夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ④自宅でのんびりと過ごし、翌年からふたたび 

2010-12-28 17:38:44 | 定年後の思い
          第6章  自宅でのんびりと

2001(平成13)年は、我が家は築後26年近くになっているせいか、
家のところどころが老化なっているので、修理の時であった。

外壁のモルタル修理は2回目となり、戸袋、雨戸廻りなどを修理をして頂き、門扉も新調したり、
歳末近くに宅地の植木を大幅に入れ替えて、道路際は赤芽モチなどに変更したりした。

この間、私の勤続30年の特別休暇を頂き、4泊5日で北海道の冬の旅で、
流氷、札幌の雪祭りなどを観たりし、
或いは親戚、知人の方たちが亡くなったりすることが多かったのである。

こうした中で私は定年退職時の2004(平成16)年に備え、
パソコン、机、脇机、椅子などを新調して、年金生活の準備をしたりした。

こうした中で12月を迎え、年末年始の旅行などを家内と話し合ったのである。
我が家としては、年末年始を配慮しても程ほど高価な旅行費であり、
結果としては前回の『能登・輪島温泉』は惨敗、前々回の『湯野浜温泉』は成功であったが、
今回は何かと費用を要した年だったので、のんびりと自宅で過ごそうと決定したのである。



          第7章  北海道てっぺん周遊記【2002.12.31..~2003.1.2.】

2002(平成14)年は、妹の次男が結婚し、ディズニー・シーの周辺で、
結婚式・披露宴をすることとなり、
恥ずかしながら家内はディズニーのファンであり、
この際、デイズニー・シーをゆっくり観たいわ、と懇願され、
私はやむえず祭日、代休を重ねて『シュラトン・ホテル』に3泊4日で宿泊したのであった。
何より私が悦んだのは、長兄の長男、次男、そして妹の長男、今回の次男・・
私にとっては甥っ子の4人が、私の定年退職前に結婚してくれればと秘かに願っていたので、
心の中では小躍(こおど)りしていたのである。

そして12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていたのである。

こうした時、旅行会社から送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

翌日、2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、
高台にある神社に初詣し、市内のホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に云ったりし、参加したのであった。


大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
タクシーを予約して、暗い中、自宅から羽田空港までタクシーを利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私達は冬の北海道はたびたび体験し、
それなりの防寒服を着たりしているので、マイナス10度ぐらいは心身順応出来るのである。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、
と感じたりしたのである。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆき女史が『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。

私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆき様が私の方を見ながら微笑んでいたのである。


尚、紋別で宿泊した観光ホテルは無念ながら思い出せないが、
稚内は全日空ホテルであった。

http://www.ana-hotel-wakkanai.co.jp/
☆ 稚内 全日空ホテル ホームページ ☆



          第8章  秋保温泉滞在記【2003.12.31.~2004.1.2.】

この年の2003(平成15)年の2月、雪の奥入瀬渓流、十和田湖の情景を観たく、
『古牧温泉』に2泊3日で旅行した後、
翌年の定年退職時2004(平成16)年の秋に備え、
私達は4年前に定年後の概要設計をしたのを詳細設計をした年であった。

もとより定年退職後は、私は年金生活をする為に、
特に私の場合は1944(昭和19)年生まれであるので、年金の満額支給時は満62歳となる。
そして満60から年金を申請すると、この間の2年の支給は報酬比例部分だけであり、
ほぼ満額の半分程度であるので、片翼で飛行を続けるような状況であった。

こうした未知の年金生活であるので、退職金、退職時の貯金残額を念頭に、
定年後の生活設計の詳細を家内と調整をしていた。


12月に入ると、年末年始の旅行を検討したのであるが、
旅行会社から送付されてくる中から、それほど思案することなく、選定したのである。

仙台市の奥座敷として知られている秋保温泉に連泊して、帰路は松島湾を周遊する観光船、
瑞巌寺に参拝できる団体観光ツアーであった。

私達夫婦は31日の大晦日、朝の9時過ぎに新宿より観光バスで発ち、
東北自動車の高速道路、そして秋保温泉の宿泊する『ホテルクレセント』に到着したのは、
午後の3時過ぎであった。

http://www.h-crescent.co.jp/
☆ 秋保温泉 『ホテルクレセント』 ホームページ ☆

私達夫婦は、付近の小高い丘にある森林スポーツ公園に行き、私達が宿泊する観光ホテルは、
秋保温泉の中心の街から離れていたことが判ったりした。

私達は夕食の時、食事処は浴衣はご遠慮下さい、
と云われ、都市のホテルなら理解できるが、たかがリソート地にある観光ホテルなのに、
と嫌な感情を持ったのである。
そして、このようなことを私達の団体グループの人たちに、
夕食を頂く時、隣席方に私は話したりした。

多くの方が同意していたせいか、翌日の夕食は、私たちのグループの大半は浴衣姿であった。

尚、当日は和食料理、2日目はフランス料理で、程ほどの味であった。


2004(平成16)年の元旦、朝から風もなく快晴であった。
私達夫婦は、暖かな陽射しの中、秋保温泉の中心の街を散策した。
数多くの観光ホテルの横を通ったりし、小学校の前にある商店街の中にある素朴な店に入った。

ひと昔前は文房具屋さんであったが、今はコンビニなどで文房具用品を買い求める学童が多く、
駄菓子、おもちゃ、日常品などがあり、私が昭和30年の少し前に見かけた品が数多く置かれていて、
私達夫婦は懐かしく、店の主人と30分ばかり立ち話しをした。
そして家内は、五品ばかりの菓子を買い求めたのであった。

その後、数々の観光ホテルの横をはずれを歩いたり、住宅街のはずれも歩き、
やがて田畑の中のあぜ道を歩いたり、五時間ばかり散策すると、
ぼんやりと秋保温泉の全貌が判ったのである。

そして、帰路、観光ホテルの『佐勘』に立ち寄り、
この地の古きから伝統のある和菓子と地酒を買い求めて、帰還したのである。


翌日の2日は曇り空の一日であったが、予定通り松島湾を周遊する観光船に乗ったりした後、
瑞巌寺を参拝、五大堂を観たりした後、帰京したのである


                        《つづく》

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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ③ ときには滞在旅行も落胆することも

2010-12-28 16:25:28 | 定年後の思い
          第5章  能登・輪島温泉滞在記【2000.12.29.~2001.1.2.】

2000(平成12)年、私は出向先の勤務に馴染み、
朝の起床は4時45分で少しばかりの遠方の神奈川県・厚木市の郊外にある物流センターに行き、
帰宅は早くても夜の9時過ぎであり、これ以降は定年退職時の2004(平成16)年まで続いた。

この年は、5月の連休も倉庫間の移動で出勤したりして、
この前後の休日も倉庫内部の整備などで休日出勤をすることが多く、
体力のギリギリまで奮闘した年でもあった。
世にいわれる過酷な勤務であったが、私の40歳前後の時にシステムの開発時に比べれば、
出向の身であったので、最終の責任、成果は問われることがなかったので、
こうした面は楽であった。


この間に、長兄の次男の結婚もあり、自宅の庭の大幅な剪定を初めて植木屋さんに依頼して、
定年後に備えて、短くして頂いた。

そして、12月になると家内と年末年始のことで話し合った。
過酷な勤務状況が続いているので、家でのんびりしょうか、と思ったりしたが、
やはりせっかくの休暇なので、前回の山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉の体験もあり、
あとは雪が舞い降る状況であったならば、申し分ない、と私達は思ったりしていたのである。

私は以前から、総合月刊雑誌の『文藝春秋』の中で広告として掲載されている、
石川県・能登半島にある輪島市にある『ホテル高州園』が、
渡り廊下から見える浪の花・・
確かこのような文面に魅せられて、いつの日にか、と夢を膨らませていたのである。
このようなことを家内に話したら、数日後に家内は駅前からJTBとJR『びゅう』のパンフレットを頂いたりした。

私は家内と『ホテル高州園』の掲載されているページを見ながら、
露天風呂があたかも波打ち際にあるような写真の横に、
《 日本海は庭園です。
       一望千里の大海原 》
こうした文面に魅せられて、年末年始の旅行を決めたのである。

仕事納めの翌日の12月29日から4泊5日で予約し、
雪が舞い降る中、風も吹く街並み、郊外を散策して、
海辺で浪の花が観られれば最良だし、そして『ホテル高州園』の露天風呂から日本海を眺めよう、
と私達は大いに期待していたのである。


2000(平成12)年12月29日、私達夫婦は自宅を8時過ぎに出て、
東京駅より上越新幹線の『あさひ』に乗車し、越後湯沢駅で乗り換えて、
在来腺の特急『はくたか』で金沢駅に向った。
越後湯沢の駅の売店で買い求めた駅弁とお茶、地酒を越後湯沢から30分過ぎた頃から、
車窓から雪景色を眺めながら、私は駅弁を食べ、地酒を呑みながら、
やっと旅に来たか、と満足した思いであった。

そして、金沢駅は改築中であり、金沢駅前から能登半島の輪島駅前までの特急バスの乗り場が解かりづらかったが、
何とか見つけ私達はバスに乗った。
車窓から情景は、残り雪がところどころ観られ、ときおり風が強く吹く冬景色であり、
雪景色を期待していた私は失望した。

輪島駅前でバスに下車したのは午後3時半過ぎであり、
暖かい陽射しに少し戸惑いながら、タクシーで『ホテル高州園』に向った。

http://www.koushuen.co.jp/
☆能登半島・輪島市 『ホテル高州園』ホームページ ☆


チェック・イン後、部屋から観た情景は、岸壁に建つホテルに打ち寄せる波、
そして遥か彼方まで観えるおだやかな日本海の波間、
私は荒々しい日本海の冬を想定していたので、戸惑いを重ねたりした。

そして、露天風呂に入ると、日本海の波打ち際をまじかに観る状景から程遠く、
何よりもプラステックの青いトタンが日本海の半分ぐらいを遮(さえぎ)り、
写真と違う、と大いに落胆したのである。

夕食前のひととき、家内と館内を見て廻ったのであるが、
ロビーのはずれ、階段の踊り場などで、テレビ・ドラマの撮影に使用されたらしく、
記念写真が飾られていて、私は嫌な予感をしたのである。
たかがテレビ・ドラマに出演した主役の人たちとホテルの方が記念写真を撮り、
これを売り物のひとつにする程度の低さには、あきれたのである。

こうして私は綴りながら、食事の料理を思い出そうとしたが、何を頂いたか、すっかり忘れているので、
安易な食事だった、と思える。

そして、この『ホテル高州園』が街中に経営している土産屋を私達に盛んに薦めるので、
更に程度の低いホテルに宿泊した、と私達夫婦は失望したのである。

現在はどのように変貌しているか知らないが、あくまでこの当時のことである。



翌日の12月30日、私達夫婦は何かしら街中の観光より、曽々木海岸を散策しょう、
とホテルを10時過ぎに出た。

路線バスの輪島駅前の周辺のスーパーに寄り、
やはり年末なので、店内には御節料理の単品の数々、そしてこの地域の魚介類などが多く並べられて、
この中で食べたい品を昼食の代わりとし、地酒も買い求めたが、
こうしたこの地方独自の食べ物が購入でき、私達は思わず微笑んだりしていた。

路線バスの輪島駅前は、帰省客が圧倒的に多く、この地方の方言が飛び交う中、
私達は曽々木海岸方面のバスに乗った。
風もなく穏やかに晴れ渡たり、左は日本海、右は険しい山里の状景が続き、
そして千枚田の冬枯れの情景を車窓から眺めたりした。


私達夫婦の能登半島の旅に関しては、10年前の頃の2月に、
団体観光ツアーの1泊2日で、小松空港から安宅海岸、兼六園、そして北上して千里浜から能登金剛を観た後、
和倉温泉の観光ホテル『のと楽』に宿泊し、特にこの『のと楽』の大浴場の更衣室までの情景に好感した。
翌日は、金沢市内の郊外にある焼き物センターに寄り、小松空港から帰京した短じかな旅をしたりしていた。

私自身は1961(昭和36)年の秋、学園祭の期間と休日を利用して、
悪友と2人だけで、羽咋駅で下車した後、岬の先端まで西海岸を出来る限り歩こう、
と貧乏旅行の5泊6日をした。

この後の私は、1963(昭和38)年の夏、ワンターフォーゲの夏季合宿の打ち上げを千里浜で行った後、
独りで金沢市内を散策した後、山陰地方を周遊した。


この程度ぐらいの体験であり、私はバスの車窓なら能登半島の北部の情景を眺めたりしていた。

曽々木海岸で下車した後、私達は岩の多い浜辺を散策したりした。
私達は岩に座り、快晴の陽射しの中、蒼い海原の光る海を眺めたり、
私は地酒を呑んだりし、煙草を喫ったりしていた。
家内は煎茶を飲みながら、スーパーで買い求めた和菓子を食べたりしていた。

私は高校二年の時の貧乏旅行をした時の思いで話を家内に語りかけた・・。

悪友と私は、それぞれザックの大きいキスリングを背負いながら、
バス代を倹約する為に、出来る限る歩いたりし、宿だけは民宿に宿泊していた。
そして、ある日、この曽々木海岸で昼食にした。
岩の多い海岸で、飯盒(はんごう)でご飯を炊き終わり、簡素な食事をしょうとしていた時、
大通りに団体観光バスが止まり、数多い観光客の方たちが下車してきて、
海が綺麗ねぇ・・やはり曽々木海岸は名所よ・・
と歓声まじりの声が聴こえてきた。

悪友はサラリーマンの家の坊ちゃまで、
恥ずかしいから、岩陰に退散しょうよ、
と私に云ったが、私は農家の児として育った身なので、無視して悠然と昼食を終えたのである。

まもなく観光客を乗せたバスが立ち去った後、悪友は昼食を食べ始めたのである。

そして私は岩のはずれで海を見ながら、オシッコをしたのであるが、
悪友はカメラを持ち出して、この時の私の状景を撮ったりしていた。
この一葉の写真は、今でも私のアルバムに貼ってある。


このようなことを私は家内に云いながら、談笑したりした。
その後、海岸を北上しながら歩き、景観の良き処で、
スーパーで買い求めた昼食代わりのおつまみの数々を頂いたのである。


私達は3時過ぎに、輪島の市内に戻ったのであるが、
街並みの情景より、私達はバスの車窓から眺めた能登の景観、
曽々木海岸の人気の少ない歩道の方が遥かに魅せられたので、
30分ばかり散策して、ホテルに戻ったのである。


翌日の12月31日の朝、どんよりとした曇り空であり、
街中の朝市まで散策したのである。
昨日の曽々木海岸に行くまで朝の7時半過ぎに、朝市のある路上を見て、
この地の野菜、鮮魚そして干物などの即売を眺めたりしたのである。

鮮魚の販売する高齢の小母さんの前で立ち止まると、
わずかで元気のない鮮魚があった。
『悪天候が続き・・漁にも出られなかったので・・このような肴(さかな)ばかりでして・・』
と小母さんは申し訳なさそうに、このような意味合いの言葉を重ねていたのである。


このようなこともあり朝市を通り過ぎ、大晦日の街中を2時間ばかり散策して、
ホテルに帰館したのである。


2001(平成13)年の元旦は、霧雨の降る朝を迎えた。
私達は、街中にある住吉神社に参拝した後、
雨の降る中、傘を差しながら街の岬の汐見橋まで30分ばかり歩いたり、
帰路は漁労の倉庫街から入り江に近い歩道を歩き、
フィールド・ジャケット、ズボン、軽登山靴は濡れて、ホテルに戻った。

2日の朝、チェック・アウト後、曇り空の中、金沢市内の兼六園でゆっくり散策しょう、
と特急バスで輪島をあとにした。


途中の千里浜を通り過ぎる時、強い風で樹木が傾きかかったり、
金沢市内の住宅地を通過する時は、風もなく、穏やかな陽射しの中をバスは走破した。

そして、兼六園を散策していると、雨が降り出してきて、
やむえず園内の簡素な食事処で雨やどりをしたのである。
ときおり風が吹き、雨を眺め、止む得ず私は地酒を注文し、おでんを食べながら、呑んだりしたのであった。
家内は煎茶と和菓子を食べたりした。

この後、駅前に近い全日空のホテルの喫茶店で、
私達はコーヒーを呑み、家内はケーキを頂き、私は煙草を喫ったりして、
今回の年末・年始の旅行は失敗だった、と私は家内に云ったりした。
何よりも悪かったのは、『ホテル高州園』の露天風呂の看板に偽りあり、
そして館内の状景であった。

帰宅後、一週間過ぎた頃、兼六園は20センチばかりの雪景色、
と報じられて折、私は普段の行いが悪かったのかしら、と微苦笑したのである。

                        《つづく》

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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ② 母の死後、私達は滞在旅行の始まり

2010-12-28 15:19:03 | 定年後の思い
          第3章  母の死後、私達は滞在旅行の始まり、稲住温泉滞在【1998.12.31.~1999.1.3.】

私が1997(平成9)年の大晦日、私の母と同居していた妹から、
母の容態が悪化し、救急車で病院に入院した、と教えられたのは夜の9時過ぎであった。

私は風邪をこじらせて毎年の御節料理のメールボーイを19年間続いていたのであったが、
やむえず家内に代わってもらい届け、この後の数時間後であった。
この当時の母は、入退院を繰り返していたが、新年を病室で迎えるのは、初めてであった。

家内の父も体調を崩していたので、大晦日の夜、我が家の恒例の『お年取り』も中止となり、
我が家は2人だけの新年を20年ぶりに迎えた。

そして、私の実家の長兄宅の2日に行われた『新年会』も、母が不在で、
前年の母の『喜寿の祝い』を兼ねた華やいだ雰囲気がなくなり、
改めて母の周囲をくつろがせる社交の妙味を実感させられた。


そして、新春の13日の深夜、母は死去し、
14日に『仮通夜』、15日の『お通夜』、16日に『告別式』を終え、
『初七日』、納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となり、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私にはあったのである。
世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
50歳を過ぎた私でも心は重かったのである・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に云った。

そして私達夫婦は、年末年始に初めて旅行に出かけたのである。

この旅行に関しては、以前にこのサイトに投稿している部分が多いが、
あえて再掲載をする。

【・・
秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に、
12月31日より3泊4日の温泉滞在型の団体観光バスプランを利用し、滞在した。
何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、山奥の素朴な温泉地としたのである。

大晦日の早朝、東京からバスで東北自動車を古川ICで降り、
鳴子温泉を通り抜け後、雪はまばらに田畑にあった程度である。
しばらく登り坂を走破するとトンネルを抜けると、あたり一面、雪景色となった。

山里の丘から道路に掛けて、30センチ程度であったが、我々の観光客は歓声を上げた・・。
私達を含め、秋田県の奥まった処の温泉地で雪を観て、年末年始をくつろぐ、
というのは大方の周知一致した思いであった。

日暮れ時にホテルに着いて、大晦日の夕食を迎えた。

http://www.inazumi.co.jp/
☆ 秋の宮温泉郷 稲住温泉ホームページ ☆

翌日、私達は防寒服で身を固めて、積雪の幅5メートルぐらいの閑散として県道を歩いた。
周囲は山里の情景で、常緑樹の緑の葉に雪が重そうに掛かっていたり、
落葉樹は葉の全てを地表に落とし、小さな谷沿いに小川が流れいた。

しばらくすると、雪が舞い降りてきた・・。

ゆるく蛇行した道を歩き、秋田県の奥まった処だと、実感できた。
車も通らず、人影も見えなかった・・。

雪は強まってきたが、風もなく、静寂な中を歩いた。

このように1時間ばかり歩いたのだろうか。

そして町営スキー場が観え、ゴンドラなどもなく、リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私達夫婦だけで、
こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。

私は東京郊外の住宅街に住む身であり、
とても家の中の一角に薪ストーブを置けるような場所もなければ、
薪の補給を配慮すれば、贅沢な暖房具となっているのである。

私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、
田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。

薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。


薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『お姉さん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。

そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。


ホテルに雪の降る中を歩いて戻ると、
ホテルの外れに茶室があり、積雪が深まった庭先の中を歩いた・・。

茶室は人影が見当たらず、ひっそりとしていた。

その晩、家内の実家にロビーで電話を掛けて、新年の略式の挨拶をした。
その後で、私は電話口で、
『お義父さんの好きな『喜びも悲しみも幾年月』と『二十四の瞳』の監督・・
木下恵介さん・・亡くなりましたが、
日本のマスコミは余り記事の扱いが粗末で、マスコミも鈍感になりましたね・・』
と私は言った。
・・】

このような思いで、私は母に死去された初めての年末年始を旅先で、
私達夫婦は過ごしたのである。



           第4章  湯野浜温泉滞在【1999.12.29.~2000.1.2.】

1999(平成11)年の1月9日に母の一周忌の法要を終えた後、
この当時の私は、あるレコード会社に勤めていたが、数年前から各社がリストラが実施され、
私も2月より、ある物流情報センターに出向となった。
殆ど本社で30年近く勤務してきたので、失墜感があり、盛夏の頃まで心の奥底に感情のわだかまりがあったが、
何とか吹っ切れて業務に専念できた。

この後、初秋に妹の長男、秋に長兄の長男の結婚式などがあり、
私自身、公私共々波乱に満ちた年でもあった。

こうした思いかあり、せめて年末年始は日本海の雪降る温泉地に滞在して、のんびりしょうよ、
と私は家内に云ったりした。

結果として、選定したのは山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉に、
12月29日から4泊5日の旅となったのである。


東京駅より新幹線で新潟駅、その後は在来線の特急『いなほ』で鶴岡駅で下車したが、
乗車時間はわずか3時間半が、車窓から雪景色が観られず、少し落胆したのは本音であった。

鶴岡駅の駅の近くにラーメンの美味しい店がある、と事前に調べていたので、
ここで昼食と私達夫婦は決めていたのであるが、郊外に移転したと教えられ、
やむえずタクシーで三キロばかり利用した。
郊外に洒落たレストラン風に変貌し、客は賑わっていたが、
期待する余りなのか、ラーメンの味は並であり、私達は互いに苦笑したのである。

そして、鶴岡駅までのんびりと歩きながら田畑の広がる情景を観て、
庄内平野の広さを実感したりした。
その後は街のはずれで町工場のような木造二階建てを眺め、
社員の方たちか仕事納めの前なのか大掃除をされていた。
私は会社の年末年始の休暇で一日早く休め、気楽に旅行などをしていたので、
何かしら申し訳ない気持ちになったりした。


鶴岡駅の駅前は、帰省客を出迎える家族、知人たちが多く、
私達夫婦は駅前より路線バスで湯野浜温泉に向ったが、
やはり車中の乗客は帰省される方が圧倒的に多く、
この地方の方言が飛び交わされ、私は心の中で微笑んだのである。

私はその地方の風土、文化を学ぶ第一歩は、
その地域にお住まいの人たちが平素に於いて利用される公共交通機関に共にできれば、
確かに教示されることが多い、と信念のように思っていたからである。


終点の湯野浜温泉に到着すると、まもなく予約している観光ホテルの『亀やホテル』が観えた。

http://www.kameya-net.com/
☆ 湯野浜温泉 『亀やホテル』ホームページ ☆

私達は年末年始の宿泊料金は高くなると知っていたが、
この一年の波乱万丈の苦楽の年であったので、慰労の意味を込めて、
少し背伸びし29日、30日、大晦日の31日、そして元旦、と連泊としたのである。

程ほどゆったりした客室、客室から観える海、そして鳥海山の雪景色の展望、程よい大浴場、
何よりも魅せられたのは、その夜に応じた日本海に面した特色のある料理の数々であった。
素材も良く、創意工夫された料理・・
私達夫婦はある程度は日本各地の観光ホテルに宿泊して、
宴(うたげ)のひとときの夕食を頂いてきたが、今でもこれ以上の料理を味わったことがないくらい、美味であった。

その上、日中に今宵はXXを食べてみたいなぁ、と何気なしに家内に云ったりしていたところ、
この料理が夕食のお膳の片隅にさりげなく置かれていたので、
私達は驚きながら、微笑んだのである。


私達夫婦は、長兄の奥方が鶴岡市の郊外で生を受け、高校生までこの地で育ち、
何かと冬は積雪がある上に寒い、と聞いていたので、
今回の湯野浜温泉の滞在旅行は、フィールド・ジャケット、セーター、ズボン、軽登山靴を用意をして、
一部はこの観光ホテルに宅配便で送付していた。

翌日の30日は、このような防寒の容姿で、羽黒山のふもとにある『五重塔』に向ったのであるが、
何かしら温暖で陽射しの中、路線バスで鶴岡駅で乗り換えながら行ったのである。
見渡す限り田畑の中に人家がある情景であったが、羽黒山のふもとに近づくと、
バスの終点であり、私達は下車し、閑散として食事処で、山菜蕎麦を頂いたりした。

そして畑の外れに赤く実った柿が観え、あれが庄内柿か、と私は理解した。

この後、大きな杉木立の中、地表は5センチ前後の残り雪を踏みしめ、
小さな川の清冽な流れを見ると、深閑とした情景であった。
このような所を少し登ると、突然に『五重塔』が観えたのである・・。
杮葺(こけらぶ)きで素木(しらき)造りの塔であり、長い歳月の風雪に耐えた景観に私は心を寄せられたのである。

私はこうした情景を眺めながら、春のとき、夏のひととき、秋のとき、そして冬、
このような季節をめぐる中、時と共にひとときを過ごせたら、
この上にない贅沢な時を享受できる、と私は立ちすくんで感じたのである。


この後、鶴岡駅からホテルに戻る路線バスの車窓から、
市内の中心の街並みを眺めたり、寺院の外れの一角で正月飾りの即売店を見たりした。
門松、注連(しめ)飾り、輪飾り、そして松、万両などが観られ、
多くの人が買い求めている光景を見ると、改めて歳末を実感させられたのである。


翌日の大晦日は、深夜に羽黒山の祭殿の付近で、『松例祭』が名高いので、
滞在している観光ホテルで夕食を頂いた後、私達はタクシー向かったのである。

もとより羽黒山は、月山、湯殿山と共に出羽三山と称されているが、
拝殿の近くに行くと、この時節に羽黒山に参拝すれば出羽三山を拝観したことになる、
このような意味合いが明記されていたので、私は少し笑ったのである。

奥のはずれにある大きな待合室は、市内の人々か、大勢の方たちが折、
私は神社の売店にいる巫女(みこ)を見たりしていた。
高校生ぐらいの少女たちで、大人には少し無理であどけない表情をたたえているが、
庄内地方が育てたまぎれない美少女、と私は秘かに感じたりしたのである。

この後、この外れの広場で、地元の有志の若き青年諸君が、
上半身を肌蹴て歓声と喊声をあげながら、互いに前進したり、
大きな松明(たいまつ)を燃やしながら、歩き廻った・・。
確かこのような情景だったと記憶しているが、
無念ながら10数年前のことであるので、定かでない。

この後、神社の外れで、10数軒立ち並ぶ簡素な食事処は、
参拝客が多い中、私は地酒を呑みながら、おでんを食べたり、
家内は温かいお饅頭と共に甘酒を飲んだりしていると、深夜の一時過ぎとなった。

新たなる2000年の年か、と思いながら、ホテルも帰還するタクシーを捜したが、
やっとの思いで15分後に見つかり、帰路に向ったのである。

羽黒山を下山するタクシーの車窓からは、
市内の方から初詣に来られる方たちの自動車のライトが次々の登ってくるような状景に、
新年早々の初詣か、と感心しながら下方を眺めたりした。

元旦の日中は、湯野浜の海岸を2時間ばかり散策した。
暖かな冬の陽射しの中を家内は貝殻を拾ったり、私は珍しそうな小石を探したりした。


翌日の2日は帰京する日なので、市内の神社に参拝した後、
駅前の老舗の和菓子屋で寄ったのである。
平素、何かと長兄の奥方からは、この地域の地酒を私は頂いているので、
幼年期からの長兄の奥方の好み和菓子を探して買い求めたり、懐かしいと思われる地元の地方新聞の二紙を購入し、
私達は、まもなく鶴岡駅をあとにしたのである。

このように1999(平成11)年の年末、そして新たなる2000(平成12)年の新年を、
山形県・鶴岡市の海岸にある湯野浜温泉で過ごしたのである。


                        《つづく》

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