夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

幾たびか冬の札幌を訪れ、東京の田舎者の私のささやかな想いは・・。 《5》 

2012-01-31 05:03:46 | 旅のあれこれ
           第4章  冬の札幌のひとときは、時のゆりかご・・。【2008.12.21~.12.25.】 《前編》

私は東京郊外の調布市に住み、年金生活の5年生の64歳の身であり、
冬の時節、札幌に4泊5日で訪れた。

三度目の冬であるが、初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
市内の各地をゆっくり散策したりした・・。

平年より雪が少ないと報じられて折、
小雪が降ったり、止(や)んだりした中で過ごした期間でもあった。

私には、雪が舞う中を家内と散策したりしていると、
この北国の春、夏、そして晩秋の過ぎた日々に思いを重ねたりすると、
舞う雪の情景は、時のゆりかごのように感じられたのである。


新千歳空港に午後3時半過ぎに、私達夫婦は札幌行きに乗車した。
車窓から里辺を観ると、5センチ前後の雪化粧の景観であった。
そして、雪が舞い降(お)りて、ひとひら、ふたひらと雪の精が空中をさまよいながら、
地上を降り立った・・。

『思ったより・・雪・・少ないねぇ・・』
と私は家内に云いながら、以前に年始の時、そして2月の雪祭りの時の積雪を思い浮かべながら、
住宅街の情景を眺めたりした。


札幌駅から地下鉄に乗り換え、『ススキノ駅』から5分前後歩いた場所に、
滞在するホテルがあった。
今回の旅は、ある旅行会社の企画プランで、
航空料金と宿泊代、そして旭山動物園バス・ツアーも付加された
驚くべ格安な旅費であったので、多少の不安があった。

事前に宿泊するビジネス・ホテル風を調べて、
『こんなに安くて・・ホテルも旅行会社も大丈夫なのかしら・・』
と私は家内に云ったりしたのである。

『ススキノ グリーンホテル 2』にチェック・イン後、入室したのであるが、
このホテルの浴室は洗い場があり、単なる洋バスより遙かに利便性がある。

この後、簡易の滑り止めを靴にセットし、
夜の6時過ぎに、小雪舞い降る中、賑わう街中を歩き、
目的地の大通(おおどおり)にある『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たりした。

私はクリスマスに向けた大規模なイルミネーションの光景は、
生まれて初めて観たが、やはり婦女子の観るものかしら、と思ったが、
こうした市民や私達のような観光客の中に身を置くと、
素直に美麗な装飾も情感があると感じたのである。

そして、市民たちの幼子たちの歓声を聞いたりしていた。


今回の旅で、家内が旭山動物園に於いて、
冬季の大半がペンギンの散歩の際にヨチヨチ歩きが観られるので、
家内が愉しみにしていたひとつであった。

私達は北海道には四季折々訪ね、
少なくとも旭山動物園には春と秋の頃に、観たりしているが、
冬季の雪のある時は未知であった。

私達は防寒用の登山靴で防寒フィールド・ジャケット、帽子で、
たとえマイナス15度前後の寒さになっても万全の対策の様相で、
バス・ツアー『旭山動物園1日』の集合場所に8時前に到着した。

道央自動車道の高速道路をバスは走ったが、
途中の休憩地の『砂川SA』でも積雪10センチ前後であった。

この後、雪が降り出し、ときおり風が吹いたりし、
動物園に11時15分過ぎに到着したが、ペンギンの散歩は中止と知り、
やむえず昼食として、東口にあるレストランに入った。

私はもとより動物は苦手であるが、
家内は動物好きで、この日は家内の誕生日であり、
プレゼントの代わりに今回の旅に思い立ったひとつでもある。

レストランの料理は創意工夫があり、
私はビールを呑みながら、誉(ほ)めたりしながら頂いた。
そして、いつものように家内の選定した料理と、
少しづつ交換しながら、食味したりした。

この後、積雪15センチ前後で、再び雪が降りはじめ、微風が吹く中、
園内を観て廻った・・。
掲示の気温はマイナス4度と表示されていたが、
私は寒さを感じることなかった。

そして、アムールの虎、アムールの豹は精悍で凛々しく見えたが、
やはり冬のライオンは哀れである。
私はこのようにしか、動物を観るしかできない身である。

家内は『ペンギン館』はもとより、『アザラシ館』、『北極熊館』を観ている間、
私は休憩所、出入り口にある喫煙所で煙草を喫いながら、
老若男女のしぐさを観ている方に興味があったりしたので、
眺めて微苦笑させられたりしていた。
そして、下方の旭川市の郊外の景観を眺めたりした。

集合の午後3時にバスに乗り込み、旭山動物園にさよならを告げ、
賑わう札幌市に戻ったのは、午後6時過ぎであった。


宿泊先のホテルに戻る時、家内が雪で足を滑らせて、後ろに転倒し、
私は瞬時に助けようとして、私も引きずられるように転んでしまった。
家内が起き上がる時に、後頭部を打ち、めまいをした、と告げたので、
最寄の病院の小児科であったが、診察して貰ったりした。

この後、万一の状況のことを配慮し、24時間体制の脳外科病院も
教えて頂いたりしたのである。

そしてホテルに戻り、30分前後安静した後、今朝からの予定通り、
『ミュンヘン・クリスマス』に行きましょう、
と家内は云い出したので、
私はほっとしながら、身支度を整えたりした。


ススキノの繁華街の賑わう街並みを通り、
大通(おおどおり)の一角にある『ミュンヘン・クリスマス市 in Sapporo』に設置され、
クリスマスの装飾品の土産売り場、飲食店が並んでいた。

そして、飲食店で温めているワインを呑みながら、
ドイツ文化に相応しい田舎料理を立食で頂ただいたりした。
若いカップルが数多くいる中、家内のささやかな誕生日祝いとなった。

この後、家内はクリスタルの小さなサンタの装飾品を記念品として選定した後、
帰路としたが、ススキノにある展望観覧車が観えたりした。
そして、ススキノから、市内の夜景が一望できるので、乗り込んだりした。

                           《つづく》

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幾たびか冬の札幌を訪れ、東京の田舎者の私のささやかな想いは・・。 《4》 

2012-01-30 04:40:35 | 旅のあれこれ
          第3章 遅ればせながら、2008年12月『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観る前に

私は過ぎし2008年12月の初めに、家内は12月下旬生まれであり、
家内に誕生日のプレゼントを要望を訊(き)いた時、
家内は動物好きであり、旭山動物園で雪の上でヨチヨチ歩きをするペンギンの群れを観たい 、
と言われたのである。

私達は北海道には四季折々訪ね、
少なくとも旭山動物園には春と秋の頃に、観たりしているが、冬季の雪のある時は未知であった。

私は家内の要望を叶える為に、ネットで色々と検索し、
家内に選定して貰ったのが、ある旅行会社が企画された市内の格安ホテルに滞在するプランがあった。
そして、このプランは1日だけ旭山動物園に往復し、3時間ばかり観ることのできるサービスがあった。

その上、家内は本格的なクリスマス用のイルミネーションの情景を観たことがないし、
私にしても、イルミネーションなどは婦女子の観るものだ、と思ったりしていたが、
私達にとっては未知の世界であった。

そして雪の降る『さっぽろホワイト・イルミネーション』の街並みの情景も良いかしら、
と私達は話したりした。

こうした中で、私はイルミネーションのイベントが期待以下であったならば、
居酒屋で地酒を呑みながら、地魚を誉(ほめ)るのも良し、と思ったりしたのである。

或いは、秘かに20年熱愛している中島みゆき女史の歌にあるように、
『南三条』を心の中で唄いながら、散策するのも良し、と思ったりした。

そして私達夫婦は、12月21日から4泊5日で札幌市内に宿泊するが、
このように勝手な思いを重ねたりしているが、
私達夫婦は田舎者のような容姿と心情で行くので、迷子にならなければ良し、
と東京の郊外からすれば異国のような札幌市内を浮べ、少し心配したりしている。

                           《つづく》

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幾たびか冬の札幌を訪れ、東京の田舎者の私のささやかな想いは・・。 《3》 

2012-01-29 04:13:59 | 旅のあれこれ
          第2章  北海道てっぺん周遊記【2002.12.31..~2003.1.2.】

2002(平成14)年の年末、
私達夫婦は『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と称された団体観光周遊ツアーに参加した。
私の定年退職したのは2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ一年10が月前であった。

この当時も12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていたのである。

こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

翌日、2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、
高台にある神社に初詣し、市内のホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に云ったりし、参加したのであった。


大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
タクシーを予約して、暗い中、自宅から羽田空港までタクシーを利用した。
そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私達は冬の北海道はたびたび体験し、
それなりの防寒服を着たりしているので、マイナス10度ぐらいは心身順応出来るのである。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、
と感じたりしたのである。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆき女史が『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。

私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆき様が私の方を見ながら微笑んでいたのである。


翌日、元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。

そして、市内のホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下した。

旅の終わりの寸前、郊外の根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の灯りが満天の星のように観える中、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。

この後、私はまもなく『根雪』の歌が心の中で流れたのである。

私は1970(昭和45)の春、ある大手の民間会社に中途入社し、
まもなく新設されたあるレコード会社に転籍させられた。
その後、レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、取引会社のひとつの物流会社に勤めた。

私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。

私は出向先で、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていたのである。

こうしたことが札幌の街並みを眺め、思いだされてきたのである。

♪町は 毎日 冬
 どんな服でかくしてみせても
 後ろ姿 こごえてる
 ひとり歩きは みんな 寒い
    (略)
 いつか時が経てば
 忘れられる あんたなんか

【『根雪』 作詞・作曲・中島みゆき、編曲・福井 峻、唄・中島みゆき 】


私はやむえず業界から立ち去った先輩、同僚、後輩の一部の人たちが浮かび、
愛惜感でいっぱいだったのである。


尚、『根雪』の歌は、中島みゆき女史のオリジナル・アルバムの五枚目の『親愛なる者へ』と題された中の五曲目収録され、
1979(昭和54)年3月に発売されている。
レコード盤で表現したら、A面の最後の曲となる名曲である。
そして、少なくとも私は百回以上は聴いて、私の心の歌のひとつとなっている。

                              《つづく》

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幾たびか冬の札幌を訪れ、東京の田舎者の私のささやかな想いは・・。 《2》

2012-01-28 04:01:56 | 旅のあれこれ
            第一章  初めての冬の北海道の旅は

その後、私たち夫婦は東北の温泉がある地域の雪のある時節、
冬の旅を2泊3日前後で幾たびも旅行をしていたが、
2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇が残っていたので、
私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私達夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れたのであった。

私達は厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたのである。

この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。

女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を観たりして、
網走の郊外の能取岬の途中にある海岸に接したホテルに2泊した。

この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。

やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光り帯て、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟いたりした。


流氷の接岸を待ちわびたが、残念ながら遠のき、予約していたノロッコ号の列車で、
網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったの、と苦笑を重ねたりした。

終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。
ウトロの数キロ前の峠道で、海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
ウトロのバス停で下車した。

その語の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりしたのであった。
そして突然に一角が平地となっていたのが、『知床ファンタジア』の会場であり、昼の一時過ぎは閑散としていた。

私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、おしっこをしたのである。

その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、
という視線を私達夫婦は受けたのである。

私達夫婦は厚手の冬ズボンはもとより厚手のフィールド・コートまで雪をかぶり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されるのも致しがたい、と私は納得したりした。


この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内のホテルに宿泊し、雪祭りの前日に小樽を昼過ぎに別れを告げた。
そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきたせいか、
札幌駅、周辺の広大さには驚いたのである。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、前夜祭を観たした。

この時、どんよりとした曇り空で根雪もあり、家内は寒いというので、
ロシア物産の即売店で、ロシア婦人がかぶる様な形の帽子を買い求め、今日も愛用している。

そして郊外の豊平川を見下ろせるホテルに宿泊し、
翌日は快晴の中、雪祭りの初日の情景を観たりした後、
郊外の自衛隊の基地にイベントを観たり、市内を散策したのであった。
その後は、予定通り新千歳空港に行き、帰京した。

                           《つづく》

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幾たびか冬の札幌を訪れ、東京の田舎者の私のささやかな想いは・・。 《1》 

2012-01-27 11:28:51 | 旅のあれこれ
            序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、家内と共に互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦は共通趣味のひとつとして、国内旅行であり、
子供に恵まれなかったこともあり、若き新婚時代から各地の旅を重ねてきた。

たまたま明日の27日より北海道の札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在し、
冬の札幌を中核とした地域を訪れる。

今回は6泊7日の旅となるが、家内は支笏湖〈しこつ〉の湖畔の冬の花火大会も観たいわ、
とここ一週間調べたりして、バス会社に予約を入れたりしてきた。

そして冬の寒い地域であるので、私たち夫婦は防寒着、帽子、手袋、防寒靴なども、
いそいそと準備して、昨日の日中に、宿泊先に宅配便で送付したりした。


このように旅立つ前の準備も殆ど終えて、私はテラスに下り立ち、
小庭の冬木立の樹木を眺めながら、北の大地の北海道のことに、
ぼんやりと思いを馳せたりした・・。


私が初めて北海道に行ったのは、
高校時代の修学旅行で確か1962(昭和37)年の6月の頃だったと思われ、
上野駅から夜行列車で青森駅に着いた後、青函連絡船に乗船し、函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。

この時の周遊は定かでないが、今でも鮮明に覚えているのは、
青函連絡船に乗船して、函館の街が観えた時、あれが北海道だ、
と感動しながら心の中で歓声を上げたことが、心の片隅に残っている。


私たちが結婚した1976〈昭和51〉年の春を過ぎた後、
長野県、北陸地方、東北地方などを主体として旅行をしていたが、
1981〈昭和56〉の夏、私の夏季休暇で利用し、夫婦として初めての北海道は道南コースを周遊した。
札幌に宿泊した後、大沼、函館の宿泊した3泊4日の全日空が主催するフリー周遊プランであった。

この時、私たちは初めての大型旅客機に乗り、更にエコノミーの航空券なのに、
ファースト・クラスに座るように客室乗務員から言われ、破格のサービスを受けたりした。
初めてづくしの為か、札幌、函館の市内めぐりも、無知で解らず、ただ舞い上がる中、
ハイヤーで周遊観光をしたりし、帰宅後は我が家の貯金がわずかとなったりしてしまったが、
それなりに思いで深い旅となった。

その後の道内は、晩秋に知床のウトロ、屈斜路湖の付近の川湯温泉に宿泊し、
道東地方を周遊したりし、朱紅色、紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)に魅せられたりしたが、
この旅の後、いつの日にか北海道の冬の時節に訪れたい、と互いに話し合ったりした。

私の心の奥底には、ある小説家が、旅はその地の一番過酷な季節に訪れると、その地域が解る、
このような意味合いの言葉が綴られていたので、
北海道の秘めたる魅力は冬の季節だ、と思いたったのである。

                              《つづく》
☆今回、明日の28日から2月3日まで、札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在し、
冬の札幌を中核とした地域を訪れるので、
この間、この【 幾たびか冬の札幌を訪れ、東京の田舎者の私のささやかな想いは・・。】の続編を
自動設定で掲載しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いです。


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昨年の書籍・雑誌の販売額は7年連続で前年を下回ったと知り、文愛人の私は微苦笑し・・。

2012-01-26 18:20:50 | 時事【社会】
昨夜、私はいつものように読売新聞の夕刊を読んでいたら、
10面にある小さな記事に思わず精読してしまった。
《 雑誌販売 27年ぶり1兆円割れ 》
と題された記事である。

無断ながら、この詳細記事を転記させて頂く。
《・・
2011年の書籍・雑誌の推定販売額(電子書籍を除く)は前年比3・8%減の1兆8042億円で、
7年連続で前年を下回ったことが25日、出版科学研究所の調べで分かった。

特に雑誌は同6・6%減の9844億円と過去最大の落ち込みとなり、
1984年以来27年ぶりに1兆円を割り込んだ。
東日本大震災と節電の影響で娯楽・レジャー誌の部数が減ったことに加え、
スマートフォンの普及で若者の雑誌離れが加速したと見られる。

雑誌の販売額は統計が始まった1950(昭和25)年から増え続け、
1997(平成9)年には1兆5644億円とピークに達した。
その後、インターネットの普及で減少に転じ、14年連続で前年を下回った。

書籍の販売額は8198億円で前年比0・2%減。
出版科学研究所は「出版社の経営は雑誌の収益に支えられてきてが、
書籍が逆転することも考えられる」と話している。

(2012年1月25日 読売新聞・夕刊)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くし、和暦を追加した。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
私が読書に目覚めたのは、恥ずかしながら高校生になってからである。
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。

そして年金生活の今でも本屋で、雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、
単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりする。
或いは、、ときには古本屋に行き、読みたい本を探し求めて購読し、
早や50数年過ぎている・・。

昨今は、私もネットから多々読むこともあり、活字中毒の私は一辺倒もままならなくなり、
苦笑する時もある。


私の高校時代は、人並みに文学の小説、随筆の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了されし、週刊誌の『朝日ジャーナル』を買い求め、
海の彼方のケネディなどの政治家に心酔したりした。

大学に入学する前後から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人のアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをし生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。

この間、純文学の新人賞に応募したが、最終候補の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。


やむなく民間会社に中途入社をする為に、
技術を習得しょうとコンピュータの専門学校に一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響メーカーの大企業だった会社に、何とか中途入社をしたのは、
25歳の時であり、遅ればせながら、社会人のひとりとなった。

この時から社会人としての常識が欠けていたので、
総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読んで、
まもなく転籍させられた会社がレコード会社であり、音楽に何の素養のない私であったので、
音楽専門月刊誌の『レコード芸術』を必死に読んだりしていた。

この頃は私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
一時期は『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。


50代の初めの頃に、教養娯楽雑誌の『サライ』を知り、
その後、パソコン初心者向けの『暮らしとパソコン』、ビジネス週刊誌の『日経ビジネス』、
音楽専門の週刊誌の『オリコン』なども買い求めたりしていた。

そして定年退職の4年前頃は、
大人の生き方誌と称された『ほんとうの時代』を精読し、私の退職後の生活を明確に思考していた。

定年退職後まもなくして、めぐり逢えたのは季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』であり、
私の心身の波長に合うのである。

ここ数年の状況は、定期に購読しているのは月刊誌の『文藝春秋』であり、
25歳からの総合雑誌として持続しているので、毎月逢える私の心の友としている。
そして季節をめぐる毎には『文藝春秋SPECIAL』を秘かな恋人のように愛読している。

こうした中で、本屋の書棚で『中央公論』、『新潮45』、『サライ』など特集に魅せられた場合は、
買い求めたりしている。

書籍に於いては、定年後からは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子の各氏の作品を中核に、
単行本、新書本、文庫本を購読している。


私が何よりも困窮するのは、旅行先で持参した数冊の本を読み終えてしまった時である。
過ぎし2008〈平成20〉年の2月に、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、
箱根・姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在した時である。

日中は家内たちの婦人の名所の観たい所と違い、
私は姥子温泉の付近の芦ノ湖周辺を散策したりし、夕方から深夜まで読書をしたりしていたが、
周辺には本屋がなく、コンビニは雑誌しかなく困惑したのである。

私は活字中毒のひとりなので、薬が切れた、と家内にこぼしたりしていた。
そして帰路の箱根湯本の本屋で寄り、佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。

このような私なので、この世に別れを告げるまでは、本を読んでいたと思っている。


こうしたことが私の昨今の心情であり、
今回のニュースで、昨年の書籍・雑誌の販売額は7年連続で前年を下回った、と知り、
活字から教示される底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、
若い諸兄諸姉に、携帯電話、高性能携帯電話と称されているスマートフォンも大切と思われるが、
更に活字による魔力も知って欲しい、と文愛人のひとりの私は秘かに願ったりしている。


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作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』の書評文を読みながら・・。【再掲載】

2012-01-26 12:02:21 | 真摯に『文学』を思考する時
☆--------------------------------------☆
           おことわり
私は一昨年の2010年1月10日に於いて、上記の文をこのサイトに投稿したが、
昨今、殆ど毎日のように数10の方たちにお読み頂くことがあるので、
古き投稿文に対して少し驚きながら悦んでいる。

異例であるが、今回は再掲載し、改めて多くのお方にお読み頂きたく、あえて再掲載をする。
再掲載に伴い、少しの訂正、大幅に加筆をした。
☆--------------------------------------☆

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の65歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。

作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)の書評文であった。

無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。

《・・
「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。

古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。

ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。

ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。

日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。

しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。

誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆【みすず書房 公式ホームページ】<== 荒川洋治・著作 『文学の門』 ☆


齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)、
そして立原正秋(たちはら・まさあき)の両氏であった。

この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
水上勉(みなかみ・つとむ)、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)、
城山三郎(しろやま・さぶろう)、松本清張(まつもと・せいちょう)、山口瞳(やまぐち・ひとみ)、
向田邦子(むこうだ・くにこ)、宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)、倉本聡(くらもと・そう)、
浅田次郎(あさだ・じろう)の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが特に多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生(しおの・ななお)、佐野真一(さの・しんいち)、藤原正彦(ふじわら・まさひこ)、
嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)、曽野綾子(その・あやこ)、各氏の作品に深く魅了され、精読している。

このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら
明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。


定年後の今でも言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。

私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を重ね、
旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。

もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などと違い、編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。

私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多い。

文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力を頼りに、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。

こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
深く精読しながら教示され、魅了されたのである。


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『国家公務員の給与削減』は賛意であるが、何よりも自ら国家議員の歳費削減等こそが肝要。

2012-01-25 16:19:17 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
先ほどネットでニュースを見ようとし、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、ひとつのニュースに微苦笑した。
《 国家公務員の給与削減、民自公合意…人勧も実施 》
と題された記事である。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120125-OYT1T00692.htm?from=main1
☆【YOMIURI ONLINE】<==《 国家公務員の給与削減、民自公合意…人勧も実施 》☆

私は政治にも疎(うと)い身であるが、テレビのニュース、新聞、総合月刊誌などで、
余りにも心の節度を失くした国家議員の諸兄諸姉の言動に、
いたたまれず時折このサイトに投稿をしたりしている。

最近の私の政治関係に関する心情として、過ぎし1月12日に投稿している。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/df73ca1a8be1ef34767dfcfd2637ae07
☆【夢逢人たわむれ記】<==
         1月12日付《 政府は財政難の危機と公言されても、実は『どんぶり勘定』と教示され、私は溜息を重ね・・。》☆


こうした中のひとつとして、政府・民主党の復興財源案の財源の検討の中で、
昨年の9月27日の党税調では、国家議員の定数削減、公務員の人件費削減なども検討された、
と読売新聞の記事に掲載されていたが、
国家議員の定数削減の難題よりも、迅速に自ら歳費削減をすべきである、と私も投稿したりしてきた。

このようなことは、余りにも優遇された国家議員は、自ら襟を正して、歳費の削減を可決した上、
今日の数多くの対処するのが責務である、
と投稿したりしてきた。

昨年の10月7日・・『国会議員歳費の『減額特例法』、昨今の国難の状況下、継続するのが心の節度であり・・。』
昨年の9月28日・・『政府・民主党の復興財源案に賛意であるが、なぜ国家議員の歳費削減を実施しないのか?』
このような投稿文をして、昨年の後半の心情で、私は過ごしてきた・・。


そして、本日の昼過ぎに、政治に疎い私が時折教示されているサイトを拝読して、
私が無知だった国家議員の予測を遥かに超えた優遇に動顚させられたのである・・。

サイト【 原野辰三の斬り捨て御免 】であり、
本日の投稿文は『 こんなヤツらに毎年320億円も・・・・』である。
http://www.dotcolumn.net/column/details.php?bid=462

私は中小業の民間会社に35年近く勤めた身であるが、
官庁のそれぞれの省益確保、拡大、天下りの保身などを新聞、総合月刊誌などで学んで、
酷過ぎると感じてきた・・。

しかしながら今回の原野辰三氏の投稿文から、国家議員の諸兄諸姉の遥かに優遇されている状況に、
平素の私は羊のようにおとなしいが、あきれ果て、憤りを感じている。

そして国民はもとより有権者の方は、こうした国家議員の諸兄諸姉の優遇をご存じかしら、
と思ったりしている。

そして国民に政策の賛意を求める前に、自ら襟を正して、それから発言して頂きたい、
と無力な私は思っている。


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水野 肇・監修の『健康歳時記』、年金生活の私の心身の友のひとりとなり・・。

2012-01-25 10:39:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
居間にあるパソコンの置いてある机の右側に小さな本箱があり、
色々な歳時記、国語辞書などの本を置いている・・。

この中の一冊が、水野 肇〈みずの・はじめ〉氏が監修された『健康歳時記』(三宝出版)があり、
もとより氏は医事評論家、或いはジャーナリストとして、ご活躍の人でもある。
たまたまこの本は、私が現役時代のサラリーマン時代の1995〈平成7〉年に、
会社に訪問販売してきた時、おつきあい程度の気持ちで購入したのであった。

現役時代は本棚に収納したままであったが、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職をした後、改めて人生の再スタート時に、
何かとパソコンをふれる機会の多い私として、近くに置いてある本の一冊となり、
ときおり読んで、今日に至っている・・。


この歳時記は、日毎に『からだの365日』、『お天気歳時記』、『暮らしのカレンダー』、
『自然の雑記帳』、『駅弁の旅』、『健康一日一諺』、『雑学の玉手箱』が掲載され、
健康の歳時記にふさわしい編集となっている。

今朝のひととき開いたりし、本日の1月25日に於いては、
『からだの365日』は、《 日本人に胃ガンが多いわけ 》
と題されて、私はどうしてなの、と小心者の私は読んだりした。

『お天気歳時記』には、《 八甲田山 》について解説されて、
作家・新田次郎の小説で、映画化もされた八甲田山の遭難事故も綴られている。
私はここ数年、この八甲田山のふもとの観光温泉ホテル、旅館に5月、12月に訪れ、
少なくとも10日ぐらい宿泊してきたので、山中の過酷な変化には想像ができる、
と感じたりした。

『暮らしのカレンダー』は、この中のひとつ出来事として、
《 明治40年 東京に帝国ホテルが完成 》と明記され、
西暦だったら、1907年の頃かしら、と思いながら、100年は優に過ぎている、
と驚いたりした。

『自然の雑記帳』は、《 カトレア 》の花について掲載され、
洋ランのひとつであるが、私は高校生の頃から、愛〈いと〉しき花、
と思いながら過ごしたりしてきた。
同じランの一種には、胡蝶蘭があるが、秘かに高嶺の花の女性と思いながら、
恋い焦がれるような心情で大好きな洋花のひとつと思ったりした。

『駅弁の旅』は、この日には『ホームクッキング』に代わり、
《 キンカンの甘煮 》と題されて、料理法が解説されていたが、
私は苦手な食べ物、と思いながら最後まで読んでしまった。

『健康一日一諺』は、《 熊に山椒 鯉には胡椒 》と題されて解説されていたが、
恥ずかしながら、熊に山椒 鯉には胡椒、と名言は私は無知であり、
精読して、多々教示されたりした。

最後の『雑学の玉手箱』は、《 指紋の整形手術 》がテーマとされ、
このようなことが、かってアメリカであったの、と齢ばかり重ねた私は学んだりした。


このように水野 肇〈みずの・はじめ〉氏が監修された『健康歳時記』(三宝出版)は、
たかが歳時記の本の一冊であるが、されど中味の濃い心身の友でもある、と確信を深め、
ときおり私は読んで、8年生となっている。


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東京郊外の片隅に住む我が家、今年初めての雪化粧の情景に、私は微笑んで・・。

2012-01-24 10:33:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

昨日の昼下がり、どんよりとした曇り空を見たりした後、
少し風邪気味の私は、二階の寝室で暖かな電気敷き毛布の布団にもぐりこんで、
東野圭吾(ひがしの・けいご)氏の『歪笑小説』〈集英社文庫〉を読みはじめたりした。

そして夜の6時過ぎに起きだして、、私は、玄関の軒下にたたずんで、
ぼんやりと暗い玄関庭の樹木をながめたりしていると、霧雨が降っていた。

その後、家内と夕食をした後、28日から6泊7日で札幌の郊外にに訪れる旅行に関して、
お互いに下調べをしたりした。

そして9時過ぎに、私は玄関の軒下で煙草を喫おうと思い、玄関の戸を開けたら、
玄関庭の地表は純白のベェールのような積雪が観られ、そして樹木の枝葉は雪化粧となり、
夜空を見上げると、たえまなく雪が舞い降りている・・。

私は、今年初めての積雪た、と心の中で呟〈つぶや〉いたりした。

過ぎし19日は、確かに初雪が降ったりしたが、その後は霙(みぞれ)、
ときおり粉雪が舞ふ情景だったので、積雪もなく雪化粧には程遠かったのである。
こうした思いもあったので、私は少し舞て降る雪を眺めた後、
『XXちゃん・・雪が降っているよ・・我が家も雪景色になっているょ』
と私は玄関の中に入り、居間にいる家内に大声で言ったりした。

そして私たちは、玄関の軒下で雪化粧の玄関庭を眺めたり、
舞て降る雪を眺めたりしていると、
『積もるかしら?・・』
と家内は私に訊〈たず〉ねるように言ったりした。

『天気情報は都心でも5センチぐらいと予報していたので・・
この辺でも・・ほぼ同じと思うよ』
と私は家内に言ったりした。


今朝、5時過ぎに目覚めると、こっそりと玄関の片隅みの窓辺から、主庭を眺めると、
薄暗い中、小庭には数センチぐらいの積雪は観えたが、雪は止んでいた。

その後、寝室の暖かな布団にもぐり、目覚めた時は7時過ぎで、
陽射しは燦々〈さんさん〉と主庭を照らす中、雪化粧に私たち夫婦は見惚〈みと〉れていた・・。

こうした中で、モミジ、モクレン、白梅、紅梅などの枝は雪をたたえ、
中には氷柱〈つらら〉のように小枝から垂れ下がり、陽射しを受けて、光帯びていた。
そして常緑樹の枝葉、そして地表は数センチばかりのうっすらとした雪化粧となりっていた。

このような情景を私は見ていると、何故かしら遥か遠い60年前頃のこの近くにある
私の実家の情景に思いを重ねたりした・・。


私は1944〈昭和19〉年に農家の三男坊と生を受け、
祖父と父が中心となって、程々広い田畑を小作人だった人たちの手助けもあって
農業を営(いとな)んでいた。

この当時は、京王線の最寄駅までは
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。

1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪がたえまなく舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父や父の知人たちの畑は雪一面の状況となっていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に木造の正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
簡易に造ったブリキの中で、薪(まき)が燃やされていたのである。

私たち学童は、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が実家の周辺に家を建てられ、
やがて私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年になると、
ベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。

こうした幼年期に体験した私は、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受している。

そして、東北、北海道の地方で雪が30センチ降った、とテレビのニュースを視聴したりすると、
なぜかしら私は心の片隅みで微笑んでしまうのである。

このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうのである。

尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの
思いからである。


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『M7級の首都直下地震、4年以内に70%』と試算されても、東京郊外に住む私は戸惑いながらも・・。

2012-01-23 09:48:43 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、一面の中段に、
《 首都直下型 4年内70%
     M7級 東大地震研 試算
           地震活発 切迫度増す 》
このような見出しがあり、思わず私は精読させられた・・。

この詳細記事に関して、簡潔にまとめた記事が、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されていたので、
無断であるが転載させて頂く。
《・・
    M7級首都直下地震、4年内70%…東大地震研

マグニチュード(M)7級の首都直下地震が今後4年以内に約70%の確率で発生するという試算を、
東京大学地震研究所の研究チームがまとめた。

東日本大震災によって首都圏で地震活動が活発になっている状況を踏まえて算出した。
首都直下を含む南関東の地震の発生確率を
「30年以内に70%程度」としている政府の地震調査研究推進本部の評価に比べ、
切迫性の高い予測だ。

昨年3月11日の東日本大震災をきっかけに、首都圏では地震活動が活発化。
気象庁の観測によると12月までにM3~6の地震が平均で1日当たり1・48回発生しており、
震災前の約5倍に上っている。

同研究所の平田直(なおし)教授らは、この地震活動に着目。
マグニチュードが1上がるごとに、地震の発生頻度が10分の1になるという地震学の経験則を活用し、
今後起こりうるM7の発生確率を計算した。
(2012年1月23日03時04分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


今回の記事を読みながら、優(すぐ)れた英知結晶である東京大地震研究所のグループの方たちの予測は、
もとより真剣に受け止めている。

私たち夫婦は南関東地方の東京郊外の調布市に住み、結婚前後の5年間を除き、
調布市の片隅で世田谷区と狛江市に隣接した地域に62年ばかり過ごしている。

そして古惚けた築後34年の一軒屋に、家内と2人だけで住んでいるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし昨年の3月11日の東日本大震災の時は、
我が家は大きく揺れ、本棚から10数冊の本が床に落ちたぐらいであったが、
我が家は防災に不備なことに気付かされた・・。

懐中電灯が2つばかりあるだけで、予備電池がないことも解かったりした。
そしてペットボトルの2リットルの煎茶が6本あるだけであった。

この後、改めて調布市から市民に配布された『調布市防災マップ』を見たりし、
この中の注意事項、連絡表の記載事項を互いに確認したり、
家内と共に買物に行った帰路に、指定された避難所の場所を近くを通り、確かめしたりした。

そして我が家は、そのうちに電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオを購入しょう、
と話し合い、買い求めたりした。

その後、旅行用のショルダーもできるバックを居間の片隅に置き、
いざ避難所に行く時に、持って行こう、と互いに決めている。

この中身は、電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオ〈電池対応、可〉、
懐中電灯、電池、タオルを4枚、板チョコレートを4枚、ペットボトル500mlが2本、
百円玉を中核として10円玉も少しで、3000円。
そして私のメガネの予備、タバコ、
脇サイドには『調布市防災マップ』が入っているだけである。

無念ながら携帯電話は私たちは互いに使えないので、この程度ぐらいと思っている。
あとは、非常食として、乾パンぐらいは、購入しておかなければ、
と思いながらも、実行していないのが我が家の現状である。


この程度であり、今回、東京大地震研究所のグループの方たちの予測として、
マグニチュドの7級の首都直下地震が、4年以内に70%の確率で発生すると、
公表されても戸惑いながら、苦笑を重ねたりした。

そして、巨大地震が発生しても、その時はその時に対処すればよい、
と私たち夫婦は思っているのである。

何よりも肝要の平素の日常生活をたんたんと過ごし、人生の余生を過ごせれば、
よいと思ったりしているのである。

このよう思いを深めたひとつの理由として、
ある著名人の方のひとつの随筆を20数年前に読んだ為か知れない。
この方のご夫婦は、伊豆地方の熱海駅から自動車で15分ばかりの高台の処に住まわれ、
もとより熱海駅は、東京駅まで新幹線で一時間で行ける利便性のある地である。

そして伊豆地方は、何かと地震の多い地でもあると知られているが、
百年に一回ぐらいの大地震を心配するより、
都心の山手線の線内の広尾、青山などの住宅地よりも、
遥かに空気も良いし、展望も良いし、東京への利便性ある、
とこのような意味合いの発露されていた。

私はこの方のように富もないが、故郷でもある調布市の片隅に過ごせればよい、
と確信を深めたりしたのである。

尚、東日本大震災で悲惨状況に遭遇された方たちの前では、もとより言葉はないが、
このサイトで東日本大震災に関して、私は数多く投稿文の内容をお読み頂ければ、
私の本心は理解して頂ただけると思っている。


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東野圭吾(ひがしの・けいご)氏の作品、遅ればせながら初めて買い求めて・・。

2012-01-22 15:19:52 | 読書、小説・随筆
昨日の日中、私は駅前に買い物に行き、駅ビルの2階にある本屋に、私は立ち寄った・・。

店頭のひとつのコーナーに、見やすいように傾斜のある陳列棚で、
東野圭吾(ひがしの・けいご)氏の『歪笑小説』の文庫本がずらりと並び、
私は恥ずかしながら作家・東野圭吾氏の作品は読んだことはないが、
昨今、出版業界の不況の中、幾つかのベストセラーを続出させる稀な作家である、
とこの程度しか知っていなかった。

http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746784-0&mode=1
☆【集英社公式ホームページ】<== 文庫本 <== 東野圭吾・著作『歪笑小説』☆

私は近寄り、思わず手にしたのは、表の帯に明記された文面であった。
《 だから作家になんて、なるもんじゅない!
東野圭吾、これが裏のライフワーク
       出版業界の内幕を暴露する連続 》
この文面に圧倒的に魅了されて、読んでみたくなり、買い求めたのである。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。


私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)、
そして立原正秋(たちはら・まさあき)の両氏であった。

この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
水上勉(みなかみ・つとむ)、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)、
城山三郎(しろやま・さぶろう)、松本清張(まつもと・せいちょう)、山口瞳(やまぐち・ひとみ)、
向田邦子(むこうだ・くにこ)、宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)、倉本聡(くらもと・そう)、
浅田次郎(あさだ・じろう)の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが特に多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生(しおの・ななお)、佐野真一(さの・しんいち)、藤原正彦(ふじわら・まさひこ)、
嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)、曽野綾子(その・あやこ)、各氏の作品に深く魅了され、精読している。

このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら
明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。

昨今は丸66年の歳月が過ぎ、67歳を迎えた今、過ぎ去った人生を思い重ねて、
特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、各氏の作品を購読して、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


このような拙(つたな)い身の私は、今回の東野圭吾・著作の『歪笑小説』を買い求めたのは、
ここ10数年の出版業界の不況を読書好きな私は憂いたりしているからである。

作家・瀬戸内寂聴さんが確か2009年の10月で読売新聞社・主催の講演会で、
発言されたことを思い重ねている。

《・・
私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは死んだら3年と持ちませんよ。

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、
源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。

私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば誰も読んでくれなくなるんですよ。
・・
文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても意味がないんですね。

しかしその中でも人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。

私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと山ほど本がありますよ。
読みきれないほど新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。
目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだんもちきれなくなっている。
(2009年12月3日 読売新聞)一部を引用
・・》

こうした出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは大揺れの状況下となっている。

このように思っている私は、改めて出版業界と創作者の作家の関係を、
今回買い求めた東野圭吾・著作の『歪笑小説』を読んで学ぼうとしている。


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年金生活の我が家、『所得税の確定申告書』は不要と学び、戸惑いながら微苦笑し・・。

2012-01-21 11:43:59 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私は67歳、家内は62歳となり、共に年金受給を受ける身となり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

一昨日の19日に、調布市より配布される月刊小誌の『市報』が我が家の門扉の近くの郵便受入箱に入っていて、
私は昨日の20日の昼下がりに読んだりしていた。

3面には《 確定申告書が始まります 》と特集記事があったので、
今年も2月16日~3月15日の間に、我が家でも『所得税の確定申告書』を作成して、
提出しなければならない、と私は思ったりした・・。

そして、この特集記事を精読した中のひとつとして、
《    税務署からのお知らせ

   年金所得者に係る所得税の確定申告不要制度の創設

平成23年度分以後の各年分について、
公的年金等の収入金額の合計額が400万円以下で、
かつ、公的年金等に係る雑所得以外の所得金額が20万円以下である場合は、
所得税の確定申告をする必要がなくなりました。

ただし、この場合でも、所得税の還付を受けるための
確定申告書を提出することができます。

                武蔵野府中税務署  》

このような記事が掲載されていた。

我が家の申告上の『雑収入』の中の『公的年金等』の実態は、
私は民間会社に35年近く勤めていたので厚生年金、そして短期間加入していた企業年金であり、
家内は殆ど専業主婦であったが、
わずか3年ぐらい勤め、少しの厚生年金と企業年金を頂いている。

このような我が家としては、恥ずかしながら『公的年金等』の合計額が400万円には程遠く、
無念ながら『所得税の確定申告書』の不要の対象者と学び、
やはり中小業に勤め栄達も出来なかった私は、少し落胆したりした。

この後、ぼんやりと昨年度の『所得税の確定申告書』をみていたら、
『雑収入』の中の『その他』として、
ここ数年は家内が10数年前に郵便局で知った据置定期年金保険に加入していたので、
私が65歳から10年間ばかり毎年90万を受け取っている・・。

もとより申告する責務があり、やはりこの先の8年ぐらいは、
『所得税の確定申告書』は作成し、提出しなければならない、と苦笑した。

そして今年は、昨年に家内が歯の治療を受けて、程ほどの額を支払ったりしたので、
『医療費控除』を少しポケた私でも必須記載項目だ、と微苦笑したりしている。


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東京郊外の片隅に住む私は、初雪が降り、そして霙(みぞれ)、ときおり粉雪が舞ふ情景に微笑んで・・。

2012-01-20 14:13:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、昨夜の9時過ぎに小雨が降りだして、私は玄関の軒下にたたずんで、
小雨が降りしきる情景を見つめていた。

私の住む地域は、昨年の12月の頃から、
小雨、初雪も降ることなく、冬晴れの多い日々に恵まれたが、
余りにも雨もなく乾ききった空気となり、雨乞いでもしょうかしら、と私は思ったりしたが、
無力で体力も衰えた私が懇願しても、天上の気候の神々に無視されると思い、断念したりしてきた。

今朝、5時過ぎに目覚めると、こっそりと玄関の片隅みの窓辺から、主庭を眺めると、
薄暗い中、小庭の中央部に白いベェールのような雪が観えたが、周辺の樹木は雪をたたえることはなく、
ほんのりと深夜か早朝に初雪が降った、とぼんやりと解った。

その後、寝室の暖かな布団にもぐり、目覚めた時は7時過ぎで、
霙(みぞれ)が降り、ときおり風が吹き、霙(みぞれ)が舞ふ情景となっていた。

昼の12時過ぎのNHKテレビのニュースを視聴していると、
北海道の旭川市の郊外はマイナス30度、そして市内はマイナス20度の厳寒となり、
街中でダイヤモンド・ダストで煌〈きら〉めいている情景が映し出されていた・・。

東京郊外の片隅で幼年期は農家の児として育った私は、
ここ数10年はマイナイ10度前後の寒さの冬の旅に魅了されて、
雪恋し、と家内と共に旅を重ねてきた・・。

こうした心情のある私は、旭川市の市内はマイナス20度の厳寒の中、
街中でダイヤモンド・ダストで煌〈きら〉めいている情景に、
いいよなぁ、と羨望したりした・・。

小庭を眺めたりしていると、霙(みぞれ)から粉雪が舞ふ情景に変貌して、
私はしばらく見惚〈みと〉れたりした。

このような情景を眺めていると、

♪逢いたい気持ちが ままならぬ
 北国の街は つめたく遠い

【 『小樽のひとよ』 作詞・池田充男、作曲・鶴岡雅義、唄・鶴岡雅義と東京ロマンチカ 】

と私は心の中で唄いだしたのである。


私たち夫婦は、10数年前、網走の郊外の観光ホテルに連泊し、
知床のウトロ周辺で流氷を眺めて数時間ばかり散策した後、
翌日の朝に特急列車で札幌に移動した後、雪まつりの前に小樽市に寄り、宿泊した時であった・・。

2月の雪の舞い散る中、日中は街中、運河周辺を散策したり、
ホテル宿泊した夜は、付近の居酒屋の行き帰り雪で足が覚束なかったが、
囲炉裏焼などで、地酒と地魚をたらふく頂いたりしたことがあった。

♪粉雪まい散る 小樽の駅に
  ・・・
【 『小樽のひとよ』 作詞・池田充男、作曲・鶴岡雅義、唄・鶴岡雅義と東京ロマンチカ 】

私は粉雪が舞ふ情景を眺めたりすると、小樽を訪れた雪の情景に愛惜の想いを重ね、
見惚れていたのであった。


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裏磐梯、この時節は粉雪舞ふ日々の中で・・。【12.1.15.~1.18】 最終回

2012-01-20 10:04:27 | 
       最終章  旅の終わりは、『東北6県 日本酒飲み比べ』となり

私は『裏磐梯猫魔ホテル』に滞在していた3泊4日の間、
指定された部屋は、東京郊外の田舎者としては、お洒落な洋室の上、広い部屋の間取りに戸惑っていた。

http://nekoma.jp/guestroom/room5.html
☆【裏磐梯猫魔ホテル 公式ホームページ】<==ゲストルーム <==デラックスツイン☆

このホテルの解説に明記されている通り、
《・・デラックスツインは全て前室がついたペントハウスです。
 最上階の窓からは裏磐梯の自然が眺望できます・・》
と称されているが、
まぎれなく最上階の5階の窓辺からは、高い松の数10本を観おろし、
その先の雑木林越しに氷結した檜原湖が観え、
湖の雑木林、里山、そして幾重かの山なみが観え、展望に最良な処であった。

私たち夫婦のささやかな体験としては、選定できるならば和室を望み、
窓辺の近くに3点セットの椅子、テーブルがあり、
そして12畳前後の和室が好みである。

私たち夫婦としては落ち着かない部屋となったが、
私は窓辺の近くのソファーに座ったり、ときおり横たわったりし、
窓辺からの粉雪舞い降る情景に見惚れたりしていた。

この間は、館内の売店で買い求めた地酒を吞んだり、或いは煎茶を飲んだりしながら、
活字中毒の私は持参した文庫本を読んだりした。
たまたま曽野綾子・著作の『非常敷家族』〈徳間文庫〉、『晩年の美学を求めて』〈徳間文庫〉の二冊であり、
つたない半生を歩んだ私は、この世の最良のひとときを過ごしている、
と感じたりした。

そして疲れを感じたら、大浴場に身も心もゆだねて、温まった後、
大浴場の片脇から階段を降りて、露天風呂に入ったりした。


館内の食事に関しては、朝食はバイキングで、
夕食は到着した和食で確かな味付けであり、翌日は洋食となり、
最終の夜はバイキング形式となったが、私たちが旅行会社に支払った旅費を配慮すれば、
予期した以上のホテル側のご厚意と強く感じたりした。

http://nekoma.jp/cuisine/index.html
☆【裏磐梯猫魔ホテル 公式ホームページ】<== お料理☆

こうした待遇を受けた私は、日本酒、ビールを注文して吞んだりしたが、
秘かに待ち焦がれた最終のバイキング形式の夕食時であった。

このホテルの夕食のバイキング形式の場合は、『東北6県 日本酒飲み比べ』が旅先前から私は知っていた。

http://nekoma.jp/cuisine/cuisine5.html
☆【裏磐梯猫魔ホテル 公式ホームページ】<== お料理<==、『東北6県 日本酒飲み比べ』☆

私は家内用にビール、そして『東北6県 日本酒飲み比べ』を注文した。
呑兵衛の私は、旅先で地酒を吞んだりして30年近くなるが、
時には戯〈たわむ〉れとして一合瓶が6本セットなどを愛飲したりしてきた。

こうしたガラス製のぐい吞みで、それぞれの地域の地酒を吞めば、
その地の旅先を思い馳せ、和菓子と同様に古来からの文化のひとつと感じたしている。

好みの単品を食べながら、地酒を吞み、こうした思いを家内に話たりしていると、
何かしら高揚して、家内は『東北6県 日本酒飲み比べ』を追加すれば、
と微笑みながら私に言ったりした。

私はお代わりした『東北6県 日本酒飲み比べ』を吞みながら、
今回の旅も、訪れた日は雪の降った後であり、積雪は50センチ前後であり、
滞在中はどんよりとした曇りの日が続き、ときおり淡い陽射しが射したりしたが、
こうした中で、粉雪が舞ふ時が多く、思いで深い旅であった、とぼんやりと感じたりした。

そして、のちの思いになることは、確かだよねぇ、
と私は家内に言ったりした。


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