私は昭和45年4月にある企業に中途入社できたのは、25歳であった。
これ以前は、大学を中退し、映画、文学青年気取りで生活をしていて、
音楽に関しては余り関心がない方であった。
この企業に入社前は、レコードのLPをクラシックを主体とした
10枚前後を所有している程度であった。
この中の1枚は、モーツァルトの交響曲第40、41番であり、
文藝評論家・小林秀雄・氏から影響を受けて、買い求めたレコードである。
もう一枚は、チャイコフスキーの交響曲5、6番であった。
いずれにしてもお金に余裕がなく、食事を抜いたりして、購入したレコードであった。
企業に入社前の面接時に於いて、レコード部門を熱望し、何とか叶(かな)えられた。
音楽の知識のない私は、給料を頂くたびに、自社の一枚、他社の一枚と買い揃えていった。
まもなく私の配属された部門がレコード会社として、独立し、私も一員となった。
この時代は、音楽のソフト商品としては、
レコードが主体で、ステレオ8(エイト)と称したカートリッジ・テープ、
そしてカセット・テープが少しずつ増えてきた状況であった。
平成元年前後、コンパクト・ディスク(CD)と主流となった。
この時、私の自宅にはレコードが1000枚、カセットが300本程度となっていた。
やがて、レコートの好きな友人に貰ってもらったが、
今の私には、150枚前後のレコードが残っている。
いずれも私の心に深く影響を受けて、その時を想い出されるレコードなので、
レコート・プレイヤーを手放しているが、捨てきれずにいる。
これ以前は、大学を中退し、映画、文学青年気取りで生活をしていて、
音楽に関しては余り関心がない方であった。
この企業に入社前は、レコードのLPをクラシックを主体とした
10枚前後を所有している程度であった。
この中の1枚は、モーツァルトの交響曲第40、41番であり、
文藝評論家・小林秀雄・氏から影響を受けて、買い求めたレコードである。
もう一枚は、チャイコフスキーの交響曲5、6番であった。
いずれにしてもお金に余裕がなく、食事を抜いたりして、購入したレコードであった。
企業に入社前の面接時に於いて、レコード部門を熱望し、何とか叶(かな)えられた。
音楽の知識のない私は、給料を頂くたびに、自社の一枚、他社の一枚と買い揃えていった。
まもなく私の配属された部門がレコード会社として、独立し、私も一員となった。
この時代は、音楽のソフト商品としては、
レコードが主体で、ステレオ8(エイト)と称したカートリッジ・テープ、
そしてカセット・テープが少しずつ増えてきた状況であった。
平成元年前後、コンパクト・ディスク(CD)と主流となった。
この時、私の自宅にはレコードが1000枚、カセットが300本程度となっていた。
やがて、レコートの好きな友人に貰ってもらったが、
今の私には、150枚前後のレコードが残っている。
いずれも私の心に深く影響を受けて、その時を想い出されるレコードなので、
レコート・プレイヤーを手放しているが、捨てきれずにいる。