夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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マイナンバー、役人のための制度で、動くカネは4兆円以上と学び、ここ11年の中で最も動顛・・。

2015-10-31 11:16:27 | 時事【社会】
私は東京の調布市に住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
こうした中で、家内は過ぎし日の28日より3泊4日の予定で、
独り住まいの家内の母宅に介護に行っている。

この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしているが、
昨夜の夕食後のひととき、
私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を見たりし、
【 ふざけるな、マイナンバー! 動くカネは4兆円以上、「完全なる徴税」のためだと?
               役人がつくった、役人だけがトクをする制度 】と見出しを見て、
どのようなことなのょ・・と思いながらクリックして、 精読した・・。

やがて読み終わった私は、年金生活は丸11年が過ぎて、早や12年生の私は、
この間の東大日本震災と福島原発に震撼させられたことを除き、最も動顛させられた・・。
          

この原文は『週刊現代』の2015年10月31日号に掲載された記事であり、
無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・「なぜ導入するのか。
それを明確に説明できないのは、役人のための制度だからですよ」。
ある内閣府の職員は、そう笑った。

利権はびこるマイナンバー。発覚した贈収賄事件は氷山の一角に過ぎない。
          

☆ヤクザのような見た目

「やっぱり」。
事件の報に接した際、ほとんどの人はそう思っただろう。

10月中旬から「通知カード」の交付が始まったマイナンバー制度の導入に絡み、
厚生労働省職員が関わる贈収賄事件が発覚したのである。

マイナンバーに詳しい、白鷗大学法学部教授の石村耕治氏が言う。
「今回の事件の背景にあるのは、制度導入にともなう『利権』に他なりません。
導入が決まった'11年からずっと、莫大な予算を狙って、
シロアリのようにIT企業やシステム会社が群がり続けている。

そしてその金主である役人が、彼らから利益を享受しつつ、
自分たちの都合の良いように制度を進めているのです」
          

☆各省庁が天下り法人や専門部署を乱立させている

収賄容疑で逮捕されたのは、厚労省情報政策担当参事官室室長補佐の中安一幸容疑者(45歳)だ。

'11年、医療分野などにおける情報共有システムの設計案を公募した際に、
都内のシステム会社から賄賂を受け取り、受注できるように取り計らったとされている。

逮捕容疑はこのシステム会社の社長から100万円を受け取ったというものだが、
実際の賄賂額はさらに膨らむものと見られている。

「中安さんは、厚労省内では有名人でした。
いつもブランド物のスーツで身を固め、冬は地面に着きそうなほど長いコートを着てのし歩いていた。
ヤクザ映画のキャラクターのようなルックスで、見た目通りに押しが強く、弁も立った。
『医者や医療関係者にパイプがある』と、よく吹聴していました」(中安容疑者をよく知る厚労省職員)

中安容疑者は、埼玉県さいたま市内の自宅で妻、幼い娘と暮らしていた。
出勤のため大宮駅に向かう際にはタクシーを呼びつけていたといい、
近所の住民の目からは、かなり羽振りが良さそうに見えたという。

「高校卒業後に国家公務員Ⅲ種に合格し、
兵庫中央病院の事務官として採用された容疑者は、いわゆるノンキャリ。

当時は病院の受付や物品購入といった仕事をしていたそうですが、
そこから頭角を現し、'05年に本省へ。
そして'07年には、社会保障担当参事官室に配属になりました。

『ITの知識がずば抜けている』という評判でしたが、
病院事務として働いていた時の実体験を、持ち前の強引さで押し付けるのが中安容疑者のスタイル。
現場の知識が何もないキャリア組の職員は、
彼をコントロールできず、野放しになっていたのです」(全国紙社会部記者)

しかし、マイナンバー制度がいよいよ始まるというこのタイミングで、
現役の職員が逮捕されるというのは、間が悪いどころの話ではない。
          

☆動くカネは4兆円以上

空耳で「マイナンバー」が「ナンマイダー」と聞こえるという川柳がある。
国民からすれば、役人が甘い汁を吸っているなんて、
汚れた制度はもはやナンマイダー(お陀仏)にしてほしいという気分がいよいよ強くなっただろう。

今回の贈収賄事件は、「氷山の一角」に過ぎないと語るのは、内閣官房職員の一人である。

「マイナンバーには潤沢な予算が使われている上、
取り引きする業種もほぼIT関連業界に集中しているため、役人と業者の癒着が非常に起こりやすい。

システム開発案については公募という形を取っていますが、担当者も受注の経緯もその時々によって違い、
そこには何の透明性もない。
中安容疑者以外にも、どさくさ紛れに私腹を肥やしている人間が、
霞が関にも、地方自治体にもいるのは間違いない」

なにしろ、役人たちやそれに群がる業者たちにとっては、
全国民、約1億3000万人すべてがターゲットという史上最大規模の利権である。

IT産業アナリストの佃均氏が語る。

「マイナンバーに費やされる予算は、国のシステム開発に約3000億円、
自治体のシステム対応のための補助金として約2000億円、合計で約5000億円と言われています。
ただし、ゆくゆく民間でも活用されていくことを考慮すると、
波及効果は3兆〜4兆円か、それ以上の市場規模になると思われます」

この巨大マネーが、制度に関わる、あらゆる省庁・役所に流れ込む。

制度の仕組み作りと法律の作成は内閣府。
番号の通知や自治体での運用を管轄するのは総務省。
法人番号の管理や個人の税収に関する情報の一括化は国税庁(財務省)。
社会保障に関する分野は厚労省。
さらには、国民向けの窓口となる全国約1700の地方自治体……といった具合だ。

まさに、「役人がつくった、役人だけがトクをする制度」である。
          

「主役はあくまで役人たちというわけで、完全に国民不在です。
役人が限られた業者と癒着して、そこに巣くい、『3兆円産業』などと称している。
言語道断と言えます」(前出・石村氏)

この制度の恐ろしいところは、いったん導入されてしまうと、
制度が中止されない限り、半永久的に税金が、注ぎ込まれ続けるということだ。

かつて'02年に導入された住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)は、
400億円の予算を投入しながら普及率がたったの5%。
にもかかわらず、現在でもその維持のため、毎年100億円以上が費やされているという。

「マイナンバーは最初から全国民をネットワークに取り込もうという、
住基ネットよりはるかに巨大なシステム。
ですから、その維持費やトラブルが起きた際の復旧・改修費用などのコストは
比較にならないほど巨額になるでしょう。

それを見越し、マイナンバー絡みの天下り法人や、各省庁肝いりの専門業者が次々と設立されている。
消費増税を実現し、大物と言われた財務省の勝栄二郎元事務次官も、
大手のIT企業に天下りしています。
底なしに税金を吸い込んでいく、ブラックホールのようなシステムなんですよ」(経産省関係者)
          

☆「完全なる徴税」のための制度

マイナンバー制度に関し、政府はこれまで「都合がいいこと」だけを喧伝してきた。

国民すべてに12ケタの「背番号」が割り振られることで、
個人の認証が容易になり、年金受け取りなど社会保障関連の手続きが簡単になる。
引っ越しなど、各種申請に伴う煩雑な手続きも不要になり、
便利な世の中になる、というのがそれだ。

だが、そうした聞こえのいい話は建て前に過ぎない。
マイナンバーの導入目的は、最終的にその番号と国民一人ひとりの銀行口座などを紐付けし、
監視し、庶民の些細な税金逃れや、へそくり的な資産隠しすら許さない、
「完全なる徴税」社会を実現することにある。

元国税庁職員で税理士の赤池三男氏が語る。

「ゆくゆくは、おかしな点があればすぐに税務署から
『税金を納めなさい』という連絡が来ることになります。

口座をいくつ作っていても、逃れることはできません。
マイナンバーとは、預金だけではなく、株や不動産といった有形無形の資産を国が把握し、
一銭たりとも税金の取り漏らしがないようにするための制度なんです」


国民からより広範に、より厳密に税金を徴収するため、税金を投じてシステムを開発する。
システムと制度を普及し、維持するために、今後さらに巨額の税金が投入され続ける。

そして税金が流れる先は、役所と親密な業者と天下り団体で、
その一部が中安容疑者のような不良役人たちの懐に転がり込む。
これがマイナンバー制度の本質だ。

国民からすれば三重、四重に税金を搾り取られたうえ、
結果は「税金の取り立てがより一層、厳しくなる」という笑えない事実……。
マイナンバーは害なんだ、マイナンバーは災難だ、我々はそう呟き耐えるしかない。


今後、マイナンバー導入に伴う混乱と混迷は、ますます広がっていくと思われる。

贈収賄事件の裏で、茨城県取手市では、
機械で発行した住民票に誤ってマイナンバーが記載され、外部に流出するという事件が起きていた。

市の委託業者が機械の設定を間違えたことが原因で、
制度がまだ正式に稼働してもいないというのに、個人の番号が外に漏れ出てしまったのだ。
          

☆情報は流出「しまくる」

この件について、マイナンバー制度推進を統括する、
内閣官房社会保障改革担当室の浅岡孝充参事官補佐はこう話す。

「本来であれば、あってはならないことです。
しかし、制度の根幹を揺るがすような話ではない。
人間がやる以上、運用の中で事故が起きることは避けられません。
車の運転をしていれば、自分がきちんとしているつもりでも、事故に遭う可能性があるのと同じことです」

とは言え、事故ではなく、悪意ある存在が、漏出したマイナンバーを
犯罪に悪用することもあり得るのではないか?

「それは、町を歩いていたらナイフを持った人間に刺されました、というのと同じ話です。
店を出たら人を刺すかもしれないから、包丁を売ることを規制しようというわけにはいきませんよね。

それに制度的には、もし漏洩しても大きな問題にならないように設計しています。
何か事件は起こるかもしれませんが、それが許容できるレベルのもので収まるようにしたい。
そう考えています」

事故は滅多に起こらないし、起きても大したことにはならない。
果たして、そう簡単にいくだろうか。

社会保険労務士で北見式賃金研究所の北見昌朗所長は、こう警告する。
「私は中小企業向けにマイナンバー制度の説明会を行っていますが、
どの経営者も国のいい加減さに、困り果てています。
たとえば、国はマイナンバーを各企業で、流出しないよう管理しろと言う。

しかしその明確な方法は指示しない。
セキュリティの設備投資にかかるカネは、中小企業の経営者にとって決して安くないのです。
このまま『よくわからない』という状況が続けば、ナンバーは必ず流出する。
『しまくる』と言っていいと思います」
          

本誌も何度か指摘してきたが、マイナンバーと同種の「社会保障番号」(SSN)が
導入されている米国では、
'06〜'08年の間に、SSNを盗まれたことによる「なりすまし」詐欺や、
口座からの現金抜き取りなどの犯罪が約1200万件も発生。

その被害総額は、実に年間500億ドル(約6兆円)にも達するという。

ごくささやかな利便性と引き換えに、
税金を吸い上げ、食い物にすることしか考えていない役人たちに、
自分の資産、あらゆる履歴、個人情報のすべてを売り渡す。
そんな制度を、いったい誰が喜ぶというのか。

マイナンバーなど、決していらない。
今こそ大きな声を上げなければ、すぐに取り返しのつかないことになるだろう。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私はマイナンバー制度に伴う所管官庁が、
制度の仕組み作りと法律の作成は内閣府。
番号の通知や自治体での運用を管轄するのは総務省。
法人番号の管理や個人の税収に関する情報の一括化は国税庁(財務省)。
社会保障に関する分野は厚労省。
さらには、国民向けの窓口となる全国約1700の地方自治体……と初めて学んだ。

そして「マイナンバーに費やされる予算は、国のシステム開発に約3000億円、
自治体のシステム対応のための補助金として約2000億円、合計で約5000億円、
ただし、ゆくゆく民間でも活用されていくことを考慮すると、
波及効果は3兆〜4兆円か、それ以上の市場規模になると思われる」

この巨大マネーが、制度に関わる、あらゆる省庁・役所に流れ込む。
この制度の恐ろしいところは、いったん導入されてしまうと、
制度が中止されない限り、半永久的に税金が、注ぎ込まれ続ける。

かって'02年に導入された住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)は、
400億円の予算を投入しながら普及率がたったの5%。
にもかかわらず、現在でもその維持のため、毎年100億円以上が費やされている。

「マイナンバーは最初から全国民をネットワークに取り込もうという、
住基ネットよりはるかに巨大なシステム。
この為、その維持費やトラブルが起きた際の復旧・改修費用などのコストは
比較にならないほど巨額になる。

それを見越し、マイナンバー絡みの天下り法人や、各省庁肝いりの専門業者が次々と設立されている。
消費増税を実現し、大物と言われた財務省の勝栄二郎元事務次官も、
大手のIT企業に天下りしている。
底なしに税金を吸い込んでいく、ブラックホールのようなシステム」(経産省関係者)
          

このように学んだ私は、頭の良い人が多い官公庁の人たちは、こうしたマイナンバー制度を創り上げて、
開発、運営に巨額な税金を投じることに、動顛させられた。

もとより国家財政は悪化する中、こうした制度に国民の多くは戸惑い、困苦することを思い重ねたりした。

その上、役得のようなリベート、省益の拡大か解らないが天下りもあり、
民間会社の中小業に長年勤めていた私は、驚嘆を増したりした。

そしてセキュリティの難題もあり、無力な私はどうしたらよいのょ・・、と溜息を重ねるばかりである。

やむなく、御上に直訴、といった制度は江戸時代に、ごくわずかあったと学んだりしたので、
時の政権の安倍首相は、マイナンバー制度の悪しき裏舞台、ご存じですか、と私は呟(つぶや)いたりしている。

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都会で老いるコストとリスクを学び、都心の郊外に住む私は、溜息を重ねて・・。

2015-10-30 15:53:57 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の71歳の身であるが、
午後のひととき、パソコンを立ち上げてネットのニュースを見ようと思ったりした。

私はトップページとしては【YAHOO! JAPAN】に設定しているが、
トピックス・ニュースとして、10ばかり見出しが紹介されているが、
この中のひとつに、【都会で老いるコストとリスク】と明記されていた。
          

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。
そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

このような身であり、特にここ数年、都会は地方と比較すると、コストとリスクの難題があると、
と単行本、新書などの本、そして雑誌などで学び、憂いたりしてきた・・。

こうした心情を秘めている私は、クリックした精読してしまった。
『AERA』の編集部が纏(まと)められた記事であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・長い間まじめに働いたんだから、人生の最後くらい、好きな場所で好きなように暮らしたい。
そんな思いを抱くことさえ、許されないのか。

「介護」「住居」「教育」、都会で暮らすうえで注意しなければならないのがこの3つだ。
いつ親が倒れ、介護生活を強いられるかはわからない。
仮に介護と仕事との両立ができなくなれば、「詰み」だ。

中には住宅ローンに子どもの教育費まで「三重苦」を背負う場合もある。
その上、すべてのコストが都会では高い。
年収1200万円を稼いでいてもホームレスに転落してしまう事例もある。
          

☆介護のために退職するが…

JRの線路下を走る地下道。そこに段ボールでしつらえた、棺桶サイズの"部屋"で横になる。
明日の天気が知りたくて携帯ラジオをつけると、花火大会の情報が流れた。

「その日まで、俺は生きていられるのか」
男性(60歳)は、6年ほど前のホームレス生活を振り返る。
いつも頭に浮かんだのは、血を吐いて倒れ、そのまま息を引き取った仲間や、
電車に飛び込んだ年配の女性の姿……。
何日も食べられないこともあり、体はみるみる痩せていた。

そんな男性も、かつては都内の大手百貨店で食品部門を仕切っていた。
ブランド店との付き合いでオーダーした1着70万円のスーツを着て全国を飛び回り、
新商品を見つけ出す。物産展もすべてを指揮し、年収は1200万円を超えていた。


そんなとき、母を介護していた父にがんが見つかった。

「一度ネクタイを外したら、また着けるのは難しいぞ」
上司にはそう引き留められたが、両親に最後の恩返しがしたくて、
1千万円の退職金と引き換えに仕事を手放した。

45歳のときだった。貯金も2千万円ほどあった。
父の葬式と墓の購入に850万円を使ったが、それ以外に大きな買い物をした記憶はない。

知人の会社に再就職したが、年齢とともに条件が悪くなり、何度も職を変えた。
50歳を過ぎて就いた仕事は、オートレース場の売店でのアルバイト。
しかも給料の遅配や不払いが続き、母が85歳で亡くなるころには貯金も底をつき、
母の遺骨を抱えて路上に出るしかなかった。

親の介護や自身の病気、ケガや事故、会社の経営悪化など、
歯車の一つが狂っただけで、「下流」に転落していく人がいる。
特に地価や物価の高い都心部では、収入を失えば最低限の生活さえままならなくなる。
都会で老いるには、コストとリスクを把握し、それに備える必要があるのだ。
          

☆介護施設は満床、高すぎる住宅費

リスクの一つは、先の男性が転落するきっかけとなった「介護離職」だ。
都会に住む人たちは、生まれ育った田舎に親を残していることも多い。
国は医療費抑制のため、在宅医療や在宅介護を推進し、誰もが病院で親を看取れる時代ではなくなった。
施設に預けたくても、ベッドは満床。さらに都会では料金もかさむ。

ファイナンシャルプランナーの有田美津子さんによると、
有料老人ホームの相場(家賃や食費などの月額)は地方では15万円程度。
東京都内ではそれが25万~30万円ほどに跳ね上がり、23区内ともなると40万円ほどにもなる。

生活困窮者を支援するNPO法人ほっとプラスの代表理事で、
『下流老人』(朝日新書)の著書がある藤田孝典さんは、
都会で老いるもう一つのリスクは圧倒的に高い家賃だと考えている。

「この高水準はスペインのマドリードとアメリカのロサンゼルス、東京ぐらいでしょう。
特に日本は生活困窮者でもなかなか公営住宅に入れず、
普通なら払えないような住宅ローンを払って家を持つという、まれな国です」
          

東京の賃貸価格は全国平均の倍。
マンション購入価格は全国平均より907万円、土地付き注文住宅は1660万円も高くなっている。

住宅ローンを払い終えても、マンションなら管理費のほかに、
年々高くなっていく修繕積立金の負担が必要だ。

一戸建てを購入した場合は自分たちで修繕費を蓄えておく必要があるのだが、
以前、藤田さんが訪れた埼玉県の一戸建て住宅は、ネズミが駆け回り、隙間風が抜ける状態だった。
          

☆築40年、窓ガラスにはダンボール

72歳の女性は夫を介護しながら、月13万円の年金暮らし。
2人の子どもを育てた5LDK、2階建て、
築40年の家は、和室の床が抜け、コンクリートの基礎が見えていた。
割れた窓ガラスには段ボール。

リフォームには2千万円近く必要だと業者に言われたが、夫婦には到底、払えない金額だった。

「資産価値のあるうちに住み替えるべきなのですが、
初期費用を工面できなかったり家族の思い出があったりして、持ち家を手放せない人は多い」(藤田さん)
          

都心で暮らす人々が抱えるもう3つめのリスクは、子どもの教育費だろう。
メーカー営業職の女性(53歳)は、30歳で結婚したが、
仕事に熱中し、長女を産んだのは40歳のとき。

教育費の山場を迎える下の子の大学入学時には、女性が64歳、自営業の夫は65歳になる。
女性は「何が何でもそれまでは働き続けなければ」と覚悟を決めている。

晩産化は老後資金にも影響する。
家計再生コンサルタントで、ファイナンシャルプランナーの横山光昭さんによると、
家族にはお金の貯め期が3度ある。
夫婦2人で子どもがいない期間、子どもが生まれてから低学年までの期間、
そして子どもが独立してから親が定年退職するまでの期間だ。

「特に都会で進む晩産化によって、最後の貯め期がなくなる家族が増えています。
さらに、収入の多い40代の子育ては、余裕があるがゆえに教育費をかけすぎ、老後が苦しくなりがちです」

共働きだと学童保育がなくなる小学校4年生から、
放課後の時間を埋めるために塾や習い事に通わせる家庭が多い。
さらに私立への進学率が高い首都圏では、学費も上がっていく。

都会で老後を過ごしたければ、リスクとコストを知り、
もしもの事態をシミュレーションしておくことが、何よりの予防策になる。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

読み終わった私は、冷酷な表現が許されるならば、
都心に住むには、覚悟がいることだ、という思いを深めたりした・・。
          

介護のために退職されホームレス生活で困窮されている男性は、
《・・「一度ネクタイを外したら、また着けるのは難しいぞ」上司にはそう引き留められた・・》
確かに日本はバブルがはじけた頃から、再就職で敗者復活戦は困難な状況となっている。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしで、無念ながら敗退した・・。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
                                  
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、長らくコンピュータを活用した情報畑、そして管理畑、
やがて営業本部に勤めたりしてきた。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職したが、
この最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は幾たびかリストラを何とかくぐり抜けて、定年退職を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

私は中途入社だった為か、幾たびかリストラに対しても、
一度退社し、再就職しても、従来より処遇が良い敗者復活戦は、
千人にひとりぐらいと思っていたので、頑張り奮闘できた、と思っている。

昨今、中高年の男性が、親の介護で、やむなく退社するという記事を偶然に読み、
この男性の肝要な収入基盤を失くされ、人生設計が崩壊する過程を知り、
私は涙を浮かべながら、憂いたりしてきた。
          

晩婚に伴う子どもの教育費のリスクは、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、もとより発言権はないが、
《・・メーカー営業職の女性(53歳)は、30歳で結婚したが、
仕事に熱中し、長女を産んだのは40歳のとき。

教育費の山場を迎える下の子の大学入学時には、女性が64歳、自営業の夫は65歳になる。
女性は「何が何でもそれまでは働き続けなければ」と覚悟を決めている。・・》

私が中途入社した1970年〈昭和45年〉の当時、
生命保険会社の方から、人生生涯プラン表を手渡しされた。

確か男性は27歳、女性は23歳で結婚され、その後にお子様ふたりの教育、就職、結婚、
と明記されて、親が55歳前後に孫、そして自身の老後設計、と記載されたりしていた。

確かに人生の家庭内の出来事には、適齢期がある。

今回の記事で、家計再生コンサルタントの横山光昭さんが明言された通り、
《・・家族にはお金の貯め期が3度ある。
夫婦2人で子どもがいない期間、
子どもが生まれてから低学年までの期間、
そして子どもが独立してから親が定年退職するまでの期間だ。・・》
これを逸脱すると、もとよりリスクが高まる、と私は感じたりしている。
          
          
最後に、介護施設は満床、高すぎる住宅費の難題。

私たち夫婦の両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者であるが、
我が家より2時間は要する千葉県の八千代市で独り住まいの生活をされて、早や12年目となっている・・。
       
ここ半年前からは、長女の家内が介護で、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしている。

私は家内より先に、あの世に行くことは漠然としながらも深めているが、
この世の中はまさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。                

そして難題は、私たち夫婦が介護を必要とされる時期である。

今回の記事に於いて、《・・国は医療費抑制のため、在宅医療や在宅介護を推進し、
誰もが病院で親を看取れる時代ではなくなった。
施設に預けたくても、ベッドは満床。さらに都会では料金もかさむ。

ファイナンシャルプランナーの有田美津子さんによると、
有料老人ホームの相場(家賃や食費などの月額)は地方では15万円程度。
東京都内ではそれが25万~30万円ほどに跳ね上がり、23区内ともなると40万円ほどにもなる・・》
と教示され、私も切実な難題である。
          
私たち夫婦のどちらかが、要支援になった時は、
『特別養護老人ホーム(特養)』は、価格面に於いても望ぞましいが、
原則的として要介護2以下の人は、入居は困難である。

そして介護に要する負担金は少なく済むので、 少なくとも52万人の待機者いて、
国からの公費が1人あたり年間180万円程度多くかかるともされ、
財政的に『特別養護老人ホーム(特養)』を増やし続けることは難しい、
と新聞などで読んだりしてきた。
                    

『サービス付き高齢者住宅』に関しては、入居条件は60歳以上であることだけで、
要介護度に関係なく誰でも入れる上に、要介護・要支援認定を受けていれば、
60歳未満でも入居が可能。

そして 館内および部屋はバリアフリーで、日中は館内にケアの専門家の職員が常駐して、
安否確認と生活相談のサービスを提供する。

ただし、サービス付き高齢者住宅は、介護や食事、健康管理などのサポートはセットではなく、
あくまで高齢者向けの賃貸住宅である、と学んだりしてきた。


そして民間の『有料老人ホーム』に関しては、
少なくとも入所一時金は1000万円、そして毎月は最低として利用料金は20万円が要し、
更に手厚い介護を受ければ高額となり、私は溜息を重ねたりしてきた。

その上に昨今、民間の『有料老人ホーム』でも倒産が多くなったと知り、
要介護となった時の身を思い馳せると、住まいの迷子は勘弁してほしい、と思ったりした。
          

このように迷い果てると、私たち夫婦はいつの日にか要支援になった時は、
『サービス付き高齢者住宅』が妥当かしら、と思ったりしている。

同じような世代、似通った要支援が多い身であるので、平素の生活環境、礼儀など、
そして維持管理なども共通認識の礼節もある、と思ったりして、
私の現在の本音となっている。
          

このように私は、都心の近くで老後を過ごしたければ、
覚悟がいることだ、という思いを深めたりしている・・。

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早くも本日より、年賀はがき販売開始日と知り、老ボーイの私は微苦笑して・・。

2015-10-29 15:37:35 | ささやかな古稀からの思い
私は先ほど、ぼんやりとNHKのテレビニュースを視聴していたら、
本日より、年賀はがき販売開始となりました、
と若き女性キャスターが微笑みを浮かべて報じられ、どこかの郵便局の情景が映し出されていた・・。

私は早くも新年の年賀はがきが販売開始されたかょ、と微苦笑したりした。

そして一昨日、郵便局に小用で行った時、
40代と思える麗(うるわ)しき女性局員さんより、一通のチラシを手渡しされた。


この年賀はがきの案内を取り出して見たが、
販売期間は、2015年10月29日(木)~2016年1月8日(金)、
と明記されていたが、私は販売開始日は忘れしまっていた。

しかしながら年賀はがきを毎年買い求めるのは、12月10日前後であるので、
まだ日数は充分あるねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

       
         ☆これ以降の写真は、昨年の12月初旬、我が家の周辺の情景☆

私は齢を重ねるたびに、年賀状を頂くのも、ひとつの楽しみとしている。
私の住む地域は、元旦の朝の10時頃に配達されるのが、毎年の慣(なら)わしとなっている。

そして、知人の近況などが付記されていると、
お元気でお過ごし・・と知り、安堵したりしている。
          
一番苦笑するのは、定例型の挨拶文だけで記載されている場合である。
例えば、
 賀正
本年もよろしくお願い致します

或いは
  謹賀新年
輝かしい新年を迎えまして
皆様のご健康とご多幸を
心よりお祈り申し上げます
 
私はこうした年賀状を読ませて頂きながら、少し落胆したりしてきた。

たとえ年賀状の一通でも、少なくとも近況とか、何か創意工夫が必要である、
と思ったりしているひとりである。
       

私は小学生の時、『習字』の授業は怠(なま)けていたので、
今でも毛筆で達筆は遥かに遠い夢の世界であり、羨望するだけとなっている。

或いは『図画』の授業も不得意であったので、イラストで絵を描くのも駄目であり、
たとえば林檎(リンゴ)の描いても、リンゴ、と明記しないと、
どのように解釈されるか解らないので、不安さを増すばかりなので、もとより避けている。

そしてデジカメで、その人なりの心を込めた情景で表現すれば良いかしら、
と思ったりしたが無念ながら技量に乏しく、断念している。

やむなく私なり散文で綴り、的確に近況の知らせを短い文章で表現しているが、
私は毎年、12月の中旬になると数日思案したりしてきた。

この近況の知らせを親族、親戚、知人、友人等に数種類書き分け、
現役時代の頃は、上司、同僚なども当然として加わっていたので、私なりに工夫した文面を作成してきた。

古人から、文は人なり、という至言があるので、
たった年賀状一枚と云えども、何かと小心者の私でも、粗末にできない習性となっている。
                 

こうした思いを秘めた私は、今年の新年に頂いた年賀状と晩秋に頂いた喪中はがきを取りだして、
改めて読んだりしていると、お住まいの地を思い浮かべたり、
その人の顔立ち、言葉づかい、しぐさを思い馳せたりする・・。

そして、あの人は・・お元気に過ごされているかしら、と以前にお逢いして言葉を交わした時を
思い重ねたりすることが多い・・。

私は年賀状の葉書は、インクジェット紙を長らく愛用しているが、
ご主人を亡くされた未亡人と称されるご婦人、お世話になっている女性には、
温かみのあるインクジェット紙の桃色を選定して、毎年投函したりしている。

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日本の女性「黒髪」から、「茶髪」に変貌させた源流を学び、驚嘆し・・。

2015-10-28 14:58:01 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であるが、
小学2年生の頃から、何かしら女性の言葉、しぐさ、表情に魅了され、
憧憬を深めたりしてきたが、たったひとつ不思議に思っていることがある。

何故、日本の女性の多くは、
ご両親から与えられた黒髪を、わざわざ茶色系に染めている人が、
多くなっているかであった・・。

私は黒髪の美しさを知らない女性が増えたのか、
或いは一時期のミニ・スカートのブームが一昔前あったが、
あの状況と一緒なのか、とここ20年近く思い続けたりしてきた・・。

私は二十歳前の若き女性が一過性と染めるのは、何となく理解はできるが、
大人の女性として、ご自身の魅力を粗末にされていると、思ったりしてきた。

そして欧米の数多くの知識人が、せせら笑っているのが明白に見え、
私の方が恥ずかしいとさえ、思ったりした時もあったりしてきた。
       

私は現役のサラリーマン時代に、あるレコード会社の管理畑などを35年ばかり勤めきた中で、
海外のアーティストが来社した時、ときおり私達のフロアーまで挨拶などに、来てくださり、
多くの方を見かける機会があった。

特にロック関係のアーティストの容姿、ヘアー・スタイルなどに、
幾たびか驚嘆するようなことも多々あったりしたが、
あくまでライブの舞台のひとつの表現と受け止めてきた。


やがて定年退職した2004年(平成16年)秋、多忙だったサラリーマン時代が終わり、
NHKのテレビでニュースを視聴した時、女性のキャスターの方でも、
茶色系に染めている人が多く、私は驚いたりした。

黒髪は薄化粧に映(は)える美点があり、
日本女性の容姿、顔立ちは、黒髪が似合っていることは、
欧米人の知識人は以前から知り尽くしている、と私は深く思ったりしてきた。
       

確か1963年(昭和37年)の頃、舟木一夫さんが唄った『高校三年生』があるが、
この二番の歌詞に於いて、
♪ぼくら/フォークダンスの手をとれば/甘く匂くにおうよ黒髪が・・
と作詞家の丘灯至夫(おか・としお)が、この当時の社会を的確に表現されていた。

或いは、何年前か忘れてしまったが、NHKで『宮廷女官 チャングムの誓い』を放送されて、
たまたま視聴したことがあった。

朝鮮王朝の宮廷料理を主軸としたドラマであることは知っていたが、
この頃の時代に秘められた歴史、文化、風土が、私には新鮮に観えたが、
女主人公の容姿、何よりも黒髪の美しさに、改めに私は魅了されたりした。
       

定年退職後、まもない時、私は駅前に出かけたりすると、大半の女性が茶髪に染めている・・。
このような時、ご自身より若い世代が流行している髪の色合いを使わないと、
時流から取り残されると危惧し、あえてしているのかしらと思ったりした。

或いは美容業界のしたたかなビジネス戦略により、
染める方を頻繁に来店させるには、茶髪に染める風潮を計算して普及させたかしら、
と私は思ったりしてきた・・。


我が家の家内は、私より5歳ばかり若く、長らく黒髪のセミロングであったが、
齢を重ねて白髪が少し目立つようになった10年前の頃から、
黒髪に染めるヘア・マニキュアをドラッグストアで買い求めて愛用している。

そして月に一度ぐらい美容院に行き、髪の毛を整(ととの)えたりしている。

数か月前、何かしら美容師に勧められたらしく、
淡い茶色のようなダークブラウン色となった髪の色合いとなり、
私は少し驚いたが、大半の女性の社会現象だから・・時代の流れかょ、と微苦笑した・・。
       

今朝、いつもように購読している読売新聞の朝刊を読んだりし、
やがて16ページの【特別】面に於いては、
【 雑誌文化リード 戦後と歩み70年 】
と題された特別記事を、何かと雑誌も好きな私は、精読した。

そして《・・日本の雑誌文化を切り開いてきたマガジンハウスと光文社が、今月、創業70年を迎えた。
どちらの社長も「雑誌とは、時代の景色だ」と自任する。・・》

このような主旨に基づき、文化部長の尾崎真理子さんが、インタビューされた記事であった。
こうした中、光文社の丹下伸彦社長(67歳)の発言に、
私は過ぎし時代を思い馳せたりしたが、たった2行だけは動顛させられたりした・・。
       

無断であるが、記事の大半を転記させて頂く。
《・・
尾崎真理子さん
  苦戦する雑誌が多い中、「クラッシィ」「ヴェリィ」などは部数、広告共に前年増です。勝因は?
  
丹下・光文社社長
  徹底した読者調査です。
  アンケートの集計は当然ですが、
  各誌の編集長みずから「これが明日の読者」という女性を街で探し出し、
  その一人に、どこで何を買い、どんな日常を送っているか……徹底的に尋ねるんです。

  打ち合わせを恵比寿のカフェなどで、
  人の景色を眺めつつ行ったり。「国民的美魔女コンテスト」などのイベントも大事です。

尾崎真理子さん
  「読者モデル」=カリスマ的一般読者は、今や女性誌に欠かせません。

丹下・光文社社長
  ええ。学生やOLの読者スナップを掲載するのは、「JJ」創刊以来の手法です。
  70年代末、横浜の山手に住む女子大生のセンスにハッとした編集者がいた。
  それがポロシャツに紺のハイソックスという「ハマトラ」の発端でした。

  ファッションのプロよりも「明日の頂点を見極める編集のプロであれ」が信条です。

尾崎真理子さん
  当時の学生層が現在50代に。
  雑誌を読み続けてきたこの年代は、80年代以降、
  女性の社会進出の流れを先導する世代でもあります。

丹下・光文社社長
  その象徴として、二人のカバーガールを思い浮かべる人も多いでしょう。
  大学生の頃、「JJ」で活躍した賀来千香子さんは女優になり、
  最近まで「ハーズ」の表紙を飾っていた。

  同じく「JJ」出身の黒田知永子さんは、主婦を経て「ヴェリィ」でモデルに復帰。
  「ストーリィ」の上品な着こなしが絶大な支持を得ました。
       
尾崎真理子さん
  着る人の人生も含めて、読者は雑誌を眺めます。
  結婚、子供の進学、家の購入……。家族の行事という景色を重視されますね。

丹下・光文社社長
  はい。カップル文化を読者の基盤ととらえています。

  実は95年の「ヴェリィ」創刊まで、
  子育てに忙しい30代の主婦が雑誌を買い、おしゃれをする余裕はないと、
  デパートも広告会社も決めつけていた。

  でも違った。
  同誌は現在、1号で約6億の広告を掲載する看板雑誌です。
  「公園デビュー」「シロガネーゼ」「茶髪」「イケダン」、
  全て「ヴェリィ」の造語から広がった社会現象。・・(略)・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

私は何かと読書好きのひとりで雑誌も購読し、本屋に立ち寄ったりしてきた。
1995年(平成7年)に、女性専用誌『ヴェリィ』も店頭で見かけたことがあったが、
この『ヴェリィ』から、「公園デビュー」とか「茶髪」などの《・・造語から広がった社会現象・・》
となったことは、恥ずかしながら初めて知った。

そしてこの当時1995年(平成7年)から、一般の女性も茶髪を始められ、
やがて世の中に普及したのか、と動顛させられ、やがて溜息を重ね苦笑したりした。
       

余談であるが、過ぎし6年前の頃、たまたまNHKで、『歌謡番組』を視聴していた時、
ある演歌の50代の女性歌手が、素敵な和服を召されていたが、なぜか赤っぽい色合いに染める方が、
平然と名曲を唄っていたのに、私は唖然とさせられた。

そして、一体どのような感覚で・・と私は感じ、テレビのスイッチを切ったりした。

尚、特に女性の一部の方たちのは反発されて、
ご不満な方、一部のお方には感情を害されることの内容もあるが、
私の独りよがりの思いの投稿内容、と解釈して頂き、ご容赦をお願い致したい。

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都心の郊外は、まもなく落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色など多彩に染められる錦繍の時期を迎えて・・。

2015-10-27 16:24:32 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活12年生の71歳の身であるが、
そして東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域に住み、。
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。

こうした中で、平年ならば11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
              

やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
                     

そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
            

こうした錦繍(きんしゅう)の情景を私は見惚れながら、
我が家の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、晩秋のこの季節を毎年過ごしてきた・・。
       
       ☆以上、掲載した写真は、昨年の晩秋である☆

今年は少し早く、恥ずかしげに朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
私は早春の芽吹き、そして錦繍(きんしゅう)の情景を幼年期から圧倒的に魅せられて、
心を寄せたりしてきたので、こよなく愛してきた時期となっている。


過ぎし24日は北風が時折激しく吹き、早くも枝葉に付いているあまた葉の一部は落葉し、
空中に舞い上がり、やがて地上に落下した。
そして風が吹くと道端の片隅に、朱色、紅色、黄色などに多彩な吹き寄せとなったりしていた。

夜のテレビの天気情報を視聴していたら、麗(うるわ)しき女性キャスターが、
東京の都心は13メートルの最大瞬間となり、「木枯らし1号」となりました、
と報じたりしていた。
          
       ☆これ以降の写真は、昨日の情景☆

昨日、家内は歯小田急線の『喜多見』駅前の科医院で治療を受ける日であったので、、
私たち夫婦は、午前10時半過ぎに自宅を出た。

そして利便性のある路線バスを利用すれば、我が家より10分前後で到着するが、
最短距離として野川の遊歩道を歩けば、20分前後を歩けば到着するし、
何よりもこの遊歩道の片側は、細長い小公園が帯のように続き、四季折々の情景が見られるので、
私たち夫婦はこのコースを愛用してきた。

難点といえば平日などは、人影も少ない時があるので、
家内が出かける時は、私がボディガード、お供として、共に歩いたりしてきた。
             
風もなく穏(おだ)やかな秋晴れの中、私たちは遊歩道を歩き、
過ぎ去った苦い思いで、旅先のこぼれ話・・とりとめなく語り合ったりした。
          

やがて駅前で家内は歯科医院、私は付近を散策となり、
合流はいつものように駅前の片隅にあるコーヒーショップの『ドトール』とした。


私は野川の両岸にある遊歩道、付近に隣接した小公園を歩き廻り、魅せられた情景をテジカメで撮り、
記憶のかたみ、としたりした。

私は一時間ぐらい歩き廻り、早くも朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始めいる情景に、
微笑ながら撮ったりしたりした・・。
          

やがて駅前の片隅にある『ドトール』で家内と合流した後、駅前のスーパーで買物し、
遊歩道を歩き自宅に向かった。

私たち夫婦は年金生活丸11年が過ぎて、早くも12年生に進級となったが、
これまでは幸運にもお互いに大病することなく、過ごしてきた。

そして健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間の健康寿命は、
平均として男性は71歳、女性74歳と私は学んだりしてきた。

家内は私より5歳ばかり若いが、私は健康寿命平均と同じ齢となったりし、
何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅付近から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などをひたすら歩くことが多くなっている。

このような心情を私は深く秘めている。
           

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりであったので、
家内と穏(おだ)やかな秋の陽射し中、家内と遊歩道を歩きながら
こういうふうに、いつまでも続くと、いいよねぇ、
と私に家内に言ったりしたりした。


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吉沢久子さんの『ほんとうの贅沢』の銘言、遅ればせながら学び、感銘を受けて・・。

2015-10-26 16:35:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝、いつもように購読している読売新聞の朝刊を読んだりした。

やがて3ページの【総合】面を読んだりし、最下段に、
《自分の頭で考え、考えたことを行動に移すことができる。
それはとても贅沢で幸せなことです》
こうした文面に瞬時に圧倒的に魅了された・・。
            

そして左横を見ると、『ほんとうの贅沢』吉沢久子 著と見て、
出版社の発刊している広告と解ったが、
恥ずかしながら吉沢久子(よしざわ・ひさこ)さんの御著書は、読んだ記憶がないので、
こっそりと横に掲載されている略歴を拝見したりした。

《1918年東京生まれ。家事評論家。エッセイスト。
女性が働くことが珍しかった時代に15歳から仕事をはじめる。
文芸評論家・古谷綱武氏と結婚。
家庭生活を支える一方、生活評論家として生活者の目線で女の暮らしを考え、
暮らしを大切にする思いを込めた執筆活動などで活躍。
姑、夫と死別したのち、65歳からのひとり暮らしは30年を超えた。》

私は吉沢久子さんは1918年(大正7年)生れと知り、
亡くなった私の母は、大正9年生れであったので、
今日まで溌剌とご存命されていることは、日本の歴史上、最も激しく変貌した激動期間を生き、
生活されてきた御方、と少なくとも感じ深めたりした・・。
          

やがて横に列記してある、《心から満足を得る暮らしのヒント》を読んだりした。

☆自分に「足りないもの」ばかり数えあげない
☆「人生いろいろ」----人はそれぞれ違うものです
☆過去栄光はすっぱり捨ててしまう
☆介護問題は”あえて”笑ってみる
☆時間がかかっても自分でやる
☆自分なりの「価値観」を持つ
☆人付き合いは”八分目”でも多すぎる
☆知らないことがあってもいい、間違うことがあってもいい
☆失うことは悪いことばかりてはない
☆好きなことを自分がやりたいようにやる
☆人それぞれ「幸せ」は違う

このように、この人生の確かな銘言が記載されて、やがて銘言をかみしめるように復唱して、
私は頭(こうべ)をたれたりした・・。
          

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしで、無念ながら敗退した・・。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
                                       
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、長らくコンピュータを活用した情報畑、そして管理畑、
やがて営業本部に勤めたりしてきた。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職したが、
この最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は幾たびかリストラを何とかくぐり抜けて、定年退職を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。
          

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。


私たち夫婦は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
       
こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
          

こうした中で、過ぎし5年前の前の66歳の時に、健康診断で糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
この後は、食事の改善とひたすら歩いて、やがて半年後には何とか克服してきた。

これ以来、糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
自宅付近から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などをひたすら歩くことが多くなっている。

私は歩きながら、うつろう情景に心を寄せ、
過ぎ去った日々に愛惜を深めたり、本日もこうした風景にめぐり逢えたことに感謝をしたり、
季節の移ろいを享受している。
          
                                                          
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったりしている。

或いは私たち夫婦は、共通の趣味のひとつには、国内旅行であり、
現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。
          
私たち夫婦は年金生活を始めて早や丸11年が過ぎて、12年生に進級となったが、
過ぎ去り歳月は、実に早いなぁ、と微苦笑を重ねたりした。

そして私は60代の10年間の年金生活を過ごして、
昨年の9月に古稀と称される70歳となり、何とか70代の入門が許されたひとりとなっている。

ときおり60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりし、私の人生は先苦後楽かしら、と微苦笑する時もある。
          

私たち夫婦の両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者であるが、
我が家より2時間は要する千葉県のある市で独り住まいの生活をされて、早や12年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ10年の恒例となっている。
                                       
家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となりっている。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
ここ半年ぐらいは少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わり、
やがて通院を幾たびかして折、家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしている。

私は家内より先に、あの世に行くことは漠然としながらも深めているが、
この世の中はまさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。
                     

こうした中で、70代の2年生の私は、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
          

今回、吉沢久子さんの《自分の頭で考え、考えたことを行動に移すことができる。
それはとても贅沢で幸せなことです》、
そして《心から満足を得る暮らしのヒント》の銘言を学びながら、
少しばかり苦楽の波乱に満ちた人生を過ごしてきた私は、確かな教示を感じ、深めたりした・・。

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お一人様1点限り、或いは底値、買物メール老ボーイの私は、微笑みながら・・。

2015-10-25 11:10:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

平素は家内と共に朝食を頂き、一時間過ぎた頃、
家内は、新聞に添付されているスーパーのチラシを見たりし、
やがて赤のサインペンで丸印を付けたりしている。

まもなくして、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりしたりしている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、早や年金生活11年生であり、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

このような我が家の平素の買物パターンで、私は独りで指定された最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
          

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

定年後の年金生活を始めた私としては、
この趣味などのささやかな時間を崩すことは、天敵と確信を深めて、
平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして買物を終えた後は、やはり独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを
ひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

家内は従来通り料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめてと私は感じ、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
          

年金生活を始めてまもない2004年(平成16年)の晩秋、
買物メール老ボーイとなった私は、
家内から依頼された特売の洗剤を買い求めに、最寄のスーパーに行った。

そして年金生活で貢献できるのは、せめて廉(やす)い価格の品を多めに、と思いながら、
5個ばかり買い求めて、意気揚々として帰宅した。

やがて帰宅後、家内に頼まれた洗剤を手渡すと、
『あら、違うわ・・ライオンのトップでも《部屋干し》をお願いしたはずょ・・』
と家内は言った。

『違った・・!?』
と私は言った。

『違っています・・うちはずっと《部屋干しトップ》なの・・貴方・・よく仕事ができたわねぇ・・』
と家内は追い討ちをかけてきた。

『じゃ・・取り替えてくるよ・・』
と私は言った。

やがて洗剤はひとつでも1・1Kgあり、5個買い求めていたので、少し重い洗剤を提(さ)げて、
再びスーパーに向かった。

そして仕事は給料を頂いて緊張感の中、責務を果たしてきたので、
気軽な買物と違うょ、と心の中で呟(つぶや)きながら歩いたりした・・。
                     

或いはトマトを買い求めた当初は、苦い失敗談があったりした。
確か翌年の2005年(平成17年)の6月初旬の頃だった・・。

たまたまスーパーの店内に於いて、野菜売り場の近くにトマトの販売コーナーがあり、
家内はトマトが好きであり、少し高い値段であったが何より新鮮であったので、
3つばかり買い求めたりした。

帰宅後、家内に手渡すと、
『わぁ・・立派なトマト・・美味しいそうだわ・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

やがて家内は、値段を訊(き)かれて、私は応(こ)えた。

『でもねぇ・・高過ぎるわょ・・我が家は年金生活ですから・・程ほどにして下さい・・
貴方は幼年期の頃、農家の児だったでしょう・・トマトの見極めぐらいは解っているでしょう・・
私は長い間、程ほど品をお廉(やす)く買い求めてきたわ・・』
と私は家内から叱咤されたりした。

『XXちゃんさぁ・・専業主婦25年選手でしょう・・
ボクは買物一年生だょ・・気を付けますょ』
と私は家内に抗弁したりした。

これ以来、私は野菜、果実(くだもの)は、新鮮さを見極めながら、
程ほど品を廉(やす)く買い求めたりしてきた。
                       

買物メール老ボーイも数年過ぎると、お一人様1点限り、お一人様2点限り、
或いは平素より遥かに廉(やす)い底値(そこね)と思われるスーパーのチラシを見たりすると、
ささやかな年金生活の中、天から励まされたように思え、私は微笑んでしまうことが多い。

『お一人様1点限り』に於いては、ネスカフェのゴールドブレンドなどを買い求めたりしてきた。
そして『お一人様2点限り』は、トイレット・ペーパーの12ロールを2つ、
ティシュ・ペーパーの5個パックを2つなどを購入してきた。

こうした中で家内はチラシを見たりして、
たとえば洗濯用の柔軟剤のソフランなど、底値(そこね)だわ、
と家内が呟(つぶや)いたりした・・。

『底値だったら・・少し多めに買ってくるからねぇ・・』
と私は家内の願いに、瞬時に応じたりしている。

我が家はソース、お醤油などの調味料、インスタント・コーヒー、ビールなどの嗜好品、
或いはトイレット・ペーパー、ティシュ・ペーパーなどの雑貨消耗品は、
押し入れに整理棚を設けて、保管しているが、私が在庫管理の責務となっている。

そして品薄と私が感じたら、家内に伝えて、私が買い求めてくる。
こうした中、インスタント・コーヒーが在庫が乏しい時、
スーパーが『お一人様1点限り』だった時は、スキップしたくなるように2往復した体験もある。
          

このように私は、買物メール老ボーイとなって、早や11年生となり、
昨今、年金生活を始めたと思われる男性が野菜売り場で、覚束ない手振りで品を見つめて、
スマホに話しかけているのを見たりしている。

この男性は、家にいる妻に助言か指示を仰(あお)いでいると思われ、
私は幾たびか目撃して、微苦笑したりしている。

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パソコン、スマートフォン、タブレットPCの“近未来予想図”、時代遅れの私でも、多々学び・・。

2015-10-24 12:37:04 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
我が家は私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中で、インターネットに関して、
私が定年退職した2004年(平成16年)の秋を迎る前の夏に、
遅ればせながら我が家にインターネット回線を導入した。

これ以来、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコン、予備機としてノートパソコンを設置して、今日に至っている。

ここ11年、据え置き型のパソコンに関しては、故障とか新製品に戸惑いながら、
三回ばかり買い改めたりしてきた。

私は平素に愛用しているパソコンは『ウィンドウズ7(セブン)』のディスクトップ型があり、
広い画面を見ながら、キーボードでブログの投稿文などを綴ったりしている。

そして『ウィンドウズ8。1』ノートパソコン型は予備機としてきた。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は予備機の『ウィンドウズ 8。1』☆

そして私は、ガラケーと称される携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
6年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には携帯電話が必要と思ったりした。

過ぎし今年の3月中旬、家内用に携帯電話の入門者に最適と思われる
『らくらくホン』コースを一台ばかり買い求めた・・。
そして選択コースは毎月2200円の『かけ放題』とした。

『かけ放題』にした理由は、我が家は固定回線の光ファイバーの『ひかり電話』を愛用しているが、
家内が独り住まい家内の母宅に、毎晩夕食前のひととき30分前後電話をし、
健康の状況など尋ねたり、聞いたりしている。

こうした結果として、固定の廉(やす)いと思われる『ひかり電話』でも、
毎月利用料金として3000円前後となったりしてきた。

このような事情で、従来の『ひかり電話』をできる限りやめて、
これから携帯電話の『かけ放題』を活用すれば・・という思惑があり、
メールとか写真などを利用できず、単なる移動できる電話機として使用している。
          

このような状況であり、ましてスマホと省略されているスマートフォンも使えないのである。
そしてスマホは、ここ7年急速に普及して、2012年(平成24年)には世帯保有状況が40%となり、
最近は60%になった、と私は学んだりしてきた。

そして私は、フェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように私は、無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
          

昨夜のひととき、愛読している総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていた時、
【アップルとサムスンの天下も10年後は続いていない?
         日本復活が夢ではないIT業界の“近未来予想図”】
と見出しを見て、時代遅れの私でも、好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と信念を秘めている私は、
こっそりとクリックした・・。

そして信州大学教授の真壁昭夫さんが、定例の寄稿文であり、
配信されたのは、2012年11月20日で、3年前の寄稿文と私は解ったが、
もとより日進月歩の熾烈なIT業界であるが、時代遅れの私は、これからの7年後は、
どのように世の中は変貌するか、好奇心が増して、精読した・・。
          
無断であるが、転載させて頂く。
《・・
☆一度自由な発想で考えてみよう アップル、サムスンの勢いは続くか?

10年後、世界のIT企業の勢力図はどうなっているだろうか。
やや荒唐無稽だが、現在わかっていること、これから起こりそうなことを全てひっくるめて、
自由な想像を働かせてみたい。

まず、現在の世界のIT企業の勢力図を整理する。
今、まさにIT関連製品群の中で、
パソコンからスマートフォン、タブレットPCへと中心が移っている。

それに伴い、パソコンメーカーの重要性が相対的に低下する一方、
アップル、サムスンの2大メーカーが世界のIT市場を席巻している。

おそらく、この流れは向こう10年間変わらないだろう。
むしろ、クラウドコンピューティングと呼ばれる集中型のシステムが進化するために、
パソコンの重要性はさらに低下すると予想する。

職場などでも1人1人がパソコンを持つ時代は、もうすぐ終わろうとしている。
簡単なキーボードによって、クラウドの中にデータや情報を蓄積し、
必要なときにそれをダウンロードして使うことになるだろう。
          

個人の利用者間では、すでにスマホ、タブレットへと向かう流れが定着している。
主にメールやインターネットを使う利用者にとって、スマホやタブレットを使えば十分に用が足りる。

軽くて持ち運びに便利、しかも外でも使えるスマホ、タブレットは、
おそらく10年後においてもIT機器の中心になっているだろう。
さらなる技術の発展で、スマホとタブレットの区別が明確ではなくなっているかもしれない。

そうした流れが続くと、スマホ、タブレットメーカーの隆盛がより鮮明になるだろう。
ということは、当分、アップルやサムスンの天下が続くと見られる。
しかし、両巨頭の天下は長くは続かないかもしれない。

台湾や中国などのメーカーの参入によって、競争が激化することは避けられない。
そうした状況下、アップルやサムスンですら生き残ることが
難しくなるような時代が来る可能性もある。
          

10年後、おそらくオフィスの中で人々がパソコンに向かって仕事をしている姿は、
あまり見られなくなるだろう。

たとえば、パソコンの代わりに、軽くてケーブルが付いていないキーボードを持ち歩く姿が
一般的になるだろう。
そのキーボードはゴム製で折りたたむことができる。
無線LANでつながっているため、面倒なケーブルは付いていない。

そして、特定のインターフェースを通してクラウドに接続されている。
人々は、そのキーボードを通してクラウドに入り、そこにデータや情報を蓄積する。
蓄積したデータなどは必要に応じてダウンロードし、
クラウド内にあるソフトを使って加工することも自由だ。

一方、個人ユーザーは、技術の進歩によって使いやすさを増し、
しかも電池の容量を心配せずに済むスマホやタブレットを使っている。

すでにスクリーンは折り畳みができるようになっており、液晶の大きさの制約はなくなっている。
畳んだままポケットに入れて持ち運べるし、
必要があればハンカチのように広げることも自由自在になっている。

そのため、スマホとタブレットPCの区別は事実上なくなっている。
スマホが、個人ユーザーが使うIT機器の中心になっている。

スマホは、特定の回線を通してクラウドコンピューティングのシステムにアクセスが可能で、
蓄積したデータなどを自由に見ることもできるし、ダウンロードして加工することも可能だ。
加工して作ったデータなどは、クラウドの中の自分のスペースにアップロードしておけばよい。

スマホと通信回線の情報量のやり取りは、現在とは比べ物にならないほど速くなっており、
ユーザーのイライラ感はほとんど解消されている。
また、国際的に規格が統一され、どこの国に行っても持っているスマホが使える状況になっている。
そうした状況は今は夢のような話だが、10年後にはこの夢は正夢になっていることだろう。
          

☆IT業界の熾烈な変化の波は、アップル・サムスンの二強も襲う

10年後のIT機器の姿を想像すると、最も重要な役割を担うことになるのはスマホだろう。
そのスマホの分野は、現在、アップルとサムスンの二強時代に突入している。
かつて携帯電話の王者だったノキアの影はかなり薄くなっている。

一方、スマホよりも少し大きいスクリーンを持つタブレットPCの分野でも、
アップルとサムスンの存在感は傑出している。
当分は、この二者の時代が続くことになるだろう。

しかし、IT機器の変化の速度を考えると、二強ですら変化に迅速に対応できないと、
淘汰の荒波を受ける可能性は高い。
変化の内容を2つに分けると整理しやすい。

1つの変化は新製品の開発だ。
アップルの故スティーブ・ジョブズCEOのように、
今までにないものをつくり出す企業が出てくるかもしれない。
          

スマホよりも便利でかつ有効な、
夢のようなIT機器を世に送り出す企業が出てこないとも限らない。
それが現実のものになると、アップルやサムスンでも圧倒される可能性がある。

もう1つは、現在のスマホがコモディティ(均質)化することだ。
つまり、スマホの機能などの開発が進み、製品の技術が飽和状況になる。

そうなると、どこの製品を買っても、それほど大きな差はない。
需要者は、機能に差がないのであれば、価格を優先して製品選択をするようになる。
激烈な価格競争が巻き起こる。

価格競争の段階に入ると、まず厳しくなるのはサムスンだろう。
同社は、韓国内の自社工場で部品の製造から組み立てまでを一貫して行なっている。
しかし、賃金水準の低い国でスマホの組み立てを行なうようになると、
価格競争力で勝てなくなる。わが国企業の二の舞になる可能性がある。

一方アップルは、世界的なサプライチェーンを構築し、
自社では生産工場を持たないファブレス方式をとっている。
そのシステムでは、組み立て工程はフォックスコンなどのEMS企業に任せている。

しかし、アップルが新製品の開発に行き詰まることになると、
EMS企業の中には自社ブランドを使って、自社製品を独自販売するところも出てくるかもしれない。
アップルにも、そうした落とし穴がある。
          

☆部品の提供と次の製品の開発を! 日本企業が復活するための選択肢

わが国メーカーにとって、スマホやタブレットPC分野で二強の後塵を拝してしまったことは、
痛恨の極みと言っていいだろう。

成長性が高く今後のプロダクト展開の柱であり、しかも今後の発展性が見込める分野で、
取り返しのつかないほどの差がついてしまった。
アップル、サムスンが世界的なブランドイメージを定着させた以上、
この分野で単純に巻き返すことは至難の業と言ってよい。

ただ、そうした状況下でもわが国企業にはそれなりの選択肢があるはずだ。
まず考えられるのは、スマホやタブレットに使われる素材や部品を提供する機能を担うことだ。

サムスンにしても、自社ブランドで様々なIT製品を販売すると同時に、
半導体や液晶などの主要部品において有力供給者の一面も持っている。
そのため、アップルとの激しい訴訟合戦にも拘わらず、
同社は史上最高益を上げることが可能になっている。

ソニーのイメージセンサー技術やシャープの持つ液晶の技術は、今でも世界有数のレベルにある。
そうした技術を上手く使うことができれば、自社ブランドで完成品を売ることができなくても、
相応の収益力を維持することはできる。

また、知識集約性の高い部品であれば、世界市場で高いシェアを持つことができる。
当該分野で、プライスリーダーとしての地位を築くことも想定される。
          

もう1つは、わが国企業がスマホやタブレットの次の進化系製品を生み出す可能性だ。
IT関連製品の発展性は目を見張るものがあり、
今後考えもつかなかった製品が世に送り出されることが考えられる。

だから、スマホやタブレットの「次の新製品」を狙うのである。

もちろん、世界中の企業がそれを狙っている。競争は厳しい。
しかし、かつてウォークマンや亀山モデルをつくり出したカルチャーとエネルギーを復活させればよい。
勤勉で高い技術を持つわが国の企業なら、その気になればできるはずだ。

素材や部品は、完成品と比較して収益率は低い。
新しい製品の開発こそ、わが国経済を活性化する重要なファクターだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

このようなこれから7年後に到来すると思われる“近未来予想図”を多々教示された。
私が現実的に理解できることは、パソコンは次第に衰退して、
スマートフォン、タブレットPCの時代となることである。

現代の私は、パソコンのディスクトップ型で、広い画面を見ながら、
キーボードで、ひたすらブログの投稿文などを綴ったりしているが、
スマートフォンの小さな画面だと、眼も衰えているので、論外と思える。

そしてパソコンが販売店から消える前、
やむなくタブレットPCの大きなA4サイズ画面を買い求めて、
70代の若葉マークと称される初心者になることが、予測される。
          

そして私はこれ以外は思案できないので、
過ぎし年にマッカーサー元帥が、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ・・」の名言を
思い浮かべて、微苦笑している・・。

しかしながら、この世は何が起こるか予測されないこともあり、
もしかしたら私が大きな画面のスマートフォンを持ち歩き、
こんな便利なスマホ・・早く覚えれればよかったに、と変貌するかも知れない。

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感性の衰えた老ボーイの私でも、ときには数多くの麗(うるわ)しき女性に、めぐり逢えて・・。

2015-10-23 13:50:35 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であるが、
幼年期は農家の児として生を受け、兄ふたり妹ふたりだったので、
サンドイッチのような中で、育成された。

やがて小学2年生の頃から、父の妹である叔母が未婚だった当時、
都心に住んでいる友人が来宅して、私は言葉、しぐさ、表情にに魅了されて、
素敵なお姉さん・・と感じたりして以来、何かしら女性に憧憬を深めたりしてきた・・。
          

そして確か1954年(昭和29年)の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で、木下惠介・監督の『二十四の瞳』を観賞した・・。

そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。

この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生(高峰秀子さん)の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉(田村高廣さん)が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであった。

そして、この時に廊下に立っていた成人した生徒の女性(月丘夢路さん)が
『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

こうした時、月丘夢路さんのしぐさ、表情を観たりして、綺麗なお姉さん・・と
と見惚(みと)れたりしていた。
          

私は幼年期に農家の児として育てられた為か、父の妹である叔母が畑の一角に、花壇を作り、
仏様とかお墓にささげる花を観たりしてきたので、里花には愛惜を秘めているひとりである。

或いは田圃(たんぼ)とか遊歩道の片隅に咲いている野花も恋しく、長年に見惚(みと)れたりしている。

そして家内は中学生の頃から茶事を習ってきたので、私は婚約の頃から茶花を教えられて、
魅了されたりしてきた・・。

このように里花、野花、茶花に関しては、少しばかり知っているが、
洋花に関しては、殆ど無知な男である。
          

こうした中で、薔薇(バラ)の花に関しては、何かしら高嶺の花の女性と感じ、
高貴な花と深めてきたので、恥ずかしながら定年退職した60歳の頃まで、
近寄りがたく気後(きおく)れしまい敬遠してきた・・。

そして何かと卑屈と劣等感を秘めてきた私でも、
遅ればせながらイギリス、フランスの文化を逃げることなく知る為には、
やはり薔薇(バラ)は欠かせない、と確信を深めたりした。

そして年金生活の60代に国内旅行で『バラ園』があった時、鑑賞する時もあったりし、
私の住む地域の都立『神代植物公園』に於いて、
恒例の『春のバラフェスタ 』、『秋のバラフェスタ 』などで、
数多くの美麗な薔薇(バラ)を鑑賞して、感性の衰えた私でも、魅了された。
          

昨日、家内は独り住まい家内の母宅に介護で、早朝より3泊4日の予定で出かけたので、
『おひとりさま』となってしまった私は、
確か『神代植物公園』で『秋のバラフェスタ 』が開催中と思いだして、訪れた。
          


やがてバラ園に着くと、お待ちしていましたわょ、と微笑まれたような
数多くの麗(うるわ)しきバラに、めぐり逢えた・・。


それぞれの花形が美しく、やはり高貴な女性の容姿だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
私は下男のように跪(ひざまず)いて、撮ったりした。
          

周辺にいる私と同世代の10数人は、カメラの愛好家にふさわしく、
一眼レフの中でも高価なカメラ、レンズを使用して、撮られたりしていた。

私の所有しているコンバクト・デジカメの性能、そしてデジカメの技量の乏しい私は、
せめてバラに魅了された若葉マークのような初心者として、
心の思いは誰よりも・・、と思いながら20数枚を撮ったりした。
                  

こうした中で、恥ずかしながら少しポケてしまった写真はあったが、
こうしたことは高貴の女性の前では、
私は幾つになっても、オドオドしてしまい平常心をなくしていた、と後で気付いたりして、
独り苦笑をしたりしたた。
                

このように一時間半ばかり、麗(うる)しい数多くのバラに、
綺麗な高嶺の人、と思い深めて過ごし、やがて高揚しながら帰宅に向かった。
          

尚、掲載した写真のすべては、昨日の午前中のひととき『神代植物公園』で、
私が撮った拙(つたな)い写真である。

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これからの都心のマンション、四重苦にも遭遇すると学び、小心者の私は動顛して・・。

2015-10-22 14:35:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭の中で、築後37年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして男性の健康寿命の平均は、私と同年齢の71歳、そして平均寿命は79歳であるので、
私が亡くなった時は、家内にはこの家を売却して、マンションのコンバクトな部屋を買い求めて過ごせば、
老後の長い期間でも、生活苦にはならないょ、
と私は夫の責務の立場として、家内に幾たびか言ったりしてきた。

こうした理由は雑木の多い小庭であるので、樹木の剪定、草むしりも労苦が伴い、
古ぼけた一軒屋も維持管理するのは、大変だからいう思いであった。

或いは私たち夫婦のどちらかが、要支援になった時は、やむなく我が家を売却して、マンションに移住、
介護要になった時、介護施設のある処に移住しょう、と漠然としながら、
話し合ったりしてきた。

しかしながらこの世の中は、予期せぬまさかの出来事に遭遇することもあり、
家内が私を残して、あの世に旅立ってしまうこともある・・。

こうした時は、私は落胆を深めながら、やがてマンションの小さな2DK部屋を買い求めて、
私は晩年期を過ごすと思われる。

このようなことを私たち夫婦は、漠然としながら秘めている。
          

たまたま昨夜のひととき、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を見たりしていたが、
【 都心の優良物件も大暴落!
          マンション神話を崩壊させる「2020年問題」は、本当だった 】と見出しを見て、
どのようなことなことなのょ・・と思いながらクリックして、 精読して、
やがて小心者の私は動顛してしまった・・。

この原文は『週刊現代』の2015年10月20日号に掲載された記事であり、
無断ながら記事を転載させて頂く。
          
《・・駅近だから大丈夫、湾岸エリアはまだ上がる---そんなマンション神話はもう崩れる。
立地の良し悪しなど無関係。
マンション価値を根底からむしばみ、大暴落させる「新しい病」が猛威をふるい出した。


☆審議会が暴露した「真の2020年問題」

東京・新宿区で民間初の分譲マンション「四谷コーポラス」が売り出されたのは1956年のこと。
それから約60年の時を経て、日本は全国に約600万戸を抱えるマンション大国となった。

中でも、全国のマンションの4分の1以上が集中、
日本一のマンションストック数(168万戸)を誇るのが東京である。

東京都都市整備局(都市整)は、そんな都内マンションの行政をつかさどる大本営。
普段はあまり注目されないこの組織が、いま不動産業界で話題の的となっている。

「都市整がパンドラの箱を開けた」
「都内のマンションの9割は23区内に建つが、都市整がそれら優良物件の大暴落を招く『戦犯』になる」
業界関係者からはそんな物騒な声が聞こえてくるのである。

きっかけは約1年前。都市整備局が中心となって不動産のプロたちを一堂に結集して、
「マンションの2020年問題」について話し合う審議会を始めたことにある。

審議会の正式名称は、東京都住宅政策審議会。
          

昨年7月にスタートし、去る9月3日に1年間の議論を答申にまとめたのだが、
この答申が業界に大きな波紋を広げているのだ。

「空き住戸の増加や管理組合の機能低下等によって、管理不全に陥り、スラム化を引き起こす」

「一たびマンションがスラム化すれば、周辺市街地や生活環境における、
治安や景観、衛生面での悪化を招き、地域社会における深刻な問題へと発展する」
答申にはマンション危機に警鐘を鳴らす言葉がズラリと並ぶ。

そもそも審議会が開催されることになったのは、
都の人口が2020年にピークを迎えることへの危機感があったから。

さらに、全国的に世帯主の年齢が60歳以上のマンションが約5割を占めるなど、
マンション住民の高齢化が急速に進展しているとの事情もあった。
          

そうした中で、現在どのようなマンション問題が発生しているのか、
新たにどのような問題が噴出しそうか。
審議会では専門のマンション部会を設置したうえで、
プロたちがリアルな実態を次々と明らかにして、答申にまとめた形である。

もちろん、これまでもマンションの2020年問題については、
業界内外から指摘されてきた。

東京五輪開催に向けてマンション業界は大盛況だが、
ブームは五輪終了とともに急速に萎み、価格の値崩れが始まると……。

しかし、この審議会はそうしたブーム終焉の是非にとどまらず、
より根深いマンション問題の実態に踏み込んだところに特徴がある。

たとえば、前述した部会の議事録には、
次のような不動産業界の「裏話」までが赤裸々に綴られている。

「分譲業者が、外国企業にまとめて売却してしまうと、
そのマンションの区分所有者の大半を外国企業が占める(中略)
その多くは管理費や修繕積立金について認識が薄く、所有者となってからまったく支払わないなど、
深刻な滞納問題が生じている。
このままでは管理組合の財政そのものが破綻してしまう可能性がある」

要するに、表立って語られなかった「真の2020年問題」の数々を明るみに出してしまったことで、
「これが価格暴落の引き金になる」と業界は大慌てなのである。
          

☆首都圏郊外では200万円でしか売れない物件も

審議会で特に問題視されたのが、「管理不全マンション」なるものだ。

マンション住民でつくる管理組合が崩壊、
それがきっかけでマンションの維持・管理が適切に行われなくなり、
マンション価値が地滑り的に下落してしまう物件のことを指している。

聞き慣れない言葉かもしれないが、全国で多発。
マンション価格の暴落に直面して、頭を抱える住民が急増している。


東京・世田谷区の人気住宅エリアに建つ8階建てマンションに住む、
岡田拓也氏(仮名、53歳)はそんな一人である。

約5000万円で購入した2LDKの部屋を売りに出そうとしたところ、
「1000万円台でないと厳しい」
と仲介業者から突きつけられたことから、悲劇が幕を開けた。

駅からは徒歩5分圏内で交通至便。
相場感覚では4000万円前後で売れると思っていた矢先、
「地震でエレベータホールの壁に亀裂が入った。
当然、修理が行われると思っていたら、そんな様子もない。
どうしてかと調べてみたら、とんでもないことが起こっていた」(岡田氏)。

普段は隣人との交流もなく、ほかのマンション住民たちのことは気にかけたこともなかったが、
改めて確かめると、居住者は70代前後の高齢者ばかりになっていた。

マンションは壁の塗装や水道管の劣化など老朽化が始まっており、
管理組合の理事会では、管理費の増額も検討されていたが、
「どうせ死ぬまであと十数年住むだけ」、
「別に生活するのに問題ではない」と一蹴されていた。

亀裂についても「構造上は問題なし」と判断、
管理費増額を懸念した高齢の住人たちが、修理に反対したのが実情だった。

「年金生活者だからという理由で、管理費を滞納している住民も出始めていた」(岡田氏)

このままいけば、住民が高齢化するとともに、マンションも「老い」に抗うことなく、
死を待つばかり……
岡田氏は恐ろしくなり、売れるうちに売ったほうがいいと、1000万円台でも手放す決意をした――。
          

☆いますぐ売る準備を始めたほうがいい

不動産コンサルタント・オラガHSC代表で、
『2020年マンション大崩壊』などの著書がある牧野知弘氏は言う。

「マンション住民の高齢化が急激に進んでいます。
日本全国ですでに、マンション世帯主の約2割は70歳以上です。

一方で、自分のマンションにどんな人が住んでいるか、
管理組合がどうなっているか、きちんと把握している人は少ない。

管理費の滞納が起き、空き部屋が発生、やがて共用廊下の電気すら消え始めた頃に初めて、
自分の住むマンションの危機に気付くわけです。

しかし、そのときはマンション価格が暴落の一歩手前。
こうした事例が都会のマンションにも広がりつつある。
首都圏郊外では200万~300万円でしか売れない物件まで出てきています」

住民高齢化の問題が怖いのは、住民の高齢化率がある一定レベルを超えた途端、
堰を切ったように手に負えない問題が次々と噴出。
マンション価値を急速かつ急激に引き下げてしまうことにある。
          

牧野氏が続ける。

「私の知る事例には以下のようなものがあります。
認知症を患ったと思われる住民が、管理費の支払いを遅滞し始めたので催促したら、
『自分はちゃんと払っている』と主張された。

さらに請求すると、『脅迫罪だ』と逆ギレされるなど、コミュニケーションが取れなくなった。

親のマンションを相続したものの、片付けだけで一苦労。
賃貸に出すにもリニューアル費用がかかるので、
ゴミだらけの空き部屋を放置したうえ、管理費も滞納した。

こうした住民が一人、一人と増えていくに連れて、
嫌気がさした若い住民は、マンションを離れていく。
そのうち、老朽化対策もされないマンションに、高齢者ばかりが住む状況に陥る。
果てはスラム化、となるわけです」

国土交通省が昨年発表した「マンション総合調査」の結果は衝撃的だ。
同調査によれば、「3か月以上の管理費の滞納がある」と答えた管理組合の数が、
日本全国のマンションのなんと約4割。
スラム化の予兆が多くのマンションに出現していることがわかる。

2024年には団塊の世代が75歳以上になり、3人に1人が高齢者という老人社会に突入する。
そのときに動き出すのか、いまから売る準備を始めるか—答えがどちらかは明らかだろう。
          

☆タワーマンションは「グローバル化」で自治崩壊へ

富裕層や若者に人気のタワーマンションの住民とて、「例外」ではない。
むしろ、より深刻な「管理不全現象」が勃発している。

都心のあるタワーマンション。高層部は億ションとなる超優良物件で、
住民たちが頭を抱えているのが、マンションの「グローバル化」だ。

複数の中国人が高層階の部屋を購入して住み出したが、日本人住民は生活習慣の違いに唖然。
磨き上げられた共用部に、たんや唾を吐く、ラウンジスペースで酔って寝る、
エレベータ内で飲食をするといった問題行動が頻発している。

そこで管理組合の理事会で話し合おうとしたところ、
中国人は、「理事会は中国語でやってくれ」、「管理規約を中国語にしろ」などと反発。
日本人住民vs.中国人住民の対立がおさまらないまま、
いまもラウンジスペースでは、中国人のどんちゃん騒ぎが響き渡っているというのだ。

住宅ジャーナリストの榊淳司氏が言う。

「中国人住民がマンションの一室を友人にホテル代わりに貸し出し、
そこで夜な夜な宴会騒ぎが行われる。
ベランダから小便をしたり、共用施設のプールで大騒ぎしたりという例も聞きます。
もちろんこうしたマンションの価値は下がってしまう。

しかも、中国人が『爆買い』したマンションが続々と完成するのは、まさにこれから。
タワーマンションが集中する湾岸エリアは、
これから本格的にチャイナタウン化していく可能性がある」

タワーマンションを巡っては、「日本人vs.中国人」だけではなく、
「上層階vs.低層階」の対立が、暗い影を落としているから問題は根深い。
          

というのも、タワーマンションは高層階に住むのが高所得者、
低層階にはそこまでゆとりのない層といった風に、
住民の所得格差が大きいという特徴がある。

「そんな両者の対立が、マンション価値を大きく下げかねない」と、
不動産コンサルタント・さくら事務所の土屋輝之氏は指摘する。

「実は'90年代からリーマン・ショック頃までに『タワマン・ブーム』で売れに売れた物件が、
これから一気に大規模改修を迎えます。
 
しかも、タワーマンションの修繕は多額を要するうえ、
現在は建設資材や人件費の高騰が重なり、当初見込まれていた修繕積立金では
対応できない可能性が出てきました。

ここでネックになるのが、高層階と低層階の所得格差です。
高層階に住む高所得者が修繕のための追加負担に応じたとしても、
低層階の住民が負担増はきついと反対。
管理組合で両者のコンセンサスが取れず、修繕がうまくいかなくなるリスクが浮上してきた」

中国人、高層階、低層階という3者のバトルがマンション自治を崩壊させ、
マンションそのものの価値を落としていく。
そんな「負の連鎖」がいままさに巻き起こり始めているわけだ。
          

☆中目黒、二子玉川エリアの住人は、早めの決断を

さらに、ここへきて「チャイナ・ショック」が勃発、
手元の現金確保のために中国人オーナーの「売り」が一挙に出る、との噂も浮上している。
もし現実となれば、タワーマンションの暴落劇に発展しかねない。

「相続税評価額を割安に抑えられるとして、
節税対策でタワーマンションを購入している日本人の富裕層も多い。

が、国税当局がいまこの節税スキームを規制しよう、と動き出していると言われており、
近いうちに『タワマン節税』はできなくなる可能性がある。

おのずと相続対策狙いの富裕層は、タワーマンションから離れていくことになる。
すでに湾岸の中古マンションには、売りが増えてきているとも聞きます」(前出・牧野氏)

2020年を待たずして、「暴落」の足音は迫りつつある。

そもそも、人口減少社会に突入した日本では、マンションはすでに供給過剰。
それなのに、安倍政権はジャブジャブと市場にカネを流すことで、
株式市場と同様に、バブルを作って「マンション相場」を演出してきた。

「今年1-6月期、東京23区内の分譲マンション価格は、8年ぶりに6000万円を突破した。
リーマン・ショック前、'07年のミニバブルと呼ばれた時期よりも実質価格は上がっています」
(みずほ証券チーフ不動産アナリストの石澤卓志氏)

だが、見てきたように、多くのマンションの内情は傷つき、壊れ、根元から崩れ落ちようとしている。
その実態が表沙汰になった時、「上げ底」になっていただけ余計に、
大きな暴落劇が巻き起こることになる。

「特にイメージ先行で価格が上がっているエリアは、
市場の熱が冷めた時、大きな価格の見直しが入るでしょう。
東京では中目黒、代々木上原、二子玉川などは要注意です。

特に中目黒は谷底の地形だし、二子玉川は川沿いの低地。
地形的に決して高級住宅地の条件を備えていないにもかかわらず価格が暴騰した分、
谷が深くなる危険性がある。

これらのエリアに住んでいる人で、そろそろ売却をと考えていた人は、
早めに決断したほうがいいかもしれない」(ディー・サイン不動産研究所所長の吉崎誠二氏)

かつて夢のマイホームとして人気を博し、
サラリーマン家庭が殺到したニュータウンのマンションは「冬枯れ物件」に成り果てた。
同じことがこれからは、都心の優良物件へと広がっていく。

先に逃げた者ほど被る損は少なくなる。残された時間はすでに少ない。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は読み終わった後、下記の解釈して箇条書きとした。

●東京・世田谷区の人気住宅エリアに建つ8階建てマンションでも、
 住んでいる住民の維持管理、補修費は、それぞれの思惑の差異があり、やがて老朽化する。

●マンション世帯主の約2割は70歳以上で、高齢者が加速する中、
 管理費の滞納が起き、空き部屋が発生、やがて共用廊下の電気すら消え始めた頃に初めて、
 自分の住むマンションの危機となる。

●タワーマンションは「グローバル化」で自治崩壊

●中国人のマンション投資、日本人の富裕層の節税対策、変貌により売却化され、やがて下落。

このように整理したら、これからの都心のマンションは、四重苦にも遭遇すると学び、
いつの日にかマンションを買い求めることに、躊躇(ちゅうちょ)させられたりした。
          

これからの四重苦も想定する中、マンションの選定も難しく、
住んでいる住民の維持管理、補修費は、それぞれの思惑の差異があり、
まして私のように高齢者は敬遠されるかもしれない。

このような心情を重ねると、私たち夫婦のどちらかが、要支援になった時は、
『特別養護老人ホーム(特養)』は、価格面に於いても望ぞましいが、
原則的として要介護2以下の人は、入居は困難である。

そして介護に要する負担金は少なく済むので、 少なくとも52万人の待機者いて、
国からの公費が1人あたり年間180万円程度多くかかるともされ、
財政的に『特別養護老人ホーム(特養)』を増やし続けることは難しい、
と新聞などで読んだりしてきた。
                    

『サービス付き高齢者住宅』に関しては、入居条件は60歳以上であることだけで、
要介護度に関係なく誰でも入れる上に、要介護・要支援認定を受けていれば、
60歳未満でも入居が可能。

そして 館内および部屋はバリアフリーで、日中は館内にケアの専門家の職員が常駐して、
安否確認と生活相談のサービスを提供する。

ただし、サービス付き高齢者住宅は、介護や食事、健康管理などのサポートはセットではなく、
あくまで高齢者向けの賃貸住宅である、と学んだりしてきた。


そして民間の『有料老人ホーム』に関しては、
少なくとも入所一時金は1000万円、そして毎月は最低として利用料金は20万円が要し、
更に手厚い介護を受ければ高額となり、私は溜息を重ねたりしてきた。

その上に昨今、民間の『有料老人ホーム』でも倒産が多くなったと知り、
要介護となった時の身を思い馳せると、住まいの迷子は勘弁してほしい、と思ったりした。
          

このように迷い果てると、私たち夫婦はいつの日にか要支援になった時は、
『サービス付き高齢者住宅』が妥当かしら、と思ったりしている。

同じような世代、似通った要支援が多い身であるので、平素の生活環境、礼儀など、
そして維持管理なども共通認識の礼節もある、と思ったりして、
私の現在の本音となっている。


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団塊の世代、理想と現実を読み返して、やがて微苦笑させられて・・。

2015-10-21 18:46:13 | ささやかな古稀からの思い
私は夕暮れ時、自身のブログを漠然と読み返していたら、
『団塊の世代、理想と現実』と題した投稿文に、微苦笑したりした。

過ぎし年の2005年(平成17年)7月に投稿していた文であったので、
ほゞ10年前であるが、この中の一部を再掲載する。

《・・『NETアイ』に於いて、『消費と産業の深層を探る』と題し、
深堀 純・編集委員が綴っているが、転記させて頂く。

団塊の世代のサラリーマンが、定年を迎える日が近づいている。
彼等が退職して自由に使える時間が増えれば、趣味や余暇に関わる市場は当然膨らむ。

その規模は、日経MJの推計で、現在の1・7倍の年間5兆円。
宝の山を掘り当てようと様々な企業が手ぐすねを引くが、
問題は彼等が思い描く理想の老後の現実のギャップ。

税金などの負担増が今後重なると、絵に描いた餅に終る可能性も否定できない。
          

団塊の世代のサラリーマンは、2007年から2009年にかけて、定年を迎える。
その日に向けたカウントダウンが始まったこのタイミングで、
彼等が退職後の生活をどのように思い描いているかを日経MJが調査を行なった。

その結果は、今日の日経MJに詳しいので観て頂くとして、
いくつかのポイントについて考えて見たい。

ひとつは、団塊の世代の男性が、趣味や遊びに極めて強い意欲を持っていることだ。
調査では、旅行、アウトドア・スポーツ、テニス、ゴルフ、料理、パソコンなど24の趣味項目を挙げて、
「現在しているもの」
「今後ずっと続けたい。これから始めたいもの」を聞き、
それぞれついて
「現在かけている金額」
「今後かけたい金額」を答えてもらっている。

その結果を見ると、
ほぼ全ての趣味について、現在かけている以上の金額を今後もかける考えだと分る。

団塊の世代は、上の世代に比べて消費性向が高い半面、会社人間、仕事人間ともいわれる。
それだけに、退職したら思う存分、趣味や遊びを考える気持ちが強いのだろう。

ちなみに5兆円の市場規模は、それぞれの趣味を「今後も続ける。これから始めたい」人の割合から、
団塊の世代のの男性全体(335万人)ては何人になるかを推計、
それぞれについて「今後かけたい金額」を掛けて算出したもの。

この通りになれば、巨大な市場が生まれることになる。

問題は、退職後、趣味や遊びにそれだけのカネをかける
《理想の生活》が実際できるのかどうかだ。
          

調査によれば、退職・引退直後の年収見込みは、平均326万円。
2004年の世帯平均年収、960万円の3分の1近くにに減る。
現在の貯蓄額も平均1868万円で、
退職後に夫婦2人で暮らしていくのに必要と思う額3134万円の6割弱てしかない。

退職すれば収入は、大幅に減る。
充分な蓄えがあるわけでもない。
なのに、趣味や遊びに今以上のカネをかけたい・・。

冷静に考えれば、経済的な裏付けのない、かなり無理な願望であることが分る。

36%の人が将来、家や土地を親などから、
相続できる見通しがあるという、プラス材料がある。

しかし、24%は親と一緒に住んでいて、
介護などの問題か発生する可能性があることや、
15%がまだ独立していない子供を抱いている家計負担要因もある。

団塊の世代が、定年を迎えるまで、あと2年~4年。
まだ時間が残されていることもあって、今は全体に楽観的な考えが目立つが、
この先カウントダウンが進んで、経済環境や心境がどう変わるか。
今後も更に、調査を重ねる必要がある。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          
        
このような文を読み返したりした・・。

私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
私より少し若い世代の団塊世代の諸兄は、
多くは方は60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで、何らかの形で働かれ、
数年前に65歳になった後、年金生活を過ごされている方が多い、と私は感じたりしている。

そして私は60代の10年間の年金生活を過ごして、
昨年の9月に古稀と称される70歳となり、何とか70代の入門が許されたひとりとなっている。

ときおり60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
          
      
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしで、無念ながら敗退した後、
遅ればせながら25歳で、1970年(昭和45年)4月に民間会社に中途入社した。

まもなく団塊世代の新卒の方たちと、数年は机を並べたり、
自然と友人のような関係で、交遊を重ねることが多かったした。

或いは私の妹のふたりは1947年(昭和22年)1月生れ、1948年(昭和23年)10月生れ、
家内も1949年(昭和24年)12月生れであるので、
私は団塊世代の対しては、何かと親近感を覚えたりして、注視したりしている。
          

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、この間に幾たびのリストラの中、
何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

そして何かと悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、
その直後から年金生活を始めたのは2004年(平成16年)秋、60歳であった・・。
          
そして私の父は42歳の若さで病死され、私が50代の時に2歳年下の職場同僚、そして知人も57歳で死去し、
私は呆然としながら、この当時は定年後の10年間は五体満足で生かしてくれ、
と念願したりしてきた。

         
私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年(昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。
          

昨今、早や年金生活11年生となっている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、
程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

私たちは東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの一軒屋に住んでいる。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や65年が過ぎている。
       
こうした中、 日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

そして最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
                                                          
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すことは天敵と思いながら、
平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったりしている。

或いは私たち夫婦は、共通の趣味のひとつには、国内旅行であり、
現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。
          
                          
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

このように私たち夫婦は、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

そして私たち夫婦は、お互いの趣味を尊重し、
ささやかながら潤(うるお)いのある日常を過ごしている。

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ネットでは決してめぐり逢えない、私の数多く嬉しきことの中で、ふたつには・・。

2015-10-20 13:36:50 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭である。

そしてインターネットに関して、私が定年退職した2004年(平成16年)の秋を迎る前の夏に、
遅ればせながら我が家にインターネット回線を導入して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンを利用し、今日に至っている。

しかしながら私は、恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話に興味がなく、
家内は昨年の春に、ボケる前には携帯電話が必要と思い、
携帯電話の入門者に最適と思われる『らくらくホン』を一台ばかり買い求め、
メール、写真、ネット情報に連動させず、単なる電話機として使用している。

そしスマホと省略されているスマートフォンは、ここ7年急速に普及して、
2012年(平成24年)には世帯保有状況が40%となり、最近は60%になった、
と学んだりしてきた。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように私は、無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                               

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたが、こうした中で、ネットの世界から数多く学んだりした。

特に総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】、【プレジデントオンライン】などから、
政治、外交、軍事、経済、社会、文化など多岐に及び学び、
やはりそれぞれの専門家の言説に、深く教示されたりしてきた。

或いは定年後まもない時に、私はブログの世界を知り、
これ以来、私はパソコンの故障、国内旅行をしていない限り、毎日一通は投稿してきた中で、
特にシニア層の方の投稿文を読ませて頂き、こうした思いで日々を過ごされているか、
と確かな人生の教科書と思いながら、教示されたりしてきた。


しかしながら、誰しも日常生活を過ごされる中、
情報氾濫のようなネットの世界から、数多く事柄を享受されていても、ネットでは決して、
めぐり逢えない出来事を多く体験している、と思ったりしている・・。

このようなことを私は、ぼんやりと先ほど思案し、
ネットではめぐり逢えない、ささやかな私の嬉しきことが思い浮び、微笑んだりした。
          

過ぎし9月15日、年に一度の『特定健診』と称される健康診断を内科病院で受診し、
この診断結果が先日15日で、私は病院の待合室で待機している時、
置いてある『週刊新潮』を取り、読んだりした。

たまたま10月1日号であったが、この中に作家・嵐山光三郎さんが、
『古都を旅する私の伊勢~何木塚~』を読んでいる中、心が強くはじけるような文に、
めぐり逢えた・・。

《・・(略)・・伊勢の句だけを見ても、芭蕉における西行の存在の大きさが分かります。
西行の痕跡を求めて旅に出た芭蕉、
そしてその跡を現代人が追う、これが日本の文芸のカタチなだと思います・・(略)・・》

私は敬愛している嵐山光三郎さんは、国文学を学び、その編集者と活躍された後、
小説、随筆を数多く上梓し、俳人でもあり、
雑誌などで俳句を投稿された応募作品について講評されている方で、
このたった三行で日本文芸を凝縮(ぎょうしゅく)されたことに、瞬時に圧倒されたりした。

そして私は芭蕉の『おくのほそ道』は、元禄期、芭蕉46歳の時に150日前後で奥州、北陸を旅されたが、
直ぐに紀行文として書かずに、死ぬ51歳近くで定稿になり、
この間に作品化する為の作業をされていたことを私は思い馳せて、
やがて私は、まぎれなくそうですよねぇ、と私は同意を深めたりした。
          

私たち夫婦は共通の趣味のひとつには国内旅行であり、
観光ホテルなどに滞在して、自動車免許書を放棄した私は、家内と共に周辺をひたすら歩く旅路が多い。

過ぎし一昨年の2014年(平成26年)新年まもない時、
ある有力な旅行通販会社から郵送されてくる小冊誌の中に、
《 温泉ステイ 長期滞在 渓谷に抱かれて・・
      定山渓グランドホテル端苑14日間 》と題したフリープランが掲載されていた。

私たち夫婦は冬の定山渓温泉の情景は未知であり、お互いに元気で意欲のある今、行きたい所に行ければ、
と思いながら旅路となった2月2日より15日まで13泊14日で滞在し、
温泉地、周辺を散策して、遊学してきた。

こうした中で、持参した3冊ばかりの本が読み終わった後、
10日の夕暮れ時から、定山渓温泉地に出ると、幾つかのコンビニに寄り、
総合月刊誌の『文藝春秋』を探し求めたが、やはりこの地にはなく、落胆してきた。

            

その上、過日に館内のロビーにある読売新聞の『書評』をたまたま読んでいた時、
山田太一・著の『月日の残像』(新潮社)の作品をノンフィクションライターの渡辺一史さんが書評され、
私は深い書評の寄稿文を読んだりすると、ぜひ購読したい、と私は思ったりしてきた・・。

             


こうした心情を秘めてきた私は、札幌の中心街に行き、本屋で買い求めたく、
幸いに家内は、外湯の湯処で入浴した後に、トレーナーがあると楽だわ、と言ったしてきたので、
家内はトレーナーを買い求める為、私たちは札幌の中心街に向った。

私たち夫婦は宿泊している近くの『定山渓車庫前』のバス停より、路線バスに乗り、      
          

地下鉄の南北線の『真駒内』駅に向かい、その後『真駒内』駅から『大通』駅に着いたが、
地上に出ると、やはり札幌市の中心街は都会だなぁ、と感じたりした。

そして昨日まで多くの市民、観光客を楽しませた『さっぽろ雪まつり』も終わり、
雪まつりの会場の撤去作業が行われたりしていた。

こうした中、街の歩道を歩いたりすると、可愛らしい雪だるまにめぐり逢い、
記念に私は撮ったりした。
          

やがて私たちは、『サッポロファクトリー』に向った。
一部の歩道は根雪のような中を歩いたり、それぞれシティホテルの前は小奇麗に雪かきがされていて、
思わず微笑んだりした。

やがて『サッポロファクトリー』に入ると、懐かしい状景を観たりした。
          

確か2008年(平成20年)の12月の下旬の時に、家内が『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たく、
繁華街のすすきの4丁目より200m前後にある『ススキノ グリーンホテル 2』に4泊5日し、
この間にすすきの周辺、南三条を歩き廻ったり、もとより大通公園で『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
或いは『三越』に寄ったり、地下街の商店街を歩いたりした。

そして『サッポロファクトー』に行ったりし、中島公園にある『北海道立文学館』に訪れたりした。

この時の『サッポロファクトー』の鮮明に思いは、この前景の煙突にサンタクロースが登っている情景で、
私は微笑みながら、創案された方の感性に絶賛したりしていた。

こうした思いのある私だったが、あれから6年は過ぎてしまったか、と歳月が余りにも早く過ぎてしまった・・
感慨深く感じながら、あの頃は私は若かった、と69歳の私は微苦笑したりした。


この後、家内はトレーナーを買い求める為、館内の衣服フロアーに行き、
私は館内の本屋に入り、私は総合月刊雑誌の『文藝春秋』(3月特別号)を手に取った後、
単行本のコーナで山田太一・著の『月日の残像』(新潮社)を探し求めたりした。

そしてレジの近くの山積みになっているコーナーで、
偶然に野坂幸弘・監修『ふるさと文学さんぽ 北海道』(大和書房)にめぐり逢い、
私は瞬時に手に取り、微笑んだりした。
             

やがて私は三冊の本をレジで精算して頂いている時、女性の店員さんに、
『アマゾンなどのネット販売ですと・・こうした本に無知のままだったと思われ、
やはり本屋に寄りますと、偶然に出逢える本もありますよねぇ・・
ですから、私はネット販売で買い求めたりしません・・』
と私は明るく言ったりしすると、若き女性の店員さんは微笑んだりした。
          

このように、たとえば山田太一・著の『月日の残像』(新潮社)をネットで検索をすると、
関連した本が下記に羅列されるサイトが多いが、
しかしながら野坂幸弘・監修『ふるさと文学さんぽ 北海道』(大和書房)は、もとより関連性がなく、
本屋で偶然にめぐり逢えた本となっている。


このようにネットでは決してめぐり逢えない、ささやかな嬉しきことを
私は数多く秘めたりしている・・。

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高齢者は「遅寝遅起き」を、「早起き」すると寿命が縮む!と学び、私は生れて初めて知り・・。

2015-10-19 09:41:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
殆どは朝の6時に起床して、夜の11時半過ぎに布団にもぐり、やがて寝付くことが多い。

そして私は読書が第一の趣味であり、ときには深夜まで及ぶと、
朝の7時過ぎに起床して、昼下がりに眠くなったら、昼寝をしてしまう時もある。

このような睡眠時間のサイクルで、年金生活11年近く過ごしている。

たまたま昨夜のひととき、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を見たりしていたが、
【 早起き」すると寿命が縮む!オックスフォード大学の研究で判明
            ~心筋梗塞、脳卒中、糖尿病のリスクが倍増 】と見出しを見て、
動顛してしまった・・。

どうしてなのょ・・と思いながらクリックして、 精読して、多々教示させられた・・。

この原文は『週刊現代』の2015年10月17日号に掲載された記事であり、
無断ながら記事を転載させて頂く。
          

《・・早起きは健康である・・誰もが信じきっていた通説を覆す研究発表が全世界で話題だ。
そこに示されていたのは、早起きによって起こる病気の数々。
一流学者が本誌に語った、驚くべき「睡眠の新常識」。

☆体にも心にも悪い

「『早起き』が健康に良いものだと思っているのならば、それは大きな間違いです。
朝6時に起きて、日課のジョギングを1時間ほどこなしてから、
余裕をもって会社に向かい、9時から仕事に取りかかる。

誰もが理想的だと考えるそんな生活が、
重大な病気を引き起こし、命取りになることもあるのです」

朝早く起きることは、人体にとって「拷問」に等しい・・
そんな衝撃的な研究結果を発表したのは、
英オックスフォード大学の睡眠・概日リズム神経科学研究所の名誉研究員、ポール・ケリー博士である。

同博士が、イギリスで行われた科学イベントで発表したレポートが、英ガーディアン紙などで報じられ、
いま世界中で話題となっている。

この記事の注目すべき点は、一般的な会社員にとっては、
当たり前のものとして受け入れられている「9時5時」という就業時間が、
実は人間の体内時計と全くかみ合っていないということだ。

さらにそれが原因となって、さまざまな病気を引き起こす恐れがあるほどに、
精神にも肉体にも悪影響を与えるという。
          

☆ケリー博士は言う。

「世界中のあらゆる人たちの睡眠パターンを分析して、
年齢層ごとの推奨すべき起床時間と起床後の活動開始時間を、はじき出すことに成功しました。

それによれば、個人差はあるものの、
起床時間は青年期(15~30歳)であれば朝9時、
壮年期・中年期(31~64歳)なら8時、
高年期(65歳以上)だと7時となっている。

また起床後の活動開始時間は、青年期11時、壮年期・中年期10時、高年期は9時が
最適だと分かっています。

この数値を見れば明らかなように、すべての年齢層の人に言えることは、
6時よりも前に起床することは、人間として本来あってはならないということです」

人間、年を重ねていくほど眠れなくなって、朝が早くなりがちだが、
こうした習慣が身体に重大な影響を及ぼすというのである。

これまでの研究から、早起きすることで、起こりうる病気の数々について、ケリー博士はこう続ける。

「わたしのいるオックスフォード大学だけでなく、米国のハーバード大学やネバダ大学などの研究機関で、
早起きが病気のリスクを高めることに関する実証研究が、すすめられています。

現時点でもすでにメタボリック・シンドロームや糖尿病、高血圧、より重篤な病気であれば、
心筋梗塞や脳卒中、心不全などの循環器疾患やHPA(視床下部-脳下垂体-副腎皮質)機能不全による
うつ病などが判明しています」
          

☆集中力も落ちる

早起きのせいで、病気にかかりやすくなる・・
なぜこんなことが、わたしたちの身体で起こりうるのだろうか。
ケリー博士によれば、その原因は「人間の体内時計の『ズレ』」にあるという。

体内時計とは、「概日リズム」とも呼ばれる、
生物に生まれながらにして備わった生命活動のサイクルである。

これがあるおかげで、人はもちろん、あらゆる生物は意識しなくても、
活動状態と休息状態を一定のリズムで繰り返すことができる。

ケリー博士は、この体内時計の周期と人間の実生活における行動周期とにズレが生じることが、
人の身体に悪影響を及ぼすものだと考えている。
そして早起きこそが、このズレを生むのだという。

「体内時計は身体のあらゆる部位に存在します。
例えば脳の視交叉上核という場所に体内時計が備わっていますが、
早起きすることによってこれがズレてしまうと、著しく脳の機能が低下します。
すると集中力や記憶力、コミュニケーション能力などが、著しく減退してしまうのです」
          

ハーバード大学医学部において、
朝から夕方までの勤務シフトで働く医者と、昼から夜までの勤務シフトで働く医者の仕事ぶりを
比較する実験をケリー博士らが行った。

すると、前者の医者は後者に比べて集中力の欠如が見られ、医療ミスが36%も増加したという。

博士らの研究の正しさは、ビジネスエリートたちも証明している。

世界最大のIT企業・グーグルは、
とりわけ社員の能力と睡眠の関係性を重要視している企業の一つだ。
フレックスタイムを導入しているグーグルは、
社員が自由に出社時間と退社時間を決められるようにしている。

そのため、午前中のオフィスは人もまばらで、
昼過ぎになってようやく社員たちが姿を見せ始めるという。

「脳に加えて、心臓や肺などのあらゆる臓器にも、体内時計は備わっています。
ただでさえ早起きをすることによって、これらの体内時計にズレが生じる上に、
そのズレは年齢を重ねるごとに自然と大きくなります。

そうなると、必要以上に臓器を酷使してしまうことになり、
病気を誘発するリスクがさらに高まるのです」(ケリー博士)

実際に65歳以上の高齢者で、平常時の起床時間と病気の発生リスクの関係を
調査したケリー博士の研究結果がある。

博士が先に述べた高齢者の理想的な起床時間である7時以降に、いつも起きている人と比べて、
それよりも早い6時以前に起きている人は、
心筋梗塞や脳卒中などの循環器疾患の発症リスクが最大で約4割、
糖尿病やうつ病といったその他の病気に関しても2~3割高くなり、
またその多くが重篤化しやすいという驚きの結果が出た。

早起きが習慣化してしまったばかりに、脳や心臓に負担をかけ、その寿命を縮めてしまうのだ。
          

☆高齢者は「遅寝遅起き」を

今回のケリー博士の研究発表と同じく、
日本の睡眠医療の専門家である遠藤拓郎・スリープクリニック調布院長も、
早起きが病気を引き起こす恐れがあると指摘する。

「人間のパフォーマンスというのは、体温に依存します。
体温が低い時は、身体中の機能が著しく低下します。
人間の一日のなかでの最低体温というのは、個人差もありますが朝の4時から6時。

一方で最高体温となるのが夕方4時から6時。
したがって、ケリー博士の言う通り、朝早くから活動をするのは年齢に関係なく危険なのです」

とはいえ年齢を重ねれば、自分の意思とは関係なく、つい朝早くに目が覚めてしまうものだ。
遠藤氏は続ける。

「高齢の方が朝早く起きてしまいやすくなるのは、
メラトニンという眠気を誘発するホルモンが、加齢によって減少してしまうからです。
また体力の低下が、そのまま寝る力も奪ってしまっています。

むしろ高齢の方は、早寝早起きよりも『遅寝遅起き』のほうがずっと健康にいいんですよ」

遠藤氏によれば、早起きすることなく深い眠りを実現する一番の方法は、
昼間から夜にかけて、時間を忘れるくらい趣味に没頭することだそうだ。

ウトウトしながらテレビを眺めているのは最悪で、
例えばプラモデル作りなどの集中力を要する趣味に時間をかけると、
朝まで深く長く眠ることができるという。

ケリー博士は特に日本社会に対して危機感を抱いている。

「統計的にも、日本人は世界中で突出して、睡眠時間が短い。
加えて早く起きる人の割合も多い。

しかも学校や政府、企業がそれを主導しているように思えます。
『早起きは三文の徳』ということわざが日本にはあるようですが、
とくに高齢の方には、それは科学的に間違いだということを、十分理解してもらいたいです」

健康に長生きするため早寝早起きを心がけよう・・
その思い込みが、実は、あなたの命を脅かしている。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は民間の中小業のある会社に35年近く奮闘し、何とか定年退職をできた身である。
この間、コンピュータを活用した情報畑を20数年従事したりした。

こうした部署にいると、社内の幾たびかのシステム開発をしていると、
ビークを迎えると深夜2時過ぎに退社したり、或いは徹夜をしたりして、
日曜日以外は殆ど出勤し、奮闘する時もあったりした。

そして運営に安定すれば、数年後にはシステム部分改定をしたりしてきたので、
睡眠不足で奮戦し、過重労働などは死語だょねぇ、と互いに苦笑したりしてきた。
             
定年する5年前には、リストラ烈風の中、出向となり遠方の勤務地に勤めたりした。
朝の4時45分に起床して、帰宅できるは夜の9時過ぎが多かった。

こうした時、帰宅後の最優先として風呂に入った後、10時過ぎに遅い夕食を頂きながら、
家内と一日の出来事などを談笑したりした。
やがて12時になると、やむなく布団にもぐったりした。

そして平日は睡眠不足であり、日曜日に昼寝で補(おぎな)ったりしていた。
                     

2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めた・・。

こうした中で、午前中のひととき、
家内から依頼された平素の買物メール老ボーイの責務を果たした後、
やはり独りで自宅付近3キロ範囲にある遊歩道、小公園をひたすら歩きながら、
季節のうつろいを享受している。

そして午後からの大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして深夜まで読書に夢中になったりした時は、昼寝をしたりして、
年金生活の何より特権だねぇ、と微笑んだりしてきた。
          

今回、《・・高齢の方は、早寝早起きよりも『遅寝遅起き』のほうがずっと健康にいいんですよ・・》
生れて初めて知り、驚愕させられたが、今回の記事を読み終えた後、少し理解できたりした。

そして健康で長生きしたければ、朝の7時過ぎに起床して、
夜の11時過ぎに布団にもぐり、寝付けば最良、と思ったりした。

これからもセカンドライフを健康で過ごすは、適度の運動、睡眠、食事が肝要と思っているので、
本日は睡眠に関して、遅ればせながら多々学び、微笑んだりしている。


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不老ふ死(ふろふし)温泉、全国No.1と知らされ、ささやかな私たち夫婦の旅路の想いは・・。

2015-10-18 16:28:23 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして共通の趣味のひとつには国内旅行であり、幾たび各地を訪れ遊学している。

過ぎし夕食を頂いている時、たまたまテレビの旅番組を途中から視聴し、
何かしら日本各地の温泉地めぐりで、温泉地のベストテンを選定しているような番組で、
結果としては『不老ふ死(ふろうふし)温泉』がベストワンに選ばれた。

私たちは驚きながら、やがて過ぎし年に2回ばかり訪れたささやかな想いでを談笑した・・。


私はある民間会社に35年近く勤めて2004年(平成16年)の秋に定年退職後となり、
多々の理由で年金生活を始め、やがて数年後に、
いつの日にか日本海に面した青森県の黄金崎(こがねざき)の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に行ってみたい、
と私は漠然と思ったりしていた・・。
          

やがて2010年(平成22年)年の3月、家内は家内の母の二人連れで、4月中旬に、
広島の広島平和記念資料館と四国の道後温泉に7泊8日の旅行を起案したので、
私は家内の用心棒と時刻表と地理に疎(うと)い家内のアドバイスで、
私たち夫婦は何かと利用している駅前の旅行代理店に行ったりした。

そして家内は旅行代理店の人と詳細の話になったので、私は席を外れて、
店内の片隅のソファーに座り、近くにあるパンフレットを取り、読んだりした中、
JR東日本が発行している『びゅう(VIEW)』の『北東北 青森・秋田・岩手』編があり、
この中のひとつとして、『黄金崎 不老ふ死温泉』の解説と写真があり、私はしばらく読んだりした。

私たち夫婦は日本海の波打ち際に面した露天風呂には、無念ながら未知であった。
能登半島の輪島温泉、新潟県の瀬波温泉、山形県の湯野浜温泉などの観光ホテルに宿泊したが、
いずれも日本海に面した宿であったが、波打ち際までには幾分遠かったのであった。

こうした思いもあり、波打ち際に面した露天風呂として名高い『黄金崎 不老ふ死温泉』に、
訪れてみたい思い深めたりした。

この後、まもなく私たち夫婦は、『黄金崎 不老ふ死温泉』めぐりの旅行日程を思案し、
B型の私の性格と家内のA型の不思議な夫婦の組み合わせの為か、
おかしな旅行日程となったりした。
          

東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
リゾート『しらかみ』に乗り換えて北上し、『ウェスパ椿山』駅で下車した後、
黄金崎温泉の『黄金崎 不老ふ死温泉』の新館iに3泊する。

この後は、リゾート『しらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊し、
青森駅に戻った後は、駅より70分ぐらいバスに乗った八甲田山のふもとにある酸ケ湯(すかゆ)温泉に1泊、
やがて奥入瀬の奥まった蔦(つた)温泉に2泊する。

そして青森駅から特急スーパー『白鳥』で八戸駅で下車し、
八戸駅より東北新幹線『はやて』で東京駅に向かい、帰京する。

こようなプランとなってしまい、 私は『黄金崎 不老ふ死温泉』で3泊して、
露天風呂から日本海の夕陽を眺めことが夢であったが、
どうしてこのような日程になったの、と微笑したりした。
          

5月24日の朝、旅たちの日となり、 小雨が降り、梅雨の時節の前の長雨が続く走り梅雨かしら、
と私は思いながら、私たちは『こまち』は定刻通り8時56分に東京駅を発車し、盛岡駅経由で秋田駅方面に向った。

途中の福島駅を通過した頃からは、小雨降る中をまじかに田畑、少しばかり遠方の里山は霧につつまれ、
そして彼方の山嶺は雨と霧でかすんでいた・・。

盛岡駅を過ぎてまもなく、畑と雑木林、そして里山が車窓が観られ、
ときおり清流の状景が眺められ、墨絵のような情景が展開したりしていた。

『こまち』は午後1時前に予定通り秋田駅に到着した後、
この後、『リゾートしらかみ』の午後2時12分発までの間は
秋田駅でJR周遊の特典である駅弁の受け取り、昼食とした。

そして構内の売店で私は地酒の300ml、家内は熱い煎茶ペットボトルを買い求めたりし
待合室で昼食とした。

私は地酒を呑みながら、その地の食材を中心にした駅弁を頂き、
その地に住まわれる会話を聞きながら、ひとときを過ごしたのであるが、
まぎれなく文化のひとつと深めたりしていた。


『リゾートしらかみ』は秋田駅から青森駅を結ぶ路線で、
大半は五能腺を走る特急であり、座席もゆったりとしている。

秋田駅を定時に発車し、能代駅を過ぎ、あきた白神駅の手前の頃から、日本海の状景が車窓から眺められ、
やがてウェスパ椿山駅で午後4時20分に下車し、
駅前で待機していた宿泊先の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の送迎バスに乗り込んだ。

小雨の降り続ける中、日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテルには、10分たらず到着した。

そして、この観光ホテルの新館に3泊としていた。
http://www.furofushi.com/
☆『黄金崎 不老ふ死温泉』ホームページ☆

打ち寄せる波のまじかにある海岸の露天風呂で、日本海の落陽を眺め・・として名高い観光ホテルであるが、
3泊4日をしたが、雨時々曇りの日々となり、夕陽が洋上に沈む光景は無念ながらめぐり逢えなかった。

しかし、雨が止んだひととき、館内から海岸に向う歩道を百メートルぐらい歩み、
波打ち際に、ひょうたん形の露天風呂がふたつある。
右手は女性専用、左手に男女混浴があり、私は男女混浴の湯船に身体をゆだねたりした。

2日目の午前10時過ぎ、ひとりだけ60代の男性がいるだけで、
長野県の茅野市の方で独り旅で北東北の温泉を廻りながら、旅を楽しまれている人であった。
とりとめない旅先の温泉のことなどを談笑を重ねたりした・・。

館内の大浴場からの日本海の眺めも良く、隣接しているパノラマ展望風呂は、
屋根がある小さな露天風呂のような感じで、洋上の情景がゆったりと眺められるので、
私は朝夕のひとときは、身も心もゆだねたりした。
          
          
そして、ロビーの片隅で、青森県の地方紙のひとつの『東奥日報』を読んだりし、
今回の旅の終わりまで何かと愛読したりした。


食事に関しては、日本海のこの地の周辺で獲れる地魚、貝づくしの幸を十二分に賞味でき、
見た目より遥かに美味しく、鮮度抜群が味の基本であることを改めて認識させらた。

私が何よりも魅せられたのは、部屋からの眺めである。
たまたま東館の二階の中央部にある部屋に宿泊したが、
窓辺にある椅子に座り、朝、昼、夕に幾度も眺めたりした・・。
          
日本の海岸に多い防波堤のコンクリートやテトラポットなどはなく、
日本海の波が海岸に直接に打ち寄せ、海岸からまじかな洋上の周辺に、
小さな岩が集積して、あたかも小さな列島のように点在していた。

こうした列島が幾十か観られ、波を受けたり、しぶきをあびたりしていた・・。
そして引き潮、或いは満潮の時に、うつろいながら変貌した情景を観せていた。

こうした風景を眺めたりしていると、室町時代の頃からの石庭など景観よりも、
遥かに深く魅了させられ、私は飽(あ)きずに眺めたりしていた。
          

5月27日の朝、『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルに別れを告げ、
私達は送迎バスで五能線のウェスパ椿山駅に向った時、
道路際には芽吹きが終わり新緑に染まり、中には早くも若葉となった落葉樹の中、
ときおり八重桜(ヤエザクラ)が観られ、私はこの地にも春到来を感じ、和(なご)んだりした。

やがて10時35分発の『リゾートしらかみ』で青森駅に向った。

そして、私はいつの日にか波打ち際にある《ひょうたん形の露天風呂》で、
落陽の情景の中で、心身を受けとめたい、 或いは雪が舞い降る日本海の洋上を眺めて観たい、
と思いながら、家内に話しかけたりした。

家内も波寄せる身近な《ひょうたん形の露天風呂》に魅了され、
落陽の情景も素敵だし、雪が舞い降る日本海の情感があって、
と同意し、私達はふたたび訪れよう、と『リゾートしらかみ』の車内で話し合ったりした。

この後、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊し、八甲田山のふもとにある『酸ケ湯(すかゆ)温泉』に1泊、
やがて奥入瀬の奥まった十和田湖に近い『蔦(つた)温泉旅館』に2泊したが、
特に蔦温泉の周辺にある「ぶなの森」に圧倒的に魅せられたりした。



やがて雪の舞い降る頃に再び訪れようと、私達夫婦は話し合ったりした。い、
この年の12月14日より、青森県の十和田湖の山奥にある蔦(つた)温泉に4泊した後、そして青森市内に1泊、
やがて日本海の黄金崎の不老ふ死温泉に3泊し、季節こそは違うが、文字通り再訪記となった。

『蔦(つた)温泉旅館』の裏手あるブナ林は、積雪は20センチ前後で、吹き溜まりは30センチぐらいで、
遊歩道であるがこの冬の時節には、もとより除雪はされていなく、
ブナ、ミズナラの大木が数多く聳(そび)える中、雪と戯れるように、2時間ばかり歩いたりした。

翌日、午前中に冬の奥入瀬渓流めぐりをしたが、この時節は遊歩道、トイレなどの閉鎖箇所もあるので、
やむなく観光タクシーを利用して、石ケ戸、そして阿修羅の流れ付近、子の口などを降り立ち観たりしたが、
観光客は私たち夫婦だけで、奥入瀬渓流をひとり占めに出来るのは、この時節か、と教示させられたりした。

このような予期した以上を歓喜させられた後、19日の昼下がり、青森駅の在来線のプラットホームで、
秋田駅行きの『リゾートしらかみ』を待機したりした。

そして『リゾートしらかみ』は、青森駅を発車して市街に出ると、積雪の情景の中で、
岩木山の雄大な景観が見え、リンゴの果樹園がまじかに見ながら田園の情景となった。

やがて奥津軽と称せられる『五所川原』駅を過ぎて、まもなく海沿いの情景となり、
日本海の南下する。

そして海沿いの線を走りながら、海岸の美景が展開するのが、観光客として魅了されるひとつである。
私は秘かな願っていたことは、この時節として雪が舞い降る中の海岸線の情景、
或いは冬晴れの中、車窓から夕陽を見ながら、と期待していた。

結果として、どんよりとした曇り空の中を走破したが、『深浦』駅に近づく頃から、
雲の合間から落陽が観え、五分ぐらい私を含めの乗客は、歓声を上げたり、写真を撮ったり、
見惚(みと)れたりしていた。
          

この後、まもなくして宿泊する『不老不死温泉』の最寄駅のウェスパ椿山駅に、
夕暮れの16時47分に到着し、
私たち夫婦は観光ホテルの待機して下さっているマイクロバスに乗車した。

そして私たち夫婦は、5月に3連泊した時と同じ部屋を要望してきたで、叶えられたりした。

前回の5月は、長雨に遭遇し、雨時々曇りの日が3日間続き、
今回の連泊の間は、夕陽を部屋から、露天風呂から、そして日本海に落陽する光景を観たり、
或いは初冬の時節であるので、日本海に舞い降る雪の情景を秘かに期待していた。

到着した翌朝は、ときおり風が強く吹く曇り空で、午前10時過ぎに私は露天風呂に向かった。
          

露天風呂の出入り口の本館まで行き、
海岸の施設の歩道を百メートルぐらい海岸線まじかにある露天風呂に到着するのであるが、
浴衣の下はパンズ一枚だけ、左手にバスタオルとタオルを入れたビニール袋を提げた姿で歩きはじめた・・。

ゆるい下りの歩道で、強く風が吹き、浴衣の裾(すそ)は捲(まく)れ上がり、
私は右手ですそを押さえて、
『やめ~て・・少し風・・穏やかにねぇ・・お願いいたしますょ・・』
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして露天風呂の簡素な更衣棚に浴衣とパンズをビニール袋に入れたが、
このビニール袋が風を受けて、たなびいているのである・・。

私は露天風呂に身体をゆだねて、波打ち際の波、そして押し寄せてくる波間、
ときおり私は立ち上がり、彼方の日本海を眺めたりしていると、風が冷たく感じ、
露天風呂に身体を沈めるように深く湯に入ったりした。

このような天候であったので、もとより私だけの貸切風呂となったりし、
帰路、本館の露天風呂の出入り口のいるホテルのスタッフの方から、微笑まれたりした。

私は苦笑しながら、宿泊している新館の部屋に戻ったりした。
          

翌日は、冬晴れとなり、私は昨日の容姿で、露天風呂をめざした。
ときおり微風が吹く程度で、穏やかな快晴の中、散歩するみたいに海岸線までの歩道を歩いた。
そして、誰もいない露天風呂に心身ゆだねて入ったり、
押し寄せる波、そして遥か彼方のフェリー船が日本海を北上するのを見たりした。

そして露天風呂から上がり、冬晴れの陽射しに向かい、素肌を数分程さらしたりしたが、
寒さを感じることなく、むしろ快適な心情となったりした。

やがて12月22日、私達夫婦のささやかな初冬の旅も最終日を迎え、
『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルを10時半に辞して、
ホテルの歓送マイクロバスで最寄駅のウェスパ椿山駅に向う途中から、霧雨が降りだした。

五能線の『リゾートしらかみ』で新青森駅に13時25分に到着した後、
本降りの雨となり、やむなく駅より『県立美術館』までタクシーで往復し、鑑賞した後、
新青森駅で18時28分発の『はやて』東京駅行きに乗車して、帰京した。

このような『不老ふ死(ふろふし)温泉』の旅路を5月下旬、そして12月中旬をしたが、、、
テレビの旅番組のひとつで、温泉地としてナンバーワン、と報じられても、
私は選定者によって異(こと)なるょ、と微苦笑したりしている。
          

私たち夫婦の多く旅路は、観光ホテルなどに滞在して、ひたすら周辺を歩くことが多く、
数多く温泉地で露天風呂、大浴場に身も心も、ゆだねてきた体験があるので、
今回『不老ふ死(ふろふし)温泉』が最優だと思えないが、
ただ波打ち際の露天風呂は圧倒的に魅せられたのは事実である。

そして私たち夫婦は、海外旅行を出来ないのは、
私が定年する少し前、私たち夫婦はデハート付近で、欧米方と思われるご夫婦から、道を尋ねられた時、
私は英語の単語を並べながら、身振り手振りしている状況を、隣にいた家内は不安がり、
国内旅行の方が安心で気楽だわ、と家内は確信めいたことも、ひとつ原因となっている。

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年金生活の中でも、文愛人のひとりの私は、何かと読書が多くて、微苦笑を重ねて・・。

2015-10-17 16:41:59 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
          
そして私が地元の小学校に入学したのは、1951年〈昭和26年〉の春である。
私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。

そして、この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。

その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
          

この間、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
高校3年を卒業するころから、映画専門誌の『キネマ旬報』に添付してあるシナリオなどを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、 脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。

やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
                    
そしてアルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
                 
       
そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。

そして確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした中、生家でお彼岸の懇親している時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが卒業した。
                     

やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
                                         
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、あるレコード会社の情報畑、管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職したが、
この最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか定年退職を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
                     

こうした中で、読書好きな私は、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読したりしている。

そして私は本は、原則として本屋で買い求めたりしているが、
若き頃は、たとえ食事を抜いて、お金をためて購入したこともあったりした。

昨今はときおりコンビニで雑誌の月刊誌、週刊誌を購入する時もあるが、
街の本屋の衰退に嘆いているので、せめてと思いながらも、
アマゾン、楽天などネット購入は天敵と思いながら、利用したことない稀(まれ)な人となっている。

この間、図書館を利用したのは、数万円以上する高価な民芸品、美術品の豪華本に限り、
お借りして読ませて頂いたりしてきた。

私はどのような分野の本、音楽のレコード、CD、DVDは、
ネット上で公開されている以外は、無料という世界は避けているひとりである。

こうした私の信条を的確に表現していたは、内田樹(うちだ・たつる)さんが、
『街場のメディア論』(光文社新書)に於いては、表現されている。
          

私は2011年(平成23年)の春に購読している中、
《・・著作者は書き手から読み手への「贈り物」です。
だから、贈り物を受け取った側は、それがもたらした恩恵に対して、敬意と感謝を示す。
それが現代の出版ビジネスモデルでは「印税」というすかたちで表現される。

けれども、それはオリジネイターに対する敬意が、
たまたま貨幣のかたちを借りて示されたものだと僕は考えたい。

すばらしい作品を創り上げて、読者に快楽をもたらした功績に対しては、
読者は「ありがとう」と言いたい気持ちになる。
(略)
それはいくばくかの貨幣のかたちをとってオリジネイターに向けて返礼される。・・》
(引用元ページ・147、148ページ)
注)原文にあえて改行を多くした。
          

このように文愛人のひとりとして、言霊(ことだま)を信愛して、
物事、そして人の情愛まで思索を重ねれば、独有の表現力が養えると思いながら、
早や55年が過ぎている、と微苦笑する時もある。

そして年金生活を中、小説を読むことが減少して、
随筆、近現代史、現世のノンフィクションが多い、と苦笑したりしている。


今朝、いつもように読売新聞を読んでいると、
私の心の琴線(ことせん)が、読みに連れて次第に奏(かな)でた記事に、めぐり逢えた。

読売新聞の編集委員の鵜飼哲夫さんが、『「ウ」の目 鷹の目』と題した週間の寄稿文があり、
私は愛読者となっているが、今回は『本を買う 社会耕す』と明題されて掲載されていた。

無断であるが、大半を転記させて頂く。
          

《・・(略)現代ではインターネットなどで様々なニュースや論考を手軽に入手出来るが、
思いもよらぬ情報と出合う確率では、本や雑誌のほうが勝るのではないか。

作家・思想家の東浩紀さんは『弱いつながり 検索ワードを探す旅』(幻冬舎)で、
〈ネットでいくら情報が公開されていても、それは特定の言葉で検索しなければ手に入らない〉とし、
裏返して言えば、自分が必要とする検索ワードでばかり情報を探しても、
〈自分が見たいと思っているものしか、見ることができない〉とする。

その上で、世界を広げるには、
〈自分探しではなく、新たな検索ワードを探すための旅〉をすべきだと主張している。

本屋に通うのは、その旅の一つだ。
ネット書店での「この商品を買った人は、こんな商品も買っています」というお薦めを参考に
自分の世界を深めるのもいいが、それだけでは自分の興味・関心の内側をうろつくばかりである。

街の本屋に行けば、関心がなかった分野の本が偶然、目に入ることが多い。
新聞をめくっていてふと、面白そうなニュースに目をとめ、興味関心を広げる。
それと同じだ。
          

「本との出会い ゆたかな時間」という標語など、
読書というと、自分の人生を豊かにする効用ばかりが重視されるが、
本を買って読むことは、世のため人のため、文化のためにも大いに役立つ。

電子書籍など出版の最前線に詳しい専修大学文学部の植村八潮教授は、
初めて自分で本を買った中学1年のときのことをよく覚えている。

それはヘミングウェー『老人と海』の新潮文庫で、1冊90円だった。
それを買ったことを本好きの父親に報告すると、喜んで、こう語ったという。

「昔は文学とか芸術は、貴族とか特権的階級の人たちが支えていた。
でも今は、われわれ全員が支える時代だ。
本を買うことで印税が作家に回る。
みんなが少しずつ払うことで作家が新しい作品を生み出す。
つまり我々みんなが芸術のパトロンの時代になった」

印税は基本的に書籍価格の1割だから、1000円の本ならば100円が著者の収入となり、
それが次の創作に向けた投資になる。

お金持ちの資本家が会社をつくるのではなく、
一人ひとりの市民の出資で株式会社をつくるのと同じで、
小さな出資の積み重ねが、新たな創作を生み、芸術家を支え、文化を育む。
本を買って読むことは、自分が住む社会への投資でもあるのだ。
          

作家の山本周五郎は、「金銭について」という随想で、
〈私のもらう原稿料というものは、これは収入ではなくして、ジャーナリズムが、
私につぎの仕事をするために投資をしてくれているんだと思う〉と語っている。

投資があればこそ次の創作があるのであり、
読者がただでその成果を享受してばかりいては、いつしか新たな創作意欲は衰弱するだろう。

文化を表す英語culture(カルチャー)には、栽培という意味もある。

創作・研究とは、本人や社会にある素質、個性という種子を育て、花を咲かせ、実らせる行為ともいえる。
努力の成果の実りを、お金を出して買わなければ、
いつしか丹念にものを栽培し、いい実を結ばせる人はいなくなる。(略)・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
          

こうした寄稿文を読むと、まぎれなく・・そうですよねぇ、
と私は瞬時に微笑みながら、賛意を深めている。

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