夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ブログの表示画面、初夏のような暑さを迎え、衣替えのように改定して・・。

2014-05-31 16:08:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
一昨日の日中は初夏のような暑さとなり、
夜のひととき私が加入している【gooブログ】のブログサイトに於いて、
ブログの表示画面のテンプレートを衣替えのように改定した・・。

      
私は中小業の民間会社を35年近く奮闘して定年退職を2004年(平成16年)の秋に迎え、
まもなくブログの世界を知り、色々のブログ・サイトに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の新春に加入した。

この後、他のブログ・サイトに夢中になり、二度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿し、
ブログ歴は9年生となっている。
          

この【gooブログ】を初めの6年ぐらいは、文章だけの散文のように投稿文としてきたので、
表示画面のテンプレートは、読みやすいよう黒の背景で緑色の文字を表示する《ブラック》としてきた。

その後は、明るい少し華やかな表示画面にしょうと、思案したりした。

そして私の加入している【gooブログ】のテンプレートに於いては、
《オススメ》として春、夏、秋、冬に相応しい多彩な表示画面の種類 があったり、
或いは 緑のgoo、グルメ、花 、和風/アジア、HYBRIDがある上、
ベースカラーとしては、ホワイト、レッド 、イエロー、ピンク 、ベージュ、ブルーなどがあるので、
余りにも豊富にあるので、私なりに迷ったりしてきた。

やがて原則として季節が移ろいに準拠して表示画面を改定しょう、
と何かと鈍間(のろま)の私でも対応させてきた・・。

          
そして体力も衰えてきた男性の私は、せめて華やかなテンプレートも良いかしら、
と今年の2月頃も色々と迷ったりした・・。

女性だったならば、《赤いカーネション》は精麗だし、
いちごの《ストロベリー》は可愛らしく、結果として選定したのは、《アモネス》のデザインであった。

しかしながら、少し華やかしら、と躊躇(ためら)ったりしたことは本音であったが、
齢ばかり重ねると男性の私でも、華やかなワッペンが欲しがり、恥ずかしながら掲載したりした。

やがて私は羞恥心を深く感じて、無難な《カラーノート》と称したノートとバックの表示画面に改定した。
          

そして桜が散り葉桜の時節に、毎年のように《リュウビンタイ》に改定した。
何かしら常緑性シダの絵柄で、涼しげに緑陰となったので、ここしばらく愛用していた。

そして一昨日、日中は初夏のような暑さとなり、何よりも暑さに苦手な私は、
《リュウビンタイ》より更に涼しい表示画面はないかしら、
と【gooブログ】のテンプレートを彷徨(さまよ)い、
黒の表示画面の中に、《木樹》があり、テンプレート改定をクリックした。

結果的には、この表示画面の黒で、文字は白となり、私にとっては見やすくて、
これからの季節にぴったりだ、と私は悦んだりした。

この数分後、よくこの表示画面を見ると、左上の絵柄は《木樹》であるが、
何かしら女性の下着のスリップにある絵柄とかレース状にも見え、
ドキンとして、どうしてなの、と微苦笑したりした。

私は少しボケてきて感性が衰えたのかしら、と思ったりしたが、
しばらくの間、少し悩ましい絵柄のこの表示画面を私のお友達にしょう、と決意したりしている。

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2025年が過ぎた頃の日本、高齢者は安楽死を望む方が多くなる、と妄想して・・。

2014-05-31 12:41:14 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝いつものように購読している読売新聞の朝刊を読んだりしていた。
こうした中で、財政制度等審議会は財政再建に向けた報告書が麻生財務相に提出した、
記事が掲載されていた。

要旨として、政府は政策に使う費用を、
借金に頼らず税収で賄える国と地方の基礎的財政収支を2020年度に黒字化し、
借金が膨らみ続けている長年の流れに歯止めをかけようとしているが、
最大の脅威は社会保障費の増大、と的言している。

もとより毎年1兆円規模で増える医療や介護、年金などの支出で、
保険料(64.1兆円)があるが、年金(56.0兆円)、医療(37.0兆円)、
介護・福祉その他(22.2兆円)(うち介護は9.5兆円)、
総計の給付費として115.2兆円、と2014年度の予算ベースとなっている。
          

そして麻生財務相が記者会見で発言され、
『世界に冠たる皆保険と言うが、保険料だけで給付を賄いきれていない。
公費負担に4割を依存としており、給付と負担をバランスさせなければならない』、
と明言されたりしていた。

もとよりこうした背景には、今後の2025年までに『団塊の世代』が75歳以上となり、
社会保障給付の増大が財政の健全性に脅威となり続ける、と警鐘している。

こうした記事を読んだ私は、何かと単細胞の為か、
2025年が過ぎた頃の日本に於いては、高齢者は安楽死を望む方が多くなり、
政府も黙認せざるを得ないが、むしろ秘かに期待する、悪しき時代が到来する、と妄想したりした・・。
          

2025年を迎えると、団塊の世代が75歳以上となるに伴い、
過ぎし年の2010年に於いて、75歳以上人口の構成は11.1%ぐらいであったが、
やがて2025年には18.1%に上昇する。

こうした中で現役世代(15歳~64歳)が減少するため、
かっての2010年には現役世代5.8人で75歳以上1人を支えていたのが、
2025年には3.3人、その後の2060年には1.9人で支える時代が予測されている。
          

過ぎし日、私はネットで『東京新聞』の特集の生活図鑑に於いて、
《 団塊の世代 75歳 負担増が問題 》を読んだことがあり、的確で具体性があり、
無断であるが大半を転載させて頂く。

《・・
●医療・介護リスク
高齢になれば、疾病などにかかるリスクも高まります。
生涯医療費の推移を見ると、75~79歳でピークを迎えます。
また、70歳以降に生涯の医療費の約半分がかかることが分かります。

介護はどうでしょうか。
要介護(要支援)になるリスクは75歳から上昇し、85~89歳では、半数が要介護の認定を受けています。

また、認知症高齢者も2025年には470万人になる、と推計されています。

しかも、75歳以上の一人暮らしの高齢者数は、男女ともに増え続けます。
2025年には290万人、特に女性では4人に一人が一人暮らしの状態です。
          

●給付とのバランスは
社会保障と税の一体改革時の推計では、
2012年度と2025年度(改革後)の給付費を対国内総生産(GDP)で見ると、
年金は11.2%から9.9%に下落します。

一方、医療は7.3%から8.9%へ上昇。
介護は1.8%から3.2%へほぼ倍増する見込みです。

介護・医療の負担と給付が大きな問題であることが分かります。


このため、高齢者の保険料負担を見ても、後期高齢者医療は月5400円から6500円へ上昇します。
また、介護では月約5000円が8200円にもなります。
介護保険料は月5000円が負担の限界ともいわれ、深刻な問題です。

高齢世代だけでなく、現役世代の負担も重くなります。
そこで、消費税率の引き上げのほか、高所得の高齢者への社会保障や税での負担増を進めています。

しかし、増税と給付削減は、若年世代ほど負担が重くなり、
高齢者になったときには給付が十分ではないという結果にもなりかねません。《略》・・
制作・亀岡秀人・・》
         

もとより、日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして年金も現役世代が払う保険料で
高齢者に年金を支給する「世代間扶養」の仕組みを取っているので、
団塊の世代が65歳を過ぎた現在、社会保障を長らく支えてきた団塊の世代が、
「支えられる世代」となって、若い世代に重い負担を強いることになってしまった現状である。

こうしたことの主因は、高齢者は長寿化となり、年少者が激少し、超高齢化社会の時代を迎えているが、
こうした現状は30年前のベルリンの壁が崩壊し、世界の経済が自由主義経済に一色になる状況は、
誰しも予測できなかったであろう、と私は思ったりしている。
                     

私たちが過ごしてきた時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中でバブルが終息し、そしてベルリンの壁が破壊され、
やがてソ連が崩壊し、世界の経済が自由主義経済に一色となった後、
世界の経済が自由主義経済となった上、日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。

やがて殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。
そして私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
1997年〈平成9年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。
        

こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めて、
お母さんは専業主婦で家庭を守る中で、子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、多くは大学まで学び、
やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

こうした状況に、私は無力ながら憂い、ここ10数年のデフレの閉塞感ある実態より、
何とか経済復興をした上で、堅実な経済成長が望ましい、と念願してきた。
                              

やがて2025年が到来した時、働いて下さる人の比率は減少しているので、
高齢者にとっては年金の減少、そして医療、介護の負担増加などの時代が、やむなく到来するが、
この中の高齢者の方たちには、明日が見えなく暗澹たる思いで過ごし、やがて安楽死を望む方が多くなる、
と思ったりしたである。

そして政府としては社会保障費で国の財政が逼迫するので、
高齢者の安楽死の増大も、黙認せざるを得なく、むしろ秘かに期待する、悪しき時代が到来する、と妄想を重ねたりした・・。

こうしたことは悪夢であるが、果たして2025年の頃は・・
私は80歳を過ぎて、この世でヨボヨボと生きているか、或いはあの世に移住しているか、
解らないが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものだ、と思ったりしている。

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デジカメの記憶媒体を忘れ、ボケてきたのかしら、と69歳の私は苦笑し・・。

2014-05-30 15:36:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であるが、
本日の買物は、(京王線の)仙川駅の近いスーパーにしょうと、思いたった。

そして我が家から徒歩で10分足らずの市立の『実篤公園』に寄って、
その後に駅の近くの本屋に行った後、スーパーで買物をするコースを思案したりした。
          
           ☆掲載した写真のすべては、本日の午前中のひととき『実篤公園』で撮った☆

こうした根底には、『実篤公園』の花菖蒲(ハナショウブ)、紫陽花(アジサイ)が咲き始めたかしら、
と思いもあったが、過日のNHKテレビ番組の『首都圏ニュース』の中で、
ヒカリモということを生まれて初めて私は学んだりした。

《・・ヒカリモは単細胞生物の藻類で、暗所で光を反射させることで、
黄金色に光って見えるのが名前の由来。
豊かな湧き水やうっそうと茂った樹木がないと生息が難しく、
都心に近い場所で発見されるのは極めて珍しいことです。

『実篤公園』では2005年6月に来園者が指摘したことをきっかけに、
ヒカリモの生息が発見されました。
都内では同園が唯一の公開生息地です。・・》
このようなことをうら若き女性キャスターの方が報じられたいた。

そして私は『実篤公園』が開園される前から馴染のある処であったが、
ヒカリモなんて知らなかったょ、と思いながらテレビに映し出されたヒカリモを見つめたりした。


そして遅ればせながら、私は初夏のような暑さの中、『実篤公園』に向った。
自宅を出る前に、家内は実家に行っているので、独りぼっちの私は戸締りを厳重にして、
持参するデジカメの充電も完璧にして、出かけた。

やがて『実篤公園』の園内で紫陽花(アジサイ)を観たが、少し早く落胆したりした。
          

その上、花菖蒲(ハナショウブ)も花芽も観られず、やはり6月下旬かしら、
と思ったりした。

この後、ヒカリモはどこなの、と探している中、ここかしらと思ったりした・・。
          

そして記念にアップねぇ、と思い撮ったりした。
          

しかしながら生物の藻が黄金色に染められても、期待した程は魅了されず、
やはり季節のうつろう樹木や竹林が圧倒的に魅了される、と思いながら撮ったりした。
          

やがて液晶画面には、記憶容量が不足です、と明示された。

そしてもしかしたら、と思いデジカメの底部を開けた・・。
平素は記憶媒体のひとつSDカードをセットして、私は撮ったりしていたが、
この収納場所は、空っぽであった。

私は16GBと8GBの2枚のSDカードを所有し、
8GBでも私のコンパクト・カメラで画質を最大にしても500枚前後撮れるが、
前回撮った後に、パソコンのSDカードの挿入場所に差し込み、ハードディスクに移動させた後、
そのままパソコンにSDカードを差し込んだままであったことに、遅ればせながら気付いたのであった。
          

そして今回撮れたのは、カメラの内部記憶メモリーで10数枚撮れた後、記憶容量が不足、
と理解できて、ボケてきたのかしら、と我ながら呆れ果てて苦笑した・・。

その後、私は仙川駅に向かい、いつものように音楽系の専門学校として名高いの桐朋学園の隣接した処を歩き、
やがて本屋に寄ったりした。

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コメント (3)

ときには『おひとりさま』の生活、愚図の私は奮闘しても、あえなく敗退・・。

2014-05-29 15:00:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、家内は実家に過ぎし25日から6月4日まで、10泊11日で行っている。
こうしたことは年に4回前後あるので、私は『おひとりさま』となっている。

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の2004年〈平成16年〉の秋の直前に、
入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、
独り住まいの生活をされて、早や9年が過ぎている・・。
          
               
そして独り住まいとなった家内の母と私たち夫婦は、年に数回は国内旅行に行っていた。
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

独り住まいの家内の母は、私より14歳の齢上で後期高齢者の身であり、
平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは実家の上越市に訪れたりすることが多い。

しかしながら、自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、暖冷房器具、衣服などは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で滞在し、庭の手入れを含めて、孤軍奮闘を重ねている。

こうした中、家内の母は2年前に膝(ひざ)を悪化して、
市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。

そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。

そして家内は、家内の母が独り住まいとなった当時から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。
          

今回、家内は家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

そして万一、私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となる特別演習かしら、と思いながら過ごしたりしている。
               
こうした中、私は家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、何かと愚図の身ながら戸惑ったりして行っている。
                  
   
私が家事の朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりしてきたのが昨年まてであった。

今回は台所から食材の利用後のゴミ以外は、少しぐらい溜まっても我が家として大勢に影響はない、
とサボって指定日に出さないことも多い。
          

朝食の準備として、最優先として一合ばかりのお米を洗い、
五穀米を加えて電気炊飯器に10分後にセットするのが通例であった。

そして炊き上がったご飯は一合だと私は多くなってきたので、
半分ぐらいラップに包み、冷蔵庫に保管することに変貌した・・。
そしてラップに包まれたのを、翌日の朝食に電子レンジで温めて、煎茶を飲みながら頂いたりした。

朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
真実一路のようにご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』としている。

私は単細胞のひとりなので、五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰を、
電車の線路のように固守して食べたりしてきた。
          

昼食は肥満児予備軍の私は回避致したく、フランスパンを三分の一、
そしてバナナを2本としている。

                    
夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
煎茶を飲みながら食べたりしてきたが、
なぜかしら独りだと寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュースを視聴したりした。

そして平素は家内はテレビとかCDラジカセを大音量は険悪しているので、
家内が留守のが幸いに、映画棚から観たい作品を取りだして、テレビを通して大音量で鑑賞してきた。
たとえば 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)
『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)
そして『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)などであった。

或いは音楽棚からCDを選定して聞いたりしてきた。
伊藤久男、中島みゆき、X JAPAN、小柳ゆき、セリーヌ・ディオン、パヴァロッティなどを聴いたりしてきた。
                
        
洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼ってきたが、
昨年までは日々貫徹の精神で実行してきたが、これも変貌した。

三日に一回となり、下着、パジャマ、タオルなど3日分、洗濯機に入れて、
あとはお願い・・任せるからねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながらスイッチを入れてきた。

掃除に関しては、日中のひととき、従来もきまぐれに手抜きの部屋の掃除をしてきたが、
これも3日毎となってしまった。
こうした根底には、埃が多少あっても生死に影響はない、とサボり果てた。

台所で皿洗いに関して、これも日々貫徹の精神で実行してきたが、
煎茶の茶碗、コーヒー用のマグカップ以外は、2日毎に、
台所が西陽の射(さ)す暖かい中、家内から借りたエプロンを着て、台所で皿洗いをしたりした。

こうした時は、なぜかしら古き良き時代の歌謡曲をかぼそい声で幾度も唄いながら、
皿洗いをしたりした。
          
         
このような今回は『おひとりさま』の生活を過ごしてきたが、
料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
洗濯、掃除、皿洗いも前回以上にサボり果てて、
もとより家内のいる平素日常生活から遥かに遠い世界となってしまった。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら奮闘する時もあったりしたが、
小・中学生の時は劣等生であった私は、やはり年金生活の『おひとりさま』の劣等生かしら、
と独り苦笑をしている。
          

こうした中で改めて実感したことは、主婦は家事の全般の料理、掃除、洗濯など、
大変な知恵と体力で日々の責務を果たしている、
と思い微苦笑したりしている。

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コメント (2)

成城石井、私のささやかな想いでは・・。

2014-05-28 16:41:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、テレビ東京の『ガイアの夜明け』という番組を視聴した。

私はテレビはニュースと天気情報、ときおりドキュメンタリーの作品を視聴するぐらいであるが、
確か半年前頃に家内が『ガイアの夜明け』を観ていた時、私も少し観たりして、
年金生活の中、世の中の動向に疎(うと)くなっているので、
お勉強ねぇ、と思いながら、これ以来この番組を殆ど視聴したりしている。

たまたま昨夜の内容のひとつとして、《 どんな場所にも出店 成城石井・・驚きの戦略 》と、
タイトルが付加されて放送されていた。

何かしから地方まで多店舗する中で、昨今の都心で出店も急増する実態、
こうした中で、自社で手作りしているお惣菜の製造センター、
各店からの細かな発注に対応出来る物流センター、
そして独自の目利きで輸入している種類豊富な高級な生ハムやチーズ等が映しだされた。

或いは麻布十番の店では、2階をワインバーとして、
1階で販売している食材・商品のを使ったメニューを開発しながら提供し、
好評されている実態が放映されていた。

私は視聴しながら、成城石井もあの当時からして大きく変貌したなぁ、
と少し溜息を重ねながら、過ぎ去った日々に思い馳せたりした・・。
          

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が所有している田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして小田急線と京王線の間にサンドイッチのような辺鄙な処居で、
京王線の最寄駅は『つつじヶ丘駅(当時は、金子駅)』か『仙川駅』であり、
児童の私としては、15分ばかりを歩いて『つつじヶ丘駅』に近い小学校に通ったりしていた。

或いは小田急線の最寄駅は『成城学園前駅』か『喜多見駅』、そして『狛江駅』であり、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に生家があった。
          

こうした中で、確か小学1年生だったと記憶しているが、父の妹が未婚だったの頃、
この叔母に連れられて、30分ぐらい歩いて『成城学園前駅』の近くにある『石井食料品店』に行った。

祖父、母、叔母たちから『石井食料品店』の実家と、何かしら曽祖父の時代に血縁しているか明確には解らないが、
遠い親戚の人、と私は幼年なりに教えられていた。

そして叔母は高校を卒業してまもなく、『石井食料品店』で従業員のひとりとして働いていた。
こうした縁で、私は叔母に引率されて、生まれて初めて成城学園の住宅街を歩いた。

数百坪の敷地が整然と並び、お屋敷町みたい、と幼年なりに、叔母に言ったりしていた。
そして『石井食料品店』に到着したが、見た事のない高価な果物がたくさん店内に並べられていた、
こうしたことが鮮明に今でも、心の片隅に残っている。

この後、水道の水を生まれて初めて飲んだ・・。
この当時の生家は、つるべの時代を終えて、母家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、
飲んでいたので、私は井戸水しか知らず、水道の水は不可解な味であった。
          

この間、私が小学2年の三学期の1953年(昭和28年)の3月に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、生家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


やがて私が34歳になった時、生家の近い処に一軒家を構え、
私は当時に中小業の会社の本社が六本木に所在していたので、
我が家から通勤コースに利便性のある路線バスで『成城学園前駅』経由で六本木に通ったりしていた。

そして私も家内も成城学園前の商店街で買物もするようになった。
こうした中で、『石井食料品店』は高級なスーパーマーケット『成城石井』と変貌しており、
多彩な食材とか食品も高品質で、ときおり買い求めたりしていた。
          

私が40代の半(なか)ばの時、不覚にもギックリ腰が悪化して、
28泊29日で入院した時、会社関係の人にお見舞いを数多く頂だき、
この後、御礼としてデパートとか成城石井から送付したりした。

この中のひとりが青葉台の近くにお住まいで、
成城石井の支店、青葉台もあるよ、
と私は言われて、成城石井も支店を出店するようになったか、と驚いたりした。

この間の私は、働き始めた25歳からの習性として、
母にはお中元、お歳暮の時に、いくばくかお金を包んて渡したりしていた。

そして私が40歳を過ぎた頃から、成城石井のお惣菜売り場で買い求めた3品前後も、
手渡した時、母は私が予測した以上に悦こび、私は母が亡くなる15年近くまで続けたりした。
          

こうした中、私と母は毎週土曜日に電話連絡をして、
週刊ニュースのように母の一週間の出来事を聞いたりしていた。

たまたま母が成城に行き買物をした後、成城石井に寄って買物をしている時、
御曹司の方が店長として店内にいた時、XXちゃん・・と話しかけ、
5分ぐらい立ち話しをしてしまったわ、と母は私に言ったりした。

『お母さん・・昔ののどかな食料品店の時代と違い、
お客さんで混雑している中、店長は奮闘しているのだから、ご迷惑だょ・・』
と私は母に言いながら苦笑したりしていた。
          

このような私のささやかな成城石井の想いでがあり、
何かしら風の噂として、2004年にある大手の会社に株式の大半を譲渡した、と聞いたりし、
複雑な思いで、ときおり私は買い求めたりしている。

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少年期に音楽にも劣等生だった私、ここ45年ときにはクラシックも聴き・・。

2014-05-27 13:47:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

音楽を聴くと明記したが、恥ずかしながら楽譜も読めなく、楽器もさわれない素養のない男であるので、
やむなく拙(つたな)い感性を頼りに聴いていたりしている。

私は音楽に関してはオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。
          

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28)年の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。
          

このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

そして学校に行くのが苦手な児となった・・。

この当時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
ラジオから盛んに流れていた『越後獅子の唄』の歌に魅了されて、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・・わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし (作詞・西條八十)・・、
とかぼそい声で唄ったりしていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
          

やがて私が小学校の高学年になると、映画の『ビルマの竪琴』を観て、『埴生の宿』を知り、
或いは映画の『二等兵物語』を観たりして、『ふるさと』を学び、
これこそ私が待ち望んだ音楽だ、と少年心に感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島のときおり爆発する活火山の由来だった。
         
          
私が小学5年になる頃、小学校の音楽教室にピアノが導入されて、
この当時の女の子の児童は、ピアノに触れることに羨望の的となっていた。

そして母は私が中学校に入学した1957年(昭和32年)の春、
やむなく田畑を売り、駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹のふたりはピアノを弾いたら先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、
無理してピアノを購入した。

ピアノといっても縦型のアップライトで、これより遥かに高価なグランドピアノは遠い存在であった。

そして小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。
          

やがて私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事を奮戦したりしたが、あえなく敗退した。

そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
何とか中途入社できたのは1970年〈昭和45〉年の春であった。

そして、この頃の私の根底には、ハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、
ソフト商品の方が波長に合う、同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと創作などにも刺激があると思い、
面接を3回した中で無理難題を申しあげて、配属された。

私は音楽事業本部の仮正社員となり、ともかく現場を学べと指示されて、工場にある商品部に配属となった。
この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座のメーカーであった。

私は入社早々、商品部の商品センター働き始めた時、
この当時にヒットを重ねている歌い手、曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と職場の方は私の音楽の無知にあきれていた。

私は程ほどに文学、映画には詳しいと秘かに自負していたが、音楽は映画音楽分野ぐらいしか解らず、
多くの音楽の分野は殆ど無知であった。
          

やむなく私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、
この当時、流行(はや)っている流行歌、ポピュラーなどの曲を学んだり、
そして音楽月刊誌のクラシック専門誌の『レコード芸術』を購読した。

数ヶ月した頃、この中のひとつの大きなレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けて、
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたし、
やがて定年の5年前にリストラ烈風の中、出向となったりした。

そして音楽業界に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となった。

こうした中で、私は裏方の管理系の分野で奮戦する中で、給与を頂くたびに、
レコードのアルバムを少なくとも自社は1枚、他社は2枚程度を買い求めたりし、
やがてCD、DVDに変貌したが、定年するまで続いた。
そしてクラシックに関しては、『レコード芸術』を5年ばかり購読して、数多くの曲を学んだりした。
          

こうした中で、私が26歳が独身時代の頃、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。

今の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけとなっている。

そして、母が苦労して購入したピアノは、私が27歳の頃に埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。
          

そして年金生活をしている中、いずれは私は死去するで、葬儀は簡素な家族葬として、
こうした中で音楽を静かに流して欲しい、と念願している。

選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、交響曲第9番の第三楽章、
アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいかしら、と敗残者のような人生を歩んだ私は、思ったりしている。

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AKB48、高齢者の私が孫娘を眺めるように、6年ばかり注視し・・。

2014-05-26 20:59:16 | 定年後の思い

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
今朝、購読している読売新聞の朝刊を読み、
アイドルグループの『AKB48』の握手会に於いて、
列に並んでいた男性のひとりが、忍ばせていた長さ50センチのノコギリのようなものを振りかざして、
メンバーのお二人にいきなり襲い掛かり、男性スタッフを含む3人に重傷を負わせる事件が起きたことを知った。

そして握手会の入場時や握手前で持ち物検査がなかったと知り、
国民的な人気のアイドルグループとなってる『AKB48』のイベント会場としては、
スタッフ、警備員が余りにも手薄、と私でも感じたりした・・。

この後、犯行に及んだ男性の動機は、
岩手県警の調べに対し、「人を殺そうと思った」「誰でもよかった」などと供述していることを知り、
私は愕然としながら、こうした握手会は今後実施されなく、
根本的にもとより新たに戦略を見直すことが不可欠、と感じたりした。
          

もとより『AKB48』の握手会は、新聞にも明記されている通り、
劇場公演と並ぶ目玉のイベントで、グループの躍進を支えてきた。

そして賛否両論の中で、CDなどの特典についている「握手会」があれば、
ファンは逢いたいメンバーがいる列に並び、会話までできる商法であり、
まぎれなく突出したCDの売上げに貢献してきた。
          

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004〈平成16年〉秋に定年退職した身である。
管理畑、情報畑などの裏方であったが、1998〈平成10年〉に業界の売上げはピークとなり、
その後は激減している実態に憂いてきたひとりである。

こうした中で、アイドルグループの『AKB48』の名前を知ったのは、
遅ればせながら2009年に第14枚目のシングル『RIVER』で、
音楽ランキングとして名高い『オリコン』で週間ランキング第一位を獲得をしたのが最初であった。

私は定年後の年金生活の中、ネットであるサイトで業界の動向を知り、
ヒット曲の状況は『オリコン』で学んだりしてきた。

そして『AKB48』のグループを知ったが、どのように読むのか無知で、
恥ずかしながらネットを検索して『エーケービー フォーティエイト』と知った。
          

これ以来、私が勤めてきた会社と『AKB48』の発売元の会社とは他社であるが、
業界のCD烈風下の中で、『AKB48』の突出した実績に驚きながら好感して、
あたかも地方に住む祖父が都会に住む孫娘の健闘を願うように注視してきた・・。

その後も躍進を続けて、2010年8月に、第17枚目の『ヘビーローテーション』に於いて、
女性グループとして初となる2作連続での初動売上50万枚突破を記録し、
この当時のレコチョク週間ランキングで、着うた・着うたフル・ビデオクリップ・着信ムービー・着信メロディの5冠を獲得した。

そして高齢者の私でも、『ヘビーローテーション』の歌をかぼそい声で唄ったりした。
          

やがて翌年の2011年5月下旬に、
私は家内を誘い、デジタル対応のテレビを買い求めに家電量販店に訪れた時、
テレビ売り場のフロアーに、テレビが壁面に30数台並び、デモとしてビデオクリップが映しだされていた。

そして『AKB48』の最新作の第21作目の『Everyday、カチューシャ』が、
全てのテレビで映し出されて、『AKB48』一色に染まっていた・・。

そしてこの作品は発売初週に133.4万枚を売り上げ、グループ初の初週ミリオンを達成した。

こうした中で何かと単細胞の私は、♪カチューシャ・・・と唄ったりしていた。
          

この後も、国民的な人気のアイドルグループとなってる『AKB48』には、
私は好感してきたが、今回の事件で、
「会いに行けるアイドル」であり、ファンと直接に触れ合えることのできる握手会は、
人気の原動力であるが、限界と感じ、今後は終息と思われる。

そして総指揮者の秋元康(あきもと・やすし)さんのプロデュース手腕が、
改めて問われる、と思いながら、新たな戦略を期待したりしている。

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ストレス発散法の第1位は「体を動かす」と知り、高齢者69歳の私は微苦笑して・・。

2014-05-26 13:41:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は2004年(平成16年)秋に定年退職した後、多々の理由により年金生活をし、
この直後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

先程、ビジネス情報誌として名高い『週刊ダイヤモンド』の基幹ネットを見たりしていた。
私は現役サラリーマン時代だった時は、ときおり購読していたが、
確か6年前の頃に無料で会員になれると知り、これ以来愛読させて頂いている・・。

こうした中で、この中のひとつ見出しに、
《 試したいストレス発散法1位は「体を動かす」
            でも実践する人がたった6%なのはなぜ? 》
と題され、どうしてなの、と思いながらクリックしてしまった。
          

プレスラボ・小川たまかさんが記事を綴られ、無断であるが転載させて頂く。
《・・ストレス社会と言われる現代。
多くの人がストレスを抱え、自分なりの発散方法を探している。

ストレス発散方法として挙がることが多いもののひとつに「体を動かすこと」があるが、
それにしては実際に体を動かしている人は少ないようだ。一体、なぜなのだろうか。

「働く女性の約9割がストレスを感じている」という調査結果を発表したのは、ニッセン(京都市南区)。
30~40代以上の女性約800人に調査を行ったところ(調査期間は4月14日~21日)、
ストレスが「強くある」と答えた人は42.8%、「どちらかといえばある」と答えた人は41.8%で、
フルタイムで仕事をしている女性(259人)に限ると、
「強くある」(44.0%)、「どちらかといえばある」(43.2%)という結果となった。

ストレス発散方法について複数回答で聞いたところ、
多かったものから順に「買い物をする」(16.7%)、「誰かに話す」(16.0%)、「寝る」(14.5%)、
「思いっきり食べる」(11.3%)、「音楽を聞く・映画を見る」(10.4%)という結果になった。

さらに、「これから試したいストレス発散方法は何ですか」という質問を単一回答で
聞いたところ多かったのは「体を動かす」(25.3%)、
「旅行やドライブをする」(21.7%)。
          
          
その一方で、現在のストレス解消方法として「体を動かす」を挙げた人はわずか6.3%、
「旅行やドライブをする」も6.1%という結果に。
多くの人が、アクティブに行動することがストレス解消につながりそうだと思っているものの、
行動には移せていないとも言える。

ストレス解消の方法は人それぞれ自分に適したものが一番良いだろうが、
「お酒を飲む」(これから試したいと答えた人は4.4%)、
「思いっきり食べる」(同5.2%)などに比べて「体を動かす」「旅行やドライブをする」と答えた人が多いのは、
こちらのほうがより健康的なイメージがあるからだろう。

なぜ、「体を動かす」ことがストレス発散にいいとわかっているのに、
行動に移せない人が多いのだろう。
          

ひとつは、飲食や、「買い物をする」(同9.8%)、「誰かに話す」(同7.8%)、
「音楽を聞く・映画を見る」(10.7%)などは割と簡単に行えるものだが、
体を動かすことについては、ジムに行くにしても、家の周囲をジョギングするにしても、
それなりの準備が必要となるからだろう。
日頃運動していない人であればあるほど、より準備は必要だ。

また、以前若い女性複数人に「ジムに通ったことがあるか?」
「どうすればジムに通うようになるか」についてヒアリングしたことがあるが、
彼女たちから挙がった回答が印象的だった。

それは、以前ジムに通ったこともあるし、自分で運動をしたこともあるが、
継続することはできなかったというもので、
「今度運動を始めても、忙しかったり生活環境が変わったり、
飽きてしまったりしてまた途中で挫折してしまうことが何となく想像できる。
それを考えると再度チャレンジできない」という人もいた。

確かに、「燃え尽きランナー」という言葉もあるように、一度始めた運動をやめてしまう例は少なくない。
真面目な人ほど、「挫折してしまった」ことを後ろめたく思うのかもしれない。
ストレス発散のために始めた運動を「継続しなかった」ことに責任を感じたり、
継続すること自体にプレッシャーを感じてしまうとしたら本末転倒でもある。
                    

運動は継続が大切と言われるが、まずは「できるときだけやる」「やりたいときだけやる」でもいいのではないとも思う。
理由がストレス発散であればなおさらだ。

日本人は生真面目とよく言われるが、真面目過ぎればやっぱりストレスも溜まる。
ストレス発散ぐらいは気軽に始めたいものだ。(プレスラボ 小川たまか)・・》
         

この記事は働いて下さる30~40代以上のストレス発散法の記事と知ったが、
多忙な世代の女性で、業務上の責務、そして短期に成果を問われる現代、
大変だろうな、と思ったりした。

そして私は中小業に35年近く勤めた中で、ストレスを感じた時は、
ひとつとして少し早く自宅を出て、通勤経路の中、たとえばひとつ手前の駅で下車して、
歩きながら出勤した時もあった。
平素、見られない街の情景を観たりすれば、気分転換となり、少しの運動不足も解消となったりした。

或いは退社後、自宅の最寄駅から路線バスに乗車している経路を、
ときおり歩いて帰宅したりした。

このようにささやかなことでも、リフレッシュが出来、心身心地よい。
          

定年後の年金生活の中、私の住む地域は路線バスの利便性は良いが、
私は殆ど歩いて最寄駅まで行くことが圧倒的に多い。

もとよりバス代も不要であるし、季節のうつろいの情景を観ながら歩くことは、
心身快適である。

こうした高齢者の69歳の私の根底には、何よりも認知症が怖く、
歩くことが健康寿命を延ばす、と学んだしている。

そして社会保障料が毎年一兆円つづ増えている超高齢化社会の中、
働いて下さる諸兄諸姉に多大な負担がしている現状に、
高齢者の私が出来ることは、わずかであるが医療費を減らす責務がある、と感じ歩き廻っている。
          

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作家の嵐山光三郎さんが60代の時、ご両親の晩年を記した2冊の本は、生きた教科書と深め・・。

2014-05-25 12:59:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
ここ3日、敬愛している作家のひとりの嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)さんが、
60代の時、ご両親の晩年を記した2冊の本を再読している・・。

嵐山光三郎さんは、1942年(昭和17年)1月に生を受けられ、
やがて1965年(昭和41年)に國學院大學文学部国文科卒業され、専攻は中世文学であり、
在学中の講師として丸谷才一、安東次男らに学んだひとりである。

この直後、平凡社に入社されて、編集者として奮闘されながら、
やがて『別冊太陽』と『太陽』のそれぞれ編集長に抜擢された後、
この後は、散漫経営のため平凡社が経営危機となった1981年(昭和56年)に退社され、
出販社を設立されたりする中で、編集者、作家としてもご活躍された。

この後は、 1987年(昭和62年)に『素人庖丁記』で翌年に第4回講談社エッセイ受賞、
その後も俳諧の分野も含めて、多彩な分野の数多くの本を上梓されている。

そして2006年(平成18年)に『悪党芭蕉』を上梓され、第34回泉鏡花文学賞、
翌年には第58回読売文学賞を受賞された現代作家の第一人者お方である・・。

私は氏の少なくとも100作品以上の中で、30冊ぐらい購読してきた愛読者ひとりであるが、
今回、再読しているは『よろしく』(初出:集英社, 2006.10 )、
そして『おはよう!ヨシ子さん』(初出:新講社, 2008.7)である。
          

私が嵐山光三郎・著の『よろしく』を遅ればせながら読んだのは、確か2010年(平成22年)の6月であった。
たまたま駅前の本屋で、氏の『よろしく』(集英社文庫)を見かけ、購読した。

この本の内容紹介には、
《・・コロコロと死んでゆくのが人生だ。
人は「よろしく」と現れ「よろしく」と去っていく――
介護・死・老いらくの恋といった深刻で厄介なテーマを、ユーモラスに描く小説。

物語を追いながら自分自身の死に方について、考えさせられる。・・》と明記されている。

あとがきに明記されているが、
本書の初出は2006年10月、集英社より刊行された本であり、
著作者は2001年前後の60歳前後の当時、創作を精力的に専念し、
体力の衰えも感じながらも、自身の学生時代の学友や知人が突然に亡くなったり、
街中の隣人や知人の死去を知り、驚きとため息の中で過ごされている。

こうした中で、父親が高齢者85歳となり、ボケはじめて、
母親は80歳の体力の衰えた身であるので、
やむえず老人介護施設に父親は入居し、その後まもなく悪化し、
病院で親族一同の涙ぐましい介護に関わらず、
死去され、葬儀などを得て、新盆を迎えるまでの著作者の自伝でもある。
             

私は最初に読了後、身につまされたひとりである。

私達夫婦は子供に恵まれず、たったふたりだけの家族であり、
この当時の私は65歳を過ぎた高齢者となり、家内も60歳の年金受給者となっている。

そして私の父親は私が小学2年の時に病死され、
母親は私がサラリーマン現役の54歳の時に死去された。

やがて家内の父親は、私が60歳を過ぎ定年退職時の直前に病死され、
家内の母親は80歳なり、独り住まいをしている。

こうした私の背景もあり、私達夫婦の今後の更なる老後の生活を思いながらも、
この本を読みながられ、多々教示をされたりしていたのである・・。

たとえば、男性の後期高齢者80歳となれば、
《・・(父親)ノブちゃんは85歳である。

ノブちゃんはT美術大学教授をしていた。
グラフィック・デザイン科科長をつとめて、70歳でやめた。
ぼくより背が高く、筋肉隆々としていたが、
80歳をすぎたころより痩せて、すすきの穂のようになった。

昔からおしゃれな人で、服の着こなしがダンディーであった。
(略)
それが、ここ一、二年というもの、洋服にかまわなくなった。・・》
注)本書のページ16の一部を引用し、あえて改行も多くした。

或いは、著作者の母親は句会などに参加し、日常は俳句を詠んだりする方が、
80歳となれば、
《・・トシ子さんが、
「歩くと雲の上を歩くようにフラフラする」と言う。

T川厚生年金病院のめまい科へ受診に行くと、女医に、
「あんたぐらいのローバなら、みんなフラフラしていますよ」
と叱られたらしい。・・》
注)本書のページ31の一部を引用し、あえて改行も多くした。

そして父親がボケはじめ高齢の母親に手が終えなくなり、
父親が老人介護施設に入った初めの頃、
《・・施設庁長が、「福祉の精神より、まず接客技術をモットーとしております」と言った。
すべてを高齢者本人の身になって考えることが基本であるという。
たとえば、痴呆の高齢者の夫が妻の顔を忘れてしまうケースがある。
「その場合、つぎの三つのうちどれが正しいでしょう」と質問された。

(1)妻であることを根気よく説得する。
(2)結婚式の写真などを見せて納得させる。
(3)あきらめてニコニコする。

このうち(1)や(2)は、高齢者本人がかかえる問題の解決とはなりません。

夫に顔を忘れられても、ニコニコと笑って
「どこかの親切な人」としてふるまうのがいいのです、と教えられた。

「三つの選択肢のなかで一番いけないのは(2)です。
こんなことされたら、夫は逃げ道を失って、屈辱感を味わうだけですから。
失望した顔をすると、本人は傷つきます」

ノブちゃんは、まだそこまではぼけていない。
話す内容は理路整然としている。でありながら思考のネジがはずれている。・・》
注)本書のページ95の一部を引用し、あえて改行も多くした。
          

このようなことを多々、私は教示されたりしたが、
何よりの驚きは老人介護施設に入居されている人たちの日常の言動であった。
それぞれのお方の晩年のふるまい、しぐさ、そして突然の死去など、多々綴られているが、
私は、たとえ現役時代に立派な人と敬(うや)まれる方でも、老後は・・、
とため息を重ねながら、ここでは書けないのである。

このことは、本書を読まれた方の特権と思い、本書をお読み下さい。

昨今、高齢者に関しての実用書がブームときいたりしているが、
この本書こそ、著作者が父親の介護に、生活を共にし、
父親の思い、母親の見つめる思い、著作者の死生観まで明確で、
くまなく綴られ、それぞれの方たちの人生の晩節の生きた哲学書ともいえる。
          


もうひとつの嵐山光三郎・著の『おはよう! ヨシ子さん』は、
私が2009年(平成21年)7月に、やはり本屋で見かけて購読した本である。

この解説文に明示されている通り、
今回は著作者の母上で「ヨシ子さん」と称した91歳のご高齢(作品発表時)、
著作者自身も66歳(作品発表時)で、 同じ敷地の別棟で暮らし、過ごされている。

母上はご高齢の日常生活に於いて、
《・・記憶力はまあ半分ぐらいはちゃんとしているほうだが、耳は遠く、体力がついていかない。
頭はしっかりしているのに、体が言うことを聞かない。

箸1本が重く、リンゴひとつ持つのがやっとである。

ヨシ子さんが俳句を詠もうとする念力が、生きる力を呼びおこす。
なにか題材を見つけるために、夕方は、杖をついて散歩に出る。

フーラフラとした蚊トンボみたいな散歩で、見ちゃいられない気もするけれど、
散歩を休むと、かえって体調が崩れる。

ヨシ子さんは、俳句で生きている。(略)・・》
注)原文(ページ64)より引用したが、あえて改行を多くした。
             

このようにご子息の著者の視線から、母上のヨシ子さんを見守り、
そして、 せっかちだったという著者の父、ヨシ子さんの夫はすでになく、
ヨシ子さんは小さな仏壇に毎朝花と御飯を供え、毎日俳句を詠み、
それを毎日見ていた著者は、ヨシ子さんの詠む俳句を毎日「相談にのっている」情景が主軸で、
さりげない日常が描かれている。

そして著者はご高齢のさりげない日常を優しいまなざしで描かれ、
父上の思いで、そして弟ふたりとの交流と過去の出来事を綴られ、
ヨシ子さんの家族の軌跡として重ねている。

淡々と日常生活の母上と著者自身の周辺の出来事を加味され、
私なりに多々教示を受けたのである。

この本を初めて読んだのは、私が64歳の時で、
改めてご高齢のご婦人の日常の思い、願いはこうであったのかしら、
そして著者自身の日常の思索、ふるまい等である。
          

このように著者が60代の時、ご両親の晩年を記した2冊の本を、
私はそれぞれの晩年の生きた教科書と思いながら、再読しているである。

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コメント (2)

純白な蓮(ハス)の花、この世の最上の花と思いながら、60数年が過ぎ・・。

2014-05-24 14:41:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝の7時過ぎに小庭のテラスに下り立ち、まばゆい陽射しに向かい、手を合わせたりした。
こうしたことは、この地上は少なくとも太陽の陽射しと水の恵(めぐみ)は欠かせないので、
何かと単細胞の私は、感謝しながら定年後の習性となっている。

この後、樹木の葉色は深緑に染められる中、
群生している小判草(コバンソウ)の草花が首を傾げたように揺れるのを見たり、
半夏生(ハンゲショウ)もかすかに揺れている・・。

そして日中は初夏のような暑さになるのかしら、とぼんやりと思ったりしていると、
脳裏の片隅から何故かしら蓮(ハス)の花が浮かべたりしていた・・。
          

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして宅地の周辺に竹林、雑木林を維持管理していた。

こうした中で、田んぼのある一面に湧水があり、そして小川に流れ、
この近くに150坪ぐらいの半反程度の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          

そして父、祖父が病死される私が小学生の前半までは、毎年この時節は幼いなりに甘受していた。

7月の下旬の頃になれば、蓮の花は莟(つぼみ)となり、
やがて8月の初めに私の住む地域はお盆を迎えるので、祖父か父が6本前後採ってきた・・。

そして私は祖父に懇願して、大きな葉をひとつ貰ったりした。
私はこの大きな葉に水を少し入れると、水玉になり、陽射しを受けると、
キラキラと水玉が輝きを帯びたりするので、幼児なりに魅了されて独り楽しんでいた・・。

そして泥だらけの中で、どうしてあんなに白い花が咲くの、と子供心に不思議に思ったりした。
              

お盆の時、仏壇の前に畳一帖ぐらい台を設置し、
位牌の前に、盆棚を置いて、野菜、果物を供えたりしている。

外れに茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)に割り箸で足を付けて、馬や牛にみたてたりしている。
そして台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉を浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
或いは台の左右に、この時節の草花を飾り、この中の中核は蓮(ハス)の花となっていた。
          

やがて夏休みが終わった頃、蓮(ハス)の田んぼに行くと、
花が終り、可愛い蜂の巣のような実となっていた。

数週間過ぎた頃、この実を採り、
少し剥(むく)とどんぐりのような形した白い実が出てきて、
食べたりした後、少し甘い香りが残った・・。

やがて蓮(ハス)の葉が枯れる頃になると、
祖父、父が泥だらけの地中から大きくふくらんだ蓮根を取り出し、
青果市場に父は出荷した後の残りが、生家の食卓を彩(いろど)った。

私は蓮(ハス)と呼んでいたが、
後年になると、レンコン、と世間の多くの人が言ったりしているので、
戸惑いを覚えたりしている。

このような想いでがあるので、
公園などで淡い紅色した華やかな大賀蓮(オオガハス)観かけた時とか、
名所と知られているある寺の観せる美麗な蓮(ハス)は、
あれは単なる鑑賞専用の蓮(ハス)であって、私が愛惜を秘めている蓮(ハス)じゃない、
と幼児の思いに還ったりしている。
          

定年退職した2004〈平成16〉年の翌年の夏、
ある書物で、黒羽山の大雄寺の高僧が、蓮のことについて、綴られているのを知った。
《・・泥中に生じ汚れなく、幽香を漂わせる蓮(ハス)の花は、
清浄、柔軟、可憐から、他の植物にはない特徴があることから、
仏教の象徴的な意味を持つものとなっている。

泥の中で成長し根を張り、清楚な美しい花を見せる。
そして、普通の花は、まず花が咲いてから実をつけるものだが、
蓮は花をつけると同時に実を中に詰めたつつみが出てくる。
このことから蓮は、過去・現在・未来を同時に体現しているとされている。・・》
こうようなことを綴られていた。

私の生家は仏教の曹洞宗で、無知なことが多いが、
蓮(ハス)は泥の中から茎を出し、純白な花びらを見せてくれるのに、圧倒的な思いで魅了されている・・。

私なりに年金生活の身過ぎ世過ぎの中、日常生活を身勝手に過ごしているが、
改めてこうした純白の花を眺めると、
何かしらこれまでの私の卑屈と劣等感の多かった人生の歩みを浄化してくれる随一の花と思っている。
          

このように私なりに深い思いを秘めているが、
私の住む周辺は1955(昭和30)年の初めに頃になると、
田畑、雑木林は急速に消え、もとより蓮(ハス)の水田も消え去り、やがて住宅街に変貌した・・。

そして私は家内と共に国内の旅行をした時、
旅先で偶然に、田んぼある蓮(ハス)の花を見かけたりすると、
                    
しばらくのあいだ見惚(みと)れながら、まぶたが熱くなってしまうことが多くなっている。
        

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コメント (10)

高齢者の私でも、ときおり鼻歌をかぼそい声で唄い・・。

2014-05-23 15:22:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、楽譜も読めなく楽器も弾けない私でも、家の中で鼻歌をかぼそい声で唄うこともある・・。
          
           ☆今回掲載した写真は、すべて昨日に散策した時の写真である☆

年金生活のひととき苦汁した時とか、過ぎし現役時代のサラリーマン時代だった時、業務で苦戦した時とか、
親戚との確執にさいなまれた時など、ときたま唄った歌のひとつは、『旅の夜風』である。

♪花も嵐も 踏み越えて・・《作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア》
と心の中で唄ったりして、自身を慰め、そして励ましたりして、ときにはかぼそい声で唄ったりした。

私が小学3年の春、祖父が亡くなり、
その前年に父に死去されて、母は私を含め兄妹の五人の子供が残されたので、
母がよく鼻歌を唄ったりしていた。

この当時、ラジオからよく流れていた、と子供心に記憶がある。

我が家の家内は私より5歳ばかり下であるが、戦前、戦後の歌謡曲は、私より詳しい。
こうした根底には、生前の家内の父が歌謡曲が好きで、唄に自信を深めていたので、
家の中とか勤務先の交際の折、よく唄っていたらしい。

時折、こうした歌を私が鼻歌を唄ったりすると、
家内が、NHKの『素人のど自慢』の鐘の音を真似て、
『カァ~ン』と微笑みながら、云ったりしている。

そして私は鐘ひとつかょ、と苦笑したりしている。

この『旅の夜風』の歌は、昭和13年(1938年)に上映された松竹映画の『愛染かつら』の主題歌であり、
原作が小説家・川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載された、
と知ったのは恥ずかしながら10年前であった。
          

この五月の時節、小庭の手入れをして、幾たびか唄ったひとつに、『白い花の咲く頃』がある。
草むしりに専念している中、伊予柚子(イヨ・ユズ)がたわわに白い花を咲かせていた。

そして何かと単細胞の私は、この樹木の下とその周辺を草むしりをしながら、
♪白い花が 咲いていた・・《作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎》
と鼻歌を唄ってしまうのである。

この『白い花の咲く頃』の歌は、 私が小学校に入学する昭和26年(1951年)の前の年、
ラジオから盛んに流れていて、幼児なりに心で覚えてしまい、
その後、白い花を見ると、何かしら鼻歌を小声で唄ったり、或いは心の中で唄ったりしている。
          

我が家の家内は、季節が変わる時などに、独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、10年近くなっている・・。

そして家内の母は身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行き、孤軍奮闘している。

私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、食べたりしている。

こうした時、私は台所で2日に1回ぐらいのペースで、午後のひととき、皿洗いをしたりしている・・。

家内から借りた前掛けをして、腕まくりをした後、
スポンジにファミリー・フレッシュなどの洗剤をつけて、こすったりし、
この後は水洗いを丁寧にしている。

こうした中で、ある時に、どうした心境が解からないが、
『ここに幸あり』の歌をかぼそい声で唄ったりしたことがあった。
♪嵐も吹けば 雨も降る・・《作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子》

この後の私は苦笑しながら、確か私の小学五年生の時に、ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりしてしまった。

私はカラオケは苦手であるが、現役時代のサラリーマンの時は、
おつきあい程度に唄ったしてきたが、
この『ここに幸あり』の歌に関しては、もとより唄ったこともないのである。

私の少年期に聴いた曲が、心の片隅にあったのかしら、
と少し照れたりし、戸惑ったりした・・。
          

過ぎ去りし2006年〈平成18年〉の秋、 私たち夫婦は家内の母と共に3人で道東旅行をした時、
私は婦人と観る所が違うので、独りで人影のない知床半島、阿寒湖の遊歩道を散策した。

私は何かと気弱な小心者で、熊(クマ)には遭(あ)いたくないので、
かぼそいながら、『イヨマンテの夜』の歌をお守り代わりに唄いだした・・。

♪イヨマンテ(熊祭り)・・《作詞・菊田一夫 作曲・古関裕而》
もとより伊藤久男さんのように、はりのある朗朗とした美声で唄えないが、
やがて私なりに大きな声で、音程も外れながらも唄ったりした。

幸いにも、この地域の熊(クマ)は従順なのか、熊(クマ)は万一《熊祭り》されては勘弁して欲しい、
或いは東京の田舎者の私に遭(あ)いたくないと感じてか、
私と熊(クマ)は出逢うことなく、このような体験を私は秘めている。
          

このように私は、小学・中学時代の『音楽』授業は、恥ずかしながら『2』の劣等生であったが、
ときおり鼻歌をかぼそい声で唄ったり、心の中で唄ったりしている。

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いつかある日、私の葬儀は家族葬、と思い深めて・・。

2014-05-22 14:43:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしこの世は、いずれは片割れとなり『おひとりさま』となる。
          

私が2010年〈平成22年〉の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
食事の内容はもとより、ひたすら歩き廻ったりして大幅に改善されている。

こうした原因の根底には、長き45年ぐらい日本酒の純米酒、ビールを夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

この間、最寄の内科専門医院に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
                               

しかしながら私の現役サラリーマン時代の58歳の時に、同僚が難病で死去されたり、
定年後の2年過ぎた頃、健康溌剌で過ごしてきた私より2歳先輩の方が、突然に病死されたりし、
昨今、長寿社会といわれても、60代でもこの世とお別れする方もいるのである。

このような心情を秘めてきた私は、せめて60代は五体満足で生かしてくれ、
この後の70代は余生と思ったりしてきた・・。
そして認知症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

こうした中で、何よりも私が恐れているのは認知症であり、
ひたすら自宅の周辺3キロ範囲をほぼ毎日歩き廻ったりしている。
          

私は家内と日頃から、子供がいない一代限りの為か、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。

          
こうした中で、私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

これまでの私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、
或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職した引退の年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは遥かに遠い平凡な人生を歩んできたので、
遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。
          

こうした中で、家内はもとより、兄妹のそれぞれの夫妻、末妹、兄の子供である甥のふたり、
そして家内の妹夫妻、そして家内の母が存命であったら加わって欲しい・・
このくらいの親族の一部の最小限のメンバーで通夜、告別式を執り行って、家族葬の形式と念願している。

昨今、式場の内部が、自宅の居間のような形で、片側に御棺を置き、
広いテーブルで食事やお酒を飲食できる会場もあると知り、私は待ち焦がれた会場形式だ、
と思ったりした。


そして通夜の日、御棺の周りは私の幼年期は農家の児として育ったので、
日本風土の土に還るので和花を中核として、欧米の書物、映画、音楽も少し愛してきたので、
洋花も添えて欲しい。
しかしながら和花は何かと高価なので、洋花が大半でもよい、と思ったりしている。

大きなテープルの各席に於いて、近くの食事処から取り寄せた和食、洋食を食べて頂き、
煎茶、コーヒー、紅茶などを飲んだり、ウィスキー、ワイン、日本酒、ビールなど呑んで頂いたり、
私の生前のこぼれ話し、失敗談をして、談笑して頂く・・。

人は誰しも故人の心の奥に秘めた心は解らないが、とりとめなく話して、
あの時は・・と笑って下されば充分である。

こうした中で、音楽が静かに流れれば、と念願したりしている。
選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、交響曲第9番の第三楽章、
アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしている。
          

翌日の告別式は、このメンバーで自宅の居間のような形の式場に集合し、お線香一本を上げてもらい、
この後は火葬場に行き、ふたたびこの式場で、
お好みの飲み物を呑みながら、食事をして談笑して頂いた後、散会する・・。

そして私の生家は曹洞宗なので、やはり生家の墓地のある寺院の方に読経して頂くが、
通夜、告別式の5分ぐらいの簡略なお経でよい、と思ったりしている。

このような葬儀は、私の生家にしても、親戚にしても、前例がなく、
もとより兄妹は大いに戸惑い、
なぜ生家の墓地のある寺院の斎場で、通夜、告別式を行わないの、と予測される・・。
          

しかしながら水戸黄門の印籠のように、故人の遺志である、と家内が明言し、了解を願いたいのである。

このような私の葬儀に関して、とりとめなく昼下がりのひととき、思ったりした。

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コメント (4)

ブログの投稿文は平素の外出着、コメントは心の普段着、と私は思いながら・・。

2014-05-21 13:49:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

        
私は定年後まもなくブログの世界を知り、パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、早や9年半となり習性のように投稿を重ねてきた・・。
                     

ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。
                    

そして私はブログの投稿文を重ねている中、専門知識のなく疎(うと)い身ながら、
ときおり政治、外交、軍事、経済、社会の出来事を綴ったりしてきた。
しかしながら、一時的な感情だけで吐露(とろ)し、後で後悔することが多かったりしてきた。

その上、心の奥に感じてきた危険な事柄は、心の節度として抑止してきた。
たとえば、
◎XX党は、うわべの平和を念仏のように発言し、平和ボケであり、国家の主権さえも欠落している。
◎XX党は、財源の悪化を無視してまでも、福祉だけを最優先とする政策を掲げ、日本の衰退を招く悪質な党である。
◎社会を震撼させる卑劣な悪質な犯行する方は、たとえ法治国家の日本であっても、即時に絞首刑にしなさい、

このようなことを私が記載すれば、もとより私の人格が疑われてしまい、
感情と理性の間を往還しながら、心の節度して平坦な発言の投稿文となってしまうことが多かった。
                               

しかしながら私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しては、余すところなく表現してきた、
誰しも光と影があるので、ためらいながらもマイナスと称される影も私は描写してきた。
たとえば
◎母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった。
◎私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
◎或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
 ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、私たち五人の子供は成人したこと。
◎又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。
          

◎そして私自身の場合は、幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であった。
◎大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、新人賞に3回応募したが落選し、やがて敗退したこと。
◎或いは定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

こうした出来事のことは、小心者の私としては匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
                    

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、間接的な意味合いからして同じかしら、と思ったりしている。

 
    
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら『夢逢人』と命名したりした。

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは一年半前から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。
                               

このような思いで描写してきたが、もとよりブログはこの広い世の中に公表することであり、
1(私)対N(多くのお方)と思い、少しは抑制した表現としている。

こうしたことは私の日常生活の中で、買物とか散策する外出の時は、少しは身なりを整えるのと同様に、
私のブログの投稿文は、平素の外出着かしら、と思ったりしている。
          

しかしながら都心に買物や懇親会などの出かける時は、多くの方に恥ずかしくないように、
程ほどの衣服を整えて出かけるが、
このように準じたお洒落でうわべの事柄は、つたない半生を歩んできた私は、
少し背伸びした投稿文を私は書くことができない。

そして素直な心に準じた身の丈に合った投稿文を重ねることが圧倒的に多い・・。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切している。

このような事情で数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、
と言っても差し支えない。
                    
              
コメントに関しての私の場合は、そのお方との個人的に心情で、
1(私)対1(相手のお方)のささやかな心の交流と思いながら、
私は本心を発露して綴り、相手のお方の返信にも本心が見え隠れし、微笑んだり、苦笑したりする。

まるで我が家の中で、リラックスした普段着のような感じなので、
コンントは、心の普段着かしら、と感じたりしている。
                                        
或いはそれぞれのお方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

そして私は毎日のように数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けている。

そしてこうした中で、感きわまってコメントをしたりする時もある。

このように私は、多くのお方がブログのコメントを活用しているのは、
それぞれのお方の秘めたる心の発露の交流かしら、と感じたりしている。

このように私は、ブログの投稿文を重ねて9年半となっている。

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コメント (5)

月刊総合雑誌のひとつの『文藝春秋』を愛読して、44年が過ぎて・・。

2014-05-20 16:13:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。
          
          
こうした中で定年後の年金生活の中で、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。

或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。
          

新聞は長らく読売新聞を購読し、そしてNHKのテレビニュースを視聴して、
世の中の出来事を学ぶことが多い。

しかし私は読売新聞、そしてNHKのニュースにしても、
政治、外交、軍事、経済、社会のニュースに関しては、私は70%ぐらい信頼している。

そして更に深く知りたい時は、ネットを活用して、
そのニュースに関して、それぞれの専門家の著名人の寄稿された文を読み、
やはり専門分野で活躍されている方の論説は洞察力がある、と深く教示されることもある。

何よりも圧倒的に心の深淵まで揺すぶられるのは、
月刊総合雑誌に於いて、あるテーマに関して、
それぞれの専門家の著名人が競うように寄稿文が同時掲載され、
私はその著名人のこれまでの軌跡を思い重ねて読むことが多い。
          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

こうした彷徨(さまよ)うようになった5年間は、何かと社会から取り残されていたので、
一般的な常識の政治、外交、軍事、経済、社会などに欠けていたことに気付かされ、
総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読むようになった。

この当時の私は血気盛んな私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
私は秘かに『世界』から週刊誌の『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れていた時期であった。

しかしながら、たまたま音楽業界のあるレコード会社に勤めて情報畑で奮闘していると、
数多くのサラリーマンと同様に多忙となり、
やがて結婚をしたり、住宅ローンの返済に苦労したりすると、
次第に格調高い『世界』の知識についていけず、
ときおり『中央公論』だけは特集に関心させられた時だけ購読するようになった。

そして結果的には、毎月に愛読している総合月刊雑誌としては『文藝春秋』だけとなり、
定年退職後の年金生活の今でも、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
          

こうした中で今月10日に発売された『文藝春秋』の6月号に於いて、
超大型企画として、《 安倍総理の「保守」を問う 》と題されて、
《 日本の進路はどこに向いているか。
我等の漠たる不安に百人の叡知が答える 》と副題が明記されている。

この前提の主題として、
《3年間、迷走に迷走を重ねた民主党政権。
安倍内閣は久々の本格的保守政権として発足した。
特定秘密保護法制定、集団的自衛権の行使などを手がけ、
「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権に対し、国内外から「右傾化」との非難もあがっている。
日本はどこに向かうのか。「保守政治の本質」とは何か。
小誌は下記の問いのいずれかをお答えいただきたいと各界の識者に意見を募った。

①日本は「右傾化」しているか。
②本来の「保守」とはいかなるものか。
③安倍政権の「戦後レジームからの脱却」をどう考えるか。

憲法改正、対米・対中外交、歴史認識、靖国参拝から、新自由主義政策の是非、ヘイトスピーチに至るまで・・
百人の論者が多角的な視座から論じ尽くす・・》と明記されていた。
          

私は何かと愛読している数学者・作家の藤原正彦、作家の曽野綾子、京都大学名誉教授の中西輝政、
作家の堺屋太一、ジャーナリストの徳岡孝夫、経済評論家の荻原博子、エコノミストの森永卓郎、
社会学者の上野千鶴子、作家・佐藤 優、各氏を最優先として読んだりした。

そして寄稿文を読みながら、野球の投球の表現を借りれば、
直球で寄稿文を認(したた)める方もいるし、変化球でお答えしたお方もいる、
と微苦笑しながら、学んだりした。

そして豪速球は、社会学者の上野千鶴子さんと感じ、苦笑させられながら、
そうですよねぇ、と深く共感させられたりした。
          

各論者は難題の論回答があるが、たとえ寄稿文のひとつであっても、
その分野の専門家として、職を懸けて発露される場合がある。

こうしたことが感じたのは、もうひとつの特集として、
ジャーナリストの上杉 隆さんが、《 時代を刺激する論客8人の本音 》と題したインタビューで、
この中のひとりのジャーナリストの櫻井よしこさんが、
渾身に「靖国参拝」そして「核武装」について、ご意見を述べられたことである。

私は読みながら、ここまで明確に発言されたら、
まさにジャーナリストの専門家として、櫻井よしこさんは日本の根幹の命題を発露され、
職を懸けて明言されている、と深く感じ受け止めたりした。
          
そして私は、櫻井よしこさんの論をここ一週間思考させられている。

このように『文藝春秋』は月刊誌のひとつであるが、私は多々教示されながら、
早や44年が過ぎている。

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緑茶で認知症リスク減を学び、身近な対策のひとつかしら、と高齢者の私は感じて・・。

2014-05-19 12:48:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私たち夫婦は、大病に遭遇せずに今日まで至っている。
医院に通院したのは、私たち夫婦はお互いに歯が劣化して、
歯科医院に幾たびか治療を受けてきたぐらいである。

或いは私が2010年〈平成22年〉の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
食事の内容はもとより、ひたすら歩き廻ったりして大幅に改善されている。

こうした原因の根底には、長き45年ぐらい日本酒の純米酒、ビールを夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

この間、最寄の内科専門医院に3週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
                    

しかしながら私の現役サラリーマン時代の58歳の時に、同僚が難病で死去されたり、
定年後の2年過ぎた頃、健康溌剌で過ごしてきた私より2歳先輩の方が、突然に病死されたりし、
昨今、長寿社会といわれても、60代でもこの世とお別れする方もいるのである。

このような心情を秘めてきた私は、せめて60代は五体満足で生かしてくれ、
この後の70代は余生と思ったりしてきた・・。
そして認知症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

こうした中で、何よりも私が恐れているのは認知症であり、
ひたすら自宅の周辺3キロ範囲をほぼ毎日歩き廻ったりしている。

或いは私の住む地域は、路線バスに利便性があるが、
私は都心に買物、冠婚葬祭、或いは猛暑の時以外は、乗車せず歩いたりしている。
          

本日の朝のひととき、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】の中の『医療』を
たまたま見ていた時、《 緑茶で認知症リスク減…金沢大研究グループ 》と見出しを見て、
どういうことなの、と思いながらクリックした。

無断ながら記事の詳細を転載させて頂く。

《・・緑茶を頻繁に飲む習慣のある人は緑茶を飲まない人に比べ、
物忘れなどの認知機能低下や認知症にかかるリスクが低かったとの調査結果を、
金沢大の山田正仁教授(神経内科学)らの研究グループが15日、米科学誌「PLOS ONE」オンライン版に発表した。
同グループは認知症の予防につながる可能性もあるとして、研究などを進める。

調査は2007年から認知症の早期発見や予防法の確立に向けて、七尾市中島町で始めた。
08年まで60歳以上の982人を対象に緑茶、コーヒー、紅茶を飲む頻度を調べ、認知機能検査や採血検査を実施。
5年後、研究開始時に認知機能が正常だった490人を再調査した。

その結果、軽度認知障害か認知症を発症したのは、
毎日緑茶を飲む習慣のある人は157人中18人(11・5%)、
週に1~6日緑茶を飲む人が195人中29人(14・9%)。

これに対し、緑茶を飲まない人は138人中43人(31・2%)に上り、
緑茶を飲んでいる人の認知機能低下のリスクが、飲んでいない人に比べて3分の1~2分の1になっていることが分かった。
コーヒー、紅茶を飲む習慣と、認知機能低下の関連は見つからなかった。

山田教授は「認知機能低下の予防にはカテキン類や、ポリフェノールがかかわっている可能性がある。
認知症予防の開発研究も進めていきたい」と話している。

(2014年5月16日 読売新聞)・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
          

私は幼年期より煎茶を愛飲しているひとりである。
そして年金生活をしている中、お寿司屋さんから頂いた大きな茶碗に、
一日に6杯ぐらい煎茶を淹れて飲んだりしている。

或いは散策の時に、コンビニとか自動販売機で、煎茶のペットボトルを買い求めて、
喉の渇きを癒(いや)している。

そしてコーヒーを飲むのは、自宅で日に一杯ぐらいで、
外出で駅前で休憩する時は、コーヒー・チェーン店のドトールでコーヒーを飲んだり、
ときには紅茶を飲んだりしている。

家内は何かとコーヒー党で、自宅で飲む時は、私が茶坊主となり家内用のマグカップに淹れたりしているが、
身体に良いよ、と煎茶を小さな茶飲茶碗を添付したりしている。

このような日常生活の飲み物をしている我が家は、
今回の《 緑茶で認知症リスク減 》を学び、私は記事を読み終わった後、微笑んだりした。

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