私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、7時半過ぎに風呂から上がると、家内はNHKの『クローズアップ現代』を視聴していて、
イスラエルのことをテーマにしていたので、私も視たりした。
この番組の終了後に、家内は入浴したので、
私は夕刊を読みだしていたら、何かテレビから千昌夫さんの『星影のワルツ』の唄声が聴こえだした・・。
私は思わずテレビの画面をぼんやりと見つめたりした。
まもなく『歌謡コンサート』の番組に於いて、作曲家の遠藤 実さんが亡くなわれて3年が過ぎ、
遺された名曲をそれぞれの歌手が唄う、と私は解った。
そして、私は齢を重ねた千昌夫さんの『星影のワルツ』を熱唱するのを視聴した後、
この歌が盛んに街に流れいた頃を想いだされた・・。
私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画の脚本家になりたくて映画青年の真似事をした。
まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。
この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。
この中の60歳前後で新劇の著名な方で、映画にときおり準主役に出演される方から、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。
確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私は絶ったのである。
そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。
この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街に観られる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。
私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。
そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店していた。
私が朝の9時に警備室に入室し、相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。
私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。
こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。
私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したりしていた。
学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。
こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。
店舗のひとつのレコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていた。
この当時は、私の住む街の商店街からも、この歌が盛んに流され、
私も徹夜の勤務から解放され、帰宅する途中などで、聴いたりしていた。
そしてこの当時は黛 シュンの『天使の誘惑』、伊藤ゆかりの『恋のしずく』なども流れたりし、
華やかと思われる歌謡曲の世界と違い、悪戦苦闘したいる自分には、
遥かに遠い世界と感じたりしていた。
そしてこのレコード屋から、私が勤めて半年過ぎた頃、
閉店まぎわになるとなぜかしら『テネシー・ワルツ』が流れているのに、
気付いたのである。
10数年前の小学生だった私がラジオから盛んに流れていたパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を、
今頃に、どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。
このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。
この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。
閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていた。
この間、私はこのビルの上階にある名の知れた大手の民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待された。
結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などで契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、やがて私達はきまづくなり、そして私は失恋した。
このような状況の時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと言われたのである。
私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えた・・。
やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、この当時は音響・映像メーカーのある大企業に中途入社ができたのである。
この後、私の勤めていた会社から外資のレコード会社が新設され、
私も転属させられて2年が過ぎた頃、
私は本社の六本木で情報畑の専任者として奮闘しながら勤務していた。
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人が、
たまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていた。
私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべた・・。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気言って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で、私は言われたのである。
私はこうしたからも人生の激励を受けたりし、
何とか社会人のひとりなり正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取りだし喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。
私は35年近く勤めたあるレコード会社を2004(平成16)年の秋に定年退職し、
そして年金生活を始め、ときおり千昌夫さんの『星影のワルツ』、
或いはパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
この悪戦苦闘し先の見えない文学青年の真似事をしていた時や、
このレコード店の女性の表情が浮かぶのである。
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昨夜、7時半過ぎに風呂から上がると、家内はNHKの『クローズアップ現代』を視聴していて、
イスラエルのことをテーマにしていたので、私も視たりした。
この番組の終了後に、家内は入浴したので、
私は夕刊を読みだしていたら、何かテレビから千昌夫さんの『星影のワルツ』の唄声が聴こえだした・・。
私は思わずテレビの画面をぼんやりと見つめたりした。
まもなく『歌謡コンサート』の番組に於いて、作曲家の遠藤 実さんが亡くなわれて3年が過ぎ、
遺された名曲をそれぞれの歌手が唄う、と私は解った。
そして、私は齢を重ねた千昌夫さんの『星影のワルツ』を熱唱するのを視聴した後、
この歌が盛んに街に流れいた頃を想いだされた・・。
私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画の脚本家になりたくて映画青年の真似事をした。
まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。
この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。
この中の60歳前後で新劇の著名な方で、映画にときおり準主役に出演される方から、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。
確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私は絶ったのである。
そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。
この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街に観られる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。
私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。
そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店していた。
私が朝の9時に警備室に入室し、相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。
私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。
こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。
私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したりしていた。
学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。
こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。
店舗のひとつのレコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていた。
この当時は、私の住む街の商店街からも、この歌が盛んに流され、
私も徹夜の勤務から解放され、帰宅する途中などで、聴いたりしていた。
そしてこの当時は黛 シュンの『天使の誘惑』、伊藤ゆかりの『恋のしずく』なども流れたりし、
華やかと思われる歌謡曲の世界と違い、悪戦苦闘したいる自分には、
遥かに遠い世界と感じたりしていた。
そしてこのレコード屋から、私が勤めて半年過ぎた頃、
閉店まぎわになるとなぜかしら『テネシー・ワルツ』が流れているのに、
気付いたのである。
10数年前の小学生だった私がラジオから盛んに流れていたパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を、
今頃に、どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。
このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。
この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。
閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていた。
この間、私はこのビルの上階にある名の知れた大手の民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待された。
結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などで契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、やがて私達はきまづくなり、そして私は失恋した。
このような状況の時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと言われたのである。
私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えた・・。
やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、この当時は音響・映像メーカーのある大企業に中途入社ができたのである。
この後、私の勤めていた会社から外資のレコード会社が新設され、
私も転属させられて2年が過ぎた頃、
私は本社の六本木で情報畑の専任者として奮闘しながら勤務していた。
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人が、
たまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていた。
私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべた・・。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気言って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で、私は言われたのである。
私はこうしたからも人生の激励を受けたりし、
何とか社会人のひとりなり正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取りだし喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。
私は35年近く勤めたあるレコード会社を2004(平成16)年の秋に定年退職し、
そして年金生活を始め、ときおり千昌夫さんの『星影のワルツ』、
或いはパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
この悪戦苦闘し先の見えない文学青年の真似事をしていた時や、
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