夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去る7月の中、この時節に生まれて初めて、美麗な薔薇にめぐり逢えて・・。

2014-07-31 15:52:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

今朝、今朝、ぼんやりと居間にあるカレンダーを見ると、
31日と明記され、月末かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。
                    

私は2004年(平成16年)秋に定年後、多々の理由により年金生活を始め、
10年近く60代を過ごしてきた・・。

年金生活を始めた直後から、私は自主的に平素の買物専任者となり、
家内からの依頼品を毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。
          
こうした中で、いつもように本日の午前中に、燦々と陽射しが照らす中、スーパーに買い物に向ったが、
少し遠廻りして小公園に寄ったりした。
          

そして汗ばんだ顔をハンドタオルでふいたりして、大きな欅(けやき)の近くにあるベンチに座り、
緑陰に身を寄せたりした。
そして扇子を取りだして扇(あお)いでいると、7月は早くも今日で終わってしまうのか、
とぼんやりと感じたりした。

私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となるので、
今年の夏は60代の最後の夏となり、安楽な60代にサヨナラする為か、
日々愛惜を深めたりしてきた・・。

そしてこの7月は・・と思い馳せたりすると、
毎年のように小庭にある木槿(ムクゲ)、アメリカン芙容(フヨウ)などに心を寄せて過ごしたりして来た。
   

こうした中で、買物の往還、その後の遊歩道、小公園などを散策していると、
          
百合(ユリ)の花を見たりして、幼年期に農家の児として育てられた私は、
あの当時、夏の花として、蓮(ハス)と共に、この世の最上の花、と幼年ながら感じたりしたので、
涙ぐんでしまうほど、好きな花のひとつとなっている。
         

そして我が家にない木槿(ムクゲ)の別の品種を見て、瞬時に魅了されたりしてきた。
           

                  

このような初夏の数多くの花を見たりしてきた。

こうした中で、思いがけない花に、生まれて初めて享受した。
23日の日中、都立『神代植物公園』の『むくげ園』に於いて、
数多くの木槿(ムクゲ)の各品種の多彩な彩(いろど)りを魅了された後、
たまたま『バラ園』を横切ったのである。

          
            ☆今回掲載した以下の薔薇(バラ)の花は、都立『神代植物公園』23日の日中のひととき撮った。☆

            
私は薔薇(バラ)の花に関しては、何かしら高嶺の花の女性と感じ、高貴な花と深めてきたので、
恥ずかしながら定年退職した60歳の頃まで、近寄りがたく気後(きおく)れしまい敬遠してきた・・。

そして何かと卑屈と劣等感を秘めてきた私でも、遅ればせながらイギリス、フランスの文化を逃げることなく知る為には、
やはり薔薇(バラ)は欠かせない、と確信を深めたりした。

そして年金生活の60代に国内旅行で『バラ園』があった時、鑑賞する時もあった。
もとより私の住む地域の都立『神代植物公園』に於いて、
恒例の『春のバラフェスタ 』、『秋のバラフェスタ 』などで、
数多くの美麗な薔薇(バラ)を鑑賞して、感性の衰えた私でも、魅了された。
          

こうした中、昨年の6月初旬に訪れた時、
入園した入口の近くで頂いた『神代 花だより』(NO.213、平成25年5月)に於いて、
バラについて解説されていたので、初心者の入門書として精読したりした。
          
《・・バラは、北半球の新旧両大陸を中心に広く分布する植物で、
世界に約120~200種の原種があると言われています。

バラの栽培は、古代オリエントで始まったといわれており、
薬用・香料として、ギリシャ、ローマ時代には盛んに栽培されるようになりました。

ヨーロッパやオリエント原産のバラは一季咲き(春のみ開花)で、
長い間、バラは春しか咲かないものでした。
          

その一季咲きまバラに、四季咲きの性質を中国産の「コウシンバラ」や「ロザ・ギガンティア」の系統が掛け合わされ、
四季咲性の現代のバラの第1号は、’ラ・フランス’といい、
このバラに作出された1867年をもって、
それ以前に作出された系統のバラをオールドローズ、
それ以降に作出された系統のバラを現代バラ(モダンローズ)といいます。
         
現代において栽培されているバラは、
主にこの現代バラと呼ばれる栽培品種群で、多くの品種がありますが、
この栽培品種群は、わずか8種の野生種から作り出されたものです。

その8種とは、ロサ・ガリカ、ロサ・ダマスケナ、コウシンバラ、ノイバラ、
テリハイノバラ、ロサ・ギガンティア、ロサ・モスカータ、ロサ・フォエティダです。

神代植物公園には「野生種・オールドローズ園」というバラ園があります。
このばら園には、中国や日本の代表的な野生種、オールドローズのうち、
現代バラに作出に当たり大きな役割を果たした野生種やオールドローズ、
現代のバラの第1号の、’ラ・フランス’などのバラが産地や系統別に植栽され、
現代バラの作出の歴史をたどことができます。・・》

このような解説を私は読んだか、やはり高貴な薔薇(バラ)は、貴婦人ように感じて、
やはり高嶺の華(はな)だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
          

このような心情を秘めた私は、『バラ園』を横切った時、
春季、秋季でもないのに、この夏季の時節に数多くの薔薇(バラ)の花が咲いていることに驚き、
富も名声に無縁な私でも、つたない感性を頼りに、一時間半ばかりバラ園を鑑賞した。
                    

そして私は『バラ園』の数多くの美麗な薔薇(バラ)の花を鑑賞している中、
恥ずかしながら思いを重ねたりした・・。
          

私は小学2年生の時に父に病死され、母と父の妹でこ当時は未婚だった叔母に育てられ、
この叔母の女友達の3人が、ときおり来宅した。
こうした中で、私は女性に憧憬を深め、今でも女性のしぐさ、顔立ち、そして言葉に魅了されたりしている。
          

そして現役サラリーマン時代に於いて、職場、親睦会などで心の交流した3名の女性の
しぐさ、顔立ちを浮かべたりした。
          
       
或いはここ9年半ばかりにブログに投稿している中、
多くの女性の投稿文を読ませて頂き、心の清らかな方とか、素敵な感性をしている方とか、
或いは凛とした方などと、私は思い馳せたりしてしまったのである・・。
          

このような7月の夏季に咲いている美麗な薔薇に、生まれて初めてめぐり逢えたことは、
富も名声に無縁で寂しがりの私の真情を察して、天上の神々からの贈り物かしら、
と私は思ったりして、やがてスーパーに向ったりした。

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高齢者の私たち夫婦、熱中症対策の我が家の夏の陣は・・。

2014-07-30 13:55:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
過ぎし日の5月31日に今年初めて30度を越える真夏日となり、その後も初夏のような暑さが続き、
何かと熱さに苦手な私は、どうしてなのょ、と天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

そして6月5日になると、突然に涼しくなり、午後から雨が降りだして、
気象庁は『梅雨入り』になりました、と宣言され、平年より3日ぐらい早いかしら、と感じたりした。

この後、連日小雨が降り続け、ときには本降りの雨となったり、
激しい雷雨となったりしたこともあり、何かと今年の梅雨の時節は雨降る不安定な日が多く、
どうしてなのょ、と天上の気候の神々の采配に、
何かと鈍(にぶ)い私でも、戸惑いながら驚くことが多かった・・。

この間、調布市の市報から、熱中症予防に関した記事が掲載されていたので、
私は微苦笑したりしていた。
          

私は幼年期に農家の児として育てられた為か寒さには強く、暑さに何よりも苦手な身であり、
家内は寒さに弱いが、夏の暑さは30度ぐらいでは平然としている。
こうした風変わりな夫婦なので、困ったなぁ、と少しばかりため息をしたのである。

このような状況であり、家内はクーラーの冷風が苦手であり、
私はクーラーの冷風をこよなく愛するタイプであり、
毎年、夏の初め梅雨の時節は我が家は『冷たい戦争』となってきた・・。

家内からすれば、女の人は冷え症の方が多く冷風は禁物なのよ、
と天上の神のような声に私には聴こえたので、
これ以来、私なりに多少耐えてきたのである。

私が若き40代の当時、サラリーマンで奮闘していた時、
休日の時、テレビで確か主婦連の女性が、
夏のクーラーは程々に倹約して27度を超えたら、体調を配慮してクーラーを、
このような発言をしていた。

我が家は古い温度計しかなかったので、
やむなく私は真夏日の日曜日に渋谷のデパートに出かけて、
西ドイツ(現在・ドイツ)製の堅牢な温度・湿度計を購入したりした。
               
                我が家の居間にあるが、今回は特別に移動して記念写真とした。
そして、この後の暑い日になると、
『XXちゃん・・30度を超えているょ・・
主婦連だって・・体調を配慮してクーラーを・・と言っていたよ』
と私は温度計を指して、家内が見た後、クーラーの冷風をセットするのが、
ここ20年の我が家の習性となってきた。
          

一昨年の6月中旬の頃、私は平素の買物専任者の身であるので、
歩いて10分ばかりのスーパーで買い物をしたりした。
燦々と陽射しが照らす中、夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿で颯爽と歩いたりしたが、
汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりした。
そして帰宅後、洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の外れで、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。

この後、私たち夫婦は昼食を頂いている時は、30度を超えていたので、
私は扇風機の風に吹かれて、家内と話したりしていた。

『節電の時世・・数年前、確か政府は28度ぐらいの室温に協力を・・と言っていたよねぇ・・』
と私はエアコンの冷気が苦手な家内に言ったりしたのである。

『そうでしたよねぇ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

『確か・・25年前頃・・主婦連の方たちが、夏のエアコンの最適な温度は、
27度ぐらいが理想的・・と記憶しているが・・』

『あの当時は・・エアコンは冷やすものだと・・
各家庭が寒いぐらいに冷やしていた時代だから・・適温を言ったのよ』
と家内は笑いながら私に言ったのである。

『先ほど、そこにある温度計・・30度を超えていたよ・・
我が家でも、今年初めてのエアコン・・セットしょうか?』

『今頃から・・エアコンのお世話になると、非国民と言われますよ・・』
と家内は私に言ったりしたのである。

『非国民かょ・・XXちゃんも昭和24年生まれなのに・・よく知っているねぇ』
と家内より5歳ばかり齢上の私は苦笑したりした。

こうした時、私は昼下り、2階の和室で、夏掛け布団を掛けて、横たわり、
扇風機の風を受けながら、本を読みはじめたりすることか多かった・・。

今年も同じようになるかしら、と私は微苦笑したりしていた。
          

過ぎし7月8日は30度の熱さとなり、翌日の9日は33度前後の猛暑が予測されたので、
我が家は今年初めてクーラーの冷気を始めた・・。

平年ならば学童が夏休みに入る21日の頃に、私の住む地域は『梅雨明け』となり、
これに順応して、我が家はクーラーの冷気の生活となるのであるが、
高齢者を大切にしましょう、と私は家内に幾たびか言ったりしていたので、
こうした効果が表れたのかしら、と私は微苦笑したりしていた。

そして、冷風を受けた私は、夏の熱い時期はこの世で一番の贈り物だ、
と確信を深めたりした。


この後、まもなく家内は収納している簾〈すだれ〉を取りだして、
各部屋に掛け始めた・・。

こうした事は、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
            玄関の内部の窓辺、簾〈すだれ〉の上に、黒地の布をして、陽射しの熱さを防いでいる。

この時季は朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。

そして私は駅前までの片道徒歩20分のスーパーに行ったりした後は、
散策も近回りのコースを歩き廻ったりして、ときには扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
          
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、冬の寒さを思い浮かべて、
足早に歩いているのが実情であった。

こうした中でも、34度前後を超えた場合は、利便性の良い路線バスに乗り、
熱中症で倒れて救急車、病院にご迷惑するので、バスの車内の冷気に甘えて帰宅することもある。

そして帰宅後は、洗面所で顔を洗い、エアコンの冷気の中で、衣服を着替えたりしている。

この間、家内は室内の掃除を終えて、
居間のエアコンの冷房を省エネの28度に設定している・・。
やがて居間、玄関の内部、洗面所、トイレ、台所など完全冷房となる。

そして私たち夫婦は、17畳ぐらいの居間で、日中の大半を過ごしている。

私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、本を読んだりし、ときおり庭を眺めたりする時、
ほのかな暗さを通して、樹木、草花が涼しげに見えたりし、微笑んだりしてきた。
              

この簾〈すだれ〉は紐でスルスル上げ下げの調整も出来、その上に布地も少し左右に開くことが出来るようにしたので、
平安時代の高貴な女性の部屋のように思えて、私は家内に我が家は平安朝だよねぇ、
と時折たわむれた事を言ったりしている。

こうした中、居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして昼下がりのひととき、簡易ベットを敷いて、
私は横たわりながら本を読んだりし、ときには昼寝をしたりしている。

家内はソファーに座り、本を読んだりし、テレビを視聴したり、
日中のひととき、居間の片隅で夏掛けの布団にくるまり昼寝をしたりしている。

やがて夜の8時過ぎには、2階の寝室に冷房のセットをしたりしている。

このような我が家の夏の陣としているが、もとより熱中症で救急車のお世話になることは避けたく、
冷茶、アイスコーヒー、ときにはペットボトルの麦茶、ウーロン茶を飲んだりして、
私たち夫婦は熱い季節を過ごしたりしている。

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朝涼のひととき、敗者復活戦のような心情で、小庭の手入れをすれば・・。

2014-07-29 13:36:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
何よりも暑さに苦手な私は、小庭の手入れは18日にした後、サボり果てている・・。

過ぎ去り日の22日より猛暑となり、24日からは34度が27日まで続き、
どうしてなの、と天上の気候の神々の采配に戸惑い、
恨(うら)めしげに、燦々と照らす空を見上げたりしてきた。

昨日は何かしら涼しい朝を迎えて、日中は快晴であったが31度ばかりで、
このような夏の日が続けば、心も身も心地よいよねぇ、と呟(つぶや)いたりしていた。
          

そして夕方のひととき天気情報を視聴していたら、
明日の朝は曇り空で幾分涼しく、その後は快晴に恵まれる一日となります、
朝の6時は21度前後、日中の最高気温は30度前後、夕方の6時は27度前後が予測されます。
と報じていた。

その後、家内と共に夕食を頂いている時、
明日の朝のひとときは涼しそうだから、庭の手入れをするよ、と私は家内に言ったりした。

我が家の敷地は変形の為、家屋を建てる当時から玄関庭と主庭に別れている。、
玄関側は何かと人が来客するので、程ほどに手入れをしているが、
主庭は居間とか和室に面しているが、過ぎし日の18日に手入れをしたが、
疲れを感じて荒っぽく手入れをしたので、少し丁寧にしょうと思ったりした。

あたかも敗者復活戦のようだ、と自身を励ましたりした。
そして玄関側は手入れをしてすら6週間ばかり過ぎ、樹木の枝葉、草も伸びてきたので、
6時間ぐらい奮戦すれば少しは・・と思いながら、私は夜の11時過ぎに眠った。
          
   
そして本日の3時に目覚め、意欲充分であるが少し早かったかしら、
と微苦笑したりした。

やがて起床して、いつものように一汁三菜のような一汁七菜で朝食を頂いた後、
いつものようにストレッチパンズの夏用の長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズで、
玄関の軒下に下り立ったのは5時過ぎであった。

そして夏用の帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
朝涼の快適の中、樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。

               
やがて切り落とした枝葉を整理したりしていると、まばゆい陽射しが小庭を照らし、
10時頃までは曇りが予測されていたのに、少し早いじゃないの、と苦笑したりした。
          

その後、草むしりをしていると、汗がしたたり落ちてきた。
特にドクダミの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥まみれとなったりした。

こうした中で、無念ながら体力の衰えた私は、ときたまテラスの簡易椅子に腰かけて、
少し休憩ねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
こうした私の情況を見た家内は、掃除の手を休めて、幾度か冷茶を運んでくれたりした。

そして陽射しが燦々と照らす中、草むしりに奮闘していると、汗まみれ泥まみれとなったりしたが、
今しなくていつするのよ、と自身を叱咤激励をしたりした。

やがて10時が過ぎた頃、体力の限界を感じて、本日はここまで・・と断念して、
そして風呂から上がったのは10時半過ぎであった。
          

疲労感を感じる今、若き40代のサラリーマン時代は、休日の時に真夏の炎天下の中でも、
7時間ぐらいは気力で、庭の手入れをしたりしたが、
あの頃の自分の若さには適〈かな〉わない、と高齢者5年生の私は苦笑したりした。

しかしながら年金生活の私は、高校野球の県予選はトーナメントなので勝ち続けなければ敗退するが、
私は幾度も庭の手入れに関しては、敗者復活戦に挑戦できるので、次回はいつの日にしょうか、
と体力の衰えた私は、負け惜しみを心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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欧米の高齢者の終末期の治療を学び、やがて私は父と母の終末に思い重ねて・・。

2014-07-28 12:00:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
愛読している総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を読んでいる中、
竹井善昭・著【長生きすることは、本当に良いことなのか? 親の介護で未来を奪われる若者たち】
と題された見出しを見て、精読したりした。

要約すれば、昨今の若い世代の人が親の介護で、若い世代の自身の人生が大幅に狂い、悲惨な実態を克明に描かれて後、
欧米の高齢者の終末期の治療の実態、そして竹井善昭氏ご自身の高度な病状に遭遇した時の真情、
氏の死生観を発露された内容であり、
私は読み終わった後、頬に涙が流れていた・・。
          

http://diamond.jp/articles/-/55706
☆【ダイヤモンド・オンライン】==>『経営・戦略』==>竹井善昭・『社会貢献でメシを食う』
       ==>『長生きすることは、本当に良いことなのか? 親の介護で未来を奪われる若者たち』☆


こうした中で、特に欧米の高齢者の終末期の治療を教示されて、衝撃を受けた。
《・・日本は高齢者に対して、非常に優しい国である。「過剰に優しい」と言ってもよい。
そう言うと、反論したくなる人も多いことはよく分かる。
老人福祉はまだまだ足りていないと主張したい人もいるだろう。
もちろん、僕も日本の老人福祉が完璧だと言いたいわけではない。論じたいのはその「思想」だ。

日本は、ある意味で過剰に人を生きさせようとする。
そのことが、はたして高齢者にとっても若者にとってもよいことなのか、それで人は幸福になるのか、ということだ。

あまり知られていないようだが、欧米にはいわゆる寝たきり老人はいない。
なぜなら、寝たきりになるような老人は延命処置をしない、つまり「殺してしまう」からだ。
          

たとえば、イギリスでは、自力で食事できなくなった老人は治療しないという。
福祉大国のイメージが強いスウェーデンやデンマークも同様だという。

また、これは聞いた話なので数字が不確かなのだが、
ニュージーランドではある年齢(75歳だったかと記憶している)を超えると、病気になっても治療しないという。
モルヒネを打つなどの緩和処置はやるが、それ以上はやらないということだ。

実際に、スウェーデンの高齢者医療の現場を視察してきた医師のブログには、下記のように紹介されている。

日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。
肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。
つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした。
(読売新聞の医療サイトyomi Dr.「今こそ考えよう高齢者の終末期医療」より)

日本の病院で同じことをやれば、確実に「人殺し」扱いされて、マスメディアでもネットでも大炎上必至である。
しかし、欧米ではこのような考え方がスタンダードなのだ。

この差は一体何かと言うと、人の尊厳に対する考え方の違いだ。
つまり、何が何でも生かしておくことが正義なのか、人の尊厳を守ることが正義なのか、という考え方の違いである。

人の尊厳をどう考えるかは、安楽死、つまり「死ぬ権利」を巡る議論の根幹となる問題だ。
安楽死は基本的に自らの意志で死を選ぶことだが、認知症など、自分の意志では死を選べない場合もある。
そのような場合は「殺される権利」というものも考える必要があるだろう。

人は自分の尊厳を守るために、死ぬことを選んだり、殺されることを選ぶ権利があるのかもしれない。・・》
          

こうした欧米の高齢者の終末期の治療の実態、欧米と日本の死生観の差異を学んだ後、
果たして・・と深く思い、やがて私の父の終末、そして母の終末の情況を思い馳せたりした。


私は1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたり、
夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、と私は言ったりすると、
母屋から放りだされ、私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。

このした中で長兄、次兄は、学校の成績は優等生であり、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
          

この少し前、体調が良い時は田畑で奮闘していたが、体調がよくないと感じた時は、
ときおり自宅で寝込んでいた父が、町の医師が来宅して、治療を受けていた時、
『煙草(タバコ)は・・身体にいけないと・・あれほど言ったのに・・』、
と町の医師に父か叱咤されていたのを、偶然に私は見てしまい、
この世に父に怒る人がいる、と私は幼児ながら驚ろいたりしていた。

後年になると、長兄、次兄と共に亡き父の話題を話したりすると、
俺もよく怒られたよ、と兄ふたりは私に言ったりしたので、私は苦笑したりした。
父は肝要の祖父の跡継ぎの身ながら、身体を壊し、自宅治療の無念さもあり、
ともすれば苛立(いらだ)つことが多く、
悪戯を盛んにする男の子の三人に叱咤することが多かったのだろう、と解釈できたりした。

この後、翌年の5月に祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。
そして、大黒柱をなくした農家の生家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった・・。

この貧乏な生活実態は、過ぎし投稿文で綴ったので、今回は省略する。
          

やがて私が高校に入学した1960年(昭和35年)の春、
私たち子供は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。

そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込み奮闘して働いた・・。
やがて、私たち兄妹の生活は何とか普通の生活になった。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館の経営までするようになった、と後年の私は思ったりしたのである。

確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私は大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは専門学校に学ぶことができたのである。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいたくれた成果として、
ふつうの生活ができた上、私たち五人の子供は成人したのである。
          

まもなく、この地域で10数軒あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世の中が変貌して衰退する中、母もアパートに改築した。

そして私たち兄妹はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、母が住んでいるアパートの別棟に同居したりした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
実家の近くに一軒屋を建て、2年後に次兄は自営業に破綻して、自宅の一室で自裁した。
             

私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。
何よりも、親より先に絶つ次兄を母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。

そして特にこれ以降、私達夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。

母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで買い求めていた。

私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。

この頃、親戚の裕福のお方が、身体を壊して、入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母はいずれ寝たきりになった自身の身を想定し、
長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。

容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、死生観に関して一致していたのである。

こうした母の根底には、敗戦後の前の時に祖父の弟、そして父の弟の看病を数年に及び看病し、
やがて死去された思い、
そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は確信を深めたりしていた。
          

やがて昭和の終わり頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が明るい声で私に言った。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底から思いながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・今ままでの長年の苦労が結ばれて、と感じたりしていた。
          

やがて母が婦人系の子宮ガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私たち兄妹は、担当医師から教えられ、
当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした。

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、
母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。


1997年(平成9年)の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集(つど)いに関しては、自身の半生は労苦が多かった反動として、何にかしら華やかなさを好んでいるので、
私たち兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の1月13日の初春に死去した。

母は最初に入院して、2回目の頃、
自身が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。
お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった・・。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したのである。
          

私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないも込めて、葬儀は実家の長兄宅で出来うる限り盛会で行った。

そして母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、ご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。

このような父と母のことを、深夜のひととき思い馳せたりした・・。
          


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

私は男性の健康長寿は70.42歳と知り、まもなく私も迎えることになるので、
微苦笑させられたりしたのであった。
          

私は民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後は川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
          
              
私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。

もとより高齢者の方は齢を重ねれば、認知症、痴呆症、寝たきりなどの確立は増すし、
私自身は衰えた体力で日常生活のふるまいの中で、確かな言葉を発言しているうちに、
いつの日にかポックリと死ねたらと念願している。

まして自身が意識なく植物人間のようになって、
生き続けるぐらい当人はもとより、家族の人たちまでが不幸であると思っている。

そして私は寝たきりになった場合は、三ヶ月過ぎたら、
意識のあるうちに自殺と称せられる自裁を決意しているひとりである。

このような私自身の人生の中の健康に対する思い、そして死生観の思考があるが、
昨今の会社時代の懇親会などで、
こうした思いを少し上の先輩の方、同僚たちに一部を発言すると、
困惑する方、或いは嫌な顔をされる方がいて、私は世間からかけ離れているのかしら、と思ったりしてきた・・。
                                   
このような私なりの深い思い根底にあったが、
偶然に2010年8月下旬の頃に、帯津良一(おびつ・りょういち)氏の雑誌での発言が、
新聞の出版広告で偶然に読み、
この雑誌が女性専用誌の『婦人公論』と知り、私は買い求めて精読した。

この医学博士で病院長の帯津良一(おびつ・りょういち)氏の発言された概要を記載させて頂く。
《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。
          

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのはせいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》

このような秘伝を、この後に6つばかり披露して下さったのである。
          
そして私は、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、深く感じて、
これ以降、氏に注視して、信愛を重ねている。

こうした中で2011年〈平成23年〉の秋に、
帯津良一・著作の『楽々往生 ~老いを輝かせる12の心得』(ベスト新書)を読んだりした。
             
               
この本の帯に明記されている『楽々往生のための心得』として、
《 ◎いくつになっても、ときめきをもつ
  ◎「定年」で終わりにしない
  ◎ひとりを愉しむ
  ◎自分なりの「養成法」をもつ
  ◎敗れることも必ず想定に入れる
  ◎できるだけ身軽でいる 》
このように記載されていることを私は格言としている。
(意味合いが想像して、ご理解できない方は、この本をお読みください。)
             
         
私の家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
          

こうした根底には、歩きながら観える景観に良いし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。
何よりも歩けなくなった時は、もとより自由な時が制約され、何よりも困苦するのは自身だ、
と秘めながら日々歩いている。

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ブログをされる8割以上の方は、月間5000PV以内と学び、私は微苦笑させられて・・。

2014-07-27 12:47:37 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
まもなくブログの世界を知った・・。

そして2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、ほぼ9年半が過ぎている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
                                            
私はブログを投稿する際、筆力が乏しいながら
最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、少なくとも数千万人と風の噂で聞いたりしていた。
          

こうした中でネットのフリー百科事典として名高い『ウィキペディア』を読んだりすれば、
《・・日本におけるブログ・・
日本ではブログよりも先に、『2ちゃんねる』、『スラッシュドット日本語版』などといったウェブサイトが
コミュニケーションの目的で浸透していたほか、Web日記、個人ニュースサイトといったウェブサイト、
さらにそれらに付随するコミュニティも存在したことから、当初は日本でのブログの普及には懐疑的な見方もあった。

しかしながら、実際にはサービスツールの日本語化などによって2002年(平成14年)頃から急速に普及し、
2006年(平成18年)3月末の時点においては、
日本国内でのブログ利用者数が2,539万人に達していることが総務省から発表された。
また、2005年(平成17年)から翌年にかけての利用者数の増加が特に顕著であり、
この間に2倍以上に増加したことによって2,000万人を超えたという調査報道もなされた。

日本におけるブログは、各ブログの投稿数が多いことを特徴としており、
その結果として、2006年(平成18年)の第4四半期には全世界のブログ投稿の約37%を日本語によるものが占め、
英語や中国語を上回る第1位となっていた。
また、日本独自のブログ形態として、携帯電話からの写真付投稿等に対応したブログ、「モブログ」がある。

日本で市民権を得たブログは、個人のほか、人気タレントや政治家、その他著名人などによっても作成されるようになり、
角界においてもブログ開設が盛んである。・・》
          
          
このような解説文を読んだりして、私はブログの急増する前の頃に始めたりで、
幸運な男かしら、と微苦笑をしたりした。

そして私はこの当時にブログのサービスサイトが数多くあり、私が知っているサイトでも、
私が加入している『gooブログ』以外でも、『アメーバブログ』、『ココログ』、『はてなダイアリー』、『ブログ人』、
『楽天ブログ』、『FC2ブログ』、『Yahoo!ブログ』など、
まさに満天の星空のようにサービスサイトの中で、数多くの方が多彩に投稿文を展開されている。


そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
過ぎし年の2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら文章だけの散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
          
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
                              

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
                    

そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。


その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて『にほんブログ村』に於いては、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
                                                       
昨夜のひととき、ネットでニュースを彷徨(さまよ)っている中、
『ネット副業 ブログって儲かるの?』と題された見出しを見て、
何事も好奇心を失くしたら、この世は終わりだ、と私の信条から、好奇心まるだしとなり、
精読してしまった・・。

この記事は、『THE PAGE 』に於いて、昨年の2013年12月29日に配信された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。
《・・最近では、いざという時のために本業以外の仕事をする人も増えてきていますが、
会社勤めをしながら副業をするのは並大抵なことではありません。
退社後や休日だけ働けばよい副業ということになると、ネット系のビジネスが最適ということになるのですが、
果たしてネット副業はどの程度儲かるのでしょうか? 

ネットで手軽にできるビジネスということになると、物販やブログが考えられます。
物販は分かりやすい形態ですが、基本的にリアルに店舗を持つことと何も変わりません。
特別な商品を持っていない限りは、相応の準備やある程度の資金が必要となります。
その点からするとブログの開設は、初期投資がほとんどかからず、誰でも手軽に始めることができるので、
ネット副業の候補としてはなかなか魅力的に思えます。
          

基本的にブログは閲覧数(ページビュー:PV)が多ければ多いほど儲かります。
どの程度のPVがあればいくら稼げるのかについては、情報が錯綜しており、基準がはっきりしていません。
ブログの収益源のひとつにアフィリエイト(成果報酬型広告)というものがありますが、
同じアフィリエイト収入といっても、大量のメールを無作為に送りつけるような強引な手法もあれば、
サイトにアクセスした人からの自然な購入を待つという良心的な方法まで様々です。

ここではブログに貼り付けられている広告を読者が自然にクリックしたり、
ブログからネット通販サイトに自然に誘導するという、紳士的なやり方を前提として考えてみましょう。

プロ・ブロガー(ブログで生計を立てている人)と呼ばれる人の中には
おおまかなPVと収入を公表している人もいるので、この情報は大いに参考にすることができます。

プロ・ブロガーの一人であるイケダハヤト氏は、2013年には500万円近い売上げがあったと述べています。
彼のブログの2013年の平均月間PVは約55万PVですから、
その数字が本当だとすると、1PVあたりの売上げは約0.76円ということになります。

逆に考えれば、ブログで月収30万円を達成しようと思った場合には、
40万PVのブログを書く必要があるということになります。
しかしPV当たり0.76円というこの数字は常に一定ではありません。
一般にPVがあまり多くない状況では、PVあたりの売上げはさらに小さくなることが知られていますし、
広告の種類によっても売上げは大きく変わります。

ちなみに月間PVが数千万から数億という、企業が運営するような巨大サイトでも、
PVあたりの売上げにはかなりのバラツキがあります。低いところでは0.5円程度、高いところでは2円程度にもなります。
          

何より最大の問題は、それなりの金額を稼げるようなブログは全体のごくわずかしか存在しないという厳しい現実でしょう。
日本は世界でもっともブログの数が多い国といわれていますが、
このことはライバルもたくさん存在するということを意味しています。

世の中に存在しているブログの80%以上が月間5000PVを超えられず、
イケダハヤト氏のように月間数十万PVをたたき出すブログは全体の0.1%以下ともいわれています。
要するにトップ0.1%に入らないと、まともな金額は稼げないわけです。

この話を聞いて少々ガッカリした人も多いかもしれませんが、
初期投資がほとんどゼロで始められるという点は何よりも魅力的です。
文章を書くことが好きであれば、チャレンジしてみる価値はあるかもしれません。・・》
          
          
このような記事であったが、私としては苦笑したりした。

私のブログの始めた2004年(平成16年)11月の当初は、『アメーバブログ』に加盟して、
ブログの技量も解らず、まさに乳児のヨチヨチ歩きのように投稿文を重ねている中、
賞金ランキングのようなことが、『アメーバブログ』で設置されて、
私のブログに対する思いとは趣旨が違い、やがて『gooブログ』に移行した。

ましてアフィリエイト広告と称される広告などを貼り収入を得ることは、私としては論外である。

今回の『ネット副業 ブログって儲かるの?』の記事に於いて、
何よりも学んだのは、《・・ブログの80%以上が月間5000PVを超えられず・・》
と一行であった。

ブログを開設することは簡易であるが、投稿文を毎日のように投稿するのは、
たとえ年金生活の中でも、ある目的、意欲がなければ継続できない、と感じたりした。
          

私の場合は年金生活を過ごしている中、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として
散文のような投稿文を認(したた)めることであった。

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして9年半ばかり継続できた理由のひとつとして、
『にほんブログ村』に加入している50代から70代の多いシニア層のお方を中核に、
多くのお方の投稿文を読ませて頂いたりした。

もとより『シニア日記』に加入しているお方は、それぞれ生を受けた環境も違い、
その後に育った状況、学歴、その後の社会人として職業、結婚生活・・、
やがてシニア世代となり、それぞれの生活をしていて、誰ひとり同じ人生航路を歩んできた人はいないのである。

その上、人それぞれ思考、信条、性格なども違うし、この広い世界で同じ人はいなく、
男性グループのSMAPの唄った『世界に一つだけの花』のような存在なのである。
                    

そして人は誰しも光と影を有している中、  
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
          
            
私はブログを書き始めて、丸9年半が過ぎて、早や10年生であるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

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「若年高齢者」、「熟年高齢者」呼称変更案、69歳の私は笑止千万なり・・。

2014-07-26 14:52:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
午前中のひととき、ネットで数多くのニュース記事を見ていたら、
『 「後期」改め「熟年高齢者」? 厚労相、呼称変更に一案 』
と見出しされた記事が、目に留まり、
どういうことなのょ、とクリックして記事を精読してしまった・・。

この記事の発信元は、『朝日新聞デジタル 』であり、無断ながら転載させて頂く。
《65~74歳は「前期高齢者」。75歳以上は「後期高齢者」。
田村憲久厚生労働相は25日の記者会見で、一部で批判もあった呼び方を変える工夫がないか、
知恵を絞っていることを明かした。

一例として「前期」を「若年高齢者」、後期を「熟年高齢者」とするアイデアを挙げた。

田村氏は、年配の人から「(呼び名が)よろしくない」という声もあることに言及し、
「(名称変更を)検討していく」と述べた。甘利明経済財政相とも話しあっているといい、
関係者に意見を聞いて変更するかどうか考えるという。

「前期高齢者」や「後期高齢者」という名称は、2008年度から使われている。
特に「後期」という呼び方に「冷たい」といった批判があった。
朝日新聞デジタル 7月25日(金)18時48分配信 》

私は記事を読み終わった後、年配者の名称などは、どうでもよい、
と笑止千万と思いながら、微苦笑したりした。
          

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は今年の9月の誕生日を迎えると、古希と称される70歳となり、
家内は今年の12月に65歳の高齢者入門となる。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

年金生活を始めた当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
こうした中で年金生活をした当初、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
       
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。
          

  
定年後の年金生活の日常の大半は、平素の買物専任者の責務を終えた後、
散策したりした後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

こうした中で、ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、拙(つた)ない私の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ることもある。
        
そして私はこれまでの60代の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごし、
家内も心身溌剌としている。

もとより健康でなければ自身の日頃のささやかな願いも叶わないこともあり、
実践のひとつとしては、何よりも怖いのは、痴呆症などであり、
これだけは回避したく、ひたすら歩いたりしている。
          

敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
先代の明治、大正時代の生き残れた諸兄諸姉、そして昭和ひと桁の諸兄諸姉の基(もと)で、
私より少し先代の諸兄諸姉がそれぞれ与えられた責務に奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々である。

そして私より少し先代の諸兄諸姉の指導下の中で、私たち世代、そして私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
先代を見習い責務に奮闘してきた世代でもある。
          

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
         
その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。

そして私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳前後を迎えられた今日、年金生活を始められた方が多いのが社会の実情となっている。

こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙で過酷な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
          

このような社会状況の中で、今回の記事に於いて、
《年配の人から「前期高齢者」や「後期高齢者」という「(呼び名が)よろしくない」という声もある》
と知り、私は69歳の高齢者の身ながら、驚いている。

このような名称などより、昨今は年金改革の中に於いて、高齢者の年金を引き下げる内容が本格的に、
議論されている。

たわむれが許されるならば、私としては、
過ぎし年の1994年の頃、テレビドラマのひとつに『家なき子』があり、
家庭内暴力を受けている小学生の少女が、理不尽な環境の中でも困難に負けずに生きていく様を描いた物語であったが、
「同情するなら金をくれ!」という劇中の台詞が新語・流行語大賞に選ばれるほどのブームとなったことを思い馳せしまった。

そして高齢者は(呼び名)などは、どうでもよいから金をくれ!、と微苦笑する時もある。
これまで日本の経済大国は、少なくとも高齢者の我らの世代が奮闘した成果であり、
一部の政治家、官僚の舵取りが誤って、失われた20年となり、
借金に頼らず税収で賄える国と地方の基礎的財政収支が悪化したので、
今頃になって高齢者の年金を引き下げるなんて、とんでもない、と私は感情的に感じる時もある。
          

しかしながら理性的になると、日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして年金も現役世代が払う保険料で
高齢者に年金を支給する「世代間扶養」の仕組みを取っているので、
団塊の世代が65歳を過ぎた現在、社会保障を長らく支えてきた団塊の世代が、
「支えられる世代」となって、若い世代に重い負担を強いることになってしまった現状である。

そして過酷な現実として、年金、医療、介護なとで、毎年一兆円が増加している。

こうした状況が放置すれば、現役世代の諸兄諸姉からすれば、高齢者は過重負担する人たち、
と思いながら険悪し、粗末にする風潮も予測できる。
          

このような思いから、高齢者は目の輝きを失わず、たとえ若き世代から敬意がなくとも、
その人なりの生きがい持ち、淡々と日常生活過ごすのが肝要と思ったりしている。
          

このような真情であれば、『前期高齢者』を『若年高齢者』、
そして『後期高齢者』を『熟年高齢者』などの検討は、どうでもよいことであり審議の浪費であり、
笑止千万である。

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昨夜、雷鳴が響き、わずかな時ながら停電となり、我が家は少し困苦して・・。

2014-07-25 14:38:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者は、
燦々と陽射しが照らす30数度の中、徒歩10分ばかりのスーパーに行ったりした。
23日には『大暑』の時節となり、暑さに苦手な私は、いよいよ本格的な熱い日々となるので、
熱中症こそ高齢者の天敵だ、と思いながら気合いを入れて歩いたりしたが、
まもなく汗まみれとなったりした。
          

帰宅後、洗面所で顔を洗った後、エアコンの冷気の下で、着替えたりした。

やがて家内と共に昼食は素麺(そうめん)を頂いた後、
一時間後は居間のエアコンの冷気の中、
私は簡易ベットに横たわれ、本を読んだりし、やがて昼寝をしてしまった。

眼覚めた時は午後の4時半過ぎ、『北斗星号』の寝台より遥かに快適だ、
と私は家内に微笑みながら言ったりして、起き上がったりした。

過ぎし2005年(平成17年)の10月中旬に、家内と共に北海道の各地に3泊して周遊した後、
札幌駅より寝台特急の『北斗星号』に乗車したのであったが、
程ほどに快適な寝台の室内であったが、やはり我が家の居間、簡易ベットの方が、
遥かに快適である・・このような戯(たわむ)れの言葉を言ったりして、家内を笑わせたりした。
          

やがて午後6時頃になると、遥か遠い地から雷鳴が響き、
まもなく私の住む地域の付近で、激しい落雷の音で地表を響き、私は玄関の軒下に下り立った。
暗くなった空は、稲妻の光が幾重かのサーチライトが照らしたかのように明るく切り裂き、
花火より凄いなぁ、と私は見惚(みと)れたりしていた。

その後、近くに再び落雷の音が響いた時、大粒の雨が降りだして、やがて激しい雨となった。
こうした情景を眺めていた時、働いて下さる諸兄諸姉は退社後の帰宅される多い時間帯だ、と思ったりした。
そして足元が濡れて、御気の毒に、と長らくサラリーマン生活をした私は、思い馳せたりした。

やがて居間で私は家内と談笑した後、私はパソコンでネットでニュースを見て、
家内はテレビを視(み)ながら、新聞の夕刊を読んだりしている時、
突然に室内の灯(あか)り、テレビ、パソコンの画面も消え、居間は真っ暗となった。

そして私は、停電かしら、と家内に言ったりした。
やがて30秒が過ぎた頃、停電みたい、と家内は言いながら、近くに置いてある懐中電灯を点(つ)けて、
わずかな光を得たりした・・。


我が家は門扉に近い道路の片隅には電信柱があり、
この電信柱から15メートルぐらい我が家の玄関側の二階の壁面に光ファイバー回線、
或いはこの電信柱から東京電力の回線が、20メートル足らずの台所に近い処に結ばれている。
      
     ☆過ぎし日の日中のひととき、たわむれに撮った☆

そして門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の電話配線下となっている。

ネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。

私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。
或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。
                        

このような状況なので、停電になった時は電気の灯(あか)りはもとより、エアコン、電話、テレビ、パソコンも遮断され、
ないないづくしのようになったので、私は家内と共に苦笑したりした・・。

まもなく5分過ぎた頃、突然に灯(あか)るくなり、エアコン、テレビ、そしてパソコンのスイッチを入れて、
我が家として36年の中、初めての停電であったよねぇ、と私は家内に言ったりした。

このように私たち夫婦は安堵したりしていると、
再び暗くなり、私たちは戸惑ったりした・・。

こうした中で家内は、冷蔵庫の中の食べ物・・大丈夫かしら、と呟(つぶや)くように言ったりしていると、
予告もなく突然に明るくなったのは午後7時前であった。

その後、私たちはテレビのニュースを視聴していると、
都内の各地域で激しい雷雨の影響で、床下浸水、停電、電車の井の頭線の一部が不通などを知り、
我が家は5分前後、そして数分の停電になってしまったが、
少しばかり困苦したが、この程度で良かった、と私は苦笑しながら家内に言ったりした。

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蕎麦(そば)畑、生まれて初めて69歳の私は、拝見して・・。

2014-07-24 13:03:48 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の日中のひととき、都立『神代植物公園』を訪れて、数多くの木槿(ムクゲ)の多彩な花に魅了されたり、
その後も園内の炎天下の30数度の熱さの中を歩き廻り、
したたる汗を流しながら、暦(こよみ)通り『大暑(たいしょ)』の日に相応(ふさわ)しい、と微苦笑をしたりした。

やがて都立『神代植物公園』を辞した後、近くにある『水生植物園』に向った。
この『水生植物園』に於いては、過ぎし年には花菖蒲(はなしょうぶ)、杜若(かきつばた)を『はなしょうぶ園』、
近くに蓮(はす)、ミソハギを見たりしてきたが、
蓮(はす)の花は咲いているかしら、と思いながら訪れた。

この時節は、もとより花菖蒲(はなしょうぶ)、杜若(かきつばた)は終わりを告げて、
ミソハギの花が、所々群生して彩(いろど)っていた・・。
          

こうした中で、隣接した処で、蓮(はす)の花は一輪だけ莟(つぼみ)となっていて、
あと一週間過ぎれば咲きますょ、というような美麗な情況であった・・。
          

ミソハギ、蓮(はす)に関しては、私は幼年期に農家の児として育ったので、
深い想いがあるが、これまでの投稿文で数多く綴ってきたので、今回は省略する。

やがて、この『水生植物園』の隣接に深大寺城の跡に城山、そば畑があると、
遅ればせながら3日前に知り、私はハンドタオルで顔にしたたる汗を拭(ぬぐ)いながら、
少し丘陵となった雑木林の中を数分ばかり上った・・。

そして突然に平地となり、こんなところに深大寺城があったの、
と戸惑うように付近を歩いたりした。
          

          

やがて片隅の路を歩くと、突然に実りある穂の群生が観られ、私は足を止めた・・。
          

そして蕎麦(そば)かしら、と感じたりした・・。

私は昭和19年(1944年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれた。

        
そして私が地元の小学校に入学する昭和26年(1951年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

そしてこの当時の周辺は、田畑、雑木林が圧倒的に多く、竹林もある緑豊かな町村であった。

やがて私が小学2年の三学期に、父が病死した後、
まもなく3年の一学期に祖父が亡くなり、大黒柱のふたりが亡くなったので、
父の妹の未婚のふたり、そして私の母と私たち兄妹の5人が残され、
農家の肝要の技量、労力を失くした生家は衰退し、生活に余裕のない貧乏な生活となった。

              
こうした中、田んぼに稲作をして、白米、餅米になる生育を眺めたり、
ときには真似事の手伝いをしたりした。
或いは畑で小麦の発育状況も知り、ときには祖父、父にまといついて麦踏みの真似事もしたりした。
そして畑では、ナス、キュウリ、トマト、ウリ、スイカ、サツマイモ、里芋、長芋など農作物を
生家の育てて、青果市場に出荷したりしていた。

しかしながら、私の生家の周辺も、蕎麦(そば)を育てる畑などは、皆無であった。

私は高校生の頃から、幼年期から家で食べきた『うどん』より、
外食で『蕎麦(そば)』を食べることが好きとなり、何かと家で家内と共に昼食代わりに愛食したり、
旅先でも食べたりしてきた。

こうして『蕎麦(そば)』を50年以上愛してきた私は、無念ながら蕎麦(そば)の実(みのる)情景は見たことがなく、
これが蕎麦(そば)なのか、と感慨深くなったりして、見惚れてしまった・・。
          

そして少し歩くと立て看板が見えて、私は近寄った。
          

私は近眼なので、少しクローズアップと、デジカメでアップさせたりした・・。
          

そして数日前に『蕎麦(そば)』に関して、信州大学の農学部の井上直人教授より学んだことを思い重ねたりした・・
《・・蕎麦は、タデ科、ソバ属に分類される一年生草本作物です。
栽培される蕎麦の仲間には、ダッタンソバという別の種類もあり、利用される野生種には多年性のシュッコンソバがあります。

原産地は、中国南部の四川省から雲南省にかけての山岳地帯、特に三江地域と推定され・・
4600年前の蕎麦の種子が東チベットの遺跡から見つかっており、
起源地から東アジアやヨーロッパに伝わったと考えられています。
日本では、縄文時代晩期に各地で栽培されていた証拠があります。

現在の栽培地は、中国、ロシアなどの夏に涼しい地帯が中心です。
イネが栽培できないアジアの中山間地では、主食用に栽培されています。
日本では、北海道や中部地方などの冷涼な地域で栽培が盛んであり、水田転作作物としても各地で栽培されています。

原産地の中国では、種子は麺、饅頭、粥、プリン(蕎涼粉)、茶として利用されています。
茎葉部は蔬菜として食べられています。
インドやネパールでは、焼きパン(チャパティ)が、
ロシアやポーランドでは主に粥やクレープ、イタリアではパスタとしても利用されています。
日本では、麺にして食べるのが主流ですが、熱湯などを粉に加えてかき混ぜる「ソバがき」や、
団子としても食べられてきました。・・》

このように学んできた私、改めて蕎麦畑を見て、佇(たたず)んだりした。
        

やがて私は名残り欲しく、この『そば畑』を立ち去った。

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夏の愛(いと)しき花のひとつ、木槿(ムクゲ)に心酔を重ねて、早や20年が過ぎ・・。

2014-07-23 15:57:06 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夕、明日の23日の日中、都立『神代植物公園』の『むくげ園』を訪ねてみょう、と思いたった。
我が家の小庭は、長きに彩(いろど)っているアメリカン芙容、木槿(ムクゲ)もあるが、
木槿(ムクゲ)の各品種の多彩な彩(いろど)りを観たくなったである。

本日の朝、陽射しが燦々と小庭を照らし、日中は猛暑が予想されていたので、
我が家から徒歩50分ばかりの都立『神代植物公園』に行くのは、熱中症を避けるために、
結果的には我が家より京王線の『つつじが丘』駅までは徒歩で15分ばかり歩き、
その後の『神代植物公園』前までは路線バスで往還してしまった。

こうした中で、『神代植物公園』に10時過ぎに到着した後、『むくげ園』に向った・・。
          

私は民間会社の中小業に35年近く勤め2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活にを始めた。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後は川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした年金生活をした翌年の2005年(平成17年)初夏、いつものように買物に行った時、住宅街を歩いていると、
あるお宅の庭先で宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が咲きはじめていた・・。

私は宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の底紅で花びらは白く、
心澄んだ気品を秘めたような花と魅了されて、20年は過ぎている。
               

私が50歳の頃までは、公園、ご近所のお宅にも咲いていたと思われるが、
意識させられたのは、一冊の文庫本であった・・。

今は亡き作家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)さんの作品を確か1985年〈昭和60年〉の頃から愛読してきた私は、
たまたま1994年(平成6年)の夏、氏の『男性自身 木槿の花』(新潮文庫)を読み、
亡くなわれた作家・向田邦子(むこうだ・くにこ)さんへの鎮魂曲のように綴られた随筆を読んだりしていた。

この随筆を読み終わった後、氏は白の花の木槿、と綴られていたのであるが、
向田邦子さんの作品であったなら、宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が相応しい、と私は勝手に思い重ねたりした。

この時以来、私は宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を見るたびに、山口 瞳さんの随筆に導かれて、
向田邦子さんの顔立ちを思い浮かべながら、
向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた作品を甦(よみがえ)ったりした。

このような思いを私なりに秘めているので、
山口 瞳さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆の作品、
そして向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆、テレビドラマ・脚本の作品、
散策をした時などで、不意に私の心の片隅みから蘇(よみが)ってくることがある。
               


このような心情のある私は、いつの日にか我家では宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を植えよう、
と思っていた時、
過ぎし2007年(平成19年)の6月に、伊勢神宮に近い鳥羽の観光旅館で、
2泊3日の滞在型の団体観光ツアーの旅の帰路、
鳥羽港から伊勢湾フェリーを下船後、渥美半島の伊良湖岬から団体観光バスに乗車してまもなく、
休憩を含めて、道の駅で下車した。

そして私たち夫婦は未知の地であったが、私は道の駅のドライブ・インの売店の外れで、
小さな園芸店の即売されている幼い樹木が数多くあり、
この中に偶然に木槿(ムクゲ)の幼い樹を見かけた・・。

簡素な黒いビニール鉢に入り、樹高が20センチ足らずで、花芽は5つ前後付いていた・・。
値段は確か200円程度であったと記憶している。

そして売店の女性の販売員のお方に
『宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)は、ありませんか?・・』
と私は尋(たず)ねたのであるが、
無念ながら、販売員のお方は花木に全く無知の方である上、観光バスの出発も迫ってきたので、
私は妥協して買い求めたりした。

帰宅後、まもなく地植えにしたが、かぼそい樹形であったが、
夏の終りの頃まで、10数輪咲いてくれた。

そして毎年成長して、3年過ぎた初夏に、
樹高は2メートルを超えて、100輪ぐらい花を咲かせ、私は悦んだのである。
               

私はここ20数年、我が家の小庭にある樹木・花木・草花に関しては、原則として肥料は与えず、
太陽の恵みの陽差し、そして雨、その地の土に馴染んで成長しなさい、と身勝手な主(あるじ)の私であるが、
この木槿(ムクゲ)は、自力で私の期待に応(こた)え、勢い良く成長してくれた。

しかしながら数多くの花は咲くが、花火のように多彩な色合いを彩(いろど)るのである。
無念ながら宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の純白の色合いには遠く、
紫紅色の花が彩(いろど)ってくれる高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)に近い花びらもあり、
或いは淡い紅色の花びらもあり、どうしてなの、と私は戸惑ったりしてきた。
               

そして花木の園芸の栽培のお方が、たわむれに各種の木槿(ムクゲ)を取り混ぜて、
この中のひとつとして、我が家にある花火のような色々な花びらを咲かせる木槿(ムクゲ)になったのかしら、
と無知な私は思ったりしている。

数年前、駅前の園芸店で純白の色合いである宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を見かけて、
立ち止まって眺めて、樹高30センチで花びらが6輪咲いていた。
そして価格札には、野口英世のお札の値段と同じで、私は心が動いた・・。

そして30秒ぐらい思案したが、結果として私は断念した。

確かに底紅で花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)には、
気品ある美を感じて、圧倒的に魅了されて20年過ぎてきたが、
我が家の雑種のような木槿(ムクゲ)は、健気(けなげ)にも我が家の地に馴染んで、
早や8年が過ぎ、愛(いと)おしさを増してきている。

そして我が家の木槿(ムクゲ)でも、朝の冷気が残る頃、花びらは秘かに開き、
日中の熱い陽射しを受けながら凛とした色合い見せて、
夕暮れの時に閉じ、花の命(いのち)は終わりを告げるように、儚(はかな)さを感じさせる。
               

このような一輪が花びらは、わずか一日で命を果てるが、
たわわな莟(つぼみ)からは、競演するように初夏から盛夏に向けて彩(いろど)り、
古来より『槿花(きんか)一朝の夢』と伝えられていることに、
この時節にときおり私は眺め、深く教示させられている。


このような木槿(ムクゲ)に関して、ささやかな思いがある。
そして『神代植物公園』の『むくげ園』を鑑賞して、何の品種か不明であるが、
こうした花も瞬時に圧倒的に魅了されてしまった・・。
          

そして浮ついた私は、この花も素敵だ、と見惚れたりした。
          

この後、付近にあるベンチに私は座り、正門で頂いた『神代花だより』(平成26年7月)の中で、
ムクゲに関しての解説文を読んだりした。
《・・ムクゲは中国原産といわれ、韓国の国花となっています。
花弁は5個を基本とし、雄蕊(おしべ)が花弁化して内弁となった品種や
花の中心部が濃色の底紅(そこべに)になるものも観られます。

花は一日花ですが、日当たりさえよければ7月から10月にかけて次々と咲きます。
我が国では江戸時代から多数の園芸品種が作出されました。
神代植物公園では、はなもも・むくげ園で約40品種のムクゲがご覧になれます。》
          

このような解説文を読み、確かに魅了される多くの品種があります、
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、微笑んだりした。

この後、周辺の樹木、花を鑑賞して、園内を辞したのは午後1時過ぎであった。

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食事の方法、野菜、野菜ジュースなど誤解が多い、と私は学びながら、戸惑い・・。

2014-07-22 14:49:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
ここ数年の我が家の食事は、
私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、海苔(ノリ)が五枚、
福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰などを食べたりしている。

こうした理由として、幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、頂いたりしている。

そして家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いたりしている。

昼食は蕎麦(そば)或いは素麺(そうめん)が多いが、
私はフランスパンを三分の一を食べることもあり、家内はケーキのような菓子パンを食べたりしている。

そして夕食は、牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉など、その日に応じて、
家内が料理して頂いたりしていることが多い。
          

こうした中で、朝食と夕食の前に私は、大皿にキャベツを中心の前菜を欠かせなくなっている。
普通サイズキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリなどの季節物を大皿に盛り合わせて、家内がしてくれる。
そして婦女子の野菜の盛り合わせの量からは、少なくとも4人前ぐらいかしら、と私は思いながら頂いている・・。

こうした根底には、私は幼年期に農家の児として育ち、その上に遠い30年前の頃に、
今は亡き俳優の森繁久弥さんが、胃腸薬のキャベジンの宣伝に出演していたので、
キャベツの多大な効力を信愛してきたので、こよなくキャベツは盛大に頂いている。
          

昨夜、ネットでニューす記事を彷徨(さまよ)っている中で、
フードプロデューサーの南清貴氏が指摘された論調を精読したりした・・。

《・・「まず、『朝食はしっかり食べろ』と言われますが、
実は朝から重い食事をとるのは、準備運動なしに100mダッシュするようなもの。
朝はせいぜい消化にいい果物を食べる程度のほうが体にいいです。

また、同じように誤解されやすい事例の代表格が『カルシウムは牛乳で取れ』というもの。
確かに牛乳にはカルシウムは含まれていますが、日本人の85%は牛乳からカルシウムを分解する消化酵素を持っていない。
だから、小魚や野菜を食べたほうが断然、吸収率がいい。
          

あと、『コンビニサラダで野菜不足を補う』ともいいますが、
コンビニのサラダは次亜塩素酸ナトリウムという消毒液や塩素水に何度もつけて殺菌し、
さらに薬の匂いを消すために繰り返し水洗いをします。
そのため、店頭に並ぶ頃にはほとんど栄養素が残っていないんです」・・》

何かと無知な私は、フードプロデューサーの南清貴氏より、多々学んだりした。
          

この後、『市販の野菜ジュースでは野菜不足は解消できない?』と見出しされた記事があり、
どうしてなのょ、とクリックしてしまった。

《・・スーパーやコンビニで売られているペットボトルや紙パックに入っている野菜ジュース。
"1本で1日分の野菜を補給できる"と謳う商品も多いので、
日々の野菜不足を補おうと積極的に購入している人も多いのではないでしょうか。

しかし医学博士の板倉弘重氏は書籍『なるだけラクして内臓脂肪を減らす』の中で、
そういったものでは「なかなか野菜不足を解消することはできない」とその効果について疑問を投げかけています。

たとえば、パッケージでよく目にする「濃縮還元」の表示。
この表示のある商品は、さほど栄養のある野菜ジュースとは言えないと板倉氏は指摘します。

そもそも濃縮還元の意味は、殺菌のために野菜をいったん熱処理して濃縮したものに、水分を加え、
ジュースの状態に「還元」したというもの。

なかには、乾燥して粉にしたものに水をプラスしたようなものもあると、板倉氏は言います。
さらには、果糖や砂糖などの糖類が加えられたものもあるとか。

また、野菜を加熱するということは、熱に弱いビタミンCのような栄養成分の含有量を減らしてしまう
ということにもつながってしまいます。

「『1本で1日分の野菜』というようなキャッチコピーが添えられていますが、
それは『1日分の野菜摂取量にあたる野菜を使用している』程度の意味で、本物の野菜の代わりになりません。
          

野菜の食物繊維もほとんど除去されています。
つまり、極端にいえば、野菜に本来含まれているビタミンやミネラル、食物繊維を加熱殺菌して破壊した残りに、
水分や添加物を加えてできたのが、市販されている濃縮還元の野菜ジュースです。

ケールなどの緑黄色野菜を粉末化した状態で商品にしているものも同様です」
(『なるだけラクして内臓脂肪を減らす』より)

どの野菜ジュースも身体に良いと思っていた人には驚きの新事実ではないでしょうか。
また、「ストレートタイプ」といった文字が入ったジュースもありますが、
こちらは加熱処理こそされていませんが、製造工程によるので、
どの程度の栄養が残っているかは不透明だとも板倉氏は言います。
          

なお、厚生労働省が発表している1日の野菜摂取量の目安は下記のとおり。

緑黄色野菜(ほうれん草・にんじん・にら・ピーマン・トマトなど)120g
+その他の野菜(キャベツ・大根。きゅうりなどの淡色野菜、きのこ、海藻)=合計350gです。
生野菜で両手に山盛り1杯分ぐらいと覚えていると良いでしょう。

夏本番を迎え、いつも以上に食欲が無くなってしまうと、そうめんや蕎麦など簡単なものを食べて済ませがちです。
野菜不足を補うためにそれらのジュースを傍らに用意する人もいると思いますが、
野菜不足を補おうと思うのならば、やはり本物の野菜を摂取する方が良さそうです。

BOOKSTAND 7月21日(月)18時0分配信・・》
          

このようなことを学んできた私は、ときおりスーパーなどで、野菜ジュースのペットボトル、紙パックを
買い求めて盛んに飲んできた私は苦笑させられたりした。

今回の記事を読み、無知なことが多かった私は、
食べ物こそ健康の源(みなもと)ですよねぇ、微苦笑させられたりした。

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まもなく古希を迎える私でも、ときには家内のボディ・ガード兼お供となり・・。

2014-07-21 16:54:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は今年の9月の誕生日を迎えると、古希と称される70歳となり、
家内は今年の12月に65歳の高齢者入門となる。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家の平素の買物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに殆ど毎日独りで出かけている。
              
      
こうした中で、昨夕のひととき、私は家内から、明日(あした)駅前に買い物に行きませんか、と告げられた。

何かしら自宅より20分ばかりの歩いた駅前の商店街にあるドラッグストアー、
そしてホームセンターなどて、洗面所、台所、浴室の用品、洗剤などを買い求めたい主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は民間会社の中小業に35年近く奮闘して2004年(平成16年)の秋に定年退職した直後から、
多々の理由により年金生活を始めた。

やがて5年過ぎると高齢者の65歳の身になった時、何かと世情に疎(うと)くなり、
その上に体力の衰えも実感してきたので、ボケてはいけない、と家の中でも
明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。
                        

そして私は何かと家事の大半は家内にお願いしているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は齢を重ねるたびに深めたりしている。

そして我が家は恥ずかしながら自動車もなく、私は根がケチなせいか、利便性の良い路線バスには乗らず、
ひたすら歩くことが多い。

そして私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。
          
          ☆過ぎし日、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
           ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    


今朝、雲空の中ときおり気まぐれのように晴れたりし、やがて10時過ぎに私たち夫婦は自宅を出て、
駅前に向って歩きだして・・。

こうした時の私の容姿は、夏用のストレッチパンズの長ズボンでスポーツシャツの半そで、
足元をウォーキング・シューズで身をかためて上、夏用の帽子を深めにかぶったりしている。

そして紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、煙草、ライター、携帯灰皿、
そしてサングラス、扇子を入れて歩いたりする。

そして紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、
煙草、ライター、携帯灰皿などを入れている。

この日の家内は、日傘を差して白いワンピースに夏サンダルの容姿で、私より数歩先を歩いて、
私は段ボールを乗せた『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて、歩いていたので、
まるで江戸時代の下男のようなお供だねぇ、と私は微苦笑したりした。
                       

やがて駅前の商店街で、家内は買物した後、私は受け取り、
素早く『キャリーカート』に乗せている段ボールに入れたりした・・。

そして2店ばかり買物をした後、食事処の寿司屋、とんかつ屋、蕎麦屋など迷ったりしたが、
結果的には多彩なメニューあるファミリー・レストランで昼食をしたりした。

その後、家内は衣紋掛、滑り止めの布地などを『百円ショップ』で買い求めている間、
私は隣接の本屋に寄り、二冊ばかりの本を買い求めたりした。

やがてホームセンターで家内は買い求める商品を選定している中、
私は店内の片隅にある休憩コーナーのようなベンチで、本を詠んだりして家内を待ちわびたりした。

この後、家内のお好みのパン屋の『アンデルセン』に立ち寄り、5品ばかり買い求めた後、
帰路とした。

そして家内は日傘を差して、『アンデルセン』の紙袋を提げて、私より数歩先を歩いて、
私は重くなった段ボールを乗せた『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて、歩いたりした・・。
                 

やがて私たち夫婦は坂道を下り時、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりしていたことを思いだして、私は微苦笑したりした。

私たち夫婦は年金生活をして早や10年近くになるが、
幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであり、
私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ね、
やがて自宅が見えたりしたのは午後2時過ぎであった。
               

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血液型と性格「無関係」と学び、69年ばかりB型で過ごしてきた私は、戸惑い・・。

2014-07-20 14:19:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夕、読売新聞の夕刊を読んだ後、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でニュースを彷徨(さまよ)っている中で、
『血液型と性格「無関係」日米1万人データ解析』と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、と69年ばかり血液型B型で過ごしてきた私は、戸惑いながらクリックしてしまった。
          

何かしらヨミドクターと称せられて『医療』コーナーの記事のひとつであり、
無断ながら記事の詳細を転載させて頂く。

《・・血液型と性格の関連性に科学的根拠はないとする統計学的な解析結果を、
九州大の縄田健悟講師(社会心理学)が発表した。

日米の1万人以上を対象にした意識調査のデータを分析した。
「A型の人は真面目」「B型は自己中心的」といった血液型による性格診断は、国内で広く信じられているが、
就職や人事などで差別される「ブラッドタイプ(血液型)・ハラスメント」の問題も指摘されており、一石を投じそうだ。

研究成果は6月25日に発行された日本心理学会の機関誌「心理学研究」に掲載された。

縄田講師によると、血液型と性格を結びつける考え方は国内では流布しているが、
海外ではほとんど知られていない。
1970年代に出版された関連本がきっかけで、その後もテレビ番組などで紹介されたことで広がったという。

縄田講師は、経済学分野の研究チームが、2004~05年に日米の1万人以上を対象に、
生活上の様々な好き嫌いなどを尋ねた意識調査に、回答者の血液型が記載されていることに注目。
血液型によって回答に違いがあるか解析した。

読売新聞(ヨミドクター) 7月19日(土)14時51分配信・・》
          

このような記事であり『血液型』と『性格』は相関する関連はなかった、と私は学び、
1944年〈昭和19年〉の秋に生を受けて、やがて小学3年生の頃に血液型B型です、
と教えられて以来、B型かょ、と微苦笑させられることが多々あった・・。


私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
                    

このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。

そして学校に行くのが苦手な児となった・・。

この当時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
ラジオから盛んに流れていた『越後獅子の唄』の歌に魅了されて、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・・わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし (作詞・西條八十)・・、
とかぼそい声で唄ったりしていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
                    

やがて私が小学校の高学年になると、映画の『ビルマの竪琴』を観て、『埴生の宿』を知り、
或いは映画の『二等兵物語』を観たりして、『ふるさと』を学び、
これこそ私が待ち望んだ音楽だ、と少年心に感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島のときおり爆発する活火山の由来だった。
          
         
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。

こうした間、世間のB型の人は、マイペース型、他人の思惑、常識、習慣をあまり意識せず、思うところをストレートに実行、
自由奔放で規則破りの名人、人なつこく誰にでもすぐ心を開く、仲間はずれをとても恐れる、失恋の傷手があまり残らない・・
などと言われている。

これまでの私の言動はある程度は合致しているが、《仲間はずれをとても恐れる》ことは、
私は専任者の業務で一匹オオカミのような事が多かったので、該当しない。

そして私は31歳の結婚するまでは、10数名の女性と交際してきた中で、失恋の方が多く、
時折あの人はどうして過ごしているかしら、
と思い浮かべたりしているので《失恋の傷手があまり残らない》のは、もとより対象外となっている。
          

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みあったので、、
私はB型の世評からは少し遠いかしら、と微苦笑したりした。

そして今回の記事で、九州大の縄田健悟講師(社会心理学)の研究成果、
《血液型と性格の関連性に科学的根拠はない》ことに、
そうですねぇ、と苦笑しながら同意したりした。

この後、性格の形成は、出自(しゅつじ)はもとより、家族・親族の中で育(はぐく)まれる環境、
その後の学歴の形跡、やがて職歴の遍歴、或いは結婚生活の中、この間の自己研鑽などで形づけられる、
と何かと無学な私は苦笑したりしている。

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マレーシア機撃墜、小心者の私でも、あえてマレーシア航空を非難

2014-07-19 08:02:13 | 時事【社会】
ウクライナ東部で17日に発生したマレーシア航空の旅客機ボーイング777の撃墜されたとみられる事件で、
亡くなわれた乗客283人、そして乗員15人にご冥福を祈り、哀悼を致します。

今回、アムステルダム発クアラルンプール行きマレーシア航空17便に於いて、
現場周辺を実効支配する親ロシア派武装集団に寄るミサイルで撃墜されたとみられることに関し、
ウクライナの熾烈な内戦の空で、マレーシア航空はどうして危険な航路を取ったのか、
航空機に無知な私でも、不可解となっていた。

こうした中で、読売新聞、毎日新聞、産経新聞などネットに配信された記事を読んでいる中で、
衝撃を受け深めたことを短的に要約させて頂く。

日本航空(JAL)と全日本空輸(ANA)によれば、
「マレーシア機が撃墜された地域を飛ぶことはない」(両社広報)。
日本発の欧州線はシベリア上空や北極などを経由するルートを使うため、そもそもウクライナ上空を通らないのだ。
日本に乗り入れている欧州の航空会社も同様とみられる。

また、一般的に紛争地域には一定の飛行制限がある。
事故が起きたウクライナ上空にも、欧州の管制当局によって飛行制限高度が設定されていたもようだ。
MH17便が安全なルートを飛んでいたのかは不明だが、
こうした紛争地域はできるだけ避けて飛ぶというのが、世界の航空会社の定石である。
          

マレーシア航空といえば、今年3月にクアラルンプールから中国・北京に向かう途中で、
突如、消息を絶った370便の機体がいまだ見つかっていない。
事故の種類はまったく違うものの、マレーシア航空はもともとの業績低迷に拍車がかかっていたさなか。
今回の新たな惨事はさらなる風評被害やブランドの低下などにつながるおそれがあり、
同社の経営には重大なリスクとなりうる。

このようなことを私は学んだりしてきた・・。

今回のマレーシア機は通常の運航ルートを飛行していたとみられるが、
航空評論家の清水喜由(きよし)氏は
「欧州と東南アジアを結ぶ航路は、ウクライナ上空を通るのが燃料代を考えても効率の良いルート。
危険な航路なら警告が出ているはずで、まさか民間機が狙われるとは思っていなかっただろう」と指摘する。

周辺は高度による制限があったとされ、同機はその高度をやや上回る1万メートル付近を飛んでいたとされる。

こうしたことを読んだりした後、軍事評論家の前田哲男氏は
「ロシアもウクライナも上空1万メートルぐらいを狙える地対空ミサイルを持つ。
従来は、より低い高度のヘリコプターが手撃ちや肩撃ちの目視ミサイルで撃墜されたケースがほとんどで、
国際民間航空機関(ICAO)も飛行禁止勧告を出していなかったのだろう」と分析。


こうした記事を読んだりしてきた中、昨今のウクライナ情勢の熾烈で過酷な状況を少し学んできた私は、
乗客の安全第一の責務のある航空機としては、たとえマレーシア航空は業績低迷で混迷していても、
《ウクライナ上空を通るのが燃料代を考えても効率の良いルート》は、
民間航空機を利用している私としては、恐怖を感じてしまうのである。

そして今朝、AP通信の記事によれば、
数か月前から、大韓航空、アシアナ航空、オーストラリアのカンタス航空、台湾のチャイナエアラインなどは、
ウクライナ上空の飛行を回避していた、と学び、
乗客の安全第一の責務のある航空会社としては当然ですよねぇ、と同意しながら、
今回の余りにも悲惨な《マレーシア機撃墜》の件、無力な私は悲嘆している。

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小庭の手入れ、霧雨舞い降る中、早朝の5時から奮闘しても、あえなく・・。

2014-07-18 13:38:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
何よりも暑さに苦手な私は、小庭の手入れもサボっている・・。

我が家の敷地は変形の為、家屋を建てる当時から玄関庭と主庭に別れ、
玄関側は何かと人が来客するので、程ほどに手入れをしているが、
主庭は居間とか和室に面しているが、二が月ばかり怠(おこ)たっていると樹木の枝葉、草も伸び放題となり、
あたかも廃家の小庭の状態となっている。

昨夜、明日の早朝から主庭の手入れをするよ、と私は家内に言ったりした。
朝涼のひととき5時間ぐらい奮戦すれば、と固い決意をして、私は夜の11時過ぎに眠った。
          
       
そして本日の3時に目覚めたが、横の家内の布団は空っぽとなっていた。
ここ数年に家内は早起きのタイプに変貌して、夏季の時は3時前後から、
洗濯、掃除、料理をする時が多いのである。

こうした状況を過ぎし日の朝7時の朝食時に、家内の起床時を私は訊(き)いたりした。
『今朝は2時半過ぎ・・』
と家内は応(こた)えたので、
『山ガールより早いよ・・』
と私は微苦笑しながら言ったりした。

山ガールは若き女性が軽登山するブームが10数年前に到来した時、
どなたか解らないが命名された。

そして夏登山の数日の縦走する日程の場合は、遅くても4時起床して5時に出発して、
歩いて、やがて当日の宿泊地のテントを設営を完了させるのは午後2時が多いと、
若き学生時代に少しばかり登山体験をした私は、思い浮かべて、言ったりしたのであった。

家内は夏季の時節は、私の住む地域は日の出は4時半前後となるので、
それまでに洗濯を完了させて、日の出と共に外の干し竿(ざお)に・・
このようなサイクルを雨が降っていない限りしてきたのであった。
          

今朝、私はノソノソと布団から出て、一階の居間に下り立つと、
隣室の台所で家内はゴミの整理などをしていた。

この後、私は薄暗い玄関庭に下り立つと、霧雨が降っていた。
午前中は曇りが予測されていたので、どうしてなのょ、と私は戸惑ったりした。

やむえなく霧雨が止むのを待ち焦(こ)がれたが、
やがて今しなくて何日するのよ、と自身を叱咤激励して、
霧雨降る中、庭の下り立ったのは5時であった。

いつものようにストレッチパンズの夏用の長ズボン、着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、
夏用の帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。

               
やがて切り落とした枝葉を整理したりしていると、霧雨で濡れたり、
草むしりをしていると、湿度で汗がしたたり落ちてきた。

そして樹木の下にもぐるように草を取ったりすると、泥まみれとなったりした。

こうした中で、無念ながら体力の衰えた私は、ときたまテラスの簡易椅子に腰かけて、
少し休憩ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、冷茶を飲んだりした。

やがて8時半過ぎに、霧雨は止んで、曇り空となったが、
衣服は霧雨で濡れた上、汗まみれ泥まみれとなったりし、三重苦となり、
我が生涯の庭の手入れをしてきた中で、初めての体験となったりした。
          

やがて9時半過ぎに疲れ果てて、本日はここまで・・と手抜きながら終了し、
風呂から上がったのは10時過ぎであった。

そして疲れ果てた中で、居間から荒っぽく手入れした主庭を眺めて、
微苦笑したりした。

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真夏日の炎天下の中、冬の寒さを思い浮かべて、叱咤激励しても・・。

2014-07-17 13:15:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む身であるが、
昨日の朝のニュースで、日中は32度前後の暑さが予測されますので、熱中症に注意致しましょう、
と報じられていたので、何よりも暑さに苦手な69歳の私は苦笑したりした。

私は定年後から自主的に日常の買い物を担当となっているので、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりしているが、
根がケチなせいか路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内を歩き廻ったりしていることが多い。
          

こうした時の容姿は、夏用のストレッチパンズの長ズボンの数種類、アロハシャツかスポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをして、
扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、颯爽と歩くことが多い。

そして紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、煙草、ライター、携帯灰皿などを入れ、
買い物したり、散策したりしている。
          

しかしながら燦々と照らす道を歩いたりすると、汗がひたたり落ちる・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭(ぬぐ)いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の69歳の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情である。

こうした中で、暑さに負けそうと思う時、単細胞の私は冬の寒さの情景を思い浮かべて、歩いたりしている。
たとえば今年の1月中旬に北海道の函館市の郊外にある湯の空温泉の観光ホテルに、
4泊5日ばかり滞在して、周辺を歩き廻って遊学してきた。
          
或いは2月初旬に札幌市の奥座敷と称される定山渓温泉の観光ホテルに、
13泊14日で、周辺を歩き廻って遊学してきた。
          

いずれにしても地域でも、朝夕はマイナス10度前後、日中はマイナス5度前後の中、
私たち夫婦は防寒着で身を固めて、周辺を散策したりした。
          

このような思いを秘めて炎天下の中を歩くことが多い。
そして喉の渇きを感じたら、最寄りの自動販売機で、冷たい煎茶を買い求めたりしている。
或いは疲れを感じたら、大きな樹の下の付近のベンチに腰掛けて、緑陰に心身寄せている。
          

そして私は帰宅すれば、洗面所で顔を洗ったり着替えもでき、
居間のエアコンの冷気の中で過ごしたりしている。

そして熱中症で救急車、或いは病院にお世話になることは、 勘弁してほしいので、
このように過保護のような生活を過ごしている。

このような熱き時には、ときには簡易ベットを敷いて、横たわり本を読んだり、昼寝をすることもあり、
年金生活だから享受できることであり、天国かしら、と微笑んだりしている。
               

私は現役のサラリーマン時代には、本社勤務で情報畑、管理畑で30年ばかりディスク・ワークであったが、
この時節、ときおり夏のスーツを着る程度であり、
殆どワイシャツとネクタイで出社すると、まずはトイレの洗面所で顔を洗ったりした。

そして自動販売機で冷茶を買い求めて、始業時の前のひととき、
自席で扇子を煽(あお)ぎながら、業務のことを思案したりしていた。

その後、定年の5年前にリストラ烈風の中で、私は出向となり、
レコード会社から委託されたCD、DVDなどの音楽商品を扱う物流会社に勤めだした・・。

こうした中で、物流会社の現場の倉庫で、冷房がないフロアーがあり、
もとより熱気が漂(ただ)よい、不馴れな最初の時期は、眩暈(めまい)を感じたりした。

この時は、外廻りでスーツにネクタイをして精勤している人たちを考えたり、
或いは炎天下の中で業務に奮戦する人を思い馳せたりして、耐えたりしたのが本音である。

このように私は35年ばかり勤めた夏の時節の熱さの時は、
したたる汗をハンカチで拭〈ぬぐ〉ったりした時、
ときおり、冬の寒さの情景を思い浮かべながら、自身を励ましたりしてきたことが多かった
          

このようなことを先程、ぼんやりと思いながら、
やがて梅雨明けとなり、夏本番の時節を迎えるが、今年の夏・・余り熱くならないでねぇ、
と青空を見上げながら、天上の気候の神々に祈願している。

こうした思いは、確か2年の猛暑の35度を超えた時、
私は駅前より路線バスのクーラーに身をゆだねて、3回ばかり利用して、帰宅したことがあった。
こうした根底には、もとより熱中症で倒れて、やかて救急車、そして病院にお世話になるのは勘弁して欲しい、
と願ったからである。

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