夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

夏の季節を迎えた今、高齢者の私でも、かぼそい声で思わず唄ってしまう歌は・・。

2013-07-31 14:09:28 | 定年後の思い
私は私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり、
民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたり、或いは川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、
ときには小学校、中学校の時代に通学した旧街道を歩いたりしながら、
季節のうつろいを享受している。

こうした時は、周囲の情景を視(みた)りして、時節のうつろう情況に、
圧倒的に魅せられて、歩き廻ったりしている。

このような時、ときには苦楽の激しかった現役時代を思いだしたり、
これからの予定に思いを馳せたりしているのが大半であるが、
ときには思わずかぼそい声で唄ってしまう歌もあり、又は心の中で唄うこともある。
          
年金生活の今、過ぎし夏の季節に於いて、私が唄ったり、或いは心の中で唄ってしまった曲は、
と先程ぼんやりと思い馳せたりした。

私は幼年期から人前で唄うことは苦手で、現役時代のサラリーマンの時は、
カラオケなどに誘われた時は、やむなく付き合い程度に唄ったりした。

もとより歌手の徳永英明さんのように透明感あるシルキー・ヴォイスで、
圧倒的な歌唱力の声量で唄えるには程遠い上、楽譜も読めなく、楽器も弾けない私なので、
せめて心を込めて、唄う程度である。

私は夏の季節の歌で即時に浮かべるのは、
『長崎の鐘』サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲/昭和24年
『少年時代』井上陽水・作詞、作曲/平成2年
『さとうきび畑』寺島尚彦・作詞、作曲/昭和42年
『夏の思い出』江間章子・作詞、中田喜直・作曲/昭和24年
『浜辺の歌』林古渓・作詞、成田為三・作曲/大正5年
このような名曲を思い馳せたりしている。
               

この中のひとつとして、帰省のニュースがテレビなどで報じられると、
『少年時代』の歌に思いを重ねてしまう。

もとより『少年時代』の歌は、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた名曲である。
私はこの歌を最初に聴いた時は、私は下記のような情景を思い重ねたりした・・。

若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。

この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。

私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
こうした中で、数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。

私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむなく業界から去っていたりした苦い時代でもあった。

こうした思いのある私は、散策して人影のない遊歩道なとで、
かぼそい声で唄ったり、ときには心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。
               

昨日、散策した時、思わず、♪海の青さに 空の青・・と唄ったりした。
http://www.youtube.com/watch?v=rUCFh4kFoBE
☆【YouTube】『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男、唄・前里 秀美 】

この歌は、私たち夫婦が初めて沖縄に旅をした時、私は50代であったが、
最も魅了され、ときには涙を浮かべる時もある歌である。
          
私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。

日本が戦争で敗退する中で、本土の各地は空襲などがある中で、
国土の地上戦は沖縄地域だけ行われ、こうした中で中学・高校の生徒は軍人の後方支援、
そして住民の老幼まで戦禍の中、避難される最も過酷な状況だった、と学んできた私は、
          
                  ☆私が秘かに『美ら海桔梗』と名付けたベンガル・ヤハズ・カズラの花☆
『芭蕉布』の歌は、幾世代かの歳月を得て初めて浄化できる鎮魂曲のように思え、
そしてこの地方の特有の風土と共に『芭蕉布』の歌を重ねてしまうのである。

このような思いを秘めた私、『少年時代』そして『芭蕉布』を夏の時は、
かぼそい声で唄ったり、ときには心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしていることもある。

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ブログの投稿文、メールなどの入力は、ひたすらキー・ボードを信愛して早や44年・・。

2013-07-30 15:04:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり、
恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えない身であるが、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
これ以来はパソコンの故障、国内旅行に行く以外は、日々貫徹のような思いで毎日投稿している。

現在、私が愛用しているパソコンは、ディスクトップの固定型であり、
キー・ボードでブログの投稿文、電子メール、ネット検索などの入力をしている。
          

私が初めてコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、1969(昭和44)年の4月であった。
東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがて敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
コンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学び始めた時であった。

この当時は、パソコンはなく、ノート型の端末機もなく、
汎用のコンピュータに連動させたディスク・トップを端末機として使用していた。

私たち生徒は、概要の処理過程の流れ図(フロー・チャート)を作成した後、
詳細のプログラムを専用シートに書き、
ディスク・トップに向かい、不慣れな現在使用されているJIS規格のキー・ボートに打ち込んだりした・・。

この当時は、漢字、ひらがなの表示はない時代であり、
もっぱら英数字だけの時代であったので、覚束ない手で殆ど一本指で入力していた。
                    

その後、1970(昭和45)年4月に、この当時は大手の映像・音響メーカーの民間会社に何とか中途入社できた後、
まもなくこの会社の中で、音楽事業本部の中の一部の大きなレーベルがレコード会社として独立し、
私も新たなるレコード会社に転属させられた。

そして翌年の1971(昭和46)年1月に、本社のコンピュータ専任者として配属され、
システムの開発、運営などを元所属していた会社の音楽事業本部のシステムを活用させて頂きながら管理していた。

そして委託処理をしていたIBMの大きなデータセンターで、
月次作業の時に出向き、端末機のディスク・トップに向かい修正データなどを打ち込んだりしていた。

この後、元所属していた大手の映像・音響メーカーの情報センターに、処理を委託したりした、

この間に、パソコンが世の中に出始めて、確か1982(昭和57)年の頃であったと思われるが、
私もNECのPC8801を購入し、フロッピー・ディスク装置、プリンター、
そして漢字対応させる為に漢字ロムを付加させたりした。

この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私の収入からして高価なパソコン・セットであった。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、新古今和歌集を入力したりしていた。
          
この後、1983(昭和58)年からは、すべて自社処理となり、
この当時に流行ったオフィス・コンピュータを導入して、
コンピュータ・ルームの端に端末機のディスク・トップ型、ノート型を配置し、
開発、部分改定のプログラムを思考しながら入力したりしていた。

この時、右手にポール・ペンを握り、いつでもメモ書きができるように、
キー・インは殆ど右手の中指を使っていたのである。
そして運営の処理の指示書、データ入力をしていた・・。

このオフィス・コンピュータは、この当時の頃から漢字、ひらがなを表示でき、
もとより漢字対応のプリンターの時代となっていた。

そして住所マスターの追加・訂正などの入力方法は、『ひらがな』で、単漢字の方式であった。
たとえば・・・盛岡市の場合、
『さかり』とかで入力して、幾つかの漢字が羅列表示されて、この中から選ぶ。
そして次の『おか』とかで入力して・・
いずれにしても昨今のように、『もりおかし』と一度で表示ができなかった時代であった。

私は、この時の『ひらがな』固定方式を習得してしまい、
この後に『ローマ字』方式も可能となったが、単細胞の私は転進できず、今日に至っている。
               
この間、世の中はワープロが普及していたので、
私も購入し、会社で文書を作成したり、自宅で年賀状などに利用し、やはり入力方法は『ひらがな』であった。

やがて20年ばかり情報畑から管理畑に異動させられた私は、
机上に配置されたノート型の端末機に、適時に入力したり、検索したりしていた。

或いは私が新たに買い求めたノート・パソコンを開き、表計算ソフトを活用して資料を作成したりしていた。


やがて2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
まもなくブログの世界を知り、殆ど毎日ブログの投稿文を綴っている。

そして恥ずかしながら、相変わらず『ひらがな』入力で、
殆ど右手の中指で投稿文を入力しているが、キー・ボードに触れて44年が過ぎ、
『ひらがな』入力で、30年が過ぎているので、程ほどに早いかしら、と微苦笑したりしている。
               
この間、1995〈平成7〉年の頃から、世の中は携帯電話が普及し始めた中、
電子メールを打ち込んでいる若き男女を見かけたりしてきた。
私はあのような小さく、わずかなキーを変換させて、よく入力できるなぁ、と感心したりした。

その後に、多くの50、60代の女性も、たどたどしい指先で、この携帯電話に
メールを打ち込んでいる情況を私は見かけたりすると、微苦笑を重ねてきた・・。


私は昨今、ブログの投稿文を綴っている時、脳裏から言葉が舞い降りてこない時もあり、
思案しながら散文らしき投稿文を書き散らかしているが、
殆ど一本指を頼りにキー・ボードで入力したりしている。
               
このような情況の時、過ぎし3日前、亡き歌手の岸 洋子(きし・ようこ)さんを思い浮かび、
確か 『一本指のシンフォニー』の歌があったなぁ、と思い馳せてしまった。
私はこの岸 洋子さんの歌唱力に魅せられて、
私の勤めていた会社とは他社契約の方であったが、この当時はレコード、カセットの時代であり、
3枚ばかり私は買い求めたりし、心酔していた。

そして岸 洋子さんを体調を崩されて、病み上がりでリサイタルを日生劇場で開催された時、
私も退社後に駆けつけて、鑑賞しながら心震(ふる)わせ、圧倒的に感銘を受けたひとりである・・。

この後、このライブ盤『ラスト・ライブ! 岸 洋子リサイタル’91』が他社から発売されて、
私も幾たびか愛聴していたことも思い重ねてしまった。

この中の一曲として、『一本指のシンフォニー』の歌があり、
ピアノを両手の指で上手に弾けないけれど、たった一本の指で奏でる・・
このような主旨であったことを私は記憶している。

私は無念ながら所有しているレコードからは紹介できる技量も機種もなく.
やむなく【YouTube】にすがり、この名曲を投稿された方に感謝をしながら、掲載させて頂く。
http://www.youtube.com/watch?v=4iHBUEYhX6o
☆【YouTube】<==岸洋子リサイタル'79 歌手生活20周年記念より
                         <==『一本指のシンフォニー』☆

このような曲に思いを重ねたりして、 私も殆ど一本の指で、『ひらがな』入力ながら、
若き日より感性も衰えたのかしら、と私は溜息をしたりして投稿文を重ねている・・。


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ブログ匿名が多い中でも、個人が判明してもやむえない、と私は微苦笑して・・。

2013-07-29 12:17:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、いつものように購読している読売新聞の朝刊を読み、
3面の【総合】面の『社説』のひとつには『ビックデータ』と題された記事が掲載され、
ここ3年ぐらい何かと社会に圧倒的に影響のあるビックデータのことであり、私は読んだりした・・。

この内容と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
掲載されていたので、転載させて頂く。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20130728-OYT1T00924.htm?from=ylist
☆読売新聞7月29日朝刊 社説 <==『ビッグデータ』
                    <== 『宝の情報を適切に活用したい』☆

このような日本の社会の現状に対しての提言は、私は正鵠な提言、と感じた。

この中で私は注視させられたのは、《個人情報の保護》である。
          
私は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えない身であり、
日本国内のソーシャル・ネットワーキング・サービスの有力なミクシィ、グリー、
そしてここ数年、世界の各国で急増しているフェイスブックも無縁であり、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。

そして友達、知人、親戚、近所の人たちと交流を深めることのできるソーシャル・ユーティリティと称されることに対し、
実際に逢ったりして、或いは手紙の代わりに電子メールで送発信するか、固定電話で話し合えばよい、
と時流に残されたひとりでもある。
               

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職した2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
その直後から年金生活をしている。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
         
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
          
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
定年後の年金生活を始めてまもない時、ブログの世界を学び、
これ以来、このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
                         
ブログサービスの多くは、匿名制度が多く、無料で利用できる。
私の加入してきた4つも匿名であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している、
と確信を深めたりしてきた。


私は8年に及び日々に感じたこと、思考したことなどを書き散らかしているので、
匿名といえども、情報分析者から見れば、私個人のことは簡単に判明する、と思われる。

ブログを運営して下さる会社は、加入した方に無料ですることが多い中、
もとより慈善事業でなく民間の会社であるので、
ブログ上のインターネット広告により、広告収入を収益を得て運営されている、と私は思っている。

そして広告収入を高く得る為に、できる限り多くのユーザー数を獲得した上、
数多くの投稿文がサイト上に常時あることが望ましく、
ページの閲覧数(ページビュー)をどれだけ多く獲得できるか、収益の基本とされている、
と私はぼんやりと推察できる。
               
その上、市場調査を前提とする主要なそれぞれの民間会社は、
多くの方のブログの投稿文の中に記載された無限大とも思われる情報の中、願いや実態を収集分析する為に、
ブログ運営会社より買い求めることは、容易に想像できる。

ブログ運営会社すれば、《第三者に提供する際も本人の同意は要らない》に基づき、
主要なそれぞれの民間会社に売却して、収支の安定を図る、と私は想像している。

こうしたことは、私が加入している『gooブログ』のブログの運営会社はもとより、
私に加入しているブログランキングを公表をしている会社の『にほんブログ村』、『人気ブログランキング』も同様と思われる。


このような関係で、私の書き散らかした8000前後の投稿文より、
私の生年月、出自(しゅつじ)、学歴の概要、職歴の概要、家族・親族はもとより、
昨今の趣向、言動、思想までが明晰となる。
          
私はブログの投稿文を綴ることの内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった、
               
次兄が自営業の資金繰りに失敗し、睡眠薬を多量に飲み自裁し、
この当時の私は住宅ローン返済で苦慮していたので、次兄から無力と感じとられて何の役にも立てずにいた・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

こうした出来事のことは、小心者の私としては匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。
          
このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名した。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。

こうした思いもあるので、今回の《個人情報の保護》の問題で、
ブロクの匿名制度下で、《第三者に提供する際も本人の同意は要らない》に基づき、
私自身のことが判明してもやむえない、と思ったりしている。

しかしながら、フェイスブックのように写真、プロフィール、知人関係などを公表することには、
著名人の名で収益している人と違い、小心者の私はためらい控えているのが本音である。

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東日本大震災の半年前、三陸海岸の『浄土ヶ浜』の情景を思い馳せて・・。

2013-07-28 14:39:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、いつものように購読している読売新聞の朝刊を読み、
日曜版の定例特集の片隅に『星のお願い』という宇月田麻裕(うつきた・まひろ)氏による
今週の占い(7月28日から8月3日)が掲載されていて、
齢ばかり重ねた私でも、たわむれに私は読んだりした。

私は『てんびん座』な属するので、この欄をこっそりと読んだりした・・。
《 すてきな思い出作りができる週。
     旅行にはカメラやビデオを忘れずに持って・・》
と記載されていて、読み終わった後、苦笑したりした。

私は暑さに苦手な身であるし、学童が夏休みの期間は旅行先でも人が多くなり、
できる限り何かと国内旅行の好きな私たち夫婦は、夏の期間は敬遠してきた。

この後、ぼんやりと定年後の年金生活の中で、夏季の時節で・・旅行をしたのは、
と過ぎ去りしの年を思いめぐらして、私の机の中にある年代別の簡素なカレンダーを見たりした。

やがて、2010(平成22)年の夏の終りの8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』に3連泊、
その後に盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に連泊、
と書かれていた。

そして翌年の2011年3月11日に東日本大震災で、巨大な津波が発生して、
宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』も大災害となり、
無力な私は動顚して、この地の悲惨な状況をテレビなどで見ながら、涙ぐんだりしたが、
たまたま私たちは、それ以前の半年前の『浄土ヶ浜』に訪れた。
          
東京駅から東北新幹線を利用して、盛岡駅に下り立った私たち夫婦は、
山田線の快速『リアス』で、2時間ばかり乗車し、海沿いの宮古駅を下り立ったのは午後1時過ぎであった。
夏空の快晴の中、30数度の熱さと感じたのであったが、
ホテルからの送迎バスが待機して下さり、私たちは乗車した。

車窓から市街を眺めた後、つづら道の道路の周辺は、
圧倒的に多い赤松の中、ときおり海の景観が観られた・・。

翌日、赤松は南部赤松(ナンブ・アカマツ)と知るのであるが、
このような広大な一帯の中に『浄土ヶ浜パークホテル』があり、
前方の南部赤松の枝越しの下方に、海に面した浄土ヶ浜が観え、高台の丘陵の先端に建つ景観の良いホテルであった。
          
海上から見上げると、数多くの南部赤松があり、その中でそれぞれの広葉樹が緑の彩(いろど)りがあり、
丘陵の高台に聳(そび)える情景である。
      
私たちは3泊したが、このような情景を朝夕に眺めたり、
館内の外れにある露天風呂からは、紫陽花(アジサイ)の残り花が見られたりし、
私は微笑んだりした。

たまたま5階の宿泊した部屋から、一角を眺めたりした時、
南部赤松の幹に朝の陽射しを受けて美景を見ていた時に、
浴室の蒸気が下方から立ち昇り、この蒸気が朝の陽射しを受けると、
10色に変貌する虹の情景になり、私たち夫婦は思いがけない美麗に見惚(みと)れたりした。

或いは館内のフロアーの中、高価な横幅の大きな額の扁額(へんがく)には、
確か『高談娯心』と雄渾に毛筆で描かれ、高齢者の私さえ思わず微苦笑させられたりした。

こうした中でも、私は仲居さんからは、
『よく、おでんすた・・』
と云われたりし、よくお越し下さいまして、私でも理解できた。

そして『どうぞ、お休みめん』も、
ゆっくり、お休み下さい、と私は仲居さんの表情としぐさで判ったりし、
私は心の中で微笑んだりした。

もとより方言は、それぞれの地域の文化の基軸である、と私は確信しているひとりである。

リゾート・ホテルのような形態でもあったが、
このようにやすらぎを感じさせる観光ホテルでもあり、
そして親潮と黒潮が交わる宮古の海の幸を、幾たびかり食事で十二分に頂いたりした。


家内は旅立つ二週間前、浄土ヶ浜を観るのに、
陸地、海岸沿いの遊歩道から観たり、海上からこの周辺も眺めるのには遊覧船、モーター・ボートなどで思案していた時、
さっぱ船と称される数人が乗れる小船で、付近の海岸に面した洞窟を観られるサイトを見ていた・・。

私は家内に教えられ、特に『青い洞窟 さっぱ船』のコーナーを見たりし、
『いいでしょう・・素敵な処みたい・・』
と私は家内から教示させられて、私たち夫婦は今回の旅の楽しみのひとつとしていた。

私たち夫婦はホテルにチエックインした初日、小休憩した後、まもなくマリンハウスをめざした・・。
ホテルのはずれの小さな歩道の急坂を下り、赤松に囲まれた中の道路を5分ぐらい下ると、
幾つかの色鮮やかなパラソル、白いテーブル、椅子席が観えた・・。
前方の海上には、浄土ヶ浜の島々が点在する美景であった。
            
この後、私達はさっぱ船の乗船予約した後、黄色い救命具を着て、白いヘルメットを被り、
船長兼観光ガイドさんの下で、さっぱ船に乗り込んだ・・。
さっぱ船からの低い海上の視線から、白き岩山に赤松がある浄土ヶ島どの名島、剣の山などの案内を受けたりした。
その後、八戸穴の周辺に近づくと、
小さな15センチ前後のクラゲの群れを見かけ、思いがけない遊泳に見惚れたりし、
私たちは船長に、絶賛した言葉を重ね、歓声をあげたりした・・。

そして、本命である八戸穴の青き洞窟にさっぱ船が入ると、
海の色合いはエメラルド・グリーンから急激にコバルト・グリーンに変貌した。
淡い青色、青色、蒼色は、海上から射しこむ陽光、潮の満ち干と海面の深さ、
そして周囲の岩の部分にある鉱物などで変貌するので、そのひとときに大きく変貌する。
        
このような情景は幾数億の歳月を得て初めて観られる光景であり、
私たちは、まぎれない美景に魅了され、
この日の30日の今回の午後2時半過ぎ、翌日の31日は朝の8時15分過ぎ、
そして1日には午後2時過ぎ、4時半近い最終と、四回ばかり乗船して、それぞれの変貌する情景を眺めたりした。

この間、私たちは2日目の31日に、さっぱ船に乗船した後、
モーター・ボートで『ウミネコ・コース』に乗船して、乗客は私たち夫婦だけであったが、
宮古周辺の三陸海岸の美景を眺めたりしり、
そして私たちはマリンハウスのスタッフと談笑を重ねたりした。

私は乗船後、パラソルの下で、焼きツブを食べたり、煙草を喫ったりし、
缶ビールを幾たびか呑んだりし、
映画の『太陽がいっぱい』の海岸シーンよりも、遥かな美麗でやすらぎのある処、と賞賛したりした。
家内は近くの海岸沿いの遊歩道で、カッパエビセンでカモメ、ウミネコとたわむれていた。

そして秋になると、この周辺はハマギクで一面彩(いろど)る、と私は教えられたりした。


マリンハウスのある浄土ヶ浜の中の浜から、奥浄土ヶ浜までの海岸沿いには、
遊歩道があり、整備された道を私たちは毎日歩いた・・。
右側に視える浄土ヶ浜の島々を眺め、海風を受け心地よく、
ハワイのワイキキ海岸よりも遥かに美麗である、と私は家内に云ったりした。
          
奥浄土ヶ浜は、白い岩山が幾数千年の波によって侵食された岩のかけらが浜に打ち上げられ、
やがて波間に洗われて、白い小さな玉石のように変貌して、
あたり一面は浄化された白い彩(いろど)りとなっていた。
          
そして、前方に浄土ヶ浜の島々が連なり、
白い浜、白い岩山も風波さらわれ奇岩の島となったり、中には松が幾重にも観られ、
稀に美麗な情景となっていた。
          
旅行案内書の『上撰の旅 北東北』(昭文社)の解説文をお借りすれば、
《・・
三陸海岸を代表する景勝地でもある浄土ヶ浜は、宮古湾の入口にある美しい海岸。
沖には飛び石状に岩がつらなり、まるでは箱庭を思わせるような海岸美を見せている。
(略)
手前には白い玉砂利が広がり、青い海とのコントラストが美しい。

浄土ヶ浜の名は1683(天和3)年に、宮古の常安寺の僧侶、霊鏡が発見し、
「さながら浄土のようだ」
と賞辞したことから由来するという。
(略)
・・》
と解説されている。

私は最初にこの本に掲載された情景を見た時、
中世の作庭家たちは、このような情景を観ながら、石庭を創りはじめたのだろう、
と瞬時に思い重ねたりした。


私は付近にあるレストハウスのエアコンの冷風の中で、
ビールを呑みながら、と燦燦と照りつける奥浄土ヶ浜の光景を見つめたり、
このレストハウスの3階の展望台から、家内と共に眺め、ため息を重ねたりした。
                    
そして、レストハウスの駐車場の外れにある歌碑を読んだりした。

宮沢賢治(みやざわ・けんじ)氏が、1917(大正6)年に於いて、
花巻町の有志による東海岸視察団に加わり、工場見学と地質調査を目的とした途上、
                           
  うるわしの 海のビロード
  昆布らは
  寂光のはまに 敷かれひかりぬ
               
と詠んだ一首があった。

このような歌と古来からの情景を私は重ねたりし、
この奥浄土ヶ浜の美麗を眺めたり、たっぱ船のあるマリンハウスまでの遊歩道を、
さわやかな海風、陽射しを受けたりして、私たちは幾たびか歩いた。
          

このような旅路を私は思い馳せ、あの限りなく美しい情景は果たして・・と思い重ねたりした。

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年金生活の夫婦だけの家庭でも、時折『ひとりを愉しむ』時を過ごし・・。

2013-07-27 13:39:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

そして年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、
決意して実行してきたことがある。
                
具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
         
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。

私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、気の許せる悪友と居酒屋で談笑をしながら呑んだり、
或いは家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
このブログのサイトに毎日投稿し、生きがいのひとつとなっている。
                     

こうした中で私たち夫婦は、週に一度ぐらい駅前に出かけたりして、日常の雑貨品などを買い求めたり、
年に数回はデパートに行ったりしているが、
このような時の私は、家内のボディガードそして荷物持ちのお供のような状態となっている。

こうしたありふれた私たち夫婦の年金生活に於いて、
ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と社交辞令のような言葉を頂いたりしている。

私たち夫婦は38年ばかり寝食を共にした結婚生活の中で、
お互いの欠点に目をつぶり、そして特に定年後の年金生活になると、お互いの趣味を尊重し、
それぞれの時間を『ひとりを愉しむ』時を過ごしている。

こうした私たちの根底には、こうした生活がいつまでも続けば良い、と思ったりしているが、
いずれのどちらかは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
強く思いの趣味を持てば、残された方の『おひとりさま』の生活は少しでも心がやすらぐ、と思ったりしている。
                         

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の2004〈平成16〉年の秋の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、早や8年が過ぎている・・。
               
家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市(旧・高田市)に里帰りし、同期の人たちと交流を深めたりしている。
そして83歳となっている今としては、
身体は衰えても心は溌剌として元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に6泊7日前後で5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

家内の母は一昨年の12月から足腰が衰え、病院の指導で杖(つえ)を使い歩いたりしてきた。
そして介護保険の行政サービスのアドバイスで、
家の中でベット、お風呂場、トイレ、小庭の出入り口などに、手摺(す)りを設置してきた。

そして、これから不要と思われる日常の備品、洋服などは、家内に諭(さと)されながら、
やむなく大幅に処分したりしてきたが、
やはり敗戦後の物不足を体験した家内の母は、いつにか使うの、と躊躇(ためら)い、
母と娘の口論となってしまった、と私は家内から聞き、微苦笑してきた。
              

こうした時、家内は家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の生活となり、『おひとりさま』の特別演習かしら、
と思いながら、気ままな独り住まいをしている。
               
そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行ったりした。

こうした時、作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の『おひとりさま』の劣等生かしら、と苦笑を重ねてたりした。

こうした体験をしてきた私は、『ひとりを愉しむ』期間を幾たびか過ごしてきたが、
やはり長年に及び家内と寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりした。

このようなことで現在の私は、『ひとりを愉しむ』時は毎日のひとときが最適かしら、
と微苦笑したりしている。

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健康寿命こそ何よりも肝要、と高齢者のぐうだらな私でも、ひたすら歩き・・。

2013-07-26 14:59:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、いつものように購読している読売新聞の朝刊を読んでいたら、35面の【社会】面に於いて、
《 女性寿命 2年ぶり世界一》
と大きく見出しされ、私は詳細記事を読んだりした。

《・・厚生労働省は25日、2012年の日本人の平均寿命を発表した。
女性は前年より0・51歳長い86・41歳となり、2年ぶりに長寿世界一に復帰した。

男性は同じく0・50歳延びて79・94歳で、過去最高を更新した。

女性の平均寿命は過去最高だった09年の86・44歳に次ぐ水準。
前年、東日本大震災で死者が増えたことなどから、香港に首位を譲っていた。

男性のトップは80・8歳のアイスランドで、日本は前年の8位から5位に順位を上げた。
同省は「日本人の平均寿命はまだ延びる可能性がある」としている。

平均寿命は、その年に生まれた子供が平均で何歳まで生きるかを予測した数値。
同省は、国連の人口統計年鑑に掲載されている国や地域を対象に、各国政府の最新統計などを基に、国際比較を実施している。・・》

このように掲載され、各国の男女別の平均寿命の高い国別に表も添付され、
私は見終わった後、苦笑してしまった。

私は平均寿命よりは、何よりも健康寿命こそが肝要であると、深く確信しているひとりである。
               
もとより健康寿命は、心身ともに自立し、健康的に生活できる期間、と世界保健機関が提唱して以来、
いかに健康に生活できる期間を伸ばすかに、ここ10数年関心が高まっている状況となっている。

悩ましきは平均寿命と健康寿命との差てあり、衰弱・病気・痴呆などによる介護期間であり、
もとより日常生活に制限のある期間となる。

何かしら厚生労働省の調査に於いて、《・・平成22年において、この差は男性9.13年、女性12.68年・・
今後、平均寿命が延びるにつれてこの差が拡大すれば、健康上の問題だけではなく、
医療費や介護費の増加による家計へのさらなる影響も懸念されます。
健康に配慮する一方で、こうした期間に対する備えも重要になります・・》
と私は学んだりしてきた。
               

私は民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後は川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
              

私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。

もとより高齢者の方は齢を重ねれば、認知症、痴呆症、寝たきりなどの確立は増すし、
私自身は衰えた体力で日常生活のふるまいの中で、確かな言葉を発言しているうちに、
いつの日にかポックリと死ねたらと念願している。

まして自身が意識なく植物人間のようになって、
生き続けるぐらい当人はもとより、家族の人たちまでが不幸であると思っている。

そして私は寝たきりになった場合は、三ヶ月過ぎたら、
意識のあるうちに自裁する、と決意しているひとりである。

このような私自身の人生の中の健康に対する思い、そして死生観の思考があるが、
昨今の会社時代の懇親会などで、
こうした思いを少し上の先輩の方、同僚たちに一部を発言すると、
困惑する方、或いは嫌な顔をされる方が折、
私は世間からかけ離れているのかしら、と思ったりしてきた・・。
                         

このような私なりの深い思い根底にあったが、
偶然に2010年8月下旬の頃に、帯津良一(おびつ・りょういち)氏の雑誌での発言が、
新聞の出版広告で偶然に読み、
この雑誌が女性専用誌の『婦人公論』と知り、私は買い求めて精読した。

この医学博士で病院長の帯津良一(おびつ・りょういち)氏の発言された概要を記載させて頂く。
《・・(略)
私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」
と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、
さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのはせいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、
どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」
という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。
(略)
・・》

このような秘伝を、この後に6つばかり披露して下さったのである。
          
そして私は、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、深く感じて、
これ以降、氏に注視して、信愛を重ねている。

こうした中で2011〈平成23〉年の秋に、
帯津良一・著作の『楽々往生 ~老いを輝かせる12の心得』(ベスト新書)を読んだりした。
               
この本の帯に明記されている『楽々往生のための心得』として、
《 ◎いくつになっても、ときめきをもつ
  ◎「定年」で終わりにしない
  ◎ひとりを愉しむ
  ◎自分なりの「養成法」をもつ
  ◎敗れることも必ず想定に入れる
  ◎できるだけ身軽でいる 》

このように記載されていることを私は格言としている。
(意味合いが想像して、ご理解できない方は、この本をお読みください。)

         
私の家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、歩きながら観える景観に良いし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。
何よりも歩けなくなった時は、もとより自由な時が制約され、何よりも困苦するのは自身だ、
と秘めながら日々歩いている。

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身も心も、私の友のような本のひとつは、『図説 東京樹木探検 』

2013-07-25 12:31:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
この一年ちかく幾たびか何かと開く本があり、微笑みながら読んだりしている。

東京樹木探検隊・著作の『図説 東京樹木探検 』と題されて、
上巻は『都心編』、下巻は『都周緑編』で、2冊の構成となった本で、
河出書房新社より1991(平成3)年3月30日に発刊された美麗な本である。

この2冊の本が、偶然に入手したのは、昨年の晩秋であった。
平素の買い物専任者の私は、最寄りのスーパーに行き、この店の2階の一角で一年に数回、
本のバーケンをしていたので、たまたまこの時も見かけたのである。

ここに置いてある数多くの本は、本屋に陳列されている新刊本と同様に小奇麗であり、
出版社が過剰在庫となり、やむなく専門業者により、放出された数多くの本である、
と私は思ったりしている。
こうした事情で、定価も2割ぐらい廉(やす)くなっている、と感じたりした。

私も高校生の時から読書好きのひとりであるので、このコーナーに立ち寄って、
この中のひとつの『図説 東京樹木探検 』を手に取って、
目次などを見て、瞬時に圧倒的に魅了され買い求めた・・。

『図説 東京樹木探検 』の上巻は『都心編』に於いては、
                  
『皇居周辺』、『日比谷』、『銀座・築地』、『靖国・千鳥ケ淵』、『迎賓館』、『神宮外苑』、『青山通り』、
『小石川植物園』、『本郷通り』、『六義園・旧古川庭園』、『神楽坂』、『新宿御苑』、『明治通り』、『新宿西口』、
『明治神宮』、『代々木公園』、『渋谷界隈・井の頭通り』、『駒場周辺』、『上野公園』、『隅田川』、『清澄通り』、
『自然教育園』、『大円寺・林試の森』が紹介されている。

下巻の『都周緑編』に於いては、
                  
『江東散歩道』、『小岩・善養寺』、『水元公園』、『足立区』、『赤羽台地・飛鳥山』、『高島平』、『光が丘』、
『阿佐ヶ谷界隈』、『和田堀公園』、『善福寺池』、『羽根木公園』、『環七通り』、『世田谷通り』、『芦花恒春園』、
『多摩川』、『洗足池』、『旧芝離宮・浜離宮』、『海岸通り』、『海上公園』、
『井の頭公園』、『玉川上水』、『深大寺』、『多摩霊園』、『小平界隈』、『国立界隈』、『奥多摩果樹並木』、『武蔵陵』
が紹介されている。

この本の著作は、東京樹木探検隊と称されたグループであるが、
この当時1990(平成2)年の東京都にある有数な樹木のある地帯をくまなく紹介し、
そして樹木に関してはこの当時の第一線の都の公園緑地、区の公園課などに勤められている諸氏が、
写真、イラストも添付し、優(やさ)しい視線で、ぬくもりのある描写をしている。

その上に、たとえば『芦花恒春園』の記事に於いても、作家・徳富蘆花が明治後期に都心の青山から、
この地に移住する状況、そして氏の『みみずくのたはごと』の作品の中から採り入れ、
この地の生活状況を樹木を中核に記載されている。

そして『芦花恒春園』の隣接地の成城学園にあるイチョウ、プラタナスの並木も紹介され、
私もこの地域を幾たびか歩いたりしてきたので、解説を読みながら、そうですよねぇ、と同感したりした。


私の今住んでいる処は、東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、
生家も近く、結婚前後の5年を除き、63年ばかり住んできたので、この地域の『里っ児』でもある。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような中間地域となっている。

いずれもバスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙(へんぴ)な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。
                     
私は1944〈昭和19〉年の秋に、農家の三男坊として生を受け、地元の小・中学校を通ったりした。
この本の『深大寺』に於いて、隣接地の『神代植物公園』も紹介されているが、
私が通った地元の神代中学校であったので、『神代植物公園』は付近にあった。

この当時は神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであり、
私は1960(昭和35)年の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961(昭和36)年の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された。
                     
私は中学時代は、自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を
下校の時などに、学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

そして私がそれぞれの時期に心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過(ろか)を浄化されたりしてきたので、
私にとっては心の故郷(ふるさと)のひとつとなっている。
          
高校は都心に通学して以来、大学を中退し、映画・文學青年の真似事をしたり、
その後は何とか都心にある民間会社に中途入社したりして、35年近く勤めて定年退職となった。

この間は、本書で解説されている数多くの付近の公園、都心の公園に、
幾たびか、四季折々の情景を観ながら歩いたりしてきた。

たまたま昨年の晩秋に、今回の本書にめぐり逢え、
この公園に行った時、あの季節の時は・・と微苦笑しながらも愛惜を深めたしているが、
未知の公園などは多々あり、いずれ訪れる時の情景に想像を深め、ときめきも感じたりしている。

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東京郊外でも、昨日の『大暑の日』は、猛暑の後、雷鳴と共に白雨(はくう)となり・・。

2013-07-24 11:06:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり
昨日、雨上がりの快晴の朝を迎えた後、気温は急激に増して、昼の頃には35度になり、
過ぎし4日間は30度前後の過ごしやすい日々だったのに、
どうして急に暑くなるの、と何かと暑さに苦手な私は思ったりした。

思い当るとすれば、今朝カレンダーには、『大暑(たいしょ)』と明記されていたので、
暑さが最も厳しくなる時節、と古人から伝言されていることを思い浮かべて、苦笑したりした。

昼下りの2時過ぎに、燦々と照らした陽射しが陰(かげ)り始め、そして暗い雲が増して、
都心の方面から幾たびも雷鳴が聴こえ、
やがて私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域でも、
近くに雷鳴が響いてきた・・。

3時になると我が家は、スイカを頂く習慣が、ここ2週間ばかり続いているので、
          
家内と共に食べたりしていると、
風が強く吹き始め、雷鳴が響きわたり、大粒の雨脚が降ってきて、激しく降ってきた。

私は玄関庭の軒下に出て、激しく降る雨を眺めたりしていた。
風が伴い、樹木は豪雨を受け、枝葉は揺れ、
樹木越しの景色は白いベーエルに覆(おお)われたかのように霞(かす)んでいた・・。

そして、居間に戻ると、小庭にある草花は水しぶきを受けて、地面の土を潤(うるお)しているが、
激しい雨を受けて、もう・・だめぇ、といったように草花は震(ふる)わしていた。
   
            この時節、我が家の小庭は、数多くのアメリカン芙容が咲き、一週間前に撮った。

この後、30分前後降り続いた後、雨は小雨になったが、少し遠い空は、雷鳴が続いている・・。

こうした中で、小庭の片隅にある樹木からは、蝉〈セミ〉は再び鳴きはじめて、
今の時節に鳴かなかったら、いつ鳴くのよ、といったように健気〈けなげ〉に鳴いたりしているので、
私は苦笑したりしていた。

このような白雨〈はくう〉が去った後、確かに熱さは5度ぐらいは下がった、
と私は実感させられたりしている。

そして小雨が降る中、空は明るくなり、あかね雲のような色合いとなり、
気候のことも無知な私は、おかしな変貌の激しい日中、真夏の日の夢のできごとかしら、
と微苦笑したりした。

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純白のユリの花、亡き母が里子だった、と知った頃と共に、思い重ねて・・。

2013-07-23 13:54:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日、いつものように買物の専任者の私は、家内から依頼された品を買い求めて帰宅した後、
散策している時、近くの住宅街を通り、純白のテッポウユリを見かけて、足を止めて眺めたりした。
               
この後、遊歩道を歩いて、小公園の大きな樹の下の付近にあるベンチに座り、
休息していると、先ほど偶然に観たテッポウユリが思い浮かび、やがて遠い昔の私が小学生だった時が、
想いだされた・・。

私が1952〈昭和27)年の小学二年生の初夏の頃、
生家は農家であったので、宅地の外れの畑との境界に草花を10坪ほど植えてあった。

この当時の農家の多くは、仏壇、お墓に飾る花は、殆どその家の草花でまかなわれ、
夏の季節になると、ダリヤ、グラジオラス、カンナ、ホウセンカ、ケイトウ、ヒマワリ等があり、
そして橙色のスカシユリと白のテッポウユリがあった。

私は父の妹のひとりの花の好きの叔母に教えられて、
球根を並べてたりし、純粋に成長する花に魅了されたりしていた。

こうした中で、ユリに関しては、橙色の花は何となく野暮ったい感じがして、
白い花は何かしら上品な思いを幼年ながら感じたりしていた。

やがて父は肝臓が悪化して翌年の早春に病死し、
この翌年の春に祖父も病死し、男手を失った農家の生家は衰退となり、
子供心でも貧乏になったと実感し、私は何かと屈折したりしていた。

こうした中、母方の実家の叔母が娘さんを連れて来宅した・・。
            

母の実家は、明治の中頃、国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む裕福な家であるが、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気の出始めた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として、当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母はやむなく里子に出された・・。

私の祖父の親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の生家に貰われてきたのは、母が一歳前の乳児で1921(大正10)年であった。

私の祖父は、農家で田畑、雑木林、竹林などがあり、使用人、小作人を手を借りて、
東京郊外のよくある旧家であった。
そして祖父は、男2人、女も4人の子を設けていたが、祖父の妻は末児が生まれた後、
まもなく亡くなった。

こうした中で、母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。

この当時の母は13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝いをさせられたり、もとより田畑の作業も駆りだされていた。
後年、私が高校生になった時に感じたのであるが、確かに母の筆跡は綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であったひとりが後年に都会議員となった時、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・
家柄も良かったけど・・大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と後年に私が高校生の時に、母から私は言われたりした。

そして私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。

母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私たち子供の前で、ため息をついたのを私は忘れない・・。

こうした中で、母の里子のことも、親戚の集(つど)いの空気から察知して、この高校生の頃に初めて知った・・。
          

母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は父の弟、妹の4人と共に母屋の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思ったりした。

やがて、母は看病の末、亡くなった祖父の弟や父の弟、
そして父の妹たちの婚姻などもあり、多くの冠婚葬祭もあって、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが・・と私に語ったことがある。
               

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

母は幾つになって自覚されたのか解からないけれど、里子の身、
その後の祖父の長兄との結婚後、何かと労苦の多い中、
気をまぎらわせようと鼻歌を唄いながら、その時を過ごされたのだろう、
と私は後年に思ったりした。
               

1953(昭和28)年の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。


このような時、初夏の頃、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。
               
母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人である人であることは少年の私でも感じた。
そしてこの方が、娘を同行してきた。

このうら若き方は映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学4年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも瞬時で感じたりした。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたいたからである。

私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたが、
何かしら差し上げるものとして、父の妹の叔母に懇願して、
白のテッポウユリを5本を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった身なりで、破れ《かぎはぎ》をしたズボンであったので、恥ずかしさが先にたち、
地面を見つめていた。

私にとっては、このお方を想いだすたびに、 この当時にラジオから流れていた
『水色のワルツ』歌の都会風のうら若き女性の心情を、少年ながら思い重ねてしまう。

この『水色のワルツ』の歌は、私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。

このようなことを純白のユリの花を見た余韻で、亡き母が里子で、
そして私の生家が貧乏で生活が困窮していた60年の前の頃が、想い馳せられたのである。

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『土用の丑』の日を迎えても、高齢者の私は『うなぎ』は卒業した、と微苦笑して・・。

2013-07-22 13:34:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、ぼんやりとカレンターを見たら、
『土用の丑』と明記されていたので、私は思わず苦笑させられたりした。

ここ数週間、新聞のニュースを見たりすると、ウナギは高騰している、と私は学んだりしてきた。

私は定年後の年金生活を始めて、日常の買物に関して自主的に専任者となり、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に行ったりしている。

私たち夫婦は朝食を頂いた後、まもなく家内はスーパーのチラシに赤のサインペンで○印を付けて、
私に手渡した。
赤の○印は買い物の必須品であり、後は店内の品を見て、私が気に入った品を購入するのが、
我が家のいつもの習慣となっている。

そして家内は、
『あらぁ・・今日、『土用の丑』の日だわ・・
あなた・・久しぶりに『うなぎ』でも・・買われたら・・』
と私に微笑みながら言ったりした。
          
まもなく私は、家内から手渡しされた最寄りのスーパーのチラシを見たら、
《 霧島山系のミネラル豊富な地下水で育て、
  やわらかくふっくらと蒸して香ばしく焼き上げたうなぎです。 》
と大きく題された文字と共にうなぎの絵柄が掲載され、この下段には、
『鹿児島産 霧島湧水うなぎ長焼 一尾』1,580円
『鹿児島産 霧島湧水の恵み長焼 一尾』1,980円
と具体的に解説されて掲載されていた。

そして横には、《うなぎをさらに美味しく!!》さんしょうの粉 298円、
と可愛らしく掲載されていた。

或いは《 丑の日 当日限定販売!! 》
『一尾使いの満足うな重 1パック』1,780円
と掲載されていた。


その後、私は10時半過ぎに、淡い夏の陽射しの中、
いつものように夏の帽子を深くかぶり、サングラス、半袖のスポーツシャツ、長ズボン、ウォーキング・シューズの容姿で、
過ぎし一週間前の35度前後の猛暑より、29度前後のしのぎやすい中、
大通りの幅広い歩道を颯爽と歩いたりしていた。

スーパーの店内の特別コーナーは、
チラシに明記された『霧島湧水うなぎ』などが専任の方が、孤軍奮闘されながら焼いたりし、
特有の香ばしい匂いの前を、私は通り過ぎたりした。
或いは店内の放送で、『土用の丑』の日を迎えた本日、うなぎの特選コーナーを設けていますので、
お買い求めて下さい!!、と私は聴こえたりした。

私は野菜コーナーで、キャベツ、キュウリ、ピーマン、ニンジン、ブロッコリーなどを買い求め、
牛肉のコーナーで゛、オーストラリア産の焼肉用 1パック サービス価格1,000円
と明記されたのに、瞬時に魅了されて購入することにした。

そして帰路、確か一昨年はお惣菜コーナーの売り場で、『愛知三河産深蒸し うな重』を買い求めたりしたが、
私たち夫婦は、ここ何年かは『うなぎ』を食べていない、と思ったりした。
               

過ぎ去る年の2006〈平成18〉年の2月下旬の頃、私たち夫婦は家内の母を誘い、
浜名湖の湖畔にある三ヶ日温泉の観光ホテルに5泊6日で温泉滞在した時、
この間のある一日、小雨降る中、観光船に乗り、
浜松市が市制60周年の記念として、動物園とフラワー・パークと称したこの里山の一角に創設した処に、
訪れた。

家内たちは動物園に行き、私は動物に関心がないので独りでフラワー・パークに入園した。
霧雨が降る中、冬枯れの樹木、草花の情景に私は魅せられた後、
           
家内たちと観光船の乗り場に待ち合わせをしていたが、
一時間半ばかり時間があり、
私は近くの『うなぎ』の小旗がたなびく食事処が3軒ばかり見えたので、この中の一店に入った。

ご主人と奥方だけのこじんまりとした店内で、客は私だけだった・・。
私は程ほどの『うな重』を注文して、地酒を一合も注文した後、ゆっくりと地酒を呑みだした。
もとより『うなぎ』は、捌いて後、焼くにも時間を要するが、
30数分過ぎても、『うな重』はこなく、やむなく地酒を追加した。

結果としては、45分過ぎに『うな重』は、テーブルに置かれて、
私は頂いたが、一流店並みに時間を要したが、美味しくなく、街の『うなぎ料理店』以下であった。
そして樋口一葉のお札で支払い、100円ばかりのおつりを頂きながら落胆し、
確かこれ以来、私は『うな重』は食べてる機会が激少している。


定年した2004〈平成16〉年の頃から、私はうなぎより江戸前寿司の方が食欲を増すので、
ときおり駅近くの江戸前寿司の回転寿司店を私たち夫婦は利用したり、
或いは近所の寿司屋さんから配達してもらったりして愛食している。

遥か江戸時代の頃から、『土用の丑』と称せられ、
栄養価の高い『うなぎ』などを食べて、何とか暑い日々を乗り切ろう、と心情は私は痛いほど理解できる。

私の現役サラリーマンの時代は、数多くのお方と同様に多忙な身であったので、
深夜に帰宅することが多く、入浴した後、
疲れ果てながら、ビールを呑み、『蒲焼き』のうなぎを盛んに頂いたりしていた。

或いは昼食の時は、同僚たちと10日に一度ぐらいは『うなぎ料理店』を利用したり、
年に一度ぐらいこの季節に、少し背伸びしながら『うなぎ専門』の料亭で頂いたりしてきた。
               

このようなことを思い馳せたりしたが、『うなぎ』は卒業した、と思い深めたりした。
我が家の今宵のメニューは、
オーストラリア産の牛肉を焼き、一切れの肉の上に、ニンニクの薄切りを軽く焼いたのをのせたり、
或いはニンニクをおろした瓶詰めから、小皿に取った上に醤油を加え、これに一切れの肉を付けて頂く。

このようなことをここ10数年、私は疲れを感じた時の基本メニューとなっている。

この発想の根源は、30代の時にガーリック・ステーキに魅了されて。
これをヒントに、家内も気に入った我が家の料理のひとつとなっている。

そしてキャベツ、ピーマンの千切り、ニンジンをスティクなどの野菜の盛り合わせ、
蒸したブロッコリー・・
こうした簡素な料理に、私たちはビールを呑みながら頂き、夏対策のひとつとなっている。

そして我が家では、同じ『丑(うし)』でも、
オーストラリア、カナダ産の牛肉、豚肉などをこよなく頂いたりしてきてるので、
『うな重』などが縁遠くなったりしている。

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齢ばかり重ねた私、生まれて初めてNHKの『出口調査』を受けた時のささやかな想いで・・。

2013-07-21 14:40:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市ら住む年金生活の68歳の身であるが、
午前中のひととき、参院選の清き一票を投じる身なので、
少しばかりお洒落な半袖のスポーツシャツを着て、独りで投票所に向ったのである。

家内は駅前の美容室に予約していたので、帰路に投票すると云ったので、
私は独りで参院選の投票を終えた後、いつものように買物専任者の私はスーパーで、
家内から依頼された品を買い求め、帰宅するコースであった。

私の住む地域の投票所は、我が家から歩いて10分ばかりのNTTの中央研修センタの一角に設置され、
               
私は『参議院(東京都選出)議員』信愛できそうな立候補者の氏名を書き、
その後は『参議院(比例代表選出)議員』は、信頼できそうな党の党名を記入したりした。

その後、スーパーに向う途中で、何かしら衆院選は熱気を感じるが、
今回の参院選も活気を感じないなぁ、と政治に疎(うと)く齢ばかり重ねた私は、思ったりした。


こうした心情を重ねていると、過ぎし年の2009(平成21)年の8月30日の衆院選 の当日、
私は生まれて初めてNHKの『出口調査』を受けた時が思いだされた・・。

この当時の投票所は、今回と同じNTTの中央研修センタであったが、
正門からまっすぐのゆったりした中央道路の二百メートル先の建物で実施されていた。
               
私は投票を終えて、中央道路の両側の樹木を眺めながら正門に出た時、
30代の男性が2人いて、この中の独りが私に近づいてきたのである・・。

『NHKですが・・『出口調査』をしていまして・・ご協力をお願いできますか?』
と目礼をしながら私に云った。

私は30代の男性の右手のNHK腕章を確認した後、
『いいですよ・・』
と私は云ったら、バインダーに載せられた『出口調査表』とポールペンを渡された。

投票された小選挙区の氏名、比例代表の党名、そして支持している党名、
投票した人の年代が羅列され、該当に○印を付けるだけであった。

私が○印を付けながら、
『大変ですね・・暑い中』
と私は労(ねぎら)いの言葉を30代の男性に云った。

『出口調査にご協力頂けまして・・助かります・・早々と投票をされましたねぇ・・』
と30代の男性は私に微笑みながら云った。

『投票するのは・・国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私はさりげなく30代の男性に云った。

『それはご立派なお考えで・・』
と30代の男性は真摯な表情て私に云った。

私は『出口調査表』の○印を終え、30代の男性に手渡し、
お互いに目礼した後、帰路に向った。

やがて 途中の坂道を下る時、
『国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私は云ったのは、間違いだったと気付いたのである。

『有権者のひとりとしての責務です』
と私は発言すべきだった、と後悔しながら自宅に向ったのである。
                   
このように私はそそかしい悪い癖があり、少し心の整理をしないと、
こうしたように言動になってしまった。

古人の人たちより、ケガは治(なお)ってもクセは直(なお)らない、と名言があるが、
こうした名言の前に、齢ばかり重ねた68歳の私は、微苦笑したりした。

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参院選、不投票の方は、国政に対して不満があっても、発言の資格はない・・。

2013-07-21 06:46:17 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
1964〈昭和39〉年の二十歳以来から、
国政選挙の衆院選、参院選の有権者の身でありながら投票されない人は、
たとえ日常生活で不満があっても発言権がない、と固く信じているひとりである。

日本の国に於いて、政治・外交・軍事・経済など国際社会の主要国の協調の基で、
平和と繁栄を享受してきたが、ここ20数年は政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化となっている・・。

今回の参院選の結果、少なからず有権者の選択した立候補、そして選択した党に、
今後の日本の行方に重要な要となるので、軽視はできない。

前提条件として、もとより日本は民主主義の国であるから、
多少の不満があっても党の選択、そして立候補された中で選択をせざるを得ない。

しかし有権者の判断の結果、今後の日本のゆくえに多大に影響するので、有権者の責任も重いが、
何より有権者から託(たく)された議員一人ひとりの言動は重責である。
               
このような思いの私は、今回の参院選も有権者の責務のひとりとして、
東京都選挙管理委員会から配布された『参議院(東京都選出)議員選挙 選挙公報』、
そして『参議院(比例代表選出)議員選挙 選挙公報』を精読した上、
東京都選出で信愛できそうな立候補者、そして比例代表選出も信愛に近い党を記入する。

この上に、購読している読売新聞を読んだりして、思案したりしている。
たまたま20日の朝刊に於いて、大きな三大の難題(景気対策、原発、TPP)に関する
各党別の主張が一覧表として掲載されいたので、私は精読したりした。

このように齢ばかり重ね、政治にも疎(うと)い私があえて綴ったのは、
ひとえに有権者の方に、出来るだけ多くの方に投票して頂きたい思いからである。

           
もとより昨今は国政が不安定となり、悪化すれば更に日本の混迷期となるので、
無力な私でも憂(うれ)いている・・。

こうした時、幾たびか私の書棚から一冊の本を取り出して、開いたりしてきた。

水木 楊(みずき・よう)・著の『2025年 日本の死』(文藝春秋)であり、
1994(平成6)年2月に発刊された単行本である。
                              
この本の帯には、
《 あと30年で日本という国家は消滅する 迫真の近未来シミュレーション 》
と大きく掲げられている。

著作者の水木 楊(みずき・よう)氏は、1937年(昭和2年)生まれで、
日本経済新聞社で各部署を歴任し、この本を発表された当時は、取締役・論説主幹である。

私は氏の著作の本は、1990(平成2)年頃から3冊ぐらい愛読していた身なので、
この本も発売日の当日にここ購入し、精読したひとりである。

『2025年 日本の死』の概要は、1995(平成7)年頃からの日本の状況を予測し、
社会動向を織り交(ま)ぜて政治の基軸がないまま、
党利党略ばかり不安定期な時期となり、長い混迷期となった後、
やがて国際社会からも取り残され、悲惨な衰退となる、30年間を明示している。

私はここ10数年も政局の昏迷を深めた時、ときおり私が開き、幾度も読んできた一冊の本であり、
著作者が少なくとも1994(平成6)年以前に予測されて綴られているが、
昨今の状況でも決して色あせず、数多くのことが近似しているので、何かと私は教示を受けている。

国政を司(つかさど)る国家議員の諸兄諸姉はもとより、国民の多くが読んで頂きたい、と思っている。

何よりも国政の不安定の末、混迷を深めて、日本が衰退するのは、
一番困り果てるのは、国民ひとりひとりであることは、いうまでもないことである。


このような思いの私は、日頃の政治はもとより外交、軍事などを委託している国家議員に関して、
有権者のひとりとして、随一直接に信任の選択権があるので、欠かさず選挙の際は、投票している。

少なくとも政治に関しては、社会の動向まで影響することもあるので、
投票されない方は、政治はもとより社会の不満を言う資格がない、と公言しているひとりである。
               
家内は過ぎし年の衆院選の時に実家に行き、選挙を棄権(きけん)することもあった。
そして家内が不投票してまもない時、NHKのニュースなどを我が家で見ていた時、
『あらぁ・・いやだわ・・』
と政治、外交のニュースの時、呟(つぶや)いたりした。

こうした時、私は、
『XXちゃんさぁ・・貴女は選挙に行かなかったじゃないの・・
ほかに優先することがあるって・・
残念ながら、XX政権が良いの、悪いとかは言って欲しくないね・・』
と私は家内に言ったりしてきた。

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学童は『夏休み』と知り、遠い昔の小学生時代の『ラジオ体操』を思い馳せ・・。

2013-07-20 14:30:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夕、テレビのニュースを視聴していたら、
小学一年生の学童が、初めての通信簿を先生から頂く情景が映しだされた・・。

そして一学期の終業式に伴い、通信簿を恥ずかしそうに開いている学童を見たりして、
明日の20日の土曜日から、『夏休み』に入った、と私は学んだりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
無念ながら孫もいない上、年金生活をしていると、ともすれば曜日の感覚も薄れ、
微苦笑させられることもある。
               
今朝、朝の6時過ぎに起床した後、ぼんやりと庭のテラスに下り立ち、
朝涼の残る小庭を眺めたりした。
そして学童が本日から『夏休み』と思いだし、
やがて私の遠い昔の小学生時代の『夏休み』は・・と思い馳せたりした。

そして夏休みの期間は、早朝にラジオ体操をしていたことが、 鮮明に思いだされて、
私は微苦笑させられた・・。

私の今住んでいる近くに生家があり、地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった・・。

この当時、夏休みになると、近くのお寺の境内で『ラジオ体操』が行われていた。
集合時間は、忘れてしまったが朝の7時頃だったかしら、と思っている。
          
             1957〈昭和32〉年の当時は、このように整備されていなく、素朴な境内であった。

お寺の正面にあるお賽銭箱の横の階段に、ラジオが置かれて、
NHKの『朝のラジオ体操』が流れると、近所の30名前後の小学生の前で、
6年生の班長が少し高い台でお手本のように始め、数多くの小学生の生徒がそれに習って続く・・。
          
小学生は家を出る時は、必ず所定の出欠カードを持参し、
体操が終わった後、班長から出席のマークをカードに押して貰ったりしていた。

私の長兄、次兄は学業の成績は『5』と『4』の多い優等生であったので、6年生になると班長に選出されていた。

三男坊の私は、いじけた劣等生で『3』と『2』ばかりの成績であったので、
学期末に通信簿を頂くたびに、担当の先生から、
『お兄さんのふたりは・・優秀なのに・・』
とため息まじりに私に言われたりしていたので、
私が6年生なると、夏の『ラジオ体操』の班長に選ばれる確率は少なかった。

結果として、班長は私が選任されて、
この年から何故かしら副班長が新設されて、お寺の娘の同級生が選ばれた。

この夏、6年生の私は照れながら、俺でいいのかしら、と心の中で呟(つぶ)やいたりして、
多くの小学生の一年生から同級生までの出席マークを押したりした。
               

後年になると、私は小学生の夏休みの『ラジオ体操』を夢をみたりする時もあり、
悪夢のようなことが多く、私は目覚めるたびに苦笑したりしている。

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私のブログの投稿文は外出着、コメントは普段着・・。

2013-07-19 12:37:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職した2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
その直後から年金生活をしている。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
         
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
          

私は定年後まもなくブログの世界を知り、パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性のように投稿を重ねてきた・・。

ブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

こうした中で政治、外交、軍事、経済などの場合は、感情だけで吐露(とろ)すれば危険でもある。
たとえば、
XX党は、うわべの平和を念仏のように発言し、平和ボケであり、国家の主権さえも欠落している。
XX党は、財源の悪化を無視してまでも、福祉だけを最優先とする政策を掲げ、日本の衰退を招く悪質な党である。
卑劣な悪質な犯行する方は、たとえ法治国家の日本であっても、即時に絞首刑にしなさい、
このようなことを私が記載すれば、もとより私の人格が疑われてしまい、
感情と理性の間を往還しながら、心の節度して平坦な発言の投稿文となってしまう。
          
しかしながら私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しては、余すところなく表現してきた、
誰しも光と影があるので、ためらいながらもマイナスと称される影も私は描写してきた。
たとえば、
私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。

或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
私たち五人の子供は成人したこと。

又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みを吐露(とろ)しなければ、この先の人生を生きて行くことはできない、
と思い発露してきたのである。

このような思いで描写してきたが、もとよりブログは公表することであり、
1(私)対N(多くのお方)と思い、少しは抑制した表現となっている。
私の日常生活の中で、買物とか散策する外出の時は、少しは身なりを整えるのと同様に、
私のブログの投稿文は、外出着かしら、と思ったりしている。
               
これに反して、コメントの場合は、そのお方との個人的に心情で、
1(私)対1(相手のお方)のささやかな心の交流と思いながら、
私は本心を発露して綴り、相手のお方の返信にも本心が見え隠れし、微笑んだり、苦笑したりする。

まるで我が家の中で、リラックスした普段着のような感じなので、
コンントは、心の普段着かしら、と感じたりしている。
                               
或いはそれぞれのお方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

私は毎日のように数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けている。

そしてこうした中で、感きわまってコメントをしたりする時もある。

このように私は、多くのお方がブログのコメントを活用しているのは、
それぞれのお方の秘めたる心の発露の交流かしら、と感じたりしている。

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『サラ川』を愛読している私でも、『週刊誌』の見出し記事に、今朝のひととき降参させられて・・。

2013-07-18 15:42:07 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ときおり『サラ川』と称せられている第一生命が主催されている『サラリーマン川柳』を愛読している。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受け、
大学を中退後、映画・文学青年の真似事をして、無念ながら敗退し、
その後はやむなく民間会社に中途入社し、
まもなく中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に移籍させられて、35年近く勤め、
2004(平成16)年の秋に定年退職をした。

こうした勤めている間でも、幾たびかリストラ烈風の中、私は最後の5年は出向となったりし、
それなりに時代にも翻弄され波乱万丈があり、苦楽の激しいサラリーマンの時代でもあった。

このようなつたない私の半生であり、
何かと『サラリーマン川柳』が好きで、現役時代から愛読し、励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、
『サラ川 傑作選』の本を4冊を所有している。
       
         本棚から特に愛読している2冊を取りだして、たわむれに記念撮影

そして私は『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつと思い、
限りなく人生の哀歓と確信し、ときおり年金生活の今でも本を開いたりしている。


このような心情のある私は、今朝いつものように購読している読売新聞の朝刊を読んでいたら、
8面の【経済】面の下段に、『週刊誌』の出版広告が掲載されていて、思わず読んでしまい、
この後、苦笑させられた。

たまたま私が読んだ出版広告は、『週間新潮』の7月25日号であり、
特集記事の見出しがそれぞれ羅列され、私が苦笑させられたのは下記のような通りであった。

《・・
大勢は決した参院選「場外乱闘」七番勝負

  ▼「安倍総理」圧勝後にお腹が痛くなる「石破幹事長」の身分保障
  ▼「民主東京」敗戦で怒髪「細野幹事長」の「管元総理」離党勧告
  ▼当選圏内に飛び込んだ「山本太郎」が社会党党首になる日
  ▼「猪木」と「和民」がリードする比例区「人寄せパンダ」合戦
  ▼「民主党」最後の代表?「馬淵代議士」最初の仕事は党名変更?!
  ▼パパの恩人すら応援しなかった「田中真紀子」高等戦略
  ▼「石原慎太郎」維新共同代表が体調不良で降りたらこうなる
・・》

私は少し世間の出来事に疎(うと)く、政治の世界も解らないひとりであるが、
来たる7月21日の参院選の投票日に、有権者の責務として、
読売新聞で動向の記事を読んだり、或いはNHKのテレビニュースを視聴したりしたので、
この『週間新潮』の特集記事のひとつ《大勢は決した参院選「場外乱闘」七番勝負》を思い重ね、
苦笑した後、編集者の方に降参します、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

もとより週刊誌は、直近の社会の風潮、出来事を焦点に当てて、
何かしら何でもあるデパートのように、多角な出来事をあぶりだして、
川柳と同じような風刺のある批判記事を怜悧に記事することが多い。
          
そして週刊誌も、発売して数多くの方に購入して頂けなければ、慈善事業と違い民間会社であるので、赤字となる。
こうした背景があり、編集部を中核に購読して頂く為に、
ひたすら苦心惨澹しながら英知を発揮して、新鮮な特集記事を選定し、詳細記事を掲載している。

今回の特集記事のひとつ《大勢は決した参院選「場外乱闘」七番勝負》の見出しを見て、
このような発想がよくできるなぁ、
と苦笑しながらも、感心し、やがて降参しますょ、と思ったりしたのであった。

私は週刊誌は、ここ8年の年金生活の中で年に数冊ぐらい購読する程度であり、
殆どは時間待ちの銀行の待合コーナー、散髪屋(理容店)で置いてある週刊誌を読ませて頂くぐらいとなっている。

こうした根底には、何かしら週間の出来事には、余りにも早くめまぐるしいので、
せめてと思いながら、月刊総合雑誌の『文藝春秋』、ときおり『中央公論』、『新潮45』を購読している。

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