夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

千昌夫の『星影のワルツ』の歌が街に流れていた頃、その当時の私は文学青年の真似事していて・・。

2011-12-07 10:49:32 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、7時半過ぎに風呂から上がると、家内はNHKの『クローズアップ現代』を視聴していて、
イスラエルのことをテーマにしていたので、私も視たりした。

この番組の終了後に、家内は入浴したので、
私は夕刊を読みだしていたら、何かテレビから千昌夫さんの『星影のワルツ』の唄声が聴こえだした・・。
私は思わずテレビの画面をぼんやりと見つめたりした。

まもなく『歌謡コンサート』の番組に於いて、作曲家の遠藤 実さんが亡くなわれて3年が過ぎ、
遺された名曲をそれぞれの歌手が唄う、と私は解った。

そして、私は齢を重ねた千昌夫さんの『星影のワルツ』を熱唱するのを視聴した後、
この歌が盛んに街に流れいた頃を想いだされた・・。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画の脚本家になりたくて映画青年の真似事をした。

まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。

この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。

この中の60歳前後で新劇の著名な方で、映画にときおり準主役に出演される方から、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。

確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私は絶ったのである。


そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街に観られる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。

私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店していた。

私が朝の9時に警備室に入室し、相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したりしていた。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。

店舗のひとつのレコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていた。
この当時は、私の住む街の商店街からも、この歌が盛んに流され、
私も徹夜の勤務から解放され、帰宅する途中などで、聴いたりしていた。
そしてこの当時は黛 シュンの『天使の誘惑』、伊藤ゆかりの『恋のしずく』なども流れたりし、
華やかと思われる歌謡曲の世界と違い、悪戦苦闘したいる自分には、
遥かに遠い世界と感じたりしていた。

そしてこのレコード屋から、私が勤めて半年過ぎた頃、
閉店まぎわになるとなぜかしら『テネシー・ワルツ』が流れているのに、
気付いたのである。

10数年前の小学生だった私がラジオから盛んに流れていたパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を、
今頃に、どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。


このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。

この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。

閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていた。


この間、私はこのビルの上階にある名の知れた大手の民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待された。

結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などで契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、やがて私達はきまづくなり、そして私は失恋した。


このような状況の時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと言われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えた・・。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、この当時は音響・映像メーカーのある大企業に中途入社ができたのである。

この後、私の勤めていた会社から外資のレコード会社が新設され、
私も転属させられて2年が過ぎた頃、
私は本社の六本木で情報畑の専任者として奮闘しながら勤務していた。
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人が、
たまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていた。

私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべた・・。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気言って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で、私は言われたのである。

私はこうしたからも人生の激励を受けたりし、
何とか社会人のひとりなり正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取りだし喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。


私は35年近く勤めたあるレコード会社を2004(平成16)年の秋に定年退職し、
そして年金生活を始め、ときおり千昌夫さんの『星影のワルツ』、
或いはパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
この悪戦苦闘し先の見えない文学青年の真似事をしていた時や、
このレコード店の女性の表情が浮かぶのである。


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パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』、私の若き彷徨期に於いて、思いでのひとつの歌・・。

2011-11-05 21:22:53 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昼下がりのひととき、ラジオからパティ・ペイジの唄歌が聴こえ、『テネシー・ワルツ』の歌だと気付いた・・。

そして、しばらくすると、私の若き日々の頃が想いだされた・・。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画・文学青年の真似事をした。

まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。

この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。

この中の60歳前後で新劇の著名な方で、映画にときおり準主役に出演される方から、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。

確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私は絶ったのである。


そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街に観られる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。

私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店していた。

私が朝の9時に警備室に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。

こうした間、私が勤めて半年過ぎた頃、閉店まぎわに『テネシー・ワルツ』が流れてきたのに、
気付いたのである。
レコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていたが、
10数年前の小学生だった私がラジオから盛んに流れていた『テネシー・ワルツ』を、
今頃に、どうしてなの、と私は不思議に思ったりしたのである。


このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。

この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。

閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていたのである。


この間、私はこのビルの上階にある名の知れた大手の民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待されたのである。

結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などで契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、そして私達はきまづくなり、私は失恋したのである。


このような状況の時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、ある大企業に中途入社ができたのである。

この後、2年後にあるレコード会社の本社で情報畑に勤務し、
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人が、
たまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていたのである。

私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべたのである。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気言って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で、私は言われたのである。

私はこうした人生の激励を受けたりし、何とか社会人のひとりなり正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取りだし喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。


こうして私は綴っているが、パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
今だに私はこの人の表情が浮かぶのである。


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『成人の日』、つたない私が遠い昔、二十歳を迎えた前後の頃を思い馳せれば・・。

2011-01-10 09:24:32 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、カレンダーを見て、『成人の日』と朱記されていたので、微苦笑したりした。

私の心の片隅には、『成人の日』は15日、と残ったりしたので、
2000(平成12)年に制定されたハッピーマンデー法に基づき1月の第2月曜日に改正されました、
と何かの本で読んだりしたことがあったが、不謹慎ながら実感性がなく、戸惑ったりしている。

この後、私は20歳の頃は、と想いめぐらしたりした・・。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は長兄、次兄の兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび独りで通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、映画評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。

この様に漠然と夢に向って過ごしたのが、私の20歳過ぎの姿であった。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。

指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが、一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。


この間、学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。

この当時のコンピューターは、汎用の大型機でも、処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。


そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。

そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


このように私の高校時代から、25歳までの民間会社に中途入社の頃まで綴ったりしたが、
私の『成人の日』の当日は、と思い馳せたりした・・。

私は映画に無我夢中に夢を見ていた時期であったので、
調布市の式典などは眼中になく、無視していた。
その日の夕食後の夜の9時過ぎ、長兄、次兄と三人で、ウィスキーの水割りか日本酒を呑みながら、
祝い鯛を食べながら、談笑した、おぼろげな記憶しか残っていないのである。


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私なりの『テネシー・ワルツ』の想いで・・。

2009-11-12 18:04:30 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昼下がりのひととき、ラジオからパティ・ペイジの唄歌が聴こえ、『テネシー・ワルツ』の歌だと気付いた・・。

そして、しばらくすると、私の若き日々の頃が想いだされた・・。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画・文学青年の真似事をした。

まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。

この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。

この中の60歳前後で映画にときおり準主役に出演される方に、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。

確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私はたったのである。


そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街にみられる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。

私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開業し、
夜の8時に閉店していた。

私が朝の9時に警備室に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。

こうした間、私が勤めて半年過ぎた頃、閉店まぎわに『テネシー・ワルツ』が流れてきたのに、
気付いたのである。
レコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりしたのである。


このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。

この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。

閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていたのである。


この間、私はこのビルの上階にある名の知れた民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待されたのである。

結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などと契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、そして私達はきまづくなり、私は失恋したのである。


このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、ある大企業に中途入社ができたのである。

この後、2年後にあるレコード会社の本社で情報畑に勤務し、
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人がたまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていたのである。

私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべたのである。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気云って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で私は云われたのである。

私はこうした人生の激励を受けたりし、何とか社会人のひとりで、正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取り出し喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。


こうして私は綴っているが、パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
今だに私はこの人の表情が浮かぶのである。


http://www.youtube.com/watch?v=ihgz46tAY6E
 ☆ パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』 ☆




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我が人生、ほろ苦(にが)く切ない青年時代は・・。

2009-10-30 19:25:57 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昼下がりのひととき、庭のテラスに下り立ち、ほんやりと私の青年時代の頃が思い出されたのである・・。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたのである。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたのである。


このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=hzNZzMGeRQs
☆【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】☆






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恥ずかしながら、『本日の主役は、僕なのですが・・』・・。

2009-08-16 21:26:51 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
私が結婚したのは、昭和51年の春だった・・。

結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。

私はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けた少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。

『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・
黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。


結婚式の当日の朝、式場の着付け室で私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性が着付けをはじめてくれた。

私の父は小学生の2年の時に死去されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。

長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄様・・良いお召し物で・・
やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性の方は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
兄は旧家であったので、日頃から着慣れて折、高価な紋付の羽織と袴を持っていたのである。

私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。

しばらくすると、兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、
私の方は誰もいなくなった。

『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性達に聴こえる程度の小声で私は言った。

『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。

『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・
でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が言った。

私はこの頃は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。

その後、私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。

着付けが終わると、私を鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。

私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)めたおされていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は兄に大きな声で言った。

この後、結婚式を終えた後、私と家内は、新郎新婦の記念写真を撮るのであるが、
茶事を習っている家内は華やかな和服を召し、落ち着いた表情を湛えていたが、
私の羽織、袴、そして扇子を持った容姿は、うつろなまなざしの表情で撮られていた。



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真夜中に目覚めれば・・♪    《初出2007.6.14.》

2008-05-14 12:37:58 | 青年時代の想いで
昨夜、12時に布団にもぐり文庫本を数ページ読んだ後、眠ったが、
3時前後に目覚めてしまった・・。

昨日の朝から昼下りまで、夏のような陽射しの中を歩いたりしたので、
遅い昼食の時にビールを呑みながら、軽食とした。

この後、和室で夏掛けの布団を掛け、横たわり文庫本を読んでいたりして、
1時間ばかり寝付いてしまった。

こうしたふしだらな生活帯のために、
深夜は浅い眠りとなって、目覚めたのかしら、
とぼんやりとした脳裏で思ったりした。


夢の中で、私の30代の頃が出てきた。
会社の業務、私的な私達夫婦ことや周辺に取り巻くことが山積してきたが、
何んとか乗り越えて40歳を迎えたのだが、
現実と余り変らないのである。

ただ、夢の場合は、思いがけない時間の差があり、
40代に初めて逢う人が30代のある時に逢うので、
どうしてかしら、と戸惑ったりしているのである。


夢と現(うつつ)を思い出し、ぼんやりと振り返ったりしていると、
外が白っぽくなり、早朝となったので、
寝室に戻ったりしている。

朝、目覚めると8時を過ぎて折、
曇り空でときおり薄日が射しこんでいる。





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ときには、学友と語り合えば・・♪    《初出2007.1.17.》

2008-05-08 13:24:58 | 青年時代の想いで
昨夜、高校時代に知り合った学友と懇親のひとときを持った。

お互いの住まいの中間地点で会おうと、ひさびさに吉祥寺の街に行った。

私達は高校時代に隣り合わせの席に座っていたが、
最初はお互いに会話すらしなかった。
高校3年の夏、私は旅行日程を授業中にメモたりしている。

彼が私が書いている旅行メモを覗(のぞ)き込んで、
『そこに行くんだったら・・XXに寄ったら・・』
と彼は言った。

この会話が始まりとなり、私達は交友を深め、
お互いの家に泊まりあったりする仲となった。

卒業後、彼は父が経営している自営業を手伝い、
私は大学に通い始めた。

その後は彼が結婚した時に披露宴に出たりしたが、ときたま会う程度となり、
私が25歳の時、ある企業に中途入社し、お互いに多忙の身となったりした。

私が実家の近くに家を構えた時、彼が新築祝いで来宅してくれた。

この後は、1年に1回ぐらい電話をする程度となり、
昨夜は30年ぶりの再会となった。


夕方の6時に会い、ビール、日本酒を呑みながら食事をしたが、
つもり積もった思いで、話が途切れることがなかった。
10時過ぎになると、明日に控えるから、と打ち切った。

四季の折々に会おう、と駅で別れた。


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私が本を読みはじめた頃・・♪   《初出2006.12.4.》

2008-05-06 13:43:20 | 青年時代の想いで
私は昭和19年に農家の子として生を受けた。
男の子ばかり続けて生まれた三男坊であった。

子供心に何となく期待されていないように思い込み、
いじけた可愛げのない幼年期であった。

この頃は、祖父と父が農業をして折、程々に手広く田畑を耕していた。
小作人、農業の学生研修生も受け入れて、旧家の面目は保っていた。

私が小学校に入学した頃は、子供の視線から見れば『家の光』程度しか、
見当たらなかった。

長兄、次兄は学校の成績も良く、私はクラスの中程の劣等性だった。
中学校は次兄と同じであったが、
『お兄さんはできるのに・・』といった雰囲気を感じて、
私は次兄の影のように成っていた。

長兄、次兄は国立の高校で学んでいたが、私は私立の都心の高校に通った。
東京の郊外の小学校、中学校だったので、
都心で育った学友から、あらゆる面から刺激を受けた。
そして、兄達の影響のない高校生となり、何かしら開放感のように過ごした。
その中の一面として、遅ればせながら、本を読みはじめ、
活字を通して想像力の要求される世界に魅了された・・。

武者小路実篤を読み始め、明治時代からの日本の小説にのめり込んで、
特に井上 靖の小説が好きになったりした。

夏休みのひととき、小説の真似事みたいなものを綴り、
学友に読んで貰ったりした。

この後、本格的に映画青年、文学青年の真似事をする期間を送った時期もある。

定年退職後の今、私の日常生活の友として、
小説、随筆、歴史書、現代史を読んでいるが、
人生、あるとき何かのきっかけで本を読みはじめたのか、ときたま振りかえると、
高校の学友達の顔、文庫本の十数冊が浮かんできて、
私は苦笑している。


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遠くからビアノの音が聴こえて・・♪   《初出2006.9.19.》

2008-05-04 14:57:11 | 青年時代の想いで
東京の郊外は、午後3時過ぎに雨があがり、
薄日の射す中、樹木の枝葉から枝へと微風が流れている。

居間に戻ると、近所のお宅からピアノの音色が聴こえてきた・・。

女の子の弾くバイエルの何番かしらと思っていた時、
東京オリンピックの少し前頃が蘇(よみがえ)ってきた・・。

あの頃は大学生の身であり、今もあるが程遠くない所に音楽専門学校がある。

近所の家では、親戚の娘と云われた方が、下宿していた。

バイオリンの音色が、ある一定時刻に聴こえてきた。
練習をされているらしく、今日はスムーズに聴こえている、
と感じたりしていた。

まもなく卒業したらしく、音色が途絶えた・・。

数年後、新聞で有数なバイオリニストになった、と綴られていた。


このころ実家の最寄には、音楽家の夫婦が引っ越しされてきた。

ご主人は日本の交響楽団でオーボエを担当され、
奥様はピアニストと風の噂で聞こえてきた。

日中からピアノの音色が聴こえ、
私なりにそのピアノ独奏曲を覚えてしまった。
私が10数曲覚えた頃、海外に行かれたと後日、聞いたりした。

私が23歳になると、このお方は国内の有数なホールでピアノ独奏会を開催するまでになった。

数年後、レコード会社でレコードを3枚録音し、
ご主人と離婚され、小高い丘陵に一軒屋を構えて、生活されている。

私はこのピアニストが著名になる前、
ピアノの練習で聴こえてきた音色を懐かしく想いだしている。

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時は、流れて・・♪   《初出2006.6.19.》

2008-05-01 20:34:53 | 青年時代の想いで
今、昨夜に観た【N響アワー『泣いた・笑った・心の糧はクラシック・有馬稲子』】の
番組を録画しているのを、
再び観ていて、少し考えさせられた。

昨夜、日本の多くはサッカーに熱中している人が多いと思われるが、
私は屈折した心の人かしら、と思ったりした。


東京オリンピックの時は、大学の中退を決意した頃で、
映画青年の真似事に没頭していた時期であった。
京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていた。

通い続けて観た帰りのある時、
渋谷駅に乗り換えた時、
街中から『日本女子のバレーボール、金メダル・・』
と聴こえてきた。

私は決してスポーツは嫌いでなく、
その時節、自分が思考した行動に沿(そ)った心で決意したまてであった。

あの頃の熱狂した自分を振り返ると、
懐かしいようで少し苦く、時の流れは余りにも早いと感じている。


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ときには、文学を想う時・・♪   《初出2006.6.7.》

2008-04-30 19:18:15 | 青年時代の想いで
先程、お風呂から上がり、庭に下り立ち、
夜風に吹かれながら、煙草を喫ったりしていた。

日中、読んでいる水上 勉、瀬戸内寂聴の両氏による対談集を主体とした
『文章修行』を思い返していた・・。

私は大学中退をし、映画青年、文学青年気取りの生活をし、
挫折した後、企業に身を投じて、サラリーマンを35年間をした後、定年退職となった。

あの頃、熱狂した自分を振り返り、懐かしくも苦い思いの日々である。

今回、1冊の本を読み耽(ふけ)っていると、周りの時間が忘れ、
文学の深さを思考したりしている。



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『春一番』に吹かれて・・♪   《初出2006.3.6.》

2008-04-27 21:52:18 | 青年時代の想いで
先程、テレビのニュースで、
関東地方は『春一番』が吹いて、
昨年より11日遅かった、と報じていた。

東京の郊外も昼前、私が花壇の手入れをしている時、
風がときより強く吹いて、洗濯物があおられていた・・。

立春から春分までに吹く南寄り風、と春一番と伝えられている。

私は風に吹かれて、煙草を喫いながら、
遠い日のことを想い出した。


高校3年の時、新宿御苑で同級生とデートした時、
この女の子は白のブラウスと薄いピンクのカーデガンであった。
そして白のプリーツ・スカートを穿いてきた。

ベンチに腰掛けて、話し合ったいる時、
風が強く吹き付けて、スカートが少しめくれて、
『あらぁ・・』
と女の子は言った。

私は思わず、手で押さえたスカートに目にいった。

膝頭から少し上が見えて、目のやり場に困った。

このような想い出が甦ってきた・・。

私の若き日の想い出のひとつである。


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自在の時の流れ・・♪   《初出2006.2.8.》

2008-04-27 11:23:13 | 青年時代の想いで
先程、庭先の陽射しのあたる所で、
樹木を眺めながら煙草を喫っていた・・。

こうして時の許す限り、静寂な時を過ごしている。

現役時代は、時間は勝負、と思っていた。
ある程度の年収を得れば、責務と権限が伴うので、
定例業務は素早く終わらせ、改善策を色々と思考していた。

当然、与えられる業務量は多いので、睡眠時間を削り、
ときには徹夜にいとわないで、勤務してきた。

どなたでも同じと思うが、会社の駒のひとつ、
と空(むな)しいと感じた事もあったが、
自分の敵は自分だ、という思いで、長年勤務してきた。

こうして定年退職の数年前から、
退職後は自分の好きな事で、時を過ごしたい、と切実に思ったわけである。

退職直後、川沿いの遊歩道を散策していた時、
こんなにのんびり時間を過ごして良いのだろうか、と思ったりした。


私は大学を中退し、脚本家の養成所に入り、文章の力に寄る職業を目指していた。
アルバイトはもっぱら先生方に付き、
取材し、下書きなどをしたりした。

こうした折、親戚の叔父より、
『所帯を持つ時、きちんとやっていけるのか・・』
とお彼岸の時などに言われたりした。

私が30歳前後に家庭を持った時、
果たして根拠のない自身ばかりで生活できるだけの力があるのか、
と自分の文才を疑ったりした。

こうして自分に妥協して、程々の企業に入社する為に、
コンピューターの専門学校に通った後、
中途入社をし、企業の一員となったのは25歳だった。

入社前は休日の時に、小説を綴り、蓄積すれば、
という思いがあった。

日本の企業は、甘くなく、徹底的に教育された。
休日の時は、本を読むのが精一杯で、
疲れ切って、とても小説を綴る、精神的な余裕が無くなった・・。

こうして35年の企業の一員の生活は終えたが、
自分の好きな文章を綴ることに時間を当てたいと思った訳である。

幸い、あるブログサイトを代用に日々綴っているが、
感性は衰えてないつもりあるが、歳月を重ねているので、
体力の衰えは自覚している。

唯、長い期間に於いて、創作をしていない上、
体力の無い自分は、短い随筆で誤魔化している。

居間の隅にある楽焼の皿があるが、
入社一年過ぎた頃、
旅行先でいたずらに書き込んで皿である。

われ青春の甦りを待ち望む

と書かれている。


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成人の日の想いで・・♪   《初出2006.1.9.》

2008-04-26 12:06:17 | 青年時代の想いで
本日は『成人の日』とカレンダーを見て確認したが、
私の心には成人の日は15日と残影が強いので、戸惑ったりしている。

私は61歳の身であるが、
私の20歳の頃は何をしていたのだろうか、と想いめぐらした・・。


大学を2年で中退し、芸能学校のシナリオ科に行き、
シナリオ・ライターの夢を目指していた頃だった。

この学校は演技科が併用されていたので、
学校からの斡旋でアメリカ・テレビドラマ用を制作していたので、
アルバイトで出演させて貰ったりした。

確か、少年と熊、そして炭鉱夫のドラマだった、と記憶している。
私は炭鉱夫の役を貰い、炭鉱内で崩落に遭うシーンを演じていたりした。

日本のある映画会社の撮影所に3日ほど通ったが、
撮影後は入浴させて貰い、報酬は破格な待遇を頂いた。

ある時は、アメリカのテレビドラマで
日本で放映している日本語の吹き替えも
テストに出たが、これは難しく辞退した。

この様にシナリオ科の専攻の生徒の私でも、
演技科の生徒と共に、英会話、日本舞踊・・等を学習させられ、
何で・・と思いながらも学んだりした。

肝心なシナリオは、同期の3人で共同作業をしたが、
余り誉められたことがなかった。
1年過ぎて、養成期間は終わり、同期はそれぞれの分野に散った。

私はこの中の講師のひとりに付き、
この講師が契約している月刊誌の下書きを1年ばかりした。
テーマを与えられ、取材し、下書きをして、
この講師が加筆・削除し、出版社に提出され、
この講師からある程度の額を頂いたり、
新劇のメンバーの紹介を受けたりした。

この様に漠然と夢に向って過ごしたのが、私の20歳過ぎの姿であった。


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