第6章 雪の舞い降る『飛騨高山』往還
15日(木曜日)の新平湯は、小雪が舞い散る朝だった。
私たち3人は飛騨の高山市の中心街を散策するので、バスに乗り込んだ。
平湯峠を通り過ぎると路面は5センチ前後雪化粧をしており、高山市の中心部に差しかかると、小雪から雪となった。
朝市を観た後、家内の母は初めての高山観光なので、
屋台会館、日下部民芸館を案内したいと昨夜に家内から聴いていたので、私たちは別れた。
私は全国に唯一現存する郡代・代官役所と称せられた高山陣屋を見学した。
平屋建ての三百坪の周囲に簡素な庭があり、素朴な趣(おもむ)きの中、雪が舞い降りている。
こうした格調さがない庭なりに、心が和(なご)んだりしたが、ある反面羨望もあったりした。
その後、雪の降りしきる中、古い街並みの周辺を散策した。
やがてある木工店に入り、楢(ナラ)の各種の一枚板を見た。
およそ90cm弱の幅、長さは180cm、そして厚さは9cmほどの一枚板であり、
価格は30~50万円前後であり、テーブルなどに用いると思われた。
私は机の板として、2枚の板を並列に置き、そのときに応じた板を使い分けることを夢想したりした。
今の私は定年前に購入した机、脇机、そして椅子は広島産の書斎用を30万円弱であり、
パソコンなどを置いて日常使っているが、この1枚板が2種類置いてみたいと思ったりした。
理想の書斎としたならば、間口2間以上の窓辺となるが、
私には今から増改築する力はなく、夢と現(うつつ)の世界となるので、無念ながらの現実である。
その後、街の本屋に行き、陳列してある本が少なく、本棚が見えたりしている。
たまたまご主人と書店の本屋の仕入れなどを話し込んだりした。
私は現役時代は音楽業界のあるレコード会社を長年勤務した関係で、
書店と卸の関係を何かと参考にしてきたので、あれこれ話し合ったりした。
その後、街通りでジャージ姿の女子中学生の30数名を見かけた。
多分、修学旅行と思われ、みたらし団子を食べながら、ときおり歓声をあげながら、
雪の降りしきる中を歩いていた・・。
私はあの頃の時代、他愛も無く明るく過ごした時もあったかしら、
と思い返しながら苦笑したりした。
駅前で簡素な飛騨蕎麦を食べた後、
バスを待つ間、付近の和菓子屋に入り、抹茶と和菓子を頂いた。
『語り部(かたりべ)』という和菓子であったが、呑兵衛の私でも奥行きのある和菓子だと感じられた。
帰路のバスの車窓からは、強風が伴なう風雪となり、
雪は路上に20センチ前後のなって折、路肩、道路付近は吹き溜まりとなり、
小さな峠道を通り過ぎた時、前方の大型トラックがスリップし、道路をふさいだりした。
30分過ぎると徐行しながら何とか通過できた後、風雪は激しく視界が5メートル程となった。
こうした中を1時間ほど乗車していると、運転していない私さえ、少しはらはらとしたりした。
宿泊している観光旅館に戻ると、風呂に入った後、
家内たちが無事で戻ればよいが、と思ったりした時、やがて家内たちの声がした。
家内たちは帰りのバス・・雪と風で恐かったくらい、と話しかけてきた。
第7章 雪のあとには
早朝の5時前に目覚め、ロビーで温かいベツトボトルの煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。
窓辺からは、昨日の雪の名残りで銀世界となっていた・・。
昨日、飛騨高山を訪れたが、心のふるさと、と街中で観られたので、
私なりに想いだされた。
確か1968〈昭和43)年の頃だったか、
小説家・立原正秋が随筆した『心のふるさとにいく』を甦(よみがえ)ってきた・・。
この随筆は、JTBの発刊する月刊雑誌の『旅』の中で連続に掲載され、
飛騨高山を取り挙げており、私の若いころ影響を受けたりした。
編集長が岡田喜秋という後に紀行作家になった方で、
この随筆の『心のふるさとにいく』のタイトルを命名し、
小説家・立原正秋の独自性の名文で私なりに心に残っている。
軒下に数多くの氷柱(つらら)が朝の陽射しを受けると、わずかに雫(しずく)を落としている。
つららあと ためらいながら 落ちてゆく
このような拙(つたな)い俳句の真似事を詠(よ)んだが、歌を詠む素養がなく、自分ながら赤面したりした。
日中、家内の母は館内でのんびりするので、家内と快晴の中、飛騨高山に出かけた。
行きの道路周辺は、昨日の雪の名残りが観られたが、
市内は雪が消え去り、帰路は峠道周辺あたりだけ雪が残っていた。
飛騨高山の市内には、日本酒の酒造所が少なくも三軒あり、この中のひとつで私の好きな地酒を買い求めたりした。
その後、家内と和菓子屋、お土産屋と6軒ばかり廻ったが、
私は素朴な『とちの実 せんべい』に魅了されて買い求めた。
この包装紙には、昔なつかしい手焼の味・・飛騨銘菓・・金龍堂と明示されていた。
夕食の時、旅の最後となるので、骨酒を頼んだ。
小ぶりの岩魚(イワナ)を焼いて、大きな参合前後の器に人肌より少し温めたに地酒であった。
どんぶりに岩魚が浮いているように見えたりしたが、香ばしい香りがする。
私は、このような戯(たわむ)れのお酒を呑みながら、夕食を頂いたりした。
第8章 山里の春を思えば
帰路のバスを待っている間、私たちはコーヒー・ラウンジで窓辺の席に座った。
私は煙草を喫うので、少し離れた席に座り、前方の里山に目を転じた・・。
山里の春は遅く、やがては梅が咲き、そして桜も咲くだろうが、
その前に蕗(フキ)、蕨(ワラビ)、薇(ゼンマイ)等が土から芽生え彩(いろど)るだろう・・。
こんな思いに馳(はせ)ると、
花をのみ まつらんひとに
山ざとの 雪まの草の はるをみせばや
歌人・藤原家隆が新古今集で詠まれた歌を思い出された・・。
旅の終わりに、山里に心を託(たく)せば、
こうした時代を超越した名歌のひとつに心を寄せたりした。
今回、奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に5泊6日で滞在し、
走り書きのように綴ったが、のちに旅の想いが甦ってきた時に、ときたま思い馳せると思われる。
旅の魅力は、こうした余情、余韻があるのも齢を重ねた今でも、
私の心をなごませてくれる。
最終章 旅の終りは、梅の花は満開となり
12日(月曜日)より5泊6日で奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に滞在した。
家内の母と私たち夫婦の3人は、団体の現地宿泊先の往還のツアーに参加して、
先ほど帰宅した。
門扉を開けると、白梅、紅梅が満開となっていた。
煙草を玄関庭で煙草を喫っていると雨がぽっりと降ってきた・・。
ほんの5泊の旅であったが、我が家の庭に於いても、
樹木の移ろいは春の気配が漂(ただよ)っていた。
こうした旅路が、早や6年が過ぎているが、ときおり私は思い馳せたりし、
今回のNHKの番組を視聴した後も想いだされたのである。
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15日(木曜日)の新平湯は、小雪が舞い散る朝だった。
私たち3人は飛騨の高山市の中心街を散策するので、バスに乗り込んだ。
平湯峠を通り過ぎると路面は5センチ前後雪化粧をしており、高山市の中心部に差しかかると、小雪から雪となった。
朝市を観た後、家内の母は初めての高山観光なので、
屋台会館、日下部民芸館を案内したいと昨夜に家内から聴いていたので、私たちは別れた。
私は全国に唯一現存する郡代・代官役所と称せられた高山陣屋を見学した。
平屋建ての三百坪の周囲に簡素な庭があり、素朴な趣(おもむ)きの中、雪が舞い降りている。
こうした格調さがない庭なりに、心が和(なご)んだりしたが、ある反面羨望もあったりした。
その後、雪の降りしきる中、古い街並みの周辺を散策した。
やがてある木工店に入り、楢(ナラ)の各種の一枚板を見た。
およそ90cm弱の幅、長さは180cm、そして厚さは9cmほどの一枚板であり、
価格は30~50万円前後であり、テーブルなどに用いると思われた。
私は机の板として、2枚の板を並列に置き、そのときに応じた板を使い分けることを夢想したりした。
今の私は定年前に購入した机、脇机、そして椅子は広島産の書斎用を30万円弱であり、
パソコンなどを置いて日常使っているが、この1枚板が2種類置いてみたいと思ったりした。
理想の書斎としたならば、間口2間以上の窓辺となるが、
私には今から増改築する力はなく、夢と現(うつつ)の世界となるので、無念ながらの現実である。
その後、街の本屋に行き、陳列してある本が少なく、本棚が見えたりしている。
たまたまご主人と書店の本屋の仕入れなどを話し込んだりした。
私は現役時代は音楽業界のあるレコード会社を長年勤務した関係で、
書店と卸の関係を何かと参考にしてきたので、あれこれ話し合ったりした。
その後、街通りでジャージ姿の女子中学生の30数名を見かけた。
多分、修学旅行と思われ、みたらし団子を食べながら、ときおり歓声をあげながら、
雪の降りしきる中を歩いていた・・。
私はあの頃の時代、他愛も無く明るく過ごした時もあったかしら、
と思い返しながら苦笑したりした。
駅前で簡素な飛騨蕎麦を食べた後、
バスを待つ間、付近の和菓子屋に入り、抹茶と和菓子を頂いた。
『語り部(かたりべ)』という和菓子であったが、呑兵衛の私でも奥行きのある和菓子だと感じられた。
帰路のバスの車窓からは、強風が伴なう風雪となり、
雪は路上に20センチ前後のなって折、路肩、道路付近は吹き溜まりとなり、
小さな峠道を通り過ぎた時、前方の大型トラックがスリップし、道路をふさいだりした。
30分過ぎると徐行しながら何とか通過できた後、風雪は激しく視界が5メートル程となった。
こうした中を1時間ほど乗車していると、運転していない私さえ、少しはらはらとしたりした。
宿泊している観光旅館に戻ると、風呂に入った後、
家内たちが無事で戻ればよいが、と思ったりした時、やがて家内たちの声がした。
家内たちは帰りのバス・・雪と風で恐かったくらい、と話しかけてきた。
第7章 雪のあとには
早朝の5時前に目覚め、ロビーで温かいベツトボトルの煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。
窓辺からは、昨日の雪の名残りで銀世界となっていた・・。
昨日、飛騨高山を訪れたが、心のふるさと、と街中で観られたので、
私なりに想いだされた。
確か1968〈昭和43)年の頃だったか、
小説家・立原正秋が随筆した『心のふるさとにいく』を甦(よみがえ)ってきた・・。
この随筆は、JTBの発刊する月刊雑誌の『旅』の中で連続に掲載され、
飛騨高山を取り挙げており、私の若いころ影響を受けたりした。
編集長が岡田喜秋という後に紀行作家になった方で、
この随筆の『心のふるさとにいく』のタイトルを命名し、
小説家・立原正秋の独自性の名文で私なりに心に残っている。
軒下に数多くの氷柱(つらら)が朝の陽射しを受けると、わずかに雫(しずく)を落としている。
つららあと ためらいながら 落ちてゆく
このような拙(つたな)い俳句の真似事を詠(よ)んだが、歌を詠む素養がなく、自分ながら赤面したりした。
日中、家内の母は館内でのんびりするので、家内と快晴の中、飛騨高山に出かけた。
行きの道路周辺は、昨日の雪の名残りが観られたが、
市内は雪が消え去り、帰路は峠道周辺あたりだけ雪が残っていた。
飛騨高山の市内には、日本酒の酒造所が少なくも三軒あり、この中のひとつで私の好きな地酒を買い求めたりした。
その後、家内と和菓子屋、お土産屋と6軒ばかり廻ったが、
私は素朴な『とちの実 せんべい』に魅了されて買い求めた。
この包装紙には、昔なつかしい手焼の味・・飛騨銘菓・・金龍堂と明示されていた。
夕食の時、旅の最後となるので、骨酒を頼んだ。
小ぶりの岩魚(イワナ)を焼いて、大きな参合前後の器に人肌より少し温めたに地酒であった。
どんぶりに岩魚が浮いているように見えたりしたが、香ばしい香りがする。
私は、このような戯(たわむ)れのお酒を呑みながら、夕食を頂いたりした。
第8章 山里の春を思えば
帰路のバスを待っている間、私たちはコーヒー・ラウンジで窓辺の席に座った。
私は煙草を喫うので、少し離れた席に座り、前方の里山に目を転じた・・。
山里の春は遅く、やがては梅が咲き、そして桜も咲くだろうが、
その前に蕗(フキ)、蕨(ワラビ)、薇(ゼンマイ)等が土から芽生え彩(いろど)るだろう・・。
こんな思いに馳(はせ)ると、
花をのみ まつらんひとに
山ざとの 雪まの草の はるをみせばや
歌人・藤原家隆が新古今集で詠まれた歌を思い出された・・。
旅の終わりに、山里に心を託(たく)せば、
こうした時代を超越した名歌のひとつに心を寄せたりした。
今回、奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に5泊6日で滞在し、
走り書きのように綴ったが、のちに旅の想いが甦ってきた時に、ときたま思い馳せると思われる。
旅の魅力は、こうした余情、余韻があるのも齢を重ねた今でも、
私の心をなごませてくれる。
最終章 旅の終りは、梅の花は満開となり
12日(月曜日)より5泊6日で奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に滞在した。
家内の母と私たち夫婦の3人は、団体の現地宿泊先の往還のツアーに参加して、
先ほど帰宅した。
門扉を開けると、白梅、紅梅が満開となっていた。
煙草を玄関庭で煙草を喫っていると雨がぽっりと降ってきた・・。
ほんの5泊の旅であったが、我が家の庭に於いても、
樹木の移ろいは春の気配が漂(ただよ)っていた。
こうした旅路が、早や6年が過ぎているが、ときおり私は思い馳せたりし、
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