夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

美しい日本語を学ぶには、秋篠宮さま誕生日会見のお言葉を拝読し・・。

2010-11-30 18:13:16 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨今、政治は昏迷、経済は低迷、社会は劣化となる中で、
私が何より気になるのは、ここ30数年の日常の会話の劣化である。

もとより祖父、祖母、父親、母親などから学び、子供は育ち、
子供は隣人、学校の同級生、そして先生などと交流を重ねて、
その人なりに育(はぐく)まれ自己形成となるのであるが、
テレビの低俗番組のはすぱな会話も影響している、と私は思ったりしている。


私は農家の児として生を受け、祖父、両親、叔母など、
そして長兄、次兄に囲まれて育ち、はしたない言葉を発露すると、ひどく怒られた。
隣人の小父さん、小母さんなどからも、たしなめられた・・。

社会が大家族から核家族に激動し、大きく変貌をしたが、
日常の言葉は、富貧の差に関わらず、出来る限り正しい日本語の言葉で話しなさい、
と祖父から教えられた。

私たち夫婦は子供に恵まれず、たったふたりだけの家族であるが、
ここ30数年、男の子、女の子にしても、聞くに耐えない会話を街中、近所からでも、
聴こえる時がある。

こうした時、ご両親はどのように子供のしつけ、言葉を教えてきたのかしら、
と私は憂いたりしている。

こうした子供は、たとえ高校生になっても、こちらが動顚してしまうような言葉を発言し、
たとえば容姿は女子高校生でも、園児以下のわめき散らす幼児と同じ、と私は思ったりしてしまう。

もとより言葉も社会の移す鑑(かがみ)と称した方もいるが、
若い人、中には大人の一部には、少し酷(ひど)過ぎると私は、ここ30数年憂いている。


たまたま本日、秋篠宮さま誕生日会見のお言葉を拝読したりしたが、
美しい日本語を話される、と改めて感銘させられたのである。

http://www.yomiuri.co.jp/features/impr/im20101130oak953mkh761_01.htm
☆ 読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】
                        《特集》秋篠宮さま誕生日会見詳報 ☆


昨今の若い人たちに、このようなお言葉を読んで頂き、
どのような反応をされるか、何よりも少しでも学んでほしい、と私は深く思ったりしている。

あえて重複するが、日常の言葉は富貧の差に関係なく、その人の人格を現(あらわ)すので、
ご自分を粗末にし、辱(はずかし)める必要はない、と私は思ったりしている。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『常用漢字』、日本語の基本であり、限りなく育(はぐく)む日本文化の確かなひとつである・・。

2010-11-30 08:38:58 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだ後、何よりも魅了された記事は、
1面の総合面の左隅にある、

《 新・常用漢字きょうから
            196字を追加 》

と見出しされた記事であった。


たまたまこの記事と同一内容が、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載されて折、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
           29年ぶり常用漢字見直し、196字を追加

政府は30日、現行の常用漢字表から5字を削除し、
196字を追加するなどした「改定常用漢字表」(2136字)を内閣告示する。

「一般での使用の目安」
とされる常用漢字見直しは29年ぶり。

情報機器の普及で目にする機会が増えた難しい漢字が多く追加され、
改定にあたった文化審議会が
「すべて手書きできる必要はない」としたのが特徴だ。

告示以降、官公庁などでは、改定に準拠するほか、2012年度からは学校で本格的な指導が始まる。

改定により、人名用でも使用可能な漢字が増える。
また、法務省は戸籍法施行規則を改正し、
改定常用漢字から削除される「銑(せん)」など5字も名前としては使えるよう人名用漢字表に追加する。

◆常用漢字表◆
法令や公文書、新聞、雑誌、放送など一般社会で使用する漢字の目安。
1981年に現行1945字が内閣告示された。
専門分野の表記や個人の文章を拘束するものではないが、
学校では教科書表記や学習内容の基準となっている。

(2010年11月30日05時15分 読売新聞)
         ・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101129-OYT1T01197.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 29年ぶり常用漢字見直し、196字を追加 ☆


私は齢ばかり重ねた高齢者の二年生であるが、
常用漢字の定義として、「一般での使用の目安」としては、何となく解かったいたが、
《学校で教科書表記や学習内容の基準となっている》ことは、恥ずかしながら無知であった。

そして、読売新聞の37面の【社会面】に於いて、
《 「書く」大切さは不変 》
と見出しされた記事の中で、
《・・
常用漢字は1981年、当用漢字(1850字)に代わって登場した。・・

と初めて学び、私は1981年(昭和56年)の当時は、
37歳のサラリーマンで奮闘していた時だったか、と微苦笑をしたりした。


私は小・中学生の時代は劣等性であったが、高校生になると、
突然に国語、社会、英語などの授業が楽しくなり、読書も目覚めた。

そして特に明治以降の小説、紀行文、随筆、現代史を濫読したり、
或いは総合月刊誌、ときおり週刊誌の『朝日ジャーヤル』などを読んだりした。

もとより難しい字は、国語辞典などを縋(すが)り、何となく理解したりしていた。

今回の常用漢字の196字を追加のニュースを知り、
高校生ぐらいの時に、今回報じられた字ぐらいは、教科書に掲載されていれば、
学び知ることができるので、最良と私は微笑んだのである。

そして、常用漢字は日本語の基本であり、限りなく育(はぐく)む日本文化の確かなひとつである、
と拙(つたな)い人生を反省しながら、深く思っている・・。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記<br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国が北朝鮮を見限り、韓国による南北統一の国家となれば・・、と私は思案させられ・・。

2010-11-29 18:20:35 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昼下がり、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】のふたつの記事を読んで、
驚いたひとりである。

無断であるが、転載させて頂く。

最初の記事は、《 李大統領、北との軍事的対応辞さぬ立場表明 》
と題された記事である。

《・・
【ソウル=仲川高志】
韓国の李明博(イミョンバク)大統領は29日午前、
北朝鮮による23日の韓国・延坪島(ヨンピョンド)砲撃を受け、国民向け談話を発表した。

大統領は、
「民間人に向け軍事攻撃を行ったことは、戦時でも厳格に禁じられた非人道的犯罪だ」
と北朝鮮を強く非難し、
今後、同様の挑発があった場合、
「(北朝鮮は)必ず相応の代価を支払うことになる」
と述べ、軍事的対応も辞さない立場を表明した。

談話は、北朝鮮との対決姿勢を鮮明にしている。

中国の武大偉(ぶだいい)・朝鮮半島事務特別代表が28日、情勢打開のため、
北朝鮮の核問題を巡る6か国協議の首席代表による緊急会合を12月上旬に北京で開催すると提案したことに対し、
否定的な立場を示したといえる。

(2010年11月29日12時20分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私が驚いたのは、韓国の李明博(イミョンバク)大統領が、もとより自国の国民の心情を配慮したといえ、
私が予期した以上に強く言明をしたことである。


ふたつめの記事は、《 駐韓米大使、北の体制崩壊で協議…米公電暴露 》
と題された記事である。

《・・
【ワシントン=黒瀬悦成】
民間の内部告発サイト「ウィキリークス」は28日、
米政府から入手した外交公電約25万点の公表を始めた。

公電には、北朝鮮の体制崩壊を想定した米韓両政府の協議や、
北朝鮮からイランへのミサイル輸出に関する情報などが含まれ、米国の外交活動に著しい悪影響が出る可能性がある。

同サイトから事前に公電を入手したニューヨーク・タイムズ紙によると、
スティーブンズ駐韓米大使は、北朝鮮の体制崩壊をにらんだ南北統一の見通しについて韓国政府と協議。

同大使が今年2月に本国に送った公電によると、
統一国家が親米に傾斜することを警戒する中国について、
韓国側が「中国に適切な通商上の処遇を図れば、統一への懸念を和らげられる」
との見解を明らかにしたとしている。

(略)

問題の公電は、今年2月までに米国務省と世界の約270の米在外公館が交わしたもので、
機密文書約1万5000点が含まれる。

ギブス大統領報道官は28日、
「米外交政策上の利益だけでなく、世界中の友邦国にも重大な被害を及ぼす」として、
「強く非難する」との声明を発表した。

◆ウィキリークス=オーストラリア人のネット起業家ジュリアン・アサンジ氏が中心となり、
2006年に設立した民間団体。
政府機関や企業で働く人に内部告発を呼びかけ、入手した内容を暴露するウェブサイトを開設している。
アフガニスタンやイラクでの対テロ戦争に関する大量の米軍機密文書をインターネット上に公開した。

(2010年11月29日13時36分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は政治にも疎(うと)いので、ときおり北朝鮮に関しては、
新聞、総合月刊雑誌、そしてネットのニュースで読んだり、
或いはテレビのニュースを視聴する、ごく平均と思われる日本の高齢者のひとりである。

最近の記事としては、『中央公論』(2010年12月号)の中で、
作家・マサチューセッツ工科大学の国際問題研究所・客員研究員のロ-・ダニエル氏の寄稿文、
『中朝の新たな連携で さらに歪む東アジアの未来』を読み、多々教示を受けたりした。

この中で、中国・北朝鮮連携のシナリオとして、
中国からの選択、北朝鮮からの選択を交差させて、シナリオA~Hまで提示し、
8案を想定させていた。


今回の【YOMIURI ONLINE】のふたつの記事を重ね合わせ、
中国の怜悧な国益から、北朝鮮を見限った場合は、
もとより北朝鮮は崩壊するので、韓国による南北統一の国家となることは、私でも想像できる。

しかし、この根底の根幹基礎条件として中国に対しては、
《・・統一国家が親米に傾斜することを警戒する中国について、
韓国側が「中国に適切な通商上の処遇を図れば、統一への懸念を和らげられる」・・》
このようなことで、果たして・・と私は考えこんだのである。

そして私は、韓国による南北統一の国家となれば、
かって西ドイツに寄る東ドイツの吸収合併のように、ドイツ統一国家となり、
互いの国民の昏迷はもとより、イギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国に影響をもたらした。

しかし、このドイツ統一国家より、韓国による南北統一の国家の影響は多大と思い、
日本、中国、そしてアメリカ、ロシアはもとより、
少なからず東アジア、東南アジアまでの諸国まで大きい、と私はぼんやりと思案している・・。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記<br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高齢者2年生のメタボの私は、遅れぱせなから減量に、ふたたび挑戦し・・。

2010-11-29 12:51:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
私の住む市では国民健康保険に加入している40歳以上は、
年に一度の『特定検診』と称されている健康診断がある。

私は2004(平成16)年に定年退職後の翌年度から、
勤めていた企業の保険グループから国民健康保険に切り替えて、
今回は5回めの健康診断を過日の9月16日に大きな総合病院で受診した。

今年の夏は猛暑が多く、散策もさぼったりし、
エアコンの冷風の中で、簡易ベットに横たわりながら、本を読んだり昼寝をすることが、
平年より多かったので、
体重が増えて困ったなぁ、と苦笑したりした。

この検査が終って、三週間過ぎた頃に、健康診断の結果表が郵送配達されて、
『糖尿病で、内科に受診して下さい』
と明記されていたので、私は青ざめたた・・。
そして、翌日に自宅から徒歩10分の内科を専門の病院に行った。


私は2004(平成16)年の秋に定年退職した時は、
身長は170センチ、体重は70キロ弱で少しメタボであったが、
採血、心電、尿検査、血圧測定、そして胃がん、大腸がんの検診も含めて、
至って健康のマークを頂いていた。

私は退職後、直ちに年金生活に入り、
純米酒の辛口好きの私は晩酌の時は、現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或いはビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んできたので、
この結果、毎年少しずつ体重が増えたのである。

そして一昨年の2008(平成20)年の秋に、健康診断の結果、
78キロとなり、私としてもこれは対策をしなければならないと自覚し、
この後、市の斡旋する『メタボの研修』を翌年の2009(平成21)年2月より、
半年に及び、受講した。

この時は、うら若き保健師の女医さんの優しい指導で、
ビールでしたら350mlの缶ビールを2本までにして下さいね、
と云われりしたのである。
そして、軽い室内体操を毎日10分ばかりした。

そして『メタボの研修』以降は、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、地酒をある程度は呑んだりしたが、
缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきたのである。

もう少し呑もうかしら、と思うと、
何故かしら優しい保健師の女医さんの笑顔が蘇(よみがえ)り、
缶ビールの350mlを2本まで夜が圧倒的に多かったのである。


そして昨年の2009(平成21)年秋に2月健康診断を受診した時は、
体重は3キロばかり減少て、75キロとなり、
優しい保健師の女医さんのおかげかしら、と私は微笑んだりした。
そして私は悦びながら、家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、云われたりしたのである。


この後、私は相変わらず缶ビールの350mlを2本までを守り、
幾たびか旅行を重ね昼はビール、夕食の時は地酒も呑み、
平素は散策と買物ぐらいの運動不足、その後の猛暑でエアコンの冷風に頼ったりしたので、
今回の健康診断の結果、ふたたび78キロに戻ってしまったのである・・。


この結果の上、『糖尿病で、内科に受診して下さい』とと明記され、
私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、
検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

私は定年の5年前の頃から、60代は五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
と公言してきたが、家内との共通趣味は国内旅行であり、
糖尿病の場合はもとより食事制約があり、
家内は旅行先の美味しい夕食で、私は食べてはいけない料理だったら、
余りにも惨(みじ)めであると思ったりしたからである。

医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、
軽い運動を毎日して下さい、と私は云われた・・。

昨今、ここ6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を造って貰い、
朝夕頂いている。
そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、煎茶を飲んだりしている。

昼食はフルティ・ランチのようなリンゴを一個、そして柿一個としている。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日している。


この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少している。
ズボンのウエストも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んでいる。

しかし、以前ゆっくり歩いた散策の時は、
この時節の晩秋の朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景に、深い心を寄せられることができたが、
ウォーキングとなれば、風景が通り過ぎるように心を寄せる瞬時の思いが、
なくなってしまうのである。

やむえず私は、公園を目指して、ウォーキングに専念した後、
公園内で汗をふきながら、ゆっりと散策して過ぎ行く美麗な錦繍の情景に心を寄せ、
そして帰路は、ウォーキングして、ここ三週間の日中のひとときの定例事項としている。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の樹木の剪定(せんてい)作業は、早くも今年としては最後かしら、と思いながら・・。

2010-11-28 08:14:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
朝の6時は6度、昼下がりは17度前後、そして夜の始めの6時は13度前後が予測され、
おだやかな秋日和を迎える。
そして、このような暖かい快晴の中、庭の手入れに最適かしら、と私は微笑んだりしている。

我家は原則として、庭の手入れは私の責務の範疇であるが、
年に数回ぐらい家内の支援がある。

昨夜、今年最後の樹の枝切りをしょう、
と私達夫婦は話し合い、日中の大半を庭の手入れをする予定である。


私はいつものように剪定鋏(ハサミ)を腰の周りに備え、
剪定用の鋸(のこぎり)を持ちながら、樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としたりしている。

家内は付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で、枝葉を切り落としていたりしているが、
ときおり、家内から、
私は樹木の枝葉を切り落としている最中に、
地上から、
『その枝の下の方から、切り落として・・』
と家内の指示の声がするのである・・。

その後、主庭のモミジ、白梅を中心に剪定し、昼食抜き互いに奮闘し、
枝葉を整理した後、落ち葉を掃き清めたら、夕暮れになるのが平年の慣わしとなっている。

そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は庭の片隅で簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしている。

我が家のささやかな主庭、玄関庭は落葉樹が主体とした庭であるが、
季節ごとに情景の移ろい、30数年眺めてきたのであるが、
それなりにその年ごとの思いでも重なり、昨今は愛惜を深めている。

12月になれば、朱紅色に染められたモミジが主役となり舞い散り、
私は一週間ごとに落ち葉を掃き清めたら、歳末を迎えている。

果たして、今年も平年並みになるかしら、と庭の手入れが出来るように、
衣服を整えたりしている。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柚(ゆず)の樹、季節の移ろいと共に、私は愛(いと)おしく・・・。

2010-11-27 22:36:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
主庭の片隅に小ぶりの実が成る伊予地方産の柚子の樹がある。

30数年前、実家の近くに家を建て後、
少し遠い都立公園に家内と共に行き、帰路、苗木屋さんに立ち寄り、買い求めた品であった。

私の幼年期は農家の児として生を受け、宅地の外れに大きな柚の樹があり、
晩秋になると、祖父が長い竹竿(たけざお)で捥(も)いて折、
黄色い色艶した大きな実が数多く収穫できた。
お正月の御雑煮などに、幼児の私でも一切れ入れてもらったり、
祖父や父の晩酌の友としたり、春先までの大人楽しみの食べ物のひとつだった。


このような幼年期の体験があったので、
苗木屋さんで、柚の樹に買い求めようかなぁ、と思っていたのである・・。

『旦那さん、この柚子の樹・・お買い得よ・・』
と店の奥さんから声を掛けられた。

私は見ると、鉢に入った根元2センチぐらい、樹高は80センチぐらいで、
一人前に接木したあった。

『お姉さんさぁ・・その柚、小さくない?』
と私は云った。

『あらぁ、旦那さん・・伊予(いよ)地方の柚なの、
この辺に成る大きめの実と違うけれど・・小振りな実で評判良いわょ・・』
と店の奥さんは微笑みながら、私に云った

『小振りは、解ったけれど、実は成るかなぁ・・』
と私は云った。

『心配なしょ・・数年したら、食べきれなく程、成ります』
と店の奥さんは力強く私に云った。

『そうしたら、家から出荷するか・・』
とB型のお調子者の私は、明るく云った。


こうして私は買い求めて、主庭に植え、水をたっぷり上げた。
その後、肥料を施し、数年過ぎた。

しかし花が咲かず、実も成らなかった。

『XXちゃん、地植えが駄目なのかなぁ』
と私は家内に云ったりした。

『貴方、柚は時間が掛かると言うじゃ、ありませんの・・
柚の馬鹿・・何とか・・』
と家内は笑いながら、私に云った。

『苗木屋さんの奥さん・・調子良すぎぎだったなぁ・・』
と私は家内に云った。

『・・』
家内は笑ってばかりだった。

『だまされたかなぁ・・』
と私は呟(つぶや)くように、未練たらしく云った。

この後、私は伊予地方と東京の郊外では、土壌が違うのか、
或いは主(あるじ)の私に反抗して、のろまな態度なのか、
私は心配していたのは確かであった。

こうして7年が過ぎた・・。

5月になると、純白に花が咲いた。

その晩秋、三つの収穫があった。


翌年の5月になると、若芽が伸びたので、刈り込んだ。

栄養分を主木から枝に行き渡らす為に、刈り込んだのである。

しかし私の期待に反して、この秋、収穫ゼロとなった。


それから数年、刈り込まず、肥料も与えず、草むしりだけは丁重にするだけで、
放置した。

そして晩秋は、確実に10数個、収穫があった。


私が定年退職する10年前の頃からは、百個は超える実りとなった。
この秋の時は、たわわに淡い黄色の実を眺め、
『XXちゃん、やっと念願どおりになったょ・・』
と私は家内に歓声を上げながら云った。

このように我が家の伊予柚は、苦節10何年の歳月を要したりである。


その後、5月初旬の頃になれば、
伊予柚子の枝からは、たわわに白い花を咲かせて折、
私は微笑みながら、この樹木の下とその周辺を草抜きをしたりする時、


♪白い花が 咲いていた
 ふるさとの 遠い夢の日

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】

と思わず鼻歌を唄ったりしている。


秋になると、この日に気に入った弐合徳利に辛口の純米酒を入れ、
人肌ほどに温めながら、ぐい呑みも選定した上、
家内に柚子のひとつを渡して、輪切りにして貰ったりする。

私は酒を一口呑み、柚子を口に含み、そして香りと共に味わう・・。

この後、家内と夕食を頂きながら、
私のかみ締めている柚子の一切れは、いびつな形であったが、
それなりの味がある。

このような私は、私の住む武蔵野地方から遥か遠方の四国の伊予地方の柚子は、
最初は敬遠されたが、この後は馴染んでくれて、愛(いと)おしさを増している・・。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姫リンゴ、私なりの深い想いは・・。

2010-11-27 17:49:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
いつものように私は買物に出掛け、スーパーに寄った後、
少し離れた所に八百屋さんがあり、
店の片方の支柱に紅色の姫リンゴが三つばかりがぶら下がっていた・・。

私は少し立ち止まり、この姫リンゴに見惚(みと)れてしまったのである。
私は、八百屋さんの主人か奥様が、お店のアクセントとして飾ったのかしら、
と思いながら、おしゃれな飾りだ、と心の中で微笑んだりした。

帰路、川沿いの遊歩道のはずれで、煙草を喫いながら、
遠方の落葉樹の色を深めた朱紅色、黄色の錦繍の情景を観たりしていた時、
先ほどの飾られた姫リンゴが脳裏に浮かび、そして2年半前の春の頃が蘇(よみがえ)ってきた・・。


私の住む家の前方は住宅街であるが、
斜め横のお宅の姫リンゴの花が咲いている。

たわわな白い花を咲いて折、樹高は7メトール前後で、
枝葉を青い空に向かい、伸ばしているようである。

私はこのお宅の住人とは、自治会が違うので、
余り交流はなく、逢えば挨拶を互いにする程度であった。

ご主人は私より10歳前後ご年配の身で、
娘さんが確か2人いたが、嫁いで折、奥様と2人住まいである。

1週間前に私は遊歩道を散策していた時、
ご主人と偶然逢ったのである。

私は挨拶の言葉をかけた時、
ご主人は煙草を取り出しながら、
『長い間・・ご近所でお世話になりましたが・・』
と私に云った。

私も煙草に火を点(つ)けて、立ち話をしたのである。


ご主人の話に寄れば、
体力も衰えたので、庭の手入れもままならず、
4人住まいだった家の中の掃除も家内は大変なので、
この際、売却して都心の外れの2DKのマンションに引っ越すことにした、
と私に打ち明けられたのである。

私が実家の近い所に一軒屋を構えたのは、
30数年近く前の時であり、既にご主人たちの家は、
和洋折衷のお洒落な家があった。

我家とはブロック塀で、最も境界線に近い処に、
姫リンゴの樹木を植えられたのは、15年前の頃であった。

私は春の白い花、夏は枝葉を広げ、
秋になると可愛い小粒のリンゴがたわわに成り、
そして晩秋に落葉して、冬は主木と枝の裸樹となり、
私はめぐり季節のそれぞれ情景を享受させてくれたのである。


まもなく斜め前方にあるお宅も引っ越され、
その後、姫リンゴなどの樹木も切り倒されて、
敷地は整地された後、まもなく12戸ある小さなマンションに変貌し、
今日に至っている。

私は玄関庭の外れで、樹木を眺めることが多いが、ときおり小さなマンションの建物を見たりすると、
やがて私も、以前に隣家のご主人と同様に、庭の手入れも出来ない程度に体力の衰え、
家内も程ほど広い室内の掃除も苦となり、
いずれは更に利便性のあるマンションで、高齢になった時期を過ごすのだろうか、
と考えさせられることもある。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現役の諸兄諸姉、英国のふたつの有力誌から『ここ20年の日本の現状、そして今後の展望』の提示。

2010-11-27 12:57:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨今の日本の政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化を憂い、悲観しているひとりであるが、
たまたまネットに於いて、イギリスの有力誌のふたつを読み、
高齢者2年生の私でも励ましを受けた。

もとより働いて下さる現役の諸兄諸姉は、
たえず成果を問われる過酷な勤務の昨今、こうした中で奮闘して下さるので、
ここ20年の失われた日本、そして今後はどのような展望となるか、
たまたまイギリスの有力誌から、助言の寄稿文を私なりに読んだので、
私は現役の諸兄諸姉に読んで頂きたく、このサイトに投稿したのである。

このような私の願いで、今回、あえて再掲載する。


ひとつは、イギリスの中道左派紙として名高い『ガーディアン THE GUARDIAN』に於いて、
《”失われた10年”どこが悪い? 『日本経済は最高のモデルです』》
と題した寄稿文である。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/f16a635042cf31c1aca0c68d7d05e8c0
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
   11月21日【『政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化の日本』、何よりの励ましの寄稿文、と私は感じながら・・。】☆


ふたつめは、やはりイギリスの経済有力誌『エコノミスト』であり、
《未知の領域に踏み込む日本》と題して、短かな記事であるが、
的確に日本の現状の問題、今後の指針を提示されている。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/c060796d070f1df1229e7ce6f1132206
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
   11月21日【イギリスの有力誌の『エコノミスト』が見た『日本の現状と今後の指針』、高齢者の私は教示され・・。】☆


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

限りなく美しい日本語の文体・・「漢字」と「ひらがな」のバランスは・・。

2010-11-27 08:37:31 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだ後、何よりも魅了された記事は、
1面の総合面で定例箇所に定められた【編集手帳】であった・・。

この記事と同一なのが、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載されて折、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
         11月27日付 編集手帳

漢字が30%ほど含まれている文章は読みやすいという。
20%では締まりがなくなり、40%では幾らか硬い感じになると、
ジャーナリストの林邦夫さんが『「大漢和辞典」を読む』(紀田順一郎編、大修館書店)に書いている

“漢字率”30%と言われてもちょっと見当がつかないが、
三島由紀夫『潮騒』の書き出し部分がちょうどその比率とか。
書棚の新潮文庫版をひらくと、なるほど、活字の並んだ姿が心なしか美しく感じられなくもない

仮名という生地の上に浮き出た模様――漢字をそうたとえたのは作家の高田宏さんだが、
日本の活字文化とは漢字と仮名がつくりだす織物の美でもあるのだろう

29年ぶりに改定された常用漢字表が30日付の官報で内閣告示される。
追加された196文字には「鬱(うつ)」や語彙(ごい)の「彙」など画数の多い漢字も含まれている。
いわば刺(し)繍(しゅう)の新しい糸である。
学び、慣れていくなかで日本語の面白さや美しさに触れる中高生もいるだろう。
伝統の織物に親しむきっかけになればいい

蛇足ながら小欄458文字のうち、本日の漢字は162文字、35%、三島さんの芸当は真似(まね)できない。

(2010年11月27日01時35分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私はこのサイトで、過ぎし今月の11月16日に於いて、
【 我が心の発露は、言霊(ことだま)の力を何よりも信愛し・・。】
と題して、投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
中小業の民間会社を2004(平成16)年の秋に定年退職して、まもない時にブログの世界を知った。
そして私は、ブログ、ブログに準じたサイトに加入して投稿をし初めて、
6年目となっている。

私は定年直後から年金生活を始めたのであるが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことを表現する手段として、
写真に関しては高校時代に写真部で風景を専攻していたが、
やはり心の中の思いを発露するには、何より言葉の力を信じて投稿してきたのである。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきたのである。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの遺(のこ)されて、現世に至っている。

私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
随筆であるエッセイ風、そしてコラム風に綴ってみようと、投稿文としている。

その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのである。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙(つたな)い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることがある。


私は1944(昭和19)年に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁半紙(わらばんし)で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。

東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

そして、ときおりシナリオとか小説の習作していた。
私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。

こうした中、純文学、中間小説の新人賞に幾たびか応募したが、
最終候補の6作品に選定されず、落胆をしたりしていた。

ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30代の頃を想像し、とても妻子を養う自信も失くし、
明日のみえない文学青年の真似事を断念した。

この後、大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校のソフト・コースに一年通った後、サラリーマンの一員となった。


私はこの地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、恥ずかしながら特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、もとより小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。

私はブログのこのサイトに於いて、
今後も随筆らしき散文、或いはコラムを綴り、投稿文を重ねながら文章修行している。

私の最後の目標は、残り許される歳月は今としては不明であるが、文章格闘の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。

こうした中でも、何よりも想像力の感性、独創性ある文体が必要とされるので、
果たして・・と思いながら、年金生活の身過ぎ世過ぎの中、過ごしている。
・・】

このように投稿しているが、今回の【編集手帳】を拝読して、
恥ずかしながら漢字、ひらがなのバランスを配慮し、意識して綴ることは少なかった。

このように指摘されてみると、なるほどと了解はでき、
限りなく美しいに日本語の文体になるのだろう、と微苦笑させられた。

もとより私は投稿文のテーマを決めた上、
構成を考えて、言葉を紡(つむ)ぐのであるが、
的確に表現する言葉が脳裏から舞い降りてこなくて、文章修行が未熟なので、
苦心惨憺とすることも多いのである。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
と齢ばかり重ねた私は苦笑することが多く、
無念ながら今回の漢字とひらがらのバランスを配慮す余裕がない、というのが本心でもある。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活の我が家は、世間の『話題・注目商品』から、程遠く隔(へだ)てて・・。

2010-11-26 13:35:49 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいると、
38面にある【社会面】に於いて、

《 今年の話題1位は
           スマートフォン 》

と見出しされた記事を精読した。

この記事とほぼ同一なのが、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載されている。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
         スマートフォン、食べるラー油…今年の注目商品

電通総研が25日発表した「消費者が選ぶ2010年の話題・注目商品ランキング」の1位に、
「スマートフォン」(高機能携帯電話)が選ばれた。

使いやすい端末が増え、ダウンロードできるアプリ(ソフトウェア)も増えたため、
昨年の34位から急浮上した。

2位は簡易投稿サイト「ツイッター」、3位は「食べるラー油」だった。

昨年の調査では、環境志向や低価格志向の高まりで、
「ハイブリッドカー」(1位)、「国内低価格ファッション」(3位)などが上位を占めた。

電通総研は、
「自分なりに使い方を工夫して楽しめる商品やサービスへの関心が高まった」
と分析している。

調査は11月3~4日、全国の20~69歳の男女1000人にインターネットを通じて行った。

(2010年11月26日10時58分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20101125-OYT1T00865.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==
                 『電通総研』・・「消費者が選ぶ2010年の話題・注目商品ランキング」☆


私はこの掲載されている「2010年 話題・注目トップ10」表を見ていて、
ため息を重ねたりした。

第一位の「スマートフォン」(高機能携帯電話)
   我が家は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの私たち夫婦だけの家庭であり、
   私の在職中に携帯電話を要する職場でなかったので、
   今だに私たち夫婦とも携帯電話を使えなく、保有していない。
   
   このような理由で、高機能の携帯電話といわれても、想像しても無理難題である。


第2位の簡易投稿サイト「ツイッター」
   私はブログを殆ど毎日数通は投稿しているが、日頃思ったりしていること、思索していることを
   私の心情を重ねて心の発露として綴っている。

   こうした理由から、「ツイッター」の呟(つぶや)きの言葉などは、
   心情の真意が伝わらないので、現世の余りにも簡略な言葉と同様に、
   高齢者の2年生の私としては、この世で最も険悪している。


第3位の「食べるラー油」
   最近学んだ言葉であるが、我が家の食卓には活用したこともない。

第4位のテレビ
   何とか来年の2011年の春に、やむえず購入予定として、家計の予算に40万円計上している。

第5位の「坂本龍馬」
   NHKテレビドラマと思われるが、私は最初の第一話は視聴したが、
   この番組を視聴する時間があったら、黒澤明の遺された映画作品を鑑賞する。

第6位の「羽田空港国際化」
   ときおり国内旅行で私たち夫婦は羽田空港を利用するが、
   海外は苦手なので、興味はない。

第7位の「東京スカイツリー」
   東京タワーは私は一回、家内はなし。
   私は在職中に六本木20数年、打ち合わせ業務で芝公園に通ったりしたが、
   興味もなく、
   まして見知らぬ高台の建物に興味はない。

第8位の「エコポイント・・」
   我が家は今年としては耐久商品は乾燥付きの洗濯機を購入したぐらいで、
   エコポイント対象外であったので、エコポイントは疎遠となっている。

第9位の「ワールドカップ・・」
   サッカーの世界各国の対抗試合と思っているが、
   もともとサッカーに興味がないので、無知。

第10位の『LED電球』
   新聞などで名称は読んだりしたが、省エネ・・現物は解からない。


このように私は「2010年 話題・注目トップ10」表を見て、
感じたのであるが、
我が家は、世間の流行から取り残されている、と思ったりしたのである。

我が家は古びた一戸建てに住み、小庭は雑木が多く、四季折々の情景となり、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
ビデオ・DVDの映画作品は1000本前後あり、
勤めた会社がレコード会社の影響でカセット、CD、DVDも3000枚前後ある。

日常の私は、買物と散策をする以外は、殆ど読書をすることが多く、
ときには居間で映画を鑑賞したり、音楽を聴いたりしている。
そして日々感じたりしていることを心の発露として、文章に綴り、
このサイト等にほぼ毎日投稿している。

そして、ときたま庭の手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行で、四季折々各地を訪れたりしている。

我家の生計は原則として、年金を頂いた範囲で生活を営んでおり、
冠婚葬祭、思いがけない出来事、そして国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して過ごしているのである。

そして、世を隔(へだ)てて過ごしているのかしら、と私は微苦笑している。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島由紀夫、松本清張の両氏が対談し、この後の酒席の状況を夢想したならば・・。

2010-11-25 22:33:41 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
先ほど、【作家・三島由紀夫が自裁された昭和45年のこの日、私は青年期の終りを確実に感じ・・。】
と題して、このサイトに投稿した後、
ぼんやりと亡き三島由紀夫、松本清張の両氏が対談したならば、
どのような文学の話をされるのだろうか、と思ったりした・・。
そして、この後の酒席の状況となったならば、どのようなことを話されたのであろうか、
と夢想をした。

もとより私の知る限り、生前の三島由紀夫、松本清張の両氏が対談はなく、
互いに避けていたのだろう、と私は感じたりしている。

しかし酒席とならば、出版社の配慮で、秘かに一席設けられたと想像した時、
私はひとつの夢想を重ねたりした・・。


都心の高級な居酒屋の奥まった18畳ぐらいの部屋で、
亡き小説家の三島由紀夫、松本清張の両氏が酒席を共にし、
出版社の編集者の40代の方と出版担当の取締役の5人が隣席している。

この時、どうした訳か判らないが、
私は末席で小さくかしこまりながら、弐合徳利を傾けながら呑んでいたのである。

この後、三島由紀夫、松本清張の両氏が互いに罵(ののし)りあい、
『男の中の男の見本のようにふるまっているが、貴様は男の中のくずだ・・』
と松本清張が三島由紀夫に云ったのである。

隣席にいた出版社の諸氏は、驚きあわてふためいたが、
更に松本清張は三島由紀夫に云い放ったのである。
『小説が書けなくなったと悩んだ上、世間のことも判らない若き青年を集めて親衛隊を結成し、
その挙句・・道連れにしやがって・・』
と怒号のように云ったのである。

三島由紀夫は青ざめたまま黙っまま、反論する余裕もなかったのである。

出版社の諸氏はもとより私も動転したまま、しばらく呆然とし、
『先生・・今日はこれまでと・・いたしまして・・』
と出版担当の取締役は、松本清張を制しながら云ったのである。


私はこのようなことを夢想したのである。

私が夢想といえども、少しは根拠があると思ったりした。


私の記事を切り抜いた記事を数多く保存しているが、
私は夜の7時半過ぎに、ひとつの記事を眺めたりしていた。


昨年の2009年9月中旬に、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が連載で掲載され、この中の一部を私は切り抜いて保存していた。

この保存した記事を無断ながら、転記させて頂く。

《・・
(略)
・・1964年、中央公論社(当時)が企画した80巻の全集「日本の文学」から清張が外れる“事件”があった。

当時、同社で清張担当だった宮田毬栄(まりえ)さんによると、
編集委員の三島由紀夫は
「清張には文体がない。文学じゃない」と収録に強く反対。

容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切った。
清張は激怒した。
「高等小卒の清張にとって、本は学校。
中でも全集は、最も輝かしいものだったでしょう。悔しさは計り知れません」(宮田さん)。
・・
(略)
(2009年9月8日 読売新聞)
・・》

注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は中央公論社の80巻の全集「日本の文学」に関しては、
この当時、次兄が駅前の本屋から定期購入し、私の方が先に精読し
日本の近代・現代の文学として、あますところなく読んだひとりである。

この時になぜ松本清張は選ばれなかったのか、疑問に思ったひとりである。
少なくとも、、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』の作品は、
たとえ他の小説家の作品と共に、一冊の本として編集されてもよいのではないか、
と思ったりしていたのである。

この記事を初めて読んだ昨年の9月8日に於いて、
編集委員の三島由紀夫が、
《・・容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切り、
「清張には文体がない。文学じゃない」
と収録に強く反対・・》
と私は初めて知ったのである。

私は三島由紀夫に関しては、家柄もよく、文学少年が文学青年となり、
純粋に文学の道を歩まれ、やがて文壇の寵児として出版社から奉(たてまつ)られ、
やがて読者にも伝わり、読者層を増やしたスター小説家と思ったりしている。
そして、他者からの批判を何より嫌う人で、青年のままに死去された人と感じている。

三島由紀夫の一番の欠点は、他の小説家の作品を小説家自身の軌跡や心情で険悪し、
判断するきらいがあり、大人になりきれない批評眼である。
もとより、作品の良き悪きは、たとえ小説家自身の信条なく、作品次第である。


このように私は確信していたので、つたない脳に蓄積され、
この中の一部が事実と異なり脚色されて、現実ではありえない夢想となったのかしら、
と思ったりしたのである。

余談であるが、想像力が欠如したならば、
小説の作品はもとより、たとえ随筆ひとつにしても綴れない、と私は思っているひとりである。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作家・三島由紀夫が自裁された昭和45年のこの日、私は青年期の終りを確実に感じ・・。

2010-11-25 18:00:53 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
【新おとな総研】を見たりしていると、
この中のひとつ【あの日あの時】の見出しのタイトルを読んで、
そう、この日だったよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、胸が熱くなった・・。

《・・
作家・三島由紀夫が自殺。1970年(昭和45年)11月25日。

世界的に知られる作家の三島由紀夫(当時45歳)が、
自ら結成した「楯の会」のメンバーとともに東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入。
総監を人質に取り、隊員を前に決起を訴える演説をしたあと、割腹自殺をした。

http://otona.yomiuri.co.jp/history/anohi101125.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】
 ==>【新おとな総研】==>【あの日あの時】1970年(昭和45年)11月25日 作家・三島由紀夫が自殺 ☆


私は若き頃、映画・文学青年の真似事をして、その後は小説家を夢みたが挫折したひとりである。
そして私は1970年(昭和45年)11月25日、この日に会社で業務をしている中で、
臨時ニュースで、小説家として三島由紀夫氏が、
陸上自衛隊東部方面総監部に乱入した後、その後に割腹自裁をされ、
私は衝撃を受けて、やがて私自身は青年期の終りを確実に感じ、大人の世界に突入した境界線となった。


私は映画・文学青年の真似事をし、その後は小説家を夢みたが挫折したひとりであるので、
文学をめざした人としては、まぎれない敗残者のひとりであり、
今となっても痛切な心情であるが、懺悔のようにありのまま発露する。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、映画評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが、一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。


この間、学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。


この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。

そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終りを確実に感じたのである。


まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、
改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
心身疲れ果てて休日でも小説の習作をする気力もなくなったりした・・。

何よりも、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めた。


このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、
私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。



☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記<br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『「ガソリンスタンド過疎」…廃業・撤退相次ぎ』、自動車免許証を破棄した私さえ、寂寥感を感じ・・。

2010-11-25 11:24:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだ後、
先ほど読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、

《 「ガソリンスタンド過疎」…廃業・撤退相次ぎ 》

と記事を読んだりした。

無断であるが、この記事を転載さて頂く。

《・・
経済産業省が、過当競争や需要の低迷などで、
廃業や撤退が相次ぐガソリンスタンドの支援に乗り出すことが24日、分かった。

30日に業界団体や自治体の代表者らによる研究会を設立して支援策を検討する。

全国のスタンド数は、ピークだった1994(平成6)年には、
約6万件だった。

だが、毎年1000~2000件程度減り続け、現在は約4万件になっている。

相次ぐ廃業・撤退の結果、
ガソリンのほか、暖房に使う灯油などの入手までも難しくなる「ガソリンスタンド過疎地域」が増えている。

経産省によると、スタンドが3か所以下になった自治体は、
2008(平成20)年時点で222市町村と、全市町村の13%に達している。

廃業・撤退が相次ぐのは、
セルフ方式のスタンドの登場などで、周辺との価格競争が激化して、利幅が圧縮されたことや、
家族経営の小規模スタンドで経営者の高齢化が進んだためなどとされる。

(2010年11月25日09時24分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行、和暦を加えた。


私は調布市の外れに住み世田谷区と狛江市が隣接している地域であり、
我が家の一キロ以内の地域でも、ガソリン・スタンドが減少している。

確か1991(平成3)年にバブル崩壊した頃は、
ガソリン・スタンドは5箇所あったが、今や3箇所となり、
自動車の販売店、コンビニなどに変貌している。

私は長らくペーパー・ドライバーであり、
定年後は自動車を購入して、ドライブと思ったりしたが、
運動神経の感覚も衰えたし、人身事故でも起こし、交通刑務所に服役した場合、
定年後の人生設計は大いに狂うので、自動車免許証の更新をとりやめた。

そして、公共交通機関の利便性のある地域でもあるし、
何よりも歩くことが、健康の第一歩と思いながら、周辺の遊歩道や公園、
そして京王腺、小田急線の各駅前までを路線バスに乗らず歩き廻っている。
このように日常生活を過ごしていると、住宅街、商業地帯などの街並みの情景が見えてくる。

昭和が終わり、平成の初めの頃、
周囲の牛乳屋、酒屋、本屋、飲食店、居酒屋など廃業され、
スーパー、コンビニ、10戸前後のマンションに変貌し、
駅前の本屋、ドラッグ・ストアー、CD、DVD販売店などは、大型チェーン店に変ったりしている。

この当時から、大きなマンション、コンパクトな一戸建てが増えて、
都心に近くて樹木の多く残る地域として、人口は確実に増えてきているので、
日常生活用品の購入には困ることはないが、
何故かしら、ときおり寂寥感につつまれることがある。

それぞれの街の特有な情景、そして匂いかしらかしら、
と私は感じたりしている。



☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記<br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真摯に創作をめざしている方・・、角川春樹(かどかわ・はるき)氏の銘言のひとつには・・。

2010-11-24 21:53:30 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
日頃は読書が好きで、小説、随筆、ノンフェクション、現代史などを乱読するひとりである。

先ほど、私の切り抜いたひとひらの新聞の記事を見つめていた。

私は何かと気に掛かる記事を新聞、総合月刊雑誌などから、
切り抜いて整理箱と称した茶色の箱に入れている。

たまたま夕方、この中の数多く切り抜いたのを整理して、
今として不要な記事は捨てようとしていたのである。

この中の一枚は、しばらく読み返していたのである。

一昨年の2008(平成20)年12月16日の読売新聞の夕刊に於いて、
当時、『文化 こころのページ』で、
この中で月に2回ほど連載されている特集があり、【魂の一行詩】であった。

俳句を詠まれ、投句された方たちの選定、講評を俳人でもある角川春樹氏が担当されている。
私は無念であるが俳句、短歌を詠む素養はないが、
ときより読むのが好きなひとりでもある。

このコーナーで、何より魅了されるのは、角川春樹氏の序文である。

今回の記事にも、一句詠まれた後、いつものように格調高い文章を綴られている。


《・・

   花あれば 寂寥(せきりょう)といふ 詩の器

                    角川春樹

西行であろうが、実朝であろうが、
万葉集に遡(さかのぼ)れば大伴家持であろうが、
俳諧の芭蕉であろうが、
近代短歌の釈迢空に到(いた)る、古代から現代まで、
詩人は孤独の中で詩を詠みつづけてきた。

寂寥感は常に詩を生みだす根源である。
「永遠の今」を詠む時間意識も、
宇宙の中のたった一人の自分という認識があってのことである。

・・》

無断であるが、掲載させて頂いた。
注)原文より、あえて改行を多くした。


私は、《・・古代から現代まで、詩人は孤独の中で詩を詠みつづけてきた。
寂寥感は常に詩を生みだす根源である。・・》
こうした言葉の前に於いては、思わず襟を正してしまう。

こうした歴然とした言葉を、再び心の中で呟(つぶや)いて、
そして、深く読み返したりし、学んだりしているのである・・。


私はあるサイトに於いて、2007(平成19)年の5月末頃、
【 角川春樹氏は、豪刀のような人・・♪ 】と題し、と投稿したことがある。

やはり、読売新聞に於いて、【魂の1行詩】を読んだ後、
感銘を受けて私は投稿文として認めたのである。

【・・
角川春樹氏が一般の詠まれた俳句を選定され、特選された句には講評を明記している。

何時ものように、序文を表記されているが、
特に昨夜に明示した内容は、武士の刀で表現したなら、
造作に似た平穏時の観賞用に似た刀でなく、
まさに戦場で肉を切らせて骨を絶つ豪刀に感じたりした。

無断であるが、俳句に対する真摯な深い思いが、
熱く感じる鑑(かがみ)のような名文であるので、あえて転記をさせて頂く。

《・・
陶芸家の北大路魯山人は、「平凡と傑作は紙一重だ」と言ったが、
それを決めるのは鑑賞する人間の力量である。

句会に出席して感じることは、選者の力量の無さである。
概して、傑作を平凡と感じてしまう。
さりげないながら内容の深い句は、句会では見落とし、句集になって気づく、
ということもある。

しかし、プロともなれば、作品は勿論のこと、鑑賞力が必要だ。
だが、専門俳人の器量が狭く、たかが知れた自分の身の丈でしか計ることが出来ない。
良い1行詩を創ろうとするならば、真贋を見抜く選句力が重要である。
・・》

以上、無断であるが、転記させて頂だいた。


このことは俳諧に留まらず、純文学、短歌、詩などにも適合することと思っている。
中々、明記し難いことばであり、
それだけ角川春樹氏の俳人としてもとより、出版社の経営、映画プロデューサーなどを体験されて、
少なくとも俳人としても熱き深い思いが伝わってくる。

まさに、余人に変えがたい発露された銘言と私なりに感じ、
そして私は、しばらく溜息をしたのは事実である。
・・】

私はこのように拙(つたな)い綴りで投稿したりしていた。


ここ数年、私なりに数多くの随筆などで拝読した限りであるが、
その人の思想なりを明確に断言して発露させる人の中で、
私が圧倒的に深く感銘している方は、角川春樹と作家の嵐山光三郎、両氏となっている。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ コラムへにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年退職後の一年生の頃、過ぎし5年前の私のこの日の思いは・・。

2010-11-24 16:21:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
昨日に家内と約束した通り、今朝の10時過ぎから家内と共に歩いて15分ばかりのホームセンター、
そしてスーパー駅に買物に行き、午後の2時半過ぎに帰宅した。

日常の雑貨品などを買い求めに行ったのであるが、
家内のお供の荷物持ち、そしてボディ・ガードであり、
台所、洗面所、風呂場に使用する品で、家内に一任している。

私は最初の一時間ぐらいは付き合っていたが、
選定する時間がかかるので、その後は私は独りで文房具用品コーナーで、
何かしら創意工夫ある商品はないかしら、とゆったりと見て廻ったりしていた。
結果としては、いつものように堅牢なカバーのA4サイズのノート、
そしてプリンターのインクぐらいであった。

先ほど、ぼんやりとパソコンの前で、
定年退職後の一年生の頃・・と思ったりしたのである。

私は2004(平成16)年10月に退職後、まもなくブログの世界を知り、
バソコンが故障するか、旅行に行っていない限り、毎日投稿をしているので、
投稿文を開いたりした・・。

この当時は、ブログに準じた【goo簡単ホームページ】に投稿していた。

2005(平成17)年の11月24日のこの日には、
午前9時過ぎに、
【 佐野眞一・著作の『カリスマ』・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、秋晴れの日が続いている。

今朝も6時に目覚めたが、外気はまだ薄暗いので、布団に戻り本を読んだ・・。

佐野眞一・氏の『カリスマ』を再読しているが、
文庫本で上巻・下巻の2冊であり、
ダイエーを率いた中内CEOの壮大な戦後状況を克明に綴られた作品である。

ある程度読み込むと、あの時代の時は私はどのように思って見詰めていたか、
と振り返ったりすると、なかなか先に進まず時間を要している。

この作品は、戦後の日本経済と社会情勢の中、
中内・氏の内面を的確に表現された稀な力作であると同時に、
どなたでも持っている光と影が冷静に兼ね備えられて折、この巨人の光芒を描ききっている。

ノンフェクション作品として、
数多くの作品がそれぞれの著作人から発表されているが、
ここ30年間で紛れも無く最優秀作品のひとつと思っている。

こんな風に考えていたら、8時過ぎになり、起き出した・・。
・・】


そして午後3時過ぎには、
【 『無量庵』と共に・・♪ 】
と題して、投稿している、

【・・
サラリーマンを定年退職し、とあるブログを開設して、一年が過ぎた今、
振り返ってみたが、ほぼ予定通りの日々が流れてきた。

朝は日の出と共に起きて、夕暮れの食事の時に、
弐合徳利でその日に合ったぐい呑みで辛口の純米酒を頂きながら、
家内と語り合う。

そして日中は、程々の広さの雑木の多い庭の手入れをしたり、
日常の買い物に行ったりしている。

その間、その時に思った小説、随筆、歴史書を読んだり、
ときたま音楽を聴いたり、映画をビデオ・テープ、DVDで観たりしている。

或いは季節に応じて、国内旅行をしたりしてきた。

それらの日々をこのブログ綴ってきた。

私は山川草木を主軸とした季節感を大切に生活を営んできたが、
ともすれば『無量庵』と勝手に私の心に名付けた生活を
送っているのかも知れない。

世間ではこうした人を清貧の数寄者という場合もある。
・・】

このような拙(つたな)い綴りで、この当時の生活を表現し、
この日の心情も発露しているが、定年後の一年生を卒業し、2年生に進級した頃であり、
気負った心であった、と苦笑しながら思ったりしている。

自身のことながら、5年の歳月は流れて、懐かしさで、もうひとりの自分に再会したような心情である。


☆ブログランキングに参加していますので、ご協力の程を♪

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村

日記   <br>
<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする