夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

齢ばかり重ねた私の『真夏の夜の夢』は、ときには三本立てとなり・・。

2012-07-31 13:33:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であり、
夜の眠っている時に夢をみることが多い。

この熱い夏の時期でも夢をみることもあり、目覚めた朝方に薄らと汗ばんだれしている。

1590年代の中頃にウィリアム・シェイクスピアの喜劇形式の戯曲の『夏の夜の夢』があるが、
日本に於いては坪内逍遥をはじめ『真夏の夜の夢』など翻訳されたりしているが、
このようなお洒落な内容から、齢ばかり重ねた私は遥かに遠いのである。

何かと屈折と卑屈感のある私は、ときには昨日の続きの連続ドラマのようなことがあれば、
或いは映画の三本立てのようにみることがあり、
そして、総天然色(カラー)の時もあれば、白黒(モノクロ)だったりし、
目覚めた朝、ぼんやりと微苦笑することもある・・。

私は小学生の後半期、地元の映画館などで3作品を上映したのを数多く観たりしていた映画少年だったので、
この習性の余情かしら、と思ったりしている。

私は1960(昭和35)年の中学3年の終りの頃、
私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に言った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は言った。

私は教室の指定された後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
兄達、妹達もメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたのである。

このようなことがあり、特に算数の基礎である因数分解など理解できず、
高校になっても微分、積分などの授業には、逃げ回っていたグループのひとりであった。

このような結果として、もとより期末試験などは惨澹たる結果であり、
昨今でも、悪夢となり呻(うな)されることもある。


サラリーマン現役時代だった頃の夢みる時は、どうしてなのか、業務の成功例より、
遥かに失敗したことを多く、目覚めた時に苦笑したりしている。
たとえば、上司、同僚、後輩がいる中、突然に中学時代の悪友が出てきたり、
どうしてお前がいるの、 と戸惑ったりする。

ときには秘かに思い続けた小学校時代の初恋の同級生に見つめられたりし、
貴女はどうしているの、とありえない時代の落差に戸惑ったりし、冷や汗をかくこともある。

或いは幼年期は私は農家の児であったので、
田畑、雑木林など景観を観たり、湧き水、竹林の筍(タケノコ)、野菜の収穫時などの情景をみることが多い。

夢はもとより貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、
そして感性の賜物〈たまもの〉と私は確信している。


私の理想的な夢のひとときは、恥ずかしながら告白すれば、
齢を重ねた今でも、女性への煩悩を捨て切れないつたない身として、
秘かに思いながら、眠りにつくこともある・・。

街中、駅前などで、たまたまワンピース、ツーピースが似合う50、60代の人を見かけ、
たまたま謙虚な会話が聴こえたり、魅了されるしぐさを感じた時、
或いは紬(つむぎ)が似合い、臈長(ろうた)けた人を見かけた時、
ときにはブログの世界で、60代前後の女性で、魅了される投稿文を拝読した時、
どのような顔立ち、しぐさ、言葉を重ねる方かしら、と思わず想像してしまう・・。

私はこうした方と語り合い、散策した後、無念ながらお別れ・・
このようなことを私なりに夢で願望したりしている。

私はこのようなことを思えば、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶えられるひとりである。

昨夜たまたま夢の中でお逢いできた人は、
かって女優だった浜 美枝〈はま・みえ〉さんだった・・。
私が東京オリンピックが開催された1964年の頃、
映画青年の真似事をしていた時代に、東宝撮影所に出入りして、
たまたま数分ぐらい言葉を交わした人である。

この当時にお逢いした若手の女優さんの中で、
このお方は、与えられた言葉でなく、ご自身の言葉で語れる人で、
私は瞬時に魅了された方でもあった。

こうした私の思いは今でも、変わることなく、
数日前に、この方のエッセイの本を再読していたりしていたが、
もとよりお逢いできる人ではなく、あくまで高嶺の人なので、
せめて夢の中でお逢いできた、と目覚めた後ぼんやりと微苦笑させられたりした。


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蚊帳(かや)、簾(すだれ)、団扇(うちわ)、扇子(せんす)のささやかな想いで・・。

2012-07-30 09:42:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし一週間も連日の32度前後の熱さに、何よりも暑さに苦手な私は、
買物や散策する時に扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
大通りの歩道や遊歩道を歩いたりすることが多い・・。

帰宅後、洗面所で冷たい水で顔を洗った後、
着替えて、居間のエアコンの冷風の下で、冷茶を飲みながら、
団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)いだりしている。

私が愛用している扇子(せんす)は、50代の前半時期に、
たまたまデパートでお中元の品を買い求めた後、紳士の雑貨品売り場のバーゲンで購入した、
普級品の樋口一葉のお札で買えた品であり、
この後も熱い季節に私の友のひとつとなっている。

そして私の現役時代のサラリーマンの時代、退社後に駅で電車を待っている時、
プラットホームは暑いので、扇子を取り出し、扇(あお)いだりしてきた・・。

このようなことをぼんやりと思い馳せたりしていると、
確か私が40代の初めの頃、ある外資系のレコード会社の情報畑で奮闘していた時、
本社のイギリスより、情報の最高責任者が来日されていたことが思いだされた・・。

業務上の会議をした後、上司の指示で、夕食などもしたり懇親し、
私は英語の単語を並べながら、たどたどしく談笑も重ねたりした。

そして、この方が帰国した後、
私は家内と共にデパートに行き、扇子、折り紙を千代紙で包んで、
ささやかなプレゼントとして、彼の奥様宛に、私の不慣れな英文の手紙を添え、郵送した。

扇子は家内の見立てで、雪花染めといって、こうぞ紙を一枚一枚に手染めで仕上げた
若草色した華やかさがあり、
雪の結晶のような模様をした扇子であった。

そして2週間後、この奥様より、丁重な礼状が自宅に着いた。
今では私の大切な宝物になっている。


たまたま私が愛用している団扇(うちわ)のひとつは、
過ぎし2009(平成21)年の『祇園祭』を家内の要望で、私たち夫婦が観に行った時に、
ひととき貴船の川床料理を頂き、料亭を辞する時、
仲居さんが微笑みながら手渡して下さった団扇(うちわ)である。

もうひとつは、ご近所の寿司屋さんから、
我が家に配達で来宅した時、お得意様に、と頂いた団扇(うちわ)である。

この二本の団扇(うちわ)をその時の心情に応じて、使い分けている。

団扇(うちわ)を手にした時、ときおり私は遠い昔の60年前の幼年期の時、
生家で祖父、父たちが畳の上で団扇(うちわ)を扇(あお)ぎ、
家族団らんのひとときを過したのであったが、
この時の情景を思い馳せたりする時もある・・。


私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の児として生を受けた。
祖父、父が中心となり、ときには小作人だった人たちの手を借りながら、
程々に広い田畑を耕していた、
そして、竹林、雑木林、そして田んぼの外れに蓮(ハス)専用の水田を保有していて、
父、祖父が亡くなる小学生の前半までの私は、このような情景で鮮明に心の片隅に残っている。

この当時は、母屋、納戸小屋ふたつ、蔵があり、
母屋の裏手には井戸があり、釣瓶(つるべ)の井戸は使われなくなり、
手こぎのポンプで井戸の水をくみ上げ、一坪ぐらいコンクリートの水辺を設置され、
樽(たる)、桶(おけ)、そして最新のブルキのバケツが置かれていた。

樽(たる)は、夏の時節には、西瓜(スイカ)、瓜(うり)、
桶(おけ)には、茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)などを浮かべ、冷やされていた。

この当時は、もとより水道もなく、母屋に台所、風呂場があるので、
それぞれ使用に応じて、この手こぎのポンプで井戸の水をくみ上げ、使用していた。
確か私も小学一年生の頃になると、
父の妹の叔母に何かと付きいまといながら、風呂の水汲みに手伝だったりした。

梅雨の頃から秋のお彼岸の頃までは、
家の廊下の一部には、茣蓙(ござ)を敷いたり、
各部屋は簾(すだれ)で陽射しをさえぎったりしていた。
そして、団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりし、暑さをしのいだりし、
祖父、父、母、叔母たちは、外出の時は扇子(せんす)を用いていた。

夜になると、和室の10畳のふたつ、8畳の部屋は、
それぞれに蚊帳(かや)が吊られて、少し暗さ増す中、
こうした中で布団が敷かれて、寝室に変貌した。

そして廊下の外れに、風鈴(ふうりん)が微風を受けると、鳴り響いていた・・。


電気は関しては、この当時の生家は、
蛍光灯もなく、それぞれの傘の付けられた電球の灯りに頼り、
テレビもなく、ラジオからニュース、流行歌を聴いたりしていた。
そして都心の裕福な家庭だけが電話がある時代であったので、
郊外の生家はもとより電話もない時であり、緊急の場合は、近所の知人、或いは電報の時代であった。

そしてガスもない時代であり、竈(かまど)で枝葉、薪(まき)、
簡易なコンロで炭(すみ)火、或いは練炭(れんたん)などで、煮炊きしていた時代であり、
風呂も枝葉、薪(まき)で、風呂釜を沸かしていた。

その後、私が中学生になる1957〈昭和32〉年の春の頃には、
冷蔵庫、扇風機、電話、テレビ、プロパンガスが生家に入り、大きく変貌した。


昨今の我が家は毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾(すだれ)を各部屋に掛け、洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾(すだれ)をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾(すだれ)にして、庭越しの風を通したりしている。

その後、家内は室内の掃除が終えて、居間のエアコンが静かに作動し、冷気になっているのが、
私が年金生活を始めて以来の習性となっている。

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私のサイト、訪問者数(IP)は600,000を超え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝・・。

2012-07-29 06:47:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~』に於いて、
『ブログの開設から2,747日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、
と微苦笑したのである。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は2、728、294、
訪問者数(IP)は600,165と表示され、多いか少ないか判らない、と思ったりしている。

しかし閲覧数(PV)は、ここ3年前後グーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索で、
大幅に加算されているので、実質数は不明であると苦笑したりしている。


私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

最初に【アメーバブログ】に加入して、
『極楽とんぼ ~団塊世代のひとりとして~』と題し、発信名を『極楽とんぼ』と称した。
Webの世界に未熟な私は、戸惑いながら投稿をはじめ、
まもなく賞金ランキングのような形式が公示され、私は投稿をやめた。

そしてブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、発信名を『風と光』とし、
原則として毎日数通ぐらい投稿したのは、2004(平成16)年11月17日である。

まもなくブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
『続・極楽とんぼ』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、【gooブログ】を知り、取り止めた。

この後、この【gooブログ】に加入して、
『新・極楽とんぼ日記』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、
投稿をはじめたのは、 2005(平成17)年1月19日であり、
この日から2,747日が過ぎた、ということである。

まもなく『極楽とんぼ』と称した芸能人がいることを知り、その上に社会的な不祥事を起し、
関係ない私までコメントが寄せられ、迷惑限りないと思い、心の純潔を汚されたように感じて、
やむなく発信名を『夢逢人〈ゆめあいびと〉』に改称した。


このように【gooブログ】と【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
【gooブログ】は特に政治・経済に関しては、素人のつたなさ、そして無責任の広言を反省し、
投稿を中止したのである。


その後、2007(平成19)年、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入し、『風のように光のように』として、殆ど毎日数通は投稿した。
そして後日には、改題し『風、そして光のように』とした。


この間、2008(平成20)年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後を整理、統合しはじめたりした・・。

そして本格的に2008(平成20)年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。

私のブログ形式に準じた【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、
と改めて認識したのである。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。
そして区分した結果として、あたかも14冊の旧刊本が並んでいると思いながら、
どの本の中で、一編読んでも、もとより私なりの愛惜を秘めたりしている。

そして併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』として、
本年の初めの頃に、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称している。


私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、国内旅行で不在とかパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。

そして数多くの方の投稿文を拝読しながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしてきた。

私は以前のある旧サイトで、コメントで交流を深めた人も含めた人もいるが、
何かしら『お友達リスト』が掲示機能があった。
そしてサイト上に明示できるので、こうした関連からまもなく100人は超えてしまい、
こうした影響もあり、ランキングの首位に4週間ばかりなったことがある。

しかし、私は気楽にコメントを書くことはできず、
書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したのであった。


私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
この当時は150万人の加入数いたので、
私は誰からも読まれなく無視されることは、悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

こうした意味合いからのひとつの目途として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、ささやかなブログの体験上で学んできた。

そしてあるブログのランキングに加入したりしてきたが、
その後、一昨年の2010〈平成22〉年の秋に、
ブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
『にほんブログ村』には、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
ふたたび本加入させて頂いた。

そして、少しばかり加入ジャンル部門を彷徨〈さまよ〉った上、
小説系の『エッセイ』、シニア系の『60代』に加入し、
ランキングを少しばかり気にしたりしている。


こうして『にほんブログ村』は、早や2年近くになっているが、
この間に長く私が魅了されて、深く愛読しているサイトがある。

もとより『にほんブログ村』の加入数は64万人以上、
この中の小説系は12,000人、シニア日記系は1,200人は超えているので、
たまたま私が読んで魅了されて、少なくとも半年以上に及び愛読してきたサイトであり、
恥ずかしながら公表すれば、この私のサイトの【ブックマーク】に明示した。

いずれも小説系の『エッセイ』、『コラム』、そしてシニア日記系の『60歳代』で、
魅了されたサイトをご本人のご承諾も得ずに、勝手に掲載させて頂いている。

そして素直に発露すれば、『にほんブログ村』の『お気に入りメンバー』の機能があり、
私は少なくとも男性30名、女性25名を登録して、この方の投稿された愛読者のひとりとなっている。

そして私の『お気に入りメンバー』の方が投稿された文を精読して、
このように日常生活を過ごされている、或いは人生の思いを深く学んでいる。

昨今、たかがランキング、されどランキングと思いながら、
この広い空の下で、たまたまランキングなどで未知のお方に、
投稿文の上で、めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして今回、【gooブログ】の私のサイト『夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~』に於いて、
たまたま訪問者数(IP)は600,000を超えたことは、
偏(ひとえ)に数多くの皆様のご厚意に支えられた賜物であり、
改めて感謝致します。


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『土用の丑』の日が過ぎても、年金生活の我が家は『うなぎ』に縁遠くなり・・。

2012-07-28 12:12:40 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の朝、ぼんやりとカレンターを見たら、
『土用の丑』と明記されていたので、私は思わず苦笑させられたりした。

ここ数週間、テレビのニュースなどで、ウナギの稚魚の不漁で価格が上昇している、
と私は学んできた。

私は定年後の年金生活を始めて、日常の買物に関して自主的に専任者となり、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に行ったりしている。

昨日の朝も朝食を頂いた後、まもなく家内はスーパーのチラシに赤のサインペンで○印を付けて、
私に手渡した。
赤の○印は買い物の必須品であり、後は店内の品を見て、私が気に入った品を購入するのが、
我が家のいつもの習慣となっている。

そして家内は、
『あらぁ・・今日、『土用の丑』の日だわ・・
あなた・・久しぶりに『うな重』でも・・買われたら・・』
と私に微笑みながら言ったりした。

まもなく私は、家内から手渡しされた最寄りのスーパーのチラシを見たら、
《 栄養満点の鰻を食べて暑い夏をのりきろう! 》
と大きく題された文字があり、この下段には、
『鹿児島産 霧島湧水うなぎ長焼 一尾』1,580円
『鹿児島産 うなぎ霧島湧水の恵み 大サイズ一尾』1,980円
と具体的に解説されて掲載されていた。

そして横には、さんしょうの粉 298円、
霧島湧水うなぎ用 うなぎたれ(ボトル)168円、と可愛らしく掲載されていた。

或いは『特製うな重 1パック』980円、
『愛知三河産深蒸し うな重1パック』1,380円
と掲載されていた。


その後、私は11時過ぎに、真夏の陽射しの中、
いつものように夏の帽子を深くかぶり、サングラス、半袖のスポーツシャツ、長ズボン、ウォーキング・シューズの容姿で、
29度ぐらいかしら、と感じたりして、
大通りの幅広い歩道を扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、歩いたりしていた。

スーパーの店内の特別コーナーは、
チラシに明記された『霧島湧水うなぎ』などが専任の方が奮闘されながら焼いたりし、
特有の香ばしい匂いの前を、私は通り過ぎたりした。

そして私は野菜コーナーで、キャベツ、キュウリ、ピーマン、ニンジン、ブロッコリーなどを買い求め、
牛肉のコーナーで゛、オーストラリア産の焼肉用 1パック サービス価格1,000円
と明記されたのに、魅了されて購入することにした。

そして帰路、確か昨年はお惣菜コーナーの売り場で、『愛知三河産深蒸し うな重』を買い求めたりしたが、
私たち夫婦は、ここ何年かは『うなぎ』を食べていない、と思ったりした。


過ぎ去った2006〈平成18〉年の2月下旬の頃、私たち夫婦は家内の母を誘い、
浜名湖の湖畔にある三ヶ日温泉の観光ホテルに5泊6日で温泉滞在した時、
この間のある一日、家内たちは動物園に行き、私は植物園に行ったりした。

霧雨が降る中、冬枯れの樹木、草花の情景に私は魅せられた後、
家内たちと観光船の乗り場に待ち合わせをしていたが、
一時間半ばかり時間があり、
私は近くの『うなぎ』の小旗がたなびく食事処が3軒ばかり見えたので、
この中の一店に入った。

ご主人と奥方だけのこじんまりとした店内で、客は私だけだった・・。
私は程ほどの『うな重』を注文して、地酒を一合も注文した後、
ゆっくりと地酒を呑みだした。
もとより『うなぎ』は、時間を要するが、30数分過ぎても、
『うな重』はこなく、やむなく地酒を追加した。

結果としては、45分過ぎに『うな重』は、テーブルに置かれて、
私は頂いたが、一流店並みに時間を要したが、美味しくなく、街の『うなぎ料理店』以下であった。
そして樋口一葉のお札で支払い、100円ばかりのおつりを頂きながら落胆し、
確かこれ以来、私は『うな重』は食べてる機会が激少している。


昨今の私は、うなぎより江戸前寿司の方が食欲を増すので、
ときおり駅近くの江戸前寿司の回転寿司店を私たち夫婦は利用したり、
或いは近所の寿司屋さんから配達してもらったりしている。

江戸時代の頃から、『土用の丑』と称せられ、
栄養価の高い『うなぎ』などを食べて、何とか暑い日々を乗り切ろう、
と心情は痛いほど理解できる。

私の現役時代は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な身であったので、
深夜に帰宅することが多く、入浴した後、
疲れ果てながら、ビールを呑み、『蒲焼き』のうなぎを盛んに頂いたり、
或いは昼食の時は、同僚たちと10日に一度ぐらいは『うなぎ料理店』を利用していた。


このようなことを思い馳せながら、昨夜の我が家のメニューは、
オーストラリア産の牛肉を焼き、一切れの肉の上に、ニンニクの薄切りを軽く焼いたのをのせたり、
或いはニンニクをおろした瓶詰めから、小皿に散り醤油を加え、
薄切りの一切れを頂いたりしている。
ここ10数年、私は疲れを感じた時の基本メニューとなっている。

この発想の根源は、30代の時にガーリック・ステーキに魅了されて。
これをヒントに、家内も気に入った我が家の料理のひとつとなっている。

そしてキャベツ、ピーマンの千切り、ニンジンをスティクなどの野菜の盛り合わせ、
蒸したブロッコリー・・
こうした簡素な料理に、私は冷酒、家内はビールを吞みながら頂き、
夏対策のひとつとなっている。

そして我が家では、同じ『丑(うし)』でも、
オーストラリア、カナダ産の牛肉をこよなく頂いたりしてきてるので、
『うな重』などが縁遠くなったりしている。


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南 沙織、山口百恵、キャンディーズ、ささやかな私なりの思いを馳せて・・。

2012-07-27 16:43:26 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、いつものように7時過ぎに入浴した後、
居間でエアコンの冷気で涼んでいた時、家内はテレビを視聴していた。

そしてテレビの画面に、山口百恵ちゃんが健気に唄っている姿があり、
百恵ちゃんかょ、と私は心の中で呟いたりした。

この後、私も視聴したりしていると、
TBSテレビの『甦る昭和の歌姫伝説 2』と解り、山口百恵ちゃん、この後に南 沙織ちゃん、
そしてキャンディーズの歌の数々を視聴したりした。

こうした中で、南 沙織ちゃんに関しては、沖縄返還40周年の今、
故郷の沖縄に対する複雑な思いが発露されたりしていたのが、私は心に残ったりした。

この番組の南 沙織、山口百恵、キャンディーズを視聴した後、
家内は入浴したので、私はテレビのスイッチを切り、
そうだったよねぇ・・あの当時は・・あのようなスターがいて、あのような名曲が・・
と私は思い馳せたりした・・。

たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に勤めた身なので、
他社のCBS/ソニーの所属した南 沙織、山口百恵、キャンディーズであったが、
懐かしげに思いを馳せてしまったのである。

この当時の私の状況は、このサイトに於いて、
《 尾崎紀世彦さんの死去を知り、私なりのささやかな思いは・・。》
と題して、投稿している。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20120602
☆【 夢逢人たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
<==6月2日《 尾崎紀世彦さんの死去を知り、私なりのささやかな思いは・・。》

このように私は、レコード会社の本社の片隅みで、コンピュータ専任者として勤務していたが、
自社はもとより、他社の音楽状況下の歌に気になっていたのである。

私が勤め始めた1970〈昭和45〉年の4月の当時は、
ビクター系のRCAレコードから藤 圭子の前曲の『新宿の女』に続いて、
『女のブルース』が音楽情報誌のオリコンのランキング首位であり、次作の『圭子の夢は夜ひらく』と、
破竹の勢い旋風であった。

こうした中で、東芝レコードから由紀さおりの『手紙』が前作の『夜明けのスキャット』に続いて、
首位を獲得して善戦したりしたが、
この後、東芝レコードから渚 ゆう子の『京都の恋』、次作の『京都慕情』も大ヒットを重ねたりしていた。

翌年の1971〈昭和46〉年の3月になると、
ポリドールからは加藤登紀子の『知床旅情』が前年発売された曲であったが、次第に売れ始めて、
首位を獲得して、7週間独走したりした。
そして7月にワーナー・バイオニアから小柳ルミ子の『わたしの城下町』、
CBS/ソニーからは、南 沙織の『17才』、
共に大ヒットを重ねて、鮮烈にデビュー作となった。

私は渚 ゆう子の『京都の恋』、『京都慕情』、加藤登紀子の『知床旅情』、小柳ルミ子の『わたしの城下町』を
聴いたりしていたが、
この当時としては国鉄(現在・JR)が、盛んに『ディスカバー・ジャパン』の宣伝広告をしていたので、
こうした背景の中で、稀なヒット作となった、と私なりに理解をした。

そして南 沙織の『17才』に関しては、沖縄返還で日本の数多くの人が注視していた時代の時、
CBS/ソニーのマーケット・リサーチの結果、
沖縄県のスターを誕生させた、と私は理解していた。

1972〈昭和47〉年になると、CBS/ソニーからは、天地真理の『水色の恋』が発売され、
やがて次作の『ちいさな恋』より5曲連続の首位を獲得して、
ひとつの時代を築いた。
この間、ワーナー・バイオニアから小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』、次作の『京のにわか雨』も大ヒットを、
重ねたりしていた。

その後、翌年の1973〈昭和48〉年になると、
ビクターレコードから麻丘めぐみ『わたしの彼は左きき』、
ワーナー・バイオニアからアグネス・チャンの『草原の輝き』、
大ヒットとなったりした。

そして1974〈昭和49〉年7月になると、
CBS/ソニーからは、山口百恵の『ひと夏の経験』が大ヒットとなり、
社会にも衝撃をもたらし、その後の曲も何かと話題に乗り、ヒットを重ねたりした。

その後、ビクターレコードのピンクレディの旋風の中、
CBS/ソニーのキャンディーズの歌の数々が発売されて、ヒットを重ねて、
やがて1977〈昭和52〉年の7月に引退宣言し、
そして山口百恵も1980〈昭和55〉年10月に、ファイナルコンサートで引退された。

私は南 沙織の引退は、潔(いさぎ)良しと好感したりしたが、
特に山口百恵は人気絶好調で、突然の引退に戸惑ったりした。

この以前に関係者は、山口百恵自身が引退の決意が固いと知った時、
関係者はどのような動きをしたのかしら、と私は想像した・・。

そして伝説の神話にさせるために、かって東宝映画の専属スターの原 節子さんは、
やはり人気のある大女優でありながらも引退され、
永遠の伝説の女優となったりしている。

この事例を倣い、関係者は、引退後に大衆の前で二度と披露しない絶対条件に基づいて、
引退前後のあのような百恵フィバーを演出した、と私は妄想してしまったのである。

そして関係者の想像を遥かに超えて、山口百恵は永遠の伝説の歌い手となった、と思ったりした。

この後は、1980〈昭和55〉年4月に、CBS/ソニーから松田聖子の『裸足の季節』でデビューされ、
やがてワーナー・バイオニアから発売される中森明菜と共に、
アイドルとしての女性のトップスターの時代となる。


このようなことをあるレコード会社の片隅みにいた私は、
上記に列記したスターは、すべて他社のアイドルスターであるが、
ぼんやりと女性の主軸のアイドルスターを思い馳せたりしたのであった。


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クールシェアの風潮の中、年金生活の我が家、いつものような『夏の陣』は・・。

2012-07-26 16:01:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
ここ数か月前の頃から、テレビのニュースを視聴したりしていると、
クールシェア・・、などと報じられて、何のことなの、
と何かと世間に疎(うと)くなっている私は思ったりしてきた。

そしてネットで調べたりすると、
《夏の暑い日、家の電気の半分以上をエアコンが使っています。
そこでひとり一台のエアコンをやめ、涼しい場所をみんなで過ごそうというのがCOOL SHAREです。
図書館や美術館などの公共的施設のほか、お店や企業などの協力で、暑さを忘れて過ごせる場所を増やしましょう。
家のエアコンを止め、みんなで催しや活動に参加するのもCOOL SHAREです。》
と優しく解説され、私は読み終わった後、苦笑したりした。

このようなことは、昨夏の経済産業省のデータに於いて、
平日の午後でも電力使用に占める家庭の割合は3割前後あり、
在宅世帯の電力使用の58%はエアコンが占める状況から起因している、と私は思ったりしたのである。

そして具体的に、関西地方を主体に映画館やプールの入場料割引、喫茶店やレストランの特別価格サービス、
博物館の入場料金割引や苗木などのプレゼント・・施設や店ごとの特典メニューが並ぶ、
「家族でお出かけ節電キャンペーン」が施設や店ごとの特典メニューが実施している、
と記載されていた。

そして私は読みながら、我が家は世間の時流と大幅に変わっているのかしら、
と微苦笑したりした。


私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

6月の梅雨入りの前の頃から秋のお彼岸の頃まで、
簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、茶室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。


過ぎし7月4日の水曜日、日中は梅雨の間の快晴となり、
私の住む地域でも30度を超えて、今年初めての真夏日となった。

いつものように日常の買物の専任者の私は、
夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿で、
熱いと感じたら、扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、歩いたりしていた。

そして独りで日常の買い物を終えた後、
帰宅後は洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の外れで、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。


翌日の5日の木曜日も、昼下りは30度に近い暑さとなり、
『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・エアコンのお世話にならない?』
と私は家内に言ったりした。

『節電の世の中でしょう・・もう少し熱くなったら、エアコンを点(つ)けましょ』
と家内は平然と私に言うのであった。

その後、やむなく私は和室の6畳で簡易ベットに横たわり、
部屋の片隅みで扇風機の羽根の風を頼りに、本を読んだりした。


過ぎし11日の水曜日には、梅雨の間の快晴となり、
今年一番の暑さになり、昼下りは31度近くになったりしたが、
我が家は居間だけ扇風機の羽根が元気よく廻り、
私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。
そして居間の天上に近いエアコンを恨めし気に見たりしていた。

家内はクーラーの冷風が苦手で、独りでいる時は、32度ぐらいの室温までは殆ど平常であるが、
私は暑さが何よりも苦手なので、室温が28度以上になると、エアコンの冷風をこよなく愛している。
このような風変わりなカップルなので、この熱い季節になると、
静かな冷たい戦争が、ときおり我が家で発生する。

夏の熱い時期になると、私たち夫婦は長年の冷たい戦争の結果、
我が家の室温の妥協設定温度は、28度となっている。

こうした根拠のひとつは、確か30数年前の頃に、
強力でこの世で怖い専業主婦を中核とする団体の『主婦連』は、
27度が身体にも経済的にも最適と掲げたことがあったので、
私はこの案を利用して、
『主婦連の方たちさえも・・27度なのよ・・』
と私は家内に言ったりした結果、室温設定が28度としているのが、10年前の頃からである。


その後は幾たびか30度前後の暑さとなったりしたが、
13日の金曜日、たまたま私たち夫婦は駅前に買い物に行ったりし、
湿度も高い31度ばかりの曇り時々晴れとなったりした。

帰宅後、私は扇風機の風に身を寄せたりし、
『こんなに蒸し暑いと・・思考能力は・・なくなるよねぇ・・』
と私は家内に言ったりしていた。

そして私たち夫婦は、やむなく今年初めてのエアコンを稼働させる為、
居間、寝室の二部屋のエアコンのカタログを見たりしながら、清掃の要点を確認したりした。
そして昨今のエアコンは、自動清掃の機能があったので、
居間のエアコンを稼働させた。

そして、冷風を受けた私は、夏の熱い時期はこの世で一番の贈り物だ、
と確信を深めたりした。

このように我が家は、遅ればせながら夏模様のいつもの『夏の陣』の体制となり、
暑さに苦手な私は、秋のお彼岸までお世話になります、
とエアコンに向いながら、心の中で呟(つぶや)いたりした。


我が家は一昨年の東日本大震災の前年の夏季までには、
私たち夫婦は共通趣味の国内旅行で、夏期旅行を重ねてきた・・。
しかし大惨事の悲惨な状況をテレビのニュースなど視聴し、
この世の中は一寸先も解らないと、改めて教えられ上、
何かと人出の多い夏の旅行は避けたりしてきた。

そして家の中を老後のことも配慮し、押し入れ、書庫、納戸、居間などを整理して、
やむなく処分を重ねたり、
今年も台所、浴室なども整理をし、備品なども一新したりしてきた。

そして幾たびかホームセンターなどに行き、買い改めてきて、
この夏季も国内旅行も予定なく過ごしている。


この時季は朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。

そして私は駅前までの片道徒歩20分のスーパーに行ったりした後は、
散策も近回りのコースを歩き廻ったりして、ときには扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情であった。

そして帰宅後は、洗面所で顔を洗い、衣服、そして下着も脱いで、
お風呂場でシャワーを水に近い低温で浴びたりしてきた。

この間、家内は室内の掃除を終えて、
居間のエアコンの冷房を省エネの28度に設定している。
そして私たち夫婦は、17畳ぐらいの居間で、日中の大半を過ごしている。

私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、本を読んだりし、
ときおり庭を眺めたりする時、ほのかな暗さを通して、
樹木、草花が涼しげに見えたりし、微笑んだりしてきた。

或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして昼下がりのひととき、簡易ベットを敷いて、
私は横たわりながら本を読んだりし、ときには昼寝をしたりしている。


このように高齢者3年生の私は、もとより熱中症で救急車のお世話になることは避けたく、
冷茶、アイスコーヒーを飲んだりして、熱い季節を過ごしたりしている。


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活字中毒の私、年金生活の今でも、相変わらず本屋、古本屋で買い求めたりし・・。

2012-07-25 14:40:16 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。


私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をした為か、
退職した直後には、小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後あったりした。

しかしその後の昨年の2011年の3月11日の東日本大震災後、
老後のことも配慮して、やむなく自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をし、
石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、福永武彦などの小説、随筆に、
さよならを告げ、2000冊ぐらい処分し、3000冊前後が愛着を秘めて保存している。

そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。


私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

定年後の年金生活を始めて、予期せぬ出来事があった。
あれほど熱愛してきた映画の作品のDVD、そして音楽の作品のCD、DVDは、
私の感性が衰えてきたのか、或いは作品自体が劣化した為か解らないが、
映画作品は3作品、音楽のアルバムは6作品ぐらい買い求めてきた程度である。

やむなく居間にある映画棚から、映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。


私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住んでいるが、
小田急線であったならば、自宅から数分のバス停から『成城学園前』駅の駅前まで、
長年、通学・通勤に利用してきたので、定年後の今でも都心に買物、旅行に行く時は利用し、
帰路に本屋に寄ったりしている。
或いは散策、スーパーに買物に行く時は、『喜多見』駅、『狛江』駅まで歩いたりし、
本屋、古本屋に寄ったりしてしまう。

京王線の場合は、『仙川』駅、『つつじが丘』駅などの場合も、
やはり散策を兼ねたり、スーパーに買物に行った時は、殆ど本屋に寄ったりしている。

定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、三浦朱門、
高峰秀子などの作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読し、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

或いはここ10数年、世界の主要国は、
『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』により、
混迷している時代になっている。

こうした中で、日本は政治は混迷、経済は低迷、そして社会は劣化するばかりで、
私は専門知識にも疎(うと)く、齢ばかり重ねた無力な身ながら、憂いたりした。

やむなく書庫の本棚に行き、高坂正堯の著作の『文明が衰亡するとき』(新潮選書, 1981年)、
中西輝政の著作の『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書、1998年)を再読したりしてきた。
そして私は恥ずかしながら専門知識もなく、こうした確かな賢人より、
国家の歴史認識はもとより、命運、興亡など多々学び、つたないなりに思索させられるのである。


このような読書好きな私が、何よりも困窮するのは、
旅行先で持参した数冊の本を読み終えてしまった時である。
過ぎし2008〈平成20〉年の2月に、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、
箱根・姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在した時である。

日中は家内たちの婦人の名所の観たい所と違い、
私は姥子温泉の付近の芦ノ湖周辺を散策したりし、夕方から深夜まで読書をしたりしていたが、
周辺には本屋がなく、コンビニは雑誌しかなく困惑したのである。

私は活字中毒のひとりなので、薬が切れた、と家内に溢(こぼ)したりしていた。
そして帰路の箱根湯本の駅の近くの本屋で寄り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。


或いは読書を何よりの友とされた経団連の会長まで栄達された平岩外四さんは、
お亡くなるまで、本を読まれていた、
と風の噂で聞いたりすると、もとより経団連などに縁遠かった私でも、
思わず平岩外四さんに好感させられてしまう不思議な作用がある。

もとより読書は貧富の差にかかわらず、この世の知力の求愛と確信しているので、
活字に親しむ方に何かと親近感を覚えてしまう。

このような私なので、心の友と信愛を深めながら、この世に別れを告げるまで、
本を読んでいたと思ったりしている。

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『人の体は“寝溜め”ができるのか?』を読み、私は現役サラリーマンの頃を思い重ねて・・。

2012-07-24 16:20:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
先ほど3時過ぎにパソコンを開き、トップページとして【YAHOO! JAPAN】を設定しているが、
この中の【雑誌】コーナーを見たりしていたが、この中のひとつの見出しに、
《 人の体は“寝溜め”ができるのか? 》
と題された記事が掲載されていた。

私の現役サラリーマンの時代に、何かと睡眠不足の多い時があったので、
興味津々読みだしたのである・・。

そして、この記事を配信元は、リクルートが発行している25歳以上の男性ビジネスマン向けのフリーマガジンで、
この雑誌の記事をウェブサイトとして、
【web R25(ウェブ アールニジュウゴ)】を命名されたサイトから配信された記事と私は解った。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120724-00000005-rnijugo-ent
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【web R25】<==《 人の体は“寝溜め”ができるのか? 》 ☆

私が読み終わった後、多々学んだりしたが、
《・・睡眠は心身の疲労回復を促すものであることに加えて、
成長ホルモンをはじめ、寝ている間に生命活動を支える複数のホルモンが分泌されています。
その意味で、睡眠はストックできるものではない・・

睡眠が不足すると脳に過度の負担がかかり、
ひいては脳から指令を受ける体全般に悪影響を及ぼすことになりかねません。
・・》
このようなことを特に学び、そうでしょうねぇ、と思いながら、
私は現役のサラリーマンの頃を思い馳せたのである・・。


過ぎ去り日の少し遠い昔、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の頃、
私はアルバイトをしながら映画青年の真似事をしていて、
小林正樹・監督の『人間の條件(全六部作)』は9時間半の大作であり、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に確か土曜日の夜にオールナイトで上映されたりしていた。

私は見逃した作品であったので、一週間ごとに二回ばかり観賞したので、
徹夜明けの池袋の朝、小林正樹監督の執念は凄かった、感動しながら駅に向ったりした。

その後、文學青年の真似事をしていた時代、
新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店し、夜間に一時間毎に視(み)まわり時間の責務で、
もとより仮眠の時間はなかった。

難点としては、2人の交代制なので、私が朝の9時に警備室に入室し、
相手方と1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムであった。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

しかしながら、私の相手方が宗教関係で一日だけ休日を取得され時、
私は徹夜明けでも勤務続行となり、さすがにショピング・センターの営業時間中、
警備室で待機している時、コックリと居眠りをし、48時間勤務に耐えた辛い思いで過ごしたりした。


その後は、文學青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく将来設計も可能なサラリーマンに転身するために、コンピュータの専門学校に1年ばかり学んだ後、
何とか民間会社に中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。

まもなく音楽業界のあるレコード会社が新設されて、
私は転属辞令を受けて、この会社の情報畑に20年ぐらい職務としていた。
そしてシステムの改定に伴い、開発・運用などに携わる業務であったので、
徹夜などは少なくとも百回ぐらいはしたと思う。

会社の勤務時間は朝の9時半に始業し、夜の6時が終業となっていたが、
システムの改定後の半年過ぎれば部分改定などがあり、定例時間内で退社できたのは、
殆どなかったのである。

徹夜となれば、朝の9時半に始業時に出社し、夜を徹して、翌日の昼下がりに退社していたので、
30時間ぐらいの勤務となり、若さと気力で業務に従事できたが、
さすが40代の半(なか)ばとなった頃は、
『中年のおじさんに・・体力テストは勘弁してほしい・・』
と非常階段の踊り場で、勤務先の六本木の朝焼けの前の情景を眺め、
煙草を喫いながら呟(つぶや)いたりしていた。

このように新婚の特別休暇、夏季休暇、年末年始も会社の規定通りの期間に休めたことはなく、
いつも数日は欠けたが、システムの安定した間に代休が取得できた時は、
家内と小旅行をしたりしていた。

その後、経理畑、営業畑に異動した時、大幅な業務改定時期を除けば、
初めて規定の業務時間が大半となり、ときおり夜の9時過ぎとなったりした。

そして55歳の直前に業界はリストラ烈風となり、私も出向となり、
少し遠い物流会社に勤務し、
朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜の9時以降であったので、
当然ながら睡眠時間は削り、日曜日の午後に昼寝をして何とか保っていた。

このような私のサラリーマンの35年を振り返ると、
数多くの方たちと同様に多忙で合ったので、
睡眠時間を削り勤務していたことが圧倒的に多かったのである。

私の現役時代の理想としては、朝9時半に出社し、退社が夜の7時前後で、
帰宅するのは8時前後であったが、
もとより叶えられるのは少なかったのである。


2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
年金生活に入った私は、夜の10時に布団にもぐり本を読みながら寝つき、
起床は日の出と共に起きだし、昼下がりのひとときに昼寝をするのが理想であるが、
8年生となった現実は、週一度ぐらいは昼寝を体験し、
天上の神々からの何よりの贈り物として、甘受している。

ときおり私は、睡眠に関して妄想することがある。
睡眠時間の代わりに何かの錠剤を飲めば、
あたかも充分に睡眠できたように満足できる新薬を考案された人は、
ノーベル賞は3つぐらいは確実に受賞されると思ったりしている。

しかし、夜のひととき、布団の中にもぐり、ほっとひと息つき、安らぎを得ながら寝付く、
そして目覚めた時、ぼんやりとぬくもりの感触を味わえるひととき、
こればかりは貧富にかかわらず、何事にも変えがたいと思ったりしている。

余談であるが、ナポレオンが睡眠時間は3時間あれば充分、と伝説があるが、
多くのヨーロッパの主要国、そして周辺の人々への虚勢と思い、
私は秘かに日中のひとときは昼寝をしていた、と確信を深めたりしている。

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潮田玲子選手、社会人としての自覚、そして知性の欠けた人かしら、と私は苦笑して・・。

2012-07-23 12:53:49 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、いつものように購読している読売新聞を読んだ後、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見たりしていた・・。

そして、この中のひとつのニュースで、
《 五輪日本選手団130人、ロンドンに到着 》
と題された記事を読んだりした。

私はスポーツの世界にも無知であるが、今回のオリンピックはイギリスのロンドンで開催されるので、
出場される日本代表選手団の代表選手ら約130人が、無事にロンドンに到着したと解った。

今回に選ばれた代表選手は、もとよりスポーツのそれぞれの競技に於いて、
国内で突出した優秀な選手で、国際の競技でも充分対応できる選手が選ばれた、
とテレビのニュースなどで、私は学んできた。

そして私としては、大手メディア、それぞれの競技の世界の人々、
或いは地元の地域から選出された選手に対して、
金メダルを期待している、と報じられているのに、私は微苦笑している。

それぞれの競技の中で選手は、たえまなく人一倍練習を重ねてきたと思われるので、
善戦をして下されれば良し、と私は思っているひとりである。

そして選定された選手は、国費で派遣される人であるので、
日本人として恥ずかしくない言動を願ったりしている。


私はこのような心情で、今回のニュースを読んだりしたが、
何かしらバドミントンの潮田玲子選手が、
ヒースロー空港に到着し、ユニオンジャックを描いた爪(左手薬指)やイヤリングなどを見せる写真を拝見すると、
違和感を私は瞬時に感じたのである。

http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/news/topic/1/20120723-OYT1T00165.htm?from=y10
☆【YOMIURI ONLINE】<==《 五輪日本選手団130人、ロンドンに到着 》☆

過ぎし日に私は、たまたまNHKのスポーツ番組を視聴していた時、
『(次の五輪まで)意欲を維持するのが難しい。
やれることをやってきたし、悔いなく競技を終えられると思う』
と潮田玲子選手は発露されて、ロンドン・オリンピック後に行われるヨネックスオープンの記者会見で、
同大会を最後に現役を引退する、と報じられた。

このようなことを私は視聴したりしてきたので、
今回のヒースロー空港に到着後の写真に違和感を感じたのである。

茶髪でユニオンジャックを描いた爪(左手薬指)やイヤリングなどで微笑み・・
私はいたずらに日本人本来の黒髪であり、日の丸の付いた鉢巻までは期待しないが、
少なくとも日本代表選手であり、制服を身に付けた公人でもあるので、
芸能人の一部の知性の欠けた真似事のようなことをしないで、と感じたのである。

そして、こうしたことをしたければ、プライベートの時に、
お好きなようになさればよい、と思ったりしたのである。

もとより今回のオリンピックに出場される選手は、
それぞれの競技の中で突出した優秀なスポーツ選手であるが、社会人や学生でもあり、
その上に国費で派遣される人であるので、礼節も要求される人たちである。

私なりに潮田玲子選手に感じたことを厳しく発露すれば、
社会人としての自覚、そして知性の欠けた人かしら、と無念ながら感じてしまうのである。
或いは、私は時代の風潮に遅れた人の戯言(たわごと)かも知れない、と苦笑したりしている。

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『大暑(たいしょ)』を迎え、東京郊外は梅雨寒むのような天候に、私は戸惑いながら・・。

2012-07-22 11:35:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ていたら、『大暑(たいしょ)』と明記されており、
思わず微苦笑してしまった。

過ぎし14日の土曜日には、小雨の後には急激に天候は回復して33度ばかりの蒸し暑い日となり、
その後の15日、16日、17日は快晴となり、32度前後の熱い日中となっていた。

それまでの我が家は、12日の木曜日までは、扇風機を頼りに、
私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりしたが、
やむなく13日の金曜日には、居間に簾(すだれ)を掛け終った後、
今年初めてのエアコンを始動させて、この世で確かに頼りになる冷気に微笑んできた。

私は日常の買物に関して、定年後から自主的に担当となっているが、
この間も最寄のスーパーに買物に行き、駅前までの片道徒歩20分のスーパーは敬遠し、
散策も近回りのコースを歩き廻ったりしてきた。

そして半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、夏の帽子を深めに被り、
サングラスをして、ときには扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情であった。

そして帰宅後は、洗面所で顔を洗い、衣服、そして下着も脱いで、
お風呂場でシャワーを水に近い低温で浴びたりした後、
恥ずかしながらこっそりと居間のエアコンの冷風の下で、身を寄せたりしてきた・・。

そして、涼しげになった身体に、
新たな下着、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズを身につけた後、
冷やした煎茶を飲んだりしていた。
その後、今からこのような熱い日が続いたら、夏本番の猛暑の時はどのようになるの、
と暑さに何よりも苦手な私は、青空を見上げながら、思ったりしてきた。


いつものように17日の午前中に買い物と散策を終えて帰宅すると、
昼下りは34度の熱い中、梅雨明けのニュースが報じられていた。
その後の18日は32度、19日に35度を超え今年初めての猛暑日となった。

そして学童たちが一学期の終業式となる20日、
急激に気温が下がり、曇り時々小雨が降り、梅雨寒むのような25度となった。
昨日の21日も同じように状況となり、本日も同じような天候となり、
私は5月中旬の頃の気温かしら、と感じたりした。

この間の私は、夏の半袖のスポーツシャツから、スリーシーズンの長袖のスポーツシャツに着替えて、
『軽井沢か・・蓼科高原に滞在しているみたいだねぇ』
と私は家内に言ったりしてきた。

そして節電の風潮の中、エアコンのお世話に成らず、経済的にも最良、と微笑んだりした。
これからの夏の時節も最高気温30度ぐらいの暑さであったならば、
働いて下さるサラリーマンの諸兄諸姉、そして高齢者も熱中症に悩ませられることなく、
快適な夏を過ごせるかしら、と思ったりした。

しかし幼年期に農家の児として育った私は、
農作物の米、かぼちゃ、スイカ、瓜(うり)など、
果樹園の方たちも、ブドウ、梨(ナシ)などの発育に困苦するし、
その上に学童たちの夏休みの水遊びには、やはり程ほどの熱さの夏が不可欠なのである。

こうした思いを重ねたりし、地元の天気情報を見ると、
明日の23日より回復して、24日からは晴れマークの32度前後の日々が続いている。
そして何よりも暑さに苦手な私は、余り熱くならないでねぇ、
と空を眺めながら天上の気候の神々に祈願したりしている。


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高齢者3年生の私でも、家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供が多くなり・・。

2012-07-21 14:32:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者3年生の67歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

我が家の平素の買い物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに出かけて孤軍奮闘している。

昨夕、家内から、明日はホームセンターに買い物に行きませんか、
と私は告げられた。

何かしら自宅より15分ばかりのホームセンターに行き、雑貨品を買い求める主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は2004年(平成16)の秋に定年退職後、
年金生活をし、その後に高齢者の身になったので、何かと世情に疎(うと)くなっているので、
ボケてはいけないと、家の中でも明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。

そして私は何かと家事の大半は家内をしてもらっているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせないと私は確信を深めたりしている。


ここ数か月、家内は押し入れ、浴室、台所などを老後に備えて、整理している。
その上、夏に備えて、簾(すだれ)などの夏模様の室内をしてきたので、
備品の買い求めに、何かとホームセンターに行き、雑貨品を購入してきた。

我が家は調布市の片隅みで、世田谷区と狛江市に隣接した地域であり、
自宅から5分歩けばスーパーが2店あり、コンビニも2店ある。
そして15分ばかり歩けば、大きなホームセンターがあり、
或いは20分近く歩けば駅前にスーパー4店、そして2年前に開店した大きなホームセンターがある。

こうした中で、我が家は自動車もなく、私は根がケチなせいか、路線バスには乗らず、
ひたすら歩くことが多い。
私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。

私は現役時代の緊張感から解放されて以来、身過ぎ世過ぎの年金生活の身であるので、
買い物、散策をしたりする往復路で、ご近所の奥様の数人と立ち話をすることが多く、
私の秘かな楽しみのひとときとなっている。
こうした時、確か3年前に、あなたは演歌歌手の吉幾三〈よし・いくぞう〉さんに似てるわ、
と言われたりした。
そして時折思い出しながら、私は年齢だったら吉幾三さんの兄貴分に相当するので、
ボディ・ガードとして、迫力あるかしら、と苦笑したりした。


本日の午前中、私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供などで、
『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして、
15分ばかり歩いた大きなホームセンターに行ったりした。

そして帰宅後、家内は『せっかくだから・・駅前のスーパーにも行きましょう・・』
と私に微笑みながら言った。
家内は外出着で薄化粧もしていたので、この機会に駅前のスーパーで、
衣料品を購入したい、とのこと。

家内は私より5つばかり齢下の62歳の身であるが、何かしら心身溌剌として、元気なのである。
私は定年退職後に年金生活し現役時代の緊張感が失くしたせいか、
ここ数年は体力の衰えを実感してきている。

私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。

しかしながら私は、
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、家内に明るく大きな声で応(こた)えた。

そして駅前のスーパーまで歩き廻り、2店ばかり買い物し、
その後にドラッグストアーに寄り、帰宅したのであった。

本心の私の願いとしては、
午前中のひととき、自宅より15分ばかりのホームセンターは予定通りであったが、
突然の駅前の買い物より、自宅でのんびりと読書の方がよいのに、と思ったりしたのは事実である。

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世界的な歌姫マドンナ、何かと苦手な私でも、圧倒的に魅了されたひとつには・・。

2012-07-20 13:30:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳り身であるが、
小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。


そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、何とか民間会社に中途入社したく、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
この当時としてある大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。

まもなく一部門の音楽のレーベルが外資元の要請で、レコード会社として新設され、
私も移籍の辞令を受けて、その後35年近く音楽業界のあるレコード会社のサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。

たまたま現役時代は、あるレコード会社に勤めていたが、
音楽に直接に携わる制作部門でなく、間接な情報畑・管理畑などであったが、
もとより会社の業績に伴い、年収に影響もあり、楽譜も読めなく楽器もさわれない身であったが、
つたない感性を頼りに、自社、他社から発売されるレコードを数多く聴いたりしていた。


こうした中のひとつとして、他社からマドンナの『ライク・ア・ヴァージン』が、確か1984年の頃に大ヒットし、
この後もアルバムの代表作に『トゥルー・ブルー』『ライク・ア・プレイヤー』『レイ・オブ・ライト』などがあり、
シングルも数多くのヒット曲もあったりした。

この間、日本の市場で、その年に最も売り上げに貢献したアーティストに賞賛する日本ゴールドディスク大賞に於いて、
洋楽部門で、1986年 (第1回) 、1989年 (第4回)、1990年 (第5回) 、1992年 (第7回) 、
と日本の数多くの方から買い求められて、絶賛される人でもあった。

そして音楽の専門家からも、
ポピュラー音楽のチャートで成功を収め、その大胆かつ挑発的なイメージで一躍世界的なメガスターになり、
MTVの到来により人気を得たミュージック・ビデオを駆使しながら、
ポップアートと音楽を融合し、日本では「マドンナ旋風」と呼ばれた現象的な成功を収める。

そしてシングルとアルバムの全世界での合計セールスは、女性ソロアーティスト最高の3億枚以上を記録し、
「全世界で最も売れた女性レコーディング・アーティスト」そして「史上最も成功した女性アーティスト」と認定され、
そして米国タイム誌では、「過去1世紀で最も影響力を持つ25人の女性」の一人に選ばれた、
と報じられている。

しかしながら私としては、マドンナの1980年代からのセックス・シンボルとして圧倒的な存在、多彩的な活動も、
私は茫然と眺めてきたひとりで、本心は苦手であった。


私は、この世の中にセレブと称される女性は苦手であるが、
知性を秘めて、それぞれの分野で活躍されている方たちには、女神のような人、と私は思ったりしている。

歌の世界に於いて、マドンナはまぎれなく圧倒的な存在感として知ったのは、
遅ればせながら、1996年のアラン・パーカー監督の映画『エビータ』を観てからである。

この『エビータ』は、アルゼンチンの伝説の大統領夫人の短くも激しい生涯を描いた感動作でもあり、
私は本来、ミュージカル映画は苦手であるが、この監督は私をねじ伏せてくれた。

完成まで監督候補はハーバート・ロス、リチャード・アッテンボロー、フランシス・F・コッポラ等の7人、
主役はメリル・ストリープ、ライザ・ミネリ等7人となったという。

最初、首都の大通りをエビータの葬儀で始まる・・
映像美と音楽でアラン・パーカーは期待された重圧を押しのけ、
最良の演出を与えてくれた・・。

そして主役のマドンナは、民衆の前で大統領の官邸のバルコニーから、
民衆に呼びかける『泣かないでアルゼンチーナ』を歌うシーンは、涙なくして視られないシーンである。

私は、このシーンを描く筆力も乏しく、
この映画の『エビータ』のオリジナル・サンドトラックのCDアルバムも保有しているが、
無念ながらこのサイトに掲載する技量がないので、
【YouTube】の動画をお借りして掲載させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=TA1QHtFkH48&feature=related
☆ Madonna - 『Evita』(1996)
          『 Don't Cry for Me Argentina』 (泣かないでアルゼンチーナ) ☆

この映画はアラン・パーカーとマドンナの最良な面が発露されている。
たとえ他の方が担当しても、これ以上の作品は作れない、と確信している。

私はメリル・ストリープの大ファンであるが、この映画はマドンナが最適である上、
マドンナには余り感心を持っていなかった私でも、圧倒的に魅了されられて、
マドンナの評価を改めたりしたであった。


何よりもマドンナは、映画の宣伝キャンペーン先のひとつのローマで
熱狂的な歓迎の中、エビータについてこう語った、と語りづかれている・・。

『エバはアルゼンチンの労働者階級にとって聖母であり、
救世主として崇拝された。
でも一方で、女性の武器を使って次々に野心を満たしたのも事実。

私が彼女を演じたかったのは、
人々が作り出した偶像としてのイメージをだれよりも理解でき、
生身の人間である彼女の意志の強さ、
もろさをスクリーンで体現できると思ったからなの』

そして才女らしく、
『自分が何かをなすべき者てあるという運命を予感していた彼女に
強く共感したのであって、私自身の歩みが彼女に似ているからではなかったわ・・』

私はマドンナの理性に、瞬時に感服したのである。

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作家の素質と創作のエネルギー、作家・曽野綾子さんの御著作より、つたない私でも深く学び・・。

2012-07-19 12:19:29 | 真摯に『文学』を思考する時
昨日の午後のひととき、私は本棚に向った時、単行本の並んだ列の上に、
一冊の雑誌があったので、取り上げた。

そして総合月刊雑誌のひとつの『新潮45』の2008年11月号であったので、
どうして古い雑誌が保管していたのかしら、と思ったりした。
手に持った私は、この雑誌の中に栞(しおり)があったことに気付き、
このページを開いた・・。

そして曽野綾子さんの『作家の日常、私の記事』と題された寄稿文で、
この中の第二章の「シンナーとミルフィーユ」の一部に於いて、
私は赤いポールペンで線を引いていた・・。

《・・
文章を書く作業は、「ミルフィーユ(千枚の葉)」というお菓子の名前が示すように重層的な構造を持っている。
根本のところでは、一重ずつ意識した自己の真実を重ねて行くことが必要だが、
表現はただ現実をそのまま述べればいいということではない。

表現はそれを効果的に伝えるために
ほんとうの意味で充分に技巧的でなければならない。
つまり虚構も真実もないまぜということだ。
最低限の嘘と底抜けの真実を承認できない人は、作家にはなれない。

しかし作家にとって、長い年月書き続けるという純動な作業を可能にするには、
充分に醸成された私怨だということはできる。
ユダヤ人として生きる私怨、
障害を持つという私怨、
戦争によって生を脅かせされた私怨。
なんでもいい。
この世に私怨を持たぬ人などないだろう、と私は思う時がある。

すべての私怨が、なまの臭気を失うほど充分に熟成した時、
初めてそれは継続的な創作のエネルギーになるという素朴な過程が、
私の場合にも当てはまるように思うのである。
・・》

私は年金生活をしている67歳の身であるが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読してきている。

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

これ以前の私としては、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読している。


私は1963〈昭和38〉年に大学に入学したが、この少し前の頃から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で翌年に大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人のアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
こうした中で純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌としては『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。

この当時の私は、アルバイト・契約社員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。

しかし当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、
三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗北宣言を心の中でして、やむなく安定したサラリーマンの身に転向した。

その後、何とか民間会社に中途入社したく、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
この当時としてある大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
まもなく一部門の音楽のレーベルが外資元の要請で、レコード会社として新設され、
私も移籍の辞令を受けて、その後35年近く音楽業界のあるレコード会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。

このように私は民間会社を定年退職するまでは、何かと屈折と劣等感の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。

あたかも満天の星空の中で、片隅に何とか目を凝(こ)らせば見えるぐらいの星のひとつのように、
と思ったりした・・。

私はこれといって、特技はなく、かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、
といった楽観にもなれず、いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意した・・。

私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をして、あえなく敗退した時期もあったが、
定年後の感性も体力、何よりの文章の表現力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

そして多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、構成なども配慮したりしている。

私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明(かもの・ちょうめい)が遺され随筆の『方丈記』等があるが、
この方の数多くの遺(のこ)された中のひとつに準じる随筆を綴れれば、本望と思っている。

そして私の死後の数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かな随筆をたったひとつ遺(のこ)した人もいた、
と思って頂ただければ幸いという思いがある。

このような思いが、私としては拙(つたな)いなりに秘めたりしているので、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として国内旅行で自宅を留守にしない限り、毎日少なくとも一通は投稿している。

そして、何より肝要なことは、人それぞれ誰しも光と影を持ちあわしているので、
つたない私でも、ささやかな光、そして秘められた影を余すところなく綴るのが命題と思ったりしている。

このような身過ぎ世過ぎの年金生活をしながら、
言葉による表現、読書、そして思索の時間を過ごしたりすると、
私にとっての年金生活は暇、安楽というのは死語である。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
定年後はブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、と深刻に考えたりすることがある。

こうした私なりに、秘かな野望が挫折した時、
数多くの拙〈つたな〉い投稿文が残して、涙を浮かべて振り返った時、
のちの想いになることだけは確かだ、と思いながらも日々投稿文を認(したた)めている。


このような思いを秘めている私は、今回、改めて作家歴50年の曽野綾子さんより、
作家の素質と継続的な創作のエネルギーを再読しながら学んだりした。

そして、何よりも創作をされて文筆で生計をめざしている若き諸兄諸姉、
曽野綾子さんの名言のひとつが、何かと参考になれば、という思いで私は今回あえて長く綴った。

尚、この曽野綾子さんの『作家の日常、私の記事』の連載が終り、
単行本として、今年の4月20日に於いて、『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)と題され、
発刊されている。
そして私も、買い求めて精読したひとりである。

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自衛隊の防災演習、練馬区の住民の一部の方たちが反対と叫ばれ、私は呆れ果て・・。

2012-07-18 08:08:11 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の17日の夜、家内と夕食を頂いた後、
いつものようにNHKのテレビ総合ニュースの『ニュースウオッチ9』を視聴していた。

この中のひとつのニュースとして、自衛隊の防災演習の状況が報じられていた・・。
高齢者の3年生の私の記憶に間違いがなければ、
都心のある自衛隊基地の中、数多くの救援物資などが山積する情景が映しだされてた。

そして前日の16日の夜に、自衛隊が各自治体と協力して、防災演習の一環として、
この基地から、隊員の諸兄たちが、指定された都心の各区役所の23か所に向い、
熱帯夜の中、台風、震災などの救援で見られる重装備で、夜間行軍をされるシーンが映しだされた。

そして13キロ離れた確か荒川区の区役所に、隊員諸兄が汗を流して到着され。
区の防災課長の方が出迎えられた。

この後、練馬区の区役所が映しだされて、
やはり汗を流しながら、隊員諸兄が到着されたのであるが、
区の職員たちが出迎える中、練馬区の住民の一部の方たちが待機していたらしく、
この方が『反対!』とか『帰れ!』などと叫ぶ中、
隊員諸兄は何とか区役所に入られたらしい・・。

私はこのシーンを視聴し、練馬区の平常心ある住民の方たちは、恥ずかしく感じたと思いながら、
私も調布市の住民のひとりであるが、呆れ果てたのである。


もとより台風、震災、津波などの自然災害の時は、
住民、自治会、管轄の自治体の職員、消防、警察では対応しきれない場合は、
管轄の知事が防衛省の自衛隊の救援要請をして、職務といえ隊員の諸兄諸姉の奮戦を
私は新聞、テレビのニュースで学んできた。

まして昨年の東日本大震災で三陸海岸の前代未聞の大惨事で、
自衛隊の多く出動されて隊員の諸兄諸姉の奮闘を殆どの国民が新聞、テレビのニュースで学び、
責務といえ何かと最後は頼りになる自衛隊、と私も実感させられてきた。

このような私の心情があるので、今回の練馬区の住民の一部の方たちが、
『反対!』とか『帰れ!』などと自衛隊の隊員に叫び、怒号を浴びせるのは、
心の節度を失くした言動に対して、
私は怒りさえ感じ、恥を知りなさい、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして少なくとも義務教育の中学校を卒業した方の大人がなさる言動ではない、
と私は確信を深めたりした。


この後、私は今回の防災演習の概要を知りたくて、ネットで色々と検索した。
その結果、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】から、
関連のひとつの記事を見つけ、精読した。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/earthquake/news/20120717-OYT8T00592.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==7月17日:《 首都直下M8想定で自衛隊が演習…米軍も初参加 》☆

そして私は、《・・首都直下地震を想定した自衛隊の防災演習が16日から5日間の日程で始まった。
東日本大震災後では初の大規模演習で、米軍が初参加したほか、過去最多の14省庁、8都県市も参加した。
東京湾北部でのマグニチュード8・2の地震を想定。
陸海空自衛隊から約5000人が参加し、防衛省(東京都新宿区)や朝霞駐屯地(練馬区など)の指揮所での図上演習のほか、
物資の集積や通信状況の確認などを行った。
(略)
・・》

今回、私がNHKのテレビ総合ニュースの『ニュースウオッチ9』を視聴したのは、
この自衛隊の防災演習の一部で、朝霞駐屯地(練馬区など)から隊員の諸兄たちが、
指定された都心の各区役所の23か所に向い、熱帯夜の中、夜間行軍をされた、
と概要が解ったのである。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
何よりも首都直下地震が発生した時は、高齢者で小心者の私は恐怖におびえると思っている。

こうした今回の自衛隊の防災演習は、米軍の協力を得て、14省庁、8都県市も協調はしたことは、
何よりも住民にとっては、具体的に安心できる確かな一歩だ、と私は感謝するばかりである。

しかし世の中には、首都圏の住民の生命の保全、そして首都・自治体などを含めたあらゆる機能など為に、
防災演習をして下さるのに、練馬区の住民の一部の方たちが、
『反対!』とか『帰れ!』などと自衛隊の隊員に叫び、怒号を浴びせるのは、
心の節度を失くした言動に対して、
やはり私は、国民のひとりだったなら恥を知りなさい、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

尚、私の親戚、知人などの関係者には、防衛省そして自衛隊に無縁であることを付記する。

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東京郊外は夏本番前なのに、猛暑の日々が続き、高齢者の私は戸惑いを重ねて・・。

2012-07-17 07:39:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし13日の金曜日から連日32度前後の猛暑となり、
今からこのような熱い日が続いたら、夏本番の猛暑の時はどのようになるの、
と暑さに苦手な私は、青空を見上げながら、天上の気候の神々の采配に戸惑ったりしている。

今朝も燦々と照りつける快晴となり、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は26度、昼下りは34度前後、夕暮れの6時は30度前後、
と表示されて、私は今年一番の猛暑なるかしら、と何よりも暑さに苦手な私は、溜息をしたりした。


日常の買物は、定年後から自主的に私の担当となっているが、
この5日間は最寄のスーパーに買物に行き、駅前までの片道徒歩20分のスーパーは敬遠し、
散策も近回りのコースを歩き廻ったりしている。

そして半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、夏の帽子を深めに被り、
サングラスをして、ときには扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情である。


そして帰宅後は、洗面所で顔を洗い、衣服、そして下着も脱いで、
お風呂場でシャワーを水に近い低温で浴びたりした後、
恥ずかしながらこっそりと居間のエアコンの冷風の下で、身を寄せたりしてきた・・。

そして、涼しげになった身体に、
新たな下着、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズを身につけた後、
冷やした煎茶を飲んだりしている。

この後は、殆ど居間で過ごすことが多く、昼下りには居間の外れに簡易ベットを敷いて、
エアコンの冷風の中、私は横たわり本を読んだりすることが多い。

高齢者3年生の私は、熱中症で救急車、或いは病院にお世話になることは、
勘弁してほしいので、このように過保護のような生活を過ごし、
猛暑の時は、エアコンの冷気に享受している。


先ほど、燦々と照らす玄関庭の片隅みから門扉の前の歩道を眺めると、
働いて下さる諸兄諸姉の出勤する姿が見えたりした。
そして熱くなる休日明けの出勤は何かと大変だなぁ、とサラリーマンを引退した私は同情をしたりした。

私は現役のサラリーマン時代には、
本社勤務で情報畑、管理畑で30年ばかりディスク・ワークであったが、
この時節、ときおり夏のスーツを着る程度であり、
殆どワイシャツとネクタイで出社すると、まずはトイレの洗面所で顔を洗ったりした。

その後、定年の5年前にリストラ烈風の中で、私は出向となり、
物流情報会社に勤めだした・・。
現場の物流会社の倉庫で、冷房がないフロアーがあり、
不馴れな最初は眩暈(めまい)を感じたりした。

この時は、外廻りでスーツにネクタイの人を考えたり、
或いは炎天下の中で業務をする人を思いながら、耐えたりしたのが本音である。

そして私は35年ばかり勤めた夏の時節は、
暑さを感じて、したたる汗をハンカチで拭〈ぬぐ〉ったりした時、
ときおり、冬の寒さの情景を思い浮かべながら、自身を励ましたりしてきた。

しかしながら昨今の諸情勢は、果てしなき悪循環の『デフレスパイラル』の時代となり、
こうした『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』の中、
何かと短期に成果を求められる時代であり、
働いて下さる諸兄諸姉は奮戦されている状況に、無力な私でも同情させられる。

このようなことをぼんやりと思いながら、
せめて夏本番の時節は、余り熱くならないでねぇ、
と青空を見上げながら、天上の気候の神々に祈願したりした。

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