夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

数多くの皆様に本年も支えられて、改めて感謝を重ね、そして良いお年をお迎え下さい!

2019-12-31 08:08:05 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに日常を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や16年目となっている。

             

私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

過ぎし年金生活を始めた当時、ネットの世界は私は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

そして自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

                         
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
そして掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりの10万人ぐらい加入していた小さなブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、この日から5459日が過ぎている。

この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
        
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸15年が過ぎて、早や16年生となっている。
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

              
                                              
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)として残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                    
私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、数多くの綴ってきたりした。

そして70代になると、自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、独り微苦笑する時もある。                                                                    

               
                                                  
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは7年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。
               
ここ8年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになっているので、
数多くの御方にお読み下さり、私がブログが継続できたこともあり、偏(ひとえ)に感謝の一言です。

                                   

こうした中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ9年ぐらい殆どの方が、心ある写真を添付されたりしてきた。

そして私は、いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまうかしら、と私なりに憂慮してきた。

特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

過ぎし2012年(平成24年)の『文化の日』の翌日の4日から、
私は遅ればせながら写真添付を始めて、投稿文を重ねているが、
昨今、写真を添付しないと、何かしら寂しい心情となり、我ながら独り微苦笑したりしている。
               
                 
こうした中、私は特に数多くの50代以上の皆様の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその御方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが圧倒的に多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、つたない私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

                            

こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に心の中の琴線(きんせん)が静かに奏(かな)でり始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。

或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。

何よりもこの広い空の下で、お逢いしたこともない御方に投稿文の上で、
めぐり逢えたことに秘かに感謝を深めたりしている。

                             

今年も社会に於いては、余りにも卑劣で悲惨な出来事が多く、
無力な私は悲嘆したり、憂(うれ)いたりしましたが、
来年こそは、明るいニュースで数多くの御方と共に微笑んだりしたい、と祈願しています。

改めて皆様には感謝を重ね、良いお年をお迎え下さい。

                  2019年(令和元年)12月31日
                               『夢逢人』

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『除夜の鐘』、年の瀬の本日、ときには拙(つたな)私でも、秘かに心を寄せて・・。

2019-12-30 10:47:49 | ささやかな古稀からの思い

東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると今年も明日で『大晦日』と明記され、
今年もあと一日で終わってしまうのか、と過ぎ去り日々が実に早いと思いを深めたりした。

そして何かと単細胞の私は、明日の『大晦日』は何かとベートーヴェンの『第九』、
或いはNHKの恒例番組の『ゆく年くる年』かしら、と瞬時に思い浮かべたりした。

やがて『ゆく年くる年』は、確か各地の寺院が映しだされて、
こうした中で除夜の鐘が撞(つ)くシーンがあった、と思い馳せたりした・・。

私は生家の実家は、仏教の中で多い曹洞宗であるが、
お墓参りは私の母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸ぐらいあり、
散策とか旅先で寺院にめぐり逢った時は、手を合わせる程度の拙(つたな)い身である。

私は身過ぎ世過ぎの年金生活の中、自宅の周辺の3キロ範囲を散策をすることが多く、
ときおり家内との共通趣味の国内旅行に行ったりしているが、
そして寺院の梵鐘を吊した鐘楼堂(しょうろうどう)に、めぐり逢えたりした。

今年も1月下旬に付近の狛江市を散策していた時、
生家の実家のお墓が通称『泉龍寺』と称されている『曹洞宗 雲松山泉龍禅寺』であるので、
冬の暖かな陽射しの中、立ち寄ったりした・・。

山門から入ると、境内は広く数多くの大木があり、冬枯れの情景で静寂であった。

          

そして本堂に向かい歩くと、鐘楼堂が観えたりした。

              

過ぎし8年前の頃の2月の中旬、南海ある八重山諸島を周遊した9泊10日間の旅路の中で、
石垣島の『桃林寺』を訪ねたりした。

この寺院は、石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は南海山、本尊は観音菩薩でり、
1611年鑑翁西堂の開山により創建された寺で、1771年には大津波の被害を受けている、
と解説されていた。

                    

しかしながら私は、寺院を恥ずかしながら鑑賞できる知識もなく、
この日本の南海の果ての地域でも、住民の方たちに信愛されていることに驚き、
本堂などの建物を眺めたり、鐘楼堂を観たりした程度であった。

          


そして一昨年の6月の初め、私は自宅から45分ばかり歩き、この時節の数々の樹木の情景を観る為に、
都立の神代植物園に訪ねた帰路、隣接している深大寺に立ち寄ったりした。

そして本堂で123円ばかりのお賽銭で多くの願いを託した後、
鐘の音が聴こえて振り返ったりした・・。

境内の山門の近くに鐘楼堂があり、たまたま時を告げる鐘が撞(つ)く時であった・・。

          

こうした情景を観たりしていると、単細胞の私は何故かしら『除夜の鐘』に思いを重ねてしまった・・。

恥ずかしながら私は『除夜の鐘』に関しても無知な方であった。

過ぎ去り2000年(平成12年)の春、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を購読していた時、
大晦日の夜、日本の各地で除夜の鐘を撞(つ)くが、古来より108回となっていることに関して。
遅ればせながら55歳の時に教示された。

《・・仏教で人間の煩悩(ぼんのう)が、108あるとされる・・
煩悩とは、身体や心の欲望、他人への怒り、ないもののへの執着などとされている。

仏教に於いては、①生まれてくる苦しみ
        ②年をとる苦しみ
        ③病気の苦しみ
        ④死の苦しみ
4大要素を『四苦(しく)』とし、

        ⑤欲しくても手には入らない苦しみ
        ⑥愛する人と別れる苦しみ
        ⑦いやなことをさせられる苦しみ
        ⑧その他の色々な苦しみ
『八苦(はっく)』があるとされている。

そして、この『四苦八苦』の四苦(4x9=36)と八苦(8x9=72)を加算すれば、108になる。

108回の来歴については、他にも諸説があるが、
一年の様々な思いをかきたてる除夜の鐘は、 旧年中に107まで撞(つ)き、
最後の1回を新年に撞くのが慣例である。

尚、『除夜の鐘』は、中国の宗(960年~1279年)の時代に始まった風習だと云われて折、
『除夜』とは、旧暦で一年の最後の夜のことである・・》

こうしたことを学んだりしたが、私は民間会社に35年近く勤めて、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、その直後から多々の理由から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

そしてこうした人生の『四苦八苦』の怜悧を深く思案したりすると、
つたない私は、どうしたらよいの、と迷うばかりが本音となっている。

            
せめて過ぎ去り今年の日々を愛惜を重ねて、
来たる新年にささやかなことを願い、そして少しは達成できるようにすれば
よい、
と私は思い、『除夜の鐘』の音色に心を寄せて、聴こうと思ったりしている。

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ときには私たち夫婦は、小庭の手入れを昼食抜きで奮闘し、戸惑いながら微苦笑して・・。

2019-12-29 15:16:48 | ささやかな古稀からの思い

私は民間会社に35年近く勤め、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
その後は多々の理由で年金生活を始めた身である。

そして東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭で、
雑木の多い小庭に囲まれて古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

昨日の夕食の前の時、私は家内に、
『明日(あす)、今年最後の庭の手入れをするよ・・』と言ったりした。

常緑樹、落葉樹の雑木は、枝葉は伸び、剪定をしなければ、と思うばかり、
体力の衰えた私は、さぼったりしてきて、
恥ずかしながら、7週間ぶりに年末ギリギリに手入れをすることとした。

            

我が家の敷地は変形5角形で、家屋を建つと、玄関庭と主庭となり、
原則として小庭の手入れは私の責務の範疇であるが、蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、ときおり家内の支援を受けることもある。

ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家の小庭の樹の剪定は、私たち夫婦が自己流で樹木の剪定しているのが、
私が定年後、ここ16年目の実態となっている。
        
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職した以前は、
5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに、大きくなってしまった樹、
そして枝葉の処分料が多かった為か、5年ごとに50万円前後を要してきたが、
この間は、私がこっそりと植木屋さんの剪定した状況を物真似をして剪定してきた。

そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、少し樹高は低くしているが、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は私たちの旅行3泊4日が2回ぐらいできるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。

             
                                         
昨夜、天気情報を視聴したりしたが、明日の30日は快晴、と報じていた。
私は冬晴れの中、ときには庭仕事も健康に良いよなぁ、と微笑みながら家内に言ったりした。

近くにいた家内は、『あたしも手伝うから・・』と微笑んだりした。

今朝、私は6時半過ぎに目覚めて、やがて家内と共に談笑しながら朝食を頂だいたりした。

やがて私たち夫婦は8時少し前に、玄関庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの冬の長ズボン、着古したスポーツシャツとフリース、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をし、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

家内は冬用のトレーナー姿にフリースの容姿でタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をしている。

そして私は切れ味抜群の鋸(のこぎり)右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内も鋸(のこぎり)右手に持ちながら、伸びた枝葉を切り落としたり、
或いは剪定鋏(バサミ)を器用に使ったりしていた。

私は75歳となり、家内は誕生日を迎えると70歳となり、高齢者夫婦に該当するが、
それぞれ奮戦すれば2馬力だよなぁ、と私は微苦笑したりした。

                   

やがて我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキ、
或いは小庭にあるサカキ、モミジ、キンモクセイなどを剪定したりした。
              
私は若き40代の頃は、殆どの雑木は樹高10メートル前後にしていたが、
齢を重ねた60代の頃から、樹高3メートル前後ぐらいにしなければ、
手入れが困難になる、と家内の助言に基づいて、小ぶりに剪定したりしてきた。

しかしながら私は無念ながら体力の衰え、30分毎に簡易椅子に座り、用意した煎茶を飲み、
5分ぐらい休息としたりした。

こうした時、昨年まではタバコを喫ったりしたが、
今年の新年早々、断腸の思いで、タバコにさよならをしてきたが、
何かしら手持ち無沙汰で、やむなくノンシュガーの飴玉風のキャンデーを食べたりした。

そして40代の頃は、55分ぐらい剪定したり、草むしりをして、
5分ぐらい休憩で奮戦していたよなぁ、と思い浮かべて、
あの当時は体力があったなぁ・・と私は微苦笑をしたりした。

やがて私たちは3時間ぐらい樹木の剪定をした後、剪定は中断して、
散乱している枝葉を大きなビニール袋に入れ、
袋に破れないように入れる為、私たちは枝葉を適度に剪定鋏(バサミ)で切ったりした。

確か今年の4月頃までは、市から指定されている『燃えるゴミ袋』のLLサイズ
(45リットル入り、有料・10袋入り、840円)に入れる条例であったが、
ごく普通のビニール袋に改定され、無料で回収されることとなり、
市民にやさしい市だねぇ・・と微笑んだりした。

この後、家内は剪定が終わっていない樹に、枝葉を切り落とし始めたが、
『XXちゃんさぁ・・疲れたから・・やめない?・・』
と私の方から家内に提案したりしたのは、午後の1時半過ぎであった。

           
       

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は玄関庭に移動して、片隅にあるテラスに簡易椅子に座り、煎茶を飲んだりした。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑したりした・・。

まもなく家内が居間から、小声で
『お風呂を上がったわ・・選手交代ょ・・』と私に言ったりした。

『了解致しました!!・・』
と私は若き自衛官に負けないように大声で応(こ)えた。

私は体力の衰えてきた中で、ハァ~ィ、と応(こた)えるのは、ボケてきたと誤解されるので、
たとえ夫婦間であっても、せめて返事ぐらいは清く正しくしている。

          

やがて私は小庭からお風呂場に向かう途中、市が指定された我が家の門扉の内側に、
大きなビニール袋が12袋あり、私はお互いに健闘したよなぁ、と私は微苦笑したりした。

そして私は家内の奮闘に鼓舞されて、朝8時より昼食抜きで5時間半ばかり奮戦したが、
今こうして投稿文を綴っているが、けだるさを感じて、やはり齢だよなぁ・・
と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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年末年始の休暇、年金生活の私たち夫婦、今年こそは、すこやかに我が家で過ごす予定・・。

2019-12-28 13:46:44 | ささやかな古稀からの思い

昨夜、テレビのニュースで、年末年始を故郷(ふるさと)で過ごす人たちの帰省ラッシュが、
27日より始まった、と報じられた。

何かしら27日の金曜日には、『官庁御用納め』とカレンダーに記載されていたので、
民間会社の数多くは、
28日の土曜日から年末年始の休暇が始まるのかしら、
と私は感じたりした。

そして来年の1月5日は日曜日の関係で、9連休のお方も多いです、
と報じられて、年金生活の私でも微笑んだりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
我が家は昨年以来、ふたりだけで年末年始を過ごす予定である。

私のふるさとは、今住んでいる近くに生家があり、三男坊の私としては長兄宅が実家となっている。
そして私はこの地域には結婚前後の5年間を除き、70年ばかり住んでいる。

このような事情もあり、私は帰省の方たちを見かけると、少し羨(うらや)ましいのが本音である。

こうしたことは過ぎし一年の思いを秘めて、ふるさとの親、親族、そして友人たちに再会して、
共に語る合う情景が浮かび、
どうかご無事で行かれ一族再会のような親愛を深めて下さい、と思ったりしている。

そして日本の各地、或いは海外に旅行される方たちにも、
せっかくの年末年始の休暇を楽しまれて下さい、と感じたりしている。

或いは自宅で年末年始を過ごされる方たちには、
本日の28日頃よりご家族で大掃除、買物などをされ、ゆったりと新年をお迎え下さい、
とニュースを視聴しながら思ったりした。

こうした中、年末年始も仕事で業務に携(たずさ)わる方たちには、
大変ですね、お身体を程々にご自愛して下さい、と心を寄せたりした。

       

我が家は過ぎし23日の月曜日から家内は大掃除で孤軍奮闘し、
私は買物のメール老ボーイでスーパー、専門店に幾たびか往還したりし、
或いは小庭を29日に掃き清める予定となっている。

そして30日の月曜日には、年末年始の買物を実施する予定である。

こうした中、私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となって、
駅前のスーパーで伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻などの単品を買い求めたり、
する予定である。

家内は相変わらず、やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、
料理をしているので、私は不足の場合は、買物のメール老ボーイの臨時便で、
スーパーなどに出陣することとなっている。

簡素な我が家の『お正月飾り』に関しては、
何かと無知な私でも12月29日は「苦待つ」といわれ縁起が悪いので、
31日は「一夜飾り」と云われ、神様に対して礼節がない、
と亡き母から学んできたので、ささやかに30日にする予定となっている。

こうした中、昨年より介護・要となってしまった家内の母は、我が家に来るのも難儀となり、
私たち夫婦は15年ぶりに、ふたりだけの年末年始となったりした。



しかしながら、私は新年早々に心臓が悪化して、救急車で病院に搬送されて、
やがて緊急の応急手当を受けて、日帰りで帰宅した。

そして私は安静した状態で正月3が日を過ごすこととなり、
私たちは初めて静かなお正月を過ごすこととなるわねぇ・・と家内から言われたりした。

今回、やむなく生まれて初めて正月三が日は、安静の中、戸惑いながら過ごした・・。                       

お節料理の好みの単品を揃えてきたが、思いがけない病状に、何かとプラス思考の私でも、
失墜感で、うつろな状況で食べたりした。

或いは日本酒、ウィスキー、ビールを年末で準備完了であったが、
一滴も呑めない正月三が日は、二十歳以来初めての出来事となったりした。

やむなく日中のひとときは、寝室の布団の中で身も心も預けて、
本を読んだり、昼寝をして過ごした・・。

この後、3日の深夜、再び心臓の激しい痛みで、やむなく救急車で病院に搬送されて、
やがて8泊9日の入院生活を過ごした。



そして今年の年末年始、我が家で私たち夫婦は過ごすが

敗者復活戦のように、今年はすこやかに過ごしたいなぁ・・と微苦笑したりしている。

       

こうした中、ネットで地元の天気情報に関して、年末年始は幸運に晴れ間が多く、
天上の気候の神々は、ときおり夜間だけ小雨を降ってくれれば、
打ち水のように年末年始の日々を清めて下さる、と私は解釈して微笑んだりしている。

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我が家の年末年始、恥ずかしながら齢を重ねるたびに、変貌して・・。

2019-12-27 14:17:59 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中で、御節(おせち)料理に関しては、
私の母が亡くなる1998年〈平成16年〉の生前までは、
家内が奮闘して、世間並みに御節(おせち)料理を三段重として、
素材の購入から料理までを一週間ぐらい要して、ふたセットを作ったりしていた。

こうした中、もとより祝い肴三種として、「数の子」、「黒豆」、「田作り」も、備えていた。
何かしら「田作り」は、カタクチイワシの稚魚を干したのを、
お醤油であめ炊きにしてつくるのよ、と私は家内から教えられたりした。

やがて独り住まいの私の母に、大晦日の日に私は届けた後、
家内の両親を我が家に迎えて、『お年取り』をした後、宿泊して頂き、
翌日の元旦に家内の両親は帰宅されたりした。

この翌日の2日には、私は三男坊の身であり、私の実家で私の長兄宅で、
私の母を中核に、私の兄妹、親戚一同で、華やかに『新年会』を行ってきた。

こうした行事が、私の母が亡くなるまで20数年続いたりした。



この後は、私の長兄宅での『新年会』は消滅し、
家内の両親を我が家に迎えて、『お年取り』をした後、共に新年を迎えることも消え去り、
私たち夫婦は、年末年始に初めて国内の旅路を重ねてきた。

やがて私が定年退職する2004年(平成16年)の秋の直前に家内の父が死去し、
家内の母は独り住まいとなったので、年末年始には我が家に来て貰っている。

そして私たち夫婦は、この時節の年末年始を共に3人で過ごすのが、
14年間続いたりした。

やがて昨年になると、介護・要となってしまった家内の母は、我が家に来るのも難儀となり、
私たち夫婦は15年ぶりに、ふたりだけの年末年始となったりした。



しかしながら、私は新年早々に心臓が悪化して、救急車で病院に搬送されて、
やがて緊急の応急手当を受けて、日帰りで帰宅した。

そして私は安静した状態で正月3が日を過ごすこととなり、
私たちは初めて静かなお正月を過ごすこととなるわねぇ・・と家内から言われたりした。

今回、やむなく生まれて初めて正月三が日は、安静の中、戸惑いながら過ごした・・。                       

お節料理の好みの単品を揃えてきたが、思いがけない病状に、何かとプラス思考の私でも、
失墜感で、うつろな状況で食べたりした。

或いは日本酒、ウィスキー、ビールを年末で準備完了であったが、
一滴も呑めない正月三が日は、二十歳以来初めての出来事となったりした。

やむなく日中のひとときは、寝室の布団の中で身も心も預けて、
本を読んだり、昼寝をして過ごした・・。

この後、3日の深夜、再び心臓の激しい痛みで、やむなく救急車で病院に搬送されて、
やがて8泊9日の入院生活を過ごした。



このような我が家の年末年始であり、恥ずかしながら齢を重ねるたびに、
大いに変貌している・・。

そして今年の年末年始、我が家で私たち夫婦は過ごすが

敗者復活戦のように、今年はすこやかに過ごしたいなぁ・・と微苦笑したりしている。

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パソコンを日常の友のひとりとしている私、恥ずかしながら技量不足で、やむなく対策をして・・。

2019-12-26 13:52:11 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。
          
このように無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

我が家は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭であり、
もとより息子、娘もいなく、モバイル情報の諸情勢も疎(うと)く、
2015年の春に遅ればせながら、
家内専用の携帯電話を買い求め、今日に至っている。

そして私はパソコンを日常の友のひとりとして、愛用している。


  
こうした中で、私はネットで【ダイヤモンド・オンライン】、【プレジデント・オンライン】、
【現代ビジネス】などの愛読者ひとりとなり、多々教示されている。

或いは過ぎし年の2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなくブログの世界を知り、国内旅行とかパソコンの故障、入院がない限り、毎日に一通は投稿し、
丸15
年が過ぎ、早や16年生となっている。

私は年金生活を過ごしている中で、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
そして私は愛読しているブログの数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたり、
コメントを頂戴したり、返信をしたりしている。
或いは数多くの御方の投稿文を読ませて頂く中で、ときおりコメントをしたりしている。

こうして私はブログに関しては、ほぼ毎日3時間前後は要して、過ごしている。



こうした中、10日前にパソコンの主力機が故障して、技量のない私は、
最寄りのパソコン量販店に修理に持ち込んだりした・・。

このパソコンは、私は1980年前半にパソコンを買い求めて、確か6台目となり、
昨年の2018年の1月に選定した。

この当時の私は73歳であり、私の人生で最後のパソコンになるかしら、と思いながら、
少し背伸びして選定したのが、本音である。


http://www.fmworld.net/fmv/fh/#from=mart_tag
☆富士通公式HP==>
『FH90』☆

まもなく私は、技術担当者に修理状況を話し合った時、
少なくとも4万円は要します、と私は言われたりした。

そして私は少し困惑した表情を浮かべたら、
プレミアム会員に加入していただければ(毎月・3500円)、
今回の修理は1万9千円とします、と技術担当者ば小声で私は言われたりした。




こうした中、プレミアム会員の利点を説明を受けた後、
何かとパソコンに技量のない私は、問い合わせ、自宅と遠隔操作でトラブル回復・・、
多彩なサービスの内容を私は説明を受けて、加入することとした。

そして私は最寄りの内科専門医院の主治医のような御方と同様に、
今後の私のパソコンの主治医のように活用させて頂く、
とパソコンに技量のない私は、微苦笑を重ねたりした。

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サンタの発祥地は、『トルコ南西部』、こっそりと高齢者の私は学び、驚嘆させられて・・。

2019-12-25 13:37:47 | ささやかな古稀からの思い

先程、たまたま公式サイトま【NEWSポストセブン】を見ていたら、
『サンタの発祥を知っていますか 故郷は『トルコ南西部』』、
と題された見出しを見たりした。

私は生家が仏教の曹洞宗であり、こうした中で農家の児として育てられ、キリスト教には無縁であるが、
中学生の頃から何かとアメリカの文化を影響されてきた私は、
この時節を迎えると、クリスマスのシーズンかしら、と微苦笑しながら高揚してきた。

こうした中で、年金生活のクリスマス・イブの時は、家内が我が家にいる時は、
私は家内にケーキなど買い求めてきて、談笑して過ごしたりしてきた。

このように心情の私は、《・・サンタの発祥地は、『トルコ南西部』・・》と表題にあり、
何かと単細胞の私は、サンタは橇(そり)の乗って、それぞれの家を・・、
と私は思ってきたので、大いに戸惑いながら、好奇心に負けて記事を精読してしまった・・。

この記事は、歴史作家の島崎 晋(しまざき・すすむ)さんの寄稿文であり、
【NEWSポストセブン】に2019年12月21日に配信され、
無断であるが転載させていただく。

《・・サンタの発祥を知っていますか 故郷は『トルコ南西部』

毎年クリスマスが近づくたびに、「本場のサンタクロース」が話題になる。

サンタクロースにお願いやお礼の手紙を出したいけど、住所がわからないという場合、
郵便局の窓口に持っていけば、ちゃんと教えてくれる。

グリーランドやカナダなど、どこのサンタクロースを選べばわからないときは、
北欧ラップランド、フィンランド北部ラッピ州の州都ロヴァニエミにあるサンタクロース村の住所を教えてくれる。

トナカイの引く橇(そり)に乗りやってきて、煙突から屋内に入るとなれば、
やはりサンタクロースの本場は、北欧かカナダと考えるのが、日本人なら自然だろう。

しかし、実のところサンタクロースの故郷は、そこまで北極に近いところではない。
モデルとなったニコラウスという聖職者は、4世紀にギリシア南部にあった港町パタラで生まれ、
長く司教を務め、永眠の地ともなったのは現在のトルコ南西部の町デムレ(旧称はミュラ)。

パタラとミュラは、どちらも雪など滅多に降らず、トナカイも生息しない地域だった。


ニコラウスは、慈悲深く、恵まれない人びとを支え続けたことから、
死後に聖人の列に加えられ、船乗りの守護聖人であると同時に、
乙女や子供の守護聖人として、ヨーロッパ中で広く信仰された。

キリスト教では、聖人ごとの祝日が決められているが、
聖ニコラウスの日とされているのは12月6日で、毎年その日になると、
子供たちの一年間の言動を記した本を手に、厳めしい外見の従僕を連れて現われ、
悪い子には、従僕に命じて罰を与え、良い子には、ご褒美としてプレゼントを与えると信じられていた。

日本のナマハゲにも通じるところのあるこの風習は、
主にオランダ系移民によってアメリカに伝えられてのち、資本主義の波に揉まれる過程で従僕は消し去られ、
罰を与えることもなく、もっぱらプレゼントを残していく現在のような形式になった。

トナカイに引かれた橇に乗り、赤い服に赤い帽子、赤い外套をまとった人の良さそうなお爺さんという風貌と出で立ちは、
ドイツの挿絵画家モーリッツ・フォン・シュヴィントが1847年に描いたものが直接のモデルで、
これまたオランダ系移民によってアメリカにもたらされ、普及したのだった


聖ニコラウスが、英語読みされてサンタクロースへ。
アメリカで起きた変化はこれに留まらず、プレゼントを残していく日も、12月6日から12月25日へと変えられた。
後者がイエス・キリストの誕生日(降誕日)で、両者の間隔が狭いことから、ひとまとめにされたのだろう。

けれども、イエス・キリストの誕生日を12月25日とすることは、
4世紀の公会議での決定事項でありながら、それには何の根拠もない。
福音書のどこを読んでも月日はおろか、季節を特定できる記述さえ見当たらないからだ。

12月25日は、古代ローマの暦で冬至の日。
2~3世紀のローマ帝国において、キリスト教と並んで流行したイラン起源のミトラス教で
最大の祭日「不滅の太陽神の誕生日」でもあったことから、
古来の伝統とミトラス教からの改宗者を考慮して、その日を降誕日に定めたものと考えられる。

なお12月25日を祝うのは、カトリックとプロテスタントからなる西方教会だけで、
ギリシア正教会、ロシア正教会、エジプトのコプト教などからなる東方教会では、
東方からはるばるやって来た3人の賢者が、嬰児イエスを目にした1月6日に重きを置く傾向があり、
西方教会でも1月6日をもってクリスマス・シーズンの終わりとする。

日本のキリスト教施設でもクリスマス・ツリーの片づけは、おおむね1月6日である。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今回の歴史作家の島崎 晋(しまざき・すすむ)さんの寄稿文に導かれて、
サンタクロースの起因、発展など、多々教示されて、深く学んだりした。

恥ずかしながら私は無知なことが多く、今回のサンタも由来も知らず、
そうでしたか・・と無学な私は学んだりした。

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クリスマス・イブ、私たち夫婦は、年齢と共に変貌して、私は微苦笑を重ねて・・。

2019-12-24 13:26:19 | ささやかな古稀からの思い

今朝、テレビのニュースをぼんやりと視聴していたら、
本日はクリスマス・イブの日で、東京は幸運にも冬晴れに恵まれまして・・
と私には聴こえたりした。

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の75歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若く70歳となる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後40数年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は後期高齢者の一年生であるが、ときおり物忘れもあり、
過ぎし年のクリスマスイブをどのように過ごしてきたか、
ぼんやりと思い馳せたりした・・。




私たち夫婦が結婚前の交際していた遥か遠い日の45年前の頃、
この当時は、銀座とか私が勤務していた所在地の六本木の喫茶店で待ち合わせをして、
私は少し背伸びをして、高級な食事処を誘って、
ワインなどを呑みながら、イタリア料理かフランス料理、或いはインド料理などを頂いていた。

そしてクリスマス・イブの時は、銀座の4丁目に近い喫茶店で待ち合わせをしていた。

私は退社後、少し待ち合わせ時間に遅れそうになり、
日比谷線の『六本木』から『銀座』までの地下鉄の電車の中で、
この日には走行が特に遅く感じ、もどかしい心情となり、
下車後の地上までの階段を駆け上り、喫茶店に行ったりした・・。

この当時の1975年(昭和50年)の頃は、もとより携帯電話もない時代で、
待たされる方は、待ちわびる状態となり、駆け付ける方も何かと連絡する方法はない時代であったので、
お互いに信頼だけで結ばれていた時代でもあった・・。

          
       ☆☆ この写真、年金生活のクリスマスシーズン、旅先でたわむれに撮った ☆☆

その後、結婚してからは、私は退社後に付近の専門店で、
一週間前の頃から思案していたプレゼント品を購入し、
封筒状のクリスマス・カードにささやかな一文を認〈したた〉めたりした。

そして幾たびか待ち合わせをしていた洋菓子店の六本木『クローバー』の二階の喫茶店があるが、
この一階に魅了されていた『クローバー』でケーキを買い求めて、
新居の賃貸マンションに帰宅したりした。

この後は、一軒家を建てて、ローン返済で苦節していた時代が3年ばかり続き、
せめて愛用している『クローバー』でケーキだけ購入して、帰宅していた。

          
     ☆☆ この写真、年金生活のクリスマスシーズン、旅先でたわむれに撮った ☆☆


やがて私が40代の頃には、家内に何か欲しい品、とやんわりと訊(き)いたりしていたが、
必要な品は、デパートで買い求めているから必要はないわ、
できたら旅行に行って温泉にゆっくり・・と要望されたりした。

この当時は私は多忙であったのは、40代の後半の頃から、業務が幾分空〈す〉いた2月頃に、
冬の旅をして、家内の念願に応〈こた〉えたりしていた。

そして定年退職後の年金生活に於いても、我が家はプレゼントの品よりも、
観光ホテルに滞在して、ゆっくりと温泉を満喫することが多くなっている。

          
     ☆☆ この写真、年金生活のクリスマスシーズン、旅先でたわむれに撮った ☆☆


このように我が家はクリスマス・イブは、旅先以外の年は、
家内が居間などにささやかな室内飾りをして、平素より幾分多めの料理を頂きながら、
私はウィスキーをオンザロックと称した氷片を入れただけの濃いめを呑みながら、
家内はビールを呑みながら、いつものように談笑したりしたりしてきた。

もとより私たち夫婦が子供に恵まれたならば、クリスマス・イブの日も含めて、
大幅に変貌してきただろう、と思いながら、こればかりは叶わぬ夢となっている。

ここ5年は、家内は遠い地に住む家内の母の介護で、家内の妹と交代しながら、
家内が5泊6日前後で行っている時は、私は我が家で『おひとりさま』になるので、
独りぼっちのクリスマスイブも体験し、これも人生のひとつだょなぁ・・微苦笑する年
ある。



そして本年の今宵は、我が家の居間でささやかな酒宴としている。

買物メール老ボーイの私は、最寄りのスーバーに行き、
大きめの国産ロースト・チキンレッグをふたつ、そして赤ワインのボトル、
夕食の華にしょう、と買い求めたりした。

このように年金生活の我が家でも、クリスマスイブの日、
変貌してきたりしている。

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『後期高齢者医療保険料』の督促状が郵送され、やがて私は微苦笑を重ねて・・。

2019-12-23 16:34:33 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の75歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若く、まもなく誕生日を迎えると70歳となる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後40数年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、私は9月下旬に満75歳の誕生日を迎えて、
何とか後期高齢者の入門が許された。

これに伴い、私の住む市より、『後期高齢者医療保険証』が郵送されて、
自己負担が、従来の『国民健康保険証』の2割負担より、1割負担となり、
微苦笑してしまった・・。



まもなく私の住む市より、『国民健康保険証』の支払い通知書が郵送されて、
私は郵便局で支払い振替をした。

過ぎし20日の金曜日の午後、私の住む市より、
『後期高齢者医療保険料』の督促状が郵送されて、驚いたりした。
何かしら第5期の12月2日までの支払いが未納、と明記されていた。

そして週明けの本日、市の担当部門に、
『後期高齢者医療保険料』の督促状の理由を問い合わせをした。

何かしら『国民健康保険証』の支払い済みは、家内の分であり、
『後期高齢者医療保険料』の支払い分は、私の分であり、
こうした2系統は少なくとも家内が満75歳まで続く・・と知り、微苦笑をしたりした。

そして私は本日の午前中、郵便局で、
第5期の12月2日までの支払い未納分、そして第6期の12月25日までの支払い分を
支払い振替をした。

すべて私の勘違いであったが、年金より従来の『国民健康保険料』と同様に、
差し引いてくれればよいのに、微苦笑を重ねたりした。

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『冬至』、ささやかな私の想いを思い馳せれば、独り微苦笑して・・。

2019-12-22 12:16:05 | ささやかな古稀からの思い

私は都心の郊外の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
今朝6時少し前に目覚め、まもなく玄関先から新聞を取り入れと思い、玄関の軒下に下り立った。

霧雨が降る薄暗い中、門扉の前の歩道を50代ぐらいのサラリーマン風の男性が出勤される様子で、
経済が低迷している中、短期に成果を求められる時代の今日、
日曜日なのに出勤か・・何かと大変だなぁ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

そして居間に戻ると、何気なしにカレンダーを見たら、『冬至』と記載されていた。
もとより一年の中で日中の時間は短く、夜の長い時間である。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域は、
この時節は、日の出は6時45分過ぎで、日の入りは夕方の4時半過ぎである。

まもなく、ぼんやりと私のサラリーマンの現役時代を思い浮かべたりした・・。



1995年(平成7)年の頃から、日本経済の足かせになってきた企業の「雇用・設備・債務」の三大過剰問題に対し、
やがて数多くの民間会社の多くは、過酷なほどに経営改革が行なわれ、
リストラ渦中で、殆どのサラリーマンが翻弄された。

私は中小業の多い音楽業界のある外資系のレコード会社に勤めていたが、
レコード会社の各社も総合見直しとなり、
会社間の統廃合をしたり、組織の統廃合で大幅な人員削減も行われたのが多かったりした。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、
上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、人事異動も盛んに行われたりした。

私も55歳を迎える年に、1999年(平成11)年の初春、リストラ烈風の中、
各レコード会社の音楽商品のCD、DVDなどの物流を委託している物流会社に、
あえなく出向となったりした。

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

出向先は少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられたりした。

そして約2万5千種類の音楽のCD、DVDなどの商品が並ぶ棚の大きな倉庫の中で、
センター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

こうした中、ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、

或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。


この出向先に勤務していた時代、遠方の神奈川県の厚木地域が勤務所在地であったので、
朝の起床は4時45分であった。
家を6時に出たが、この『冬至』の時節の前後は、まだ暗く寒さの中、
路線バスの最寄りのバス停で始発のバスを待ったりした。

そして小田急線の『成城学園前』の駅前に向うバスの乗客は、殆ど8人男性の50代の固定客で、
お互いに無言であったが、いつものメンバーと思いながら、指定されていたような席に座り、
秘かに心の中では、お互いに健闘していますね、と私は感じていた。

そして、常連となったメンバーのひとりが欠けていた時は、
風邪を退いたのかしら、と思ったり、
或いは職場が変わったのかしら、やむなく退職をされたのかしら、と思ったりする時もあったりした。

このような心情で、駅前で下車した後、
小田急線の『成城学園前』駅のプラットホームで下りの電車を待っている時も薄暗く、
乗車して、やがて15分過ぎた『新百合ヶ丘』駅を過ぎた頃、車中で日の出を迎えていた。

出向の前は、都心にある本社に30年近く勤務していたので、始業時は9時半であり、
通勤時間は一時間弱であったので、
私は8時過ぎに家を出ていたので、出勤時、出勤状景が一変し、まさに都落ちの心情もあり、
心身何かと鍛えられたりした。

こうした中、私は50代の後期であったので、帰宅も早くても夜の9時過ぎであったので、
体力テストは勘弁してほしい、というのが本音であった・・。

しかしながら出向先の大手企業の傘下の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

新春が過ぎ、節分の時節になる頃は、『成城学園前』の駅前に向うバスの車中で、
日の出を迎え、ほっとした気持ちは、今の私でも忘れることの出来ない思いでとなっている。


そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、年金生活を始めた・・。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの御方には、遥かに遠い存在である。         

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、早や丸15年が過ぎている。



こうした深情を秘めた私は、この『冬至』の時節を迎えると、つたない私でも『日の出』が恋しく、
この後の定年退職後は、無念ながら我が家は周辺が家並みが立ち並び、
『日の出』の情景が見えないのである。


やむなく私は家内と共に旅行をした旅先で、『日の出』が見られる所は早朝目覚めて、
眺めたりしている。

             

過ぎし2010(平成22)年5月24日より6月2日に、北東北の地域を周遊した時、

こうした中で、竜飛岬にある竜飛温泉の『ホテル竜飛』に宿泊していた早朝3時過ぎ、
部屋の窓辺から撮った日の出である。

この後、2012(平成24)年、吾妻高原に12月16日から3泊4日で、
『花月ハイランドホテル』で温泉滞在している時。
部屋のベランダから朝の6時半に撮ったりした。

            

このように齢ばかり重ねた拙(つたな)い私でも、東の空が望める旅先で、
『日の出』が見られる所は、早朝目覚める習性となっている。

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年賀状ソフトの宛名、こよなく私は活用して、早や20数年・・。

2019-12-21 12:46:24 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の75歳の身であるが、
年賀状に関して、確か小学校に入学して以来、年賀状は友人、知人に書いてきた。

やがて25歳に民間会社に中途入社して、会社の上司、同僚など、そして親戚の御方に出してきた。

この後、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めて、
これまでの人生航路で、色々と御世話になった御方・・相変わらず出している。

たとえは会社時代の上司には、何かと一般常識に欠けていた私を社会人として通用するように、
そして企業戦士になれるように鍛えて下さった感謝の念から、書いている。

或いは会社関係で知り合った知人には、同じ業界で共に時代を過ごし、
この後のお互いのセカンドライフの状況を報告するように、書いたりしてきた。

もとより兄妹、親戚の御方にも、これまでの人生航路に感謝しながら、 毎年書いたりしてきた・・。

こうした中、私は恥ずかしながら小学校の習字の授業をまじめに受けなかった為か、
悪筆となっているので、
年賀状の宛名は、市販されている年賀状のソフトを買い求めて、
確か20数年前の頃から活用してきた・・。

やがて2014年の秋に、補助機としてノートパソコンを購入した時、
年賀状ソフトの『筆ぐるめ』の簡易版が添付されていたので、
これまで私が愛用してきた年賀状ソフトより良い、と感じての利用してきた。



やがて昨年の2008年1月に、主力機の据え置き型のディスクトップを買い改めた時、
ノートパソコンのおまけ付きの年賀状ソフトをコピーして活用してきた。

やがて主力機の据え置き型のディスクトップが12月初旬に不調となり、
年賀状ソフトも使えず、やむなく補助機としてノートパソコンに収納している
年賀状ソフトの『筆ぐるめ』の簡易版を開いたが不安定であった。

そして私は、ノートパソコンを購入した時、
年賀状ソフトの『筆ぐるめ』の簡易版が添付されていたので、、
おまけ付きで、やはり無料版は何かと弱いのかしら、と少し落胆した。



やがて昨日、15年ぶりに年賀状ソフトを買い改め、
『筆ぐるめ』の最新版とした。

そして希望価格は税抜き3999円であったが、
私が愛用しているパソコン専門店では税抜き2500円であり、
私は独り微笑んだりした・・。

昨夜、さっそく『筆ぐるめ』の最新版をインストールし、
宛名の住所録を70件ばかり登録しょうと思ったりした・・。

まもなく、旧バージョンの住所録を更新しますか、と表示されたので、
クリックしたら、これまで愛用してきた宛名住所が表示され、
蘇(よみがえ)って、私は微笑んだりした・・。

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我が家の暖房、エアコンの『つけっ放し』方法が節電と学び、早や4年を迎えて・・。

2019-12-20 14:20:51 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の75歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若く、まもなく誕生日を迎えると70歳となる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後40数年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、我が家は寒さを感じた時は、
暖房は居間にあるエアコンを使用せずに、ガスファンヒーターに頼りしてきた・・。

新築した1978年(昭和53年)初春の当時は、
周辺の家は電力は20アンペアが多かったらしく、
我が家も東京電力より20アンペアが配盤された。

そして室内の灯り、冷蔵庫、洗濯機、レンジ、炬燵(こたつ)などを活用し、
これ以上するとブレイカーが降りて、電気は遮断されたりした。

やむなく東京ガスが配管した各部屋に設置されていたので、
暖房はガスファンヒーターを使用してきた。

この後、今から30年前の頃には、電力は30アンペアに増強されたが、
相変わらずガスファンヒーターを幾たびか買い改めてきたりした。

そして過ぎし年に修理を依頼した時、想定したより修理代が高く、
結果的には、新たに買い改めてきた苦い体験もあったりした。

               

そして過ぎし4年前の秋に、ガスファンヒーターを取り出して準備稼働をさせたが、
何かしら排出される清浄機動が衰えたらしく、
まもなく家内は、今年の冬はエアコンの暖房で過ごしましょう、と私に提案して、
これ以来エアコンの暖房に頼っている・・。

こうした根底には、私たち夫婦は高齢であり、少し重いガスファンヒーターを新たに買い求めても、
やがて私は後期高齢者となり、重量とガスの取扱いなどを配慮すれば、
やむなくエアコン一台で暖冷房ですませよう、と思惑があったした。

そして熱い時節は、長年に電力に頼るエアコンの冷房を稼働させてきた体験はあったが、
エアコンの暖房は、我が家として初めてであった・・。

こうした中で、我が家の居間は17畳ばかりあり、一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、
居間全般として、エアコンの暖房は稼働させている・・。

朝は30度でスタートさせて、15分過ぎた頃に25度に設定して、夜まで継続している・・。
そして私たち夫婦は、大半を居間で過ごすことが多くなっている。

そして私は小心者の為か、エアコンの暖房に伴う電気料金は、
果たしてどのくらいなるか、と漠然と思ったりしている。

               

こうした心情もあったりしたが、私の知人より、
エアコンは「つけっ放し」の方が節約、と私は教えられてきたので、
我が家は準拠してきた。

こうした冬の時節、私は冬用のスポーツシャツの上に、ジャンパー型のフリースで室内で過ごしているが、
しかしながら経費節約の余りに、今の25度設定より低下させて、風邪で通院するも困るよなぁ、
と軟弱な私は思案しながら、微苦笑したりしている。

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パソコンのトラブル、高齢者の私は戸惑いながら、独り微苦笑をして・・。

2019-12-19 15:47:14 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。
          
このように無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

我が家は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭であり、
もとより息子、娘もいなく、モバイル情報の諸情勢も疎(うと)く、
2015年の春に遅ればせながら、
家内専用の携帯電話を買い求め、今日に至っている。

そして私はパソコンを日常の友のひとりとして、愛用している。
 
                
     

こうした中で、パソコンの主力機は『ウィンドウズ10』据え置きのディスクトップ型で、
予備機として『ウィンドウズ10』ノートパソコンを備えている。

私が据え置き型のパソコンを愛用している理由は、
過ぎし1969年(昭和44年)4月、コンピュータの専門学校で、一年ばかり学ぶ中で、
汎用のコンピュータの端末機が、据え置き型であり、JIS規格のキーボードであった。

これ以来、やがてパソコンが隆盛となり、ノートパソコンのキーボードを利用することがあったが、
何かしらJIS規格のキーボードが心身の波長があっているのである。

そして殆どの御方がパソコンを活用する時は、ノートパソコンの時代であり、
私は時代遅れと思いながら愛用しているのが実態となっている。


          

パソコンは二台体制としている理由は、過ぎし10数年の当時はパソコンが一台で、
突然にバソコンが故障したので、修理依頼をしている間のパソコンのない空白の日々、
或いはやむなく買い改めたりする空白の日々、まるで『パソコン迷子』のような体験をしたことがあった・・。
                                  
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私は無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の人と、
お互いにコメントを交わしていたブログ熱中時代の時であった・・。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、
2006年(平成18年)9月中旬に、予告もなく突然にダウンしてしまった・・。

まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに・・どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒い画面を見つめ大いに落胆したりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、
1週間後に我が家に来宅することをなり、私は困窮した・・。

我が家は無念ながらパソコンはたった一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と悩んだりした。

この当時の私は、ブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いたりし、半日以内に必ず返信していたが、
もとより返信が出来なくなり、相手の御方はどうしたのかしら、と戸惑うと思いながら、悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がないのである。

そして匿名の世界であっても、何よりも信頼が大切なのに、と困苦したりした・・。

このような2週間ばかり『パソコン迷子』となり、当然ながら私の場合はインターネットも使えず、
平素より多く、居間で読書をしたり、映画を鑑賞したり、音楽を聴いたり、散歩する時間も長くなったりして、
過ごした苦い個人的な体験があったりした。

やがてパソコン迷子になり、困苦してきたので、これ以来パソコンは二台体制としている。        
        
          

今回、パソコンの主力機の据え置きのディスクトップ型で、
システムが不安定となり、やむなく購入時まで戻して回復させたが、
一部にセキュリティが不足であり、中止して、本日、パソコン専門店に持ち込んで、
修理を依頼した。

修理を依頼したパソコンは、私は1980年前半にパソコンを買い求めて、確か6台目となり、
この当時は私は73歳であったが、私の人生で最後のパソコンになるかしら、と思いながら、
少し背伸びして選定したのが、本音である。

http://www.fmworld.net/fmv/fh/#from=mart_tag
☆富士通公式HP==>『FH90』☆

やがて一週間後に、修理を終えたパソコンを受領としたが、
何かと慌ただしい12月に、パソコンのトラブルに、
高齢者の私は戸惑いながら、独り微苦笑をしたりした・・。。

こうした関係で、久々に予備機のノートパソコンで、
このブログの投稿文を綴っている。

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10年ひと昔、ときには自身の10年前のこの日のブログ投稿文を読み、やがて独り微苦笑して・・。

2019-12-18 07:12:30 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
こうした中、ブログの世界を知って丸15年が過ぎ、
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、或いは入院などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。                                                              

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを

心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。                  

             

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々
の心情を脚色もないありのままの思い、
真情を投稿文に認(したた)めたく、 あますことのないように綴ってきた。


私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、数多くの綴ってきたりした。

そして70代になると、自身の体力の衰えを実感して、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、独り微苦笑する時もある。          

昨夜、たまたま10年前の私のブログの投稿文を読み、やがて独り微苦笑をしたりした。

2009年12月17日に於いては、
【 初冬の陽射しの中を買物、そして散策・・。】、
と題して投稿していた。

再掲載をすれば、つたない投稿文であるが、あえて再掲載をする。

★---------------------------------------------★

             

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
まばゆい朝の陽射しを迎え、屋根は霜で白っぽくおおわれていた。

地元の天気情報を先程見ていたら、朝の6時過ぎは3度であったが、
昼下がりは9度前後、夜の6時は6度ぐらいが予測され、
平年並みの気温となる初冬の冬晴れの一日かしら、と私は微笑んでいる。

ここ一週間、家内は日の出の6時半過ぎまで洗濯を終えて、
日の出と共に外干すことが多く、茶坊主の私は戸惑っているのである。

歳末に向けて、大掃除と家内の母に年末に来宅して貰い、
年末年始の一週間ばかり私達夫婦と生活を共にする恒例があるので、 何かと準備に忙しいのである。
その上、家内の年金の手続きも加わり、少しボケた私も忙しいのである。

日常、買物の担当の私としては、家内からの依頼で、殆ど毎日スーパーに二軒ぐらいは行っているが、
この時節になると、突然にスーパー、駅前の専門店など買物が加わり、
『今日・・臨時便は2回だった・・』 と私は心の中で呟(つぶや)いたりしている。

しかし、大掃除で家内の助手の足手まといになるより、 買物先で40歳以上の女性のしぐさを見たり、
ご近所の奥様たちと立ち話しをする方が、 私の心身の波長に合うので、楽しいひとときを過ごせるのである。

その上、朱紅色、紅色、黄色に染められた落葉樹の錦繍(きんしゅ)の情景を眺め、
大半は散り終わっているが、わずかな葉が枝に残り、陽射しを受けている光景に心を寄せたりしている。

或いは冬木立となった樹木に陽射しが射し込み、澄み切った青空を眺めたり、
古人から冬麗(とうれい)と称されている情景に、心を寄せている。

このような日々が続いているが、家内から臨時便の依頼があれば、
窓拭き、床掃除より百倍楽しい、と小躍りしながら、出かけているのである。

             

我が家の日常の買物は、家内はスーパーなどのチラシにサインペンで赤丸を付け、
これが購入する必須品であり、その上に私が店内で魅せられた品を買い求めている。

先程から、家内はスーパーの4軒などのチラシを見ており、
この品は良さそうだし、その上廉(やす)いわ、と呟(つぶや)きながら、サインペンで赤丸を付けている。

私は今日は、小田急線の『喜多見』、『狛江』、京王腺の『つつじヶ丘』、『仙川』、
どちら方面の駅前のスーパー、専門店かしら、と微笑んでいる。

いずれにしても、我が家から15分ばかり歩いた駅前であり、
この間の道のりを歩き、晩秋から初冬の情景を眺めて歩くのも、楽しいのである。

そして、スーパー、専門店で女性のしぐさが見られるのだから、
この世の中で一番楽しいひとときを甘受しているのは私かしら、と思ったりしている。

★---------------------------------------------★

             

私は自身の投稿文を読みながら、やはり10年前の65歳の頃は、勢いがある文体で、
あの頃は体力もあり、物忘れもなく、元気だったよなぁ・・、と教えられて、
たとえ拙(つたな)い投稿文でも、私の記憶のかたみになっている。

そして家内も60歳の直前であり、病気に無縁で、心身溌剌とし、
家内の母も、この当時は79歳で杖(つえ)も必要なく、我が家に独りで来宅できた時であり、
10年ひと昔・・と教えられても、余りにも変貌してきた10年だった、と思い馳せたりした。
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都心は晩秋に別れを告げて、そして初冬を迎えて・・。

2019-12-17 12:56:21 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の75歳の身であるが、
私が今住んでいる近くに生家もあり、私自身としてはこの地域に住んで、
結婚前後5年を除き、 早や70年が過ぎている。


そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごし、早や丸15年が過ぎている。
             

私の住む地域に於いては、
毎年、11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色、茶褐色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となっている。
             
この後、黄色に染め
られた公孫樹(イチョウ)の樹が、数多くが彩(いろど)っている。

            

まもなく青空の中、 数多くの葉が空中をさまように舞い散る情景を眺めたりした。

そして公孫樹(イチョウ)の葉が、地上に絨毯のように彩って、
晩秋が終わり初冬の季節を迎えるのが、毎年の習わしとなっている。

今年は温暖な秋が過ぎた為か、私が秘かな晩秋の別れとしている公孫樹(イチョウ)が、
青空の中、数多くの葉が空中をさまように
舞い散る情景が、少しばかり遅れて、
散り始めている・・。

こうした情景を眺めてきた私は、都心の名所の『いちょう並木』は、テレビで盛んに放映されているが、
果たしてどのようになっているか、気になり、私は久々に昨日の昼過ぎに都心に向かった。

私は現役サラリーマン時代、所在地が六本木の時は20数年あったりしたが、
ほど近い明治神宮外苑にある『いちょう並木』は、訪れたことはなく、
未知の世界であった。

やがて地下鉄で外苑前に到着後、まもなく『いちょう並木』の情景は、観られたが、
すでに大方は散り終わり、都心は晩秋に別れを告げて、初冬を迎えていた、
と教えられ、微苦笑したりした。

   

そして初めての明治神宮外苑を私は散策して、
初めて絵画館、館内の恐れ多くも明治天皇の足跡の数多くの絵を鑑賞したりした。

            

この後、退館した後、来る東京オリンピックに向けた建設中の国立競技場が観え、
やはり巨大な建物だ、と実感させられたりした。

            

この後、JRの千駄ヶ谷の駅に向かって歩いている中、

            

晩秋の残照のような情景にめぐり逢えて、私はプレゼントを頂いたように、
微笑みながら駅に向かった。

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