コロナ対応に追われる医療関係者によると、
コロナ患者のうち約85%は無症状か、自然に回復する軽症者。
残る15%のなかで、6%が重篤化する、ということも学び、
そして重症化した場合、生死の“分岐点”の実態を学びながら、私は震撼させられたりした。
《・・(略)・・先日急逝した志村けんさんのように、発症から1週間程度で命を奪われるほど、
重症化した場合、コロナの進行は極めて速い。
医学博士で元小樽市保健所長の外岡立人氏によれば、
「新型コロナウイルスによる肺炎の特徴は、
重症化すると気管の最末端にある細気管支(さいきかんし)が、
炎症によって生じた滲出物で詰まってしまうことにあります。
その結果、肺胞まで酸素を届けられなくなる。
そうなると人工呼吸器でも効果を得られず、放っておけば窒息してしまう。
最終手段として用いられるのが、体外式膜型人工肺(エクモ)です。
ただ、これは永続的な治療法ではなく、あくまでも肺が自力で回復するまでの時間稼ぎ。
結局は、肺そのものの回復力にかかっています」
たとえ最後の砦である体外式膜型人工肺(エクモ)を用いても、
志村けんさんや中村勘三郎さんのように帰らぬ人となるケースは、後を絶たない。
高血圧などの基礎疾患を持たず、病を自ら乗り越える免疫力や基礎体力を備えていないと、
コロナが重症化すれば、“生還”は難しいようだ。
山王病院呼吸器センター内科副部長の須藤英一氏はこう話す。
「慢性的な肺の病気を持っているか、どうかが生死の“分岐点”となるように思います。
急激に悪化するのは、高齢で基礎疾患があり、肺の免疫力が落ちている患者が多い。
とりわけ、長期にわたって喫煙を続けたことで慢性閉塞性肺疾患(COPD)に罹っていると
重症化するリスクが高まります」
人間の気管支は、繊毛によって異物を除去しているが、
慢性閉塞性肺疾患(COPD)の患者は、繊毛運動が衰えているため、重症化を招きやすいという。
「他にも、糖尿病や肥満がリスク要因に挙げられます。
糖尿病は高血圧を併発しやすく、血管がダメージを負うため、酸素運搬能力が衰える。
加えて、透析を受けている方は、免疫力も低下します。
また、肥満が原因で睡眠時無呼吸症候群になると、睡眠中に低酸素状態に陥るので、
心臓や肺に負担がかかってくるのです」(同)
予防の観点から言えば、日本が世界でもダントツの普及率を誇るCTも活用すべきだろう。
「ダイヤモンド・プリンセス号」の感染者を受け入れた自衛隊中央病院は、患者の症例をHPで公開。
たとえ無症状でも、CT検査で異常が認められる感染者がいることが分かった。
CTが感染の早期発見に繋がる可能性は高い。
日本医科大特任教授の北村義浩氏いわく、
「重症化を防ぐには、初期症状をきちんと見定めて、かかりつけ医や自治体の相談窓口に連絡するしかありません。
呼吸をした時に“ゼーゼー”と息苦しさを感じた場合は、注意が必要。
これは肺炎の症状で、軽い咳や味覚の変化よりも危険度が高い。
次に、平熱が36度台前半の人が、38度台を超える熱を出したら、気を付けた方がいい。
一旦、熱が下がっても、健康な方が高熱に見舞われることは、そうそうないので油断は禁物です。
いまはインフルエンザの流行はほぼ終わっている時期なので、突然の高熱は肺炎を起こしている可能性が高い」
重症化を防ぐには、細気管支が炎症を起こさないよう、なるべく早く身体の異変を察知することに尽きる。・・》
こうした記事であるが、新型コロナの重症化になってしまった場合、
慢性的な肺の病気を持っているか、どうかが生死の“分岐点”となる、
と私は学びながら、震撼してしまった・・。
こうした関連として、《・・糖尿病や肥満がリスク要因に挙げられます。
糖尿病は高血圧を併発しやすく、血管がダメージを負うため、酸素運搬能力が衰える。
或いは透析を受けている方は、免疫力も低下しているし、
或いは肥満が原因で睡眠時無呼吸症候群になると、睡眠中に低酸素状態に陥るので、
心臓や肺に負担がかかってくるので・・》
要注意と学んだりした。
そして新型コロナの重症化になって、あの世に旅立つのは、
勘弁して欲しい、と仏様と神様に祈願したりした。
やがて一昨日の27日に於いて、ネットでウイルス学の専門家の東海大学の医学部の山本典生教授より、
学童でも判りやすい『新型コロナ重症化を防ぐ為のアドバイス』、私は学んだので、
もう一度復唱した後、新型コロナは近寄らないでねぇ・・、と呟(つぶや)いたりした。
「六本木のオフィスを後にして、仕事仲間と書店を訪れた時に、熱っぽさを感じました。
すぐに帰宅し、体温を計ると37・4度。
風邪をひいた時のように暖房をつけて厚着をしたものの、なぜか全く汗が出なかった」
コンサルティング会社「Globality」CEOで、都内在住の渡辺一誠さん(40歳)が、
体調の異変に気づいたのは3月22日のことだった。
「翌日から、目の奥がズキンズキンと痛み出しました。
ひどい二日酔いのようで、脱水症状や熱中症になった時の頭痛に似た感じです。
その後、朝方は37度台だった体温が、日が暮れる頃には39度台の高熱に達することが続きました」
渡辺さんは26日に保健所に連絡し、病院に向かったものの、散々待たされた挙句、
「まだ時間がかかりますが、どうしますか?」
と言われ、診察を受けず帰ることに。
ところが、
「帰宅して山椒の利いた麻婆豆腐を食べたのですが、いつもなら途中でスプーンを置くような辛さなのに、
すいすい食べ切ってしまった。
“これはさすがにおかしい”と思い、翌日に改めて保健所に連絡して、症状を洗いざらい伝えました」(同)
指定された港区内の病院でPCR検査を受けると、結果は“陽性”。
そのまま入院し、胸部CTを撮影したところ、肺が軽い炎症を起こしていることも分かった。
「最も症状が酷かったのは、入院した直後です。
解熱剤を飲んでも、熱は40度近くから下がらない。
一度咳き込むと、堰を切ったように、痰の絡まない空咳が続くので眠れなかった。
インフルエンザの30倍は苦しかったですよ。
食べ物を口にしても、水で薄めたような味しかしないので食欲も湧きません。
お腹も緩くなって、下痢の症状が続きました」(同)
こうした“初期症状”は、他のコロナ患者にも共通する部分が多い。
同じく3月末に高熱に見舞われた、関西在住の40代男性はこう明かす。
「私の場合は38度近い熱が出たのと同時に、咳と下痢に襲われました。
とりわけ下痢が大変で、一時は1日に10回は便意を催して、トイレに駆け込んでいたほど。
とはいえ、いきんでも出るのは、ほとんどガスで、あとは泡のような便が少量といった感じです。
それ以外の症状としては、やはり味覚の変化。
麦茶を飲むと、苦みを感じて信じられないくらいマズかった」
男性は昨年、大腸がんの手術をして、今年2月まで抗がん剤治療を続けていた。
「そのため、症状が出た直後に、保健所に連絡しました。
ただ、保健所には、“かかりつけ医を受診してほしい”と言われ、内科の個人病院を訪ねたら、
はれ物に触るような対応で、隔離ブースに案内されまして・・・。
レントゲン写真を撮影して医師の問診を受けると、“初期の肺炎がある”と。
それを保健所に伝えて、4月1日にやっとPCR検査を受けることになったのです」
感染症指定医療機関である総合病院に向かうと、
「病院の敷地内に設けられた仮設の建物で、PCR検査を受けました。
粘膜を採取するため、長い綿棒を鼻の奥と喉に突っ込まれたのですが、
私がクシャミをすることを懸念して、医者は背後から器用に綿棒を挿入していましたね。
検査自体は5分ほどです。
とはいえ、病院からの電話で“陽性”と聞かされたのは、2日後の4月3日のことでした。
正直なところ、これだけコロナを疑う症状が出ているのに、
なんでもっと早く陽性と判断してくれなかったのか、と思いましたよ」
入院できる病床がなく、男性は妻と暮らす自宅で、隔離生活を送っている。
「嫁にうつさないよう部屋にこもり、テーブル、便座には使うたびに、除菌スプレーを吹きかけています。
室内でも嫁と話すときは、マスクが欠かせません。
症状は落ち着きましたが、どこかで重症化しないか、不安を抱えながら過ごしていた。
ただ、13日になって保健所から連絡があり、次のように伝えられました。
まず、今後も入院はせずに、自宅療養を続けてほしい。
そして、追加のPCR検査は行わず、4月17日まで症状が出なければ、
就業制限が解かれて、翌日から復職できます、と。
個人的には、改めてPCR検査を受けたいのですが、
病院側には軽症者を検査したり、ベッドを用意する余裕はないのだと思います」
入院生活を続けていた先の渡辺氏も3月末には、高熱が峠を越え、4月10日に退院を果たした。
幸いにも症状が快方に向かった彼らは、どうにか“日常”を取り戻しつつある。
『週刊新潮』 2020年4月23日号掲載・・》
こうした記事を学び、多々教示されたりした。
こうした記事の後半部に於いて、
《・・コロナ対応に追われる医療関係者によると、
コロナ患者のうち約85%は無症状か、自然に回復する軽症者。
残る15%のなかで、6%が重篤化する・・》と私は学び、気弱な私は震撼させられたりした。
私は、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活16年半過ごしてきた。
昨今、コロナの重症者になってしまった時は、死にも直結する場合もあるので、
苦しみながらあの世にいくのは、小心者の私は何とか避けたい、と念願している。
そしてコロナに感染して重症者になることにも、勘弁して下さい、
ときおり祈願したりしている。
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 AERA dot. 】を見ている中、
新型コロナ重症化防ぐ為のアドバイス、と見出しを見たりした。
科学の進歩で多くのワクチンや治療薬は開発されたけれど、
今回の新型コロナに確実に効くというものは、まだない。
人類を苦しめる感染症の大流行が、今もたびたび起こるのはなぜか。
新型ウイルスから身を守るには、どうすればよいのか。
こうしたことが小中学生向けニュース月刊誌「ジュニアアエラ」の5月号に、
掲載された記事を転用されて配信されていた。
そしてウイルス学の専門家の東海大学の医学部の山本典生教授が、
小中学生向けにやさしく回答されていた。
私は齢ばかり重ね何かと無学なこと多く、新型コロナに関しても判らないことが多く、
遅ればせながら学びたく、記事を精読して、多々教示させられたりした。
そして多くの御方と『新型コロナ重症化を防ぐ為のアドバイス』を共有致したく、
あえて記事の後半を転載させて頂く。
――新型コロナウイルスのワクチンや治療薬は、いつごろ開発できそうなの?
山本典生教授の回答
過去の例から考えて、1年か1年半のうちには、ワクチンや治療薬が開発されるんじゃないかな。
ただし、効果があることがわかっても、
ほんとうに安全かどうか、慎重に確かめなければいけないから、
実際に広く治療に使われるまでには、少し時間がかかるかもしれない。
でも、ほかのウイルスに効く治療薬が、新型コロナウイルスにも効くとわかれば、
すでに安全性は確かめられているから、すぐに使える。
そんな治療薬を探す研究も進められているよ。
――それは心強いけど、ワクチンや治療薬が開発されるまで、どうすればいいか心配だな。
山本典生教授の回答
心配するのはわかるけれど、おそれすぎることはないよ。
私たちの体には、もともとウイルスを退治する免疫などのしくみが備わっているからね。
新型コロナウイルスに感染しても、症状が出ないまま治ってしまう人がいるのは、そのためだ。
ただし、高齢の方や持病を抱えている方などは、ウイルスを退治する力が弱くなっていることが多いから、
亡くなってしまうおそれがある。
だから、まだワクチンや治療薬が開発されていない今は、
感染の拡大をできるだけ防いで、重症化する人が一人でも少なくなるように、努めることが大切だね。
――感染の拡大や重症化を防ぐには、どうすればいいの?
山本典生教授の回答
新型コロナウイルスの特徴を正しく知って、それに合わせた対策をするべきだね。
まず、新型コロナウイルスの感染経路は、
せきやくしゃみのつばが口から入る飛沫感染と、
手についたウイルスが口から入る接触感染だ。
だから、外出先から帰ったらすぐに手を洗い、ウイルスを洗い流そう。
新型コロナウイルスはアルコールに弱いから、アルコール消毒をこまめにするのもおすすめだよ。
ウイルスがマスクの繊維を通れるから、効果がないという人もいるけれど、
手についたウイルスが口に入るのを防ぐ効果はあるし、
自分のつばが飛んで、ほかの人を感染させるのを防ぐから、マスクは着けたいね。
――でも、ボクは新型コロナウイルスにはかかっていないと思うから、だいじょうぶだよ。
山本典生教授の回答
そういう考えはいけないよ!
元気だとしても、じつはすでに感染していて、症状が出ていないだけかもしれない。
そんな人でも、ほかの人に感染させてしまう可能性はあるんだ。
もしも高齢者や持病のある人などに感染させたら、
重症化してたいへんなことになってしまうかもしれない。
だから、自分が感染しないだけでなく、他人にも感染させないようにすることが大切なんだ。
食事、睡眠、運動をしっかり心がけて、重症化させないための体づくりも忘れずにね。
今回、ウイルス学の専門家の東海大学の医学部の山本典生教授に導かれて、
『新型コロナ重症化を防ぐ為のアドバイス』を多々教示させられたれした。
特に、新型コロナウイルスのワクチンや治療薬は、いつごろ開発できそうなのか、
に関して、私は復唱するように心の中で呟(つぶや)くように二回読んだりした・・。
そして山本典生教授の御言葉、
《・・過去の例から考えて、1年か1年半のうちには、ワクチンや治療薬が開発されるんじゃないかな。
ただし、効果があることがわかっても、
ほんとうに安全かどうか、慎重に確かめなければいけないから、
実際に広く治療に使われるまでには、少し時間がかかるかもしれない。
でも、ほかのウイルスに効く治療薬が、新型コロナウイルスにも効くとわかれば、
すでに安全性は確かめられているから、すぐに使える。・・》
このようなことを学び、プラス思考の私は、何か現在のウイルスに効く治療薬が、
新型コロナウイルスにも効くとわかれば、早く終息できるかしら、と思ったりした。
しかしながら新型コロナウイルスの新薬に頼らなければならない時は、
開発、安全性などを配慮すれば、漠然と思いながら、終息までは2年ぐらいかなぁ・・、
と溜息を少ししたりし、勘弁してほしいなぁ・・とボヤいたりしている。
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 AERA dot. 】を見ている中、
何かしら外出自粛の時期こそ、「できたこと」に注目するべきだ、
と意味合いの言動を学んだりした。
この記事は、『 AERA』2020年4月27日号にライターの井上有紀子さんが寄稿された記事で、
一部を引用させて頂く。
《・・外出自粛により、毎日やっていたことができなくなった人も多いだろう。
(略)行動科学の専門家でネットマン代表の永谷研一さん(54歳)は、
こんなときだからこそ「できないこと」ではなく、「できたこと」に注目するべきだと指摘する。
「人間はできないことに意識が向きがちですが、実は毎日何かしら達成している。
自分自身の行動を知り、気持ちを前向きに保つためにも、
毎日1~3つのできたことを探し、『できたこと手帳』として書き残すことをおすすめします」
特別なことを書く必要はなく、「早起きできた」、「机の上を片付けてスッキリした」、
「ごはんがおいしく作れた」など、ささいなことで構わないという。
すると、行動が制限されるなかでも、できていることがたくさんあるとわかる。
これが自信になり、前向きな気持ちが保てるようになるという。
さらに週に1度、「今週のベストできたこと」を選び、
なぜできたのか、次はどうすればいいかを考えることで、
自分が大切にしていること、どうありたいのかが見えてくるという。・・》
このようなことを私は学び、やがて微笑み返しをしてしまった・・。
このように過ごしている私は、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活丸16年近く過ごしてきた。
たとえば私の睡眠に関しては、ここ数か月は布団にもぐるのは、
真夜中の11時半前後が多く、 目覚めるのは朝の6時半過ぎとなっている。
そして現役サラリーマン時代だった時と違い、悩みは激少している為か、
布団にもぐると、まもなく寝付いてしまい、 たとえ震度3ぐらいの地震でも、
目覚めることなく熟睡している。
やがて朝の6時半過ぎの頃に、ぼんやりと目覚めて、うつらうつらとまどろみながら、
ぼんやりと昨日の出来事を思い浮かべたりした後、
本日は・・今週は・・と予定事項を思い馳せたりして、15分過ぎた頃に起床している。
何かとプラス思考で単細胞の私は、このように本日の予定事項をぼんやりと決め、
日々実践してきたので、今回の《・・こんなときだからこそ「できないこと」ではなく、
「できたこと」に注目するべきだ・・》、私は瞬時に同意を深めたりした。
家族葬・一般葬などの僧侶手配などをして下さり、
そしてお通夜・告別式・火葬場での読経をして下さるが、時間と金額が明確であった。
宗派の浄土真宗(本願寺派・大谷派)、浄土宗、曹洞宗、臨済宗、真言宗、日蓮宗、天台宗など対応でき、
総額140,000円であった。
通夜、告別式、火葬の際の読経に加え、初七日法要を繰り上げて行う告別式後の計4回読経を行い、
また、通夜は告別式の前日に行われますので、僧侶さまは2日間に渡ってお勤めされます、
と明記されたいた。
そしてお勤め内容としては、
通夜の読経としては、お通夜で祭壇の前に座り読経をします。
その間に参列者が焼香をしていきます(目安:20〜30分)
告別式の読経としては、祭壇の前に座り読経をします。
その間に参列者が焼香をしていきます。(目安:40〜60分)
そして初七日の読経としては、本来は7日後に行う法要でしたが、
現在は一般的に告別式終了後に続けて行います(目安:10〜20分)
やがて炉前での読経としては、
火葬場にて、お棺を炉の前に安置した後に読経します(目安:5〜10分)
私は1944年(昭和19年)の9月に、今住んでいる近くに生家があり、
この当時、農家の三男坊として生を受けたりした。
やがて、私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、 芸能専門養成所のシナリオ科に通ったりした。
そして映画青年の真似事の生活を過ごし、 アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、 映画は益々衰退して、まして脚本家で飯(めし)が喰えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。
まもなく私は文学青年の真似事に転身して、警備員の契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりした。
このような状況の時、 叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。
この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学んだりして、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。
この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。
私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。
入社した直後、現場を学べ、と指示されて、 横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。
やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられ、
勤務地は赤坂にある東急ホテルに隣接したビルであり、まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、 私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
この間、私は管理畑の商品、情報、経理をしている中、
やがて1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、本社は渋谷の外れとなったりした。
この後、1998年(平成10年)の当時の私は、営業本部に勤めていたが、
この数年前の頃から、音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999年(平成11年)の初春に、各レコード会社が音楽商品の物流を委託している会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品を、
ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う物流会社の中のひとつの商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。
こうした中、音楽のCD、DVDなどの商品棚が並ぶフロアは、
東京ドームより広い商品センターで、 連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、 この出向先で5年半ばかり勤め、
2004年(平成16年)の秋に定年退職時を迎えた。
やがて定年退職時になると、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。
この間、出向となってしまった当初、私は30年近い本社勤務から出向となり、
つたない私でも都落ちの失墜感の中、
こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、と改めて真剣に話し合った。
私たち夫婦は子供も恵まれなかったので、老後も2人だけの家庭となるので、
残された歳月、その後の片割れになった時も配慮したのである。
そして話し合いの結果として、定年後の私はいつの日にか年金生活に入り、
お互いに残された人生の歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。
このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、 そして定年退職するまで半生期は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、 ときおり敗残者のように感じることあったりした。
このように悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、
年金生活を始めて、 早や16年生となっている・・。
定年後の年金生活を始めてまもない時、
人生で後悔のない御方はいない、と書物から学び、大いに私は慰められたりした。
そして定年退職後は、結果的には年金生活を始めて、
程々の貯蓄を取り崩しながら、古びた1戸建てに家内と生活を過ごしている。
ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしているが、
大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートの御方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態である。
このように私は屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。
そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
ときには卑屈になったりしたり、このように可愛げのない男のひとりである。
私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944〈昭和19)年9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。
程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に人生信条を掲げた。
【・・定年退職後・・野に咲く花のように、と生活信条を掲げていますが、
身過ぎ世過ぎの年金生活ですので、
清く貧しく美しくが適度な目標です。・・】
このようなことを年金生活の初めての年賀状にも明記したりした。
野に咲く花のようにの発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、人生信条として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしている。
『清く貧しく美しく』の発想は、
松山善三(まつやま・ぜんぞう)さんの脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、
言葉を重ね合わせ、
何かしら年金生活に相応しいと確信して、明記したりした。
このような、ささやかな年金生活後の信条で4年目を迎えてた2008年の2月の月末の時、
たまたま作家・嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)さんの『人妻魂』(マガジンハウス、2007年に発刊)を
読み残した章を布団の中で読んだりしていた。
そして情熱的な天才俳人と著作者が明記した杉田久女さんの章で、
《・・「清き貧しく美しく」というのは、理想の人妻像として広くいきわたっておりますが、
ここのポイントは「貧しい」ところにあって、
どれほど清く美しくても、その人妻が成金であると、ワンランク落ちてしまうのです。
清純で美しく、「貧しい」人妻であってこそ、
男心はモヤモヤくすぐられる。どうもそのようです。
しかし、あまりにも貧しいすぎてもいけない。
そのころあいが難しい。・・・・》
と私の敬愛するひとりの作者・嵐山光三郎さんが、既にこのように綴られていた。
私なりに渾身の言葉として発露し掲げた生活信条は、
既に近世の世情よりあった、と遅ればせながら学んだりした。
この後、私は愕然(がくぜん)とさせられ、
深夜にかかわらず、布団に正座し、私の無知にしばし呆然とため息を吐(つ)いたした・・。
これ以来、『清く貧しく美しく』と言葉は、
何かしら後ろめたい心情で、ときおり私は綴ったりしている。
このようなことを、過ぎし年金生活を始める当初を思い馳せて、
独り微苦笑をしたりしている。
私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
昨夕、NHKのテレビニュースを視聴していた時、
『 人との接触を8割減らす10のポイント 専門会議が提示 』、明記されて、報じていた。
何かしら新型コロナウィルスの感染拡大防止に伴い、
政府が『緊急事態宣言』を出してから2週間超が経った4月22日、
政府の専門家会議が開催された。
やがて会議後に記者会見で、副座長の尾身茂さん(地域医療機能推進機構・理事長)が、
「現在までのデータを見ると、目標である8割の接触の削減が達成できているとは言えない状況」
と公言された。
そして副座長の尾身茂さんは、
「人との接触の8割減が分かりにくい」との指摘が多くあったとした上で、
接触8割減に向けた10個のポイントを提示した。
1】実家などへの帰省を避け、ビデオ通話によるオンライン帰省をすること、
2】スーパーでの買い物は、1人または少人数で、空いている時間に行うこと、
3】ジョギングは少人数で行い、公園はすいた時間・場所を選ぶこと、
4】急ぎではない買い物は通信販売で行うこと、
5】飲み会はオンラインで行うこと、
6】診療はオンラインなどによる遠隔診療で受けること、
7】筋トレやヨガは自宅で動画を活用して行うこと、
8】飲食は持ち帰りや宅配を利用すること、
9】仕事は在宅勤務で行い、通勤は医療・インフラ・物流など社会機能維持のための業種に限ること、
10】会話はマスクをつけて行うこと、を呼びかける、としています。
このような具体的な10のポイントを報じられていたので、ときおり物忘れも私はあるので、
NHKのテレビニュースをネットからお借りして、転載した。
やがて私は『人との接触を8割減らす10のポイント』を復唱するように、
心の中で呟(つぶや)いたりした。
1】実家などへの帰省を避け、ビデオ通話によるオンライン帰省をすること、
私の生家である実家は、今住んでいる近くにあり、
家内の実家は千葉県の八千代市にあるが、家内の母の介護で、
家内は家内の妹と交互に宿泊していた。
しかし新型コロナウィルスに伴い、家内の妹は家内の母宅の近くにいるので、
家内の母の介護をお願いしているが、
週の半分ぐらい家内の母は、ショート・スティを活用して宿泊している。
2】スーパーでの買い物は、1人または少人数で、空いている時間に行うこと、
私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
恥ずかしながら70歳を過ぎた頃から齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。
たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。
日頃の私は、 いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受しながら、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない上、
何よりも自身が自覚できない言動をする認知症は、私は何よりも恐れたりしている。
こうした深情を秘めている私は、ときおり愛読しているネットの【 NEWS ポストセブン 】に於いて、
【 認知症の予防には10~15歳の記憶を意識的に思い出すと良い 】と題された見出しを見た。
どういうことですか、と私は真摯に思いながら、記事を精読してしまった。
やがて、この記事の原文は『女性セブン』の2018年4月12日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の【NEWS ポストセブン 】に2018年4月3日に配信されていた。
古い記事であるが、もとより認知症は、男性と女性の壁を超越する難題であり、私なりに多々教示され、
多くの御方と共有致したく、無断ながら転載させて頂く。
《・・認知症の予防には、10~15歳の記憶を意識的に思い出すと良い
つい数分前のことを覚えていられず、同じ話を何度も繰り返す認知症の女性が、
昔の話はイキイキと表現力豊かに話す──。
つまり、すべての記憶が一気になくなるわけではないのだ。
昔の記憶をよみがえらせ、本人がその思い出を話すことで
認知症の症状や介護の予防・改善を図るという心療回想法が、
介護施設や訪問介護などでも、大きな成果を上げているという。
日本回想療法学会会長の小林幹児さんに聞いた。
「多くの人が認知症を恐れるのは、記憶がなくなること自体より、
記憶が消えることで食事、排泄、衛生維持などの日常生活動作(ADL)に支障が出て、
重い要介護状態になることではないでしょうか。
心療回想法は、この日常生活動作(ADL)にかかわる記憶が消えないように守るための療法です」と言う小林さん。
独自の研究で、日常生活動作(ADL)にかかわる記憶は、概ね10~15才の頃の記憶に深くかかわり、
この頃の記憶が明瞭であると、日常生活動作も維持される傾向にあることを検証した。
心療回想法が行われている介護施設や訪問介護の現場では、
暴力などの認知症の周辺症状が穏やかになったり、要介護度が軽くなったりする人が多く見られるという。
「10~15歳の出来事に焦点を当てて思い出し、心療回想士などの聞き手に話しますが、
高齢者にとっては60~70年以上も前のこと。
なかなか思い出せないこともありますが、当時の社会の出来事を話したり、写真を見たりしながら、
丁寧に個人的な出来事をたどると、小さなきっかけから、せきを切ったように思い出すことも多いのです」
そして重要なのは、ここからだ。
単に思い出すだけではなく、聞いている人に伝わるように高齢者自身が
自分の言葉で思い出を語ることで、大脳が活性化されるという。
「記憶は、脳の中に映し出される映像のような形で、思い出されます。
その映像を、他者に説明するわけですが、
高齢でうまく言葉にできない、言葉が出てこないという人もいます。
そこで心療回想士は、思い出について事細かに質問し、言葉を補って助けます。
ここで注意すべきは、思い出のストーリーを追ったり理由を聞いたり、話の矛盾をついたりしないこと。
何があったかではなく、思い出したその場面に、注目するのです。
たとえば公園で遊ぶ場面を思い出したら、
どんな遊具で、どんなふうに遊んで、友達とはどんな話をしてどんな気持ちだった?などと聞く。
5W(いつ、誰が、どこで、何を、なぜ)ではなく、
1H(どのように)が重要で『1H話法』とも呼ばれます」
☆思い出す喜び、話す喜び 同窓会の快感が脳に効く
“昔を思い出して、人に話す”。
簡単なことのようで、忙しない日々に追われて、親の昔話をじっくり聞く機会はなかなかない。
それが脳を活性化するとは・・・。
「まず思い出すという行為が、大いに脳の刺激になります。
あれは何だっけ・・と、頭の中を必死で思い出そうとし、
探り当てたときの快感と興奮は、経験があると思います。
これは、たとえば落語やお笑いなど、外からの刺激を受けて笑った快感とは違う、
自分の中から、こみ上げる能動的な喜びで、より脳を活性化します。
また人に話すという行為は、頭に浮かんだ思い出の映像を、
より伝わる言語を選んで、文章にして話すという、実に知的で複雑な作業。
脳は酸素をしっかり使って、フル稼働します。
そして自分が語った思い出が、聞き手に伝わって共有できた喜びも、脳にはよい刺激に。
ちょうど同窓会で、忘れていた懐かしい思い出を語り合い、
“そうそう! そんなことあったな~”という、あふれ出るような喜びと同じなのです」
ちなみに同じ話すのでも、ネガティブな気持ちに任せて“嫌だ”“つらい”などと
抽象的で感情的な言葉を発するだけの愚痴では、脳は活性化しないという。
思い出す喜び、一生懸命伝える、喜びを共有できる快感が大切なのだ。
ところでなぜ10~15歳の記憶が大切なのだろう。
「10~15歳は、食事、排泄、衛生維持などの日常生活動作が身について
完全に自分のものになる年齢。
この頃は、快感や喜びを司り意欲や動機づけに関連するホルモン、ドーパミンが分泌されやすい時期でもあります。
無条件に楽しく、喜びも大きく感じられます。
この時期の記憶が残っていると、高齢で認知症があっても、比較的ADL(日常生活動作)が保たれやすい。
そして自分が何者かという認識が失われないので、機能が落ちても、不安感が少ないのです。
そのため10~15歳の記憶を意識的に思い出し、守ることが認知症や介護予防の改善につながります」
☆子世代が親の昔話を聞いてあげるのが理想的
子世代にとっては、自分が生まれてからの親しか知らない。
何もかも知っているようでいて、親が子供だったことを想像したことさえない人も多いかもしれない。
「自分の個人的な出来事を思い出して話すには、聞き手は家族、特に実子が理想です。
療法でやるように、思い出を引き出そうなどと、技にこだわる必要はありません。
親との共通の思い出として、自分の子供時代の思い出を語り合って、
“お父さん、お母さんの子供時代はどうだったの?”と、
要はおしゃべりを楽しめばよいのです。
特に高齢男性は、長年仕事の世界で生きてきて、
自分の子供の頃のことを人に話す機会も、人から聞かれる機会もほとんどなかったはず。
それだけに心療回想法を行う現場で、
彼らが思い出をよみがえらせた時の喜びようは、女性以上です。
ぜひゆっくり昔話を聞いてあげてみてください」・・》
注)記事の原文に、あえて改行など多くした。
私は記事を読み終わった直後は、10~15歳の当時を思い馳せて、独り苦笑したりした。
私は小学5年の頃まで、劣等感と卑屈にさいなまれ、いじけた可愛げのない屈折した児であった。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。
この当時の私は、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けられていた。
何かと平素は無口の癖に、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さん対しても、私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして父の妹でこの当時未婚だった叔母も驚いていた・・。
これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。
このように私は、小学生、中学生の時代は劣等生であり、できれば消しゴムで消したいが、
こればかりはなぁ・・と苦笑したりし、あまり思いだしたくないのが本音である。
或いは私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭であり、
《・・子が親の10~15歳の当時を聞く・・》ことも、叶わないので、困ったなぁ・・と微苦笑したりした。
私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。
こうして歩く時の私は、紳士バックを園児のように斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりして、記憶のかたみとしている。
このように歩いていると、ほぼ1キロを15分ぐらいであるので、
やはり時折、足早に歩いたり、或いは意識して、大股で歩いたりしている・・。
或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらくねぇ・・、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビールか水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。
ときおり国内旅行を私たち夫婦は幾たびか重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
しかしながら、今年の
こうした日常生活をしているので、認知症になるのは勘弁して欲しい、と祈願しながら、
歩く時もあり、認知症の予防のひとつかしら、と微笑んだりする時もある。
私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。
こうした中、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
私は独りで外出して、 自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、
季節のうつろいを享受している。
こうした時は、殆どコンバクト・デジカメをネクタイのように首回りから下げて、
颯爽と歩き、 歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。
過ぎし2004(平成16年)年の秋に定年退職する一か月前、
家内から定年退職の記念品として、何か買い求めたら、と私は言われたりした。
私は若き1960年〈昭和35年〉の春に、都心の私立の高校に入学して、
クラブとしては写真部に所属し、人を写すポートレートは照れ臭いので、 風景画に専念し、
現像などを含めて、ニコン、キャノン、アサヒベンタックスなどのフィルム一眼レフのカメラから、
写しだされる奥行、深さも少しは学んだりした。
その後のサラリーマン時代の多忙の時代は、フィルムのコンバクト・カメラで、
ともすれば忘れるので、記憶のメモ代わりに撮ったりしてきた。
そして定年後は、やむなく年金生活を予定していた私としては、
一眼レフのカメラだと、 レンズの買い増しなどの購入などでエスカレートすると費用も際限なくなるので、
やむなく断念し、 この当時としては高質とされていた800画素でズームレンズのあるカメラ一体型で、
程ほどの良質なキャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定することとした。
結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
総合教養雑誌の『サライ』でも賞賛されていたコニカミノルタの『DIMAGE A2』とした。
そしてデジカメ本体に、カメラ・ケース、充電器、リチウムイオン電池の予備、
記憶媒体はCF(コンパクト・フラッシュ)であるので、512MBを購入し、確かこの当時30万円を超えた。
このデジカメは、ズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
周遊観光などに参加した場合は、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフのレンズ交換を考慮すると、
確かに私のデジカメは構図が素早く決められ、機動力がある、と秘かに思ったりしていた。
この後もデジタルカメラの進化は、周知のとおり日進月歩となり、
技巧も乏しい私でも、新たなカメラに魅了されて、ニコンの『クールピクス P510』を買い求めた後、
現在は三代目のパナソニックの『LUMIX(ルミックス)DMC-FZ1000』となっている。
こうした中で、年金生活の午前中のひとときは、殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲を散策していると、
季節の移ろいに魅了され、一期一会かしらと思いながら、情景を撮ったりしてきた。
或いは家内と共通趣味の国内旅行を幾たびも重ねる中、
その地の情景に圧倒的に魅せられて、撮ったりしてきた。
恥ずかしながら私は、齢を重ねるたびに忘れることもあり、やむなく記憶のかたみ、として撮り続けてきた・・。
そして過ぎ去った日々の写真を見たりすると、あんな情景があったのか、と愛惜を重ねたりしている。
何よりも驚いたのは、10年前の65歳だった私の表情が若く、 こればかりは・・と独り微苦笑をしたりしてきた。
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接している調布市の片隅みに住み、
生家も近く、この地域には結婚前後5年を除き、70年ばかり住んできた。
私は今住んでいる処は、私の生家も近くにあるので、
私自身としては結婚前後の5年を除き、 この地域に住んで、早や75年近くとなっている。
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。
いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、 たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
私は民間会社のある会社で35年近く奮戦し、
2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、 多々の理由で年金生活を始めたが、
平素の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。
そして家内から依頼された品を求めて、私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。
最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、
季節のうつろう情景を眺めたり、 歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、
原則として路線バスに頼らず、 ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。
そして買物メール老ボーイの責務を終えた後、帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
そして70代の5年生して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、 ときおり願いながら歩いたりしている。
こうした中、我が家の近くに野川が流れていて、両岸は遊歩道があり、
私は年金生活の身であり、 散策として殆ど毎日のように歩いたりして、
季節のうつろいを享受して、ときおり情景を撮ったりしてきた。
このようなデジカメの技巧も知らず、拙(つたな)い感性を頼りに撮ったりしているが、
私のその時の心の軌跡の記録でもあり、ともすれば見た情景を忘れることもあり、
記憶のかたみであり、もとより自己満足の世界の写真となったりしている。
或いはブログの投稿文に於いて、 乏しい筆力を補(おぎ)いながら、
カット代わりに写真を掲載したりしている。
こうした私の写真なので、何年たっても進歩のない写真だ、と微苦笑したりしている。
私は民間会社に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えた後、
多々の理由で年金生活を始めて、丸15年が過ぎ、早や16年生の身である。
私たち夫婦は子供に恵まれず、たったふたりだけの家庭であり、
そしてお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、
ささやかに過ごしている。
こうした中、東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後40数年の古惚けた戸建に住んでいる。
そして私の生家も近くにあり、私自身としては結婚前後の5年を除き、
この地域に住んで、早や70年となり、この地域の原住民かしらと思う時もある。
こうした中で、最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となっている。
そして私が長年通勤で利用した小田急線の『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。
いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は恵まれて、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内までに45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
こうした中、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、
政府より「 不要不急の集まり」を避けるよう公言されている。
私は体力の衰えた高齢者の身であるので、散策を日々実行しないと益々衰えるので、
なるべく人出の少ない処を選定して歩いたりしている。
そして原則として、電車はもとより、駅までの路線バスなどは乗らず、
自宅から3キロ範囲にある遊歩道、公園、住宅街を歩いたりしている。
ある日には『成城学園前』方面、或いは小学時代に通学した旧街道、
そして中学時代に通学した住宅街の中の市道を歩いたりしている。
そして時には、遊歩道の北方面、西方面、或いはそれぞれの最寄り駅までの、
人影が少ない処を選んで、歩いたりしてきた・・。
そして駅前のスーパーで買い物をする時は、やむえなくマスクをしているが、
何かしら水戸黄門さまの紋章のようなワッペンの『不要不急』に戸惑ったして、過ごしている。
こうした中、小池都知事が、都民に新型コロナウィルスの感染拡大を避けて、
当面として、5月6日までは「 不要不急の集まり」を避けるようして下さい、
と報じていた。
私は2月の初旬より何かしら新型コロナウィルスの感染を避ける為、
公共の交通機関の電車、路線バスも乗らず、ひたすら人影の少ない処を選定して歩いてきたので、
5月6日をピークに新型コロナウィルスは終息化に向かっていく、
と思い深め、コロナ疲れにあともう少しだ、と自身を叱咤激励をしたりしてきた。
しかしながら私は、2012年にノーベル賞を受賞された京都大学iPS細胞研究所所長されいる山中伸弥さんが、
京都新聞のインタビューに於いて、
『・・1カ月だけの辛抱だと、多くの人が思っている気がする。
僕は専門家ではないが、かなりの確率で1カ月では、元通りにならないと確信を持って言える。
継続して我慢していかないと駄目だ。中国や米国の状況を見ていてもそう思う・・
感染者の拡大が収まるには、ほとんどの人が感染して、集団免疫という状態になるか、
ワクチンや治療薬ができることだが、1年ではできないのではないか。
最低1年は覚悟しないといけない。・・』
このようなことを学び、少なくともあと一年「 不要不急の集まり」は我慢かょ・・
友人、知人と仲良しグループの懇親会も、延期だね・・と私は落ち込んだりした。
こうした中、私の住む調布市に於いては、午前の11時頃と夕方の4時45分頃、
わが家の近くの高い丘にあるNTT研修所の高いビルにある拡声器から、
若い溌剌とした女性の声が、流れてくる。
『調布市から連絡します。
現在、新型コロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言が発令されています。
症状がない人も感染を広げる危険があります。
不要不急の外出と、密閉・密集・密接、3つの密は避けましょう。
一人ひとりの命を救うために、皆様の御協力をお願いします。』
このような外出自粛を要請する防災行政の公報となっている。
こうした公報を聴くたびに、たとえ新型コロナ『自粛疲れ』となっている高齢者の私でも、
市民のひとりとして、お互いに協力しあえれば、新型コロナウィリスの感染が防止でき、
やがて沈静化となり、明るい未来が訪れる、と何かと単細胞の私は微笑んでしまう。
いつの日にか、新型コロナウィリスが終焉化になる時まで、
国内旅行は断念して、私は相変わらず我が家の買い物を二日に一回に集約化とし、
散策は殆ど毎日のように人出の少ない処を選定して歩き、やがて帰宅後は読書を深める・・。
そして敬愛している作家・塩野七生さんの未読の『ローマ亡き後の地中海世界』(新潮文庫・一巻~4巻)を、
過ぎし日に買い求めてきたので、どのような幾つかの国家の興亡があったか、
たまたま新型コロナウィリスで翻弄されている私たちの現生、未来の参考になるかしら、
と思いながら、読み始めている。
こうした中、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、
政府より「 不要不急の集まり」を避けるよう公言されている。
私は体力の衰えた高齢者の身であるので、散策を日々実行しないと益々衰えるので、
なるべく人出の少ない処を選定して歩いたりしている。
しかしながら駅前のスーパーで買い物をする時は、やむえなくマスクをしているが、
何かしら水戸黄門さまの紋章のようなワッペンの『不要不急』に戸惑ったして、過ごしている。
こうした中、小池都知事が、都民に新型コロナウィルスの感染拡大を避けて、
当面として、5月6日までは「 不要不急の集まり」を避けるようして下さい、
と報じていた。
私は2月の初旬より何かしら新型コロナウィルスの感染を避ける為、
公共の交通機関の電車、路線バスも乗らず、ひたすら人影の少ない処を選定して歩いてきたので、
5月6日をピークに新型コロナウィルスは終息化に向かっていく、
と思い深め、コロナ疲れにあともう少しだ、と自身を叱咤激励をしたりしてきた。
しかしながら私は、2012年にノーベル賞を受賞された京都大学iPS細胞研究所所長されいる山中伸弥さんが、
京都新聞のインタビューに於いて、
『・・1カ月だけの辛抱だと、多くの人が思っている気がする。
僕は専門家ではないが、かなりの確率で1カ月では、元通りにならないと確信を持って言える。
継続して我慢していかないと駄目だ。中国や米国の状況を見ていてもそう思う・・
感染者の拡大が収まるには、ほとんどの人が感染して、集団免疫という状態になるか、
ワクチンや治療薬ができることだが、1年ではできないのではないか。
最低1年は覚悟しないといけない。・・』
このようなことを学び、少なくともあと一年「 不要不急の集まり」は我慢かょ・・
友人、知人と仲良しグループの懇親会も、延期だね・・と私は落ち込んだりした。
本日も午前中のひととき、人出の少ない処を選定して歩いたりしている。
こうした中、ベンチに座り、休息していた時、これから首都圏はどのようになるだろうか、
ぼんやりと思い馳せたりした・・。
やがて昨夜、公式サイトの【 ディリー新潮 】で、
『 コロナ対策で「小池知事」の魂胆 ロックダウンであなたの仕事はどうなる 』
と題された記事が蘇(よみがえ)ってきた・・。
この記事は、公式サイトの【 ディリー新潮 】で4月14日に配信され、
記事の大半を無断であるが転載させて頂く。
《・・(略)・・都政担当記者も首肯する。
「都内には、首都圏の各県から1日約280万人が通勤・通学しています。
いまのところ、小池知事も通勤の自粛までは要請していませんが、
都内の感染者が3ケタを超え続ければ、話は別です。
小池知事は、何より世論の吹かせる“風”に敏感で、7月には都知事選を控える身。
自身の人気取りのためならば、他県から都内に通勤する人々を含めた“往来の自粛”要請に踏み込むかもしれない。
緊急事態宣言を受けて、都が講じる措置には罰則こそありませんが、
小池知事が“首都封鎖”、つまりは事実上の“ロックダウン”を指示する可能性は否定できません。
そうなれば、3月の3連休に、いち早く兵庫との往来自粛を呼びかけた、吉村洋文大阪府知事が追随する可能性もある」
“伝家の宝刀”を得れば、抜きたくなるのが人情だ。
東京が“鎖国”状態に置かれれば、経済的な損失も甚大だ。
ニッセイ基礎研究所・シニアエコノミストの上野剛志氏によると、
「ロックダウンといっても、イタリアやアメリカのように罰則を伴うほどの厳しい効力はありません。
ただ、緊急事態宣言以上に経済活動が、かなり制約されるのは間違いない。
2016年度の東京のGDPは約105兆円で、日本全体の19%を占めます。
仮に、自粛による休業で都内の経済活動のうち3割が止まると、1カ月で2・6兆円が失われてしまう。
同じく緊急事態宣言が出された神奈川・埼玉・千葉の3県に東京を加えれば、
1カ月で4・6兆円のマイナスとなります」
加えて、東京には1部上場企業の5割強が“本社”を置いているそうで、
「各企業の意思決定や、事業所間の調整などは、本社が司っている。
東京一極集中の弊害でもありますが、本社機能が停滞すれば、日本経済全体への悪影響はさらに拡大するでしょう」(同)
実際に“首都ロックダウン”が強行されると、われわれの生活に多大な影響が及ぶことも避けられない。
すでにオフィスを閉鎖してテレワークに切り替えている企業も少なくないが、
一方で、いかにコロナが猛威を振るおうと、現場を離れられない仕事もある。
その最たる例を示すヒントが、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画」に定められた、
「特定接種」の登録事業者だ。
これは、2009年の新型インフルエンザ大流行を受け、今後のパンデミック発生を念頭に策定されたもので、
登録事業者で働く人々は、優先的に数に限りのあるワクチンの予防接種を受けることができる。
なかでも、病院や介護事業、助産所といった命を預かる仕事は、やはり優先順位が高い。
続けて、鉄道、電気、銀行、航空管理、水運、通信、上下水道、
郵便など〈国民生活の安定に寄与する事業者〉が並んでいる。
ちなみに、NHKや〈民間放送〉、〈新聞〉は含まれるが、〈出版社〉や〈週刊誌〉は選外のようである。
他にも、食品やトイレットペーパーなどを扱うスーパーにドラッグストア、火葬場なども登録されている。
だが、逆に言えば、こうした職種は、疫禍による非常時でも休めず、
〈活動を継続する〉ことが求められるのである。
これ以外の企業の活動や通勤には、強烈な自粛要請や指示の圧力がかかり、
働きたくても働けない人が出てくる恐れもある。
他方、渋谷区在住の男性会社員はこう語る。
「区の教育委員会から、緊急事態宣言の期間中、区内の学童保育を閉じるというメールがありました。
気になったのは、両親が警察や消防、自衛隊、病院に勤めている家庭だけは、
例外的に子どもを預かるという記述です。
これ以上、コロナの感染が拡大すれば、そうした職業の人たちが
深夜や早朝に緊急招集されることもあるのだと感じました」
トランプ大統領など欧米の指導者は、コロナとの闘いを戦争に喩えたが、
日本も“戦時下”の様相を呈しつつある。
このまま事実上の“ロックダウン”が現実のものとなり、小池知事が徹底した外出自粛を要請すれば、
「生活必需品を扱う業界以外は、軒並み影響が避けられないと思います。
景気ウォッチャー調査でも、特に旅客交通、飲食、百貨店の落ち込みは深刻。
さらに、商店街や衣料品、レジャー施設も厳しさを増します」
とは、第一生命経済研究所の首席エコノミスト・永濱利廣氏である。
経済ジャーナリストの荻原博子氏も同じ見解で、
「緊急事態宣言が出された以上、たとえ法的な強制力がなくても都知事の言葉の重みは増します。
そのため、消費者から“こんな状況なのにまだ営業しているのか”と批判されることを恐れて、
企業は自粛へと傾いてしまう。
ホテルも大変なようで、キャンセルの電話が鳴りっぱなしだとか。
しかも、キャンセル料を請求しようものなら、
“せきが止まらないんですが、行ってもいいんですか?”と言われるみたいです。
コロナに乗じたカスタマーハラスメントも後を絶ちませんよ」
ファイナンシャルプランナーの深野康彦氏は、今後、国民が耐え難きを耐える生活を強いられると危惧する。
「すでに派遣切りや新入社員の内定取り消しも起きています。
リーマンショックの直後には冬のボーナスをカットしたり、半減させる企業が相次ぎました。
今回のコロナショックでも同様に、夏のボーナスが減額されかねません。
また、昨年は好業績でも、人員を削減する黒字リストラが流行りましたが、
今後は赤字企業による不況型リストラが増える。
会社が倒産しかねない状態なので、早期退職金の積み増しも望めません」・・》
このようなことを思いだされて、誰しも最悪な事態のことも備えなければならない、
と生存の鉄則を思い重ねたが、無力な私は溜息ばかり重ねた。
やがて帰宅後、新型コロナの『緊急事態宣言』全国拡大に伴う詳細ニュースを
テレビが報じて、これからどうなるのょ・・と無力な私は、うつろな表情で微苦笑をしたりした。
私は民間会社に35年近く奮戦してきたが、定年退職を迎えたのは2004年の秋であったが、
最後の5年はリストラ烈風の中、私は出向となったのは55歳の時であった。
やがて私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。
そして、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。
そして何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、敗残者のような深情で年金生活を始めた・・。
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、早や丸16年が過ぎている。
私は東京の調布市の片隅に住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒家に住み、ささやかに過ごしている。
今回、《・・「75歳年金法案」・・》って、どのようなことですか、と思いながら、記事を精読してしまった。
この記事は、公式のサイトの【 日刊ゲンダイ 】に4月15日に配信され、
無断であるが、転載させて頂く。
《・・なぜ、安倍政権は、この非常時に審議を急ぐのか――。
14日「年金制度関連法案」が衆院本会議で、審議入りしたことに批判が噴出している。
法案の柱のひとつは、現在、60~70歳の間で選べる年金の受給開始年齢を、
2022年4月から60~75歳に拡大させるというもの。
年金の受給開始を75歳からでもOKにしようというものだ。
公的年金の受給開始は65歳が基本だが、
75歳から受け取ると、65歳開始に比べて毎月の年金額は84%増える。
安倍首相は「すべての人の生活安定につなげる」と、この国会で成立させるつもりだ。
しかし、新型コロナが蔓延しているのに、
不要不急の「年金法案」を審議している場合なのか。
しかも、年金法案の担当は、コロナ対策に忙殺されている厚労省である。
この時期に「年金法案」を審議しようとは、安倍政権は、なにを考えているのか。
立正大名誉教授の金子勝氏(憲法)はこう言う。
「日本中が、コロナ一色になっている今こそ、審議するチャンスだと計算したのでしょう。
平時に審議したら、年金法案に国民の注目が集まり、批判が噴出すると考えているのだと思う。
実際、この法案は問題が多い。
政府の狙いは、年金受給開始を75歳からにすれば、受給額が84%も増えるとアメ玉をちらつかせることで、
高齢者をいつまでも働かせることでしょう。
安価な労働力を確保できるうえ、75歳までに死亡すれば、国は年金を払わずに済みますからね。
そのうえで、いずれ年金の受給開始を現在の基本65歳から、68歳、70歳と引き上げるつもりなのだと思う。
今回の法案は、その布石でしょう」
しかし、本当に75歳から受給したほうが得なのか。
従来通り65歳から受け取った場合と、75歳から受け取った場合、
年金が同じ額になるのは、86歳だという。
つまり、86歳まで長生きしなければ、75歳から受給を開始するとマイナスだということだ。
野党は「コロナ対策に集中すべきだ」と、この年金法案の審議は突っぱねるべきだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は2004年(平成16年)の秋に、定年退職を迎え、上記に記したように年金生活を始めたので、
年金法案に関して語る資格はないが、少しばかり「75歳年金法案」の感じたことを記載する。
《・・年金受給開始を75歳からにすれば、受給額が84%も増えるとアメ玉をちらつかせることで、
高齢者をいつまでも働かせることでしょう。
・・安価な労働力を確保できるうえ、75歳までに死亡すれば、国は年金を払わずに済みます・・》
財務省、厚労省は社会保障費の財源が逼迫する中で、こうした策で年金財源も安定化する
ひとつの策と感じたりした。
しかしながら年金を初めて受け取る御方の立場に立てば、
《・・従来通り65歳から受け取った場合と、75歳から受け取った場合、
年金が同じ額になるのは、86歳だという。・・》
こうした中で、75歳から受け取る老化した身体、思考能力・・想像すれば、
75歳近くまで働きづくめで、残された安楽な老後の年金生活は・・
と選択された御方の人生航路を思い馳せ、ただ溜息ばかり重ねて居る。