夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

桜花を眺めれば、過ぎし年を思い浮かび、やがて今後のささやかな願いを託して・・。

2015-03-31 17:08:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市に住む年金生活の70歳の身であり、
平素の買物の専任者であるが、最寄りのスーパーに行く前に、
昨日、本日も近くに流れている野川の遊歩道を散策した。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域では、
平年は3月下旬から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、平年の習わしとなってきた。

しかしながら今年の冬は、三寒四温が激しく、10日ぐらい遅いかしらと感じたりしてきた。

過ぎし日23日、東京都心に於いては染井吉野(ソメイヨシノ)が開花し、
平年より3日早く、昨年より2日早い『桜咲く』季節が到来いたしました、
とテレビのニュースで報じていた。

そして都心より数度低い私の住む地域は、開花がまだかしら、と散策を重ねてきた。

しかしながら野川の桜並木を歩いても、蕾(つぼみ)が大きく膨(ふく)らむ状態であり、
一週間ぐらい待てば、三分咲きになるかしら、と感じたりした。

こうした中で、たった一本だけが華やかにピンクの色合いを見せて咲き誇っていた・・。
       

しばらく見惚(みと)れたりしたが、この桜は早咲きとして名高い大島桜(オオシマザクラ)の親戚かしら、
と思いながら微苦笑したりした。
       

この後、天上の気候の神々は急速に暖かさを増して下さり、28日の土曜日には、
都心の各所で満開、と報じられてきた。

こうした便りを受けて、私は自宅の周辺を歩き廻ったり、
昨日、本日も近くに流れている野川の遊歩道を散策した。


昨日は上流に向かって歩いたりして、桜並木の下を歩いたりした。
       

そして長らく見惚れたりしたり、やがてベンチに腰かけて見上げたりした・・。
       

本日も午前中のひととき、下流に向いたりした。
何かしら明日より曇り空が続くで、平日にしては遊歩道を歩き、桜花を鑑賞する人が多かった。
       

こうした中で桜の枝先が川沿いに伸び、陽射しを受けた桜花を私は見たりした。
       

やがて付近にあるベンチに座り、見上げれば満開の花があり、微笑んだりした。
       

そして前方の野川の対岸も満開の情景となっていた。
       


こうした情景を眺めたりしていると、過ぎし年を色々な出来事が走馬灯のように思い浮かび、
あんなこともあったよねぇ・・と思い重ねたりした。
       


やがて私はベンチから離れて、とぼとぼと歩き、ときおり桜花に見惚れたりした。
       

そして立ち止まったりして、見上げたりした。
       

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳ばかり若い65歳となり、
お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている高齢者の夫婦である。

こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

やがて私は70代以上の方で自助努力も肝要であるが、
幸運に恵まれ健康寿命を保った70代以上の方は、選ばれた方かしら、と思いを重ねたりしてきた。
       

私は男性の平均寿命と称せられる80歳まで、認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、
駅前までの片道1キロぐらいの路を自力で歩いて、往復して買い物に行きたい、と念願したりしている。       

やがていつの日にか、私たち夫婦はどちらかが命が果てて、片割れとなるが、
果たしていつの日まで、ささやかな日々が続くのだろうか、とよぎったりした。
 
もとより自助努力も肝要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものだから・・
と思い深めたりし、足早に自宅に向かったりした。

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私たち夫婦は多くの人たちから支(ささ)えられて、39年目の結婚記念日を迎えて・・。

2015-03-30 15:34:04 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、2階の寝室でまどろみながら目覚め、横に寝ているはずの家内は布団だけとなっていた。

そしてぼんやりと時計を見たら6時半となり、昨夜は深夜まで本を読んでいたので寝坊してしまった、
と起きだして、1階の居間に階段を降りだした。

そして家内は何かしら洗濯の合間に居間の食卓テーブルでNHKのテレビ・ニュースを視聴した。

私は洗面した後、家内の前に行き、そして少し襟を正して、
『おかげさまをもちまして・・私たちは38年間の結婚生活を過ぎて、何とか39年目を迎えることが出来ました。
今後もよろしく叱咤激励の程を・・お願い致します!!』
と私は明るく大きな声で家内に言ったりした。

家内は私から突然に言われて戸惑いながら、
『あらぁ・・今日は私たちの結婚記念日だったかしら・・』
と家内は呟(つぶや)くように私に言いながら、微苦笑したりした・・。

私は小学生の頃から算数、やがて数学には劣等生で、未(いま)だに苦手であるが、
何故かしら歴史、文化などには興味があり、我が家のささやかな出来事の日々も覚えている変わった男である。

世の中の多くは、妻の方が結婚生活の中での大波小波の出来事は的確に覚えて、
夫の方はかすかに覚えてたり、或いは忘れてしまった、と友人とか知人に私は聞いたりすると、
我が家の夫婦はまったく反対だよ、と私は苦笑する時もある。
       
       ☆今回、掲載した写真のすべては、私が買物した時、少し遠回りして撮った☆          

私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。

私のすぐ下の妹は1969年〈昭和44年〉の秋に嫁ぐこととなり、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の結婚新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。

こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
休日の余暇のひとときは10畳の書斎の中で過ごすことが多く、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

そして私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
私は特に森鴎外(もり・おうがい)を敬愛していますが、やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、
と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年〈昭和50年〉の秋であり、私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。
       

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、
ボタンの掛け違いのような行き違いが発生して、両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。

そして何とか1976年〈昭和51年〉3月30日に、学士会館で結婚式、そして披露宴を終えたが、
この間の結婚式で、私は不馴れな羽織(はおり)、袴(はかま)、そして扇子を持ち、
控室から指定された結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と私は改めて思いながら緊張を増したりした。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、千葉県の市川市の片隅にある国府台で、
2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも家賃を支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したりした。

やがて結果として、私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの新婚生活の合間でも、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は奮戦しても、家計は赤字が多く、私は困苦したりした。

やがて突然に家内はデパートに契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
               

この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。
こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。


私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
       

そして50代になると、1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となった。
          

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

やがて出向先も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
                 

この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたのである。

          
このような私たち夫婦の結婚生活の日常を、くまなく見ていたのは、
居間の片隅に置いてある《ぬいぐるみ》の洗いガエルである。
          
                   
この《洗いガエル》は、私たちが新婚の生活を始める準備をしていた時、
電気洗濯機を買い求めに、最寄りの家電量販店に行き、
たまたま家内があるメーカーの気に入った洗濯機の内部に、
宣伝キャラクター商品として添付されていた《ぬいぐるみ》であった。

この《洗いガエル》は、少し凹(へこ)んだりしているのは、
家内が日中のひととき、昼寝をした時に枕の代わりにして、少し歪(ゆが)んでしまったり、
少し汚れているのは私たち夫婦の38年間を見続けて、少し疲れた為か、へたばっている。


私の定年退職後、年金生活を始め、私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
          
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙であった。

そして家内は専守防衛長官の専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などの時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事をしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
       


家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行き、孤軍奮闘をしているのが定年後の実態でもある。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、
特別演習かしら、と思いながら私は過ごしている。
          

我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。

その直後、 『ご苦労であった!』と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

その後、思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
       

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

私たち夫婦の結婚生活は、もとより私の母、家内の両親を始め、
兄妹を含めた親族、知人、友人などに支(ささ)えられて、
何とか39年目の結婚記念日を迎えることができた。

本日の午前中のひととき、体力を衰えてもお互いに身体を注意して、明るく過ごそうょ、
と私は家内に言ったりしたりした。

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3月は年金生活の我が家でも、何かと買い物が多くなり、私は家内のお供が多く・・。

2015-03-29 15:12:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

家内は65歳であり、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
そして介護保険も支払いながら、程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家の平素の買物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、或いは駅前のスーパー、専門店などに殆ど毎日独りで出かけている。

こうした中で、3月になると、初旬には日本中の女の子をそれぞれのご家庭で慶(よろこ)び祝う『桃の節句』、
下旬の初めには新たなる旅立つの園児は『卒園式』、学童、学生は『卒業式』などが祝賀され、
こうした中で働いて下さる新たなる社会人の諸兄諸姉が、不安と希望を秘めてスタートされる時節でもある。

そして社会の中核である働いて下さる諸兄諸姉も、再就職や人事異動などで、
新たなる職場に配属され、戸惑いながらも意欲充分な志(こころざし)で、勤務される時期でもある。
       

我が家は子供もいないで、もとより孫もいないのであるが、
何かとこの3月は買い物が多くなっている。

冬の季節から春に向けて、衣替えの時節を迎えているで、
家内は洋服ダンス、押し入れに収納しているケースを取り出したりすることが多くなってきた。


私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたひとりである。
そして年金生活をしていると、スーツを着る機会もなく、ネクタイは冠婚葬祭ぐらいとなっている。

しかしながら齢を重ねると、きちんとした洋装をしないと見っともないわ、と家内から言われたりしてきたので、
ときおり家内に導かれて、デパートの紳士コーナーで、ブレザーと長ズボンなどを買い求めたりしてきた。

或いは国内旅行で観光ホテルに5泊6日前後の滞在型で、周辺を歩き回り遊学することが多くなり、
アウトドアの専門店で衣服を購入したりしてきた。

いずれも程ほどの高価な品であるが、外出着として数年着た後は、
平素の買物とか散策に愛用したりしている。
その後は私の室内着となり、やがて庭の手入れ時に着たりしている。

こうしたことは靴、帽子、バックなども同様となっている。
私は根はケチな為か、程ほどの高価な品を買い求めて、長らく愛用するタイプである。
       
しかしながら私の下着、靴下、パジャマなどは、最寄駅にあるスーパーの衣料フロアーで、
年金生活の中、買い求めたりしている。

家内はもとより女性の身であるので、私としては小奇麗して欲しく、
デパート、アウトドアの専門店で適度に買い求めている。
       

3月の初旬、家内の春物を買い求める為に、新宿の『小田急デパート』に行ったが、
この時は何かしら家内は魅了されず、『伊勢丹』のデパートで買い求めたりした。

こうした時は私は何かと家事の大半は家内にお願いしているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は思いながら共に行ったりした。

そして中旬に、我が家から徒歩で一キロにあるホームセンターに行き、
生活雑貨品、洗剤など生活消耗品を選定して、配達依頼をしたりした。

或いは駅前のドラッグストアーに行ったりしている。
後日、ドラッグストアーで特売日があり、私たち夫婦は多く品を買い求めたりし、
そして独り住まいの家内の母の愛用している健康剤を幾種類かを購入したりした。
       
              
昨日、私が長らく春と秋に愛用してきた下着、靴下、パジャマが古びてきたので、
家内の指示の基(もと)で
本日の午前中のひととき、私たち夫婦は駅前にあるスーパーの衣料フロアーを目指して行った。

澄み切った青空の快晴で、20度前後の暖かい中、桜花も満開となり、
駅前は人出が多く、にぎわっていた・・。
             

私たち夫婦は桜花を見上げたりしたが、私は年金生活の身であるので、
平日の明日が明後日にゆっくりと鑑賞できる特権があり、
まもなくスーパーに向かったりし、帰宅した12時過ぎであった。

年金生活の我が家の買い物に関しては、恥ずかしながらこのようなことが実態となり、
早や11年生となっている。

余談であるが、家内はデパートなどでバーゲン・セールで、
普通の時より3割引きで買えたわょ、と私は聞いたりすると、年金生活の無力な私は微苦笑したりしている。


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血液型B型の私、遅ればせながら『B型思考』を学び、微苦笑を重ねて・・。

2015-03-28 07:25:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の高齢者の70歳の身であるが、
昨夜、ネットを彷徨(さまよ)っている中で、
【 B型思考に学ぶ 】と見出しされた記事を見つめた・・。

そして私は、亡くなった両親から受け継いだのは血液型としてはB型であり、
齢ばかり重ねた私でも、好奇心に負けて、クリックしてしまった。   

何かしらこの記事は、雑誌の『DIME』の専用サイトの『@DIME』であり、
『【B型思考に学ぶ】なぜ、政界、スポーツ界、芸能界でB型が目立つのか? 』
と記事の最初に掲げられていた。

そして掲載された記事は、一昨年の2013年11月13日と明記されていたが、
血液型は一生変わらないもと伝えられているので、さして古くはない、と思いながら精読した。
       

無断であるが、この記事の大半を転載させて頂く。

《・・そもそも日本の血液型研究の原点は……と調べると、戦前の日本軍に行き着いた。
大正時代から、より高い戦闘集団を作り上げるために、兵士と血液型の相関関係を研究していたのだ。

その結果、昭和に入ると世界にも類を見ない「血液型編成部隊」が誕生していた。
それによると、「快活で社交的とされるB型の班長に、意志強固で精神力のあるO型の班員の班」
「班長も班員も全員、温厚で慎重とされるA型の班」など、
血液型によって班構成がなされていた。

日本軍の大陸進出が始まると、研究の余裕もなくなり、血液型部隊は解体されてしまったという。

そんな歴史を知ったうえでリサーチしてみると、スポーツ界のトップ選手はB型だらけということが判明。
特に世界に進出して結果を出す選手、野球界では野茂英雄やイチロー、水泳の北島康介、ゴルフの藍ちゃん(宮里藍)、
卓球の愛ちゃん(福原愛)、テニスのクルム伊達公子、なでしこジャパンの新キャプテン・宮間あや、フィギュアスケートの浅田真央など……。

「マイペース、ハマった時に強い、あきらめる時の潔さなど、まさにB型的。
そして、ドジで、ちょっとエッチで周囲から愛されるキャラというのもB型の真骨頂です。」

そう話すのは、人材コンサルタント、作家として活躍中の常見陽平さんだ。
自身もB型だという常見さんの分析によると、根底には「空気を読まない」ことがあるという。

「読めないんじゃなくて、あえて読まないんです」
       

一方、放送作家で新しいコミュニケーションに関する著作の多い田中イデアさん(B型)は、
「B型の人間も空気は読みます」という。
ただ、その目的は、読み取った空気に沿うことではない。

「空気を読んで、新たに作って、壊そうとすることが大事。
そうすることで、驚きやギャップが生まれて、
その結果、他の人には作れない笑いが生まれ、場を盛り上げることができるんです」

二人が言うB型像は共通している。
常識や慣習による「空気」から自分を解放して、新しさを創り出し、周囲の人間をを魅了するのだ。


●B型力を身につけて人生を楽しく生きる
●不調、逆境の時こそ自分が主演と信じる

★結論

[B型思考]の基本素養
①マイルールを大事にする。
②自分なりの工夫で努力を楽しむ。
③弱点をさらけだす。
④他人の評価より自分の満足。
⑤小さなことでも真剣勝負する。
⑥ひとつのことにハマってみる。
⑦ハマった自分を堂々と宣言する。
⑧悩みぬいて飽きる。
⑨部下や上司には積極的に声をかける。
⑩頼みの綱は自分自身。・・》

このような記事を読みながら、私は幾たびか微苦笑をしてしまった・・。
       
          
私は今回の記事を読み終わった後、B型の長所、短所が明示され、
何かしら素肌を視られたように恥ずかしさの余り、赤面させられたりした・・。

そして何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
これまでの軌跡を思い馳せると、拙(つたな)いなりに当っている面もあるよなぁ、と苦笑してしまった。

年金生活の今、ときおり過ぎし日々のことに愛惜し、思い馳せたりすることもある。
そしてこれまで歩んできた人生の中で、ときには熱病のように無我夢中となったりする時があった。
              
大半は一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりしてきた。
                 
                     
たとえば音楽の場合は、1971年(昭和46年)に偶然にシャンソンの作詞、作曲もされるバルバラの歌を聴き、
瞬時に魅了され、これをきっかけにシャンソンの世界にに熱中した・・。

そして銀座の片隅にあるシャンソン喫茶の『銀巴里』に、少なくとも週2回ぐらい通いだして、
出演された多くのシャンソン歌手の唄声に心酔した。

こうした中で、金子由香里さんなどに夢中となったり、この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
往還時に『ヤマハ銀座店』に立ち寄ったりしてアルバムを買い求めて、2年たらずで100枚を超えて、
本場のフランス、そして日本の歌手を居間で、レコードが擦り切れる程度に聴き惚れていた・・。


やがて1989年〈昭和64年〉に、遅ればせながらシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴いた。
『エレーン』の歌であり、この当時の私は民間会社の情報畑で奮闘していた時代であった。

この当時、消費税実施が4月から初めて実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴いたのである。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたり、
齢を重ねた今は、『ヘッドライト・テールライト』が支えとなっている。

この間、カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、今でも私の秘かな女神となっている。


そして1997年(平成9年)の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。
                           

映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

この間、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、古本屋まで行って買い求めたりし、
一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だと特にデビット・リーン、そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
       
       
そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。
       
                                         
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職した後、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。
                 

私は幼少の頃から、根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋の方が多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦(こ)がれて時もあった。

         
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることが多い。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの、と思ったりすることがある。
       

余談であるが、家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生する。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

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16年前頃、リストラ烈風の中、出向まもない時、『おじさ~ん・・イェ~イ!!』と私は激励され・・。

2015-03-27 14:19:10 | ささやかな古稀からの思い
東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であり、
民間会社の中小業のサラリーマンを卒業した身である。

ときおり現役時代のサラリーマンを振り返る時、どなたも体験されたと思うが、
思いも寄らない人たちから、激励の言葉を受けたりしたことがある、と思ったりしている。

過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した4年を過ごし、あえなく敗退した。

そして止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
苦手な理工系のコンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学んだりした。

やがて1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
知人のご尽力もあり、何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく外資の要請でレコード会社が新設され、私は新たなレコード会社に転籍させられた。
もとより音楽業界のレコード会社は、中小業であり、私は音楽に直接に携わる制作畑でなく、
裏方の商品、情報、経理、営業などに35年近く勤め、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

そして最後の5年間の職場が決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。
       

音楽業界の各レコード会社全般として、1998年(平成10年)にCDを中核とする売上げのピークとなり、
この前後から違法な音楽配信、或いは社会の趣味の多様化の中、CDの売上も急速に下降した。
そしてこの前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
或いは資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。

私は1970年(昭和45年)の中途入社であったが、
この当時のサラリーマンの風潮としては、定年の60歳まで勤め上げる、と数多くの方が念願していたし、
遅ればせながら社会人となった私でも、それなりに人生設計を持っていた。

そして音楽業界としては激動の1998年(平成10年)の前後、
私の勤めていた会社も先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999年(平成11年)の新春まもない時、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》 と思いがあった。

この当時、周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
私はある程度の人事の異動が覚悟していたが、出向とは予期していなかったのが本音であった・・。
       

やがて私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
つたない私でも屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があった。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要都市の基点に物流センターを配置し、
各メーカーより委託された音楽商品のレコード、カセット、CD等、
そして映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。

そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。

私はこの中のひとつの物流センターに勤めたが、
センター長をはじめ私も含めた正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。
       

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
色々な部門を異動してきたが、もとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には、戸惑ったりした。

そして通勤時間帯も大幅に変貌したのである。
それまでの都心の本社は、9時半が始業時であり、私は8時過ぎに自宅を出て、
45分前後の通勤時間で出社していた。

物流センターは原則として9時の始業時であったが、
曜日によっては変動するが実質8時からであり、その前の事前準備などを配慮すると7時半過ぎとなっていた。
退社できるのも曜日によって異なるが、大半は夜の7時前後であり、
私の通勤時間は少なくとも1時間半は要していた。

私の通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』駅で、
自宅から始発のバスに乗り、この駅から下りの電車で『本厚木』駅まで利用した後、
路線バスに乗り継いで、各諸業種の物流倉庫が建ち並ぶ場所のある中、通ったりした。

このように都心の本社に通っていた時代からすれば、まさに都落ちの心情であった。
       

通勤を始めて3か月ぐらいは、センター長のご厚意で、私の出社は8時半となった。
最初の頃、現場を学ぶために、倉庫の中を歩き商品配列を覚えたり、
急ぎの商品を手配したり、移動させたりすると、
不慣れとそれまでの本社はデスク・ワークばかりしてきた私は、退社後は疲労困憊となっていた。

こうした時、確か週末の金曜日、ときには土曜日になると、
明日は休みだ、と退社後に思いながら、やがて『本厚木』の駅近くのバス・ターミナルでバスを下車した後、
小田急線の『本厚木』の駅に向う途中に長いアーケード街を歩き、
この中のある居酒屋に寄ったりした。


確か物流センターに通い始めて数週間過ぎた頃と記憶している。
一軒の小さな居酒屋に夜の9時過ぎに入っていたのであるが、
お客さんが2人の男性客が、差し向かいとなっているだけであった。

私は片隅の席に座り、注文に取りに若い女性に、
地酒を弐合とおつまみとして2品をお願いした。

やがて私は弐合徳利を傾け、ぐい呑みに注(そそ)ぎ、少し呑んだ後、
おつまみの焼き魚を食べたり、煙草を喫ったりした。

そして、心身共々の一週間の悪戦苦闘が終った、と疲労困憊となったりしていたが、
安堵したりした。
       

この後、私は通勤のアタシュ・ケースの中から、
持参しているCDアルバムの五枚から、一枚を選定した後、
CDウォークマンをセットし、聴きはじめた・・。

この後、私は弐合徳利のお代わりを注文し、
運ばれてきた若い女性から、
『何を聴いて・・いらしゃいますの?・・』
と私は訊(たず)ねられた。

私はイヤホーンを外して、
『ここ一年は「X-JAPAN」が多いけれど・・「中島みゆき」さんの歌もよく聴くよ・・』

確かこのように私は云ったりし、
たまたまこの若い女性が中島みゆきさんのファンであったので、
お客さんが少なかったせいか、私達は10分ぐらい談笑した・・。

この若い女性は、小田急沿線にある大学に通学され、
アルバイトとして、友人と共にこの居酒屋に週三回勤務している、と私は教えられた。

私の疲労困憊の疲れきった表情、そして落胆している表情も隠し切れず、
『都落ちで・・この本厚木も不慣れでねぇ・・』
とこのような意味合いのことを私は云ったりしたと思われる・・。


この後、終電の一時間前に私はこの居酒屋を辞して、
駅の改札口に向かい歩き出した・・。

この直後、後ろから、
『おじさ~ん・・イェ~イ!!』
と先程の女子大学生が友人と共に、右手を高く掲げて、私に大声で云った。

私は驚きながら、右手を少し振りかざして、応(こた)えた。
       

その後、この居酒屋は店じまいされて、新たな店となり、
ふたたびこの女子大学生とは、お逢いできることはなかった・・。

そして、このアーケードを通り過ぎると、ときおり私は励まされた大学生の女性の表情と
しぐさを思い出されることがあった。
そして確かな一期一会に、私は胸が熱くなったりした。

まもなく私は、自分の敵は自分だと、自身を叱咤激励したりする中、
この出向先の物流センターに馴染み、精進しながら、
やがて物流センターで定年退職時の2004年〈平成16年〉の秋を迎えた。


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春のひととき、高齢者の私たち夫婦は、とりとめなく過ごせば・・。

2015-03-26 16:29:29 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳ばかり若い65歳となり、
お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごし、
お互いに介護保険を支払う高齢者の夫婦となっている。


こうした中で、一週間前頃、
『来週の木曜日、駅前の歯医者さんに行く日ですから・・』
と家内は私に言ったりした。

『はい! 承知しています!』
と私は若き自衛官に負けないように明るく大きな声で応(おう)じたりした。

私は65歳の頃から体力の衰えを実感する中で、現役のサラリーマン時代からの緊張感もなくなり、
ボケてはいけないと思いながら、明確に明るく返事をするようとなってきた。

そして家内は幾たびか歯の治療を自宅周辺の歯科医院に受けたりしてきたが、
私は妹から、9年前の頃に小田急線の『喜多見』駅前の歯科医院が良いみたい、と聞いたりしたので、
これ以来、私の歯の老化を含めて、この『喜多見』駅前の歯科医院で私たち夫婦は、治療を受けたりしてきた・・。
       

そして利便性のある路線バスを利用すれば、我が家より10分前後で到着するが、
最短距離として野川の遊歩道を歩けば、20分前後を歩けば到着するし、
何よりもこの遊歩道の片側は、細長い小公園が帯のように続き、四季折々の情景が見られるので、
私たち夫婦はこのコースを愛用してきた。

難点といえば平日などは、人影も少ない時があるので、
家内が出かける時は、私がホディガード、お供として、共に歩いたりしてきた。


今朝、10時過ぎに私たちは自宅を出て、『喜多見』駅前を目指して歩いたりした。
       

まもなく野川の遊歩道を歩き、ときおり冷たい風を受けながら歩いていると、
片隅に咲いている菜の花を私は見たりした。
       

『今年の冬は、三寒四温が平年より激しく、我が家の梅の花も一週間ぐらい遅かったけれど・・
こうした花を見れば、春到来だよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。

やがて桜並木の下を通り過ぎたが、桜の莟(つぼみ)も大きく膨らみ状景で、
まもなく咲き始めわ、と家内は微笑みながら、私に言ったりした。
       

そして5分ぐらい歩くと、家内は立ち止まり、
『あなたの好きな落葉樹の芽吹きがあるわょ・・』と私に教えてくれた。
                   

私は今の時節、遊歩道を歩けば、数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木が、
木の芽時(このめどき)と称せられる芽吹きに、めぐり逢えるかしら、と秘かな願望を秘めていた。

私は幼年期に農家の児として育った為か、
木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。

しかしながらクヌギ、コナラなど落葉樹を眺めたりしたが、
今年の冬は平年より三寒四温が激しい為か、冬木立のままであり、少しばかり落胆をしたりした。
       

この後、10分ぐらい歩くと、淡き桜花が視えたりした・・。
そして風の吹く中、記念に撮ったりした・・。
       

風が吹き、桜花は揺れ動く中、少し静止してねぇ、と思いながら撮ったりした。
       

しかしながらこの周辺は染井吉野(ソメイヨシノ)が多く、大きな蕾(つぼみ)の状態であったので、
『この桜・・早咲きとして名高い大島桜(オオシマザクラ)の親戚だょ・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

やがて駅前に着き、家内は歯科医院で治療を受けている間、
私は駅前の片隅にあるコーヒーショップの『ドトール』で、持参した文庫本を読みながらコーヒーを飲んだりした。

やがて家内と合流した後、駅前のスーパーで買い物をする中、
昼食としてお惣菜売り場で、お弁当を買い求めたりした。

過ぎし日、駅前の食事処で幾たびに食べたりしてきたが、
何かしら自宅で小庭の情景を眺めながら、たとえスーパーで販売しているお弁当の方が美味しく感じられ、
私は家内に要望する時もあったりしてきた。

やがて私たちは、風もやんだ穏やかな暖かさの中、遊歩道を歩き、自宅に向かった。
       

そして私たち夫婦は、お互いに片道20分ばかりの道を往還している中、
果たしていつの日まで、ささやかな日々が続くのだろうか、とよぎったりした。
       

もとより自助努力も肝要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものだから・・
と思い深めたりした。

やがて自宅が見えて、『XXちゃんさぁ・・帰ったら直(す)ぐにお弁当を食べようょ』
と私は家内に言ったりした。

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桜花(さくらばな)を求めて、東京郊外に住む私は、散策すれば・・。

2015-03-25 16:05:54 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
平素の買物専任者として、家内から依頼された品をスーパー、専門店などで買物の責務を終えた後、
自宅の周辺3キロ範囲の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしている。

そして季節のうつろいを享受したりしているが、その上に何よりも認知症は避けたくて、
殆ど毎日のように歩いている。

一昨日の23日、東京都心で染井吉野(ソメイヨシノ)が開花し、
平年より3日早く、昨年より2日早い『桜咲く』季節が到来いたしました、
とテレビのニュースで報じていた。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域では、
私の住む地域は、平年は3月下旬から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、平年の習わしとなってきた。

しかしながら今年の冬は、三寒四温が激しく、10日ぐらい遅いかしらと感じたりしてきた。

畏(おそ)れ多くも天皇陛下、皇后陛下さまのお住まいの都心の中心部に、染井吉野(ソメイヨシノ)が咲き始めたと知り、
私の住む地域は、まだかしらと思い深めて、
昨日の午前中のひととき、自宅の近くに流れている野川の遊歩道を散策した・・。
       

たまたま上流に向かって私は歩いたりしたが、この野川の遊歩道の多くは桜並木が多いので、
ここ10数年、桜花(さくらばな)を私は愛(め)でてきた所でもある。

やがて桜並木を歩いて、見上げたりしても蕾(つぼみ)が大きく膨(ふく)らむ状態であり、
一週間ぐらい待てば、三分咲きになるかしら、と感じたりした。

そして上流に向い、100メートルぐらい歩いた時、前方にピンクの色合いが見えたので、
足早に近寄ったりした・・。
       

そして感謝しながら、愛(いと)しき桜花(さくらばな)をアップして撮ったりした。
       

この後、周辺の染井吉野(ソメイヨシノ)は大きな蕾(つぼみ)なのに、
この桜は早咲きとして名高い大島桜(オオシマザクラ)の親戚かしら、と思いながら微苦笑したりした。


本日の午前中のひととき、私は野川の遊歩道を下流に向かって散策した・・。
       

しかしながら桜並木の中を歩いて、見上げたりしても蕾(つぼみ)が大きく膨(ふく)らむ状態であり、
少し落胆をしたりした。
       

やがて5分ぐらい歩くと、白い桜花(さくらばな)が見えて、立ち止まったりした。
       

ときおり風が吹く中、健気(けなげ)に咲いているよねぇ、と私は褒め称えた・・。
そして記念に写真一葉ねぇ、とデジカメを構えたが、風に揺られていた。
       

この白い桜花(さくらばな)も早咲きとして名高い大島桜(オオシマザクラ)の親戚であり、
やはり私の住む地域の染井吉野(ソメイヨシノ)は、あと一週間ぐらいお待ち下さい、といったような風情であった。

やがて帰路に向かうと、華やかなピンクの色合いが遠くから観え、
私は近寄ったりすると、花桃(はなもも)の樹と見えた。
       

そして華やかな若き女性のようだ、と思しながら記念に撮ったりした。
       

やがて桃(もも)の花は、女の子が全国的に祝賀される『桃の節句』は、
もとより3月上旬なので、何かと人生の歩みが遅かった私と似ている、と微苦笑しながら見惚(みと)れたりした。


この後、帰宅に向かう遊歩道の片隅に、ひっそりと咲いている草花に足を止めた。
       

私は民間会社を35年近く勤めて2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めた。

何かしら慎(つつ)ましい年金生活を過ごしにあたって、
人生信条は『清く貧しく美しく』とし、日常生活を過ごす目標として『野に咲く花のように』とした。
          
『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられ、まもなく私なりに命名した。

海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若さの勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
家内が免許状の昇進と共に、礼金も重なったりし、こうしたことは暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
         
そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。

やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。
       

私はこの1985年〈昭和60年〉の夏の時節以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきた。

このような『野に咲く花のように』を思い浮かべ、やがて自宅に足早に向かった。

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ブログの世界でも、出逢い、別れがあると、この人生の喜びと愛惜を深く重ねて・・。

2015-03-24 15:41:44 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳kを迎える身である。
ここ一が月、園児の卒園式、中学、高校生の卒業式、或いは社会人の入社式などのニュースを見たりし、
思いで深い人と別れて、新たな旅たちをされる人たちから、感動させられることが多かった・・。

私も民間の中小業に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたが、
この間は人事異動などで、もとより数多く人とめぐり逢う中で、
上司、同僚、後輩など盛んに交流を重ねたりしてきた。

やがて私は定年後は多々の理由で年金生活を始めて、
次第に疎遠になり、年賀状だけを交わすだけが大半となっている。

或いは一部の人たちと、年に一度ぐらい居酒屋で会ったり、
会社のOB懇親会がある時は、必ず出席して、懐かしき人と談笑を繰り返してきた。

古来より誰しもが長き人生を過ごす中、人との出逢い、別れがあると学んできたが、
改めて年金生活を過ごす中、実感を深めて、愛惜を重ねてきた・・。
       

こうした中で、私は定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。        

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
        
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
  
やがて幾つかのブログサイトを彷徨(さまよ)いながらも、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。
       

そして私が現在加入している【gooブログ】であり、
一時は他のブログサイトに加入して投稿を中止したことがあったが、10年は過ぎてきた。

私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
         
しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
                                                                   

こうした中で、ブログの投稿文を10年を過ぎた中に於いて、
ブログ上で出逢い、やがてコメント上で心の交流を盛んに重ねても、
ふとしたことで疎遠になり、別れとなる場合もある・・。

私がブログを初めてまもない2004年〈平成16年〉の12月の時、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入している中、
確か一カ月後に、九州の北部にお住まいの60歳前後と思われる奥方と
投稿文に於いてコメントをお互いにしたりした。

その後、2年ぐらい高校生の交換日記のように、殆ど毎日コメント欄で心の交流を重ねた。

こうした中で、この奥方が一枚の写真を添付し、散策する時に何かと魅せられている小花のひとつです、
と投稿文に掲載されていた。

私は恥ずかしながら無知であったので、ネットで検索したら、
『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』と明記されていたので、
命名された植物学者は、余りにも文学性の感性が欠落している、と思い苦笑した。

そして『瑠璃唐草』、『天人唐草』、『星の瞳』とも名づけられていたので、
この奥方に、『星の瞳』に瞬時魅せられました、と私はコメントしたりした。
           
           ☆過ぎし2008年3月、私が近くに流れている野川の川べりで、偶然に『星の瞳』にめぐり逢い撮った一葉☆

   
こうした淡き心の交流を2年半していたが、ご主人様がご病気となり、入退院をされる中、
奥方の投稿文も途絶え、やがて私たちの交流も途絶えがちとなり、
まもなく加入している【簡単gooホームページ】自体が閉鎖となり、そして交流も終えてしまった。

このような私にとっては、貴重な思いを秘めているので、
『星の瞳』を通して、この奥方は、私の年金生活を始めて不安な心情の中、心おだやかに過ごせたので、
女神のような人と私は思っている・・。

そして、その後に私は春先に散策したりする時、『星の瞳』を見かけたりすると、
あの奥方はどのように過ごされているのかしら、と思ったりし早や7年が過ぎている。
          


或いは数多くのブログの投稿文がある世界の中で、たまたま投稿文を読ませて頂く中、
瞬時に魅了される諸兄諸姉の投稿文があったりした。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
                      

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
このお方が投稿するたびに、必ず私が愛読してきたサイトである。

そして諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
熱烈な隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                     
             
私がブログを書き始めて、丸10年が過ぎて、早や11年生であるが、
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

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定年退職後の年金生活の中、日常の心の友ひとつには、時候と挨拶用語となり・・。

2015-03-23 15:39:52 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身である。

過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがてはかなくも敗退した。

そして止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
苦手な理工系のコンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学んだりした。

やがて1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
知人のご尽力もあり、何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく創立された外資系のレコード会社に移籍させられ、
音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
       
    
しかしながら最後の5年半はリストラ烈風の中、CD、DVDなどの音楽商品を扱う物流会社に出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心の本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感が増しながら、都落ちの無念さを感じたりした。

そして遠い勤務地に通勤し、やがて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。
               
             
そして、私は出向身分であったので、何かと烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

そして新聞、本、ブログなどで多くのお方の半生期を読んだりすると、何かしら自慢史が多く、
つたない私は、程遠い世界であったと苦笑したりする
         
更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。
                
そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた・・。
       

そして厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
          
年金生活を始めた当初、私は平素の買物に関しては、自主的に専任者と家内に宣誓したりした。

そして私は独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後も独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
       
       
こうした根底には、定年前の私は数多くの人たちと同様に多忙なサラリーマン時代であり、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたのである。

私は定年後した直後として、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は、年金生活の今でも料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。


私の日常の午後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
      
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
       

このような年金生活を過ごして11年生になったが、
日常の心の友ひとつには、時候と挨拶用語となってきた・・。

たとえば3月には、早春、浅春、春色、春分、春暖・・などの時候がある。

そして挨拶の用語には、
◎寒さも緩み
◎春まだ浅いこの頃
◎暑さ寒さも彼岸までと申し
◎一雨ごと暖かさにもう春はそこまで
◎ようやく春めきなごやかなる季節に
◎春眠あかつきを覚えずの季節
◎小川の水もぬるみ
このような用語が、私は限りなく信愛している。

たとえデジタルの世界がどのように進化しても、私の日常の基軸は変わらないなぁ、
と微笑んだりしている。

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長生きできる人、できない人のBMI(肥満度)値を学び、私は微苦笑を重ねて・・。

2015-03-22 14:51:42 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたひとりである。

やがて2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断され、青色吐息となり果て、
内科の医師の指導、家内は野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、
血糖値を下げる薬、そしてコレステロールを下げる薬を頂き、 日々朝食後に飲んでいるが、
これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
        

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
       

こうした年金生活を10年過ごしてきた中、
健康診断で身長は170センチが168.5センチと、1.5センチ縮〈ちじ〉んでしまったり、
体重も70キロから76キロ前後と太ってしまったが、
多少太っていても、心身元気であれば良いではないか、と微苦笑を重ねたりしている。


先ほど、愛読している総合ビジネス情報誌として名高いサイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていたら、
『長生きできる人、できない人のBMI値は?』と見出しを見て、
どういうことなょ、とクリックして、記事を精読してしまった。


このサイトの中に『男の健康』コーナーがあり、そして『ダイエット メタボ対策』の中にひとつ記事であり、
5時から作家塾(R) 代表の吉田克己さんが寄稿された記事であった。
そして副題として、『基準値の変更から考える日本人の健康 』と明記されていた。
       

無断であるが大半を抜粋させて頂く。

《・・中高年になるとコレステロール値や血糖値、BMIなどの数値が気になるようになる

筆者程度の年齢(50代)ともなると、健康診断の結果が出た直後でなくとも、
コレステロール値が高いだの、血糖値がどうのこうの、BMIが云々かんぬん……といった話題には事欠かない。

中高年の多くが「数値」を気にしている一方で、
通院したり薬を飲んだりしなければならない基準については、何か釈然としない人も少なくなさそうだ。

その裏からは、陰謀論とまではいかずとも、
「製薬会社が儲かるように、基準値は厳しめに設定されているんじゃないの?」との懐疑心が透けて見える。

じつは、もう10年近く前のことだが、筆者は、降圧剤の新薬発売に伴う医師向け資料の作成に関わったことがある。
その中には当然、開発に関わった大学教授のコメントも載せるわけだが、
その教授が「血圧はもっともっと下げる必要がある。今の基準値ではまだまだ……」と、
まるで御用学者のように強調していたことを記憶している。

そもそも、性別と年齢だけで分類した集団の健康度を、一つの基準で計ること自体、
無理があると言えば無理がある。

そんな中で、昨年4月、人間ドック学会などがつくる専門家委員会は、
「現在の基準で正常とされている数値の範囲を大幅に“緩めるべき”(強調は筆者による)」だとする調査結果を発表した。

ただ、この「緩めるべき」は報道する側の解釈でもあり、別のメディアの中には「広げます」としているところもある。
       

新たな基準は・・この「基準範囲」は、生活習慣的にも問題のない健康人の検査数値の範囲に、
自分の検査数値が収まっているかどうかを判断するためのものである。

この新基準は、予定どおりであれば、今年の4月から適用される。

よってここで、主な項目の基準範囲が、具体的にどのように変わる(予定)なのか整理しておこうと思う。

〈血圧〉
現在の正常値:拡張期の下限 84、収縮期の上限 129
新・基準範囲:拡張期の下限 94、収縮期の上限 147

〈肥満度(BMI)〉
現在の正常値:男女ともに25以下
新・基準範囲:男は27.7以下、女は26.1以下

〈中性脂肪〉
現在の正常値:男女ともに血液100mL中30~149㎎
新・基準範囲:男は同39~198㎎、女は同32~134㎎

〈LDL(悪玉コレステロール)〉
現在の正常値:血液100mL中120㎎未満
新・基準範囲:男は同178㎎以下、女は同44歳まで152㎎以下・64歳まで183㎎以下・65歳以上190㎎以下

〈総コレステロール(中性脂肪)〉
現在の正常値:男女ともに血液100mL中199㎎以下
新・基準範囲:男は同254㎎以下、女は同44歳まで238㎎以下・64歳まで273㎎以下・65歳以上280㎎以下

〈HbA1c(糖尿病コントロール値)〉 ※いわゆる「血糖値」とは別もの
現在の正常値:男女ともに5.5%以下
新・基準範囲:男は4.97~6.03%、女は44歳まで4.83~5.83%・64歳まで4.96~6.03%・65歳以上5.11~6.20%

〈γ-GTP〉
現在の正常値:男女ともに0~50  
新・基準範囲:男は12~84、女は9~40

総じて見ると、血圧と肥満に関する項目の上限値が大きく変わっている。
実際ここ数年、「健康には小太りなくらいがちょうどよい」といった言説が定着してきている感があり、
この流れと軌を一にしていると見ることもできる。

また、最近ではむしろ、20代女性の痩せすぎのほうが問題視されている。
       


最後に、寿命との相関では、BMIはいくつくらいが理想的なのだろうか?

一般的に、BMIの小さい痩せた人は肺炎や結核などの感染症の発病率が高く、
BMIの大きな太った人は糖尿病や心臓病などの発病率が高いと言われている。

米国の生命保険会社が数百万人規模の調査を行った結果によると――
体型別に40歳時点での平均余命を調べた別の調査によると、
BMIが18.5未満(痩せ)、18.5~25未満(普通)、25~30未満(太り気味)、
30位上(肥満)の4群に分けて見てみると、
男女とも25~30未満が最も平均余命が長くなっている。

18.5以上の3群のあいだには、それほど大きな差はないが、
18.5未満の平均余命は男女ともがくんと下がる(25~30未満と18.5未満とでは約7年もの差がある!)。

つまり、寿命を考えれば、「小太り」「ふつう」「でぶ」が比較的僅差の表彰台であり、「ガリ」は入賞圏外ということになる。

アジア系である日本人の場合、一般的な米国人よりも最適BMIは少し低くなるそうであるが、
中高年でBMIが20台前半から半ばというのは、先の新・基準に照らしても、正常かつ理想的ということになりそうだ。・・》


私は今回の記事を読み終わった後、古今東西、殆ど方が長寿を懇願する人が多いが、
こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄ることである。

私は昨年の9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、
総務省の公表に寄れば、日本の70歳以上の方は2383万人で、総人口の19%近くの長寿社会を迎えている今日、
古来稀(まれ)なり・・は死語だよねぇ、と微苦笑を重ねたりした。、

しかしながら70代となれば、一部の溌剌とした方を除き殆ど方は、
体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、70代の年金生活は、どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。
       

私は何かとプラス思考の単細胞であるので、
年金が減少、医療費の高騰、諸物価は不安定、何かと将来に不安となる中で、
ひとすら歩き、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命を保つことが肝要、と思ったりしている。

そして私の父は42歳の若さで病死され、母は77歳の『喜寿』の祝いの後、病死されたが、
私は秘かに男性の健康平均寿命の71歳を超え、やがて男性の平均寿命と称せられる80歳まで、
認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、駅前までの片道1キロぐらいの路を
自力で歩いて、往復して買い物に行きたい、と念願したりしている。

このような思考の私は、痩せようと太ろうと心身ともに自立していればBMI(肥満度)などは気にしない、
と思いながら、現在より余りにも体重が変動すれば、普段着、外出着など買い改める必要となるので、
困るよなぁ、と微苦笑したりしている。

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毎年『春分の日』の日は、私たち夫婦は長兄宅に行き、やがてお墓参りを重ねて・・。

2015-03-21 16:07:37 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後37年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、毎年『春分の日』の日は、私たち夫婦は私の生家の実家となっている長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っているのが、恒例ようになっている。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
両親、祖父、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、この日の『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。
       

今朝、曇り空の中、9時20分過ぎに長兄宅に行き、
いつもように長兄夫婦と一時間ばかり談笑したりした。

こうした中で、今年の誕生日を迎えと長兄は76歳、義姉は69歳となり、
私も71歳、家内は66歳を迎えることとなるので、
お互いに無理しないで過ごしましょう、と語り合ったりした。

やがて私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩5分ぐらいにあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、路線バスの利便性に頼らず、片道20分ばかり道を歩いたれした。

いつものように山門から私たち夫婦は入り、
        

寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり程広く、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。
               
       私の生家は室町時代から代々続いていた農家で、父まもなく祖父が亡くなった私の小学3年まで継続されたが、
       その後はやむなく転業して今日に至っている。
       こうした関係から、右側は徳川時代の後期までのお墓となり、これ以降は左側に添付したお墓で、
       私たちはいつものように二つのお墓参りをしている。

この後、私たちは私を育ててくれた祖父、父、母、次兄などが永眠しているお墓の墓石を水で清め、
途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を奉(ささげ)、お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。

お線香の紫煙が立ち昇る中、祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。

こうした思いを重ねたりした後、毎年ながら母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時に病死され、
その1年を過ぎた後、まもなく祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

こうした確かな記憶の片隅から、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる・・。

そして生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

まもなく淡い陽差しの中、お線香の煙が芳香を残して、
澄み切った空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。


やがて寺を辞した後、現実の身過ぎ世過ぎの生活に帰った。
       

今回はホームセンターで台所の備品、洗面用の石鹸、洗濯用の洗剤、柔軟剤などを
多めに買い求めに、一キロばかり歩き、買い求めた。
そして配達依頼をして、帰宅したのは午後1時過ぎであった。

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私の住む地域、散策すれば木の芽時(このめどき)にめぐり逢えず、代わりに・・。

2015-03-20 15:34:09 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後37年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、私たち夫婦は明日の『春分の日』は、毎年私の生家の実家である長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っているのが、ここ10年の恒例となっている。

そして長兄宅の仏壇に捧げる品を買い求める為に、本日の10時過ぎに私は独りで駅前に向かった。


私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
我が家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
或いは私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。

しかしながら我が家の周辺は、それぞれ住宅が密集している住宅街となっている。
       


本日は小田急線の『狛江』駅前にめざしたが、いつもように路線バスの利便性には頼らなく、
住宅街の中にある遊歩道を歩いたりした・・。

私は健康寿命を保つには、ひたすら歩くことが肝要である、と思っていたからである。

そして今の時節、遊歩道を歩けば、数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木が、
木の芽時(このめどき)と称せられる芽吹きに、めぐり逢えるかしら、と秘かな願望を秘めていた。

私は幼年期に農家の児として育った為か、
木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。

やがて遊歩道を歩きながら、クヌギ、コナラなど落葉樹を眺めたりしたが、
今年の冬は平年より三寒四温が激しい為か、冬木立のままであり、少しばかり落胆をしたりした。

こうした中で、いくつか花にめぐり逢えたりした・・。
       

そして幼年期に、早春時期に生家の片隅にあった『木瓜(ボケ)』があり、
偶然に60数年ぶりに再会でき、見惚(みと)れたりした・・。
       

やがて10分ほど歩けば、たわわな純白の花を見て、しばらく眺めたりした。
       

そして早咲きの桜(さくら)かしら、と見惚れたりした。

やがて別れる前に、少しアップで撮ったりした。
       

その後、足早に駅前にめざして歩いた。

やがて駅前の専門店が集約されているビルに入った。
     
私が専門店で買い求める品は、和菓子にも拙〈つたな〉い知識しかない私が、
ここ10数年、新年、春のお彼岸、お中元、夏のお盆、秋のお彼岸、お歳暮などの時、
実家、知人宅に選定している和菓子であった。

恥ずかしながら告白すれば、文明堂の三笠山であり、この詰め合わせを愛用している。

三笠山を中核に、ゆず、白桃、あんず、抹茶、栗などの風味の品が、
それぞれの季節に応じてあるので、私なりに調和して詰め合わせにして、進呈しているのが、
ここ10数年の習わしのようになっている。
       

もとより味覚も良く、色合いも良く、そして日持ちも良いのである。
その上、高齢者から幼年者まで、どなたでも賞味できるので、
我が家が愛用している品のひとつとなっている。

これ以前は高価な紅茶セット或いは山本山の海苔セットを買い求めたりしていたが、
何かしら単細胞の私は、今回も三笠山を買い求めて、やがて帰宅に向かった。

このようなことが、私の午前中の出来事であり、進歩していないなぁ、と微苦笑したりしている。

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免疫力が高まる10の生活習慣を学び、高齢者の私でも、微苦笑して・・。

2015-03-19 16:07:14 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
家内と昼食を頂いた後、ネットでニュースを見たりしていた。

やがて偶然に『 オヤジでも免疫力が高まる10の生活習慣 』と見出しを見たりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、もとより『オヤジ』には落選であるが、
免疫力が高まる10の生活習慣って、どういうことなょ、
と関心が高まり、クリックしてしまった・・。

何かしら【日刊SPA!】公式サイトで、2014年9月20日に配信された古い記事となっていたが、
生活習慣などは数年の古さなどは、大勢に影響ないと思ったりした。

そして配信日の横には、 R-30、明記されていたので30代対象の記事かしら思いながら、
私は平素からご近所の奥様、ご主人の多くから、10歳ぐらいお若いですわ、
と御世辞をいわれたりしているので、この記事を果敢に読みはじめた。
       

この記事は日刊SPA!取材班が、『免疫力をあなどるな!』 (サンマーク出版)の著者であり、
がんワクチン「バクセル」の開発をするテラ社・代表取締役の矢崎雄一郎・医師にインタビューした記事である。

無断であるが、この記事の大半を転記させて頂く。
《・・オヤジでも免疫力が高まる10の生活習慣

私たちの身体では1日5000個の癌細胞が生まれ、5000個やっつけている。
そのディフェンスの要は免疫細胞だ。つまり「免疫の衰えは万病の素」といえる。

免疫力が衰えるオヤジ世代にとって、「免疫アンチエイジング」は果たして可能なのか?

「私たちの健康を左右する、司令官役の免疫細胞を樹状細胞と言います。
私はこの樹状細胞をわかりやすく“ボス細胞”と呼んでいます。

有能なボス細胞作りを心がけることで飛躍的に免疫力は高まり、老化防止と健康促進を同時に叶えてくれるのです。
人間の身体は60兆個の細胞があり、新陳代謝によって常に新しいものに入れ替わる。
歳をとっても、ボス細胞のおかげで、健康に生きられているんですよ。」

加齢で衰える免疫力も、日ごろの行い次第で免疫アンチエイジングできるようだ。
では、どうすれば有能なボス細胞に生まれ変わらせることができるのか? 
矢崎医師にポイントとなる生活習慣を上げてもらった。
       

・朝食を抜かない

・野菜2:肉1のバランスで、多種多用な食品を摂る

・最高の健康食は「納豆キムチ」

・1日1杯の味噌汁を飲む(味噌汁のほか、ヨーグルトなどの発酵食品を含む)

・喉が渇く前に、水を飲む

・過度な除菌、抗菌をしない

・1日2回、歯磨きをする

・1日10分でも仮眠をとる

・ツラいと感じる運動は3日でやめる

・寝る前のスマホは厳禁。初恋を思い出しながら寝る・・》


私は記事を読み終わった後、微苦笑してしまった。
       

『朝食を抜かない』
私は何かと単細胞の為か、キャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを前菜としている。
そしてこの寒い時だけは、電子レンジで少し温めて、愛食している。

この後、五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
そしてコブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしている。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、このような内容が多いのである。

家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いている。


『野菜2:肉1のバランスで、多種多用な食品を摂る』
       
我が家は昼食は蕎麦(そば)或いは素麺(そうめん)が多いが、
私はフランスパンを三分の一、或いはアンパンを食べることもあり、
家内はケーキのような菓子パンを食べたりする時もある。

夕食はキャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを前菜とした後、
牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉をその日に応じて、家内の料理してくれた食べることが圧倒的に多い。
そして5日に一回ぐらいは、私はビールかウィスキーの濃い水割りを呑んだりすることもある。

そして私は母親の遺伝と思われるが、男の癖におしゃべりなタイプで、
家内を微苦笑させながら、談笑をしたりするので、夕食は少なくとも一時間を要したりしている。

このように食事に関しては、高齢者の我が家でも、合格かしらと思ったりしている。


『最高の健康食は「納豆キムチ」』

私はキムチは苦手で、30代の時に一度だけ食べたが、これ以降は天敵となっている。
しかしながら、家内はキムチも納豆も好きで、週に一度ぐらい愛食している。


『1日1杯の味噌汁を飲む(味噌汁のほか、ヨーグルトなどの発酵食品を含む)』

私は朝食の時は味噌汁を頂き、家内はヨーグルトなどの発酵食品を頂いている。


『喉が渇く前に、水を飲む』

私は何かと煎茶を頂いている。


『過度な除菌、抗菌をしない』

私は気付いていないが、高齢者は清潔感が大切、と家内から叱咤激励されて実行している。


『1日2回、歯磨きをする』

殆どの方は自分がこの世で一番可愛いので、私も目覚めた後と寝る前に磨いている。


『1日10分でも仮眠をとる』

私は年金生活して、我が家で日中に眠いと感じたら、昼寝を一時間前後することもある。


『ツラいと感じる運動は3日でやめる』

私は一時ウォーキングをしたが、無理すると体に不安を感じ、
ひたすら歩き、ときには足早に歩く時もあるが実態となっている。
       

『寝る前のスマホは厳禁。初恋を思い出しながら寝る』

無念ながらスマホは使えなく保有していない。

初恋を思い出しながら寝る・・このことは今回の中で最大の難問となっている。

もとより初恋の人は、言葉、しぐさ、表情は今でも忘れることなく、心の片隅にある。
しかしながら《・・思い出しながら寝る・・》は、はかなくも初恋は破綻してしまい、
高齢者の今は、寝付かれなくなってしまうので、無理難題である。


このように免疫力が高まる10の生活習慣を思い重ねて、微苦笑している。

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認知症の予防の多彩な方法を学び、70歳の私は多々教示されて・・。

2015-03-18 14:57:31 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたひとりである。

やがて2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断され、
内科の医師の指導、家内は野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、
血糖値を下げる薬、そしてコレステロールを下げる薬を頂き、 日々朝食後に飲んでいるが、
これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
        

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
       


本日の昼食後、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
『認知症 予防あの手この手』と見出しされた記事を偶然に知り、
どういうことなの、と不安を秘めながら精読してしまった・・。

何かしら読売新聞で2015年3月16日に掲載され、記者の坂場香織さんが綴られた記事で、
無断ながら転載させて頂く。

《体と頭を同時に使い、認知症を予防しようとする取り組みが広がっている。
神奈川県綾瀬市では市民有志が企画した「歌体操」、
県はウォーキングと計算などを組み合わせた「コグニサイズ」の普及を目指す。

2025年には65歳以上の5人に1人が認知症になるという厚生労働省の推計値がある中、
元気な高齢者を増やすことが狙いだ。

「もっと大きく動いて。広い花畑に舞うチョウチョのイメージでね」。
講師がアドバイスすると、参加者から笑いが起こった。
       

今月2日、綾瀬市深谷中の市立中村地区センターで行われた「認知症にならない、させない! 楽しい歌体操」の一コマだ。
笑いには、免疫力を高める効果があるとされる。

集まったのは、60~80歳代の女性約40人。
「早春賦」や「花の街」「冬景色」など昔懐かしい唱歌などを歌いながら、
腕を伸ばしたり足を開いたりする体操を約30分行った。

幼少期や青春時代に親しんだ歌を歌うことで、当時の記憶や楽しかった思い出がよみがえり、
脳の活性化につながる効果が期待できるという。

講師を務めた同市在住の認定心理士吉川ひろみさん(56)は
「筋力の維持や有酸素運動だけでなく、歌を歌うことで滑舌や頭の訓練にもなる」と歌体操のメリットを話す。

参加した市内の主婦(79)は「歌いながら楽しくできた。きつい運動ではないので、続けられそう」と笑顔を見せた。


超高齢化社会の到来で、元気な高齢者を増やすことは待ったなしの課題。
厚労省は今年1月、10年後の2025年には認知症の高齢者数が700万人に達し、
5人に1人が認知症になるとの推計値を明らかにしている。

これを受け、政府は同月、医療・介護分野の支援強化や社会参加の促進などを盛り込んだ認知症対策に関する
初の国家戦略を決定した。
       

横浜市戸塚区では、2006年頃から料理や旅行、パソコンなどのテーマに分かれ、
グループワークを行うことで認知症予防を図る取り組みを続けている。
人と交流しながら、手先を動かしたり、計画や手順を考えたりすることで脳を鍛える効果があるとされる。

県も認知症予防に向けた取り組みを2014年度からスタートさせている。
ウォーキングなどの運動に、しりとりや簡単な計算などの頭の体操を組み合わせる「コグニサイズ」だ。

コグニション(認知)とエクササイズ(運動)を組み合わせた造語で、
すでに小田原市や箱根町など県西地域2市8町で体験教室などを実施。

2015年度予算案には「コグニサイズ」の全県展開に向け、約900万円の予算を計上した。
県高齢社会課は「研修などで市町村のバックアップをしていきたい」としている。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
       

私の父は、私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死された。

やがて私が54歳の時に、母は喜寿と称される77歳を迎えてまもない時に、
婦人系のガンで3年ばかり入退院してきた中で、死去した。

家内の父は、私が定年退職する2004年(平成16年)秋の直前に、
腎臓のガンに5年ばかり入退院してきた中で、78歳でこの世を去った。

いずれも幸いに認知症には関係なく、亡くなった。

そして私たち夫婦の両親は、私より14歳齢上の家内の母だけとなっているが、
3年前に膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)をついて歩いたりしているが、心は溌剌としている。


こうした中で、今の私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。

私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりする時もあるが、
こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。
       

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       

今回、認知症の予防の多彩な方法を学び、多々教示された・・。

私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして悲嘆の出来事に遭遇しても、やがて落胆してばかりでは解決にならないので、
プラス思考に転じて、これまで過ごしたりしてきた。
       

今回、私のこれからの老後の日常生活の中で、やがて最大の難関と思われる認知症に多々教示され、
少しばかりその時に応じて緊張感を増して言動すれば良いかしら、と思ったりした。

そして私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。

私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。


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『でんき家計簿』、遅ればせながら我が家も加入して、やがて微苦笑して・・。

2015-03-17 15:01:56 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若い65歳となっている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

昨日の夕方、門扉の近くにある郵便受け箱を見たら、東京電力より葉書で郵送されていた。
そして開封したらインターネットサービスの『でんき家計簿』に関する勧誘の葉書で、
私は微苦笑したりした・・。
       

過ぎし10日前の頃、無料で加入できるインターネットサービスの『でんき家計簿』について、
チラシが郵便受け箱に入っていたので、私は精読したりした・・。

もとより東京電力は、首都圏1都7県(群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県、東京都、千葉県、神奈川県、山梨県)、
静岡県の富士川以東の広大な地域を電力を安定供給させる責務があり、
こうした中で『でんき家計簿』の会員は、遅ればせながらすでに170万人が加入していることを知ったりした。

そしてこの『でんき家計簿』のサービスのひとつには、電気のご使用量と料金に関して、.
最大で過去24か月分の電気のご使用量と料金の一覧表示ができる。

その上に、最大で過去12か月分の電気ご使用量の前年同月との比較グラフ表示
(同じ契約容量のお客さまの平均使用量を月ごとにグラフ表示)、
或いは最大で過去12か月分の電気料金の前年同月との比較グラフ表示で把握できるので、
このような理由で、我が家は会員登録をしたりした。
            

やがて、会員ページを開き、我が家の実態を見たりした・・。
《 今月の請求金額
  2015年2月
  請求金額・・・ 8,334円
    うち消費税等相当額 617円
  ご使用量・・・・ 285kWh 》

そして下段には、
《 お客さまのご使用状況: 1月23日 ~ 2月23日

お客さまのご使用量は、お住まいの地域の省エネ上手なご家庭を65%上回っています

省エネ上手なご家庭・・・173 kWh
お客さま・・・・・・・・・・285 kWh.
よく似たご家庭・・・・・356 kWh.   》
このように表示されて、私は微苦笑したりした。

我が家は寒さを感じた時は、暖房は居間にあるエアコンを使用せずに、ガスファンヒーターに頼り、
そして寝室の布団は電気毛布で甘享している。
夏季の季節になると、居間と寝室にあるエアコンが稼働させて、冷気を享受している。

このような我が家の特徴があるが、この1月23日~2月23日は平年より三寒四温が激しく、
この間に7泊8日で国内旅行に行き、家を留守をしたが、
何かと電気毛布を使用する時間が多かったかしら、と苦笑したりした。

何よりも家内は洗濯機で平素から2度洗いする習性がある上、
更に冬場は外干しの時間が短くなり、やむえなく乾燥機が孤軍奮闘する時間が多く、
電気に頼り時間が多くなっているのである。

しかしながら、高齢者ふたりだけの家庭としては、多いかしら、と微苦笑したりした。

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