夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

庭の手入れに孤軍奮闘したの後、伊予柚子(いよ・ゆず)を捥(も)ぎ・・。

2013-10-31 17:22:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
我が家は住宅街の外れにあり、変則の五角形のような敷地で、家屋を配置した結果、
やむなく主庭と玄関庭の二分化となっている。

過ぎし19日は、家内の支援もあり、私たち夫婦は玄関庭の手入れをした。

そして今朝の7時過ぎに私はテラスに下り立つと、
さわやかな晴れ間となり、運動会代わりの庭の手入れに最適、と思いながら、
主庭の樹木の伸び放題の枝葉、地表には草に繁えているので、
本日決行だ、と体力も衰えた私でも、自身を叱咤激励した。

家内は家の中で、衣料の冬物を日中すると昨夜言っていたので、
私は独りで8時半過ぎより主庭に下り立ち、いつものようにストレッチパンズの長ズボン、
着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をした上て、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしたりした。
          
              2週間前に、たわむれに撮った一葉である。

 
そして樹木の伸び放題の枝葉を高枝バサミで15本ばかり切り落とし、
やがて切り落とした枝葉を二時間ぐらいで、市指定の有料の『燃やせるゴミ袋』に、
破れないように剪定鋏(ハサミ)で小さくして入れたりした。

          
この後、難問の草むしりをしたのであるが、
ドクダミなどの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥だらけになる。
しかし暑かった夏季と違い、汗はうっすらとかく程度であったので、楽であった。

結果的に私は、根が単細胞の熱中する悪い癖の為か、昼食抜きで孤軍奮闘していたが、
やがて疲れ果てて午後3時過ぎに終了とした。

そして少しばかり清々しくなった主庭を眺めたりし、
片隅にある柚子(ユズ)の実を5つばかり捥(も)ぎ、あと10ぐらいとなり、
今年は不作の年だねぇ、と微苦笑しながら心の中で呟(つぶや)いたりした。


我が家にある柚子の樹は、小ぶりの実が成る伊予地方産の柚子の樹である。

35年前、生家の近くに家を建て後、
少し遠い都立公園に家内と共に行き、帰路、苗木屋さんに立ち寄り、買い求めた品であった。

私の幼年期は農家の児として生を受け、宅地の外れに大きな柚の樹があり、
晩秋になると、祖父が長い竹竿(たけざお)で捥(も)いて折、
黄色い色艶した大きな実が数多く収穫できた。
お正月の御雑煮などに、幼児の私でも一切れ入れてもらったり、
祖父や父の晩酌の友としたり、春先までの大人楽しみの食べ物のひとつだった。

このような幼年期の体験があったので、
苗木屋さんで、柚の樹に買い求めようかなぁ、と思っていたのである・・。

『旦那さん、この柚子の樹・・お買い得よ・・』
と店の奥さんから声を掛けられた。

私は見ると、簡素な鉢(はち)に入った根元2センチぐらい、樹高は80センチぐらいで、
一人前に接木したあった。

『お姉さんさぁ・・その柚、小さくない?』
と私は言った。

『あらぁ、旦那さん・・伊予(いよ)地方の柚なの、
この辺に成る大きめの実と違うけれど・・小振りな実で評判良いわょ・・』
と店の奥さんは微笑みながら、私に言った

『小振りは、解ったけれど、実は成るかなぁ・・』
と私は言った。

『心配なしょ・・数年したら、食べきれなく程、成ります』
と店の奥さんは力強く私に言った。

『そうしたら、家から出荷するか・・』
とB型のお調子者の私は、明るく応じた。


こうして私は買い求めて、主庭に植え、水をたっぷり上げた。
その後、肥料を施し、数年過ぎた。

しかし花が咲かず、実も成らなかった。

『XXちゃん、地植えが駄目なのかなぁ』
と私は家内に言ったりした。

『貴方、柚は時間が掛かると言うじゃ、ありませんの・・
柚の馬鹿・・何とか・・』
と家内は笑いながら、私に言った。

『苗木屋さんの奥さん・・調子良すぎぎだったなぁ・・』
と私は家内に言った。

『・・』
家内は笑ってばかりだった。

『だまされたかなぁ・・』
と私は呟(つぶや)くように、未練たらしく言った。

この後、私は伊予地方と東京の郊外では、土壌が違うのか、
或いは主(あるじ)の私に反抗して、のろまな態度なのか、
私は心配していたのは確かであった。

こうして7年が過ぎた・・。

そして5月になると、純白に花が咲いた。

その晩秋、初めて3つばかり収穫があった。


翌年の5月になると、若芽が伸びたので、刈り込んだ。
栄養分を主木から枝に行き渡らす為に、刈り込んだのである。

しかし私の期待に反して、この秋、収穫ゼロとなった。


それから数年、刈り込まず、肥料も与えず、草むしりだけは丁重にするだけで、放置した。

そして晩秋は、確実に10数個、収穫があった。


私が定年退職する10年前の頃からは、百個は超える実りとなった。
この秋の時は、たわわに淡い黄色の実を眺め、
『XXちゃんさぁ・・やっと念願どおりになったょ・・』
と私は家内に歓声を上げながら言った。
             
                昨年の11月下旬、たわむれに記念撮影をした。

このように我が家の伊予柚は、苦節10何年の歳月を要したりである。

その後、5月初旬の頃になれば、
伊予柚子の枝からは、たわわに白い花を咲かせ、
私は微笑みながら、この樹木の下とその周辺を草抜きをしたりする時、

♪白い花が 咲いていた
 ふるさとの 遠い夢の日
  ・・・
【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】
と思わず鼻歌を唄ったりしてきた。

秋になると、この日に気に入った弐合徳利に辛口の純米酒を入れ、
人肌ほどに温めながら、ぐい呑みも選定した上、
家内に柚子のひとつを渡して、輪切りにして貰ったりする。

私は酒を一口呑み、柚子を口に含み、そして香りと共に味わう・・。

この後、家内と夕食を頂きながら、
私のかみ締めている柚子の一切れは、いびつな形であったが、それなりの味がある。

このような私は、私の住む武蔵野地方から遥か遠方の四国の伊予地方の柚子は、
最初は敬遠されたが、この後は馴染んでくれて、愛(いと)おしさを増している・・。

このような伊予柚子のささやかな思いがあり、
この柚子は豊作の時は100前後成るが、翌年は不作の年で20前後となり、
柿の実と同様に一年おきとなり、我が家の数少ない秋の収穫となっている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の郊外は、ほんのりと落葉樹は色合いを染め始めて・・。

2013-10-30 15:07:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
11時過ぎに平素の買物の専任者の私は、
スーパーで家内からの依頼品を買い求め、帰宅した後、
本日はどのコースを散策しょうかしら、と少し思案した後、野川の遊歩道とした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は上流沿いとした。
          
私の住む地域は、 平年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めらた錦繍(きんしゅう)の情景となる。

やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。


このような思いを馳せて、野川の遊歩道を上流に向って歩きだし、
まもなく桜並木のような下を歩いたりした。
                         
この後、この武蔵野地帯に古来からある欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、イヌシデなどの落葉樹が
植えられている小公園に入った。
この小公園の落葉樹の四季折々の情景に魅せられて、
特に定年退職後の2004〈平成16〉年の秋以降、こよなく愛してきた公園のひとつであった。
                                
こうした私の真情は幼年期に農家の児として育てられ、
欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、エンジュ、イヌシデなど生家の雑木林にあったり、
垣根代わりに植えられた樹木であったので、何かしらやすらぎを感じるのである。
                        
            
そして、ほんのりと色合いを染め始めた情景を長らく見惚(みと)れたりした。
やがてデジカメで、記念写真ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
移りゆく季節のひとときの情景を撮ったりした。
               
まもなく11月3日の『文化の日』を迎えるので、
私が待ちわびた朱色、紅色、黄色などに染めらた錦繍(きんしゅう)の情景となるので、
何かと愚図の私でも、季節の移ろう情景に享受しながら、周辺を歩き廻り、見惚れたりしているのが、
ここ9年ばかりの習(なら)わしとなっている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿川佐和子さんは、私にとっては姪っこのような存在の人・・!?

2013-10-29 15:12:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜の夕食の少し前、たまたまテレビのスイッチを押したら、
作家・阿川佐和子さんの笑顔が映しだされ、
あれぇ・・何の番組かしらと注視したら、NHK総合テレビ『鶴瓶の家族に乾杯』であり、
今回のゲストとしては阿川佐和子さんが出演されていた、と私は判明した。

そして台所で夕食の準備している家内に、
『XXちゃんさぁ・・阿川佐和子さんが『鶴瓶の家族に乾杯』の番組で出演されているょ』
と私は大声で伝えたりした。

家内は芸能人、映画やテレビの女優さんには苦手であるが、作家・阿川佐和子さんの言動には、
何かと日頃から好感している人となっている。

そして我が家として稀であるが、この番組を視聴しながら、夕食を頂いた。

この後、私は阿川佐和子さんの言葉、しぐさを見ながら、
こうした言動にお父様がご覧になっていたら、さぞかしご安堵されている、と私は思ったりした。
          

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文學青年の真似事をしたりした。

こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。

やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読したりした。
この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であった。

そしてこの当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であり、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、
1966(昭和41)年7月に発刊された。
             
これ以前に、阿川弘之・著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。

特に『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954(昭和29)年に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。
そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。

そして『われらの文学』に於いて、氏の未読だった作品を読んだりし、
氏の『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、氏の文学を確立されるまでの状況に圧倒的に感銘をさせられた。

やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
氏の作品を読んだりしてきた。


こうした中で、阿川弘之氏の数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして長女・佐和子さんも記載されていた。

このように私は、阿川弘之氏の愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
氏の随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
          

そして私は阿川佐和子・著の『あんな作家 こんな作家 どんな作家』(講談社文庫)を読み、
カバーの裏を読みと、何かしら著名な作家の57名の方にインタビューされた本と解った。
そして、私は『文庫あとがき』を読んだりした。
《・・本書は1986年初頭から1991年秋まで講談社『IN★POCKET』に連載し、
そののち単行本『あんな作家 こんな作家 どんな作家』として上梓した
作家のインタビュー記の文庫本である。

1986年初頭といえば、私がテレビの仕事を始めて2年あまり経った頃のことで、
活字の連載はこの『IN★POCKET』の仕事が初めてのものであった。・・》

そして阿川佐和子さんはインタビューした後、
《書けない、わからないと、進まない、泣き言を並べる私に対して・・》編集者に
悪戦苦闘する心情が、克明に綴られていた。

もとより作家は、伝統芸能の歌舞伎、茶道、華道などの世界と違い、
筆一本で生活できるのは、たとえ父親が作家であっても、困難である。

稀な作家の娘としては、古くは幸田露伴さんの娘である幸田 文さん、佐藤紅緑さんの佐藤愛子さん、
或いは吉本隆明さんと吉本ばななさん、そして江國 滋さんと江國香織さん・・となっている。
まして阿川佐和子さんの親友と称されている壇 ふみさんさえ、父親が壇 一雄であっても、
数冊ぐらい上梓しているが、作家としては生活が成り立たないのである。
          

ここ5年ぐらい阿川佐和子さんは、精力的に多作を発刊されているが、
この作品が活字としては処女作であったと知り、このような時代があったのだ、と私は微苦笑していた時もあった。

たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されて、
《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・
ですから親の14光り、かしら ・・》
このような意味合いの言葉を発言されたりし、
私はこのお方の感性に、瞬時に魅了されたのである。

もとより阿川佐和子さんはが多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之氏の文章の手ほどきを受けたりし、
その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたのである。

この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》
と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、
この方の素敵な言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したのである・。
          

この以前に、阿川佐和子さんの対談集のひとつ
阿川佐和子の会えばなるほど ~この人に会いたい 6~』(文春文庫)を購読し、
対談の達人、と私は感じたりしていた。

そして、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。

父は1920(大正9)年、娘は1953(昭和28)年生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。
父の阿川弘之氏は、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに学ぶことが多いのである。
          

やがて昨年の2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。

こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。

そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんがお見舞いに訪れる情景の写真があった。

私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、
御歳を召された、と悲しんだりした。

そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。

それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。

読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


そして私は阿川弘之・著『鮨(すし)そのほか』(新潮社)に於いて、
今年の2013年4月が発刊されて、発刊日に本屋で買い求めたりした。
              
或いは阿川佐和子・著『阿川佐和子の世界一受けたい授業 ~第一人者14人に奥義を学ぶ』(文春ムック)、
             
昨年の2012年11月に発行され、やはり店頭で微笑みながら買い求めたりした。

そして私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50年になり、
阿川佐和子さんのご著書は姪っこに対する心情のような思いで、ここ15年ばかり読んだりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寡婦、寡夫って何ぁに、と心の中で呟(つぶや)きながら、やがて私は・・。

2013-10-28 14:14:37 | 定年後の思い
一昨日の夕暮れ、私は我が家の門扉に近い処にある郵便受け入れ箱に、
たった一通の郵便物を取った。

手にすれば、日本年金機構から、重要書類在中と明記された封書で、
居間に戻り、開封した。

そして扶養親族等申告書と解り、年に一回の定期申告書であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は家内とたった2人だけの家庭で年金生活10年生あるので、
変更項目はなく、提出期限日は12月2日と知り、後日に記載すれば良いと、電話の横に置いた。

先程、扶養親族等申告書を記載始めてた・・。
そして私の受給者氏名、電話番号などを書き込み、家内の控除対象配偶者の氏名、生年月日などを記載した。

この後、この上段の蘭に、寡婦、寡夫と明記された項目があり、
どのような事なの、と思いながら扶養親族等申告書の記入方法と称された解説を読んだりした。

そして《寡婦(かふ)、寡夫(かふ)は、受給者本人が、夫や妻と死別、もしくは離婚した後、
婚姻をしていない方、
または夫や妻の生死が明らかでない方・・と明示されていた。

そして私なりに理解できた後、やがて私は寡婦(かふ)、寡夫(かふ)に対しての思いを重ねた。
          

寡婦(かふ)については、もとより女性の身でありながら、夫と死別され、再婚もせず未亡人である。
或いは何らかの理由で不幸にも夫と離婚を余儀なくなり、その後も婚姻をしていない女性である。

未亡人については、亡きご主人との結婚前の出逢い、そして寝食を共にされた結婚生活の歳月、
やがてご主人に死別され、その後の亡きご主人に愛惜を重ねて、けなげに清麗な日々過ごされている女性、
と私は思ったりしている。

私が小学4年生の頃、学校の近くに住んていた人が、何かしら日頃から怖い男が病死されて、
あの方とうとう未亡人になったょ、と遺(のこ)された女性のことを、
大人の人たちが立ち話しをしている時、聴こえたりした。
そして私の生家も小学校2年の時に父に病死され、母と年齢も同じようと知り、漠然に可哀想にと感じたりした。

やがて私は16歳の時、近所に住む子供がいない家庭で、
主人が交通事故で死去され、40歳前の遺(のこ)された女性がいた。
私の生家と平素の交際もあり、ある日私は通りかかると、
お茶でも飲んでいきません、とこの女性から私は誘われた。

そして居間に上がり、私はこの女性の前でコーヒーを頂いていたが、
何かしらほんのりと色合いを感じて、どきまぎし息苦しくなったりした。
このようなこともあり、ご主人に死別された未亡人には、妖艶さがあり、
未(いま)だに悩ましい女性となっている。
                    

夫と何らかの理由で離婚をを余儀なくされた女性は、私は解らないひとりである。

私たち夫婦は1976〈昭和51〉年の春に結婚式を挙げた。
私は私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列して下さる新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
結婚会場の進行担当者に導かれて、指定時に結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような多事多難の荒波があろうと私は・・、
と私は改めて思いながら緊張した。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。

このように新たな両家の親族に誓った私は、どのような人生の多事多難があっても、
私たちがお互いに労(いたわ)り合えば乗り切れる、と確信している私は、
離婚は解らないのである。
          

寡夫(かふ)に対しては、最も切実な今後の難題となっている。
平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と言われたりしていることもある。
しかしこの世は、いずれは片割れとなり『おひとりさま』となる。

日常の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策し、痴呆症は避けたく歩いたりしている。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、3年前の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行、懇親会以外は週に一度ぐらいは自宅で呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と私は50代の初めの頃から確信を深めてきた。

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれた場合のことを考えたりしている。

私は家内と日頃から、子供がいない一代限りの為か、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。
          
私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に裏表のない安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。

このように私は、寡婦(かふ)、寡夫(かふ)について漠然と感じたりしている。
               

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「読書週間」に伴い、私が旅行先で最も魅了された読書室は・・。

2013-10-27 17:37:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、カレンダーを見ると、確か本日より「読書週間」が始まったはずだ、と微笑んだりした。

もとより「読書週間」は、1947(昭和22)年に
「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という目的により開始され、
翌年から「文化の日」をはさんだ2週間となり、やがて国民的行事として定着している。


私は遅ればせながら1960(昭和35)年の春に高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。

私が読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。
          
こうした中で定年後の年金生活の中で、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。

私が読書をする場所は、我が家の居間でソファーに座ったり読むことが多いが、
寝室の布団に横たわって読んだりする時もある。
          

私たち夫婦は共通趣味のひとつとして、国内旅行であるが、
年金生活を丸9年が過ぎる中、リゾート・ホテル、観光ホテル、旅館に滞在して、
周辺を眺めながら歩き廻ることが多い。

こうした時、滞在先の館内、指定された部屋で、数冊の本を持参して私は読むことが多い。
そしてこれまでの旅先で、読書に最適、と最も魅了された所を思い馳せたりした・・。


過ぎし昨年の2012年5月初旬に於いて、
ある有力な通販の旅行会社より、越後湯沢のある源泉掛け流しの老舗旅館『雪国の宿 高半』で、
3泊4日のプランがあり、
東京駅から越後湯沢駅を上越新幹線で往復し、この間ご自由に周遊して下さい、
と旅程であった。

そして私たち夫婦は、越後湯沢の街並みを毎日ひたすら5時間前後、歩き廻ったりした。
こうした中で帰館すれば風呂に入ったりしたが、この後は私は館内に設置された図書室で、
本棚から数冊読んだりした。
          
この場所は、たまたま私が利用されて頂いた時は、静寂でくつろぎながら読書ができた所で、
          
未だに鮮明に残影しているので、私にとっては最も魅了された所となっている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は誰しも、心身が衰えると、やがて・・。

2013-10-27 10:14:35 | 定年後の思い
◎よく転ぶようになった
◎呂律(ろれつ)がまわらなくなり、指先がふるえて文字が書けなくなった
◎自分が書いた文字が自分で読めない
◎自分が言っている言葉が自分で理解できない

私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
早朝に目覚めた私は、ぼんやりと枕元に積んである本の中で、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』(11月号)を手に取り、
読み残した寄稿文はないかしら、とページを捲(めく)っていた・・。

そしてこの雑誌には、各著名人が寄稿された随筆が幾重化あることで名高いが、
この中のひとつには、放送タレントとご自身が称している永 六輔(えい・ろくすけ)さんが、
『再びラジオに戻る日まで』と題した寄稿文があった。


もとより永 六輔さんは、1933年(昭和8年)生まれで、80歳になられ、
かっては放送作家、作詞家をなされたりした後、ラジオ番組パーソナリティ、タレント、そして随筆家である。
そして私は、永 六輔さんはひとつ先の時代を思考され嗅覚の鋭い多分野の表現者、
と長年に多々教示されているひとりである。

何かしらご病気をされた、と私は昨今、何かの雑誌で読んだりしてきた・・。
この程度ぐらいしか、私は永 六輔さんについて知らない。
          
今回の寄稿文の初めには、《46年間、続けてきた毎日のラジオ番組「誰かとどこかで」が
この9月一杯で終わった。・・》
と明記されて、《・・パーキンソン病と決まって治ることのない難病・・》なり、
上記に抜粋させて頂いた状況が表示されて、現在はリハビリに熱中している、
このようなことを克明に寄稿文に記されている。


この後、私は人は誰しも長寿を過ごすと、もとより心身が衰え、やがて難病に遭遇することもある、
と改めて学んだりした・・。

私は古希(こき)の一年前の齢ばかり重ねた身であり、
平素は自宅の3キロぐらいの周辺をひたすら歩き、季節の移ろいを享受している。
この根底のひとつには、痴呆症、或いは寝たりの不自由な身が怖くて、歩き廻ったりしている。

いずれいつの年には、この世に告別しなけれはならないが、
こうしたことは天上の神々の采配により決定されると確信しているので、
それまでの間は、せめて自身が自覚できる言動で、過ごしたいと願っている。

しかしながら、誰しもこの先のことは判ることがない、
と私は今回の永 六輔さんの寄稿文を読み終わった後、漠然としながらも思案させられたのである。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶坊主の私は、年金生活の中、ささやかな奮闘の軌跡は・・。

2013-10-26 12:10:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

もとより家内は少なくても料理、洗濯、掃除などがあり、
私は現役のサラリーマン時代から、小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

それでも引け目を感じて、家内の茶坊主に専念したりした。
          
私は年金生活をし始め、ダラダラとした生活は自身も困るので、
日の出と共に起床するのをモットーとして、殆ど早朝に起きだしてきた・・。

起床後、洗面した後は着替えて、台所に行って、
私の煎茶を淹れた後、家内の指定されたマグカップにコーヒーを淹れて、
お盆に載せて2階の寝室まで運び、目覚める頃の家内の布団の枕元に置いたりした。

そして私は 『今日は良いお天気になりそう・・』
と私は朝の挨拶代わりに家内に言ったりしてきた。

その後の私は、一階の居間で煎茶を飲みながら新聞の朝刊を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。

そして日中のひととき、家内が小休止とか、ゆっくりとテレビなどを視聴していると、
私はさりげなく察して、コーヒーを5回ぐらい淹れたりしている。


こうして5年が過ぎると、私は65歳の高齢者入門の身となり、体力の衰えを感じたりしてきた。
家内は私より5歳若いためか、心身溌剌として元気なのである。

こうした中で、私は相変わらず読書が好きで、ときには深夜まで読み耽(ふけ)っていることもあり、
目覚めると、朝の7時の時もあり、一階の居間に下り立つと、
家内は洗濯機に洗濯物をセットを終えて、新聞の朝刊を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。

そして私は、遅れをとった、と家内に言いながら、
台所に行き、コーヒーを淹れて、居間にいる家内の横に置いたりしている。
このように、やがて私は家内への枕元の宅配便が消えてしまった・・。

日中、そして夕食後までは、従来通り家内の茶坊主をし、今日に至っている。
          

こうして中で、ときおり『コーヒー・・濃いじゃないの・・』
と家内が苦言されることがあったりした。

家内はゴールド・ブレンドのインスタント・コーヒーを好み、砂糖なしで、
粉ミルクのブライトを愛飲している。

私が平素、我が家でコーヒーを飲む時は、ゴールド・ブレンドを濃くしたコーヒーに砂糖が少々なので、
家内の分量に戸惑うことがあったりした。

そして私はいつものような割合にしているのでおかしいなぁ、と思い、
やがて午後の3時頃には、コーヒーの分量をわずかに少な目にし、
夕食後はコーヒーの分量ををわずかに多めにし、何とか合格点となっている。
          

過ぎし確か3年前の頃から、夕食後のまもない時、
居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『コーヒー・・お待たせしまして・・』
と私は家内に言ったりしている。
こうした後に
『ご苦労であった!』
と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

そして思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多くなっている。

こうした茶坊主の私は、丸9年が過ぎて、早や10年生となっている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立がん研究センター中央病院で、過ぎし30年前に私は手術を受けた時の思いで・・。

2013-10-25 14:11:22 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、洗面を終わった後、鏡を見ていた時、鼻から一センチぐらい離れた所の横に、
0.5センチぐらいの傷跡がうっすらと残っているのに、微苦笑したりした。

この傷跡は、過ぎし30年前に、がん治療として名高い築地にある通称『がんセンター』病院、
昨今の正式名称は『国立がん研究センター中央病院』となっているが、
私が手術を受けた時の痕跡である・・。

この当時の私は音楽業界のあるレコード会社に勤め、管理系の情報畑に奮戦していた時である。

この一年前の頃は、私は六本木にある本社のコンピュータの専任者で、
資本関係のあるレコード会社のシステムを利用して、処理もある情報センターに委託処理をし、
開発・運用に専念して従事していた。

そして私の勤める会社の業績は悪化してきた時、首脳部のひとりから、
コンピュータを自社導入して、システム全体の見直して効率と経費節約を図れ、
と難題を指示され、新たな部署を組織して下さった。

そして、XX君、貴方だったら出来るょ、と私はおだてられて、
日曜日以外は深夜まで、ブロジェクトの4名と共に奮闘しはじめた時であった。
          

そして3か月過ぎた頃、何かしら私の鼻の横に1センチぐらい腫瘍のような突起物ができ、
どうしてなのょ、と思いながら、日曜日の時に私の住む調布市の中の総合病院に訪ねた。
私は担当医師から診察を受けながら、明確な診断結果が得られず、困苦したりした。

この後、腫瘍のような突起物が少し大きくなり困り果てて、家内も不安となり、
やはり日曜日に、私たち夫婦はこの病院に再訪した。
そして担当医師から診察を受けながら、明確な診断結果が得られず、
『先生・・悪性の腫瘍物・・或いはガンですか・・』
と私は差し迫ったりした。

私としては勤めているブロジェクトで奮戦している中、もとより失敗は許されず、
何よりも住宅ローンなどの返済の責務、或いは人生設計の修整も余儀なくされ、
まして最悪の場合は私の人生の終幕もあり、私は動揺しながら混迷していた・・。

結果として、この後に『がんセンター』病院に紹介状を頂き、
その後の一週間後に、初めて大きな『がんセンター』で受診した。

しかしながら担当医師からは、明確な診断状況が得られなかった。
私は日本で一番最先端のガンに詳しい病院でも、不明確な診断であったので、
『先生・・悪性の腫瘍物・・もしかしたらガンの初期状態なのか・・
この部分を切除し、判明して下さい』
と私は担当医師に言った。

『腫瘍を開く、手術か・・』
と担当医師は少し困り果てたような苦笑を浮かべたりした。
          

やがて5日の平日に、私たち夫婦は指定された部屋に訪ね、
私は指定された受診服に着替え、近眼の私はメガネを取りように言われた。

そして看護婦さんに導かれて、広い部屋の中で、ベットがひとつある中、
横たわるように指示された。

やがて看護婦さんから、顔の一部だけの麻酔を受けた後、
担当医師が助手と思われる3名の方たちと共に、明るくした照明の下で、
私の腫瘍のような突起物を切り開いた・・。

私は顔の全体はタオル状で覆(おお)われて、顔の一部だけ露呈させ、
麻酔状態であったので、医師と助手の話し合いが聴こえたりした。
『この患部・・少し深いなぁ』
このような意味合いの言葉も聴こえたりしてきた。

そして遠くの通路から、
『XX先生・・手術ですか・・?』
と話し声が聴こえたりした。

『いゃあ・・患者が悪性の腫瘍物か・・ガンか・・明確にして欲しいと言われ、
やむなく切除している所です』
このような担当して下さった医師の言葉も私は聴こえたりした。

やがて一時間後に手術は終了して、私は看護婦さんに導かれて、
家内の待っている通路にある小さな待合室に戻った。

『あなた・・真っ青ょ』
と家内は私に言いながら、少し安堵した表情で言った。

やがて中央にある待合室の片隅で、私は横たわった。
『この病院・・手術した後、数時間ぐらいはベットに横たわれると思ったが・・
直ぐに帰宅していい、と先生は言ったので驚いたょ。

そして切った所、数週間過ぎても大きくなるようだったら、もう一度来なさい、
と先生が最後に言われたょ』
と私は苦笑しながら、家内に言ったりした。
          
そして私たち夫婦は、地下鉄の築地駅から、私の勤務先の六本木駅に向った。
私は平日に手術を受けたので、ブロジェクトの奮戦している状況、
そして私の直接上司の首脳部の方も心配して下さっていたので、
せめて面会でも、と思いながら、家内は近くの喫茶店に待機させて、出社した。

そして私は首脳部の方にお逢いし、驚いたような表情で、
『手術・・大変みたいだったねぇ・・今日は帰宅してゆっくり休んで下さい』
と私は労(ねぎら)い挨拶を受けた。

この後、私はトイレに行き、鏡を見たら鼻の横から右頬まで白いガーゼで覆(おお)われて、
少し血が滲(にじ)んで、数か所血が飛び散った箇所もあり、周囲に絆創膏でガーゼが止められていた。
私は麻酔の余韻と何より手術を受けた動揺した心情であったので、気が付かなかったのである。
          
やがて私は退社した後、家内の待っている喫茶店で合流し、
通いなれた地下鉄の乃木坂の駅に向かった。

そして防衛庁(現在・東京ミッドタウン)の前の長い道を歩きながら、私は家内に話しかけたりした。
『心配させたけれど、この程度で助かったょ・・
先程の病院の手術室の近くの小さな待合室・・手術後にぼんやりと歩いた時、
20代の娘さんと息子さんと共に待機していた奥さんを見かけたの・・
多分、ご主人は私のような軽い手術じゃないような情態と思われ・・
あのような状態になったら・・深刻で大変だよなぁ』
と私はこのような意味合いの言葉を重ねて、私たち夫婦は帰宅に向った。

やがて悪性の腫瘍物、或いはガンか判明しなかったが、沈静化して、
0.5センチぐらいの傷跡がうっすらと残った。

そして徹夜も幾たびかして、やがて新システムは何とか軌道に乗せた。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胃カメラ検査、生まれて初めて受診して、気弱な69歳の私は・・。

2013-10-24 15:54:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎし9月26日に、調布市から年に一度の『特定健診』に基づき、最寄の病院で受診した。

年に一度の健康診断は、以前は『お誕生日検診』と平成19年度まで称されていたが、
何かしら基本健診に血圧測定、血液検査などが加味され、『特定検診』と改称されいる。

私は健康診断を受診する時、基本健診としては、
身長、体重、採血、心電、尿検査、血圧測定などが行われた後、最後に医師との問診となっている。
そして胃がん、大腸がんの検診もある。

私は何よりも苦手な検診は、『胃がん検診』である。
バリウムの白い検査薬を飲むのは苦手で、私なりに苦痛のひとときを毎年味わっている。

その上、前夜の夜9時過ぎから水を含めて飲食は避けた上、
そして当日の喫煙、歯磨きはしないて下さい、と制約されていることもある。
こうしたことで苦手のバリウムによる胃の撮影が終ると、ほっとするのである。

この後、10月17日に於いて、この『特定検診』の結果を最寄の病院に行ったが、
何故かしら『胃がん検診』の結果だけは、
『要精検(内視鏡)』に◎印が囲まれていた。
                    
私は担当医師の先生から、
『胃の下腹にあたる幽門部に粘膜面異常が見られますので、再検査をして下さい』
と写真の6枚を見ながら私に説明をして下さった。

『再検査と言いますと・・胃カメラを吞んで・・検査することですか?』
と私は医師に言った。

『代表的な検査としては、胃カメラで検査することが多いですね』
と明るい表情で医師は私に言った。

『そうですか・・』
と私は呟くように言いながら、落胆した。

私はこれまでの胃がん、大腸がんの検診をしてきたが、すべて良好の『精検不要』となっていたので、
生まれて始めて胃カメラを吞んで、再検査かょ、と何かと気弱な私は憂いた。
                    

この後、この医師に市で胃腸科に関して評判の良い病院に紹介書を頂き、
そして紹介先の病院に訪れて、胃の再検査を予約の申し入れをした。

やがて医師から、梅毒があったら困るので血液検査、そして血圧検査をします、
と私は言われて、女優・島田陽子さんが20代の時のようなだった容姿端麗の看護婦さんから、
血液検査、そして血圧検査を受けたりした。

しかしながら品行方正な私に、梅毒があったら困るので・・と医師は明言され、
私は苦笑しながら微笑み返しをしたりしたが、何よりも美麗な看護婦さんのお逢いができた上、
検査日は10月24日の午前10時からと決定し、再会できる喜びもあった。


そして昨夜の9時過ぎからは、コップ半分ぐらいの水に耐えて、
本日の9時半に、この病院に着いた。
やがて島田陽子さんの容貌に似た若き看護婦さんから、何かしら体重測定、そして血圧検査を受けたりした。

そして水飴(みずあめ)のような液体を小さじに頂き、
『口の中で含み、絶対飲んだりしないで下さい・・5分ぐらいは我慢して下さいね』、
と若き看護婦さんから優しく私は言われたりした。

私は幼年期から女性に憧憬する癖がある上、
特に魅了された方には、何かと心も清らかな方と思ったりしてきたので、
『はい! 了解致しました』
と私は従順となり、明るく応(こた)えたりした。

その後、若き看護婦さんから私はベットに横身になるように言われた後、
眠くなりますが、と言いながら私の腕に注射をした。
そして口の周りにプラスティクの円形を絆創膏で固定した・・。
          
何かしら深い眠りから私は目覚め、そして口の周りにあった円形プラスティクもなくなり、
あれぇ・・検査終わったのかしら、とぼんやりとしながら感じたりした。

しかしながら眠りの感じが強く、うとうとしていたら、
若き看護婦さんが近寄ってきた、検査は終わりましたが、隣のベットで一時間ぐらい、
横たわって下さい、と私に言った。

私は半分眠っているような状態で、隣室のベットに横たわった。

やがて医師の問診があり、私は医師から検査で写した鮮明な写真を8枚ばかり、
パソコンの画面から解説を受けたりした。
『胃潰瘍・・わずかに見られます』
と医師から私は言われたが、家内に胃潰瘍と診断されたこともあったので、私は安堵した。

そして私は『胃癌の初期状態は・・?』
と私は医師に問い合わせた。

『現状では、そのような徴候はありませんょ』
と医師は明るく私に言った。
          

帰路、駅前で家内からの依頼品を買い求めた後、
『胃がん検診』の再検査で、生まれて初めて胃カメラを吞んで受診したが、
恥ずかしながら私は眠っている検査をして下さったのだから、予期した以上に安楽だったなぁ、
と私は微笑んだりした。

そして帰宅後、家内に報告した後、
『胃潰瘍になる人は、何かとストレスの原因が多いらしいわょ』
と家内は私に教えてくれた。

私は現役時代のサラリーマンの時代は、職責を果たす業務の多忙の中、
プレッシャー、ストレスを感じてきたが、
年金生活の今、安楽な生活を過ごしているが、誰しもこの世で悩みの一つや二つぐらいはあるょ、
と微苦笑しながら、心配していた胃癌の初期状況でなくて、安堵したりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

血液型B型の齢ばかり重ねた私、ネットから多々教示され、赤面して・・。

2013-10-23 12:37:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
午前中のひとときパソコンを開き、ネットを彷徨(さまよ)っている中で、
【 B型の人は独特の感性でイメージ展開 ひらめきや直感に富む 】
と見出しされた記事を見つめた・・。

私は、恥ずかしなから血液型はB型であり、齢ばかり重ねた私でも、好奇心に負けて、クリックしてしまった。
          

《・・占いのように思われがちだが、最近では会社の人事に取り入れられるケースも見受けられるのが血液型診断。
O型とA型で約7割を占める日本人。
その煮詰まりやすい社会のなかに、発想転換のヒントを与えるとともに、潤滑油として「楽しさ」を与えるのがB型だ。
 
B型に向いているのは、音楽や芸術分野に関わる仕事。
独特の鋭い感性でイメージを展開したり、ひらめきや直感に富んでいるので、クリエイティブな分野の仕事には最適だが、
持続力がないのが弱点。
 
『人生の9割は血液型で決まる!』(世界文化社刊)の著者で、
これまで20数年もの間、多くの人に対して「血液型と性格・性質」について研究を行なってきた小萩喜一氏がこう語る。

「B型の人に大切なのは“どこまでも真剣に遊ぶこと”です。
これはと思うものに出会ったら、思い切りそこに照準を合わせ、夢をかなえるために一心不乱に取り組むと成功します」

占いなどでは「変わり者」扱いされがちなB型だが、その熱中ぶりや波瀾万丈さを評価する声も。
クリエイティブな企画者として独創性を認めてもらえるかどうかがB型の人の分岐点なのである。
※週刊ポスト2013年1月1・11日号・・》
          
私は今回の記事を読み終わった後、B型の長所、短所が明示され、
恥ずかしさの余り、赤面させられたりした・・。
そして何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
これまでの軌跡を思い馳せると、拙(つたな)いなりに当っているよなぁ、と苦笑してしまった。

年金生活の今、ときおり過ぎし日々のことを思い馳せたりすることもある。
これまでの人生で、私は熱病のように無我夢中となったりする時があった。

一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりする。
                     
音楽の場合は、1971(昭和46)年に偶然にシャンソンのバルバラを聴き、瞬時に魅了され、
これをきっかけにシャンソンに熱中した・・。
銀座の片隅にあるシャンソン喫茶の『銀巴里』に、少なくとも週2回ぐらい通いだして、
出演された多くのシャンソン歌手の唄声に心酔した。

こうした中で、金子由香里さんなどに夢中となったり、この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
往還時に『ヤマハ銀座店』に立ち寄ったりしてアルバムを買い求めて、2年たらずで100枚を超えて、
本場のフランス、そして日本の歌手を居間で擦り切れる程度に聴き惚れていた・・。

そして1989〈昭和64〉年に、遅ればせながらシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴いた。
『エレーン』の歌であり、この当時の私は情報畑で、消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴いたのである。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたり、
齢を重ねた今は、『ヘッドライト・テールライト』が支えとなっている。

この間、カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、今でも私の秘かな女神となっている。

そして1997(平成9)年の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。
          

映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
この間、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、古本屋まで行って買い求めたりし、
一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だとデビット・リーン、そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。
この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970(昭和45)年の春であった。
                                         
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。
          

私は幼少の頃から根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
私は少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋も多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦がれて時もあった。
         
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら、齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることが多い。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの、と思ったりすることがある。
          

私はB型で、5歳若い家内はA型であり、風変わりなカップルと私は思ったりしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は専守防衛長官の専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などの時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

私はときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしているが、
家内は私がパソコンに向っていることは解っているが、内容に興味はなく、
飽(あ)きずにしているわ、と苦笑している。
          
そして年金生活を始めた私としては、家内は相変わらず洗濯、掃除、そして料理などをしているので、
もとより家内の方が負担が多いので、私は茶坊主に徹している。

1年の大半は私の方が目覚めるのが早いので、
コーヒーをマグカップに淹れて、家内の枕元に置いたりしている。

私は家内に、日に少なくとも6回ぐらいは、
さりげなくコーヒー、煎茶を淹れたりしているので、茶坊主にふさわしい、と思ったりしている。。


家内は血液型がA型のなせる技(わざ)か、
私から見れば掃除、洗濯、料理などを完璧にするタイプである。

私はB型の血液らしく、何事もアバウトであるが、
好きな事に関しては1食抜いても、大差がないと思っているタイプである。

私たち夫婦は、お互いの趣味の世界には、介入せず尊重している。
私たちは、いずれどちらかが独り身となった時、
趣味の世界があれば、それなりに生きがいを失うことなく過ごせると思っている。

共通の趣味は国内旅行であるが、こうした時は共有する時間が多いが、
多少の差異があったりする。

家内は、和菓子屋で煎茶か抹茶を頂きながら、
その地の銘菓を味わうのが趣味のひとつであるが、
私は家内に準拠して、その地の文化のひとつを享受したりしている。

旅先から帰宅後、買い求めた地酒を呑みながら、家内が選定してきたその地の食べ物を頂だき、
旅先の風土に思い馳(はせ)せながら、まぎれない文化のひとつである、
と家内に話しかけたりしている。

『XXちゃんさぁ・・先ほどの食べ物・・イマイチであるが、
これは絶品だょ・・奥が深いょ・・』
と私は家内に言ったりしている。

家内は、私の独断と偏見の悪い癖がはじまったわ、と苦笑している。
          

私は日中のひととき、買物に行ったり、散策をする以外は、
居間にいることが多く、ときには本棚をぼんやりと見る時もある・・。

私のパソコンを置いてある机の後方には、少し大きめの本棚が2本ある。
この本棚の最上段には最も敬意している本を置いている。

『世阿弥芸術論集』(新潮日本古典集成)、
栗山理一・編の『日本文学における美の構造』、
北 一明・著の『ある伝統美への反逆』、
上田三四二・著の『この世 この生~西行・良寛・明恵・道元~』、
安田章生・著の『西行』、
中野孝次・著の『西行の花』などの単行本が並んでいるが、
先ほどの背後の本を眺めていたら、配置の順番が変わっていなく、永久欠番のようだ、と微苦笑することもある。

私は高校に入学して、突然に読書の底知れぬ魔力に魅了されて、
映画・文学青年の真似事をした時期もあったので、
この間に友人に上げたり、月刊の雑誌などは捨てるようにしてきたが、
結果として高校時代より買い求めた5000冊前後の本となり、
書庫の本棚や押入れに入れたりしている。

そして一昨年の東大日本震災後、本格的に本の整理をし、
やむなく2000冊を処分したが、3000冊は残している。
この中には、私の青年期に定職に就かず、食事を抜いて買い求めた本もある。


こうした中で、居間の本棚は本を並列に置いてある前の15センチぐらいのスペースに、
家内がディズニーランド、シーなどで買い求めたキャラクター・グッズが、ここ10数年置いてある。
もとより家内が置いたのであるが、ミッキー・マウスなどが、ちょこんと居座っている。

ときおり私は苦笑しながら、私の苦手のディズニーのキャラクター品を見詰めたりすることもある。

そして私は、人生を過ごし生活を共にするには、ときには妥協も必要、
と心の中で呟(つぶや)く時もある・・。
          

遥か遠い昔、1975(昭和50)年、私は家内と交際して婚約する前の頃、
家内は茶事を中学生から習い続けていたことに好感し、
私は無知な和事を少し学べるかしら、と秘かに微笑んだりしていた・・。

そして翌年の春に結婚日が近づくと、
新居の賃貸マンションの一室に、私たちはお互いに荷物を運び入れたりしていた。

この時に、家内の荷物の中から、数多くの茶道具は予期し、
私は家内と共に、梱包された箱から取りだしたりしていた・
その後、もとより衣服などの箱もあり、そうした箱の横に、ひとつの箱があった。

そして家内は嬉しげに、この箱を開けたら、
何故かしら10センチぐらいの背丈のミッキー・マウスを見た時は、
私は驚きながら、
『俺・・知らなかったよ・・聞いてもいなかったし・・』
と私は小声で家内に呟(つぶ)やき、そして溜息をしたのである。


私は家内と結婚して、苦楽を共にして38年目となっているが、
私の結婚生活で、何より最大の誤算は、家内がディズニーのキャラクター品が好きである、
という現実である。
私は、ネズミを変貌させたミッキーなどが、どうして可愛らしいか、未(いま)だに解らない。

もっとも私は幼年期から犬とか猫も苦手な身であり、植物をこよなく愛し、
植物園だったならば、日参しても苦にならない。
しかし家内は動物大好きで、遠い北海道の旭山動物園に、
私たちは3度も遠征し、私はボディガード兼お供で付き合わされた。

このように私たち夫婦は、風変わりなカップルであるが、
離婚騒動もなく、一年に一度ぐらいは、夏季のクーラーの冷気で険悪となったぐらいである。
家内は冷気が苦手で、私は何よりも熱さが苦手で、クーラー大好きなタイプなので、
私の現役時代には、毎年の夏の初めの頃に、冷たい戦争があったりした。
          
定年後の年金生活の中、私は現役サラリーマン時代の緊張感もなくなり、
体力も衰えた今、なぜかしら家内に従順となり、
『ハイ! XXちゃんのおしゃる通りです!』
と私は自衛隊の若き諸兄に負けないように明るい声で、家内に応(こた)えている。

このように血液型は、たかが血液型されど血液型、と微苦笑を重ねたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨今の悪(あ)しき『土下座』強要の風潮の始まりに、高齢者の私は憂い・・。

2013-10-22 13:02:48 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、ネットでニュースを見ていた中で、
『 「謝罪しろ」担任教諭ら殴り、土下座させた容疑で女を逮捕 』
と題された産経新聞より配信された記事を、どういうことなの、と思いながら精読した。

《・・子供が通う小学校の教諭2人を松葉づえで殴ってけがをさせたうえ土下座をさせたなどとして、
滋賀県警大津北署は21日、傷害や強要などの疑いで大津市内の無職の女(41)を逮捕した。
容疑を認めているという。

逮捕容疑は9月30日、子供が通う大津市内の小学校に電話で
「子供がいじめられた。身内がナイフを持って『いじめた相手のところに行く』と言っている」と抗議。
これを受けて説明に訪れた担任ら教諭2人に対し、持っていた松葉づえで胸や足などをたたいて軽傷を負わせ、
さらに「お前らのやってきたことを土下座して謝罪しろ」と言い、2人に土下座をさせたとしている。
産経新聞 10月21日(月)18時3分配信・・》

私は新聞を愛読して50年近くになり、新聞の記事の信頼度は70%と思っているひとりであり、
一紙だけの報じた記事にも正鵠度合が欠けると思ったりしている。
          
今朝、このニュースに関して、京都新聞より報じた
『「娘がいじめられた」教諭に土下座強要 大津の母、疑いで逮捕 』
と題された記事も読んだりした。
《・・「娘がいじめられた」と小学校に訴え、教諭に土下座させたなどとして、
大津北署は21日、威力業務妨害と傷害、強要の疑いで、大津市の無職の女(41)を逮捕した。

逮捕容疑は、9月30日午後3時半ごろ、娘が通う市内の小学校に
「娘がいじめられて帰ってきた。身内がナイフを持って相手のところに行くと言っている」と電話し、
教諭ら25人に学校周辺などを警戒させて業務を妨害した疑い。
その約1時間後、自宅近くの駐車場で事情を説明しに来た担任ら教諭2人に、
松葉づえで足や腕を殴ってけがを負わせ、土下座で謝罪させた疑い。
京都新聞 10月21日(月)23時9分配信・・》

私は年半生活9年が過ぎ、何かと世間に疎くなっている身でさえも、
10月8日に於いて、『店員に土下座させる…強要容疑で女逮捕を知り、私は社会劣化も奈落の底に憂い・・。』
と題して投稿している。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/9ad1d375fb2145617954a46e13d9c0bf
☆【 夢逢人かりそめ草紙 】
>==10月8日『店員に土下座させる…強要容疑で女逮捕を知り、私は社会劣化も奈落の底に憂い・・。』☆
          
今回の事件も憂いながら、なぜ昨今は悪(あ)しき『土下座』強要の風潮が始まったのかしら、
と私は思案したが、思い当るすれば、テレビ・ドラマの『半沢直樹』が高視聴率の中で『土下座』シーンが、
話題となった、とドラマを視聴しなかった私でも、ニュースで学んだりした。

このテレビ・ドラマの悪影響で、感情が高まり平素の理性なんか吹き飛び、
怒りの沸騰のまま犯行に応じた、と私は解釈したりした。

もとより『土下座』強要に関しては、
日本人の生活意識では、土の上に座って額を地面につける動作が日常の行動から大きく逸脱しているために、
それだけ並はずれた恭儉・恐縮の意を含む礼式であると解釈された。
江戸期には相手に土下座をして謝ることで、大抵のことは許してもらえる風潮があったが、
一方ではこれを大変な恥辱とする考え方もあった、と伝えられている。

こうした意味合いもあるので、現代の社会には、『土下座』強要などをさせれば、
当人は社会人格さえ疑われ、たとえ怒りが沸騰しても、脳裏の片隅に理性が働き、留まってきたので、
たとえ社会が劣化してきたここ30数年、ありえない風潮であった・・。
          
しかしながら、平素は何かと気弱な私でも、
ご当人の責務から、ご自身みずから『土下座』をして欲しい、と念願したことがあった。
過ぎし3年前の2010年5月、当時の民主党政権時の鳩山首相の余りにも幼い言動に対してあった。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20100504
☆【 夢逢人かりそめ草紙 】
>==2010年5月4日『鳩山首相は、どうして沖縄県民の前で土下座をし、お詫びしないのか・・。』☆
          
こうした私の思いがあったりしたが、昨今の『土下座』強要などの暴力は、
独裁政権と称される打倒の時の革命、或いは戦争などで、初めて行使できることと思い、
今回のふたつの事件は憂いている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活、丸9年が過ぎて、早くも10年生に進級となり、微苦笑を重ねて・・。

2013-10-21 15:10:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む69歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職したのは、2004(平成16)年10月20日であった。

そして定年退職後、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして年金生活は早くも丸9年が過ぎて、本日より10年生に進級となり、
過ぎ去り歳月は、実に早いなぁ、と微苦笑を重ねたりした。

こうした中、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者の私は、
スーパーに家内からの依頼品を買い求めた後、
自宅の周辺を歩く季節のうつろいを享受したりした。
          

今年の夏は猛暑の日々が多く、何かと暑さに苦手な私は困苦することが多く、
暑さ寒さは彼岸まで、と古来の人々の格言を信頼してきたが、
過ぎは12日には、真夏日の31度の暑さに、どうしたなのょ、と天上の気候の神々の采配に、
戸惑ったりした。

そして台風が襲来して、伊豆七島のひとつ大島に、記録的な豪雨で土砂大災害となり、
多くの人が亡くなわれ、私も茫然とした。
私たち夫婦はこの大島にある樹木園に、樹木葬を執り行って土に還る、
このようなことを秘かに念願している身なので、更に動揺を増したりした。

こうした中で、季節は初秋から秋到来となり、朝夕は少し肌寒く、
私はスリー・シーズンの長袖のスポーツシャツを着たりして、自宅の周辺3キロ範囲を
ひたすら歩いたりしている。

私の住む地域は、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となる。

やがて葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。


このような季節の移ろうので、ここ一週間は早くも色合いを恥ずかしそうに染め始めている樹も見られ、
何かと愚図の私でも、忙しく周辺を歩き廻り、見惚れたりしている。
         

昼食後、私の机の脇机の引き出しから、1冊のノートを取りだした。
私が定年退職の前の1年半の頃に購入したノートであった。

この当時の私は、リストラ烈風の中、出向となり遠方の勤務先に勤めていた・・。
そして通勤の往還は、小田急線の成城学園前と本厚木の間、45分前後を利用していた。

帰路の時は、出来うる限り、乗車の駅始発の電車に乗っていたので、ほぼ座れた。
この時に電車の中で、本を読んだり、或いはノートに色々とメモったりした。

この中のひとつとして、平成15年1月30日『退職後の日常生活の目標』、
と題したメモ書きがあり、読んだりした。

☆パソコン
   Eメールの送受信
     エッセイ(文学的に日常、旅の寸評)
     音楽と映画

   インターネットの検索
     ただし、散歩を兼ねて、図書館に行くこと

   写真の整理

☆日曜菜園
      草むしり、植木の手入れをした上で、1メートル × 2メートルの菜園を作り、
      ピーマン、チソ、ダイコン、ニンジン、ショウガ、ネギ等

このような日常生活の目標メモが記載されていた。


こうして退職後の年金生活10年生に進級する今、微苦笑してしまった。

定年前の3年前にパソコンを改めて買い求めたし、机、椅子、脇机も新調して、
定年後の年金生活に備えていた私は、
遅ればせながら定年の数か月前にインターネット回線を自宅に導入した。

そして年金生活を始めたら、電子メールと称されているEメールの送受信で、
知人、関係者などで交流をしょうと思ったりした。
その上、秘かにホームページを開設して、未知の方と心の交流ができれば最良と思案していた。
          

現実としては、定年後まもなくブログの世界を知り、
これだったら誰でも発信できるし、心の節度さえあれば、どのような分野のことも綴れる、
と確信して、私はパソコンの故障、国内旅行で自宅不在以外は、毎日投稿してきた。

このように昨今の私は、Eメールは殆ど利用していないく、
ネットのニュース、専門誌のサイト、国内旅行の関係サイトを検索しているのが現状である。

図書館を利用と思ってた私は、やはり本屋に寄り、
単行本、新書本、文庫本、雑誌を見たりして、魅せられた本を購入することが、
高校時代から習性であったので、文愛人のひとりの私は買い求めたりしている。

写真の整理に関しては、定年退職の記念としてデジカメを買い求めて、
バソコンのハードディスクにそれぞれファイル名を付けて、管理しているが、
それ以前の長き時代のフィルムで撮った写真の整理が課題であった。

フィルムを読み取りデジタルに変換する専用機を購入して、
時系列に整理しょうと思っていた私は、面倒さも感じ断念した。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかった為が、
私の独身時代、家内の独身時代、そして私たちが結婚してから私の定年まで、
家内と共にアルバムを改めて整理し、総計18冊となったりした。

何よりも変ったのは、菜園の予定であった。
この当時の8年前の頃から、雑誌の『サライ』を定期購読して、
ある号で野菜の成長、花、色合いが載っていた。

そして作家・曽野綾子さんの随筆の新書本のひとつに、
ご自宅の庭でも野菜を育成していると私は読んだりしてきたので、
生育のうつろいを眺めて、育成するのも良いと思案していた。

結果としては、小庭が更に手狭となり、小鳥が定期便のように飛来してくるので、断念した。

私は定年前に予定したこのようなささやかな事が、現実の年金生活を過ごしている今、
差異があったなぁ、微苦笑している。
            

こうした中で、小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹である。

記念樹といっても園芸店、或いは植木の即売店などで買い求めた樹ではなく、
小庭には小鳥が定期便のように飛来してくるので、
たまたま小鳥が飛び立つときに、小鳥からのささやかな贈り物のひとつであった。
               
この種が幼い樹となり、やがて私は移植して、私は体力が衰える中で、けなげに成長し、
私は微苦笑を重ねることが多い。
            
そして私は満69歳の身であるが、来年は70代となり、
60代を卒業して、いよいよ古希(こき)か、と溜息しながら、呟(つぶや)くこともある昨今である。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何かと深夜族の高齢者の私でも、ときには早寝早起き元気な児、と微苦笑して・・。

2013-10-20 06:45:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日、雑木の多い小庭の玄関庭を私たち夫婦は、朝の8時半から昼食抜きで午後3時まで奮戦した。
そして家内に入浴して貰った後、私は風呂に入ったが、
やはりブログは日々貫徹かしら、と思いながら疲れ果てた自身を叱咤激励した。

私は定年後まもなくしてブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行で自宅を不在する以外は、一日一通は投稿文を重ねてきた。

こうした日々貫徹の思いから、入浴後、パソコンを開き、
5分後に一気呵成に『私のサイト、訪問者数(IP)は80万を超え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝を重ねて・・。』
と題して綴り、投稿したのが午後5時少し前であった。

まもなく私たち夫婦は、昼食抜きで庭の手入れでお互いに疲れ果てていたので、
20数年愛食している近所のお寿司屋さんから、出前をお願いして、夕食することとした。

そして私は、主庭にある柚子(ユズ)の樹から、ふたつばかり捥(も)いで、
お酒のつまみの一品とした。

6時過ぎに、お寿司と朝食の常備のおかず3品、輪切りにした柚子で、
私はウィスキーを濃いめのオンザロックにし、家内はビールを吞み、
ささやかな酒宴をしながら、今後の我が家の予定事項などを主体に談笑したりした。

やがて私は8時頃に、酔いを感じたので、寝ることにした。
そして歯を磨き、パジャマに着替えて、布団にもぐり本を開いて5分後には消灯した。
          

目覚めたのは早朝2時半頃で、そして3時に於きだし、
まもなく玄関の軒下に出ると、薄暗い中、小雨が降っていた・・。

そして昨日に奮戦した玄関庭はしっとりした情景に微笑んだりしたが、
平素の私は、ここ一カ月は夜の12時頃に寝て、朝の7時に起床することが多く、
ときには読書に熱中となり深夜の1時前後もあり、深夜族のひとりかしらと思ったいたので、
久々に早寝早起きに、我ながら苦笑した。

私は早寝早起きをするのは、国内旅行の旅先が多いが、
現役サラリーマン時代の最後の5年は、リストラ烈風の中で、私は出向となり、
遠方となった勤務先まて勤めた時があったりした。

この時は朝の4時45分に起床して、自宅の近くの路線バスの始発に乗り、出勤した。
そして帰宅は早くても夜の9時過ぎであったので、
遅寝早起きで耐えたりした時代もあった。


年金生活の今は、睡眠不足と感じたら、昼寝もできる安楽な身なので、
早寝早起き元気な児・・やはり高齢者の私は対象外だよなぁ、と苦笑したりした。

そして居間に戻り、未読だった昨日の夕刊を読んだりしたのが、朝の4時であった。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私のサイト、訪問者数(IP)は80万を超え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝を重ねて・・。

2013-10-19 16:58:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
雑木の多い小庭を手入れした。

昨夕、家内から『秋の装(よそ)いに相応しいように庭の手入れを・・』
と私は言われたりして、
本日は家内の強力な援軍もあり、私たち夫婦は朝の8時半から昼食抜きで午後3時まで奮戦した。

結果的には曇り空の19度前後の中、玄関庭だけの樹木の剪定、そして草むしりをしたが、
暑かった時は私は汗まみれ泥まみれになったりしてきたが、
何かと暑さに苦手な私は、このくらいの天気だよ庭の手入れに最適だ、と私は家内に言ったりしていた。

そして家内は、雑木の移ろう情景を眺めたりして、
『季節はめぐるわねぇ・・』
と呟(つぶや)くように私に言ったりした。
          

一時間前、この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人かりそめ草紙』に開くと、
『ブログの開設から3,194日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、と微苦笑してしまった。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は3、843、313、
訪問者数(IP)は800,364』と表示され、80万が超えたのか、
と微笑んだりしてしまった・・。

閲覧数(PV)に関しては、ここ5年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索が、
懸命に追跡するように活動しているので、
大幅に加算されている実態であり、実質数は不明であるので苦笑したりした。
          
          
私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなくブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
原則として毎日数通ぐらい投稿したのは、2004(平成16)年11月17日であった。

その後、ブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、会員数の多い【gooブログ】を知り、取り止めた。

この後、この【gooブログ】に加入して、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005(平成17)年1月19日であり、この日から3,195日が過ぎた、ということである。
          
          
この後は、会員数の多い【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
【gooブログ】は特に政治・経済に関しては、専門知識がなく素人の感性で投稿文を認(したた)めてきたが、
つたなさ、そして無責任の広言を反省し、投稿を中止した。

やがて2007(平成19)年、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入したりした。

この間、2008(平成20)年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
投稿を休止していたブログ【gooブログ】に、今まで書き散らかした投稿文3000通前後を
コピーしながら整理、統合し始めたりした・・。
          
そして本格的に2008(平成20)年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

やがて併設していた【OCN Cafe】は、2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とした。

この後、昨年の初めの頃に、『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称した後、
『夢逢人かりそめ草紙』と短縮して今日に至っている。
                     
                    
私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、文才に乏しく試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008(平成20)年の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
          
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
               

こうした中で、『にほんブログ村』のシニア層の多くのお方の投稿文を読ませて頂いた。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも1年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの半年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
          
              
私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ数年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも25名のお方もいる。
               

私がブログを書き始めて、まもなく9年となるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できているのも事実であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

40数年ぶりのお便(たよ)りに、過ぎ去り年の思いは、限りなく美しく・・。

2013-10-18 14:43:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の夕暮れ時に郵便受け入れ箱に、待ちわびた小雑誌が入っていて、
私は居間に戻り、開封した。
          
そして小雑誌と共に同封された送り主のご厚意のA4用紙に10数枚編集された写真を見て、
懐かしいなぁ、と過ぎし40数年前の写真を見たりした。

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

そしてやはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観たし、
この当時、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
そして映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。

やがて家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。
                     
このような時、近所の家電販売店の店主が、生家の長兄宅に幾たびか来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は、理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、と理解していた程度であった。
          
この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
こうした中で、石原慎太郎さんが名誉学院長されているあるコンピューター専門学校に、
1969〈昭和44〉年4月に入学した。

確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であったが、
数が月後に代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。

こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。

そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
この当時のコンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

          
この秘かな根底には、作家・丸山健二さんが、デビュー前に商事会社に勤められて、
テレックスの業務の合間に、創作をされていた、と雑誌のインタビュー記事で読んだりしていたので、
こうした思いにならって、勝手に思い込んでいた。

後年、会社に勤めた私は、空き時間などもなく徹底的に鍛えられ、
小説を書く余裕もなく、早く一人前のサラリーマンになる為に奮戦した。
          

こうしたコンピューターの専門学校の授業の先生のひとりが、今回の小雑誌の送り主であった。
この先生はある大企業のコンピューター分野に勤められた男性の方で、
この当時は30歳前後のお若い先生であった。

私たち生徒は、何かしら兄貴分のように慕って、
新年会と称して、私たち生徒の有志が、先生のご自宅に行き、歓談したりした。

やがて1970〈昭和45〉年の3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業して、
それぞれ企業に就職して行った・・。

その後の私は、同級生だった人たちが、どうような進路を歩まれたか、
そしてお世話になった先生にも連絡をしなかったので、音信不通となった。


私の場合は、コンピューター専門学校の卒業の数が月前、ご近所の家電販売店の店主より、
近くにこの当時としてある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方がいると知り、
たまたま私の祖父方の親戚から、宅地を購入されたお方で、
私は祖父方の親戚の紹介の上、この会社の首脳陣のお方にめぐり逢えた。

その後、このお方のご尽力もあり、
この会社に1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
この間、入社試験、やがて幾たびか面接する中で、テレビ・ステレオ・ラジオ関係の事業本部より、
音楽事業本部に配属して頂きたい、と懇願するように私は言ったりした。

そして念願叶(かな)って音楽事業本部で、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

やがて音楽事業本部のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、やがて情報には20数年、
そして経理、営業などの部門を異動したり、リストラ烈風で出向をしたりて、
35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した。
          

今年の夏、兄貴分のように慕ったコンピューター専門学校の先生から、電話を頂いた。
私は40数年ぶりで、先生の懐かしい声を聴いたりした。
何かしら先生は地方誌に連載寄稿文をするので、自身がコンピューター専門学校の教師として、
生徒のことも含めて綴りたいので、この当時の状況を遠い昔のことで再確認したい、という要旨であった。

こうした中で私が当時のことを知る限り、長き話しをした・・。

そして私は、先生が地方誌に連載寄稿文する御本を購読したい、
と私は申し出て、昨日郵送されてきたのである。

私は小雑誌と共に同封された送り主のご厚意のA4用紙に10数枚掲載された写真を見て、
懐かしいなぁ、と過ぎし40数年前の写真を見たりし、
過ぎ去った時代は愛惜もある上、何よりも苦楽が淘汰されて限りなく美しい時代だった、
と思い馳せたりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする