夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

伊豆大島にある樹木葬の墓地(埋葬地)、私たち夫婦の視察旅行 最終 選定した墓地(埋葬地)は・・。

2016-05-22 17:11:41 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私たち夫婦は、19日に宿泊する『大島温泉ホテル』にチェックインした後、
指定された部屋に入ると、折り紙で作られた幾重かの椿の花に、私たちは微笑んだりした。
            

この『大島温泉ホテル』は、今の時節は数多くのツツジが咲き、のどかでやすらぎを感じる情景であった。
  

まもなく私は大浴場、そして露天風呂から三原山のスロープを眺めると、
私たち部屋から見る景観と同じだ、と私は微笑んだりした。
http://www.oshima-onsen.co.jp/furo.html
☆【大島温泉ホテル】公式サイト==>『三原山温泉』☆

やがて私たちは、夕食を頂いた後、夕暮れの情景に私は瞬時に魅了され、
ホテルの正面玄関先にある庭から、撮ったりした・・。
  

翌日の朝5時過ぎ、私は部屋の窓辺にある椅子に座り、本日訪ねる樹木葬のできる墓地(埋葬地)を思い馳せ、
ぼんやりと眺めたりした・・。
            

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、分家のような形で、実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、いつの日にか、私たち夫婦が亡くなった後、長兄の子供である甥っ子ふたりに何かと面倒をかける、
と思いながら、長らく躊躇(ためら)ってきた・・。
            

私が40歳を過ぎた頃の1985年〈昭和60年〉の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

こうした中で、あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。

人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこうした事だろう、と思い重ねたりした。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。
            

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と私は納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。


このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
7年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。

その後、千葉県の房総半島の奥地にある寺院で、樹木葬があると学んだが、
我が家から少なくとも3時間は要し、遠方だよなぁ、と私たちは思ったりしてきた。

或いは2年前の頃、我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

いずれも永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしている。
            

こうして思いばかり重ねてきたが、私は男性の平均寿命は80歳と認識しているので、
私たち夫婦は元気な今、樹木葬のできる墓地を決断しょう、と思い一年が過ぎている。

こうした中で、私たち夫婦が樹木葬の墓地(埋葬地)として、現在は最有力地として、
この大島にある『千の風 みらい園』に、今回訪ねることとした。

http://www.miraien.jp/00miraien-index.html
☆【千の風 みらい園】公式サイト☆

窓辺から視える情景は変貌して、光明ある日になるかしら、と思い重ねたりした。
            

やがて朝食後、ゆったりとした時を過ごした後、家内が予約していた『千の風 みらい園』の本社スタッフと逢う為、
私たち夫婦は岡田港に路線バスで向かった。

そして岡田港に着くと、案内板をささげている本社スタッフの女性、そして当地の管理を専任されている40代の男性、
お互いに初対面の挨拶を交わした後、社の自動車で元町港の郊外にある樹木葬の墓地(埋葬地)に向かった。

やがて到着した後、管理棟の一室で、本社スタッフの女性から、私たちは樹木葬、埋葬に関することなどを説明を受けたり、
質疑応答を和(なご)やかにした後、埋葬地を歩いたりした・・。
            

里山の傾斜に、それぞれお気に入りの指定した場所・・永眠できる地・・
前方は海が見られ、天候に恵まれれば彼方には伊豆半島、富士山が聳え立つ景観であった・・。

この地球には75億人が生活されているが、私たち夫婦はたったふたりだけで、
いつの日にか、この地で永眠でき、やがて土に還ることは、私は望ましい・・
と思いを深めたりした。

この後、私たち夫婦が埋葬できる指定地を仮予約した後、
管理棟の一室で、本社スタッフの女性から、私たちは補足説明を受けたりした。

やがて『千の風 みらい園』を辞して、本社スタッフの女性が元町港まで送迎して下さった。

そして私たち夫婦は、昼食として近くの寿司屋に入った後、元町の街並みを散策した。

やがて街通りに、扁額のような形で表現された文に、私は瞬時に深く魅了された・・。
            

まもなく歩くと、簡素な寺院が視え、私はこっそりと撮ったりした。
そして浄土宗『潮音寺(ちょうおんじ)』と読め、私の生家(実家)は曹洞宗であるが、
仏門の真意には大勢に影響がないょ、と解釈して、入ったりした。
            

やがて御堂には、扁額のような文をぼんやりと仰ぎ見て、つたない人生航路を歩んできた私は、溜息を重ねたりした。
            

   知足
     足りを知る者は
          こころ豊かなり

   和顔施
     笑顔には
          笑顔がかえってくる

特に私はうなだれたのは、平素は美は断念あり、と表面は公言しているが、
心の片隅には、未だに物欲、金銭欲が捨てきれず、齢ばかり重ねて修業が足りないなぁ、と思ったりした。

やがて私たち夫婦は路線バスに乗車し、岡田港から高速ジェット船に身をゆだねて、都心にある竹芝桟橋に向かった。

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伊豆大島にある樹木葬の墓地(埋葬地)、私たち夫婦の視察旅行 ②三原山の山頂遊歩道は・・。

2016-05-22 08:41:17 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
バス停の終点の三原山頂口の近くにある『三原山内遊歩道』の案内板は、
確か6コースが表示されていた。

そして先ほど、『大島温泉ホテル』の麗(うるわ)しき若き女性フロントの御方から、
山頂付近は風が強く吹いていると思われますので、お気を付け下さい、と私は言われたことを思いだしたりした。

こうした中で、最も山頂まで歩きやすいコースは、『山頂遊歩道』と思われ、
体力の衰えた私は、家内に向かって、ボクにぴったりだょ、と微笑ながら言ったりした。

何かしら山頂口から内輪山に向かって舗装された遊歩道が整備され、誰でも安心して歩けるハイキングコースで、
登りは約45分、下山は30分、と私は解釈した。

そして私は、三原山は古くから数多くの島民から、噴火を御神火、火山を御神火様と敬ってきたことに敬意し、
少し歩きましょうか、と私は大きな声で家内に言ったりした。
            

まもなく歩きだして、風もなく晴れ間が見える中、道端から視える情景は、
1986年(昭和61年)に大噴火し、大小の数多くの溶岩石が降れ出した時から、
わずか30年過ぎた今、こうして緑一面に回復した状景に、自然の変貌には驚いたりした・・。
            

そしてご婦人であったなら、低い(ロー)ヒールでも歩きやすい平坦な路を歩きながら、
道端に咲いているツツジの花を私は誉めたりした。
  

やがて溶岩流先端先と明記されたプレートを見た頃から、所々に大きな溶岩が視え、
まもなく急激に風が強く吹く中、上り坂となったりした。
  

そして幾重かのつづら折りの道となり、まるで道が途切れような状景も見られ、
私たち夫婦は、懸命に上り坂を登った・・。
            

やがて15分過ぎた頃、あの大噴火の時に、この場所だけ奇跡的に溶岩流が避けて通り、
厄除け神社と知られている『三原神社』を見ながら、歩いたりした。
            

まもなく噴火口跡が見え、山頂近くに到達し、私は安堵したりした。
  

お互いに何とか登れて良かったねぇ、と私は家内に言ったりした。


まもなく『火口展望台』まで10分、と家内は標識を見て、行きましょう、と家内は私を誘った。

ほぼ平坦な路を歩きだして、そして『火口展望台』に到達すると、
岡田港から路線バスで同乗した欧米人の男女4人グループと偶然に再会し、
写真を撮り合っていた・・。

私も噴火口跡の状景を記念ねぇ、と撮ったりしていた。
            

まもなく家内に、グループの合同記念写真でシャッターを押して欲しい、しぐさを見せた、
と私に家内が言ったりした。

私は微笑ながら、英語の単語を思いだすように三言を言ったりして、
カメラを差し出した長身の男性から受け取ると、
シャッターを押すと、連続撮影がセットされていたので、3枚ぐらい撮れてしまい、私は少し驚いた。

そして私は長身の男性にカメラを返却しながら、リプレイ、と単語を並べながら言った。

まもなく長身の男性は、再生を確認した後、微笑みながら私に御礼の言葉を言われたりした。

やがて私たち夫婦は下山を始めてまもなく大きな溶岩石の間を通り過ぎた。
            

この後、ゆったりと歩きながら、野イチゴを見たりしながら歩いたりした。
  

やがてバス停の終点の三原山頂口の近くに戻ると、近くにある食堂に入り、
窓辺に近い席で、私はビールを飲み、家内はコーヒーを飲み、お互い健闘を称え、談笑をしたりした。

そして窓辺から無念ながら伊豆半島、富士山は霞み、元町港だけは視え、私たち夫婦は微苦笑した。
            

この後、路線バスに乗車して、やがて本日宿泊する『大島温泉ホテル』前で下車し、
まもなくチェックインとした。
                                      《つづく》

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伊豆大島にある樹木葬の墓地(埋葬地)、私たち夫婦の視察旅行 ①大島のささやかな思いは・・。

2016-05-21 14:29:56 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私たち夫婦は19日より、わずか一泊二日で伊豆七島のひとつ大島を訪(おとず)れた。

今回は7年前の頃、伊豆大島にも樹木葬ができる墓地(埋葬地)ができた、と知り、
これ以来、私たち夫婦は注視したりしてきた・・。

これ以前は、1986年(昭和61年)に、伊豆大島は島の中核にある三原山が噴火した時は、
溶岩流が住民が多い元町に向けて流下し、やがて島民全員の島外避難が行われ、帰島は約1が月後になった、
都民のひとりとして学んだりしてきた。

この後、2013年(平成25年)10月、台風が襲来し、観測史上最大の24時間雨量824㎜を記録し、
土砂災害により元町地区を中心に49名の死者・行方不明者を出し、
降水量は観測開始以来最大であった、と報じられた。

そして私たち夫婦が、樹木葬のある墓地を探し求めたひとつが、被害があり、
やがて復興がされた、とニュースで私は学んだりしてきた。

今回、遅ればせながら私たち夫婦は、大島にある樹木葬のある墓地(埋葬地)を確認したく、
視察旅行のような心情で訪(おとず)れた。

伊豆大島は、山手線の浜松町駅に近い竹芝桟橋より、120キロ南下し三原山(758メートル)が聳え立つ島で、
木の葉のような形した島で、北部には岡田港、西部には元町港があり、そして南東部には波浮港がある。

そして周囲には美麗な海、島内は緑豊かな島であり、三原山は遠い昔の約2万年前から現在まで、
100年ないし200年毎に総計100回前後の大噴火が起きたと伝えられ、
古くから島民は、噴火を御神火、火山を御神火様と呼び敬ってきた島でもある。

そして東京の竹芝桟橋より高速ジェット船で、わずか1時間45分で、東京から一番近く、自然が満喫できる島である。
            

私たち夫婦は、一日目は三原山の中腹にある『大島温泉ホテル』に宿泊し、
翌日には元町港の郊外にある樹木葬ができる墓地(埋葬地)を視察する、簡略なプランであった。


19日、山手線の浜松町駅より徒歩10分足らずで、竹芝客船ターミナルに朝の7時少し前に到着した。
私たち夫婦は、過ぎし年に伊豆七島のひとつの新島、その後は小笠原諸島のひとつの父島に訪れた基点であったので、
懐かしきターミナル・ビル内外を散策した・・。

こうした中、東京ベイブリッジ越しの数多くコンテナの稼働状況が視え、
経済活性化のひとつ風景に、私は微笑んだりした。
  

まもなく私たち夫婦が乗船した高速ジェット船は、竹芝桟橋を8時15分に離岸し、
やがて大島の岡田港に着岸したのは、10時であった。
            


この後、私たちは路線バスに乗車して、まもなく三原山の中腹にある『大島温泉ホテル』前に到着した。
そして予定通り、旅行バックなどをクロークに預けて、
この島の中核にある三原山に敬意する為に、三原山をハイキングしょう、と思案していた。

そして再び路線バスに乗車して、やがて終点の三原山頂口に到着した。
少し歩いた先は、三原山が一望できるところであった。
            

『前に来た時は、黒っぽい溶岩が埋め尽くしていたわねぇ・・余りにも変わって・・』
と家内は溜息を重ねて私に言ったりした。

前回、私たち夫婦がこの地を訪れたのは、確か1996年(平成8年)の8月下旬であった・・。

私は現役サラリーマン時代で多忙な時、夏季休暇の旅行は初旬に作並温泉で、3泊4日で滞在した後、
家内は、海を見たいわ、と私は言われて、
8月下旬に2泊3日で熱海のビジネスホテルに宿泊し、『初島』と『大島』を訪れた。

この時に、三原山頂口を訪れたが、1986年(昭和61年)に三原山は大噴火し、溶岩が流れて、
10年過ぎた頃で、溶岩が一面覆い尽くしていた・・。

そして遊歩道は確かにあったが、疲れと暑さで、遊歩道を散策することは断念したりした。

こうしたことを思い馳せながら、少し歩くと近くに『三原山内遊歩道』の案内板があり、私たち夫婦は少し思案したりした。
            

このハイキングの案内板が、明解に解りやすいサイトがあったので、掲載させて頂く。
http://www.oshima-onsen.co.jp/hiking.html
☆【大島温泉ホテル】公式サイト==>『ハイキング・コース』

そして私は、体力の衰えた身ながら、ひとつの『ハイキング・コース』を家内に提案した。
                                      《つづく》

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葬儀は家族葬で、祭壇に花、静かな音楽の中で、談笑してくれれば、と私は願い・・。

2016-05-20 13:24:59 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
無念ながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身となっている。

そして私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ15年ぐらい言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職し、早や11年半が過ぎた年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは、遥かに遠い平凡な人生を歩んできたりした。

こうしたことで、遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。
            

こうした中で、家内はもとより、私の兄である夫妻、妹の夫妻、一番下の妹、兄の子供である甥のふたり、
そして家内の妹夫妻、そして家内の母が存命であったら加わって欲しい・・
このくらいの親族の一部の最小限のメンバーで通夜、告別式を執り行って、家族葬の形式と念願している。

昨今、式場の内部が、自宅の居間のような形で、片側に御棺を置き、
広いテーブルで食事やお酒を飲食できる会場もあると知り、私は微笑んだりした。

通夜の日、御棺の周りは幼年期は農家の児として育ち、
日本風土の土に還るので和花を中核として、欧米の書物、映画、音楽も少し愛してきたので、洋花も添える。
この時、和花が高価だったならば、洋花を中心としても差し支えない。
            

大きめのテープルには、食事処から取り寄せた和食、洋食を食べて頂き、
煎茶、コーヒー、紅茶などを飲んだり、ウィスキー、ワイン、日本酒、ビールなど吞んで頂いたり、
私の生前のこぼれ話しをテーマに、談笑して頂く・・。

人は誰しも故人の心の奥に秘めた心は解らないが、とりとめなく話して、
あの時は・・と笑って下されば充分である。

こうした中で、音楽が静かに流れれば、と念願したりしている。
選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、
交響曲第9番の第三楽章、アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしている。

翌日の告別式は、このメンバーで自宅の居間のような形の式場に集合し、お線香一本を上げてもらい、
この後は火葬場に行き、ふたたびこの式場で、
お好みの飲み物を吞みながら、食事をして談笑して頂いた後、散会する・・。
            

そして私の生家(実家)は曹洞宗なので、やはり生家(実家)の墓地のある寺院の方に読経して頂くが、
通夜、告別式の5分ぐらいの簡略なお経でよい、と思ったりしていたが、
これらを省略しても差し支えない。

このような葬儀は、私の生家にしても、親戚にしても、前例がなく、
もとより兄妹は大いに戸惑いを重ねる、と想像をする。

なぜ生家の墓地のある寺院の斎場で、通夜、告別式を行わないの、と予測されるが、
水戸黄門の印籠のように、故人の遺志である、と家内が明言し、了解を願いたいのである。

☆この原文は2012年(平成24年)8月31日に投稿したが、この後、私の願いが少し変貌してきたので、
改定版とさせて頂く。

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ささやかな私たちの夫婦の『お墓』は、秘かな願いとして、樹木葬のある樹の下で・・。

2016-05-19 13:35:23 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、一代限りの身であり、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ15年ぐらい言ったりしてきている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。

その後、四十九日の納骨が終われば、何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された家内は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。

この世は予期せぬ出来事もあるので、私が家内に先立たれることもあるが、
この場合も、同じようにご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私は家内から言われたりしてきた。

私の生家は長兄が実家として継いで、確か16代目となって、
祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で、実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。
            

私が40歳を過ぎた頃の1985年〈昭和60年〉の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、
私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

この当時、 私が何かと愛していた『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用し、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。

もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。

私たちは、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。

あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。

人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこうした事だろう、と思い重ねたりした。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。
            

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と私は納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。


このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
7年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。

その後、千葉県の房総半島の奥地にある寺院で、樹木葬があると学んだが、
我が家から少なくとも3時間は要し、遠方だよなぁ、と私たちは思ったりしてきた。

或いは2年前の頃、我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

いずれも永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしている。
            

こうして思いばかり重ねているが、私は男性の平均寿命は80歳と認識しているので、
私たち夫婦は元気な今、樹木葬のできる墓地を決断しょう、と思い一年が過ぎている。

☆この原文は2012年(平成24年)8月30日に投稿したが、この後、私の願いが少し変貌してきたので、
改定版とさせて頂く。

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私たち夫婦は、伊豆七島のひとつ大島に、樹木葬のある墓地を視察に・・。

2016-05-18 13:06:25 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私たち夫婦は明日の19日より、一泊二日で、伊豆七島のひとつ大島を訪ねる。

偶然に7年前の頃、伊豆大島にも樹木園ができた、とか学び、
これ以来、私たち夫婦は注視したりしてきた・・。

過ぎし1986年(昭和61年)に、伊豆大島は島の中核にある三原山が噴火した時は、
全島民が1か月にわたって島外避難したことを、都民のひとりとして学んだりしてきた。

そしてネットで見る限り、風光明媚の中、いつの日にか私たち夫婦が、樹の下で安らかに永眠している時、
百年に一度遭遇するか、しないか解らないが、たとえ大海に流されても致しがたい、と思ったりしてきた。

この後、2013年(平成25年)10月、台風が襲来し、観測史上最大の24時間雨量824㎜を記録し、
土砂災害により元町地区を中心に49名の死者・行方不明者を出し、
降水量は観測開始以来最大であった、と報じられた。

そして私たち夫婦が、樹木葬のある墓地を探し求めたひとつが、被害があり、
やがて復興がされた、とニュースで私は学んだりしてきた。

今回、遅ればせながら私たち夫婦は、大島にある樹木葬のある墓地を確認したく、
視察旅行のような心情に秘めて、訪れる・・。
            

私たち夫婦の樹木葬に関しての思いは、
【ささやかな私たちの夫婦の『お墓』は、秘かな願いとして、樹木葬のある樹の下で・・。】
と題した投稿文を、19日に予約投稿をする予定。

そして私の葬儀の願いも、
【葬儀は家族葬で、祭壇に花、静かな音楽の中で、談笑してくれれば、と私は願い・・。】
と題した投稿文を、20日に予約投稿をする予定。

いずれも私たち夫婦のささやかな願いであり、お読み頂き違和感を感じましたら、ご笑話願えば幸いです。

*旅行の準備、これから旅行もあり、当面はコメント欄を閉鎖させて頂きます。

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葬儀は家族葬で、祭壇に花、静かな音楽の中で、談笑してくれれば、と私は願い・・。

2012-08-31 15:44:57 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、
或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職した引退の年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは遥かに遠い平凡な人生を歩んできたので、
遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。

こうした中で、家内はもとより、長兄夫妻、長女の妹の夫妻、次女の妹、長兄の子供である甥のふたり、
そして家内の妹夫妻、そして家内の母が存命であったら加わって欲しい・・
このくらいの親族の一部の最小限のメンバーで通夜、告別式を執り行って、家族葬の形式と念願している。

昨今、式場の内部が、自宅の居間のような形で、片側に御棺を置き、
広いテーブルで食事やお酒を飲食できる会場もあると知り、
私は微笑んだりした。


通夜の日、御棺の周りは幼年期は農家の児として育ち、
日本風土の土に還るので和花を中核として、欧米の書物、映画、音楽も少し愛してきたので、
洋花も添える。

テープルには、食事処から取り寄せた和食、洋食を食べて頂き、
煎茶、コーヒー、紅茶などを飲んだり、ウィスキー、ワイン、日本酒、ビールなど吞んで頂いたり、
私の生前のこぼれ話しをし、談笑して頂く・・。

人は誰しも故人の心の奥に秘めた心は解らないが、とりとめなく話して、
あの時は・・と笑って下されば充分である。

こうした中で、音楽が静かに流れれば、と念願したりしている。
選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、
交響曲第9番の第三楽章、アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしている。

翌日の告別式は、このメンバーで自宅の居間のような形の式場に集合し、お線香一本を上げてもらい、
この後は火葬場に行き、ふたたびこの式場で、
お好みの飲み物を吞みながら、食事をして談笑して頂いた後、散会する・・。

そして私の生家は曹洞宗なので、やはり実家の墓地のある寺院の方に読経して頂くが、
通夜、告別式の5分ぐらいの簡略なお経でよい、と思ったりしている。

このような葬儀は、私の実家にしても、親戚にしても、前例がなく、
もとより兄妹は大いに戸惑い、
なぜ実家の墓地のある寺院の斎場で、通夜、告別式を行わないの、と予測されるが、
水戸黄門の印籠のように、故人の遺志である、と家内が明言し、了解を願いたいのである。

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ささやかな『お墓』、私たちの夫婦の秘かな願いは、樹の下で・・。

2012-08-30 16:09:55 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。


私の生家は長兄が実家として継いで、確か18代目となって、
祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。


私が40歳を過ぎた頃の1985〈昭和60〉年の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、
私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

私がこの当時何かと愛していた『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用し、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。

もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。

私たちは、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。

あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。
人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこの事だろう、と思案した。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。


このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
5年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。
昨今、我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

そして永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしている。

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