夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

インターネット環境の変更・・♪

2005-06-30 18:00:13 | 定年後の思い
現在は、回線業者とプロバイダをケープル・テレビ《CATV》の
J-COMのNETを利用している。
スピードは下り30Mで、上り3Mの公称であるが、
実質に於いて下りは17M前後である。

今回、変更したのは、回線業者はNTT東日本のBフレッツで、
プロバイダはニフティとした。
スピードは共有型の100Mである。

回線業者は、東京電力の占有型の100Mも検討したが、
ひかり電話等を含め、サービスと費用と将来性でBフレッツとした。

7月8日に回線の設定、インターネット環境設定を行なう予定である。

果たして、どれだけ実質速度が上がるか、
今から楽しみのひとつである。
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この半年が過ぎて・・♪

2005-06-30 16:51:00 | 定年後の思い
今年の年始は、家内の母に来宅してもらい、
年末から四泊して頂いた。

一月の中旬頃になると、このブログに関して再設定をし、
goo簡単HPサイトは『風のように光のように』の日記とし、
gooHPサイトは、『続・極楽とんぼ』の日記として、二刀流が方向ずけた。

月末頃に、遠刈田温泉に三泊四日で滞在し、
蔵王の樹氷を雪上車に乗り、観たりした。

二月の中旬に、家内の母と三人で、
紀伊の勝浦温泉に六泊七日で滞在し、その周辺を観光した。

三月になると、定年退職後の初めての所得税等の申告で税務署に行ったり、
遺言に関する公正証書を作成したりした。

四月の中旬、九州の温泉めぐりに三泊四日の団体観光ツアーで行き、
下旬になると南東北の桜の名所を追いかけて
一泊二日の団体観光ツアーで行った。

五月中旬に家内の母と三人で、
那須の塩原温泉に四泊五日で滞在した後、
下旬に北海道に三泊四日の団体観光ツアーで
あちらこちら観光した。

こうしている間に梅は咲き、桜も観照し、
梅の実をもいだり、庭の手入れをしたりした。

過ぎ去った今、時の流れが早かった、と実感している。

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東京の郊外は、雨・・♪

2005-06-30 08:58:00 | 定年後の思い
早朝、雨が激しく降った後、小雨となり、降り続いている・・。

梅雨前線が本州の中央部に停滞しているので、
新潟県周辺から関東地方は梅雨となっている。

九州の佐世保市では、渇水対策本部が設けられ、
平成六年の渇水で断水をし、市民が混乱したので、早期に対策をした、
とニュースで報じていた。

今年の梅雨は、平年と違い、おかしな状態が各地でおきている・・。

私はぼんやりと庭先を見詰めている。
現役の頃は、月末であり、上半期の最終日であったので、緊張していた・・。

つい一年前は、雨の中、会社に駆けつけていたが、
今や遠い世界となった。

今日のような雨の日は、黒澤明・遺作『まあだだよ』を観て、
亡き松村達雄さんの名演を観るのに相応しい日である。
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存在感のあった松村達雄さん・・♪ ②

2005-06-29 12:26:23 | 映画・テレビ
私は、この人の出演した映画は、十作品前後、観ている。

黒澤明・監督の『どですかでん』、『まふだだよ』は、
多くの方が絶賛しているので、綴るのは省略する。

1996年の和泉聖治・監督の『お日柄もよくご愁傷様』を採り上げたい。

この映画は、冠婚葬祭を中心とした人生の縮図を描いた作品である。
作品の完成度としては、テーマを何でも押し込んだように、果敢な
失敗作である。
特に、ラスト・シーンは感動するどころか、しらけてします。
山小屋に残した落書きは、結果的に見付からなかったが、
父親の想いは中年夫婦は理解できた・・
といったようにすれば、完成度合いもまた違った評価を受ける。
ただ、出演者の多くは、それぞれの持ち味を生かした作品である。

橋爪功と吉行和子の中年夫婦、父親の松村達雄、
橋爪功の妹役の根岸季衣とその主人の鈴木ヒロミツ
この五人が演じきったのは、役者としての演技の巧さは
誰からも褒められる成熟度がある。

俳優を目指している方には、この五人から
少しでも学べば、上達が早くなる、お手本である。

名優、松村達雄さんは亡くなったが、私達に思い出の多い
作品を残してくれた。

山田洋次・監督のコメントは、この名優に対し、
ベストのはなむけの言葉である。

私は近いうちに、『まあだだよ』と『お日柄もよくご愁傷様』を
鑑賞しょうと思っている。
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存在感のあった松村達雄さん・・♪ ①

2005-06-29 11:10:03 | 映画・テレビ
昨日の夜、男優の松村達夫さんが亡くなった、
とインターネットのニュースで知った。
存在感のあるひとりの男優が、
亡くなってしまったか、と想い馳せた・・。

今朝の読売新聞で、この人の事の記事が載っていた。
転記させて頂きます。

      名脇役『男はつらいよ』
           松村達雄さん死去  90歳

と見出しだった。

映画やテレビドラマの名脇役として活躍した俳優の松村達雄さんが、
18日の午前7時25分、
心不全のために亡くなった。90歳。
近親者のみで密葬を済ませた。

『お別れ会』は、7月19日の午後1時から
港区芝公園4の7の35の増上寺の光摂殿。
連絡先は、渋谷区千駄ヶ谷5の11の13、東京俳優共同組合。
喪主は妻の明美さん。


法大卒業後、劇団研究生を経て、1957年からテレビや映画に進出し、
日本テレビの『ダイヤル110番』、NHK『若い季節』などのドラマで活躍する一方、
劇団『雲』に参加した。

1972年からは、山田洋次・監督の映画『男はつらいよ』シリーズで、
森川信さんの後を継いで、
二代目のおいちゃんとして、5作品に出演した。

ややしゃがれた声と、独特のせりふ回し。
芝居臭さを感じさせない確かな演技には定評があり、
しょぼくれた中年男や下町の人情味あふれる頑固おやじ役などで、
絶妙な味を発揮した。

1970年の『どですかでん』に続いて、
黒澤明・監督との2度目の顔合わせとなった1993年の『まあだだよ』では、
主役の作家、内田百をひょうひょうと演じ、
健在ぶりを示した。

その後も映画、テレビで活躍。
一昨年の秋に、間質性の肺炎を患い、
自宅で静養していた。


山田洋次・監督の話
『うだつのあがらない作家や酔っ払いの医者など、
崩れたインテリを魅力的に演じて、
これほどぴったりの人はいなかった。
というより、それは松村達雄さんにしか
できない役どころでした』


以上が記事の全文です。


《続く》
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猛暑の中、外出・・♪

2005-06-28 20:14:31 | 定年後の思い
朝、蒸し暑く、目覚めたのが三時だった。
居間にある新聞・雑誌等の切り抜きを整理する。
その後、このブログに日記を綴る。

朝の十時過ぎ、散髪屋(理髪店)に行く。
ハワイ島で購入した45ドルのアロハ・シャツを着て、
サングラスの軽装で出かけたが、暑かった。

この後、川沿いの遊歩道を歩いたが、人影は誰も見かけることがなかった。
この猛暑の中、人は散策も避けたがる訳である。

帰宅後、オーストラリア産の帽子を被り、買物に行く。
買い物用の車を引きなから、スーパーに向かったが、
住宅街は人影なし。

帰りにこの道を通ると、レース風のワンピースを召したご婦人が、
BMWの車を駐車から出る所だった。

このご婦人が目礼した。
『貴方、もしかしたら、○○さん・・』
と私に声を掛けてきた・・。

『○○ですが・・』
と私は、ハンドタオルで汗をぬぐいながら、答えた。

『やはり、そうでしたの・・中学校の時の○○です・・』
とそのご婦人は言った。

ご主人が日本の各地に転勤されて、二年前に定年され、
この住宅地に舞い戻ってきた、とのこと。

我らの同期のひとりが、こうして第一線を退いていく・・。

帰宅後、ぬるめの風呂に入った後、
冷やした煎茶を呑み、エアコンの冷風の中で、
桐野夏生・女史の『魂萌え!』を読み始める・・。

夜の七時のニュースで、東京は六月としては、最高気温36度を突破した、と報じていた。
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季節で変わる、映画鑑賞・・♪

2005-06-28 07:38:00 | 定年後の思い
私は映画鑑賞が好きである。

魅了された作品は、何回も観る。
『二十四の瞳』、『第三の男』、『ライムライト』は十年ごとに観る。

或いは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『ゴッドファーザー Ⅱ』のように、
最初一ヶ月には、十回以上を観る映画もある。

その時に、観たい作品が手元にあれば、
洋楽・邦楽を問わず、観られれば喜ばしい・・。

定年の五年前に、ビデオ・ラックを買い改め、
250本が収納できるケースを2本揃えて万全とした。

しかし、時代はビデオ・テープからDVDに移行したので、
これにも対応した。

こうして月日が流れるのに伴い、作品の保管数も増え、
定年する頃、止む得ずもう一本の大きなラックを購入した。

今の時点では、洋画・邦楽・映画以外のドキメンタリー、音楽の四つの区分している。

冬の季節の時は、『アラビアのロレンス』、『イングリッシュ・ペイシェント』、『プラトーン』等の
砂漠、ジャングルの背景としたものが多くなる。

夏になると、『ドクトル・ジバコ』、『カサブランカ』、『かくも長き不在』等の
寒冷地、戦争を背景とした鑑賞が多くなる。

不思議なものであるが、夏の猛暑の時、『アラビア・ロレンス』の砂漠は、
暑くて落ち着かない。
かといって、寒いぐらいに冷房を冷やして、
鑑賞するのも映画の内面からして、おかしな事である。

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初夏の一日・・♪

2005-06-26 13:17:26 | 定年後の思い
日中は、猛暑だったので、エアコンの冷風の中で、
本を読んだり、眠くなったら昼寝をしたりしていた。

夕方になり、家内が洗濯物を取り入れた後、
私の夏用の作務衣の予備を求めて、二人で家を出た。

私の家から、一キロぐらいの所に、再開発と称して、
数多くの分譲マンションがあり、その外れに
イトーヨーカドーの大きな店舗が出来ていた。

『○○ちゃん、お腹がすいたょ・』と家内に言った。
『お買物に入り前、寄りますか・・』と家内は応じた。

付近の中華料理のチェーン店の『バーミヤン』に入った。
家内が中華が好きであるので、このチェーン店をときたま利用する。
今回入った店は、いつもの店と違い、東南アジア風の装飾になっていた。
店内は、午後五過ぎの時間帯の為か、空(す)いていた。

私は、料理店ではテーブルが広いのを優先としている。
そして、二番目に料理が美味しければ良し、
三番目はお値段を信条としている。

ビールを呑みながら、
こうして、ときたま家内と外食でき、
あと十年はお互い五体満足でいれたら良い、と思ったりした・・。

人生は終わってみなければ、解らないが、
こうしてお互いに目的をもち、日一日と過せれば、
これに超したことはない、と煙草に火を点(つ)けた。
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創作者に敬意と代償を・・♪

2005-06-25 09:29:55 | 時事【社会】
今朝、インターネットで『NIKKEI NET』を
何時ものように検索していたら、ひとつの記事に出会った・・。

プロバイダーは氏名の開示を
          音楽無断公開で東京地裁

という見出しであった。

詳細記事を転記させて頂きます。


歌手・椎名林檎さん等の曲が無断で複製され、
インターネット上に公開されたことで、
レコード会社が持つ送信可能化権を侵害されたとして、
『東芝EMI』が、プロバイダー(接続業者)の『エキサイト』等の二社に
公開した人物の住所、氏名の開示を求めた訴訟の判決で、
東京地裁は24日、
請求を全面的に認めた。

判決理由として、裁判長は
『ユーザーの発信者情報が、
原告の損害賠償請求のために必要』と判断した。

判決によると、『NISSAN』、『crown』と名乗るユーザーは、
東芝EMIが送信可能化権を持つ
椎名林檎さんの『真夜中の純潔』、
矢井田瞳さんの『Ring my bell』
の二曲を複製し、
接続業者の回線を通じて、
ネット上に公開した。
         《共同》(23.12)

以上が記事の全文である。


私は、かねてより各ブログ・サイトで
音楽を開示している人を見かけ、本心は憂いていた。

私は現役時代は、民間会社に勤めていたが、
労働契約書に基づいて、会社と私は締結していた。
これに伴い、私は労働の対価として、会社より給与を頂いた。

創作者の場合でも、創作の代償として、著作権がある。
当然、著作権の一部が創作者の手元に流れる。
こうして文化の一面が生まれ、育っていくのである。

例えば、サラリーマンとして、ご自分の給与が無断で
掠め取られたら、どう思うか、である。

私は創作者に敬意し、少なくとも音楽、映画、小説等は、
購入か有償の代金を支払っている。

私は国民のひとりとして、あたりまえな行為をしているに過ぎない。
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天皇陛下の『慰霊の旅』・・。 ②

2005-06-23 17:06:57 | 時事【社会】
一週間後、両陛下は、『慰霊の旅』の感想を発表された。

『今日、我が国が享受している平和と繁栄が、
多くの人々の犠牲の上に築かれていることを深く心に刻み、
これからも、この戦いに連なるすべての死者の冥福を祈り、
遺族の悲しみを忘れることなく、世界の平和を願い続けていきたい』

この時、両陛下は、更にこう述べられている。
『これら四地域にとどまらず、広く日本各地、
また、遠い異郷にあって、かけがえのない命を失った多くの人々と、
今なお癒えることのない悲しみを持つ遺族に深く思いを致します』

この思いに沿う形で、政府は、日本の委任統治領として戦渦に巻き込まれた
マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオを両殿下が訪ね、
サイパンにも立ち寄られるという計画を検討。

2004年の2月から3月にかけての日程が決まったが、
交通手段が確保できず、中止。
政府専用機が離着陸できるサイパン訪問の可能性だけが残されていた。

今回、アメリカと、サイパンを中心とする米自治領の
北マリアナ諸島政府が歓迎の意向を示し、
国際親善を目的としない慰霊だけの外国訪問が、
初めて実現することとなった。

サイパン訪問は、10年前の慰霊の旅の延長線上にある。

以上が記事の全文である。


☆私のコメント☆

やはり思いはあっても、両陛下のお立場は大変である。
気軽に言動も許されない、お立場であります。

私はこの記事を読む前に、今なお他国の地に眠る人々に
旧・厚生省が遺骨の収集を何より最重点施策を採り、
より実施するのが、我々の国民の責務と思う。

何はともあれ、かくも長きにおよぶ、とは溜め息をつかずには
いられない。

☆   ☆   ☆

この事とは別課題であるが、以前綴ったことがあるが、
なぜ終戦なのか、
敗戦といわないのか、私は不思議である。

敗戦記念日と明示すれば、国家の威信が保たれる。
終戦記念日などと、あやふやな表示をすれば他国から、
国際から軽蔑を受けるだけである。

いまもって、だれが終戦などと、発言したのかわからない。
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天皇陛下の『慰霊の旅』・・。 ①

2005-06-23 14:47:56 | 時事【社会】
ここの所、戦争にまつわる事を綴ってきたが、
昨日の読売新聞の朝刊で、

戦後60年 
     両陛下『慰霊の旅』
                27日出発

という見出しがあった。

戦争に関して、昭和天皇は名目上であれ、この大戦の最高責任者であった。
その当時の国民は、天皇陛下をあがめたてまつわる風潮が、
半強制であれ、社会として成り立っていた。

私が小学校に入学前の昭和25年頃でも、
実家の座敷に昭和天皇のご一族の写真を高価な額縁に入れて、
祖父等はあがめていた・・。

昭和天皇のご逝去の後を引き継がれた平成天皇が、
この前の大戦にどの様なお気持ちをお持ちなのか、
私なりに興味があった。

社会部 栗原 渉・氏が記事を書いたのを転記させて頂きます。


『戦争による多くの犠牲者と遺族の事は、
少しも念頭を離れることなく、
今後もその人々を思いつつ、
平和を願い続けるつもりです』

戦後50年という節目に控えた1994年12月の誕生日会見で、
天皇陛下は『慰霊』への思いをそう語られた。

会見では、戦後50年を迎える心境や、
訪ねたい地について質問を受け、
『とりわけ戦争の禍(わざわい)の激しかった土地に思いを寄せていくつもりです』
などと話された。

具体的な地名は、口にされなかったが、
陛下には、特別な思いを寄せる日と土地があった。

皇太子時代の1981年、会見で、
『日本では、どうしても記憶しなければならないことが四つはある』
と述べ、
沖縄戦が集結した6月23日、
広島、長崎に原爆が投下された8月6日と9日、
そして終戦記念日の8月15日
を挙げられた。

いずれの日も、毎年欠かさずにご一家で黙祷され、
『慎みの日』として私的な行動を控えられてきた。

節目の1995年の夏、『慰霊の旅』は実現する。
訪問地には、沖縄、長崎、広島と、
空襲で多くの命が奪われた都市の代表として、
東京が選ばれた。

両陛下が、戦争犠牲者の慰霊だけの為に地方を訪問されるのは、
初めてのことだった。

まず7月26日、長崎市の平和公園にある平和記念像前で献花。
翌日、広島市に移動して、原爆死没者慰霊碑に献花された。
8月2日には日帰りで沖縄を訪問、
糸満市の国立沖縄戦没者墓苑で供花し、
翌日3日、東京大空襲の犠牲者らが眠る東京都慰霊堂を訪ねられた。


《続く》
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扇子(せんす)と団扇(うちわ)の頃・・♪

2005-06-23 09:57:00 | 定年後の思い
昨今、この梅雨時の季節になると、エアコンを除湿をセットし、
夏になると冷房に切り替える。

現役時代のとき、退社後に駅で電車を待っている時、
プラットホームは暑いので、扇子を取り出し、扇(あお)いだりしていた・・。

以前、会社の業務に知り合った英国の方が帰国する際、
私は彼に奥様にと扇子をプレゼントしたことがあった。

雪花染めといって、こうぞ紙を一枚一枚に手染めで仕上げた若草色した華やかさがあり、
雪の結晶のような模様をした扇子であった。

二週間後、この奥様より、丁重な礼状が着いた。
今では私の大切な宝物になっている。


団扇は、寝室に於いて、布団にもぐっている時、ときたま扇いだりしたいた。

真夏になると、やも得ず、居間と寝室は冷房をする。

家内は冷房が苦手なので、
居間の冷房は《弱》で、28度に設定している。
私は、冷房大好き人間であるので、五、六年前以前は、
私達の夫婦はこの期間で、冷たい戦争、が起きていた。

寝室に関しては、寝室に入る数時間前に《強》にして、
寒いくらいにして、布団に入った時、とめる。
こうすれば、私共は朝まで快適に眠れる。

日本風土に住み、畳の上で団扇を扇ぎ、涼をとり、
家族団らんを過したのは、いまやまぼろしとなった。

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沖縄戦;日系二世、敵は同級生だった・・。 ②

2005-06-22 15:45:47 | 時事【社会】
ミノル・テルヤさん(80歳)も、ハワイ生まれの日系二世・米国人だ。
『日本の心を学ばせたい』という沖縄生まれの祖父と共に、
10歳の時、那覇のそばに移り住んだ。
『当時の私は、二重国籍だった』

中学校の教室で、真珠湾攻撃の一報を聞き、
わきかえる級友達をよそに、
ハワイの家族を気遣った。

『日本が戦争に勝ったら、ハワイに帰れる』
そう信じたから、18歳の時、日本海軍に入隊し、
滋賀海軍航空隊などを経て、横須賀の基地にあった特殊潜航艇部隊に所属した。
沖縄の戦況が、いつも気になった。

『ハワイを攻撃したのは日本人で、
沖縄を焦土させているのは米国人。
何故、二つの故郷が戦火に遭わなければならないのか。
両国の血を持つ私は、この先どうしたらいいのか』

たが、沖縄に出撃することなく、横須賀で玉音放送を聞いた。


かって、沖縄からは、多くの人が国外に新天地を求めて船出した。
沖縄の資料によると、1940年の時点で、
ハワイには約1万3000人の沖縄出身者がいた。

正反対の道を歩んだヒガさんとテルヤさん。
戦後、ハワイに戻り、ヒガさんは米財務省の所得税調査官。
テルヤさんは、物産関係の仕事に励んだ。
今、二人ともオアフ島の郊外で、静かに暮らす。
互いの面識はないが、願いは同じだ。
『愛する沖縄で、悪夢が繰り返されてはならない』


第二次大戦中、日本が唯一、住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた沖縄。
亜熱帯のリゾートとして、多くの人々が訪れる『美(ちゅ)ら島』には、
60年を経ても、なお、深い悲しみと傷跡が残る。

以上が記事の全文である。


☆私のコメント☆

戦争とは、かくも残酷に人々を翻弄させる。
戦争の知らない我々の世代も目を見開き、
逃げることなく過去の歴史の真実を認識しなければならない。

何よりに重要な事は、過去の歴史を教訓に、
今後の政治・外交・軍事・経済の諸問題に生かせなければ、
多大に亡くなった方は浮ばれない・・。

外交が破綻した時、最悪の戦争となるので、
粘り強い外交の手腕も必要不可欠である。
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沖縄戦;日系二世、敵は同級生だった・・。 ①

2005-06-22 13:23:01 | 時事【社会】
一昨日の読売新聞の特集記事が、私の脳裏にいまだに残っている・・。
『戦後60年 6.23 沖縄戦終結』である。
転記させて頂きます。

降り注ぐ砲弾が『鉄の暴風』と形容された激戦は、
終結の時を迎えようとしていた。
60年前の1945年6月20日、沖縄本島。
首里(那覇市)近くの芋畑に、
ぼろぼろの作業着をましった二人の男がひざまずいていた。
島の南部・摩文仁近くの壕(ごう)に立てこもっていた所を発見され、
連行されてきた日本兵だった。

米軍の特務軍曹として、日本語通訳をしていたタケジロウ・ヒガさん(82歳)は、
二人の聴取を始めた。
氏名、生年月日、出身地・・・。
彼等が、自分の小学校の同級生だと気付くまでに、
時間はかからなかった。

日系二世・米国人のヒガさんは、
ハワイで生まれて間もなく、一族の故郷の沖縄に移った。
16歳まで暮らし、開戦二年前の1939年、ハワイに戻り、
米軍に入隊した。
『真珠湾攻撃以降、日系人に対する風当たりは強くなるばかりだった。
多くの人が収容所に放り込まれた。
米国市民としての務めを果たしたかったから、米軍に志願した』

フィリピンを経て、沖縄に上陸したのは、1945年4月1日の朝だった。
幼い頃、泳いだ北谷に近い海岸からだったが、
記憶にある景色とは程遠かった。

砲弾が落ちた山は、茶色の地肌をむき出しにし、
丸焼けの農家が点在する。
道には、死んだ家畜が転がっていた。
歩きながら、涙があふれて仕方がなかった。

『沖縄だけには、行きたくなかった。
古里の土を、銃を携えて踏む気持ちが分りますか
しかも、沖縄の人々の敵として』


ヒガさんは、戸惑いながらも、思わぬ形での
旧友との再会に弾む心が抑えられなかった。
恐怖に顔をゆがませる二人。
『君達は、目の前に同級生がいるというのに、
気がつかないのか』
こらえきれずに、叫んだ。

我に返ったように、二人がヒガさんの顔を見上げた。
泥だらけのほおを涙が伝っていた。

『ハワイに戻っていなければ、
彼等は、私自身の姿だったかもしれない。
あの時は、立場を超え、抱き合って大声で泣きました』

二人のその後の消息を、ヒガさんは知らない。


《続く》
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今年、最初の西瓜(すいか)・・♪

2005-06-21 18:03:59 | 定年後の思い
私が一昨日、買物に行った時、帰り際に西瓜を見かけた。
美味しいそうな西瓜だったので、近寄って、値段は1200円だった。

持ちきれないので、帰宅後、家内に
『○○ちゃん、西瓜売っていたょ。
美味しいそうだから、もう一回、行ってこようか』と家内に言った。

『別の機会にしたら・・』と家内は笑って言った。


昨日、家内が歯科医院の帰りに、買物のついでに、西瓜をぶら下げてきた。
昨日の西瓜よりも、小振りな小玉の西瓜であった。

先程、冷蔵庫で充分に冷やした西瓜を、家内が二分の一にした後、
この二分の一を更に半分に切った。
お盆の上に皿を載せ、西瓜を置いた。

庭先に面したテーブルで、家内と食べはじめた・・。

『○○ちゃん、この西瓜、完全に熟れていないなぁ・・
 まだ、六月下旬だから・・ね
だけど、程々の甘さがあるよねぇ』と私言った。
家内は笑っていた・・。

食べ終わった頃、家内は言った。
『貴方、この西瓜、150円だったのょ』

『本当・・信じられない値段だねぇ』と私は言った。
『アイスクリームの値段と一緒だょ
しかも西瓜は四分の一だょ・・』と更に私は言った。

庭先から風が流れてきた・・。

台所に家内と跡形ずけをしていた時、
残った西瓜、二分の一を冷蔵庫にしまおうとした時、
西瓜に貼ってあるシールが見えた。

こだま西瓜
   初夏の輝き  
      茨城JA 北つくば
更に、生産者の名前が大きく書かれていた。

私は、こうした方に、思わず頭を下げた。
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