私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の23日の朝のひととき、いつものように読売新聞の朝刊を読んだりした。
33面の武蔵野版の『地域』面に於いて、【~東京の記憶~ 戦後65年 】と題した連載記事があり、
《 調布B29墜落
油まみれの犠牲者》
と見出しされた記事を深く精読したのである。
特に私は調布の地域で生を受け、現在も生家の実家の近くに住んでいるので、
特に深く二度ばかり読み返したりしたのである。
この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を掲載されていたので、
無断であるが転載させて頂く。
《
『東京の記憶 戦後65年 連載』
調布B29墜落 油まみれの犠牲者
~ 同級生の最期 丹念に取材 ~
調布飛行場の門の前で「戦争の資料や遺跡を残していきたい」と話す岩崎さん(調布市で)
1945(昭和20)年4月7日。
調布飛行場から飛び立った戦闘機「飛燕(ひえん)」が米軍爆撃機B29に体当たりするのが見えた。
白煙を噴き出したB29は、7、8機の編隊から離れ、ゆっくりと左旋回しながら墜落していった。
「やった!」。
空襲警報が鳴り響く中、調布町(現・調布市)下石原の自宅近くで直前まで、
B29編隊から爆弾が次々投下される様子を唇をかみ締めながら眺めていた岩崎清吾さん(77歳)。
調布国民学校(現・調布市立第一小学校)を卒業し、旧制中学への進学を控えた春休み中だった。
近所の子らと一緒に手をたたいたが、本当は墜落を喜んでいる場合ではなかった。
武蔵野町(現・武蔵野市)の工場で零戦を生産していた中島飛行機武蔵製作所などを狙った空襲が
1944(昭和19)年11月から連日続き、
「調布も戦場になってしまった」と感じていたが、
「子供だったから、爆弾が近くに落ちてこなければ、防空壕(ごう)にも入らず様子を見ていた」と振り返る。
実は、バラバラになったB29の機体のうち、主翼の一部が、岩崎さんらがいた場所から約3キロ東の国領に落下。
国民学校の同級生だった河栗和子さんや両親ら8人が防空壕の中や母屋で犠牲になったと聞いたのは戦後になってからだ。
B29に乗っていた米兵11人のうち10人も死亡した。
□■□
「私たちの戦争の記憶を書き残さないか」。
50年近くが過ぎた1992(平成4)年頃、還暦を控えて国民学校の同級生が同窓会の準備のため久しぶりに顔をそろえた席で、
岩崎さんは提案した。
作家の藤原ていさんの「流れる星は生きている」など戦争関連書籍の編集に偕成社で携わり、
「いつかは自らの体験も残したい」と思うように。
編集者時代に地元での活動が出来なかった悔いもあり、調布の戦争の歴史を伝えたいと考えたのだ。
その場にいた2人が提案に賛同し、翌年には住所がわかった同級生約120人に趣旨書を発送。
1995(平成7)年に体験記「心に秘めていた戦争の話」を出版した。
これをきっかけに、岩崎さんを代表とする「調布市戦時記録保存会」が発足。
現在、25人が、市内の学校やイベントで戦争体験を語り、戦時中の史跡を保存する活動も続けている。
□■□
戦争体験を語るときには、飛燕と、3倍以上の大きさになるB29の模型を持参し、
両機の違いが一目でわかるよう説明する。
スライドには、河栗さんと、約50日後の5月25日に空襲で焼夷(しょうい)弾の油を浴びて重いやけどを負い、
7月に亡くなった同級生竹内喜久枝さんの顔写真を映し出す。
B29に乗っていた米兵の氏名や役割も子供たちに示し、戦争の様子が具体的にイメージできるように気を配る。
活動を通じ、河栗さんの叔父には電話で、
遺体がB29の油にまみれていたことなど最期の状況を聞けた。
竹内さんの兄の源三郎さん(82歳)とは、今も交流が続く。
源三郎さんには、年の離れた妹と出かけたり、遊んだりした記憶はあまりないが、
実家が空襲に遭ったと聞いて入院先の病院に駆けつけると、
「お兄ちゃん」と笑顔を見せてくれたという。
源三郎さんは「岩崎さんたちが妹のことを語ってくれることで、
私が知らなかった妹の姿が見えてきてとてもうれしい」と話す。
男女一緒に机を並べる機会がなかった時代。
直接の2人との思い出はほとんどなくとも、
庶民が被害に遭ったことをきちんと残しておきたい、と岩崎さん。
「戦争は犠牲者の数で語られがちだが、
彼女らの写真を見て、一つひとつの命の重さを感じてほしい」
活動の原動力は「戦争の苦しみを子供や孫に二度と体験させたくない」との思いだ。
(佐々木大輔 32歳)
(2010年3月23日 読売新聞)
》
注)記事の原文にあえて改行を多く、和暦も追加した。
http
://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231267978517282_02/news/20100323-OYT8T00077.htm
☆ 【YOMIURI ONLINE】『東京の記憶 戦後65年 連載』 調布B29墜落 油まみれの犠牲者 ☆
私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦時は翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代であるが、日本人のひとりの責務として、
戦争に関しても私なりにこのサイトで数多く投稿したりしている。
たとえばこの中のひとつとして、幼児、少年期に防空壕などで遊んだりした体験もあるので、
今回はこのことを中心に綴ることにする。
私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人達はもとより、親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。
北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、
と話していた。
祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。
少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。
250キロの爆弾と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。
我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。
私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。
私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。
この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。
雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。
後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。
この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。
このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。
今回、新聞記事を拝読する前はこのような思いであったが、この記事からは多々教示を受けた・・。
敗戦の四ヶ月前の4月に於いて、調布飛行場から迎撃で飛び立った戦闘機の『飛燕(ひえん)』が、
米軍爆撃機のB29に体当たりし、この中の一機が白煙を噴き出したB29が、
7、8機の編隊から離れ、ゆっくりと左旋回しながら墜落。
そしてB29に乗っていた米兵11人のうち10人も死亡。
何よりも私は空襲で焼夷(しょうい)弾の油を浴びて重いやけどを負い、亡くなった方たち、
このように数々の悲惨な実体験をされた方を思い馳せると、ご冥福を重ねながら、涙を流したりした。
そして、私は齢ばかり重ねた65歳の身であるが、
わが街の戦争の歴史についても余りにも無知ことが多過ぎ、
まぎれない過酷な戦争の実態を目をそらせず学ぶことこそ、
たとえ戦争を知らない世代の私でも日本人のひとりとしての責務と思っている。
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