夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

新北風(ミーニシ)の吹く爽やかな中、沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテル滞在記 最終回

2018-10-28 07:43:50 | 

                 最終章 旅の終りは館内めぐり

滞在している『ザ・ブセナテラス』は、多彩な食事処、配置された庭内の植物、館内の情景に、
私は魅了されてきた・・。

              

 


              

              


              


              


     

こうした館内めぐりをして、多彩な館内の情景を享受したりした。

そして何よりの私の楽しみは、部屋の前に配置しているバルコニーから、観られる情景であった・・。

              


              


                            



              

やがて25日の朝、朝食を終えた私たち夫婦は、やがてチェックアウト時は12時であったが、
タクシーの予約を11時にしていたので、私は10時に旅行ケースを宅配便で送付する手続きをした後、
10
時半過ぎにチェックアウトをしたりしていた。

              

そして私たち夫婦は、予約したタクシーが到着するまで、
メィーン・ロービーの海辺側にある安楽椅子に座り、待機したりした。

              

まもなくタクシーが到着して、ドライバーさんに那覇空港に・・と私は言ったりした後、
車窓から本島の情景を見ながら、家内と談笑をしたりした。

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新北風(ミーニシ)の吹く爽やかな中、沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテル滞在記 ④

2018-10-27 15:55:51 | 

              第5章 とりとめなく館内で沖縄のささやかな思いを馳せれば

滞在している『ザ・ブセナテラス』の室内のベット、窓際の安楽椅子、
そしてバルコニーにある安楽椅子で、ときおり持参した本を読んだりした・・。

              

この本は、昨年の1月下旬、平素の買物で駅前に行った時、本屋に寄った時に見かけて、
瞬時に読みたくなり、講読した一冊であり、感銘を受けて、改めて今回再読したく持参したりした。

そして館内のゆったり休息処の安楽椅子に座りながら、再読した・・。

              

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国のポッタム宣言を受け入れて、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、
そして8月15日の敗戦なのに『終戦記念日』称している日には皇居に向い、黙祷を重ねたりしてきた・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ50数年、黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。

          

沖縄に関して、恥ずかしきことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。

そして高校時代以来、何かと時事に関心を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かな時であったので、知識人の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。

これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに、後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、沖縄に於いては、安易な観光気分で訪れることが出来なくなり、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。

この後、名嘉正八郎、谷川健一両氏の編集に寄る『沖縄の証言 ~庶民が語る戦争体験~』《上》、《下》(中公新書)を
1977年11月に購読してきた。

そして太田昌秀・著作の『沖縄の帝王 高等弁務官』(朝日文庫)を1996年2月に購読して、
敗戦後の沖縄にアメリカ軍政下の実態を多大に学んだりした。


もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、沖縄戦は事実上集結した日である。

そして沖縄県は『慰霊の日』として、戦没者追悼式が毎年行われている。

          

何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
せめて『慰霊の日』は、沖縄に向って黙祷を重ねたりしてきた。


私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記されている。

そして私は若き人たちと共有致したく、今回もあえて転記させて頂く。
《・・ 太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
県民達の凄惨な事件が続発した。

          

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951年(昭和26年)から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。 ・・》

注)原文よりあえて改行を多くした。

私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
          

                         

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。

そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。

          

私は『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

                     

そして今回、掲載した数々の写真は、過ぎし2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。

家内の母は、1930年〈昭和5年〉生まれであり、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。

家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。

この後、佐野眞一・著作の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(2008年、集英社インターナショナル)、
『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年、集英社インターナショナル)を読み、
沖縄の光と影を学んだりしてきた。

或いは福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)、
改めて敗戦後の怜悧な国益に基づいた実態史を多々教示されたりしてきた。

そして大久保潤、篠原章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
ロバート・D・エルドリッヂ著作の『オキナワ論』(2015年、新潮新書)、
高良倉吉・編著作の『沖縄問題 ~リアリズムの視点から~』(2017年、中公新書)、
篠原章・著作の『外連の島・沖縄 ~基地と補助金のタブー~』(2017年、飛鳥社)、
沖縄の現実の難題を多々学び、無力な私は憂いたりしている。

この間、改めて沖縄戦の過酷な実態は、ユージン・B・スレッジ・著作(訳・伊藤 真、曽田和子)の
『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術新書)を読み、戦地でそれぞれ置かれた人が、
狂気のふるまいに、映像では表現しずらい多くのことに、震撼させられてきた。

          

私は沖縄問題にも専門知識がない浅学のひとりであるが、時代に翻弄される沖縄県民に、
ときには深く感傷させられる時もあるが、
長い展望でそれぞれの家族ひとりひとりが少しでも豊かさを求めて欲しい、
と政治の思惑より現実経済向上を願うひとりである。

                        《つづく》 

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新北風(ミーニシ)の吹く爽やかな中、沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテル滞在記 ③

2018-10-27 15:11:44 | 

              第4章 ブセナ岬の丘に建つ『万国津梁館

23日、滞在している『ザ・ブセナテラス』に隣接した丘に建つ『万国津梁館』に、
私は初めて、家内を誘って訪れた。

『ザ・ブセナテラス』の正面玄関より緩(ゆる)い坂道を5分ぐらい歩くと、
2000年(平成12年)7月下旬に第26回主要国首脳会議が行われた『万国津梁館』が観えた。

              

 

日本初の地方開催のサミットであり、20世紀最後のサミットでもある。

この時の、出席首脳の一覧(当時、席次順)は、下記の通りである。 

 

 

私がこのサミット会場に関心を抱いたのは、この決定に強く働いた当時の小渕恵三・首相の意思であった。
このことを学んだのは、新聞、雑誌からであり、何よりも佐野眞一さんの著作された『凡宰伝』であった。

              

過ぎし2003年に私は読み、初めて小渕恵三さんの足跡を知り、
学生時代から熱き思いで、幾たびも沖縄を訪れ、旧家に滞在し、
やがて自民党の要職となり、この後に総理大臣となり、沖縄県に対するプレゼントとして、
反対したり危惧する中で、強い意思で沖縄県でサミット会場の開催を英断したことなどを学んだりした・・。

もとよりサミット会場が沖縄県になれば、会場の建物、周辺、そして高速道路の延長、那覇空港の大整備、
宿泊ホテルなど、多大に沖縄県に国が通して、沖縄県に活性化させた貢献がある。

そして図らずも
沖縄での開催を決定した小渕恵三総理大臣は、
サミット前の2000年4月に突如脳梗塞を発症して昏睡状態に陥り、
職務不能のために、内閣総辞職によって総理大臣を退任した。

その後、回復することのないまま、5月に死去したため、
沖縄サミットに出席することは、かなわなくなったことは、周知の通りである。

こうした小渕恵三総理大臣の沖縄県に対しての貢献は、
この『万国津梁館敷地内には、2001年4月に小渕恵三、九州・沖縄メモリアル建立委員会によって建立された
小渕恵三・元総理大臣の像がある。

              

私は良き意味合いで小渕恵三さんが、長年沖縄に熱き思いで、
やがて沖縄サミット開催の決断を下したことは、賞賛するひとりである。

   

 


   

この施設は、世界中から取り寄せた建築素材に、
琉球瓦や琉球石灰岩、月桃紙など沖縄ならではの自然素材が使用されている、と私はパンフレットで学んだりした。

私たち夫婦は、片隅に建っている喫茶店風の所で、コーヒーを飲みながら、周辺を見たりした。

              

 

そして東シナ海を眺めながら、沖縄の翻弄される県民の歴史、思考を重ねたりした。

                                     《つづく》 

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新北風(ミーニシ)の吹く爽やかな中、沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテル滞在記 ②

2018-10-27 12:08:25 | 

              第3章 周囲の遊歩道、浜辺

22日、朝食を終えた私たち夫婦は、指定された部屋のバルコニーに降り立つと、
海辺に押し寄せる波の音が聴こえたりした・・。

左辺を眺めれば、穏やかな波が押し寄せたりしていた・・。

              


右手には遊覧船などの桟橋が観えたりした・・。

              

そして館内の前のプールには、青く彩り、多くのご家族の御方が日中に遊泳されていた・・。
或いはピーチパラソルで陽射しを少し遮り、デッキチェアーに座り、休息されている御方も、
多く見られていた。

こうした写真は、ここ10年は個人情報保護の関係で、朝夕、人影が少ない時に撮ったり、
或いは食事処の情景、料理も避けたりした。


              


          

私たち夫婦は、ホテルのブールの付近を通り、まもなく浜辺に近い遊歩道を散策した・・。

              



              


              

              


やがて過ぎし台風で道路が閉鎖され、やむなく私たち夫婦は引き返して、浜辺に降り立った。

              


   

このような浜辺を一時間近く散策して、やがて館内に戻る道を歩いたりした。

              



                                     《つづく》 

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新北風(ミーニシ)の吹く爽やかな中、沖縄本島のブセナ岬にあるリゾートホテル滞在記(2018.10.21.~10.25.)①

2018-10-26 22:29:49 | 

              序章 旅立つ前の思い

今年の6月中旬に秋の旅路は、どこに行こうかしら、と私たち夫婦は漠然としながら思案してきた。


制約があるとすれば、私たち夫婦は年金生活をしている身で、優雅な高価なリゾートホテル、旅館は無理であり、
そして家内は遠くに住む家内の母の介護で、家内の妹とで交代している関係で、
秋の旅路の一週間ぐらいの日程を思案すると、10月下旬には何とかできる状態となっている。

              
          

このような状況であり、私たち夫婦は思案しながら、
家内は介護疲れもあり、南の海辺でゆっくり過ごしたいわ、と私に言ったりしてきた。

今年の4月、沖縄本島の北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルに6泊ばかり滞在して、
いつものように周辺を遊学してきたが、今回はリゾートホテルの浜辺、遊歩道、館内でゆったりと過ごしたいわ、
と家内の要望を私は聞き、旅行会社のパンフレットを収集して、まもなく私たち夫婦は秋の旅路を立案してきた。

私の住む駅前にある旅行代理店には、航空会社の『ANA(全日空)』、『JAL(日本航空)』、
そして旅行専門社『JTB』
のパンフレットがあり、
この中の『沖縄』編のリゾートホテルから、滞在するホテルを選定した。


        

結果的には、沖縄本島の北西部地域のブセナ岬にあるリゾートホテル『ザ・ブセナテラス』を選定し、
10月21日より4泊5日とした。

こうした根底のひとつには、私は定年退職後、3年過ぎた2007年(平成19年)10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母の《・・死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい・・》願いを叶える為に、
那覇市内にあるビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊して、『ひめゆり塔』、『平和祈念公園』など訪れたりした。

そして中部地域の観光に利便性がある名護市の郊外にあるリゾート・ホテルを家内が選定して、
かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』に6連泊滞在して、
周辺の風光明媚な光景を遊学したりした。

こうした中、滞在した丘陵に建つ『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』の部屋のバルコニーからは、
右下方の前方の浜辺の隣接に建つ『ザ・ブセナテラス』が見えたりした。

数日後に、私たち夫婦は家内の母を誘い、『ザ・ブセナテラス』の周辺を歩いたり、
まもなく館内の軽食処でコーヒーとケーキを賞味し、建物にも好感し、
やがて宿泊している『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』にタクシーで帰館した。

このような思いでを秘めている私たち夫婦は、今回だけは優雅な『ザ・ブセナテラス』に4泊ばかり宿泊して、
部屋のバルコニーから海辺を見たり、多彩な食事処、周囲にある遊歩道、浜辺を歩いたりして、過ごそうと決意した。

そして、私たち夫婦は日本航空の少しゆったりとするクラスJ席に好感してきたので、
何かと早めの申し込みが必要と思われ、6月下旬に予約をしたりした。

https://www.terrace.co.jp/busena/
☆公式サイト『ザ・ブセナテラス』☆


そして私は、沖縄本島は10月頃に吹き始める北風が、夏の暑さも和らぎ始めて、
涼しく過ごしやすい沖縄の秋が始まる、と知り、熱さに苦手な私は微笑んだりした。

この新北風は、ミーは新しい、ニシは北のことで、ミーニシと別称されていることも、
学んだりしてきた。

             第1章 『ザ・ブセナテラス』までは・・。
                    
10月21日、私たち夫婦は羽田空港を10時55分発の日航機であったので、
羽田空港の出発フロアーに9時に到着し、そして出発保安検査場を通った後の近くに、
今回の特典のひとつには、JAL(日本航空)の『さくら』ラウンジが活用できたりした。

初めて入室した『さくら』ラウンジは、ゆったりと座席が配置されて、
広い窓辺がパノラマビューとなり、遠方には早くも雪を抱いた富士が観えたりした。

或いは航空機が移動する情景、発走する航空機が飛び立つ情景も観えたりし、
ソフトドリンクの各種、ビール、ウィスキーまで配置されていた。

              

そして私たち夫婦はコーヒーを頂き、搭乗時までゆっくりと過ごしたりした。

やがて那覇空港に降り立ったのは、13時40分であった。

そして私たち夫婦は到着ロビーに移動すると、
待機して下さったタクシーのドライバーさんが、ホテル名と私の氏名を明記した用紙を掲げられて、
私はすぐに気づき、家内に伝えて、まもなく乗車した。

こうしたことは宿泊するホテルの特典のひとつで、ひとり片道500円で活用でき、
私たち夫婦は路線バスより廉(やす)く、安楽であり、享受した。

そして北西部にあるブセナ岬にあるリゾートホテルの『ザ・ブセナテラス』に向かう為に、

本島の中央部にある高速道路を大半走行して、一時間前後で到着した。

まもなくメィーン・ロビーの見晴らしの良い安楽椅子が配置されている中で、チェックインをした後、
スタッフに導かれて、私たち夫婦は指定された9階にある部屋に通され、室内の概要を受けたりした。

この後、バルコニーより、海辺を眺めながら、無事に念願の宿泊先に着き、安堵したりした・・。

              

やがて私たち夫婦は、大浴場のある別棟で、それぞれ洗い清めて、
心身爽快となり、まもなく夕食に備えたりした。



               第2章 『ザ・ブセナテラス』うれしいチケット券とJALパックの特典

今回、『JALパック』の旅行会社を利用して、『早決』ポイント制度があり、
120日前まで予約完了の場合、一泊に付いて5000円の割引と知り、
たまたま私たち夫婦は4連泊するので、総額より2万円が差し引かれて、
私たち夫婦はお互いに微笑んたりしてきた。

何より驚いたのは、『ザ・ブセナテラス』より4連泊した場合、
おひとりさまに付き、8枚のチケット券が頂けることとなった。

この嬉しいチケット券で、二日目のイタリアン料理店、
3日目の中華料理店、4日目の和食店も料理代がサービス無料となり、
私たち夫婦は恐縮して、せめて飲み物は私は高価なウィスキーとワイン、そしてビールを盛んに呑んだり、
家内もカクテルを呑み、楽しさ倍増を毎夜過ごしたりした。

こうした根底のひとつには、私の先輩のひとりは、
料理代とアルコール代は同じ料金をしていることを思い浮かべて、
せめて今回の夕食の3回ぐらいは真似事をしょうと、高価なウィスキーとワインを呑んだりした。

更に一日目の夜には、2時間フリードリンクのサービス券を頂き、
私は高価なワインを盛んに呑み、心も身も高揚したりした・・。

こうした中、夕食の料理代なんて廉(やす)い、と私は心の中で呟(つぶや)きながら、
私としては稀(ま)れに気炎を上げて、家内と談笑したりした。

              

こうしたホテルの御厚意に、私たち夫婦は甘受した。

                                     《つづく》 

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記 最終章 滞在したホテル、そして周辺は・・。

2018-04-15 09:49:25 | 

私たち夫婦は国内旅行が共通趣味のひとつであるが、制約があるとすれば、
定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。

そして私たち夫婦は年金生活をしている身で、優雅な高価なリゾートホテル、旅館は背伸びしても無理であり、
ここ3年は家内は遠くに住む家内の母の介護で、家内の妹とで交代している関係で、
今年の春の旅路の一週間ぐらいの日程を思案すると、4月上旬には何とかできる状態となってきた。

        
          

このような状況であり、家内は介護の疲れもあり、南の海辺でゆっくり過ごしたいわ、と私に言ったりしてきたので、
やがて沖縄本島の北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルに6泊ばかり滞在して、
いつものように周辺を歩き廻ろう、と私たち夫婦は立案してきた。

そして私たち夫婦は、今回は『マリンピアザ オキナワ』に4月5日より連泊して、
6泊7日の旅路となった。

そして滞在したホテルの指定された部屋、バルコニーからの情景、或いは別館にあるレストランは、
心が充たされたりした。

こうした中で、ホテルの広い前庭には、乳児から学童まで安全に遊べる多彩な施設があり、
私は滞在中、指定された部屋のバルコニーから、若いパパ、ママに引率された幼い子供が遊んでいる情景を、
微笑ましく私は、幾たびも眺めてきた。

こうした中、3歳ぐらいの女の子が、砂場などで、ひとり遊びに熱中し、
私もこの当時は、ひとり遊びが好きだったなぁ・・と苦笑しながら、好感を増したりした。

        

その上、ホテルに併設されている『もとぶ元気村』に於いては、
インストラクターの解説を受けながら、モーターボートの操縦体験、
或いはイルカを鑑賞できるなど10数種類の多彩な施設があり、学童が安全に学べる所であり、
子供たちの歓声を私は聞きながら、微笑んだりしてきた。 


4月5日の夕方にチェックインした時、チャレンジ・クーポン券が手渡された。

このホテルの全景には、『もとぶ元気村』の施設があることは、
旅立つ前には私たち夫婦は、公式ホームベージで知っていたが、宿泊者に限り、
この施設を殆ど無料に近く利用できることを知り、驚きながら私たちは喜んだりした・・。

何かしら一泊について、おひとり様2枚プレゼント(☆7月21日~8月31日は、一泊に付き、1枚)となり、
たまたま私たち夫婦は6連泊するので、総計24枚のチャレンジ・クーポン券を頂いた。

そして『もとぶ元気村』の施設の利用としては、
サンゴ礁とか魚が遊泳がしている情景が観られる水中展望室がある遊覧船には、通常は大人2200円であるが、
たった2枚のクーポン券で、
乗船料の代わりとなり、4月6日に乗船して、10数名の方達と共に楽しんだりした。

        

或いは『もとぶ元気村』に於いては、定員30名が乗船できる大型ヨットで、
サンセット・セーリングが、わずか3枚のクーポン券で、乗船料の代わりとなり、
お得感もさることながら恐縮したりした。

そして私たち夫婦は、8日、そして9日の両日、サンセット・セーリングを乗船して、
たまたま乗船したのは私たち夫婦だけであり、恐縮しながらも享受したりした。
        
その上、昼食と夕食は、滞在期間中に一回無料招待券を頂き、
手抜きでない昼食のランチ、そして夕食のディナーを私たち夫婦は頂いたりした。


こうした中で、ホテルに隣接された『もとぶ文化交流館』なども私たちは利用させて頂いた。
        

 

この『もとぶ文化交流館』に於いては、幾つかの学習のプログラムがあり、
私たち夫婦は『オリジナル・フォトフレーム作り』をした。

何かしら学習料は、ホテルから頂いたチャレンジ・クーポン券をたった一枚で、
学べることが出来ることで、もとよりお得感あふれる学習であった。
        
最初に60代と思われる女性アドバイサーより、木のフレームを頂き、
付近にある貝殻、サンゴのかけら・・などが、長方形の木箱に数多くあり、
これを自由に選択して、フレームに接着剤で貼る内容であった・・。

そして幾つかのサンブルもあり、殆どの御方の作品は貝殻が数多く付けられていたが、
私は美は簡素にある、と思いながら、小学生の当時は『工作』授業は劣等生であった私は、
わずか数分で完成したのは、上記の作品となった。

この後、この『もとぶ文化交流館』の裏庭を眺めたりした。
        

この片隅に咲いていた花に、私は見惚れたりした。
        

まもなく館長のような男性に、私は教えを乞うと、朝鮮アサガオ、
と私は教えられたりした。

やがて私たち夫婦は、『もとぶ文化交流館』を辞した後、ホテルに戻る階段で、

        

南国らしいバナナの樹を見て、花も実もある、と定年退職時まで何かと悪戦苦闘が多かった私の人生航路として、
退職後に多々の理由で年金生活を始めた私は、年金生活は予測した以上に安楽に過ごしてきたので、
私は思わず心を寄せて、微笑んだりした。

        

そして私は夜のひととき、バルコニーで星空を期待して
6日、7日を眺めていたが、
日中は曇り空でときおり淡き陽射しとなり、無念ながら深闇となったりした。

やがて8日の夜は、星は瞬(まばたき)く、30数ばかり彩(いろど)り、
満天の星空のようだよねぇ・・と私は長らく見惚れたりした。

或いは最終日の前日の夕暮れには、バルコニーからサンセットを鑑賞した。
        

今回、周辺の大きな観光施設では、日本語、英語、中国語、韓国語の順にアナウンサーの解説が流れて、
世界各国から来日していることを改めて実感させられた。

今回の私たち夫婦のこの地の旅路は、殆ど不満は少なく、
予測した以上にホテルの館内も良く、スタッフも明るく応対して下さり、
併設された『もとぶ元気村』のスタッフも明るく前向きに好感し、
良かったよねぇ・・のちにも思いで深い旅路になるよねぇ・・と私は家内に言ったりした。

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記 第6章 島の形がパンの「クロワッサン」に似ている水納島を訪ねれば・・。

2018-04-14 15:51:17 | 

私たち夫婦は今回滞在した『マリンピアザ オキナワ』の指定された部屋のバルコニーからは、

              

左側からは本部(もとぶ)の街並みの片隅が観え、瀬底(せそこ)島を結ぶ瀬底大橋、そして瀬底(せそこ)島が
観えたりした。


そして前方の彼方には、小さな島が見え、まもなく私は島の形がパンの「クロワッサン」に似ているので、
数多くの方たちから『クロワッサン・アイランド』と呼ばれていることを知ったりした。

              

正式名所は、本部半島の沖に浮かぶ水納島(みんなじま)であり、渡久地港から定期船で15分ばかりであるが、
島の周囲はサンゴ礁があるので、透明感ある美しい海となり、東から北にかけて広がる白い砂浜がある、
と学んだりしてきた。


そして右側には、伊江島が観られる・・。
私は伊江島に関して、書物より敗戦前の沖縄本土の過酷な決戦の前哨戦として、
連合軍が伊江島を破壊するような攻撃があったことを学んだりした。
             

そして周知の通り、残留していた日本軍か、或いは村民の長の決意か、
どなたが命令を発したことに取り出されてきたが、
確かなことは多くの村民が自決した悲哀を秘めた島・・と私は感じ深めてきた島である。

こうしたことを学ぶと、敗戦前に都心の郊外で生を受けた私でも、
後ろめたい深情があり、安楽に訪れることはできなくなり、哀悼を重ねながらも、
今回の旅路も訪れることはできなかった。


こうした心情で私はバルコニーから、幾たびも眺めたりしてきた。

やがて私たち夫婦は、安楽な心情で、『クロワッサン・アイランド』と称された水納島(みんなじま)に、
9日に訪れた・・。

宿泊しているホテルより渡久地港までタクシーで行ったりした。

この一昨日の7日には、本部(もとぶ)の街並みを散策している中、
この渡久地港も歩いたりした・・。

こうした中で、『沖縄県警察』の船舶が係留されていたことに、
沖縄本島は諸島に囲まれていることに、改めて教示させられたりした。

                


               


今回の9日、快晴に恵まれたの中、 水納島(みんなじま)までの定期船の時刻表、船舶を
改めて確認したりした。
               

              


やがて私たち夫婦は、10時発の定期船に乗船して、まもなく「クロワッサンアイランド」の水納港に着岸した。

              

まもなく私たち夫婦は、浜辺を散策した・・。

              

そして家内は、日傘を差して沖の方に歩いて行った。

私は付近の浜辺に腰を下ろして、長らく打ち寄せる清怜な波、澄み切った波間を眺める中、
何かと単細胞の私は、脳裏からひとつの歌が浮かび、心の中で唄いだしたりした・・。

             

♪あした浜辺を さまよえば
 昔のことぞ 忍(しの)ばるる
 風の音よ 雲のさまよ
 寄する波も 貝の色も
【 『浜辺の歌』 作詞・林古渓、作曲・成田為三 】 
留意)1916年(大正5年)に作詞・作曲に伴い、著作権保護期間から過ぎているが、敬意しながら転記させて頂いた。

このような歌は幾つかの時代の悲しみも、或いは喜びも、すべて幾千万年の中で打ち寄せる波が浄化する、
と漠然と思いながら、長らく眺めたりした・・。

この後、私たち夫婦は『水納港』待合休憩所に立ち寄り、外部はコンクリートで、
内部は広くゆったりとしている中、幾つかの木造のテーブル、長椅子があり、
こうした中で、浜の出入り口には階段があり、この階段で腰を下ろして、心地よい浜風を受けたりした。

            


やがて私たち夫婦は、クロワッサンのような形をしている内側に向かって歩き出したりした。

            

やがて、忽然にクロワッサンの内側に到着して、これも美麗な情景だなぁ・・と私は心の中で呟いたりした。

           

潮が退いた干潮の光景であったが、満潮になれば波間で満たされて消え去り、
こうした情景も素敵だ、と思いさせられたりした。

私たちは3時間ばかり、島内の光景を享受した後、水納港発の13時半の定期船に乗船して、
帰路に向かった。

           

           

私は定期船の後部より、彼方に過ぎ去っていく「クロワッサン・アイランド」と称せられる水納島(みんなじま)を観たりしたが、
この世のドリーム・アイランドだったことに、改めて気づかされたりした。

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記 第5章 サンセット・セーリング、大型ヨットを私たち夫婦だけで、享受して・・。

2018-04-14 09:33:51 | 

私たち夫婦は今回滞在した『マリンピアザ オキナワ』で、
4月5日の夕方にチェックインした時、チャレンジ・クーポン券が手渡された。


このホテルの全景には、『もとぶ元気村』の施設があることは、
旅立つ前には私たち夫婦は、公式ホームベージで知っていたが、宿泊者に限り、
この施設を殆ど無料に近く利用できることを知り、驚きながら私たちは喜んだりした・・。

何かしら一泊について、おひとり様2枚プレゼント(☆7月21日~8月31日は、一泊に付き、1枚)となり、
たまたま私たち夫婦は6連泊するので、総計24枚のチャレンジ・クーポン券を頂いた。

そして『もとぶ元気村』の施設の利用としては、
サンゴ礁とか魚が遊泳がしている情景が観られる水中展望室がある遊覧船には、通常は大人2200円であるが、
たった2枚のクーポン券で、
乗船料の代わりとなり、4月6日に乗船して、10数名の方達と共に楽しんだりした。

        

こうした中、私たち夫婦は、過ぎし年に石垣島でサンセット・クルージングとして小型のヨット船に乗船して、
福沢諭吉さんのお札を2枚支払って、成功体験をしてきたので、
今回の旅路でも、少なくとも2回は乗船しょうと、旅立つ前より話し合ってきた・・。

今回の『もとぶ元気村』に於いては、定員30名が乗船できる大型ヨットで、
サンセット・セーリングが、わずか3枚のクーポン券で、乗船料の代わりとなり、
お得感もさることながら恐縮したりした。

そして翌日の6日、7日も曇り空でときおり淡き陽射しとなり、
無念ながらサンセット・セーリングは、欠航となってしまった・・。

やむなく『もとぶ元気村』のスタッフに、明日以降のサンセット・セーリングの予定を尋ねたりしている中、
スタッフの責任者の御方が、私たち夫婦の前に来たりした。

『今回の滞在中、何よりも楽しみにしていたのは、サンセット・クルージングで、
2回乗船できる予約をしていましたが・・』
と家内はスタッフの責任者の御方に言ったりした。



        

そして8日は、早朝より待ち焦がれた青空となる快晴となり、
『これだったら、夕暮れよりサンセット・セーリングは実施されるよなぁ・・』
と私は家内に言ったりした。

こうした中、大型ヨットは定員30名が乗船できるし、私たちと同様に滞在している方達もいるので、
今回の乗船希望者は10数名かしら、と私は思い馳せたりした。

この後、まもなくして私たち夫婦は、この日の8日、そして9日のサンセット・セーリングを
改めて依頼したりした。


やがて当日の8日の夕暮れの6時過ぎに、『もとぶ元気村』の指定された場所に行くと、
まもなく若い男性のスタッフ2名が見えて、救命胴衣を私たち夫婦は手渡されたりした。

私は、こうしたかっこうは4年ぶりだよねぇ・・と家内に言ったりしたが、
乗船を希望される御方たちが見えなく、スタッフの方に、
今回、何名の御方と乗船するのですか・・と私は尋ねたりした。

『あなた様ご夫婦だけです・・』
と私たち夫婦は伝えられて、大型ヨットを貸し切り状況に、驚きながら恐縮したりした。

この後、若い男性ふたりのスタッフに引率されて、大型ヨットに乗船した私たち夫婦は、
客席がいくつもある中、恐縮しながら座ったりした・・。


        

そして操縦されるスタッフと私たち夫婦にガイドして下さるスタッフで、
まもなく夕暮れ迫る中、離岸した・・。

                 

定員30名が乗船できる大型ヨットは、私たち夫婦だけで、恐縮しながらも
ゆったりと
後部座席に腰かけて、周辺の海上を眺めたりした・・。

そして今後の人生も、こうした贅沢な機会はめったにないだろう、と思いながら、
波間に照らし出す淡きになっている陽射しを眺めたりした。


        


        


        


やがて太陽は、名残りおしそうに、かなたの波間にゆっくりと消えていった・・。

このように私たち夫婦は、贅沢な一時間半のひとときを過ごした・・。


しかしこの世の人生は不思議なことがあると、翌日のサンセット・セーリングで、
教えられたりした。

翌日の9日にも、私たち夫婦は予約していたので参加したが、
この時も私たち夫婦だけとなり、恐縮しながら戸惑ったりした・・。

        


        


私は残された人生に、偶然にこうした幸運な機会を与えられたことに感謝し、
下船した時、『私は74歳を迎える身ですが、何よりのプレゼントを頂き、
人生の良きひとときを過ごせて、感謝致します・・ありがとうございました・・』
と若い男性スタッフのお二人にお礼を言ったりした。

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記 第4章 古宇利島(こうりじま)往還、そして備前までの遊歩道

2018-04-13 15:41:27 | 

4月8日、私たち夫婦が宿泊している地域は、過ぎし3日間は曇りときおり淡い陽射しが続いてきたが、
早朝より待ち焦がれた青空となる快晴の中、北方のかなたにある古宇利島を訪ねることとした。

古宇利島(こうりじま)は、名護市の屋我地島と2005年に約2キロ近い古宇利大橋で結ばれ、
この大橋の景観がメディアに盛んに取り上げて話題となっている。

そして古宇利島の海辺はエメラルドグリーンで、島の北にはハートロックと称されたハート形の岩があり、
多くの人が訪れている、と私は今回の旅立つ一か月前の頃から学んできた。

しかしながら交通の手段は、路線バスを乗り継いで行く方法があるが便数が少なく、
レンタカーが最適であるが、免許証のない私たち夫婦は、タクシーで往還するには余りにも高価であり、
やむなく断念した。

やがて旅立つ一週間前、『やんばる急行バス』が無料のシャトルバスが、
今帰仁城跡~古宇利島の物産センターを走行していると知り、
乗車できる人は、やんばる急行バスの他の路線を乗車した方が、利用権が頂ける規約であった。

                     

幸いにも私たち夫婦は、那覇空港前より本部(もとぶ)まで利用してきたので、
下車する前にドライバーさんより、やんばる急行バスが無料のシャトルバス利用券を
頂いたりした。

ただし利用権は3日以内であったが、ドライバーさんのご厚意で9日まで、
乗車できるようにして頂いたりした。

このような『やんばる急行バス』の無料のシャトルバスに乗車する為、
私たち夫婦はホテルよりタクシーで基点となる今帰仁城跡まで行き、9時15分発のバスを待機したりした。

                     

まもなく私たち夫婦は、古宇利島の物産センター行きの無料のシャトルバスに乗車し、
バスのドライバーさんのご好意で、景観の良い所で止まって頂いたり、小休憩もして下さったりした。

                 


そして私は、あれが有名となっている古宇利大橋・・と知り、微笑んだりした。


やがて古宇利大橋を走行して、島内の主要道路を一周して、まもなく島内の物産センター前に到着して、
私たち夫婦は帰路の2時間半ばかり、昼食をしたり、浜辺で過ごしたりした・・。


            

 


                



                


                



                



                
                
やがて島内の物産センター前の12時44分発の無料のシャトルバスに乗車して、
帰路に向かったが、海洋博公園の北方にフクギ並木、そして備前までの遊歩道を散策する為、
ハーソー公園近くで下車し、高速バスに乗り換えて、フクギ並木近くで下車した。

 

まもなく私たち夫婦は、備前までの海辺の遊歩道を歩き出した・・。

               


              


              


              

この前望にある島には、干潮の時には浅瀬となり、歩いて渡れると知っていたが、
干潮時間には約4時間もあり、やむなく断念したりした。

やがて遊歩道を戻る中で、額縁の中にある情景を真似事をして、たわむれに一枚を撮ったりした。

             

    
この後、フクギ並木を散策した後、ホテルに帰館して、
夕暮れのサンセット・クルーズに私たち夫婦は備えたりした。

 

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記 第3章 『海洋博公園』で、ふたたび『美ら海桔梗』にめぐり逢い・・。

2018-04-13 12:48:15 | 

4月6日、曇り空で、ときおり晴れ間となる中、
私たち夫婦は予定通り『海洋博公園』に向かった・・。

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れた。


この50代の時は、私の勤めていた会社が勤続25年になると、有給休暇5日間を頂ける制度があり、
私たち夫婦はJALの関係の旅行会社ジャル・ストリーズを利用して、
八重山諸島の石垣島の『ホテル日航 八重山』に連泊した後、その後は沖縄本島の恩納村の『ホテル日航 サンマリーナ』、
そして首里の『ホテル日航 首里』に宿泊して、4泊5日の観光周遊旅行をした。

いずれもジャル・ストリーズが企画したコースで、宿泊したホテルから次の宿泊するホテルの間に、
それぞれの名所など周遊できる専用バスのコースがあり、利便性のあるプランを利用した。

この時に北西部観光コースで、『海洋博公園』を初めて訪れたが、
現在としては、無念ながら記憶が薄らいでいる・・。

              
                
やがて私は定年退職後、三年過ぎた2007年(平成19年)10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母の《死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい》願いを叶える為に、
那覇市内にあるビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊して、『ひめゆり塔』、『平和祈念公園』など訪れたりした。

そして中部地域の観光に利便性がある名護市の郊外にあるリゾート・ホテルを家内が選定して、
かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』に6連泊滞在して、
周辺の風光明媚な光景を遊学したりした。

こうした中、11月3日に私たち3人は、『海洋博公園』に行き、
家内たちは『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中高年女性のしぐさ、言葉に魅了されることがあるが、
植物も愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、私の目を楽しませてくれた。     

そして遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。 

              

植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂っている中、
このような中に数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。        

私の住む都心の郊外では、見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗(ききょう)に似ているかしら、と感じたりした。

いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。

私は、この薄紫色の花を、文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗(ちゅらうみ・ききょう)』と名付けた。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

この旅路の中、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。

                 

11年ぶりに訪れた『海洋博公園』は、益々整備されて、多くの異国の人々を含めた観光客で賑わっていた・・。

              

              

やがて私たち夫婦は、誘われるように『熱帯ドリームセンター』に入館した。

              


              

この後、まもなく懐かしき『美ら海桔梗』に、私はめぐり逢え、しばらくたたずんだりした。

               


やがて私は名残惜しかったが、歩きだしたが、あとはおまけねぇ・・と思いながらも、
美麗な幾つかの花にも見惚(みと)れたりした。

               


              


              


              


              

この後は、『遠見台』と称された高さ36メートルの塔から、周辺を一望した後、
カフェ『スコール』で、私はマンゴー(トロピカル・ジュース)、家内は琉球薬草のスムージーを飲み、
小休憩とした。

この後は、園内遊覧車一日乗車券を買い求めて、広大な『海洋博公園』の園内を観て廻った後、
私にとっては懐かしいエメラルド・ビーチに向かった・・。


11年前の2007年(平成19年)11月に、私は独り
エメラルド・ビーチを散策していると、
修学旅行らしい高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。

『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で言った・・。

ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の簡易カメラの写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。

4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。

『小父さん・・有難うございました・・』
と大声で2人の女学生から私は言われ、照れたりした。

その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。

私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。


こうした情景に思いを馳せて、私は家内に言ったりしながら、
私たち夫婦はエメラルド・ビーチに向かった歩きだした。

              


              
こうした情景を眺めていると、一期一会のように、『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
漢詩のひとつを重ねたりしていた。

                            

            
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が、
『白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代(かわり)て」と題する詩の第4節ある一節である。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

《・・年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・・》

歳月は過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じたりし、
毎年この季節にも同じように、美麗な海辺の彩(いろど)りを見せてくれるが、
この情景を観賞できる人は変っている・・。

もとより自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させて、人生の無常を詠歎した句であるが、
私はこのように解釈しながら、人生のはかなさ、哀歓を若き二十歳の時に、
この詩から学びだし、早くも50数年の歳月が流れてしまった。


やがて私は溜息をひとつした後、家内に『ホテルに戻ろうょ・・』と言ったりして、
出口方面に私たち夫婦は向かったりした。

              

『またん めんそーりょー』と大きく彩られた文を読み、
僕だって・・いつの日にか、元気であったなら、また訪れたいょ・・
とプラス思考に転じて、私たち夫婦はタクシーの乗り場に向かった。

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記 第2章 『もとぶ元気村』チャレンジ・クーポン券

2018-04-12 16:33:19 | 

『マリンピアザ オキナワ』でチェックインした時、チャレンジ・クーポン券が手渡された。

このホテルの全景には、『もとぶ元気村』の施設があることは、
旅立つ前には私たち夫婦は、公式ホームベージで知っていたが、宿泊者に限り、
この施設を殆ど無料に近く利用できることを知り、驚きながら私たちは喜んだりした・・。

何かしら一泊について、おひとり様2枚プレゼント(☆7月21日~8月31日は、一泊に付き、1枚)となり、
たまたま私たち夫婦は6連泊するので、総計24枚のチャレンジ・クーポン券を頂いた。

そしてが『もとぶ元気村』の施設の利用としては、
サンゴ礁とか魚が遊泳が観られる水中展望室がある遊覧船には、通常は大人2200円であるが、
たった2枚のクーポン券で、
乗船料の代わりとなる。

        

或いは私たち夫婦は、石垣島でサンセット・クルージングとして小型のヨット船に乗船して、
福沢諭吉さんのお札を2枚支払って、成功体験をしてきたので、
今回の旅路でも、少なくとも2回は乗船しょうと、話し合ってきた・・。

今回の『もとぶ元気村』に於いては、定員30名が乗船できる大型ヨットで、
サンセット・セーリングが、わずか3枚のクーポン券で、乗船料の代わりとなり、
恐縮したりした。

そして何かと単細胞の私は、宿泊先のホテルの夕食には、
滞在中にホテルが指定されている4種類のディナー食を食べて、
毎夜オリオンビールを盛大に呑まなくては・・と私は家内に言ったりした。

        

もとより、ホテルの広い前庭には、乳児から学童まで安全に遊べる多彩な施設があり、
私は滞在中、指定された部屋のバルコニーから、若いパパ、ママに引率された幼い子供が遊んでいる情景を、
微笑ましく私は、幾たびも眺めてきた。

こうした中、3歳ぐらいの女の子が、砂場などで、ひとり遊びに熱中し、
私もこの当時は、ひとり遊びが好きだったなぁ・・と苦笑しながら、好感を増したりした。

        

その上、ホテルに併設されている『もとぶ元気村』に於いては、
インストラクターの解説を受けながら、モーターボートの操縦体験、
或いはイルカを鑑賞できるなど10数種類の多彩な施設があり、学童が安全に学べる所であり、
子供たちの歓声を私は聞きながら、微笑んだりしてきた。

        

                                     《つづく》

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記 第1章 『マリンピアザ オキナワ』までは・・。

2018-04-12 15:11:50 | 

4月5日、私たち夫婦は羽田空港を10時50分初の日航機で、
那覇空港に降り立ったのは、10分遅れの13時45分であった。

そして北西部にある本部(もとぶ)に向かう為に、
本島の中央部にある高速道路を大半走行する『やんばる急行』バスに14時半に乗車し、
やがて本部(もとぶ)港の北にある『博物館前』で16時40分に下車した。

曇り空の中、街並み散策をしたりして、やがて夕食代わりに焼肉を食べたいなぁ、
と私は家内に呟(つぶや)くように言ったら、家内は事前に調べていたので、
焼肉『もとぶ牧場』http://motobugyu.ti-da.net/を探し求めて、まもなく入店した。

やがてオリオンビールを呑みながら、ロース、カルビ、ハツ、ミノなどのセット物に、
牛タンを追加して、私たち夫婦は宿泊先の『マリンピアザ オキナワ』に近づいてきた地で、
安堵しながら、食べたりした。

https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=lmd_poi&p=%E7%84%BC%E8%82%89%20%E3%82%82%E3%81%A8%E3%81%B6%E7%89%A7%E5%A0%B4%20%E6%9C%AC%E9%83%A8%E5%BA%97
☆焼肉『もとぶ牧場』・公式ホームページ・写真をお借りしました。

この後、タクシーでホテルまで行ったが、宿泊先より周辺の名所は、千円前後で行けると知り、
今回の旅路の大半は、時間間隔の多い路線バスをやめて、タクシーを利用して、
移動することとした。

やがて、私たち夫婦は宿泊先の『マリンピアザ オキナワ』でチェックインした時、
クーポン券を手渡されて、まもなく驚きながら喜んだりした・・。

                                     《つづく》

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沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記【2018.4.5.~4.11.】 序章 旅立つ前の思い

2018-04-12 12:48:58 | 

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、
結婚以来、国内の各地をときおり旅路を重ねてきた・・。

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始め、
旅行の日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなったりした。

そして季節としては、5月の大型連休が終わった後、
或いは舞い降る雪が恋しく冬の時節に旅行をすることが、多かったりしてきた。

        

私たちの旅路、定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。

                    

そして私たち夫婦は、今年の2月初旬に春の旅路はどこに行こうかしら、と漠然としながら思案してきた。

制約があるとすれば、私たち夫婦は年金生活をしている身で、優雅な高価なリゾートホテル、旅館は無理であり、
そして家内は遠くに住む家内の母の介護で、家内の妹とで交代している関係で、
春の旅路の一週間ぐらいの日程を思案すると、4月上旬には何とかできる状態となっている。

        
          

このような状況であり、私たち夫婦は思案して、
家内は、南の海辺でゆっくり過ごしたいわ、と私に言ったりしてきたので、
やがて沖縄本島の北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルに6泊ばかり滞在して、
いつものように周辺を歩き廻ろう、と私たち夫婦は立案してきた。

        

このパンフレットは、JTBガイアレックが企画された『きまま沖縄』と題されて、
沖縄本島、石垣島、宮古島、久米島など周辺の島々を含めて、
《 自分で選んで、自分で作る!
            自由きままに旅に出よう!! 》と明記されていたので、
私たち夫婦にピツタリかしら、と私は微笑んだりした。

こうした中で、家内は血液型A型の為か、
周辺の観光地、人気のない島、或いは住民の方たちが利用される市場など、
或いは私たち夫婦はお互いに自動車の運転免許証もないので、
路線バスのバス停の場所はもとより、時刻表まで、徹底してネットなどで調べたりしてきた。

        

そして那覇空港から北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルまでの路線バスには、
少なくとも約2時間半以上であり、高齢者の私は恥ずかしながら何かとオシッコが心配だったが、
やんばり急行バスを利用すれば、途中のパーキング・エリアで約10分ぐらいの休憩があると知り、
大いに安堵して、微笑んできた・・。

こうした中、訪れる本部(もとぶ)は、《 太陽と海と緑・・観光文化のまち 》と明記され、
私たち夫婦は期待を膨らましていた・・。

この後、まもなく私たち夫婦は、最寄駅の駅ビルにある旅行代理店を訪れた・・。

私たち夫婦は、 4月1日から6泊7日の春の旅路の案を、早めに依頼した理由は、
児童の春休みは3月21日から4月6日と思われ、航空便が満席も予測したり、
そして私たちは日本航空の少しゆったりとするクラスJ席に好感してきたので、
何かと早めの申し込みが必要と思われのが、根底であった。

しかしながら私たちの指定したリゾートホテル『ホテル モトブリゾート』は、
すべて予約済であり、空きがない、と私たち夫婦は言われて、驚嘆した・・。

この後、私たち夫婦は本部(もとぶ)にあるリゾートホテルの選定を修正した結果、
『マリンピアザ オキナワ』としたが、公式ホームページhttp://m-piazza.com/
記載されている以上に多彩であり、私たち夫婦は幾たびも喜び、充実感があったりした。

                                    《つづく》

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ほのかな作並温泉の秋の旅路【2017.10.15.~18】《下》 宿泊している周辺を散策すれば・・。

2017-10-20 14:58:19 | 

今回、訪れた作並温泉の周囲は、周辺のそれぞれ里山の数多くの雑木は、
紅色、朱紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅ)の情景には、少し時期が早く、
一部の雑木が、ほんのりと恥ずかしげに染め始(はじ)めていた時期であった。

こうした中、15日からは曇り空が続いてきたが、
17日には早朝から里山の山頂付近には朝の陽射しが照らし、
空は明るい青空となったりした・・。

秋晴れ、或いは秋日和を迎える、と私は指定されて部屋の窓辺に近い椅子に座り、
微笑んだりした。

やがて私たち夫婦は、のんびりと宿泊している周辺を散策したりした。

           

宿泊している『岩松旅館』の近くにある『湯神神社』を訪ねた。

何かしらお湯の神様で、縁結び、子宝安産、商売繁盛、無病息災などを願う地元の人から親しまれている、
と私は旅館のフロントの御方から教えられていたが、本当かしら、と微苦笑したりした。

やがて杉木立の中、こっそりと『恋人の聖地』と命名された可愛らしく穏やかな石仏に私は見惚れて、
百円玉たったひとつをお賽銭箱に入れたりした。

こうした中で、私が願うことは、やはり無病息災であり、
出来る限り、長らく私たち夫婦は、こうしたのんびりとした旅をできますように、
と祈願したりした。

           

まもなく『湯神神社』を辞する時、前方はおだやかな秋晴れであった。

           


やがて周辺を私たち夫婦は、のんびりと周辺を歩き廻ったりした。

           

やがて脇道を歩けば、コスモスがひっそりと咲き、
ときには私は華やかな情景も好きであるが、こうしたひっそりと咲く花も圧倒的に魅了され、
見惚(みと)れたりした・・。

           

こうした情景を私たち夫婦は、眺めたりして、やがて帰館した。

そして私は浴衣に着替えて、渓流沿いにある天然岩で造られた露天風呂に向かった。
地下1階にある大浴場の近くから、 渓流沿いにある露天風呂の更衣室まで、古式ゆたかな木造階段が、
八十八段あると教えられ、ボケ防止と軽い運動と思いながら、私は下りていった。

そして心の中で、カウントしながら階段を下り、確かに八十八段あった、
と私はまだボケいないことに、安堵したりした。

まもなく渓流の川面に陽射しが照らす情景を眺めながら、露天風呂に身も心もあずけたりした。

やがて私は部屋に戻り、布団の中で横たわり、持参した本を夕食時間まで、読んだりした。

そして平素の私は、パソコンで有知識者のネット記事を読んだり、私のブログ投稿文を書いたり、
愛読している御方のブログを読まさせて頂き、3時間前後は要しているが、
情報機器から旅先では、いつもように解放された深味な時間を過ごしたりした。


翌日、10時少し前にチェックアウトして、『岩松旅館』の歓送迎のマイクロバスに、
私たち夫婦は乗車して、やがて作並駅前に到着した。

そして私は、たわむれに作並温泉駅の情景を撮ったりした。

  

こうした中で、宿泊した『岩松旅館』の広告看板で左側には、
《真の名湯は
      多くを語らない》
と明記されて、本当ですねぇ、と私は心の中で呟きながら、微笑んだりした・・。

           

まもなく仙台行きの快速列車が到着して、
やがて私たち夫婦が仙台駅に到着したのは11時少し前であった。


そして仙台駅で指定された集合時間13時25分まで、
私たち夫婦は、本屋に寄ったり、喫茶店に寄ったりした後、私だけ駅弁を買い求めたりした。

当初の予定は、家内が調べてきた駅ビルにある牛タン通りで、ある店で昼食を頂く予定であったが、
家内は朝食で予定以上に食べて、お腹がすいていない、と私に訴えて、
私はビールを飲みながら牛タンを食べることが、あえなく幻となってしまった・・。

やがて集合時間で、私たち一行が集結して、仙台駅13時44分発『やまびこ』に乗車して、
東京駅に15時48分に到着して、散会した。

やがて帰宅したは、17時であったが、玄関庭の片隅にあるカリンの樹から、
ふたつばかり黄色に色づいた実が、黒土の地表にころがっていて、
今回たった3日少しばかり家を空けたが、確かに時間が過ぎたことに、私は微苦笑したりした。


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ほのかな作並温泉の秋の旅路【2017.10.15.~18】《中》 『ニッカウヰスキー』宮城峡蒸溜所を訪ねて・・。

2017-10-19 16:23:39 | 

初めて宿泊した『岩松旅館』で私たち夫婦は夕食を頂いた後、
部屋に戻った時、家内から書類を私は手渡された・・。

『ニッカウヰスキー』宮城峡蒸溜所に関して道順であり、
家内は路線バス時刻表などがコピーされていた。

私たちが宿泊している岩松旅館の前に路線バスのバス停があり、
一時間に一本だけ走行して路線バスに乗車して、やがて作並駅前を通り過ぎて、
「ニッカ橋」下車した後、徒歩で里山にある『ニッカウヰスキー』宮城峡蒸溜所を訪ねるプランであった。

何かしら土、日曜日だけは、『ニッカウヰスキー』のご好意で、
作並駅前と宮城峡蒸溜所の間は、シャトルバスが運行していると判ったが、
私たち夫婦は16日の月曜日であり、里山に建立された宮城峡蒸溜所まで軽いハイキング、
と私たちは決意したりした。

やがて16日の月曜日の朝食後、フロントで路線バスの時刻を確認していた時、
『岩松旅館』の歓送のマイクロバスが、9時20分に作並駅前に行くので、
私たち夫婦は便乗させて頂くことにした。

そしてドライバーさんにお願いしている中で、宮城峡蒸溜所までお送りします、
と予想外のことを私たち夫婦に言って下さった。

やがてマイクロバスで、作並駅前からは私たち夫婦は貸切のような状態で、
里山の道を上がり、同乗していた私は、このような日に見学で訪れるのは、
中高年の男性が10名足らず・・と私は思ったりしていた。

まもなく広大な宮城峡蒸溜所のレンガ棟が10幾つか視え、やがておしゃれな建物前で下車した。

            

                        

そしてドライバーさんより、この場所に11時20分にお迎えにきますので、
お待ち下さい、と私たち夫婦に言いながら去って行った。

そして私たち夫婦は館内に入ると、見学希望者の受付などがあり、
私は署名した後、ウイスキーの製造工程、ウイスキーの種類別に匂いが判る処で、
私は香(かぐわ)しいそれぞれの匂いを実感させられたりしたり、ニッカの歴史などの展示を鑑賞した。

http://www.nikka.com/guide/miyagikyo/map/map08.html
☆『ニッカウヰスキー』宮城峡蒸溜所・公式ホームページ・・・ビジターセンター☆

やがて見学指定時間を迎え、ご案内して下さる若き女性にガイドされながら、
私たち一行20名前後は、蒸溜棟(カフェ式連続式蒸溜機)蒸溜棟(単式蒸溜器)貯蔵庫などを
視察させて頂いたりした。

                        

この間、各棟が並んだ横には、広い道路があり、私たちと同じような見学者が、
老男女から小学生まで数多くの御方が、ご案内して下さる若き女性に引率されながら、
私たち一行とすれ違ったりし、私は余りにも多くの御方たちが、宮城峡蒸溜所を訪れることに驚いたりした・・。

そして私の横にいた同世代の男性が、NHKさまさまですよねぇ、と私に話しかけられて、
私は微苦笑したりした。

もとよりNHKの朝の連続テレビ小説『マッサン』が、2014年9月から翌3月まで放送され、
日本におけるウイスキーの黎明を支えたニッカ・ウィスキーの創業者の竹鶴政孝とその妻リタがモデルであり、
好評を得たドラマであった。

私はドラマもさることながら、私は主題歌を創られた中島みゆきさんの信愛者であるので、
『麦の唄』・・♪嵐吹く大地も  嵐吹く時代も・・年金生活の私は励まされるように、
幾たびか、かぼそい声で唄ったりしてきた。

このような心情を秘めた私は、微苦笑を重ねたりした・・。

やがて見学を終えた後、ウィスキーの試飲があり、私は素敵な場所で味わえることに、
心まで高揚した。

http://www.nikka.com/guide/miyagikyo/map/map05.html
☆『ニッカウヰスキー』宮城峡蒸溜所・公式ホームページ・・・ゲスト・ホール☆


ご案内して下さった若き女性より、お1人様3種類を各1杯までとなっております、
と私たち一同に伝えられて、
ウイスキーの『竹鶴』、『スーパーニッカ』、そして『アップルワイン』が、
小振りなワイングラスに入り、置かれていた。

そして私たち夫婦は、片隅のテーブルに賞味したりした。
こうした中で、結果として私は家内のウィスキーも飲み、
家内は私の『アップルワイン』を飲んだりした・・。

まもなく横にある即売コーナーで、家内はウィスキー・チョコレート、
そしてブランデー・チョコレートを購入した後、
私の長兄宅、家内の母、妹に、お土産として買い求めるわねぇ、と私に言ったりした、

そして樽ウィスキー・ゼリー、ブランデー仕込甘納豆なども加えて、
結果として『竹鶴』3本分ぐらい相当する価格を私は支払い、微苦笑したりした。

やがて『岩松旅館』のご好意のお迎えマイクロバスに、私たち夫婦は乗車し、
宿泊している『岩松旅館』に帰還中、
私は単細胞の為、本日は大安がふたつ重なるょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

            

ひとつは『ニッカウヰスキー』宮城峡蒸溜所は、予期した以上に展示品、蒸溜所のレンガ景観が良く、
各スタッフにも好感した上、ウイスキーまで試飲できたりした。

もうひとつは『岩松旅館』のご好意のマイクロバスで、
私たち夫婦の為に、『岩松旅館』と宮城峡蒸溜所まで往還して下さり、
ひたすら感謝している。

そして鶴の恩返しには程遠いが、せめて帰館後に館内の売店で、
日本酒とお菓子を程ほどに買い求め、私は昼下がり部屋の窓辺にある椅子に座り、
お酒を飲みながら、私は幸運な男だょねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

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