夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

昨夜の私は、この世で一番許せないと感じた男は・・。

2009-10-31 16:36:11 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
民間の中小業に35年ばかり勤め、サラリーマンを卒業した男である。

日頃は官民の汚職、官庁の天下り、政界の不祥事などは、
余りにも心の節度のない人、と思いながら苦笑している小心者である。

昨夜、NHKのニュースをぼんやりと見ていたが、
おとなしい私さえ、怒りを覚え、手が震えたのである・・。

この後、ネットのニュースを検索して、状況、原因を確認したのである。

時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】に於いて、
このニュースが掲載されていたので、無断であるが転載させて頂く。

《・・

  電車内で痴漢後、トイレで乱暴=女高生に、容疑の男逮捕-警視庁

電車内で女子高生に痴漢した上、ホームで脅して公衆トイレに連れ込み、乱暴したとして、
警視庁捜査1課と新宿署は30日、強姦(ごうかん)容疑で、
東京都町田市中町、コンピューター関連会社社員別府信哉容疑者(49)を逮捕した。
同課によると、容疑を認めているという。

逮捕容疑は2日午前8時半ごろ、新宿区西新宿の私鉄新宿駅ホーム上で、
都内に住む高校1年の女子生徒(15)の腹を殴り、
「ちょっと来い」などと脅し公衆トイレに連れ込み、乱暴した疑い。

(2009/10/30-18:12)
・・》
注)記事の現行にあえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&rel=j7&k=2009103000932

私は余りに身勝手で卑劣な犯行に怒りを感じ、身震いをしたのである。
そして、被害に遭った女子生徒の身を案じ、これからの身の痛みはもとより、
心の痛みの生涯に残るだろう、と私は悲しみを覚えたのである。

そして、犯行におよんだ男は49歳の会社に勤める男であるので、
たぶん家庭を持たれた男と思い、この家庭の方の悲嘆を重ねたのである。


今朝、私は読売新聞の朝刊を見た限り、このニュースが掲載されていなく、
ただ読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】には、掲載されていた。

《・・
    電車で女子高生を痴漢→腹殴りトイレでわいせつ行為

警視庁は30日、東京都町田市中町2、会社員別府信哉容疑者(49)を強姦(ごうかん)容疑で逮捕した。

発表によると、別府容疑者は10月2日午前8時30分頃、東京都新宿区の新宿駅ホームで、
都内の高校1年の女子生徒(15)の腹を殴るなどして脅し、
約200メートル離れた地下駐車場の男子トイレに連れ込みわいせつな行為をした疑い。

同庁幹部によると、別府容疑者は、
同駅のホームに到着した電車に乗り合わせていたこの女子生徒の下腹部を触るなど痴漢行為もしていた。
調べに対し、容疑を認めたうえで、
「我慢できなくなってやった」と供述しているという。

(2009年10月31日10時47分 読売新聞)
・・》
注)記事の現行にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091031-OYT1T00337.htm?from=main7

私が執拗に2つの記事を転載させて頂いたのは、犯行の状況、動機を確認したかったのである。

そして私は、大手のメディアの多くは、このような卑劣で狂気のような犯行と悲嘆さは、
余り掲載したくない心情の記事かしら、と私は思ったのである。

こうした感情もあり、私はこのサイトを利用して、この後の理性と感情を交えた私なりの心情を発露する。


犯行に及んだ男は、住所も明示されたので、勤めた会社も解雇される。
何よりも、突然の主人の卑劣な犯行に戸惑いながら、収入源を失った家庭は混迷し、
主人は犯行の結果、刑務所に服役され、残された家庭は崩壊のような・・。

日本はもとより法治国家であるので、このような社会的制裁を受けるのは想像できる。


しかし、私は余りにも卑劣な犯行におよんだ男に対しては、感情的に許せないのである。

かって東欧のユーゴスラビアが、民族、宗教などの差異から、分裂し、
略奪、暴行、果ては殺害し合う悲惨な非常時の出来事は、私は涙を流しながら受け止めることができた。

今回の犯行は、平穏な日本の朝の通勤、通学時の出来事なのである。

私は警察の取調べ役であったならば、
犯行の容疑を認めた男に対して、職務上禁止されている思うが、
私はこの犯行の男の利き腕を骨折させてしまい、治療もさせずに、留置場に放置し、しばらく軟禁する。

そして、出来うるならば3日ぐらい水だけ与え、軟禁する。

犯行した男が、人権侵害などど、云ったならば、
『弱いと見た女子生徒に・・「ちょっと来い」と云いながら、腹を蹴り上げた・・
ふざけるなぁ・・』
と私は云いながら、足の一本でも骨折寸前まで、ねじるであろう・・。


午前中のひととき、このように私は妄想したのである。



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我が家は、自動車を所有することなく早や33年となり・・。

2009-10-31 10:49:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
雑木の多い小庭の百坪足らず敷地に古惚けた一軒屋に住み、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけの家庭である。

現役時代の民間会社に勤めていた頃、昨今の年金生活の今でも、
何かの話の間で、我が家は自動車がないょ、と私が云ったりすると、
どうして・・、と多くの方が驚かれることが多いのである。


若き独身時代に実家にいた時は、実家の自動車で人並みにドライブなどをした。

その後、結婚し千葉県の江戸川沿いの賃貸マンションに住み、
京成腺の『国府台』駅から歩いて5分程だったが、いずれは自動車が必要かしら、
と漠然と思ったりしていた。

そして2年後に、実家の近くに今住んでいる一軒屋を建て、
若さの勢いで茶室も家の中で設けて、予想以上の住宅と関連ローンの返済となり、
自動車のことなどは考える余裕がなかったのである。

その後、やはり自動車を持つ事も少し考えたが、
多くのサラリーマンと同様に勤務実態は、激務で合ったので、
ドライブをすることを思っても、二週間に一回程度しか想像が出来なかった。


こうした時、私が会社に行っている時は、我が家にセールスマンが来宅した。
『トヨペットですか・・』
とセールスマンが明るく大きな声で玄関に向かい云った。

家内は玄関の横にある洗面所の窓を少し開けて、
『なに屋さんですか・・』
と家内は云ったのである。

私が帰宅後、この話を家内から聞いたのである。
『貴方、可笑しいのよ・・
そのトヨペットの方、黙ってお辞儀をした後・・帰られたわよ・・』
と家内は私に云ったのである。

『その人・・トヨタの乗用車のセールスマンだょ・・』
と私は家内に云った。
そして私は、
『そのセールスマン、びっくりしていなかった・・』
と私は家内に訊(きい)たのである。

『少しばかり困ったような顔をして・・お辞儀をして帰ったわ・・』
と家内は微笑みながら、私に云ったのである。

家内は茶事は少し知っているが、自動車に関してはまったく無知であることを、
私の方も改めて知り、苦笑したりしたのである。


その後、私が40歳を過ぎた頃、自動車の購入の検討も考えたが、
バス停まで5分ほどの我が家は、通勤先の六本木、買物のデパートの新宿など、
一時間以内で行けるのである。
結果として、維持費と利用度を配慮すると、必要な時にはタクシー、ハイヤーなどを利用の方が安上がりとなり、
自動車の購入は断念したのである。


私は定年退職後のまもなく時、長きの期間のペーパー・ドライバーだった私は、
自動車免許書の更新を辞めたのである。
齢を重ね、判断力も鈍り、今頃から再び自動車を運転して、人身事故を起こした場合、
私の残された人生が狂うからである。

今の私は散策が好きで、帰路に我が家の付近の住宅街も歩いているが、
殆どのお宅で自動車を所有しているのに、改めて驚かされる。
私と同様に高齢者の宅が多く、ご年配方は何より歩くことが健康である、
と昨今の風潮も聞いたりしている。

そして地方の郊外であったならば、当然として自動車は日常生活に必要不可欠であるが、
都心の近い我が家の周辺は、もとより公共交通機関の利便性に恵まれているので、
60、70代の身で事故を起こさなければよいが、と余計な事も思ったりしている。



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我が人生、ほろ苦(にが)く切ない青年時代は・・。

2009-10-30 19:25:57 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昼下がりのひととき、庭のテラスに下り立ち、ほんやりと私の青年時代の頃が思い出されたのである・・。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたのである。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたのである。


このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=hzNZzMGeRQs
☆【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】☆






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愛惜ある懐かしき我が家の黒電話は・・。

2009-10-30 10:00:02 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私が定年退職した2004(平成16)年の秋まで、我が家は黒電話であった。

その直後、退職後の色々な手続きなどもある中で、
銀行の残高照会にしても、インターネット関係のプロバイダーの問い合わせをする際、
『一番から四番の・・何番を押して下さい』
と言われても、ダイアル式ては対応出来なかったのである。

やむえずプシュホンの電話機に代えた。

プシュホンの場合、親子機にあったのを導入した。
家内は、この子機を戸惑いながらもマスターしたが、私はいまだにおぼつかない。

私が現役サラリーマンの時代は、1970年代が終る頃は、職場などではプシュホンの電話機であり、
一般の家庭に於いては1980年代の半(なか)ば頃まで殆どプシュホンの電話機に変貌した。

この頃、悪友たちと居酒屋に行ったりし、何か気まずい話になると、
『俺の家・・まだ黒電話なんだ・・』
と私は云ったら、
『嘘だろう・・本当かょ・・』
と悪友の数人が私の顔を改めて見ながら、云われたりしたのである。
この後、お互いに和気藹々となり、談笑となったのである。

その後、定年退職後、やっとプシュホンの電話機とした後、
インターネットの回線に於いて、地元のケーブルテレビ回線から光ファイバーに変えた際、
電話回線もひかり電話とした。

たった1年で黒電話からひかり電話になったのは、単なるなりゆきである、と微苦笑したのである。

ただ、少しばかり寂しい気がしたのである。
何かしら黒電話のダイヤルを廻す時、相手方にこう話そうかと考え、
戻り時の感覚、状況が私達夫婦は好きである。


私の好きなセルジオ・レオーネ監督が映画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』1984(昭和59)年の完全版に於いて、
男主人公が友人を密告する際、ダイヤル式の電話機が使われていた。

友が連邦銀行を襲うとする時、友の女から、殺されるのは決まっているから、
やめさせて、・・と依頼され、
主人公が警察に密告する電話のシーンであった。
ためらいながら、ダイヤルを廻す、その後の呼び出す音・・。

このように長らく世界から愛用されたダイヤル式の電話機が捨てられ、
安易にプシュホンの電話機に変えられた社会風潮に、少しばかりわだかまりがあったりしたのである。


我が家の取り外された黒電話機は、居間の棚の片隅に、ちょこんと載せている。
何かしら私達夫婦を30年近く見守ってきたので、心の形見と思いながら、ときおり私は見たりしている。

尚、我が家は子供に恵まれなかったので、我が家は夫婦2人だけの家庭である上、
私の現役サラリーマンの最後の5年間は、物流情報会社に出向となり、
職場では携帯電話を使用することのない勤務状況であったので、携帯電話は無知となったのである。

昨今の年金生活に於いても、携帯電話に興味がなく、
もとより携帯電話の使い方も知らないが、不自由することなく今日まで至っている。

そして新聞に添付されるチラシの一部に、ときおり携帯電話の各社の広告が入るが、
他の世界の出来事と思い古紙専用箱に入れている。



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『kotobank ことばんく』に、私は思わず微笑んで・・。

2009-10-29 20:53:33 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の6年生の65歳の身であるが、
久しぶりに昼寝をした後、洗面しても、ぼんやりとしていた。

この後、いつものようにネットを開き私のトップページは【Yahoo! JAPAN】で設定しているが、
ニュースの『トピックス』欄を見ていたら、

ぼんやりと見ていたら、上段に、

《 首相 思いやり予算削減を検討 》

と明記されていたので、私は詳細を知りたく、クイックしたのである。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/us_armed_forces_in_japan/?1256804679
思いやり予算、削減を検討=鳩山首相「透明性を確保」-衆院代表質問


私は読みながら、鳩山首相も多忙の分刻みのスケージュルで重責をこなしているが、
国民から鳩山首相の支持率が低下し、混迷となれば、真の権力者の小沢一郎氏から首相の座を解任されるから、
何かと大変なのだ、思ったりした。

この後、何気なしに下段を見たら、

《 ◇思いやり予算とは
    ・ 思いやり予算とは - kotobank
                   ・・》

このような用語解説のようなことが明示されていたので、クイックして、
読んだりしたのである。

http://kotobank.jp/word/%E6%80%9D%E3%81%84%E3%82%84%E3%82%8A%E4%BA%88%E7%AE%97
思いやり予算【おもいやりよさん】

そして、左上を何気なし見たら、
検索欄として、調べたい言葉を入力してください、と優しく明示されていたのである。

私は戯(たわむ)れとし、この時節は・・つるべ落とし、かと、と思いながら、
入力したのである。

http://kotobank.jp/search/result?q=%E3%81%A4%E3%82%8B%E3%81%B9%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97&x=29&y=15
つるべ落とし


この画面を見ていたら、
《・・

【「つるべ落とし」に関連する用語を選ぶ】
とか
【「つるべ落とし」に近い用語を選ぶ】

・・》

しばらく私は読んで、これくらい明示されれば、私のパソコンの横に置いている国語辞典、歳時記辞典より、
手軽に活用できるので便利かしら、
と微笑んだりしたのである。

この後、私の悪い癖で、昨今の風潮として死語に近い『はじらい』、『謙虚』、『黒髪』、『妖艶』などを入力して、
30分ばかり微苦笑したのである。



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はしだのりひことシューベルツの『風』、若き天才たちの残された歌・・♪

2009-10-29 00:18:20 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、家内と共に遅い昼食を頂いた後、
家内は独りで台所でラジオを掛けながら、皿洗いなどをしていた。

私は午前中のひととき、秋日和の中、スーパーに二軒ばかり買物を終えて、
昼食を頂いた後だったので、
居間でのんびりと主庭の秋めいた雑木を眺めたりした。
昼下がりの陽射しが燦燦の樹木の枝葉を照らし、時が止まったように静寂なひとときであった。

こうしている時、台所のラジオから流れてくる歌に耳を傾けたのである。


♪人は誰も ただ一人旅に出て
 人は誰も ふるさとを振りかえる

【『風』 作詞・北山修、作曲・端田宣彦、唄・はしだのりひことシューベルツ 】


私は年金生活の65歳の身であるが、
ときおり、この歌を聴くたびに、この歌がヒットした1969(昭和44)年の頃を思い出される・・。

この頃の私は、東京オリンピックが開催された年に大学を中退し、
映画、文学青年の真似事に彷徨(さまよ)った後、
コンピュータの専門学校で一年間を学んでいた時期である。
何とか技術を習得した上で、民間会社に中途入社をしょうとした時であった。

この歌が街に流れていたのを何気なし最初に聴いた印象は、
うまく人生を切取った歌と感心しながらも、
作詞、作曲をされた両氏が20代の前半で私と同世代あったことに、驚いたのである。


♪ちょっぴり淋しくて 振りかえっても
 そこにはただ風が 吹いているだけ
    人は誰も 人生につまずいて
    人は誰も 夢破れ振りかえる

【『風』 作詞・北山修、作曲・端田宣彦、唄・はしだのりひことシューベルツ 】

その後、私は1970(昭和45)年の春、何とか民間会社に中途入社するのであるが、
この歌の背景に関して、この時になって遅ればせながら知った時である。

1963(昭和43)年に、ザ・フォーク・クルセダーズの北山修、端田宣典、加藤和彦の3人で
作られた桁外れの異色の『帰って来たヨッパライ』が、空前の大ヒットをし、多くの大人たちも驚かせた。

この中のひとりの端田宣彦が作曲として、この歌以前の19歳の時に初めて作曲された歌が『風』であった。

そして、この歌の作曲を終えた後に、北山修が作詞された上て、
端田宣彦(はしだのりひこ)が越智友嗣、杉田二郎、井上博の3人と共に結成したのが、
世に知られた『はしだのりひことシューベルツ』であり、、大ヒットした歌である。

人生に於ける40代の半(なか)ばで、過ぎ去った人生を返りみる表現は、
どの世界の作品に数多くみられるが、
20代の前半で作詞・北山修、作曲・端田宣彦の両氏は、
まぎれない天才という賞賛の言葉が相応(ふさわ)しい、と思ったりした。

この私なりの評価は、40年過ぎた今でも、決して変わらないのである。



http://www.youtube.com/watch?v=4UaiSsD6ByM
☆【『風』 作詞・北山修、作曲・端田宣彦、唄・はしだのりひことシューベルツ 】☆


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このサイトに、投稿文を綴るとき・・♪

2009-10-28 15:52:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
2004(平成16)年の秋に民間会社を定年退職してまもない時、
ブログの世界を知ったのである。

そしてブログの中ではポータルサイト系の【Yahoo! ブログ】、【エキサイトブログ】、【gooブログ】、
【livedoor Blog】、【楽天広場ブログ】、【はてなダイアリー】等、
プロバイダ系として【ココログ】、【ブログ人】、【ウェブリブログ】等があり、
或いはブログに準じた簡素なサイトも数多くある。

私が四つばかり彷徨(さまよ)いながら加入した後、
ブログに準じたサイトは【goo簡単ホームページ】と、
一時中断したことがあったがブログサイトとして【gooブログ】とした。

その後、2007(平成19)年の秋に【goo簡単ホームページ】が閉鎖となり、
私はこれまでの投稿分が移動できる【OCN Cafe】に加入させて頂き、
今日に至っている。

このように【gooブログ】に於いては、
《 年金青年のたわむれ記』 ~かりそめ草紙~ 》、と題したタイトルを掲げて、
発信名は『夢逢人』としている。

【OCN Cafe】の方は、
《 風、そして光のように 》、と題したタイトルを掲げて、
発信名は『風と光』としている。


そして私は定年退職後の年金生活を過ごしているので、ともすれば身過ぎ世過ぎの日常となりながら、
日々に感じたこと、思考、或いは思索していることをあふれた思いを心の発露となり、
真摯に、ときには楽しく綴ったりしているが、各分野のさまざまな投稿内容と成っている。

【OCN Cafe】の場合は、音楽、旅、その時の思いなどで、あとで振り返った時、
当人の私さえ戸惑うことがある。

こうした思いもあり、最初の3年間は、完全な二刀流の文章を投稿したのであるが、
体力も衰えたので、一本化としたのである。

そして、昨年の5月前後に、【gooブログ】のブログの特性を利用し、
これまで四つのブログ系に書き散らしてきたが、集約と整理したのである。

カテゴリー別機能を活用して、再設定し、
『定年後の思い』、『食べ物、お酒』、『読書、小説・随筆』、
『真摯に『文学』を思考する時』、『小庭の情景を眺めながら』、『映画・テレビ 』、
『音楽』、『旅』 、『旅のあれこれ』、『我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。』、
『幼年・少年時代の想いで』、『青年時代の想いで』、『現役サラリーマン時代の想いで』、
『時事【団塊の世代】』、『時事【社会】』、『時事【政治・経済】』、
『『大人の童話』~掌(たなごころ)小説~』の投稿内容に応じて区分としたのである。


こうした背景もさることながら、肝要の投稿文に関しては、
私は旅行などで外出している時、パソコンの故障を例外として、
まもなく丸5年近くになるが、毎日投稿し、朝夕の時もあるので、3000通は超えている。

投稿する時は、なるべく改行を多くしている。
ブログの文体は、論文、小説などと違い、お読み頂く場合は携帯電話は無知であるが、
パソコンの画面を想定して、読みやすさを意識して綴っている。

そして内容としては、日記形式の時もあれば、随筆風に綴ったりしている。

日記形式に綴る時は、案外気楽であるが、文章の質が落ちるので、
なるべく随筆風に綴れるよう注意をしている。

この場合、投稿内容が直ぐに決まることもあれば、中々決まらず苦慮することがある。

ときたま、香気ある文体を綴れた時は好いが、こうしたことは何時も綴れるわけにはいかない。

拙(つたな)い脳裏を働かすが、感性に乏しいせいか、言葉が舞いおりてこなく、
やむえなく修行の積み重ねに頼るしかない。

いずれにしても文を綴ることは、幾つになっても苦慮することがある。

しかしながら、これまでの私の半生は屈折の多い人生であり、
敗者復活戦のような思いもあり、せめて残された人生は、この世に生を受け生きた証(あかし)として、
たったひとつの歴然とした随筆を遺(のこ)したく、散文修行しているので、
今後も苦楽を重ねながら、心の発露を綴ろうと思っている。



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改めて、私の小学生時代の愛唱歌は『越後獅子の唄』 ・・。

2009-10-28 07:26:52 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この当時は京王線の各駅の前は商店街があったが、
駅より5分離れると殆ど田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私の生家は農家で、祖父、父が中心となって程ほど広い田畑を小作人に助けられ耕し、
竹林、雑木林などを維持管理していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

こうした中で、小学二年の時に父が病死し、祖父も小学三年に亡くなり、
農家の要である大黒柱を失った我が家は没落しはじめた。

私はこの頃、ラジオから流れていた歌をうつろに覚え、私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、私は映画を観ることが何よりも好きであったので、
母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもで40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。

こうした折に、たまたま映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖に、ときたま怒り出すと周囲が驚き退散されたりしたので、
伊豆七島のひとつ伊豆大島のそびえる三原山の活火山からの命名されたのであった。


そして確か私が小学5年になる頃、小学校の音楽室に都心の学校より遅ればせながらピアノが導入されて、
何かしら女の子達はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

我が家でも妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

こうして私達兄妹の小学校時代の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等性であった。


私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。


今の私達の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

尚、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃を被り、中古業者に引き取られた。


http://www.youtube.com/watch?v=5bqCBOTBpv0

☆【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】☆





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私は一週間前に、年金生活6年生に進級し・・。

2009-10-27 18:06:32 | 定年後の思い
私は民間会社のサラリーマンを定年退職して、一週間前に丸5年が過ぎて、
6年目となった。

私は東京オリンピックが開催された年に大学を中退したのは二十歳の時であった。
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事する為であり、
4年ばかり過ごし、根拠のない自信にあふれていたが、もとより先行きの見えない生活を過ごしていたが、
自身の30代の頃を浮かべると妻子を養う確固たる自信がなく断念した。

そして安定したサラリーマンになる為、軌道修正し、
1969(昭和44)年の春、コンピュータの専門学校でソフト科を一年間学んだ後、
これを梃子にして、ある大手の民間会社に何とか中途入社ができたのは、
1970(昭和45)年の春で、私が25歳であり、遅い社会人のスタートであった。

入社してまもない時、音楽の大手のレーベルが独立会社となり、私はこの独立したレコード会社に転籍となった。
まもなく私は本社でコンピュータの専任者となり、それなりに孤軍奮闘をした。

こうして情報畑を20年過ぎた後、管理畑、営業畑など異動し通期30年過ぎた頃、
この前後に業界の各社でリストラが実施され、会社間の合併、部署の解消や合同、
早期退職優遇制度などで退社する方、そして数多くの人事異動、出向などがあった。

まもなく私は出向の打診があった時は、
私なりに入社時から定年の60歳まで勤め、それなりの人生設計があったので、
出向の物流情報会社に5年間を勤めて、定年退職を迎えたのである。


私達夫婦が定年後の生活設計を本格的に話し合ったのは、私の出向時の55歳の時であった。
私達は子供に恵まれなかったので、2人だけの家庭であり、
もとより老後の生活、そして片割れになった時の状況を配慮し、
お互いの要望をまじえて話し合ったのである。

結論から云えば、私は定年退職後から年金生活とし、
お互いの趣味を尊重し、共通趣味の国内旅行をすることとしたのである。

生活の基盤の日常生活は年金支給でまかない、
そして国内旅行、冠婚葬祭などは程ほどの貯金から取り崩すのが基本としている。

ただ、厚生年金の当初は、私は昭和19年9月生まれであり、
厚生年金の一部である報酬比例部分で2年間で過ごすので、
62歳からの通常支給額のほぼ半額となるので、このことを配慮したのである。

こうした定年退職を迎えるまで間、出向元のレコード会社でも、
たびたびリストラを大幅に実施され、先輩、同僚、後輩が止む得ず退社されたり、人事異動をされたりした。

出向先の物流情報会社でも、リストラが実施されていたので、
私なりに民間会社のサラリーマンの痛みを解っているひとりである。

定年退職後、サラリーマン生活を35年ばかり過ごしたことになるが、
改めて多くの方にめぐり逢え、多々教示されたりし、
或いは自分の軌跡と照らし合わせながら、懐かしく充実した歳月だった、と想っている。


定年退職の直前に家内の父が死去したので、葬儀などの関連と、
私の退職の手続き、程々の金融資産に伴い銀行、郵便局の各所に行ったりして、慌しい日々が続いた。

家内の父の四十九日で納骨を済ませ、
家内の母と3人で、墓地の近くの温泉地に3泊4日で観光ホテルに滞在した折、
のんびりと周辺を散策した時、
こんなに日中気ままに過ごしてよいのかしら、と少し後ろめいたような感じをしていた。

12月の下旬、家内と土湯温泉に3泊4日で滞在した時、
歳末に近く何かと慌しい世間を見ながら、私達はゆったりと時を過ごした・・。

こうして、サラリーマンの多忙だった時間帯の生活から、心身吹っ切れた、と感じたりした。


肝要の私の年金生活のことであるが、
半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は、生きた証(あかし)として、
念願の清貧の数寄者をめざし、
これに伴い、言葉による表現、読書、そして思索の時間としている。

幸いに定年後にブログの世界を知り、おぼつかないWebの技量と若き頃の感性を蘇(よみがえ)させながら、
散文を綴り、投稿をはじめたのである・・。

これ以降の私なりの生活状況はもとより、日々に感じたこと、思索していることなど、
余すことなく心の発露として、このサイトに綴っているので、省略する。



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朝のまばゆい陽射しに向かい、思わず手を合わせ・・。

2009-10-27 08:57:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
去る金曜日の16日から秋雨前線と台風の影響で、小雨が降ったり止んだり日々が続いた・・。
気温も急激に下がり、昨日などは朝の6時は12度、昼下がりは14度、夜の6時頃は14度となり、
ときおり風も吹く12月の上旬のような寒い一日であった。

昨夜、寝付く前に地元の天気情報を見たら、
明日の午前中は曇り、午後より回復して晴れ間となります、と報じられていた。

今朝、目覚めたのは7時であり、私は寝室から飛び出して、
1階の居間に下り立った。

家内は洗濯機を働かせている間、早くも部屋の掃除を始めていた・・。

まばゆい朝の陽射しが燦燦と居間に照らしていたので、私は主庭のテラスに下り立った。

雲ひとつない澄み切った青空を見上げたり、
雑木の枝葉にたわわな雨粒が陽射しを受けたきらめいたり、
地表の黒土はしっとりとして、私は陽射しを受けながら見惚(みとれ)れていた。
そして思わず陽射しに向かい、手をあわせて、天上の気候の神々に感謝をしたのである。

この後、居間に戻り、地元の天気情報を視聴したのである。

朝の6時は14度、昼下がりは22度前後、夜の6時頃は19度前後で、
秋晴れの一日で、洗濯、買物、散策も良いでしょう・・。
これからの一週間は晴れ間の日が続きますので、秋日和に恵まれた日々を大切にしましょう、
このように私には聴こえたのである。

私はもとより買物の専任者の身であるので、近くのスーパー、駅前のスーパーに出かけたり、
秋日和の中、散策で秋の色づいた情景に心を寄せたり、
そして庭の手入れも最適かしら、と心の中で小躍(こおど)りしたのである。




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蛍族の私が、戸惑う時は・・。

2009-10-26 16:42:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
先程、玄関の軒下で煙草を喫いながら、玄関庭の小雨が降り、ときおり風が吹く情景を眺めていた・・。

花梨(カリン)の枝葉が揺れると、大きくなり少し色づいた50ぐらい実も揺れ、
地上に三つばかりの実が落下して折、私は微苦笑したりしたのである。
この大きくなった実も初秋の頃は、百ぐらいはあったが、今後の晩秋の収穫時期は、
たぶん30ぐらいと思え、過酷なリストラで選別される人と同じかしら、と思いながら、
現役時代の終わりの5年間、出向となった私は苦笑したのである。

このようなことを思ったりしている時、強く風が舞い、私の肩付近に雨粒で濡れて、
蛍族は雨や風の強い時は困るよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。


この後の私は、日本の社会で一軒屋とかマンションのベランダなどで夜のひとときに、
煙草を喫ったりしている人達を蛍族と命名されたのは、
何時頃の時だったか、と想いだしている・・。

記憶が定かでないけれど、平成の初めての頃だったと思ったりしている。

環境問題が社会の問題となり、室内の空気はクリーンにと叫ばれ、
愛煙家は止む得ず、居間から出て、夜のベランダに出て、
煙草を喫いはじめ、夜の闇に光を帯びる蛍(ホタル)からの連想で、
こうした人々を蛍族と命名したのであろう・・。


私は定年退職後の5年生の身であるが、
二十歳の少し前より煙草をこよなく愛しているひとりである。

現役時代のサラリーマンだった最後の10年前頃からは、職場で禁煙となり、
所定の喫煙場所などで煙草に火を点(つ)けて、愛煙家達の懇親の場所となったりしていた。

私が蛍族の一員に加わったのは、以前綴ったことがあるが、
定年退職の直後、自宅の居間に置いてあるパソコンの脇に、煎茶と灰皿をお盆に入れて、
電子メールなどを盛んに送受信をしていた。

退職後の私は趣味時間で過ごしたかったので、自宅で大半過ごして折、
居間はたちまち煙草の煙が充満し、換気の為に窓ガラスの戸を開け閉めをしたりしていた。

晩秋の時節であったので、暖房の季節もまじかに迫(せま)って折、
室内の換気と暖房の相関のことなどを考えて上、
さすがに何時でも煙草が喫える環境下は身体によくない、と判断した結果、
室内禁煙を家内に宣言し、これ以降は主庭のテラス、樹木の下、そして玄関庭の軒下などで煙草を喫いはじめた・・。

この結果、室内の空気もクリーンとなった上、煙草の本数も減り、苦笑したりした。

師走の大掃除に家内の指示の基に、私なりに多少お手伝いをした時、
『あらぁ・・汚れが少ないわ・・』
と家内は私に言ったりしていた。

私は四季折々、雑木の多い庭の樹木を眺めたり、草花を眺め、
季節の移ろいを教示させられり、或いは少しぼんやりと考え事ったりし
煙草を喫ったりしているのである。

こうした時、何よりも困るのは台風の影響などで風は舞い雨は降る時である。

私は煙草を喫いながら、ゆっくりと喫えないじゃないの、戸惑いながら、
早めに退散をしたりしているのである。


尚、私は外出する時は携帯の灰皿を必ず持ち、
所定の喫煙場所がない所では、人混みから離れ少なくとも10メートル前後の所で、
時代だよ・・、と心中で呟(つぶや)いたりしながら、煙草に火を点(つ)けたりしている。



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旅客機が目的地を通過、240キロ飛行した後、無事に目的空港に着陸・・!?

2009-10-26 15:07:20 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ていたら、少しばかり驚いた記事を読んだのである。

《 旅客機が目的地を通過、240キロ飛行 米ミネアポリス 》

と題された記事で、CNNが配信された記事であり、無断であるが、転載させて頂く。

《・・
ワシントン(CNN) 
米運輸安全委員会(NTSB)によると、
ミネソタ州ミネアポリス・セントポール国際空港に21日夜到着する予定だった国内線の旅客機が着陸前に交信を絶ち、
同空港を通過してさらに240キロ飛行を続ける騒ぎがあった。

旅客機はその後、無事同空港へ引き返したものの、
米運輸安全委員会(NTSB)は、操縦士らの居眠りなどが原因だった可能性もある、とみて調査に乗り出した。

発表によると、問題の旅客機は、
今春デルタ航空の傘下に入ったノースウエスト航空の188便(エアバスA320型)。
乗客147人を乗せカリフォルニア州サンディエゴを出発したが、
ミネアポリス到着の前から約1時間にわたって交信が途絶えた。

情報筋によると、管制室には「ハイジャックか」と緊張が走り、
米軍戦闘機が待機する騒ぎになったという。

同機はミネアポリス空港の上空を通過し、さらに北東方向へ飛び続けたが、
約16分後に交信が復活した。

米運輸安全委員会(NTSB)によると、
乗員らは「航空会社の方針をめぐる議論が白熱し、状況認識ができなかった」と説明している。

米運輸安全委員会(NTSB)は乗員らに詳しく事情を聴き、
操縦室での会話などが記録されたボイスレコーダーなどを分析する方針。

ノースウェスト航空は22日、米運輸安全委員会(NTSB)などに協力するとともに内部調査も実施するとの声明を発表した。

10月23日16時24分配信 CNN.co.jp
・・》
注)記事の原文にあえて改行等を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091023-00000012-cnn-int


私はここ10数年、世界の航空業界の熾烈な競争で多くの航空会社が合併されたり、
或いは過酷なリストラが行われてきたとニュースなど読んだりしてきた。

これに伴い、パイロット、機関士の方たちも、従来のような待遇から一変した処遇、
そして勤務体制となっていると思われる。

このした中で、安全第一が何よりの優先される航空業界も、利用客にとっては今回の事件は驚かされたであろう。

第一、目的空港が近づき、やれやれと感じている時に、
着陸態勢ならず目的空港を通過してしまうのである。

その上、何とか目的空港に戻って着陸した後、米軍戦闘機が待機する状景を観た時は、
更に驚かせられた・・
このように私は想像させられてしまうのである。


私は国内旅行が好きで、ときおり国内空路を利用する時がある。
こうした時は、殆ど旅行会社の企画に魅せられて行くが、航空会社の選択はないのである。

こうした時、殆どは全日空、日本航空であるが、
数年前、日本航空が不祥事をたびたび起こしているとニュースなどで知ると、
できたら日本航空に乗りたくない、心情なるのである。

航空機は、電車、高速バス、フェリー船と大きく違うのは、空を飛ぶのである。

万一、事故になった時は、電車、高速バス、フェリー船の場合は飛び降りることも想定できるが、
航空機の場合は、いくら体力が衰え気力ばかりある私でも勘弁を願いたいのである。

それだけ航空業界は、利用客にたえず安全第一を徹底された上で、
初めてサービスの料金、時間、接客などが問われる業種なので、
今回のアメリカで発生した事件を日本の航空業界の関係者は注視して頂きたいのである。



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東京郊外は、秋日和の日々の後、急激に冷たい雨の降る日々となり・・。

2009-10-26 10:12:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
台風の影響か冷たい雨の朝を迎え、どうしてなの、と空を見つめたりした・・。

私の住む地域に於いては、秋日和の日が一週間ばかり過ぎた後、
一昨日から曇り空となり、小雨が降ったり止んだりしている日が続いている。

秋日和の続いた日は、朝の6時は14度前後、昼下がりは24度前後、夜の6時頃は20度前後で、
秋晴れの日中のひととき、買物に行ったり、秋めいた情景の中で散策を重ねてきた。

この後、一昨日はどんよりとした曇り空なり、午後3時過ぎから小雨が降ったり止んだりしたのである。


昨日は朝の6時は12度前後、昼下がりは14度前後、夜の6時頃は15度前後で、
雨が降り続け、ときおり止む寒い日中となった。

私は家内に声を掛けて、我が家の冬支度をしたのである。

奥の物入れの小部屋から、ガスファンヒーターを2台だし、居間と奥の六畳に設置したりした。

そして、奥の収容棚から、冬用の厚手のナイト・ガウンを取り出したりした後、
家内は寝室の布団の電気敷き毛布を敷いたりしたのである。

急激に肌寒い日中であり、我が家の平素より早めの夜の時間帯とし、
私は夕方の5時過ぎに風呂に入った後、冬用のパジャマの上にナイト・ガウンを着たりしたのである。

夕食を七時前に終わり、私はぼんやりと居間のパソコンの前にいたのであるが、
暖かな布団で本を読んでいた方が良いと思い、寝室に行き、布団にもぐり込んだのである。

横にいる家内は、NHKの連続時代劇の『天地人』を視聴しているが、
私は暖かな電気敷き毛布の入った布団の中、本を読んでいた方が百倍楽しいと読んでいたのであるが、
9時過ぎには熟睡していたのである。

今朝、目覚めたのは午前3時過ぎであったが、
雨が本降りとなっていたので、再び布団にもぐり、うつらうつら眠り、
朝の七時過ぎに起きだしたのである。

この後、地元の天気情報をパソコンで確認したら、
朝の6時は14度、昼下がりは15度前後、夜の6時頃は15度前後、雨の降る一日です、
と報じていた。

私は横並びの寒い一日かょ、と思いながら平年の12月上旬のような日かしら、
と思ったりした。


こうして居間にあるパソコンの前で綴っているが、
ガスファンヒーターの温風で、家内が干しているピンク色、黄緑色、白色のタオルが揺れ、
私は小雨が降りしきる主庭を眺めたりし、微苦笑している。




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やはり鳩山首相は、生まれてこのかた生活の苦労もされず、配慮も足りないお坊ちゃま・・。

2009-10-25 13:47:49 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
午前中のひとときに、このサイトに於いて、
【日本シリーズ、『日ハム』4勝2勝で『巨人』を破り日本一の栄誉に、と予感を感じて・・。】
と題して、苦手なプロ野球の日本選手権の思いを投稿した後、
少しばかり不愉快のニュースを読んだのである。

時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】があるが、この中の記事のひとつとして、

《 巨人にだけ祝福コメント=鳩山首相 》

と題された記事である。

無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・
タイを訪問中の鳩山由紀夫首相は24日夜、
プロ野球のセ・リーグで巨人がクライマックスシリーズを制し、日本シリーズに進出したことについて、
祝福のコメントを文書で発表した。

一方、パ・リーグからシリーズ進出を決めた日本ハムへのコメントはなし。

現職の首相が対戦を控えた球団の一方に肩入れすることには疑問の声が上がりそうだ。

首相は巨人の優勝について
「心からお祝い申し上げる。
チームが一丸となって激戦を勝ち抜いた姿に、私を含め多くのスポーツファンが感動した。
日本シリーズでのさらなるご活躍を期待している」
とコメントした。

(2009/10/24-23:40)
・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2009102400382


私はこの記事を読んで、
鳩山首相は生まれてこのかた生活の苦労もされず、配慮も足りないお坊ちゃま、
と日頃の言動から感じていたのであるが、今回は更に深めたのである。

この鳩山首相は衆議院に所属し、肝要の選挙区は北海道の室蘭市を中核とした地域の九区である。
今回の選挙区で有権者の41万人前後の中で、『鳩山由紀夫』と記入されて20万強が投票されたのである。

父上様の郷里で自身は東京生まれの東京育ちの身で、
たまたま父上様の郷里が北海道の室蘭市を中核とした地域の九区であり、
便宜上立候補し、当選を重ねているとしても、
やはり、北海道『日本ハム』の祝福コメントを寄せるべきである。

鳩山首相は、たかがプロ野球のことといえ、ご自身の選挙区は、
北海道の室蘭市を中核とした地域のことが心の片隅にあったならば、
このような配慮の足らないコメントにならなかった、と呆れているのである・・。


もとより国家の首相となれば、重責で多忙な日々であるので、
せめて5日前後の休暇が取れた時は、室蘭市を中核とした地域に訪れて、市民の人たちと
農作業を数日されて、地方の疲弊実態を自ら体験して貰うことが、
何より肝要なことかしら、と私は妄想をしている。




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日本シリーズ、『日ハム』4勝2勝で『巨人』を破り日本一の栄誉に、と予感を感じて・・。

2009-10-25 10:05:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
今朝、読売新聞を読んでいたら、スボーツ面のプロ野球の記事を読み、思わず微笑んだのである・・。

この記事と同一のような記事が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されていたので、
転載させて頂く。

《 日本シリーズは巨人VS日本ハム…31日決戦へ 》

という見出しで、記事は下記のように報じられている。

《・・
プロ野球のクライマックスシリーズ(CS)第2ステージ(6試合制)は24日、第4戦が行われ、
セントラル・リーグでは、リーグ3連覇の読売巨人軍が8―2で同2位の中日ドラゴンズを破って4勝1敗(1勝のアドバンテージを含む)とし、
2年連続32度目の日本シリーズ進出を決めた。

パシフィック・リーグでも、リーグ優勝の北海道日本ハムファイターズが9―4で同2位の東北楽天ゴールデンイーグルスを下し、
対戦成績4勝1敗(同)で、2年ぶり5度目(東映時代を含む)の日本シリーズ進出を決めた。

同シリーズは31日に札幌ドームで開幕する。

(2009年10月25日00時53分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20091025-OYT1T00117.htm


私はプロ野球をテレビ観戦をしたりするのは、昨今は年に10試合前後で、
まして試合会場でプロ野球を観戦したのは若き35歳頃までは、後楽園球場、明治神宮球場で通算10試合程度である。

このようにプロ野球ファン以下の余りにもつたない身であるが、
最近、少しばかりクライマックスシリーズ(CS)をテレビ観戦をしたのであるが、
今回、日本一の頂上決戦を『日本ハム』対『巨人』で行われが、
私は恋の予感のような感じで、『日本ハム』は4勝し、『巨人』は健闘しながらも2勝できれば良い方である、と感じたのである。

このような結果であったならば、、日本ハムは対戦成績4勝2敗で、
札幌ドームで梨田監督の胴上げが観られ、
特に北海道にお住まいのファンの方たちの歓喜が妄想できたのである。


私は『日本ハム』と『巨人』の球団、チーム構成から感じることは、
路地、畑のような農地で育成される農作物、温室に育成される農作物、
或いは道内に咲く野花、都心にある園芸店の花束、
このような思いで、感じ取っているのである。

私は東京郊外の調布市にに住み、結婚前後5年を除き、60年ばかり生活しているが、
私は農家の三男坊として生を受け、小学低学年まで農家の児として育てられたが、
父が病死し、祖父も亡くなったので、生家は衰退し、一時は生活に困窮した時代もあったりした。

このような私の幼年期の劣等感もあるせいか、『巨人』の球史を振り返れば、
読売グループの豊富な資金より、余りにも露骨な選手の補強を、少なくともここ40年は行ってきているので、
私は険悪しているのである。

もとより『読売巨人軍』は、読売新聞社の子会社で、新聞拡売の宣伝部隊であり、
たえずプロ野球に関し、日本一の栄冠の至上命令を受ける球団であるが、
全国のプロ野球ファンを配慮する時、心の節度を欠いている。

このような心情があるので、私は『巨人』のチームには好きになれないのである。

日本ハムの現状の野球選手に関して、ダルビュシュ投手、稲葉選手はスーパー・スターであるが、
残りの選手は一流選手程度ぐらいに思え、長距離バッターも少なく、
他球団の多くに見られるスーパー・スターが少ないと感じ取っている。

しかし、今年もペナントレースを制し、優勝したのである。
塁を進める『つなぐ野球』と評論家の多くは指摘されているので、
私なりに視聴していると、まさに全員が塁を進める攻撃に徹している、
と感じられたのである。
私は札幌ドームを満員にした観客、何よりも各選手へのひとりひとりの声援がすごく、
こうした熱気に支えられて、決して派手でない塁を進めることに徹した結果、
他球団よりも勝利試合が多い、と感じている。

その上、もとより各球団がホームグランドで試合すれば、それなりに応援凄いが、
私は『日本ハム』の北海道の人々から圧倒的な熱気を感じたのである。


今回、私は日本ハムが何故4勝2敗で日本一の栄冠に輝くかの根拠であるが、
私はたまたまレコード会社の管理畑であったが、35年ばかり勤めた体験から、
音楽情報誌のひとつに『オリコン』の週刊誌がある。

小泉今日子という著名人がいるが、遠い昔、デビュー寸前に六人の新人という紹介記事があった。
私はこの中で、この小泉今日子が飛びぬけた大スターになるよ、と断言したのである。

ここ10数年前の浜崎あゆみのデビュー寸前の時も、同じであった。

私は他社の専属の方の小泉今日子、浜崎あゆみのデビュー直前であっても、
六人前後の明日のスターの中で、たまたま的中したのである。
このお2人は、六人の新人中で、圧倒的に目の輝きが違う、と私は感じ取ったのである・・。

このようなささやかな体験があるので、私には『目の輝き』のある選手は、
圧倒的に日本ハムの各選手から感じられたのである。
しかし、私は年金生活の今、読書とこのサイトに綴るのが好きで、目の疲れを感じることもあり、
その上に齢も重ね、少しボケた身なので、無念ながら確信できないのである、

従って、巨人ファンの方たちは失望は早く、11月上旬に天上の神々が結果を明確にして下さるから、
その時に私は改めて綴り、投稿する。



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