夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

梅雨の間の暑さの中、亡き作家・徳冨蘆花氏に思いを馳(は)せれば・・。

2009-06-26 16:23:27 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
いつものように日の出の4時半過ぎに起床し、
煎茶を冷やしていた冷茶を飲んだ後、新聞を読んだり、NHKのニュースを視聴し、
この間にも、主庭のテラスに下り立ち、樹木、草花を眺めながら、
煙草を喫ったりするのが、ほぼ定例のようになっている。

梅雨の時節であるが、ときおり梅雨の間に快晴となることがあり、
昨日と同様に、朝の6時過ぎ22度で迎え、昼下がりは30度前後の暑さと
なり、
夕方の6時過ぎでも26度前後と予測されている。

私は梅雨のしっと小雨が降る25度前後の日中に心身馴染んでいたので、
梅雨の間の急激な暑さに戸惑っている。

いつものように買物、散策は暑さの中しているが、
散策も近回りとなり、汗をふきふき、苦笑している。

そして、ここ5月の下旬より亡き作家・徳冨蘆花氏に物狂いのように、
熱中している。

このことはこのサイトに5月25日に於いて、
【 我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。】と題して、
投稿を初めてから、最近まで19回ばかり連載しているが、
初回にこの思いを綴っているので、あえて再掲載をする。

【・・
     第1章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昭和19年9月に今住んでいる近くの実家で、
農家の三男坊として生を受けた。

私はこのサイトに於いては、私の幼年期から昨今まで、数多く綴ったりしているが
ここ数年、私の生まれる以前の昭和時代はもとより、
大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなったりしている・・。


父は昭和28年に病死され、そして祖父も後を追うように昭和29年に死去し、
私としては小学生であったので、
この頃の情景はある程度は鮮明に残っている。

母は無念ながら10年前に他界したが、
私は敗戦前の昭和時代の頃の我が家の出来事はもとより、
周辺の移ろう情景なども聞いたり、教えられたりした。

この間も、親戚の叔父、叔母、近所の小父、小母さんなどに訊(たず)ねたり、
教示されたりしてきた。

そして、図書館などに行き、『郷土史』などを読んだりしてきたが、
つたない私は、この時代を鮮明に整理を出来なかったのである。


こうした思いでいると、私は数キロ近くに『蘆花公園』があることにに気づき、
思わず微笑んだのである。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html

正式名所は『蘆花恒春園』であるが、このサイトの公園概要に明記されている通り、

【・・
「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、
後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分と
その周辺を買収してつくられました。

蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、
土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、
昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。
・・】
と解説される。

そして作家の徳冨蘆花氏は数多くの随筆を遺されているが、
千歳村の粕谷(現在:世田谷区粕谷)の地に約20年間生活されていたので、
遅ればせながら、何かこの地域に関する随筆はと探した結果、
『みみずのたはこと』の作品を知ったのである。

私はこの後、数店の本屋で徳冨蘆花の『みみずのたはこと』を探し求めたのであるが、
無念ながらなく、気落ちして帰宅したのである。

そして、ネツトで色々と検索した結果、
著作権の消滅した小説、詩、評論等を収録された無料公開の電子図書館で知られている【青空文庫】で
この作品にめぐり逢えたのである。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000279/files/1704_6917.html

そして私は、この三日間ほど、本名の徳冨健次郎で発表された『みみずのたはこと』を読みはじめ、
あの頃の時代は、私の住む近く地域に於いては、このようなことがあった、
と深くうなずいたりし、多々教示を受けている。
・・】

このように投稿した後、
本題の『みみずのたはこと』に描かれた明治40年からの千歳村粕谷の情景、
そして付近の生活実態を転載させて頂きながら、
現在、激しく変貌し跡形もなくなったこの地域と対話ができればと思い、
最新では私なりに19回ばかり連載している。

昨夜もこの『みみずのたはこと』の中の一編である『ヤスナヤ、ポリヤナの未亡人へ』を三度ばかり読み、
深く考え、迷ったりしたのである。

徳冨蘆花氏は若い頃から『アンナ・カレーニナ』、『戦争と平和』などで名高いロシアの作家のトルストイを読み、
徳冨蘆花氏も作家となった後でも更にトルストイを精読された後、
トルストイの家に訪問している。
そして、本編はトルストイの突然の死を知り、未亡人となった奥方に手紙形式で綴られている。

私は『みみずのたはこと』に於いて、千歳村・粕谷に住み、
徳冨蘆花自身の思いや周囲の情景を学ぶのであれば、このトルストイの未亡人宛は対象外として、
私は飛ばして私なりの連載を続けようと思ったりした。

或いは、徳冨蘆花自身の千歳村・粕谷に住まわれた中での出来事であり、
氏の心情を深く洞察すれば、軽い気持ちで対象外にもできない、
と思ったりしたのである。
そして、私なりにトルストイの遺(のこ)された作品、トルストイの軌跡を思考したのである。

このような思いで、私なりに大いに躊躇し、
どのようにするか、暑さの中、ぼんやりと考えている。


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我が故郷、亡き徳冨蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《19》

2009-06-25 13:28:49 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
千歳村・粕谷で田園生活の『美的百姓』をめざし過ごされている時、
日常のさりげない色彩について綴られている。

詩のそれぞれの色合いを綴られ、
かって敬愛するトルストイを訪ねた時、ロシアの大地、
或いは復路のシベリア鉄道の車窓の情景、
そして結びとして、深い思いを重ねながら千歳村・粕谷で観られた情景を綴られている。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

       碧色の花

色彩の中で何色(なにいろ)を好むか、と人に問われ、
色彩について極めて多情な彼(かれ)は答に迷うた。


吾墓の色にす可き鼠色(ねずみいろ)、
外套に欲しい冬の杉の色、
十四五の少年を思わす落葉松の若緑(わかみどり)、
春雨を十分に吸うた紫(むらさき)がかった土の黒、
乙女の頬(ほお)に匂(にお)う桜色、
枇杷バナナの暖かい黄、
檸檬(れもん)月見草(つきみそう)の冷たい黄、
銀色の翅(つばさ)を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯(ねったい)の海のサッファイヤ、
ある時は其面に紅葉を泛(うか)べ
或時は底深く日影金糸を垂(た)るゝ山川の明るい淵(ふち)の練(ね)った様な緑玉(エメラルド)、
盛り上り揺(ゆ)り下ぐる岩蔭の波の下(した)に咲く海アネモネの褪紅(たいこう)、
緋天鵞絨(ひびろうど)を欺く緋薔薇(ひばら)緋芥子(ひげし)の緋紅、
北風吹きまくる霜枯の野の狐色(きつねいろ)、
春の伶人(れいじん)の鶯が着る鶯茶、
平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠(はとはねずみ)、
高山の夕にも亦やんごとない僧(そう)の衣にもある水晶にも宿(やど)る紫、
波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも
大理石にも樺(かば)の膚(はだ)にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白(しろ)、
数え立つれば際限(きり)は無い。

色と云う色、皆(みな)好きである。


然しながら必其一を択(えら)まねばならぬとなれば、
彼は種として碧色を、度(ど)として濃碧(のうへき)を択ぼうと思う。

碧色――三尺の春の野川の面(おも)に宿るあるか無きかの浅碧(あさみどり)から、
深山の谿(たに)に黙(もだ)す日蔭の淵の紺碧(こんぺき)に到るまで、
あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊(こと)に鮮(あざ)やかに煮え返える様な濃碧は、
彼を震いつかす程の力を有(も)って居る。


高山植物の花については、彼は呶々(どど)する資格が無い。
園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。
西洋草花にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。

春竜胆(はるりんどう)、勿忘草(わすれなぐさ)の瑠璃草も可憐な花である。
紫陽花(あじさい)、ある種の渓(あやめ)、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。
秋には竜胆(りんどう)がある。
牧師の着物を被た或詩人は、嘗(かつ)て彼の村に遊びに来て、
路に竜胆の花を摘(つ)み、熟々(つくづく)見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。

露の乾(ひ)ぬ間(ま)の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素とする。
それから夏の草花には矢車草がある。
舶来種のまだ我(わが)邦土には何処やら居馴染(いなじ)まぬ花だが、
はらりとした形も、深い空色も、涼しげな夏の花である。

これは園内に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄(き)ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。

七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗って
トルストイ翁(おう)のヤスナヤ、ポリヤナに赴(おもむ)く時、
朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、
苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。
睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮とで熱病患者の様であった彼の眼にも、
花の空色は不思議に深い安息(いこい)を与えた。


夏には更に千鳥草(ちどりそう)の花がある。
千鳥草、又の名は飛燕草。
葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状(さま)をして居る。
園養(えんよう)のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞(しま)のもあるが、
野生の其(そ)れは濃碧色(のうへきしょく)に限られて居る様だ。
濃碧が褪(うつろ)えば、菫色(すみれいろ)になり、紫になる。
千鳥草と云えば、直ぐチタの高原が眼に浮ぶ。

其れは明治三十九年露西亜の帰途(かえり)だった。
七月下旬、莫斯科(もすくわ)を立って、イルクツクで東清鉄道の客車に乗換え、
莫斯科を立って十日目にチタを過ぎた。
故国を去って唯四ヶ月、然しウラルを東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。

イルクツクで乗換えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。
イルクツクから一駅毎に支那人を多く見た。
チタでは殊(こと)に支那人が多く、満洲近い気もち十分(じゅうぶん)であった。
バイカル湖から一路上って来た汽車は、チタから少し下りになった。
下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗(のぞ)いて居ると、
空にはあらぬ地の上の濃い碧色(へきしょく)がさっと眼に映(うつ)った。
野生千鳥草の花である。

彼は頭を突出して見まわした。
鉄路の左右、人気も無い荒寥(こうりょう)を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧(のうへき)の其花が、
今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫(むらさき)がかったり、まだ蕾(つぼ)んだり、
何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。
窓に凭(もた)れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。


然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優(ま)した美しい碧色を知らぬ。
つゆ草、又の名はつき草、螢草(ほたるぐさ)、鴨跖草(おうせきそう)なぞ云って、草姿(そうし)は見るに足らず、
唯二弁より成る花は、全き花と云うよりも、
いたずら子に(むし)られたあまりの花の断片か、
小さな小さな碧色の蝶(ちょう)の唯(ただ)かりそめに草にとまったかとも思われる。
寿命も短くて、本当に露の間である。
然も金粉を浮べた花蕊(かずい)の黄(き)に映発(えいはつ)して
惜気もなく咲き出でた花の透(す)き徹(とお)る様な鮮(あざ)やかな純碧色は、
何ものも比(くら)ぶべきものがないかと思うまでに美しい。

つゆ草を花と思うは誤りである。
花では無い、あれは色に出た露の精(せい)である。
姿脆(もろ)く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那(せつな)の天の消息でなければならぬ。
里のはずれ、耳無地蔵の足下などに、
さま/″\の他の無名草(ななしぐさ)醜草(しこぐさ)まじり朝露を浴びて眼がさむる様(よう)に咲いたつゆ草の花を見れば、
竜胆(りんどう)を讃(ほ)めた詩人の言を此にも仮(か)りて、
青空の気(こうき)滴(したた)り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦(よみがえ)らせるつゆ草よ、
地に咲く天の花よと讃(たた)えずには居られぬ。

「ガリラヤ人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」
吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間(ま)に蹂(ふ)みにじる。

碧色の草花として、つゆ草は粋(すい)である。

・・】

こうように徳冨蘆花氏は、深い思いで日常生活を深めている。


日本の大地は、春夏秋冬と四季折々に移ろう情景は、
それぞれの人が幼児期、未成年、そして成人、やがて老年となるまでの生活を過ごされる中、
幾重かのさりげない情景に思いでも重ねて、
誰しもその人なりの色合いを心のなかで秘めている。


私も四季折々うつろう情景に限りなく心を寄せて過ごしたりしているので、
このサイトでも数多くを綴ったりしている。

こうした中で、明確な色彩について投稿したひとつで、
【 確かな伝統美を感じる『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』・・。 】と題し、
本年の4月9日に投稿しているが、今回、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
古惚けた一軒屋に家内と2人だけで日々を過ごしている。

陽春に恵まれた日中、主庭のテラスに下り立ち,
常緑樹の新芽、落葉樹の芽吹き、幼葉などを眺めながら、
煙草を喫ったりし、季節のうつろいに深く心をよせたりしている。

私は読書も好きであるので、居間のソファに座りながら、
その日の心情に応じた本を開いたりしている・・。

昨日、昼下がりのひととき、一冊の本を本棚から抜き取った。

『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』(朝日新聞社)という本であるが、
私が本屋で昭和62(1987)年晩秋の頃、
偶然に目にとまり、数ページ捲(めく)ったりして、瞬時に魅了され本であった。


巻頭詩として、『色の息遣い』と題されて、
詩人の谷川俊太郎氏が、『色』、『白』、『黒』、『赤』、『青』、『黄』、
『緑』、『茶』と詩を寄せられ、
写真家の山崎博氏がこの詩に託(たく)した思いの写真が掲載されている。

そして、詩人の大岡信氏が、『詩歌にみる日本の色』と題されて、
古来からの昨今までの歌人、俳人の詠まれた句に心を託して、
綴られている。

本題の『色の歳時記』としては、
春には抽象水墨画家・篠田桃紅、随筆家・岡部伊都子、造形作家・多田美波、
夏には英文学者・外山滋比古、随筆家・白州正子、女優・村松英子、
秋には俳人・金子兜太、歌人・前 登志夫、歌人・馬場あき子、
冬には詩人・吉原幸子、作家・高橋 治、作家・丸山健二、
各氏が『私の好きな色』の命題のもとで、随筆が投稿されている。
そして、これらの随筆の横には、季節感あふれる美麗な情景の写真が
幾重にも掲載されている。


或いは『日本の伝統色』と題し
伝統色名解説として福田邦夫、素材にあらわれた日本の色の解説される岡村吉右衛門、
この両氏に寄る日本古来からの色合い、色彩の詳細な区分けはもとより、
江戸時代の染見本帳、狂言の衣装、江戸末期の朱塗りの薬箪笥、
縄文時代の壺、黒塗りに朱色の蒔絵をほどこした室町期の酒器、
江戸時代のいなせな火消しの装束など、ほぼ余すことなく百点前後に及び、
紹介されているのである。

『色の文化史』に於いては、
京都国立博物館・切畑 健氏が、歴史を彩る色として、
奈良時代以降から江戸時代を正倉院御物の三彩磁鉢、
西本願寺の雁の間の襖絵として名高い金碧障壁画など十二点を掲載しながら、
具現的に解説されている。

この後は、『色彩の百科』と題され、暮らしに役立てたい色彩の知識、としたの中で、
女子美術大学助教授・近江源太郎氏が『色のイメージと意味』として、
『赤』、『ピンク』、『オレンジ』、『茶』、『黄』、『緑』、『青』、『紫』などを、
現代の人々の心情に重ねながら、さりげなく特色を綴られている。


『配色の基礎知識』としては、日本色彩研究所・企画管理室部長の福田邦夫氏により、
《配色の形式は文化によってきまる》、
《情に棹(さお)させば流される》
などと明示しながら綴られれば、私は思わず微笑みながら読んでしまう。


最後の特集として、『和菓子』、『和紙』、『組紐』、『染』、『織』が提示されて、
掲載された写真を見ながら、解説文を読んだりすると、
それぞれのほのかな匂いも感じられるようである。


そして最後のページに『誕生色』と題されたページが、
さりげなく掲載されて折、私は読みながら、思わず襟を正してしまう。

北越の染めと織物の街・十日町の織物工業共同組合が、
情緒豊かな日本の伝統色を参考にとして、十二ヶ月の色を選定していたのである。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

【・・
『誕生色』と命名して現代の暮らしに相応しい《きもの》づくりを行っている。
『誕生石』にもあやかって興味深い試みである。


1月
おもいくれない『想紅』

初春の寒椿の深い紅。
雪の中で強く咲き誇っている姿に華やぎ。


2月
こいまちつぼみ『恋待蕾』

浅い春に土を割る蕗のとう。
若芽のソフトな黄緑が春を告げる。


3月
ゆめよいざくら『夢宵桜』

春のおぼろ、山桜の可憐な色。
桜、それは心躍る春の盛りを彩る。


4月
はなまいこえだ『花舞小枝』

春風に揺れる花を支える小枝。
土筆(つくし)もまた息吹いている。


5月
はつこいあざみ『初恋薊』

風薫る季節の薊の深い紫。
5月の野には菖蒲も咲き、目をなごます。


六月
あこがれかずら『憧葛』

さみだれが葛を濡らして輝く緑。
蓬、青梅・・緑たちの競演がいま。


7月
さきそめこふじ『咲初小藤』

夏近し、紫露草のうすい紫。
きらきらと夏の光の中で、緑の中で。


8月
ゆめみひるがお『夢見昼顔』

夏の涼しさに朝顔、昼顔。
庭に野に夏には欠かせない風物の彩り。


9月
こいじいざよい『恋路十六夜』

月冴えるころ朝露に身を洗う山葡萄の深い紺。
十六夜の色にも似て。


10月
おもわれしおん『想紫苑』

風立ちて、目もあやに秋の七草。
野に咲き乱れる桔梗と紫苑の色。


11月
こいそめもみじ『恋染紅葉』

秋の野の残り陽に照る紅葉の赤。
心にしみ入るぬくもりのかたち。


12月
わすれなすみれ『勿忘菫』

淡雪のほのかな思い。
菫が咲き、小雪が舞う季(とき)の色。やすらぎの感覚。

・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした美しい言葉、綴りに接すると、
その季節に思いを馳せながら、その地の風土を想い、
心にひびき、香り、そして匂いまで伝わったくる。

日本風土の古来からの人々の営みの積み重ねの日常生活から、
さりげなくただよってくる色あいの結晶は、
まぎれない日本文化のそれぞれの伝統美でもある。


この本は、昭和58(1983)年に発刊されているので、
稀なほど優れた執筆陣でありながら、
現在は無念ながら故人となられた人が多いのである。

こうした遺(のこ)された随筆などを、改めて読んだりすると、
日本風土と文化に限りなく愛惜されているので、
日本文化を愛する人たちへの遺書のひとつかしら、
とも思ったりしている。

・・】

このように私なりに綴っている。



                           《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《18》

2009-06-25 10:56:10 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に越した翌年の晩秋、
新嘗祭の祝日の時、二子多摩川に行楽をして帰宅後、
突然に見知らぬ若い夫婦の来訪し、戸惑いながら宿泊させたりするが、
この若き夫婦の物語である。

徳冨蘆花氏は随筆形態で綴っているが、まぎれない珠玉のような短編小説となっている。
題して『ほうずき)』と名付けて、哀切ある物語である。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

             ほおずき

       一

其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。
一家(いっか)総出の時は、大戸を鎖(さ)して、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、

○○行
夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣(きたどなり)△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
  月日  氏名


斯く張札(はりふだ)して置いた。
稀には飼犬を縁先(えんさ)きの樫の木に繋(つな)いで置くこともあったが、
多くは郵便箱に留守をさした。

帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、
主人が穿(は)きふるした薩摩下駄を物数寄(ものずき)にまだ真新しいのに穿きかえて行く人なぞもあった。
ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。

君を尋ねて草鞋(わらぢ)で来れば
君は在(いま)さず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ


明治四十一年の新嘗祭の日であった。
東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、
玉川に遊びに往った。

子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児(むすめ)と共に、
つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車(しょうにぐるま)を押して、
星光を踏みつゝ野路を二里くたびれ果てゝ帰宅した。


隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、
二三人の足音と車の響が門口に止まった。
車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入って来た。
つゞいて女が入って来た。
「僕が滝沢です、手紙を上げて置きましたが……」


其様(そん)な手紙は未だ見なかったのである。
来意を聞けば、信州の者で、一晩(ひとばん)御厄介になりたいと云うのだ。
主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、
と勉強して兎に角戸をあけて内に請(しょう)じた。
吉祥寺から来たと云う車夫は、柳行李(やなぎごうり)を置いて帰った。

       二

ランプの明りで見れば、男は五分刈(ごぶがり)頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。
女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷(まるまげ)に結って居る。

主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物を取出し主人夫妻の前にならべた。
葡萄液一瓶(ひとびん)、
「醗酵(はっこう)しない真の葡萄汁(ぶどうしる)です」
と男が註を入れた。

杏(あんず)の缶詰が二個。
「此はお嬢様に」
と婦人が取出したのは、
十七八ずつも実(な)った丹波酸漿(たんばほおずき)が二本。
いずれも紅(あか)いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。

「まあ見事(みごと)な」
と主婦が歎美の声を放つ。

「私の乳母が丹精(たんせい)して大事に大事に育てたのです」
と婦人が誇り貌(が)に口を添えた。

二つ三つ語を交(か)わす内に、男は信州、女は甲州の人で、
共に耶蘇信者(やそしんじゃ)、外川先生の門弟、
此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。

畑の仕事でも明日は少し御手伝しましょうと男が云えば、
台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。


兎に角飯(めし)を食うた。
飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。
「そう、余程痛みますか」
と女が憂(うれ)わしそうにきく。

「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好(いけな)かった」
と男が云う。

此大きな無遠慮な吾儘坊(わがままぼっ)ちゃんのお客様の為に、
主婦は懐炉(かいろ)を入れてやった。
大分(だいぶ)落(おち)ついたと云う。
晩(おそ)くなって風呂が沸(わ)いた。
まあお客様からと請(しょう)じたら、
「私も一緒に御免蒙りましょう」
と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。

寝ると云っても六畳二室の家、
唐紙一重に主人組は此方(こち)、客は彼方(あち)と頭(あたま)突(つ)き合わせである。
無い蒲団を都合して二つ敷いてやったら、
御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。

       三

明くる日、男は、
「私共は二食で、朝飯を十時にやります。あなた方はお構(かま)いなく」
と何方(どち)が主やら客やら分からぬ事を云う。

其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、
主人は男を連れて出た。


畠仕事をして居る百姓の働き振を見ては、
まるで遊んでる様ですな、と云う。
彼は生活の闘烈しい雪の山国に生れ、
彼自身も烈しい戦の人であった。
彼は小学教員であった。

耶蘇を信ずる為に、父から勘当同様の身となった。
学校でも迫害を受けた。

ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、
生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖(さしづえ)を取ると、
突然(いきなり)劇(はげ)しく先生たる彼の背(せなか)を殴った。

彼は徐(しずか)に顧みて何を為(す)ると問うた。
其(その)生徒は杖を捨てゝ涙を流し、
御免下(ごめんくだ)さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、
先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、
と跪(ひざまず)いて詫びた。

彼は其生徒を賞(ほ)めて、辞退するのを無理に筆を三本褒美(ほうび)にやった。


斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。
落花生が炙(い)れて居る。
「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」
と云うて女が炙ったのそうな。
主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。


女は甲州の釜無川の西に当る、ある村の豪家の女(むすめ)であった。
家では銀行などもやって居た。
親類内に嫁に往ったが、弟が年若(としわか)なので、父は彼女夫妻を呼んで家(うち)の後見をさした。

結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、
彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目(よそめ)には模範的夫婦と見られた。

良人(おっと)はやさしい人で、耶蘇(やそ)教信者で、
外川先生の雑誌の読者であった。
彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州の一男子の文章を読んで、
其熱烈な意気は彼女の心を撼(うご)かした。

其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。
何時(いつ)となく彼女と彼の間に無線電信がかゝった。
手紙の往復がはじまった。

其内良人は病気になって死んだ。
死ぬる前、妻(つま)に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。
一年程過ぎた。
彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。
而して彼女の家では、父死し、弟は年若(としわか)ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、
彼女は到頭(とうとう)家(うち)を脱け出して信州の彼が許(もと)に奔(はし)ったのである。

           *

朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、
近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした。


彼は尻をからげて、莫大小(めりやす)の股引(ももひき)白足袋(しろたび)に高足駄をはき、
彼女は洋傘(こうもり)を杖(つえ)について海松色(みるいろ)の絹天(きぬてん)の肩掛(かたかけ)をかけ、主婦に向うて、
「何卒(どうぞ)覚えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。
主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

一年程過ぎた。

此世から消え失せたかの様に、二人の消息(しょうそく)ははたと絶えた。
「如何(どう)したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
主人夫妻は憶(おも)い出す毎(たび)に斯く云い合った。


丁度(ちょうど)満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、
珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。
其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。

消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日一夜(いちや)を忘れなかった、と書いてある。


吁(ああ)彼女は死んだのか。
友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言を言葉通り実行して
恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、
決して百花園中(ひゃっかえんちゅう)のそゞろあるきではあるまい、
とは期(ご)して居たが、彼女は早くも死んだの乎。


聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。
知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である。

           *

あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から
彼女に関する消息の一端を知ることを得た。


彼等夫妻は千曲川の滸(ほとり)に家をもち、養鶏(ようけい)などやって居た。
而して去年の秋の暮、胃病とやらで服薬して居たが、
ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。
彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加(つけくわ)えた。

           *

某氏はまた斯様(こん)な話をした。
亡くなった彼女は、思い切った女であった。
人の為に金でも出す時は己が着類(きるい)を質入れしたり売り払ったりしても出す女であった。

彼女の前夫(ぜんふ)は親類仲で、慶応義塾出の男であった。
最初は貨殖を努めたが、耶蘇(やそ)を信じて外川先生の門人となるに及んで、
聖書の教を文句通(もんくどお)り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。

其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸(ならずもの)等が借金に押しかけ、
数千円は斯くして還らぬ金となった。
彼の家には精神病の血があった。
彼も到頭遺伝病に犯された。
其為彼の妻は彼と別居した。

彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家(うち)に時々来ては、
妻を呼び出してもろうて逢うた。
彼の臨終の場にも、妻は居なかった。
此時彼女の魂はとく信州にあったのである。

彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。
実家の母が瞋(いか)ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。
然し其前彼女は実家に居る時から追々(おいおい)に金を信州へ送り、
千曲川の辺の家(うち)も其れで建てたと云うことであった。

           *

彼夜彼女が持て来てくれたほおずきは、
あまり見事(みごと)なので、子供にもやらず、小箪笥(こだんす)の抽斗(ひきだし)に大切にしまって置いたら、
鼠が何時の間にか其(その)小箪笥を背(うしろ)から噛破って喰ったと見え、
年の暮(くれ)に抽斗をあけて見たら、中実(なかみ)無しのカラばかりであった。


年々(ねんねん)酸漿(ほおずき)が紅くなる頃になると、
主婦はしみ/″\彼女を憶(おも)い出すと云うて居る。

・・】

突然に見知らぬ若き夫婦の来訪を徳冨蘆花夫妻は受け、
その晩、戸惑いながらやむえず宿泊させたのであるが、
蘆花氏の知人の耶蘇信者の外川先生の門弟のひとりであり、
男は信州、女は甲州の人で、このたび結婚して新生涯の門出に、
徳冨蘆花夫妻の生活ぶりを見に寄ったというのである。


そして女は甲州のある村の豪家の娘で、親類内に嫁いだが、
弟が若かったので、実父は彼女夫妻を実家の後見をさせ、住まわせた。

そして主人はやさしい人で、耶蘇教信者で、外川先生の雑誌の読者であり、
女はその雑誌に時々所感を寄する一男子の文章を読んで、
その熱烈な意気は彼女の心をうごかした。

この信州の男子は主人の友達のひとりで、
ときおり信州から主人を訪ねて来ることがあった。
そして、いつとなく彼女と彼の間に無線電信をまじえて、手紙の往復がはじまった。

まもなくして、主人は病死するが、
死ぬる前、妻に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。
そして、一年程過ぎ、彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。

この後、彼女の家では、父死し、弟は年若ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、
彼女は家を脱け出して、信州の彼の家に奔(はし)った。

こうしたことを若き女は蘆花氏の奥様に話し、
蘆花宅を辞するとき、
「何卒(どうぞ)覚えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。


この後、二人の消息が絶え、一年の新嘗祭も過ぎた頃、
彼の妻の死を報ずるはがきであった。

・・

蘆花氏はまぎれなく作家であると感じるのは、この後の綴りである。

【・・
聞(き)きたいのは、沈黙の其一年の消息である。
知りたいのは、其(その)死(し)の状(さま)である
・・】

この後、この女の死ぬまでの軌跡を知り、綴られる。


私はこの若き夫婦の話しとは別で、
この前章に綴られている徳冨蘆花夫妻の日常生活を思いを寄せられたのである。

千歳村・粕谷に越した翌年の晩秋の新嘗祭の祝日の時、
都心から親類の子供が遊びに来たので、
隣家の女の子と共に、前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車を押して、
二子多摩川の8キロの野路を往復されたことである。

そして、三歳の女児は、蘆花自身がたえまない確執ある実兄・蘇峰であるが、
蘆花夫妻は子供に恵まれず、蘇峰の末女である鶴子を養女に迎えたりしたのである。

或いは、この物語の若き夫妻が一夜宿泊させた翌朝も
川越の方へ行くと云うので、
近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内(みちしるべ)かた/″\柳行李を負(お)わせてやることにした、
と綴られている。

千歳村・粕谷から荻窪までは、北に少なからず3キロはあるので、
この当時の人は、よく歩かれた。

もとより蘆花ご夫妻は、新宿、渋谷までの道よりは、
たびたび歩かれている、と幾度も綴られているので、
あの当時は利便性がなかったとしても、私は感心を重ねるばかりである。


                           《つづく》


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我が故郷、亡き徳冨蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《17》

2009-06-24 15:34:05 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に越した年の春過ぎに、
近所のお方から方からポインタァ種の小犬を一疋を貰い、
愚な鈍な上、気弱な白い犬を『白(しろ)』と名付けて、
この後、一年半近く徳冨蘆花夫妻が飼われた・・。

今回は、この犬を巡って、蘆花氏は『白』と題して綴られている。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・

   白

       一

彼の前生は多分(たぶん)犬(いぬ)であった。
人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程可愛(かあい)いものを知らぬ。
子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、
裾は喰いさかれ、其様(そん)なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱られても、
また走り出ては犬と狂うた。

犬の為には好きな甘(うま)い物も分けてやり、
小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半にも起きて見た。

明治十年の西郷戦争に、彼の郷里の熊本は兵戈(へいか)の中心となったので、
家を挙げて田舎に避難したが、
オブチと云う飼犬のみは如何しても家を守って去らないので、
近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。

三月程して熊本城の包囲が解け、
薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、
オブチは彼の家に陣(じん)どった薩摩健男(さつまたけお)に喰われてしまって、
頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。

彼の絶望と落胆は際限が無かった。
久しぶりに家に還って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯哭(なげ)いた。
南洲の死も八千の子弟の運命も彼には何(なん)の交渉もなく、
西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。


村入して間もなく、ある夜先家主(せんやぬし)の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。
二子の渡(わたし)の近所から貰って来たと云う。
鼻尖(はなさき)から右の眼にかけ茶褐色の斑(ぶち)がある外は真白で、
四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前(きまえ)鷹揚(おうよう)に、
坊ちゃんと云った様な小犬である。

既に近所からもらった黒い小犬もあるので、
二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、
到頭貰うことにした。

今まで畳の上に居たそうな。
早速(さっそく)畳に放尿(いばり)して、
其晩は大きな塊(かたまり)の糞を板の間にした。


新来の白(しろ)に見かえられて、間もなく黒(くろ)は死に、
白の独天下となった。
畳から地へ下ろされ、麦飯味噌汁で大きくなり、
美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。
雄(おす)であったが、雌(めす)の様な雄であった。


主夫妻(あるじふさい)が東京に出ると屹度跟(つ)いて来る。
甲州街道を新宿へ行く間には、
大きな犬、強い犬、暴(あら)い犬、意地悪い犬が沢山居る。
而してそれを嗾(け)しかけて、弱いもの窘(いじ)めを楽む子供もあれば、
馬鹿な成人(おとな)もある。
弱い白は屹度咬(か)まれる。

其れがいやさに隠れて出る様にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。
而して咬まれる。
悲鳴をあげる。
二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥(む)き出す。
己れより小さな犬にすら尾を低(た)れて恐れ入る。
果ては犬の影され見れば、己(われ)ところんで、最初から負けてかゝる。

それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。
最早(もう)懲(こ)りたろうと思うて居ると、
今度出る時は、又候(またぞろ)跟いて来る。
而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫(かし)の木の下にぐったり寝ながら、
夢中で走るかの様に四肢(しし)を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。


弱くても雄は雄である。
交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。
てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、
村内唯一の牝犬の許(もと)に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、
床の下に三日潜(もぐ)り込んで居たのであった。

武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉(よろよろ)と帰って来る姿を見ると、
生殖の苦を負(お)う動物の運命を憐まずには居られなかった。
一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。
美しいポインタァ種の黒犬で、
家の人が見廻りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲を巡視し、
夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。

其犬がぶらりと遊びに来た。
而して主人に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。
あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸(すえくび)で、甚(はなはだ)固くなって居た。
牝犬はやがて往きかけた。
白は纏綿(てんめん)として後になり先きになり、
果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、
媒妁(なかだち)して下さいと云い貌(がお)にクンクン鳴いたが、
主人はもとより如何ともすることが出来なかった。


其秋白の主人は、死んだ黒のかわりに彼(かの)牝犬の子の一疋をもらって来て矢張(やはり)其(そ)れを黒と名づけた。
白は甚(はなはだ)不平であった。
黒を向うに置いて、走りかゝって撞(どう)と体当りをくれて衝倒(つきたお)したりした。

小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動けぬ処にもぐり込んで、
其処(そこ)から白に敵対して吠えた。
然し両雄(りょうゆう)並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。

而(しか)して再(ふたた)び白の独天下になった。
可愛がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍(どん)の性質はいよ/\鈍になった。
よく寝惚けて主人に吠えた。
主人と知ると、恐れ入って、
膝行頓首(しっこうとんしゅ)、亀の様に平太張りつゝすり寄って詫びた。

わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭して恐る/\すり寄って来る。
頭を撫でると、其手を軽く啣(くわ)えて、
衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息をついた。

       二

死んだ黒(くろ)の兄が矢張黒と云った。
遊びに来ると、白(しろ)が烈しく妬(ねた)んだ。
主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日(しゅうじつ)影を見せぬことがあった。


甲州街道に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。
坊ちゃんの白を一方(ひとかた)ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬んだ。
ある時、裏の方で烈(はげ)しい犬の噛み合う声がするので、出て見ると、
黒と白とが彼天狗(てんぐ)犬を散々咬んで居た。

元来平和な白は、卿(おまえ)が意地悪だからと云わんばかり恨めしげな情なげな泣き声をあげて、
黒と共に天狗犬に向うて居る。
聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立てゝ、
甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送った。


其後白と黒との間に如何(どん)な黙契が出来たのか、
白はあまり黒の来遊(らいゆう)を拒まなくなった。
白を貰って来てくれた大工が、牛乳車(ぐるま)の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。

其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納(おさ)まって居ることもあった。
界隈(かいわい)に野犬が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻(いなずま)強盗の如く横行し、
夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。

ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。
雨戸引きあけると、何ものか影の如く走せ去った。
白は後援を得てやっと威厳を恢復し、二足三足あと追かけて叱る様に吠えた。
野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。

其様な事が二三度もつゞいた。
其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。
一夜(いちや)庭先で大騒ぎが起った。
飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆(きたい)であった。


白と黒は大の仲好になって、始終共に遊んだ。
ある日近所の与右衛門(よえもん)さんが、一盃機嫌で談判に来た。
内の白と彼(かの)黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑の大豆を散々踏み荒したと云うのである。
如何して呉(く)れるかと云う。

仕方が無いから損害を二円払うた。
其後黒の姿はこっきり見えなくなった。
通りかゝりの武太(ぶた)さんに問うたら、
与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家では余儀なく作男に黒を殺させ、
作男が殺して煮て食うたと答えた。
うまかったそうです、と武太さんは紅い齦(はぐき)を出してニタ/\笑った。


ある日見知らぬかみさんが来て、
此方(こちら)の犬に食われましたと云って、
汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏(しゃも)の頭と足を二本出して見せた。

内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、
確に此方の犬と認めたのかときいたら、
かみさんは白い犬だった、
聞けば粕谷(かすや)に悪イ犬が居るちゅう事だから、其(そ)れで来たと云うのだ。

折よく白が来た。
かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。
然し新参者の弱身で、
感情を傷(そこな)わぬ為兎(と)に角(かく)軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。
彼(かれ)は斯様な出金を東京税と名づけた。
彼等はしば/\東京税を払うた。


白の頭上には何時となく呪咀(のろい)の雲がかゝった。
黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪の天狗犬と交る様になった。
天狗犬に嗾(そそのか)されて、色々の悪戯も覚えた。
多くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。

遅鈍な白(しろ)は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、
其着物(きもの)の著(いちじる)しい為に認められたのかも知れなかった。

其内村の収入役の家で、係蹄(わな)にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、
其れは黒い犬だったそうで、
さし当(あた)り白の冤は霽(は)れた様(よう)なものゝ、
要するに白の上に凶(あし)き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳を作った。


到頭白の運命の決する日が来た。
隣家の主人が来て、数日来猫が居なくなった、

不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。
貴家(おうち)の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、
死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。
同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。


最早詮方は無い。
此まゝにして置けば、隣家は宥(ゆる)してくれもしようが、
必(かならず)何処(どこ)かで殺さるゝに違いない。
折も好し、甲州の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。

白の主人は夏の朝早く起きて、
赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪の停車場まで牽(ひ)いて往った。
千歳村に越した年の春もろうて来て、
この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。

主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。
田圃を通って、雑木山に入る岐(わか)れ道まで来た時、
主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙(はるか)に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。

白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟(つ)いて来た。
停車場前の茶屋で、駄菓子を買うてやったが、
白は食おうともしなかった。

貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、
ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。

       三

最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。
第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家から約四里甲府(こうふ)の停車場まで帰路を探がしたと云う事を報じた。
然(しか)し甲府からは汽車である。
甲府から東へは帰り様がなかった。


赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。
眼尻が少し下って、口をあんとあいたところは、贔屓目(ひいきめ)にも怜悧な犬ではなかった。
然し赤沢君の村は、他(ほか)に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。

           *

白が甲州に養われて丁度一年目の夏、旧主人夫妻は赤沢君を訪ねた。
其(その)家に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。
喫驚(びっくり)する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。

「白」と声をかくるより早く、土足で座敷に飛び上り、膝行(しっこう)匍匐(ほふく)して、
忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。

其日は始終跟(つ)いてあるき、翌朝山の上の小舎にまだ寝て居ると、
白は戸の開くや否飛び込んで来て、蚊帳越しにずうと頭をさし寄せた。

帰りには、予め白を繋(つな)いであった。
別(わかれ)に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。
而(しか)して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋(とうりんきょう)の辺まで、
白(しろ)は彼等の足跡を嗅いで廻って、大騒ぎしたと云うことであった。


翌年の春、夫妻は二たび赤沢君を訪うた。
白は喜のあまり浮かれて隣家の鶏を追廻し、
到頭一羽を絶息させ、而(しか)して旧主人にまた損害を払わせた。


其(その)後(のち)白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。
笛吹川未曾有(みそう)の出水で桃林橋が落ちた。
防水護岸の為一村(いっそん)の男総出で堤防に群がって居ると、
川向うの堤に白いものゝ影が見えた。

其は隣郡に遊びに往って居た白であった。
白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、
白は向うの堤を川上へ凡(およそ)二丁ばかり上ると、
身を跳(おど)らしてざんぶとばかり濁流、箭の如(ごと)き笛吹川に飛び込んだ。

あれよ/\と罵(ののし)り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、
斜に洪水の川を游(およ)ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉(いっせい)に喝采の声をあげた。
弱い彼にも猟犬即(すなわ)ち武士の血が流れて居たのである。


白に関する最近の消息は斯(こ)うであった。
昨春(さくしゅん)当時の皇太子殿下今日の今上陛下が甲州御出の時、
演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。
其(その)時(とき)吠(ほ)えたりして貴顕に失礼があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。
主人が拘束されなかったのはまだしもであった。

       四

白の旧主の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、
其息子が甘藷売りに往った帰りに
神田の青物問屋からテリアル種(しゅ)の鼠(ねずみ)程(ほど)な可愛い牝犬をもらって来てくれた。

ピンと名をつけて、五年来(ごねんらい)飼うて居る。
其子孫も大分界隈(かいわい)に蕃殖した。
一昨年から押入婿(おしいりむこ)のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。
昨秋からは追うても捨てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来(ふうらい)の牝犬も居る。
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。



白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。
甲州に往って十年です。
村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。
「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。
「白」は幸福な犬です。

  大正十二年二月九日追記

・・】

このように愚な鈍な上、気弱な白い犬であり、
近くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられたり、
幾度も鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになったりしたので、
やむえず遠方の甲州に住む友人に預けたのである。

その後、夫妻が甲州に住む友人を訪れた折、この愛犬は喜びのしぐさを現したり
する。
この間、夫妻は別の犬を飼ったりするが、
然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである、
と綴りは結ぶのである。

私の生家は昭和20年代、私の幼年期の頃は犬を飼うことはなく、
父、祖父が死去され、家が没落しはじめた頃、
妹たちが子犬を飼いはじめていたが、
私は申(さる)年の生まれのせいか、古来より犬猿の仲のことわざ通り、
犬には興味はないのである。

                        《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《16》

2009-06-22 17:38:30 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれ6年を迎える頃は、村人の慣習に馴染み、
鎮守八幡の集会、式典などに参加されている。

こうした中、雪の降る日中、ひとりの友人が来宅し、
宿泊した翌朝も雪が降る中、友人を見送る・・。

今回は、『わかれの杉』と題して、秘められた愛惜感ある綴りとなっている。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。

【・・
        わかれの杉

彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡(ちんじゅはちまん)である。
型の通りの草葺の小宮(こみや)で、田圃(たんぼ)を見下ろして東向きに立って居る。


月の朔(ついたち)には、太鼓が鳴って人を寄せ、
神官が来て祝詞(のりと)を上げ、氏子(うじこ)の神々達が拝殿に寄って、
メチールアルコールの沢山(たくさん)入った神酒を聞召し、
酔って紅くなり給う。

春の雹祭(ひょうまつり)、秋の風祭(かざまつり)は毎年の例である。
彼が村の人になって六年間に、
此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽(ひるかぐら)が一度あった。

入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事(よりあいごと)があれば、
天候季節の許す限りは此処の拝殿(はいでん)でしたものだ。

乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、
つい昨年になって拝殿に格子戸(こうしど)を立て、締(しま)りをつけた。

内務省のお世話が届き過ぎて、
神社合併が兎(と)の、風致林(ふうちりん)が角(こう)のと、面倒な事だ。

先頃も雑木(ぞうき)を売払って、あとには杉か檜苗(ひのきなえ)を植えることに決し、
雑木を切ったあとを望の者に開墾(かいこん)させ、
一時豌豆や里芋を作らして置いたら、
神社の林地なら早々(そうそう)木を植えろ、
畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、
其筋から脅(おど)されたので、村は遽(あわ)てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。


粕谷八幡はさして古くもないので、大木と云う程の大木は無い。
御神木と云うのは梢(うら)の枯れた杉の木で、
此は社(やしろ)の背(うしろ)で高処だけに諸方から目標(めじるし)になる。
烏がよく其枯れた木末(こずえ)にとまる。


宮から阪の石壇(いしだん)を下りて石鳥居を出た処に、
また一本百年あまりの杉がある。
此杉の下から横長い田圃(たんぼ)がよく見晴される。
田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。
一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、
直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋(いしばし)を渡り、
東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干(らんかん)無しの石橋を渡り、
やがて二つに分岐(ぶんき)して、直な方は人家の木立の間を村に隠(かく)れ、
一は人家の檜林に傍(そ)うて北に折れ、林にそい、桑畑(くわばたけ)にそい、二丁ばかり往って、
雑木山の端(はし)からまた東に折れ、北に折れて、
六七丁往って終に甲州街道に出る。

此雑木山の曲(まが)り角(かど)に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。


村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下(した)に立って色々の人を送った。
彼(かの)田圃を渡(わた)り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで
目送(もくそう)した人も少くはなかった。
中には生別(せいべつ)即(そく)死別となった人も一二に止まらない。
生きては居ても、再び逢(あ)うや否疑問の人も少くない。

此杉は彼にとりて見送(みおくり)の杉、さては別れの杉である。
就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。


其は小説寄生木(やどりぎ)の原著者篠原良平の小笠原(おがさわら)善平(ぜんぺい)である。
明治四十一年の三月十日は、奉天決勝(ほうてんけっしょう)の三週年。
彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、
三年前の前々日(ぜんぜんじつ)であった。

三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒い寂(さび)しい日であった。
突然彼小笠原は来訪した。
一年前、此家の主人(あるじ)は彼小笠原に剣を抛(なげう)つ可く熱心(ねっしん)勧告(かんこく)したが、
一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙(えこ)情実に愛想(あいそう)をつかし
疳癪(かんしゃく)を起して休職願を出し、
北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語(ろご)をやろうと云って居た。
陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。

雪は終日降り、夜すがら降った。
主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆(はんぷく)討論した。
而して共に六畳に枕(まくら)を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。


明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。
まだ綿の様(よう)な雪がぼったり/\降って居る。
此辺では珍らしい雪で、一尺の上(うえ)積(つも)った。
彼小笠原は外套の頭巾(ずきん)をすっぽりかぶって、
薩摩下駄をぽっくり/\雪に踏(ふ)み込みながら家(うち)を出(で)て往った。
主は高足駄を穿(は)き、番傘(ばんがさ)をさして、
八幡下別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやり玉(たま)え」
「色々お世話でした」


傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、
また一しきり烈(はげ)しく北から吹きつくる吹雪(ふぶき)の中を、
黒い外套姿が少し前俛(まえこご)みになって、一足ぬきに歩いて行く。

第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。
段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、
一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へ折(お)れて、
到頭(とうとう)見えなくなってしもうた。


半歳(はんとし)の後、彼は郷里の南部(なんぶ)で死んだ。
 漢人の詩に、

   歩出(ほしていづ)城東門(じやうとうのもん)、
   遙望(はるかにのぞむ)江南路(こうなんのみち)、
   前日(ぜんじつ)風雪中(ふうせつのうち)、     
   故人(こじん)従此去(これよりさる)、


別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、
吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。

・・】


この当時の神社、鎮守八幡などが国の内務省が管理下され、
その地に住む村人たちの心情が伝わってくる。
私が幼児、子供の昭和20年代の終わりの頃まで、
近くの神社で初詣、秋のお祭りなどで巡業する芝居劇団などの
ありふれた舞台劇を観賞したりしたひとりである。

氏はひとりの友人が来宅し、
歓待しながら平和問題、信仰問題等を討論し、
翌朝、雪が舞い降る中、友人を見送る愛惜感のある情景を描いている。


                           《つづく》




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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《15》

2009-06-22 16:01:14 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、
村人の状況がわかるにつれて、今回は『腫物』と題して、
村人の一部の方に恥部のような実態を克明に綴られている・・。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     腫物

       一

人声が賑(にぎ)やかなので、往って見ると、
久(ひさ)さんの家は何時(いつ)の間にか解き崩されて、
煤(すす)けた梁や虫喰った柱、黒光りする大黒柱、
屋根裏の煤竹(すすたけ)、それ/″\類(るい)を分って積まれてある。

近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。
件(くだん)の古家を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、
其(そ)れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。

一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。
時々壁土が撞(どう)と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。
汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、
庭木や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、
其処らじゅう明るくガランとして居る。


家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳を敷いて、
眼の少し下って肥え脂ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、
おはぐろの剥(は)げた歯を桃色の齦(はぐき)まで見せて、
買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。

頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、
コト/\藁(わら)を打って居る。
婆さんや唖の巳代吉(みよきち)は本家へ帰ったとか。
末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。


一切の人と物との上に泣く様な糠雨(ぬかあめ)が落ちて居る。

あゝ此(この)家も到頭潰れるのだ。


       二


今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。
弟は一人前なかったので婿養子をしたが、
婿と舅の折合が悪い為に、老夫婦は息子を連れて新家に出た。

今解き崩されて片々(ばらばら)に売られつゝある家が即ち其れなのである。
己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、
老夫婦は家財道具万端好いものは皆(みな)引たくる様にして持って出た。
よく実る柿の木まで掘って持って往った。


痴(おろか)な息子も年頃になったので、
調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。
名をお広(ひろ)と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。

婿入の時、肝腎の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、
皆ドッと笑い出した。
久太郎が彼の名であった。


久さんに一人の義弟があった。
久さんが生れて間もなく、村の櫟林(くぬぎばやし)に棄児があった。
農村には人手が宝である。

石山の爺さんが右の棄児を引受けて育てた。
棄児は大きくなって、名を稲次郎(いねじろう)と云った。
彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子が行(ゆ)く/\の力にもなれと、
稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。


ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家を出たきり行方不明になった。
探がし探がした結果、彼は吉祥寺、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。
彼は酒が好きだった。
年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死んだのを物取りが来て剥いだか、
それとも追剥(おいはぎ)が殺して着物を剥いだか、
死骸は何も告げなかった。
彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。


主翁(おやじ)が死んで、石山の新家は(よめ)の天下になった。
誰も久(ひさ)さんの家とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。
宮前は八幡前を謂うたのである。
外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。
彼女は相応に久さんを可愛がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。
一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、
義弟(ぎてい)稲次郎の子を二人まで生んだ。
其子は兄が唖で弟が盲であった。

罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。
其内、稲次郎は此辺で所謂即座師(そくざし)、繭買をして失敗し、
田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子(おうじ)で首を縊(くく)って死んだ。

其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字(となりあざ)の大工が妾の住家となった。
私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。

       三

背後は雑木林、前は田圃、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰(たつ)爺さんの家、
それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事には誂向(あつらえむ)きの場所だった。
石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。

唖と盲は稲次郎の胤(たね)と分ったが、彼(あの)二人は久さんのであろ、
とある人が云うたら、否、否、あれは何某(なにがし)の子でさ、
とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑した。
Husband-in-Law の子で無い子は、次第に殖えた。

殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。
新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。

本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還って往った。
新家は博徒破落戸(ならずもの)の遊び所になった。
博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己(わ)が不断の住家にした。

眼のぎろりとした、胡麻塩髯の短い、二度も監獄の飯を食った、
丈の高い六十爺の彼は、
村内に己が家はありながら婿夫婦を其家に住まして、
自身は久さんの家を隠れ家にした。
昼は炉辺(ろべた)の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並べた。

久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵で早飯食わして、
僕(ぼく)かなんぞの様に仕事に追い立て、
あとでゆる/\鰹節かいて甘(うま)い汁をこさえて、
九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。
親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。

「俺(おら)ァ嬶(かか)とられちゃった」
と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。
戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。

久さんのおかみは「良人(やど)が正直だから、良人が正直だから」
と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。
東隣のおとなしい媼(ばあ)さんも
「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」
などからかった。

久さんは怪訝(けげん)な眼を上げて、
「え?」
と頓狂(とんきょう)な声を出す。
「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜(まくわ)を食ってたて事よ、ふ」
と媼さんは笑った。

久さんの家には、久さんの老母があった。
然し婆さんはの乱行家の乱脈に対して手も口も出すことが出来なかった。
若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、
八十近くなって眼液(めしる)たらして竈(へっつい)の下を焚(た)いたり、
海老の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃いたり、
杖にすがって(よめ)の命のまに/\使(つか)いあるきをしたり、
其(そ)れでも其(その)無能の子を見すてゝ本家に帰ることを得(え)為(せ)なかった。

それに婆さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。
本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。
久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。
白髪頭の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。

彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、
七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。
尻切草履突かけて竹杖にすがって行く婆さんの背(うしろ)から、
鍬(くわ)をかついだ四十男の久さんが、
婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。

酒でも飲んだ時は、に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、
人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、
「お広(ひろ)、断わるがいゝ」
と啖呵を切った。

       四

死んだ棄児の稲次郎が古巣に、
大工の妾と入れ代りに東京から書(ほん)を読む夫婦の者が越して来た。

地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。
東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、
櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。
買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其韮(にら)や野菜菊は内で作ったの、
其炉縁(ろぶち)は自分のだの、と物毎に争うた。

稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。
地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。
地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。
おかみは義兄と其値(ね)を争うた。
買主は戯談に
「無代(ただ)でもいゝさ」
と云うた。

おかみはムキになって
「あなたも耶蘇教信者じゃありませんか。
信者が其様(そん)な事を云うてようござンすか」
とやり込めた。
彼女に恐ろしいものは無かった。

ある時義兄が其素行(そこう)について少し云々したら、
泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹(きっ)と向き直り、
あべこべに義兄に喰ってかゝり、
老人と正直者を任せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、
慾張ってばかり居るのと、いきり立った。

彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。
「本家の兄が、本家の兄が」
が彼女の口癖であった。
彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。
相手かまわず問わず語(がた)りの勢込んでまくしかけ、
「如何(いか)に兄が本が読めるからって、
村会議員だからって、信者だって、理(り)に二つは無いからね、
わたしは云ってやりましたのサ」
と口癖の様に云うた。

人が話をすれば、
「(うん)、(うん)、ふん、ふん」
と鼻を鳴らして聞いた。
彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、
彼女も村では正札附の莫連者(ばくれんもの)で、堅い婦人達は相手にしなかった。

村に武太(ぶた)さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。
かみさんは藪睨(やぶにらみ)で、気が少し変である。
ピイ/\声(ごえ)で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。
彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。
「子供ははァ背に負(おぶ)っとる事ですよ。
背からおろしといたばかしで、女(むすめ)もなくなっただァ」
と云いかけて、斜視(やぶ)の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。

また誰に向っても、
「萩原(はぎわら)の武太郎は、五宿へ往って女郎買ばかしするやくざ者で」
と其亭主の事を訴える。
武太さんは村で折紙つきのヤクザ者である。
武太さんに同情する者は、久(ひさ)さんのおかみばかりである。
「彼様な女房持ってるンだもの」
と、武太さんを人が悪く言う毎(ごと)に武太さんを弁護する。

然し武太さんの同情者が乏しい様に、
久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。

唯村の天理教信者のおかず媼(ばあ)さんばかりは、
久さんのおかみを済度(さいど)す可く彼女に近しくした。


稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、
隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。
彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。
此方からも麦扱(むぎこ)きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆(えんどう)や里芋を売ってもらったりした。

おかみも小金(こがね)を借りに来たり張板を借りに来たりした。
其子供もよく遊びに来た。
蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、
顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。

彼女の家に集う博徒の若者が、
夏の夜帰りによく新村入の畑に踏み込んで水瓜を打割って食ったりした。

新村入は用があって久さんの家に往く毎に胸を悪くして帰った。
障子は破れたきり張ろうとはせず、畳は腸(はらわた)が出たまゝ、壁は崩れたまゝ、
煤(すす)と埃(ほこり)とあらゆる不潔に盈(みた)された家の内は、
言語道断の汚なさであった。

おかみはよく此(この)中で蚕に桑をくれたり、
大肌(おおはだ)ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、
破れ障子の内でギッチョンと響(おと)をさせて木綿機を織ったり、
大きな眼鏡をかけて縁先で襤褸(ぼろ)を繕(つくろ)ったりして居た。

       五

新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。
一は久さんの家で、今一つは品川堀の側にある店であった。

其店には賭博をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、
白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。
其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰れ、
目ざす家は久さんの家だけになった。

己(わ)が住む家の歴史を知るにつけ、
新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩(わずろ)うた。
色々の「我」が寄って形成して居る彼家は、云わば大きな腫物(はれもの)である。

彼は眼の前に臭い膿(うみ)のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。
然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。


ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。
彼の眼の前には蝙蝠色(こうもりいろ)の夕闇が広がって居た。
其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧(わ)いた様に黒い影がすうと寄って来た。
ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。
彼は畳の上に退(しざ)り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。

それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀で殺害した事を、
彼女は何処(どこ)からか聞いたのである。
「余りだと思います」
と彼女は剃刀の刃を己(わ)が肉にうけたかの様に切ない声で云った。


聞く彼の胸はドキリとした。
今だ、とある声が囁(ささや)いた。
彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊いた。

おかみは、巳代が三歳(みっつ)までよく口をきいて居たら、
ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」
と云うたを最後の一言(いちごん)にして、
医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。

何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、
其頃飼った牛を不親切からつい殺してしまいました、
其牛の祟(たた)りだと人が申すので、
色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。

巳代公ばかりじゃ無い、亥之公(いのこう)が盲になったのは如何したものだ、
と彼は肉迫した。
而して彼はさし俯(うつむ)くおかみに向うて、
此(この)家の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届の数々を烈しく責めた。
彼女は終まで俯いて居た。


それから二三日経(た)つと、彼は屋敷下を通る頬冠の丈高い姿を認めた。
其れが博徒の親分であることを知った彼は、
声をかけて無理に縁側に引張(ひっぱ)った。

満地の日光を樫の影が黒く染めぬいて、あたりには人の影もなかった。
彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒(ふらち)を責め
最早(もう)六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花を咲かせろと勧めた。
親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。

       六

然しながら彼(かの)癌腫(がんしゅ)の様な家の運命は、
往く所まで往かねばならなかった。


己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、
おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩(あんま)の弟子にした。
家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけ廻(まわ)った勝気の亥之吉は、
按摩の弟子になってめき/\上達し、追々一人前の稼ぎをする様になった。
おかみは行々(ゆくゆく)彼をかゝり子にする心算(つもり)であった。
それから自身によく肖(に)た太々(ふてぶて)しい容子をした小娘のお銀を、
おかみは実家近くの機屋(はたや)に年季奉公に入れた。


二人の兄の唖の巳代吉(みよきち)は最早若者の数に入った。
彼は其父方の血を示して、口こそ利けね怜悧な器用な華美(はで)な職人風のイナセな若者であった。
彼は吾家に入り浸(びた)る博徒の親分を睨(にら)んだ。
両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様(こんな)だと眼色を変えて人に訴えた。
親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。

ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。
母を窃(ぬす)む者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。
親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。

巳代公を入れるより彼(あの)二人を入れろ、と村の者は罵った。
巳代吉は本家から願下げて、
監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。

然し親分は中々其居馴れた久さんの家の炉の座を動こうともしなかった。
親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合(にらみあい)の姿となった。
或日巳代吉は手頃の棒を押取って親分に打ってかゝった。
親分も麺棒をもって渡り合った。
然し血気の怒に任(まか)する巳代吉の勢鋭く、
親分は右の手首を打折(うちお)られ、加之(しかも)棒に出て居た釘で右手の肉をかき裂(さ)かれ、
大分の痛手を負うた。

隣家の婆さんが駈(か)けつけて巳代吉を宥(なだ)めなかったら、
親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。
繃帯(ほうたい)して右手を頸(くび)から釣って、
左の手で不精鎌を持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月も後(あと)の事だった。

喧嘩の仲入に駈けつけた隣の婆さんは、
側杖(そばづえ)喰(く)って右の手を痛めた。
久さんのおかみは、詫び心に婆さん宅の竈(へっつい)の下など焚(た)きながら、
喧嘩の折節近くに居合わせながら看過した隣村の甲乙を思うさま罵って居た。

       七

田畑は勿論(もちろん)宅地もとくに抵当に入り、
一家中日傭(ひやとい)に出たり、おかみ自身手織の木綿物を負って売りあるいたこともあったが、
要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。
「お広さん、大層(たいそう)精(せい)が出ますね」
久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、
「天狗様(てんごうさま)の様に働くのさ」
とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。

おかみは一切稼ぎを廃(よ)した。
而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装(なり)をして親分と東京に往った。
家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前を見せて素手では帰さなかった。
彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵(ふてき)であった。

           *

到頭腫物(しゅもつ)が潰れる時が来た。

おかみは独で肝煎(きもい)って、家を近在の人に、
立木を隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻して隣の辰爺さんに売り、
大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、
一人残った腫れぼったい瞼(まぶた)をした末の息子を近村の人に頼み、
唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、
而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉(いのきち)と間借りして住む可く東京へ往って了うた。


酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。

嬶(かか)に置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりを喰って一人木小屋に踏み留まった久さんも、
是非なく其姉と義兄の世話になるべく、
頬冠の頭をうな垂れて草履ぼと/\懐手して本家に帰った。

屋敷のあとは鋤(す)きかえされて、今は陸稲(おかぼ)が緑々(あおあお)と茂って居る。
・・】



千歳村は引越しされた明治40年に於いては、
粕谷はもとより下祖師ヶ谷、上祖師ヶ谷と三の字(あざ)の外、
船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、
1番戸数の多いが烏山2百余戸、一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒・・
と記載されていた。

このようなそれぞれ集落の於いては、何軒かは外部の方に知られたくない
村民がいると思われる。
氏は新参者として、乱行家の乱脈、不衛生きわまりない状況などを克明に描いて折、
地元の住民にとっては余り公(おおやけ)にして欲しくない面もあるので、
百年後の今日でも、蘆花は偏屈な男で好ましくない、
と風の噂で私も聞いたりすることもある。

あの当時は、漁村、山村、この地の里村に於いても、
都心のように隠し通せる場所でなく、ともすれば赤裸々になることが多い。

私の幼児だった昭和20年代の前半さえ、
神代村を含めた集落に於いては、ある地主は妾とその子供も宅地にある物置小屋を改造した処に住居させたり、
乳児が病死し、座布団をふたつ折にして背中にしょつて、
毎夕さまよい歩く若い婦人を見かけていたりしていた・・。

そして都心の有数な財力のある跡取りの若い男は、
大正時代の半ば、結婚前に芸者遊びをして、子供が出来き、結果として里子に出したのである。
私の祖父が引き取り、父の妹たちと共に育てられ、
やがて父と結婚したのが私の母であった。

この人生、生き様を裁断するのは、どの時代でも安易であるが、
ひとり人が懸命に生きている状況には、ただ私は頭(こうべ)をたれる・・。


                            《つづく》

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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《14》

2009-06-22 10:59:03 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

前回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
『百草園』と題し、都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。

今回は『月見草』と題して、多摩川から採ってきた月見草が氏の自宅の庭で、
増えた情景を観ながら、
氏は幼年期の故郷での出来事を回想する。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     月見草

村の人になった年(とし)、玉川の磧(かわら)からぬいて来た一本の月見草が、
今はぬいて捨てる程に殖(ふ)えた。
此頃は十数株、少(すくな)くも七八十輪宵毎(よいごと)に咲いて、
黄昏(たそがれ)の庭に月が落ちたかと疑われる。


月見草は人好きのする花では無い。
殊(こと)に日間(ひるま)は昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれて、
如何にも思切りわるくだらりと幹(みき)に付いた態(ざま)は、見られたものではない。
然し墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、尼(あま)の様に冷たく澄んだ色の黄、其(その)香(か)も幽に冷たくて、
夏の夕にふさわしい。
花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。
独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、
はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ。
月見草も亦心浅からぬ花である。


八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家(うち)から、
川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。
途中、一方が古来(こらい)の死刑場(しおきば)、一方が墓地の其中間(ちゅうかん)を通らねばならぬ処があった。

死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、
夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳(こふん)新墳(しんふん)累々(るいるい)と立並ぶ墓場の砂地には、
初夏の頃から沢山月見草が咲いた。

日間(ひるま)通る時、彼は毎(つね)に赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見た。
学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見た。
斯(か)くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。


其墓場の一端には、彼が甥(おい)の墓もあった。
甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父(おじ)甥は常に共に遊んだ。
ある時叔父は筆の軸(じく)を甥に与えて、犬の如く啣(くわ)えて振れと命じた。
従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。
叔父はまた振れと迫った。
甥はもういやだと頭を掉(ふ)った。
憎さげに甥を睨(にら)んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬(ほお)をぐっと突いた。

甥は声を立てゝ泣いた。
其甥は腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んだ。
屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)いた。
叔父の彼は異な気もちになった。
彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。


墓地は一方大川に面(めん)し、一方は其大川の分流に接して居た。
甥は其分流近く葬(ほうむ)られた。
甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、
ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。

自分の甥の墓があると誇り貌(が)に告げて、
彼は友達を引張って、甥の墓に詣(まい)った。
而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、
凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した。


彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。

・・】


徳冨蘆花が千歳村・粕谷に住みはじめた初めての年、
多摩川の川べりからたった一本の月見草を抜いて持ち帰り、
自宅の庭に植えたならば、たちまち増え続けて、
宵には少なくとも70輪以上は黄色い花が咲いている、と綴られている。


そして月見草は日中に於いては、
昨夜の花が赭(あか)く凋萎(しお)たれ、だらりと幹に付いた態(ざま)は、見られたものではない、
と断言したりしている。

しかし、墨染(すみぞめ)の夕に咲いて、
尼の様に冷たく澄んだ色の黄、その香(か)も幽に冷たくて、
夏の夕にふさわしい。
そして花弁(はなびら)の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。
独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、
はからず眼を見合わす時、誰か心跳(こころおど)らずに居られようぞ、
と愛(いと)おしい心情で褒めたたえている・・。

氏の幼年期の故郷と想像するが、
城下の郊外の家から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う途中、
一方が古来の死刑場、一方が墓地の中を通らねばならぬ処があり、
死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、
今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、
一方の古墳、新墳が数多くある墓場の砂地には、
初夏の頃からたわわに月見草が咲いた、
と氏は思い出されている。


そして昼間通り過ぎる時、
いつも赭くうな垂(だ)れた昨宵(ゆうべ)の花の死骸を見たり、
下校が遅い時は、薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗(のぞ)く花を見たりしたので、
月見草は、彼にとって早く死の花であった、
と心情されている。

氏の心情の奥底には、甥(おい)の墓もあり、
ひとつ齢下の甥っ子とは遊んだり、ときにはいたずらで泣かせたりしたが、
腹膜炎にかゝって、明(あ)くる年の正月元日病院で死んで、
屠蘇(とそ)を祝うて居る席に死のたよりが届(とど)き、
氏自身は、初めてかすかな悔恨を感じたりするのである。

その後、数年後の夏の日、友人と小川で泳ぎ終わった時、
甥の小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪(ひざまず)いて、
凋(しお)れた月見草の花を折って、墓前の砂に插(さ)した、
と綴られている。

氏の現在は、見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る、
と綴りを終えている。


私の幼年期、父の妹である叔母たちは、草花が好きで、
宅地の外れに育て、少なくとも仏花はまかなえていた。
無念ながら、私は月見草には記憶がなく、見果てぬ草花のひとつとなっている。

次兄が小学二年生の時、学校の学芸会の児童劇に於いて、
月見草のある劇で、主役に選ばれたよ、
と母に自慢げに話していたのが、私はかすかに記憶がある程度である。

したがって、私にとっては月見草は幻の草花である。


                            《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《13》

2009-06-21 17:23:55 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『百草園』と題した綴りである。

都心より友人が訪ねて来て、氏と友人が遠方の『百草園』に行き、
この後、氏自身が独りで帰路した時、激しい雷雨に遭われながらも帰宅するまでを描いている。

千歳村・粕谷の自宅よりも『百草園』までの往復路の情景は、
私でも明確に想像できるが、それにしてもよく歩かれた、
と読みながら深く思ったのである・・。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

注)原文に対し、あえて改行を多くした。


【・・
     百草園

田の畔(くろ)に赭(あか)い百合(ゆり)めいた萱草(かんぞう)の花が咲く頃の事。
ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。
暫く話して、百草園(もぐさえん)にでも往って見ようか、と主人は云い出した。

百草園は府中から遠くないと聞いて居る。
府中まではざッと四里、これは熟路(じゅくろ)である。
時計を見れば十一時、ちと晩(おそ)いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、
行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。


大麦小麦はとくに刈られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑ならぬ処もない。
其緑の中を一条(ひとすじ)白く西へ西へ山へ山へと這(は)って行く甲州街道を、
二人は話しながらさッさと歩いた。

太田君は紺絣(こんがすり)の単衣、足駄ばきで古い洋傘(こうもり)を手挾(たばさ)んで居る。
主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅(いっちょうら)に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、
麦藁の海水帽をかぶり、素足(すあし)に萎(な)えくたれた茶の運動靴をはいて居る。
二人はさッさと歩いた。

太田君は以前社会主義者として、主義(しゅぎ)宣伝の為、
平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、
中々健脚である。

主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。
一日に十里も歩けば、二日目は骨である。
二人は大胯(おおまた)に歩いた。

蒸暑(むしあつ)い日で、二人はしば/\額の汗を拭(ぬぐ)うた。


府中に来た。
千年の銀杏(いちょう)、欅(けやき)、杉など欝々蒼々(うつうつそうそう)と茂った大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川(たまがわ)の磧(かわら)に出た。

此辺を分倍河原(ぶばいかわら)と云って、
新田義貞大に鎌倉(かまくら)北条勢(ほうじょうぜい)を破った古戦場である。

玉川の渡(わたし)を渡って、
また十丁ばかり、長堤(ちょうてい)を築いた様に
川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た。
もと松蓮寺の寺跡(じせき)で、今は横浜の某氏が別墅(べっしょ)になって居る。

境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。
茶屋からまた一段堆丘(たいきゅう)を上って、
大樹に日をよけた恰好の観望台がある。
二人は其処の素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁(は)せた。


東京近在で展望無双と云わるゝも譌(うそ)ではなかった。
生憎(あいにく)野末の空少し薄曇(うすぐも)りして、
筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、
つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から
「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、
磧(かわら)と人の手のあとの道路や家屋を示す些(ちと)の灰色とをもて描(えが)かれた大きな鳥瞰画(ちょうかんが)は、
手に取る様に二人が眼下に展(ひろ)げられた。

「好(い)い喃(なあ)」
二人はかわる/″\景(けい)を讃(ほ)めた。


やゝ眺めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳(かげ)った。
時計をもたぬ二人は最早(もう)暮(く)るゝのかと思うた。
蒸暑かった日は何時(いつ)しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。
唯(と)見ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨(いんき)色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然(そう)、降るかも知れんですな」


二人は茶菓の代(しろ)を置いて、山を下りた。
太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。
日野までは一里強である。
山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」


人家の珊瑚木(さんごのき)の生籬(いけがき)を廻って太田君の後姿(うしろすがた)は消えた。
残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡(わたし)の方へ歩いて行った。
川上(かわかみ)の空に湧いて見えた黒雲は、
玉川(たまがわ)の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
彼の一足毎に空はヨリ黯(くら)くなった。
彼は足を早めた。
然し彼の足より雲の脚は尚早かった。
一(いち)の宮(みや)の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で殷々々(ごろごろ)雷が攻太鼓をうち出した。

農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。
府中の方から来る肥料車(こやしぐるま)も、あと押しをつけて、
曳々声(えいえいごえ)して家の方へ急いで居る。
「太田君は何(ど)の辺まで往ったろう?」


彼は一瞬時(またたくま)斯く思うた。
而して今にも泣き出しそうな四囲(あたり)の中を、黙って急いだ。


府中へ来ると、煤色(すすいろ)に暮れた。
時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点(とも)して居る。
早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。

此処(ここ)で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、
こゝに何時(いつ)霽(は)れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家(うち)に急いで居た。
彼は一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭(てぬぐい)をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。
而して最早大分硬(こわ)ばって来た脛(すね)を踏張(ふんば)って、急速に歩み出した。


府中の町を出はなれたかと思うと、追かけて来た黒雲が彼の頭上で破裂した。
突然(だしぬけ)に天の水槽(たんく)の底がぬけたかとばかり、
雨とは云わず瀑布落(たきおと)しに撞々(どうどう)と落ちて来た。
紫色の光がぱッと射す。
直(す)ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇(はげ)しい雷(らい)が鳴った。

彼はぐっと息(いき)が詰(つま)った。
本能的に彼は奔(はし)り出したが、
所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。
此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。
人通りも絶え果てた。
彼は唯一人であった。
雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあドウと漲(みなぎ)り落ちた。
彼の頬被りした海水帽から四方に小さな瀑が落ちた。
糸経(いとだて)を被った甲斐もなく総身濡れ浸(ひた)りポケットにも靴にも一ぱい水が溜(たま)った。

彼は水中を泳ぐ様に歩いた。
紫色や桃色の電(いなずま)がぱっ/\と一しきり闇に降る細引(ほそびき)の様(よう)な太い雨を見せて光った。
ごろ/\/\雷(かみなり)がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、
夥(おびただ)しい爆竹(ばくちく)を一度に点火した様に、
ぱち/\/\彼の頭上に砕(くだ)けた。

長大(ちょうだい)な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。
其(その)度(たび)に彼は思わず立竦(たちすく)んだ。
如何(どう)しても落ちずには済(す)まぬ雷(らい)の鳴り様である。

何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、
屹度(きっと)落ちると覚期(かくご)せねばならなかった。
屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。
此(この)街道(かいどう)の此部分で、今動いて居る生類(しょうるい)は彼一人である。
雷が生(い)き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。
雷にうたれて死(し)ぬ運命の人間が、
地の此部分にあるなら、其は取りも直(なお)さず彼でなくてはならぬ。

彼は是非なく死を覚期した。
彼は生命が惜しくなった。
今此処から三里隔(へだ)てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。
彼は電光の如く自己(じこ)の生涯を省みた。
其れは美しくない半生であった。
妻に対する負債の数々も、緋の文字(もじ)をもて書いた様に顕れた。

彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。
「一人(ひとり)はとられ一人は残さるべし」
と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭(あたま)に閃(ひらめ)いた。
彼は反抗した。
然し其反抗の無益なるを知った。
雷はます/\劇(はげ)しく鳴った。

最早(もう)今度は落ちた、と彼は毎々(たびたび)観念した。
而して彼の心は却て落ついた。
彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類(しょうるい)に対する憐愍(あわれ)に満された。
彼の眼鏡(めがね)は雨の故ならずして曇(くも)った。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。


調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降(こぶ)りになり、やがて止んだ。
暮れたと思うた日は、生白(なまじろ)い夕明(ゆうあかり)になった。
調布の町では、道の真中(まんなか)に五六人立って何かガヤ/\云いながら地(ち)を見て居る。
雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。

戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出(で)りゃあの雷だね、
わたしゃ薪小屋(まきごや)に逃げ込んだきり、
出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。


雷雨が過ぎて、最早大丈夫(だいじょうぶ)と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。
濡(ぬ)れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。
足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。
滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。
雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。


家へ六七丁の辺(へん)まで辿(たど)り着くと、白いものが立って居る。
それは妻(つま)であった。
家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。
あまり晩(おそ)いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川(たまがわ)の少し下流で、
雷が小舟に落ち、舳(へさき)に居た男はうたれて即死、
而して艫(とも)に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。

・・】



徳富蘆花氏が千歳村・粕谷に引っ越されたのは、明治40年2月27日であり、
付近の甲州街道はあり、並行したように京王線はあるが、
大正2(1913)年4月に笹塚~調布が開通し、
大正5(1916)年10月に新宿~府中が開通し、
やがて基幹腺として、昭和元年(1926)年12月に新宿~東八王子の統一開業になった、
と京王電鉄史に記載されているので、
この頃は開通以前であり、百草園まで徒歩で行かれたのである。

氏自身は府中まで4里の道のりは土地の登記などで行ったりしているので、
熟路と称し、 百草園は府中から遠くないと聞いて居たので、
夏の日、友人に百草園に行こうと誘ったのが、午前11時過ぎである。

そして、早めの昼食を頂いた後、氏は友人と自宅の千歳村・粕谷を出たのである。


緑の中を一条(ひとすじ)白い中、甲州街道を2人は談笑しながら歩き、
府中から大国魂神社の横手から南に入って、
青田の中の石ころ路を半里あまり行って、多摩川の磧(かわら)に出た。

そして、新田義貞の軍勢と北条勢軍団が激突した分倍河原の古戦場を通り、
多摩川の玉川の渡(わたし)を渡って、
しばらくすると、低い連山の中の唯有る小山を攀(よ)じて百草園に来た、
と綴られている。

この後、2人は大樹に日をよけた恰好の観望台で、
素床(すゆか)に薄縁(うすべり)を敷いてもらって、
汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら、付近の展望を褒め称えた。

そして、友人はこれから一里ばかり歩いた後、
日野の停車場に出て、汽車で帰京するので、山の下で二人は手を分った。

蘆花氏は、足早に歩いたが、川上の空に湧いて見えた黒雲は、
多摩川の水を趁(お)うて南東に流れて来た。
そして、一の宮の渡を渡って分倍河原に来た頃は、
空は真黒になって、北の方で雷鳴が響いたのである。

府中へ来ると、空は暗く、早くもぽつぽつと降りだしてきた。
そして夕立をやり過ごすかな、と迷ったが、
結果として自宅までの四里を道のりを急いだのである。

そして一の店に寄って糸経(いとだて)を買うて被(かぶ)った。
腰に下げた手拭をとって、海水帽の上から確(しか)と頬被(ほおかむり)をした。

府中の町を出はなれたかと思うと、
落雷と激しい豪雨の中を歩いたのであるが、この状況を克明に描かれている。

この後は、死を覚期したりするが、
半生を思い浮かべたり、妻に対する負債の数々も、緋の文字をもて書いた様に顕れたり、
此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えたりする。

やがて落雷に観念しながら、心は却て落つき、
心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類に対する憐愍(あわれ)に満され、。
斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた、
と綴られている。


そして調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。
雨も小降りになり、やがて止んだ。

雷雨が過ぎ、急に激しく疲労を覚えながらも
何とか自宅にたどり着いたのである。

徳富蘆花氏は雷鳴、そして付近に落雷と共に豪雨の中、
自身の心の動きを克明に描いて折、読みながら臨場感が感じてくるのである。



                         《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《12》

2009-06-21 14:23:52 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】の前回に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。

今回は、《草葉のささやき》と副題が付けられ、
この中の『二百円』と題した綴りである。

氏が千歳村・粕谷に住まわれて、
ある日、見知らぬ男が突然に来宅し、その男の話であり、
直接には千歳村の生活とは関係はないが、この当時の社会状況に於いて、
このような男もいたと当時の社会実態を知る上、
あえて転記させて頂く。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
   草葉のささやき

     二百円

樫(かし)の実が一つぽとりと落ちた。
其幽(かすか)な響が消えぬうちに、突(つ)と入って縁先に立った者がある。
小鼻(こばな)に疵痕(きずあと)の白く光った三十未満の男。
駒下駄に縞物(しまもの)ずくめの小商人(こあきんど)と云う服装(なり)。
眉から眼にかけて、夕立(ゆうだち)の空の様な真闇(まっくら)い顔をして居る。
「私(わたし)は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻(かない)に不幸な者でして……斯(こう)申上げると最早(もう)御分かりになりましょうが」


最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈(み)ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。


彼は埼玉(さいたま)の者、養子であった。
繭(まゆ)商法に失敗して、養家の身代を殆(ほと)んど耗(す)ってしまい、
其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。

こゝで妻子を呼び迎えて、暫(しばらく)暮らして居たが、
思わしい事もないので、大連(だいれん)に移った。
日露戦争の翌年の秋である。
大連に来て好い仕事もなく、満人臭(まんざくさ)い裏町にころがって居る内に、子供を亡(な)くしてしまった。

「可愛いやつでした。五歳(いつつ)でした、女児(おんなのこ)でしたがね、
其(そ)れはよく私になずいて居ました。
国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻(かない)は無愛想でしても、女児(やつ)が阿爺(とうさん)、
阿爺と歓迎して、帽子(ぼうし)をしまったり、其(そ)れはよくするのです。
私も全(まった)く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。
病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。
其内息を引きとってしまったンです。
医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様(そん)な事をしたものでしょう。
尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾(かつ)て斯々の事をした、
それで斯様(かよう)な罰を受けたと懺悔(ざんげ)したそうですがね」


彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、
夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、
其会社のまあ大将ですね、其大将の家(うち)に奉公に住み込みました。
何(なに)しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、
生活なンかそりゃ贅沢(ぜいたく)なもンです。
召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。
奥さんは好(い)い方で、私共によく眼をかけてくれました。
其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。
奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何(どう)も妻の容子(ようす)が変(かわ)って来ました。
――妻ですか、何、美人なもンですか、些(ちっと)も好くはないのです」
と彼は吐き出す様に云った。

「妻の容子がドウも変(へん)になりました。
私も気をつけて見て居ると、腑(ふ)に落ちぬ事がいくらもあるのです。
主人が馬車で帰って来ます。
二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒(びいる)を盆にのせて持て行くのです。
私は階段下に居ます。
妻が傍眼(わきめ)に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。
一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。
私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、
窃(そっ)と主人の書斎の扉(どあ)の外に抜足(ぬきあし)してじいッと聴いたり、
鍵(かぎ)の穴からも覗(のぞ)いて見ました。
が、厚い厚い扉(どあ)です。
中は寂然(ひっそり)して何を為(し)て居るか分かりません。私は実に――」


彼は泣き声になった。
一つに寄(よ)った真黒(まっくろ)い彼の眉はビリ/\動いた。
唇(くちびる)は顫(ふる)えた。

「妻の眼色(めいろ)を読もうとしても、主人の貌色(かおいろ)に気をつけても、
唯(ただ)疑念(ぎねん)ばかりで証拠を押えることが出来ません。
斯様(こん)な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。
また其様(そう)妻に云ったことも一度や二度じゃありません。
けれども妻は其度に腹を立てます。
斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、
其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出(いで)なさい、
何処ぞへ仕事を探がしに御出(おいで)なさい、
と突慳貪(つっけんどん)に云うンです。
最早(もう)私も堪忍出来なくなりました」

「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。
誰も居ない川原(かわら)です。
種々と妻を詰問しましたが、如何(どう)しても実を吐(は)きません。
其れから懐中して居た短刀をぬいて、
白状(はくじょう)するなら宥(ゆる)す、嘘(うそ)を吐(つ)くなら命を貰(もら)うからそう思え、とかゝりますと、
妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。
嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責(せ)めつけると、
到頭(とうとう)悉皆(すっかり)白状してしまいました」


彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。
すると翌日主人が私を書斎に呼びまして
『ドウも実に済まぬ事をした。
主人の俺(わし)が斯(こ)う手をついてあやまるから、何卒(どうぞ)内済(ないさい)にしてくれ。
其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。
屹度(きっと)成功さす。
これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、
二百円、左様、手の切れる様(よう)な十円札(さつ)でした、
二百円呉れました」

「君は其二百円を貰ったンだね、
何故(なぜ)其(その)短刀で其男を刺殺さなかった?」


彼は俯(うつむ)いた。
「それから?」
「それから一旦(いったん)内地に帰って、また大連に行きました。
最早(もう)主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
「而(そう)して今は?」
「今は東京の場末(ばすえ)に、小さな小間物屋を出して居ます」
「細君(さいくん)は?」
「妻は一緒に居るのです」
 話は暫く絶えた。

「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸(むね)がむしゃくしゃして仕様(しよう)がないものですから、
それで今日(こんにち)は――」

           *

忽然(こつぜん)と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。

・・】



徳富蘆花氏は会話体の形態で、
ひとりの零落した30代の男のいままでの人生の軌跡を描いているが、
あの当時の社会情勢を還りみると、このような男もある程度は在た、
と苦渋しながら私は読み終えたのである。


                          
                              《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《11》

2009-06-21 13:08:35 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】の前回に於いては、
初めて千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況を、
『憶出のかず/\』と題し、氏自身の思いが克明に綴られている・・。
前半の第二章まで掲載させて頂いたが、
今回のこの後半とした。

毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
     憶出のかず/\

      3

東京へはよく出た。
最初1年が間は、甲州街道に人力車があることすら知らなかった。
調布新宿間の馬車に乗るすら稀であった。
彼等が千歳村に越して間もなく、
玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが、
彼等は其れすら利用することが稀であった。

田舎者は田舎者らしく徒歩主義を執らねばならぬと考えた。
彼も妻も低い下駄、草鞋(わらじ)、ある時は高足駄をはいて3里の路を往復した。
しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、
ブラ提灯を便りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした。

丸の内三菱が原で、大きな煉瓦の建物を前に、
草原に足投げ出して、悠々(ゆうゆう)と握飯食った時、
彼は実際好い気もちであった。
彼は好んで田舎を東京にひけらかした。

何時(いつ)も着のみ着のまゝで東京に出た。
一貫目余の筍(たけのこ)を二本担(にな)って往ったり、
よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄(はなすすき)を道々折っては、
親類へのみやげにした。

親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷(いも)を洗ったり、外竈(そとへっつい)を焚いて見たり、
実地の飯事(ままごと)を面白がったが、
然し東京の玄関(げんかん)から下駄ばきで尻からげ、
やっとこさに荷物脊負(せお)うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、
都の子女として至って平民的な彼等も流石に羞(はず)かしそうな笑止(しょうし)な顔をした。


彼は田舎を都にひけらかすと共に、
東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。
彼は一切の角(つの)を隠して、周囲に同化す可く努(つと)めた。

彼はあらゆる村の集会に出た。
諸君が廉酒を飲む時、彼は肴(さかな)の沢庵をつまんだ。
葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。
月番になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、
自身役場に持参した。

村の耶蘇教会にも日曜毎に参詣して、
彼が村入して程なく招かれて来た耳の遠い牧師の説教を聴いた。
荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、
椎蕈ムロを拵(こしら)えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。

都の客に剣突(けんつく)喫(く)わすことはある共、
田舎の客に相手にならぬことはなかった。誰(たれ)にでもヒョコ/\頭を下げ、
いざとなれば尻軽に走り廻った。

牛にひかれた妻も、外竈(そとへっつい)の前に炭俵を敷いて座りながら、
かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして
「大分(だいぶ)話(はな)せる」
と良人にほめられた。


玉川に遠いのが毎(いつ)も繰り返えされる失望であったが、
井水が清(す)んだのでいさゝか慰めた。
農家は毎夜風呂を立てる。
彼等も成る可く立てた。
最初寒い内は土間に立てた。
水をかい込むのが面倒で、1週間も沸かしては入り沸かしては入りした。
5日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、
風呂の底がぬる/\になった。
それでも入らぬよりましと笑って、我慢して入った。
夏になってから外で立てた。
井(いど)も近くなったので、水は日毎に新にした。

青天井の下の風呂は全く爽々(せいせい)して好い。
「行水(ぎょうずい)の捨て処なし虫の声」虫の音(ね)に囲まれて、
月を見ながら悠々と風呂に浸(つか)る時、彼等は田園生活を祝した。

時々雨が降り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。
夏休に逗留に来て居る娘なども、
キャッ/\笑い興(きょう)じて傘風呂(からかさぶろ)に入った。

       4

彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、
赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白な富士を見て居た武蔵野は、
裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、
移り変る自然の面影は、其日其月の趣を、
初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。

彼等は周囲(あたり)の自然と人とに次第に親しみつゝ、
一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。
東と北に一間の下屋(げや)をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、
外に小さな浴室を建て、井筒(いづつ)も栗の木の四角な井桁(いげた)に更(か)えることにした。

畑も1反4畝程買いたした。
観賞樹木も家不相応に植え込んだ。
夏から秋の暮にかけて、間歇的(かんけつてき)だが、小婢(こおんな)も来た。

10月の末、86の父と79の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、
其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、
心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。

而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の10月25日に浴室の使用初(つかいぞめ)をして、
「日々新」と父が其(その)板壁に書いてくれた。


斯くて千歳村の1年は、
馬車馬の走る様(よう)に、さっさと過ぎた。
今更の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。
幸福は心の貧しきにある。
感謝は物の乏しきにある。
例令(たとえ)此(この)創業の1年が、
稚気乃至多少の衒気(げんき)を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁(からさわ)ぎの1年であったとするも、
彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。


彼は生年40にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。

・・】


徳富蘆花氏は初めて千歳村・粕谷に住まわれて、
ご夫妻で過ごした一年を綴られている・・。


甲州街道に調布と新宿の間の馬車、人力車、
或いは千歳村に越して間もなく玉川電鉄は渋谷と玉川までの間は開通したが、
稀に利用する程度であり、殆ど徒歩で都心に行き来していた。

夫妻共々、低い下駄、或いは草鞋(わらじ)をはいたりし、
ときには高足駄をはいて、3里の長い路を往復したのである。
そして、暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便りに夜(よる)晩(おそ)く帰ったりした、
と綴られている。

そして氏自身は村のあらゆる集会に参列し、
葬式の折などには、「諸行無常」の旗持をしたり、
月番の時は、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身で役場に持参した。


こうした中で、赤裸な雑木林の梢(こずえ)から真白な富士を見て居た武蔵野は、
裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、
移り変る自然の面影は、其日其月の趣を、
初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた、
と季節の移ろいを表現している。


私は徳富蘆花氏の綴られたこの随筆を読みながら、
氏自身この地の千歳村の粕谷に住まわれる以前は、
都心の外れの何かと利便性のある青山・高樹町で借家住まいであり、
余りにも環境の違う所で果たして大丈夫かしら、と幾度も考えさせられたのである。
住居はもとより、無知な畑作業、周囲の住民、風習などで克服することが余りにも多く、
都心に出るのにも徒歩主義を貫いている。

氏は柔軟な言動で、自身の描いた田園生活を過ごされたのは、
あの当時を思い浮かべても、強靭な志を持つお人であったと感じるのである。

そして、氏自身が一年を過ぎた時、
彼は生年40にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである、
とさりげなく宣言されのであるが、
この一年のたゆまぬ努力の結晶と思いながら、私なりに感動をさせられるのである・・。

                        《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《10》

2009-06-21 09:16:30 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
これまでは『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまり、
田園生活を始めるにあたって、色々な地を懸案した後、
千歳村・粕谷にし、引越しまで状況を氏自身の思い、そして心情を克明に描かれていた。

そして前回は、初めて千歳村・粕谷の生活を風習、飲料水などに、
戸惑いながら生活をはじめる・・。

こうした中で、今回は千歳村・粕谷に住まわれて、一年を過ごされた状況、
氏自身の思いが克明に綴られている・・。


毎回のことであるが、私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。


【・・
     憶出のかず/\

       1

跟(つ)いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。
あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。


意気地の無い亭主に連添うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯は可なり持馴れた。
自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。
唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方(ひとかた)ならず悩まされた。
一番近い隣が墓地に雑木林、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。

引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母は
「若い女なぞ、一人で留守(るす)は出来ない所ですねえ」と云った。
それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。

墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣があって、破落戸漢(ならずもの)が多く出入した。
一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、
雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。
「今晩は」と彼が答えた。
雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、
先刻(さっき)帰ったことを知らなかったのである。
大にドキマギした容子(ようす)であったが、
調子を更えて「宮前(みやまえ)のお広さん処へは如何(どう)参るのです?」と胡魔化した。
宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸(びた)る其賭博(とばく)の巣なのである。

主の彼は可笑しさを堪(こら)え、素知らぬ振して、
宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍(そ)うて、ずッと往(い)って、
と馬鹿叮嚀(ばかていねい)に教えてやった。
「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。

門戸(もんこ)あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。
ある時彼が縁に背向(そむ)けて読書して居ると、
後(うしろ)に撞(どう)と物が落ちた。
彼はふりかえって大きな青大将(あおだいしょう)を見た。
葺(ふ)きっぱなしの屋根裏の竹に絡(から)んで衣(から)を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。
今一尺縁へ出て居たら、正(まさ)しく彼が頭上に蛇が降るところであった。


人烟稀薄な武蔵野は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。
中塗(なかぬり)もせぬ荒壁は恣(ほしいまま)に崩れ落ち、
床の下は吹き通し、唐紙障子(からかみしょうじ)も足らぬがちの家の内は、
火鉢の火位で寒さは防げなかった。

農家の冬は大きな炉が命である。
農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。
炉の焚火、自在(じざい)の鍋は、彼が田園生活の重(おも)なる誘因であった。
然し彼が吾有にした15坪の此草舎には、
小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、
周囲(あたり)が狭(せま)くて3人とは座れなかった。

加之(しかも)其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、
熾(さかん)な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。
彼は一月(ひとつき)ばかりして面白くない此(この)型(かた)ばかりの炉を見捨てた。

先家主の大工や他の人に頼み、
代々木新町の古道具屋(ふるどうぐや)で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、
肥車(こえぐるま)の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。

次の6畳の天井は、煤埃(すすほこり)にまみれた古葭簀(ふるよしず)で、
腐(くさ)れ屋根から雨が漏(も)ると、黄ろい雫(しずく)がぼて/\畳に落ちた。
屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、
盥(たらい)やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。

驚いたのは風である。
3本の大きなはりがねで家を樫(かし)の木にしばりつけてあるので、
風当りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。
西南は右の樫以外1本の木もない吹きはらしなので、
南風西風は用捨(ようしゃ)もなくウナリをうってぶつかる。
はりがねに縛(しば)られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。
富士川の瀬を越す舟底の様に床が跳(おど)る。

それに樫の直ぐ下まで一面の麦畑である。
武蔵野固有の文言通(もんごんどお)り吹けば飛ぶ軽い土が、
それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。
彼は前年蘇士(スエズ)運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。
武蔵野の土あらしも、やわか劣る可き。

遠方から見れば火事の煙。
寄って来る日は、眼鼻口はもとより、
押入、箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)の中まで会釈もなく舞い込み、
歩けば畳に白く足跡がつく。
取りも直さず畑が家内(やうち)に引越すのである。


都をば塵の都と厭(いと)ひしに
    田舎も土の田舎なりけり


あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。
風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴(さ)える、水が荒い。
四拍子揃(そろ)って、妻の手足は直ぐ皸(ひび)、霜やけ、あかぎれに飾られる。
オリーヴ油やリスリンを塗(ぬ)った位では、血が止まらぬ。
主人の足裏も鯊(さめ)の顋(あご)の様に幾重も襞(ひだ)をなして口をあいた。

あまり手荒い攻撃に、
虎伏す野辺までもと跟(つ)いて来た糟糠(そうこう)の御台所(みだいどころ)も、
ぽろ/\涙をこぼす日があった。

以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留に来て見ては、
零落と思ったのであろ、
台所の隅で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

       2

主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。
何よりも先ず宮益(みやます)の興農園から柄(え)の長い作切鍬、手斧鍬(ちょうなぐわ)、ホー、
ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌(しばかりがま)など百姓の武器と、
園芸書類の六韜三略(りくとうさんりゃく)と、種子と苗とを仕入れた。

1反5畝の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、
大麦小麦が一ぱいで、空地と云っては畑の中程に瘠せこけた桑樹と
枯れ茅、枯れ草の生えたわずか1畝に足らぬ位のものであった。
彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、
重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝(うね)を作って、
原肥無し季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)くのを、
近所の若い者は東京流の百姓は彼様(ああ)するのかと眼を瞠(みは)って眺めて居た。

作ってある麦は、墓の向うの所謂(いわゆる)賭博の宿の麦であった。
彼は其一部を買って、邪魔になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、
果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。
通りかゝりの百姓衆に、棕櫚縄(しゅろなわ)を蠅頭(はえがしら)に結ぶ事を教わって、畑中に透籬(すいがき)を結い、
風よけの生籬(いけがき)にす可く之に傍(そ)うて杉苗を植えた。

無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役(ぞうえき)をした。
あらゆる不便と労力とを歓迎した。
家から十丁程はなれた塚戸(つかど)の米屋が新村入を聞きつけて、
半紙一帖持って御用聞(ごようき)きに来た時、
彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚(はなはだ)不興気(ふきょうげ)な顔をした。


手脚を少し動かすと一廉(いっかど)勉強した様で、
汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、
酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。

東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、
村入しては好んで肥桶を担(かつ)いだ。
最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革(あずきかわ)の帯をしめた。
斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、
短銃其ものは明治38年の12月日露戦役果て、
満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、
今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、
庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破(うちこわ)してしまったが、
帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。

洋服にも履歴がある。
そも此洋服は、明治36年日蔭町で7円で買った白っぽい綿セルの背広で、
北海道にも此れで行き、富士(ふじ)で死にかけた時も此れで上り、
パレスチナから露西亜(ろしあ)へも此れで往って、
トルストイの家でも持参の袷(あわせ)と此洋服を更代(こうたい)に着たものだ。

西伯利亜鉄道(シベリアてつどう)の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、
流石(さすが)無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、
眼を円(まる)く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物である。

此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹で担いで帰って来ると、
八幡様に寄合をして居た村の衆がドッと笑った。

引越後間(ま)もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。
其帰りにあまり路が悪いので、
矢張此洋服で甲州街道まで車の後押しをして行くと、
小供が見つけてわい/\囃(はや)し立てた。
よく笑わるゝ洋服である。

此洋服で、鍔広(つばびろ)の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢(す)を買いに往ったら、
小学校中(じゅう)の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。
彼の好物の中に、雪花菜汁(おからじる)がある。
此洋服着て、味噌漉(みそこし)持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、
流石剛(ごう)の者も髯と眼鏡と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。

引越し当座は、村の者も東京人珍(めず)らしいので、
妻なぞ出かけると、女子供が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾(めかけ)の居た家(うち)に越して来た
東京のおかみさんが通るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚(わめ)き立てゝ大騒(おおさわ)ぎしたものだ。


東京客が沢山来た。
新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取りに来た。
遠足半分の学生も来た。
演説依頼の紳士も来た。

労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。
村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶でもすると、
彼はます/\得意であった。
彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突(けんつく)を喰(く)わした。
芝居気(しばいげ)も衒気(げんき)も彼には沢山にあった。
華美(はで)の中に華美を得為(せ)ぬ彼は渋い中に華美をやった。

彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、
抑(そもそ)もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。
小さな草屋のぬれ縁(えん)に立って、田圃(たんぼ)を見渡す時、
彼は本郷座(ほんごうざ)の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、
ふッと噴(ふ)き出す事さえもあった。
彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。
趣味から道楽から百姓をする彼は、
自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾(しゅゆ)も忘れ得なかった。

彼の家から西へ4里、府中町へ買った地所と家作の登記に往った帰途、
同伴の石山氏が彼を誘うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。

爺さんが出て来て種々雑談の末、
石山氏が彼を紹介して今度村の者になったと云うたら、
爺さん熟々(つくづく)彼の顔を見て、田舎住居も好いが、
さァ如何(どう)して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多に欠員があるじゃなし、
要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。

そこで彼はぐっと癪(しゃく)に障(さわ)り、
斯(こ)う見えても憚りながら文字の社会では些(ちっと)は名を知られた男だ、
其様な喰詰(くいつ)め者と同じには見て貰うまい、
と腹の中では大(おおい)に啖呵(たんか)を切ったが、虫を殺して彼は俯(うつむ)いて居た。

家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、
休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。
妻が女児の一人に其(その)家(うち)をきいたら、
小さな彼女は胸を突出し傲然(ごうぜん)として
「大尽(だいじん)さんの家(うち)だよゥ」と答えた。

要するに彼等は辛(かろ)うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。
実際彼等は如何様(どんな)に威張っても、東京の喰詰者であった。

但(ただ)字を書く事は重宝がられて、
彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵の二三本、小松菜の一二把(わ)礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。

彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。
妻は裁縫の師匠をやれと勧められた。
自身(じしん)上州の糸屋から此村の農家に嫁いで来た媼(ばあ)さんは、
己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、
種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕(ようさん)をしろの、
何の角のと親切に世話をやいた。

・・】


15坪ばかり草舎のような家で徳富蘆花夫婦は生活を始められたが、
近所の家は遠く離れ、付近には賭博場もあり、おかしな人物も寄ったりした。
家の中の壁ははがれ、屋根裏に蛇がいたり、
暖を取る肝要の炉も小さく、天上も低く、止む得ず炉を改ためたりする。
その上、風は強く吹くと、家は船のように揺れ、
土ぼこりは容赦もなく室内に舞い込む・・。

こうした中で、氏は白っぽい綿セルの背広で畑作業を始めるのである。
原肥はなく、季節御構いなしの人蔘(にんじん)二十日大根(はつかだいこん)など蒔(ま)いたり、
ときには肥桶を担(かつ)いだりして、付近の農家の人々を唖然とさせるのである。
そして、近所の子供たちも蘆花夫妻の容姿に驚き、囃し立てたりするのである。


私はこうした状況を読みながら、苦笑した。
私の覚えている神代村入間の昭和20年代の中頃さえ、
農家は野良着で田畑を耕し、普段着の和服で家の中で過ごしり、
冠婚葬祭などの場合は、紋付の羽織で祖父、父は出かけていた。
まして背広の姿は、祖父が村の役員をしていたので、
この会議に出かける時に見かける程度であった。

蘆花氏の明治の後期の頃は、映画の『二十四の瞳』の島内の村人の親、子と容姿と同様と、
私は思い浮かべるのである、

こうした時代に、千歳村・粕谷で、
白っぽい綿セルの背広で、草を抜き、原肥もほどこすことなく、
季節もいとわず、人蔘(ニンジン)、二十日大根(ハツカ・ダイコン)など蒔(ま)いたり、
ときには肥桶を担(かつ)いだりすれば、
地元の人々は、ただ驚き、唖然としたのは私は理解できる。

氏の住まわれた千歳村・粕谷は畑と雑木林、
私の生家の神代村・入間は田畑、雑木林が多かったのであるが、
家の宅地で風の強い方面には、防風林として大木を、
そして周囲は雑木林として、田畑と分離していた。

氏の場合は、家の周囲は麦畑が広がり、
無知であったが、ひたすら畑作業をし、村人に教えられながら、
村人の日常生活にとけこもう、と真摯な言動が私にも理解できた。

そして買った地所と家作の登記に『府中』まで西へ4里往った、
と明記されているが、
今でも私の住む調布市は、土地、建物の登記などの東京法務局の管轄地は府中支局であり、
税務署は府中にある武蔵野府中税務署となっているので、
百年前とは余り変わらないと、私は教示されたのである。

尚、あの当時の千歳村・粕谷は、現在は世田谷区の管轄地なので、
都内の東京法務局の支局扱いとなっている。



                           《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《9》

2009-06-01 16:31:15 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
前回は、徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまり、
田園生活を始めるにあたって、色々な地を懸案した後、
千歳村・粕谷にし、引越しまで状況を氏自身の思い、そして心情を克明に描かれていた。

今回はこの続編であり、初めて千歳村・粕谷の生活を風習、飲料水などに、
戸惑いながら生活をはじめる・・。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。



     村入

引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速(さっそく)田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。
三吉は植木を植えて了うて、
「到底一年とは辛抱なさるまい」
と女中に囁(ささ)やいて帰って往った。

昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、今日も来て井戸を浚(さら)えてくれた。
家主の彼は、半紙2帖、貰物の干物少々持って、
近所四五軒に挨拶に廻った。

其翌日は、石山氏の息子の案内で、
一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。
臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、
両(りょう)角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に2軒隣り合い、
石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。

何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、
富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、
霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、
樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、
廻れば一里もあるかと思われた。

千歳村は以上三の字(あざ)の外、
船橋(ふなばし)、廻沢(めぐりさわ)、八幡山(はちまんやま)、烏山(からすやま)、給田(きゅうでん)の五字を有ち、
最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北1里余の間にあり、
粕谷が丁度中央で、1番戸数の多いが烏山2百余戸、
一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒、
余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。


期日は3月1日、1月おくれで年中行事をする此村では2月1日、
稲荷講(いなりこう)の当日である。
礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更(あらた)めて、
午後石山氏に跟(つ)いて当日の会場たる下田氏の家に往った。


其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、
小高い堤(どて)を流るゝ品川堀と云う玉川浄水の小さな分派(わかれ)に沿うて居た。
村会議員も勤むる家で、会場は蚕室(さんしつ)の階下であった。
千歳村でも戸毎に蚕(かいこ)は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。
板の間に薄べり敷いて、大きな欅の根株(ねっこ)の火鉢が出て居る。
十五六人も寄って居た。
石山氏が、
「これは今度東京から来されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某(なにがし)さんで」
と紹介する。

其尾について、彼は両手をついて鄭重にお辞儀をする。
皆が一人(ひとりひとり)来ては挨拶する。
石山氏の注意で、樽代(たるだい)壱円仲間入のシルシまでに包んだので、
皆がかわる/″\みやげの礼を云う。

粕谷は26軒しかないから、東京から来て仲間に入ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。
会衆中で唯(ただ)一人チョン髷(まげ)に結った腫(は)れぼったい瞼(まぶた)をした大きな爺さんが
「これははァ御先生様」
と挨拶した。


やがてニコ/\笑って居る恵比須顔の60許(ばかり)の爺さんが来た。
石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。
彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。

二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。
煙草の烟(けむり)。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合もある。
米の値段の話から、60近い矮(ちいさ)い真黒な剽軽(ひょうきん)な爺さんが、
若かった頃米が廉(やす)かったことを話して、
「俺(わし)と卿(おまえ)は6合の米よ、早くイッショ(一緒(いっしょ)、一升(しょう))になれば好い」
なんか歌ったもンだ、と中音(ちゅうおん)に節をつけて歌い且話して居る。


腰の腫物で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛の石山氏の注意で、
雑談会はやおら相談会に移った。
慰兵会の出金問題、此は隣字から徴兵に出る時、
此字から寸志を出す可きや否の問題である。

馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、
然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、
結局出すと云う事に決する。


其れから衛生委員の選挙、消防長の選挙がある。
テーブルが持ち出される。茶盆で集めた投票を、
咽仏の大きいジャ/\声の仁左衛門さんと、
むッつり顔の敬吉さんと立って投票の結果を披露する。

彼が組頭の爺さんが、忰は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、
皆が寄ってたかって無理やりに納得さす。


此れで事務はあらかた終った。
これからは肝心の飲食となるのだが、
新村入(しんむらいり)の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末なので、
一座に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人達に遠ながら目礼して引揚げた。

           *

日ならずして彼は原籍地・肥後国葦北郡水俣から
戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。
子供の頃、自分は士族だと威張って居た。
戸籍を見れば、平民とある。

彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。
それを知らなかったのである。
吾れから捨てぬ先きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、
魯智深(ろちしん)の髯(ひげ)ではないが、
些(ちと)惜しい気もちがせぬでもなかった。
兎に角彼は最早浪人では無い。無宿者でも無い。
天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。



     水汲み

玉川に遠いのが第一の失望で、井(いど)の水の悪いのが差当っての苦痛であった。


井は勝手口から唯6歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根が通路と井を覆うて居る。
上窄(うえすぼま)りになった桶の井筒(いづつ)、
鉄の車は少し欠けてよく綱がはずれ、釣瓶(つるべ)は一方しか無いので、
釣瓶縄の一端を屋根の柱に結わえてある。
汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨(いかり)を下ろして見たら、
渇水の折からでもあろうが、水深が一尺とはなかった。


移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚(いどさら)えをやってくれた。
鍋蓋(なべぶた)、古手拭、茶碗のかけ、色々の物が揚(あ)がって来て、
底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁(にご)り水で、
如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。

近隣の水を当座は貰って使ったが、何れも似寄(によ)った赤土水である。
墓向うの家の水を貰いに往った女中が、
井を覗(のぞ)いたら芥(ごみ)だらけ虫だらけでございます、
と顔を蹙(しか)めて帰って来た。

其向う隣の家に往ったら、其処(そこ)の息子が、
此(この)家の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、
と得意になって吹聴したが、
其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。


使い水は兎に角、飲料水だけは他に求めねばならぬ。

家から5丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水(ながれ)がある。
玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、
附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓(おしめ)の洗濯もする、肥桶も洗う。

何(な)ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、
男役に彼は水汲(みずく)む役を引受けた。
起きぬけに、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、霜を(ふ)んで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦をやる。
日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、
面(めん)籠手(こて)かついで朝稽古から帰って来る村の若者が
「冷たいでしょう」
と挨拶することもあった。

摩擦を終って、膚(はだ)を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々(なみなみ)と水を汲み上げると、
ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。
耐(こら)えかねて下ろす。
腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七分(ぶ)に減って居る。

其れから半丁に一休(ひとやすみ)、また半丁に一憩(ひといこい)、家を目がけて幾休みして、
やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。
両腕はまさに脱(ぬ)ける様だ。

斯くして持ち込まれた水は、細君、女中によって金漿(きんしょう)玉露(ぎょくろ)と惜(おし)み/\使われる。


余り腕が痛いので、東京に出たついでに、
渋谷の道玄坂で天秤棒(てんびんぼう)を買って来た。
丁度(ちょうど)股引(ももひき)尻(しり)からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、
理想を実行すると笑止(しょうし)な顔で笑われた。

買って戻った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担(にの)うて、
汐汲(しおく)みならぬ髯男の水汲と出かけた。

両手に提げるより幾何(いくら)か優(まし)だが、
使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。
天秤棒に肩を入れ、曳(えい)やっと立てば、腰がフラ/\する。
膝はぎくりと折れそうに、体は顛倒(ひっくりかえ)りそうになる。
(うん)と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、
五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。
思い切って蹌踉(ひょろひょろ)とよろけ出す。
十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷(に)を下(お)ろす。
尻餅舂(つ)く様に、捨てる様に下ろす。
下ろすのではない、荷が下りるのである。
撞(どう)と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。

下ろすのも厄介だが、また担(かつ)ぎ上げるのが骨だ。
路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。
鼻息は暴風(あらし)の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、
脊髄(せきずい)から後頭部にかけ強直症(きょうちょくしょう)にかゝった様に一種異様の熱気がさす。
眼が真暗になる。頭がぐら/\する。
勝手もとに荷を下ろした後は、失神した様に暫くは物も言われぬ。


早速右の肩が瘤(こぶ)の様に腫(は)れ上がる。
明くる日は左の肩を使う。左は勝手(かって)が悪いが、痛い右よりまだ優(まし)と、左を使う。
直ぐ左の肩が腫れる。両肩の腫瘤(こぶ)で人間の駱駝が出来る。
両方の肩に腫れられては、明日(あす)は何で担ごうやら。

夢の中にも肩が痛い。
また水汲みかと思うと、夜の明(あ)くるのが恨めしい。
妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。
天秤棒の下にはさんで出かける。
少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。

全体(ぜんたい)誰に頼まれた訳でもなく、誰誉(ほ)めてくれる訳でもなく、
何を苦しんで斯様(こんな)事をするのか、と内々愚痴をこぼしつゝ、
必要に迫られては渋面作って朝々通う。
度重(たびかさ)なれば、次第に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力(ちから)が出来(でき)、
調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。

今日は八分だ、今日は九分だ、と成績の進むが一の楽(たのしみ)になる。


然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、
一月ばかりして大仕掛(おおじかけ)に井浚(いどさらえ)をすることにした。
赤土からヘナ、ヘナから砂利と、一丈(じょう)余(よ)も掘って、
無色透明無臭而して無味の水が出た。

奇麗に浚(さら)ってしまって、井筒にもたれ、井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水の湧く音を聴いた時、
最早(もう)水汲みの難行苦行も後(あと)になったことを、
嬉しくもまた残惜しくも思った。

・・】
注)原文に対し、あえて改行を多くした。


『村入』と題された章に於いて、
引越しの日は温暖な日であったが、翌日には烈しいからッ風に吹かれ、
原宿に住んでいた時によく仕事に来た善良な小男の三吉は植木を植えて貰った人であるが、
『到底一年とは・・辛抱なさるまい』
と女中に囁(ささ)やいて帰っていかれたりする。

そして昨日荷車を挽(ひ)いた諸君が、
今日も来て井戸を浚(さら)えてくれたりした後、家主の彼は、半紙2帖、貰物の干物少々持って、
近所四五軒に挨拶に廻った。

其翌日は、石山氏の息子の案内で、
一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。
臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、
両(りょう)角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に2軒隣り合い、
石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。

何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃(たんぼ)に下りたり、
富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、
霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、
樫(かし)欅(けやき)の村から麦畑、寺の門から村役場前と、
廻れば一里もあるかと思われた。


千歳村は上祖師ヶ谷、下祖師ヶ谷、そして粕谷以上三の字(あざ)の外、
船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、
最後の二つは甲州街道に傍(そ)い、余は何れも街道の南北1里余の間にあり、
粕谷が丁度中央で、1番戸数の多いが烏山2百余戸、
一番少ないのが八幡山19軒、次は粕谷の16軒、
余は大抵五六十戸だと、最早(もう)そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。

私の実家は神代村入間であったので、上祖師ヶ谷、下祖師ヶ谷、そして粕谷はもとより、
烏山、給田の地域には、
私の幼年期の昭和20年代は殆ど田畑、雑木林の広がり情景は知っている。
氏は明治後期に住まわれたが、
引越しなどの近所の挨拶回りは余り変わらないと私は感じたのである。

この後、石山氏に導かれて、村の仲間入すべく紋付羽織を着て、
村の会合に出かけたりするが、
私の幼年期の情景と余り変わらない、と思いを重ねたのである。


そして、氏はまもなく、原籍地の肥後国葦北郡水俣から戸籍をこの地に移し、
東京府北多摩郡千歳村字粕谷の平民となった。



『水汲み』の章になると、
釣瓶でくみ上げる井戸の水の悪く、止む得ず飲料水だけは、
家から5丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水から、
氏自身は、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、水汲(みずく)みをしたのである。

最初は両手で下げてきたが、やむえず渋谷の道玄坂で天秤棒を買ってきて、
手桶とバケツとを振り分けにかついだが肩は腫れ、難行苦行の日々が続いた。

この後は、いつまで川水を汲んでばかりも居られねので、
一ヵ月後、井浚(いどさらえ)を徹底的にして、掘り下げた所、
井底(せいてい)深く二つ三つの涌き口から潺々(せんせん)と清水の湧く音を聴き、
何とか井戸の水が使えるようになったのである。


このように氏は飲料水さえ苦労された人である。
氏の住まわれた千歳村粕谷は地勢として、武蔵野台地であり、
難行苦行の末、水にめぐりあえたと感じたのである。


私の実家の神代村入間に住んでいる多くは、
この武蔵野台地のはずれに国分寺崖線と称せられた20メートル前後の崖の下に広がる田畑、雑木林の地帯である。

崖の半ばより、湧き水が多くあり、
ほぼ平坦となった地帯でも私の幼年期は、多くの湧き水を眺めたりした。

私の幼年期、実家の母屋の裏に釣瓶井戸はあったが、
台所に近い裏口に井戸を使用していた。
手押しのポンプ形式であり、飲料水はもとより、
洗面、台所、風呂、洗濯等の生活用水にも使用していた。

私の幼年期、井戸の底などを修理した人を眺めた記憶であるが、
地表の黒土が1メートル半、この下に赤土が半メートルぐらい、
その下に黒土が1メートル半、そして粘土質の土が1メートルとなり、
この下の砂利層を少し掘れば、清冽で豊かな湧き出てていた。

農業用水に関しては、付近の三百メートル先には川幅2メートル前後が川があったが、
実家の田畑の中に川幅1メートル足らずの小川が流れて折、
豊かな水量で流れ、田んぼ等を潤していた・・。
そして、昭和20年の半ば頃までは、長兄、次兄は前夜に安易な釣り針をセットしていたら、翌朝にウナギが獲れた、
と祖父、父に話したりしていた。

このように実家は、国分寺崖線と称せられた20メートル前後の崖の下に広がる田畑、雑木林であったので、
水に恵まれた地帯でもあった。


私は特に湧き水に関しては、深く哀惜するひとりであり、
このサイトにも、たびたび投稿したりしている。
【 湧き水の想いで・・♪ 】
と題し、2006年7月14日に於いて投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外の私の住む周辺には、昭和30年の頃までは湧き水が見られた。

昭和28年に父,翌年に祖父が亡くなるまでは、農家をしており、
程ほど広い田畑を耕していた。
田圃(たんぼ)の一帯の脇に蓮専用の田圃があり、
その付近に湧き水があった。

湧き水の周囲は、いつも小奇麗に手入れがされており、ミソハギが植えられていた。

夏のお盆になると、仏間の仏壇は閉じられ、
位牌等が座敷の一角に、四方を竹で囲み、真新しい茣蓙(ござ)の上に移行されて、
蓮の花、淡いピンクの咲いたミソハギが飾られていた。

私は湧き水を観るのが好きだった。
春の季節であっても、冬の時節に於いても
淡々と湧き出る水を不思議そうに眺め、飽きることがなかった。


小学五年生の頃、下校の途中で廻り道をしている時、
雑木林の斜面を下り立った処に池があり、その端に湧き水があった。
この家の主人と思われる老人が池を眺めていた。
私がときたま通る時、よく見かけていた・・。

『池のある処の・・お爺さん・・いつも難しそうな顔しているなぁ・・』
と私は友達に話したりしていた。

後年、私が高校に入学し、小説を読みはじめた頃、
本の中に、このお爺さんの写真があり、
武者小路実篤、と付記されていたのには、
私は驚いていたりした。

・・(略)




次回は、徳富蘆花氏は、千歳村の粕谷に少しつづ馴染み、
自宅の情景、周辺のうつろいが綴られると思ったりしている。

                          《つづく》



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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《8》

2009-05-31 16:28:49 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
前回は、徳富蘆花の著作の【みみずのたはこと】に於いては、
『都落ちの手帳から』と副題され、『千歳村』ではじまったが、
今回はこの続編である。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

【・・
      都落ち

       1

2月ばかり経(た)った。

明治40年の1月である。
ある日田舎の人が2人青山高樹町の彼が僑居(きょうきょ)に音ずれた。
1人は石山氏、今1人は同教会執事角田新五郎氏であった。
彼は牧師に招聘(しょうへい)されたのである。
牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。

彼は千歳村にあまり気がなかった。
近いと聞いた玉川は1里の余もあると云う。
風景も平凡である。
使って居た女中は、江州(ごうしゅう)彦根在の者で、
其郷里地方(きょうりちほう)には家屋敷を捨売りにして
京、大阪や東京に出る者が多いので、うその様に廉(やす)い地面家作の売物があると云う。
江州――琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近い――
大に心動いて、早速郷里に照会してもらったが、一向に返事が来ぬ。

今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込(ひきこ)む者があろうか、
戯談(じょうだん)に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。

江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇(むやみ)と乗地(のりじ)になって、
幸い三つばかり売地があると知らしてよこした。
あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。


一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、
一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍(そ)うて居た。
此等(これら)は彼が懐(ふところ)よりも些(ちと)反別が広過ぎた。

最後に見たのが粕谷の地所で、1反5畝余。
小高く、一寸見晴らしがよかった。
風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木に
しばりつけた土間共15坪の汚ない草葺の家が附いて居る。
家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、
家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。

地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。
其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。
此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。


石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。
江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。
彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。

手金を渡すと、今度は彼があせり出した。
万障(ばんしょう)一排(いっぱい)して2月27日を都落の日と定め、
其前日26日に、彼等夫婦は若い娘を2人連れ、草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、
東京から掃除に往った。

案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。
雲雀(ひばり)の歌が纔(わずか)に一同の心を慰めた。


来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、
先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。
以前石山君の壮士をしたと云う家主の大工とも挨拶を交換した。

其妾と云う髪を乱(みだ)した女は、
都の女等を憎くさげに睨(にら)んで居た。

彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩(いこ)うた。
小さな墓場一つ隔てた東隣の石山氏の親類だと云う家のおかみが、
莚(むしろ)を2枚貸してくれ、
土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、
彼等は莚の上に座(すわ)って、持参の握飯を食うた。


十五六の唖に荷車を挽(ひ)かして、出る人々はよう/\出て往った。
待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。

引越しあとの空家は総じて立派なものでは無いが、
彼等はわが有(もの)になった家のあまりの不潔に胸をついた。
腐れかけた麦藁屋根、ぼろ/\崩(くず)れ落ちる荒壁、
小供の尿(いばり)の浸(し)みた古畳が6枚、
茶色に煤(すす)けた破れ唐紙が2枚、
蠅の卵のへばりついた6畳1間の天井と、
土間の崩れた一つ竈(へっつい)と、糞壺(くそつぼ)の糞と、
おはぐろ色した溷(どぶ)の汚水と、其外あらゆる塵芥(ごみ)を残して、
先住は出て往った。

掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。
彼は憤然(ふんぜん)として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、
ヤケに塵の雲を立てはじめた。
女連も是非なく手拭かぶって、襷(たすき)をかけた。


2月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。
あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。
今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、
女連はへと/\になって居た。

       2

明くれば明治40年2月27日。
ソヨとの風も無い2月には珍らしい美日(びじつ)であった。

村から来てもらった3台の荷馬車と、
厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、
臼田(うすだ)氏、角田勘五郎氏の息子、以上4台の荷車に荷物をのせて、
午食(ひる)過ぎに送り出した。

荷物の大部分は書物と植木であった。
彼は園芸が好きで、原宿5年の生活に、借家に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。
大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。
其等は皆持て行くことにした。
荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立(かぶだち)の榛(はん)の木まで、
駄々を捏(こ)ねて車に積んでもろうた。

宰領には、原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。


加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、
おの/\告別して出て往った。
暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。
隣に住む家主は、病院で重態であった。
其細君は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。
甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別(わかれ)を告げねばならなかった。
別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札が張られてあった。


彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、
手々に手廻りのものや、ランプを持って、
新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を1時間余ガタくり、
馭者(ぎょしゃ)に教えてもらって、上高井戸の山谷(さんや)で下りた。


粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、
武蔵野一円金色の光明を浴(あ)びた。
都落ちの一行3人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。
遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、
先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。
人と荷物は両花道から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。

昨日掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、6畳2室に敷かれて、
流石に人間の住居らしくなって居た。
昨日頼んで置いたので、先家主の大工が、
6畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏を隠す可く粗末な天井を張って居た。


日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。
道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、
荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。

兎も角もランプをつけて、東京から櫃(おはち)ごと持参の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、
彼等夫妻は西の6畳に、女中と三吉は頭合せに次の6畳に寝た。


明治の初年、薩摩近い故郷から熊本に引出で、
一時寄寓(きぐう)して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、
8歳の兄は「破れ家でも吾家(わがいえ)が好い」と喜んで踊ったそうである。


生れて40年、1反5畝の土と15坪の草葺のあばら家の主(ぬし)になり得た彼は、
正に帝王の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。

・・】

このように綴られていた。


徳富蘆花自身、千歳村粕谷に決めるまでは、
京都に近い江州の彦根地方は、家屋敷を捨売りにして
京、大阪や東京に出る者が多いので、破格に地面家作の廉い売物があると聞き、
江州であったならば、琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近いので、
問い合わせしながら思案を重ねたが、明確な返信がなく、待ちわびたのである。


この間も、上祖師ヶ谷で青山街道に近く所、或いは品川へ行く灌漑用水の流れに傍うて居た所もあったが、
此等(これら)は彼が懐よりも些(ちと)反別が広過ぎたので、断念した。

そして最後に見たのが粕谷の地所は1反5畝余があり、
小高く、一寸見晴らしがよかった。
風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫(しらかし)の木に
しばりつけた土間共15坪の汚ない草葺の家が附いて居る。

家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、
家の後は小杉林から三角形の櫟林(くぬぎばやし)になって居る。

地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字(となりあざ)の大工の有であった。
其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。
此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。


地主の石山氏は所決に促がされたり、問い合わせた肝要な江州からは便りがなかったので、
粕谷の地所にきめて、手金を渡した、と明記されている。

こうした揺れ動く思いの結果、千歳村粕谷に住むことを決意した後、
2月27日を都落の日と定め、前日に彼等夫婦は若い娘を2人連れ、
草箒(くさぼうき)と雑巾(ぞうきん)とバケツを持って、
東京から掃除に往った。

そして案外道が遠かったので、娘等は大分弱ったりしながら、到着したが、
前日中に明け渡す約束なのに、先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで折、
この妾と云う髪を乱した女は、都の女等を憎くさげに睨(にら)んで居た。

やむえず彼等は先住の出で去るを待って、
畑の枯草の上に憩(いこ)うた。
そして石山氏の親類だと云う家のおかみから、莚(むしろ)を2枚貸してくれ、
土瓶の茶や漬物の丼(どんぶり)を持て来てくれたので、
彼等は莚の上に座って、持参の握飯を食うた。

この後、先住の人たちが去った後、彼等は立上って掃除に向ったが、
引越しあとの空家は総じて立派なものでは無く、
余りにも不潔で掃除の手をつけようもなかったが、
氏自身は、憤然としながら竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、
ヤケに塵の雲を立てはじめた。
そして女たちも、やむえず手拭かぶって、襷(たすき)をかけた、
と記されている。

2月の日は短い中、掃除半途に日が入りかけたので、
あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶(そそくさ)と帰途に就いた。

今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸(ようや)く新宿に辿(たど)り着いた時は、
女たちはへと/\になって居た。

私は読みながら、氏自身迷いながらも千歳村粕谷に住むことを決め、
引越しの前日に大掃除に訪れ、
先住者の住んでいた荒れ果てた不潔な草葺の小屋を掃除したのである。
何よりが、都心の青山・高樹町の住まいから、
彼等夫婦は若い娘を2人連れ、草箒と雑巾とバケツを持って、
結果として往復の長い道のりを歩いたことであった。


引越しの当日の明治40年2月27日、
村から来てもらった3台の荷馬車と、厚意で来てくれた知人等も加わり、
そして4台の荷車に荷物をのせて、昼過ぎに青山・高樹町を送り出した。

荷物の大部分は書物と植木であり、荷車の諸君にこのようなもの、
と笑われたりした上、
栗、株立の榛(はん)の木まで、懇願して、車に積んで貰ったりした。
そして運搬の宰領として、
原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。

その後、彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、
手々に手廻りのものや、ランプを持って、
新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を1時間余ガタくり、
馭者に教えてもらって、上高井戸の山谷(さんや)で下りた。

粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、
武蔵野一円金色の光明を浴(あ)びた。

都落ちの一行3人は、長い影(かげ)を曳(ひ)いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。
遙向うの青山街道に車の軋(きし)る響(おと)がするのを見れば、
先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。
人と荷物は両花道から草葺の孤屋(ひとつや)に乗り込んだ。

昨日掃除しかけて帰った家には、
石山氏に頼んで置いた縁(へり)無しの新畳が、6畳2室に敷かれて、
流石に人間の住居らしくなって居た。
昨日頼んで置いたので、先家主の大工に粗末な天井を張って居た。

日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。
道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、
荷車と荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。

兎も角もランプをつけて、
東京から櫃(おはち)ごと持参の冷飯で夕餐(ゆうげ)を済まし、
彼等夫妻は西の6畳に、女中と三吉は頭合せに次の6畳に寝た。


生れて40年、1反5畝の土と15坪の草葺のあばら家の主(ぬし)になり得た彼は、
正に帝王の気もちで、楽々(らくらく)と足踏み伸ばして寝たのであった。


このように引越しの状景を微妙な心情をまじえて綴っているが、
私なりに想像ができる。
このことはもとより徳富蘆花氏の筆力によるものであり、
あの当時はそうでしたの・・と私は深く思いを寄せて読んでいた・・。


                            《つづく》


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《7》

2009-05-30 18:36:59 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の【みみずのたはこと】に於いて、最初の『故人に』の第1章~第5章まで転載させて頂きながら、
私なりの思いも重ねて綴ったりしている。

この後の【みみずのたはこと】は、『都落ちの手帳から』と副題され、
『千歳村』ではじまる。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

【・・
   都落ちの手帳から

     千歳村

       1

明治39年の11月中旬、彼等夫妻は住家(すみか)を探すべく東京から玉川(たまがわ)の方へ出かけた。


彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇(やそ)の旧跡と、
まだ生きて居たトルストイの村居(そんきょ)にぶらりと順礼に出かけて、
其8月にぶらりと帰って来た。

帰って何を為(す)るのか分からぬが、
兎(と)に角(かく)田舎住居をしようと思って帰って来た。
先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、
往(い)ったら如何だと云う。
伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、
玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。
そうか、では何日(なんにち)に案内者をよこそう、と牧師は云うた。


約束の日になった。案内者は影も見せぬ。
無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓(したつづみ)をうって、
案内者なしに妻と二人(ふたり)西を指して迦南(カナン)の地を探がす可く出かけた。

牧師は玉川の近くで千歳村(ちとせむら)だと大束(おおたば)に教えてくれた。
彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込(こ)んで、
例の如くぶらりと出かけた。

       2

「家を有つなら草葺(くさぶき)の家、
而して一反でも可(いい)、己が自由になる土を有ちたい」

彼は久しく、斯様な事を思うて居た。

東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。
草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳(わけ)である。
最近5年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、
東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。
然し借家借地は気が置ける。

彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑を有って居たが、
其土は銭に化けて追々(おいおい)消えてしまい、
日露戦争終る頃は、最早一撮(ひとつまみ)の土も彼の手には残って居なかった。
そこで草葺の家と1反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。


彼が2歳から中2年を除いて18の春まで育った家は、
即ち草葺の家であった。
明治の初年薩摩境に近い肥後(ひご)の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、
父が求めた古家で、あとでは瓦葺(かわらぶき)の一棟が建増されたが、
母屋(おもや)は久しく茅葺であった。

其茅葺をつたう春雨の雫(しずく)の様に、
昔のなつかし味が彼の頭脳に滲(し)みて居たのである。
彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末(すえ)で、
代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。

彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、
小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。

彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生(ごうせんせい)をする傍、
殖産興業の率先をすると謂って、女(むすめ)を製糸場の模範工女にしたり、
自家(じか)でも養蚕(ようさん)製糸(せいし)をやったり、
桑苗販売(そうびょうはんばい)などをやって、いつも損ばかりして居た。

桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、
彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛(ほう)り出して、
柄(え)の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。
弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、
吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌(いや)になり、疳癪(かんしゃく)を起してやめてしまうが例であった。


父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、
出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹などの苗を仕入れて帰り、
其他種々の水瓜、甘蔗(さとうきび)など標本的に試作(しさく)した。

好事となると実行せずに居れぬ性分で、
ある時菓樹(かじゅ)は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効(こう)があると云う事を何かの雑誌で読んで、
屋敷中の梨の若木(わかき)の膚を一本残らず小刀で
メチャ/\に縦疵(たてきず)をつけて歩いたこともあった。

子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、
実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻(まわ)り、
甘蔗と間違えて西洋箒黍(ほうききび)を噛(か)んで吐き出したり、
未熟の水瓜を窃(そっ)と拳固で打破って川に投げ込んで素知(そし)らぬ顔して居たり、
悪戯(いたずら)ばかりして居た。

十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、
爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。
其家には14になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古(げいこ)もしたが、
1年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。
但右の養蚕家入門中、
桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌(てのひら)の拇指(おやゆび)の根にざっくり切り込んだ其疵痕(きずあと)は、
彼が養蚕家としての試みの記念として今も三日月形に残って居る。


斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。

       3

青山高樹町の家をぶらりと出た彼等夫婦は、
まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。
唯有(とあ)る饂飩屋(うどんや)に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。

松陰神社で旧知(きゅうち)の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿(しゅく)のはずれまで歩き、
交番に聞いて、地蔵尊(じぞうそん)の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。
余程往って最早(もう)千歳村(ちとせむら)であろ、
まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。

妻は靴に足をくわれて歩行に難(なや)む。
農家に入って草履を求めたが、無いと云う。
漸(ようや)く小さな流れに出た。
流れに沿(そ)うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺(くさぶき)の小家がある。
ドウダンが美しく紅葉して居る。
此処(ここ)は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。
彼様な家を、と彼等は思った。


会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家(うち)に寄ってきいたら、
洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、
「粕谷だね」と云った。

粕谷さんの宅は何方(どちら)と云うたら、
かみさんはふッと噴(ふ)き出して、
「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」
と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。


尋ね/\て到頭会堂に来た。
其は玉川の近くでも何でもなく、見晴(みはら)しも何も無い
桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。

病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした50余の婦(おんな)が、
案内を請う彼の声に出て来た。
会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。
彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。

トタン葺(ぶき)の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵(どぞう)など見えた。
暫(しばら)くすると、草鞋ばきの人が出て来た。
私が石山(いしやま)八百蔵(やおぞう)と名のる。
年の頃50余、頭の毛は大分禿(は)げかゝり、猩々(しょうじょう)の様な顔をして居る。
あとで知ったが、石山氏は村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして居るが、
政争の劇(はげ)しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、
白刃の間を潜(くぐ)って来た男であった。

推参(すいさん)の客は自ら名のり、
牧師の紹介で会堂を見せてもらいに来たと云うた。
石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、
福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、
また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、
尊名は初めてだと、飛白(かすり)の筒袖羽織、禿(ち)びた薩摩下駄(さつまげた)、鬚髯(ひげ)もじゃ/\の彼が
風采(ふうさい)と、煤竹(すすたけ)色の被布を着て痛そうに靴を穿(は)いて居る白粉気も何もない女の容子(ようす)を、
胡散(うさん)くさそうにじろじろ見て居た。

然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐を聞いて、
やゝ小首を傾(かし)げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰(もら)い申して、
月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚(おうよう)な態度を石山氏はとった。

兎に角会堂を見せてもろうた。
天井の低い鮓詰(すしづめ)にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、
裏に小さな部屋(へや)があった。

もと耶蘇教の一時繁昌した時、
村を西へ距(さ)る1里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、
其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、
石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、
近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。


会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。


晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風がさ/\尾花を揺(ゆ)する野路を、
夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。
何処(どこ)やらで夕鴉(ゆうがらす)が唖々と鳴き出した。
我儕(われら)の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 
斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。


甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。
唯有(とあ)る店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、
3里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。

・・】


氏は5年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家であったが、
かって熊本の郊外で、2歳から中2年を除いて18歳の春まで育った家は、
草葺の家であり、母屋は茅葺となっていた。
そして、家の周囲には桑畑の広がっていた。

こうした思いが茅葺につたう春雨の雫(しずく)の様に、
氏はなつかしい思いが根底にあり
田舎で草葺(くさぶき)の家に住み、畑の一反でも、己が自由になる土を有ちたい、
と思いが重なっていた。

先輩の牧師にこのような思いを伝えたら、
玉川の附近に教会の伝道地がある、と進められたが、
伝道師にはなるつもりはないが、田舎生活をしたいので、
下見に行く、と返答した。

牧師は案内者をよこす約束をしてくれたが、
当日に肝要の案内者は影も見せず、牧師からの連絡もなく、
やむえず妻を伴い、玉川の近くで千歳村だと教えてくれたのを頼りに、
都心の『青山高樹町』から歩き出した・・。

そして、まだ工事中の玉川電鉄の線路を『三軒茶屋』まで歩き、
昼食代わりに饂飩屋(うどんや)で、饂飩を食べた。

その後、『松陰神社』で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、
交番に聞いたりしながら、、地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。

そして千歳村をめざしたが、会う人々に尋ねながら歩くが、村には到着は出来なく、
この間に妻は靴に足をくわれて歩行の妨げとなったりしたので、
農家に入って草履を求めたが、無いと云われたりした。

この後、小さな流れに出て、流れに沿っていたら、
腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺の小家があり、
ドウダンが美しく紅葉した。

この後、ある家に立ち寄り、洗濯して居たかみさんたちに、
『会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか』
と訊ねた後、
やっとの思いで、会堂に到着したのである。

この地は玉川の近くでも何でもなく、見晴しも何も無い
桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。


この後は、村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして石山氏の宅に寄った後、
会堂を案内してもらったりし、
渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。

そして、晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風が吹き、
尾花を揺(ゆ)する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。

この後、甲州街道に出たが、あるといわれ頼りにした馬車も来なく、
ある店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、
3里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい『新宿』に着いたのである。


こうしたのが概要であるが、
この当時に於いて、案内人もなく、詳細の地図もなく、交通便が乏しい中、
徳富蘆花夫婦は、未知の千歳村粕谷にある会堂をめざして歩いたのである。
そして帰路も、夕暮れの肌寒い中、甲州街道を12キロばかりを歩き、
都心の新宿に着いたのである。

私は読みながらも、原宿、青山高樹町に住んでいた徳富蘆花夫婦が、
田舎生活を目指すために、千歳村の粕谷の情景はどうような思いで感じられたか、
私は昭和20年代の神代村の情景を思い出すと、少しは重なると思いながらも、
胸が熱くなったのは確かなことである。


尚、私が無知であったのは、
【・・
耶蘇教の一時繁昌した時、
村を西へ距(さ)る1里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、
其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、
石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来た
・・】
と氏は綴られているが、
あの当時、私の実家の神代村の隣接した調布町に於いて、
耶蘇教が繁昌した時に会堂まであったことは、
少し驚きながら、特に教示されたのである。


                          《つづく》
                         


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我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《6》

2009-05-29 17:39:52 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
        第6章

徳富蘆花の『みみずのたはこと』の前章の中於いて、
千歳村粕谷に住む子供たちを、
【・・
雨にぬれて跣足(はだし)で(か)けあるき、
栗でも甘藷(いも)でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、
眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、
衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。
・・】

このように綴っていた。

徳富蘆花がこの地に住まわれ、『みみずのたはこと』に関しては、
明治の後期、大正時代であるが、
私の幼年期の昭和30年までは、同じような状況であった。

私は6歳ぐらいから、折りたたみできるナイフをポケットに入れ、
初秋の頃から栗の樹の下に行き、落ちた栗いがらを見つけて、
運動靴ではさみ、そしてクリの実を取りだした。
そして、ズボンで少しこすった後、ナイフを取り出し、渋皮を削り、
少し固い実をかじっていた。

幼児の4歳ぐらいは、裸足で宅地を駈けずり回ったりし、
木クズ、クギなどが足に刺さったり、足か手にケガをした時は、
母か叔母に赤チンを少し塗ってもらい、この後も駈けずり回っていた。

この当時、私の住む神代村入間は、昨今のように小児科などはなく、
風邪、腹痛などの場合は、ひどくなった場合に限り、
巡回で定期に来宅される富山の薬屋さんの置き薬である家庭薬を
母か叔母が取りだして、私は呑んだりしていた。


徳富蘆花はこの当時の千歳村粕谷の肴(サカナ)事情について、
【・・
甲州街道に肴屋(さかなや)はあるが、無論塩物干物ばかりで、
都会(とかい)に溢るゝ(しこ)、秋刀魚(さんま)の廻(まわ)って来る時節でもなければ、
肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。
・・】

私の幼年期の昭和29年頃までは、
がっしりした自転車で大きな荷台に木箱を幾重にも積み上げた魚屋さんが、
巡回販売で来宅していた。
生魚はイワシ、ニシン、アジ、サンマ、カツオなど木箱の氷のかけらから取り出したり、
或いは干し物はイワシ、アジが多かったのが、記憶に残っている。

刺身に関しては、日常は皆無であった。
冠婚葬祭の折、仕出し屋さんから、マグロ、イカ等の刺身を人数分だけ小鉢に入れ、
それぞれ座敷で祖父、父たちが頂いたり、或いは出したりしていた。
そして、この時は必ず折り詰めがあり、焼いた鯛、海老などが付いていた。

祖父が招待されて帰宅した時は、
この折り詰めの焼いた鯛を祖父から進められて、よく食べた記憶が
今でも鮮明に残っている。

このような事情なので、サザエなどの貝類はめずらしく、
お互いに海岸のある付近に出かけた時、一軒に数個のお土産としては貴重で、
喜ばれたりしていた時代であった。


徳富蘆花が住まわれた明治後期から大正の初めの変貌する状況を、
都心より3里の千歳村粕谷では、都心の二百万人に依存する村でもある。
都心がガスになると、薪の需要が減り、やがて村の雑木林は麦畑に変貌する。

そして道側の並木にある櫟(クヌギ)楢(ナラ)などが消えうせ、
短冊形の荒畑(あらばた)となり、武蔵野の特色である雑木山を消え掛かり、
麦畑を潰して孟宗藪(もうそうやぶ)にし、
養蚕(ようさん)用に桑畑が殖(ふ)えたり、
大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、
古来からの純農村は、次第に都心の人々の菜園になりつゝある、
と氏は綴られている。

こうした中で、『みみずのたはこと』の『故人に』終わりの頃に、
【・・
新宿八王子間の電車は、儂の居村(きょそん)から調布(ちょうふ)まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。
トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。
此は早晩儂を此(この)巣(す)から追い立てる退去令の先触(さきぶれ)ではあるまいか。
愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止(ふみと)まるか、
寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。
今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
・・】
と氏は大正元年12月に記している。


あの当時は確かに京王線の笹塚~調布が開通したのは、大正2年であったので、
この千歳村は今では『蘆花公園』、『千歳烏山』の両駅に当り、
腺、駅の施設の土木工事、線路の設置工事などで、
聴こえたと思われる。

この当時の都心への交通便は主幹として、甲州街道だけであり、
リヤカー、人力車、馬車、牛車、そして徒歩が多い国道と想像したりしている。
そして、電車が開通されれば、人の行き交いも増し、
駅周辺はもとより、この地域も大きく変貌しはじめた、
と私は想像を重ねたりした。

                           《つづく》




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