夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

遠い昔の小学生の頃、あだ名は『三原山』と命名された頃のささやかな想いで・・。

2012-04-25 13:54:35 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であるが、
昨日、いつものように自宅の近くの野川の遊歩道を歩いた。

平年より熱いくらいの5月下旬のような陽気になり、スポーツシャツの長袖を腕まくりし、
川風が薫風のように感じられ、身も心も爽快であった。

このような時に、
《 学童が下校の時となりました・・みんなで~学童を・・護(まも)りましょう・・》
と私の住む街の調布警察署から、小学校の下校時に、街中に聞こえるように広報されているのが、
聴こえてきた・・。

まもなく学童が数人グループ、或いは10人ぐらい群れて歩いてくるのが見えて、
それぞれ談笑を重ねながら、ときおり歓声もまじえて、歩いてきた。

私はすれ違った後、10メートルぐらい遅れて、たったひとりの学童の男の子が、トボトボと歩いてきて、
やがて私はすれ違った・・。

この後、私は小公園のベンチに座り、数多くの学童の後ろ姿を見たりした後、
たったひとりの男の子の後ろ姿がなぜか気になったりした。


私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋に農家の子として生を受けた。
この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎは長兄であるが、万一の場合は次兄がいたので万全となり、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。

やがて、私の下に1947(昭和22)年1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛し、
私は幼児なりに疎外されたように感じで過ごしていたが、
いじけた可愛げのない子の上、無口で屈折した幼年期を過ごした。

私は1951〈昭和26〉年の4月、地元の小学校に入学した。
そして1953(昭和28)年の3月になると、
前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚の叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落したような状況となり、生活は困窮となった。


祖父が生前だった時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えた。
そして長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

このした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
そして私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

この頃、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正 】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、この当時の私を『三原山』とあだ名を付けていた・・。
普段は無口ながら温和な少年であったが、ときたま怒り出したら、
学友たちは手を付けられず、お手上げ状態となっていたらしい。

伊豆七島の中に大島があるが、この大島に三原山が活火山で、
不定期に爆発し惨事をもたらしていたので、この由来からであった。

この後、私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春の頃から、
突然におしゃべりな少年に変貌し、陽気なふるまいとなり、
母や叔母、そして兄妹も驚き、今日に至っている。

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私の幼年期のある日、危篤の状況となり、この世と別れの宣告をされ、やがて蘇生して・・。

2012-03-08 07:20:07 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋にに農家の子として生を受けた。
この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎの候補は、兄ふたりのいずれかとなって、万全と思え、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。

やがて、私の下に1947(昭和22)年1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛し、
私は幼児なりに疎外されたように感じで過ごしていたが、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

このような状況下で、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。

しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955〈昭和30)年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。


私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された。

この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもやく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。


こうしたことは、父は私が小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、
まもなく父の妹のひとりの叔母から、私は教えて頂いたことである。

その後、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数回、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に言ったりした。

或いは叔母のひとりが何かの会合の時、
『XXXは・・一度死んだ身なので・・長生きするわょ』
と私に励ましの言葉のような意味合いで、言われたこともあった。


私の父は肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
私は中学生の頃から、父の死の42歳を乗り越える責任がある、と漠然と思ったりした。

やがて私が42歳になった時は、せめて60歳のサラリーマン定年退職までは、
生きる責務を強く感じてきた。

そして、定年退職の5年前の55歳の頃は、
定年後10年間だけは、何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとの70歳以降は余生と思ってきたりした。

このように私は死生観は移り変わってきたが、
もとより死は、天上の神々の采配に寄るものだ、と67歳の今は受け止めている。


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過ぎ去りし昭和30年代に、私が『都電』に乗ったささやかな想いでは・・。

2012-03-05 11:58:17 | 幼年・少年時代の想いで
先ほど、小庭に雨が降る情景をぼんやりと見たりした後、
机の脇にある本棚から一冊の本を取りだして、見たりしていた。
正井泰夫(まさい・やすお)氏が監修された『東京の昭和』(青春出版社)であり、
副題として『図説 地図で暮らしを読む東京の昭和』と題されている。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みで、
1944〈昭和19〉年に生を受けた67歳の身であるが、
定年退職した翌年の2007〈平成17〉年の晩秋に、
たまたま本屋で見かけて、懐かしさの余り買い求めた雑誌であった。

先ほど何気なしに《路面電車》のページを読んだりしていて、
そうだったよねぇ、あの頃は都心でも盛んに『都電』が走っていたよ、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

都心に住む若い世代の人には、都電と綴ってもお解りにならないと思うが、
東京の都心で昭和30年代は路面電車が隈(くま)なく走っていた・・。


私が地元の小学校に入学した19ね51〈昭和26〉年の春、
この頃から母に連れられて京王線の金子駅(現在・つつじが丘駅)から新宿駅まで乗車し、
母はデパートなどで、年に数回ぐらい買い物をしたりしていた。
或いは父の妹の叔母に連れられて、親戚が住んでいる高幡不動駅まで電車に乗ったりしていた。

その後、私は小学4年の頃から、圧倒的に映画に魅せられて、
独りで映画館に行ったりしていたが、あくまで近場の布田駅、調布駅、
或いは千歳烏山駅の映画館であった。

私が小学6年の1957(昭和32)年の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

この頃の私は、電車に乗ってきたが、乗り物に酔いやすい少年であった。

次兄に導かれて、私は京王線で新宿駅まで30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったたりした。

新宿駅より西口の地下ガートを通り、確か歌舞伎町の前の大通りの中央に、
都電の新宿駅があり、築地駅、月島(通り8丁目)駅方面に行ったりしていた。
そして私たちは数寄屋橋駅まで利用する為に乗車した。
確かこの当時の都電の電車賃は、終点の築地まで乗っても、13円と記憶している。

私は初めて乗った都電は、一両編成で大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。
普通の電車のように枕木、砕かれた石などの弛緩材などはなく、
敷石の間に線路を敷いていたので、揺れるのであった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は言った。

『もうちょっと・・我慢してよねぇ・・』
と次兄は言った。

次兄が私に言った言葉の中には、一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
意味合いの言葉が含まれていたので、私なりに我慢をしていた。

私はどんよりとした曇り空り中で、皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋駅のひとつ手前の日比谷駅で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋のガートの近くの映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、と判明した。


こうした私は都電で関して苦い体験をしたので、
この後も都電を観るたびに、苦手意識を持っていた。

その後、私は1960〈昭和35〉年の春、都心の中野にある高校に入学した。
京王線のつつじが丘駅か仙川駅から新宿駅まで乗車した後、
西口が5分ぐらい歩いた先に青梅街道の大通りがあった。

この当時は、この西口の大きなガード下に近い場所に、
新宿駅から荻窪駅までの都電の路線があった。
私は中央線の新宿駅から中野駅まで乗車することがあったが、
大半はこの都電の路線で通学していた。

新宿駅より混雑時には二両連列となり、新宿駅の街並みを離れ、
商店街の情景に変わったが、この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
私は車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られたせいか、
乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業した1963〈昭和38〉年の春を過ぎて、まもなく地下鉄が開通して、
この区間の都電は廃線となった。

この間、私は青梅街道の都電の新宿駅の近くに『小田急デパート』(現在・小田急ハルク)が
1962〈昭和37〉年に開店したりしていたので、
やがて西口、周辺はどのように変わり果てるのか、私は戸惑いを覚えたりしていた。

そして新宿の西口の郊外にあった淀橋浄水場は移転された後、
後年に西口の高層ビル群、そして都庁も移転してきて新宿副都心として大きく変貌した。


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『中秋の名月』、私の遠い昔の幼年期、ささやかな想いでのひとつは・・。

2011-09-12 16:53:47 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、『十五夜』と明記されていたので、
早くも『中秋の名月』を迎えたのか、と微笑んだりした。

もとより、9月7日から10月8日の間に於いて、月が満月になる日を『十五夜』、
或いは『中秋の名月』と称されている。

先ほど、私の幼年期の頃まで、生家でささやかな月見の祝いをしていたことが、
脳裏の片隅みから思いだされて、微苦笑したりした。


私が地元の小学校に入学したのは、1951〈昭和26〉年の春である。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人の手を借りながらも田畑を耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けたが、祖父、父は、
2人男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思ったので、今度は女の子を期待していたらしく、
三男の私としては、幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
と幼年期を振り返り時、想いだしたりしている・・。

この時節の満月を迎える中秋の名月の時は、
母屋の主庭に面した縁側で、月が観える位置に飾りを供(そな)えていた。

三方(さんぽう)と称された檜(ヒノキ)の白木で作った方形の折敷(おしき)に三方に穴が開いた台に、
半紙を敷いて、お米の粉で作った団子を15個ばかり供えられていた。

薄(すすき)が活(い)けられ、その脇には収穫された農作物の里芋(さといも)、
サツマイモ、蓮(の根)などが置かれていた。

私は祖父から不憫に感じられたせいか、ときには可愛いがわられて、
祖父の冷酒を呑む横に座って、満月を眺めたりしていた。

今、こうして想いだすのは、農家であったので、
春から育てられた農作物が何とか夏の日照り、台風などの被害を受けることなく、
無事に秋の収穫を迎えることができ、感謝をささげる意味から、
このように形式がとられたと解釈している。

こうしたささやかな『月見』も数年後、父が死去し、祖父にも死別され、
大黒柱を失った生家は衰退の一途となり、このような儀式には余裕がなく、消滅した。


昨今の私は、この時節になると、
ときおり家内と共に月を眺めたりした時、
『月・・綺麗だね・・』と私は誉(ほ)めたりしている。

そして昨夜も、家内から、
『十五夜の前夜ですけれど・・やはり綺麗ね・・』
と私に教えてくれた。

私は玄関内の窓辺から、夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
『お月様・・微笑んでいるようだねぇ・・』
と私は家内に云ったりした。


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その昔50年前の頃、私が中学生の時代に、富士山を下山した時、死を感じた時・・。

2011-02-10 09:47:44 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私が中学2年生の時、1959(昭和34)年であったから、ひと昔のことである。
そして、時代の変貌が激しく変わってきたので、ふた昔かしら、と微苦笑した・・。

この当時も私は東京郊外の調布市に住んでいたが、
数年前の小学生の高学年の頃から、私の住む地域に於いては、
田畑、雑木林、竹林などが急速に、新興住宅街に変貌した。

そして最寄の駅の商店街も発展をし、クリーニング店も数店でき、
それぞれの家に巡回し、洗濯物の収集、仕上がり品の配達がされた時代のはじまりであった。

こうした中、ある若きクリーニング店の経営者のひとりが、店員さんを数名と共に運営し、
この若きクリーニング店の経営者が、我家にたびたび来宅し、
親交を深めたのである・・。

次兄が高校一年で山岳部に所属し、山歩きをはじめた頃であった。
そして、クリーニング店の若き経営者が、ある日に次兄と、
山のあれこれを話していた時、富士山の話題になった。

そして、このお方は実家に近い御殿場の高校に通っていた時代に、
ボッカと称した荷上げてのアルバイトをして、
幾たびか夏季の時に、御殿場の新2合目より山頂まで登り下りをしていた、
と話されたのである。

そして、夏季の時だったならば、富士登山を何度も体験をされた人に案内されれば、
登山の未経験の私でも大丈夫、と談笑されたので、
このお方の言葉に甘えた上、そして導かれながら、次兄、私が富士山に登頂することとなった。


http://gotemba.jp/fuji/gotemba.html
☆富士山 御殿場 ホームページ☆

この当時の1959(昭和34)年の頃は、御殿場口、須走口からの登山口は、
私の記憶に間違いがなければ、夏季の登山シーズンに限り、
御殿場駅から新2合目まで路線バスがあった。

そして、登りは須走コース、下りは御殿場コースと決め、
このお方に導かれて、次兄と私は歩き出したのである。

おぼろげな記憶をたどれば、
確か夜の6時過ぎに須走口の新2合目から登りはじめて、
山頂の早朝時を目指したのである。

私は山歩きはまったくの未経験者であったので、ひたすら付いて歩いているうちに、
何とか無事に山頂にたどり付いたのである。
そして、ご来光の時には少し過ぎていたが、快晴に恵まれ、
7月下旬でも寒いくらい涼しかったのが、心の片隅に残っている。

まもなく次兄が気分がすぐれない、と云ったりしたので、
このお方から、高山病だなぁ、と云われて、少し安静したのである。

私は山岳部に所属してる次兄が高山病になり、
これまで低山の高尾山をハイキングした程度の私が、何ともなく山頂に登りつめた達成感で高揚し、
私は次兄の顔を見ながら、微苦笑したのである。
しかし私としては、無意識で無邪気に登りつめたのが、実情であった。

この後、次兄と私は、お互いに記念写真を撮ったりし、
このお方に導かれて、私達は気分爽快で山頂の周辺を散策した。


下山の時、御殿場コースを下りはじめた時、
私としては、急斜面で黒い砂粒の厚く積もった砂走りと称された下山道で、
不安であったが、10分ぐらいすると、5歩、6歩進めて、
足元でくい止める方法で馴れた感じであった。

その後、9合目を下って、まもない時、
私は5歩、6歩進めて、足元でくい止めるようとしたが、
足元が砂で滑り、止まらなかったしまった・・。

私は急斜面を走るかのように下りはじめ、
足元を踏ん張ろうとし、幾度も試みたがくい止めるこどできなかった・・。
やむえず横にコースを取れば、斜面は並行となり、もとより下ることはないので、
咄嗟(とっさ)に横に方向したが、下山道から外れて、
黒い砂粒から爆発時の岩の痕跡となった黒い岩の大小が数々観られたのである。

こうして私は、斜面の横を自身の意思とは違い、踏ん張って止めようとしたが、
一向に止まらず、失速し、私はあわてふためいたのである・・。

そして、動顚したせいか、何故か下りに進路を変えたのである。
足速は益々早くなり、失速しながら下った時、
死ぬこととは、こうしたことなのか、
とスローモーションのように実感しながら下ったのである・・。

まもなく、私は大きな黒い岩につまずいて、
背負い投げを受けたかのように、地面に叩きつけられたのである。
そして、横に転がりはじめ、わずかな草の群生したひと株を、私は握り締めたのである。

そして、上の方から、このお方と次兄が、
大丈夫か、という叫び声を、私はぼんやりと聴こえたのである・・。

私は呆然としながら、ノロノロと起き上がると、
何故か6畳ぐらいの平地で、草がわずかに生えていたのである。
そして下る方向の数メートル先は、切り落とされたかのような崖となり、
遙か彼方の下界となっていた。

そして私は自分の手足、身体をおそるおそる触れ、
軍手を外し、手は砂粒と黒い岩でわずかに切り、穿(は)いていたバスケット・シューズは所々擦り切れ、
おでこに少しかすり傷ぐらいであった。


この後の私は、このお方と次兄に守られるように下山をふたたび始めて、
このお方の知人が8合目で山小屋を経営しているので、
このお方が、少し休息しょうと、この山小屋に寄ったのである。

私達3人は、お茶を頂ただいたのであるが、
『先ほど・・上の方で・・もんどりひっくり返って転げたひとりを見たが・・
ありやぁ・・死んだよ』
と山小屋の主人は、このお方に云ったりしていた。

『あのぅ・・叩きつけられて・・転んだのは・・僕です・・』
と私は元気のないかぼそい声で云った。

『お前さんだったのかぁ・・よく助かったなぁ・・
岩に足を取られて・・もんどり返った時・・
偶然に俺は見ていたが・・あれで死んだと思ったょ・・
まして、その先は、千メートルぐらいの崖下となっているし・・』
と私は山小屋の主人に教えられて、
私は改めて恐怖で、少し震えたのである・・。


帰路、電車の空いた中、
『XXちゃんが・・転げ落ちた時・・
俺・・アンタのお母さんに・・何てお詫びしょうか・・と思ったよ・・』
とこのお方は、初めて安堵した表情で、私に云った。


私は後年、大学時代に於いて中退するまで、ワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きをしたりしたが、
急激な下り道は、この富士山の恐怖の体験したせいか、いつまでも苦手となった。

その後、このお方とは、私達が住む地域も住宅の密集地となり、
50年数年過ぎた今、商域もかけ離れているが、
私が家内と駅前に出かけた時などで、
偶然にお逢いした時、私は懐かしげに私は感謝の心で挨拶をしている。



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『節分の日』、いじけていた私なりの幼年期の頃を思い馳せながら・・。

2011-02-03 12:40:38 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
午前中のひととき、『節分の日』であったので、

【 『節分の日』、つたない私なりの現役サラリーン時代の頃を思い馳せれば・・。 】

と題して、私の現役のサラリーマンだった時代の『節分の日』の思いでの投稿文を綴った。

この後、私の幼年期の頃は、どうだったのかしら、と思いを馳せたりした・・。


私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後に妹がふたり生まれ、
祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、
激しく叱咤されたりした。

祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。


こうした中で、私が少学校に入学する1951(昭和26)年の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。


この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。

神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

そして、この日の『節分の日』に関して、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。

『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。

我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。

夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって云ったりしていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に云った。

私は、6つだけかょ、と云いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとふたつばかり余計にとった。
そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。

このような祖父、父達に囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、我家は没落をしはじめた・・。


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『はじめてのおつかい』、私の幼年期に初めて買物を思い馳せられて・・。

2011-01-11 09:54:57 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
一昨日、家内といつものように1時間ばかり談笑しながら、夕食を頂いた。

そして、料理をするのは家内の責務であるので、せめて私は後片付けをし、
この後はいつものように茶坊主の私は、家内にコーヒーを淹れたりした。

家内は居間を視聴しているので、食卓テーブルの片隅にそぉーとマグカップを置いた・・。
このように私の定年後の夕食後の情景である。

私は煎茶を淹れた後、居間の庭に面した処にパソコンを置いた机の前で、
椅子に座りながら、ネットでニュースを見たりした。

こうしている時、テレビからあどけない幼児の声が聴こえた・・。
そして何かしら幼児が買物をしているような声が聴こえ、
まもなく私はテレビの画面を向かい、
『この番組・・何なの?・・』
と私はテレビを視聴している家内に私は訊(き)いたりした・・。

『小さな子供が、初めて買物を体験する特集番組・・
この特集・・人気があるみたい・・』
と家内は私に教えてくれた。

この後、私もテレビを視聴したのであるが、
幼児が母親から買物を依頼されて、のこのこと買物先に行き、
あどけない表情としぐさで、何とか品を買い求めて、帰宅に向うシーンであったが、
私は圧倒的な感動を頂いたのである・・。


今朝、ぼんやりとテラスに下り立ち、朝の陽射しを受けながら、
冬枯れの落葉樹を眺めていた時、この番組の情景が思いだされたのである。
そして微笑しながら、私の幼年期に初めて買物をしたことなどを思い馳せたりした・・。


私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。


こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。

後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたのである。


昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。


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『どんと焼き』、私の幼年期に体験した心の宝物のひとつとなり・・。

2011-01-10 17:58:51 | 幼年・少年時代の想いで
私達夫婦は昨日、駅前に出掛けた時、
駅の外れに、『どんと焼き』15日実施、と明記された案内の立て看板が置かれていた。

『どんと焼き』かょ、と私は思わず心の中で呟(つぶや)きながら、
見惚(みと)れてたりした・・。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
遥か遠い昔の60年前の昭和26(1951)年の前後に於いて、
私の今住んでいる近くに実家があり、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そして『どんと焼き』をしていた。

この当時、旧家ではその家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていた。

私の実家に於いては、田畑の外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩(いろど)った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

夕暮れで暗くなった頃に、点火されて、燃え盛り炎、はじける音、
そして燃え盛る炎と共に火花がはじけて、暗くなった中を明るく照らし、
祖父と父から少し離れて、長兄、次兄と共に私は眺めたりしながら、心の中で歓声を上げたりしていた。

そして枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。


この数年後、父は病死し、そして祖父も亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』をする余裕もなく、
取りやめたのである。

そして、まもなく実家の周辺も住宅街に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったりした。

私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めた為か、
神社でそれぞれの家が持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。


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私の幼年期の錦繍(きんしゅう)の想いで・・♪

2009-11-16 10:20:01 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
この時節、朱紅色、黄色に染められた錦繍を迎えているが、
何かしら住宅街の昨今のありふれた樹木の情景で、何かしら物足りないのが本音である。

私はこの調布市の外れに、結婚した5年間を除き、60年ばかり住んでいることになる。
昭和19年に農家の三男坊として生を受け、
地元の小学校に入学したのは昭和26年であった。

この当時の情景は、京王腺の各駅の商店街はあったが、5分ぐらい過ぎると、
畑の状景が広がり、そして田んぼも広く、それぞれ雑木林に囲まれた広い宅地の中に家があった。

晩秋になるこの時節は、サクラ、モミジ、ドウタンツツジ、柿などが朱色に染められ、
ケヤキ、イチョウ、ウメ、コナラ、クヌギ、ユズ等が黄色の色合いとなっていた。
小学生の私は、祖父、父の交流のあった旧家の10数軒のお宅を寄ったりしたが、
殆どこのような樹木が圧倒的に多くあったのである。
私の生まれた家の庭先でも、サクラ以外はこのような情景であった。

特に私は幼心に、コナラ、クヌギの樹木の四季のうつろいが好きで、
そしてサクラよりウメが好きであるので、
親戚の叔父さんから、変わった子だよねぇ、と父に話していたのを微(かす)かに覚えている。
確か昭和27年の頃であったと思われる。

この後、昭和30年の頃になると、都心のベットタウンに変貌しはじめて、
数年後には住宅街となり、旧家の狭くなった宅地にわずか残される状景となった。

ここ10年ぐらい、私は散策したりすると、
遊歩道の小公園、少しばかり離れた都立公園などコナラ、クヌギの樹を見かけと、
私は思わず足を止めて、しばらくたたずみ眺めてたりいる・・。
そして、旅行先で偶然にめぐり逢うと、やはり足を止めて、見つめたりしている。
この後、ときおり私は調布市の外れの農家の児として育ったことは、
まぎれなく確かなことである、と微苦笑を浮かべたりすることもある。

尚、ナナカマドの朱色、そしてダテカンバの黄色に染め上げられるのは、
限りなく美しい日本の光景のひとつであるが、
無念ながら私のふるさとにはなかったのである。

私は北国を旅する時、ため息をして、これ等の樹木のうつろいを眺めたりしている。


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キユーピーの工場は、『新世界』のメロディーと共に・・。

2009-11-06 17:37:10 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、思わず微笑をしたのである。
『武蔵野版』の中のひとつの記事であり、

     《キユーピー 仙川工場 閉鎖へ 》

と見出しされた記事である。

私は調布市には結婚前後5年を除き、60年間ばかり住む、
私なりにキユーピーの仙川工場には思いでがあるので、精読した。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。


キユーピーは、調布市の仙川工場(仙川町2)を、2011年3月をめどに閉鎖すると発表した。
半世紀以上にわたって地域に親しまれた老舗工場の閉鎖に、
地元関係者からは惜しむ声が上がっている。

同工場は1951年操業開始。
1961年から始まった工場見学では、製造工程をそのまま見られる点が人気を呼び、
地元小学校の社会科見学を中心に、年間約2万人の見学者を受け入れてきた。
また、季節に合わせて衣装が替わる、工場入り口の特大キユーピー人形も、
通行人らの目を楽しませてきた。
市産業振興課は「『調布を代表する企業』というイメージがあったのに」と残念がる。

同社広報室によると、工場再編に伴う閉鎖で、
同工場で製造していたマヨネーズを茨城、兵庫県の2工場で、
卵加工品を府中市などで製造することになり、年間9億円のコスト削減が見込まれるという。

ただ、跡地は売却せず、グループ内で活用するという。
調布市商工会の原島芳一会長(70)は、
「寂しいが、完全に撤退する訳ではないので、
今後も、良いお付き合いができれば」と話した。

注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。

この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。

私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。

私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。
この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。

こうした時代にキユーピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。

いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえたのである・・。

学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。

『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解かねぇけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。

その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせたのである。


私はキユーピーの工場と聞くと、今でもドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章を重ねてしまうのである。
そして、今回のキユーピーの仙川工場の閉鎖を知り、私は小学生の頃の情景を思い浮かべたのであった。


http://www.youtube.com/watch?v=ZI-d96nZ-NI
☆ ドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章 ☆


http://www.kewpie.co.jp/index.html
参照・・キユーピー




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改めて、私の小学生時代の愛唱歌は『越後獅子の唄』 ・・。

2009-10-28 07:26:52 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この当時は京王線の各駅の前は商店街があったが、
駅より5分離れると殆ど田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私の生家は農家で、祖父、父が中心となって程ほど広い田畑を小作人に助けられ耕し、
竹林、雑木林などを維持管理していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

こうした中で、小学二年の時に父が病死し、祖父も小学三年に亡くなり、
農家の要である大黒柱を失った我が家は没落しはじめた。

私はこの頃、ラジオから流れていた歌をうつろに覚え、私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、私は映画を観ることが何よりも好きであったので、
母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもで40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。

こうした折に、たまたま映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖に、ときたま怒り出すと周囲が驚き退散されたりしたので、
伊豆七島のひとつ伊豆大島のそびえる三原山の活火山からの命名されたのであった。


そして確か私が小学5年になる頃、小学校の音楽室に都心の学校より遅ればせながらピアノが導入されて、
何かしら女の子達はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

我が家でも妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

こうして私達兄妹の小学校時代の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等性であった。


私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。


今の私達の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

尚、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃を被り、中古業者に引き取られた。


http://www.youtube.com/watch?v=5bqCBOTBpv0

☆【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】☆





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改めて、『中秋の名月』の想いで・・。

2009-10-03 19:43:31 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春である。

この頃は、祖父、父が先祖代々から農家を引き継いで、
ある程度手広く、小作人の手を借りながらも田畑を耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けたが、
2人男の子が続いたので、今度は女の子を期待していたらしく、
三男の私としては、幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
と幼年期を振り返り時、想いだしたりしている・・。

この時節の満月を迎える中秋の名月の時は、
母屋の主庭に面した縁側で、月の光が観える位置に飾りを供(そな)えていた。

三方(さんぽう)と称された檜(ヒノキ)の白木で作った方形の折敷(おしき)に三方に穴が開いた台に、
半紙を敷いて、お米の粉で作った団子を15個ばかり供えられていた。

薄(すすき)が活(い)けられ、その脇には収穫された農作物の里芋(さといも)、サツマイモ、蓮(の根)などが置かれていた。

私は祖父に可愛いがわられて、祖父の冷酒を呑む横に座って、
満月を眺めたりしていた。

今、こうして想いだすのは、農家であったので、
春から育てられた農作物が何とか夏の日照り、台風などの被害を受けることなく、
無事に秋の収穫を迎えることができ、感謝をささげる意味から、
このように形式がとられたと解釈している。

尚、それから数年後、父が死去し、祖父にも死別され、
大黒柱を失った実家は衰退の一途となり、このような儀式には余裕がなく、消滅した。


昨今の私は、この時節になると、
家内とどちらともなく月を眺めたりした時、
『月・・綺麗だね・・』と私達は誉(ほ)めたりしている。

そして先程も、家内から、
『中秋の名月・・やはり綺麗ね』と私に教えてくれた。

私は玄関内の窓辺から、夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
『お月様・・微笑んでいるようだねぇ・・』
と私は家内に云ったりしていた。

この後、何故かしら心の中で、

♪月がとっても青いから
 遠まわりして帰ろう

【『月がとっても青いから』 作詞・清水みのる、作曲・陸奥明、唄・菅原都々子】

このような歌を唄ったりしていた。



http://www.youtube.com/watch?v=seTCqv2u8E0
【『月がとっても青いから』 作詞・清水みのる、作曲・陸奥明、唄・菅原都々子】





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戦争を知らない私の防空壕の想いで・・。

2009-08-17 08:38:35 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
『終戦記念日』の一週間前頃から、かの大戦に伴うテレビでドキュメンタリー、
そして戦争中の体験を語られる人々の番組が放映され、
ときおり私は視聴したりした・・。

私は昭和19年の秋に、今住んでいる近くの実家で生を受けた・・。

農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居はもとより、
親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。

北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、
と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人での足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

250キロの爆弾と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、
と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。


我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は五歳、次兄は二歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして二歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。


後年の小学三年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、
防空壕がよく見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。


この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、
大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。



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改めて、小学生時代の『ラジオ体操』の想いで・・。

2009-08-16 14:39:36 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の小学校に入学したのは、昭和26年の春だった・・。

夏休みになると、近くのお寺の境内でラジオ体操が行われていた。
集合時間は、朝の7時頃だったかしら、と思っているが確かでない。

お寺のお賽銭箱の横の階段の横に、ラジオが置かれて、
NHKの『朝のラジオ体操』が流れると、近所の30名前後の小学生の前で、
6年生の班長が少し高い台でお手本のように始め、小学生達はそれに習って続く・・。

小学生は家を出る時は、必ず所定の出欠カードを持参し、
体操が終わった後、班長から出席のマークをカードに押して貰ったりしていた。

私の長兄、次兄は優等生であったので、6年生になると班長に選出されていた。

3男坊の私は、いじけた劣等性であったので、
学期末に通信簿を頂くたびに、担当の先生から、
『お兄さんのふたりは・・優秀なのに・・』
とため息まじりに私に云われたりしていたので、
私が6年なると、夏の『ラジオ体操』班長に選ばれる確率は少なかった。

結果として、班長は私となり、
この年から何故かしら副班長が設けられて、お寺の娘の同級生が選ばれた。

この夏、私は照れながら、俺でいいのかしら、と心の中で呟(つぶ)いて、
小学生達に出席マークを押したりした。


後年になると、私は小学生の夏休みの『ラジオ体操』を夢をみたりするが、
悪夢のようなことが多く、
私は目覚めるたびに苦笑したりしている。



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その昔、私は富士山の下山の時、死を感じた時・・。

2009-02-06 16:21:09 | 幼年・少年時代の想いで
私が中学2年生の時、昭和34年(1959年)であったから、
ひと昔のことである。

私は東京郊外の調布市に住んでいたが、
数年前頃から、私の住む地域に於いては、
田畑、雑木林から急速に新興住宅街に変貌した。
そして最寄の駅の商店街も発展をし、クリーニング店もでき、
おのおの家に巡回し、洗濯物の収集、仕上がり品の配達がされた時代のはじまりであった。

こうした中、若きクリーニング店の経営者が、店員さんを数名を配置しながら、
我家にたびたび我家にも来宅し、
親交を深めたのである・・。

次兄が高校一年で山岳部に所属し、山歩きをはじめた頃であった。
そして、クリーニング屋の若き経営者が次兄と、
山のあれこれを話していた時、富士山の話題になった。

そして、このお方は御殿場の高校に通っていた時代に、
ボッカと称した荷上げてのアルバイトをして、
いくども夏季の折、御殿場の新2合目より山頂まで登り下りをしていた、
と話されたのである。

そして、夏季の時だったならば、体験豊かな人に先導されれば、
登山の未経験の私でも大丈夫、と談笑されたので、
このお方に甘えた上、そして導かれながら、次兄、私が富士山に登頂することとなった。


http://gotemba.jp/fuji/gotemba.html

この当時の昭和34年(1959年)頃は、御殿場口、須走口からの登山口は、
私の記憶に間違いがなければ、夏季の登山シーズンに限り、
御殿場駅から新2合目まで路線バスがあった。

そして、登りは須走コース、下りは御殿場コースと決め、
このお方に導かれて、次兄と私は歩き出したのである。

おぼろげな記憶をたどれば、
確か夜の6時過ぎに須走口の新2合目から登りはじめて、
山頂の早朝時を目指したのである。

私は山歩きは未経験者であったので、ひたすら付いて歩いているうちに、
無事に山頂にたどり付いたのである。
ご来光の時には少し過ぎていたが、快晴に恵まれ、
寒いくらい涼しかったのが心の奥に残っている。

そして、次兄が気分がすぐれない、と云ったりしたので、
このお方から、高山病、と云われて、少し安静したのである。

私は山岳部に所属してる次兄が高山病になり、
素人の私が何ともなく山頂に登りつめた達成感であふれ、
次兄の顔を見ながら、微苦笑したのである。
しかし、私の全くの未経験者の上、無意識で無邪気に登りつめた結果、
と思われたのである。

この後、次兄と私は、互いに記念写真を撮ったりし、
気分爽快で山頂の周辺を散策した。


下山の時、御殿場コースを下りはじめた時、
私としては、急斜面で砂粒の厚く積もった砂走りと称された下山道で、
不安であったが、10分ぐらいすると、五歩、六歩進めて、
足元でくい止める方法で馴れた感じであった。

その後、9合目を下って、まもない時、
私は五歩、六歩進めて、足元でくい止めるようとしたが、
足元が砂で滑り、止まらなかったしまった・・。

私は急斜面を走るかのように下りはじめ、
足元を踏ん張ろうとしたが駄目であったので、
横にコースを取れば、斜面は並行となり下ることはないので、
咄嗟(とっさ)に横に方向したが、下山道から外れて、
砂粒から爆発時の岩の痕跡となった黒い岩の大小が数々観られたのである。

こうして私は斜面の横を自身の意思とは相違し、踏ん張って止めようとしたが、
一向に止まらず、失速し、私はあわてふためいたのである・・。

そして、動顚したせいか、何故か下りに進路を変えたのである。
足速は益々早くなり、失速しながら下った時、
死ぬこととは、こうしたことなのか、
とスローモーションのように実感しながら下ったのである・・。

まもなく、私は大きな黒い岩につまずいて、
背負い投げを受けたかのように地表に叩きつけられたのである。
そして、横に転がりはじめ、わずかな草の群生したひと株を私は握り締めたのである。

そして、上の方から、このお方と次兄が、
大丈夫か、という叫び声を私は聴こえたのである・・。

私は呆然としながら、ノロノロと起き上がると、
何故か6畳ぐらいの平地で草がわずかに生えていたのである。
そして下る方向の数メートル先は、切り落とされたかのような崖となり、
遙か彼方の下界となっていた。

そして私は自分の手足、身体をおそるおそる触れ、
軍手を外し、手は砂粒と黒い岩でわずかに切り、バスケット・シューズは所々擦り切れ、
おでこに少しかすり傷ぐらいであった。


この後の私は、このお方と次兄に守られるように下山し、
このお方の知人が8合目で山小屋を経営しているので、
少し休息しょうと、この山小屋に寄ったのである。

私達3人は、お茶を頂ただいたのであるが、
『先ほど・・上の方で・・もんどりひっくり返って転げたひとりを見たが・・
ありやぁ・・死んだよ』
と山小屋の主人は、このお方に云ったりしていた。

『あのぅ・・叩きつけられて・・転んだのは・・僕です・・』
と私は元気のないかぼそい声で云った。

『君だったのかぁ・・よく助かったょ・・
岩に足を取られて・・もんどり返った時・・
偶然に俺は見ていたが・・あれで死んだと思ったょ・・
まして、その先は、千メートルぐらいの崖下となっているし・・』
と私は山小屋の主人に教えられて、
私は改めて恐怖で少し震えたのである・・。

帰路、電車の空いた中、
『XXちゃんが・・転げ落ちた時・・
俺・・アンタのお母さんに・・何てお詫びしょうか・・と思ったよ・・』
とこのお方は初めて安堵した表情で、私に云った。


私は後年、大学時代に中退するまで、
ワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きをしたりしたが、
急激な下り道は、この富士山の恐怖の体験したせいか、
いつまでも苦手となった。


尚、このお方とは、私達が住む場所も住宅の密集地となり、
50年過ぎた今、商域もかけ離れているが、
私が家内と駅前に出かけた時などで、
偶然にお逢いした時、私は懐かしげに私は感謝の心で挨拶をしている。




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