂にとっては肉を削(そ)がるゝ思(おもい)だが、
生活がさすわざだ、詮方(せんかた)は無い。

筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にしたり、
養蚕(ようさん)の割が好いと云って桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
要するに曩時(むかし)の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。

京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。
儂が最初買うた地所は坪40銭位であったが、此頃は壱円以上2円も其上もする様になった。
地所買いも追々入り込む。
儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込(こ)まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。
洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見(わきみ)する毎に、
儂は眉を顰(ひそ)めて居る。

要するに東京が日々攻め寄せる。
以前聞かなかった工場(こうば)の汽笛なぞが、近来(きんらい)明け方の夢を驚かす様になった。
村人も寝(ね)ては居られぬ。

10年前の此村を識って居る人は、
皆が稼ぎ様の猛烈(もうれつ)になったに驚いて居る。
政党騒(せいとうさわ)ぎと賭博は昔から三多摩の名物(めいぶつ)であった。
此頃では、選挙争に人死(ひとじに)はなくなった。

儂が越して来た当座(とうざ)は、
まだ田圃向うの雑木山に夜灯(よるあかり)をとぼして賭博をやったりして居た。
村の旧家の某が賭博に負(ま)けて所有地一切勧業銀行の抵当(ていとう)に入れたの、
小農の某々が宅地(たくち)までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。
然し此の数年来(すうねんらい)賭博風(とばくかぜ)は吹き過ぎて、
遊人と云う者も東京に往ったり、比較的(ひかくてき)堅気(かたぎ)になったりして、
今は村民一同真面目(まじめ)に稼いで居る。
其筋の手入れが届くせいもあるが、第一遊(あそ)んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。

・・】

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

こうして美的百姓をめざして、徳富蘆花はこの地の千歳村粕谷で生活をはじめた。
そして、この随筆の最後には、

【・・
大正元年十二月二十九日

都も鄙(ひな)も押(おし)なべて白妙(しろたえ)を被(き)る風雪の夕

武蔵野粕谷の里にて

徳冨健次郎
・・】
と明記している。



私の実家のある地域は、蘆花が住まわれた千歳村粕谷からは、
給田、そして祖師谷の集落を通して、神代村入間であった。

私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けた。
この当時は、戸主の明治20年代に生まれた祖父、
明治40年代に生まれた跡取り長兄の父、大正九年の母、
そして父の嫁ぐ前の妹の3人、夜間大学に通学しながら農業を手伝った弟ひとりがいて、
私の長兄、次兄の家族構成であった。

そして、小作人、農業大学の研修生の手助けを借りて、
田畑を耕し、竹林、雑木林を維持管理していた。

宅地には母屋少なくとも50数坪あり、
その周囲に、土蔵、納戸小屋がふたつ、そして物置小屋が点在していた。
これらの状景は、私が小学校に入学する昭和26年の春にも、
子供なりに記憶がある。

我が家も農家で生計をしていたので、収穫作物は給田にあった青果市場に、
父らがリヤカーの乗せて出荷していた。

早春にウド、ハクサイ等、春に於いてはタケノコ、キャベツ等
夏になればキュウリ、ナス、トマト、ウリ、スイカ、カボチャ等、
秋になればサツマイモ、ジャガイモ、里芋、ヤツガシラ、ゴマ、
ハス(レイコン)、柿、そして小麦、米、もち米などが、
今こうして思い浮かべても、このときの状景が浮かんでくる。

私が小学三年になるまで、父、そして祖父に死去されたので、
我が家は、大黒柱を失ったので、没落しはじめた。


私が小学校を卒業する頃、近所の70歳を越えた小父さん、
祖父の弟の叔父さんなどから、我が家の祖先の話を聞いたりしていた。

鎌倉時代の末期、上州の新田義貞が鎌倉幕府討伐の為に挙兵し、
鎌倉街道を南下し、幕府軍と小手指原の戦い後、
分倍河原の戦いで新田軍は一度大敗する。
この時に新田軍の下級武士か末端の一員か解からないが、
一部が敗残兵として、各地に散らばり生き延びた。
そして、それぞれがその地に住みはじめた。

徳川の時代には、農民を維持管理する為に地主を選定し、その下に小作人が置かれた、
そして地主は六人組で構成されて互いに監視しながら相互に共同行事を行ったり、
この地の幕府の役人の管理下に置かれ、安定した田畑の収穫が義務づけられていた。


私の幼年期に於いても、六人組の一軒として、
冠婚葬祭はもとより、初午から年末の餅つきまで、互いに助け合いをしていた。
そして、この六人組は結束が深かった。


このようなことを思い出しながら、
徳富蘆花の住まわれた千歳村の出来事を重ね合わせながら、
『みみずのたはこと』を読んだりしていた。

尚、周辺の生活実態、風習、作物の時代による変貌、
そして昭和2年に電車の京王線の開通などで周辺の変貌、影響などは、
次回から記載する。


                            《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《3》

2009-05-26 08:36:46 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。

     第3章

前章に続き、徳富蘆花の軌跡を『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)に於ける
執筆者・文芸評論家・荒 正人の綴りを転記する。


【・・
蘆花は、明治27年5月5日、赤坂氷川町の両親の家で、
原田愛子(本名、藍子)と結婚式をあげた。

原田家は、熊本県隈府の酒造家で、愛子は次女であり、
東京高等師範をその年の3月に卒業していた。

蘆花は何かと引け目をおぼえ、
妻が自分の持たぬ時計を持っているのをとがめて、庭に投げつけたりしていた。

蘆花は、結婚にあたり、
父・一敬から、田畑一町歩、紡績株千円を分けて貰った。
蘆花夫妻は、勝海舟邸に借家したが、家賃は4円50銭であった。

翌年、愛子の両親が腸チフスで急死し、
愛子も感染し、その看護で、隈府に滞在した。
勉強と執筆は続いた。


日清戦争が終わって、明治29年5月、
兄の蘇峰は外遊におもむいていたが、
蘆花は神経衰弱がはなはだしくなり、父・一敬の書や横井小楠の掛け軸を裂いたりしていた。
新聞社にも殆ど顔をみせない。
静養のため、伊豆、房総、相州の各地を遊び、利根川下流を探勝し、
『刀禰河上の一昼夜』、『水国の秋』(のちに、二編を合して、『水国の秋』)を発表した。


明治31年3月、最初の文藝作品集『青山白雲』を刊行した。
過去10年の旧稿を整理したものである。
なお、前年から、逗子の柳屋に居を移した。

5月には、結婚五周年を記念して、初めて上州・伊香保に遊び、
千明仁和亭に二週間ほど滞在した。
夏は、逗子の柳屋で過ごした。
同宿していた福家安子から大山信子の実話を聞いて、
『不如帰(ほととぎす)』の構想ができあがった。

明治31年、『不如帰』を発表、ついで『思出の記』(明治33年~34年)を連載し、
8月、『自然と人生』をまとめて、刊行した。

これを機会に、月給を貰う生活をやめ、
逗子から、東京郊外の原宿に移った。
民友社との関係は自由契約になった。

兄・蘇峰との間が不和になったのは、明治32年頃からであった。

『思出の記』は、明治34年5月に刊行された。
蘆花の名声は、『不如帰』で最も高くなったが、
『自然と人生』は、文学的な質も高く、日本人の感情教育に役立った。

『思出の記』は、自伝的要素もつよいが、
キリスト教が明治の人たちの心の糧として、いかに役立ったかを知ることができる。


明治35年、兄・蘇峰への反抗は頂点に達し、
民友社との関係を立つ決心をしたが、蘇峰の前ではそれがいえない。
蘆花は、依然として、負け犬から抜けだせない。

明治36年1月、『告別の辞』を、『国民新聞』によせて、
掲載が拒否された。
1月下旬、原宿に、黒潮社を設け、『黒潮』第一編を自費出版した。
『黒潮』は、明治35年、蘇峰の勧めで、『国民新聞』に連載していたが、
意見の食い違いで、掲載を中止していた。

翌年、愛子と共に各地を旅行した。
『不如帰』は、英訳され、着者としての名声ますまあがった。

明治38年8月、愛子と姪を連れて、富士に登り、
頂上近くで暴風雨に遭い、五日間人事不省に陥った。
その模様は、『富士』(四巻、大正14年~昭和3年、刊行)に詳しく述べられている。

この年の12月5日、兄・蘇峰を訪ね、
3年間の疎隔を詫び、不和は一応解消した。
年末、蘆花は一切を整理し、逗子に移った。

翌年、伊香保におもむき、3月まで滞在したが、トルストイを深く読んだ。
その結果、トルストイを訪問することを思い立った。

一方、愛子は、精神の一致が得られぬからと、別居を主張したが、
3月、群馬県・安中教会で受洗した。

蘆花は、4月4日、横浜を出帆、聖地パレスチナを順礼し、
ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねて、帰国した。
『順礼紀行』(明治39年、刊行)はその時の見聞を集めたもの。

東京・青山高樹町に移った翌年、
府下・千歳村粕谷356番地に移り、『美的百姓』になろうとした。
都会生活から脱れて、田園生活を営んだということは、
自然詩人として理想の境地を求めたものである。

『みみずのたはごと』(大正2年、刊行)は、過去6年間の記録である。

なお、兄・蘇峰との関係は、
明治41年、末女・鶴子を養女に迎えたり、
大正2年、国民新聞社が襲われたりした時は、兄を助ける意味で、
『国民新聞』に、『十年』を連載しはじめたが、わずか11回で、中断した。

愛子や鶴子と共に各地を旅行し、京城(ソウル)で、兄・蘇峰に逢ってから、
蘆花はその後死ぬまで会わなかった。
鶴子は、大正3年に実家に帰してしまった。
その間、蘆花は、たえず兄・蘇峰を重苦しく意識をしていたのである。

・・】
出典・『新潮 日本文学小辞典』(新潮社) 執筆者・文芸評論家・荒 正人

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


私は小説家・徳富蘆花が私が住んでいる近くの地域に明治40年より死去するまでの20年間過ごされ、
この間の随筆として『みみずのたはこと』を遺されている。

私は大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなり、
本名の徳冨健次郎で発表された『みみずのたはこと』を読みはじめていたのであるが、
徳富蘆花がなぜこの地に住まわれるようになったかも知りたくなった。


私は徳冨蘆花に関しては殆ど無知なので、
私の付近に置いている数冊の本、
ネットで フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』などを読んだのであるが、
徳冨蘆花の作品の解説と略歴であり、氏の実像に近い真情がなく、
たとえ随筆の『みみずのたはこと』を読んでも、
その当人の心情まで不明なのである。

こうした中で、私の本棚にあった『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)を取り出して、
結果として 執筆者・文芸評論家・荒 正人の解説と評論文にすがり、
無断であるが長々と転載をしてきた。

このように徳富蘆花の幼年期から、私の目的とした府下・千歳村粕谷に移られるまでの時代を転載してきたが、
父・一敬、兄・蘇峰との負い目、劣等感に苦悶し、
その果てに兄・蘇峰に対して確執の心情になるまでを荒 正人に導かれて、
私はすこしづづ明確になった。

この後は、本題の『みみずのたはこと』に描かれた明治40年からの千歳村粕谷の情景、
そして付近の生活実態を転載させて頂きながら、
現在、激しく変貌し跡形もなくなったこの地域と対話ができればと思い、
次章から記したい。




                          《つづく》




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《2》

2009-05-25 12:33:27 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
     第2章

私の読書歴は遅ればせながら高校時代からで、新潮文庫を中核に濫読していた。

私は東京オリンピックが開催された後に、
確か中央公論社が創業80周年を記念して出版した『日本の文学』の全80巻を次兄が購入していたので、
明治から昭和の時代までの作品が選定されたのを殆ど読んだりしていた。

そして、当然のことながら徳冨蘆花の小説『不如帰』は収録されていたが、
あとの作品は忘れてしまったが、
日本文学に関しては、この『日本の文学』が基盤となり、
この中で魅せられた作家から、単行本、文庫本を買い求めたり、
月刊文芸誌の『新潮』、『文学界』、『群像』を読んだりしていた。


このような状態であったので、私は徳冨蘆花に関しては殆ど無知なので、
私の付近に置いている数冊の本、
ネットで フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』などを読んだのであるが、
徳冨蘆花の作品の解説と略歴であり、氏の実像に近い真情がなく、
たとえ随筆の『みみずのたはこと』を読んでも、
その当人の心情まで不明なのである。

そして私は、何かないかしらと思いながら、
書棚から一冊の本を取り出したのである・・。
『新潮 日本文学小辞典』(新潮社)であり、昭和43年1月下旬に買い求めた文学辞典である。

そして、昨日の徳冨蘆花の軌跡を読みながら、
驚いたり、ため息をしたのである。

無念ながら私には徳冨蘆花氏に関して、殆ど無知であり、
この辞書に執筆された文芸評論家・荒 正人の解説文にすがり、転載させて頂く。

【徳富蘆花(とくとみ ろか)
明治元(1868)年10月25日~昭和2(1927)年9月18日
小説家。
本名・徳富健次郎。
肥後・葦北郡水俣に生まれた。
徳富猪一郎(蘇峰)の弟。
徳富家は、水俣の郷士で惣庄屋(そうしょうや)兼代官であった。

父・一敬は、明治維新の後、
白川県(のちに熊本県)七等出仕となったが、辞任してからは、
政治、産業、教育に従い、大正3年まで存命していた。

(略)

蘆花は、熊本・本山小で優秀な成績を示していたが、
ジェーンズ大尉が基礎を築いた熊本洋学校に入学した。
明治9年の『熊本神風連の乱』を家内より覗き見した。
明治11年6月、兄・猪一郎に伴われて、京都・同志社に入学し、新島 襄に認められた。
やがて文学書に親しんだ。

明治13年6月、同志社を去り、熊本に帰った。
明治14年、母・久子に連れなれて教会に通い、また、小説なども創りはじめた。
明治15年、兄・猪一郎の経営する大江義塾に移った。

この頃・父・一敬へ反逆した。
父への反感は、生涯を通じて激しく、のちに、父の死に際しては、
葬儀におもむかったばかりか、赤飯をたいて祝った。

蘆花は、兄・猪一郎に対しては、死の床に至るまで、負け犬の立場に、
自分を於き、みずから苦しみぬいた。

蘆花は、妻・あいにも劣等感をいたいたが、これはやがて消え去った。


『新春』(大正7年・刊行)には、
蘆花が幼年時代に母・久子に悪戯をしようと試み、
叱られたことが、罪の意識の根源になっていることを回想している。
蘆花は、疵松だと思いこんだ。
劣等感も、兄からの抑圧だけが原因でなく、
みずから蒔いた種子にほかならぬと考えていた。

母・久子は、受洗した。
蘆花もキリスト教に近づいた。

明治18年、熊本のメソジスト教会で、受洗し、
今治におもむいて伝道をはじめた。
父から独立したかったのである。

明治19年、同志社に復学し、新島 襄の義姪・山本久栄と恋愛したが、
周囲から反対され、夢遊病者のように鹿児島に走った。
その間の事情は、『黒い眼と茶色の目』(大正3年・刊行)に告白されている。

明治21年2月、放浪も終わり、熊本英学校の教師となった。
蘆花の青春の嵐は、この時やっと落ちついたらしい。
つぎに、下積みの生活が始まる。


明治22年5月、上京して、兄・蘇峰の経営する民友社で、
校正係になり、翻訳その他雑文を書いた。
『如温(ジョン)・武雷士(ブライド)』や『理査士(リチヤルド)・格士電(コブデン)』(明治22年・刊行)などを、
民友社から刊行した。

民友社からは、『国民之友』、『国民新聞』、『家庭雑誌』などが刊行されていたので、
蘆花はいろんな文章を書いていた。
下積みの生活は、10年も続いていた。

キリスト教の信仰は次第にさめたが、
トルストイやゲーテに興味を覚えるようになった。
『ヴィルヘルム・マイスター』を読んだ時など、感激の余り三晩も眠れなかった。

この時期に、『グラッドストーン伝』(明治25・刊行)、
『近世欧米 歴史之片影』』(明治26・刊行)のほか、
『水郷の夢』』(明治23・刊行)、『百合の花』(明治26・刊行)、
『碓氷の紅葉』(明治26・刊行、のちに、『両毛の秋』)を書いた。
これは、蘆花の自然詩人としての一面を示している。

・・】
出典・『新潮 日本文学小辞典』(新潮社) 執筆者・文芸評論家・荒 正人

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


徳富蘆花の幼年期から青年時代まで、そして作家としての下積み時代の軌跡であるが、
この時代に於いては平民より遥かに恵まれた家柄で育ち、
この人なりに複雑に苦悶しながらも成人を迎え、
やがて確固たる創作者の道へとたどるのである。

しかし、当人が暗黙に伝承される茶道、華道、歌舞伎などの世界と違い、
もとより創作者はみずから独創性ある作品を提示しなければならない世界であり、
この後の徳富蘆花も苦難の軌跡が待っている。


                          《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《1》

2009-05-24 17:33:20 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
     第1章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昭和19年9月に今住んでいる近くの実家で、
農家の三男坊として生を受けた。

私はこのサイトに於いては、私の幼年期から昨今まで、数多く綴ったりしているが
ここ数年、私の生まれる以前の昭和時代はもとより、
大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなったりしている・・。


父は昭和28年に病死され、そして祖父も後を追うように昭和29年に死去し、
私としては小学生であったので、
この頃の情景はある程度は鮮明に残っている。

母は無念ながら10年前に他界したが、
私は敗戦前の昭和時代の頃の我が家の出来事はもとより、
周辺の移ろう情景なども聞いたり、教えられたりした。

この間も、親戚の叔父、叔母、近所の小父、小母さんなどに訊(たず)ねたり、
教示されたりしてきた。

そして、図書館などに行き、『郷土史』などを読んだりしてきたが、
つたない私は、この時代を鮮明に整理を出来なかったのである。


こうした思いでいると、私は数キロ近くに『蘆花公園』があることにに気づき、
思わず微笑んだのである。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html

正式名所は『蘆花恒春園』であるが、このサイトの公園概要に明記されている通り、

【・・
「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、
後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分と
その周辺を買収してつくられました。

蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、
土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、
昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。
・・】
と解説される。

そして作家の徳冨蘆花氏は数多くの随筆を遺されているが、
千歳村の粕谷(現在:世田谷区粕谷)の地に約20年間生活されていたので、
遅ればせながら、何かこの地域に関する随筆はと探した結果、
『みみずのたはこと』の作品を知ったのである。

私はこの後、数店の本屋で徳冨蘆花の『みみずのたはこと』を探し求めたのであるが、
無念ながらなく、気落ちして帰宅したのである。

そして、ネツトで色々と検索した結果、
著作権の消滅した小説、詩、評論等を収録された無料公開の電子図書館で知られている【青空文庫】で
この作品にめぐり逢えたのである。


http
://www.aozora.gr.jp/cards/000279/files/1704_6917.html

そして私は、この三日間ほど、本名の徳冨健次郎で発表された『みみずのたはこと』を読みはじめ、
あの頃の時代は、私の住む近く地域に於いては、このようなことがあった、
と深くうなずいたりし、多々教示を受けている。


                             《つづく》


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秘かに待ち焦(こ)がれた雨の降る日を迎えて・・。  

2009-05-24 08:42:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
どんよりとした曇り空で朝を迎えていたが、
先ほどから小雨が降りだしてきた・・。

地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は18度、昼下がりは17度前後、そして夕方の6時には17度前後で、
明日の午前中まで雨が降り続き、ときおり激しく降ります、
と報じていた。

私は日中も気温が上昇しないので、横並びの日かしら、
と思いながらも4月の下旬のような気温に戸惑ったりしている。


東京郊外はこの一週間は初夏のような陽気の多い日となり、
一昨日から夕方から夜半のひとときは雨が降ります、と報じられていたが、
私は秘かに待ち焦がれたりしていたが、予測に反していた。


私は一昨日、庭の樹木の剪定をし、大幅に樹形を短くしたので、
雨で清めて下されば、と念願していたのである。

小雨の降る主庭の樹木を眺めながら、こうして綴っているのであるが、
枝葉の中に、切った枝葉の一部が取りもれて、微風に揺れたりして折、
私は苦笑したりしている。

そして、乾ききった日々が続いてきたので、
何よりも喜んでいるのは樹木、草花かしら、
と私も微笑んだりしている。

私はこの時節に於いては、
晴れた日が三日続き、曇りが一日、そして雨の日が一日が理想のサイクルであるが、
こればかりは天上の気候の神々の采配だから、
と小雨舞い降る空を見つめたりしている。



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私が選んだ『第22回 サラリーマン川柳』・・♪

2009-05-23 10:42:23 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、読売新聞を読んで、思わず微苦笑させられた記事があった。

【 サラリーマン川柳に託す嘆き節、今年のベスト10決まる
  「しゅうち心 なくした妻は ポーニョポニョ」――。 】

と見出しの記事であった。


記事の内容に関し、【YOMIURI ONLILE】も同様な記事が掲載されているので、
無断であるが転載させて頂く。

【・・
第一生命保険が22日発表した「サラリーマン川柳コンクール」のベスト10で、
妻の体形を、人気歌手グループとアニメ映画の名前を使って嘆いた作品が1位に選ばれた。

今回は「朝バナナ 効果があったの お店だけ」(4位)、
「胸よりも 前に出るなと 腹に言う」(9位)など、
健康や「メタボ」にまつわる4作品がベスト10入り。

一方で、「久しぶり ハローワークで 同窓会」(2位)など不況やリストラを嘆く作品は、2作品だった。

今年2月に選ばれた入選100作品を対象に人気投票が行われ、
全国から約10万票が寄せられた。

 ◆ベスト10◆

 第一位 しゅうち心 なくした妻は ポーニョポニョ (オー マイ ガット)

 第二位 久しぶり ハローワークで 同窓会 (転起)

 第三位 ぼくの嫁 国産(こくさん)なのに 毒(どく)がある (歩人)

 第四位 朝バナナ 効果があったの お店だけ (品切れ店長)

 第五位 やせたのは 一緒に歩いた 犬の方 (花鳥風月)

 第六位 「ストレスか?」 聞かれる上司が その原因 (読み人知らず)

 第七位 コスト下げ やる気も一緒に 下げられる (敏腕経営者)

 第七位 「パパが(・)いい!」 それがいつしか 「パパは(・)いい」 (はりきりパパ)

 第九位 胸(むね)よりも 前(まえ)に出(で)るなと 腹(はら)に言(い)う (えんどうまめ)

 第十位 篤姫に 仕切らせたいな 国会を (玲子命)

(2009年5月22日19時45分 読売新聞)

・・】

注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私はこの後、ネットで『サラリーマン川柳コンクール』を主催されている第一生命
を検索した。

http://event.dai-ichi-life.co.jp/company/senryu/22th/best_10.html


私は『サラリーマン川柳コンクール』に関しては、
人生の哲学書のひとつとして、愛読している。

私は農家の三男坊として生を受け、
大学を中退後、映画・文学青年の真似事をし、
民間会社に中途入社し、35年ばかり勤め、定年退職をした。
最後の5年は出向となったりしたこともあるので、
それなりに苦楽の多いサラリーマンの時代でもあった。

つたない私の半生からして、『サラリーマン川柳コンクール』は、
まぎれない人生の哀歓がある、と思いながら微苦笑しながら、
それぞれの投稿されたお方の作品を拝読している。

今回のベスト10位に選定された作品は、確かに一句と思いながら、
私は第11~100位を読みながらも、
この人生は、と思わず感嘆させられた句を私なりに選定した。
【社会全般】、【サラリーマン哀歓】、そして【家庭】の三大区分とした。


【社会全般】
 19位  子どもより 大人に足りぬ 羞恥心

                    たゆ

【サラリーマン哀歓】、
 49位  良い上司 見ざる言わざる 褒め上手

                 部下の気持ち

【家庭】
 50位  叱っても 「ママがいいって 言ってたよ」

                  ヒヤヒヤ父さん


私は二時間ばかり百句を拝読したのであるが、
この三句としたが、私は何度も読んでも、作者の感性に敬服している。


私は、『サラリーマン川柳コンクール』に関しては、幾度も投稿しているが、
昨年の2008年2月5日に於いても、
第21回の『サラリーマン川柳コンクール』の100選が公表された折、
【 『サラ川』、この人生に微笑みを・・♪ 】
と題して、投稿しているのが、再掲載をする。

【・・
    第一章

昨夜、第一生命が主催されている第21回の『サラリーマン川柳コンクール』で、
100選が公表された。

私はネットで知り、読みながら、微苦笑をしていたのである。

私はサラリーマンを35年間過ごし、
定年退職後の年金生活4年生の身であるが、
何かと『サラリーマン川柳』が好きで、現役時代から愛読し、
励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、『サラ川 傑作選』の本を四冊を所有している。

私は『サラ川』は、日常の生活の優れた哲学書と思い、
限りなく人生の愛惜と確信し、ときには本を開いたりしている。

今回の投稿された100選を拝読し、
笑い、悲哀、社会に憤(いきどお)りを感じたりしている・・。

この中で、独断と偏見の多い私は、
私の偏屈な心に残った作品を幾つかの作品を転記させて頂く。


現役世代であったならば、


喫煙所 皆が何故か 情報通

         雅号・紫煙ファンテーター


この作品を感銘したのは、昨今の禁煙ブームで、
肩身の狭い喫煙者は喫煙所で煙草を喫いながら、
お互いにさりげない話をしている・・。

私は9年前に中小業の本社に勤めていて体験したことであるが、
他部署の同期の方と煙草を喫いながら、
『また・・早期退職優遇制度・・始めるらしい・・
昨夜、後輩の人事部にいる奴から・・
こっそり聞いてしまったの・・
今度は・・30名前後が秘かな目標らしい・・
明日あたり公表されるから・・
ここだけの話にしてね・・』
と同期の輩(やから)は私に教えてくれた。

このような話は、サラリーマンを長年勤めれば、
限りなくある、と今の私は微苦笑したのである。



   第二章              

次の一句は、私なりに苦慮される名句である。


定年の 延長決まり 妻元気

          雅号・うつ蝉


主人は会社人間で朝は早く、帰宅は遅い生活を40年間前後されて、
子供の養育をすべて妻にまかせ、
定年の時を迎えた。

こうした途上で、子供たちは巣立ちして、
それぞれが独立した家庭を過ごされている。

妻は妻なりの日常生活のリズムが出来て折、
主人が定年退職後、妻としてはなるべく今までの生活ペースを変えたくないのである。

料理、掃除、買物、そしてささやかな自由時間を活用されて、
ご自分の趣味の時間で過ごす・・。

こうした今までの生活ペースを、
主人が家に居て、昼食などの用意をしたり、何かと束縛されるようで、
ささやかな自由時間が楽しめないのであり、
妻としては次第に鬱積がたまる・・

このような情景を私は思い浮かべたりしている。


私達の場合は、子供に恵まれなかったせいもあるが、
定年退職の5年前に、定年後の生活設計を老後の資金も含めて、お互いに話し合った。

退職後からはどのように過ごしたいか、
この命題に基づいて、家内と徹底的に話し合ったのである。

私は退職後は自分の趣味で過ごしたく、
定年後は働かない。
そして、多少の家の手伝いをする。

お互いの趣味は尊重して、干渉はしない。
いずれはどちらかが先にたたれるので、
趣味を強く持てれば、片割れとなった時にも立ち直りも早く、
その後の歳月も充実した日々を過ごせるだろう、
と思ったからである。

但し、共通の趣味はひとつだけ共有しようとして、
家内とは国内旅行と決めたのである。


このように話し合い、
私は何よりも読書が好きなので、小説、随筆、歴史書、現代史などの本を読んだり、
文章を綴ることも好きなのであり、このサイトに綴り、投稿している。
ときには、居間のソファで映画のビデオ、DVDを観たり、
音楽をカセット・CD・DVDなどで聴いたりしている。

そして、ときたま庭の手入れをし、
家内と国内旅行に行ったりしている。

日常の肝要なこととして、私は買物を担当し、
ささやかに家内の煎茶、コーヒーの茶坊主に徹している。

年金生活の4年生となっている今、
お互いの思いやり、労(いた)わり合いを言動で表現することは、
いうまでもないことである。


しかし、寝食を30数年共にした家内でも、
ときおり日常に於いて、ボタンの掛け違いが発生するのである。

こうした折は、私は素直に、
『XXちゃん・・そう解釈していたとは・・判からなかったょ・・
俺が悪かった・・』
と家内に謝(あやま)ったりしている。

私は秘かに、負けるが勝ち、そして何より早期解決の道はこれだ、
と思ったりしている。

ただし、この方法は何回もすれば薬と同様に効果は薄れるので、
年に一回ぐらいは、
家内の前で土下座して、謝(あやま)ったりしている。

これは殆どの家庭内の難題でも、解決の効果があり、
後日、私は独りで微笑んでいるのである。



   最終章

私は年金生活の4年生の身であり、家内と2人住まいであるが、
ここ10年でまたたくまに普及した携帯電話が使えなく、
お互いに持っていないのである。


無料でも 家族間での 通話なし

         雅号・栗ポン


私は携帯電話会社の過熱競争で、電話会社のサービスの一環として、
同じ電話会社同士であれば、家族間で無料制度と解釈している。

私は子供に恵まれなかったが、家内とはお互いに会話を続けて、
30数年過ごしている。

私は現役時代を含めて、晩酌をしながら夕食を頂く時、
かって『夕刊フジ』のように夕刊専用紙があったように、
日中の出来事をお互いに話したりしている。

お互いに心に思っていること、感じたことなどを互いに発露し、
たとえ現役時代に深夜に私が帰宅し、睡眠時間が削られても、
何より重要なことを思って、
寝食を共にした結婚以来、私達夫婦は続けている。

この句は、父親と母親の会話の少なさ、
そして父親と息子、娘の会話の少なさの家庭と想像されるが、
私から見れば、余りにも淋しい父親の姿を感じ取ってしまうのである。

現代、一部の家庭で見られる状況を切取った一句と思われ、
会話の機具である携帯電話などで、
たとえ無料でも親子の会話が乏しいのは、余りに皮肉で哀しいことである・・。

今回の『サラ川』としては、古来からの川柳の意義からすれば、
私としては最優秀作品と感じている。

・・】

このように投稿していたが、今こうして再読しても、
私は微苦笑しながら読み、この人生に限りない微笑み、と祈念したりしている。


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ときには、早寝早起き元気な年金生活のわが身は・・!?

2009-05-23 06:08:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
3時に目覚め、玄関庭に下り立ち、
煙草を喫いながらぼんやりとしている。
東京の郊外は、この時節の日の出は4時半過ぎであるので、
まだ薄暗いのである。


昨日の朝8時半過ぎから、私達夫婦は庭に下り立ち、
樹木の剪定をはじめた。
玄関庭と主庭は雑木が主体であるが、住みはじめて30年になるので、
かぼそかった雑木もそれなりに樹高も伸長するので、
5年於きぐらいで大幅に切り詰めている。

私は剪定バサミを植木屋さんのように腰廻りに身に付けて、剪定ノコギリを持ったりしているが、
家内は高枝バサミと剪定バサミで枝葉を切ったりする。


家内は土いじりが苦手の上、何より蚊(か)が苦手であるので、
5月下旬から9月頃までは、殆ど庭でゆっくりと過ごす時がないのである。
その上、庭の手入れに関しては、
もとより我が家は私の専任の担当であり、平素は孤軍奮闘しているが、
年に数回は家内の助太刀となっている。


私は剪定バサミで樹木の枝葉を切っていたら、
『齢を取ったら・・高い枝は大変だから・・
今の時(うち)に・・短くしましょう・・』
と家内は提案しながら、高枝バサミで樹高を大胆に短くし始めた。

或いは私が樹に登り、剪定ノコギリで枝を切ったりすると、
『その脇の太い枝も・・切りましょう・・』
と家内は提案する。
私は戸惑っていると、家内は高枝バサミで指示をするのである。

そして、今回は特に金木犀(キンモクセイ)の二本を大幅に切り詰めた。
樹高7メートルぐらいを2メートルにしょう、と話し合ったので、
私は主木を地上1メートルぐらいで剪定ノコギリで切りはじめたが、
直経20センチ程度であるので一気には切り落とせないのである。

『私も手伝うわ・・選手・・交代よ・・』
と家内は私に云い、やむえず私は剪定ノコギリを家内に手渡した。


私は庭の片隅で簡易椅子に座り、煙草を喫いながら、家内のしぐさを見つめていた。
家内は平素は従順であるが、
ときおり思いつめたら何事も徹底的にする性格なので、
私は微苦笑しながら、眺めていたのである。

そして、64歳の齢を重ねた我が身の体力の衰えを、
改めて実感させられたのである。
それにしても、女は元気だ、と5歳ばかり齢下の家内をしぐさに驚かされたのである。


この後も薄日の中、お互いに樹木を剪定したり、
枝葉を玄関庭の片隅に積み上げたりしていた。
夕方の4時半過ぎとなったので、
『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・やめない・・』
と私の方から家内に提案したのである。

私達は昼食抜きで専念していたが、私の方が体力の限界に近いし、
やむえず作業を中断しょうと思ったのである。


家内にお風呂に入って貰っている間に、
私は庭に残った枝葉を拾い集めたりした後、テラスで簡易椅子に腰掛けて、
冷たくなった煎茶を飲みながら、短くなった樹木を眺めたりしていた。

そして、入梅が過ぎ、初夏の頃になれば、それなりに樹形もなるだろう、
しかし半分ぐらいしか樹木の剪定は終わっていないのだから、一週間以内にふたたび挑戦しょう、
と思ったりしていた。


私は入浴が終わった5時半過ぎに、
お寿司でも食べよう、と家内に伝え、
いつも愛食している寿司屋さんに家内は電話連絡をしたりしていた。

夕暮れの陽射しの射す庭を眺め、
私達は居間のテーブルでビールを呑みながら、寿司を頂いたりした。
そして優しいメタボの研修を2月以来から受けている私は、
平素の日常生活は350mlの缶ビールを二本までの自身定めを、
初めて破り、4本目かしらと云いながら呑んだりしたのである。

その後、私は7時頃に眠くなり、寝室に行き、布団にもぐり眠ってしまったのである。
家内は居間でテレビを観たと思われるが、
私は夢の中である。


私は薄暗い玄関の軒下で煙草を喫いながら、
樹木の短くなった樹高を眺め、微苦笑し、
肩と手、そして少しだるい身体を感じたりしている。

時刻は、3時過ぎであり、
定年退職後は日の出と共に起きをモットーとしている私さえ、
どうしてなの、と児童のような早寝早起きに戸惑ったりしているのである。



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