夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『花菖蒲』の5月、愛惜を深めて私は、別れを告げて・・。

2012-05-31 18:48:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり.
今朝ぼんやりとカレンダーを眺めると、今日で『皐月』の5月が終りか、と思ったりした。
そして定年後の60歳を過ぎた頃から、歳月の流れが実に早い速く過ぎていく、と改めて実感させられた。

月初は大型連休の時節、新緑を深める中、そよ風は薫風となり、
こうした過ごしやすい時節は『皐月』と明記とされているが、
現在の40日ばかり遅れた旧暦に相応しい言葉なので、幼年期に農家の児として育った私は、
『花菖蒲』の5月だ、と勝手に命名したりした。

私はこの季節を迎えると、何かと気になるのは、
菖蒲(あやめ)、花菖蒲(はなしょうぶ)、そして杜若(かきつばた)の花である・・。

私の幼年期には、田んぼの外れに咲いていた花菖蒲を見て、
これこそ何よりも気品を秘めた高貴な花と思ったりしてきた。

しかしながら、20歳過ぎても、菖蒲、花菖蒲とよく間違えることがあった。

その後、秘かに菖蒲は乾燥地で育って、新芽が赤味を帯びているし、
花菖蒲は、やや水湿地に育ち、新芽が緑色と覚えたりした・・。
そして杜若は、水湿地に育ち、葉先が垂れている、と判断したりしている。

私の拙(つたな)い記憶によれば、
遠い昔、私が35歳の5月の下旬の頃、家内と明治神宮を散策している時、
小雨降る中の花菖蒲が最も深く心に残っている。

いつの日だったか忘れてしまったが、何かの本を読んでいた時、『花言葉』が掲載されていたので、
私は机の引き出しあるメモ帳代わりとなっているカレンダーに、
少しボケてきたので、書き込んだりしていた。

菖蒲は、よき便り、
花菖蒲は、優雅な心、
杜若は、幸運は必ず来る、

と明記されていたので、齢ばかり重ねた私でも、更に恵みの日々が訪れる月かしら、
と悦びながら解釈したりしている。

そして躑躅(ツツジ)、皐月(さつき)の花はもとより、
鉄線の優美な花、華やかな牡丹(ぼたん)の花や芍薬(しゃくやく)の花も愛(め)でる最良の到来、
と私は微笑んだりしてきた。

こうした中で、たまたま私たち夫婦は、
5月6日より初めて山里の越後湯沢に3泊4日で訪れたりした。
そして予期せぬ出来事は、付近の里山のアルプの里で、積雪の山なみを観たり、
周囲の小路も積雪が残り、散策する予定も大幅に変更させられたりした。

その後、山里の観光ホテル、旅館、リゾートホテルなどで滞在した旅行が多かった私たち夫婦は、
海の匂い潮の香りが恋しくなり、伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代(あじろ)温泉で、
露天風呂から海を観ることができる観光旅館に21日より4泊5日で滞在したりした。

この間は、庭の手入れをしたり、いつものように遊歩道を散策したりした。
そして18日の昼時に雷鳴と共に激しく雨が降り、そして5分ぐらい雹(ひょう)が降り、
その後の下旬も霰(あられ)がほんの数分降り、
この時季なのに、どうしてなの、と私は空を見上げた天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。


そして何よりも我が家の落葉樹の多い小庭を眺めることが多かった。
モミジ、花梨(カリン)、紫木蓮(シモクレン)等は、日増しに枝葉を伸ばし、
色合いも新緑から深緑に染めている。

こうした中で、根宿草の半夏生、或いは半化粧(ハンゲショウ)、唐糸草(カライトソウ)、
アメリカン芙容(フヨウ)、秋海棠(シュカイドウ)、
そして小判草(コバンソウ)、が芽を出して、日増しに成長しているので、
齢ばかり重ねた私は、微笑みながら見つめたりしている。

半化粧(ハンゲショウ)は、入梅の時節になると、上部の数葉は、白く化粧をほどこしたような色合いとなったり、
妖艶な姿、と私は思ったりし、
唐糸草(カライトソウ)は、初夏の頃になると淡いピンクの花となり、かぐわしい芳香となる。

アメリカン芙容(フヨウ)は、初夏から盛夏の頃に、純白、ピンク色の美麗な花を見せてくれている。
そして秋海棠(シュウカイドウ)は、夏の終りの頃から初秋に可憐な淡紅色の花が咲く。

そして群生させた稲穂に近い小判草(コバンソウ)の群生は、
微風を受けて、揺らいでいる情景に、思わず微笑んだりしてきた。

このように思い深い日々を過ごしたりし、
今日で愛惜ある『花菖蒲』の5月の日々にお別れか、と溜息を重ねながら思ったしている。

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政権与党の民主党、2年9カ月の歳月を返して、と政治にも疎(うと)い私は呟き・・。

2012-05-30 23:24:26 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
恥ずかしながら政治にも疎(うと)く無力な高齢者のひとりであるが、
野田首相は消費増税関連法案を巡って小沢一郎・民主党元代表との会談する、
と過日に読売新聞などから学んでいた・・。

結果として、本日ネットの読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
《・・
野田首相によると、会談では首相がまず、小沢氏に対し、消費増税関連法案の成立に協力を要請したのに対し、
小沢氏は、増税への国民の理解を得るためとして、
〈1〉行政・地域主権改革、
〈2〉社会保障の理念を示す、
〈3〉経済の再生――の3点を挙げ、現段階での消費税引き上げに「賛成できない」との立場を示したという。

(2012年5月30日13時26分 読売新聞)
・・》
そしてNHKテレビのニュースを視聴していたら、
小沢一郎・民主党元代表は、民主党の党内で決議された消費増税関連法案は、
途中からは橋折って決議されたようなものだから・・
このような意味合いの言葉を発言されていた。

私は民主党は、肝要の政権与党であり、
このような党内の決議さえ不満をもたらす小沢一郎・民主党元代表の言動にしても、
これでは国民の多くは何を信頼したらよいの、と感じたのである。

もとより民主党は2009(平成21)年8月30日の衆議選を得て、
念願の政権交代となり、そして9月16日に鳩山首相の基で政権が発足した。
そして鳩山首相でありながら、実質の功績者で最大の実力者でもある小沢一郎・幹事長であることは、
国民の多くは認識されていただろう。

そして鳩山首相は園児のような言動で自民党の政権時代より益々混迷を深め
やむなく管首相の時代となったが、党内の権力闘争で、唐突な言動が多く、
もとより肝要な閣僚の方たちに戸惑いをさせたりしてきた。
その後、野田首相となっているが、益々党内の権力闘争が激しさを増している、
と私は感じている。

こうした状況は誰よりも把握されているのが、小沢一郎・民主党元代表であり、
氏が今回国民の前で公言された上記の3つは、なぜ党内で政権発足以来、
討議して方向づけをされなかったのだろうか、と国家的な時間の浪費と感じ大いに不満がある。

今回の消費増税関連法案の党内決議でも、益々混迷を深めることが予測でき、
肝要の政権与党の資格がないと感じ、
民主党の政権発足以来2年9カ月の歳月を返して、と無力な私でも呟き、溜息を重ねている。


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亡きZARDの坂井泉水さん、私なりのささやかな想いは・・。

2012-05-30 15:57:47 | 定年後の思い
午前のひととき、私は居間にある音楽棚から、
何を聴こうかと少しばかり迷った後、一枚のCDを取りだした・・。

ポップス・グループのZARDのベスト盤の一枚であった。

昼下り、私は庭のテラスに下り立ち、樹木のたわわな葉が微風を受け、少し揺れていることを眺めてたりしていると、
ぼんやりとZARDの作詞家、ボーカリストの坂井泉水(さかい・いずみ)さんのことに思いを馳せた・・。。

私は坂井泉水さんの突然亡くなわれたことを知ったのは、
確か私たち夫婦と家内の母と三人で温泉滞在していた伊豆半島の下田にある観光ホテルで、
2007(平成19)年5月28日の昼下り、ロビーにあるテレビのニュースであった。

そして私は少し動揺しながら、突然の訃報に接し、お若い身なのにと悲しみを覚(おぼ)えたが、
1990年代の女性ボーカリストの代表として活躍された坂井泉水さんに、
『大変でしたね・・ご苦労様・・ゆっくりとお休み下さい・・』
と心の中で呟(つぶや)きなから冥福を祈ったりした。


私はこのお方には、残念ながらお会いしたことがないが、
私なりに一時は熱愛し、歌の数々に魅了させられた時代もあった。

1993(平成5)年の晩春、私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
あるレコード会社と事実上統合なった結果、
初めて音楽プロデューサーの長戸大幸(なかと・だいこう)氏の率いるビーイング系のZARDを知った。

これより少し前の時代として、新田和長(にった・かずなが)氏の率いるファンハウスが、
女性ボーカルとしては岡村孝子、辛島美登里、永井真理子などで全盛期でもあった。

私は恥ずかしながら楽譜も読めなく、楽器もさわれない身であり、
音楽を制作に携わる部署でなく、つたない感性を頼りに音楽を聴く素人(シロウト)のような立場であったが、
ZARDの坂井泉水さんの透明感ある甘い若き女性の歌声、
若い女性の思いの心情を託した作詞、
そしてビーイング系に多い馴染みやすいメロディーと感じたりした。

その上、ジャケットを拝見した限りであったが、恥ずかしいことを告白すれば、
さわやかな顔立ち、確かセミ・ロングより少し長めのヘヤースタイルで、
そして胸元がまぶしく、私は瞬時に魅せられた・・。

そして『負けないで』、『君がいない』、『揺れる想い』のシングルCDが大ヒットとなり、
アルバムとしては、前年の『HOLD ME』に続いて、『揺れる想い』が直ちにミリオンとなり、
この年の女性ボーカルとしては、頂点を極(きわ)めた。

この後、ビーイングはビーグラム社として完全独立され、
私の務めていた会社から離れていったが、数年後まで私なりにアルバムを買い続けたりした。


結果としは、私は50歳前後の1993(平成5)年に、『負けないで』を初めて聴き、
その後、音楽業界としてはCDの売上げは1998(平成10)年でピークとなった。

この前後から業界の各社はリストラ烈風となり、
私も出向となり、初め頃の1999(平成10)年の初春、
私なりに失墜感の中、ZARDの二枚目のベスト盤を購入した・・。

そして豪華なジャケットを眺めながら、
音楽業界は1990年の前半の時代は違法なダウンロードもなく、
その後の携帯電話が普及される前であり、正規の音楽配信されこともなかった時代であり、
純粋に各社が切磋琢磨してCDの売上げを中核に、業績を争(あらそ)えた幸福な時代だった、
と懐かしげに思い浮かべたりした。


坂井泉水さんの突然亡くなわれた後、
数ヵ月後に追悼盤のアルバムの二枚が発売されて、
音楽情報誌として名高い『オリコン』のランキングの1位、2位となったのを知った。


私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
平素は自宅から近い野川の遊歩道を散策することが多いが、
坂井泉水さんが亡くなわれた前の2006(平成18)年の6月初旬に、
偶然に坂井泉水さんを見かけたような錯覚を感じたりした・・。

27度前後の初夏の陽気の中、私は夏用の長袖のスポーツ・シャツ、ストレッチ・パンズ、
足元はウォーキング・シューズであった。

遊歩道が狭まった時、前方から若い女性が帽子を深くかぶり、
黒のTシャツを召し、ポシエットをななめ掛けして、急ぎ足のウォーキングで近寄ってきた。

私は道を避(よ)け、若い女性が通り過ぎるの待った。
この若い女性は、少し微笑んで、目礼をして通り過ぎた。

綺麗な顔立ち・・容姿も素敵・・と私は心の中で呟(つぶや)きながら、好感したりした。
そしてZARDの坂井泉水さんのデビューしてまもない時の顔立ちに似ている、
と遠ざかって行く後姿を見て、思ったりした。

この後、私はぼんやりと、

♪揺れる想い 体じゅう感じて
 君と歩き続けたい in your dream

【 『揺れる想い』 作詞・坂井泉水、作曲・織田哲郎、編曲・明石昌夫、唄・坂井泉水 】

と思わず心の中で口ずさんだりした。

その後、まもなくと、俺も齢を取った、と微苦笑させられたのである。

このようにささやかな思いがあり、
ときおり67歳の年金生活の私でも、ZARDのアルバムの5枚を聴いたりしている・・。

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旅から帰宅すれば、愚図で齢ばかり重ねた私は、何かと慌ただしく過ごし・・。

2012-05-29 15:03:05 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
ときおり家内と共通趣味のひとつは国内旅行であり、日本の各地に四季折々に訪ねたりしている。

旅から帰宅すれは、愚図で齢ばかり重ねた私は、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。

もとより旅行は非日常の出来事で、平素の私は年金生活の今はのんびりと過ごしたりしている。

定年後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主もしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして時折、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内と国内旅行をしたりしている。

旅行前、家内は台所を洗い清めたり、洗濯物も残さず、
そして冷蔵庫の肉類、魚類、野菜物、牛乳など殆ど空の状況にしないと満足しないタイプなのである。


私たちは旅行の滞在日数が多い場合は、旅先の最終日に現地より宅配便を利用して、
自宅に送付することが多いが、
帰宅後は部屋に外気を入れたり、着替えたりした後、手荷物を開けたりしている。
そして煎茶、コーヒーを私が淹れた後、私は入浴したりする。
この間、家内は宿泊した売店、お土産屋さんで買い求めた漬物などを皿に移して、
食卓に並べたりしている。

そして風呂上りの私は、旅先で購入した日本酒を吞みながら、漬物などを食べている間、
家内は入浴している。

その後は私たちは旅先のこぼれ話を談笑したりする。

翌日は、家内は洗濯の合間に掃除をしたり、料理をしているが、
私はスーパーを2店ぐらい廻り、パン類、肉類、魚類、野菜、牛乳、トマトジュースなどを買い求めたり、
この間に、このブログサイトの投稿する内容を考えたりしている。

そして出来る限り、旅行の綴りは紀行文の形式に準拠したく、
内容、構成とかを配慮しながら、苦心惨憺としながら綴ることが多いが、
何よりタイトル名には配慮したりしている。。

もとより小説、随筆、映画などの場合は、
タイトル名で内容を適切に凝縮した表現となるので、
私も拙(つた)ないなりの投稿文であるが、タイトル名は気にしている。

今回の旅は、伊豆の網代(あじろ)の温泉滞在を5月21日より4泊5日であったが、
タイトルも手抜きで、5通ばかり投稿したりした。

この間にネットで毎日のように精読しているニュース、音楽業界のサイトを見たり、
このブログサイトで私が愛読している50数名の方の五日分ぐらいを読ませて頂ただいたりしている。

その上、旅先で読み残した本の読書もあり、私なりに忙しいのである。

そして私がブログの最終文を投稿した後、
やっとデジカメに映した旅行先の写真をパソコンで眺め、微苦笑したりしながら、
何とか数日後に平常の時間に戻ることが多い。

そしてテラスに下り立つと、樹木の枝葉、地表の草が伸びてきているので、
庭の手入れしなければ、と思ったりしたりする。

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曽野綾子さんの心の思いを拝読し、歴然と程度の差があるが、私のブログの思いと同じかしら、と思い・・。

2012-05-28 15:26:47 | 定年後の思い
私たち夫婦は、伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代(あじろ)温泉で、
過ぎし5月21日より4泊5日の温泉滞在旅行をした。

私は齢ばかり重ねた67歳の身であるが、こうした滞在旅行の時は、
読書をするのが快適と思い、今回は三冊の本を持参した。

曽野綾子・著作の『生活の中の愛国心』(河出書房新社)の新書本、
そして曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場~』(新潮社)の単行本、
再読したく書庫から抜き出した城山三郎、平岩外四・共著作の『人生に二度読む本』(講談社文庫)であった。

私はある中小業の民間会社に35年近く勤務し、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。
そして読書好きな私は、退職後は塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読している。

たまたま今回の旅先で持参した三冊から、多々教示された。

そして宿泊先の網代(あじろ)温泉の『湯の宿 平鶴(ひらつる)』で朝食前のひととき、
私はロビーの近くで、当館で置いてある『毎日新聞』、『産経新聞』、『静岡新聞』の朝刊を読むのが、
習性のようになったりしていた。

たまたま25日の朝も、『産経新聞』の朝刊を手にしたら、
一面の左上に、作家・曽野綾子さんの『小さな親切 大きなお世話』と題された寄稿文が掲載されていた。
見出しには《 会えなかった恩人たち 》と明記され、
敬愛している作家のひとりなので、私は精読した・・。

曽野綾子さんは海外邦人宣教者活動援助後援会のNGO組織の代表を長らくされていることは、
数多くのご著作から私は学んできたが、
今回40年間続けられた代表を辞任され、
これに伴い、《ささやかな感謝会》をされた、と記していた。

この後に綴られた寄稿文は、圧倒的に感銘を受けた・・。
そして私は持参している手帳に書き留めたりし、無断であるが、転記させて頂く。

《・・
(略)
この最後の機会に、私の中には初期から数十年来の支援者で、
ついぞ顔を会わせたことのない何人かのお顔を今度こそ見られるだろう、
という淡い期待があった。

世間は生活に余裕のある幸福な人が、苦しい人を助けると信じている。
しかし私の体験では、長年の支援者の多くは、悲しみを知っている人たちであった。
私はその一部を打ち明けてもらう光栄に与(あずか)り、
人生とは悲しみこそが基本の感情であり、
そこから出発する人には、芳香が漂うのを知った。

このような人たちの一部は、しかし今度も会にもやはり出席してくれず、
ただ温かい言葉を送ってきた。

人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、
と私は思った。

私はここ数年、いつ死ぬか分からないのだから、
以前から心にかかっていた人たちと、無理てせない機会で、
会っておくようにしょうと心に決めていたのだが、
それは浅はかな人生の計算だということもわかった。

深い感謝は、時には恋のような思いでもあったが、
恋もやはり会わないでおいた方がいい場合が多い。

人生ですべてをやり遂げて、会うべき人にも会って死のうだということは、
思い上がりもいいところで、人は誰もが多くの思いを残して死んでいいのだ。
むしろそれが普通なのである。
私は強情だったが、運命には従順でありたいと願っていた。

愛というものは、二人がお互いに見つめあうことではない。
同じ目標を見つめあうことだ、と昔教わったが、
ついに現世で視線を合わせることもなかった支援者たちと私は、
図(はか)らずも同じものを見つめる位置に立って、人生を生きたに違いがない。
・・》

私は拝読した後、功利を問わない無償の奉仕活動をされる人たちに、
ひたすら敬服するひとりである。
その上、さりげなくこうした活動に共鳴して、支援金を提供して、
更に顔を会わることない人の心に、圧倒的に感銘させられた・・。

こうした思いの中で、私が瞬時に共鳴させられたことは、
《・・人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、と私は思った。》
と一節である。

もとより功利を問わない無償の奉仕活動をされた上、支援金を提供され、更に顔を会わることない人たちとは、
歴然として程度の差があるが、私のブログの思いと同じかしら、と思ったりした。


私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

定年退職後のまもない時に、ブログの世界を知り、ほぼ毎日投稿してきた。
私の幼少時代から年金生活の今日まで綴っているが、
何かと身過ぎ世過ぎの年金生活で、日頃感じこと思索していることなどをあふれる思いを
心の発露として投稿してきた。
こうしたことは生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。

私はブログの投稿文を綴ることに内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

こうしたことは筆力のない無名な私は、卑怯であるが匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら『夢逢人』と命名し発信を重ねている。

このように思いを重ねて、私は苦笑している。

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伊豆の網代(あじろ)にて【12.5.21.~5.25.】  最終章  旅の終りは地元の健在な方とお逢いし

2012-05-28 09:17:57 | 
『湯の宿 平鶴』で滞在中、外出しなかった私たちは、
最終日の前日の早朝、私は日の出の光景を撮る為に、浴衣姿でロビーの近くにあるサンダルをお借りして、
宿の近くの海沿いの防波堤が整備された遊歩道を歩いたりした。

そして立ち止まり、日の出前であったが、わずかな潮風を受けながら、
彼方の網代湾の突端の灯台に焦点を合わせて、デジカメで3枚ばかり撮ったりしていた。

この後、ぼんやりと網代湾の情景を見たりしていると、前方の遊歩道から、ひとりの老人が歩いてきた・・。
小柄な男性で水色のチエック模様のお洒落なワイシャツ、グレーの長ズボン、ウォーキング・シュースで、
颯爽と私の方に近寄ってきた。

私のデジカメを見ながら、
『日の出の写真を撮られるんでしたら・・
前方の灯台の近くからの方が・・良い景観となりますょ』
と老人は私に言ったりした。

『おはようございます・・教えて下さいまして有難うございます』
と私は老人に向った感謝の言葉を重ねた。

そして私たちは網代湾の海面を眺めたりしながら、
私は初めて網代に来たことなどを言葉にすると、
このお方は昭和6年生まれで、この地で65歳まで漁師をされていたことなどを、
さりげなく教えてくれた。

私は《伊豆網代温泉 観光ナビ 公式サイト》で、
《・・
網代の港は昔から漁業が盛んでした。
また、大風が吹くと、荒波をさけるため近くにいる船が避難をする港としても有名です。
網代港は、その昔、網を入れる漁夫の漁場でしたが、
後に漁が盛んになるにつれて、港の入江に漁夫の小屋ができはじめ家も増えました。
そして、やがて網を入れる場所である網代の名が、こうした漁家や小屋の建つ村の名になったと言われています。

網代港は伊豆東海岸随一の天然の良港で、
「京大阪に江戸網代」といわれ、諸国の廻船でにぎわっていました。

江戸に幕府がおかれると物資は江戸を中心に運ばれるようになりました。
九州・四国・大阪・堺・名古屋方面からも千石船のような大型帆船、中型の帆船の廻船、小型の押送船が網代港に入港しました。

江戸への海路の要衝として、順風に帆を上げれば約10時間、
朝5時に発てば午後3時頃には、江戸に到着する地の利を得た港でした。
風の力で航行する帆船は良い風向になるまで、何日も港に碇泊していました。
このため港には廻船宿が設けられてにぎわうようになりました。

また、滞在中に船荷を売る時はその斡旋の口銭の収入も入りました。
更に航海中に台風などのシケに会った船の積荷米は濡米となり上納できませんでした。
そこでこの米は「濡米」として村役人を通じて入札され、田のない網代の人は安い米を買うことができました。
このように港の商人、船宿も多く、網代港は江戸時代にすこぶる活気にみちた港町となりました。
・・》
このようなことを学んだことを言ったりした。

『今はご覧になられたように・・少し活気がなくなりましたが・・』
と老人は私に言ったりした。

『私が東京オリンピツクが開催された昭和39年の頃・・
ある小説家の随筆で・・小田原の海辺の相模湾で・・寒ブリが30ぐらい獲れた・・
と読んだことがありますが・・』
と私は老人に言った。

『昨今は日本海の北陸地方の氷見地域で寒ブリは有名であるが・・
私が血気盛んな昭和30年代は・・この網代の相模湾でも・・
艪(ろ)を懸命に漕(こ)いで・・たくさんの寒ブリが・獲れたたんですよ』
と老人は微苦笑をしながら私に教えてくれた。

この後、私たちは5分ぐらい立ち話をして、私たちは別れた・・。
そして老人の後ろ姿を私は見送りながら、たしかに足取りにしっかりして、
とても私より13歳齢上の方と思えず、若き頃の艪(ろ)で漕(こ)いだ漁船に乗られた方は、
鍛え方が違うと私は感心させられたりした。


日中のひととき、私たちは部屋の窓辺に近い椅子に座り、
下方の寄せて返す波打ち際を見たり、浜辺となった所に幾重かの岩を眺めたり、
海上越しに多賀の街並み、そして上方の里山の樹木を眺めたりした。

この地は観光客でにぎわう熱海と伊東の中間にあるので、静寂でのどかな街並みであり、
働いて下さる現役世代の方が日常生活に疲れた時、やすらぎのある最適な癒(いや)しの処であり、
都心からはたった二時間ばかりで来られる処である。
私たちの退職後の年金生活の身でも、のんびりとゆったりと過ごせる処てあった・・。

たまたま滞在した宿は、海に浮かぶ露天風呂の景観も良し、磯料理の数々も美味で、
そして部屋からの景観は圧倒的に魅せられたのである。
このような意味合いの言葉を私たちは交わし、
冬の時期も来て見たいわ、と家内は言ったりしていた。

25日の金曜日、4泊した『湯の宿 平鶴』を辞した後、
帰路はJRの伊東線の『網代』駅に向い、その後は車窓からは里山の樹木越しに網代の街並み、
そして多賀の街並みが観え、やがて熱海の大きな街並みが観えた。

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伊豆の網代(あじろ)にて【12.5.21.~5.25.】  第四章  過ぎ去り日々の思いを家内と語り合えば

2012-05-27 15:13:33 | 
宿泊している『湯の宿 平鶴』の朝食は8時、そして夕食は夕暮れの6時であった。

この地の今頃は、日の出が4時半過ぎで、日の入りは夕食を頂いている最中(さなか)の6時半過ぎで、
私たちは何かと食事時間に合わせるように滞在の期間を過ごした。

殆ど日の出前に起床し、ぼんやりと朝焼けの情景を窓辺に近くにある椅子に座りながら、見たりした。
左側の外れに里山が海岸に接して、大きな樹木に定期便のように小鳥が飛来し、鳴き声が聴こえ、
下方に干潮の時は波打ち際から20メートルぐらいの浜辺となり、
そして浜辺となった所に幾重かの岩が群島のように見えたりした。

その後に満潮の波時は、浜辺が海水で消え去り、寄せては返す波間となり、
岩の群島に波が押し寄せて砕け散っていた・・。

前方の500メートルぐらい先には、海上越しに多賀の街並み、かすかに海岸沿いの道路が観え、
そして上方の里山の中腹の樹木の中、ときおり伊東線の電車が観えたりした。
里山の頂上までには森の中に、わずかながら人家が点在していた。

海上には、ときおり漁船が観えたりした。

そして前方の少し右側の海辺の近くには、大きなリゾートマンションのような建物が三軒あり、
目を右側に動かせば赤根崎にある建物が観え、その先には赤根崎を通して大きな熱海の市街がかすかに観えたりした。
右側の遥か彼方には、真鶴半島も観えたりした。

こうした情景を私たちは見たりし、部屋の窓辺の近くに寄せては返す波を見惚(みと)れて眺めたりした。
まじかに海岸の横から眺めていたので、
改めて干潮に現れた浜辺、或いは満潮の波が押し寄せる無限なような波間となっていた。


食事処は大きな100畳ぐらいの一室で、海辺にせり出すような180度の広い展望となり、
こうした中で、ゆったりと座卓が配置され、
磯料理の刺身、焼き物、煮ものを中核に美味しく頂いた。
そして最後の夕食の時に、
『あわびの踊り焼き・・長年旅を重ねてきたけれど、四日毎晩頂くのは初めてだょ』
と私は家内に微笑みながら小声で言ったりした。

日中の大半は、着いた日には街並みを散策した以外、窓辺から観える情景に見惚れながら、
過ごした異例の滞在となった。

彼方に見える赤根崎にある建物を見たりすると私は家内に、
思い馳せるように言葉をかけた・・。

確か1983(昭和58)年の夏、私が勤めている会社が、
管理体制の総合見直しのひとつとして、コンピュータ処理の委託を廃止し、
自社で開発、運営を首脳陣から命じられた私は、
この後、一年間は死ぬ物狂いで奮闘し、何とか1984(昭和59)年の初夏、
軌道に乗せたが運営上に課題を残していた。

こうした中で、夏季休暇を迎えていた・・。
私は前日に月末の定期処理を終らせようとしていたが、ハードディスクの容量不足を避ける為に、
やむなく磁気テープで置き換えて処理をしていたが、
夜の8時でも終らないのである。
この当時のハードディスク装置は、中小業からすれば甚(はなは)だ高価で、
程ほど増設して貰ったが、これ以上は見送ったりしていた時であった。

この後、私はビルの外壁の非常階段の踊り場で煙草を喫ったりしていた。
六本木のこのビルの8階からは、防衛庁(現在はミッドタウン)の灯りは暗くなり、非常灯が光を帯び、
彼方の明治神宮球場で花火が盛大に揚げられ、夜空を彩っていたので、私は苦笑した。

結果として、深夜の3時過ぎに私は退社し、タクシーで帰宅した。
そして、夏季休暇も半分程しか取れなかったので、
近場の熱海の外れにある赤根崎のリゾート・ホテルに2泊3日で予約していた。

そして数時間ばかり寝て起きたのであるが、
徹夜になったり、深夜まで・・連日の過酷な勤務時間が続いたいたので、
朦朧としていた。

そして10時過ぎに、私たち夫婦は自宅を出て、新宿駅に行った。
この後、寿司屋でビールを呑みながら、寿司を頂き、昼食代わりとし、
新宿駅より小田原駅まで特急のロマンスカーで乗り、
JRの小田原駅から下田行きの『踊り子』に乗り、熱海駅で下車した後、
宿泊地の赤根崎リゾートホテルにタクシーで向った。

この当時の赤根崎リゾートホテルとは、現代はリゾートマンションに大きく変貌したが、
外観は余り変らないと思われる。

この当時は、ホテルの建物の前にゆったりとした庭園があり、
その先は海上を一望できる景観が良い処であった。
そして利用される方は、家族連れで来て、主人は付近のゴルフ場でプレーをし、
若き奥様たちは、幼い子供に海辺の児童プールと海辺を楽しんだり、
若き男女はホテルに隣接したプールでゆっくりと過ごせる方が多いかしら、と私は感じたりした。

そしてロビーなども広く、レストランも数々あり、
食事をしながら、ゆったりと海上の景観も良く、
私たち夫婦はビールを呑みながら、イタリアンとかフランス料理を頂いたりした。

こうした間の2日目の時、私は休暇前は睡眠不足であったので、よく寝ていた。
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、
支配人から家内が誘われ、私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、
多額な借入となったが、若さの心の勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
免許状の昇進と共に、礼金も重なる暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。

そして無知な私でも、この茶室の掛け軸、花入、茶花も簡素で、
素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたのである。

茶室から庭園に出で、家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。

庭園は夏の光を受けていたが、
外れにある松林の中に入ると、海上からの風が吹き、肌には心地よかった。

古人の利休が、花は野にあるように、という明言は私なりに知っていたが、
私はこの時以来、人生信条として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしている。

このように赤根崎に滞在した夏の旅は、私にとっては今でも心の片隅に鮮明に残っている。

こうした思いで話題にしたり、その前に下田の郊外の弓ヶ浜を訪れた話や、
或いは家内の両親と伊豆高原の海岸沿いの遊歩道を歩いた後に伊東の観光ホテルに宿泊した思いで話し、
私は思い重ねるように家内と語り合ったりした・・。


こうした時を過ごしたり、館内の売店で日本酒を買い求めて、
窓辺の近くにある椅子に座り、情景を観ながら吞んだりした。
或いは館内の自動販売機から、ビールを購入して吞んだりし、持参の本を読んだり、
露天風呂が恋しくなり、浴室に向ったりした。

                           《つづく》
                           
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伊豆の網代(あじろ)にて【12.5.21.~5.25.】  第三章  海に浮かぶ露天風呂

2012-05-27 08:59:23 | 
宿泊している『湯の宿 平鶴』の正面の隣接した処は、熱海から伊東の主要国道があり、
自動車、観光バスなどが頻繁に走って折、
この国道の一角に、この宿の大きな看板がある。

記憶に間違いがなければ、《 海に浮かぶ露天風呂 日帰り入浴 磯料理 》、
と明記され、たとえば下田とか伊東などから都心に帰路される方たちに、
この当館に寄り、海に浮かぶ露天風呂に入った後、数多くの磯料理を賞味して、ひとときをごゆっくりと過ごして下さい、
と私は瞬時に感じた・・。

まさに当館は、海に浮かぶ露天風呂、そしてゆったりとした食事処で磯料理、
このふたつに集約されるといっても過言でない、と私は実感させられた。
たまたま宿泊した私は、このことに部屋からの圧倒的な美景を追記する。

さて、風呂の話題であるが、当館は海岸沿いにあり、普通と大き目の大浴場があり、
いずれも隣接に海上にせり出している露天風呂がふたつある。

この露天風呂からの景観は、私たちの部屋より低い角度の海面から周辺を視(み)ることができる。

海辺に建つ当館は、左側の外れに里山が海岸に接して、干潮の時は波打ち際から20メートルぐらいの浜辺となり、
そして浜辺となった所に幾重かの岩が群島のように見えたりした。

その後に満潮の波時は、浜辺が海水で消え去り、寄せては返す波間となり、
岩の群島に波が押し寄せて砕け散っていた・・。

前方の500メートルぐらい先には、海上越しに多賀の街並み、かすかに海岸沿いの道路が観え、
そして上方の里山の中腹の樹木の中、ときおり伊東線の電車が観えたりした。
里山の頂上までには森の中に、わずかながら人家が点在していた。

そして前方の少し右側の海辺の近くには、大きなリゾートマンションのような建物が三軒あり、
目を右側に動かせば赤根崎にある建物が観え、その先には赤根崎を通して大きな街がかすかに観え、
その後に熱海の市街と解った。
そして右側の遥か彼方には、真鶴半島も観えたりした。

このような情景を私は少なくとも朝の6時前後、夕暮れのひとときに、
この露天風呂に入り、海面の波間越しに景観に見惚れ、身も心も満喫させられた・・。


そして風の強い日の夕暮れに入った時、長方形の露天風呂に先客がふたり入っていた。
海岸側、中央部分に入浴していたのであるが、海上側は空いていたので私は身をゆだねた。
まもなく大波が押し寄せ、波打ちブロックを遥かに超えて、風が伴ってきたので、
私の頭上にシャワーのごとく海水のしぶきをあびた・・。

私は気分爽快となり、五分ぐらいで三度ばかり浴び、
ときにはこの場所こそ最上の貴賓席のようだ、と心の中で叫んだりした。

このような心情の根底には、一昨年の2010〈平成22〉年の若葉の季節、北東北を周遊していた時、
青森県の日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテル『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に3連泊し、
この観光ホテルの波打ち際にある露天風呂に、私たちは圧倒的に魅せられたのである。

その後の12月中旬、やはり北東北を周遊し、旅の終りとし、
この『不老ふ死温泉』に再訪して3連泊したりした。

この12月中旬の時の私の露天風呂の心象を記載する。

到着した翌朝は、ときおり風が強く吹く曇り空で、午前10時過ぎに私は露天風呂に向かった。
露天風呂の出入り口の本館まで行き、
海岸の施設の歩道を百メートルぐらい海岸線まじかにある露天風呂に到着するのであるが、
浴衣の下はパンズ一枚だけ、左手にバスタオルとタオルを入れたビニール袋を提げた姿で歩きはじめた・・。

ゆるい下りの歩道で、強く風が吹き、浴衣の裾(すそ)は捲(まく)れ上がり、
私は右手ですそを押さえて、
『やめ~て・・少し風・・穏やかにねぇ・・お願いいたしますょ・・』
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして露天風呂の簡素な更衣棚に浴衣とパンズをビニール袋に入れたが、
このビニール袋が風を受けて、たなびいているのである・・。

私は露天風呂に身体をゆだねて、波打ち際の波、そして押し寄せてくる波間、
ときおり私は立ち上がり、彼方の日本海を眺めたりしていると、風が冷たく感じ、
露天風呂に身体を沈めるように深く湯に入ったりした。
その上、ときおり波しぶき受け、私は笑いながら、波しぶきを浴びていた。

このような天候であったので、もとより私だけの貸切風呂となったりし、
帰路、本館の露天風呂の出入り口のいるホテルのスタッフの方から、
悪天候なのに健気に入浴される齢を重ねた男性もいる、と思われたと私は感じ、
この方から微笑まれた。
私は苦笑しながら、宿泊している新館の部屋に戻ったりした。

翌日は、冬晴れとなり、私は昨日の容姿で、露天風呂をめざした。
ときおり微風が吹く程度で、穏やかな快晴の中、散歩するみたいに海岸線までの歩道を歩いた。
そして、誰もいない露天風呂に心身ゆだねて入ったり、
押し寄せる波、そして遥か彼方のフェリー船が日本海を北上するのを見たりした。

そして露天風呂から上がり、岩場の上で立ち、
海上の冬晴れの陽射しに向かい、全身素肌を数分程さらしたりしたが、
寒さを感じることなく、むしろ快適な心情となったりした。


このような体験があり、家内も私に負けじと波しぶきを悦ぶひとりなので、
私は当館で波しぶきを浴びて良かったよ、と部屋に戻った後、
家内に報告したりした。
そして平素なかなか叶わぬことであり、私もお風呂に入ってくるわ、
と家内はいそいそと湯支度をしたりしていた。

露天風呂の魅力は、だれしも感じると思われるが、
私は山里、海辺で、その地の四季折々の情景を眺め、その中で湯に身も心もゆだねて、
満喫することである。
ときには雪の舞い降る時もあり、のどかな春麗の時もあり、朱色や黄色に染められた錦繍の時もあり、
或いは風や雨も伴うこともあるが、少しばかり自然のおりなす情景に心身をゆだねるのである。

今回の露天風呂は、初夏に向う中、大半は天候に恵まれて、
おだやかな波間を眺めて入浴し、たった一度だけ強風の中で波しぶきを浴び、
このことは自然のおりなす現象であることは記するまでもないことである。

                           《つづく》
                           
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伊豆の網代(あじろ)にて【12.5.21.~5.25.】  第二章  部屋の窓辺からの情景

2012-05-26 17:33:05 | 
私たちが指定された部屋は3階の一室で、
8畳の和室、そして窓辺に三点セットのテーブルと椅子ふたつが置かれた4畳ぐらいの広さがあり、
この間の間仕切りとしては障子があるので、
何かと私たち夫婦としては、4日ばかり滞在であったが過ごしやすい処であった。

何よりも魅了させられたのは、部屋の窓辺からの情景であった。

海辺に建つ当館は、左側の外れに里山が海岸に接して、干潮の時は波打ち際から20メートルぐらいの浜辺となり、
そして浜辺となった所に幾重かの岩が群島のように見えたりした。

その後に満潮の波時は、浜辺が海水で消え去り、寄せては返す波間となり、
岩の群島に波が押し寄せて砕け散っていた・・。

前方の500メートルぐらい先には、海上越しに多賀の街並み、かすかに海岸沿いの道路が観え、
そして上方の里山の中腹の樹木の中、ときおり伊東線の電車が観えたりした。
里山の頂上までには森の中に、わずかながら人家が点在していた。

そして前方の少し右側の海辺の近くには、大きなリゾートマンションのような建物が三軒あり、
目を右側に動かせば赤根崎にある建物が観え、その先には赤根崎を通して大きな街がかすかに観え、
その後に熱海の市街と解った。

窓辺から観える右側の遥か彼方には、真鶴半島も観えたりした。

こうした情景を私は見たりし、部屋の窓辺の近くに寄せては返す波を見惚(みと)れて眺めたりした。
まじかに海岸の横から眺めていたので、
改めて干潮に現れた浜辺、或いは満潮の波が押し寄せる無限なような波間となり、
ときおり宿泊先から配布された館内ニュースを見たりしていた。

たとえば到着した21日の時は、
《 明日の天気  曇り時々雨
  明日の日の出  am4.35  
     日の入り  pm6.46 

  満潮 am4.32  pm6.25 
  干潮 am11.28 pm11.38 》
このように記載されていたので、釣りもしなく満潮と干潮にも疎(うと)い私でも、
押し寄せる波を見ながら、まもなく満潮になるから浜辺は消えて、
海岸まで波が押し寄せてくると学び、不思議な周期に見惚れてたりしていた。

そして夜のとばりになると、彼方の海上越しに多賀の街並みなどが灯(あか)り燈(とも)り、
里山の上空には数多くの星が彩(いろど)った。
そして確か二日目の深夜に目覚めると、満天の星空となり、
家内も偶然に起きだして、私たちは夜空を彩(いろど)る情景に見惚れたりした。

早朝、昼下り、夕暮れ、ときには深夜に窓辺から眺めたりし、
打ち寄せる波音、岸辺の大きな樹木には小鳥の鳴き声が聴こえだけの静寂な時を過ごした。

このような状況だったので、俳句に素養のない私でも、
つたない一句を詠んだりした。

横たえば 寄せては返す 波の音  
                詠み人・夢逢人

                           《つづく》
                           
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伊豆の網代(あじろ)にて【12.5.21.~5.25.】  第一章  街並みを散策すれば

2012-05-26 14:52:11 | 
21日の月曜日、私たち夫婦は10時過ぎに自宅を出て、
路線バスに乗り、10分足らずで最寄駅のひとつの小田急線の『成城学園前』の駅前に下りたった。

その後、この駅でも停車する特急のロマンスカーに10時40分発に乗車し、
『小田原』駅に11時37分に到着後、駅ビルにある食事処で、この先の宿泊所で滞在する間は魚ずくしも配慮し、
イタリアンの肉料理のディナーセットを頂き、
JRの『熱海』駅に着いたのは午後1時過ぎであった。

そして海沿いを走る路線バスを利用して『網代』駅前まで、
或いは伊東線で『網代』駅まで里山の中腹から海を眺める車窓を楽しむか、
少し迷ったが、行きは路線バスで海沿いの道路から海上を観て、帰路はJRの伊東線を利用することに決めた。

この後、晴れ渡った少し暑さを感じる中、路線バスの乗車し、
熱海のにぎわった街並みを通り、起伏の激しい観光ホテル街を抜け、樹木越しに海が見えたりした後、
多賀地域を通り、『網代』駅前の少し前で私たちは下車したのは2時前であった。

そして3分足らずを歩き、宿泊する『湯の宿 平鶴』でチエックイン後、
私たちは漠然と街並みを歩ま廻った・・。

海沿いの防波堤が整備された遊歩道となり、海の匂いは潮風と共に心地よく受け、
その後は街中の歩道を歩き、干物銀座と称される数多くの干物屋を見たりしたが、昼下りの為か、
のどかで閑散としていた。
そして港の漁業市場、港に浮かぶ筏(いかだ)で釣りを楽しめる筏釣り場、
海上の釣り堀などが見られたりした。

しかしながら私は釣りには興味がなかった。
幼年期に農家の児として育った私は、釣り上げる魚の生臭さが苦手であるので、
漁船の匂いはもとより、網元の方たちの集う場所、生魚の匂う民宿も避けてきた。

このような結果、恥ずかしながら魚を捌(さば)く技量もなく、
単に料理して頂いた刺身、焼き魚、煮魚が好きで、
炉端屋などで貝を含めて、地酒を吞みながら頂く身勝手な身である。

この後、街中も戻り、『網代』駅前の通り、『網代』駅に寄ったりしたが、
静寂であった・・。

ここ20数年、伊豆半島の熱海はじめ、南下した伊東、熱川、稲取、下田まで、
かっての昭和30年から昭和の終りの頃のにぎわった頃より、観光客は減少していると風の噂で聞いたりしているので、
まして大きな街の熱海と伊東の間にある『網代』の街並みは、過ぎし時代より減少していることは、
やむ得ないだろうと思いを巡らしたりした。

この後、街並みを歩き廻り、結果としては2時間近く散策して宿泊先の『湯の宿 平鶴』に戻ったりした。

                           《つづく》
                           
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伊豆の網代(あじろ)にて【12.5.21.~5.25.】  序 章  旅立つ前に夢想することは

2012-05-26 07:47:02 | 
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
ときおり家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

この一年は山里の観光ホテル、旅館、リゾートホテルなど温泉地に滞在することが多く、
海を見ながら波打ち際に近い露天風呂で、ゆっくりと過ごしたいわ、
と家内は私に言ったりした。

この根底には、一昨年の2010〈平成22〉年の若葉の季節、北東北を周遊していた時、
青森県の日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテル『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に3連泊し、
この観光ホテルの波打ち際にある露天風呂に、私たちは圧倒的に魅せられたのである。

その後の12月中旬、やはり雪の舞い降る北東北を周遊し、旅の終りとし、
この『不老ふ死温泉』に再訪して3連泊したりした。

このような思いもあったりしたが、私たちの住む処から余り遠くない伊豆半島で、
海に近く温泉も良し、食事処でも浴衣で良し、気楽に過ごせる観光ホテルを調べたりした。

私たちは伊豆半島の東海岸だけでも熱海の伊豆山地域、赤根崎、伊東、伊豆高原、稲取、下田などを訪ねてきたが、
いずれも海を見下ろす高台で展望は良かったが、波打ち際には遠かったのである。

この結果、私たちが今回たまたま選定した処は、
伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代(あじろ)温泉で、
露天風呂から海を観ることができる観光ホテルを見つけたりした。

これまでの私としては、網代(あじろ)地域名は知っていたが、
伊東、伊豆高原、稲取、下田などに行く時、観光バスとか特急の『踊り子』で、
あたかも通過点であったので、ネットで検索し、たまたまこの地の観光ホテルにめぐり逢えたのであった。
http://www.hiraturu.com/
☆網代(あじろ)温泉【湯の宿 平鶴(ひらつる)】公式サイト☆

私たちが圧倒的に魅せられたのは、海辺に建ち、波打ち際に近い処に露天風呂があり、
海上の浪間を観ながらお風呂に入れることのようで、
単細胞の私たちは、この観光ホテルに直接に電話連絡して、四連泊することにした。

このような温泉滞在旅行は、私の現役時代のサラリーマンの時は、
35年近く中小業で勤め、何かと悪戦苦闘が多かった時代はもとより叶えられず夢想を重ねたりしてきたので、
せめて年金生活の今、お互いの夫婦が心身元気な中で甘受できることなので、
特権のひとつかしら、と思ったりしている。

この後、この地域をネットで調べたりした・・。
http://www.ajirospa.com/index.htm
☆伊豆網代温泉 観光ナビ 公式サイト☆

そして誰しも旅立つ前に、その地を夢想するように、
私は歴史とか文化を学ぶひとが好きであるので、このサイトを見て、長らく見つめたりした。

そして滞在する中、読書もしたく、持参する本を数冊選んだりした。

                           《つづく》
                           
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海の匂い潮の香り《5》  三陸海岸の『浄土ヶ浜』を訪れた時、 ささやかな思い

2012-05-25 07:38:03 | 旅のあれこれ
私たち夫婦は共通趣味のひとつとしては国内旅行で、
2010年の夏の終りの旅路として、8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』、
そして盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に訪れた。

翌年の2011年3月11日に東日本大震災で、巨大な津波が発生して、
宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』も大災害となったが、それ以前の半年前の『浄土ヶ浜』の心象を記載する。、


山田線の快速『リアス』で、2時間ばかり乗車し、海沿いの宮古駅を下り立ったのは午後1時過ぎであった。
夏空の快晴の中、30数度の熱さと感じたのであったが、
ホテルからの送迎バスが待機して下さり、私たち夫婦は乗車した。

車窓から市街を眺めた後、つづら道の道路の周辺は、
圧倒的に多い赤松の中、ときおり海の景観が観られた。

翌日、赤松は南部赤松(ナンブ・アカマツ)と知るのであるが、
このような広大な一帯の中に浄土ヶ浜パークホテルがあり、
前方の南部赤松の枝越しの下方に海に面した浄土ヶ浜が観え、
高台の丘陵の先端に建つ景観の良いホテルであった。

海上から見上げると、数多くの南部赤松があり、その中でそれぞれの広葉樹が緑の彩(いろど)りがあり、
丘陵の高台に聳(そび)える情景である。

私達は3泊したが、このような情景を朝夕に眺めたり、
館内の外れにある露天風呂からは、紫陽花(アジサイ)の残り花が見られたりし、
私は微笑んだりした。

たまたま5階の宿泊した部屋から、一角を眺めたりした時、
南部赤松の幹に朝の陽射しを受けて美景を見ていた時に、
浴室の蒸気が下方から立ち昇り、この蒸気が朝の陽射しを受けると、
10色に変貌する虹の情景になり、私達夫婦は思いがけない美麗に見惚(みと)れたりした。

或いは館内のフロアーの中、高価な横幅の大きな額の扁額(へんがく)には、
確か『高談娯心』と雄渾に毛筆で描かれ、高齢者の私さえ思わず微苦笑させられたりした。

こうした中でも、私は仲居さんからは、
『よく、おでんすた』
と云われたりし、よくお越し下さいまして、理解できた。

そして『どうぞ、お休みめん』も、
ゆっくり、お休み下さい、と私は仲居さんの表情としぐさで判ったりし、
私は心の中で微笑んだりした。

リゾート・ホテルのような形態でもあったが、
このようにやすらぎを感じさせる観光ホテルでもあり、
もとより親潮と黒潮が交わる宮古の海の幸を十二分に頂いたことは言うまでもないことである。


家内は旅立つ二週間前、浄土ヶ浜を観るのに、
陸地、海岸沿いの遊歩道から観たり、海上からこの周辺も眺めるのには遊覧船、モーター・ボートなどで思案していた時、
さっぱ船と称される数人が乗れる小船で、付近の海岸に面した洞窟を観られるサイトを見ていた・・。

私は家内に教えられ、特に『青い洞窟 さっぱ船』のコーナーを見たりし、
『いいでしょう・・素敵な処みたい・・』
と私は家内から教示させられて、私達夫婦は今回の旅の楽しみのひとつとしていた。

私達はホテルにチエックインし、小休憩した後、
まもなくマリンハウスをめざした。
ホテルのはずれの小さな歩道の急坂を下り、赤松に囲まれた中の道路を5分ぐらい下ると、
幾つかの色鮮やかなパラソル、白いテーブル、椅子席が観えた・・。
前方の海上には、浄土ヶ浜の島々が点在する美景であった。

この後、私達はさっぱ船の乗船予約した後、黄色い救命具を着て、白いヘルメットを被り、
船長兼観光ガイドさんの下で、さっぱ船に乗り込んだ・・。
さっぱ船からの低い海上の視線から、白き岩山に赤松がある浄土ヶ島どの名島、剣の山などの案内を受けたりした。
その後、八戸穴の周辺に近づくと、
小さな15センチ前後のクラゲの群れを見かけ、思いがけない遊泳に見惚れたりし、
私達は船長に絶賛した言葉を重ね、歓声をあげたりした・・。

そして、本命である八戸穴の青き洞窟にさっぱ船が入ると、
海の色合いはエメラルド・グリーンから急激にコバルト・グリーンに変貌した。
淡い青色、青色、蒼色は、海上から射しこむ陽光、潮の満ち干と海面の深さ、
そして周囲の岩の部分にある鉱物などで変貌するので、
そのひとときに大きく変貌する。

このような情景は幾数億の歳月を得て初めて観られる光景であり、
私達はまぎれない美景に魅了され、
この日の30日の今回の午後2時半過ぎ、翌日の31日は朝の8時15分過ぎ、
そして1日には午後2時過ぎ、4時半近い最終と、
四回ばかり乗船して、それぞれの変貌する情景を眺めたりした。

この間、私達は2日目の31日に、さっぱ船に乗船した後、
モーター・ボートで『ウミネコ・コース』で、宮古周辺の三陸海岸の美景を眺めたりしたが、
私達はマリンハウスのスタッフと談笑を重ねたりした。

私は乗船後、パラソルの下で、焼きツブを食べたり、煙草を喫ったりし、
缶ビールを幾たびか呑んだりし、
映画の『太陽がいっぱい』よりも、遥かな美麗でやすらぎのある処、
と賞賛したりした。
家内は近くの海岸沿いの遊歩道で、カッパエビセンでカモメ、ウミネコとたわむれていた。

そして秋になると、この周辺はハマギクで一面彩(いろど)る、
と私は教えられたりした。


マリンハウスのある浄土ヶ浜の中の浜から、奥浄土ヶ浜までの海岸沿いには、
遊歩道があり、整備された道を私達は毎日歩いた。
右側を浄土ヶ浜の島々を眺め、海風を受け心地よく、
ハワイのワイキキ海岸よりも遥かに美麗である、と私は家内に云ったりした。

奥浄土ヶ浜は、白い岩山が幾数千年の波によって侵食された岩のかけらが浜に打ち上げられ、
やがて波間に洗われて、白い小さな玉石のように変貌して、
あたり一面は浄化された白い彩(いろど)りとなっていた。
そして、前方に浄土ヶ浜の島々が連なり、
白い浜、白い岩山も風波さらわれ奇岩の島となったり、中には松が幾重にも観られ、
稀に美麗な情景となっていた。

旅行案内書の『上撰の旅 北東北』(昭文社)の解説文をお借りすれば、
《・・
三陸海岸を代表する景勝地でもある浄土ヶ浜は、宮古湾の入口にある美しい海岸。
沖には飛び石状に岩がつらなり、まるでは箱庭を思わせるような海岸美を見せている。
(略)
手前には白い玉砂利が広がり、青い海とのコントラストが美しい。

浄土ヶ浜の名は1683(天和3)年に、宮古の常安寺の僧侶、霊鏡が発見し、
「さながら浄土のようだ」
と賞辞したことから由来するという。
(略)
・・》
と解説されている。

私は最初にこの本に掲載された情景を見た時、
中世の作庭家たちは、このような情景を観ながら、石庭を創りはじめたのだろう、
と思ったりした。


私は付近にあるレストハウスのエアコンの冷風の中で、
ビールを呑みながら、と燦燦と照りつける奥浄土ヶ浜の光景を見つめたり、
このレストハウスの3階の展望台から、家内と共に眺め、ため息を重ねたりした。

そして、レストハウスの駐車場の外れにある歌碑を読んだりした。

宮沢賢治氏が、1917(大正6)年に於いて、
花巻町の有志による東海岸視察団に加わり、工場見学と地質調査を目的とした途上、

  うるわしの 海のビロード
  昆布らは
  寂光のはまに 敷かれひかりぬ

と詠んだ一首があった。

このような歌と古来からの情景を私は重ねたりし、
この奥浄土ヶ浜の美麗を眺めたり、たっぱ船のあるマリンハウスまでの遊歩道を、
さわやかな海風、陽射しを受けたりして、私達は幾たびか歩いた。

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海の匂い潮の香り《4》  北海道へは、船で訪れ・・。

2012-05-24 07:59:46 | 旅のあれこれ
私が高校時代の修学旅行で、初めて北海道を訪れたのは1962(昭和37)年の6月のだった。
この時に上野駅から夜行列車に乗り、翌朝に青森駅から青函連絡船に乗り継いで、
函館が観えた時の光景は忘れない。

私は北海道が何となく、心身ともに波長があうので、
その後も家内と幾たびか行ったが、感情より利便性を優先して全て飛行機を利用してきた。

ある北海道に住む敬愛している著名人の方が、
あるエッセイで船便で来道するのが最良です、
といったような綴りを20年前の頃に読んだりした。

そして確か10年前の頃に、雑誌の『サライ』で、国内航路のフェリーの特集記事があった。

この中には、新潟港から小樽港が紹介され、
特等A個室でテラス付きの記事が綴られていた。

私の定年退職となる2004〈平成16〉年の秋、
この部屋を取って北海道に行き、適当に周遊した旅をしょう、
と私たち夫婦は退職記念旅行と決めた。

そして私の定年退職の直前に、
入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、ちょっと慌しくなったので、
退職記念旅行は延期とした。

この後、一年を過ぎた頃に、ある旅行会社の小冊誌が郵送され、
この中の企画に団体観光ツアーでこの航路を利用し、
ランクアップすればこの船室が取れる、旅行プランがあったので、申し込んだ。

4泊5日の団体観光ツアーであり、東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、
この港からフェリー船で小樽港に向かい1泊しながら、
翌日の早朝に小樽港に着く。

小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。

翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。

翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。

夕暮れの札幌駅より『北斗星号』を乗車し、宿泊しながら上野駅に到着する。

このような日程であった。


新潟港を10時30分に離れた『らいらっく号』は、翌朝の4時10分に小樽港をめざして出港した。

私たちはランクアップした専用のテラス付きの特等A個室は、
船体から海に出たような形で、予期した以上に広い6畳ぐらいのテラスであった。
夕食はデイナー付きであったので、
昼食を私はラーメンとビールにし、家内はサンドイッチにした。

そして部屋に戻った後、私はテラスに下り立ち、
日中のひととき日本海の雲の間に晴れ間が果てしなく広がっている情景を眺めながら、
簡易椅子に座り、ゆっくりとビールを呑んだりした。
そしてこうした贅沢の時を過ごせるのは、年金生活の特権かしら、と心の中で微笑んだりした。

こうした満足な時を一時間ばかり過ごした後、少し眠くなってしまった・・。
今朝、東京駅7時12分発の新幹線に乗る為、 集合時間は6時半であったので、
我が家を早朝に、タクシーで新宿駅に向かった。
その後は、新宿駅より中央線の始発近い電車で東京駅に到着し、
自動販売機でコーヒー缶を買い求めて、待機していたのであった。

この後、私はベットにもぐり、まどろんだ後に寝付いたりした。
そして目覚めた後、午後4時過ぎに、大浴場で身体をさっぱりさせた後は、
喫煙室で煙草を喫っていたら、数多くのトラックのドライバーに会ったりした。

もとよりフェリー船であるので、彼らは業務で休息のひとときで、
楽しげに話し合っているのに、やはり働いている現役の諸兄は溌剌としているので、
私は中小業の民間会社で奮戦してきた体験があるので、好感したりした。


ディナーの際、イタリアン料理だったので、
小樽ワインの辛口を注文し、家内と呑みながら談笑したりして食事をしたりした。
こうした旅先の夕食も私たち夫婦は、長年楽しんできた。
そして齢を重ねるたびに、食べ物に多少のこだわりを持つのは、
多くの人が経験するのだろう、と思ったりした。

部屋に戻り、夜の海を眺めた。
月の光の帯が、遠方から波間を通して、
あたかもテラスに向かって部屋に差し込んでいるように思えた。

その後しばらくすると、月は空高く昇ると、海上の一辺に月の光の溜(た)まり場となり、
この範囲に月の光を寄せ集めていた。


早朝の四時になると、小樽港の街の灯りが煌々と観えて来た。

フェリーは予定通り4時10分に接岸した。
港内はコンテナのトラックが100台前後あり、日本海の海上航路の要所であることを現していた。

私たち一行は、5時15分に下船し、待機していた観光バスで祝津にある食堂に向かう。

この後は、ほぼ予定通りに周遊した。

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海の匂い潮の香り《3》  高校の修学旅行で初めて青函連絡船に乗船して

2012-05-23 07:00:47 | 旅のあれこれ
私が初めて北海道に行ったのは、
高校時代の修学旅行で確か1962(昭和37)年の6月の頃だったと思われる。

上野駅から夜行列車で青森駅に着いた後、青函連絡船に乗船し、函館から12泊13日間の概要一周であったが、
経費節約と若き悪戯ざかりの高校生であった為か、
車中泊が道内移動も兼ねた3日ほどあったので、体力テストのようだった、とおぼろげに記憶している。

この時の周遊は定かでないが、今でも鮮明に覚えているのは、
夕方に上野駅から夜行列車に乗車し、普通座席に座りながら、少し眠っただけで翌朝に青森駅に着いた後、
長い通路を歩いた後、青函連絡船に乗船した。

津軽海峡の波は荒く、蒼い波間を見たり、船は少し揺られたりしていたが、
初めての大きな船に乗船した高(たか)ぶりか、酔うことも忘れ、
友人たちとデッキから海を見ながら、談笑を重ねたりしていた。

確か乗船時間は4時間ぐらいであったと思われるが、
彼方に北海道の函館の街が観えた時、
北海道だ、やっと着いた、
と私たちは勝手に言葉を重ねたりして、歓声を上げたりした。

この当時は高校生が、北海道の修学旅行の場合は、
都心から夕方に夜行列車に乗車して、普通座席に座り、翌朝に青森駅に到着し、
青函連絡船に乗船して、昼前後に北海道の道南の函館港に到着するのが、
普通のケースであった。

その後、10数年後には航空機の時代となり、
やがて青函連絡船の定期航路も廃路となった。

そして殆どの方は、航空機で北海道の旅となったので、
私たちの時代は、遠い北国の北海道が実感できたのである。

こうした実感できたことは心の片隅に長く残り、
私は定年退職した2004〈平成16〉年の翌年に、
新潟港から日本海をフェリーに乗船して、翌朝に北海道の小樽港に到着する旅をしたりした。

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海の匂い潮の香り《2》  私が高校1年生で初めての独り旅をし、乗船した時の思い

2012-05-22 07:30:58 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として生を受けたのは、
昭和19(1944)年の秋であった。

長兄、次兄に続いて私は生まれたのであるが、
祖父、父は三番目は女の子を期待していたらしく、幼児ながら私は感じ取り、
いじけた可愛らしくない言動が多かった。

その上、兄ふたりは学校の成績も優等生で、
私は地元の小学、中学校の学業は、私だけが通信簿『3』と『2』の多い劣等生であった。
『お兄さんのふたりは・・優秀だったのに・・』
と先生から通信簿を頂くたびに、ため息まじりで私に言ったりした。

この間、父が小学校2年の時に病死され、祖父も翌年に亡くなり、
大黒柱ふたりを亡くした生家は、その後やむなく農業をとりやめ、
母はアパート経営などで生計をし、私たちは育った。

こうした中で、私は小学3年生ぐらいから、独りで映画館に行き、
映画作品に熱中したり、群れをなして行動するのは苦手で、
何かと独りで行動することが多かった・・。

昭和35(1960)年の春、私は兄ふたりの影響のない都心の私立の高校に入学して、
突然に学業が楽しくなり、クラスの中で初めて上位グループのひとりとなり、
読書などに目覚めた時であった。


このような高校1年の夏休みの時、初めて独りで旅行に思い立った・・。

夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆七島の中のひとつの伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。
そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。

このプランは、ご近所の旅行会社に勤めていた方から立案して頂き、
クーポン券のような周遊券を持ちながら、予約済の観光ルートめぐる旅であった。


私は旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、伊豆大島行きに乗船した。

確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。

この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒していたのでボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごした。

岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、
少し不安げに私は見つめていた。

私は午前中に大島の観光バスで半日周遊観光をした後、
午後、元町港から下田港行きの定期航路の観光船に乗り、
そして下田の観光旅館に予約済みであった。


このような思いがあったので、高波警戒の注意報が気になり、
うつろな思いで、初めての伊豆大島の情景を車窓から眺めていた。

半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、
と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、と内心うろたえたのである。

しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、
熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。

私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。


空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、
私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、
私は心身爽快な心となった・・。

この当時は、俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であったせいか、
海に魅了される人たちの思いも解かったような心情となった。


わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだのである。

この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。


下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、
という思いが強く、安堵したのである。

夕食の時、和服を召した綺麗な若き女性の仲居さんが、
『何か・・お飲みものは・・』
と私は訊(き)かれ、
『・・サイダー・・お願い・・』
と私は若き仲居さんに少し見惚(みと)れながら、
不馴れな浴衣姿で照れながら言ったりした。

この後の周遊は、予定通り順調であった。


私は16歳をまもなく迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。

この当時の私は、もとよりビールの味も知らず、
和服を召した若き仲居さんに、綺麗な女の人、と感じながらも、
うっとりと恥ずかしげに見つめるだけの少年であった。

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