夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

1月の睦月(むつき)も早や過ぎて、 齢ばかり重ねた私でも、愛惜を深めて・・。

2014-01-31 14:43:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、月末の31日かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
過ぎ去ってしまえば、齢を重ねるたびに早く感じたりしている・・。

新たな年を迎えた時は、ここ9年ばかり恒例行事のように、
家内の母を昨年の29日に我が家に来て頂き、私たち夫婦と共に過ごして新年を迎えて、
3日まで過ごしたりした。

こうした中で、『御節(おせち)料理』のような真似事の数々の単品料理を頂き、
居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、談笑することが多かった。

新年の三が日の朝は、お雑煮を頂いたが、昼食の時は大根(ダイコン)を下(お)ろして、
お醤油をかけて、温かい白米のご飯にのせて食べたりした。
そして最も素朴な食べ物で、この世で最も贅沢な主食と感じて、頂いたりした。

我が家は『しめ飾り』、『門松(かどまつ)』に関しては、略している。
35年前の新築した初めて年末には、スーパーで『しめ飾り』、ミニ『門松』を買い求めて、
門扉、玄関に飾ったりしたが、
北風の強く吹いた時、あえなくミニ『門松』は吹き飛ばされて、
呆れ果てた私はこれ以来断念したりした。

そして我が家は簡素な『お正月飾り』で徹してきた。
年末近い28日に、家内は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、
和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりしている。
          
             ☆我が家のお正月飾りは、家内が中学生の頃から茶事を学び、
              たまたま裏千家の流派で、お正月の祝いのひとつの品に準拠して、
              左側にあるひとつばかりの品を代用し、簡素としている☆

そして少し寂しいので、スーパーで売っている可愛らしい『鏡餅』を買い求めて、
居間にあるテレビ台の横に置いている。


新年に初めて昇ってくる太陽を拝(おが)む『初日の出』は、
私は平素の日々、朝のひとときに陽射しに向って両手を合わせて、感謝をしているので、
改めて新年に拝(おが)むようなことはしない。


2日は『書き初(ぞ)め』の日と古来から伝えられているが、
私は小学生の『習字』の授業の時、通信簿『2』の劣等生の採点をされ、
これ以来、毛筆、鉛筆、万年筆、サインペンなどで字を書くのは苦手となっている。

そして冠婚葬祭などで署名で困苦する体験を重ねてきたので、『書き初(ぞ)め』は論外となっている。


しかし正月の2日の夜に見る『初夢』は、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられ、毎年享受している。

もとより夢は貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物〈たまもの〉と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。


やがて7日の『七草粥(ななくさがゆ)』は、我が家は無縁となり、
私は平素の一汁三菜の朝食を頂いたりしてきた。

私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚、ラッキョの塩漬け・・
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、頂いたりした。

そして家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いたりした。


こうした中で、三寒四温の中、近くの遊歩道、公園などをひたすら歩き廻ったりしてきた。
          
そして私の住む地域は、昨年の12月頃から平年より寒かったので、
我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、
白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしたりしている。

或いは私たち夫婦は共通趣味のひとつが国内旅行であり、
たまたま1月13日より北海道の函館市の郊外にある『湯の川温泉』の観光ホテルに滞在して、
4泊5日で市内、周辺を散策し、遊学してきた。

過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じたりし、
毎年この季節は同じように巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は思い重ねたりした。
          
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさ、哀歓を若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも49年の歳月が流れている。
          
そして日常の日々こそ、何よりも肝要であり、
惰性に過ごすことなく、残こされた人生の日々を大切に過ごそう、
と私は自宅の付近を歩き、移ろう時節を甘受したり、思考したりして散策している。

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三寒四温の時節の中で、ときには南の風に運ばれて、早春を感じて・・。

2014-01-30 12:10:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私は東京郊外の北多摩郡神代村(現在・調布市の一部)に1944年〈昭和19年)の秋に生を受け、
結婚前後の5年ばかりを除き、60数年近く住んでいる。

こうした中で昨年の12月頃から平年より寒く、
我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしてきた。

もとよりこの時節は、過ぎしの5日に『小寒(しょうかん)』を迎え、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、その後の1月20日には『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と古来から伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月4日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

『寒の内』と称せられる『小寒』、『大寒』そして『立春』までの時節は、
旧暦であるので、今の暦に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、 私の住む地域でも、寒い時節となる。

こうした中で平年ならば、1月には小庭の片隅で水仙の花は咲き冬麗の美を感じ、 
                     
やがて2月中旬には白梅は凛とした純白の色合い、紅梅は華やかな朱紅色の色あいを見せてくれるので、         
早春の美だ、と思いながら毎年過ごしてきたのである・・。

ここ一週間の昼下りの時は、3月下旬のような16度前後の陽気に恵まれたり、
翌々日には6度前後の寒さの時もあったりして、
やはり三寒四温の時節だよだねぇ、と心の中で呟きながら、微苦笑を重ねたりしてきた・・。

本日、先程の10時過ぎに自宅の付近を散策したりしたが、何かしら暖かさを感じたりした。
そして風もなく、早春のひとときを享受したりした・・。

そして自宅に戻ると、地元の天気情報は昼下がり14度の暖かさを迎えます、と報じられて、
私は天上の気候の神々の采配により、南の暖かな風に運ばれて、早春が訪れた、と思いを重ねたりした。


やがて2月下旬になれば、玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら10数輪ばかり咲き、
その後は澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)と、主庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らむ。

そして3月を迎えれば、予告もなく南の風が吹き、、
三寒四温は女の子の祝賀会の『桃の節句』で終わりにしてょ、と私は毎年心の中で願ったりしてきた。

その後、南の風が吹くたびに暖かさを増して、
一週間前を過ぎた頃から、主庭の水仙、白梅は満開となり、やがて紅梅に咲き、
我が家の小庭は遅ればせながら水仙、白梅、紅梅が彩(いろど)られてるのが、毎年の習わしとなってきた。
                     

果たして、この先の天上の気候の神々の采配は、どのようになるの、
と私は青空を見上げたりしている。

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ブログを知る前、パソコン用の専用ソフト『日記』の綴り文が消え、茫然とした苦い想いで

2014-01-29 14:56:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私がブログの世界を偶然に知ったは、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
まもなく学び、その後は原則として国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿し、
早くも9年半が過ぎている。

こうした中で、ときおり自身の過ぎ去った日の投稿文を読む時もあり、
あの時はこのような心情で過ごしていたのか、と独り微苦笑する時もある。
          
私は文章を綴ることが好きなので、ブログの世界を知る前に日記形式で綴っていた・・。

若き20代の頃は、原稿用紙のように升目のある分厚い日記帳、
その後は原稿用紙のノート型で綴ったりしていたが、いずれも手書きであった。

40代の頃からは、自宅に備えたワープロで入力し、フロッピー・ディスクに記憶させたりしていた。

これ以前として、私が初めてパソコンを購入したのは、 確か1983年(昭和58)年の頃であったと思われ、
NECのPC8801だったと記憶している。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、この当時はネットの世界が一般の方に普及していなく、
独学の勉強のひとつとして、新古今和歌集を入力したりしていた。
          

やがて1998年〈平成10年〉夏に、会社と自宅で使うので、パソコンを買い改めたりした。
ノートパソコンで『ウィンドウズ 98』の基本ソフトであり、この当時は付属の記憶装置はフロッピーであった。
そして自宅の居間で、表計算ソフトを活用して、会社の資料を作ったり、
或いは『日記』専用のソフトを買い求めて、私自身の日記を書いたりしていた。

しかしながらこの『日記』専用のソフトは、ハードディスクに記憶されて、
無念ながらバックアップの方法は、私は無知であった。
          

こうして3年過ぎた頃、このノートパソコンのハードディスクが壊れて、
修理にだしたが、無念ながら修整不能となり、やむなく新品のハード・ディスクに交換した。

この間、私は過ぎ去った日々の思いの散文が消え去ってしまったことに、茫然とした・・。
あの日の思いを真摯に綴ってきたのに、どうしてくれるのょ、と自身に対して、じくたる思いであったりした。
          
もとより私はハードディスクは故障することもある、と知ったりしていたが、
まさか我が身のノートパソコンが・・と思いで、後悔を重ねたりした。


こうした苦い私の出来事があり、インターネットの中でのブログの世界は、
私が数多くの投稿文を重ねても、プログを管理して下さる処理先のサーバーで記憶しているので、
たとえ私のパソコンを買い替えても、投稿文のサーバーで保管されているので、
簡単に復旧でき安心である。

しかし年に数度は、ネットの世界は不可解な出来事もあり、
プログ管理側のサーバーが万一故障し、修整不能となった場合に備えて、
私は加入ている【gooブログ】のバックアップ機能を活用し、バックアップをしたりしている。

こうした心情の根底には、10数年前に『日記』専用ソフトが消えてしまった苦い体験から、
保険代わりに実施しているのである。

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この人生、誰しも主役になれるのは結婚披露宴だ、と拙(つたな)い私は微苦笑して・・。

2014-01-28 15:26:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

本日の昼食後、私は居間にある本棚から一冊の本を探していたが見つからず、
書庫に行って探し求めたりした。

そして三畳ぐらいの書庫には4つばかりの本棚があるが、この中のひとつの本棚には、写真のアルバムが置いてある。
このアルバムは、私たち夫婦はこれまで人生を歩んできた中、程ほどに写真があり、アルバムに貼っている。
独身時代までは、それぞれのアルバムがあり、この後の結婚生活の中でも10数冊のアルバムがある。

そして本を探すのを断念して、6年ぶりにひとつのアルバムを取りだして、
和室の陽射しの差している所で、見たりした・・。

やがて私たち夫婦の結婚式、そして披露宴の数多くの写真を見たりして、
何かと定年退職するまでの半生は、劣等感や卑屈感を秘めてきた私は、
これまでの人生で『主役』になれたのは、結婚式の後の結婚披露宴だった、と微苦笑したりした。
             

誰しもこの人生は、生まれてきた誕生日、新たな家庭を築く両家の新郎新婦の祝賀会の結婚、
そしてやむなく亡くなった葬儀が、そのお方の人生の三大の出来事と称されてきた。

しかしながら私の場合は、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
両親、祖父、父の妹の叔母、そして長兄、次兄のもとで育(はぐく)まれたが、
もとより誕生した時は私は自覚がなかった。

そして今後の天上の神々の采配により、私がこの世と別れを告げた時の後、
葬儀の内容は家族葬を要望しているが、こうした時も命の果てた私には解らないのである。

こうした関係により、つたない私の人生で数多くの方たちの中、恥ずかしながら『主役』になれたのは、
新郎新婦の両家の結束を固める結婚式であり、
その後の数多くの知人、友人、親戚たちから祝賀される結婚披露宴だった、と私は思ったりした。
                          
私は小、中学時代は劣等生であり、高校時代には生まれて始めて授業の楽しさを覚えたりする中、
何とか優等生のグループになったりした。
そしてクラブは写真部に所属して、風景部門で最優秀を頂いたこともあるが、
これはクラブの部員の中で選定された、文化祭のセレモニーのひとこまに過ぎなかったのである。

やがて35年近くのサラリーマン時代には、わすか一度だけ社長から、社に多大に貢献したと、
表彰式を設けられて感謝状と共に金一封を頂いたこともあるが、
こうしたことも勤務して、たまたま期待された業務に命ぜられ、重責の中で奮闘したセレモニーである。

こうしたことは『主役』の範疇は、もとより対象外のささやかなイベントであり、
卑屈で何かと劣等感が多い人生を歩んできた私は、
『主役』になれた結婚披露宴の若かった私、新妻のだった家内、知人、友人たち・・
それぞれのしぐさ、言動を思い馳せて微苦笑をしたりした。

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シニア世代のブログ、高齢者の私はそれぞれのお方の思いを深く教示されて・・。

2014-01-27 13:46:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、年金生活をしている・・。

年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
                    
私が初めてブログの世界を知ったのは、定年後のまもない時であった。
我が家に於いてインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、
友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったのである。
          

私は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑としてコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを活用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の環境には、驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
                    
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風に綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
          
私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに社会、政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
          
          
そして私は、2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

タイトル名の『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』に於いて、
~団塊世代のひとりとして~、と副題をしたのは、
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、
それぞれの時代の苦楽を共にした心情があった。

こうして歳月は流れ、その後は幾つかのブログ・サイトに彷徨(さまよ)いながら加入して、
何とかこの【gooブログ】サイトに定着したのは、2008年〈平成20年〉5月であった。
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸9年半が過ぎ、10年生となっている。
 

         
ブログの世界は特に匿名制度であり、そして無料ブログサイトが隆盛となって、
2000万前後の方が利用されている、と私は思ったりしている。
そして自由に、それぞれのお方が投稿文に於いて、それぞれの思いを託して、投稿され、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の愛読者は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。
         

これまての私は丸9年半に及び投稿してきたが、私自身の幼年期から現役時代、そして年金生活の日々の思い等を
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切なのである。

従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、
と言っても差し支えない。
          
しかし誰しも光と影を有しているので、つたない私でも光と影があり、
特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば、私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
私たち五人の子供は成人したこと。

又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みを吐露(とろ)しなければ、この先の人生を生きて行くことはできない、
と思い発露してきたのである。
                

しかしながら私は、どうしても表現できないこともある。
このことは私の人格さえも問題視されることで、感情と理性の間を往還しながら、
ためらいながらも結果としては綴れなかったことがある。

たとえば、皇室の問題であり、天皇陛下、皇后陛下は限りなく敬愛しているが、
肝要の皇太子殿下、妃殿下のご夫妻に憂うことも感じたりしている。

或いは私の勤めた音楽業界のあるレコード会社に35年近くの中で、秘めたる事柄は、
守秘義務もないが、退職後の10年生となった今でも、心の礼節として綴れない。

そして格差の問題は歴然として、この世の中に各分野に露呈して現実があるが、
特に生活保護の難題は、綴れないのである。

          
私はこのサイトに於いて、政治、経済、軍事、社会を含めて、
専門知識のない感情だけで吐露(とろ)し、独断と偏見で、
直球とかカープで余すことなく筆力が乏しいまま発露してきたこともあったが、
ここ3年ぐらいは反省をまじえて減少している。

          
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは一年半前から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

こうしたささやかな思いで、つたない投稿文を繰り返して、早くもブログ丸9年半が過ぎている。
          

こうした中で、私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

          
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
          
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
                                     
こうした中で、50代から70代の多いシニア世代に於いて、
『にほんブログ村』に加入している方を中核に、多くのお方の投稿文を読ませて頂いている・・。

こうした投稿文は、政治、経済などの難題を書かれる方は少なく、
人生の後半期を過ごされる中、日常の日々の思いを、その人なりに発露される方が多い。

そして私は読ませて頂きながら、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしている。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を学びながら年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
                         
私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも2年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトである。

そしてこの一年半以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方も多く、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                    
              
私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプのひとりである。

このような事情で時間を要するので、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響し、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ数年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも30名のお方もいる。

こうした中で、それぞれの愛読させている方が、投稿文が途絶えると、
あのお方はどのようにお過ごしかしら、と思い馳せることもある。
                          
私がブログを書き始めて、丸9年半が過ぎたことになるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝を重ねたりしている。

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冬木立の情景に、限りなく心を寄せて、ひたすら歩けば・・。

2014-01-26 15:25:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

そして現役サラリーマン時代の時は、更に利便性の良い『成城学園前』駅を最寄駅と活用し、
年金生活の今でも、都心に買物に行く時、或いは国内旅行に行ったりする時は活用している。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
          
このような地域でも、私の自宅周辺は住宅が密集しているが、数分歩けば、
野川が流れ、この両岸には遊歩道があり、小公園もあり、住宅地としては緑が豊かである。

このような辺鄙な処に住み、私の生家に近くあり、
この地域に結婚前後の5年を除き、早や63年が過ぎている・・。
                     
          ☆今回掲載した写真は、本日の淡き陽射しの中、散策した時に撮った☆

私は農家の児として1944年(昭和19年の秋に生を受けて、
地元の小・中学を卒業するまでの間、何かと都心にあこがれて、ときおり行ったりした。

やがて都心の高校に入学したのは1960年(昭和35年)の春であり、
これ以来、青春期、青年期、自己格闘しながら都心から数多く学び、
長きサラリーマンの時代も都心で苦楽を共にして奮戦してきた・・。

そして2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

このような拙(つたな)い歩んできたが、年金生活を丸9年半が過ぎている今、
都心に対し齢を重ねるたびに興味がなくなっている。
          

定年後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
          

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主ぐらいはしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸9年半が過ぎている。
          
そして時折、庭の手入れをし、特に雑木が多く、季節の移ろいを的確に表現してくれるので、
時節のうつろいを改めて教示され、深めたりしている。

或いは地元の小・中学時代や都心の高校時代の友人たちと居酒屋など逢ったり、
男性の場合は、お互いに呼び捨てしているが、女性からはXXクンなどと私は呼ばれている。

そして家内との共通趣味のひとつは、国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から、数多く旅を重ねたりしているが、
定年後は旅程の制約から解放されて、5泊6日前後で観光ホテルに滞在し、
周辺を歩いたりして遊学している。

このような旅路が多いが、私たち夫婦がそれぞれ意欲と体力があるうちに、
ノコノコと出かけて歩き廻ることが多いのである。
          

こうした中で、本日は淡き陽射しの中、たまたま自宅の周辺を歩いたりした。

私は今年の秋に古希と称される70歳となるが、これまでの60代の日々は、
幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ自身の日頃のささやかな願いも叶わないこともあり、
実践のひとつとしては、何よりも怖いのは、痴呆症などであり、
これだけは回避したく、ひたすら歩いたりしている。

そしてせめて私が75歳、家内が70歳を迎えるまで、五体満足で生かして頂きたいと切望するが、
しかしこればかりは天上の神々の采配に寄ることである。
          
このような根底の願いもあり、この時節は冬木立に見惚れして足を止めたりしている。

やがて早春になれば、芽吹きの時節となるが、幼年期に農家の児として育てられた私は、
過ぎ去った日々に愛惜を重ねたり、
今の時節の冬木立から芽吹きの時節に圧倒的に魅了されて、歩き廻ったりしている。

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『本命チョコ・予算1000円以下が1位!』と昨今の風潮を学び、高齢者の私は好感して・・。

2014-01-25 11:19:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たちは子供に恵まれずたったふたりだけの家庭である。

そして2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりしているが、
ここ一週間前の頃から、最寄りのスーパーの入口の近くに、《まもなく、バレンタイン・ディー》と、
大きく書かれて、専用コーナーが設けられている。

そしてお洒落なチョコレートや可愛いチョコレートが30種類ぐらい並んで、
3000円とか1500円もあり、
過日、デパートのチラシの中には高価な15000円もあったりしていたので、苦笑したりした。

こうした風潮は確かに20数年前の頃からあったりしたが、
私の若き20歳の頃は記憶になかったので、私は大いに戸惑いながら、微苦笑させられた・・。

昨夜、たまたまネットの【YAHOO! JAPAN】の『雑誌』コーナーを開き、
読んでいたひとつの中に、『本命チョコ・予算1000円以下が1位!モテるには安チョコが効果的』と
題された記事を高齢者の私でも好奇心も隠せず、クリックしてしまった。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140124-00065341-jspa-life
☆【YAHOO! JAPAN】<==『雑誌』
       <==『女子SPA!』<==『本命チョコ・予算1000円以下が1位!モテるには安チョコが効果的』☆

私は無念ながら女性の『女子SPA!』は無知であったので、
こっそりとネットで調べると、《週刊SPA!が運営する「ちゃっかり生きる、賢い女性のホンネ情報サイト」》
と明示され、この記事を読み終わったこともあり、微笑んでしまった。

もしも私が25歳ぐらいの若き男性であったならば、
愛しき女性からは1000円ぐらいのバレンタイン・チョコレートを頂ければ充分だし、
何よりも食事をしたり、許される限り語り合いたいなぁ、と思ったりした。

こうした私の根底には、チョコレートには板チョクの深い思いでを秘めている・・。
          
私が1954年(昭和29)年の小学3年生になったばかりの時、私を可愛がってくれた祖父が死去した。
前年に祖父の長兄だった父が亡くなり、跡継ぎを失くし、
その上に祖父は病気となり、落胆した表情が少年の私さえ感じていた。

そして祖父、父が中心として、程ほどの広さの田畑を耕し、
多忙な時期は小作人だった人たちの助けも借りて農業をしていたが、
大黒柱の2人を失った生家では、長年の農業の技量の伝承が絶たれてしまったので、没落しはじめた・・。

こうした中で、母、父の末妹の叔母、長兄、次兄、私、そして妹のふたりが残された家族となり、
生活は困窮し始めた・・。
          
このような状況下の時、祖父の妹に当たる祖母のような心優しい人が、
何かと不憫に思い心配されて、とても私たちが日常生活で買い求めることのできない菓子などを持参してくれた。
その上、妹の2人には、何かと品を頂き、ときにはお揃いの洒落た下駄などを頂戴した。

この人が帰路する時、私は駅までの15分ぐらいの町道をこの方と共に歩いて、駅で見送った。
この少し前、このお方は私に、
『チョコレートでも買ってねぇ・・』
と私に百円玉ひとつを手渡して下さった。

この後、私は小汚い身なりであったが、駅前の商店街の菓子屋に行き、
まばゆい包装紙に包まれた一枚の板チョコレートを買ったりした。

そして私は駅前から急いで帰宅し、妹のふたりと割って食べたりした。

しかし恥ずかしながら告白するが、正確には私は少し大き目の3分の1であった・・。

あの家も貧乏になった、と少年の私さえ、近所の人たちの風の噂を聴こえたりしていたが、
この時ばかりは妹2人と食べあった板チョコは、この時は何かしら貧乏のことも忘れさせてくれた。

こうした体験を秘めた私は、たった一枚の板チョコレートであるが、
ここ5前の頃からのベルギー産の高級品、宇治抹茶生チョコなどのチョコレートより、遥かに美味しく感じられるのである。

そして私にとっては、たった一枚の板チョコレートでも人生観を変えることがある、
と思ったりしている。


私が定年前の現役サラリーマン時代は、家内からは程々に高価なハート・マークのような品を頂いたが、
定年退職後の年金生活になると、なぜかしら板チョコが一枚となったのである。

そして4年前に高齢者入門の65歳となり、このお祝いのせいか、
ミルクチョコレート、ブラックチョコレート、ホワイトチョコレートの板チョコ3枚に昇格し、
これ以来、板チョコ3枚が毎年の恒例となっている。

日常の買い物担当の私は、最寄りのスーバーで買い物をしている時、
板チョコを見かけたりし、ときおりブラックチョコレートを買い求めて、食べたりしているが、
特売の一枚80円前後の限りなく愛惜ある板チョコである。

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都知事選、私は期日前投票して、早や清き一票を終えて・・。

2014-01-24 15:42:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
結婚前後の5年間を除き、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に66年近く住んでいるが、
昨日の夕方に調布市選挙管理委員会より、都知事選の『投票所入場整理券』が郵送されてきた。

そして夜のテレビニュースで、来たる都知事選の立候補者が告示されたのを改めて学び、
投票日は2月9日、と確認して私は微苦笑を重ねたりした・・。

私は昨年の12月中旬に、2月初旬から中旬まで国内旅行を予約していたので、
初めて投票日が2月9日と知った時、やむなく『期日前投票』をしょうと決意していた。

そして『期日前投票』は、本日の24日の金曜日よりできると知り、
昼のひととき、私は調布市役所の指定された場所で、早や都知事選の清き一票を投じた・・。
          
              ☆ 調布市役所の寸景 ☆

私は二十歳以来から、有権者の身でありながら投票されない人は、
都政に対して、日常生活で不満があっても発言権がない、と固く信じているひとりである。

もとより日本は民主主義の国であるから、
都知事選の立候補者に対して多少の不満があっても、立候補された中で選択をせざるを得ない。

しかしながら私は、恥ずかしながら東京都の行政も無知に近いひとりなので、
立候補者の公約などを新聞で読んだりし、
この人だったならば、今後の東京都の4年間の行政の首長として、託(たく)すことができるかしら、
と思いながら立候補者の氏名を記載した。

やがて有権者の判断の結果、今後の都政、そして日本の国政にも首都・東京は影響が多大なので、
有権者の責任も重いが、何より有権者から託(たく)された都知事となる方の言動は重責である。
          

昨今の争点として原子力発電所の問題があり、脱原発を公言される方は、
電力確保の安価、安定の対応策を具体的に提示できなければ、無責任であり、
都民の代表の首長としては失格である。

その上、2020年東京五輪・パラリンピックへの対応、
発生が予想される首都直下地震への備え、少子高齢化への対応など難題が山積している。

もとより選定された知事は、冷静に難題を解決させる実行の行政手腕が問われ、重責である。
その上に、主要国の知事との国際交流の責務があり、教養の知性も問われる。

私は立候補者の中で、ひとりのお方を記入したが、
投票日の2月9日の投票期限時間の午後8時前に公開するのは、心の礼節として記載できない。

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平素の買物担当の私、ときには冬晴れの暖かな中、遊歩道を歩き・・。

2014-01-23 13:20:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
2004年(平成16年)の秋に定年した後、自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

今朝、冬晴れの暖かい日に恵まれて、
昨日は買物専用のキャリーカーで、我が家としては多めの買物の責務を果たした私は、
のんびりと付近の遊歩道を散策しょうかしら、と思ったりした。

家内と朝食を頂いた後、家内はさりげなくスーパーのチラシを見ていて、
『あらぁ・・ゴールドブレンド、特売日だわ・・行って下さると助かるわ・・』
と呟(つぶや)くように言ったりした。

『それぐらいだったら楽勝・・行ってきます!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないような元気な声で応(こた)えた。

結果として、家内から指定されたスーパーのチラシを受け取り、
牛乳を追加されて程度で、散策のついでにスーパーに寄ればよいわ、
とカメラを首回りから提げて、青空の暖かな8度前後の中、付近に流れている野川の遊歩道を歩いた。

そして遊歩道と車道の樹木帯を眺めたりすると椿(ツバキ)が咲いていて、
冬の花として好きなひとつであるので、記念として撮ったりした。
          

やがて橋を渡り、対岸の遊歩道を北上すれば、暖かな陽射しの中、
こうした平素にのんびりと歩くことができるのは、年金生活の身で許されることであり、
幸福感につつまれて享受したりした。
          

やがて小公園に立ち寄り、冬木立の情景に長らく眺めたりした・・。
          

私は幼年期は農家の児として育てられたので、こうした情景が心身安らぐのである。
          

そして30分ぐらい陽当たりの良い所にあるベンチに座り、
私としては、この世で一番贅沢なことのひとつの時間を享受した・・。

やがてベンチから離れて、買物先の指定されたスーパーに向い、歩きだした・・。
          

このような平素の散策、買物に出かけたりしているが、
現役のサラリーマン時代の多忙期からは、もとより私にとっては夢のような時で、
年金生活のひととき甘受している。

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『SIMフリー端末』って何なの、と高齢者の私は戸惑いながら、微苦笑して・・。

2014-01-22 12:19:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の21日の朝、購読している読売新聞の朝刊を読んだりしていた・・。

そして17面の【家計】のトップ記事に、
《「SIMフリー端末」使い
      スマホ料金 節約術 》
と大きく見出しされ、恥ずかしながらスマートフォンに無縁な私しでも、
『SIMフリー端末』って何なの、と何事も好奇心を失くしたら、この世は終わりだ、と信条している私は、
この記事を読んでしまった。

愛敬珠樹・記者の綴られた記事を無断ながら、転記させて頂く。
《スマートフォンの利用機会の増加に伴い、通信料金がかさんで困っている人も多いりでは。
最近は、割安な通信料金の「SIM(シム)フリー」スマホを利用する人も増えている。
端末を事前に用意する必要があるうえ、通常の音声通話ができないなどの制限もあるが、
うまく使いこなせば通信費を節約だきる。》

と序文を明記された後、
《 『LETスマートフォン、従来の携帯電話、SIMフリースマホの月額料金の違いのイメージ』表が、
掲載されている。

SIMフリースマホの場合・・・データー通信980~1980円と315円+通信料

従来の携帯電話の料金・・・・・4862円

LETスマートフォンの料金・・7564円 

》と図表が提示されて、確かに『SIMフリースマホの場合』はお廉(やす)くなっている。

そして下段には、『主なSIMフリースマートフォン向けの通信サービス』表が、
掲載されていた。
        
通信サービス会社         データ通信料    データ量上限       初期費

NTTコミュニケーション       980円    30MB/日     3150円

BIGLOBE               980円      1GB/日     3150円


このように通信サービス会社の4種類が表示され、私はデータ量上限の最小値、
そして最大値を掲載したが、
日毎に1GB(キガ)は1024メガバイトになるから、殆どの方は十分かしら、
と微笑んだりした・・。
          

こうした記事を執拗にこだわって読んだ理由は、今や無線の隆盛の時代を迎えたことに、
私は微苦笑させられたのである・・。

我が家は門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の配線下となっている。

そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。

そして電話、ネット、テレビも居間にあるNTT東日本の指定の可愛らしい制御装置で、
管轄されている。
    

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。

パソコンは主力機として『ウィンドウズ 7(セブン)』、そして昨年の12月に買い求めた『ウィンドウズ 8(エイト)』、
パソコンを設置している。
          

しかしながらフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。

私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
6年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。

こうした心情もあるが、我が家はすべて光ファイバー回線となっている上、
これから今回のようなお得の「SIMフリー端末」使い、本格的にスマートフォンを利用すれば、
少なくとも毎月10000円ぐらい加算されると思ったりした・・。

家内からすれば、毎月10000円あれば、私たちの国内旅行で年に一回の2泊3日間ぐらいはできます、
と断言されるはずであるので、
齢を重ねるたびに何かと気弱になっている私は、我が家は当面は無線の対応は無理だょなぁ、
と独り微苦笑したりしている。

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旅から帰宅後、ブログ投稿の完了まで、何かと慌ただしく過ごし・・。

2014-01-21 08:20:45 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
ときおり家内との共通趣味のひとつは国内旅行であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から日本の各地に四季折々に訪ねたりしている。

旅から帰宅すれは、愚図で齢ばかり重ねた私は、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。

もとより旅行は非日常の出来事で、平素の私は年金生活している中、
程ほどにのんびりと過ごしたりしている。

定年後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
          
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主ぐらいはしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸9年半が過ぎている。

そして時折、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内と国内旅行をしたりしている。
          

家内は旅行する前日、女優を引退された後に随筆家として著名な亡き高峰秀子さんのように、
台所を洗い清めたり、洗濯物も残さず、そして冷蔵庫の肉類、魚類、野菜物、牛乳など殆ど空の状況にしない、
と満足しないひとりである。


私たちは旅行の滞在日数が多い場合は、旅先の最終日に現地より旅行バックを宅配便を利用して、
自宅に送付することが多いが、
帰宅した直後は部屋に外気を入れたり、着替えたりした後、手荷物を開けたりしている。

そして煎茶、コーヒーを私が淹れた後、私は入浴したりする。
この間、家内は宿泊した売店、お土産屋さんで買い求めた漬物、或いは旅先でその地の特有な食べ物を皿に移して、
食卓に並べたりしている。

そして風呂上りの私は、旅先で購入した日本酒を呑みながら、漬物などを食べている間、
家内は入浴している。

その後は私たちは、旅先のこぼれ話を談笑したりする。

やがて旅の疲れもあり、家内は寝室に行き、寝てしまう。
そして私は、一昨年の晩秋頃からブログの投稿文に写真を添付しているので、
旅先で撮った写真をデジカメの記憶媒体からパソコンに移動させ、
パソコンの大きな画面を見て、独り微苦笑したりすることが多い。

こうしたことはコンバクトのデジカメの性能もあるが、何よりもデジカメの技量の乏しい私は、
撮った数多くの写真への心の思いは強いが、やはりこの程度かょ、と苦笑したりしている。
                                      
そして写真を見ながら旅行の投稿文を思案したりしている。
出来うる限り、綴りは紀行文の形式に準拠したく、内容、構成とかを配慮しながら、
苦心惨憺としながら綴ることが多い。

結果として、私は平素は毎日一通は投稿をしてきたので、
こうした制約もあり、やむなく短めの散文で写真を添付して、
ごまかしたような手抜き投稿文となってしまい、ときおり後日に再読し、苦笑したりしている。

しかしながら、せめてタイトル名には配慮したりしている。

もとより小説、随筆、映画などの場合は、タイトル名で内容を適切に凝縮した表現となるので、
私も拙(つた)ないなりの投稿文であるが、タイトル名は気にしているひとりであるが、
大半は失敗だった、と後日に後悔したりしている。
          

帰宅後の翌日は、家内は洗濯の合間に掃除をしたり、料理をしているが、
私はスーパーを2店ぐらい廻り、パン類、肉類、魚類、野菜、牛乳などを買い求めたり、
この間に、このブログサイトの投稿する内容を考えたりしている。

今回の旅は、たまたま北海道の函館市の郊外の湯の川温泉の観光ホテルに
1月13日より4泊5日であったが、何とか6通ばかり投稿し終わったのは、
昨日の20日であった。

この間にネットで毎日のように精読しているニュース、音楽業界のサイトを見たり、
このブログサイトで私が愛読している方の投稿文を数多く読ませて頂ただいたりしている。

このように私は、パソコンは自宅に置いてあるので、
帰宅直後から、ブログ投稿の完了まで、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。
          

家内は旅路から帰宅した翌日には、次回の旅行を思案しているらしく、
今回の旅は忘却の彼方のように心情となっているが、
私は少なくとも旅立つ前の思惑、旅行のさなかの遊学、そして帰宅後の旅先の写真の整理、ブログの投稿文などで、
ひとつの旅でも4度ぐらいは享受している。

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函館の冬は風花慕情 最終章 旅の終わりは、風花の中の雪路の五稜郭公園・・。

2014-01-20 15:34:47 | 
      最終章 旅の終わりは、風花の中の雪路の五稜郭公園・・。

私たち夫婦は市電の『函館駅前』駅から乗車した後、『五稜郭公園前』駅で下車し、
10分ばかり歩き、五稜郭タワーが聳える地に着いた。
そして教科書のように五稜郭タワーの最上階の展望フロアーに於いて、
東西南北を見渡すことのできる光景を視たりした・・。
          
そして見下ろせば五稜郭も観えたが、私は何かしら満足できずにいた。
          

こうした心情の根底には、タワーのような高台の展望から眺めるのが好きになれず、
同じ高台であったならば、たとえば東京の郊外に600メートル足らず高尾山の山頂近くから、
彼方の郊外の街並み、そして新宿の都心を眺めるのは好感でき、
何かしら足元が地べたに着いていないと、落ち着く困惑することが多いのである。

やがて私は家内に、あの地上は確か公園になっているので、散策しょう、
と誘ったりした・・。


そして館内の2階で昼食をした後、私たち夫婦は雪の小道を歩きだした・・。
          
やがて箱館奉行所らしき建物を眺めたりして、記念写真として撮ったりした。
          

そして奥に進むと風もない青空の中、予告もなく花びらのような雪が舞いながら落ちてくる風花(かざはな)に、
私は魅了されて心を寄せたりした・・。
                     
もとより風花は、周辺に観える山で降っている雪が、ときより強く風が吹くと、
私は市街のはずれの路、海辺の路、そして街の片隅を歩いたり、
青空の中、白き雪が花びらのように見え、舞いながらはかなく消える情景である。
          
そして函館は小山に囲まれ、坂が多く風光明媚の地であり、
その上に晴天に恵まれることも多く、この時節の函館は、私は風花の街、と命名したりした。
          

こうした情景に私は圧倒的に魅せられて、10枚ぐらいの写真を撮ったりした。
          
私は幼年期は東京郊外の農家の児として育ち、遥か60年前の頃は、この冬の時節に30センチ前後の雪が降っていた。、
1951年〈昭和26年〉の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。

          

その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
          
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。
          
このような心情を秘めてきた私は、愛惜感が増して、こうした雪路を歩くのが好きで、
今回の旅路も多くの観光客が訪れる名所よりも、素朴な景観のある所を歩くことに魅せられている。

やがて五稜郭公園に別れを告げて、『北洋資料館』に立ち寄った後、
路線バスで函館空港を目指した・・。

そしてこの時節の函館は、風花の街、と私なりに思いを深めたりした。

                              《終わり》
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函館の冬は風花慕情 第5章 函館駅の周辺を彷徨(さまよ)い・・。

2014-01-20 08:35:51 | 
      第5章 函館駅の周辺を彷徨(さまよ)い・・。

1月17日の旅路の最終日を迎え、函館空港・午後7時35分発の羽田空港行きの航空便であったので、
日中は函館駅前の周辺を観よう、と4日ばかり滞在した湯の川温泉の『啄木亭』を辞して、
私たち夫婦は市電の路面電車の『湯の川温泉』駅より『函館駅前』駅を目指して乗車した・・。

13日に冬の函館を初めて訪れたが、羽田空港・発の函館便が、一時は危ぶまれたが、
何とか予定通りに着陸してくれた後、空港ビル内の食事処で昼食をし、
          
小雪舞う中、タクシーを利用して『啄木浪漫館』を訪れた後、隣接した大森海岸の海辺を視たりした。
          

          
そして待機して頂いたタクシーで、宿泊する湯の川温泉の『啄木亭』に入館した。

14日は函館山の「裏側」にある絶景の海岸と知られている『穴澗海岸(あなま・かいがん)』を訪ねる為に、
9時半過ぎに『啄木亭』を出て、市電の『湯の川温泉』駅に向かう雪道で、
家内の登山靴に付けたゴム製の滑り止めが切れてしまったので、『函館どつく前』駅の途中の『十字街』駅で下車して、
ホームセンターの『イエローグロブ豊川店』で、金属製スバイク6個つきのゴム製滑り止めを買い求めたりした。

こうしたことは私は積雪の中を歩く中で予期される事態であり、私は旅立つ前に調べていたので、
たまたま役立ち、ついでに私も予備用に購入した。

そして家内は歩きだすと、雪道歩きやすいわ、と云ったりしたので、
私は安堵しながら微笑んだりした。

やがて市電に乗車し、『函館どつく前』駅で下車した後、丘にある『外人墓地』までの長い坂道を歩きだした。
そして『外人墓地』の近くになると、展望が開けて、海辺、海上が見え、対岸の半島が観えたりした。
                    、
この後、『外人墓地』に隣接した雪道を歩き、やがて10分ばかり歩くと、『穴澗海岸』が観えて、
対岸の光景を私は撮ったりした。
          
そして10分ぐらい歩いた先は、閉鎖されていた。
          
やむなく引き返して、函館出身のロックグループのGLAY(グレイ)のひとりが信愛している『カフェテリア モーリエ』に、
私たち夫婦は立ち寄ったりした。
          

そして私たち夫婦は、店内からの眺められる景観に好感し、昼食も兼ねて、一時間ばかり過ごした。
          

やがて『はこだて冬フェスティバル』の中心街の八幡坂、教会をひたすら歩き廻り、
          
そして『函館市文學館』に立ち寄ったり、赤レンガのある地も歩いていた時、青空から急激に小雪降り、
私たち夫婦は退散しょうと、最寄の市電駅より乗車して帰館した。

15日を迎えると、私たちが宿泊している湯の川温泉の『啄木亭』より、
10分ぐらい南下すれば海辺が観られので、歩き廻ったりした。
          
そして遥か彼方に函館山が聳え、この先端は立待岬と判明し、待ち焦がれて情景に、
心を寄せたりしていた・・。
          

16日は何処にも出かけない完全休養日とし、たまたま風も伴う小雪が舞い、
          
窓辺の近くの椅子に座りながら、
午前中のひととき異例であるが、雪見酒としたりした。


このようなことを市電に乗車している中で、思い馳せたりしたが、
旅先の時は余りにも早く過ぎてしまった、と微笑んだりした。

やがて市電の『函館駅前』駅で私たち夫婦は下車し、『函館朝市』に行った。
何かしら家内が旅立つ前に、イカを釣れる簡易な処がありので、
家内は意欲満々であったが、無念ながら不漁の為に閉店であった。
          
この館内は、所々にテープルと椅子が設置されていて、出店となっている魚、貝、そして鮨(すし)等、
食事処であった。

私は焼いてもらった大きなツブ貝をビールを呑みながら頂いたりし、
家内は焼いたカキを食べたりした後、その後にマグロの握り寿司を頂きながら絶賛したりした。

その後、JR『函館駅』ビル内に本屋があったので、私は立ち寄り、
家内は土産店に寄ったりした。

私たちは今回の旅路で、函館山から観られる夜景、『はこだて冬フェスティバル』のイルミネーションの夜景など、
興味がなく対象外としていたので、
これからの視る午後の時間は・・どこに訪れようか、とお互いに思案し、
やむなく『五稜郭』でも行こう、と話し合ったりした。

そしてJR『函館駅』ビルを後にして、歩きだした。
           
                              《つづく》
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函館の冬は風花慕情 第4章 温泉のある観光ホテルに滞在する時、ある日には・・。

2014-01-19 15:52:43 | 

      第4章 温泉のある観光ホテルに滞在する時、ある日には・・。

私たち夫婦は国内旅行が共通趣味のひとつであり、
子供に恵まれなかった為か、新婚時代の時から幾たびも旅を重ねてきた。

私が多忙なサラリーマンの生活の中で、代休などを取得して大半は2泊3日が多い旅路をしてきたが、
40歳を過ぎた頃から、特に雪の舞い降る地域の旅先を選定したりしてきた。

そして定年退職後の年金生活になると、旅行日程の拘束から解放されて、
家内も温泉のある観光ホテルか旅館でゆっくりと過ごしたいわ、
と要望もあり、5泊6日前後の旅が多くなっている。

こうした旅路で冬の時節は、滞在先の私の行程はある程度サイクルが出来、
ときおり私は独りで微苦笑する時もある。

今回の函館市の郊外にある湯の川温泉に4泊5日で滞在した。
          

私が起床するのは朝の4時半過ぎが多く、家内は温泉大好きのタイプであり、大浴場か露天風呂に向い、
私は布団の中か窓辺の近い椅子に座りながら、持参してきた本を読みだす・・。

たまたま今回は松田美智子・著作の『サムライ ~評伝 三船敏郎~』(文藝春秋・単行本)、
櫻井よしこ・著作の『迷(まよ)わない。』(文春新書)、
そして月刊総合雑誌の『文藝春秋』(二月特大号)の3冊であった。
やがて旅の最終日には、本屋に寄り、
手嶋龍一、佐藤 優・共著作の『知の武装 ~救国のインテリジェンス~』(文春新書)を買い求めて、
帰路の機内で読んだりした。

朝の読書を中断して、大浴場に向かい入浴するのは、殆ど6時過ぎてあり、
そして私たち夫婦が朝食を頂ける処に、朝の7時過ぎ向い、
たまたま今回はバイキング形式で、そしてコーヒーを飲み終わって一時間ぐらいで朝食を終わり、
私だけが館内のロビーで新聞を30分ぐらいで読み終わる。

私は旅先の時は地方紙を読む習性ががあり、今回は『北海道新聞』であった。
          
そして私は部屋に戻り、外出の支度をして、
私たち夫婦は9時過ぎに、行って観たい所に出かけて、遊学するが、
殆ど冬の時は暗くなる前の4時頃に帰館する。

こうした滞在旅行の中で、どこにも出かけない完全休養日を私たち夫婦は設定している。
旅の最終日の前日がおおく、今回の場合は16日の金曜日であった・・。

この日に限り、午前中は風も伴う小雪が舞い降ったりした。
          
そして私たち夫婦は、窓辺の近い椅子に座りながら、
過ぎ去る年の旅先のごぼれ話しを談笑したりすることが多い。

こうした中で、私は買い求めた地酒を取りだして、
平素の日中には許されない『お酒タイム』としたりした・・。
          
私は北海道の旅路は、ピールならば『サッポロ クラシック』を愛飲し、
日本酒に関しては、平素の私は純米酒の辛口を吞んで、30数年過ぎているので、
道内の旅先は、『男山 特別純米』、『千歳鶴』などの純米酒の辛口を吞んできたが、
ここ5年前の頃から、超辛口と称されている『熊ころり』を呑んだりしている。

このお酒にめぐり逢えたのは、私たち夫婦は、過ぎ去り年2012年1月下旬に、
札幌の郊外にあるリゾートホテルのひとつの『シャトレーゼ ガトーキングダム サッポロ ホテル&スパリゾート』に6連泊した。
そして周辺の観光地を周遊したが、ある日の夕食の時、
滞在している館内の和食処で初めてめぐり逢えた・・。

和食処『大善』で夕食を頂く時に、単品料理をアラカルト(選定)をしょうとメニューを見ていた時、
日本酒の中で、『熊ころり』という銘柄を見たりした・・。

『各地方には・・鬼殺し・・の銘柄はあるけれど・・〈熊ころり〉なんで・・初めてだょ・・』
と私は微笑みながら家内に言った。

『珍しい銘柄名ね・・頂いたら・・』
と家内は笑いながら私に言った。

『北海道に相応しく・・熊かょ・・かなり辛口だけれど・・』
と私は言いながら、仲居さんに注文したひとつとなった。

蔵元は小樽市にある『山二(ゆまに)わたなべ』で、正式な銘柄名は『熊古露里』と明記されていたので、
風流を秘めた方が命名されたと確信を深めたりした。
超辛口で吞みやすく、たまたま私はホッケの焼いたのを食べながら頂いたので、心身の波長にあった。

もとより地酒は、文体と同様に独創性がなければ甚(はなは)だ魅力が薄れるので、
私はその地を思い重ねて頂き、風味、香りを楽しんでいるにすぎないのである。


そして私は呑みながら、ときおり煎茶を飲んだりしたが、少し酔い感じたので、
やがて布団の中で本を読んでいるうちに寝てしまったのである。

家内は大浴場か露天風呂に入浴したり、明日の帰宅に備え、衣服の整理などをしていたらしい・・。

私は12時近く目覚めたが、やがて小雪が止み、窓辺から青空が観えたりした。

やがて私は何かと時間を過ごした処を記念写真を撮ったりした。
          

          
そして部屋に戻ると、再び本を開いたりした。

今回も滞在している毎日、夕暮れ時になると、私は大浴場、そしてか露天風呂に入浴したりした。
私は温泉のある観光ホテル、旅館に滞在する時も朝と夕暮れ時に2回入浴すれば、満足するタイプである。

そして夕食の時は、私はビールか日本酒を呑み、家内はビールを呑みながら、
一時間ぐらいで、談笑しながら食事を頂いたりしている。

やがて夜9時過ぎには、布団の中にもぐり寝てしまうことが多い。
そして良い児は早寝、早起き元気な児・・実践している旅路が多いのである。
                              《つづく》
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函館の冬は風花慕情 第3章 遥か彼方に立待岬を観て・・。

2014-01-19 08:22:13 | 
      第3章 遥か彼方に立待岬を観て・・。

今回、函館市の郊外にある湯の川温泉に宿泊した観光ホテルは『啄木亭』であり、
          
市電の路面電車の『湯の川温泉』駅の近くにあり、10分ばかり南下すれば海辺となり、
こうした滞在中のある日、海辺の情景を観たく、私たち夫婦は散策した・・。

やがて松倉川が海にそそぐ河口の周辺を歩くと、
          
遥かな彼方に函館山が見え、その先端の断崖上にあるのが、立待岬(たちまちみさき)と思え、
念願してきた岬を初めてお逢いできた・・。

そして海辺に近づくと、右側に市街が見えたりした。
           

その後、私たちは海辺の砂浜に下り立つと、海辺の観光ホテルも見え、
函館山、そして先端のひとつの立待岬は、遥か彼方であったが、明確に観えたりした。
          

そして護岸工事もされていない海辺の砂浜を私たちは歩き、
幾数千年・・寄せては返す波・・良き光景だねぇ、
と私は家内に言ったりした。
          

          
そして10分ばかり更に進んだ処で、閉鎖の公示があり、
やむなく引き返した。
          

やがて別れを告げる前に、お別れの挨拶の記念写真を撮ったりた。
          
                              《つづく》
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