夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

若葉の彩(いろど)る頃の青森紀行・・。【2010.5.24.~6.2.】  【下】  《再掲載》

2010-12-13 15:35:01 | 旅のあれこれ
       第6章  この後の『竜飛崎』を散策すれば

5月28日の朝、24日に東京から旅立って以来、晴れ渡った朝を迎えた。
雨時々曇りの日が続き、走り梅雨の時節であっても、
勘弁して欲しい、というのが本音であった。
海上の彼方の北海道が明確に観え、私達は微笑んだりした。

9時過ぎに宿泊している観光ホテルを出て、
国道でありながら歩道で階段の道を下り、海岸に近い道路に下り立ち、
歩道を歩き、波除のテトラポットにカモメが群れていた。

この後、作家・太宰治、版画家・棟方志功のゆかりの宿として名高い『龍飛館』に向った。
この館は、龍飛岬観光案内所でもあり、
下記のようなブログで龍飛岬だよりも掲載されている。

http://ameblo.jp/tappikankou/
☆龍飛岬観光案内所 龍飛岬だより ☆

私は今回の旅の前に、太宰治・著の『津軽』を45年ぶりに読み返したりし、
この方への思いは強いが,
館内を拝見すると、この地の『昭和30年代の写真』を見たり、
この地の情景を撮られた映画・テレビドラマの作品に関わった『俳優の部屋』で、
あの作品もこの龍飛岬だったのか、と観賞した作品に思いを馳せたりした。


私が館内で何よりも感銘を受けたのは、
画家・高野元高氏が描かれた『北の浜』であった。
私は絵の世界はまったく判らないが、私なりの感覚として魅せられたのである。

海岸沿いの岩をノミなどの荒い削りで、トンネルを通し、
このトンネルの先は海岸に波のしぶきがかかるような道、
そして彼方に人家がある過酷な厳冬の情景であった・・。

私には、この地を表現された数多くの創作者がいるが、
このたった一枚の絵こそ、まぎれない渾身の作品として、受け止めたのである。


この後、岬に連なっている帯島を観たりし、
ふたたび階段の国道の歩道を上り、灯台を観ながら、
展望台の周辺を2時間ばかり散策した。

そして宿泊の観光ホテルに戻った。

http://www.hoteltappi.co.jp/
☆『ホテル竜飛』 ホームページ ☆

このホームページに掲載されている通り、
海岸沿いの国道から切立った崖の80メートルぐらい上の台地にあるので、
館内のロービー、大浴場、そして私達の部屋からも、
洋上の彼方に北海道が観え、岬に連なった帯島も観られる景観の良いホテルであった。

このような所を3泊した後、
青森市に戻るので、ホテルのマイクロバスで宿泊者の方と共に送迎と予定していたが、
女将のご好意で、女将の乗用車で運転者付きで青森駅まで戻ることとなった。

私達は運転者の話し言葉に好感を抱き、談笑を重ねたりした。
そして青森駅の前で下車し、いくばくかの礼金を手渡した。



       第7章  八甲田に抱かれた『酸ヶ湯』温泉は・・。

5月30日の10時過ぎに青森駅の前、
午後の1時に『酸ヶ湯』の送迎バスを待つ間、新町の商店街を歩き、
家内は和菓子、私は本屋に寄り、二冊の本を買い求めたり、
コーヒー・ショップで軽食を頂いたりした。

この後、『酸ヶ湯』の送迎バスに乗車し、青森の街を後にすると、
八甲田の山並みが観えた。
もとより八甲田は、八つの山の連峰で所々の山すその沢では、
残雪が多く、厳しい冬の時節を思い馳せれば了解できた。

『酸ヶ湯』の温泉宿までは、1時間15分ぐらいの乗車時間であった。

http://www.sukayu.jp/
☆『酸ヶ湯』 ホームページ ☆

このホームページに紹介されているように、
八甲田に抱かれた標高925メートルにある『いで湯』の温泉宿であり、
快晴のまばゆい昼下がりの中、食事処で、
そば粉100%と称される酸ヶ湯そばを頂いたが、素朴ながら、
確かな深い味わいであった。

この後、フロントで『酸ヶ湯周辺散策図』を頂き、
私達は地獄沼、賽の河原、木の細長いベンチに座れば温まる『まんじゅうふかし』、
そして東北大の付属植物園の雑木林を散策した。

そして宿泊先の館内で入り、
古き300年からの今日まで修理、補強、或いは増築などが実感させられ、
『旅館部』50室、『湯治部』80室の部屋に分離されていた。
いずれも部屋にはトイレもなく、『旅館部』だけは部屋食となっていた。

家内は狭い部屋で布団埃りする中、部屋食を険悪し、
『湯治部』を選定し、食事処で夕食、朝食を頂く方法としたが、
湯治部の指定された部屋に入ったが、余りにも素朴過ぎたのが本音であった。


やむえず私は、総ヒバ造りの大浴場の『ヒバ千人風呂』、
この後は『玉の湯』に入浴した後、休憩室と喫煙室に行ったりしていた。

そして休憩室には、写真や詩、俳句、短歌などが掲げられ、
この中のひとつに私は魅せられたのである。

 みちのくの
   吹雪く
     湯船に
 心安ぐ
   還暦の旅

     大和の旅人

このように記憶しているが、達筆な筆づかいで書かれていた。

私は歌も詠めず、習字も怠り、こうした人の前では、
思わず降参します、と心の中で反復したりしていた。


食事処は夕食、朝食とも山菜中心であり、まぎれなく美味であった。
都心の食事処で山菜を料理される方、この食事処で勉強しなさい、
と思いながら、私は頂いた。
その上、食事処の担当される30代から40代の方たちが、
綺麗な顔立ち、本来のしぐさを備え、都心より遥かに青森の方は美人が多いと感じたのである。

このことはフロント、周辺の方たちは20歳前後の女性が多い中でも感じたことであり、
はつらつとしたしぐさで、笑顔をたたえて、小奇麗な顔立ちであった。

そして私は恥ずかしながら、食事処、フロントなどで見かけた限りの女性が黒髪で、
見惚(みと)れたりした。

このような思いで、翌日の5月31日は、次の宿泊地の『蔦(つた)温泉』に向ったのである。

余談ながら、家内は黒髪で、昨今60歳となっているので、
ところにより白髪が目立つので、ときおり黒く染めたりしている。



      第8章  ブナ林に囲まれた『蔦(つた)温泉』は・・。

5月31日の10時過ぎに『酸ヶ湯』からは、十和田湖方面の路線バスに乗車し、
芽吹き、新緑、そして若葉がそれぞれの落葉樹により異なるが、
みずみずしいたわわな葉は陽射しを受けてきらめいたりする中、
バスでわずか30分足らずで、『蔦温泉』に到着した。

この広いブナを中心とした中で、たった一軒の宿である。

http://www.thuta.co.jp/index_p.cgi
☆『蔦温泉旅館』ホームページ☆

このホームページの『ぶなの森』の欄で掲載されている通り、
《・・
蔦温泉の周辺にはぶなの森を縫うように約2.4Km、
時間にして約一時間程の遊歩道が整備されています。

この遊歩道をひとまわりすると、蔦七沼と称される湖沼群の内、六つの沼を巡るこ
とができます。
大小様々な沼の水面に映るぶなの森が人々を魅了します。
・・》
このように解説され、私達は旅立つ前に調べたりしていたので、
チエック・イン前に歩き出した・・。

整備された遊歩道を歩き、ヤチダモ、オニグルミ、サワグルミを見たり、
ブナ、ミズナラの大木は、聳え立つように数多くあり、
私は圧倒された。

私は見惚(みと)れたり、デジカメで10数枚を撮ったりしていると、
たまたま通りがけの70代なかばの男性で、この付近にお住まいの方から、教えて頂いた・・。

ほんの一ヶ月前の頃は、落葉していた広葉樹が冬芽から春芽に育ち、
若葉が芽吹く直前に、
紅葉や萌黄色になる数週間の樹木の芽は鮮やかに萌える彩りとなる。
こうした光景を古来の人たちから、春もみじ、と称してきた。

この地のブナ林は、5月初めに芽吹き、そして萌黄色の葉、そして新緑となり、
下旬の頃には若葉とまたたくまに色合い染める。

このブナ林は、原生林だったが、
明治の初期の頃は薪や木炭を作る為に伐採されたりしたが、
秋に数多くの落ちた種子が自然に発芽して育ったブナで、樹齢100年前後が多い。
しかし中には、伐採されなかった数百年の大木も数多くある。

そして紅葉の10月中旬から下旬になれば、
ブナ、カツラ、トチノキの大木は、黄色に染めはじめて、
やがて葉が散る頃に、
ヤマモミジ、カエデ、ナナカマドが朱紅色、紅色に染められて、
数週間後には雪が舞い降る、
と錦繍期の情景も教示してくれた。

このような確かな言葉に、私は礼を重ねた後、別れた。


私達はブナ、トチノキ、カツラなど見たり、見上げたりしていると、
カエルの鳴き声と共に、蝉(セミ)の鳴き声が響いてきたので、
この時期にどうしてなの、と驚いたのである。
この後、温泉旅館で夕食を頂く前に、
エゾハルゼミですわ、と仲居さんから教えられた。
私は、蝦夷・・春・・蝉・・、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この豊かなブナ林で、渓流もあり、
私はムラサキ・ヤシオ・ツツジにも魅了された。
紫色に濃い桃色、或いは桃色に紫色を混ぜ合わせた色合いで、
渓流の中にある小岩に根を下ろして、恥ずかしげに咲いていた。
こうした情景を眺め、しばらく私はたたずんだりした。

私達はゆったりとブナ林をさまように2時間ばかり歩き、
お互いに至福の思いで、温泉旅館に向った。



       第9章  『蔦温泉旅館』の館内は・・。

私達はブナ林をゆったりと散策した後、
蔦温泉旅館の食事処の昼食とした。
私は少し汗ばんだので、ビールを呑みながら、
冷たい稲庭うどん、セットされたおいなりさんを頂いた。

私達が昼食を終る頃、
お部屋の用意ができました、と館内の仲居さんから連絡を受けた。

http://www.thuta.co.jp/index_p.cgi
☆『蔦温泉旅館』ホームページ☆

この後、館内を歩くたびに、私は驚かれされた。
この本館は天井、柱は周辺の森から切り出された材木がふんだんに取り入れ、
エンジュの長押、トチの樹のコブを生かした装飾の数々・・
一部は築後100年近いもあり、書院造りの床の間も豪壮で、
そして別館へのは本館から60段の優美な存在感のある階段は圧巻であった。

私達の宿泊した部屋は、20数年前の建てられた西館で近代的な造りであったが、
窓辺からのブナの森が隣接していたので、
早朝、朝、昼下がり、夕暮れの陽射しのうつろいが、樹木の枝葉を照らす輝き、
見飽きることのない光景であった。
そして、夜には満天の星空が観られた、格別に景観の良く、
私達は幾度も、その時々に見惚(みと)れたりしたのである。

私は浴室に行った時、仰天させられた。
2泊している間、男女別の『泉響の湯』、そして男女交代制の『久安の湯』に、
何度も通った・・。
しかし最初に入った時、観光ホテルなどにある洗い場の湯の蛇口、シャワーもなく、
私はどうして、と驚ろいた。
そしてボデー・ソープのみがあり、困ったなあ、というのが本音であった。

やむえず私は、掛け湯の90センチ正方形の湯船から湯桶で幾度もかけ、
ボデー・ソープをタオルにたらして、身体にこすった後、
掛け湯から湯桶で幾度もかけたり、
髪毛にボデー・ソープをたらして、髪の毛をこすり、
そして身も心も清めようと掛け湯から湯桶で幾度もかけたりしたのであった。
部屋に戻った後、ヘアー・シャンプが備品としてあったので、
私は苦笑した。


肝要の湯舟であるが、ホームページにある言葉をお借りすれば、
《・・
蔦温泉のお風呂はいずれも源泉の上に浴槽があり、
ぶなを使用した湯船の底板から湧き出す、
手が加えられていない「生の湯」をお楽しみいただけます。

「湯がこなれている」「こなれていない」という表現をしますが、
湯が空気に触れた度合いを言葉で表現したものです。
こなれていない温泉は刺激があり最初熱く感じます。

蔦温泉の「生の湯」というのも「こなれていない」湯のことであり、
当然最初は熱く感じます。
しかし二度三度と入るにつれ、やさしい湯であることが実感できるはずです。
・・》

このように解説されているが
湯船の底板はブナの感触を楽しみ、鈍(にぶ)児の私は最初からやさしい湯と感じ、
ヒバ材をふんだんに使用され、天井も遥か三階のような高さを見上げたり、
10分ぐらい浸かっていると、身も心も温まる湯であった。

夕食は苦手な部屋食であったが、
山菜のタラの芽、山ウド、ゼンマイ、ワラビ、フキノトウなど、
素材を生かし、創意工夫のある料理である。
そして朝食も含め、何気ない素材でも、料理された方の良心が感じられる数々で、
都心の少しばかり高級な食事処より遥かに素朴で上品な味であった。


この旅館は、建物の背景にブナ林があり、
遊歩道も整備され、身近にブナ林を散策でき、芽吹き、新緑、若葉の春の情景、
夏はたわわな葉で涼しく、
錦繍の時節には、黄色、朱色などに染まり、そして落葉、
そして落葉樹は舞い降る雪となり、静寂な冬眠のような情景、
いずれの季節も、多くの方たちに魅了させる稀な立地かしら、
と私なりに思ったりしている。
そして数多くある観光ホテルより、館内の建物、人も、
素朴さと品格のある圧倒的な存在さである。

尚、余談ながら館内で見かけた仲居さんの3名は、
私が見た限りは、日本広しといえども有数な美人であり、
都心で際立った美人といわれる方より、遥かに凌駕していることを付記しておく。



       最終章  旅の終わりは、東北新幹線『はやて』

6月2日
旅行の最終日、蔦温泉の『蔦温泉旅館』で快晴の朝に恵まれ、
私達は8時半過ぎにチエック・アウトし、
少しばかり親しくなった仲居さんに、
『雪のある冬の情景を観に・・また来たいです』
と家内は微笑みながら云ったりした。

旅館前のバス停で9時過ぎの青森駅行きの路線バスに乗り、
八甲田山の山峰を眺めながら、青森駅に10時45分に到着した。
そして、青森駅11時40分発の特急『つがる』に待ち時間があったので、
コーヒー・ショップでサンドイッチをコーヒーを飲みながら、頂いた。

八戸駅に下車したのは、12時40分過ぎで、
家内の要望であるウミネコを観る為に、鮫駅に行き、
ウミネコの名所である蕪島に寄った後、ふたたび八戸駅に戻った。

この後、八戸駅発の新幹線『はやて30号』は、
午後6時57分であり、待ち時間が2時間ばかりあったので、
駅前の付近のビルのレストランで夕食した。

そして、私はビールを呑みながら、
『長いような旅行であったが・・こうして終わりを迎える・・
あっというまに・・過ぎたね・・』
と私は家内に云ったりした。

家内は旅の初めの頃からの旅程を思い浮かべながら、
私に微笑しながら話した。


5月24日に東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
『リゾートしらかみ』に乗り換えて北上し、ウェスパ椿山駅で下車した後、
日本海に面した青森県の黄金崎温泉の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の新館に3泊した。

この後は、『リゾートしらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊したが、
旅立って4日間ばかりは、雨時々曇りとなり、お互いに苦笑を重ねた。
その後の5日間は快晴に恵まれた状況であった。

竜飛温泉の『ホテル竜飛』の後は、青森駅に戻り、
駅前よりバスで70分ぐらい乗った先の山里にある酸ケ湯(すかゆ)温泉の『酸ケ湯温泉旅館』に1泊した後、
蔦温泉の『蔦温泉旅館』の西館に2泊した。

そして青森駅に戻った後、特急『つがる』で八戸駅で下車した後は、
近くにある鮫駅に移動して、蕪(カブ)島でウミネコを観て、八戸駅に戻り、
八戸駅より東北新幹線『はやて』で東京駅に帰京する9泊10日間の旅行となった。


こうして振り返ると、どの宿泊先の宿は、
甲乙つけがたい思いであり、その地にそれぞれ思いで深い日々を過ごした。
このようなことを私達は、微笑みながら話したりした。

八戸駅で『はやて』に予定通り乗車し、
車内の席で家内は、
『雪降る頃に・・もう一度・・このようなコースで来たいわ・・』
と私に呟(つふや)いたりしていた。

私は冬の雪の舞い降る情景は魅了されるひとりであるが、
北東北の冬の時節、風雪の厳しいさなか、果たして交通機関は・・
と思いながらも、
『もう一度、来たいね』
と私は家内に応えた。

                                《終わり》


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若葉の彩(いろど)る頃の青森紀行・・。【2010.5.24.~6.2.】  【上】  《再掲載》

2010-12-13 15:07:12 | 旅のあれこれ
         序章  私達夫婦の35年目の記念旅行

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
家内との共通趣味は旅行であるが、私達は海外旅行は苦手なので、
ときおり国内旅行で各地の四季折々の情景、
その地でめぐり逢えた人たちから風土、文化など学んだりすることが多い。

たまたま私達夫婦の結婚して35年目となり、
記念旅行と称して北東北地方の青森県の一部を周遊した9泊10日間の日程となった
ささやかな紀行を記したものである。



         第1章  旅のはじまりは小雨の中

5月24日
早朝の3時半に起床すると、小雨が降り続いていた。
天気情報に寄れば、この先の数日は雨時々曇りと報じて折、
梅雨の時節の前の長雨が続く走り梅雨かしら、と私は苦笑した。

昨日、予約していたタクシーに自宅に6時に来て頂き、
最寄の成城学園前まで利用し、この後は電車で東京駅に着いたのは6時50分で、
早くも通勤される諸兄諸姉の忙しい姿を見ながら、
申し訳ない、と心情でコーヒー・テラスから眺めたりした。

私も現役の頃は、数多くのサラリーマンと同様に、多忙な身であったので、
平日にのんびりと旅行ができるのは、夢の世界のひとつであった。

『こまち』は定刻通り8時56分に東京駅を発車し、盛岡駅経由で秋田駅方面に向った。
途中の福島駅を通過した頃からは、
小雨降る中をまじかに田畑、少しばかり遠方の里山は霧につつまれ、
そして彼方の山嶺は雨と霧でかすんでいた・・。

盛岡駅を過ぎてまもなく、畑と雑木林、そして里山が車窓が観られ、
ときおり清流の状景が眺められ、墨絵のような情景が展開したりしていた。


『こまち』は午後1時前に予定通り秋田駅に到着し、
私は愛煙家なので、早速喫煙ルームに駆け込んで、煙草に火を点け、
JR東日本の各線は原則として全面禁煙となっているので、
どうしてなの、とぼやきながら乗車時間の4時間ばかり耐えた解放感に充たされた。

こうしたしぐさの私をプラットフォームのはずれで見ていた家内は、
苦笑を重ねていた。

この後、『リゾートしらかみ』の午後2時12分発まで、
秋田駅でJR周遊の特典である駅弁の受け取り、
構内の売店で私は地酒の300ml、家内は熱い煎茶ペットボトルを買い求めたりし
待合室で昼食とした。

地酒を呑みながら、その地の食材を中心にした駅弁を頂き、
その地に住まわれる会話を聞きながら、ひとときを過ごしたのであるが、
まぎれなく文化のひとつと深めたりしていた。


『リゾートしらかみ』は秋田駅から青森駅を結ぶ路線で、
大半は五能腺を走る特急であり、座席もゆったりとし、喫煙室もある優美な列車である。

秋田駅を定時に発車し、能代駅を過ぎ、あきた白神駅の手前の頃から、
日本海の状景が車窓から眺められ、
以前に秋田の竿灯祭りと青森のねぶたを観る為に団体観光バスで車窓から見た情景と、
私なりに重ね合わしたりした。

この後、私達夫婦はウェスパ椿山駅で午後4時20分に下車し、
駅前で待機していた宿泊先の『不老ふ死(ふろうふし)温泉』の送迎バスに乗り込んだ。
小雨の降り続ける中、日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテルには、10分たらず到着した。

そして、この観光ホテルの新館に3泊としていた。

http://www.furofushi.com/ 
☆『黄金崎 不老ふ死温泉』ホームページ☆



         第2章  『黄金崎 不老ふ死温泉』

打ち寄せる波のまじかにある海岸の露天風呂で、
日本海の落陽を眺め・・として名高い観光ホテルであるが、
3泊4日をしたが、雨時々曇りの日々となり、夕陽が洋上に沈む光景は無念ながらめぐり逢えなかった。

しかし、雨が止んだひととき、館内から海岸に向う歩道を百メートルぐらい歩み、
波打ち際に、ひょうたん形の露天風呂がふたつある。
右手は女性専用、左手に男女混浴があり、私は男女混浴の湯船に身体をゆだねたりした。

2日目の午前10時過ぎ、ひとりだけ60代の男性がいるだけで、
長野県の茅野市の方で独り旅で北東北の温泉を廻りながら、旅を楽しまれている人であった。
とりとめない旅先の温泉のことなどを談笑を重ねたりした・・。

館内の大浴場からの日本海の眺めも良く、隣接しているパノラマ展望風呂は、
屋根がある小さな露天風呂のような感じで、洋上の情景がゆったりと眺められるので、
私は朝夕のひとときは、身も心もゆだねたりした。

そして、ロビーの片隅で、青森県の地方紙のひとつの『東奥日報』を読んだりし、
今回の旅の終わりまで何かと愛読したりした。


食事に関しては、日本海のこの地の周辺で獲れる地魚、貝づくしの幸を十二分に賞味でき、
見た目より遥かに美味しく、鮮度抜群が味の基本であることを改めて認識させらた。

私が何よりも魅せられたのは、部屋からの眺めである。
たまたま東館の二階の中央部にある部屋に宿泊したが、
窓辺にある椅子に座り、朝、昼、夕に幾度も眺めたりしたのである。

日本の海岸に多い防波堤のコンクリートやテトラポットなどはなく、
日本海の波が海岸に直接に打ち寄せ、海岸からまじかな洋上の周辺に、
小さな岩が集積して、あたかも小さな列島のように点在し、
こうした列島が幾10か観られ、波を受けたり、しぶきをあびたりしていた・・。
そして引き潮、或いは満潮の時に、うつろいながら変貌した情景を観せていた。

こうした風景を眺めたりしていると、室町時代の頃からの石庭など景観よりも、
遥かに深く魅了させられ、私は飽きずに眺めたりしていた。



         第3章  深浦海岸から青森市、そして竜飛崎

5月27日
『黄金崎 不老ふ死温泉』の観光ホテルに別れを告げ、
私達は送迎バスで五能線のウェスパ椿山駅に向った時、
道路際には芽吹きが終わり新緑に染まり、中には早くも若葉となった落葉樹の中、
ときおり八重桜(ヤエザクラ)が観られ、私はこの地にも春到来を感じ、和(なご)んだりした。

10時35分発の『リゾートしらかみ』で青森駅に向ったが、
深浦駅を過ぎた後の海岸の幾重かの奇岩が美麗な状景を観せたり、
陸奥高田駅の頃からは、田植えの終えた田んぼ、或いはリンゴの果樹園が広がり、
そして彼方に里山の光景となっていた。

この後、弘前駅を停車したが、やはり地方の街の雄であることを感じたりした後、
青森駅の終点に近づくと、やはり地方都市の状景となったりした。
午後1時32分に到着した後、
青森駅の午後3時44分発の電車で津軽半島の海沿いの蟹田(かにた)、
そして終点の三厩(みんやま)津軽腺に乗るまで、
市外の港に繋留されている青函連絡船だった『八甲田丸』に寄った。

私はたった一度だけ1962(昭和37)年に北海道に修学旅行の時、
上野駅発の夜行列車に乗り、翌朝に青森港から青函連絡船に乗り、
函館が観えた時、やっと北海道に来た、と感動を受けた思いもあったりした。

こうした想いも重ねたり、船内の実物の数々を拝見したり、
或いは展示された明治の頃からの変貌に新たに青函連絡船の歴史を学んだりした。

http://www7.ocn.ne.jp/~hakkouda/hakoindex.html
☆青函連絡船メモリアルシップ『八甲田丸』ホームページ☆


遅い昼食をコーヒー・ショップでサンドイッチの軽食した後、
青森駅の午後3時44分発の津軽腺で津軽半島の海沿いの蟹田駅に向ったが、
車中は高校生などの下校時の生徒が多く、
私達は隣席した婦人、高齢の漁師の方と談笑をしたりした。

そして、蟹田、これら向う三厩(みんやま)の戦後の時代のうつろいを学び、
東京首都圏はゆるやかに中産階級は崩壊しつつ、
地方の街は時の景気に大波、小波で翻弄されることが私の感じてきた昨今の思いが、
好悪に関わらず実情であることが認識させられたのである。

終点の三厩駅に午後5時10分に下車し、
路線バスで竜飛岬の漁港前まで乗車したが、竜飛岬近づくたびに、
どんよりとした曇り空、そして夜のとばりがまもなく迎える頃も重なり、
住居の殆どはつつましく最果ての集落と感じ、わびしい心情になったりした。

いずれにしても私達は、この地の竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3日間宿泊し、
周辺を散策する。
このような思いでぼんやりとしていると、
ホテルの送迎用の乗用車が近づいてきた・・。

そして、私達は『ホテル竜飛』の3階の中央部にある部屋に通され、
洋上が正面に、彼方に北海道・・と戸惑いながらも明確に観え、
左側には竜飛漁港、そして帯島の美景となっていた。

http://www.hoteltappi.co.jp/
☆『ホテル竜飛』ホームページ ☆


         第4章  『青函トンネル記念館』

竜飛崎は、風の岬として多くの人たちから愛称されているが、
私が訪れたかったひとつは、青函トンネルに関して、興味があった・・。
トンネルの工法はもとより地質なども無知な私であるが、
海の底を掘り続け、悪戦苦闘の末、完成させた成果に感動を覚えたからである。

今回の旅の前に、秋永芳郎・著作の『青函トンネル』(講談社)を20数年ぶりに再読したりて、
この当時の前後の青森市、蟹田(かにた)村、三厩(みんやま)村、そして竜飛岬の状況を学び、
各関係者の労苦に感銘を受けたりした。


5月28日の朝、『青函トンネル記念館』までホテルで送迎して下さることを知り、
予定より早めに8時45分過ぎに私達は便乗した。

『青函トンネル記念館』に入館すると、
体験坑道できる龍飛斜坑腺の発車時間がまもないことを知り、
私達はこの特別車両に乗車した・・。

解説書の言葉をお借りれば、
《・・
海底下にある体験坑道で、
ここへ案内してくれるケーブルカーは日本一短い私鉄「青函トンネル竜飛斜坑線」。
わずか8分で海面下140メートルへ到着します。

海面下240メートルに総延長53.85Kmのトンネルがどのようにして造られたのか、
実際に作業坑として使われた一角を展示ゾーンにしており、
所要時間45分で回れるという見学コースになっています。
・・》

このように解説されていたが、地下に下るケーブルカーからの状景は、
子供のように海の下に行く好奇心で私は見つめ、
その上に海の下の140メートルにある作業坑は、
実際に使用された作業坑を眺めたりすると、当時の労苦を判り、
更に技術改良、工夫の果てに完成させた多くの力の結晶に想像したりすると、
圧倒的な存在と私の心にせまってきたのである。

物理学にも無知な私でも、
《・・最深部の圧力は、10円玉に100Kgの圧力となりました・・》
と解説されれば、
この重圧の中で、よくぞ技術改良、創意工夫を重ねて掘り進めて、
半永久的に使用することのできるトンネルを完成させた実態に
まぎれない驚異と認識させられるのである。

http://seikan-tunnel-museum.com/
☆『青函トンネル記念館』ホームページ☆

私は宇宙などには興味は薄いが、目の前の実感性のある実態で、
現在、これからも活用されいる社会性のある青函トンネルには、
身も心も敬意させられてしまう。



       第5章  『津軽海峡冬景色歌詞碑』

私達は『青函トンネル記念館』を出た後、人影のない広い道を歩き、
竜飛崎の灯台に向っている時、霧雨が降りだしてきた・・。
傘を開きだした時、

♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
 見知らぬ人が 指をさす

【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】

と聴こえてきたので、彼方の方を見ると、
石碑の前で60代ぐらいの婦人が傘を差しながらたたずんでいた。

私はその方面に歩き出しながら、石川さゆりちゃんの『津軽海峡冬景色歌詞碑』は、
ここだったのか、と理解した。

そして、初期の目的地である『竜飛崎灯台』に向って、
帰路に寄ればよい、と思いながら霧雨から小雨に変る中を歩いた。

岬の高台にある『竜飛崎灯台』は風もなかったが、
見渡す限りの海上を眺めたりしたが、北海道は小雨でけむり、
かすんで視えなかった・・。
明日が晴れ間になるから、もう一度来よう、
と私は家内に云ったりし、先程の『津軽海峡冬景色歌詞碑』に向った。


人影もない歌詞碑の前にたたずみ、中央にある赤いゴムを押すと、
石川さゆりちゃんの歌声が周辺まで響きわたった・・。

♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
 見知らぬ人が 指をさす
 息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
 はるかにかすみ 見えるだけ
 さよならあなた 私は帰ります

【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】

私はこのような立派な歌詞碑が建てられて、
さゆりちやんは努力のしがいがあったね、と思ったのである・・。

私は歌手・石川さゆりさんに関しては、熱愛ファンではないが、
少しばかり気になる人で、6通ぐらいはあるサイトに投稿している。
この中のひとつとには、
【今宵のひととき、『石川さゆり』テレビ観覧席】
と題して、2008年1月19日に投稿している。

【・・
昨日、NHKの夜のニュースを視聴した後、番組の予告編が放映していた。

【石川さゆり音楽会~歌手生活35周年記念リサイタル~】と題され、
NHKのBS2で、 1月19日(土曜日)PM9.30~11.00の1時間半にわたり放映する、
と報じていた。

私は、石川さゆりに関しては、
何かしら気になる存在の人であるので、
今宵のひととき、この番組を観ようと思っている・・。


私は昭和45年に大手企業に中途入社し、
その後、一部門がレコード会社として独立し、私は管理畑のコンピュータ専任者として、
従事していたので、制作状況は無知である。

私は歌謡曲関連には、苦手なジャンルであったが、
昭和49年頃になると、『中三トリオ』と称して、
森 昌子、桜田淳子、山口百恵がヒット曲で賑わしていた。
そして、グループとしては、キャンディーズ、その後ピンク・レディーが破竹の勢いの時代であった。

こうした中で、ひとりの美少女がデビューしたが、
他社の歌手であったが、少し気になったのが、
石川さゆりであった。

私なりの美少女の基準として、こうした中でひときわ可愛い存在であった。

ヒット曲に恵まれず、中三トリオの歌手に遅れ、
やっとヒットしたのが昭和52年の『津軽海峡・冬景色』であった。

石川さゆりちゃんが、遅咲きでご免なさい、
と云った思いで、この曲を熱唱しているように私は聴こえた。
この直後の『能登半島』で第一線の歌手として軌道にのった時、
私はレコードのアルバムを購入した。

過日、レコード整理したいた時に、このアルバムのジャケットを観たが、
きわだった美少女であった。

その後、私は石川さゆりから、遠ざかったが、
昭和61年『天城越え』、平成3年『ウィスキーが、お好きでしょう』は魅了されている。


この程度しか、石川さゆりに関しては知らないが、
唄声、しぐさ、そして表情が妖艶となり、齢を重ねた私でも、
さゆりちゃん、と呟(つぶや)きながら、
香(かぐわ)しい女性の魅力に酔いしれることのできる稀(まれ)な存在である。

(略)
・・】

このように綴ったりしているが、
今は亡き作詞家・阿久悠(あく・ゆう)氏が作詞された当時の1976(昭和51)年頃は、
青函連絡船もあり、数多くの人々から利用され、
1988(昭和63)年に青函トンネルが完成し、連絡船は終わりを告げた。

ひとつの大きな時代が終わり、多くの人たちに愛惜を重ね、
この中のひとつの心情として、この『津軽海峡・冬景色』の歌は不滅の歌となった。

このように私は思いながら、家内と共にこの歌詞碑から去った。


http://www.youtube.com/watch?v=LuD1cjOJX1E&feature=related
☆【『津軽海峡・冬景色』作詞・阿久悠、作曲・三木たかし、編曲・三木たかし、唄・石川さゆり】☆


                                          《つづく》


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青森地域の冬の旅、過ぎし若葉の頃に初めて訪れた各地の情景に心を重ねて・・。

2010-12-13 14:15:53 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
たまたま私達夫婦の共通趣味は国内旅行であり、子供に恵まれなかった為か、
若い頃から日本の各地を四季折々に訪れたりしている。

そして1986(昭和61)年の頃から冬の旅に魅せられ、
団体観光ツアーで周遊型、滞在型、或いは夫婦だけ旅を重ねてきた・・。

今回、明日より青森県の十和田湖の山奥にある蔦(つた)温泉、青森市内、
そして日本海の黄金崎の不老ふ死温泉に8泊9日で訪れる。


もとより私の現役サラリーマンの時代は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な時を過ごし、
特にこの時節は繁忙期の音楽関係の会社に勤めていたので、睡眠時間を削り、
仕事納めまであと何日、と心の中で呟(つぶや)きながら奮闘していた時期でもあった・・。

2004(平成16)年の秋に定年退職後になり、私は年金生活に入ったが、
35年ばかりのサラリーマン生活から卒業した直後は、
こんなにのんびりと散歩してもよいのかしら、と自宅付近を散策していた時、
戸惑いがあったりした・・。

そして、生活の環境も大いに変り、こうした思いのひとつは、
過日の12月7日に於いて、
【 私の買物の時、ときには最良の友は、『キャリーカート』となり・・。 ~私の年金生活の日常生活は・・~ 】
と題して、年金生活の日常の思いを発露したりしている。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/959fc0c96ce959306924ac3a0a4f5c36
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
    12月7日付【私の買物の時、ときには最良の友は、『キャリーカート』となり・・。 ~私の年金生活の日常生活は・・~】☆


或いは、この12月の忘年会シーズンになると、
【 定年後の私、この時節の忘年会は、たった家内とふたりだけの忘年会となり・・。】
と題して、昨日の12月12日に投稿したりしている。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/b0cf7f53663c9af012ab92662b0db52b
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
    12月12日付【定年後の私、この時節の忘年会は、たった家内とふたりだけの忘年会となり・・。】☆


このような心情であるので、現役の働いて下さる諸兄諸姉には、
申し訳けなく恐縮する身であるが、北東北地方の青森の雪降る情景を求めて、
私達夫婦は出掛ける。

そして、たまたま今回訪れる地域の大半は、今年の5月24日より6月2日の9泊10日周遊し、
このサイトに10回に及び、【 若葉の彩(いろど)る頃の青森紀行・・。】
と題して、帰宅後に投稿している。

この後、再編集し掲載する予定であり、
このような思いで、ふたたび訪れ、春、夏、秋が過ぎ、そして初冬を迎えているの情景に、
果たして・・と思いを寄せたりしている。


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