私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市(当時は北多摩郡神代村)の片隅の地域で、
1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けた。
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は小学生から映画をこよなく愛して少年だった影響で、映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
そして養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。
そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
この後、コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、
1970年(昭和45年)4月、ある民間会社の大手に何とか中途入社し、
まもなく創立された外資系のレコードに移籍させられた。
そして音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、
出向となり、つたない私なりに失墜感にさいなまわれ、
まもなく自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。
このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多い中で、
敗残者のような状況だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた。
私は調布市の片隅に住み、生家も近く結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。
そして住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私より5歳若い家内と共に過ごしている。
こうした中で私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。
こうした影響の為か、私は何かとおしゃべりなので、家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。
そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。
そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
2004年(平成16年)の秋に定年退職後、年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。
そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
そして私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
平素の殆どは、日常の買物専任者の私は、家内から依頼された買物を終えた後、
その後も独りで自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園、都立の公園、
或いは小学、中学時代の通学路などを歩き廻り、季節のうつろいを享受している。
こうした中で、何かとおしゃべりな私は未知の人な話しかけて、立ち話しをしたり、
或いは知人の人と、20数年ぶりに出会い、お互いに談笑したりしている。
日常の大半は、何かと随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
こうした時、ある本屋で魅了されそうな本を探し求めいる中、店内からクラシック珠玉曲が流れたりすると、
良きひととつに甘受してしまい、幸福感につつまれたりしてきた。
或いは月に数回は、寝不足と感じた時、昼下がりに布団を敷いて、
本を持ち込んで布団にもぐってしまうこともある。
そして布団の中、好きな本を読み始めて、ぬくもりの中、本を読みながら、やがて寝付いてしまうことがある。
こうした時、現役サラリーマン時代の時は、何かと睡眠不足で奮闘してきた私は、
いつでも昼寝ができることは年金生活の特権である、と心の中で呟(つぶや)きながら、享受する時もある。
私たち夫婦の共通の趣味のひとつは国内旅行で、日本の各地を遊学し、
観光ホテルなどに宿泊滞在して、周辺をひたすら歩きまわることが多い。
或いは少し離れた時は、やむなく公共交通機関の路線バス、電車を利用することが多い。
そして私は、その地域にお住いの未知と方と談笑したりしている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
このように60代に年金生活を過ごしてきた私は、
長き人生に於いては60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
そして年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』と深めて、
私たち夫婦はささやかな願いを叶えたりしてきた・・。
もとより健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、私たち夫婦は幸いに大病せずに、
今日に至っている。
世の中の多くの人たちは70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。
しかしながら一部の75歳前後の方たちは、心身溌剌とし、私は勇気づけられたりしてきた。
そして私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。
そして何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いているのが、70歳に一か月ばかり過ぎた私でもある。
そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。
私の昨今の心情として、60代のささやかな成功体験を秘めながら、
確かに60代の初めより体力の衰えを実感しているが、
70代も『生きがい』を持ち続け、しなやかに生活を過ごせば、
60代と同じような安楽な生活が過ごせる、と漠然と思いながら微笑んだりする時もある。
本日の午後のひととき、ビジネス総合誌として名高い雑誌『プレジデント』のネットに配信された記事を読んでいる中、
『幸せとは気付くことである』と題された見出しを見て、クリックした。
そして脳科学者の茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが、『世界一の発想法』の連載の寄稿文と知りながら、
読み始めたりしたが、つたない私でも、瞬時には共感を深めてしまった・・。
http://president.jp/articles/-/13914
☆【PRESIDENT Online】
<==茂木健一郎・著作の『世界一の発想法』==>『幸せとは気付くことである』
この記事の中核の大半を無断ながら転載させて頂く。
《・・(略)・・幸せとは、「気付く」ことであると、さまざまな研究結果が示している。
自分の人生の中の、ごくあたりまえの恵みに目覚めることが、汲めども尽きぬ幸せの泉となるのだ。
ある程度の経済的裏付けは、もちろん必要である。しかし、お金さえあれば、幸せになるというわけではない。
・・(略)・・「隣の芝は青く見える」という。
他人を羨ましく思うことが、明日への活力につながることもあるし、国全体としての経済成長を促すこともあるだろう。
しかし、それがいきすぎると、こだわりや執着を生む。
何よりも日々の生活が、「いつか幸せ」になるためのプロセス、手段になってしまう。
本当は、今日という日は、二度と帰ってこない。
だからこそ、日々の足元を見直すことが、幸せにつながる。
つまり幸せとは、一つの「発見」であり、「認知」なのだ。
そのことを表しているのが、メーテルリンクの「幸せの青い鳥」の寓話だろう。
幸せを求めてさまざまな場所を旅し、家に戻ってくると、幸せの青い鳥は、実は最初から自分たちの家にいたのだった。
この寓話が意味するところは、幸せの条件は、すでに足元にあることが多い、ということであるが、
もう一つ、大切なポイントがある。
それは、他人の人生、別の生き方を知ることが、自分自身の幸せを見直すきっかけになるということ。
幸せの青い鳥は、最初から家にいたのかもしれない。
しかし、家に閉じこもっていたままでは、その意味に気付くことはできなかっただろう。
さまざまな場所を旅して、いろいろな人と話すことは、だから、決してムダにはならない。
外国を旅した人が、日本の良さに目覚めるように、他者との出会いがあって初めて、
身近にある幸せの泉に気付くことができるのだ。・・(略)・・》
やがて読み終わった後、確かにそうですよねぇ、と私は微苦笑を重ねたりした。
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1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けた。
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は小学生から映画をこよなく愛して少年だった影響で、映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
そして養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。
そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
この後、コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、
1970年(昭和45年)4月、ある民間会社の大手に何とか中途入社し、
まもなく創立された外資系のレコードに移籍させられた。
そして音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、
出向となり、つたない私なりに失墜感にさいなまわれ、
まもなく自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。
このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多い中で、
敗残者のような状況だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた。
私は調布市の片隅に住み、生家も近く結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。
そして住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私より5歳若い家内と共に過ごしている。
こうした中で私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。
こうした影響の為か、私は何かとおしゃべりなので、家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。
そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。
そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
2004年(平成16年)の秋に定年退職後、年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。
そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
そして私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
平素の殆どは、日常の買物専任者の私は、家内から依頼された買物を終えた後、
その後も独りで自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園、都立の公園、
或いは小学、中学時代の通学路などを歩き廻り、季節のうつろいを享受している。
こうした中で、何かとおしゃべりな私は未知の人な話しかけて、立ち話しをしたり、
或いは知人の人と、20数年ぶりに出会い、お互いに談笑したりしている。
日常の大半は、何かと随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
こうした時、ある本屋で魅了されそうな本を探し求めいる中、店内からクラシック珠玉曲が流れたりすると、
良きひととつに甘受してしまい、幸福感につつまれたりしてきた。
或いは月に数回は、寝不足と感じた時、昼下がりに布団を敷いて、
本を持ち込んで布団にもぐってしまうこともある。
そして布団の中、好きな本を読み始めて、ぬくもりの中、本を読みながら、やがて寝付いてしまうことがある。
こうした時、現役サラリーマン時代の時は、何かと睡眠不足で奮闘してきた私は、
いつでも昼寝ができることは年金生活の特権である、と心の中で呟(つぶや)きながら、享受する時もある。
私たち夫婦の共通の趣味のひとつは国内旅行で、日本の各地を遊学し、
観光ホテルなどに宿泊滞在して、周辺をひたすら歩きまわることが多い。
或いは少し離れた時は、やむなく公共交通機関の路線バス、電車を利用することが多い。
そして私は、その地域にお住いの未知と方と談笑したりしている。
こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
このように60代に年金生活を過ごしてきた私は、
長き人生に於いては60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
そして年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』と深めて、
私たち夫婦はささやかな願いを叶えたりしてきた・・。
もとより健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、私たち夫婦は幸いに大病せずに、
今日に至っている。
世の中の多くの人たちは70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。
しかしながら一部の75歳前後の方たちは、心身溌剌とし、私は勇気づけられたりしてきた。
そして私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。
そして何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いているのが、70歳に一か月ばかり過ぎた私でもある。
そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。
私の昨今の心情として、60代のささやかな成功体験を秘めながら、
確かに60代の初めより体力の衰えを実感しているが、
70代も『生きがい』を持ち続け、しなやかに生活を過ごせば、
60代と同じような安楽な生活が過ごせる、と漠然と思いながら微笑んだりする時もある。
本日の午後のひととき、ビジネス総合誌として名高い雑誌『プレジデント』のネットに配信された記事を読んでいる中、
『幸せとは気付くことである』と題された見出しを見て、クリックした。
そして脳科学者の茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが、『世界一の発想法』の連載の寄稿文と知りながら、
読み始めたりしたが、つたない私でも、瞬時には共感を深めてしまった・・。
http://president.jp/articles/-/13914
☆【PRESIDENT Online】
<==茂木健一郎・著作の『世界一の発想法』==>『幸せとは気付くことである』
この記事の中核の大半を無断ながら転載させて頂く。
《・・(略)・・幸せとは、「気付く」ことであると、さまざまな研究結果が示している。
自分の人生の中の、ごくあたりまえの恵みに目覚めることが、汲めども尽きぬ幸せの泉となるのだ。
ある程度の経済的裏付けは、もちろん必要である。しかし、お金さえあれば、幸せになるというわけではない。
・・(略)・・「隣の芝は青く見える」という。
他人を羨ましく思うことが、明日への活力につながることもあるし、国全体としての経済成長を促すこともあるだろう。
しかし、それがいきすぎると、こだわりや執着を生む。
何よりも日々の生活が、「いつか幸せ」になるためのプロセス、手段になってしまう。
本当は、今日という日は、二度と帰ってこない。
だからこそ、日々の足元を見直すことが、幸せにつながる。
つまり幸せとは、一つの「発見」であり、「認知」なのだ。
そのことを表しているのが、メーテルリンクの「幸せの青い鳥」の寓話だろう。
幸せを求めてさまざまな場所を旅し、家に戻ってくると、幸せの青い鳥は、実は最初から自分たちの家にいたのだった。
この寓話が意味するところは、幸せの条件は、すでに足元にあることが多い、ということであるが、
もう一つ、大切なポイントがある。
それは、他人の人生、別の生き方を知ることが、自分自身の幸せを見直すきっかけになるということ。
幸せの青い鳥は、最初から家にいたのかもしれない。
しかし、家に閉じこもっていたままでは、その意味に気付くことはできなかっただろう。
さまざまな場所を旅して、いろいろな人と話すことは、だから、決してムダにはならない。
外国を旅した人が、日本の良さに目覚めるように、他者との出会いがあって初めて、
身近にある幸せの泉に気付くことができるのだ。・・(略)・・》
やがて読み終わった後、確かにそうですよねぇ、と私は微苦笑を重ねたりした。
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