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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときおり私は、家内のボディ・ガード兼お供をして、やがて感謝して・・。

2025-05-08 16:08:40 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、本日の8日、家内が通院している都立の総合病院に、
私はボディ・ガード兼お供で同行した・・。



過ぎし
2019年の4月、家内は初期の膵臓がんに遭遇して、
私たち夫婦は、安楽な年金生活は激変したりした・・。

そして
家内はこの後、2泊3日で検査入院した後、
5月12日より摘出する手術で入院をして、この後の経過状況、
やがて回復状況も医師より順調と診断され、19泊20日間を得て退院となり、
我が家に生還してきたのは、6年前の出来事であった・・。


この事態に、私たち夫婦は、最悪の場合を想定することもあったりして、
震撼しながら揺れ動いたりした・・。

もとより転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、私の『おひとりさま』の生活などを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。



やがて手術後、定期的に採血
検査の基づいて、
手術して下さった担当医師より家内は受診して、
結果として幸運にも転移がなく、そのたびに私たち夫婦は安堵をしたりしてきた・・。


そして家内は受診した担当医師より、
最適と思われる幾種類かの指定された薬を3カ月を頂き、
毎日服用している・・。

この間、半年ごとのCTスキャンの精密検査をし、
この検査結果に基づいて、後日に手術して下さった担当医師より
家内は受診してきた。

このような手術後の経過検査をして、何かしら5年過ぎれば、
死亡する確率は減少すると、学んできたので、
何とか転移だけは・・と願いで、特にこの期間は願い続けてきた・・。

そして昨年の5月、幸運にも5年を迎えたりした。


この後は、3カ月毎に採血検査の基づいて、
手術して下さった担当医師より家内は受診し、
年に1度、CTスキャンの精密検査をし、
この検査結果に基づいて、後日に手術して下さった担当医師より受診する。

このような通院サイクルとなったりしている・・。



そして今回は、4月17日にCTスキャンの精密検査をし、
この検査結果に基づいて、手術して下さった担当医師より
受診日で、10時20分に予約している・・。

この為に電車の遅延、バス路線の渋滞も配慮して、
病院には9時半到着が望ましてので、私たち夫婦は我が家を出発したのは、
8時過ぎであった。

結果として、本日の3か月毎の定期検査、そしてCTスキャンの精密検査、
幸運にも転移した兆候がない、と診断されて、私たち夫婦は安堵したりした。

この後、処方して下さった指定薬を受け取る処が、予想外に時間を要したりした。



やがて帰宅して、家内と共に遅い昼食を食べて、
こうしたパソコンで投稿文を綴っている・・。

しかしながら検査の結果が良好であれば、
これ以上の贈り物はない、と私は神様か仏様に解らないが、
感謝したりしている。
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筍(たけのこ)、幼年期の頃、竹林のささやかな思いを馳せ・・。

2025-05-07 15:01:09 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
午前中のひととき、スーパーに買い物を行った時、
野菜売り場で、筍(たけのこ)を見かけたりした。

我が家より近くに私の生家があり、私の兄宅が住み、
10数年前の頃までは、庭の片隅に5坪前後の孟宗竹があり、
この時節、筍(たけのこ)が育ち、私は頂いたりしていた・・。


          
            ☆この当時、玄関内で記念写真ねぇ、と戯(たわむ)れに撮ったりした ☆

今や兄宅の庭の片隅にあった5坪前後の孟宗竹も消え去り、
やむなく筍(たけのこ)を食べたいときは、
スーパーなどで買い求めている・・。

ぼんやり久々に、この筍(たけのこ)の写真を見ていると、
遠い昔の70年前の頃に生家にあった竹林に思い馳せたりした・・。


私は農家の三男坊として生を受けたのは、1944年(昭和19年)の9月下旬であった。

やがて地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春の当時は、

生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、
耕していた。


そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには土蔵、物置小屋と称した納戸がふたつある農家であった。
          


そして竹林は、孟宗竹だけでも2反(600坪)程あり、
4月の中旬過ぎの頃になると、祖父と父は、
殆ど毎日のように筍(たけのこ)を掘り出して、
やがて父は数週間ぐらい期間は、青果市場に出荷していた。


秋になると、祖父と父は地表に竹の根が出そうになったのを
最低50センチぐらい堀り起こし、
枯れた竹の葉、肥料を施(ほどこ)して、
地中に埋めたりしていた・・。


こうした中、次兄と私は、穴が掘られた後に子供心にいたずらをし、
父によく怒られたりした。


春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。
地割れと土壌が固くなるので、私たち子供は近寄れなかったのである。

そして4月の中旬から5月の初め、
柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、
筍(たけのこ)を掘り出すためであった。


この微かな地割れを専用のスコップで、60センチぐらい堀り、
やがて大きな筍(たけのこ)を掘り出した。


すべて地中で育ち、根元は最低10センチ以上あり、

少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、
商品価値が激減するのであった。


地上から5センチ以上芽がだした筍(たけのこ)は、
皮は黒ずみ、身が固くなるので、
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
そして地中にあった良質の筍(たけのこ)は、青果市場に出荷していた。

まもなく竹林に残した筍(たけのこ)は、日増しに大きくなり、若い竹となり、
子供心でも日増しに成長するのを眺めたりして、歓び心を躍らせていた・・。
          

夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。
この当時は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで、
多くの家で使われていた時代であった。


その後、1953年〈昭和28年)の春に父は病死し、
翌年に祖父も他界した。


そして父と祖父は大黒柱だったので、農家のノウハウを失くした生家は
衰退していった。


やがて私の生家、周辺の農家も、この後は東京のベットタウンに急速に変貌し、
住宅街となり、もとより田畑は消え去り、そして雑木林、竹林も無くなっていった・・。
          


この間、私が小学生の4年生の頃、
付近の崖に面した傾斜地に大きな邸宅があった。

傾斜には、竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があった。

そして私は近所の父親の知人より、小説家が引っ越してきた、と私は聞いたりして、
私は独りで下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた・・。

『あれが小説家かょ・・何か難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ・・』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、私が高校生に入学してまもない時、最寄駅に近い本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。

そして、さりげなく《武者小路実篤》と明記されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤かょ、と気づかされたのである。
          


私の新婚旅行の時、京都市内の外れで、筍(たけのこ)の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の生家では、少なくとも30センチの高さ、
根回りが10センチ以上が基準値であったので、

これが筍(たけのこ)かょ、と感じたりした。

このような思いがあり、地方の御方は理解してくれるかしら、と思い続けていた。


この後、確か2006年(平成16年)の5月に、
購読している読売新聞に於いて、【彩事記】が随時掲載をされている記事であり、
私の思いに近い記事で、榊原智子・記者が綴られた記事が掲載されていた。

無断ながら引用させて頂く。

《・・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。(略)・・》
このように時代の趨勢を綴られていた。
          


その後、私は2009年〈平成21年〉の4月、
私たち夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、

鹿児島市内と霧島温泉に5泊6日の旅をした時である。

この中で、鹿児島市の郊外にある島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に、
私は独りで観て廻ったりした。

この時は、4年前に、家内と団体観光ツアーで
この『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、

わずか2時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。

一時間近く歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、『竹徑亭』に寄り、
抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、
それぞれの色合いに染められ、この時節を教示してくれた。


この後、奥にある曲水の庭の外れに、『江南竹林の碑』と明記された石碑があり、
漢文で碑文が明示されていたので、私は『仙厳園』に入園した時に頂いた解説文を読んだりした。

《・・「浄国公(21代吉貴)が琉球に江南竹(孟宗竹)のあることを聞き、

日本にはまだないので、植えたいと願って取り寄せたが2株しかもらえず、
それを仙巌園の裏山に植えた。


その後、この竹が繁殖し、藩内のみならず国内各地に移植した。

そのタケノコがおいしくて、万人に愛されている。
この竹で利益を得るものは、浄国公のおかげだから、その名をたたえよ」・・》

こうした解説文を読み、この地から日本の各地に孟宗竹が拡がり、
やがて多くの方に筍(たけのこ)を愛食されたのか、
と私は長らく孟宗竹の竹林を見つめていた・・。

          


10数年前の頃まで、近くに生家だった私の兄宅より、
この時節になると筍(たけのこ)を毎年頂いたりしていた・・。

兄の宅の宅地のはずれに、わずか5坪ぐらいの竹林があり、
手入れも昔ほど出来なくなり、地表に出た、カラスを掘り起こしていた。

このカラスと称した筍(たけのこ)であるが、家内に料理してもらい、
私は3日も続けて食べたりし、幼年期の愛惜感も増して、
この世の最上の食べ物のひとつである、
と思いを深めながら頂いたりしていた。



しかしながら今や、兄宅の庭の片隅にあった5坪前後の孟宗竹も消え去り、
やむなく筍(たけのこ)を食べたいときは、
スーパーなどで買い求めている・・


そして年金生活の中、ときおり遠方に散策したりする時、
偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、

思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている・・。

或いは国内旅行の旅先で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている・・。

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『救急医療情報キット』、ときおり私たち夫婦は、内容を見直して・・。

2025-05-06 14:34:52 | 傘寿からの思い

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茶摘み情景、80歳の私は夢想し、やがて幼年期を思い馳せて・・。

2025-05-05 15:37:37 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
昨夜、夢の中で、茶畑で新芽摘みの手伝いをして、
50歳ぐらいの男性から、手抜きせず早く摘んで下さい、
と叱咤されたりした・・。

私は目覚めて、夢かょ・・おかしな夢をみたよなぁ・・、
と独り微苦笑したりした。

今朝、朝食後、煎茶を飲んだりしていると、
過ぎし1日に、
昼のテレビのニュースをぼんやりと視聴したりしていた。

この時に、
本日は『八十八夜(はちじゅうはちや)』の日を迎えて、
各地のお茶の名産地では、
茶摘みが行われました、
と報じられていた。


そして茶畑で、新芽摘みのイベントが行われ、
茜襷き(あかねだすき)に姉さんかぶりをした10名ぐらいの女性たちが、
お茶を摘む情景が映しだされて、

いいよなぁ・・、と私は瞬時に魅了されたりした・・。


☆気象庁の公式サイト【tenki.jp】より、この写真をお借りした。


そして何かと単細胞の私は、
心の中でひとつの歌を唄ったりした・・。

♪夏も近づく八十八夜、 野にも山にも若葉が茂る・・

【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】


やがて私は、ぼんやりと遠い昔の私の幼年期の生家に於いて、
『茶摘み』をしていた頃が思いだされた・・。




私は1944年(昭和19年)の秋、
東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。

長兄、次兄の次に私は生を受けたが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。


もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、
いじけたりすることがあったりした。


そして私の後に、やがて妹がふたり生まれ、
祖父、父が初めての女の子に、溺愛したしぐさを私は見たりすると、

私は益々いじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学する1951年(昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった御方たちの手助けもある中、
程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、
所有している田んぼの中には小さな川も流れ、

母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあったりした。

こうした中、この当時のこの地域の程々の農家は、お茶の樹を持ち、
自宅用にまかなっていた時代の頃である。



私の生家は母屋、土蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風林代わりの欅(けやき)が50数本があった。

確か5メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。

隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方の欅(けやき)を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
祖父と父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、春のお彼岸を過ぎた頃には、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。



5月の初旬の頃になると、祖父の指示により、新芽を手摘みをしていた。

一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、
小作人だった御方にも支援も借りたりしていた。


私は幼児の3歳頃は、邪魔をしないように、
付近に莚(むしろ)を敷いた上で、置いていた、

と後年に母から教えてもらったりした。

そして新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)と称せられるお茶の葉から
混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉(なまは)を新鮮なうちに、
竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、

団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。

そして、母屋の前の宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉(も)んでいた・・。

やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。

この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年を愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した御方に1部の方に差し上げたりしていた。

こうした中で、私は祖父からは、何かと可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。

やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。



もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。

数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。

やがて1955年(昭和30年)の頃から、生家の地域一帯は、
都会に住んでいた人たち達が、移転して周辺に家を建てられ始めたりした。

私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)の春であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。



このようなことをぼんやりと思い馳せたりした・・。


お茶の葉は、冬の寒い時期にゆっくりと養分を蓄えて育ち、
春になると少しずつ芽を出し始め、

4月から5月頃に、いち早く芽吹いた茶葉を収穫してつくった新茶(一番茶)は、
その後に摘まれる茶葉よりも、栄養価やうまみ成分が多く含まれている、
と伝えられている。


このような関係で、古人から新茶は、「新茶を飲むと病気にならない」、
「八十八夜のこの日にお茶を飲むと長生きする」など名言を思い重ねたりした。


昨今の我が家は、年金生活の中で、私は家内の茶坊主の真似事となり、
煎茶を淹れたりしているが、こうした時に時折亡き祖父の表情、
しぐさを思い浮かべることがある。


そして丁寧に淹れながら、お茶を作って下さる御方の労力に感謝して、頂いている。




余談であるが、私は煎茶をこよなく愛飲しているが、
ここ4年買い求めているのは、
百グラム千円以内として、
選定した煎茶は、一番摘みの《・・渋みと苦みを抑えた コクのある旨味・・》

と明記された掛川茶となっている。

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買物メール老ボーイの私は、微苦笑したり、独り微笑む時は・・。

2025-05-04 16:16:21 | 傘寿からの思い

こうした中、我が家の平素の買い物に関して、年金生活を始めた当初より、
私は自主宣言をして、家内から依頼された品を求めて、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に独りで行っている買物メール老ボーイとなっている。

しかしながら5年前の2月に新ウィルスコロナの烈風後は、
感染が怖くて、『三密(密集、密接、密閉)』に伴い、
週に数回ぐらいに集約して、素早く店内の品を確認し、買い物をしている・・。



本日も定例事項のように、最寄りのスーパーに行ったりした・・。

我が家は、買い物をする時の朝は、
こうした20年間の中、
私も幾たびも失敗してきたりした・・。



2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
家内から依頼された特売セールの洗剤を買い求めに行った。

そして年金生活で貢献できるのは、せめて廉(やす)い価格の品を多めに、と思いながら、
5個ばかり買い求めて、意気揚々として帰宅した。

やがて帰宅後、家内に頼まれた洗剤を手渡すと、
『あら、違うわ・・ライオンのトップでも《部屋干し》をお願いしたはずょ・・』
と家内は言った。

『違った・・!?』
と私は言った。

『違っていますょ・・うちはずっと《部屋干しトップ》なの・・
貴方・・よく仕事ができたわねぇ・・』
と家内は追い討ちをかけてきた。

『じゃ・・取り替えてくるよ・・』
と私は言った。

やがて洗剤はひとつの箱でも1・1Kgあり、5個買い求めていたので、
少し重い洗剤を提(さ)げて、再びスーパーに向かった。

こうした中、仕事は給料を頂いて緊張感の中で、責務を果たしてきたので、
気軽な買物と違うょ、と心の中で呟(つぶや)きながら歩いたりした・・。

           
          

或いはトマトを買い求めた当初は、苦い失敗談があったりした。
確か翌年の2005年(平成17年)の6月初旬の頃だった・・。

たまたまスーパーの店内に於いて、野菜売り場の近くにトマトの販売コーナーがあり、
家内はトマトが好きであり、少し高い値段であったが、
何より新鮮であったので、3つばかり買い求めたりした。

帰宅後、家内に手渡すと、
『わぁ・・立派なトマト・・美味しいそうだわ・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

やがて家内は、値段を訊(き)かれて、私は応(こ)えた。

『でもねぇ・・高過ぎるわょ・・我が家は年金生活ですから・・程ほどにして下さい・・
貴方は幼年期の頃、農家の児だったでしょう・・
トマトの見極めぐらいは解っているでしょう・・
私は長い間、程ほど品をお廉(やす)く買い求めてきたわ・・』
と私は家内から叱咤されたりした。

『XXちゃんさぁ・・専業主婦25年選手でしょう・・
ボクは買物一年生だょ・・気を付けますょ』
と私は抗弁したりした。

これ以来、私は野菜、果実(くだもの)は、新鮮さを見極めながら、
程ほど品を廉(やす)く買い求めたりしてきた。
 



こうしたことに反して、ときには独り微笑む時がある・・。

私はコンビニに関しては、
セブン&アイ・ホールディングスの『nanaco』を使用してきて、
6年前の頃までは、タバコを喫っていたので、タバコを買い求めたりした。

或いは散策の時に、水分補給して、煎茶のボトルを買い求めている。

ときおり買物した帰路に、 コンビニの『セブンイレブン』に立ち寄り、
家内のお土産としてスイーツを買い求めたりしている、

たまたまポイントが溜まっていたので活用したら、
結果的にはスイーツ代が無料となり、 思わずお得感を増したような心情となり、
微笑んだりしたことが幾たびもあったりした・・。

 

我が家の平素の買物で、スーパーの場合は、
最寄駅にある『京王ストア』仙川店、『クイーンズ伊勢丹』仙川店、
或いは我が家の最寄りの『いなげや』狛江東野川店が圧倒的に多く、
ときおり『イトーヨーカドー』国領店を活用するぐらいとなっている。

このような実態となっているが、ポイントが増えてしまい、
ときにはポイントを差し引いて、支払うと、
何かしらお得感のように感じてしまい、微笑んでしまう・・。
             

そしてデパートの『京王』、『小田急』のカードがあるが、
或いはドラックストアーの『サンドラック』、『トモズ』のカードがあり、
ポイントが増えて、割引なると、私は微笑んでしまう癖もある。

このように我が家の買物メール老ボーイの私は、
微苦笑したり、ときには独り微笑えんだりして、
早や20年が過ぎている・・。

コメント (2)
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いつものように80歳の私は、独りで散策して、愉(たの)しみ・・。

2025-05-03 16:09:17 | 傘寿からの思い

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80歳の私、見習い中の【はてなブログ】に、戸惑いながら独り微苦笑して・・。

2025-05-02 16:03:36 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
過ぎし24日、『はてなブログ』に初めて投稿し、挨拶文を投稿したりした。

《・・ 初めまして・・。

そして私は、『はてなブログ』の機能が理解できないことが多く、
やむなく『はてなブログ アカデミー』を見て、学んできた・・。

 

              記事を書こう |            はてなブログの使い方 - はてなブログ アカデミー

記事を書こう | はてなブログの使い方 - はてなブログ アカデミー

初心者におすすめの、はてなブログの使い方のヒントやコツが学べる公式講座! ブログの書き方や注意点、便利なポイントをわかりやすく紹介しています。

はてなブログ

 

 

しかしながら80歳の私は、無念ながら能力が衰えてきた為、
読者、コメント、ブックマーク、スターなど、
そして写真の保存、記事との連動など、理解できず、戸惑ったりしてきた・・。



やむなく従来のブログの【goo blog】の投稿文を発信した後、
コピーした投稿文を、
新たなブログの【はてなブログ】に、同一の二刀流と実行してきた。

そして【goo blog】が閉鎖なるまでの期間、衰えた私の能力をふるい起たせて、
それまで【はてなブログ】の多彩な機能を少しづつ理解しょう、
と決心してきた次第です。

それまでの間の【はてなブログ】に於いては、
路線バスで『見習い中』を明示した走行しているバスがあるように、
私も当面は『見習い中』とさせて頂きます。

現在の『見習い中』の期間は、読者、コメント、ブックマークなどで、
多くの皆様には、御迷惑をお掛けしますが、ご了承下さいますよう、
お願いする次第です。



こうした宣言を4月28日に投稿文で発信した後、
何よりも戸惑っているのが、画像の『はてなフォトライフ』となっている

従来の【goo blog】に於いては、
①フルサイズの一眼デジカメで撮った写真
『CFカード』に保存。





【goo blog】の『編集フォルダ』画面
    まとめてアップロード
    画像サイズの指定・・私の場合は1920ピクセル

    画像を選択してアップロード
    

こうした方法で10数年、ブログ上に掲載してきた。



新たな『はてなフォトライフ』に於いては、
上記の②まで同じであるが。

アップロードの前提条件として、制約は
【はてなブログ】の無料版・・月に300MB
【はてなブログ】のPro版 ・・月に3GB。

こうした上でアップロードの設定として、
画像サイズ・・・   ビクセル(例・800)
画質・・オリジナル100として、 何パーセント(例・9)

こうした条件で、私は仮に800ピクセル、画質を9%で、
アップロード専用画面でテストをした。

10枚の写真を直接に、アップロード専用画面に移動させた結果、
《・・アップロードに失敗しました。
   10MBを超えています・・》、
と8枚はエラーとなってしまった・

この後、画像サイズ、画質の条件を劣化させて、
何とか大半がクリアー出来たりした。

しかしながら、投稿文に掲載する写真は、
出来る限り鮮明に致したく、オリジナル写真の画質に左右されるが、
どこまでが画像サイズ、画質の設定をするか、戸惑ったりしている。

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まばゆい風光る中、老ボーイの私は、『5月のバラ』の歌、かぼそい声で唄い・・。

2025-05-01 13:42:21 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であり.
今朝、カレンダーの4月を桜花などに春を享受した情景に愛惜を重ねながら、
サヨナラした後、新たな5月のカレンダーを眺めたりした・・。

やがて私より5歳若い家内と共に、
朝食を頂きながら、
私は亡き母の遺伝を純粋に受けた為か、男の癖にオシャベリ大好きなタイプで、
家内に話しかけて談笑をしたりした・・。



やがて朝食後、家内は新聞に添付されているスーパーのチラシを見たりした後、
赤のサインペンで丸印を付けたりしている。

まもなくして、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、
我が家の暗黙のルールとなっている。


この後、家内からスーパーのチラシを私は手渡し、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は私に言ったりしたりしている。

私は体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

このような我が家の平素の買物パターンで、
私は独りで指定された駅前のスーパー、専門店に行ったり、
或いは最寄りのスーパーに行くこともある。




私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭の中に古ぼけた戸建て住んでいる。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は2004年(平成16年)の秋に定年後、
多々の理由で年金生活を始めたりした。

そして家内は、従来通り専業主婦を継続してくれることとなり、
せめて
平素の買物ぐらいはと思い、私は自主的に専任者となったりした。

こうした中、
家内の依頼された品物を買い求めに、週に数回ぐらい、
買物メール老ボーイとなり、独りでスーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。



我が家は住宅街の片隅に住みにあり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

そして私の生家も近くにあり、私は結婚前後の5年を除き、
早や75年ばかり、この地域に住んでいる。


いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。

ここ数年は体力の衰えを実感して、駅前に行く時は、路線バスに甘えて、
利用している。



たまたま本日は、最寄のスーパーと郵便局を廻ることとなり、
まばゆい皐月(さつき)晴の中を歩き、風光る時節だねぇ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。


こうした中で、微風を受けたりすると心地よく、薫風だ、と微笑みながら、
颯爽と郵便局とスーパーにある方面に向かったりした。



こうして歩いていると、尾崎紀世彦さんが唄った『5月のバラ』が、
脳裏から舞い降りてきた・・。

  ♪5月 この僕が帰る
   まばゆい5月

  【『5月のバラ』 作詞・なかにし礼、作詞・川口真 】

過ぎし年の1973年(昭和48年)に、
尾崎紀世彦さんのアルバムの中で、『五月のバラ』が収録され、
私は瞬時に魅了された歌のひとつであった・・。

この当時の私は、あるレコード会社の管理系の情報畑を勤め、
奮闘していた28歳前後で、世の中は怖いもの知らず意気揚々として、
世間の怖さを知らない男であった。

そして恋もしていたが、何故かしら失恋の方が多く、
生涯の連れ合いの愛(いと)しき人にも、
逢うことのない時期でもあった。

  ♪忘れないで 忘れないで 
   時は過ぎても

  【『5月のバラ』 作詞・なかにし礼、作詞・川口真 】


https://www.youtube.com/watch?v=4HN3IuhYEr8
☆【『5月のバラ』 作詞・なかにし礼、作詞・川口真、唄・尾崎紀世彦 】

このような歌を人影の少ない処を確認しながら、
私はかぼそい声で唄ったりした・・。

このような何かと単細胞の私は、
尾崎紀世彦さんの『五月のバラ』が、
突然に心の中で蘇(よみがえ)り、かぼそい声で唄ってしまった・・。



やがて郵便局に寄り、そしてスーパーを買い物を終えて帰宅したりした。

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私の投稿文20年間の中で、ロングセラーのひとつ、独り微苦笑を重ねて・・。

2025-04-30 14:40:27 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
過ぎし2004年にある民間会社を定年退職をした。

この後、多々の理由で年金生活を始めて、まもなくブログの世界を知り、
これ以来、パソコンの故障、国内旅行、入院した以外、
原則として毎日一通は投稿してきた・・。

自身の幼年期よりサラリーマンを定年退職するまでの心の宝物、
或いは年金生活の中で、あふれる思いを、心の発露として、
真摯に、ときには楽しくブログで投稿を重ねてきた・・。

こうした中で、多くの御方に読んで下さった投稿文があり、
幾たびも歳月を超えて、お読み下さり、望外の私の喜びとなったりしてきた。

この中の投稿文のひとつ、
血液型B型の私、ときには理性を失くして、物狂いになることもあり・・。
として題して、2014年8年21日に発信した。

今回、リバイバル上映のように、再び公開させて頂く。


☆................................................................☆


私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、ネットを彷徨(さまよ)っている中で、
【 B型の人は独特の感性でイメージ展開 ひらめきや直感に富む 】
と見出しされた記事を見つめた・・。

私は、恥ずかしなから血液型はB型のひとりであり、
齢ばかり重ねた私でも、好奇心に負けて、クリックしてしまった。     

《・・占いのように思われがちだが、
最近では会社の人事に取り入れられるケースも見受けられるのが血液型診断。

O型とA型で約7割を占める日本人。
その煮詰まりやすい社会のなかに、発想転換のヒントを与えるとともに、
潤滑油として「楽しさ」を与えるのがB型だ。
 
B型に向いているのは、音楽や芸術分野に関わる仕事。
独特の鋭い感性でイメージを展開したり、ひらめきや直感に富んでいるので、
クリエイティブな分野の仕事には最適だが、持続力がないのが弱点。
 
『人生の9割は血液型で決まる!』(世界文化社刊)の著者で、
これまで20数年もの間、多くの人に対して「血液型と性格・性質」について
研究を行なってきた小萩喜一氏がこう語る。

「B型の人に大切なのは“どこまでも真剣に遊ぶこと”です。
これはと思うものに出会ったら、思い切りそこに照準を合わせ、
夢をかなえるために、一心不乱に取り組むと成功します」

占いなどでは「変わり者」扱いされがちなB型だが、
その熱中ぶりや波瀾万丈さを評価する声も。

クリエイティブな企画者として独創性を認めてもらえるかどうかが
B型の人の分岐点なのである。
※週刊ポスト2013年1月1・11日号・・》
          
          

私は今回の記事を読み終わった後、B型の長所、短所が明示され、
何かしら素肌を視られたように恥ずかしさの余り、赤面させられたりした・・。

そして何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
これまでの軌跡を思い馳せると、
拙(つたな)いなりに当っている面もあるよなぁ、と苦笑してしまった。

年金生活の今、ときおり過ぎし日々のことに愛惜し、思い馳せたりすることもある。
そしてこれまで歩んできた人生の中で、
ときには熱病のように無我夢中となったりする時があった。
              
大半は一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりしてきた。
          
                     

たとえば音楽の場合は、1971年(昭和46年)に
偶然にシャンソンの作詞、作曲もされるバルバラの歌を聴き、
瞬時に魅了され、これをきっかけにシャンソンの世界にに熱中した・・。

そして銀座の片隅にあるシャンソン喫茶の『銀巴里』に、
少なくとも週2回ぐらい通いだして、
出演された多くのシャンソン歌手の唄声に心酔した。

こうした中で、金子由香里さんなどに夢中となったり、
この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
往還時に『ヤマハ銀座店』に立ち寄ったりしてアルバムを買い求めて、
2年たらずで100枚を超えて、本場のフランス、
そして日本の歌手を居間で、擦り切れる程度に聴き惚れていた・・。

やがて1989年〈昭和64年〉に、
遅ればせながらシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴いた。

『エレーン』の歌であり、この当時の私は民間会社の情報畑で奮闘していた時代で、
消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴いたのである。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたり、
齢を重ねた今は、『ヘッドライト・テールライト』が支えとなっている。

この間、カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、
今でも私の秘かな女神となっている。


そして1997年(平成9年)の頃に、
ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。
                    


映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

この間、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、
一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だと特にデビット・リーン、
そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。

アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。

          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。


                                                    
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職した後、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。

或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。
                    


私は幼少の頃から、根は単細胞の性格のためか、
ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。

少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋の方が多かったが、
ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦(こ)がれて時もあった。

         
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることが多い。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの、
と思ったりすることがある。

☆................................................................☆



こうした投稿文であるが、2014年8月に発信して以来、
ときおり多くの御方にお読み下さり、思い込みが激しく幾たびも敗退を重ねた
おかしな私の半生記でもあり、
改めて読み返すと、独り微苦笑したりしている。

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『昭和の日』を迎え、過ぎし昭和の時代に、80歳の私は愛惜を深めて。

2025-04-29 15:51:41 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と戸惑いながらも微苦笑したりした・・。

私は『昭和の日』については、遅ればせながら自覚したのは確か14年前の頃で、
あったりした。

しかしながら、私に取っては昭和19年(1944年)の秋に、農家の児として生を受け、
昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御される年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、
長らく過ごしてきた。


このような心の奥底に秘めてきた私は、今回『昭和の日』に際して、
私の『昭和』の時代は、少なからず45年近く空気を共にしてきたので、
もとより私の自己形成は『昭和』の時代であったので、
今でも過ぎし『昭和の時代』は愛惜を深めて、

時折あのようなことがあったよねぇ、と私は思い馳せることがある。


                        

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、私が今住んでいる近くで農業をしていた。

こうした中、私が地元の小学校に1951年〈昭和26年〉の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑を耕していた。
そして所有している田んぼの中に小さな川が流れ、湧き水もあったりした。

母屋の周囲には、竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸がふたつがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、
朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。

この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに、小さな神棚が備えられいた。


長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。

もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、

万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。



私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26)年の春であり、
それ以前は、周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、
幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、
ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。


幻燈機は、若い方には不明と思われるが、

現代風に表現すれば、白黒の(モノクロ)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私も実家で、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。

総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に、
確かなストリーの
意味合いも理解できなくとも、
なぜかしら感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。




こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、

『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であった。

この当時は、駅の周辺は商店街があったが、実家は駅までは15分の道のりであり、
この店しかなかったのであった。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡(ます)に満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、周囲の農家の殆どは、冠婚葬祭で一升瓶を数本贈答したり、
年末年始とか行事のある場合は、
何本かの一升瓶を購入していたが、

平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。

そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。



やがて私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。


後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、
丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、

ときおり幼年期に酒屋さんから頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。




この間、6歳の私は母に連れられ、年に一度ぐらい新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりした。
母は私と妹を両手につなぎ、末妹は乳児だったので背中にしょっていた・・。

そして京王線の『金子(現在・つつじが丘)』駅から『新宿』駅まで電車に乗ったりした後、
新宿三丁目まで歩いたりした。

そして伊勢丹(デパート)の階段の踊り場、或いは地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

こうした中で、ある時は母から私は勝手に手を放して、デパートの店内で迷子となり、
人形の売り場で半ベソになっていた私は、店員さんから救出されて、
探していた母の元に行ったりした。
                         

私が小学校の高学年になると、映画に魅せられて、
付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。

こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと誘われて、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私は吐き気がして困苦した・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
                

このように私の小学生時代までの思いでは、走馬灯のように思い浮かび、
その後の地元の中学時代、そして都心にあこがれ始めた高校時代・・など限りなく、
思いでを秘めている。



やがて昭和64年(1989年)の1月7日の昭和天皇が崩御された当時の私は、

音楽業界のあるレコード会社に勤務して、情報畑で悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であり、
もとより私にとっては『昭和の時代』は、あふれるように愛惜を重ねたりするが多い。
          

過ぎ去る年の昭和63年(1988)年の晩秋、会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして昭和64年(1989年)の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

この後、私はいつものように会社に出勤した後、
フロアー別の朝礼の時、専務取締役のひと言で、私たち一同は皇居の方面に向かい、
黙祷をした・・。


その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあり私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。
         


もとより敗戦後の荒廃した日本は、
敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。


私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、

少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

私たちが過ごしてきた昭和の時代は、
日本の多くの人たちは、一生懸命に働けば、年収も毎年増え、

そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。



こうした中でバブルが終息し、
そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、

やがてソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変し、
世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた20年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、
かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          

やがて殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、
低下してきた・・。


そして私は確か17年前の頃、
働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、

平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。


      
こうしたことは私たちの息子、娘の世代から観れば、
お父さんは会社で一生懸命に奮戦し働き、マンションか一軒家を買い求めたり、
もとより家計の責務があったりしていた。

そして『昭和妻』と称せられたお母さんは、専業主婦で家庭を守る中で、
子供ふたりは程ほどの自由な生活を満喫し、大学まで学び、

やがて子供は結婚して独立させてくれた典型的な中流社会は、大半は崩壊した・・。

その上、経済は低迷していると言われている現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。
          
          

こうしたことを思いつくまま昭和の時代を思い馳せたりし、

平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、
どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。

何よりも戸惑うのが、ジーンズの膝付近に、あえて穴を開けたり、
わざわざ磨耗したような生地にしたりすることである。

私は10代から30代の頃までは、ジーズンを愛用したひとりであるが、
新品を購入し、
数年過ぎれば、それなりの磨耗した状態となる。

もとよりジーズンは、普段着の長ズボンであり、
気軽な労働服のような思いながら穿(は)きつぶしてきたが、

決してファーション着ではないのである。
          


こうしたことを余り綴ると若き諸兄諸姉に嫌われるので、これ以上は記載しないが、

平成の時代に生まれ、現在は10代、成人となられた20代の世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように感じるか、と齢を重ねた80歳の私は、限りなく関心がある・・。

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『はてなブログ』、80歳の私、ただいま『見習い中』で御迷惑をお掛けしまして・・。

2025-04-28 13:31:04 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
過ぎし24日、『はてなブログ』に初めて投稿した・・。

《・・ 初めまして・・。

そして【goo blog】に於いて、
《・・今後は、不慣れ『はてなブログ』より、投稿しますが、
当面は、従来の【goo blog】でも、同一の投稿文を投稿させて頂きますので、
よろしくお願い致します・・》
このような追記分を発信してきた・・。



まもなく、私は『はてなブログ』の機能が理解できないことが多く、
やむなく『はてなブログ アカデミー』を見て、学んでできた・・。

 

              記事を書こう |            はてなブログの使い方 - はてなブログ アカデミー

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初心者におすすめの、はてなブログの使い方のヒントやコツが学べる公式講座! ブログの書き方や注意点、便利なポイントをわかりやすく紹介しています。

はてなブログ

 

 

しかしながら80歳の私は、無念ながら能力が衰えてきた為、
読者、コメント、ブックマーク、スターなど、
そして写真の保存、記事との連動など、理解できず、
困苦したりしているのが実態です。



このような状況の為、私は1970年代、1980年代、
コンピュータを活用した情報畑に勤務した経験を応用して、
現行システムを【goo blog】として、
新規の開発システムを【はてなブログ】として、
併行処理体制を思案した次第です。

【goo blog】が閉鎖なるまでの期間、衰えた私の能力をふるい起たせて、
それまで【はてなブログ】の多彩な機能を少しづつ理解しょう、
と決心してきた次第です。

それまでの間の【はてなブログ】に於いては、
路線バスで『見習い中』を明示した走行しているバスがあるように、
私も当面は『見習い中』とさせて頂きます。

現在の『見習い中』の期間は、読者、コメント、ブックマークなどで、
多くの皆様には、御迷惑をお掛けしますが、ご了承下さいますよう、
お願いする次第です。



尚、【goo blog】は従来通り投稿をしていきますので、
よろしくお願い致します。

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大型連休の中、いつものように私は、独りで地元の公園を散策して・・。

2025-04-27 16:08:49 | 傘寿からの思い
 

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に、
農家の三男坊として、1944年(昭和19年)の秋に生を受けたりした。

やがて都心の高校に通学して以来、都心の底知れぬ多彩な文化に圧倒的に魅了され、
通勤を含めて45年ばかり彷徨(さまよ)ったが、
定年後に多々の理由で年金生活を始めて、私の住む3キロ範囲を歩き廻るのが、
何よりも心身安らぎを感じている・・。
 

           

ここ20年、デパートに買物、そして懇親会、冠婚葬祭などで都心に出れば、
人出の多さに疲れ果て、やがて我が家の最寄駅のひとつ小田急線の
『成城学園前』駅に降り立つと、何故かしら安堵している。

こうした中は、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園、住宅街を歩いたりし、
ときには45分ばかり歩くと深大寺があり、隣接した処に都立・神代植物公園があり、
年金生活の中、幾たびも尋ねたりしてきた。


  

過ぎし私の中学時代は、自転車で通学した神代中学校であるが、
この当時、近くに開園する前の都立・神代植物公園になる雑木林の地域があり、
私は自転車で、下校後に学友と周辺を自転車で廻ったりしてきた・・。

やがて私は、1960年(昭和35年)の春に神代中学校を卒業して、
まもなく1961年(昭和36年)秋に、神代植物公園は開園になったりしてきた。


この後、季節の変わるたびに神代植物公園を訪れてきた・・。



やがて2004年(平成16年)の秋、ある民間会社を定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めると、
月に2回ぐらい訪れて、季節の移ろいを享受されたりした・・。
 
こうした根底には、小学生の頃までの生家の情景を思い馳せて、
心のふるさとの情景・・思い重ねたりしてきた・・。



こうした思いもあり、本日も午前中のひととき、
市内にある都立の






この後は、いつものように気ままに散策した・・。






















このような景観に心も身も託したりして、心のやすらぎを深めたりした・・。

やがて『深大寺』門より辞して、

隣接した『深大寺』に、参拝される人出が多かったが、寄ったりした・・。



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森山直太郎さんの『さくら(独唱)』、80歳の私、ささやかな思いが蘇(よみがえ)り・・。

2025-04-26 10:48:21 | 傘寿からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

先程、テレビのニュースに於いて、本日よりゴールデン・ウィーク始まりました、
北海道の函館、札幌も桜が開花しました・・、
このようなことが報じられ、私は微笑んだりした・・・。

過ぎし3月初旬より鹿児島地域より桜前線が本州を北上し、
私の住む都心の郊外でも、3月下旬に満開を迎え、私は散策しながら、
今年も享受してきた・・。

やがて東北地方を北上して、北海道の函館、札幌で、桜が開花に、
やはり桜は春の便りの主役だよなぁ・・と思いを深めたりした・・。

こうした中、ぼんやりと森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の名曲が、
思い出されて、やがて私の過ぎし年のささやかな思いが、
蘇(よみがえ)ったりした・・。




私の現役サラリーマン時代は、音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界のCDを中核とした売上げがピークとなり、
その後は業界全体が縮小した・・。

この前後に、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われた。

私たちの同世代は、この当時は定年退職時が60歳であり、
暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であり、
もとより若き入社時代から、人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
私が勤めていた会社でも、組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの烈風となった・・。

このような形で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。



私も55歳を迎える年に、1999年(平成11年)の初春、リストラ烈風の中、
各レコード会社の音楽商品のCD、DVDなどの物流を委託している物流会社に、
あえなく出向となったりした。

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

出向先は、少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられたりした。

そして約2万5千種類の音楽のCD、DVDなどの商品が並ぶ棚の大きな倉庫の中で、
センター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

こうした中、ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
全国のCD販売店、卸店などからの注文に応じて、即日出荷するのが、業務が大半で、

或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

そして
私は、主要曲の出荷量を予測したりし、
効率よく迅速に出荷できるような業務も責務のひとつであった。

          

こうした中で、2003年(平成15年)3月の初め発売された
森山直太郎さんの『さくら(独唱)』のCDシングルは、
発売日の初回枚数が、わずか1500枚前後であったと記憶している。

この当時、かって勤めていた出向元のあるレコード会社からは、
毎月発売されている新譜と称されるCD、DVD等の音楽商品に関して、
邦楽、洋楽、クラシックなどは、少なくとも100種類はあった。

その上に既に前月までに発売されてた旧譜と称されるの商品は、
2万5000種類は超えて、この中の一部にヒット曲もあり、
主要曲として出荷量の大半を占めていた。

こうした状況であったので、3月5日に発売された森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、
初回枚数が余りにも少なく、私は注視することがなかった。

やがて桜花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したりした。
               
しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚単位のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、現場を駆けずり廻っていた。

                    

この頃の私は、通勤時にビジネスバックの中に、CDウォークマンを入れて、数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年近くレコード会社で情報・管理畑、営業畑で体験した身でも、需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、人々の好みを予測し、
この中の一部の方が一枚を購入して下さるので、
まぎれなく生きた心の商品でもある。

結果として、森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの大型連休の頃、ミリオン・セラーと称せられる百万枚となり、その後も出荷を重ねた。

私にとっては、たまたま定年退職の前の年に、この曲が私の予測を遥かに超え、
思いで深い曲のひとつとなった・・。

                    

この当時の頃のCDシングルは、何曲も収録されているのが、流行だった。
このCDシングルも『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、
そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別の情緒が醸(かも)し出されている、と公言したりした・・。

このように私なりに体験をしたので、本社に勤務を含めた35年間でも、
数多くのヒット曲にめぐり逢えたが、とりわけ森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の歌は、
思いで深い曲のひとつとなっている・・。

          
       

やがて出向先の大手企業の傘下の物流会社も、大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

そして、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、
私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、敗残者のような深情で年金生活を始めた・・。     

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、
早や丸20年半が過ぎている。

                

ここ10幾年、中学生、高校生の間で、卒業式の愛唱歌として、
森山直太朗さんの『さくら(独唱)』の歌が、唄われる、と私は風の噂で聞いたりすると、
作詞も良し、メロディーも、そして唄声も心に残る、と私は確信を深めて、
そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、微笑(ほほえ)む時もある。

このようなことを私は思い馳せたり、
この森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の出荷作業に奮闘していた時から、
早くも20数年の歳月が過ぎてしまった、と微苦笑したりして、
そして年金生活をしていると実に早く過ぎ去ってしまう、
と思いを重ねたりしている。

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本日、『はてなブログ』挨拶文を発信して・・。

2025-04-25 15:29:00 | 傘寿からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の80歳の身であるが、
加入している【goo blog】11月中旬終了、過ぎし14日に通知を読み、
これ以来、やむなくブログ・サービスの引越し先を思案してきました・・。

そして本日より、『はてなブログ』で、再出発となりました。

https://yumede-ai.hatenablog.com/



挨拶文を発信しました・・。

《・・ 初めまして・・。

・・》

今後は、不慣れ『はてなブログ』より、投稿しますが、
当面は、従来の【goo blog】でも、同一の投稿文を投稿させて頂きますので、
よろしくお願い致します・・。

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ガムを嚙むと「自律神経が整う」、私は学び、やがて微笑み・・。

2025-04-24 15:58:12 | 傘寿からの思い

先程、ヤフー・ジャパンより配信された記事を見ている中で、
『 「なぜガムを嚙むと「自律神経が整う」のか?
           幸せホルモン“セロトニン”にも影響 
 』、
と題された見出しを見たりした。

慣れない環境で溜まった疲れ・ストレスに、
「ガムを噛むこと」が有効である。

以前、以下の記事でお伝えしたように、嚙む動きがストレス対策になるのです。

<picture><source srcset="https://sports-pctr.c.yimg.jp/vrwP1cu9cY2YL4Fg3aXpJtHyHIQWv4q0Pd5fNOzmBc_N1FzH6Nw5O-6uyBxRWdFhpVBi4lhXgBOx8_sJvCgx6PabJxeWXhwKPXcQoCVEGXExyV2P1twc7cIwHXoqfQVQy32o-PFaDI5mDaBXt9qimZB5e4ug2DZeShX4FUUJi-VelRwlxu_omvSFW94CFEVA" type="image/webp" /></picture>【MELOS】


☆環境の変化によるストレスにも「ガム」が有効である理由

セロトニン神経を活性化する

   「噛む」というリズム運動により、セロトニン神経が刺激され、
   「幸せホルモン」と呼ばれる「セロトニン」分泌が増加し、
   自律神経の調節、覚醒作用などにつながります。

自律神経を整える

   ガム咀嚼を2週間継続することで、
   自律神経バランス・気分状態を改善することが確認されました。


   ロッテは、順天堂大学の小林弘幸教授、
   医療法人社団順幸会小林メディカルクリニック東京(理事長:小林暁子氏)と共同で、
   継続的なガム咀嚼に関する研究を実施。


   研究結果によれば、ガム咀嚼を2週間継続することにより、
   自律神経や気分状態が改善。

   さらには、唾液中の免疫グロブリンA
   (IgA:様々な病原体に対する生体防御機構の最前線として役割を果たす免疫物質)
   濃度が増加することを確認したといいます。

 ・・》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。




多々教示されて、80歳の私は微笑んでしまった・・。

《・・「噛む」というリズム運動により、セロトニン神経が刺激され、
「幸せホルモン」と呼ばれる「セロトニン」分泌が増加し、
 自律神経の調節、覚醒作用などにつながります・・》と学び、
過ぎし私はサラリーマン時代で睡眠時間を削り、奮闘したいた頃が、
想い出されたりした・・。

この当時、コンピューターを活用した情報畑で、
システムの部分改定などで、真夜中、明け方まで奮戦していた時、
神経を張りながら、覚醒させようと、ガムを噛んだりしていた・・。



ここ数年の私は、噛む力が衰えてきたので、鍛える為に、
ガムを噛むことが良い、と教示されて、
ときおり意識してガムを噛んだりしている。

そして今回、《・・「幸せホルモン」と呼ばれる「セロトニン」分泌が増加・・》、
と私は学び、微笑んだりしている。

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