夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

定年後の男性に多い“お説教オヤジ系”を学び、老ボーイの私は爆笑させられ・・。

2015-07-31 13:47:49 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨夜のひととき、ときおり愛読しているネットのサイトを見たりしていた。

産経新聞の基幹サイトのひとつの『Sankei Biz』であり、
私は年金生活の中で、企業の動向、暮らし、社会などを多々学んだりしている。

たまたま『暮らし』コーナーを見ている中、
【厄介な“お説教オヤジ系”のクレーマー 「電話ではなく謝りにこい」と見出しを見て、
どういうことなのょ、と好奇心が瞬時にあふれて、クリックして読んだりした。

やがて読みなから、幾たびも爆笑させられ、この世の中に定年後の男性に多い“お説教オヤジ系”がいる、と学び、
こうした言動する男性は、働いていた現役時代は、官公庁か民間の大企業に勤めていた人だ、
と思いながら、微苦笑させられたりした。

私はテレビ番組で、浮ついたコメディ番組は苦手であるが、
今回の記事は、生きた喜劇、と感じながら、幾たびも笑いだし、こうしたことは私としては稀(まれ)であり、
結果としては娯楽番組を視聴しているかのようであった。

無断ながら2015年7月26日に配信された記事を転載させて頂く。
          

《・・顧客、取引先、上司を怒らせてしまった。
誰にでも起こる大ピンチ! ミスを帳消しにする謝罪で、以前より良好な人間関係を築ける人もいる。
現代人にとって必須のライフスキル、「謝り方」を徹底検証する。

あなたは家電量販店の販売員。
お客様が来店し、購入した商品を使ったら自宅のテーブルに傷がついたと言う。
それを見にこいと言われ、訪問することに。

リビングに通され、自身で調べ上げた情報を並べ立て、話は終わりそうもない。さて、あなたならどう対応する?

 【A】「すごく高度な知識をお持ちなんですね」とおだてる

 【B】「お客様がおっしゃるとおりです」と相槌を打つ

 【C】「なるほど。なるほど」と話が終わるのをただ待つ

☆あなたは「かつての部下」代わり

お客様から電話でクレームが入った。
いくら話しても、電話ではなく謝りにこいと言って引かない。
謝罪に訪れると上から目線で話し始める。
こうした「お説教」タイプは定年後の男性に多いという。

時間や体力にゆとりのあるシニアが増えている。
そういうと聞こえはいいが、実態はやることがなく、命令する部下や便宜を図ってくれた業者もいなくなったため、
代わりを販売員やお客様相談室に求めるのだ。

「年代別で見ると、苦情を言う率が高いのは60代、とくに男性です。
肩書がなくなり、家でも居場所がない。
些細なことで呼びつけ、謝罪に出向くと『君、上がっていきなさい』と客間に案内され、
話が長引くことがよくあります」(苦情・クレーム対応アドバイザー 関根眞一氏)
          

玄関先で結構ですと言っても「いいからこちらの部屋へ」と勧められ、
上がってみるとお茶と菓子が用意されている。

クレームの原因となった話は比較的早く終わるが、
「もし私だったらこんな対応をする」
「君の会社も苦しいのはよくわかる」
「時間があれば私が教育してあげたい」などと、上司目線の話が続く。

「謝罪にきた担当者を相手に、自分が管理職だった頃の感覚を楽しんでいるのです。
決して悪質なクレーマーではありませんが、指導をしたがる点が厄介です」(関根氏)


こうした相手にやってはいけないのが、すぐに解決策を提示して話を切り上げようとすること。
これはお説教タイプに限らず、すべてのクレーム対応の基本と
クレーム・コンサルタントである谷 厚志氏は説明する。
             

「何らかのトラブルで怒っている方は
『自分がどんな嫌な目に遭って嫌な気持ちになったか』や
『おまえのミスによって会社(あるいはコミュニティなど)で私の立場がなくなった』
ことをわかってほしいと思っているので、まず何が起きたのかを理解する。

そのうえでお詫びをするのです。
『交換します』『代金はお返しします』と、早くその場を収めようとする人も多いのですが、
かえって怒りに油を注ぎかねません」(谷氏)

お説教タイプに対しては、
「自分たちの至らない点を教えていただいた」
「改善のヒントをいただいた」という態度で臨むべきということだ。

言葉も「ご指導いただきありがとうございます」
「お話をいただくまで、そんなにご迷惑をおかけしているとは気が付きませんでした」などと、
相手が自分に与えてくれたよい影響に感謝する表現がよい。
             

話が短時間で終わるか、1時間、2時間とかかるかは
この姿勢の差で大きく変わってくる。

なぜならお説教タイプは「相手の間違いを直したい」と考えているので、
こちらが間違いを正さない限りは「まだこの人は私の話を理解していない」と感じ、
同じ話を何度も繰り返すからである。

ところが相手が与えてくれたよい影響に感謝する言葉を述べると、
それまで敵対的だった関係が一気に同じ方向へ変わっていく。

逆に、お説教タイプに言わないほうがよい言葉が
「おっしゃるとおりです」「ごもっともです」である。

「謝罪の場面に適切な表現のように思えますが、これらは相手の主張へ完全に同調する言葉です。
こうした言葉を使うとお説教タイプの人は
『そうだ、おまえが完全に間違っているんだ』とさらに怒りに火がついてしまい、
長時間お叱りを受けるきっかけになることがあります」(谷氏)
 

【答え&解説】

定年後の男性に多いタイプで、自分のかつての功績を知ってほしい、
あるいは若輩者を教育してやろうと思っている。

ここでは、褒めてほしい気持ちをくすぐるAで。
Bは謝罪するシーンで男性が使いがちだが、相手が増長してしまう可能性があるので要注意。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
                          

私は民間の中小業のある会社に35年近く勤めて、定年退職をした身である。
もとより中小業は、大企業と違い景気の動向などに大波小波を受けたり、
大企業の意向により翻弄されたり、何かと多事多難が多い。

そして専門の苦情・クレーム部署もなく、たまたま私が電話を取ったら、
購入して下さったお客様からのクレームで、ときには執拗に長い苦情で、私は困苦したこともあったりした。

定年後は多々の理由で年金生活を始めで、早や11年生になっている中で、
購入した商品にクレームする場合は、殆ど電話で事務的に一分以内でしてきた。

やはり苦情・クレームを受けられる人の立場を配慮して、
私は明るくやさしい言葉で、了解して頂く方法が早期解決と思いながら、実施してきた。

そして今回の“お説教オヤジ系”には、私と余りにも差異があるので、
呆れながらも幾たびか笑い、やがてこうした無理難題のケースもあるんだなぁ、と微苦笑したりした。

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飛び石のような『おひとりさま』の生活をしている中、ブログの投稿文も慌ただしく、微苦笑し・・。

2015-07-30 12:34:27 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ10年の恒例となっている。

そして家内は殆ど毎夜、家内の母の本日の出来事と安否状況を確認する為、
電話連絡をしている。
          
                                        
家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、
ここ40日前後は大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わり、
家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなっている。

このような結果として、過ぎし6月21日から11泊12日、そして7月21日から4泊5日、
今回の7月28日から3泊4日予定となっている。

この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしている。

そして私は家内より先に、あの世に行くことは99%確信を深めているが、
この世の中は予測ができないことが多く、私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしいる。
          
          
平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っている。

朝、最優先の実施事項は、台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『ベットボトル』、『古紙・新聞』などの指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、台所で一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に10分後にセットし、
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりする。

やがて前菜は、新タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

この後は、十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、焼きノリ、シャケの瓶づめとした。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をしている。

この間、ご飯の一合は多すぎるので、半分はラップに包んで、
こっそりと冷蔵庫の片隅に保存し、翌朝に電子レンジで温めて、頂いているので、
二日に一回だけ、お米を洗いのが実態となっている。
          
やがて朝食後、台所で皿洗いなどをして、水遊びをした。

昼食はフランスパンを三分の一、ときにはアンパンを頂いたりしている。

そして夕食は、私の場合は、朝食と同様な前菜を盛大に食べた後、
2日に1回、スーパーで買い物をし、野菜コーナー、肉類コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、煎茶を飲みながら食べたりしてきた。

しかしながら独りだと話し相手がいなく寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
ときにはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュース、
或いは映画棚から観たい作品のDVDを取り出して視聴したりした。
                   

日中のひととき、乾燥の機能がある洗濯機で、洗いから乾燥までしてくれるオール自動セットに頼り、
パジャマ、肌着、タオルなど2日に1回として、
あとはお願いねぇ、と洗濯機に向って呟(つぶや)いたりした。

そして3日1回ぐらいの部屋の掃除日として、孤軍奮闘したりした。


このような家事の真似事をしている中、平素の私たち夫婦の日常ペースが狂い、
戸惑っている。
           
         
平素の私の午前中は、家内から依頼された買物で、買物メール老ボーイとなり、
独りで最寄りのスーパー、或いは駅前にあるスーパー、専門店に行ったりしている。

この後は、独りで自宅付近の3キロ範囲の小公園、遊歩道を散策して、
季節のうつろいを享受しているが、
『おひとりさま』の生活をしていると、何かと散策が慌ただしくなってしまい、
中止することもあったりした。

そしてブログの投稿文は、年金生活を過ごしてきた中で、
パソコンの故障、国内旅行をしていない限り、日々貫徹ょ、と毎日投稿して11年生となっているが、
何かしら家事の真似事をしていると、慌ただしく綴ったりし、投稿時もまばらとなり、戸惑ったりしてきた。

こうした中で、専業主婦のような女性は、どのような家事の合間に、投稿文を綴っているの、
と私は思いながら、微苦笑したりしている。

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集中力を高めるベストな運動、睡眠、食事を学び、やがて微苦笑させられて・・。

2015-07-29 14:13:17 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昼食後のひととき、週に2回ぐらい愛読しているネットのサイトを見たりしていた。

ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトで、
私は年金生活の中で、健康、医療、介護など多々学んできました・・。

そして今回は、目に止まってしまったのは、
【集中力を高めるベストな運動、睡眠、食事は?】であり、
遅ればせながら学ぼうと思い、クリックして読んだりした。

やがて読み終わった後、せめて現役サラリーマン時代に学んでいれば・・、
と思ったりした。
しかしながら知らなかったこともあり、今後のセカンドライフ中で、
遅ればせながら生かそう、と深く感じたりした。

この記事の原文は、『PRESIDENT 』の2014年9月29日号に掲載された記事のひとつで、
『PRESIDENT 』の基幹サイトに2015年7月28日に配信され、
フリー編集者の遠藤 成(えんどう・せい)さんが寄稿された文であり、
無断であるが転載させて頂く。
          

《・・
メンテで脳力はアップする

脳は集中状態が好きではない。
脳の血流量を観察すると、脳が活発なのは15分くらいがいいところ。
でも集中力を高めるきっかけになるメソッド(方法)はある。

諏訪東京理科大学教授・篠原菊紀氏が勧める運動を紹介しよう。

「集中力は眼球の動きと密接にかかわっているので、こんな運動をしてみましょう。
(1)パソコンの中央を見つめる、
(2)顔を動かさず眼球だけを動かしてモニターの四隅を右上→右下→左下→左上と時計回りに見つめ2周する、
(3)次に反時計回りに見つめて2周する、
(4)終わったらふぅ~っと息を吐く」

気が散りがち、頭の切り替えができないときに効果を発揮するそうだ。
          

脳をよい状態に保つためには規則正しい生活が重要。
なかでも1日の約3分の1を占める睡眠時間。
忙しいとどうしても睡眠時間を削りがちで、寝ないで頑張ったことを自慢する人も少なくないが、
脳の機能的にいえば、これは最悪。

これまででも述べたように閃きは、眠りから生まれるといってもよい。
ただ、成人に適切な睡眠時間の長さは個人差が大きい。

「でも、睡眠時間が短くなりすぎて、損をしている人のほうが圧倒的に多い。
睡眠は質も大事ですが、ある程度の量は絶対に必要です。
仕事時間を減らしても、そのぶん睡眠時間を増やしたほうが、仕事や勉強のパフォーマンスは必ず上がる」
(本郷赤門前クリニック院長 吉田たかよし氏)

吉田院長がクライアント(患者)に勧めているのは、まず睡眠時間を30分長くすること。
このときポイントとなるのが、同時に仕事(勉強)時間を30分短くすることだ。

睡眠時間を延ばしても仕事以外の時間を切り詰めたのでは、
睡眠でパフォーマンスが上がった実感がわかないため、長く寝る習慣は定着せず、
すぐに睡眠時間を削る生活に逆戻りしてしまうそうだ。
             

現代人の睡眠の質に悪影響を与えている要因に、吉田院長は夕飯の時間をあげる。

「ビジネスマンはランチから夕飯までの間隔が長すぎる。
夕飯が異常に遅く、寝る間際に食べている人も少なくありません。

血糖値が高い状態で朝を迎えても目は覚めない。
朝、血糖値が下がり、糖の代わりに脂肪を分解してエネルギーにするときにできるケトン体が、
脳を刺激することで目が覚めるというのがまっとうな目覚め方。

夕食を早く食べ、寝る間際にはものを食べないというのは、
ダイエットにいいだけでなく、脳にとっても大事なこと」(吉田院長)

寝る前に栄養満点の食事を摂るよりも、寝る3、4時間前に、
具だくさんのコンビニおにぎりを食べるほうが、脳にはよいのだ。

とはいえ、毎夕飯がコンビニおにぎりではさみしい。脳によいおかずは、やはり魚。

「最近、海外で発表された論文ですが、焼き魚、煮魚は海馬を大きくするという報告があります。
認知機能低下予防に、魚と野菜中心の食事が効果を発するのはご存じのとおりです」(篠原教授)
                       

加えて「適度な運動をすると仕事効率がよくなり、
QOL(生活の質)も高くなるという報告もあります」と篠原教授は言う。

適度な運動というのも量の個人差は大きいが、
種類としてはウオーキングやジョギング、水泳など有酸素運動が好ましい。

運動も習慣化するのが一番。
朝、顔を洗わないと気持ちが悪いように、
週に2、3度、体を動かさないと気持ちが悪いと感じるようになればしめたもの。

入浴は交感神経を活発にしたい朝にシャワーを浴びるならやや熱めで。
夜の風呂はやや低めの温度でリラックスする副交感神経に切り替える。

帰宅するとテレビの前にゴロンとしてダラダラという人は、
“玄関開けたらすぐに風呂”のクセをつけよう。

「帰宅したら風呂→食事→リラックス時間→睡眠の習慣をつけましょう。
入浴で自律神経が穏やかになり、ぐっすり寝られます」(吉田院長)・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は民間の中小業のある会社に35年近く奮闘し、何とか定年退職をできた身である。
この間、コンピュータを活用した情報畑を20数年従事したりした。

こうした部署にいると、社内の幾たびかのシステム開発をしていると、
ビークを迎えると深夜2時過ぎに退社したり、或いは徹夜をしたりして、
日曜日以外は殆ど出勤し、奮闘する時もあったりした。

そして運営に安定すれば、数年後にはシステム部分改定をしたりしてきたで、
睡眠不足で奮戦し、過重労働などは死語だょねぇ、と互いに苦笑したりしてきた。
             

定年する5年前には、リストラ烈風の中、遠方の勤務地に勤めたりした。
朝の4時45分に起床して、帰宅できるは夜の9時過ぎが多かった。

こうした時、帰宅後の最優先として風呂に入った後、10時過ぎに遅い夕食を頂きながら、
家内と一日の出来事などを談笑したりした。
やがて12時になると、やむなく布団にもぐったりした。

そして平日は睡眠不足であり、日曜日に昼寝で補(おぎな)ったりしていた。


2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めた・・。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
          

東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

午後からの大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして深夜まで読書に夢中になったりした時は、昼寝をしたりして、
年金生活の何より特権だねぇ、と微笑んだりしている。
             

或いは、ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

このような平日でも散策を気ままにできる時間、いつでも寝られる時間、ゆったりと食事ができる時間、
こうしたことは年金生活だから、初めて出来ることだよねぇ、
と私は微笑んだりした。
             

今回の集中力を高めるベストな運動、睡眠、食事を学び、
ご教示される内容は、ごもっともである。

しかしながら昨今のサラリーマン諸兄諸姉は、益々短期に成果を問われる時代であり、
過酷な時間の中で奮戦されていると感じ、理想と現実は違いますょ、と言われそうで、
サラリーマンを卒業した私は、そうですよねぇ、と微苦笑したりしている。


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外国人に伝えたい日本食、東京スボット、カルチャー、四字熟語、方言を学び、やがて私は・・。

2015-07-28 13:27:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の老ボーイの身であるが、
本日の午前中のひととき、ネットを彷徨(さまよ)っている中で、
【 外国人に伝えたい日本の方言は? 】と見出しされた記事を見つめた・・。

そして私は、齢ばかり重ねた私でも、どういうことなのょ、
と好奇心に負けて、クリックしてしまった。   

何かしらこの記事は、雑誌の『DIME』の専用サイトの『@DIME』であり、
7月27日に配信された記事と解った。

無断であるが記事の大半を要約させて頂く。
          

《・・4年に一度開催される、世界スポーツ祭典であるオリンピック。
2020年に開催を控えている東京オリンピックは、2015年7月24日を以て開催まで、あと5年を切った。

東京オリンピック開催決定を受け、さらになるンバウンド(訪日旅行)の増加が見込まれるところだが、
ウェブリオ株式会社は、日本人が外国人に発信したい言葉や文化を
インバウンドならぬ”アウトバウン語(ワード)”と名付け、10~60代の男女526名を対象に
その「”アウトバウン語”に関する調査」を実施した。

調査の結果、9割以上が外国へ”アウトバウン語”の発信は重要であると回答。
          

■外国人に味わってもらいたい日本食ランキング

外国人からも人気が高い日本食「“アウトバウン語”~日本食編~」として、
日本人が外国人に味わって(試して)もらいたい日本食を調査。

第1位「寿司(32.9%)」、第2位「天ぷら(22.8%)」、第3位「お味噌汁(22.1%)」、
第4位「ラーメン(20.9%)」、第5位「蕎麦(20.5%)」という結果になった。
          

■外国人に訪れてもらいたい東京スポットランキング

オリンピック開催地であり、インバウンド(訪日旅行)の中心となり得る、日本の首都東京。
日本人が外国人に訪れてもらいたいオススメの東京のスポット(エリア)を調査。

第1位「浅草寺(39.7%)」、第2位「皇居(27.4%)」、第3位「明治神宮(25.1%)」、
第4位「築地市場(21.7%)」、第5位「歌舞伎座(20.9%)」という結果になった。
          

■外国人に伝えたい日本のカルチャーランキング

オリンピックに向けて、日本文化を発信するプロジェクト「文化力プロジェクト(仮)」の基本構想が
文化庁により発表された。
東京オリンピックをきっかけとした日本文化の海外発信は重要視されている。

そこで、今回アウトバウン語の一例として外国人に伝えたい日本のカルチャーを調査したところ、
第1位「温泉(51.1%)」、第2位「お祭り(47.9%)」、第3位「和服(35.4%)」、
第4位「歌舞伎(28.7%)」、第5位「マンガ・アニメ(27.2%)」という結果になった。
          
          
■外国人に伝えたい日本の四字熟語ランキング

日本人が外国人に伝えたい四字熟語を調査したところ、
第1位「一期一会(75.9%)」【一生に一度だけの機会】、
第2位「花鳥風月(31.6%)」【自然の美しい風景】、
第3位「誠心誠意(30.2%)」【まごころをもって物事を行うこと】、
第4位「森羅万象(19.4%)」【宇宙に存在する、すべてのもの】、
第5位「因果応報(18.1%)」【善悪の原因があれば必ずそれに相応する楽苦の結果のあること】、
   「一日一善(18.1%)」【 1日に一つの善行をして、それを積み重ねるようにしなさいという呼びかけ】という結果になった。
          
          
■外国人に伝えたい日本の方言ランキング

日本各地で存在する方言、日本人が外国人に伝えたい日本の方言を調査した結果、
第1位「おおきに(65.0%)」【ありがとう】、
第2位「めんこい(36.1%)」【可愛い】、
第3位「なんでやねん(29.7%)」【なぜ?】、
第4位「なんくるないさ(27.8%)」【なんとかなるさ】、
第5位「しんどい(27.2%)」【骨が折れる】という結果になった。

このように外国人に伝えたい日本食、東京スボット、カルチャー、四字熟語、方言を学び、
私は日本食、東京スボット、カルチャーについては、
それぞれのお国の方でも、民族、宗教、慣習、性別、年代の違いもあり、まして趣向も差異があるので、
一概には選定できないよなぁ、と思ったりした。

しかしながら一部の方で、日本に少し関心を深めたら、
「四字熟語」に代表される秘めたる日本人が信愛してきた心、しぐさなどが的確に集約されている。

そして「方言」は、古来から日本列島のそれぞれの地域で、長年人々が営(いと)なんできた会話、
方言こそ、その地域の風土に溶け合ってきた文化のひとつ、と私は思い深めたりしてきた。
          

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味であり、日本の各地方を幾たびか旅路を重ねてきた。
そして街中の地元の人、観光名所、宿泊している観光ホテルの館内でスタッフ、仲居さんなどと、
私は母の遺伝を受けて、男の癖におしゃべりの為か、談笑をすることが多い。

こうした中、過ぎし2010年(平成22年)5月下旬より、
若葉が彩(いろど)る中、青森の一部を9泊10日間で遊学した。

この間、津軽半島の先端にある竜飛岬にある観光ホテルに3連泊している中、
この旅路の前に、太宰治・著作の『津軽 妙』を45年ぶりに読んだりした為か、
作家・太宰治、版画家・棟方志功のゆかりの宿として名高い『龍飛館』に向った。

この館を入館すると、素朴な厚い横幅の扁額(へんがく)を私は見上げて、
微笑んだりした。
          

これこそ、入館された方に、何よりおもてなしの言葉だね、と深く感じたりした。

このように、さりげない生きた方言に、私は魅せられたりした。

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調布の小型飛行機墜落事故、住民の私は、実態を少し学び、やがて困惑し憂い・・。

2015-07-27 15:33:29 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
作日の11日に調布飛行場から離陸した小型飛行機が、まもなく付近の民家に墜落した惨事に、
こまサイトに【調布の小型飛行機墜落事故、地元の住民のひとりとして、願いは・・。】
と題して、私としては異例であるが、夜の10時45分過ぎに投稿した。

この後、調布飛行場については、恥ずかしながら市民の私は、何かと無知であったので、
定期航空便を学んだりした・・。
http://www.kouwan.metro.tokyo.jp/rito/tmg-airport/chofu/teikikoukuuro.html
☆【東京都港湾局総合公式サイト】==>【東京都の離島・空路】==>【定期便空路】☆

そして離島のこの定期便を活用して、たとえば新島から海産物、農作物なとが、
収穫してまもない時に、調布市の市内にある販売店、食事処で、市民たちは享受できることを
市報などで読んだりしたことを、私は思い浮かべたりした。
          

今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいると、
《・・調布飛行場は都営空港で、昨年の離着陸回数は計1万6024回に上り、
うち8511回は、大島や三宅島など離島への定期便。

今回事故を起こした自家用機などの離着陸回数は1645回で、残りは空撮や測量のための事業用飛行だった。

住宅地が隣接することから、都は1997年、地元3市と覚書を締結。
年間離着陸回数に上限(2万3000回程度)を設け、
観光目的の「遊覧飛行」やパイロット養成のための「訓練飛行」を制限するなど、安全・騒音対策を講じてきた。・・》
このような利用実態を私は遅れ馳せながら学んだ。
             

この後、産経新聞が27日の7時過ぎに配信された記事、
【(小型機墜落】自家用機の発着自粛要望へ 調布市、対応追われる】と題されていたので、
やはり市民のひとりとして注視しながら、精読した。

《・・調布市富士見町の小型機墜落事故を受けて、調布市は26日、
事故の直後から幹部らが情報収集や被害者対策などに追われた。

昭和55年8月には今回の事故現場のすぐ近くの中学校に小型機が墜落する事故もあったことから、
同市は調布飛行場を管理する都などに自家用機の発着自粛を強く求める方針だ。

同市によると、同市幹部らは午前11時7、8分ごろ、消防署が発信する防災メールで事故発生を知り、
同30分ごろには小林一三副市長らが事故現場に到着。

長友貴樹市長も現場を視察した後、午後2時に市庁舎(同市小島町)に幹部約10人が集まって緊急会議を開き、
関連情報の収集・確認に当たった。

長友市長は市長室にこもって対応を指示。
被害者のうち、一時、避難所の利用を申し入れた1家族3人への対応などを進めた。

長友市長は同日夕、取材に応じ、
「事態を極めて重く受け止め、お亡くなりになった方のご冥福をお祈りしたい。
被災された方々には市として取り得る限りの支援をしたい」との意向を表明。

そのうえで、事故原因の徹底した究明と万全の再発防止策の構築を求め、
「それらが明らかになるまでは、自家用機の発着の自粛を要望する」と強調した。・・》

私は今回の突然の惨事に、市民の行政を委託している市長、幹部の言動を知りたく、
長きに転載させて頂いた。

そして適切な処置、今後の要望などに、市民のひとりとして安堵した。
          

この後、家内がテレビのニュースを視聴し、
付近にいた私は、『調布・小型機墜落8人死傷、実態は「遊覧飛行」か』
と報じていたので、私は共に視聴し、困惑しながら憂いたりした。

たまたま報じたTBSが、詳細内容をネットで公開して下さったのを知り、転載させて頂く。

《・・東京・調布市の住宅に小型飛行機が墜落し3人が死亡、5人が重軽傷を負った事故です。
飛行の実態は、調布飛行場では禁止されている遊覧飛行だった、
可能性のあることが関係者の話で分かりました。

この事故は26日午前11時ごろ、調布市富士見町の住宅に近くの調布飛行場を離陸した直後の小型飛行機が墜落し、
機長の川村泰史さん(36)や住宅にいて巻き込まれた鈴木希望さん(34)とみられる3人が死亡し、
5人が重軽傷を負ったものです。

この事故で墜落した小型機が、東京都に提出した飛行計画の目的は、
操縦士の技能の維持が目的の「慣熟飛行」と記されていました。

しかし、死亡したとみられる機長の川村泰史さんの関係者によりますと、
今回のフライトは、けがをした一部の搭乗者が飛行を希望したもので、
関係者とともに東京の伊豆大島を日帰りで往復する
事実上の遊覧飛行だった可能性があることが分かりました。

フライトを希望した搭乗者は、機長の川村さんや
機体の管理・整備を請け負う日本エアロテックの小山純二社長と以前から仕事上のつきあいがあり、
川村さんの関係者の説明では、フライトの打診を受けた川村さんは当初、
「都合が悪い」と一旦断ったものの、小山社長からも川村さんに依頼があったため断り切れず、
飛行目的は「慣熟飛行」とうその記載をして、飛行することになったということです。
             
これに対し日本エアロテック側はJNNの取材に対し、
「川村機長に依頼はしていない。その日はどうかと聞いただけだ」と話し、
飛行目的を「慣熟」としたことについては
「調布飛行場からそのように書くように指導されている」と主張しました。

調布飛行場では遊覧飛行は禁止されており、
国の運輸安全委員会は、搭乗者の関係や飛行目的などを詳しく調べることにしています。・・》

このような報道を知り、困惑を深めて、憂いたのである。
          

そしてやはり私は、調布飛行場の活用は、飛行場としては小さく、この周辺は住宅地が密集し、
学校、サッカーなどに利用されているスタジアム、そして中央高速道路も近くにある所である。

こうした上空に、小型機のパイロットをめざす人が、操縦された場合、
余りにも危険度が多すぎるので、もとより自制するのが人の道としての節度と思い、中止を願う。

そして活用できるのは、国土交通省が認定した民間の定期航路を主軸に、
警察、消防、自衛隊が活用するのが、調布飛行場の役割と感じ深めている。


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調布の小型飛行機墜落事故、地元の住民のひとりとして、願いは・・。

2015-07-26 22:45:18 | 時事【社会】
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
生家も近くにあり、結婚の前後の5年を除き、この地域に住んで65年が過ぎている。

本日の午前中に買物して帰宅後、テレビのニュースで、今回の惨事を知った。

そして私は調布飛行場から飛びだった小型飛行機が、まもなく墜落し、民家や車などが炎上し、
死者まで出る惨事が映し出された。

やがて夕方のニュースで、小型機の操縦士を含む男性2人と、民家にいた女性1人の計3人が死亡。
小型機の同乗者の男性3人と、住民女性2人の計5人が重軽傷を負った、
と警視庁からの公表を聞いたりした。

この後、テレビのニュースに於いて、墜落した小型機を管理していた日本エアロテックが、
お詫びの記者会見が映し出された。

こうした中で、会社が管理している小型機で、
小型機のパイロットを養成している会社の「シップ・アビエーション」にリースしていた、
と私は初めて学んだ。

そして同機は、日本エアロテックから、川村機長が社長を務めるパイロット養成会社に時間貸しされていた、
実態を知った。
          

私は 調布飛行場の航空に使用されている実態は、伊豆七島の新島を結ぶ定期航路が、
国土交通省の認定下で運行されている、この程度しか知らない無知な住民である。

今回、小型機を管理していた日本エアロテックが、小型機のパイロットを養成している会社に、
時間貸しされていた実態を知り、動顛させられた・・。

調布飛行場は飛行場としては小さく、この周辺は住宅地が密集し、学校、サッカーなどに利用されているスタジアム、
そして中央高速道路も近くにある所である。

こうした上空に、小型機のパイロットをめざす人が、操縦された場合、
余りにも危険度が多すぎるので、もとより自制するのが人の道としての節度と思い、
即刻、中止を願う。

調布飛行場は、国土交通省が認定した民間の定期航路、
そして警察、消防、自衛隊が活用するのが、本来の飛行場の役割と、
私は思い深めている。


今回、不幸にも民家に居た女性のひとりが亡くなわれ、哀悼の意を重ね、
そして住民の女性2人が重軽傷に遭遇され、早く回復されることを
無力ながら願っている。


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東京郊外に住む私、今年一番の熱さとなり、やがて過ぎし真夏の猛暑の思い馳せて・・。

2015-07-26 15:08:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報をテレビで視聴していたら、
本日は、今年一番の熱さとなり、36度の猛暑日となり、熱中症に注意しましょう、
と報じていた。

この時節の私の住む地域は、平年は30度前後であったが、
過ぎし18日の土曜日からは、30数度の真夏日が連日となり、
何かと暑さに苦手な私でも、順応してしまった。

しかしながら36度の猛暑日となれば、
買物とか散策の途中で、熱中症で倒れて救急車にお世話になり、病院で入院することは困るので、
午前中は散髪屋(理容店)に行った後、最寄りのスーパーで買物して、帰宅しょう、と決意した。
                                                  

まもなく私はアロハシャツ、長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、ウォーキング・シューズで足元を固め、
A4サイズのバックを斜め掛けにして、扇子で扇(あお)きながら、10時少し前に自宅を出た。

やがて20数年愛用している散髪屋(理容店)で、談笑を重ねながら髪の毛など身ぎれいにしてくれた後、
スーパーに向かったが、燦々と陽射しが照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりしたが、汗がひたたり落ち、苦笑したりした・・。

帰路、両手にスーパーのレジ袋を提げて自宅に向かって歩いたりした。
こうした中、毎年、夏になるとこのような暑さだったかしら、と思いを浮かべたりしていた。

やがて私が、今まで一番熱く感じたのは、若き40代の頃、庭の手入れで草抜きをしていた時だった、
と思い浮かべたりした。
          

確か平成元年(1989年)の頃で、会社の激務の週を終え、快晴で35度近いの日曜日だった。
私は寝不足で疲れがあった身であったが、小庭は草ぼうぼうであったので、
麦わら帽子を被(かぶ)らず庭に飛び出て、伸びた草を抜きはじめた・・。

汗まみれ泥まみれとなり孤軍奮闘したが、負けそうになり、
叱咤激励をする為に、かぼそい声で唄ったりした・・。

♪八月の風 両手でだきしめたら イマジネーション 飛び立つのサヴァンナへ・・
とこの当時に流行(はや)っていたプリンセス・プリンセスの『世界でいちばん熱い夏』の歌を
唄ったりした。

或いは、♪ダイヤモンドだね AH AH いくつかの場面・・
とプリンセス・プリンセスの『Diamonds』の歌を何度も唄いながら、
45歳前後だった私は、汗水を流しながら泥まみれになり、炎天下の中、草抜きをした。

やがて夕方になると、声も枯れて、体力も使い果たした。

その晩、軽い日射病で苦しんだりした。

翌朝の月曜日は、週の初めであるので、人生は気合だ、と何時もより早めに自宅を出たりした。
          

その後、定年退職の5年前、リストラ烈風の中、出向となり、
各レコード会社がCD、DVDなど音楽商品を委託している物流会社に勤めた。

こうした中で、新設された倉庫の一部のフロアーが、
冷暖房装置が遅れて、日に一時間程度であったが汗まみれになったりし、困苦したりした。

しかしながら外仕事をされている人たちの労苦を思い浮かべたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべたりして、その年の熱い夏を乗り切ったりした。
          

やがて定年退職後、多々の理由で年金生活を始め、
確か3年目の夏、群馬県の最南東の館林市に3泊4日で蓮の花を誉めに滞在した。

この旅路は、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、、
この地の蓮の花は、確かに気品を秘め美麗であった。

しかしながら連日35度前後の猛暑で私は早朝、そして夕暮れの時に蓮の花を誉めたりし、
帰路は38度となり、私たち三人は『館林』駅で『浅草』駅行きの特急列車を待ちわび、
大いに戸惑ったりした。

このような事をとりとめなく、思い出したりし、微苦笑したりしている。

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台所で皿洗いをしている時、老ボーイの私は、古き歌謡曲を唄い・・。

2015-07-25 13:14:11 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活11年生の老ボーイの70歳の身であるが、
たまたま家内は家内の母宅に里帰りし、私は独りぼっちの『おひとりさま』の生活をしている。

今朝、朝食をいつもように一汁七菜で頂いた後、
休むと台所が汚くなるので、人生は気合だ、と自身を叱咤激励した・・。

そして家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、台所で皿洗いを始めた。
食器専用の洗剤液をスポンジにたらし、それぞれの茶碗、皿などに丁重に擦(こすっ)たりした後、
盛大に水道水で洗い清めたりした・・。

こうした時、どうした心情が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、
かぼそい声で唄っていた。

そして♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し  君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。

この数分後、家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼せぎの多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。

そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。
          

家内が居る時の平素は、ときたま私は家の中で、かぼそい声で鼻歌を唄ったりしている。

一週間前の時は、たまたま唄った歌のひとつは、『旅の夜風』であった。

♪花も嵐も 踏み越えて・・《作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア》
と心の中で唄ったりして、自身を慰め、そして励ましたりして、ときにはかぼそい声で唄ったりした。

私が小学3年の春、祖父が亡くなり、
その前年に父に死去されて、母は私を含め兄妹の五人の子供が残されたので、
母がよく鼻歌を唄ったりしていた。

この当時、ラジオからよく流れていた、と子供心に記憶がある。

家内は私より5歳ばかり下であるが、戦前、戦後の歌謡曲は、私より詳しい。
こうした根底には、生前の家内の父が歌謡曲が好きで、歌に自信を深めていたので、
家の中とか勤務先の交際の折、よく唄っていたらしい。
          
          
時折、こうした歌を私が鼻歌を唄ったりすると、
近くにいた家内が、NHKの『素人のど自慢』の鐘の音を真似て、
『カァ~ン』と微笑みながら、云ったりしている。

そして私は鐘ひとつかょ、と苦笑したりしている。

この『旅の夜風』の歌は、昭和13年(1938年)に上映された松竹映画の『愛染かつら』の主題歌であり、
原作が小説家・川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載された、
と知ったのは恥ずかしながら10年前であった。
          

私は平素、買物メール老ボーイの責務を果たした後、
独りで自宅付近の3キロ範囲の小公園、遊歩道を散策して、
季節のうつろいを享受している。

こうした時、人影がない時には、♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。

私たち夫婦は、この先いつまでも、ささやかな生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。
          

余談であるが、私はサラリマン時代には、人前で唄うカラオケは苦手で、
おつきあい程度に唄ったりしてきたが、
年金生活をしていると、ときおり鼻歌をかぼそい声で唄ったりしている。

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飛び石のような『おひとりさま』の生活をすれば、戸惑いながらも微苦笑し・・。

2015-07-24 12:12:35 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ10年の恒例となっている。

そして家内は殆ど毎夜、家内の母の本日の出来事と安否状況を確認する為、
電話連絡をしている。
                                        
家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。

ここ半年、ときおり膝(ひざ)などに激痛が感じるのよ、と家内に電話連絡などで言ったりし、
整形外科と内科に通院をしたりしてきた。

そして過ぎし6月1週間前の頃に、血便になっているから不安だわ、
と家内の母は長女の家内に電話連絡で言ったりした。

まもなく家内は、家内の母が住んでいる周辺の病院を検索して、
東京女子医科大学のある医療センター があり、やがて大腸の検査の予約日時が確定した。

こうして家内は家内の母が受診する前日から行き、当日の大腸の検査日、
そして翌日は自宅で安静日と思案して、3泊4日だけとなった。

やがて家内が付き添って家内の母は、初めての大腸の検査を受けた。
大腸のガンの要素、ポリープも無かったが、数多く服用している薬の中で、
血液をサラサラする薬の副作用で、大腸の一部に傷がつき、血便になっている、と診断結果であった。

そして安静させる為に、しばらく入院することになり、
家内は当面実家に滞在して、近くで入院している母の状態を見守ることとなり、
結果として11泊12日となった。

この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活が延長となり、
サッカー、ブロ野球は延長戦は規定時間もあるが、私の独りぼっちの生活が、
いつまで続く、と戸惑いながら微苦笑したりしてきた。
          

そして昨今は過ぎし21日より、4泊5日で家内は家内の母宅に行っている。
過日、家内の母が入院した病院で、退院後の検査、
そして日常通院している内科、整形外科、眼科など専門病院に、
気丈夫だった家内の母が、気落ちしている状況を憂い、家内は付き添うこととなっている。

この後、飛び石のように28日より、3泊4日で家内は家内の母宅に行く予定となっている。
入院した東京女子医科大学のアドバイスにより、膝(ひざ)などに激痛の原因のひとつとして、
関連した医療センターで脳神経外科で検査を受けることとなり、
家内は付き添うこととなっている。
          

平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っている。

たまたま本日の午前中は。台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』の指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に10分後にセットし、
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりする。

やがて前菜は、新タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

この後は、十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、焼きノリ、シャケの瓶づめとした。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をしている。

この間、ご飯の一合は多すぎるので、半分はラップに包んで、
こっそりと冷蔵庫の片隅に保存し、翌朝に電子レンジで温めて、頂いているサイクルとしている。
従って二日に一回だけ、お米を洗いのが実態となっている。
          
朝食後、台所で皿洗いなどをして、水遊びをした。

この後は、乾燥の機能がある洗濯機で、洗いから乾燥までしてくれるオール自動セットに頼り、
パジャマ、肌着、タオルなど2日に1回の該当日であったので、
あとはお願いねぇ、と洗濯機に向って呟(つぶや)いたりした。

そして3日1回ぐらいの部屋の掃除の該当日であったので、孤軍奮闘したりした。

このような家事の真似事をしている中、平素の私たち夫婦の日常ペースが狂い、
戸惑っている。
          

平素の私の午前中は、家内から依頼された買物で、買物メール老ボーイとなり、
独りで最寄りのスーパー、或いは駅前にあるスーパー、専門店に行ったりしている。

この後は、独りで自宅付近の3キロ範囲の小公園、遊歩道を散策して、
季節のうつろいを享受しているが、
『おひとりさま』の生活をしていると、何かと散策が慌ただしくなってしまい、
中止することもある。

何よりも困苦することは、私の母からの血筋を受けた私は、恥ずかしながら男の癖におしゃべりの為、
この世で一番気楽に話せる相棒がいなく、寂しいが本音となっている。

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昨今の世の中に「おっさんレンタル」があると知り、老ボーイの私は微苦笑させられ・・。

2015-07-23 14:26:25 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業のサラリーマンを卒業した年金生活の70歳の男性の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを眺めると、『大暑(たいしょ)』と明記されていた。

もとより暑さが最も厳しくなる時節、と古人から伝言されているが、
私の住む東京の調布市の片隅の地域は、6日ぶりの小雨が降り、微苦笑させられた。

午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者の私は、
最寄りのスーパーに傘を差しながら歩いて往還した。

この後、定例の散策を取りやめて、自宅の小庭に降る雨を眺めたりした。

やがてパソコンを開き、トップページにしている【YAHOO! JAPAN】の中のひとつの『雑誌』コーナーを
ぼんやりと見たりしていた・・。

そして【1時間1000円で“おっさん”を貸りる!? 「おっさんレンタル」を体験】
と見出しを見て、どういうことなのょ、
と好奇心が満ち溢れてしまい、クリックした。

そして女性専用誌の名高い『日経ウーマン』が、ネットの『日経ウーマンオンライン』に配信された記事と知り、
私はためらったりした・・。
          

しかしながら興味のあることは、過ぎし年にシンガーソングライターの中島みゆきさんのインタビュー記事が、
女性専用月刊誌に掲載を知り、恥ずかしながら購読してきた体験のある私は、
こっそりと「おっさんレンタル」を知りたくて、記事を精読してしまった・・。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150723-00210124-woman-life&p=1
☆【YAHOO! JAPAN】==>『雑誌』
      ==>『日経ウーマンオンライン』7月23日・配信
         ==>【1時間1000円で“おっさん”を貸りる!? 「おっさんレンタル」を体験】☆
                            


私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事を奮戦したりしたが、あえなく敗退した。

そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
何とか中途入社できたのは1970年〈昭和45〉年の春であった。

そして、この頃の私の根底には、ハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、
ソフト商品の方が波長に合う、同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと創作などにも刺激があると思い、
面接を3回した中で無理難題を申しあげて、配属された。

私は音楽事業本部の仮正社員となり、ともかく現場を学べと指示されて、工場にある商品部に配属となった。
この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座のメーカーであった。

私は入社早々、商品部の商品センター働き始め、 数ヶ月した頃、
この中のひとつの大きなレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けたりした。

もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたし、
やがて定年の5年前にリストラ烈風の中、出向となったりした。

そして音楽業界に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となった。
             

こうした中で、私は裏方の管理系の情報、経理、商品など分野で奮戦する中で、
私は母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりで、
明るく大きな声で職場で、同じ働くなら楽しく仕事をしましょう、と私は周囲に言ったりして、奮闘したりした。

或いはリストラ烈風の中、出向時代は、
出向先は各レコード会社がCD、DVDなど音楽商品を委託している物流会社であった。
         
私の場合は物流会社の中のひとつの商品センターに出向であり、
職場はセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の中、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名前後、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

こうした中、業務の合間とか懇親会で、女性のパート方たちと、談笑したりしてきた。

或いは私の兄ふたり妹ふたりで、サンドイッチのように挟まりながら育ってきたこともある上、
何かと女性に小学一年生の頃から、憧憬した為か、
男性には厳しくても、女性にやさしく接する習性がある。
          

定年後は多々の理由で年金生活を始めて、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

こうした中で、働いて下さる若き女性に関しての問題は、
上野千鶴子さん著作・『女たちサバイバル作戦』(文春新書、2013年)で、
多々教示された。

雇用機会均等法から約30年が過ぎ。日本の働く女性は、幸せになったか?、
という主旨で、総合職、一般職、派遣社員まで、
追い詰められても、手にとりあえにい女たちの実態を克明に描かれている。

こうした中で、《・・今の日本のワーキングマザーは、いわゆるマミートラック(お母さん向けコース)に乗せられ、
二流の仕事しか与えられないか、
男と“機会均等”に戦って体がボロボロになるかの二択しか用意されていない・・》
こうした実態を私は深く学んだりしてきた。
          

今回の「おっさんレンタル」に関しては、社会情勢の働く厳しい状況下、
ときには年配の人生経験が豊富な男性に、《一期一会の機会であればこそ・・》、
悩みの相談など、安易に求めることのできる「おっさんレンタル」の風潮に、私は理解できる。

私も恥ずかしながらサラリーマン時代に、職場の若き女性から、
相談のようなことを言われたりしてきた・・。

ただ、その女性の働く状況の軌跡を知っていたし、家族背景を少し知ってきたので、
真摯にアドバイスらしき事が私は言えたりした。

そして「おっさんレンタル」は、どのような人生航路を歩んできたか未知の女性には、
何かと中小業で多事多難を体験させられた私でも、対価がなくとも、
安易に答えられない私なので、私は「おっさんレンタル」には、なれないなぁ、と微苦笑させられたりした。

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百日紅の淡紅色、純白の花が彩(いろど)る、この時節は・・。

2015-07-22 08:42:46 | ささやかな古稀からの思い
私の住む東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は
過ぎし19日の日曜日、快晴の中、昼下がりには34度の熱い日となり、
夕方のニュースでは、気象庁が『梅雨明け』ですょ、と報じていた。

そして今後は、猛暑日と称せられる35度以上暑さも予測されますので、
熱中症に対して充分な対策をとりましょう、と高温注意報も補足されていた。
            

我が家は家内と2人住まいで、過ぎし12日の日曜日の昼下がりまでは、
団扇(うちわ)、扇子(せんす)、そして扇風機で熱さに対処してきたが、
高齢者に多いとされている熱中症が怖くて、西陽が残る熱い中、簾(すだれ)を各部屋に設置し、
エアコンの冷気に享受してきた・・。

この後、連日30数度の熱い中、平素の買物専任者の私は、
いつものように独りでスーパー、専門店を歩いて往還したりしてきた。

そして熱いじゃないの、と何かと暑さに苦手な私は、ため息をしたりし、
人生は気合だ、と70歳の買物メール老ボーイの私を、叱咤激励してきた。

昨日は、二週間ぶりのスーパーに向かって歩いたりしている時、
まもなく木槿(ムクゲ)の花を見かけ、私は足を止めて見惚(みと)れた・・。
          
    
この後、道路の街路樹には、百日紅(ヒャクジッコウ)の花を観かけたり、
私は足を止めてしまった。
          
百日紅は多くの方より、猿滑り(サルスベリ)として慕(した)われている樹木の夏の花のひとつである。
          
私の住む地域では、平年ならば7月の中旬の頃から、秋にかけて長い期間に彩(いろど)い、
路線バスも走る大通りの歩道にも、街路樹として淡紅色、純白の花が彩(いろど)っている。
             

古人の人たちは、夏の季節に百日も咲き続けると称して、百日紅(ヒャクジッコウ)と命名した、
と私は何かの本で読んでいた。

遠い昔の60数年前の頃、私の生家にも百日紅(ヒャクジッコウ)の大きな樹木があり、
私の小学生の頃には、夏休みの時などは、木登りをしたりした。

父の妹の叔母達からは、
『猿(サル)も滑るくらい・・つるつるした樹だから・・気をつけるのよ・・』
とたびたび言われたした。

毎年、この淡い紅色の花が咲く頃、夏休みが近づいてきた、と思いながら、
夏休みの期間を見守り、初秋の台風が到来する頃まで咲いていた。

ここ数年、散策などでこの花に出逢うと、私は小学生の頃を思い馳せたりしている。

               
      2004年の秋に定年退職を迎え、デジカメを記念品として夏に買い求め、
      初めて撮った写真の一葉が、偶然にも百日紅(ヒャクジッコウ)の樹木を撮ったりした。

私の住む調布市では、市の花として、
この百日紅(ヒャクジッコウ)が指定され、淡紅色、純白の花が街路樹などで彩っている。

こうした時、暑い夏は何かと私は苦手であるが、
この淡紅色の花を眺めたりすると、思わず微笑(ほほえ)んだりすることが多い。


このようなことを思い浮かべたりして、歩いたりした。
          
そして、先ほど観た猿滑り(サルスベリ)の花が心の片隅に残影していた為か、
俳句の素養のない私でも、
       さるすべり 夏空の中 友として
       さるすべり 熱き日々の中 彩(いろど)りけり
       さるすべり 夏空彩(いろど)る 簪(かんざし)かな      
と拙(つたな)い句を詠(よ)んだりした。
          

帰路、暑さが増す中、汗が流れてきたので、ハンドタオルで汗をぬぐったりした後、
扇子を取り出して、扇(あお)ぎながら自宅に向かった。


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【いしゃまち】健康医療情報サイトを知り、誰しも心強い支援者だねぇ、と微笑み・・。

2015-07-21 07:36:16 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の男性の身であるが、
昨夜、ネットのニュースを彷徨(さまよ)っている中、
偶然に 【いしゃまち】と称られた健康医療情報サイトを遅ればせながら、知った・・。

この【いしゃまち】の主旨は、
《・・「大切な人の健康を守りたい」というコンセプトから生まれた健康医療情報メディアです。

愛する恋人、大切な家族のちょっと気になるカラダとココロの悩みを解決したい。
「大切な人」が健康で、幸せに生きていくために役立つ情報を伝えたい。
そんな想い が込められた「場」、それがいしゃまちです。・・》

このように明記されていたので、高齢者の私でも、どうかしらと思いながら、クリックした。
http://www.ishamachi.com/
☆【いしゃまち】健康医療情報サイト ~21世紀の家庭の医学~☆

このように表示された後、私は『おすすめ記事』の中で、
『【保存版】暑くなったら注意!夏こそ気をつけたい症状・病気とは 』
と題された記事を選定して、クリックした。

結果として、それぞれ予測される症状・病気が表示された。
http://www.ishamachi.com/?p=9098
☆【いしゃまち】健康医療情報サイト 
     ==>『【保存版】暑くなったら注意!夏こそ気をつけたい症状・病気とは 』☆

やがて私は読み終わった後、乳児から私のような高齢者まで、的確に助言させられて、
役に立つ教科書のような支援サイトだねぇ、と微笑んだりした。
          

日頃の私は、70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
      
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

しかしながら私は、世の中の常識が欠落していることもある。
          

過ぎし2004年(平成16年)の秋に、私は定年退職した後、
多々の理由で年金生活にを始めた・・。

やがて2か月が過ぎた頃、家内は読売新聞の日曜版で、『星にお願い』の今週の運勢を見ながら、
『貴方の今週の運勢・・仕事&勉強で手を抜くと成績ダウン。
気合を入れて頑張ろう・・ですって』
と家内は微笑みながら、私に話しかけてきた。

『そぉ・・じゃあ、ブログは手を抜かず、綴るょ・・』
と私は家内に言いながら、近寄った。

家内の指す新聞には、《てんびん座》と書かれていた。

『ちょっと、教えて・・
この《てんびん座》っていうのは、一生変わらないの・・?』
と占いなどに関心のない私は、家内に訊(たず)ねたりした。

『あなたぁ・・よくも35年も会社に勤められたわねぇ・・
あなたの場合は『てんびん座』で、一生変わりませんわ・・』
と家内は、驚きながらあきれた表情で、めずらしく私に断言したのである。

『そぉなの・・初めて知ったょ!』
と私は少し驚いて、家内に言ったりした。

これ以前の私は、もとより地球は回転し、天空の『いて座』、『おとめ座』、『かに座』などの星座も動くので、
私は9月下旬生まれであるが、その時に応じて今月は『いて座』になったり、来月は『おとめ座』に変わると、
漠然と思ったりしてきた。
          

このように私は齢ばかり重ねても 世の中の常識とされることが、
恥ずかしながら無知なことがあり、と苦笑することが多い。

今回、【いしゃまち】健康医療情報サイトを初めて知り、つたない私にとっては、
多々教示され、的確に指示されるので、心強い支援者だねぇ、と思いながら微笑んだりした。


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里彦だった私が、海の匂いを初めて感じ、やがて海に魅せられた時は・・。

2015-07-20 08:53:26 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
ともすれば曜日感覚が薄らいでいる私は、今朝も4時半過ぎに、ぼんやりとカレンダーを見て、
『海の日』と朱記されていたので、私は『海の日』かょ、と微苦笑したりした。

『海の日』の祭日の制定に関しても、定年退職後のまもない時に、
何かと信愛している『日本文化いろは事典』から学んだりしてきた。

《・・7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。
そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で
「海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。
現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています・・》

このように明記されていたが、
《・・1996年(平成8年)に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日・・》
と解説されていた。

やがて、私は庭のテラスに下り立ち、小庭は朝涼が残る中、
朝の陽射しがまばゆくを照らしている情景を眺めたりした・・。

そして、ぼんやりと私は、初めて海の潮の匂いを感じた時、
或いは幾たびか国内旅行で海を観たりして、果てしなく拡がる海に驚いたりしたこと、
思いを馳せたりした・・。
           
            ☆今回掲載したすべて写真は、『父島』そして『石垣島』の旅路で撮った☆

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

やがて地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

こうした小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を私たち生徒に優しく教えて頂いた時、
私は少し戸惑ったりした・・。

少年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林などが広がり、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。

この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であり、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりした。

このような心情が私の心の奥底に今だあり、『里彦』とか『里っ児』と思ったりする時もある。

私が海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。

確か1954年(昭和29年)の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたりした。

そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。

この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生(高峰秀子さん)の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉(田村高廣さん)が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであった。

そして、この時に廊下に立っていた成人した生徒の女性(月丘夢路さん)が
『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多かったのである。
          

そして私が初めて海を観たのは、1956年(昭和31年)の小学6年生の夏、
独りで小田急線に乗り、湘南海岸の江ノ島に行き、海岸、展望台から相模灘の海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、果てしなく彼方までの海原を呆然としながら、長らく見つめたりした・・。


やがて1960年〈昭和35年〉の夏、高校1年の私は夏休みを利用して、
初めて独りで宿泊する旅行をして、伊豆七島のひとつの大島に訪れた。

夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。

そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。

この旅路の中、伊豆大島の元町港から下田港行きの定期航路の観光船は、高波の為に欠航し、
私はあわてふためいたりしたが、熱海港だけ午後2時過ぎに出航、と報じられたりした。

やむなく熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
私たち観光客で満席となり、私は客室に入らず、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。

空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、私は身も心も爽快な心となった・・。
          
          
この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いが、少し解かったような心情となった。

わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は伊豆急行が開通前の時期で、
東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、乗り込んだりした旅路の想いである。


この後は50数年の中、幾たびか旅を重ねている中で、冬のオーホック海の厳冬の荘厳な流氷、
日本海、太平洋の近海をフェリーなどに乗船して観たりしてきた。

過ぎし2010年〈平成22年〉の2月下旬に、
小笠原諸島の『父島』でザトウクジラを観ることを最優先課題として、
私たち夫婦は2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊の旅路をした。
   

この後、陸地の新緑、紅葉、雪が舞い降る旅を幾たびを重ねて、
そして2013年〈平成25年〉の2月に、南海の情景も観たくなり、八重山諸島の中核の石垣島に9泊滞在しながら、
この周辺の地、海を観たりしてきた・・。
   


   
こうした八重山諸島の叙景を見たりした中、何かしらヨットで《サンセット・クルーズ》があると知り、
私たち夫婦は申し込みながら、観光の乗船客は6名前後かしら、と私は家内と談笑していた。

まもなく欧米人のような方で細身の長身の容姿の40代の男性が、
私たちの近くに来て、
『XXさんですか? 私が本日の《サンセット・クルーズ》担当するXXXXです』
と私に日本語で挨拶した。

私は観光ツアーの方は日本人の男性で船長のアシスタントの若き男性を想定していたので、
少し驚いたが、家内は全く予測していなかったので驚いた、と後で私に言ったりした。

そしてこの欧米人風の男性に導かれて、送迎車に乗り、やがてヨットが係留されている桟橋に行った。

やがてアシスタントもいなく、この欧米人風の男性がたった独りで操縦、案内人と知り、
私たちは最後部の椅子席に腰かけた。
               
私たちか何よりも驚いたのは、乗客の観光客は私たち二人だけで、
貸切船で贅沢この上もなく、と私は感じたりした。
そして私は日本語と英語の単語を混ぜ合わせて、この欧米人風の男性と談笑したりした。
    
まもなく桟橋を離れて、この当時は尖閣諸島で緊迫していた時で、海上保安庁の巡視船(?)が視られると、
『何かとお忙しくて・・大変ですねぇ』
と操縦士兼案内人の欧米人風の男性は、私たちに言ったりした。

私はこの方の感性と思いに瞬時に魅了され、お互いのこれまでの人生航路を話し合ったりして、
交遊を深めたりした。

   

この後、私たち夫婦は夕陽が海の彼方の沈む情景を観たりした。
   

やがて私たち夫婦はホテルに帰館した後、
確かに海上に於いての安全、救助などは、海上保安庁の諸兄諸姉で、
そして領海の保全は米軍に協力を仰ぎながらも、海上自衛隊の諸兄諸姉も、
果てしない努力と英知、そして責務で、私たち国民は守られている、と私は感謝を深めたりした。

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60年前の頃、小学生の私は夏休みに、ラジオ体操した苦い想いで・・。

2015-07-19 08:56:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、テレビのニュースを視聴していたら、
小学生の学童の多くが、一昨日の18日の土曜日から『夏休み』に入った、と遅ればせながら私は知った。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
無念ながら孫もいない上、年金生活をしていると、ともすれば曜日の感覚も薄れ、
微苦笑させられることもある。
               
やがてぼんやりと玄関の軒下に下り立ち、朝涼の残る小庭を眺めたりした。
そして学童が『夏休み』かょ、と思いながら、
私の遠い昔の60年前の頃、小学生時代の『夏休み』は・・と思い馳せたりした。

やがて夏休みの期間は、早朝にラジオ体操をしていたことが、 鮮明に思いだされて、
私は微苦笑させられた・・。


私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった・・。

この当時、夏休みになると、近くのお寺の境内で『ラジオ体操』が行われていた。
集合時間は、忘れてしまったが朝の7時頃だったかしら、と思っている。
          
             1957年〈昭和32年〉の当時は、このように整備されていなく、素朴な境内であった。

お寺の正面にあるお賽銭箱の横の階段に、ラジオが置かれて、
NHKの『朝のラジオ体操』が流れると、近所の30名前後の小学生の前で、
6年生の班長が少し高い台でお手本のように始め、数多くの小学生の生徒がそれに習って続いていた。
          

小学生は家を出る時は、必ず所定の出欠カードを持参し、
体操が終わった後、班長から出席のマークをカードに押して貰ったりしていた。

私の長兄、次兄は学業の通信簿の成績は『5』と『4』の多い優等生であったので、
6年生になると班長に選出されていた。

三男坊の私は、この当時も何かといじけた劣等生で『3』と『2』ばかりの成績であったので、
学期末に通信簿を頂くたびに、担当の先生から、
『お兄さんのふたりは・・優秀なのに・・』
とため息まじりに私に言われたりしていた。

こうした中、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

このような関係で私が6年生なると、夏の『ラジオ体操』の班長に選ばれる確率は少なかった。


やがて私が年長の6年生なると、班長は私が選任されて、
この年から何故かしら副班長が新設されて、このお寺の住職の娘の同級生が選ばれた。

この夏、6年生の私は照れながら、俺でいいのかしら、と心の中で呟(つぶ)やいたりして、
多くの小学生の一年生から同級生までの出席マークを押したりした。
               

後年になると、私は小学生の夏休みの『ラジオ体操』を夢をみたりする時もあり、
悪夢のようなことが多く、私は目覚めるたびに苦笑したりしている。


この寺院は、私が幼年期には周辺に幼稚園がなかった当時であり、
託児所となっていたので、私は通ったりした。

或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。

この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。

このようなことを思い重ねて、私は微苦笑したが、今朝のひとときであった。

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遅ればせながら“健康格差”を知り、何かと根がケチな老ボーイの私は、微苦笑させられて・・。

2015-07-18 06:32:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨夜、週に2回ぐらい愛読しているネットのサイトを見たりしていた。

ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトであり、
私は年金生活の中で、健康、医療、介護など多々学んだりしてきた。

たまたま今回、【健康はお金では買えない!? マッサージ通いは不健康の始まり】と見出しを見て、
どういうことなょ、と思いながらクリックした。

何かしら初めて見る『年収1000万の不幸解明』連載シリーズの中の『健康』コーナーに於いて、
『プレジデント』の基幹サイトに2015年7月13日に配信された記事で、
原文は『プレジデント』誌の2014年8月18日号に掲載された記事のひとつと解った。

無断であるが、鈴木 工さん=文・構成の前半記事を転載させて頂く。
          

《・・「健康はお金では買えない」という常識が揺らいでいる。
最近は所得と健康の関係について研究が進み、
「低所得層の子どもは病気になりやすい」
「低所得者の要介護者は高所得者の5倍」などの“健康格差”が世界的に訴えられるようになってきたのだ。

高級ジムで個人トレーナーをつけて体を鍛えるのは富裕層の特権であるし、
健康診断を受けるにも保険適用外のため安くない費用がかかる。

もはや健康はお金で買う時代になってしまったのだろうか……。
健康づくりに詳しい中京大学スポーツ科学部の湯浅景元教授は、その考えを否定する。

「健康を維持するのは、1に運動、2に食事、しっかり禁煙、最後に薬。
この中でもっとも大事な運動を正しい方法で行えば、健康につながります。

フィットネスクラブでお金をかける運動をしても、家庭でお金をかけない運動をしても本質は同じ。
ただし費用対効果の高い後者が、一番いいと言っていいでしょう」
          

無料で行えて効果のある運動は、いくつもある。筆頭は「歩く」だ。

「歩くとき、人間の体は上下動します。
これが1歩ごとに負荷になって、心臓や筋力を自然に鍛えていることになります。
毎日1万歩に相当する運動を続けている人とそうでない人では、
年間7万~8万円の医療費の差が出るという調査報告もありますね。

そして意外にも『立つ』のも実は立派な運動。
膝を曲げて立てば、脚にかかる重さが体重の2倍3倍になって、それだけで肉体が変わってくる。
お金がなくてジムの器具を使えなかったり時間がない人は、
地球が与えてくれる重力を最大限に利用すればいいんです」

こうした運動や生活活動による効果を倍増させるには睡眠も大切だ。
成長ホルモンが分泌される23時前に寝ると、より運動の効果が得やすいという。

「歩く」「立つ」「寝る」にほとんどコストはかからないが、
若干の投資をする余裕がある者に対して、湯浅さんは、今話題の“立って仕事ができる”スタンディングデスクを勧める。

(略)スタンディングデスクは、軽くカーブしてるのが正しい状態である首が、
ゆがんだ姿勢によってまっすぐになってしまう現代病の「ストレートネック」を解消。
すでに欧米では、座り仕事は体にダメージを与えるとして、
立ったまま仕事をするスタイルが広がりだしているという。・・》

以上は記事の前半で、後半は《・・マッサージ、スポーツジム、ジョギングの費用面を含む比較されている・・ 》
             

私は記事を読み終わった後、遅ればせながら“健康格差”という言葉を初めて知ったりした。

私は民間会社の中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年生となっている。

東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
          

過ぎ去りし年の2010年〈平成22年〉の秋の健康診断を受診した時、
糖尿病と明示され、茫然としながら、翌日より食事の内容はもとより、ウォーキング、散策をしたりして、
大幅に改善されている。

お酒大好きなの呑兵衛の私は、日本酒の純米酒、ビールを長き45年ぐらい夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとしてきた。

この間、最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ4年は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
                        

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
昨今は天候不順で、新鮮なキャベツにめぐり逢えないと気が多くなっている。

こうした時は、新タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂く、

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をしている。

そして夕食を頂く前に、前菜を朝食と同様に頂くことが、ここ5年ばかり続いている。
                                     
私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
             

昨今の熱い季節は、私の容姿として制服のようになった半袖のスポーツシャツかアロハシャツ、
長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そしてA4サイズのバックを斜め掛けにして颯爽と歩いたりしてきた。
         
しかしながら燦々と陽射しが照らし、雲ひとつない青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
          
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、冬の寒さを思い浮かべて、
足早に歩いているのが実情である。

こうした時、ときおり ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
と何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に水前寺清子さんが唄った歌を心の中で唄い、
歩く時もある。
           

しかしながら34度前後を超えた場合は、やむなく利便性の良い路線バスに乗り、
バスの車内の冷気に甘えて帰宅することもある。

もとより高齢者の私が、熱中症で倒れて救急車、病院に入院することは、
世の中にご迷惑をお掛けするので、私なりに自己防衛策としている。
          

ときおり駅前に行くと、スホーツセンターのようなフィットネスクラブの有料施設で、
ガラス越しで、奮闘している数多く方を見かけることがある。

私は根がケチの為か、歩いたり、或いはジョギングをされればよいに、と思ったりしている。
しかし私は老ボーイなので、ジョギングは心臓などに負担がかかりすぎるで、断念している。

そしてマッサージなどは、都心に苦手になった私は無知であるが、
国内旅行が趣味の私たち夫婦は、旅先の観光ホテルなどで、幾たびも見かけたりしてきた。

そして30分5000円とか一時間1万円と知ったりすると、私は苦笑してしまう。
私は大浴場か露天風呂で、長めに身も心も委(ゆだ)ねた後、部屋に戻り、ゆっくりとビールを飲めば、
疲労回復できるので、やはり根がケチの為か、と微苦笑したりすることが多い。
          

この世は健康第一と、食べ物、薬などが大いにもてはやされている・・。
もとより超高齢化の社会なので、長寿の命題でこのような風潮となっているが、ときおり私は苦笑する・・。

私は健康の源(みなもと)は、程ほどの食べ物を頂き、栄養補給剤の薬に頼らず、
何よりも熟睡こそ肝要で、そして生きがいのある言動をしていれば、
たとえ齢を重ね体力が衰えても、心身は溌溂(はつらつ)と願いながら、思いを深めたりしている。

そして私は定年後、風邪気味の時は、病院などに行かず、早めに布団にもぐり、
本を読み、そして睡眠時間を多めにしている。

或いは疲れて眠くなったら、昼さがりに昼寝もでき、年金生活の身だからできることなので、
この世で一番贅沢なことと確信しながら、と微苦笑しながら甘受する時もある。
          

今回の記事を読み終わった後、やはり歩き、よく寝て、程ほどに食べて・・
日々を過ごせれば・・と思いを深めたりしている。

尚、“立って仕事ができる”スタンディングデスクに関しては、
働いて下さる諸兄諸姉には検討の余地があるが、
サラリーマンを卒業した老ボーイの私は、勘弁してねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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