夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

あるサラリーマンの昨今の過酷な実態を学び、年金生活の私でも、思わず涙を浮かべ・・。

2012-06-30 14:07:24 | 時事【社会】
私は民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職し、年金生活を過ごしている身であるが、
昨夜の深夜、偶然にある公式サイトのひとつの記事を読み、思わず引き込まれ、
読み終わった後、涙を浮かべていた・・。

《・・大手システム会社に勤めるシステムエンジニアのEさんは、
リストラされずに生き残った「勝ち組」。

しかし不況期に会社を去った仲間も再就職ができずに地獄を見ているが、
残ったほうにもつらい日々が待っていた。

大手企業は仕事量が減ったためのリストラは、過去に何度も行っていて、
すでに適正以下の人数で仕事を回している状態。

そこから一段のリストラを行ったのだから、仕事量は格段に増えた。
会社は現場の状況を無視して「効率よく仕事をするように」と言うばかり。
もちろん残業代はカットされて収入は横ばい状態。
精神的にも肉体的にも耐えられないところに来ている。

Eさんは膨大な仕事量の処理に追われて、いつ心が折れてもおかしくない状態に追い込まれている。
それは妻も同じ。
収入は横ばいなのに教育費などの出費は増える一方で、家計簿は理想とはほど遠い。
とはいえ世間的に見れば高い1000万円の年収があるのだから
「家計管理すらできないダメな妻」と自分を責め、落ち込んでいる。

ただEさん夫婦は、多感な時期を迎えた子どもが私立中学に入学したばかりなので、
転校だけは避けたいということで思いが一致している。

しかし残念ながらEさんに選択肢はほとんどない。
年収ダウンを覚悟して会社に地方転勤を願い出るか転職するかだ。
現在の年収を維持しようとすると忙しさも変わらないので、家計を見直すことで減収分を乗り切るしかない。
(略)
Eさん世代は自分の父親がモーレツ社員だったはず。
ほとんど家に帰ってこなかったけれど、働きに応じて収入が増える時代だったので、
家を買い、車を買い、家電製品を充実させるという「夢」を実現させることができた。

Eさん夫婦はそれが「普通」だと思い込んでいて、
自分たちもゼロからスタートしてモノを充実させるという夢を実現できなければ、
負け犬になると思い込んでいる。

もう時代が違うと認識して、モノの豊かさではなく、
家族の絆のような精神的な豊かさを追求する生活に切り替えるべきだろう。
(略)
・・》

このような概要で、この間に《・・そこで転勤や転職で、
収入が30%減の年収700万円になっても耐えられる家計を考えよう・・》
という内容で具体的な家計内の対応策が提言されていた記事であった。

この私が偶然に読んだ記事は、
http://www.sankeibiz.jp/econome/news/120623/ecd1206231126002-n1.htm
☆【Sankei Biz】<==【暮らし】<==【家計の病気119番】年収1000万円世帯 ☆
そして情報誌と名高い【PRESIDENT Online】で掲載された記事でもある。

たまたま私は中小業が多い音楽業界のあるレコード会社に35年ばかり勤め、
この間の1971(昭和46)年1月から1992〈平成4〉年9月まで、
22年近く情報畑のシステムに携わり、悪戦苦闘が多い体験をしたりしてきた。
こうした関連で、幾たびのシステム開発などの時、準大手システム会社のSE(システムエンジニア)と
業務上で交流をしたりしてきたので、
今回の記事を昨今のシステム会社の社員の過酷な実態も学びながら、最後まで読まされてしまったのであった。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋に、
大学を中退して映画青年の真似事をした後、文學青年の真似事をしたが、
やがて敗退し、あえなく挫折した。

やむなく何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
知人のご尽力もあり、この当時ある大手の音響・映像の会社に何とか中途入社できた。

そして音楽事業本部の管理畑である商品管理の現場を勤めて、
まもなくこの中のひとつのレーベルが外資系のレコード会社として新設され、
私も転籍の辞令を受けた。
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまった・・。

システムの運用、開発に関しては、既に音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだりした。
このような関係で長らくの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。

この当時はある有数なデーターセンターに処理委託をしていたので、
私たちは幾たびのシステム開発、部分開発の時は、もとより多忙であったが、
その後は安定していれば、運営業務だけとなり安楽な日々もあったりした。

そして私が40歳の少し前の頃になると、
私の勤めていた会社の業績が悪化して、コンピュータの自社導入で経費削減を図れ、
と首脳部のひと言で、奮闘した・・。

そして、システムの開発に際して、骨幹は準大手システム会社と打ち合わせを重ねたり、
枝分かれの部分のプログラムを私も作成したり、
オペレーションまでしたり、もとより睡眠時間を削りながら奮戦した。

こうした開発時は日曜日だけは休んだりしたが、幾たびか徹夜の日をしたり、
明け方のひととき、床にダンボールを敷き、30分ぐらい少しまどろんだりして、
洗面所に行き顔を洗い、そして日中も奮闘して、何とか翌年に軌道に乗せたりした。

その後、幾たびか部分改定をすると、もとより開発期限もあり、多忙であった。

こうした間に、レコード業界の団体基幹であるレコード協会が、
情報システム部会が新設されて、各社のシステム責任者が集い、
共通のシステムを協議するすることになり、私も出席したりした。

こうした情報システム部会で、他社のシステム状況を少しばかり学んだりした。
レコード会社の中では、親会社が家電メーカー関連などもあり、
レコード売上の上位グループの会社は、
システム総合管理でも、専任者、コンピュータと関連の設置、外部に委託範囲でも、
私が溜息するほど多く恵まれていたのである。

そして、大手メーカーは余裕があっていいよなぁ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、その後も幾たびかシステム改定をしたりしていた。

こうした何かと悪戦苦闘している中、1992〈平成4〉年9月、
経理のレコード販売店の請求・回収業務の債権管理の責任者が退社され、
私はこの部署に異動されられ、長年の情報畑から別れを告げた。

その後、外資の親会社の要請で、国内のあるレコード会社と合併して、
私も移籍させられた。


1970、80年代は音楽業界は、それぞれのレコード会社は躍進したが、
90年代を迎えると、特に外資系は、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、
私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


このような私の拙(つたな)い現役サラリーマンの軌跡があるので、
今回の主人公の心情は痛いほど解り、涙を浮かべたのである。

昨今は政治は混迷を増し、経済も低迷、そして社会も劣化する中、
一流企業でもここ10数年に幾たびかリストラ烈風となり、
国家公務員、そして地方公務員でも安住な職場でもなくなってきている。

こうしたニュースを知るたびに、
私たちも過酷な障害レースで奮戦し、ゆるやかに収入の向上となり、確かな明日に希望がもている時代でもあった。
果たして現役のサラリーマン諸兄は、益々短期に成果を要求される時代、
踏みとどまって高収入を得て、過酷な業務も大変、まして退社して再就職も熾烈・・
このようなことを深夜の2時過ぎまで、無力となった私は考えさせられたのである。

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年金生活の我が家、早くも6月の月次決算、半期決算を終えて、微苦笑し・・。

2012-06-29 14:37:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの住宅街のはずれで、
築後34年が過ぎようとしている古びた一軒屋に住んでいる。

そして小庭にある落葉樹が多い樹木、草花の四季折々の移ろいを眺め、
子供に恵まれなかった私たち夫婦は2人だけで、お互いの趣味を尊重して過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
年金生活を始め、運動神経の衰えを感じて、自動車の免許書の更新も断念した。
周辺のお住まいのお宅に於いては、殆どが自動車を所有しているが、
我が家は自動車も所有できなく、もとより昨今のガソリンの価格も知らない。

その上、私たち夫婦は携帯電話に関しては、使えないので保有することなく、
社会からの時流から確実に取り残されている、と私はときおり感じながら苦笑したりしている・・。


私は若き頃の30代のなかばに一軒屋を建てた時、
家内は中学生の頃から茶事を学んでいたので、私は若気の至りで気負って、
家の中の一室を茶室として付け足したりした。
しかしながら程々の年収であったので、住宅に関してのローンは我が家としては重く家計を占めた。

このように状況であったので、私は返済に苦汁した中、
専業主婦だった家内は、やむなくデパートの呉服売り場など働き、
新居から3年ぐらい、家計の強力な支援を受けたりした。
そしてスーパー・マーケットさえも、ディスカント風の低価格店から中級店、そして高級店まで、
その時に応じて利用してきた。

定年後の年金生活を始め、自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような拙(つたな)い年金生活をしているが、
今朝、家内から『今月の家計簿・・締めましょうか?』と私は言われて、
『明日が月末であるが、一日ぐらい早くても年金生活の我が家では態勢に影響ないから、
やりましょう』、と私は応(こた)えた。

我家の生計は原則として、厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で日常生活を営んでおり、
冠婚葬祭、思いがけない出来事、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して過ごしている・・。

そして我が家は、日常は買い物したレシートなどを
家内が一週間に一度ぐらい簡単に集計している程度であり、
月末の前後に私たち夫婦は家計簿の月次決算をしたりしている。

家内が支出のそれぞれの区分項目を読み上げて、
私はパソコンの表計算ソフトを利用して、入力したりしている。
そして収入の項目を入れたり、銀行、郵便局などの残高を入力した上で、
5表ばかり我が家の独自の家計管理表を作成している。

そして午前中のひととき、私たち夫婦は6月の家計簿の月次決算を終え、
連動した計算で半期決算も終えてしまったのである。

そして今年も上半期の1月から6月までの間に、国内旅行を4度ばかりしたり、
親戚、知人の葬儀などもあり、もとより赤字となり、
私たち夫婦は微苦笑しながら、旅先のこぼれ話をしたりした。


このような家計簿の発想の根源として、私が独身時代に、自身がその日の心情に応じて、
本、レコードなどを買ったり、居酒屋、ときには恋しい女性との交遊などで散財していたので、
ふしだらな私でも月に一度ぐらいは現状認識と思い、秘かに家計簿をつけたりしていた。

家内と結婚した1976〈昭和51〉年の春からも、
少なくとも交際費、住居費、衣服費、食費などは増加するので、
私たち夫婦は毎年、思いついた購入する予定の品物、旅行計画などの概要の経費を話し合ったりし、今日に至っている。

こうしたことで、概算予算の年次計画が出来上がり、そして月次予算も作成し、
月末の前後に実績を入力し、
今月も赤字だょねぇ、と30代後半などは、お互いに微苦笑し、
やむえずボーナスで何とか赤字を解消したのが実態であった。


昨今、年金生活をしていると、特に耐久商品と称される品の購入には、
私は気弱になり、耐久商品の買い替え時にためらったりしている。

我が家のテレビに関しては、恥ずかしながら、
昨年の夏頃にアナグロテレビ放送は廃止と知り、やむえず昨年の5月に、
デジタル対応の薄型テレビ、ブルーディスクの録画機を買い求めたりした。

何より私は困り果てるのは、パソコンの無知な家内からすれば、
バソコンは半永久的商品、と確信したように思い続けていることである。

私が現役時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金、個人年金からの収入には、
もとより限度があるので、私は気弱になり、予算を計上するできなかったのである。

こうした中で、私の愛してやまないパソコンが壊れたりすると、
どうしてなのょ、と私はパソコンを眺めて困惑した体験をして、
やむえず定年後の8年生の中、2度ばかり購入したりしてきた。

このように私は、年金生活をしていると、
予期せぬ出来事に関しては、この齢になれば親戚、知人などの葬祭などの出費が多くなり、
悲しみと共に困惑しているのが、昨今の私の正直な心情でもある。


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年金生活の男性諸氏、愛(いと)しき妻に、少なくとも日一回は褒(ほ)め言葉を・・。

2012-06-28 10:23:28 | 時事【団塊の世代】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私より少し若い世代の団塊世代の諸兄は、
多くは方は60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、年金生活を迎えられた、と私は感じたりしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、
その直後から年金生活をしているので、年金8年生となっている。

私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした後、
遅ればせながら25歳で民間会社に中途入社したので、
団塊世代の新卒の方たちと、数年は机を並べることが多かったので、
自然と友人のような関係が多かったし、何かと親近感を覚えたりしてきた。

年金生活を始められた男性諸氏は、長年に及び奮闘をされて、
殆どの方はお子さんも結婚されて独立した家庭を営み、諸氏のお孫さんもいると思われる。
そして諸氏は、新婚時代と同様に再びふたりだけのお住まいで生活をされ、
戸惑いがある、と私は友人、知人から聞いたたりしている。

私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして、共通の趣味は、国内旅行なので、ときおり日本の各地を旅行したりしている。

私はおしゃべりなタイプであるので、余計なお節介と知りながら、
諸氏が戸惑った日常生活を過ごされている方で、
年金生活で自身の自由な時間が欲しかったならば、
ともかく今までの現役時代と大きく変貌させた態度で、愛妻に対処する必要がある、
と思ったりしている。

過ぎし2007年1月下旬の頃、私は読売新聞の新刊本の広告を偶然に見て、
小川有里さんの著作の『定年オヤジのしつけ方』(講談社 定価1470円)の広告記事は、
定年直後の男性の一部の人達にとっては、この世で最も恐い本のひとつ、と確信を深めながら、
微苦笑したことがある。

《・・
ああ、うっとうしい! 毎日家にいる夫。

家庭内2007年問題を解決する痛快エッセイ!

「定年迷子」を
      かかえた妻たちよ。
           今立ち上がれ!


【定年オヤジの特徴!】

①テレビがお友達

②お昼は作ってくれるものと思っている

③毎日、ごろごろ居間にいる
・・》

このように綴られていて、私は著作者に関しては無知であるが、
定年後の迷子のような心が定まらない男性を正鵠に把握していると思い、
微笑んだり、苦笑したりしている。

私の少しばかり知っている定年後の先輩の中の一部の方がいた。
『定年退職後・・何をしていいか・・分からなんだょ・・』
その方の歓送会の帰路、私に言われた事があったりした。


私は現役のサラリーマン時代の50代の前半、業界はリストラ烈風となり、
私の勤めていた会社もリストラの第二波が行われ、
早期退職優遇制度と称され書類に捺印し退職された人達、
そして大幅に社内の人事異動で配置転換になった人達、
或いは私のように出向になった人達がいた。

こうした激動期の時、私たち夫婦は人生設計を改めて話し合った・・。
60歳を過ぎてから、どのような生活をしたいのか、
これと同時に我家の資金のことも話し合った。

この結果、私は定年退職後、自分の趣味を生きがいとし、退職後は年金生活を過ごしている。

この本に明示されている「定年迷子」のような男性は、
何よりも、ご自分にふさわしい生きがいを見つけることに限る。


そして、何より長年に寝食を共にした愛妻に対して思いやり、
その上に、ともかく一日にひと言は必ず褒(ほ)める。

『今日・・一段と・・綺麗(きれい)だょ・・』

『えぇ! こうしたことも出来るんだ・・凄(すご)いね・・』

『今日の・・この料理・・特に美味しいよ・・』


或いは、家内がデパート、美容院、友達と会いに出かける時は、
『せっかくだから・・ゆっくり・・
昼食は適当に食べているから・・たまにだから・・ゆっくりね・・』

そして帰宅した時、デパートで買物した場合、
『その服・・よく似合うょ・・』

美容院から戻った時、
『その髪型・・お似合いだょ・・』

ともかく私は、女性に対しては誉める。
古今東西の歴史に於いても、特に女性の一部には褒められて嫌だわ、と感じる人でも、
表面は照れながらも、心の中は嬉しいのが圧倒的に多いのである。

サラリーマンの諸兄の多くは、長年にわたり、
人間関係で揉(も)まれ、鍛(き)たい上げられたので、
簡単なことと私は思っている。


そして一日、一回は外出し、愛妻の自由な時間を作ることである。
現役時代の時は、多くの方たちは多忙な会社人間であって、
もとより日中の家庭生活では、妻のペースで長年過ごしてきている・・。
このペースを出来る限り、乱さないのが何よりの秘訣と思っている。

具体的には、愛妻は日常生活として洗濯、掃除、料理など最低限あるので、
その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信している。

私は血液B型を両親から譲り受けたお調子せいか、茶坊主に徹し、
朝は家内より早めに起き出して、家内用のコーヒーを指定されたマグカップに淹れて、
家内の枕元に置いたりしている。
或いは日中のひととき、家内がコーヒーか煎茶を飲みたいようなことを素早く察して、
さりげなく淹れている。

そして、日中は買物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

このようなささいなことを私はしたりした上、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

しかしながら、昨今でも買物をした後、ときおり、
『アナタァ・・このブルーベリーの品・・いつものメーカーと違うわ・・ボケチンねぇ・・』
と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

私は家内が食パンなどに付けているブルーベリー・ジャムの瓶詰のメーカーを間違えたと気づき、
『ホントゥ・・これから気を付けるょ・・取り替えてこようか?』
と私は明るく大きな声で、家内に詫(わ)びたりしている。

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梅雨の間の晴れ間、高齢者の私でも、ときには庭の手入れに孤軍奮闘して・・。

2012-06-27 16:57:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報を見ていたら、朝の6時は15度、昼下りは24度前後、夕暮れの6時は23度前後、
日中はさわやかな晴れ間となり、梅雨の間の洗濯日和です、と報じていた。

私は何よりも暑さに苦手な身であるが、平年の5月下旬の陽気かしら、と微笑んだりした。
昨日も梅雨の間の晴れ間となり、いつものように買い物をした後、
遊歩道を散策していたら、そよ風が身も心も心地よく、一番快適な陽気だ、とスキップしたくなる心境であった。

そして小庭を眺めれば、樹木の枝葉の伸び、雑草が元気よく繁っているので、
庭の手入れをしょう、と決意して、庭の下り立ったのは9時過ぎであった。

いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、
帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。

その後、切り落とした枝葉を整理した後、草むしりに専念した。

そして昨日は風が吹き心地よかったが、今日に限って風もなく燦々と照りつける中、
奮闘していると、汗は流れ落ち、樹の下のもぐり這(は)いつくばって草を取ったりすると、
泥まみれになったりした・・。

そして時折、テラスの片隅みに置いてある簡易椅子に座り、
台所を整理している家内に、冷茶を幾たびか所望したりした。
そして昼食を時間も忘れて、孤軍奮闘した。

我が家の主庭は、垣根は常緑樹、庭は四季のうつろいを明晰に変貌する落葉樹を10数本があり、
草花は半夏生(ハンゲショウ)、唐糸草(カライトソウ)、小判草(コバンソウ)、
玉すだれ、秋海棠(シュウカイドウ)などの茶花を中心に植えている。

そして玄関庭には、露草(ツユクサ)、高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)などを配置しているが、
これだけだと少し寂しいので、今の時節としては主庭にアメリカ芙蓉(フヨウ)を群生させている。

私は幼年期に農家の児として育ち、
生家の宅地は広場のような黒土だけで、周辺は常緑樹、落葉樹の樹木の情景であったので、
我が家の狭い小庭でも、せめて黒土の庭に落葉樹と草花を植えたりしている。

しかしながら、この時節は草は繁るのが早く、草むしりに忙しいが、
体力の衰えた私は、2週間に一回ぐらい奮戦している。

このような怠(なま)け者の私は、今しなくていつするのよ、と思いながら泥だらけ汗まみれで奮戦して、
疲れ果てて終りにしょう、
と私は決意したのが3時過ぎであった。

そして風呂に入った後、けだるい身体で、居間から主庭を眺めたりしていると、
風が吹き、少し枝葉が揺れていた・・。
今頃になって、そよ風かょ、草をむしっている最中であったら助かったのに、
と心の中で、ぼやいたりした。

まもなく家内が近寄ってきて、
『小奇麗になったわ』と私に微笑んだりした。

『朝から・・風が吹いていたら・・少し楽だったのに』
と私は少し照れながら家内に応(こた)えたりした。

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昨今の高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と拙(つたな)い年金生活の私でも感じて・・。

2012-06-26 15:13:07 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今年は団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年、と雑誌を読んで教えられ、
思わず微笑んだりした。

私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、年金生活を迎えられた、と私は解釈した。

ふりかえれば、敗戦後からの一部の方を除き、誰しも貧乏な時代を知っている世代であり、
10歳以上齢上の人たちは、敗戦後の荒廃した日本を、
少なくとも世界の中でも有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。
そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の問題がありながらも存続している。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
長寿化の時代を迎えている。


こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

そして70代も殆どの方は、体力の衰えは実感しながら、心は溌剌している.

このように感じていた私は、昨今の高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と少し飛躍した言葉であるが、
思いを重ねてしまったのである。

たまたま私は読書が好きであり、夏目漱石の『それから』の長井代助、『こゝろ』の先生、
或いは川端康成の『雪国』の主人公のように人を『高等遊民』と称されている。

もとより『高等遊民』は、なんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、
学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めて、
明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉である。


私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をしている。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の最大の恩恵かしら、と享受する時もある。

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ブログのコメントは、相手のお方の本心が見え隠れし・・。

2012-06-25 16:17:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
民間会社に35年近く勤めて定年退職した2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
その直後から年金生活をしている。

そして定年後まもなくブログの世界を知り、パソコンの故障とか旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性のように投稿を重ねてきた・・。

ブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに政治の分野まで発露でき、
何より1995(平成7)年頃から一部の人から流行ったホームページ形式より、
ブログの形式の方が圧倒的に手軽に開設、そして運営できると思っている。

これまで私は、4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
2010(平成22)年8月より、【gooブログ】に一本化して、
『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』として、
本年の初めの頃に、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称している。

この間に多くの方と『コメント』欄で交流を重ね、特にブログを初めて3年の頃は、
毎日5名ぐらいのお方に返信したり、私の方からコメントを綴ったりし、盛んに交流をしていた。

しかしながら、私はコメントを綴るのは、そのお方のプロフィールはもとより、
そのお方の昨今の投稿文に綴られた心情をある程度配慮して、初めて綴ることができるタイプなので、
時間を要し、やがて肝要の読書の時間が無くなり、愕然として、
この後は、コメントの一時的に中止宣言をしたが、そして2年後にコメントを再開した。

私は投稿文は年金生活を過ごしている中、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、綴ったりしているが、1(私)対N(多くのお方)と思い、
ときおりワイシャツにネクタイを締めているように感じる時もある。

コメントはそのお方との個人的に心情で、
1(私)対1(相手のお方)のささやかな心の交流と思いながら、
私は本心を発露して綴り、相手のお方の返信に本心が見え隠れし、微笑んだり、苦笑したりする。
そして心の普段着と感じたりしている。

或いはコメントを頂き、私は微苦笑しながら、返信を認(したた)めたりしている。

このように私は、多くのお方がブログのコメントを活用しているのは、
それぞれのお方の秘めたる心の発露の交流かしら、と感じたりしている。

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年金生活の私、至福のひとときは、本屋で買い求める作品を選定する時・・。

2012-06-24 16:21:42 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をした為か、
退職した直後には、小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後あったりした。

そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。

昨年の2011年の3月11日の東日本大震災後、
老後のことも配慮して自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をしたりした。
そして2000冊ぐらい処分し、3000冊前後が愛着を秘めて保管している。


私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータり専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の民間会社に中途入社して、まもなくレコード会社が新設され、
私も移籍の辞令を受けて、35年近く勤め、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。


定年後の年金生活を始めて、予期せぬ出来事があった。
あれほど熱愛してきた映画の作品のDVD、音楽の作品のCD、DVDは、
私の感性が衰えてきたのか、或いは作品自体が劣化した為か解らないが、
殆ど購入する意欲まで至らくなったりことである。

やむなく居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。

そして特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読してきている。


たまたま昨日の午前中、家内から駅前のスーパー、ドラッグ・ストアーで販売している品の買い物を依頼されて、
最寄駅のひとつの京王線の仙川駅の商店街を目指して、15分ばかり歩いて到着したが、
今朝、新聞に出版会社の本の広告で魅了された本があったので、本屋に寄った。

雑誌の文芸関係のコーナーを見たりした後、単行本のコーナーに行き、
新聞に掲載され魅了させられた高峰秀子・著作の『私のインタヴュー』(新潮社)を探し、見つけた。
http://www.shinchosha.co.jp/book/331613/
☆【新潮社 公式サイト】<== 高峰秀子・著作の『私のインタヴュー ☆

私は若き映画青年の真似事をしていた時、
ときおり寄っていた東宝撮影所の宣伝関係部署で、たまたま高峰秀子さんがおいでなっていて、
宣伝部のひとりから紹介されて、わずかながら言葉を交わした体験があった。

その後、私は50代の頃から、高峰秀子さんがつづられた随筆を読むようになって、
少なくとも20数冊を購読してきたので、やはり《 幻の名著、遂に復刻! 》を読みたかったのである。


そして、この本の近くに貴田 庄・著作の『高峰秀子 ~人として女優として~』(朝日新聞出版)があり、
初めて見る本であったが、購読することに決めた。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=13924
☆【朝日新聞出版 公式サイト】<== 貴田 庄・著作の『高峰秀子 ~人として女優として~』 ☆

私は映画青年を敗退した身であるが、やはり映画界の女優としての高峰秀子さんの足跡を
改めて思考したく、買い求めた。


この後、単行本のコーナーで何かしら読んで見たい本を探して、
ひとつの本に思わず微笑んだりした。
曽野綾子・著作の『自分の財産』(産経新聞出版)である。

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎(おおえ・けんさぶろう、江藤 淳(えとう・じゅん)の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

私はこの以前には、中央公論社から、
確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読し、
一か月前に『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)を買い求めて精読していたので、
今回の本も私にとっては必読書のような感じたりした。


この後、文庫本のコーナーを見たりしたが、魅了される本はなく、
新書本のコーナーに廻り、読みたい本はないかしら、と探したりした。
そして、『驚きの英国史』と題された本を見つけて、
帯の背文字には《イギリスは何を捨て、何を守ってきたか》に瞬時に魅了され、
本を手に取りば、コリン・ジョンズ・著作、森田浩之・訳『驚きの英国史』(NHK出版新書)と解った。

私は今後の日本を思考する時、特にイギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの盛衰史に、
関心があり、読んで見たくて、購入することに決めた。


こうして今回は、たまたま単行本が三冊、新書本が一冊を買い求めて、
心の中は早く読んでみたい、と少年のような高揚した心情であった。
その後、家内からの依頼品を購入し、スキップするように足取りも軽やかに帰宅した。

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『退職後、あなたの夫はどのタイプ?』の記事を読み、つたない年金生活の私は微苦笑させられ・・。

2012-06-23 16:06:57 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の夕方、我が家の門扉の近くにある郵便受け入れ箱を覗(のぞ)いたら、
たった一通の生活情報誌が入っていた。

私は特集に関心があった時、読む生活情報誌ひとつで、
サイケイリビング新聞社が発行される女性のための生活情報誌として名高い『リビング』であり、
6月23日発行日の今回は、
《 退職後、あなたの夫はどのタイプ? 》
と題されていた。

私はどのようなことなの、と思いながら、
何事も好奇心を失くしたら、この世は終わりだ、と信念もあり、読み続けた・・。

《・・ 今年は団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年。
 退職後の夫とはどんな時間を過ごし、新たな生活を築いていくのかは、
 その後のミセスのライフスタイルをも左右する問題といえます。
(略)
・・》
このように序文が明記され、
《 夫も変わる! 妻も変わる? 
            どうなる夫婦の第二章 》
と大きな活字で題され、代表的なタイプとして、5タイプが明示されていた。

私は女性の視点から見た退職後の夫のタイプを分析する記事も、
何かと多々教示されると思いながら、思わず襟を正して読み続けた・・。
無断であるが、転記させて頂く。
《・・
◎『いつも二人で系』
二人で出かける旅行の計画を積極的に立てるようになったり、
百貨店からスーパーには二人で出かけたがったり。
二人で外食することが増えた。コンサートや映画など、二人で出かける機会がぐっと増えたなども。
なかには妻が一人で出かけると機嫌が悪くなる人もあり。

◎『スマート系』
パソコンはもちろん、モバイル、タブレットなど、話題のIT機器に興味津々。
情報取集やデータの整理をし始めたら、何時間でもバソコンに向っていることも。
一度没頭すると時間を忘れがち。
また、新しいIT端末が発売されると聞くと、チェックせずにはいられません。

◎『カルスポ系』
積極的に新しいことを始めたり、学んだりしている。
例えば、平日にスポーツクラブに通ったり、ゴルフの打ちっぱなしに行ったり、
ウォーキングをするようになったり。
地域のサークルに参加するようになった人も。
なかには釣り好きが高じて、魚がさばけるようになった人もあり。

◎『どっぷりお任せ系』
食事の支度や衣類の管理など、身の回りのことはすべて妻にお任せ。
妻が外出しているときは、小腹がすいても自分で作って食べることはせず、我慢。
入浴前、下着の替えは妻が用意。
外出の際の洋服の選びも、妻が担当している。

◎『育む系』
孫のオムツを替えたり、背中に乗せて遊んだり。
また、犬を散歩に連れていくのが日課になった人や、
新たにペットを飼い始め、積極的に世話をしている人も。
ガーデニングや盆栽を楽しんでいる人も多く、特に食べる楽しみもある家庭菜園は妻にも好評。
・・》
このように5タイプを解説されているが、
それぞれのタイプの後に、《妻のつぶやき》が渾身一言で発露され、
私は読みながら苦笑を重ねてた。

本来ならば転記して表示したいが、これ以上に転記すれば著作権上に問題があると思われ、
無念ながら省略した。

私は読み終わった後、この5タイプに残念ながら該当しない、と感じた・・。


私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。


私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をし、敗退したた後、
やむなく民間会社に中途入社し、まもなく音楽業界のあるレコード会社に移籍の辞令を受け、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身である。

1970、80年代は音楽業界は、それぞれのレコード会社は躍進したが、
90年代を迎えると、特に外資系は、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、
私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

私は定年退職の直前まで、失業保険の申請して、
勤める意志はなかったが、わずかばかりの額を甘受する予定であった。

しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、
退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
真に職さがしをしている人に失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したのである。
           
私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であったので、金融資産は程ほどである。

私の現役時代の財産といえば、
その時代と共に過ごした名曲の数多くが心に残り、
そして上司、同僚、後輩と共に音楽業界の空気を共にできたことである。


定年した後、年金生活を始めて、近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。

或いは平日でも人の多い都心に買い物に行ったり、
最寄の駅前などで、経済が低迷する中、働いて下さる現役の諸兄諸姉の溌剌な姿を見たりする時は、
何かと短期で成果を問われる今日、大変な時代になっている、と深く感じたりしている。

ときおり私たち夫婦は、国内旅行に行く時、東京駅とか羽田空港の待合所で、
やはり現役の諸兄諸姉の多忙なしぐさ、会話を聞いたりすると、
こうして私たちが、のんびりと旅行するのに申し訳ないと思ったりしている。


こうした根底には、もとより年金を含めた社会保障制度の医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取り、
明確には、現役世代がその時の高齢者を支えてくれている厳粛な事実である。

せめて無力な私は、定年後からは散髪屋(理髪店)の行くのは、
何かと現役世代の多忙な方は、土、日曜日に利用されると思い、平日を活用してきている。

或いは大型連休は、現役世代の家族が最優先と思い、
邪魔にならないように行楽地などは避けて来たりしてきた。

そして病気にならないように、ひたすら散策したりしている。
このことは医療費をかさみ、やがては働いて下さる現役の諸兄諸姉に、ご負担となるからである。


年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
そして毎月、家計簿のような形の表を5表ばかり作成して、
予算と実績を互いに確認し合って、今月も赤字ねぇ、と私たち夫婦は苦笑している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。


日常は定年後から私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は専守防衛長官の専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などの時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主もしている。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

そして家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行き、孤軍奮闘をしているのが定年後の状態でもある。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、
特別演習かしら、と思いながら私は過ごしている。


我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。
『ご苦労であった!』
と家内は言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。
その後、思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。

このような年金生活を過ごしていて、私は幼年期から犬、猫は苦手であり、
小庭には朝、夕暮れ前に定期便のように小鳥が飛来するので、家庭菜園も挑戦せずにいる。
そして私たち夫婦は恥ずかしながら携帯電話も使えず、
社会の時流から取り残されていると実感を深めながら、齢ばかり重ね年金生活の8年生となっている。

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6月23日『沖縄慰霊の日』は、無力な私でも沖縄に向かって、秘かに黙祷をして・・。

2012-06-23 07:14:00 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として認識している。

恥ずかしいことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている時、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読み、
遅ればせながら沖縄について深く学んだりした。

もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。

何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。

そして私は原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

尚、敗戦後の日本の長きの平和は、国際の主要国の怜悧な国益に基づいて、
悪夢のようなことであるが、核抑止を背景とした軍事力を根底とした政治・外交・経済で、
何んとか今日を迎えている事実も、確かなことであると思っている。

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地球も自転し、やがて日本列島も『夏至(げし)』の時節を迎えて・・。

2012-06-22 12:17:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の21日の朝、ぼんやりとカレンダーを見ていたら、
『夏至(げし)』と明記されていたので、思わず微笑んだりした。

齢ばかり重ねた私でも、一年で最も昼の時間が長くなる日、
或いは12月21日には『冬至(とうじ)』となり、一年で最も昼の時間が短く夜の時間が長い日、
この程度は何とか理解できる。

しかしながら、テレビのニュースで、『夏至』は太陽が最も北(北回帰線の真上)に来るために起こる現象でして、
と解説されても、恥ずかしながら私は解らなくなってしまう。

私の小学・中学生の時は劣等生のひとりで、通信簿は殆ど『3』と『2』ばかりで、
時に算数、理科の授業は苦手で、『2』であった。

このようなことで、船はなぜ海の上で浮かぶの、
飛行機はなぜ空の中を飛べの、と不思議に思っていた少年であった。

まして太陽の周囲を自転する天体として、惑星の地球、水星、金星、火星、木星、土星があり、
地球の衛星には月があります、と教えらたりしても、
ホントウなの、と半信半疑であったりした。

小学校の通学、下校時にも、地球は公転していると教えられても、
地面が揺れることもなく、風圧も感じることなく歩いたりしていたので、
実感がないのである。、
ただ春、夏、秋、そして冬が訪れることは、熱い時節、寒い時期を過ごしてきたので、
解る学童のひとりであった。


このような私であったが、確かに『夏至』と『冬至』が実感できることがある。
『日の出』と『日の入り』の時であり、
私の住む地域は、『夏至』の時は、『日の出』は4時25分、『日の入り』は19時となり、
日中の時間は14時間35分となっている。

そして『冬至』になれば、、『日の出』は6時45分、『日の入り』は16時30分となり、
日中の時間は9時間45分となっている。

このように日中の時間は、4時間50分の差異があり、
確かに過ぎ去った歳月の朝の陽射しの時間、夕暮れの後の夕闇を思い馳せたりし、
確かに太陽の周囲で、緑と水に恵まれた地域の多い地球は廻っている、
と少しボケた高齢者の2年生の私でも、そうですよねぇ、と頷(うなづ)いたりしている。

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つたない私の半生後、恥ずかしながら定年後の人生の信条、そして生活の目標は・・。

2012-06-21 14:41:57 | 定年後の思い
私は前回の『年金生活の何よりの特権は、程ほどの自在の日々かしら、と高齢者の私は微苦笑し・・。』
と題して、明記した通り、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、その直後から年金生活をしている。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多い悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。

そして年金生活を始める時、秘かに私は残された人生の日々に、
『清く貧しく美しく』と信条を掲げた。
この発想の根源は、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
60歳のお若いのに、悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしたが、
もとより私は一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態であった。

その上、私は屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944〈昭和19)年9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とし、この根源は、
松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。


こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。

『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられた。

海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、
支配人から家内が誘われ、私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、
多額な借入となったが、若さの心の勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
免許状の昇進と共に、礼金も重なる暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。

そして無知な私でも、この茶室の掛け軸、花入、茶花も簡素で、
素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたのである。

茶室から庭園に出で、家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。

私はこの時以来、人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきたのであった。


こうして私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。

《・・
人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、
肝要となろう。
・・》
そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。

このように私は三つの言葉をささえに、年金生活を過ごし、早くも8年生となっている。
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民の無力な私は、『清く貧しく美しく』、『野に咲く花のように』、そして『人生を深く生きる』言葉を
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。


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年金生活の何よりの特権は、程ほどの自在の日々かしら、と高齢者の私は微苦笑し・・。

2012-06-20 15:38:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。


私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をし、敗退したた後、
やむなく民間会社に中途入社し、まもなく音楽業界のあるレコード会社に移籍の辞令を受け、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身である。

1970、80年代は音楽業界は、それぞれのレコード会社は躍進したが、
90年代を迎えると、特に外資系は、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、
私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

私は定年退職の直前まで、失業保険の申請して、
勤める意志はなかったが、わずかばかりの額を甘受する予定であった。

しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、
退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
真に職さがしをしている人に失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したのである。
           
私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であったので、金融資産は程ほどである。

私の現役時代の財産といえば、
その時代と共に過ごした名曲の数多くが心に残り、
そして上司、同僚、後輩と共に音楽業界の空気を共にできたことである。


定年した後、年金生活を始めて、近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。

或いは平日でも人の多い都心に買い物に行ったり、
最寄の駅前などで、経済が低迷する中、働いて下さる現役の諸兄諸姉の溌剌な姿を見たりする時は、
何かと短期で成果を問われる今日、大変な時代になっている、と深く感じたりしている。

ときおり私たち夫婦は、国内旅行に行く時、東京駅とか羽田空港の待合所で、
やはり現役の諸兄諸姉の多忙なしぐさ、会話を聞いたりすると、
こうして私たちが、のんびりと旅行するのに申し訳ないと思ったりしている。


こうした根底には、もとより年金を含めた社会保障制度の医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取り、
明確には、現役世代がその時の高齢者を支えてくれている厳粛な事実である。

せめて無力な私は、定年後からは散髪屋(理髪店)の行くのは、
何かと現役世代の多忙な方は、土、日曜日に利用されると思い、平日を活用してきている。

或いは大型連休は、現役世代の家族が最優先と思い、
邪魔にならないように行楽地などは避けて来たりしてきた。

そして病気にならないように、ひたすら散策したりしている。
このことは医療費をかさみ、やがては働いて下さる現役の諸兄諸姉に、ご負担となるからである。


年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
そして毎月、家計簿のような形の表を5表ばかり作成して、
予算と実績を互いに確認し合って、今月も赤字ねぇ、と私たち夫婦は苦笑している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。


日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

しかしながらこの世は、古人から伝えられている通り齢を重ねるたひに、
出逢う人は少なくなり、会社時代の知人、友人、親戚の方たちの現世との別れもあり、
ときおり溜息〈ためいき〉をすることもある。

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ぐうだらな私、年金生活の特権のひとつとして、読書ばかりして過ごし・・。

2012-06-19 17:52:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
本日の夕方より台風の影響で、強い風が伴う大雨が予測されたので、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりしている買い物、
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策も中止した。

そして過日に買い求めた高峰秀子・著作の『忍ばずの女』(中公文庫)、
新田次郎・著作の『小説に書けなかった自伝』(新調文庫)の二冊の本を読んだりした。

昨日から読みはじめた高峰秀子・著作の『忍ばずの女』を読了したのは、昼の少し前であり、
午前中のひととき薄暗くいつ雨が降りだしても、おかしくない空模様だったが、
明るい空に変貌していた。

この後、私は玄関の軒下に下り立ち、ぼんやりと煙草を喫ったりし、
目の前の群生している雪の下(ユキノシタ)を眺めたりした。

玄関庭の片隅にモミジの樹木を植えているが、
その周辺に下草として雪の下(ユキノシタ)を配置していているが、
ここ2週間ぐらい純白の花が咲いている。

雪の下(ユキノシタ)は日陰げの草花として相性が良く、
樹木などの下草として多くの人たちから愛用されていると思われる。

円形に近く葉の表面の葉は緑色、黄緑色といったように幼い葉は萌黄色の色合いを見せながら、
斑紋があり薄い毛もあり、裏面は暗赤色を帯び、
根本から赤み帯びた匍匐枝が土の上に這(はい)ずるように伸び、繁殖している。

私は玄関庭の片隅みに群生させているが、
この梅雨の時節、20センチ程の花茎を伸ばし、
幾つかの簪(かんざし)を合わせたかのような可憐な容姿で、
純白の小花が咲いている。
ときおり微風を受けると、首を傾げるように揺れながら、凛(りん)した気品をたたえている。

こうした小花が、20数輪咲いているので、
古来から雪の下の名称に相応しい、と思ったりしている。

この雪の下(ユキノシタ)の草花は、母が生前していた1978〈昭和53〉年の春、
私が生家の近くに家を構えた時、母宅の庭にあった雪の下(ユキノシタ)を少し頂き、
10年の風雪、雨、猛暑に耐えながら繁殖し、この時から毎年この時節に純白の花を彩(いろど)っている。

この純白の花も初夏の陽射しを受ける頃になれば、終わりを告げて、
来年の梅雨の時節にお逢いしましょう、と枯れ果てる。
そして葉の色合いは、緑色、黄緑色で夏から秋、そして冬が過ぎ、春を待ちわびる。

このような雪の下(ユキノシタ)の草花であるが、20数輪の純白の小花を眺めていると、
亡き高峰秀子さんの映画の出演された数々の作品、
その後の随筆の作品の20数冊を思い馳せ、そして今回読んだ『忍ばずの女』、
1929(昭和4)年に映画の子役で5歳でデビューして以来、亡くなくわれた2010〈平成22〉年の86歳の生涯、
稀(まれ)な圧倒的な足跡を遺(のこ)された、と齢ばかり重ねた私でも、改めて実感させられたりした。


この後、家内と共に昼食を頂いた後、
新田次郎・著作の『小説に書けなかった自伝』を読み始めて一時間過ぎた頃、
小雨が降りだし、やがて本降りの雨となった。

そして私は寝室の布団の中にもぐり、この作品を読んでいる中、
少し眠くなり、一時間ばかり昼寝をした後、その後も熱中して読んだりした。

このように日中の大半は、ぐうだらオジサンのように過ごし、
こうしたことは年金生活の特権かしら、と微苦笑している。

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私の人生で、圧倒的に感銘を受け、人生観にも少なからず影響を受けた名曲は・・。

2012-06-18 20:39:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の齢ばかり重ねた67歳の身であるが、
午後のひととき、書類棚を整理していたら、葉書の専用箱もあり、
ほんやりと私のこれまでの発信した葉書を見たりしていた・・。

こうした中で、1995(平成7)年の年賀状として発信した文面を
懐かしげに読んだりした。
年賀の挨拶文の後には、音楽の名曲が列記していた。

・・・
この間あまたの歌がありましたが、私の脳裏から離れない歌を綴って・・。

バルバラ『ナントに雨が降る』

中島みゆき『HALF』、『エレーン』

井上陽水『傘がない』

五輪まゆみ『少女』

長渕 剛『昭和』

S。アズナーブル『遠い想い出』

グロリア・ラッソ『サ・セ・ラムール』

シャーリー・バッシー『別れの時まで』

戸川昌子『ボンボヤージュ』EMI盤

パティ・キム『離別(わかれ)』

大塚博堂『私は女です』

内藤やす子『悲しい色やね』

金子由香里『愛の砂漠』、『スカーフ』

イーグルス『ホテル・カルフォルニア』

別格 モーツァルト『ピアノ協奏曲第20番』


このように書かれていたが、何かと思い込みの激しい私が、
満50歳になるまで、私なりに圧倒的に魅せられて、少なくとも300回以上聴いた曲で、
私の人生観にも少なからず影響を受けた曲である。

私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をし、敗退したた後、
やむなく民間会社に中途入社し、まもなく音楽業界のあるレコード会社に移籍の辞令を受け、
製作畑ではなく、管理畑などを35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身である。

恥ずかしながら音楽の楽譜も読めなく、楽器もさわれない身であり、
つたない感性を頼りに、数多くの音楽を聴いた中で、
たまたま満50歳になった時のささやかな記念として、年賀状に記したのであった。

年金生活の今、日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような私であるので、読書が最優先、そして映画鑑賞に続いて音楽を聴く、
ありふれた高齢者のひとり、と微苦笑したりしている。

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梅雨から初秋までの熱き時節、我が最良の友は冷茶、そしてアイス・コーヒーとなり・・。

2012-06-18 12:38:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の齢ばかり重ねた67歳の身であるが、
5月のなかばの陽射しが強くなり、やがて梅雨の時節を迎えた頃から、
夏の余韻が残る初秋のお彼岸の頃まで、
煎茶の冷やしたお茶、そしてアイス・コーヒーを飲んでいる。

冷茶は、一年中に愛飲している狭山茶であり、程々の価格の品であり、
日本酒と同様に多少のこだわりがある。

私の幼年期、祖父と父が健在の時は農業を営んでいた時代、
茶の樹木を村道と畑の境界に幅は半間(90センチ)、長さは50間(90メートル)前後を植えていて、
お茶の葉を摘む頃から桐の茶箱まで収納したりするまで確かな深い想いがある。
そして家族で年中飲んだり、
来宅の方の1部の方に、祖父はお茶を差上げたりしていた・・。

私たち夫婦がここ36年ぐらい買い求めてきた煎茶は、
独断と偏見の多い私は、この煎茶の味に限りなく近いと感じられる。

我家の冷茶は、煎茶用の大き目の急須にお茶を淹れて、
その後は冷蔵庫で冷やすだけである。
私が2004(平成16)年に定年退職後は、家に居ることが多いので、
やむなく家内は冷茶用の1リットル前後のポットを買い求め、
煎茶を多めに入れ、水を入れて、冷蔵庫で保管する簡略方法としている。

こうした日常生活で私は、大き目の湯呑茶碗で、この時節は日に7杯前後は飲んだりしているが、
アイス・コーヒーも2杯程度は頂いている。

コーヒーに関しては、手軽なインスタントのゴールド・ブレンドを少なくとも36年ばかり愛飲しているが、
アイスに限り、水に溶けやすいエクストラとし、
多少のコーヒーの香りと濃い味でブラックで飲めれば、私は充分である。

このような安易な方法で、お盆に冷茶とアイス・コーヒーを乗せ、
居間にあるパソコンの置いてある少し大きめ机の脇、
或いは食卓用の大きなテーブルに置いたりしている。

外出で駅前に出たりする時は、
煙草の喫えるコーヒー・ショップの『ドトール』を殆ど利用しているが、
Lサイズのアイス・コーヒーにガム・シロップをひとつだけ入れて、
飲んだりしている。

そして、遊歩道、公園の散策、国内旅行先に於いては、
伊藤園かサントリーの『濃い味』を愛飲している。
自動販売機などで、この『濃い味』にめぐり逢えない時、何故か悲しくなるのである。

家内は中学生の頃から、茶事を学んでいるので、
主(あるじ)の私に向かって、
『やはり・・貴方は農家の児(こ)ねぇ・・』
と結婚して、まもない時に私は言われたりしている。

私は香り、味わいの上質な高価な煎茶より、
百グラム千円前後で、幼少期の味わった煎茶に濃い味で淹れるのが好きであるので、
こればかりは37年ばかり寝食を共にしている家内でも、同意できないでいる。


余談であるが、この時節にビール、冷酒は一昨年まで45年ぐらい夜のひととき愛してきたが、
一昨年の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、原則として自宅で呑むのは、月に数回ぐらいとなっている。

私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けているが、
検診を受け始めて3ヶ月は、奮起一番努力したせいか悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となって、
改善の成果となったが、
これ以来は安堵した為か、悪玉コレステロールは基準値の90%だけは相変わらずで、
ぐうだらな私の性格が何かとわざわいしているのかしら、と苦笑している。

しかし昨今は、冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅に日本酒の一升瓶、四合瓶も、ときおり忘れてしまったりしている・・。
かって呑み放題の生活をしてきた私は、平素の夕食に煎茶、冷茶でもまったく違和感が感じることなく、
一年8ヶ月過ぎ、私は微苦笑している・・。


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