夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私のサイト、訪問者数(IP)は777、777を迎え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝・・。

2013-08-31 13:30:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
先程、この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人かりそめ草紙』に於いて、
『ブログの開設から3,145日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、と微苦笑してしまった。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は3、729、072、
訪問者数(IP)は777,754と表示され、あと23人が見て下されば777,777か、
と微笑んだりしてしまった・・。

しかしながら閲覧数(PV)は、ここ5年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索が、
懸命に追跡するように活動しているので、
大幅に加算されている実態であり、実質数は不明であるので苦笑したりした。

そして総サイト数1、823、281の中で、1、100位ぐらいかしら、と思ったりした。
          

私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『風と光 kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

タイトル名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、深く思案した結果。
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、それぞれの時代の苦楽を共にした心情があった。

この当時、インターネットのWebの世界に未熟な私は、
戸惑いながらブログの知識のないまま投稿をはじめ、
初めてコメントを頂いた時、喜び小躍(こおど)りしたりしていたが、
まもなく賞金ランキングのような形式が公示され、私は投稿をやめた。

そしてブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、発信名を『風と光』とし、
原則として毎日数通ぐらい投稿したのは、2004(平成16)年11月17日であった。

まもなくブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
『続・極楽とんぼ』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、会員数の多い【gooブログ】を知り、取り止めた。

この後、この【gooブログ】に加入して、
『新・極楽とんぼ日記』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005(平成17)年1月19日であり、この日から3,145日が過ぎた、ということである。
          

この『極楽とんぼ・・』と命名したのは、私の幼年期からの深い想いでがあった。
私は農家の三男坊として生を受けたが、兄ふたりは学業が優秀で、
私は劣等生で何かいじけた可愛げのない児であった。
そして小学3年生の頃にラジオから聴いた『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思いがあった。

そして小説家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)・著の『還暦老人極楽蜻蛉』(新潮社)の作品を50代の初め読み、
この題名を無断拝借し、
定年退職後の年金生活の中、自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。
   
まもなく『極楽とんぼ』と称したお笑いコンビの芸能人がいることを知り、
その上にひとりの方が社会的な不祥事を起し、
もとより関係ない私まで悪質なコメントが数多い寄せられ、迷惑限りないと思い、
心の純潔を汚されたように感じて、やむなく発信名を『夢逢人〈ゆめあいびと〉』に改称した。

このように会員数の多い【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
【gooブログ】は特に政治・経済に関しては、専門知識がなく素人の感性で投稿文を認(したた)めてきたが、
つたなさ、そして無責任の広言を反省し、投稿を中止した。


その後、2007(平成19)年、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入し、『風のように光のように』として、殆ど毎日数通は投稿した。
そして後日には、改題し『風、そして光のように』とした。

この間、2008(平成20)年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後をコピーしながら整理、統合し始めたりした・・。
          
そして本格的に2008(平成20)年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

私のブログ形式に準じた【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、と改めて認識したりした。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。
そして区分した結果として、あたかもジャンル別の旧刊本が並んでいると思ったりした。

こうした中で、どの本の中で、一編読んでも、恥ずかしながら自己愛の強い私は、
ときおり振り返り、この当時はこのような思いで過ごしていたのか、
と過ぎ去った年金生活の日々に愛惜を秘めながら、読む時もある。

やがて併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とした。

この後、昨年の初めの頃に、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称した後、
『夢逢人かりそめ草紙』と短縮して今日に至っている。
                         

私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、年金生活をしている・・。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
              
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
                         
こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに圧倒的に感動を覚(おぼ)える。
こうしたことは日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多かった。

何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               
その一方に於いて、本、映画などの批評、小説、詩、短歌、俳句などの創作に於いて、
その人なりの独創性にあふれた投稿文に接した時、震(ふる)える程、感銘を受ける。
          

コメントに関しては、以前のあるブログ形式に準じた10万人ぐらい加入した旧サイトに於いて、
何かしら『お友達リスト』が掲示機能があり、私は数多くのお方とコメントで交流を深めたりしていた。
そしてサイト上に明示できるので、こうした関連からまもなく100人は超えてしまい、
こうした影響もあり、ランキングの首位に4週間ばかりなったことがある。

しかし、私は気楽にコメントを書くことはできず、書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したのであった。

そして2年後には、コメント欄を解放して、来訪しコメントを残して下さった方には、
原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。
          

私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008(平成20)年の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
大地の中に砂糖黍(さとうきび)畑が拡がる中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

こうした意味合いからひとつの目安として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、ささやかながらブログの体験上で学んできた。

そしてブログのランキングのサイトを彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
『にほんブログ村』には、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』は、日記系の『シニア』世代の『60歳代』に加入している。
          
日々ランキングの結果を見ながら、つたない私としては、
何よりも自身の投稿文の質の向上が肝要である、と微苦笑したりし、
そして気弱で小心者の私は、ランキングを少しばかり気にしていることも本音である。

しかしながら何よりも、この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして今回、【gooブログ】の私のサイト『夢愛人かりそめ草紙』に於いて、
たまたま訪問者数(IP)は777,777を迎えることが出来るのは、
偏(ひとえ)に数多くの皆様のご厚意に支えられた賜物であり、改めて感謝致します。

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厳しい残暑となった今、やがて9月になれば、と高齢者の私は・・。

2013-08-30 12:43:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを見ると、平年よりも暑かった8月も明日で終わりか、
と何かと暑さに苦手な私は微笑んだりした。

この後、地元の天気情報を検索したりした。
30日の本日は、朝の6時は25度、昼下がりは35度、夕暮れの6時は31度、
明日の31日は、朝の6時は25度、昼下がりは34度、夕暮れの6時は30度、
と表示されて、晴れマークとなっていた。

どうして今頃になって、厳しい残暑なのょ、と私は雲一つない青空を見上げて、
天上の気候の神々の采配に、戸惑いながら、呟(つぶや)いたりした。

そして私は働いて下さる諸兄諸姉は、この猛暑の中で、何かと大変だなぉ、と思ったりした。
          

私の現役サラリーマン時代は、本社勤務が多く、
この時節、涼しい感じられる時は夏のスーツで出勤していたが、
大半は暑い日々であったので、ワイシャツとネクタイ、そしてスーツの長ズボンで出社したりした。

そして始業時の30分前に出社後、トイレの洗面所で顔を洗ったりした後、
自動販売機で冷茶を買い求めて、自席で団扇(うちわ)を煽(あお)ぎながら、
本日の必須業務や今後のスケージュルを確認したりしていた。

その後、業界はリストラ烈風となり、私は50代の半(なか)ばで物流会社に出向となり、
物流センターの倉庫で、奮戦していた。
この東京ドームより少し広い倉庫のなかで、冷房がないフロアーがあり、
不馴れな最初は眩暈(めまい)を感じたりした。

私は定年の60歳まで勤める意志があったので、自分の敵は自分です、
と自身を叱咤激励して勤務したりした。

そして数多くのサラリーマンの中で、外廻りでスーツにネクタイで励んでいる方たち、
或いは炎天下の下で業務をする人を思いながら、耐えたりした。

もとより昨今の諸兄諸姉は、短期に成果が要求される責務は大変だなぁ、と思ったりした。


年金生活の今、買物とか散策などで暑い街並みを歩いたりしてきた。
帽子を深めかぶり、サングラス、そして扇子で扇(あお)ぐ仰ぎながら、歩くことが多い。
ときには川沿いの遊歩道を散策したりしているど、大きな樹木の下の付近のベンチで休んだりする時ある。
そして私は木陰で涼んでいて、ときおり微風を身体に受けたりする。
          
午後の大半は、自宅の居間でクーラーの冷気の中で、片隅に簡易ベットで横たわり、
数多くの本を読んだりし、
ときには昼寝をしたりし、夏の熱い時節は、私の最良の避暑地となってきた。

このように私は日射病で救急車で、病院に搬送されて入院することは避けたく、
ぐうだらなで小心者の私は、安全第一ょ、と過ごしたりしてきた。

そして9月になれば、地元の天気情報は、
雨が降る3日間が予測されているので、一雨ごとに初秋に向うのかしら、
と私は微笑んだりした。

そして古人からの、暑さ寒さは彼岸まで、の伝言を思い浮かべ、
まもなく初秋の到来を喜び、今年も暑い季節を乗り切った、と思い重ねたりしている。

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ブログ・ランキング、『二兎追うものは一兎をも得ず』かしら、と私は微苦笑して・・。

2013-08-29 12:24:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
午前中のひととき、私の加入している【gooブログ】のサイトに於いて、
昨日の『回覧数』2、261、『訪問者』486と表示されて、
あれぇ、少し『訪問者』は減ってしまった、微苦笑したりした。

そして総加入は1、922、407の中で、順位は1、100位前後かしら、
と思ったりした。

この後、私が有料で加入している『アクセス解析』の『ページごとの閲覧』を見て、
投稿文ごとに見て下さった閲覧を見て、この中で2011年10月31日に投稿文が102PV(閲覧)、
そして2012年の6月30日に投稿文が47PV(閲覧)もあり、
私の過ぎし日の古き投稿文を読んで下さった方に、感謝しながら微笑んだりした・・。
          

そして私が加入しているブログ・ランキングを見たりした。
私は【人気ブログランキング】の『エッセイ・随筆』に長らく加入している。
この【人気ブログランキング】の総加入は1、022、126の中で、私の順位は3、508位と表示され、
この中の部門のひとつの『エッセイ・随筆』は加入数が369で、順位は5位となり、
最近変わることがないなぁ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この後、【にほんブログ村】のサイトを開いた・・。
私の【にほんブログ村】の思いは、このサイトの8月3日に於いて、
【 ブログのランキングの『にほんブログ村』に、私が加入している理由は・・。】
と題して投稿している。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20130803

そして【にほんブログ村】は708、068総サイトで、この中でたまたま3、408位となっている。
この中の『シニア』系は1、506サイトの中で、昨日は13位となり、
この中の部門のひとつの『60歳代』は401サイトの中で、順位は9位となっていた。

私はこの実績を見て、やはりブログ・ランキングの【人気ブログランキング】と【にほんブログ村】は、
所属する部門、管理の内容と性格の差異はあるが、
『二兎追うものは一兎をも得ず』かしら、と私は微苦笑したりした。
          

もとより【人気ブログランキング】の『エッセイ・随筆』に加入している多くの方は、
何よりも言霊(ことだま)を信愛する方の多く、
それぞれの方が心の深淵まで描写(びょうしゃ)される方もいる。

これに反して【にほんブログ村】の『シニア』系に加入している多くの方は、
『日記』と明記されている通り、日々の思いをそれぞれに発露して、投稿される方が多い。

私は無鉄砲にも、ひとつの投稿文で、この2大ブログランキングに、
まるで受験生のような思いで、加入して日々採点をされている。

そして魅了される投稿文を綴れば、どちらのブログランキングでも通用すると思いながらも、
ブログの投稿文だ、と安易に一気呵成に書き上げてしまうことが多く、
何かと言霊(ことだま)に対する自己格闘が甘く、文章修業が足りないょ、
と時折自身を叱咤したりしている。

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たかがパソコンされどパソコン、私の過ぎ去り日々の愛惜を秘めた思いは・・。

2013-08-28 14:10:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
昨夕、私の机の脇机の間に入れている茶箱を整理したりしていた。

この茶箱はビジネス文房具などで名高いコクヨが、A4サイズの書類入れの箱として、
30年前の頃に発売されたひとつで、私は10箱を買い求めて、今でも愛用している。

私は雑誌、新聞などの記事を切り取ったのを入れたり、
定年後に何かとネットのニュースをハードコピーしたのを一時的に保存したりしている。

そして時折、不要と思われるものを破棄しているが、たまたま昨夕はネットのニュースを整理していた。

この中のひとつとして、【 8月24日 ウィンドウズ95が世界で同時発売された。1995年(平成7年) 】
と題された記事があり、私は読み耽(ふけ)ってしまった・・。
          
この記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
【新おとな総研】のコーナーの中のひとつとして、【あの日あの時】の連載記事で、
2010〈平成20〉年の11月23日 であった。

無断であるが、転記させて頂く。
《・・
       8月24日 ウィンドウズ95が世界で同時発売された。1995年(平成7年)

ビル・ゲイツ率いる米マイクロソフトが世に送り出したパソコン用基本ソフト(OS)、
ウィンドウズ95(以下95)は、私たちの暮らしを激変させた。

それまで、コンピューターに詳しい人や仕事や研究でパソコンが欠かせない人を除いて、
パソコンは縁遠い機器だった。

1995の1世代前のOS、ウィンドウズ3.1(1993年5月発売)あたりから、使いやすくなったといわれていたが、
95は格段に使いやすく、処理速度が速いのも売りもの。
その前評判通り、95は爆発的な人気となり、社会現象にもなった。

マイクロソフトは、日本の一般ユーザー向けの試作版の購入を受け付けたところ申し込みが殺到、
当初予定の2倍の2万本に増やしたが、即「売り切れ」となってしまった。
日本語版の発売は遅れること3か月後の11月23日。

発売に先立ち、マイクロソフトの成毛 真・社長(当時)は、日本語版95の売り上げ見込みを500万本と豪語した。

11月23日午前0時だった。
この日は勤労感謝の日で祝日ということもあり、家電量販店が集中する東京・秋葉原はお祭り騒ぎの様相を呈し、
販売店の前には長い行列ができ、めでたく95を手に入れた若者らの歓声が深夜の街に響き渡った。
その後、秋葉原は電気街から電脳タウンと言われるようになった。

予想以上のパソコン人口の広がりは、さまざまなビジネスチャンスを生み出した。
ゲームをはじめとするさまざまなソフトもそのひとつ。
年賀状のあて名が年を追うごとに手書きから年賀状ソフトへと変わっていった。

インターネットも、利用時間分だけ費用が発生する従量課金制からブロードバンドの普及に伴い定額制となり、
爆発的に利用価値が高まり、ネットビジネスは隆盛を極めている。
                    
そして、パソコンに初めて触れる人たちが増えたことにより、
初心者を対象にしたパソコン雑誌も雨後のたけのこのように創刊され、
最盛期は100誌近くがひしめき、書店にはPC誌コーナーができた。

読売新聞社も1996年10月、「37歳からのパソコン」と銘打って月刊誌「YOMIURI PC」を発刊した。
パソコンとはどういう機器で、どんな使い方が可能か、
さらに、キーボードの打ち方から始まり、エクセルやワードといったソフトの使い方、基本用語の解説など、
それこそかゆい所に手が届くような特集が組まれた。

また、当時の笑い話として話題になったのは、
パソコンメーカーのサポートセンターに寄せられるSOSの珍問答だった。
「あの、画面が暗いままなのですが」との問いに、
「お客さま、立ち上げていらっしゃいますか」
「いや、座ったまま操作しているのですが、立ってやらないとダメですか」。

こうした95パソコン草創期の悪戦苦闘は、つい15年ほど前のことに過ぎない。
あの当時、パソコンも、テレビやオーディオ機器と同じように、
購入して電源を入れたらすぐ利用できるような家電化が必要という論調も目立った。

インターネットの初期接続など至難の業だったと記憶している方もいるだろう。
それが瞬く間に身近なものになり、ネットの負の側面もあるものの、欠かせぬ生活インフラの一部になった。

操作上のトラブルなどを教えてくれるパソコン通も増えたし、ネットで調べれば解決する問題も多い。
子供たちは小学校から授業でキーボードに慣れ親しんでいる。

そうした背景がパソコン雑誌の需要を先細りにした。
雑誌の休刊が相次ぎ、「YOMIURI PC」も今年3月末、使命を終えたとして創刊以来12年余でその幕を閉じた。
時代の移り変わりの速さを感じざるを得ない。(神)
・・》
注)記事の原文をあえて改行を多くした。

このような記事であり、現在の時点からすれば、数多くの方が微苦笑されると思う。
          

このウィンドウズ95が世界で同時発売された1995年(平成7年)の当時の私は、
音楽業界のあるレコード会社の本社で、
ソフト(レコード、CD、ビデオテープ)販売店の請求・回収業務などの債権管理をして、
レコード各社のあるグループの共同オンラインシステム、社内の独自システム一括処理、そして表計算のロータスを活用し、
業務に専念していた時であった。

パソコンで革命的な『ウィンドウズ95』が発売されるニュースを知った時、
私は現物を見たこともながったが、果たして一般の個人の方たちは使いこなしができるかしら、
と思ったりした程度であった。
          

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
大学を中退し、アルバイトをしながら映画、文学青年の真似事をしたしていた。
その後、明日の見えない日々であったが、根拠のない自信ばかりで習作活動に励んでいた。

やがて30代を迎えた時を想像すると、家庭を持ち妻子を養う自信がなく、
早々と断念して、民間会社に中途入社する為の手段のひとつとして、
コンピュータの専門学校のソフト系を一年間学んだ。

こうした専門学校の生徒は、高卒の数学系の優等生が多い中、
大卒、企業に入られた後に退社したり、或いは防衛大を卒業された方などに混じり、
私は科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりした。

そして汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。
          

そして、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
何とか中途入社が出来たのは、1970(昭和45)年の春だった。

そして上司から現場を学べと指示されて、工場にある商品管理に勤務してまもない時、
音楽事業本部の中のひとつのレーベルが外資レコード会社として独立し、
私もこの外資レコード会社に異動させられた。

翌年の春、私は本社のコンピュータ担当者として指示を受けたが、たったひとりであった。

この頃は、私が入社した音楽事業本部の方が完成されたシステムを運営されていたので、
このシステムを活用して、利用させて貰ったりした。
その上、音楽事業本部の担当責任者から、共同管理のつもりでね、と暖かい支援を受けながら、
多々学びながら、業務に奮闘していた。

この当時のシステムはバッチ(一括)処理で、私達は入力(伝票、指示入力データ)、
出力の各分野の数多くの管理表を決定させて、改定したりし、
この間のコンピュータのシステム開発、処理は外注させていた時代であった。

こうして数年が過ぎた時、
ミニ・コンピュータで機械言語に相当するアセンブラーのプログラムなどの研修をしたが、
悪戦苦闘をしたりした。

そして1980年の初めの頃、パソコンが市販されたので、
私も個人の自宅用にNECのPC8801、そしてフロッピー・ディスク、プリンター、漢字用のロムなどを購入したら、
この頃のボーナス分に近い金額を要し、住宅ローンの返済もあったので、何かと苦渋したのであった。

そして肝要のパソコンの言語はベーシックだったと思うが、簡単ようで、中々手こずったのは本音であった。
          

この後まもない時、私の勤めていた会社は、管理コストを削減する目的で、
独自のシステムで全て管理し、情報部門を設置してもらい、
私達4名が奮闘しはじめたのが、1983(昭和58)年の秋であった。

入力(伝票、指示入力データ)、出力の各分野の管理表を決定させて、
コンピュータの基幹システム開発は外注のソフト会社に委託し、
枝葉などの管理表はコボルより使いやすい簡易なプログラムで作成したのであったが、
少し高度なプログラミングは、私も苦慮したりしたのである。

こうしてオフィス・コンピュータの中型を導入して、
テスト処理、本稼動に伴う運営、管理表の作成、システムの部分改定などをしたりすると、
幾たびか徹夜をしたり、休日出勤したり、
日曜日だけは休むようにしたが、お互いに奮闘した時代であった。
          

この後、1992(平成4)年になると、あるレコード会社と合併することになり、
各分野のシステムを互いに調整した後、
私の勤めいたソフト販売店の請求・回収業務などの債権管理をしている責任者が突然に退社したので、
やむなく私が選出されて、この業務に専念することになり、
私は20年近い情報畑から異動することになったのである。

私は不慣れな債権管理などの管理畑で悪戦苦闘をしたりした後、
他部門に異動したいなぁ、と思ったりしていた時、
『ウィンドウズ95』のニュースを知り、果たして一般の個人の方たちは使いこなしができるかしら、
と思ったりしたのであった。


その後、私は念願の他部門に異動し、この部門はバソコンの設置台数が少なかったので、
私は遅ればせながら『ウィンドウズ98』のノート・パソコンを個人的に購入して、
社内はもとより、自宅でも活用をしたのであった。

その後、1999(平成11)年の初めにリストラ烈風の中、私は出向先となり、
定年退職後に備え、自宅のパソコン『ウィンドウズXP』のディスクトップに一新させたのは、
退職時の3年前の2001(平成13)の晩秋であった。

そして多忙な勤務状況であったので、自宅に於いては個人的な電子メールの送受信などには余裕がなく、
殆ど個人的な資料を表計算を利用して作成したり、ソフト会社から販売されている日記に綴ったりしていた。

そして、退職時2004(平成16)年の数が月前に、インターネットを開設したのであるが、
パソコンなどを取り巻くネットのウェブ環境の進化にただ驚き、ため息をつくことが多かったのである。

そしてネットの世界は、まったくの初心者の若葉マークの身となり、ホームページの開設を思案したりしていた。
          
この後、退職後まもない時、本屋のあった一冊の本で、ブログの世界を知り、
私はブログ、ブログに準じたサイトなどに加入した。
そして、四つばかりのサイトに加入し、彷徨(さまよい)ながらも、殆ど毎日投稿をしている。

この間、ネットを利用して、ニュース、旅行のことなどを検索して、数多く学んでいるが、
ネットの買物、予約などは技量もさることながら、カード番号などの危険性を配慮して利用したことがない。

そして私は殆ど毎日ブログ、ブログに準じたサイトに数通投稿したり、
興味のあることを検索をしたり、4時間前後はバソコンに触れることが多い。


このように安穏とした日々であったが、定年退職後に備えて『ウィンドウズXP』の肝要のパソコンが、
壊れ、どうしてなのょ、と困惑した。
やむ得ず『ウィンドウズXP』のディスクトップの二代目として2006(平成18)年の初秋に購入した。

この間は日本でも、パソコンのハードも進化しながら価格は廉(やす)くなる中で、
更に急激にネットが普及の速度を増す中、数多くのサイトは、更新と称されるアップデートが行われて、
もとより記憶容量も急速に増加してきた。

この後、遅ればせながら、一昨年の2011(平成23)年6月中旬に、
『 ウィンドウズ・7(セブン)』に買い改めて、外部ハードディスク(2ギガ)も備えて、
今日に至っているのである。
          
このように私は会社の情報畑で、汎用の大型コンピュータ、オフィス・コンピュータを20数年活用し、
パソコンは1980代の初めの頃から5台ばかり買い求めて使用してきたが、
何かと自慢史の多い人の中、つたない私はパソコンの秘めたり機能も充分に活用できず、
ただ進化に戸惑い、どうしたらよいの、と戸惑うことも多いのである。

昨今、『ウィンドウズ8』などのパソコンが販売されている中で、
パソコンより廉(やす)く、手軽に使えるタブレット型の端末機、
或いは高機能携帯電話のスマートフォンが圧倒的に支持されて、波及している時代となっている。

そして若い人の中には、スマートフォンがひとつあれば、パソコンも不要である、
と学び、時代遅れの私は、どうしてなの、と驚いたりしている。

私はガラケーと称される携帯電話、
そしてスマートフォンも恥ずかしながら使えない稀(まれ)な国民のひとりとなっているが、
JIS制定のキーボードで、ひたすら長年に於いて、入力、指示している身として、
少しボケた私は、これ以上は余りに進化するのは勘弁してほしい、と思ったりしている。

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晩夏の時節、東京郊外に住む私、周辺を散策すれば・・。

2013-08-27 15:54:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜の10時過ぎから雨が降りだして、
今朝、7時過ぎに目覚めると、雲が少し浮かんだ青空が拡がった快晴となっていた。

私はテラスに下り立つと、初秋のような風が身体に受け、心地よい朝涼のひとときを
ぼんやりと受け止めていた・・。
そして今週の日々が終われば、暑かった8月も終わり、と思いながら、
晩夏の時節を迎えている、と実感させられた。

この後、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は19度、昼下がりは30度前後、夕暮れの6時は27度前後、
快晴の一日を迎えて、洗濯日和です、と報じられ、
これだったら高齢者4年生の私でも、安心して買物、そして散策ができる、と私は微笑んだりした。

そして平素の買物の専任者の私は、スーパーで家内からの依頼品を買い求めた後、
帰宅し、本日はどのコースを散策しょうかしら、と少し思案した後、野川の遊歩道とした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、
私は何かしら解放感を感じて、上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は下流沿いとした。
          
この野川は川べりに小道があり、そして少し高い処の両岸には遊歩道があり、
私は少なくとも週に一度は、こよなく愛している遊歩道のひとつである。
               
                         
私は散策と買物の時は、この時節は制服のような定番の服装として、
夏用のストレッチパンズの長ズボン、スポーツシャツの半そで、ウォーキング・シューズとなり、
夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをし、
紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしている。

そしてバックの中身の必須品として、財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、
煙草、ライター、携帯灰皿、扇子(せんす)などを入れ、ウォーキング・スタイルで歩く。

本日は、たまたまコンバクト・デジカメを首回りから下げて、颯爽と歩いた。

そして情景に瞬時に魅せられた時、立ち止まりデジカメで、
記念写真ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、この過ぎゆく季節のひとときの情景を撮ったりしている。

そして今回、10数年前に小公園のあるマンションが
10数棟あるゆったりとした敷地のはずれを歩いたりした。
                 
この後、このマンション群の中央の道の歩道を歩き、私は一枚を撮ったりした。

このマンションの情景が私は魅せられて、早や7年が過ぎている。
          
私は調布市の片隅で、雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

しかしながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内に先立だれて、独りぼっちとなった時は、
やむなく自宅を処分して、小公園のあるマンションで独り住まいを思案している。

こうした状況の場合は、このマンション群の中で、こじんまりとした2LDKを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている所のひとつとなっている。


この後、私は再び遊歩道を歩き、対岸への橋を歩いたりした。
          
そして小田急線の喜多見駅に向かい歩いたりしていると、
暑かった夏を彩(いろど)ってくれたヒマワリの花を見たりし、
花の終わりの頃を察して、晩夏だよねぇ、と思いを深めたりした・・。
          

やがて私は再び喜多見駅に向かって歩いていると、
猿滑り(サルスベリ)として慕(した)われている百日紅(ヒャクジッコウ)の淡紅色の花にめぐり逢い、
立ち止まり長らく見惚(みと)れたりしていた。
          

この後、駅前で家内から依頼された品を買い求めた後、帰路に向った・・。
          
しばらく野川の遊歩道を歩いていると、
隣接した処に世田谷区立の『きたみふれあいひろば』と称された小公園があり、
私鉄の小田急の車両基地などの階上にある小公園で、
小田急のご厚意で、世田谷区が管理されている区立の公園となっている。

そして私は、2週間ぶりかしら、と思いながら入園し、階段の途中で歩いてきた遊歩道を眺めたりした。
この野川の遊歩道の周辺は、緑豊かな恵まれた地帯であるが、
この周辺も家並みが密集している住宅街であるので、私はやすらぎを実感できる数少ない所となっている。
          

園内を歩けば、残暑の陽射しが燦々とする中で、緑陰の所を歩いたりした。
          
私はこうした雑木の樹木に魅せられているが、
過ぎし日に家内と共に歩いていた時、あなたは農家の児だったから、
と私は言われ、確かに幼年期に農家の児として育てられたから、こうした情景にやすらぎを覚える、
と家内に応(こた)えたりした。

その後、園内を歩き、花の名は無知であるが、乙女心のように2枚ばかり撮ったりした。
          

          

そして花を眺めたりした後、燦々と照らす遊歩道を歩いて、帰宅した。

このように私は自宅の周辺の密集した住宅街をのがれるように、
緑の残された遊歩道、小公園、都立の公園などをひたすら歩き、日々を過ごしている。

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『元大学教授が妻に殴られ死亡』を知り、残こされた人生を粗末にする人、と私は思い・・。

2013-08-26 14:17:20 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、暑かった8月も今秋で終わりかょ、と微苦笑したりした。

まもなく、いつものようにのんびりと家内と共に朝食を頂いた後、
公共料金の『個人市民税・都民税』、『国民健康保険料』の納期限が9月2日までに
なっていたことを私は思いだして、
『XXちゃんさぁ・・今月分の公共料金・・買物の前に郵便局から振り込んでくるよ・・』
と私は家内に話しかけたりした。

恥ずかしながら私は、3か月前に公共料金の納期限に2日過ぎてしまい、
少しボケてきたかな、と私は恥じながら注意をしてきたので、今回の発言の根源となっている。

そして定年後の年金生活かせ平素の買物の専任者となった私は、
家内が新聞の折込みに入っていた最寄りのスーパーにチラシを取りだして、
家内は赤のサインペンで丸印を付けたりしていたのを見たりした。

やがて、この赤丸が、我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となって、
あとは私が店内で魅了された商品を買い求めたりしている。

この後、私は最寄りのスーパーに向う途中、大通りの歩道と道路の間には、
猿滑り(サルスベリ)として慕(した)われている百日紅(ヒャクジッコウ)の淡紅色、白色が、
帯のように彩(いろど)っているのを私は足を止めて、長らく眺めたりした。
          
こうした時、今朝のひとときネットで見たひとつのニュースが甦(よみがえ)って来た・・。

今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだ後、パソコンを開いた。
私の場合は、トップベージには【YAHOO! JAPAN】に指定しているが、
このページには『トピックス』として主要な記事の見出しが羅列されている。

この中のひとつとして、『 元大学教授が妻に殴られ死亡 』と見出しされていた・・。

私は年金生活を享受しているが、どうしてなのょ、と気になり、クリックしてしまった・・。

この直後、『 横浜国大名誉教授が殴られ死亡 妻に殺人未遂容疑 』と表題され、
記事を精読した・・。
《・・神奈川県警は25日、伊勢原市桜台5丁目、横浜国立大学名誉教授広瀬靖雄さん(70)を殴り殺そうとしたとして、
妻の恵美子容疑者(61)を殺人未遂容疑で逮捕した。

靖雄さんは救急搬送されたが、病院で死亡が確認された。
伊勢原署は殺人容疑に切り替えて調べている。
同容疑者は殴ったことは認めているが殺意は否認しているという。

同署の調べでは、恵美子容疑者は25日午後8時40分ごろ、
自宅の居間で、陶器のコップで靖雄さんの頭や顔を数回殴り、殺そうとした疑いがある。
恵美子容疑者自身が119番通報した。

恵美子容疑者は調べに「主人の浮気が原因で、かっとなって殴った」と供述しているという。

朝日新聞デジタル 8月26日(月)2時1分配信・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私は読み終わった直後、ご夫婦は残こされた人生を粗末にする人たち、と感じた・・。
          
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

私は今回の惨事を読んで、学業が優秀で大学教授を長らくされたと思われ、国立大学の名誉教授の70歳の男性が、
浮気の疑惑で、妻が衝動的に《・・陶器のコップで靖雄さんの頭や顔を数回殴り・・》やがて死亡した、
痛ましい事件に、社会勉強を学んできたことのないご夫婦、と推測させられた。

そしてご夫婦が子供も恵まれて、お孫さんまでいるご家庭であったら、
この後の奥様の人生を思い馳せると、何よりも悲惨で不幸だ、と思考させられた。
          

大学教授を長らくされたと思われる方が、国立大学の名誉教授をされている70歳の男性は、
私は大学中退し、やがて中小業の民間会社に35年近く勤める中で、
最後の5年間はリストラ烈風で出向して、定年退職を迎えて私として、
まぎれなく学業のエリートコースを歩まれた人、と推測を深めたりしている。

そして奥様の61歳のお方も、主人は大学教授をされている中、
何かしら大学教授の妻として、周辺から何かと優遇されることが多かっただろう、
と私は感じたりする。
          

私は若き30代の頃は、血気盛んで業務に奮闘する中で、
家内に隠れて、こっそりと風俗店にも行ったこともあるダラシガない男であったが、
男ってしょうがないわねぇ、と家内も知っていた、と感じたりした。

そして家内は、波風たたないように時が過ぎれば、と思い見過ごしてくれたと思われる。

もとより私は、家内と寝食を共にした結婚生活の38年の中、
家内には手を挙げて激怒したこともない小心者の身であり、
退職後の年金生活の中、現役サラリーマン時代の緊張感を失くして、
何かと愚図でノロマになった私は、家内に叱咤激励されることも年に一度ぐらいはある。

しかし現役サラリーマンの悪戦苦闘を想い浮かれれば、
働かなくとも何とか生活できる年金生活の中、今後は気を付けます、と明るく大きな声で、
笑い飛ばしたりしている・・。

このような拙(つたな)い私さえ、今回の惨事は社会勉強が欠落し、残こされた人生を粗末にするご夫婦かしら、
と私は深く感じさせられた・・。

この後、私は郵便局で公共料金を振り込み為、陽射しは燦々と照らす中、初秋の風が心地よく感じ、
歩き始めた・・。

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東京の郊外は村雨(むらさめ)となり、ほぼ横並びの清涼の日に、微笑みながら・・。

2013-08-25 12:23:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり、
昨夜、深夜まで本を読んでいたので、今朝は7時に起床したが、
小庭に小雨が降っていたので、雨かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

まもなく私は、地元の天気情報を見ると、
朝の6時は24度、昼下がりは28度前後、夕方の6時は25度前後、
小雨の降る一日ですが、ときおり雨は止み曇り空となります、
と報じられ、何かと暑さの苦手な私は、清涼の一日かしら、と微笑んだりした。

その上に、ほぼ横並びの気温となり、過ごしやい一日だ、と感じたりした。

この後、家内と朝食を頂いていると、空は明るくなり、
『XXちゃんさぁ・・雨が止んだみたい』
と私は家内に話しかけたりした。

そして小庭の片隅の樹木から、蝉(セミ)の一群は盛大に鳴き響いてきた・・。

まもなく再び小雨が降ってきた・・。
          
古人から思い出したかのように、再三に雨が降ったり止んだりする状況を、
村雨(むらさめ)と伝えられ、暑さの続く中で時には熱気を押し流す小雨の降る一日は、
千年過ぎた今でも人々の思いは変わらないなぁ、と感じたりした。

そして暦(こよみ)の上でも、『処暑(しょしょ)』の時節を過ぎた今、
一雨ごとに初秋ら向っているのかしら、と思ったりしたが、
明日より晴れ時々曇りの30度前後が一週間続きます、と週間天気情報は報じていたので、
暑さ寒さ彼岸まで、古人から伝説を思いだして、
せめて村雨(むらさめ)の清涼な本日は貴重の日だ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

そして私は昨日に本屋で買い求めてきた本の続きを読む一日にしょうかしら、
と思ったりした。

このように思案していると、
『午後の3時過ぎに・・NHKのテレビで「女優・宮本信子と伊丹十三」のドキュメンタリー番組・・
再放送するみたい・・視(み)ませんか?』
と家内は私に言ったりした。

私は伊丹十三(いたみ・じゅうぞう)さん、そして父上の伊丹万作(いたみ・まんさく)さんの作品も敬愛しているので、
もとより家内も私が両氏のファンと知っているので、勧誘して貰ったので、
テレビを共に視聴しょうかしら、と思ったりした。

そして読書はいつでも読めるが、テレビの放送はテレビ局り編成次第だから、
と微苦笑したりした・・。

このように思ったりしていると、小庭は小雨の降る中、ふたたび蝉(セミ)の一群は、
今鳴かなくていつ鳴くのよ、といったように盛大に鳴き響いている・・。

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ときには齢ばかり重ねた私でも、喜び勇(いさ)んで、駅前に独りで買い物をして・・。

2013-08-24 15:26:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夕、家内が洗濯物を取り込んでいた時、虫に刺され、
居間で虫刺されの薬を塗っていた・・。
『あらぁ・・もう少しでなくなってしまうわ』
と家内が呟(つぶや)くように言ったりした。

『明日でよかったら、駅前の『サンドラック』で買ってくるよ』
と私は明るく大きな声で言ったりした。

私は定年後の年金生活で自主的に平素の買物の専任者となっているが、
ここ一週間は我が家から最寄りのスーパーの2店で買物をしてきたので、
徒歩20分ばかりのスーパー、ドラッグ・ストアー、本屋などに行っていなかった。

私は3日前に、購読している読売新聞の朝刊で、出版社の広告に於いて、
敬愛しているジャーナリスト、評論家の徳岡孝夫(とくおか・たかお)さんの新刊を知り、
『人間の浅知恵』(新潮新書)を買い求めて読んで見たかったのである。
               
こうした思い秘めた私は、
『虫刺されの薬以外に・・何かあったら遠慮なしに言ってねぇ・・』
と私は悦びながら家内に言ったりした。


今朝、いつものようにのんびりと家内と共に朝食を頂いた後、
家内は、新聞の折込みチラシに入っていたドラッグ・ストアーの『サンドラック』を取りだして、
家内は赤のサインペンで丸印を付けたりした。

そしてこの赤丸が、我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

私は家内からチラシを渡されると、
『新ウナ コーワクール』@498円
『メリット詰替 シャンプー』@248円
『クレラップ レギュラー 30CM X 20M 』@98円
この3点が丸印が付けられていた。

『この丸を付けた物を・・2つづつ・・お願い致しますねぇ』
と家内は私に言った。

私はチラシの購入品を確認した後、
『了解、致しました!』
と私は若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりした。
    
平素の私は少しボケを感じることもあるので、せめて会話の応答ぐらいは、
メリハリをつける為に、ここ4年前の頃から自衛管の若き諸兄に負けないように言っているのである。
          

11時過ぎに私は我が家を後にし、駅前の商店街を抜けて、駅ビルの中にある本屋に行った。
そして店内で、徳岡孝夫さんの著書『人間の浅知恵』(新潮新書)を手にした後、
何かしら魅了される本はないかしら、と探し求めた。

結果として、猿谷 要(さるや・かなめ)氏の著作『物語 アメリカの歴史』(中公新書)、
そして阿部謹也(あべ・きんや)氏の著作『物語 ドイツの歴史』(中公新書)を加えて、
三冊を買い求めた。

私は昨今の政治、外交、軍事、経済、そして社会状況については、
つたないなりに私は何かと歴史から学び、今日の状況を照らし、思考することが多かったので、
たまたま二冊にめぐり逢い、どのような切り口からアメリカ、ドイツの壮大な歴史を描くか、
興味があったからである。

そして徳岡孝夫さんの著書『人間の浅知恵』の帯に明記されていた、
《 人は 歴史に 学ばない 》の氏の格言に、私は微苦笑を重ねたりした。
          
この後、家内からの依頼された商品を買い求める為に、ドラッグ・ストアーの『サンドラック』に向った。
私は定年直後から年金生活をしているが、自主的に平素の買物の専任者となっているが、
こうしたドラッグ・ストアーの買物は、安息の地となっている。

私は幼年期の頃から女性に憧憬の念があり、まもなく私は69歳を迎える今でも、
女性の華やいだ容姿、しぐさを視ることが好きで、
特にドラッグ・ストアーには、20代から60代ぐらいの女性が訪れる・・。
こうした情景をごく自然に視ることができるから、私の秘かな楽しみのひとつとなっている。

本日は若き30代の女性が小学1年生ぐらいの男の子を引率していた・・。
この女性は素敵なブラウスを召して、スマートフォンを手にしながら、商品棚を見ていた。

そして男の子は、店内の常備してある手提げ買物ケースを提げていたが、
買い求める商品が数多く入っていたので、重さを耐えながら、若きママの後に付いて歩いていた・・。
《ママ・・まぁだ・・》と男の子は、言いたげそうだった。

『もう少しねぇ・・』
と若きママは、男の子に言ったりしていた。
          
私はこうした情景に、私は家内からの依頼品を探しながら、微苦笑しながら視たりしていた。

そしてこうした人生の微笑む情景を偶然に視ることができたのは、
古き言葉だと、買物の専任者の役得だなぁ、と思ったりした。

この後、私は自宅の近くのスーパーで買物をして、
明日は買物はお休みとして、読書に専念しょうか、と思いながら帰宅した。

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私のブログサイト、ときにはテンプレートの衣替えをして・・。

2013-08-24 09:59:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜、私が加入している【gooブログ】のブログサイトに於いて、
『処暑(しょしょ)』の時節を過ぎるので、
衣替えのようにブログの表示画面のテンプレートを改定しょうと思いたった。

私はなるへく季節を表示するテンプレートにしょうと幾たびか改定してきた・・。
【gooブログ】のテンプレートの種類は豊富にあるので、
私なりに迷ったりしてきた。

そして体力も衰えてきた私は、せめて華やかなテンプレートも良いかしら、
と今年の春先に色々と迷ったりし、女性だったならば、《赤いカーネション》は精麗だし、
いちごの《ストロベリー》は可愛らしく、結果として選定したのは、《アモネス》のデザインであった。

しかしながら、少し華やかしら、と躊躇(ためら)ったりしたことは本音であったが、
何かとたじろいできた私の言動に、華やかなワッペンが欲しがり、
恥ずかしながら掲載することにした。

数日後、やはり羞恥心を深く感じて、《リュウビンタイ》の絵柄に改定して、
家屋に大きなシダのリュウビンタイが緑陰している情景であったので、
熱さを迎える時節には最適かしらと微笑み、昨日まで、《リュウビンタイ》で掲げてきた。


昨夜、心を新たにして検討したが、【gooブログ】のテンプレートの種類は豊富にあり、
素敵だなぁと感じるのは女性向けの絵柄が多く、困ったなぁ、と思案したりした。
          
山歩きで路を迷った時は、引き返して確かに確認できる場所まで戻れ、
という鉄則を私は思いだして、
私が長年愛用してきた黒の背景で白文字を表示する《ブラック》に戻ろう、と思いながら復帰させた。

あるお方には型苦しいテンプレートと感じられると思われるが、
当面、秋の落葉樹が色合いを染める前の頃まで、この《ブラック》で日々投稿文する。

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処暑の時節なれば、東京郊外でも朝夕は涼風となり、私は微笑んで・・。  

2013-08-23 11:18:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンターを見つめると、『処暑(しょしょ)』と明記され、
私は思わず微笑んだりした。

私の住む地域は、過ぎし21日の水曜日の午後の3時過ぎに、
燦々と照らす熱い夏の陽射しの青空から、
黒い雲が空一面に拡がり薄暗くなった後、雷鳴が遠方に響き、
やがて雨が激しく降り、まもなく近くに幾たびか落雷の音が響きわたった・・。

そして15分ぐらい雷鳴と豪雨が終わると、32度ぐらい暑かった熱気を押し流すように、
27度ぐらいの涼しげな空気となり、
乾ききった地面、樹木、そして草花も潤(うるお)し、清々しい情景に変貌し、
残暑の厳しい状況から初秋のように移り変わり、
改めて天上の気候の神々の確かな力に、私は敬意したりした・・。

やがて淡き陽射しが射し込んで、蝉(セミ)の一群は盛大に鳴き響いてきた・・。
先程の雷鳴と豪雨に中断して鳴きをひそめていたが、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったようにダンス・ミュージックの一団が奏(かな)でるように、
蝉(セミ)の一群は鳴き響き、私は苦笑したりした・・。
          
我が家の小庭では、この時節の朝は鈴虫(スズムシ)が鳴いて、
蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となる。

そして日中の暑い中は、蝉(セミ)が独壇場のように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように鳴き響いている・・。

こうした中で、鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈している。

そして夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型、と少しボケた私でも理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

そして私は愛(いと)おしく、少し哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、
やがて初秋になれば、蝉(セミ)は消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

やがて鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願ったりしている。
          

このように思いながら過ごしてきたが、 昨夜、玄関の軒下に下り立つと、
微風が吹く中で、心も身もゆだねると心地よく、
今朝も清々しい空気につつまれて、朝涼のひとときと感じながら、
この時節は古人から処暑(しょしょ)と称され、改めて実感させられたりした。

もとより旧暦に於いては、暑さが止むと云われているが、
新暦の今日では朝夕は涼しく感じられ、日中の残暑があるが、
過ぎ去った一時の連日の35度前後の猛暑を思い浮かべれば、
それなりに暑さに苦手な私でも、笑って受け止めることが出来る。

先ほど、地元の天気情報に寄れば、
朝の6時は27度、昼下りは31度前後、夕暮れの6時に29度前後となり、
曇り時々晴れの日中となり、そして夕暮れの6時前後に一時雨が降る、と報じていた。

私は日中の残暑の後の雨は、打ち水のような雨かしら、と微笑んだりしている。

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ある日ポックリと亡くなった時、私の遺(のこ)されたブログはどうなるの・・。

2013-08-22 12:23:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後は川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、気の許せる悪友と居酒屋で談笑をしながら呑んだり、
或いは家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
このブログのサイトに毎日投稿し、生きがいのひとつとなっている。
          
            
私は定年の5年前の55歳に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。

もとより高齢者の方は齢を重ねれば、認知症、痴呆症、寝たきりなどの確立は増すし、
私自身は衰えた体力で日常生活のふるまいの中で、確かな言葉を発言しているうちに、
いつの日にかポックリと死ねたら、と念願しているひとりである。

まして自身が意識なく植物人間のようになって、
生き続けるのは当人はもとより、家族の人たちまでが不幸であると思っている。

                     
このような私なりの深い思いが根底にあったが、
過ぎし2010年8月下旬の頃に、医学博士で病院長の帯津良一(おびつ・りょういち)氏の本を購読したら、
《・・ 私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死・・つまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。・・》

この一節にめぐり逢えて、そうですよねぇ、と私は深く同意させられた。
          

私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、
と思ったりしている。
         

過ぎし日の一昨年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。
      
そして、いつものように木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたりした。

この遊歩道で、独りで歩き、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願ったりしたのである。


或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。

そして『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が心の中で感じてくれれば充分である。
          

このように思ったりしている私は、昨日の昼下がり、私がポックリとこの世と別れた時の場合、
私の書き散らしたブログの投稿文は、どうなるのかしら、
と余計なことを考えて微苦笑したりした・・。

私がブログを綴っていることは、家内は知っているが、
お互いの個々の趣味は、干渉もしないので、
家内は私のブログサイト名、具体的な内容はもとより、
ましてURL(私の場合 http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai)も知らない。

その上、家内はパソコンの入力方法も覚束ないので、ブログサイトの解約などの手の打ちようがないのである。
私の数多くの投稿文は、銀河の彼方に彷徨(さまよ)うようになるのかしら、
と苦笑したりした。

しかし現実的には、私が加入している『gooブログ』の管理元は、
NTTグループのNTTレゾナントであり、この会社が運営しているサーバーの中で、
永久冬眠かしら、と詮無き事(せんなきこと)思い浮かべたりした。

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スマホの到来している時代、時代遅れの私は、どうしたらよいの、と思案して・・。

2013-08-21 12:58:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の夕暮れ時、ネットで経済ニュースを見ている中で、
【 どう変わった?「ネット」「新聞」「雑誌」に割く時間とカネ 】
と見出しされた記事を見て、
どのようなことなの、と何事も好奇心を失ったら、この世は終わりだ、
と信念の私は、こっそりとクリックした。

そしてビジネスと生活の総合情報誌として名高い『プレジデント』のオンライン・サイトであり、
私も特集記事に魅了された時に買い求めることもあるので、信頼できる内容が多いので、
精読してしまった・・。
http://president.jp/articles/-/8732
☆【PRESIDENT Online】
        <==3月6日配信『どう変わった?「ネット」「新聞」「雑誌」に割く時間とカネ 』☆

この記事元は『PRESIDENT』誌の2013年3月18日号に掲載され、
ソーシャルメディアリスク研究所・田淵義朗さんが寄稿された記事である。

私は読み終わった後、ここ10数年の時代は激しく大きく変貌し、
スマホと略称したスマートフォンの時代になったのかしら、
と溜息をしながら思い、そして微苦笑させられた・・。
          
私と5歳年齢の家内も恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。
或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。
        
今回の記事を読み終わった後、衝撃を受けたことを記載する。

《・・
電通総研が昨年12月に発表した「話題・注目商品2012」で3年連続スマートフォンが1位に、
フェイスブックなど実名登録制SNSが前年の27位から3位に急上昇した。

今、多くの人がスマホで動画を観たり音楽を聴いたりゲームを楽しむ。
携帯メールではなくSNSでつながった友だちと、チャット感覚でメッセージをやりとりする。
そこに共通するのは、自分の趣味や友だちとのコミュニケーションに時間を割いている姿だ。

一方でテレビ受像機や音楽プレーヤー、デジカメ、ゲーム専用機が売れなくなった。
スマホ(タブレット)1台ですべて事足りるからだ。
これは今後、スマホを通して消費される時間の奪い合いが起きることを意味する。

今まではゲームも音楽もテレビも、そして新聞や書籍・雑誌も各々棲み分けてきた。
しかしこれからは違う。
例えば往復2時間の通勤時間のうち、スマホを手にする人たちが何に時間を割くか、
それが各々の売り上げに直結することになる。

博報堂のメディア環境研究所が、昨年6月発表の「メディア定点調査」で、
年代別、地域別のメディア接触時間を調べた結果、
10代・20代男性と10代女性(東京地区)で「ネットメディア接触時間が4マスを超えた」という。
          
ネットメディアとはPCやスマホからのネット接続、4マスとは新聞・雑誌・テレビ・ラジオを指す。
ネットの先につなぐコンテンツがTV番組や電子書籍であっても、ネットメディアに算入している。
これは突き詰めると、ネット上のコンテンツとして受け取るか、従来の形で受け取るかの違いにすぎないが、
東京に住む若年層の多くは、ネットにつないで受け取っている率が上回っている。
この傾向はすぐに全国へと広まるだろう。

するとこの年代に向けては、媒体企画であっても広告宣伝・PRであっても、ネットのほうが有効ということになる。
LINE(チャット主体のSNS)で展開される中小事業者向けプロモーションサービスなどは、
広告を出す企業にとって魅力的なはずだ。

広告収入が売り上げの多くを占める4マス業界は、
こうした流れを受け止めてメディア戦略を抜本的に見直すことが必要だ。・・》

記事を無断ながら転載させて頂いたが、
旧メディアの新聞・雑誌・テレビ・ラジオからの発信力が激減する、と理解できたが困惑している。
          
そして何よりも心を震撼させられたのは、《旧メディアにかける経費は10年で約3割減》であり、
具体的な内容記事を読んだ後である。

《・・化学メーカーのクラレが10年に「現代家庭の情報生活」と題して行った調査では、
2000年と2010年の家庭における1カ月あたりの情報経費の変化について興味深い結果が出ている(図参照)。
2000年の2万9689円が、2010年にはデフレ不況もあってか2万1250円と8439円も減少。

内訳はご覧の通り新聞が半減、書籍・雑誌は5分の2に。放送受信は3割減。合計で約3割減った。
一方で携帯電話は2割増、インターネットは3割増。
微増にとどまっているのは、料金競争の激しさが主因と考えられる。

特に興味深いのは20代で、新聞購入代は3980円から925円と4分の1以下に、
書籍・雑誌購入代は3543円から1076円と3分の1に激減。
40代も減少傾向が顕著で、新聞代が4631円から2669円、書籍・雑誌代が3474円から1517円と半減した。

先の調査結果と合わせてみると、若者の4マス離れが顕著であり、中年世代でもほぼ半減している事実から、
ネット回線料やスマホ代が4マスにかける費用に取って代わりつつあることがよくわかる。

これまで4マスは、情報や知識に接したいという人の欲求に応えてきた。
しかし、それらを検索し、無料で接することが可能なネットの台頭によって、視聴する優先順位が変わってくるのは当然だ。・・》
          

昨今の若い人たちの一部に於いて、新聞の購読を取りやめて、《ポータル経由で読む無料のニュース》を読んでいる、
と学んだりしてきた・・。

たまたま私は年金生活をしてきた9年生の身であり、
定年退職した2004〈平成16〉年の秋より、今日の2013〈平成25〉年の夏、
この間で我が家の変貌を、上記の諸項目に対応させて記載する。

新聞に関しては、読売新聞(朝刊、夕刊)を定年前より継続して、購読しているので、変化なし。

書籍・雑誌に関しては、私の第一趣味の読書であるので、
定年前の現役サラリーマンの時代と変わることなく、月に数万円は購読している。

放送受信に関し、テレビの受像機はアナログ(32インチのワイド型)よりデジタル(51インチのワイド型)に変わったが、
有料放送は、NHKの基本料金とBSだけ加入しているので、ほぼ変動はしない。

携帯電話に関しては、私たち夫婦は使えないので所有していなく、固定電話としている。
当初は長年に黒いダイヤル式の電話機を愛用していたが、まもなくNTT東日本の光回線に加入し、
『ひかり電話』としている。

この電話料金は、通話時間が増えているが、料金は半減になっている。

インターネットに関しては、定年の数か月前に開通させた。
当初はJ-COMの子会社の地元のケーブルテレビに於いて、ネット回線とテレビの受信(アンテナ不要)を加入していた。
まもなくNTT東日本の光回線に加入し、ネット回線とテレビの受信(スカパ!光)とした。

そして肝要のブロバイダーは、当初はJ-COM、そしてNTT東日本の光回線に加入した時、ニフティに変更した。
ネット総計料金に関しては、当初より半減し、開線のスピードは驚くほど速くなっている。

このように年金生活の私は過ごしてきた。
          

この間、昨年の11月の頃に、敬愛しているジャーナリストの山田 順 さんが、
東洋経済オンラインで、『紙メディアvs.ネット最終決戦』の特集の最終回として、
『キンドルが売れないこれだけの理由 ~日本は電子書籍の「墓場」だ~』と題した寄稿文を私は読んだりした。

そして最終章に明記された論調に、私は衝撃を受けながら教示された・・。

《・・キンドルがそれほど売れないだろうと思う理由はまだある。
それは、いまはガラケーからスマホへの転換期で、若いユーザーはスマホを購入するだけで手いっぱいだということだ。
そんな若者たちが、電子書籍を読むだけのために、さらにもう1台のデジタル端末を買うだろうか? 

いまの若い世代は、クルマはもとより、テレビもPCも買わないという。
たしかに「iPhone」は売れても「iPad」はそれほど売れていない。
スマホでも電子書籍は購入できるし、テレビも見られるし、映画も見られる。
若いユーザーにとっては、スマホ1台あれば、ほかのデジタル端末は必要ないのだ。・・》
          

このように私は、今の時代、そしてこれからの時代も『スマートフォン』は必須の情報機器かしら、
と大いに戸惑っている。

もとよりスマートフォンは、高性能の情報機器で、通話、メール、検索、写真、音楽、テレビ、映画など、
情報の万能の機器と感じたりしている。

しかしながら単細胞の私としては、写真はデジカメ、音楽は自宅で音楽棚からCDなどを選定してCDラジカセで聴く、
そして映画は我が家の映画棚よりDVDなど選出して、ブルーレイディスクなどで視聴している。
もとよりテレビは我が家のテレビで視聴している。

そして肝要のパソコンは、固定のディスクトップの21インチの画面の高性能で、外部ディスクドライブに連動させて、
ブログの投稿文を綴ったり、ニュースを見たり、趣味関連を検索したりしている。

このように単細胞の私としては、単機能の機器を愛用している。
そして電話は、日に幾度も受発信することのない私は、我が家にある固定式の『ひかり電話』で充分
日常生活は充たされている、時代遅れの私たち夫婦である。
          
これからの私は、スマートフォンを購入して、何とか利用するよりも、
せめて国内旅行先など外出先で、持ち運びがてきるウルトラブックと称せられるノートパソコンで、
高性能で軽量、そしてせめて13インチぐらいの画面があれば、充分と思ったりしている。

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『ダンシング・オールナイト』の歌が流れていた当時、私のささやかな想いは・・。

2013-08-20 13:30:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
昨日の午後のひととき、机の周りの脇机の引き出しを整理していた・・。

ときたま私は不要と思われる新聞、雑誌などの切り抜き記事を破棄しているが、
今回もラジオを聴きながらしていた・・。

こうはた時に、ラジオから何かしら懐かしい唄声が聴こえてきたので、
私は手を止めて、この歌を聴き、
もんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』だ、
と思いだして、しばらくこの歌を聴いたりした。

この歌が終わった後、この歌が街の中で流行(はや)った1980(昭和55)年が思いだされた・・。
          

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社の本社に勤めて、
資本関係のあるレコード会社からシステム総合管理の指導を受けながら、
たった独りのコンピュータ専任者で奮戦していた時であった。

この当時、レコード、カセットなどの音楽商品の保管、レコード店からの受注、出荷、返品など物流は、
私の勤めていた会社は自社の委託先の会社に依頼していたが、
遅ればせながら、各レコード会社が協業した物流専門会社に、4月から委託することとなり、
私は春先からシステム対応で奮闘していた。

その上に、この当時の数年前の頃からフォークグループの『アリス』がヒット曲を連発していたが、
他社から独立し、新設した制作会社から販売の受託を4月からすることとなり、
年始早々からは、関係会社との会議、システム改定などで多忙な時であった・・。

このような状況の中で、確か3月初旬の頃、夜の9時過ぎに職場で、自席に座り、
コーヒーを飲んだり、煙草を喫いながら、システム改定の最終進度をチエックしたりしていた。

私の近くは販売推進系の部署で、たびたびレコード、カセットの試聴盤をかけていたので、
私はポピュラー、邦楽の曲の数々を何かと覚えたりしていた。

この時は、他社の青江三奈さんのような唄声が流れ、
しばらく聴いたりしていると、
『青江三奈のような唄声で・・音はおもしろく・・勢いがありますね・・』
と私は販売推進の次長に云ったりした。

もとより青江三奈さんは『伊勢佐木町ブルース』、『長崎ブルース』、『池袋の夜』などを大ヒットさせた女性歌手である。

私は楽譜も読めなく楽器も弾けなく音楽の素養もないが、
単細胞の私はつたない感性を頼りに、専門外の身でありながら、その時に感じたことは言葉にしていたので、
ときには社内の人たちから失笑されることもあった。

『アオエ・・ミナかょ・・もんた&ブラザーズ のデビュー曲で・・『ダンシング・オールナイト』だょ・・』
と販売推進の次長は私に云いながら、微笑んだりしていた。


この曲は4月下旬に発売されて、5月下旬の頃からラジオからもよく流れたりした。
http://www.youtube.com/watch?v=DRt5bAeEUTs
☆【YouTube <== もんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』 作詞・水谷啓二、作曲・もんたよしのり、唄・もんたよしのり 】☆

やがて6月初旬に音楽専門のランキングとして名高い『オリコン』でシングルのベスト第一位を獲得して、
この後も8月の中旬まで独走し、通算160万枚を超え、私が推測した以上にヒットとなり、
社内の中でも、驚いたひとりであった。

この間、私の直接に関わった商品の物流を委託のシステム対応も予定通り軌道に乗り、
そして販売の受託のシステム対応も順調に乗り、
この会社からは谷村新司さんのシングル盤『昴(すばる)』、そしてアルバムも大ヒットとなり、
その後はアリスのアルバムも発売されて、私の勤めていた会社の業績が大幅に伸長した。

私は7月になると、何とか多忙で土曜休日の出勤からも開放された・・。

こうした中で、確か土曜休日だったと記憶しているが、
家内がデパートに買物に行っている時、
私は昼の時に、浴衣(ゆかた)に下駄(げた)の容姿で近所の蕎麦屋に行った。
そして、日本酒の冷酒を二合ばかり呑み、笊(ざる)蕎麦を昼食代わりとしたりした。

この後、帰路に向う途中の大通りで、信号待ちしていた自動車の車内から、
大きな音で『ダンシング・オールナイト』が流れてきて、私は思わず微笑んだりした。

このように私なりに、このもんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』の歌は懐かしく、
1980(昭和55)年に於いては、谷村新司の『昴』の歌と共に、
私の心の片隅には『ダンシング・オールナイト』は忘れなれない曲となっている。

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多くの方は『スマホ』を手に、時代遅れの私は『扇子』を手にして・・。

2013-08-19 12:18:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、玄関の軒下に下り立つと、門扉の前の道路を働いてくださる諸兄諸姉の5人が通り過ぎた・・。
多くの民間会社にお勤めの方たちが、お盆の休暇明けとなり、
本日から出勤されている、と瞬時に感じたりした・・。

そして右手にスマホと略称されているスマートフォンを持ち、ときおり見ながら歩いている方もいたり、
中には立ち止まって、両手で操作されている方もいたり、
もとより職責が短期に成果を求められる時代の中、お忙しくて大変だなぁ、と思ったりした・・。
                    
私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。
或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。
        

私は1998〈平成10〉年の当時、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から、若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始めいたが、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。

この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999〈平成11〉年の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

東京ドームより少し広い商品センターの中で、連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職時を迎えた。

この間の世の中は、多くの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていた・・。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
5年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要かしら、と思ったりしている。

こうした中で、新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話からスマートフォン時代となり、
各社の広告が入っているので、ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。


私は定年後の年金生活の中で自主的に日常の買物担当となり、
殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりした後、散策をすることが多い。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたり、或いは川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、
ときには小学校、中学校の時代に通学した旧街道を歩いたりしながら、季節のうつろいを享受している。

この暑い時節は、夏用のストレッチパンズの長ズボンの数種類、アロハシャツかスポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをして、
紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、颯爽と歩くことが多い。
          
たまたま10日前、買い物で駅前のスーパーに行った時、
駅前の広場で本屋に寄るか、コーヒーショップの『ドトール』でアイスコーヒーを飲むか、
と私は扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、思案していた・・。

こうした時、若き30代の男性は前かがみでスマートフォンを両手に持ち歩いたりしていた。
このお方の近くの若き女性も、同じようにしぐさをしていて、私は微苦笑させられた。
そして私は、時代が違うなぁと思い、扇子を扇〈あお〉ぎながら、本屋に向った。

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『明日に架ける橋』の歌、ほろにがい私の青年期を思い馳せる曲であり・・。

2013-08-18 13:25:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であるが、
昨夜、NHK総合テレビのNHKスペシャル『緒方貞子 戦争が終わらない この世界で』を視聴した・・。

もとより緒方貞子さんは、NHKの解説にも記してある通り、
《・・1991年から10年に渡って国連の難民救済機関UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のトップを務め、
“戦争が生み出した弱者”である難民を救うため、世界を駆けめぐり、
類いまれなる行動力と決断力が、今も世界の尊敬を集めている・・》のは周知の事実である。

こうした緒方貞子さんは、どのような過程を幼年期から歩まれたのか、私は関心していたが、
この番組は余すことなく、緒方貞子さんご自身のインタビューも交えて、
《・・幼少期からの戦争を巡る経験や、人生の節目節目での意外な人々との出会いも、大きく影響していたことに・・》、
私は圧倒的に感銘させられたりした。

こうした中のひとつとして、戦前の聖心女子学院、戦後の聖心女子大学の情景が映しだされ、
私は敬愛している作家の曽野綾子さんの数多くのご著書から、この時代の聖心女子学院を学んだりしてきたが、、
皇后陛下さまも学ばれた名門校であったので、この当時の学内の内容や服装まで私は多々教示されたりした。

そしてこの番組の背景に流れた『明日に架ける橋』の歌を若い女性歌手が唄っていたことに、
この曲を番組に選定された方の感性に感動をさせられた。
          

この後、ぼんやりと、あの1970(昭和45)年の当時に
サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』の歌が街に流れていたことを思い浮かべたり、、
やがて東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の前後の頃も、思い馳せたりして苦笑したりした。

私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

私の小・中学校時代は長兄、次兄は学業の成績が良く、私は何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

そして兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で、交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
クラブとしては写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年から幾たびか独りで通った映画館に寄ったり、
女子部のひとり生徒に魅了されて、新宿御苑などの木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下してしまった。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのは本音であった。

担任の先生に、進学の相談事を話した時、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけどねぇ、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は言われたりした。
          

結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
そして次兄は高校時代は山岳部、大学時代はワンター・フォーゲル部に所属し、
何かと山の魅力を私は聞いたりした影響もあり、
私は余り考えずに漠然とワンダー・フォーゲル部に入部し、山歩きをしたりしたが、
やはり映画館には相変わらず通っていた・・。

そして秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

翌年になると、都心は東京オリンピックの開催される年で、
都心はもとより、周辺の街並みの情景も日増しに大きく景観が変貌していた・・。

そして私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したりした。

東京オリンピックの開催中、何かと単細胞の私は映画に熱中してオリンピック競技のテレビ中継を観ることなく、
京橋の近代美術館に於いて、昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

こうした日のある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
《・・日本女子のバレーボール、金メダル・・》と聴こえてきた。
          

東京オリンピックが終り、翌年の1965(昭和40)年1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。

指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉学院長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私はシナリオの含む演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
アメリカの白人の美麗な30歳前後の女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事は、テスト試験も失敗し、
当然ながら採用もされなかった。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
今から思い馳せれば、夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしたアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、監督、そして撮影、照明などのスタッフの方たちはもとより、
ましてシナリオ・ライターの世界も先々食べて行くのは大変であると、改めて教示させられた。
そして同じ創作するならば、小説を書きなさい、と長老のひとりが薦(すす)めて下さった。
         
私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムであった。

もとより私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめた。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりした。
そして 私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したりした。

学生時代の友人達は、この間に社会の第一線で出て、私としては社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになったりしていた。
          
このような時、親戚の叔父さんから、
『今はよいとしても・・30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたりした。

私は30代の時、妻子を養い家庭生活を想像した時、
ため息を重ねながら、いずれ小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。

その直後、やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。

そして家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。
          
このような時、近所の家電販売店の店主が、実家の長兄宅に幾たびか来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は、理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
そしてソフトコースを同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
私は遅れた24歳の青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
この当時のコンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。
          
この秘かな根底には、作家・丸山健二さんが、デビュー前に商事会社に勤められて、
テレックスの業務の合間に、創作をされていた、と雑誌のインタビュー記事で読んだりしていたので、
こうした思いにならって、勝手に思い込んでいた。

やがて近所の家電販売店の店主より、近くにこの当時としてある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方がいると知り、
たまたま私の祖父方の親戚から、宅地を購入されたお方で、
私は祖父方の親戚の紹介の上、この会社の首脳陣のお方にめぐり逢えた。

その後、このお方のご尽力もあり、この会社に1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
この間、入社試験、やがて幾たびか面接する中で、テレビ・ステレオ・ラジオ関係の事業本部より、
音楽事業本部に配属して頂きたい、と懇願するように私は言ったりした。

そして念願叶(かな)って音楽事業本部で、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。
          
この頃は、休日になると他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。
http://www.youtube.com/watch?v=ebmGt1yO0_c
☆【YouTube <== サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』 作詞、作曲・ポール・サイモン 】☆

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine
私はガーファンクルの声で、この部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむこともあった・・。

こうした私の心の奥底には、映画の脚本、小説の創作にも、あえなく敗れ、私の彷徨した時代に終わり、
遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。
          
まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこの新設された外資のレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫さんが自裁され、私の青年期の終わりを実感させられた・・。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったりした。
もとより一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなった・・。

そして、私は遅れた社会人なので、業務の熟練と年収に、
早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたりした・・。
          

このように拙(つたな)い青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない身も心も黄金時代だった、と深く感じたりする時もある。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは誰しも叶(かな)わぬ夢であるので、
私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。

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