夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ネットの世界は、やがて《勝者なき世界》と学び、無力な69歳の私は悲嘆し・・。

2014-04-30 13:12:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして平素の買物専任者となり、家内から依頼された買物の責務を終えた後、
自宅の周辺の3キロぐらいの範囲にある遊歩道、小公園などを歩き四季折々のうつろいを享受している。

そして、こうした中で感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりして過ごしている。

こうした中で年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。
          
                     
本日の午前中のひととき、ネットでニュースを検索している中、
ひとつの記事を偶然に読み、そして読み終わった後、溜息を重ねながられ悲嘆させられたのである・・。

この記事は『週刊朝日』の2014年3月21日号に掲載された記事のひとつで、
新潮新書に於いて、作家の楡周平(にれ・しゅうへい)氏が『「いいね!」が社会を破壊する』を上梓した、
書評の記事であった。

この記事の書評のタイトルは、《待ち受けているのは勝者なき世界》という衝撃な命題であったので、
私は読んでしまったのである。

無断ながら、記事の大半を転載させて頂く。
《・・2012年、ある大企業が日本でいう会社更生法の適用を申請した。
イーストマン・コダック。世界最大の写真感光材メーカーである。

デジカメがこれだけ普及したらフィルムや印画紙のメーカーなんかひとたまりもないべ、と私たちは考える。
だが、ことはそう単純でもないらしいのである。
楡周平『「いいね!」が社会を破壊する』はそのコダック社に15年在職し、
現在は作家として活躍する著者による警世の書。

コダック社が窮地に立たされたのは〈あまりにも確立されたビジネスモデル〉ゆえだったと著者はいう。
1ロールのフィルムが売れるごとにフィルム代・現像料・プリント料と3段階の収益がついてくるシステムは
同社を優良企業にしたが、
2000年頃から市場に大変革が起こる。

カメラ付き携帯電話の普及とブログ人口の増加である。
これはデジカメの出現以上にインパクトのある出来事で、以来、人々は写真を撮りまくるも、三つの収益部門はすべて不要。
街のカメラ店も見事に消えた。

新しい業態にさっさと移行すればよかったって? 
<私がここで言いたいのは、企業自体の存続ではありません。
そこで働く人たち、つまり個々人の雇用など、イノベーションの波に襲われたら最後、
簡単に崩壊してしまう時代になったのだということなのです>。

同様の現象は、ネット書店に席巻されて中小書店が消えた出版業界でも、
ネット配信でCDショップが消えた音楽業界でも観察できる。
新聞もいずれ同じ道をたどるだろうし、コンビニも同じ運命にある……。

注意すべきは、これが単なるノスタルジー系の「昔はよかった」という話ではないことだろう。
<少し前の時代まで、イノベーションは多くの雇用を産み、社会を豊かにするものを意味しましたが、
今は全く違います>。

雇用は崩壊し、知的労働にも対価を払わず<待ち受けているのは勝者なき世界>。
技術革新の結果がコレかと思うとゾッとする。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら専門養成所で映画青年の真似事をしたり、
その後に契約社員をしながら文学青年の真似事したが、やがてはかなくも挫折した。
                  
その後はやむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。

その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方のご尽力もあり、
この当時、民間の大企業であった映像・音響メーカーに中途入社できたのは、
1970年(昭和45年)の春であり、25歳の時であった。

その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。

               
そして私が勤めてきた中小業の多い音楽業界は、
1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。
          

そして1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

                
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

  
                 
この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
                     

この間の音楽業界は、デジタル機器の進化に伴い、シロウトでも簡易に録音可能な時代となり、
ミキサーはじめ、そして楽器を演奏されるアーティストが仕事が少なくなり、
一部の人だけが生活できる状況となり、多くの方は転業を余儀なくされた。

その上にデジタルの音楽配信が波及すると、CDよりも対価が遥かに少なくなり、
作詞、作曲される方はもとより、歌い手の方たちにも対価が激少しているのが、
昨今の情況でもある。

更にネットが普及している中、ネットで無料に聴けるサイトも多くなり、
多くの方が利用される時代の到来となっている。

こうした中で、CDの売上も減少して、音楽商品の販売店も統廃合が実施されたり、
或いは転業されて、街の中にあった音楽商品の販売店も消え去った。
          

こうした国民の社会状況のを的確に明言したのは、『週刊朝日』の2014年5月2日号に於いて、
『読者数は減ってない? 作家が“本の売れない理由”を語る』の記事である。

作家の楡周平(にれ・しゅうへい)氏、作家・林真理子(はやし・ふみこ)氏の対談であった。

一部を無断ながら、転載させて頂く。
《・・
楡:去年の大晦日の夜7時のNHKニュース、つまり昨年最後のニュースの中で、
  「出版業界はこれだけ縮小している」というのをやってたんですよ。
  ピークだった1996年、これは私がデビューした年ですが、そこからいまは5分の3に減ったというんです。
  17年間で40%縮小してるんですね。

林:音楽もパソコンやスマホにダウンロードするようになってから、CDが売れなくなりましたよね。
  バブルのころは100万枚売れてた国民的大歌手も、いまは1万5千枚しか売れないというから、慄然としますよ。

楡:じゃあその人の音楽が聴かれてないのかというと、そんなことはないんですよね。
  ただ、みんなコンテンツに対してお金を出さなくなった。
  出版業界も市場が縮小し続けていますが、みんなが本を読まなくなったのかというとそうではなくて、
  図書館の貸し出し数はずっと右肩上がりなんです。

林:そうなんですよね。
  女性誌の「節約特集」なんか見ると、必ずといっていいほど「本は図書館で借りましょう」とあって、
  本を買う人は変わってる、節約しない人みたいな書かれ方じゃないですか。
          
          
楡:読者の絶対数はそんなに減ってなくで、要はタダで読むことを覚えちゃったんです。
  全国の図書館の貸し出し状況が見られる「カーリル」というサイトがあるんですけど、
  あっという間に予約が埋まるんです。

  みんな自分のお金を出したくないんですよ。
  いままで本を買い支えてくれたコア層の一つは、団塊の世代だったと思うんですが、
  その団塊の世代が定年退職して時間がある、じゃあ本を買うかというと、そうはならない。

林:図書館に行くんですよね。

楡:僕らは小屋がけ(芝居小屋をつくって芝居をすること)してるわけですよ。
  そこでお代をいただいて、そのお代に値するかどうかはお客さんに判断してもらって、それで生きてるわけですよね。
  ところが、活字の世界でお金を得ることに対して、すごくネガティブな反応を示す人たちがいるんです。

林:そうなんです! 
  昔、イザヤ・ベンダサンが「日本人は水と安全はタダだと思っている」と書いてましたけど、
  いまは情報がタダだと思ってますよね。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

こうした社会状況を私は学び、少なくとも音楽業界、出版業界もそれぞれの分野のブロが少なくなり、
衰退している現状に、無力な69歳の私は悲嘆している・・。

このようなことをとりとめなく思いながら、
何よりも怖いのは、《雇用は崩壊し、知的労働にも対価を払わず》の世界は、
主要国の混迷を深めて、やがてそれぞれの国家の衰退を招くことであり、
作家の楡周平(にれ・しゅうへい)氏の乾坤一擲(けんこんいってき)のような命言、
《勝者なき世界》でもある。

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『昭和の日』を迎え、69歳の私は『昭和の時代』、とりとめなく思い馳せれば・・。

2014-04-29 13:10:40 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と齢ばかり重ねた私は、戸惑いながらも微苦笑したりした。

私は『昭和の日』については、遅ればせながら自覚したのは確か3年前の頃で、
やはりに、私に取っては昭和19年(1944年)の秋に農家の児として生を受け、
昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御される前年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、長らく過ごしてきた。

このような心の奥底に秘めてきた私は、今回『昭和の日』に際して、
私の『昭和』の時代は少なからず45年近く空気を共にしてきたので、
もとより私の自己形成は『昭和』の時代であったので、今でも過ぎし『昭和の時代』は愛惜を深めて、
ときおりあのようなことがあったよねぇ、と私は思い馳せることがある。
                        

私は昭和19年(1944年)の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
          

私が地元の小学校に入学する昭和26年(1951年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、所有していた田んぼの中に小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この頃の生家の周辺には、平坦な田畑、雑木林が続き、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、大人の人たちは国分寺崖、と称していた。

その後、私が昭和28年(1953年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の昭和29年(1954年)の5月に祖父も他界され、
農家に取っては肝要の大黒柱の2人が亡くなり、生家は没落しはじめた・・。

やがて昭和30年〈1955年〉の頃から、都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
そして私が小学校を卒業した昭和32年〈1957年〉であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、急激に新興の住宅街となり、周辺は大きく変貌した・・。
                         

この間、祖父、父が健在だった時代、私が地元の小学校に入学する前の当時は、
周辺には幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。

幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私の生家でも、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
私は総天然色のカラー作品で、この『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
                         

こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と私は店主に言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡(ます)を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの多い時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に言いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべたりしながら、
薄暗くなった村道を歩いた。
しかしながら何よりも右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。

後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
                         

この頃、私は母に連れられ、年に一度ぐらい新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりした。
母は私と妹を両手につなぎ、末妹は乳児だったので背中にしょっていた・・。
そして京王線の『金子(現在・つつじが丘)』駅から『新宿』駅まで電車に乗ったりした後、
新宿三丁目まで歩いたりした。

そして伊勢丹(デパート)の階段の踊り場、或いは地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

こうした中で、ある時は母から私は勝手に手を放して、デパートの店内で迷子となり、
人形の売り場で半ベソになっていた私は、店員さんから救出されて、探していた母の元に行ったりした。
                         

私が小学校の高学年になると、映画に魅せられて、
付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと誘われて、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
                

このように私の小学生時代までの思いでは、走馬灯のように思い浮かび、
その後の地元の中学時代、そして都心にあこがれ始めた高校時代・・など限りなく、
昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御された当時の私は、
中小業の民間会社で情報畑で悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であり、
もとより私にとっては『昭和の時代』は、あふれるように愛惜を重ねたりするが多いのである。
          

過ぎ去る年の昭和63年(1988)年の晩秋、私はこの頃、音楽業界のあるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして昭和64年(1989年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

この後、私はいつものように会社に出勤した後、
フロアー別の朝礼の時、専務取締役のひと言で、私たち一同は皇居の方面に向かい、黙祷をしたのである。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。
         

もとより敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。


私たちが過ごしてきた昭和の時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中でバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
やがてソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変し、
世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          

やがて殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。
そして私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。

      
こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めて、
お母さんは専業主婦で家庭を守る中で、子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、大学まで学び、
やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
          
          
こうしたことを思いつくまま昭和の時代を思い馳せたりし、
平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、そして黒髪などが少なくなり、
どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。

何よりも戸惑うのが、ジーンズの膝付近に、あえて穴を開けたり、
わざわざ磨耗したような生地にしたりすることである。

私は10代から30代の頃まではジーズンを愛用したひとりであるが、新品を購入し、
数年過ぎればそれなりの磨耗した状態となる。
もとよりジーズンは普段着の長ズボンであり、気軽な労働服のような思いながら穿(は)きつぶしてきたが、
決してファーション着ではないのである。
          

こうしたことを余り綴ると若き諸兄諸姉に嫌われるので、これ以上は記載しないが、
平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた20代の世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた69歳の私は限りなく関心がある・・。

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高齢者の69歳の私でも、文部省唱歌の『鯉のぼり』の歌を心の中で唄い・・。

2014-04-28 13:35:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり.
いつものように午前中のひととき自宅の付近を散策した。

曇り空で時折まばゆい陽射しを受けながら、5月中旬のような陽気に恵まれ、
小公園を歩いたりしていると、数多い樹木は若葉は光帯びて、
世の中は大型連休と称されるゴールデン・ウィークに相応しい天気だ、と微笑(ほほ)えんだりした。
          

そして住宅街を歩いていた時、この中のひとつのお宅の二階のベランタ沿いに、
鯉幟(こいのぼ)りが掲げられていた。

この住宅街は、私が高校2年の1961年(昭和36年)の頃に、
大きな団地が出来て、その周辺に分譲地となった地帯であり、早くも50数年が過ぎている。

ここ10年は『おふたりさま』の高齢者の夫妻が住まわれたり、
或いはお子様の家族に引き継がれて住まわれたり、
或いは2所帯住宅で1階は親、2階はお子様の家族が住まわれて、親子孫の三世代が同居されている家もある。

こうした家並みが並ぶ中を私は歩いていたのであり、
我が家は子供に恵まれなかったが、たまたまこの中の家のお方が、
お孫さんの為に、鯉幟りが掲げられているのかしら、と私は人生の微笑を頂いたりした・・。

私の住む周辺は、家並みが密集しているので、
旧家でない限り、とても鯉幟(こいのぼ)りを悠然と泳がせるスペースがなく、
ここ数10年は観かけることが少なく、たまたま鯉幟りを偶然に観て、思わず足を止め、
小振りな3つばかりの鯉が微風を受けて泳いでいたのを長らく見つめたりした・・。


この後、幼稚園の近くの歩道を歩いていた時、悠然と空に泳いでいる鯉幟(こいのぼ)りを見かけて、
私は微笑みながら、眺めたりした・・。
          

やがて帰路に向う途中、人影もないので、かぼそい声でひとつの歌を唄ったりした。

♪甍(いらか)の波と雲の波、
 重なる波の中空(なかぞら)を、
 ・・・
【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

私は遠い昔の幼年期に祖父、父を健在の頃、農家の宅地の外れに鯉幟(こいのぼ)りを高く掲げられ、
あの当時はどの家も男の子のために鯉幟りをこの時節に掲げられていた・・。

このようなことを思い重ねて、過ぎ去った時の流れを思い馳せたりした。

やがて前方の方から散策していると思われる高齢者の夫婦を見かけて、
やむなく私は、心の中で唄ったりした・・。

♪橘(たちばな)かおる朝風に、
 高く泳ぐや、鯉のぼり。
  ・・・ 
【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

そして齢ばかり重ねた私は、愛惜感を秘めながら自宅に向かった。

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シニア世代の後悔の数多くを学び、拙(つたな)い69歳の私は、やがて微苦笑させられ・・。

2014-04-27 15:17:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昼食後のひととき、ネットで経済ニュースなどを彷徨(さまよ)って検索している中で、
ひとつの掲載された記事を精読してしまった。

《・・老境に入ったとき、あなたは「わが人生に悔いなし」と思えるだろうか──。
55~74歳の男女1000人に緊急アンケートを行い、その本音に迫った。
現役世代の私たちが今からやるべきことを専門家にアドバイスしてもらうとともに、
先輩方の「後悔していることトップ20」を発表する。》

このような主題が明記され、 ビジネスと生活の総合情報誌として名高い『プレジデント』のオンライン・サイトであり、
私も特集記事に魅了された時に買い求めることもあるので、信頼できる内容が多いので、
精読してしまったのである・・。

この記事元は『PRESIDENT』誌の2012年11月12日号に掲載され、
ネットに於いて2014年4月18日(金)配信された記事である。

そして調査概要として、gooリサーチとプレジデント編集部の共同調査により、
「人生の振り返り」に関するアンケートを2012年9月25日から27日まで実施し、
55~74歳の男女比は約7:3に於いて、1060人の回答の結果、
「後悔していることトップ20」の中、
1位は「一生続けられる趣味を見つければよかった」と知り、高齢者の69歳の私は衝撃を受けて、
やがて微苦笑させられた・・。
http://president.jp/articles/-/12334
☆【PRESIDENT Online】
        <==『リタイア前にやるべきだった……」後悔トップ20』☆
                    

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                    
                        
私は幾たびも綴ってきたが、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
農家の児として幼年期を過ごし、やがて小学2年の時に父に病死され、
その後の1年過ぎた晩春の時に祖父にも死去され、
肝要なふたりの大黒柱を失った生家は衰退し、生活に困窮した時期もあった。

その後は、母の孤軍奮闘に寄り、私たち兄ふたり、そして妹のふたりの五人は
何とか世間並みの生活が出来るようになった。

この間の私は、長兄、次兄の学業は優等生であったせいか、
『お兄さんは・・優秀だったのに・・』
と担任の先生から言われたりし、何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。

高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなった。
そして初めて授業も楽しくなり程ほどの成績となり、
読書にも目覚めて熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。

そして私は小学生の後半から映画の数多くの作品に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。

そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら専門養成所で映画青年の真似事をした。

やがて講師の知人の新劇の長老から、
『映画の世界で飯(めし)を食べのは、益々困難になるょ・・
同じ創作だったら、小説を書きなさい』と私はアドバイスを頂き、
その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。
                    

その後はやむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。

その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方のご尽力もあり、
この当時、民間の大企業であった映像・音響メーカーに中途入社できたのは、
1970年(昭和45年)の春であり、25歳の時であった。

その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
               

この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構え、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅ローンなどが重く苦心惨憺な時期も過ごした。

もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、私なりに奮闘したりした。

そして、ぎっくり腰で1ヶ月近く入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして音楽業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。

こうした暗澹たるリストラ烈風の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされた人もいたし、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。
                                      
こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と改めて真剣に話し合った。

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、もとより老後の資金も肝要なので、
私は出向先の物流会社で、委託しているCD、DVD等の音楽商品を保管・管理する物流情報会社であり、
通勤としては、ほど遠く、この中のひとつの物流センターに配属された。

私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近くレコード会社の裏方の情報畑、管理畑に勤めた本社で勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していた。

そして出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い処まで、一時間半ばかりで通った。

職場状況、そして通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは戸惑いながら、
つたない私でも、もとより出向は本社機能の戦力から不必要だと烙印を押されたことであるので、
まぎれなく都落ちで、敗北感が充満し失墜感で気落ちした・・。
                    

この後、何とか半年後に私は職場の業務にも馴染み、
やがて遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたりした。

そして私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このような半生であるので、世の中の半生記は何かと自慢史が多いと言われる中、
私は程遠い世界である。
          
もとより一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
数多い中小業で35年ばかり勤め、苦楽の激しかったサラリーマン生活であったので、
高収入、高額な退職金、まして富や名声に無縁である。
          
    
やがて年金生活を始めた当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                                
                 
定年後の年金生活の日常の大半は、平素の買物専任者の責務を終えた後、
散策したりした後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで随筆のような形式をめざして、毎日投稿するのが、
生きがいのひとつとなっている。
          

このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
今回の記事でアンケートの「後悔していること」アンケートの結果、
1位は「一生続けられる趣味を見つければよかった」ことは、
本当ですか、と私は衝撃を受けたのである。

このように拙(つたな)い私が、「後悔していること」を恥ずかしながら告白すれば、
私が読書を5年早く、小学校の最後の頃に目覚めていれば、
文学部の国文学を専攻した、と文学青年の真似事の習作の時、自責をしたりしたことがあった。

そして中学生の時から勉学を重ねて、素直に文学部の国文学を専攻した後、
最終として大学教授で専攻として国文学関係に・・・と夢想したことがあったりしたが、
人生は二度あれば・・もとよりこの世では叶(かな)うことがないので、苦笑したりしている。

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大型連休の始り、年金生活の我が家は、ホームセンターに買物となり・・。

2014-04-26 16:35:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

我が家の平素の買物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに殆ど毎日独りで出かけている。
       
こうした中で、昨夕のひととき、私は家内から、明日(あした)買い物に行きませんか、と告げられた。

何かしら台所、浴室の用品、洗剤、衣料収納ケースなどを買い求めたい主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した直後から多々の理由により年金生活をし、
やがて高齢者の身になったので、何かと世情に疎(うと)くなっているので、
ボケてはいけない、と家の中でも明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。
          

そして私は何かと家事の大半は家内をしてもらっているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は齢を重ねるたびに深めたりしている。

そして我が家は恥ずかしながら自動車もなく、私は根がケチなせいか、利便性の良い路線バスには乗らず、
ひたすら歩くことが多い。
                    

今朝、ぼんやりとNHKのニュースをテレビで視聴していたら、
《・・大型連休初日の26日、高速道路は朝から行楽地に向かう人などでところどころ渋滞となっています。
また、海外への出国ラッシュも始まっています。

日本道路交通情報センターによりますと、
午前8時現在、関越自動車道の下り線で埼玉県の鶴ヶ島インターチェンジを先頭に10キロ、
東名高速道路の下り線で東京と神奈川県の境にある横浜町田インターチェンジを先頭に9キロ、
東北自動車道の下り線で埼玉県の岩槻インターチェンジを先頭に8キロの渋滞となるなど、ところどころ渋滞となっています。

また海外への出国ラッシュは26日と27日、それに来月3日がピークで、
このうち先月国際線が増便となった羽田空港は期間中に出国する人が15万3900人と、
成田空港の37万3700人には及びませんが去年より29%増える見通しです。

航空各社によりますと、ことしは日並びが悪く例年より長い期間の休暇が取りにくいため、
日本から比較的近く、短い休みでも楽しめるハワイやグアム、それにベトナムやタイなどの人気が高いということです。

各交通機関の混雑は大型連休の後半にピークとなる見通しで、
このうち下りは高速道路、新幹線、国内の空の便ともに来月3日がピークとなる見通しです。

一方、上りのUターンラッシュは高速道路は4日と5日、新幹線と国内の空の便は6日がピークに、
国際線の帰国ラッシュは5日と6日となる見通しです。・・》

このようなことを美麗な若き女性のキャスターが報じていた・・。
          

年金生活をしている私は、ともすれば曜日感覚が恥ずかしながら衰えてきているので、
本日より大型連休が始まったことを知った。

我が家は冠婚葬祭はもとより、私の兄妹との親睦会、知人や友人との懇親会などは制約されるが、
年金生活の中は現役サラリーマン時代と大幅に変貌し、
程ほどに自由な日々を過ごしている。
          

午前10時過ぎに私たち夫婦は、自宅を後にして20分ばかり歩いた先のホームセンターに向った。
眩(まばゆ)い陽射しの中、5月下旬のような陽気となり、バスも走る大通りの歩道を歩いた。
そして今の時節は、車路と歩道の境界線には、ハナミズキの花が10メートル毎も咲いているので、
褒めたたえながら私は歩いた。
          

          
やがて目的のホームセンター到着してまもなく、会員募集の勧誘にあった。
何かしら入会すれば商品の配送料は常に無料で、今回のキャンペーンだけは1000円の商品券の特典が付く、
と知り、私たち夫婦は微苦笑した・・。

我が家はこのホームセンターに於いては、年に6回前後ぐらい買い物をしているが、
会員はカード支払いが必須条件で、銀行系のカードが連動しているので、
我が家として年金生活を始めてまもなくカード整理をしてきたので、
これ以上銀行系の関連したカードは回避したく、このホームセンターの入会をためらい、
商品の購入は現金払いでしてきた。

そして殆ど配送を依頼して、有料の500円を支払ってきた。

何かしら今回のキャンペーンより、現金払いでも入会できると説明され、
私たち夫婦は微笑んだりした。
          

そして入会の手続きには、身分証明書が前提条件であったが、
自動車の『運転免許証』に関しては、私の場合は定年後の更新時に破棄した時、
その後に市役所に行き『住民基本台帳カード』を作成したので、
『XXちゃん・・住基カードを家から持ってくるょ・・』
と私は家内に言ったりした。

そして私は徒歩20分ばかりの自宅に戻り、その後にホームセンターに戻った。
私は年金生活の身であり、もとより年金支給は減ることがあっても増えることはなく、
定期貯金、国債の金利などは、ごくわずかなのである。

今回、ホームセンターの会員になれば、商品の配送料は常に無料となり、
その上に今回だけは1000円の商品券の特典が付くので、
せめてながらと思い、自宅とホームセンターを徒歩で往還したのである。
          

やがてホームセンターで買い求め、配送の依頼をした後、
自宅に戻る途中、昼食としてファミリーレストランに入った。

大型連休の始まる中、ご家族連れで満席で、私たち夫婦は5分ばかり待たされた・・。

そして私は過ぎ去りしのゴールデン・ウィークと称された大型連休を思いを馳せたりした・・。

私の現役サラリーマン時代の時は、民間会社の中小企業であったので、
通常は5月1日から5月5日の5連休がほぼ固定で、この前後の日曜と祭日が加味されていた。

そして私はこの当時は、1週間以上連休が採用されるのは、
大手の企業の開発と製造部門だろうと思ったりしていた。

私の30代の後半の頃は、住宅ローンなどで返済に重荷となり、
家内と45分ぐらい歩いた所にある都立・神代植物公園に行ったり、
高尾山のハイキングをしたりしていた。
そして、庭の手入れなどをして過ごしたりした。

40代には、格安の団体観光周遊ツアーなどの国内旅行をしていた時もあったが、
旅行先の渋滞に困惑して、その後は庭の手入れをすることが多くなった。

最も現役時代の固定とされていた5月1日から5日までの5日間に於いても、
5日間連続して休めたのは数えるばかりであった。

私は管理系の情報畑で長く勤めていた関係で、システムの開発、運用などで出勤したり、
50代の後半はリストラで烈風の中で出向となり、物流倉庫の再編成の最適な日々となったりし、
大型連休でゆっくりと休暇できたのは、遠い世界の出来事となり、奮闘していた。
                          

ここ10数年、過酷な成果主義が加速される中、短期に成果を求められる責務の時代となり、
無力ながら憂(うれ)いているひとりである。

いずれにしても大型連休に恵まれた現役の諸兄諸姉、
日常は何かと業務に追わる多忙の身の方が多いと思われるので、
せめてこの大型連休のひとときは、ご家族との心身のふれあいを大切にして頂きたい、
と私はぼんやりと思ったりしている。
             
このようなことをぼんやりと思い重ねたりしていると、
XXさん・・お待たせ致しました、とファミリーレストランの進行係の女性から、私の名前が呼ばれて、
私たち夫婦は遅い昼食を頂いたりした・・。

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一青窈(ひとと・よう)ちゃんの『ハナミズキ』の歌、単細胞の69歳の私、かぼそい声で唄いながら・・。

2014-04-25 13:51:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

私は2004年(平成16年)の秋に定年した後は、
多々な理由より年金生活を10年近く60代を過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであり、
私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
           
        
私は定年後の年金生活を始めて、平素の買物の専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

今朝も朝食後のひととき、家内は新聞の折込みに入っていた最寄りのスーパーにチラシを取りだして、
家内が赤のサインペンで丸印を付けたりしていたのを見たりした。

やがて、この赤丸が、我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりした。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から10年近く解放されて、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をした。
          

私は10時過ぎに、家内から本日指定されたスーバーに出かける為、
いつものようにストレッチパンズの長ズボン、スリーシーズンのスポーツシャツ、ウォーキング・シューズの容姿で、
簡易バックを斜め掛けで自宅を出た。

路線バスも走る大通りの歩道を歩けば、眩(まばゆ)い陽射しの中、5月中旬の陽気で、
ときおり風が吹き、心地よさを感じながら、風光る季節だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして野川の大きな橋を渡る中、川沿いを眺めれば菜の花が黄色い帯のように長く続く中、
並ぶように白と淡き紫色のハマダイコンの花が帯状になっている。
          
        
この時節、この野川の川沿いには数キロに及び帯状になっているのを私は毎年享受している。
そして私は歩きながら菜の花のかぐわしい香りと共に心を寄せたりしてきた。
          

そして再び歩きだすと、車路と歩道の境界線には、ハナミズキの花が10メートル毎も咲いていることに気付き、
私は足を止めて、長らく見惚(みと)れたりしたいた・・。
          

やがて歩きだすと、何かと単細胞の私は、一青窈(ひとと・よう)ちゃんの『ハナミズキ』の歌を、
かぼそい声で唄ったりしていた・・。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだった為か、
この花水木(ハナミズキ)の樹の純白の花に、心の濾過を託すように圧倒的に魅せられてきた。

そしてこの時節を迎えると、花が咲き、そして花も終わりを告げて、
あまたの枝葉を大きく広げ、秋には朱紅色に葉を染めて、陽射しを受け、やがて冬木立となり、     
来年の芽吹きの時期まで、お別れねぇ、と愛惜を重ねたりしてきた。

私は遅ればせながら、2004年〈平成16年〉の秋に退職してまもない時、
偶然にラジオから、一青窈(ひとと・よう)ちゃんの『ハナミズキ』の歌が流れて瞬時に魅了された・・。
          
            
家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このような私たち夫婦でも、命果てるまでの残された歳月は、もとより天上の神々の采配によるが、
この先いつまでも慎(つつ)ましながらも、年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、
どちらがいずれ片割れになる・・。

こうした心情を秘めた私は、一青窈(ひとと・よう)ちゃんの『ハナミズキ』の歌の中で、
♪百年続きますように・・、と唄われていたので、少しでも私たち夫婦が長生きできれば・・、
と託(たく)したりして、この花水木(ハナミズキ)の樹の純白の花を見つめたりしてきた。
          

世の中の大半の人は75歳頃までは、これまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高い、と私は学んだりしてきた。

そして私は何よりも認知症が怖くて、自宅の周辺の3キロ範囲の遊歩道、小公園を
殆ど毎日のようにひたすら歩いたりしてきた。

このような真情を秘めてきた私、♪百年続きますように・・、と思い願い、
この時節に時折かぼそい声で唄ったり、或いは心の中で唄うことが多くなっている。

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かくも長き都心で苦楽を共にした私は、定年後の心を寄せ安(やす)らぐ処は・・。

2014-04-24 14:56:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

日常の殆どは、午前中のひととき平素の買い物担当の責務を終えると、そして自宅の周辺の住宅街の路、
近くの小公園、或いは近くに流れる野川の遊歩道を歩いて、季節のうつろいを受容している。

今朝、家内と朝食を頂いている時、
『特に今日は、スーパーで買物して頂くことはないから・・』
と私は家内に言われて、私は朝のひととき付近を散策しょう、と朝の8時半過ぎに自宅を出た。

やがて住宅街を通り過ぎると、この時節にハナミズキが咲く処に行き、
          
長らく見惚(みと)れたりしていた。
          

やがて小公園に行き、数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木が、
過ぎし日の3月初旬の頃から、木の芽時(このめどき)と称せられる芽吹きが終わり、
そして幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められ、
ここ10日前の頃からは新緑色の若葉の季節となっている。

私は幼年期に農家の児として育った為か、こうした季節のうつろいを眺めるのが、
この世で最も好きな情景のひとつとなっている。
          

私が住んでいる処は、東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みであり、
私の生家も近くにあり、この地域で1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けて、
結婚した前後の5年間を除き、これまでの65年近くこの地で過ごしてきた・・。

私は地元の調布市の小学、中学校を卒業した後、1960年〈昭和35年〉の春から都心の高校に通学した。

それまでは幼年期に於いて、母に連れられ、新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりして、
階段の踊り場、そして新宿の地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

小学校の高学年になると、付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりした
映画少年のひとりで、
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物の酔いで私はしょげたりした・・。

確かあの当時の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
          
          
高校は中野区に所在していたが、新宿を経由し通学したので、
荻窪行きの都電を利用したり、或いは中央線で中野駅から登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食堂でカツ丼、親子丼、ラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。

そして、独りで映画館に立ち寄ったりしていた。
こうした中で、『小田急デパート』が開業したり、やがて『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌し、その後に高層ビルが林立していった。

こうした中、私は読書も好きだったので、神保町の古本街に行ったり、
ときにはロードショウと称された映画の封切館で上映された日比谷の映画街なども通ったりしていた。

1964年〈昭和39年〉の秋に東京オリンピックが開催された数年前の出来事である。
           
      
大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
名画が上映すると名高い池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は、私なりに欠かせない映画館となっていた。

東京オリンピックの開催していた1964年(昭和39年)の秋、
京橋の『近代美術館』に於いて、日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、
私は日参したりしていた。

そして映画を観る以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
ときには新宿御苑を散策したりした。
          

その後、映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、芸能専門養成所のシナリオ科に通った頃は、
銀座の『松坂屋』の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は、大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画は益々衰退して、脚本家で飯(めし)が食えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

そして私は文学青年に転身して、契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりし、
叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。

もとよりこの時代は高度成長期であったが、大学を中退し、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。
          

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベ関係ルが、レコード会社として独立した外資系の会社となり、私も転属された。

やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の早春から数が月程、通った。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、
おしゃれな高級店も数多くあったが、私は喫茶店を利用できる程度であった。

この当時も赤坂は、銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身の私は、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。

まもなく本社が六本木に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
          
      
1971年(昭和46年)5月に本社が六本木の所在となり、
四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルが勤務地となった。
この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、喫茶風の飲食店の『アマンド』、三菱銀行があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。

そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。

喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。

レコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
          
こうした中、 私は1972年(昭和47年)の頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら、数多くのシャンソン歌手の唄声を聴いたりした。
そして、ときには水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。
或いは、渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。

この当時、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
原宿駅、表参道などからシステムの業務提携の関係で数年通ったりした。
          

この間、私は六本木にある会社に通勤していたが、この六本木のはずれに、防衛庁があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、私が高校一年の時の1960年〈昭和35年)の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。


私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982年〈昭和57年)の頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。

そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街中でもかょ、と私は苦笑したりした。

その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、
活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで聴いた。

このようなことを思い馳せたりしたが、六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
私は防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」は魅力もなく、興味がないのである。
          
          
1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、渋谷の外れの勤務となり、
私が20代の後半に散策したパルコ、スベイン坂、道玄坂を懐かしんだりした後、
東急の文化村を知ったりした。

私の現役時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間がよくいう社用族として、銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。

従って、私は大手企業で昇進を重ねるエリートの方たちとは、程遠いサラリーマンの身なので、
シティ・ホテルなどに関しては、『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、
『六本木プリンス』、『京王プラザ』等ぐらいしか利用した程度である。
          
つたない私としては、駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、
居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには血気盛んな若き頃は、風俗店に行ったりしていた。
          

2004〈平成16年〉秋に定年退職した後、都心の人混みに疲れたせいか、齢を重ねたせいか、
六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新丸ビル等の興味がない。

ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、『京王デパート』、
或いは登山、ハイキングのアウトドアの専門衣料店で買物はするが、
帰路の最寄の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。

日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。
          
何より気楽なのは、自宅の小庭の落葉樹の四季折々のうつろいを眺めながら、
コーヒーか煎茶を飲みながら、家内とおしゃべりをしたり、
食事をするのが心身の波長に最良となったりしている。

或いは私は独りで、自宅の周辺を散策したり、或いは川沿いの遊歩道を歩いたりしながら、
小公園の常緑樹、落葉樹の季節のうつろいに心を寄せたりするのが多い。
                                  

私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、ときたま旅行を重ねているが、
自宅から一時間ばかりの東京駅を利用する時が多いが、高層ビルの並ぶ都心を眺めたりすると、
心の中で、めまいを感じたりしていることが多い。

そして旅先で料理、和菓子、日本酒をほめ、仲居さんにからかわれたり、
或いは温泉に入浴したりして、その地の風土を愛(め)でるのが心の良薬となっている。
          

このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、私の心は遥か彼方遠くなっている。

そして人出の多い都心は、定年後は何かと苦手意識を増しているので、
地元の地域を散策したりするのが、何よりも心やすらぐ時となっている。

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私の半生は、笑いと涙のあふれた七転八起だった、と思い馳せ・・。

2014-04-23 14:23:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

こうした中、ときおり思いだすように過ぎ去った日々を振り返ることがあり、
あの時に、もしも何かがあったならば、私たち夫婦の今の生活も大幅に狂っていた、
と思い重ねる時がある・・。

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社を2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、余すことのないように私自身の幼年期から現役時代、
そして年金生活の思い等を綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を発露するのが大切と思ったりしている。

このような思いを秘めてきた私は、数多く投稿文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、といっても差し支えない。
                         

私は幾たびも綴ってきたが、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
農家の児として幼年期を過ごし、やがて小学2年の時に父に病死され、
その後の1年過ぎた晩春の時に祖父にも死去され、
肝要なふたりの大黒柱を失った生家は衰退し、生活に困窮した時期もあった。

その後は、母の孤軍奮闘に寄り、私たち兄ふたり、そして妹のふたりの五人は
何とか世間並みの生活が出来るようになった。

この間の私は、長兄、次兄の学業は優等生であったせいか、
『お兄さんは・・優秀だったのに・・』
と担任の先生から言われたりし、何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。

高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなった。
そして初めて授業も楽しくなり程ほどの成績となり、
読書にも目覚めて熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。

そして私は小学生の後半から映画の数多くの作品に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。

そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら専門養成所で映画青年の真似事をした。

やがて講師の知人の新劇の長老から、
『映画の世界で飯(めし)を食べのは、益々困難になるょ・・
同じ創作だったら、小説を書きなさい』と私はアドバイスを頂き、
その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。
          

その後はやむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。

その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方のご尽力もあり、
この当時、民間の大企業であった映像・音響メーカーに中途入社できたのは、
1970年(昭和45年)の春であり、25歳の時であった。

その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
               

この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構え、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅ローンなどが重く苦心惨憺な時期も過ごした。

もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、私なりに奮闘したりした。

そして、ぎっくり腰で1ヶ月近く入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして音楽業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。

こうした暗澹たるリストラ烈風の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされた人もいたし、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。
                    

こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と改めて真剣に話し合った。

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、もとより老後の資金も肝要なので、
私は出向先の物流会社で、委託しているCD、DVD等の音楽商品を保管・管理する物流情報会社であり、
通勤としては、ほど遠く、この中のひとつの物流センターに配属された。

私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近くレコード会社の裏方の情報畑、管理畑に勤めた本社で勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していた。

そして出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い処まで、一時間半ばかりで通った。

職場状況、そして通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは戸惑いながら、
つたない私でも、もとより出向は本社機能の戦力から不必要だと烙印を押されたことであるので、
まぎれなく都落ちで、敗北感が充満し失墜感で気落ちした・・。
          

この後、何とか半年後に私は職場の業務にも馴染み、
やがて遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたりした。

そして私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このような半生であるので、世の中の半生記は何かと自慢史が多いと言われる中、
私は程遠い世界である。
          
もとより一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
数多い中小業で35年ばかり勤め、苦楽の激しかったサラリーマン生活であったので、
高収入、高額な退職金、まして富や名声に無縁である。

           
そして定年退職後は、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしているが、こうした時は苦笑したりしている。
          

年金生活を始めた当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
こうした中で年金生活をした当初、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

         
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。
                  

定年後の年金生活の日常の大半は、平素の買物専任者の責務を終えた後、
散策したりした後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで随筆のような形式をめざして、毎日投稿するのが、
生きがいのひとつとなっている。


このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
この中でひとつでも欠けていたら、私の今の生活は大幅に変更を余儀なくされている、と思ったりしている。

               
定年後、念願の年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ったりしている。
          

古来より、人生は『七転八起』と格言された名言の前、
私は確かにそうですよね、と自身の何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、
悪戦苦闘の多かった半生を重ね、微苦笑する時もある。

そして人生は、もとより自身の努力は必要であるが、
何よりもその時代ごとに、私は人との出逢いに恵まれて、叱咤激励されながら私は導かれてきた・・。
こうした思いがあるので、それぞれの時代にめぐり逢えた人に感謝の念を深めている。

そして老後の生活を迎えている私は、甘味な年金生活を続ける中、
いずれは私か家内が『おひとりさま』となるが、
こればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。

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後期高齢者が安楽に過ごせる教科書のひとつ、と69歳の私は思案させられて・・。

2014-04-21 13:58:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となる。
そして共に高齢者となり、介護保険証を受ける身となっている。

私は定年後の年金生活を10年近く60代を過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであり、
私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
          

私は定年後の年金生活を始めて、平素の買物の専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このような私たち夫婦でも、命果てるまでの残された歳月は、もとより天上の神々の采配によるが、
この先いつまでも慎(つつ)ましながらも、年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、
やがて体力が衰えて介護の身になるか、或いはどちらがいずれ片割れになる・・。
          
        
こうした思いをときおり思案したりする時もあるが、
今年の桜花が咲く3月下旬のひととき、ネットの【YAHOO! JAPAN】の中の『雑誌』のコーナーを見ていた時、
《 民間介護施設:一時金なしから4億円豪華版まで 》
という見出しがあり、どういうことなの、と思いながらクリックした。

何かしら記事元は、ビジネスと生活の総合情報誌として名高い『プレジデント』のオンライン・サイトであり、
私も特集記事に魅了された時に買い求めることもあるので、信頼できる内容が多いので、
精読してしまった・・。

そして『プレジデント』の一昨年の2012年1月16日号に於いて掲載された記事のひとつと解り、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。
           
         
《・・持ち家一戸建てが終の棲家になりえたのも今は昔。
平均寿命の延びや「おひとりさま」高齢者の急増によって、次のステージへの住み替えが推奨されるようになっている。

日本人の58.8%が、自宅で最期を迎えたいと考えているにもかかわらず、
実際に在宅で「死ぬことができる」人の割合は10%にも満たない(厚生労働省「終末期医療に関する調査等検討会」報告書)。
同報告書によれば、その主な原因は、「介護してくれる家族に負担がかかる」
「症状が急変したときの対応に不安がある」の2つであるという。

厚生労働省の調査によれば、要介護認定を受け始める平均年齢は75歳、
認知症の高齢者でグループホームを利用している人の半数が85歳以上だという。

つまり、多くの場合75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなるわけだ。
          

高齢者向け住宅施設には、入居者の介護レベルや費用にあわせて様々な選択肢がある。

軽い生活支援があれば自立して暮らせる人なら「シルバーハウジング」や「ケアハウス」、
寝たきりで重度な介護が必要なら「特別養護老人ホーム」などの福祉施設、
費用は高額だがゴージャスな設備で暮らしたいなら「介護付き有料老人ホーム」といった具合だが、
現時点ではどの施設も需要に対する絶対数が圧倒的に不足しており、
「重介護になるか、施設に強力なコネがあるかしない限り、
数年単位で入居待ちを続けるという人も珍しくない」(都内介護担当区役所職員)。

そこで、増え続ける高齢者の受け皿として急ピッチで整備が進められているのが、
「サービス付き高齢者向け住宅」だ。
          

2012年4月に施行された「高齢者の居住の安定確保に関する法律」(高齢者住まい法)改正によって、
これまで高専賃(高齢者専用賃貸住宅)や高円賃(高齢者円滑入居賃貸住宅)など
複雑に分けられていた高齢者向け賃貸住宅の制度が、
この「サービス付き高齢者向け住宅」に一本化されることになった。

認定の基準としては、(1)居住面積が原則25平方メートル以上、トイレと洗面設備の設置、
(2)バリアフリー設計、(3)安否確認・生活相談サービスを最低限供給するなどの条件がある。
要介護度3程度までの高齢者が安心して暮らせる設備が必須とされている。

国が約300億円ものマネーを投入し、
今後10年間で新たに60万戸もの「サービス付き高齢者向け住宅」の整備を目指している背景には、
団塊世代の超高齢化が目前に迫っているという社会事情がある。

高齢者問題や介護施設に詳しいファイナンシャルプランナーの山田静江さんはこう語る。
「これまで『老人ホームに入る』というと孤独で寂しい老後のイメージがつきまといましたが、それは古い常識。
高齢者も体が元気なうちは自宅で悠々自適に暮らせますが、
夫婦どちらかが要介護状態になったり、認知症になってしまったら、
他人の手を借りずに生活するのは不可能になります。

しかし、核家族化で家族に頼るのも難しく、
介護の担い手となる若者世代も絶対的に不足する超高齢化社会では、
そのときになって慌てて介護施設を探しても、受け入れ先が見つからないことが十分考えられます。

費用の安い施設は順番待ちで入れず、
高額な有料老人ホームに入るには費用が足りないという『介護難民』にならないためにも、
リタイア後の暮らし方について早めに計画しておくことが重要です」
          

「サービス付き高齢者向け住宅」は元会社員世帯の厚生年金受給者層の利用を想定しており、
入居時に高額な一時金を支払う必要もないため、有料老人ホームに比べればリーズナブルに利用できる。

都心か郊外かによっても異なるが、月々の賃料は近隣の家賃相場並み、
都心部ならトータル10万円台後半で暮らせるように設定されている。

「老後の収入と支出を考えると、
現役時代に年収1000万円くらいで比較的裕福に暮らしていた人は、
リタイア後に生活レベルを落とすことができず、収入減とのギャップに苦労するかもしれません。
たくさんの貯金があったり、はじめから、年収600万円世帯の暮らしを実践できていれば、
問題はないのですが・・」

比較的軽い要介護状態で高齢者向け住宅に居住すると仮定して、
家賃が月7万~10万円、そこに共益費や管理費が2万円、食費3万~4万円、
介護保険や医療保険の自己負担分4万円が加わって、
毎月20万円弱が老後の生活費と介護費用の目安となる。

「厚生年金の支給額が1人に月々15万円あるとして、
プラス月々15万~20万円使えるくらいの貯蓄額があれば、
かなり安心して暮らすことができますね。

もちろん求める生活レベルによって金額は異なりますが、
これまでのように年金と退職金で老後の暮らしを賄おうと考えている人にとっては、
正直なところ厳しい時代です」
          

さらに、高齢者向け住宅に入居さえすれば安泰というわけでもない。
より重度の介護が必要になったり、認知症がひどくなったりした場合には
「サービス付き高齢者向け住宅」では対処しきれなくなるケースもある。

「高齢者住宅情報センター」のセンター長、米沢なな子さんはこう指摘する。
「ひと口に“サービス付き”といっても、制度がはじまったばかりで実態はまちまち。
介護とは関係ない分野から新たなビジネスチャンスとして進出してきた事業者も多く、
きちんとニーズにこたえているかはわかりません。
基準を最低限満たしていれば、登録できますからね。

介護施設やクリニックを併設して手厚いサービスを提供している優良な住宅もあれば、
基準通りの安否確認と生活相談の担当者が
日中に常駐するだけのサービスしか提供されない住宅も少なくないでしょう」

後者の場合は、せっかく入居しても介護度が進めば退去を余儀なくされ、
最後まで住み続けられなくなってしまう。
入居を検討するときは必ず複数の住宅を見学して、
具体的な仕組みやスタッフの質をしっかり確認する必要があるというわけだ。
(略)
できれば「(後期高齢者となる)75歳になったら入居する」のが望ましいだろう。

「『まだまだ大丈夫』と自宅で頑張るよりも、早い段階で自分に適した高齢者住宅に入居することで、
結局は自立して生活できる期間が延びますからね」・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私の父は、私が小学2年の昭和28年(1953年)の春に病死され、
母は、私が50代のなかば、平成10年(1998)年に入退院を繰り返していた母に死去された。
家内の父は、私が定年退職の平成16年(2004年)の秋の直前に、やはり入退院を繰り返し病死し、
私たちの両親は 家内の母だけとなり、千葉県の八千代市で一軒屋に独り住まいとなっている。

家内の母は私より14歳齢上の84歳であり、
2年前から膝(ひざ)が悪化して、市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。
そして自身の身の廻りの料理、掃除、洗濯などは出来ているいるが、
やはり季節の変わり目の暖冷房、カーテン、衣服の冬物、スリー・シーズン、夏物、小庭の手入れなどは、
間々(まま)ならず、長女の家内が年に数回、6泊7日前後で支援している。

或いは私の近くの住宅街の中で2軒が、『売家』が看板が立てられ、
ご近所の風の噂で、介護施設に入居された、と私は聞いたりしていた。

共に後期高齢者のご夫妻であったが、やはり75歳以上の高齢者になれば、
どちらかが介護の身になるのは・・と私は深く考えさせられたのである。
          

私の住む地域は、路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
          
こうした根底のひとつには、何よりも認知症が怖くて歩いている。

私たち夫婦は、子供もいないので支援を受けることも出来ないので、
果たして何年先まで、古びた家でささやかな年金生活ができるのかしら、
と時折ぼんやりと思案したりしているのが、昨今の私の真情のひとつてある。

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ときには庭の手入れ、家内の姉さん被(かぶ)りの支援を受けて、昼食抜きで互いに奮戦し・・。

2014-04-20 17:35:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の夕食時に、私は家内に、
『樹の枝葉も伸びてきているし・・明日庭の手入れをするよ・・』
と私は家内に言ったりした。
『そう・・私も手伝うから・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我が家の小庭の手入れは、原則として私の責務の範疇であるが、
蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けることが多い。


穀雨(こくう)の時節を迎えた今、古来より春の雨が全ての穀物を潤(うるおえ)すと伝えられ、
農業をされている方たちは、この時期に種まきをすると植物の成長に欠かせない雨に恵まれるといわれている。

我が家の小庭は、落葉樹は日増しに幼い葉を広げ伸び、常緑樹は新芽を伸ばし、
みずみずしい新緑の情景となっている。
そして地表の草まで元気よく伸び、過ぎし13日に樹木の剪定、そして草むしりをしたが、
玄関庭、主庭の手入れは、体力を使い果たして程ほど残してしまったのである。
                         

今朝、地元の天気情報を見たら、朝の6時は6度、昼下りは13度前後、夜の6時は12度前後、
曇りときおり晴れ、と報じられ、私は何よりも暑さ苦手な身なので、
暑くも寒くもないので庭の手入れにベストだよなぁ、と私は微笑んだりした。

そして8時半過ぎに私は玄関庭の下り立ち、
いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにした後、どの樹から剪定しょうかしら、
と思ったりした。

とりあえず垣根のカイズカイブキが伸びきたので短めに切っていると、
家内は、トレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被り、ウォーキング・シューズの万全な容姿で、
滑り止めの軍手をして、高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、
私に近寄ってきた後、付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としたりした。
                   
この後私も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

私は樹木の枝葉を切り落としたりしていると、ときおり地上から、
『その枝もっと短く切り落として・・』
と家内から指示が飛ぶ中、何かと単細胞の私は奮戦した。
          
   
そして我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキなどを剪定したり、
玄関に近いナンテンなども短めにした。

こうした中で、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲みながら、休憩したりした。

この後、剪定した後の切り落とした枝葉を市の指定の『燃えるゴミ』袋に、
剪定鋏(ハサミ)で枝葉を袋が破けない程度に細かく切り分けたりした。

やがて私は草むしりを始めたが、樹の下にもぐるように草取ったりしたので、
泥だらけと成ったりした。

家内は64歳の身であるが、何かしら心身溌剌とし、元気なのである。
私は5つばかり齢上であるが、定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、
昨今は体力の衰えも実感している。

私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。
          
                 
そして私たち夫婦は昼食も抜きで奮闘したが、
午後の3時過ぎに、『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・やめない?』
と私の方から家内に提案し、やがて風呂を沸(わ)いた頃、家内に先に入ってもらった・・。

この間の私は、主庭のテラスに簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら、
疲れたよなぁ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
                        
私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで、家内が風呂上りを待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑し、短くなった樹木を眺めたりした。

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ネットの『正の報酬』と『負の報酬』、時代遅れの69歳の私は学び、微苦笑して・・。

2014-04-19 12:42:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。

そして我が家のパソコンは、主力機はOSと称される基本システムの『ウィンドウズ8(エイト)』で殆ど毎日愛用し、
補助機として旧機の『ウィンドウズ7(セブン)』を時折使用している。

          
こうした中で我が家は、門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の配線下となっている。

そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。

その上にスマートフォン、フェイスブックそしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                                     
私は1998年〈平成10年〉の当時、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から、若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始め、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。

この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年〈平成11年〉の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。

勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女130名前後で対応した。

東京ドームより広い商品センターの中で、連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職時を迎えた。

この間の世の中は、殆どの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていた・・。

そして私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
5年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。
          

昨夜、パソコンを開き、【YAHOO! JAPAN】の中の『雑誌』のコーナーを見ていた時、
《 仲間はずれ、誹謗中傷が怖い 大人がネットをやめられない理由 》
という見出しがあり、どういうことなの、と思いながらクリックした。

何かしら記事元は、『週刊朝日』の昨年の2013年11月1日号に於いて掲載された記事のひとつと解り、
好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と私の信念に基づいて、精読してしまった。
無断であるが転載させて頂く。

《・・LINEやフェイスブックへの「SNS依存」や「オンラインゲーム依存」など、
ネットやスマホに依存する大人が増えている。

中にはゲームを1日8時間プレーして無断欠勤をするケースや、
ママ友から嫌われたくないという理由でSNSに依存する人もいるという。
「やめたい」と願っていても、やめられない。
こうした心情は「負の報酬」と呼ばれ、ネット・スマホ依存から簡単には抜け出せない理由の一つだという。

負の報酬とは、ネットやスマホの利用をやめることによって生じるデメリットのことだ。

「ネットの世界で獲得できる充足感や癒やしは、いわゆる『正の報酬』に位置づけられます。
飲酒で味わう陶酔感や、ギャンブルで得られるお金、快感と同じものです。
これも依存の要因となりますが、それに加えてネット・スマホでは『負の報酬』によっても依存が助長される」
(東京大学大学院情報学環の橋元良明教授)

例えば、オンラインゲームでは、プレーヤーが操る登場人物の熟練度が上がると、
他者からの尊敬や注目を集め、達成感を得ることができる。

そうした正の報酬を得られる半面、ゲームをやめてしまうと、
仲間から相手にされなくなる不安や、迷惑をかけるかもしれないという罪悪感、つまり負の報酬も抱くというのだ。

SNS依存でもコミュニティーから抜けることで、仲間から中傷されたり、グループからの隔絶に不安を抱いたりして、
本人がやめたいと思っていてもやめられないケースが多いという。

「正と負の報酬が相まって、自分の意思で使用をコントロールできなくなる。
ネット・スマホ依存の特性と言ってもいい」(同)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


この記事を読み終えた後、ネットの世界でも『正の報酬』と『負の報酬』があるんだなぁ、
と微苦笑させられたのである。
          

確かに固定の光ファイバー回線を頼りにパソコンを活用している私でも、
ネットから『正の報酬』を受けたりしたいる。

テレビのニュースを視聴したり、或いは購読している読売新聞を読んだりしている中、
政治、外交、軍事、経済、社会などの問題について考えさせられた時、
ネットで更に検索したりいることが多い。
そして更に私なりに解明したい時は、本屋により買い求めたりしてきた。

たとえば福島原発の難題の時は、武田邦彦(たけだ・くにひこ)・著『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』(産経新聞出版)、
電子書籍の問題の時は、山田順(やまだ・じゅん)・著『出版大崩壊 ~電子書籍の罠~』(文春新書)、
正社員でもリストラの難題の今日は、溝上憲文(みぞうえ・のりふみ)・著『非常の常時リストラ』(文春新書)、
女性の就職、勤務の実態史は、上野千鶴子(うえの・ちずこ)・著『女たちのサバイバル作戦』(文春新書)、
など多々教示されてきた。

或いはネットから私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に於いて、
ネットを検索して、その地の地図、観光情報、宿泊先の情報など数多く学び、
遊学してきた。
          

そして2004年(平成16年)の秋に定年退職し、まもなくブログの世界を知り、
この後はパソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

もとよりブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の愛読者は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

私のブログの根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。l
          

こうした中で、特にシニア層の綴られた投稿文を読ませて頂くと、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ色々な苦楽の深淵を感じながら年金生活を過ごしたりしている。

少なからずこうしたことは、私はネットで恩恵を受けてきたのて、
まぎれなくネットの『正の報酬』を受けてきた。
          

これらに反して『負の報酬』は、スマートフォンの使えない私でも、
ここ数年に於いて、余りにもスマホ依存の実態の社会に憂いているひとりである・・。

過ぎし一昨年の2011年12年に於いて、平素の買物専任者の私は、
駅前のスーパーに行った時、駅近くの商店街を歩いていると、
若き20代の女性が前かがみで何かを見ながら歩いていた。

その後、駅前の広場を足早に歩いていた若き30代の男性も、
やはり前かがみで何かを見ながら歩いていた。

私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎のような方が増えた、と私は苦笑したりした・・。

もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪(まき)を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。

私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
ここ一年ぐらい話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、と解った。

そして過ぎし日に雑誌などで教示され、従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、
カーナビ、携帯音楽プレーヤー、ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、
と知り私は驚いているひとりである。
          

この後日、私は久々に電車に乗ろうと改札口に入り、
地下にあるプラットフォームに通じるエレベータ乗った時、
隣にいる若き20代の女性が、このスマートフォンを忙しそうに画面を変えていた。

そしてエレベータの降り口から平坦となったプラットフォームを歩いていても、
スマートフォンの画面から目を離さないので、人の多い所で危ないなぁ、と私は危惧したりした。
その後、やはりこの女性は40代ぐらいの男性にぶつかり、目礼しながら謝ったりしていた。

私は身体の衰えた高齢者、或いは構内のベンチとかに、ぶつかったり、
最悪の場合は電車が入線してきたら、と私の方がハラハラしてしまうのである。
                   
               
或いは、私は近くの野川の遊歩道を散策していた時であった。
落葉樹のたわわな葉は、紅色、朱紅色、黄色など染められている錦繍(きんしゅう)の情景が終わりかけ、
枝には少しばかりの葉が残り、朝のまばゆい陽射しが樹木の枝葉を照らしだして、
私は思わず足を止めて、見惚〈みと〉れていた・・。

まもなく後方から足音が聴こえ、突然に足音が消え、私は後ろを振り向くと、
わずか1メートルぐらいで、若き20代のツーピスを召された女性が、驚いたように立ちすぐんでいた。
私はこの女性の顔立ちを見た後、手に握りしめたスマートフォンに気付いた。

そして、この女性は人影の少ない遊歩道で、スマートフォンで情報を検索しながら歩いているうちに、
私の姿を手前で気付いた、と思われる。

この女性は私に目礼をして立ち去ったのであるが、
私の方が、もっと驚いたょ、と私は心の中で呟〈つぶや〉いたりした。
          
          
このように昨今は何かと慌ただしく、世の中は情報に溢れているが、
働いて下さる若き諸兄諸姉、せめて歩いている時ぐらいは、前方を見据えて颯爽と歩くのが何よりも美しい、
とサラリーマンを35年近く体験した私は確信を深めている。

このような私の提言としては、街中でスマホを使用する場合、ご自身の安全の為に「歩きスマホ」は自己抑制し、
やむなく使用する場合は、電車とかバスの中とで自身が停止できる状態、或いは職場に早めに出勤して使用する。

ここ10数年、短期に職務の成果を求められる時代であるが、
この提言の範囲でスマホを時間以外に使用すれば、と思案したりしている。
                    

そしてここ10数年、携帯電話が普及する中で、働いた下さる諸兄諸姉は、
通常の業務には必須の情報機器であり、そして4年前の頃からはスマホが急速に活用されてきている。

そして第一線を退かれた60代、70代の殆どの方が、携帯電話かスマホを利用され、
ご高齢の80代以上の方たちも家族間の連絡、緊急連絡でお守り代わりに利用されている状況となっている。

まして若き10、20代の世代の人の一部には、新聞も購読せず、パソコンも所有せず、
スマホだけを頼りに生活をされている現実がある。

このような情報があふれるような社会状況となっている今日、程ほどの利用は必要であるが、
たえずスマホを手にされて頼りにされるのは、いかがなものかしら、と私は憂いている。
          
まして私生活の貴重な時間に於いては、スマホの活用は程ほどの節度が必要と確信を深めている。
          

私が平素は自宅の近くの遊歩道を散策することが多く、
たまたま日曜日に散策していた時、若き30歳前後の男女が前方から歩いてきた・・。
仲良し恋しのおふたりと私は好感しながら眺めながら歩いた。

そして20数メートルの前方の距離になると、
この男性の右手にはスマホと思われる情報機器を持ち、ときおり見ながら、
連れ合いの女性にうなずくような歩いてこられた。

私はすれ違った後、この若き男女の後ろ姿を見ながら、
たぶん休日の日と思いながらも、スマホなどは自宅に置き、
せめてこうした時ぐらいは情愛を深め、語り合うことをされたら、と思ったりしたのである。
         

このようにネット、特に余りにもモバイル依存の実態の中、
「歩きスマホ」は、駅中や大通りの雑踏、さらには横断歩道など、非常に混雑した場所で、
メールやSMSと称せられる短い文章によるメッセージを送受信するサービスなど、
或いはフェイスブックのステータス・アップデートをチェックするなど、
モバイルのコミュニケーション依存症に危惧しているひとりである。

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年金生活の我が家、数多くの年金生活のお金の実態を学び、微苦笑を重ねて・・。

2014-04-18 13:33:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、霧雨の降る朝を迎え、10数日ぶりの雨かしら、と私は微笑んだりした。
私の住む地域は、ここ10日間ぐらい4月下旬、ときには5月下旬のような陽気に恵まれてきたので、
樹木、草花にとっても潤(うるお)いのある小雨だ、と小庭に舞い降る雨を眺めていたのである。
          
           ☆ 午前中のひととき、小雨降る我が家の小庭、戯(たわむ)れに撮った。
             今回、掲載した写真も同様である。☆

この後、購読している読売新聞の朝刊を読んだりしていた時、
出版社の広告のひとつに『ねんきん生活。月15万で幸せに暮らす』と題された本の見出しを見て、
年金生活10年生の私は、微苦笑させられた・・。


私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
          

この間、私たち夫婦は自分たちの老後の生活の改めて話し合ったのは、
1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界は、1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、業務の大幅な見直し、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
                     

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、
各出版社から数多くの本が発売されていたので、私なりに買い求めた。

そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、
『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを読んだりした。

或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、
そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。

そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、
予定表も作成したりした。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、
私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れたりしていた。
                              

こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

そして経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。
 

       
しかしながら私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの年収、そして退職金などは、
遥かに及ぶことなく、遠い存在である。
          

そして昨年の下記に、ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』が、
『ゆとりある老後 必要な資金は』の記事をネットで提供された記事を私は精読していた・・。

ジャーナリストの山本信幸さんの寄稿文を無断ながら、長く引用させて頂く。
《・・(略)・・定年後の生活にいくら必要か?  という質問にひと言で答えるなら「1億円」である。
大卒社員の生涯賃金の3分の1に相当するお金を、老後のために確保することなんてできるのだろうか?  

まずは老後の生活には毎月いくらかかるかという話から始めよう。
2010年度の総務省・家計調査報告によると、
夫65歳以上、妻60歳以上の高齢無職世帯の夫婦の1カ月の平均支出が26万4948円。
対する収入は22万3757円。毎月4万1191円の赤字である。

ここで注目すべきは「年金面では恵まれているリタイヤメント世代でも、
公的年金だけでは生活ができない」ところにあるとFP(ファイナンシャルプランナー)の大竹のり子氏は指摘する。
しかも「収支が赤字になる状況は、現役世代がリタイヤする頃になっても解消されないどころか、
もっと厳しい状態になる」(大竹氏)ことはほぼ確実だ。

この生活で夫婦ともに90歳まで生きると仮定して、60歳以降、年金以外に必要なお金は約3000万円だ。
ところがこの平均的な支出では、旅行やレジャー、趣味を楽しむゆとりのある生活はできないと多くの人は考えている。
          
          
2010年度「生活保障に関する調査」(生命保険文化センター)によれば、
夫婦で老後にゆとりある生活を送るには36万6000円の収入が欲しいという。
その場合、30年間で必要な額は約6700万円にも膨れ上がる。

とはいえリタイヤ直後の65歳と、20年後の85歳では生活の仕方も変わるはずだから、
生涯にわたって毎月36万6000円使うというわけではない。
老後のお金に詳しい経営コンサルタントの岩崎日出俊氏は、こう試算している。

60歳まで生きた男性の平均寿命は82.84歳、女性は88.37歳まで生きるという統計(2010年簡易生命表)がある。
余裕を持たせて夫87歳、妻92歳まで生きると仮定し、
最低限の生活のためには月24万円、ややゆとりある生活のためには月30万円かかるとすると、
最低限生活では1億776万円、ゆとり生活では1億1856万円確保しなければならない。

しかし年金が7274万円支給されるので「不足分は最低限生活で3502万円、ゆとり生活で4582万円になります」。
・・(略)・・》

ここまで私は読んだら、年金生活のスタート時点に4500万円あれば、ゆとり生活ができる、
と苦笑したりした。

そして私の現役時代の先輩、同僚、或いは友人の中で、
不幸にも定年退職時の前に、リストラ烈風で退社を余儀なくされて、不遇な方もいる。

或いは父親の商店を受け継いで、何とか生活しているよ、と私は中学校時代の有志会で、
聞いたりしてきた。
          

こうした中で、私は総務省が「家計調査」実態の公表を読んだりした。
昨年の2013年(平成25年)6月末現在の平均支出額として、
60歳から69歳の世帯で月額25万9695円、70歳以降が19万6500円。

或いは金融広報委員会の調査に於いては、
老後の生活費として現役世代が見込んでいる金額は平均で26万円。

こうした実態であるならば、年金だけでは老後の生活費をまかなうことはできない、
と私は思われた。

そして肝要の年金受給額の実態は、日本年金機構の公表に於いては、
一昨年の2012年(平成24年)2月現在として、モデル世帯の年金月額は約23万円。
そして内訳は、夫の老齢厚生年金が約10万円、老齢基礎年金が約6万5000円、
妻の老齢基礎年金が約6万5000円。

そしてモデル世帯は、夫が厚生年金に40年加入し、妻が第3号被保険者を含め、国民年金を40年納めた場合であり、
ここ15年前後、経済が衰退する中でリストラ烈風もあった中で、モデル世帯のような条件の良い世帯は現実には少数派、
と私は感じたりした。

そして実際の年金額の平均としては、日本年金機構の統計の昨年の2013年(平成25年)7月現在に寄れば、
厚生年金が10万8348円、基礎年金が5万3716円。
そして夫が会社員、妻が専業主婦というモデルに合わせた場合、平均の年金額は21万5780円。
そして60歳から69歳の支出額に、約4万4000円不足。

このような年金生活の実態を私は学んだりしてきた。
          

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしている。

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若葉の色合いは新緑色に染められる中、富や名声に無縁な私でも、夢幻のようなひとときを過ごし・・。

2014-04-17 14:29:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

平素の買物の専任者の私は、本日の10時過ぎに家内からの依頼された品を買い求めにスーパーを2店ばかり廻り、
責務を終えた後、いつものように散策をした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
こよなく愛している散策路のひとつである。

私は過ぎし3月下旬から桜花の染井吉野(ソメイヨシノ)、そして山桜(ヤマザクラ)、
終幕として八重桜(ヤエザクラ)を愛(め)でながら過ごしてきた。
          

この間、数多く観られる落葉樹は、芽吹き、そして若葉の色合いは、萌黄色から黄緑色にうつろい、
昨今は新緑色に染められいる。

或いは常緑樹は、新芽を伸ばしながら葉色は光沢を増し、眩(まばゆ)い色合いとなっている。


こうした中で本日も午前中のひととき、歩き始めた・・。
天上の気候の神々の采配に寄り、5月中旬のような20度前後の陽気の中、
眩(まばゆ)い陽射しを受け、ときおり吹く風は薫風かしらと感じたりしたので、
風光る時節だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりし、微笑んだりしたた。

そして私は小公園に立ち寄って、
欅(ケヤキ)は幼いあまたの葉を広げて、空に向かうように伸びはじめている。
          
               
こうした中で、クヌギ、コナラなどは芽吹きが始まり、
これから大きく育つからねぇ、見ていてねぇ、といったような風姿を見せてくれている。
               
新緑の若葉の色合いに魅せられて、長らく見惚(みと)れたりした・・。
         

やがて私は歩きだして、野川の川端に近い小路は、
この時節は黄色い花の菜の花、そして淡き紫色のハマダイコンの花が、長く帯のように咲くので、
私は遊歩道から見下ろして、ここ10数年眺めてきた情景である。        
          

やがて私は、遊歩道から川辺に下り、先ほど橋の上から眺めていた菜の花、ハマダイコンにお見合いする為、
川端の小道をわずかながら歩いた。
          
          
そして菜の花、ハマダイコンを長らく見つめたりした。
          
      
私は幼年期は農家の児として育てられたので、このような野花に今でも魅せられている。

このように平日の午前中のひととき、富や名声に無縁な拙(つたな)い私でも、
私にとっては夢幻のようなひとときを過ごしたりしている。


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筍(たけのこ)を私の生家から頂き、遠い昔の竹林に深く思いを馳せて・・。

2014-04-16 14:47:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝の7時半過ぎに、長兄の奥方より電話があり、
『筍(たけのこ)を掘ったのですが・・』
と連絡を頂き、
『お義姉(ねえ)さん・・これから頂きにあがります・・』
と私は言った。

そして我が家より徒歩で数分離れた私の生家であった長兄宅に行き、
『小振りになった上・・少ないですが』
と長兄の奥方より言われながら、私は受け取った。
          
            ☆ 帰宅後、玄関内で記念写真ねぇ、と戯(たわむ)れに撮った ☆

この後、小庭のテラスに下り立ち、先程頂いた筍(たけのこ)を思い浮かべると、
遠い昔の60年前の生家にあった竹林に思いを重ねたりした・・。


私は農家の三男坊として生を受けたのは1944年(昭和19年)の9月下旬であった。
やがて地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。

そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、物置小屋と称した納戸などがある農家であった。
          

そして竹林は、孟宗竹だけでも2反(600坪)程あり、
4月の中旬過ぎの頃になると、筍(たけのこ)を殆ど毎日のように、数週間ぐらい青果市場に父は出荷していた。

秋になると、祖父と父は地表に竹の根が出そうになったのを最低50センチぐらい堀り起こし、、
枯れた竹の葉、肥料を施(ほどこ)して、地中に埋めた。
こうした中、次兄と私は、穴が掘られた後に子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。
地割れと土壌が固くなるので、私たち子供は近寄れなかったのである。

そして4月の中旬から5月の初め、
柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍(たけのこ)を掘り出すためであった。

この微かな地割れを専用のスコップで60センチぐらい堀り、やがて大きな筍(たけのこ)を掘り出した。
すべて地中で育ち、根元は最低10センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、商品価値が激減するのであった。

地上から5センチ以上芽がだした筍(たけのこ)は、皮は黒ずみ、身が固くなるので
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
そして地中にあった良質の筍(たけのこ)は、青果市場に出荷していた。

それから残した筍(たけのこ)は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも著しい成長を眺め、歓び心を躍らせていた・・。
          

夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。
この当時は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで多くの家で使われていた時代であった。
その後、1953年〈昭和28年)の春に父は病死し、翌年に祖父も他界した。

そして父と祖父は大黒柱だったので、農家のノウハウを失くした生家は衰退していった。

やがて私の生家、周辺の農家も、この後は東京のベットタウンに急速に変貌し、
住宅街となり、もとより田畑は消え去り、そして雑木林、竹林も無くなっていった・・。
          

この間、私が小学生の4年生の頃、付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。
傾斜には竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があった。

そして私は近所の父親の知人より、小説家が引っ越してきた、と私は聞いたりして、
私は独りで下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが小説家かょ・・何か難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、私が高校生に入学してまもない時、最寄駅に近い本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤かょ、と気づかされたのである。
          

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。
地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍(たけのこ)じゃない、と言ったりした時、
半信半疑の目付きをされたので、困ったりした。

私の新婚旅行の時、京都市内の外れで、筍(たけのこ)の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の生家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍(たけのこ)かょ、と感じたりした。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。


その後、確か2006年〈平成16年〉の5月に、
購読している読売新聞に於いて、【彩事記】が随時掲載をされている記事であり、
私の思いに近い記事で、榊原智子・記者が綴られた記事が掲載されていた。
無断ながら引用させて頂く。

《・・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。(略)・・》
このように時代の趨勢を綴られていた。
          

その後、私は2009年〈平成21年〉の4月、私たち夫婦は家内の母を誘い、
鹿児島市内と霧島温泉に5泊6日の旅をした時である。

この中で、鹿児島市の郊外にある島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に、
私は独りで観て廻ったりした。

この時は、4年前に、家内と団体観光ツアーでこの『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか2時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。

一時間近く歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、『竹徑亭』に寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、それぞれの色合いに染められ、この時節を教示してくれた。

この後、奥にある曲水の庭の外れに、『江南竹林の碑』と明記された石碑があり、
漢文で碑文が明示されていたので、私は『仙厳園』に入園した時に頂いた解説文を読んだりした。
《・・「浄国公(21代吉貴)が琉球に江南竹(孟宗竹)のあることを聞き、
日本にはまだないので植えたいと願って取り寄せたが2株しかもらえず、それを仙巌園の裏山に植えた。

その後、この竹が繁殖し、藩内のみならず国内各地に移植した。
そのタケノコがおいしくて、万人に愛されている。
この竹で利益を得るものは、浄国公のおかげだから、その名をたたえよ」・・》

こうした解説文を読み、この地から日本の各地に孟宗竹が拡がり、
やがて多くの方に筍(たけのこ)を愛食されたのか、と私は長らく孟宗竹の竹林を見つめていた・・。
          


ここ35年近く、私が住んでいる近くに生家だった長兄の宅より、
この時節になると筍(たけのこ)を毎年頂いている。
長兄の宅の宅地のはずれに、わずか5坪ぐらいの竹林があり、
手入れも昔ほど出来なくなり、地表に出た、カラスを掘り起こしている。

このカラスと称した筍(たけのこ)であるが、家内に料理してもらい、
私は3日も続けて食べたりし、幼年期の愛惜感も増して、この世の最上の食べ物のひとつである、
と思いを深めながら頂いている。

そして年金生活の中、ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。

或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。

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風光る陽春の中を散策すれば、つたない感性の私でも、確かな美を享受して・・。

2014-04-15 14:35:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、
63年近くこの地に住んでいる。

10時半過ぎに平素の買物の専任者の私は、スーパーで家内からの依頼品を買い求め、帰宅した後、
本日はどのコースを散策しょうかしら、と少し思案した後、野川の遊歩道とした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は上流沿いとした。

そして門扉の近い小庭の片隅の紫木蓮(シモクレン)、モミジに微笑んだりした、
私は出かけた・・。
          

私はいつものようにストレッチパンズの長ズボン、スリーシーズンのスポーツシャツ、ウォーキング・シューズの容姿であったが、
野川の遊歩道を上流に向って歩けば、眩(まばゆ)い陽射しの中、ときおり風が吹き、
心地よさを感じながら、風光る季節だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

川沿いを眺めれば菜の花が黄色い帯のように長く続く中、
並ぶように白と薄紫の大根の花のような白と薄紫色の花色が帯状になっている。
          

この時節、この野川の川沿いには数キロに及び帯状になっているのを私は毎年享受している。
そして私は歩きながら菜の花のかぐわしい香りと共に心を寄せたりしてきた。
          

やがて対岸の橋を渡り切ると、あれぇ早くもハナミズキの花が咲いている、と私は近づいたりした。
          

私はハナミズキの花に、長らく見惚(みと)れたりした・・。
          

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
その直後から年金生活をして早くも10年目を迎えている。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだった為か、
この花水木(ハナミズキ)の樹の純白の花に、心の濾過を託すように圧倒的に魅せられてきた。

そしてこの時節を迎えると、花が咲き、そして花も終わりを告げて、
あまたの枝葉を大きく広げ、秋には朱紅色に葉を染めて、陽射しを受け、やがて冬木立となり、     
来年の芽吹きの時期まで、お別れねぇ、と愛惜を重ねたりしてきた。

私は遅ればせながら、2004年〈平成16年〉の秋に退職してまもない時、
偶然にラジオから、一青窈(ひとと・よう)ちゃんの『ハナミズキ』の歌が流れて瞬時に魅了された・・。
            
私たち夫婦は雑木の多い小庭の中で古びた一軒家に住み、
子供に恵まれなくたったふたりだけの家庭である。

ささやかな年金生活の中、お互いの趣味を互いに尊重して過ごしている・・。

私は定年後の年金生活を始めて、平素の買物の専任者となった私は、
殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このような私たち夫婦でも、命果てるまでの残された歳月は、もとより天上の神々の采配によるが、
この先いつまでも慎(つつ)ましながらも、年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、
どちらがいずれ片割れになる・・。

こうした心情を秘めた私は、一青窈(ひとと・よう)ちゃんの『ハナミズキ』の歌の中で、
♪百年続きますように・・、と唄われていたので、少しでも私たち夫婦が長生きできれば・・、
と託したりして、この花水木(ハナミズキ)の樹の純白の花を見つめたりしてきた。
             


やがて再び歩きだすと、小花を見つけて、壁の花のような中、ひっそりと咲いているのに、
瞬時に魅了されて、長らく見惚れたりした。
          

この後、住宅街の歩道を歩れば、欅(ケヤキ)は芽吹きから幼い葉を終えた今、
枝葉は大空に伸ばすように聳(そび)えている光景に、
私は幼年期は農家の児として育てられたので、何かと愛惜感を重ねた見上げたりした。
          

やがて自宅に戻る帰路、まばゆい陽春の陽射しの中、モミジの枝葉も日増し毎に成長している情景に、
私は眺めながら歩いたりした。
          

そして私は一時間ばかりの散策の中、つたない私の感性でも、
確かな美の数々にめぐり逢えた、と私は幸福感をかみしめるように帰宅に向った。

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