夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『所得税の確定申告書』、遅ればせながら何かと愚図の私は作成し、やがて微苦笑し・・。

2015-02-28 16:25:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の70歳の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし1月下旬の頃に所属地域の武蔵府中税務署から、
『所得税の確定申告書』の用紙等在中の郵送物が我が家の郵便受け箱に入っていた。

そして私は表紙を見たりして、
《 申告書の提出は、平成27年2月16日(月)から3月16日(月)までです 》
と明記されていた。
               

この時、私は、雑事などがあったり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行がまじかであったので、
2月の月末頃まで所得税の確定申告書を作成し、郵送すればよい、と思ったりした。
          

過ぎ去る年の 2004年(平成16年)の秋に定年退職する以前の現役のサラリーマン時代は、
12月初旬に社内の担当部署に年末調整の書類を提出すれば、
医療控除、不動産等の用件がない限り、簡易であった。

この後は、私は定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、厚生公的年金、企業年金、個人年金を受け取り、
やがて家内も65歳となった今、厚生公的年金、企業年金をわずかな額であるが頂いているので、
私たち夫婦は共に年金を頂く夫婦となっている。

私は高齢者の少しボケてきた身なので、それぞれの関係先から昨年の12月頃に送付されてきた
源泉徴収票を指定の封筒に入れて保管している。

そして医療費控除に関しては、私たち夫婦のどちらかが歯の治療費が多く、
病院の医療費、これに関連した治療の薬代金、
或いはドラッグ・ストアーで買い求めた薬代金などの領収書を保存している。
          

本日の28日の朝、何かと愚図の私でも2月の月末となったので、
午後のひとときに『所得税の確定申告書』を作成しょう、と決意したりした。

やがて昼食後、 私は所得税の確定申告書を作成する前に、
こうした医療控除に関係する領収書を整理し、電卓で算出している。

この後は、ネットの国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』をパソコンで開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力している。

そして年に一回の作業なので、忘れてしまったかしら、と不安げにパソコンの画面を見たりしている・・。

私は恥ずかしながら『e-Tax』の方法に自信がなく、定年後のここ10年は、
ネットの国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』をパソコンで開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力している。

この後『所得税の確定申告書』の用紙の最後のページに添付されている『下書き用』に記入した後、
提出分の本書に清書しているのが、毎年の実態となっている。
          

私は幾年過ぎても『収入金額等』、『所得金額』、『所得から差し引かれる金額』、『税金の計算』などの各項目、
そして算出方法が解からないので、
この国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』を頼りにして、項目、計算結果を転記している。

この後は、『下書き用』から本書の『所得税の確定申告書』に転記して完成をさせて、
添付するべき源泉徴収票、医療控除に関する領収書などを整理して、一表を作成したのは、
午後3時であった・・。
          

結果としては、今回も納(おさ)める税金額は樋口一葉さんのお札で足りてしまい、苦笑したりした。

ここ10年の記憶にある限り、過ぎし年には歯の治療費の影響で、
還付された税金が福沢諭吉さんのお札が1枚とか2枚の時も3回ばかりあり、微苦笑したりしてきた。

何はともあれ、年に一度の国民の責務が果たせた、と私は安堵したりしている。


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私のブログ、写真を添付して早や2年半が過ぎて、微苦笑を重ねて・・。

2015-02-26 16:56:58 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
民間会社の中小業の会社に35年近く勤めて2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めた。

まもなく偶然に本屋の書物からブログの世界を知り、
やがてパソコンの故障、或いは国内旅行で出かけた以外は、自宅から日々投稿文を重ねて、
丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
          
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
       
        

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
        

こうした中で、諸兄諸姉の皆様の多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ7年ぐらい前の頃からは、殆どの方が心ある写真を添付していた。

そして私は、いつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもあった。

やがて過ぎし2012年(平成24年の10月下旬の時、私たち夫婦は、
北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間で滞在し、周辺を遊学した。
そして旅から帰宅した後、いつものように投稿文を重ねた・・。

まもなく私の投稿文を読んで下さったひとりの女性からコメントを頂いた。
《・・それにしてもお写真がないのが、とても残念・・》
この女性はブログ上で、この数年前の頃から、心の交流を重ねたひとりで、
私は美麗な女性と想像を深めながら、何よりも心清らかな奥方である。
          

やがて私は、喚起させられて、いま覚えなくていつになったら覚えるのょ、
と自身を叱咤激励しながら、ブログ上で写真を掲載をすることを決意した。

そしてまもなく『文化の日』の翌日の4日に於いて、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した。
しかしながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞(こ)う人もいなく、
いろいろと彷徨(さまよ)いながら、これ以降のブログに写真を添付して、今日に至っている。
      

私が愛用しているデジタルカメラは、2013年(平成25年)の秋に、
買い改めたコンパクト・カメラ《ニコンのクールピクス P510》である。

そして私は、このデジカメを持ちながら、散策をする時の情景を撮ったり、
或いは自宅から近い遊歩道、小公園、神社などを撮ったり、
恥ずかしながら自宅の小庭まで掲載したりし、何かと外出する時にデシカメを持参する習慣となってしまい、
当人の私でも我ながら、自身の変貌に微苦笑したりしてきた。
       

やがて私はパソコンのソフトの中で、遅ればせながら『ペイント』という機能を初めて知り、
この『ペイント』を活用し始めたのは、昨年の2014年(平成26年)の5月過ぎであった。

やがてデジカメの世界を遅ればせながら改めて学び、一眼レフには高級、中級、初心者用があり、
コンパクトに於いては程ほどの品、簡易用が区分されて、歴然とした表現力を秘めた機能があることを知った。

そして私はデジカメの一眼レフの中級品の本体に、ズーム28~300ミリぐらいのレンズで撮ったならば、
圧倒的に鮮明に表現できる、と夢想を重ねたりしたこともあった。

しかしながら私が愛用しているコンパクトのデジカメさえ、500グラムぐらいで、
平素は首廻りからネクタイのように前に提げて歩いているが、少し重く感じてしまう。

まして一眼レフの本体にズームレンズにすると、1キロは遥かに超えてしまうので、
常に片手に持ち、撮影を優先するスタイルの散策となってしまうので、あえなく購入することを断念した。
          
                 
こうした私の根底には、私のブログ上は、写真の主体の『写真』ブログの範疇ではなく、
にほんブログ村はシニア系の『日記』、人気ランキングは『エッセイ・随筆』に所属しているので、
その日のあふれた思いを投稿文を綴り、無念ながら筆力が乏しいので、
写真を補記のように添付している。

このような思いになると、あふれる思いの描写こそが肝要なので、
写真の技量より、文章表現の修行をしなさい、もうひとりの私に叱咤させられている。

しかし昨今は、かっての写真添付のない私の投稿文を読んだりすると、
文章だけの投稿文は息苦しく感じ、その上に描写表現に乏しいこともあり、
されど写真掲載は私の投稿文に於いては、今や不可欠である、と微苦笑している。

そして何かと単細胞の私は、投稿文ブログ上に写真添付を知って丸2年半が過ぎた今、3131枚となってしまい、
我ながら呆れたりし、ときには自宅周辺の遊歩道、小公園などの春夏秋冬のうつろう情景を写した写真を、
愛惜したりして見る時もある。

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数々のキャンディーズの歌、齢ばかり重ねた私でも、ときには心身のビタミンと思い・・。

2015-02-25 16:16:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳であるが、
少し前に、ぼんやりと自身のこのサイトで綴ってきたことを読み返したりしている・・。

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、まもなくして偶然にブログの世界を知り、
これ以来、パソコンの故障、国内旅行で自宅を不在しない限り、少なくとも一通は投稿し、
早やブログ11年生になっている。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記したりしてきた。

そして幼児からサラリーマンの退職時までの多々の思いを
書き足らないこともあるが、数多く綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも綴ったりしてきたこともある。
       

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
祖父や父が長兄、次兄と男の子に恵まれたので、
今度は秘かに女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたりした。

やがて私は小学生に入学しても、兄ふたりは優等生であったが、
私は中学生までは劣等性だったりした。

この間、私が小学二年の時に父に死去され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏の生活を一時過ごしたりした。

やがて高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、遅ればせながら読書にも目覚めたりした。

そして大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説の新人応募で、最終候補作に漏れ、落胆し、やがて敗退した。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたは1970年(昭和45年)の4月であった。

そしてまもなく新設されたレコード会社に異籍させられて、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたりした。

この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒屋を建てて、気負って家の中に茶室を設け、
住宅ローンの重みに耐えたりした。

そして、定年の5年前にリストラ烈風の中で出向となり、都落ちの失墜感を感じたりした。


このように私のサラリーマン時代は、大手のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎えたりした。

そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない個性と感性で独創性に優れていると思い、
ときには独断と偏見の多い言動をしたりしてきた。

こうした中、ある時には、その分野に優れた人の前では、卑屈になったりした。
このように可愛げのないひとりである。
       

こうして定年後の日常生活を過ごし、ときおり、国内旅行などで、その地の情景を眺めながら感じたこと、
私なりの独断と偏見で綴ったのを読んだりしていると、
私の心情、思想、信条、趣向が見え隠れするので、微苦笑したりしている。

どなたも同様と思われるが、ブログを読み返したりする時、過ぎ去り日々は苦楽と反省が伴うが、
ほろ苦く、そして甘く受けとめ、ときには懐かしく自身に秘かに再会でき、
あの時はあのような心情でふるまっていた、と愛惜も重ねることもある。

これが自身の心のまぎれない心情を心の発露としてブログを書き続けた効用かしら、
感じたりしている。
       

このような心情の時、何気なしに、♪こっちを向いて涙をふいて・・、
と心の中で唄い、キャンディーズの『哀愁のシンフォニー』かょ、と呟(つぶや)いたりした。

私のサラリーマン現役時代は、たまたまあるレコード会社に勤めていた習性か、
他社のCBSソニー(現・ソニー・ミュージック)の所属のキャンディーズの歌でも、
何かと歌の一節を唄ったりすることもある。

そして『微笑がえし』の歌も素敵だったと思ったりしたが、
しかし、齢を重ねた今、余り過去にこだわるより、もっと前向きにと思いながら、
特に昨今の時節を迎えると、心身爽快に、♪雪が溶けて川になって 流れてゆきます・・
と『春一番』の歌を心の中で唄ったりしたりする時もある。

このように、ときにはキャンディーズの歌の数々で励まされ、
市販のビタミン剤などよりも、遥か百倍以上は確かに効く、と微笑んだりしている。

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『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつ、と齢ばかり重ねた私でも、思い深めて・・。

2015-02-24 15:26:50 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
無念ながら短歌や俳句を詠(よ)む素養はなく、
人さまが詠(よ)まれたのを読ませて頂くのが好きなひとりである。

もとより短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。

そして俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。

或いは川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。

つたない半生を歩んできた私は、せめて川柳ぐらいは・・と時折一句でも吐くことあるが、
やはり素養に乏しく感じ、やむなく『ブログ』の世界で散文のような拙(つたな)い綴りを
殆ど毎日投稿をしている。
                           

こうした中で、ときおり私は『サラ川』と称せられている第一生命が主催されている『サラリーマン川柳』を愛読している。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、幾たびかリストラ烈風の中、最後の5年は出向となったりし、
それなりに時代にも翻弄され波乱万丈があり、苦楽の激しいサラリーマンの時代でもあった。

このようなつたない私は、何かと『サラリーマン川柳』が好きで、
現役のサラリーマン時代から愛読し、励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、
『サラ川 傑作選』の本を4冊を所有している。

そして私は『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつと思い、
限りなく人生の哀歓と確信し、ときおり年金生活11年生の今でも本を開いたりしている。
       
        ☆本棚から特に愛読している2冊を取りだして、たわむれに記念撮影☆


昨夕、たまたまテレビのニュースを視聴していたら、
《・・第一生命保険は23日、
世の会社員たちの悲哀を謳った恒例『第28回 サラリーマン川柳コンクール』の入選100作品を発表した。
応募総数が4万句を超えた今年は、職場よりも夫婦間への嘆きが多数。

「妻なのか… 妖怪なのか… ウォッチする」(こまさん)と社会現象を巻き起こした『妖怪ウォッチ』から、
「ありのまま メイク落とせば どこのママ?」(業界の三男坊)と大ヒット映画『アナと雪の女王』まで、
昨年を象徴するキャラクターを巧みに盛り込み、見事な毒舌ぶりを発揮している。

このほか、昨年末に発表された流行語大賞を踏まえた「壁ドンを 妻にやったら 平手打ち」(若ジイジ)、
「スッピンは ダメヨダメダメ ママじゃない」(ぬりかべ)といった“流行りネタ”も健在。

さらに、夫婦間のコミュニケーションの変遷を感じさせたのが、LINEを絡めた句。
「嫁LINE スタンプだけで 指示が来る」(TAKU・KEIパパ)、
「もう10日 妻とのライン 既読なし」(ちびおやじ50)と、切ない日常を垣間見せている。

また、「火の用心 タバコにストーブ ツイッター」(爽快ウォッチ)、
「世界遺産 なって初めて 知る歴史」(睡眠学習派)と共感を呼ぶ作品や、
男性の日々の憂いを詠んだ「『カミ減らせ』 俺の頭は 実施済み」(猿だんご)、
「是非欲しい 家庭内での 自衛権」(夢中人)など、哀愁漂う秀逸な句も満載となっている。・・》

こうした内容のニュースを【オリコン】の公式サイトの記事に的確に掲載されたりしていた。
                 

このようなニュースを学んだりしたが、ここ10年近くは何かと社会状況が疎(うと)くなっているで、
上記の川柳の意味合いが解らなくなっているが多いのが、本音である・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、恥ずかしながら私たち夫婦は、ガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えないのである。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
               

今回発表された『第28回 サラリーマン川柳コンクール』の入選100作品を私は読ませて頂き、
時代遅れの齢ばかり重ねた私でも、解る作品を見たりした。

◎ 本当の 子にも孫にも 振り込めず  
                  詠み人・日本エレキテナイ連合

◎ 年老いて モトがとれない 飲み放題  
                  詠み人・ひとり爺ジッち。

◎ 部屋がない ローン組むのは 俺なのに  
                  詠み人・下部父

◎ 上司より きびしい査定が 家で待つ
                   詠み人・優しい妻

◎ あゝ定年 これから妻が 我が上司  
                   詠み人・呼人よびと

◎ リタイヤで 妻の偉大さ 今 わかる
                   詠み人・読み人知らず

◎ 子は飲み会 妻はお茶会 オレ自治会
                   詠み人・李 月夜(イ ウォルヤ)

◎ 里帰り 孫が来るたび 諭吉去り
                   詠み人・赤いチャンチャンコ

◎ 出張を 伝えて喜ぶ 嫁娘
                   詠み人・なにがかぼちゃんぬ

こうした作品には、瞬時に魅了されながら、微笑んだり涙が浮かべそうになったりして、
お詠みなられた人は、人生の苦楽を的確に表現できる人・・と私は感心させられたりした。
       

この後、過ぎし年に読ませて頂いた『サラリーマン川柳』の中で、今でも心の片隅に残っている二作品がある。

◎ 破れてる ジーパン繕い 怒られた
                   詠み人・優しいばあちゃん

◎ うちのパパ おとなのくせに ママとねる 
                   詠み人・めだかの学校のせんせい

私は小説、随筆、ノンフィクション、近現代史など55年ばかり濫読してきた身であるが、
短かな言葉で人生の機敏を的確に表現する川柳の世界に於いて、
このお2人の圧倒的な文才に、ふるえる程に感銘して、思わず脱帽したりしている。

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雨水(うすい)の時節を過ぎた昨今、東京郊外でも、ひと雨ごとに春に向かい・・。

2015-02-23 17:09:16 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし日の16の朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、『雨水(うすい)』と明記されて、
私は思わず微苦笑させられたりした・・。

古来より、『雨水(うすい)』の時節になれば、
冬の間に降った雪や氷が解けて水となり、空から舞い降る雪も雨に変わり、
草木の芽生え始めるころ、と伝えられている。

たまたま私は家内と共に過ぎしの9日より、
北海道のオーホック海の沿岸の紋別~サロマ湖~網走を遊学した7泊8日の旅路に、
16日の深夜に帰宅した後、17日、18日は小雨が降り日となったりした。

そして19日の雨水(うすい)の日には快晴となり、平素の買物専任者の私はスーパーに買物に行った帰路、
小公園の片隅では紅梅の花が咲いていたので、長らく見惚(みと)れたりした。
       

まもなく帰宅後、我が家の陽の当たりの良い玄関の小庭にある白梅は、蕾(つぼみ)が大きく膨らんでいた。
しかしながら居間の前にある小庭の白梅、紅梅は、隣接しているマンションの影を少し影響して、
固い蕾(つぼみ)の状態であった。

そして寂しい思いとなっていたが、片隅では水仙だけは健気に、遅れて御免なさい、と言ったように、
咲いてくれて私は微笑んだりした。
            

この後の20日は快晴、そして21日も快晴の午前10時過ぎ、玄関の小庭にある白梅の花が咲き、
『XXちゃんさぁ・・玄関側の梅が咲いたょ』
と私は家内に言ったりした。
                    


その後の昨日の22日は、小雨の降る朝を迎えて、日中はどんよりとした曇り空の一日となった。

そして本日も小雨の降る朝を迎えて、日中は曇り空の中、3月ような暖かな昼下がりとなった。

もとよりこの時節は、気候の変動が激しく三寒四温の日々となっているが、
やがて3月の女の子を全国的に祝う『桃の節句』を迎える頃は、安定した気温になると思われが、
この後、私は地元の天気情報を視(み)たりした。

明日の24日は、快晴の一日となり、最低気温は3度、最高気温は14度、
翌日の25日は、晴れ時々曇り、最低気温は4度、最高気温は14度、
そして26日は、曇り時々雨、最低気温は5度、最高気温は8度、
やがて27日は、曇り時々晴れ、最低気温は4度、最高気温は13度、

このように表示されていたので、ひと雨ごとに春に向かっている、と私は微笑んだりした。

やがて居間の前にある小庭の固い蕾(つぼみ)の白梅、紅梅は、
平年のように彩(いろど)ってくれるだろう、と微笑みを重ねたりしている。

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高倉健さんと無名な私は、ひとつ作品で結ばれていた、と微苦笑させられ・・。

2015-02-22 17:27:44 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
一昨日に平素の買物を駅前で買い求めた後、本屋に寄ったりした。

そして店内で見かけた本を数秒眺めた後、買い求めたりした・・。
            

この本は昨年の晩秋に、映画俳優の高倉健(たかくら・けん)さんが死去され、
文藝春秋の文春ムック系として、長年に映画俳優として活躍され、功績を遺(の)された高倉健さんに、
追悼された本となっている。

そして各分野の著名の人たちが寄稿文を寄せられて、私は読みながら、
こうした面も高倉健さんの撮影現場、日常生活の一面の思いとしぐさ、ふるまいがあった、
と学びながら、微笑みを頂いたり、ときには微苦笑もさせられたりした・・。

私は無名の古き映画を愛するひとりであり、たまたま昨年の晩秋に高倉健が亡くなわれた、と知った時、
このサイトに昨年の11月18日に於いて、
『高倉健さんの訃報に接し、長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、ご冥福を・・。』
と題して投稿したいるが、あえて今回再公開する。

【・・私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
いつものように平素の買物、その後に散策した後、
ネットを立ち上げると、《 高倉健さん死去 83歳、》と見出しを見て、クリックしてしまった。

『スポーツ報知』が 11月18日(火)11時37分配信された記事に寄ると、
《・・高倉健さん死去 83歳、10日に悪性リンパ腫で
映画俳優の高倉健(たかくら・けん、本名・小田剛一)さんが、死去していたことが18日分かった。
10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。83歳。福岡県出身。

1931年に福岡県に生まれ、大学進学のために上京。
1955年、東映ニューフェイス2期生として入社した。
演技経験などは全くなかったが、翌1956年に映画「電光空手打ち」で主演デビューした。

映画スターとしての地位を確立したのは、1960年代に入って出演するようになった仁侠映画だった。
「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」などがシリーズ化され、大ヒット。
映画ファンは「健さん」と親しみを込めて呼ぶようになった。

テレビドラマなどにはほとんど出演せず、自らを「映画俳優」と呼ぶほど。
生涯の映画出演作は205本に及ぶ。
最後の作品は、2012年秋に公開された「あなたへ」(降旗康男監督)。(略)・・》
このような記事が報じられていた。
        

私は古き良き時代の映画愛好者のひとりなので、
東京オンリビックが開催された1964年(昭和39年)の頃から、映画界は衰退し、
その後も加速するように映画界は衰退するばかりであった。

こうした中で高倉健さんは、殆どテレビ劇に出演されず、
映画俳優として主演され続づけ、この長き映画界の烈風の中で、稀な男優であった。

映画はお金を払って鑑賞でき、高倉健さんは数多くの映画ファンを魅了させてきた人である。、

こうした中、映画の製作が激少する中、監督、脚本家、撮影、照明、美術などの数多くのスタッフは、
製作に携(たずさ)わることもでき、衰退する映画界の技術の伝承にも波及され、
高倉健さんは主演されるたびに貢献してきた人でもある。

こうしたことに敬意を重ねて、高倉健さんの訃報に接し、
長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、お疲れ様でした。
貴兄の功績は数多くの映画ファンに感動をさせ、今はひたすらご冥福を祈ります。

私は呆然とした中で、こうした言葉を心の中で呟(つぶや)いたりした。
       

私は1944年(昭和19年)に東京郊外で生を受けて、
小学3年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。

やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964年(昭和39年)の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、
35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。
          
このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年(昭和41年)頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。
       

高倉健さんの主演された『網走番外地』、『日本侠客伝』、『昭和残侠伝』などのシリーズ作品は、
私は何かと苦手であったので、5作品ぐらい鑑賞して程度であった。

この後、鑑賞してきたのは『幸福の黄色いハンカチ (1977年) 』、『八甲田山 (1977年) 』、『冬の華 (1978年) 』、
『遙かなる山の呼び声 (1980年)』、『駅 STATION (1981年)』、『海峡 (1982年)』、『南極物語 (1983年)』、
『居酒屋兆治 (1983年) 』、『夜叉 (1985年)』、『鉄道員(ぽっぽや) (1999年)』
『ホタル (2001年)』、『あなたへ (2012年)』

このくらいを思い浮かべたりしているので、私は高倉健さんの熱愛するファンには該当しない。

こうした作品の中のひとつに、降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』がある。
               

この作品はオリンピックの射撃選手であり、警察官でもある一人の男が、
それぞれの事件を通して、彼の心を通り過ぎていく女性たちをくまなく描き、
人生の哀歓を圧倒的な筆力で、主演・高倉健に捧げたと伝説される脚本の倉本聰(くらもと・そう)さんの作品でもある。

私が鑑賞してきた邦画の少なくとも5000作品の中で、最も好きな作品で、
監督の降旗康男、主演・高倉健、そして脚本・倉本聰のトリオの英知が発露された作品となり、
降旗康男、高倉健、倉本聰さんの各作品を鑑賞してきた中で、最も優れた作品と絶賛するひとりである。

この作品のファースト・シーンは、国鉄時代の1968年の北海道の『銭函』駅が駅舎が表われ、
そしてホームの情景となる中、
警察官の英次(高倉健)は雪の降り続くホームで、妻の直子(いしだあゆみ)と、四歳になる息子義高に別れを告げた。
やむなく離婚を承諾した直子は、動き出した汽車の中で、英次に笑って敬礼するが、その目には涙が溢れていた。

このファースト・シーンひとつでも、人生の哀歓、愛惜を描き、
感動を超えて感銘させられる名シーンである・・。

私は感銘させられて、後日に単行本となったシナリオを買い求めて、幾たびか精読した。

私は高倉健さんに関して、この『駅 STATION』(1981年)』は突出した作品と確信を深めているので、
今宵は高倉健さんのご冥福を重ねながら、居間で鑑賞する予定である。

余談であるが、高倉健さんが綴られた『あなたに褒められたくて』(集英社)、『旅の途中で』(新潮社)、
過ぎ去り年に買い求めて、 高倉健さんに好感を増したひとりである。・・】

このように投稿していた。

そして当日の11月18日の夜のひとときに、居間で、
私が絶賛してきた降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』を鑑賞したりした。

翌日の夜は、森谷司郎・監督の『八甲田山 (1977年) 』を鑑賞し、哀悼を重ねたりした。

まもなく高倉健さんに関しのテレビのニュース、新聞、雑誌などで記事を読んだりする中で、
高倉健さんは名優のロバート・デ・ニーロを好感している、と知ったりした。

私は敬愛している俳優の中で、突出した人はション・コネリーとロバート・デ・ニーロであったので、
高倉健さんがロバート・デ・ニーロの出演された作品で好感を深めたのは、
『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年) かしら、と思ったりした・・。
                 

私は拙(つたな)いなりの観賞歴であるが、過ぎし年に私はベストテンを勝手に選定している。

映画専門雑誌の名高い『キネマ旬報』の1999年10月上旬特別号 として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の外国映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の洋画のベストテンである。

『キネマ旬報』のベストテン《参考》1999年10月上旬特別号
               
①『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)

②『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック 監督(1968年)

③『ローマの休日』ウィリアム・ワイラー監督 (1953年)

④『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)

⑤『風と共に去りぬ』ヴィクター・フレミング監督(1939年)

⑥『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)

⑦『駅馬車』ジョン・フォード監督(1939年)

⑦『禁じられた遊び』ルネ・クレマン監督(1952年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑦『道』フェデリコ・フェリーニ監督(1954年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)

②『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)

③『イングリュシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ監督(1979年)

④『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン監督(1993年)

⑤『かくも長き不在』アンリ・コルピ監督(1961年)

⑥『街の灯』チャールズ・チャップリン監督(1931年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑧『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ監督(1948年)

⑨『ジョニーは戦場へ行った』ドルトン・トランボ監督(1973年)

⑩『逢びき』 デイヴィッド・リーン監督(1945年)

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、
もとより酷な作業で、『時』が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

尚、選定の際に於いて、 『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)、
『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)、『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)、
『許されざる』クリント・イーストウッド監督(1992年) 、『カサブランカ』マイケル・カーチス監督(1943年)等は
最後まで検討した作品です。

《1999年9月29日、私の日記より》

小説、映画、音楽などの選定の結果、その人の性格、人格、思想を表わす、と改めて思った次第です。


この後も、キネマ旬報』の1999年10月下旬特別号として、
『映画人が選んだオールタイム・ベスト100の日本映画編』を購読し、
私なりに喚起させられて、まもなく選定した私の邦画のベストテンである。

『キネマ旬報』ベストテン《参考》1999年10月下旬特別号
               
①『七人の侍』黒澤 明・監督(1954年)

②『浮雲』成瀬巳喜男・監督(1955年)

③『飢餓海峡』内田吐夢・監督(1964年)

③『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)

⑤『幕末太陽傳』川島雄三・監督(1957年)

⑤『羅生門』黒澤 明・監督(1950年)

⑦『赤い殺意』今井昌平・監督(1964年)

⑧『仁義なき戦い』シリーズ 深作欽二・監督(1973~74年)

⑧『二十四の瞳』木下恵介・監督(1954年)

⑩『雨月物語』溝口健二・監督(1953年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)

②『用心棒』黒澤 明・監督(1961年)

③『人間の條件(全六部作)』小林正樹・監督(1959~61年)

④『東京物語』小津安二郎・監督(1953年)

⑤『七人の侍』黒澤 明・監督(1954年)

⑥『浮雲』成瀬巳喜男・監督(1955年)

⑦『雨月物語』溝口健二・監督(1953年)

⑧『飢餓海峡』内田吐夢・監督(1964年)

⑨『切腹』小林正樹・監督(1962年)

⑩『砂の器』野村芳太郎 ・監督(1974年)


洋画と同様に、【時】が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、
上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

《2003年8月16日、私の日記より》

こうした選定作業の時、その人の人生を歩いてきた思考の全てが反映する、と改めて感じました。

このように当時の私は選定しましたが、邦画に関しては、ここ数年は、
小学5年生の時に、独りで映画館で観た『楢山節考』木下恵介・監督(1958年)が、
私のベストワンだ、と思い返したりしている。

このような投稿文をしたことがあったりした。
       

そして今回の文春ムック系の『高倉健』を読んでいる中、
脚本家の中村努さん(『夜叉』、『あ・うん』)が寄稿文され、
《・・高倉健はロバート・デ・ニーロの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』が好きだった・・》
と私は初めて知り、驚きながら動顛したりした・・。

私が昨年の12月頃、高倉健さんがロバート・デ・ニーロの出演された作品で好感を深めたのは、
『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年) かしら、と思い深めたりしていたが、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)だった、と知り、
そうでしたか・・、と深夜一時間半ばかり思い馳せたりした・・。

やがて私は少し高倉健さんの思考が解りかけてきたので、
ロバート・デ・ニーロの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』がお好きになられたは、解ります、
と私は心中で呟(つぶや)いたりした・・。

そして私が鑑賞してきた中で、1999年の当時の洋画の歴代一位は、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)であり、
邦画の歴代一位は、『駅 STATION』降旗康男 ・監督(1981年)としている。

こうした作品であり、もとより『駅 STATION』は、高倉健さんが主演されて、絶賛された方も多く、
私が選定した洋画、邦画の2作品を思い浮かべたりして、
高倉健さんと無名な私は、ひとつ作品で結ばれていた、と深夜2時過ぎに微苦笑させられたりした・・。


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コメント (2)

旅から帰宅後、ブログ投稿の完了まで、何かと愚図の私でも慌ただしく過ごして・・。

2015-02-21 17:00:49 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
家内との共通趣味のひとつは国内旅行であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から日本の各地に四季折々に訪ねたりしている。

旅から帰宅すれは、愚図で齢ばかり重ねた私は、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。

もとより旅行は非日常の出来事で、平素の私は年金生活している中では、
程ほどにのんびりと過ごしたりしている。

定年後から自主的に平素の買物担当となった私は、
殆ど毎日のように独りで最寄りのスーパー、或いは駅前のスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は、独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
          

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事している。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いをブログの投稿文を綴ったりしている。


私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたひとりである。

まもなくブログの世界を知り、心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸10年は過ぎて、11年生となっている。

結果的にはパソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
       
               

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
       

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情は、脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた・・。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内と国内旅行をしたりしている。
                 


家内は旅行する前日、女優を引退された後に随筆家として著名な亡き高峰秀子(たかみね・ひでこ)さんのように、
台所を洗い清めたり、洗濯物も残さず、そして冷蔵庫の肉類、魚類、野菜物、牛乳など殆ど空の状況にしない、
と満足しないひとりである。

そして帰宅した直後は、部屋に外気を入れたり、着替えたりした後、手荷物を開けたりしている。

そして私は家内用に煎茶、コーヒーを淹れた後、私は入浴したりする。
この間、家内は宿泊した売店、お土産屋さんで買い求めたその地の特有な食べ物を皿に移して、
食卓に並べたりしている。

そして風呂上りの私は、煎茶を飲みながら漬物とか和菓子などを食べている間、
家内は入浴している。

この後、私たちは旅先のこぼれ話を談笑したりするが、やがて家内は旅の疲れもあり、寝室に行き寝てしまう。

そして私は、確か2年前の晩秋の頃からブログの投稿文に写真を添付しているので、
旅先で撮った写真をデジカメの記憶媒体からパソコンに移動させ、
パソコンの大きな画面を見て、独り微苦笑したりすることが多い・・。
       

こうしたことはコンバクトのデジカメの性能もあるが、何よりもデジカメの技量の乏しい私は、
撮った数多くの写真への心の思いは強いが、やはりこの程度かょ、と苦笑したりしている。
                                            

そして写真を見ながら旅行の投稿文を思案したりしている。
出来うる限り、綴りは紀行文の形式に準拠したく、内容、構成とかを配慮しながら、
苦心惨憺としながら綴ることが多い。

結果として、私は平素は毎日一通は投稿をしてきたので、
こうした制約もあり、やむなく短めの散文で写真を添付して、
ごまかしたような手抜き投稿文となってしまい、ときおり後日に再読し、苦笑したりしている。
       
        

帰宅後の翌日は、家内は洗濯の合間に掃除をしたり、料理をしているが、
私はスーパーを2店ぐらい廻り、パン類、肉類、魚類、野菜、牛乳などを買い求めたりしている間、
或いは買い物の行き帰りに、このブログサイトの投稿する内容を考えたりしている。

今回の旅は、たまたま北海道のオホーツク海の沿岸の紋別~サロマ湖~網走を遊学し、
2月9日より7泊8日であったが、何とか9通ばかり投稿し終わったのは、
本日の朝であった。

この間に私が愛読している方のブログの投稿文を数多く読ませて頂ただいたり、
ネットで毎日のように精読しているニュース、音楽業界のサイトを見たりしている。

このように私は、パソコンは自宅に置いてあるので、
帰宅直後から、ブログ投稿の完了まで、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。
       

家内は旅路から帰宅した翌日には、旅先のこぼれ話を私に話しかけたりするが、
やがて次回の旅行を思案して、郵送されてくる旅行会社の小冊子を見たりしている。

しかし私は少なくとも旅立つ前の思惑、旅行のさなかの遊学、
そして帰宅後の旅先の写真の整理、ブログの投稿文などで、
ひとつの旅でも4度ぐらいは享受したりしている。

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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 最終章 旅の終わりは網走、女満別空港で困惑を重ね・・。

2015-02-21 07:16:07 | 

2月16日
私たち夫婦は昨日の15日には、網走駅前より暴風雪の中で何とかタクシーに乗れて、
積雪20センチ前後の中、網走湖の湖畔にある観光ホテルの『網走湖荘』に到着したのは午後2時過ぎであった。

やがてチェックイン後、予想したより大きな部屋に通されて、
私は煎茶を淹れながら、サロマ湖からの道のりには予想外のことが多くて、疲れたょ、と家内に言ったりした。

そして私は、家内の座っている前に煎茶の入った茶碗を置き、
『XXちゃんの楽しみにしていた『あったか網走』のイベントも中止になり・・熱気球も乗れなくて・・』
と私は家内に言ったりした。

家内は煎茶を飲みながら、このような悪天候になってしまって・・やむえないわ、と私に言いながら、
お互いに微苦笑したりした。

翌日の16日の朝の6時過ぎ、私は部屋の窓辺のカーテンを開けると、
網走湖は粉雪が降る中、風が吹き、粉雪は舞うような視界をさえぎったりしていた・・。
       

やがて8時半過ぎに、チェックアウトした時、予約していた9時発の網走行の送迎バス・・大丈夫ですよねぇ、
とフロントの方に私は確認したりしたが、明確な返答はなく、私は少し不安を増した。

私たち夫婦の予定は、このホテルからの9時発の網走行の送迎バスで、市内の道の駅『流氷街道網走』まで行き、
この館に併設されている流氷観光砕氷船の『おーろら号』11時・発のクルーズを1時間ほど乗船した後、
この道の駅『流氷街道網走』12時20分・発の路線バスで女満別空港に13時・着を予定している。

そして女満別空港15時・発の日本航空1188便に搭乗して、羽田空港16時55分・着を予約していた。


やがてホテルの9時発の網走行の送迎バスは、30分近く遅れて乗車でき、
市内の道の駅『流氷街道網走』に到着したのは10時少し前であった。

そして併設されている『おーろら号』の乗船売り場で、『おーろら号』は欠航と知った。
       

この後、観光案内所を見つけて、女満別空港・発の航空状況を確認して頂いた・・。
まもなく女満別空港の昨日は欠航便が多く、キャンセン待ちなどで130名前後の方たちが、
空港の待合所で一晩過ごされ待機されていた、と知ったりした。

そして私たちが搭乗する便が『欠航』が確定している、と教示されて、
私たちは困惑した。

私たちは幾たびに旅路をしてきた中で、搭乗予約している航空便が『欠航』は、初めて体験であり、
やはり女満別空港の日本航空の受付センターで、振替の依頼をしょう、と公衆電話で幾たびもしたが、
問い合わせが殺到しているらしく、連絡ができなかった。

その上に、女満別空港までの路線バスも『運休』と知り、
とりあえず館内の休息場でコーヒーを飲んだり、女満別空港の日本航空の受付センターに電話連絡したり、
或いは港から海を眺めたりしていた。
       

やがて女満別空港行きの路線バスは、運行を始められ、
私たちは乗車して、何とか女満別空港の日本航空の受付センターに着いたは13時半過ぎであった。

そして家内は受付センターで予約していた搭乗券(J席)を提出し、欠航の振替の依頼をした・・。
やがて満席続きで、搭乗できそうなプランは、2日後、と提示された。

私はこの後、網走湖畔の観光ホテルに連泊しても、必ず確約ができなければ・・、
と受付センターの方に言ったりした。

やがて数分した後、旭川空港・発の明日の午後便でしたら、確約できます、と私たちは説明を受けた。

この女満別空港のJR最寄駅の『美瑛』駅に行き、やがて特急オホーツク号で『旭川』駅・着。
たとえば『美瑛』13時55分・発の場合は、『旭川』17時12分・着。
或いは『美瑛』14時44分・発の場合は、『旭川』18時04分・着。
このような意味合い表を頂き、やむえなく了承した。

そして旭川空港・発の明日の午後便の仮搭乗券を受け取り、
迅速に私たちは未知のJRの『美瑛』駅までタクシーに乗車した。

私は車内で、旭川の市内ホテルに一泊して、明日の昼まで旭川空港に着けば、夕方には羽田に帰れるょ、
と家内を慰めるように言ったりした。
タクシーは積雪のある道を疾走し、ときおり粉雪が舞う中、やがてJRの『美瑛』駅に到着した。


しかしながら駅の構内の告知板では、『全面運休』と表示されていた。
家内は驚きながら窓口の担当者に、特急も運休ですか、と訊(たず)ねたりした。
そして窓口の担当者は、お詫びの言葉を重ねたりした。
       

やむなく私たちは女満別空港まで引き返すこととしたが、駅前にはタクシーが一台もなく、
私は公衆電話でタクシー会社に依頼した。

結果として女満別空港とJRの『美瑛』駅をタクシーで往還し、
往復料金として6000円なってしまい、苦笑させられた。

やがて日本航空の受付センターに私たちは舞い戻ると、
先ほどの受付センターの麗(うるわ)しき女性が、恐縮した表情で待ち構えていた。

『あれからまもなくしまして、JRの石北本線は全面運休と知りまして・・大変ご迷惑をお掛け致しまして・・
遅ればせながら本日の20時20発の最終便に、何とか2名様が確保できまして・・』
とこのような意味合いの言葉を言いながら、家内に指定された搭乗券(J席))を手渡したりした。

この後、私は当初予定していた15時発が、20時20分になってしまったが、
予約していた通りの少しゆったりと座れるJ席で良かったじゃない、と家内に言ったりした。

この後、空港内の食事処で、遅い昼食を注文できたのは14時半過ぎであった。

やがて待合所の椅子に座ったのは、15時過ぎであり、この後5時間近く待たされ、
私は本を読んだりしたり、ペットボトルの煎茶を飲んだり、
或いは愛煙家の私は喫煙室に行ったりしていた、

家内は空港内の名店で買物をしたりしていたが、
やはり5時間は余りにも長く、ときおりお互いに微苦笑したりしていた。

こうした中で、もしも新千歳空港で長らく待機するだったら、
入浴、休息できるクワハウスを利用し、安楽なひとときが過ごせたのに、
と私はユーモアを含めて家内に言ったりして笑わせたりした。

或いは私は大きく掲げられた運航状況の告知電子版を観たりした。
そして私たちが搭乗する便が、確か空港測定中、という表示が消えず、私は不安を増したりした。

私は濃霧で離発着できない、或いは粉雪が暴風雪となり滑走路などで離発着できない状況を思い馳せたりし、
何かと平素はプラス思考の私は、ここ二日間の出来事を思い浮かべれば、弱気になったりした。

やがて私たちが搭乗する航空機は、予定時20時20分を30分ばかり遅れて女満別空港を離陸した。
           

そして羽田空港に23時近くに着陸し、やがて私たちは疲れ果てていたので、
タクシーに自宅に向かった。

ときおり旅路の帰路にはタクシーを利用することもあったが、
こうした帰路は環状7号より世田谷街道から帰宅したりしている。

今回は旭川のホテルに泊まったつもりで、都心の夜景見物を兼ねて、
首都高速を通ってもらい、やがて我が家に着いたのは24時の真夜中であった。

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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 第7章 サロマ湖から網走まで近くて遠い道のりとなり・・。

2015-02-20 09:21:54 | 

2月15日
私たち夫婦はサロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に3連泊した朝、
次の宿泊地の網走湖の湖畔にある観光ホテル『網走湖荘』に向かう準備を終えた。

そして朝食前に館内にある売店で、大きな旅行ケースを宅配便で自宅に送付する為に手続きをしたりした。

次の網走までは、私たちがこのサロマ湖まで来た『エクスプレスバス』を活用すれば、
『サロマ湖鶴雅リゾート』13時45分・発に乗車し、やがて網走の『おーろらターミナル』14時35分・着で、
わずか50分たらず近い道のりである。

しかしながら私たちは早めに網走に行って、網走湖の湖畔にある『網走湖荘』の付近で、
冬のイベントのひとつの『あったか網走』で、熱気球などに乗って体験したい為に、
当初よりコースを改定していた。

『サロマ湖鶴雅リゾート』よりホテルの送迎車でJRの『北見』駅まで行き、
その後は10時45分・発の各駅列車で『網走』駅に11時46分・着、
そして駅前より網走湖荘』まで路線バスで行く、予定を立てていた。


やがて8時半過ぎにチェックアウトをして、お世話になったホテルに別れを告げた。
       


そしてホテルのご厚意の送迎車に私たち夫婦は乗車し、たまたま同乗したは若き20代のご夫婦であった。
湖畔は粉雪(こなゆき)が降り続け、ときおり風も伴い視界も悪くなった・・。

まもなく9時にホテルを出発し、同乗した若きご夫婦と談笑する中、
北見市にお住まいで、平素は自動車を利用しているが、このような暴風雪は怖くて・・
と若き男性は私たちに言ったりした。
       

送迎車を運転して下さる方は、50代年配の男性で、大半は除雪されていた道路を疾走してくれたが、
路肩に除雪された粉雪がうず高く小山となり、この除雪された粉雪は風が吹くと舞い上がり、
前方の道路の視界を遮(さえぎ)ったりする。

或いは付近の平地の積雪している粉雪も、風で舞い上がり、道路の視界を遮(さえぎ)ったりしている。

私は運転して下さる方は、『暴風雪のようで、運転するも大変ですね』
と言ったりした。

『このような悪天候は慣れていますが・・怖いは道路に人が突然に出てくることです・・視界ゼロに近いですから』
と運転して下さる方は、私に言ったりした。

私たち夫婦は北海道の冬の旅路は幾たびもしてきたが、このような長く視界ゼロのような状況は、
初めて経験した。

やがて運転して下さる方の技量で、予定通り10時にJRの『北見』駅前に到着した。
そしてそれぞれお互いに、お気を付けて・・と別れを告げたりした。


『北見』駅の待合所の告知には、石北本線の各駅列車は全面運休、と表示されたりした。
もとより石北本線は道内の北の中心地の旭川市、そしてオホーツク海の玄関口の網走市を結ぶ幹線である。

私たちが乗車する10時45分・発~網走駅・11時36分・着も、もとより運休となり、
『札幌』発、『旭川』経由『網走』まで疾走する『特急オホーツク』列車だけが運行となっていた。

そして私たちは、『北見』11時57分・発の『特急オホーツク』で、『網走』12時46分・着、
このように切り替えた。

そして私は構内、待合所をうろついたりして、『特急オホーツク』の到着を待ちわびた。
       
        ☆駅構内にあったボスターを記念に撮ったりした☆

やがて20分近く遅れて、『特急オホーツク』は、『北見』に到着した。
この少し前に改札となり、私は『北見』駅のプラットフォームを撮ったりした。
       

       

そして『特急オホーツク』は入ってきたが、前面は積雪がビッシリと付着していたので、
特に『旭川』から山間部の多く、更に暴風雪の中を奮闘した結果だった、と私は理解できたりした。

やがて『特急オホーツク』は、粉雪が降り続け、ときおり強風が吹く中、『美瑛(びえい)』そして『女満別』を停車した時、
運転席の前はワイパーが暴風雪で故障しまして、修理でお時間を下さい、
このような意味合いが車内放送に流れたりした。

『この特急は『札幌』を7時半近く発車して、悪天候の中、よくぞ力走してくれているょ・・
ワイパーだって・・壊れてもおかしくない暴風雪だもん・・』
と私は特急オホーツクの健闘をたたえて、家内に言ったりした。

やがて『特急オホーツク』は、遅延しながらも『網走』駅に到着した。

『網走』駅の構内は、数多く人出の中を私たち夫婦は通り抜けた後、
駅前の路線バス乗り場、或いはタクシー乗り場を探したりした。

しかしながら積雪があり、粉雪が降り続け、ときおり強風が吹く中、
一般自動車、路線バス、そしてタクシーも混乱している状況であった。

やむなくタクシー乗り場で待機していたが、肝心のタクシーが積雪15センチ前後の中、
スリップして動けず、私の前にタクシー待ちをしていた男性の掛け声で、
私たち男性6名がスリップしたタクシーの後部を、数分に及び何とか押し出したりした・・。

やがて私たち夫婦は、何とかタクシーに乗れて、
積雪20センチ前後の中、網走湖の湖畔にある観光ホテルの『網走湖荘』に到着したのは午後2時過ぎであった。

結果としては、サロマ湖から網走まで近くて、遠い5時間の長い道のりとなってしまったねぇ、
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。                             

しかしながら暴風雪に翻弄された私たち夫婦だったが、この後の翌日は更に大きく影響されるのである。
     
                                        《つづく》
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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 第6章 館内のロビーに魅せられて・・。

2015-02-19 19:25:06 | 

2月14日
サロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に滞在している夫婦は、
昨日の午後時過ぎより、粉雪(こなゆき)が舞い降り、やがて風も伴い視界も悪くなった・・。

こうした時の私たち夫婦は、指定された部屋でのんびり過ごしたり、
朝、昼下がり、夕方などは大浴場、露天風呂に行ったりし、
ときには館内の遊びの広場と称せられた体育館のような処で、
10数年ぶりに卓球の真似事をしたりした。

こうした中で私は独りで館内のロビーに、12日より滞在する中で、幾たびか通ったりした。

私は年金生活11年生であるが、午前中に買物専任者の責務を終えると、
やはり独りで自宅周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしている。

この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
       
このような生活をしている私は、旅先の『サロマ湖鶴雅リゾート』のロビーに瞬時に魅せられた・・。


チェックインの時に気付いたのであるが、ロビーの一面に大きなスピーカーが置かれていたので、
スピーカーの名門のJBLの美しいフォルムと名高く、アンティークな大きなパラコンが置かれていたことに、驚いた。
       

そして私は、オーディオファンの誰しもが知っているマッキントッシュの構成で、
それぞれの音楽が奏(かな)でられていたことに魅せられた・・。
       

       

たまたま私は、現役サラリーマン時代はあるレコード会社に35年近く勤めた為か、
知人にはオーディオファンの方も多く、私は勤めて6年間の頃まではオーディオの初級まで熱意したが、
この後は家のローンの返済であえなく敗退し、昨今はCDラジカセで聴いたりしている身となっている。

そして所有しているレコード、CDを知れば、本と同様にそのお方の思考が解ると思っている私は、
私はこの突出したオーディオ装置の壁面の一面のソフトを拝見したりした。

この後、フロントのスタッフから、このオーディオ装置は、
このリゾートホテルを含め道内に多くの観光ホテルを経営している鶴雅(つるが)グループのオーナが、
ご自身のあふれる熱意で購入された、と教えて頂き、良きご趣味ですねぇ、と私は微笑みながら言ったりした。

このロビーには、大きな薪ストーブが設置され、幾たびか薪が燃やされている状況を私は見たりした。
もとより館内は大型の冷暖房完備しているが、特に薪の爆(はぜ)る音は、羨望させられたり、
この世の最上な贅沢なひとときを享受したりした。
       

       


そしてロビーには幾つかの彫刻作品が置かれていた。
私は彫刻の世界は全く無知であるが、この中のひとつに瞬時魅了させられた・・。
            

うつむく少女、と私は勝手に名づけてしまったが、近寄って見たら『少女』と命名され、
私は微苦笑させられたりした。
                                  《つづく》

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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 第5章 冬のサロマ湖のささやかな思いは・・。

2015-02-19 16:01:41 | 

2月13日
サロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に初めて宿泊した私たち夫婦は、
私は朝の5時半過ぎに目覚めて、やがて窓辺のカーテンを少し開いた。
       

窓辺からの前方は湖面は氷結した上に、粉雪が積雪し、彼方の対岸は霧のようにぼんやりとしていた・・。

もとよりサロマ湖は、琵琶湖、そして霞ヶ浦に次いで3番目の大きな湖(みずうみ)であり、
北海道としては第一の広さとなっている。

広大なオーホーツク海とは細長い砂州によって境界となっているが、
二つばかりの小さな湾口を通じて、周囲72キロの広さオーホーツク海につながっている稀な湖(みずうみ)となっている。

そしてサロマ湖はこうした稀な形状の為か、カキ、ホタテ、ノリなどが養殖され、
湖岸に生息するサンゴソウは天然記念物として名高い。

数多くの訪れた人たちからは、サロマ湖の落日は美しく、
北国の清澄な空気を茜色(あかねいろ)に染めながら、金色の太陽が光を弱めて水平線に落ちてゆく、
情景が絶賛されてきた。

このようなことを思い浮かべたりしたが、冬のおだやかな晴れた朝、ものみな静寂・・、
と微苦笑したりした。
       

この後、私は10時過ぎに独りで湖岸を散策したりした・・。
       

       

       

やがて昼下がりになると、窓辺の左前方の空は暗くなり、右前方の空は明るさを残していた・・。
私は、まもなく雪雲(ゆきぐも)が到来して、粉雪が降るかしら、と思ったりした。

この後、まもなくして上空は暗さを増す中、風が吹き粉雪(こなゆき)が舞い降りてきた・・。
       

このような情景を眺めていた私は、館内の売店に行き、雪見酒とした。
           

私はぼんやりと茶碗酒を呑みながら、
雪が降りそうな暗い空は、確か雪気(ゆきげ)と称したよなぁ、と思いだしたり、
粉雪(こなゆき)は粉のように細かくさらさらと降る雪だった、
昨今の若き男女はパウダースノーとおしゃれに命名していたよなぁ、
とせんなきことを思い重ねたりしていた。

しかしながら、この後の旅先で私たち夫婦は、粉雪(こなゆき)に風が強く吹けば、
視界は遮(さえぎ)られて翻弄され、困苦することは、この時は予感もできなかった。

                                    《つづく》

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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 第4章 あこがれていたサロマ湖のリゾートホテルは・・。

2015-02-19 09:14:18 | 

2月12日
私たち夫婦は、紋別の市内に3連泊した後は、
次の宿泊地はサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に移動する為、
『エクスプレスバス』と称せられた移動に利便性のある観光路線バスを利用し、
やがてサロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に13時に到着した。

確か20数年前の頃の私は、サロマ湖の東岸にある『サロマ湖東急リゾート』のような処で、
数日のんびりと滞在することが夢のひとつであった。

しかしながらこの当時の私は、民間会社の中小業に勤めるサラリーマンであり、
多くの人と同様に多忙であり、とても静寂な地のリゾートホテルで数日のんびりと滞在することが、
叶(かな)わないことであった。

今回の旅路は、家内は紋別で3連泊して、流氷観光船に幾たびか乗船し流氷を満喫したい、
私は静寂なサロマ湖畔のリゾートホテルで3連泊したい、
このような発想が根源であった。

そして過ぎし年、サロマ湖の東岸にある『サロマ湖東急リゾート』は、
北海道の有力観光グループの鶴雅(つるが)グループに経営権は委譲されたが、
いつの日にか宿泊したい、あこがれを秘めた処でもあった。
       

予約した旅行代理店から、この『サロマ湖鶴雅リゾート』パンフレットを頂いた表紙には、
《、なにもない静寂
     なにもしない贅沢 (略)》
このようなフレーズが綴られ、私が念願していた思いと、ピツタリと微笑んだりした。

チエックインは午後3時過ぎであったので、予定通り家内と未知の周辺を散策したりした。
そして湖岸を少し眺めたりした。
       

やがてホテルの裏側は道路があり、奥地は山林となっていた。
       

この道路沿いを10分ぐらい歩き、左折した道路の前方には大きな橋があり、小さな漁港が視えたりした。
       
そして彼方にはワツカ原生花園にように思えたりした。
      

やがてホテルに帰還すると、早めの午後2時にチェックインして頂いた後、
指定された部屋は、昼下がりの陽射しで眩しく、
窓辺からの前方は湖面は氷結した上に、粉雪が積雪していた・・。
       

やがて夕暮れ時には、落日の光景を窓辺の椅子から、私たちは鑑賞したりした。
       
                                    《つづく》

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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 第3章 紋別の情景に愛惜を秘めて・・。

2015-02-18 16:16:52 | 
2月11日
紋別市の『セントラルホテル』で目覚めた私は、ぼんやりと窓辺のカーテンを少し開けると、
朝焼けの情景に長らく見惚(みと)れたりした。
       

やがて私たちの指定された部屋は、客室としては最上階の7階で窓辺から景観は良かったが、
何かしらこのホテルの屋上には、展望フロアーとなっていたことを思い出して、
私は部屋着の作務衣の容姿で、デジカメを持ち展望フロアーに行った。

少し暗い中、日の出まえの30分前の時間帯だった為か、人影もなく、
私は海上を見つめて、見惚れたりした後、記念に撮ったりした。
       

       

この後、私は指定された部屋は戻って、日の出の時間を待ちわびたりした・・。

やがて6時半過ぎに、再び展望フロアーに行くと、宿泊されている50名前後の方たちは防寒着で身を固めて、
それぞれ海上から上昇する陽を眺めたりしている。
       

私は何かと単細胞なので、翌朝には指定された部屋の窓辺から、日の出の情景を撮ったりした。
       

日中のひととき、私たち夫婦は『海洋交流館』に路線バスで向かった。
そして隣接した所で、この時節は『流氷まつり』が開催され、
特に本日は祭日で、多く市民の方たちでにぎ合う、と思われた・・。
       

やがてメイーンステージに於いては、『沖揚げ音頭』など郷土芸能が行われたりした。
       

この後、大漁祈願祭として『流氷もちまき』が実施され、10数名方たちがステージの上から、
大量の紅白の餅が撒(ま)かれた・・。

もとより市民の方たち、観光客も加わり、盛会となった。
そして家内も加わり、10数個の紅白の餅を微笑みながら、
『家に帰ったら、頂くわ』
と言いながら私に見せたりした。

この後、付近にいた小学生らしい女の子が、餅を拾い損ねたらしく、
家内は手持ちの紅白の餅を半分ほど手渡したりしていた。
       


2月12日
3連泊した紋別の最終日の朝となり、私は大きな旅行ケースをチェックアウトの時、
曳(ひ)いたりした。

私たち夫婦は、次の宿泊地はサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に移動するが、
この道内には、『エクスプレスバス』と称せられた移動に利便性のある観光路線バスがある。

私たちが活用した『エクスプレスバス』の観光路線バス・コースは、
層雲峡温泉の各ホテルを巡回して7時50分に発車し、
やがて紋別の各ホテルを巡回して10時5分に発車するので、私たちは乗車し、
まもなく『海洋交流館』の前に10時15分に到着する。
       

そして隣接したガリンコ号の10時30分~11時30分近くクリーズを満喫した後、
『海洋交流館』の前を11時45分に発車し、
やがてサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に13時に到着する。

宿泊地から次の宿泊地まで、大きな旅行ケースをバスの車内に預けたまま、
この間に有力な観光めぐりができ、自動車の運転免許を放棄した私は、
もとよりレンターカーも利用できないので、この『エクスプレスバス』の利便性を利用させて頂いた。


やがて私たちはガリンコ号に乗船して、紋別港を出港した。
       

まもなく大きな入江となった彼方に見える市内に、私は別れを告げたりした。
       

そして少しばかり残った流氷にも、別れを重ねたりした。
       

                                    《つづく》
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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 第2章 とりとめなく過ごせば・・。

2015-02-18 12:50:53 | 
2月10日
私たち夫婦は紋別市の『セントラルホテル』でバイキング形式の朝食を頂いた後、
指定された部屋に戻った時、
『蒼い海ばかりなので・・ガリンコ号の予約、キャンセルしましょうか?』
と家内は私に言ったりした。

家内は紋別に3連泊し、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』で、
流氷原を巨大なドリルでガリガリと砕きながら進みながら、流氷観光ができることを夢想を重ねて、
過ぎし3か月前に旅行代理店に予約していた。

到着日の昨日の9日には、午後4時10分より、夕陽と陽が沈む『サンセット・クルーズ』
本日の10日には、午後1時30分より、日中クルーズ
明日の11日には、早朝の午前6時より、朝焼けと日の出を観る『サンライズ・クルーズ』
紋別の最終日の12日には、午前10時30分より、日中クルーズ

このようなガリンコ号で流氷観光をすれば、朝昼夕の流氷の情景が受容できるわ、
と思い続けてきた・・。

私も昨日の9日に到着日した時に、流氷の大群が沖合20キロ以上に遠ざかってしまった現状に、
呆然としながら、タクシー・ドライバーさん、そして居酒屋で客の漁師の方たちと談笑したりした・・。

そして私は秘かに、沖から陸に強い風が吹けば、流氷は港に近づいてくる、と念願したりしていたが、
数日はこの気候では無理でしょう、とそれぞれ方から苦笑されたりした。
       

結果的には、昨日の9日には『サンセット・クルーズ』に乗船でき、
紋別の最終日の12日には、午前10時30分より日中クルーズに乗船して、
あとはキャンセルすることにした。

私たち夫婦は、ホテル前より路線バスを活用して、『海洋交流館』に向かったのは午前9時半過ぎであった。
そして当初の予定通り、ガリンコ号の乗り場に隣接し、沖合に突き出した『オホーツクタワー』に向かった。
       

この『オホーツクタワー』には、ガリンコ号の前に電気の可愛らしい移動車で往還したが、
肝要のタワーは地下三階ぐらいの海底の魚介類が、窓越しから鑑賞できるが、私たち興味がなく、
海上を展望できる処から、蒼い海面を眺めたりしていた。

この後、当初の予定通り『海洋交流館』から徒歩10分ぐらいにある『流氷科学館』に向かった。
そしてどんよりとした曇り空の中、ときおり風が吹き付けていたが、
私たちは談笑しながら歩いたりした。
       

やがて先ほどにいた『海洋交流館』が遠望となり、私はこうした状景は心身波長に合ったりした。
       


『流氷科学館』に入館したが、クリネオなど展示には微笑んだりしたが、
マイナス20度の厳寒体験室が有り、入口には防寒着が無料貸し出しがあり、
家内は利用させて頂いた。

しかしながら私は身に着けている防寒着で入室したが、
鈍(にぶ)児の為か、寒さを感じることなく、退出後に家内と再会した時、
扇風機などで風を発生させれば、体感温度は低下して寒いょ、と私は苦笑しながら、家内に言ったりした。

この後、一階の軽食処で私たちはコーヒーを飲んだりした。
やがて家内は隣接したコーナーで、地産のケーキのようなおしゃれな食べ物を10ぐらい買い求め、
私たちは滞在している市内ホテルに帰還した。

この日の夕食は、ホテルの食事処で頂き、私たちはそれぞれ単品で9品を選定したが、予想した以上に美味であった。
特に家内は刺身系のマグロ、ホタテ、そしてトマトの三杯酢サラダ、
私は刺身系のほっき貝、イカなどであり、焼魚のホッケ、ニシンの開きも良く、
お値段以上に遥かに美味しかった、と私たち夫婦は魅せられて、翌日の夕食も予約したりした。

                                    《つづく》
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冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記 第1章 サンセット・クルーズと流氷の思い

2015-02-18 07:18:37 | 
2月9日
私たち夫婦は紋別市の『セントラルホテル』で少し休息した後、
『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かったのは午後2時半過ぎであった。

紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』は、流氷原を巨大なドリルでガリガリと砕きながら進みながら、
流氷観光ができる砕氷船として名高い。

深紅の船体とアルキメディアンス・スクリューと称せられる巨大な2本のドリルで、
現代は二代目で、数多くの流氷を観光する人々に好評されている砕氷船でもある。
       
       ☆ 初代のガリンコ号は、『海洋交流館』の前の広場に公開されていたので、
         翌日の10日に私は撮った ☆

そして現代のガリンコ号は、『ガリンコ号Ⅱ』として命名され、砕氷能力も向上させ、
観光客も多く乗船できる砕氷の観光船として、この2月には朝のサンライズ・クルーズとして午前6時より、
夕暮れにはサンセット・クルーズとして午後4時10分より、出港されて、45分前後流氷観光ができる。

この間の日中には、5便が流氷クルーズとして活躍されている。
       
       ☆ 現代の『ガリンコ号Ⅱ』は、翌日の10日に私は撮った ☆


こうした中、私たち夫婦は紋別市に着いた初めて夕暮れに、サンセット・クルーズに乗船した。

そして流氷の大群は沖合の彼方に遠ざかってしまっていたが、防波堤の一面には残っていた所もあったりした・・。
       


このオホーツク海の流氷は、流氷が発生するロシアの沿岸に於いて、
真冬に大陸から北西風の烈風下でマイナス40度以下になり、
更にシベリア大陸の4350キロに及ぶ大河のアムール川から大量の真水がオホーツク海に流れる。

そしてオホーツク海の表面から50メートルの深さに、塩分の薄い水の層ができ、
これにシベリアおろしの寒風にさらされて氷結される。

やがて3月にはオホーツク海の80%前後が凍てつく、
こうした中で知床半島の岬からウトロ、斜里、網走、湧別、紋別、果ては枝幸、宗谷岬まで、
一月の中旬から3月初旬まで流氷が到来することもある。

しかしながら寒気、烈風で飛ばされたり、寄せあったりするので、
このように学んできた私は、流水は天上の気候の神々に寄るきまぐれな采配に寄る、と思い深めたりしてきた。

このように思いながらも海面に残る夕陽を受けた流氷を眺めたりした・・。
               

やがて夕暮れは終わり、私は彼方の山なみを眺めたりした。
       

そして海面に照らす陽の残照を長らく見惚(みと)れたりした。
       

やがて私たちが乗船した『ガリンコ号Ⅱ』は、帰港に向かった。

下船した私たちは、海洋交流館の隣接した所に、この時節には『流氷まつり』が開催され、
イベント時間が終えた暗い中、メイーンステージだけが光帯びていた。
       

この後、私たちは市内にある居酒屋に、タクシーで向かった。
タクシーのドライバーさんに、評判の良い居酒屋さん、と私は言ったりした。

やがてお値段の程に味は悪く、ホテルに帰還した後、失敗だったねぇ、と私は家内に言ったりした。

そして窓辺から夜の港の情景は美しく、旅路に来たことを実感を深めたりした。
       

                                     《つづく》
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