夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

桜花の中、新たなる新年度を迎え・・。

2010-03-31 08:51:03 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、久しぶりに、澄み切った快晴の朝を迎えている。

ここ数日、駅前に買物と小用で出たり、散策をしたりとすると、
何処に行っても、桜花の季節である。
私の地域は染井吉野(ソメイヨシノ)が陽当り良いところでは五分咲き、陽陰の多いところは三分咲きかしら、
と私は微笑んだりしている。

しかし天上の気候の神々のたわむれか、平年より寒い日々が続き、
私はどうしてなの、と戸惑いながら過ごしてきた。


本日は三月の月末とカレンダーを眺めながら、
民間企業の多くは決算月の最終日が多いと思い、働いて下さる現役の諸兄諸姉は、
何かと更に多忙な日になる、と定年退職を終えた私さえ、
現役のサラリーマン時代に思いを馳せたりした・・。

そして新社会人も迎え、一喜一憂をもたらす人事異動は既にはじまり、
新たなる職場、新赴任先で健闘されている方も多いと思われる。


明日より、小学生、中学生、高校生、そして大学生の新年度がはじまる。
多くの方は進級し、気持ちを新たにし、クラスの編成変えで、
共に学んだ学友と隣接した席と別れたり、或いは新たなる出会う学友もいると思われ、
人生の清新のひとこまと思ったりしている。
そして何よりも微笑ましいのは、ピカピカの小学一年生の姿を見ると、
私は幾つになっても、見惚(みと)れることが多いのである。

私が1951(昭和26)年に小学校に入学した時、
入学式の時に校庭の中心にある桜が満開となり迎えてくれた。
遠い想い出であるが、幸運にも満開となり、65歳を過ぎた今でも、心の中の大切なひとつとなっている。


東京の郊外は、昼下がりには15度前後の春の暖かさにつつまれ、
定年退職後の6年生の私は、日中のひととき散策し、どの桜花を愛(め)でようかしら、
とぼんやりと朝の陽射しを受けながら思ったりしている。



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私達夫婦の35年目の結婚記念旅行の企画は・・。

2010-03-30 17:21:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
家内と結婚して、たまたま本日の30日は結婚記念日なっている。

1976(昭和51)年であったので、少しボケた私は34年間を迎え、明日からは35年目となるのかしら、
と思ったりしている。
そして私達夫婦は、国内旅行が共通の趣味であるので、どこかに訪れて記念旅行にしょうか、
とここ20日間ぐらいを思案してきた。

偶然にJR東日本が発行している『びゅう(VIEW)』の『北東北 青森・秋田・岩手』編を見て、
喚起されて、少しばかり変ったプランを私達は立案したのである。

5月下旬の頃に東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
リゾート『しらかみ』に乗り換えて北上し、『ウェスパ椿山』駅で下車した後、
日本海に面した青森県の黄金崎温泉の『黄金崎(こがねざき) 不老ふ死(ふろうふし)温泉』の新館に3泊する。

この後は、リゾート『しらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊し、
青森駅に戻った後は、駅よりバスで70分ぐらい乗った先の山里にある酸ケ湯(すかゆ)温泉の『酸ケ湯温泉旅館』に2泊する。

そして青森駅に戻った後、特急スーパー『白鳥』で八戸駅で下車した後は、
近くにある鮫駅に移動して、蕪(カブ)島でアホウドリを観て、八戸駅に戻り、
八戸駅より東北新幹線『はやて』で東京駅に帰京する8泊9日間の旅行である。


昨夜、未知の酸ケ湯温泉のことで家内と談笑しながら夕食を頂いていた時、
山里の酸ケ湯温泉より少し奥まった蔦(つた)温泉に訪れてみたいわ、
と私達はお互いに話し合ったりしたのである。

この結果、私達は本日の午前中のひととき、旅行日程の案を変更したのである。
酸ケ湯温泉を一泊にして、蔦温泉の『蔦温泉旅館』の西館に2泊することにし、
結果として9泊10日間の日程となったのである。
このことはブナが圧倒的に多い森があり、この中の一部に遊歩道があり散策しょう、と思い立ったりし、
ブナの芽吹きの頃と思い、旅立つ日は5月下旬としたのである。


私達夫婦は駅前の旅行代理店に行き、要望を伝えた後、
担当の方がそれぞれの関係先に問い合わせと予約ができるまで、
私達は付近のコーヒー・ショップに寄ったり買物をしたりして時間を過ごし、
予約が完了したのである。

このような風変わりな結婚記念日を過ごして、先ほど帰宅し、
お互いに疲れた、と微苦笑したりしている。

そして、夕食はお寿司でも配達して貰い、頂きましょうか、と話し合ったりしている。


私達夫婦の結婚記念日の過ごし方には、このサイトでも程々に綴っているが、
この中のひとつして、一昨年の2008年3月30日には、
【 あの日から、30数年過ぎれば・・♪ 】と題して投稿している。

【・・
私が家内と結婚したのは、昭和51年3月30日であり、30何年目かしら、と思っている。

最初の一年目は、結婚当日に宿泊した都心のホテルに泊まり、
背伸びして高級ワインを呑みながら、フランス料理を頂いたりした。

http://www.newotani.co.jp/tokyo/

翌年になると、銀座の食事処で夕食を頂き、記念日をお互いに祝ったのである。

三年目になると、賃貸マンションから一戸建ちの引越し前後で、
慌しい中、結婚式場でキャンドル・サービスの際、大きなキャンドル(蝋燭)を頂き、
これを新居で灯(とも)したのである・・。

この大きなキャンドルは、どうした訳か解からないが、
25年まで目盛りが付いていたのである。

私達は子供に恵まれなかったが、
数多くの夫婦は25年過ぎれば、子供達が成人し、やがて次世代となるからだろう、
と理解したのである。

私達夫婦は10年頃までは、
記念日の夕食の時は、キャンドルを灯して、家内が改まった容姿で居間で食事を頂いたりした。
そして互いにプレゼントの品を渡しあっていた・・。

その後は、お互いの共通の趣味が国内旅行であるが、
私のサラリーマン現役時代は3月決算月は更に多忙期となったので、
2月に2泊3日で各地を訪ねて、記念旅行としていた。

ここ数年は、私は年金生活の4年生の身となったので、
家内からは旅行の宿泊数が多いのが良いわ、
との要望で、この記念日前後は5泊6日前後の旅行となっているのである。

・・】

このように綴っているが、齢を重ね日常生活は身過ぎ世過ぎの年金生活なので、
ときには共通の趣味である国内旅行をしているのであり、
たまたま結婚記念日の前後は、記念旅行と称しているに過ぎない、と私は微苦笑している。




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荘厳と美麗な『富士山』、自宅で拝観し・・!?

2010-03-29 07:07:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の28日、いつものように朝のひとときに読売新聞の朝刊を読んだりし、
35面の下段に、
《美しい日本を、もっと記憶したい。》
と大きく明記されていたので、私は思わず見たのである。

そして、下段には、
《美しい映像と音楽で、続々配信中。》
と明示され、

『美しい日本 ~奈良~ 』

『万葉集』

『富士山』

『京都二十四節気』

と題され、情感ある写真と共に掲載されて、解説を読みながら、
JR東海の関連会社の『ジェイアール東海エージェンシー』の企画されたネットの作品と判ったのである。

私は2月のような寒い日中のひととき、居間の暖房で暖かい中、
こっそりとネットで観てしまったのである・・。

http://www.jrta.co.jp/
☆『ジェイアール東海エージェンシー』 ホーム・ページ ☆

そして右側に、この四つの作品が明示されて、
東京の田舎者の私としては、この中で一番近距離の『富士山』を指定したのである。

この後、『めぐみの山』(3月2日・配信開始)、そして『生命ある山』(2月23日・配信開始)を観たのであるが、
圧倒的な荘厳と美麗な情景に見惚(みと)れて、それぞれ数分間の時を過ごせたのである。

しばらくした後、こっそりと『美しい日本 ~奈良~ 』、『万葉集』、『京都二十四節気』の三作品を拝見し、
自宅に居ても観られる美しい日本の数々に、ウェブの時代遅れの私でも享受できたのである。



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時代遅れの私は、テレビの録画はDVDよりVTRとなり・・。

2010-03-28 10:00:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
テレビの番組を録画しょうと思う時、DVDレコーダーがあるが、
何故かしらビデオテープ・レコーダーをセツトしまう習性のひとりである。

ビデオテープ・レコーダーに関しては、数多くの人と同様に1980年代に購入し始め、今や3台目となり、
DVDレコーダーは遅ればせながら、定年退職時の2004(平成16)年の4年前頃に購入している。


私は定年退職の5年前頃に、年金生活をする時にその時に観たい映画として、
100作品前後の名作があればよいと考えていたが、瞬(またた)く間に増えだした・・。
やむえず、250本収納できるビデオテープ・ラックを2本買い求め万全とした。

しかし、時代はビデオ・テープからDVDに移行期の上、
私はソフト販売店からの購入、或いはWOWOW、BS2からのコピーが増えて、
天上までとどく、幅広い大きなラックを買い増ましたのである。

そして今日は、邦画、洋画、映画以外のドキュメンタリー、音楽の四つの区分で、
ビデオ・テープ、DVDが並んでいる。


私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした時期もあったので、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
ビデオテープ・DVDの映画作品は1000本前後あり、
勤めた会社がレコード会社の影響で音楽作品はカセット、CD、DVDも3000枚前後あり、
少し多いかな、と思ったりしている。

私はDVDレコーダーを購入した数ヶ月は、テレビの録画はDVDレコーダーとしていたのであるが、
棚に縦並びで保管していたが、近眼と老眼の私にとっては、背文字のタイトル名、録画日などが小さ過ぎて、
やはりビデオテープの大きな背文字のスペースに安堵させられ、
この後は何かとビデオテープ・レコーダーで録画してしまうのである。

そして昨今、ブルー・ディスクにしても、圧倒的に普及しているDVDも、
多くの人たちはどのように保管し、観たいときに取りだしているのかしら、と私は苦笑したりしている。

しかしソフト販売店からの購入する作品に関しては、9年前の頃はビデオテープとDVDの併用発売の時は、
少し迷いながらDVDを選定し、これ以来はDVDとしている。

DVDの何よりの魅力は、たとえばセルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』完全版(1984年、製作)あるが、
録画収納時間はもとより、スチール写真が96枚添付され、適時に観ることが出来ることかしら、と思ったりしている。

このように時代遅れの私は思ったりしているが、テレビから録画したテレビドラマ、ドキュメンタリー作品に関しては、
やはり棚を眺めて、何を観ようかとビデオテープの大きな背文字を見ながら、選定するのも楽しいひとときなのである。


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パソコン無知な50歳前後のビジネスマンへの対応は・・!?

2010-03-27 13:32:21 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んだりした。
そして17面の『くらし』の中のひとつとして、『人生案内』の記事を読んで、
いまだにこうしたパソコン無知な50代のビジネスマンがいることに驚嘆したのである。

見出しには、

《 パソコンを覚えぬ上司に不満 》

と明記されていたので、定年退職後の6年生の関係ない私でも、深く精読したのである。


この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を掲載されていたので、
無断であるが転載させて頂く。


        パソコン覚えぬ上司に不満

30代女性。事務職。
50歳前後の課長はパソコンが使えません。
課長が鉛筆で下書きしたものを私が打ち込んで書類を作成。

課長のパスワードを使って私がメール送信します。
昇進試験の前に提出する作文の清書をさせられた時は嫌悪感が最大になりました。
清書ばかりで、業務に支障が出ることも。
課長は伝票の印刷もできず部下(主に私)を呼びます。やり方を聞くのではなく丸投げです。

清書作業が嫌いなのではありません。
パソコンを全く覚える気のない態度や、仕事をなすりつけてくる態度が腹立たしい。
「オジサン世代だからねえ」とかばう人もいますが――。

異動を申し出ましたが、かないませんでした。
といって転職するほどの不満はありません。
パソコンの技術向上のためだと自分に言い聞かせ作業しているのですが、
「いいかげんにしてください」と、課長にどなりちらしてしまいそうで怖いです。
(静岡・B子)



その課長にはもう期待しないでください。
パソコンを「覚える気のない態度」にお怒りのご様子ですが、
こういう人が下手に学ぼうとすると「これ、動かないんだけど」とか「字がヘンなんだけど」などと、
周りの人にいちいち聞くようになってかえって迷惑。

無視したりすると、あなたは不親切な人に見えてしまいます。イライラするだけ損。
「オジサン世代」というより、文字を使えない縄文人だと思ってあきらめたほうがよいでしょう。

清書も大切な仕事です。
私なども自分の文章が美しく活字化されているのを見ると感謝の気持ちが込み上げてきます。
どうか邪魔と思わずに、最初から業務として真剣に取り組み、
その責任を果たすべく誤字脱字や下手な文章を見つけたら赤ペンで容赦なく添削してください。

内容がヘンだったら、「意味不明」と書いて突き返してもいいと思います。
それこそ時間の無駄ですから。

清書をなめてはいけません。
あなたが本腰を入れるとどうなるか課長に思い知らせてあげましょう。

回答者・・(高橋 秀実・作 家)

(2010年3月27日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多く、和暦も追加した。

http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/gakko/20100327-OYT8T00200.htm
☆ 【YOMIURI ONLINE】 『人生案内』3月27日 ☆


もとより日本の社会でも新聞・テレビなどの社会ニュースは、
一般の常識からかけ離れたことが取り上げられることが圧倒的に多く、読売新聞のこの『人生案内』も同様である。

私はこの記事を読んだ後は、この過酷なビジネス社会の現在でも、
このような50歳前後のビジネスマンがいることに驚嘆しながら、微苦笑しているのである。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に大学を中退して、
アルバイトなどをしながら映画・文学青年の真似事をしていたが、
自身の30代を思い浮かべたりした時に、とても妻子を養うだけの力が見いだせず、やがて断念した。

そして民間のサラリーマン生活を過ごす為に、中途入社の有利な手段のひとつとして、
やむえずコンピュータの専門学校に一年間ばかり学び、
ある大手の民間会社に入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。

その後まもなくレコード会社が新設されて、私も転属させられた後、
本社でコンピュータ専門として配属された。
そして長らく情報部門の中で、奮闘したりしていた。

この間の1970年代は、発信文書は手書きの時代であり、
1980年代はワープロで作成し、社内外に出していたのが多かった。
そして、1995年でウィンドウズ95が発売される前は、表計算などはロータスであり、
私も活用していたひとりであった。

私の専門のコンピュータのシステムの改定に伴うプログラムの作成や修正、
そして運用の操作は当然ながらコンピュータの端末機のキー・ボードで行い、
一般の方は、文書作成機のワープロ、表計算のロータスにしても一部の方はキー・ボードで入力をしていた。

このような社内に於いて、私は表計算のロータスを普及させたく、
覚えたいような人を私は見つけて、年齢を問わずその人の性格も配慮しながら教えて、覚えて頂いたのである。

その後、私は他部門に異動し、社内のシステムで端末機を利用して、業務に専念し、
1995年のウィンドウズ95が社会から受け入れられ、
1998年の頃からは、社内でも文書作成はワードで、表計算はエクセルの時代となり、
電子メールを送発信し、情報の共有化などを図った。

しかし、相変わらずワープロしか出来ない人も折、
この人は同僚の後輩の人から学んだりし、或いはプライドの強い人は、こっそりとパソコン教室に自己負担で習得をしたりしていた、
と私は後日知ったりしたのである。

私は1999(平成11)年の55歳を迎える直前、社内のリストラ旋風の中、出向となり、
本社の情報の活用は明確でないが、
2004(平成16)年に出向先で定年退職となったのである。


こうした概要の私であるが、この『人生案内』に寄せられた若き女性の上司に対する困り果てた心中は、
私には明確に視(み)えるのである。

①この50歳前後のパソコン無知な男性は、周囲の同僚がこっそり教えてもらい習得する。

②パソコン教室に行き学ぶ。

③パソコンを使わない部署に配置転換を申請し、異動する。

私は瞬時に三項目を明記したが、このウェブの発達した時代のビジネス環境を配慮すると、
パソコンに入力しなくともよい分野の勤務は少ないと思われる。

私は改めて、この50歳前後のビジネスマンは、よくぞ今まで自身がキー・インしないで、
周囲の職場に迷惑をかけて今日まで勤務できたことに、驚嘆したりしているのである。


しかしながら、我が家の家内は、1976(昭和51)年に私と結婚し、
数年後からは専業主婦となり、昨今の私はパソコンのネツトを活用している時、
自身で入力するように幾度か教えたりしたが、習得まで至らなかったのである。

私が旅行などで、関連の宿、観光先のホームページをお気に入りで登録して、
家内はマウスで指定しながら、検索し、確認しているのが現状である。

そして私は、出向時代に携帯電話が世の中で普及していたが、職場の業務上に於いて、
携帯電話は使用しなかったので、
今でも携帯電話が使えず、保有していないのである。

このように私はコンピュータの端末機、ディスクトップのパソコン、ノート・パソコンのキー・ボードに愛着し、
1969(昭和44)年の春にコンピュータの専門学校に初めて触れて以来、早やも40年が過ぎている。



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齢ばかり重ねた私は、夢の中で亡き小説家の三島由紀夫、松本清張の両氏が出て・・。

2010-03-27 07:57:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、5日ぶりに日本酒を呑みながら夕食を頂だき、家内と旅のこぼれ話をしたりし、
談笑がはずみ、四合ばかり呑んだりしたので、9時過ぎに布団にもぐり寝付いてしまった。

そして夢のひとつとして、私としては不可解で不思議な夢をみたのである・・。

都心の高級な居酒屋の奥まった18畳ぐらいの部屋で、
亡き小説家の三島由紀夫、松本清張の両氏が酒席を共にし、
出版社の編集者の40代の方と出版担当の取締役の5人が隣席している。
どうした訳か判らないが、私は末席で小さくかしこまりながら、弐合徳利を傾けながら呑んでいたのである。

この後、三島由紀夫、松本清張の両氏が互いに罵(ののし)りあい、
『男の中の男の見本のようにふるまっているが、貴様は男の中のくずだ・・』
と松本清張が三島由紀夫に云ったのである。

隣席にいた出版社の諸氏は驚きあわてふためいたが、
更に松本清張は三島由紀夫に云い放ったのである。
『小説が書けなくなったと悩んだ上、世間のことも判らない若き青年を集めて親衛隊を結成し、
その挙句・・道連れにしやがって・・』
と怒号のように云ったのである。

三島由紀夫は青ざめたまま黙っまま、反論する余裕もなかったのである。

出版社の諸氏はもとより私も動転したまま、しばらく呆然とし、
『先生・・今日はこれまでと・・しまして・・』
と出版担当の取締役は松本清張に云ったのである。


夢だったかと私は気付いたのは早朝4時過ぎで、
しばらくした後、玄関の軒下で煙草を喫ったりし、不思議に夢をみた、と思ったりしたのである。

この後、たとえ夢であったも脳裏に蓄積された一部が、事実と大幅な異なるが、
夢は脚色されることが多いのである。

このようなことであるので、どうしてなの、と根拠を思いを馳せたりしたのである。

そして、ほんのわずかであるが思い当たることがあった。

私がこのサイトで昨年の2009年9月10日に於いて、
【 【太宰と清張 生誕100年】を読みながら・・。 《中》 】
と題して投稿しているが、この中の一部に根拠らしいことが明記している。

【・・
前回に続き、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、【太宰と清張 生誕100年】が掲載され、
この記事に準じた内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
一日遅れで掲載されていたので、転載させて頂き、
私は読みながら感じ、思いを馳せたことを記載する。


《・・
(略)
・・1964年、中央公論社(当時)が企画した80巻の全集「日本の文学」から清張が外れる“事件”があった。

当時、同社で清張担当だった宮田毬栄(まりえ)さんによると、
編集委員の三島由紀夫は
「清張には文体がない。文学じゃない」と収録に強く反対。

容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切った。
清張は激怒した。
「高等小卒の清張にとって、本は学校。
中でも全集は、最も輝かしいものだったでしょう。悔しさは計り知れません」(宮田さん)。
・・
(略)
(2009年9月8日 読売新聞)
・・》

注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は中央公論社の80巻の全集「日本の文学」に関しては、
次兄が駅前の本屋から定期購入し、私は精読し、日本の近代・現代の文学として、
あますところなく読んだひとりである。
この時になぜ松本清張は選ばれなかったのか、疑問に思ったひとりである。
少なくとも、、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』の作品は、
たとえ三人で一冊の本として編集されてもよいのではないか、と思ったりしていたのである。

今回、編集委員の三島由紀夫が、
《・・容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切り、
「清張には文体がない。文学じゃない」
と収録に強く反対・・》
と私は初めて知ったのである。

私は三島由紀夫に関しては、家柄もよく、文学少年が文学青年となり、
純粋に文学の道を歩まれ、やがて文壇の寵児として出版社から奉(たてまつ)られ、
やがて読者にも伝わり、読者層を増やしたスター小説家と思ったりしている。
そして、他者からの批判を何より嫌う人で、青年のままに死去された人と感じている。

三島由紀夫の一番の欠点は、他の小説家の作品を小説家自身の軌跡や心情で険悪し、
判断するきらいがあり、大人になりきれない批評眼である。
もとより、作品の良き悪きは、たとえ小説家自身の信条なく、作品次第である。

(略)

・・】


このように私は投稿していたので、つたない脳に蓄積され、
この中の一部が事実と異なり脚色されて、現実ではありえない夢となったのかしら、
と思ったりしたのである。

そして齢ばかり重ねた私は、夢を見るのであったならば、
50代から私と同じくらいの65歳までの凛とした女性と談笑しながら、
しぐさにほのかな妖艶を感じる人と、15分ばかりひとときを過ごせるのが、
何よりも期待をしているのであるが、無念ながら夢に出てこないのである。



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東京の郊外は、里花は咲き、雑木は木の芽時(このめどき)となり・・。

2010-03-26 16:16:04 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ数日は2月の時節のような寒さで、小雨が降り続いていた・・。

私はやむえず買物と散策を中止とし、大半は読書をして過ごしたが、
深夜まで読んだり、昼寝もしたり、ふしだらな時を過ごした。

今朝、雨上がりの朝を迎えて、朝の6時は4度、昼下がりは12度前後、夕暮れの6時は10度前後で、
晴れ時々曇りの穏(おだ)やかな一日になります、と地元の天気情報は報じていた。

私は二軒ばかりスーパーで買物をしてきたが、ときおり霧雨が降り、
空を見つめたりして、どうしてきまぐれなの、と天上の気候の神々に苦笑したのであった。

こうした不安定な中を歩いたりして、近くの小公園の数多い雑木の大木が芽吹きはじめて折、
私は圧倒されるように見惚(みと)れたりしたのである。

遊歩道を歩けば、辛夷(コブシ)の白い花、華やぐ桃の花、純白の白木蓮(ハクモクレン)、雪柳(ユキヤナギ)の白い花、
馬酔木(アセビ)は垂れた穂に五個前後の可愛らしい白い花をつけたり、そしてサンシュウの黄色の小花が咲いている。

桜並木を歩けば、開花する前の大きな莟(つぼみ)となっているので、
まもなく桜が咲けば、こうした数多く花の彩(いろど)りも桜に主役の座は奪われてしまうが、私は心を寄せる里花である。

そして、モミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)等の雑木の芽吹きに、
私は齢を重ねたせいか限りなく愛惜を深めて、私は見惚れたりしている。


自宅に帰れば、紅濃色、紅色の満開となっている藪椿(ヤブ・ツバキ)を眺めたり、
紫木蓮(シ・モクレン)が大きな莟(つぼみ)なり開花の前の情景となっている。
モミジは芽吹いた後、幼葉となりはじめたり、花梨(カりン)も芽吹き萌黄色となり、
常緑樹の金木犀(キンモクセイ)、塀代わりに植えているあかね糯(アカネ・モチ)が新芽が伸ばしたりしている。

そして、黄色い花を咲かせているラッパ水仙、
純白の花をたわわに咲かせている鈴蘭水仙(スズラン・スイセン)を誉(ほ)めたりし、
蕗(フキ)を片隅に群生させているが、10センチぐらい育ち春の息吹きを感じたりしている。


私は梅の花が散り終え後、桜の咲く前のこの時節が好きな情景のひとつである。



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いつの日にか訪れてみたい、『黄金崎 不老ふ死温泉』・・。

2010-03-25 14:18:55 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私達夫婦は、国内旅行が共通の趣味であるので、四季折々に各地を訪れている。

まだ未知の地も多く、その時に思いついた旅行も多いが、
いつの日にか日本海に面した青森県の『黄金崎(こがねざき) 不老ふ死(ふろうふし)温泉』に行ってみたい、
と私は漠然と思ったりしていた・・。

過日、家内と家内の母の二人連れで、4月中旬に、
広島の広島平和記念資料館と四国の道後温泉に7泊8日の旅行を起案したので、
私は家内の用心棒と時刻表と地理に疎(うと)い家内と共に、駅前の旅行代理店に行ったのである。

旅行代理店の人と詳細の話になったので、私は席を外れて、
店内の片隅のソファーに座り、近くにあるパンフレットを取り、読んだりしたのである。
この中のひとつにJR東日本が発行している『びゅう(VIEW)』の『北東北 青森・秋田・岩手』編があり、
この中のひとつとして、『黄金崎 不老ふ死温泉』の解説と写真があり、私はしばらく読んだりしたである。

私達夫婦は日本海の波打ち際に面した露天風呂には、無念ながら未知であった。
能登半島の輪島温泉、新潟県の瀬波温泉、山形県の湯野浜温泉などの観光ホテルに宿泊し、
いずれも日本海に面した宿であったが、波打ち際までには幾分遠かったのである。

こうした思いもあり、波打ち際に面した露天風呂として名高い『黄金崎 不老ふ死温泉』に、
いつの日にか訪れてみたい思ったりしていたのである。


駅前の旅行代理店から帰宅後、家内に『びゅう(VIEW)』の『北東北 青森・秋田・岩手』編を手渡した後、
未知の『黄金崎 不老ふ死温泉』の想像、その周辺の情景を私は家内に話したのである。

私達はこの周辺はわずか一度だけ、少し知る程度であった。

2006(平成18)年の夏、東北の4大祭りの中の『秋田の竿燈まつり』と『青森のねぶた祭』を
団体観光バスツアーで観賞する旅行で、
『秋田の竿燈まつり』を観た翌朝、国道101号を北上とした時、JRの五能線とほぼ平行になり、
海沿いに五能線を走る列車が観えたりしたのであった。

そして、私達のバスは白神山地の『十二湖』めぐりをした後、JRの『十二湖駅』の駅前でトイレ休憩をし、
その後も国道101号を北上し、JRの『深浦駅』の駅近くの観光ホテルで昼食を頂いたのである。

この後は、五所川原市の郊外を通り、青森の『ねぶた祭』を観賞した。

このような思いで話を私は家内に情景をまじえながら、話したりしたのである。


二週間ばかり過ぎた今朝、小雨が降りしきる午前中、
家内は小さな声で、

♪上野発の夜行列車 おりた時から
 青森駅は 雪の中
 北へ帰る人の群れは 誰も無口(むくち)で
 海鳴(うみな)りだけを きいている

【『津軽海峡・冬景色』 作詞・阿久悠、作曲・三木たかし 】

と唄っているのである。

私達はこの二週間、『黄金崎 不老ふ死温泉』めぐりの旅行日程を思案してきたのであるが、
B型の私の性格と家内のA型の不思議な夫婦の組み合わせの為か、
おかしな旅行日程を懸案しているのである。


東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
リゾート『しらかみ』に乗り換えて北上し、『ウェスパ椿山』駅で下車した後、
黄金崎温泉の『黄金崎 不老ふ死温泉』の新館iに3泊する。

この後は、リゾート『しらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊し、
青森駅に戻った後は、駅より70分ぐらいバスに乗った酸ケ湯(すかゆ)温泉の『酸ケ湯温泉旅館』に2泊する。

そして青森駅から特急スーパー『白鳥』で八戸駅で下車し、
八戸駅より東北新幹線『はやて』で東京駅に向かい、帰京。


このようなプランを考案しているが、八戸から程遠くない『鮫』駅の郊外の蕪島でアホウドリを観ようとしている。
このことも含めて、詳細は今後調整するが、私達の風変わりな性格で、このようになってしまったのである。

♪ごらんあれが竜飛岬(たっぴみさき) 北のはずれと
 見知らぬ人が 指をさす
 息でくもる窓のガラス ふいてみたけど
 はるかにかすみ 見えるだけ

【『津軽海峡・冬景色』 作詞・阿久悠、作曲・三木たかし 】

家内は、先ほどから石川さゆりちゃんには似ていないが、小声で唄ったりしている。

私は、『黄金崎 不老ふ死温泉』で3泊して、露天風呂から日本海の夕陽を眺めことが夢であったが、
どうしてこのような日程になったの、と微笑しているのである。


http://www.furofushi.com/
☆ 『黄金崎 不老ふ死温泉』ホームページ ☆





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森山直太郎の『さくら(独唱)』は、私の好きな『桜ソング』のひとつとなり・・。

2010-03-25 08:13:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日は小雨が降り、昼下がりでも9度ばかりで花冷えのような一日となり、
私は買物と散策を中止し、大半は読書となったりした。

そして夕方のひととき読売新聞の夕刊が配達される前に、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】のニュースを見たりしていたのであるが、
ひとつの記事のタイトルに興味を示して、何気なし読みながら、微笑んだりした・・。

無断であるが転載させて頂く。

《 
         好きな「さくらソング」1位は?

桜の季節を前に、大手音楽CD販売チェーンHMVジャパンがユーザー約2,200人に聞いた結果、
好きな「さくらソング」1位は、福山雅治の「桜坂」という結果が出た。
2位はケツメイシ「さくら」、3位は森山直太朗の「さくら」と続いた。

この調査は、2月末から10日間、店頭やインターネット上で実施。
30~40代では、福山雅治「桜坂」が圧倒的な支持を集め、NHK大河ドラマ主役を演じる人気の広がりが現れた。
20代では、ケツメイシ「さくら」が、「桜坂」などを抑えてトップだった。
このほか、20~30代にはYUI「CHE.R.RY」が人気を集めた。
・・
*「新生活と春の決意に関する意識調査」(HMVジャパン調べ)

(2010年3月24日 読売新聞)

注)原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20100324-OYT8T00480.htm?from=yoltop
☆【YOMIURI ONLINE】 エンタメ 好きな「さくらソング」(HMVジャパン調べ)☆


この記事を読みながら、福山雅治の『桜坂』は発売された翌日にCDも購入し、
少なくとも30回以上は聴き、名曲であると確信しているが、
私の場合は森山直太郎の『さくら(独唱)』が心身ともに深い思いでがあるので、最上位なのである。

この思いはこのサイトに幾たびか投稿しているが、昨年の2009年3月27日に於いて、
【 私だけの森山直太郎の『さくら(独唱)』の深い想いで・・♪】
と題して綴っているので、再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝はいつものように日の出と共に起床し、
6時過ぎに玄関庭に下り立つ、樹木を眺めながら煙草を喫ったりしていた。

門扉の郵便受入箱の近くにある椿(ツバキ)が淡紅色の花がたわわな咲き、
恥らうように咲いている花を誉(ほ)めたりし、
平年より幾分寒く、花冷えとなって中、花持ちによいかしら、と微笑んだりした。

この後、花梨(カリン)の樹木を眺め、
芽吹きはじめ、萌黄色の彩(いろど)りの情景に心を寄せたりしていた。

このような状景を眺めていたら、

♪僕らはきっと待っている 君とまた会える日々を
 さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


この歌が突然思い出され、私は心の中で唄いはじめた・・。


私の民間会社のサラリーマンの現役時代の最期は、
ほど遠い物流情報会社に出向となり、この中の物流センターに勤めたのである。

そしてCD、DVD等の音楽商品を管理する部署であったので、
私は主要曲の出荷量を予測したりし、契約社員10名前後、そして女性パート100名前後の中で、
効率よく限られた時間内で出荷できるような業務もしていた。

私は2003年3月の初め発売された森山直太郎の『さくら(独唱)』は、
発売日の初回枚数がわずかであったので、数多い発売曲の中で余り注視することがなかった。

そして桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したのである。

しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、商品を効率よく出荷できるように現場を駆けずり廻っていた。


この頃の私は、通勤時にCDウォークマンで数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年間レコード会社に体験した身でも需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、書籍と同様に、
人々の好みを予測し、この中の一部の方が購入して下さる、
まぎれなく生きた心の商品であるからである。

結果として、森山直太郎の『さくら(独唱)』は
東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの連休の頃、ミリオン・セラーと称している百万枚を超えたのである・・。

私は出向の初め、長年勤めた本社から辞令を受けた後の半年は気落ちし、その後は馴染み、
定年退職の前の年にこの曲が、私の予測を遥かに超え、思いで深い曲のひとつとなったのである。


♪どんなに苦しい時も 君は笑っているから
 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は花梨の萌黄色の新芽を眺めながら、
桜の咲く頃には、可憐なピンクの色した花びらが数多く彩(いろど)る光景に、
思いを重ねたりした。


♪今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
 輝ける君の未来を願い 本当の言葉

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は小声で唄いだしたのである。


余談であるが、この頃のCDシングルは、何曲も収録されているのが、流行だった。

この曲も『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、
そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。
・・】

このような心の思うまま綴ったりしているが、私は音楽棚からこのCDを取り出して、
あの当時の私を重ねながら、ラジカセCDで聴いている・・。

http://www.youtube.com/watch?v=uyabWL6Kr1g
☆【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】☆




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かの大戦『太平洋戦争』の時、わが街の戦禍は・・。

2010-03-24 09:42:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の23日の朝のひととき、いつものように読売新聞の朝刊を読んだりした。
33面の武蔵野版の『地域』面に於いて、【~東京の記憶~ 戦後65年 】と題した連載記事があり、

《 調布B29墜落
          油まみれの犠牲者》

と見出しされた記事を深く精読したのである。
特に私は調布の地域で生を受け、現在も生家の実家の近くに住んでいるので、
特に深く二度ばかり読み返したりしたのである。

この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を掲載されていたので、
無断であるが転載させて頂く。



『東京の記憶 戦後65年  連載』

  調布B29墜落  油まみれの犠牲者
            ~ 同級生の最期 丹念に取材 ~

調布飛行場の門の前で「戦争の資料や遺跡を残していきたい」と話す岩崎さん(調布市で) 
1945(昭和20)年4月7日。
調布飛行場から飛び立った戦闘機「飛燕(ひえん)」が米軍爆撃機B29に体当たりするのが見えた。
白煙を噴き出したB29は、7、8機の編隊から離れ、ゆっくりと左旋回しながら墜落していった。

「やった!」。
空襲警報が鳴り響く中、調布町(現・調布市)下石原の自宅近くで直前まで、
B29編隊から爆弾が次々投下される様子を唇をかみ締めながら眺めていた岩崎清吾さん(77歳)。
調布国民学校(現・調布市立第一小学校)を卒業し、旧制中学への進学を控えた春休み中だった。
近所の子らと一緒に手をたたいたが、本当は墜落を喜んでいる場合ではなかった。


武蔵野町(現・武蔵野市)の工場で零戦を生産していた中島飛行機武蔵製作所などを狙った空襲が
1944(昭和19)年11月から連日続き、
「調布も戦場になってしまった」と感じていたが、
「子供だったから、爆弾が近くに落ちてこなければ、防空壕(ごう)にも入らず様子を見ていた」と振り返る。

実は、バラバラになったB29の機体のうち、主翼の一部が、岩崎さんらがいた場所から約3キロ東の国領に落下。
国民学校の同級生だった河栗和子さんや両親ら8人が防空壕の中や母屋で犠牲になったと聞いたのは戦後になってからだ。
B29に乗っていた米兵11人のうち10人も死亡した。

   □■□

「私たちの戦争の記憶を書き残さないか」。
50年近くが過ぎた1992(平成4)年頃、還暦を控えて国民学校の同級生が同窓会の準備のため久しぶりに顔をそろえた席で、
岩崎さんは提案した。

作家の藤原ていさんの「流れる星は生きている」など戦争関連書籍の編集に偕成社で携わり、
「いつかは自らの体験も残したい」と思うように。

編集者時代に地元での活動が出来なかった悔いもあり、調布の戦争の歴史を伝えたいと考えたのだ。

その場にいた2人が提案に賛同し、翌年には住所がわかった同級生約120人に趣旨書を発送。
1995(平成7)年に体験記「心に秘めていた戦争の話」を出版した。

これをきっかけに、岩崎さんを代表とする「調布市戦時記録保存会」が発足。
現在、25人が、市内の学校やイベントで戦争体験を語り、戦時中の史跡を保存する活動も続けている。

   □■□

戦争体験を語るときには、飛燕と、3倍以上の大きさになるB29の模型を持参し、
両機の違いが一目でわかるよう説明する。
スライドには、河栗さんと、約50日後の5月25日に空襲で焼夷(しょうい)弾の油を浴びて重いやけどを負い、
7月に亡くなった同級生竹内喜久枝さんの顔写真を映し出す。
B29に乗っていた米兵の氏名や役割も子供たちに示し、戦争の様子が具体的にイメージできるように気を配る。

活動を通じ、河栗さんの叔父には電話で、
遺体がB29の油にまみれていたことなど最期の状況を聞けた。

竹内さんの兄の源三郎さん(82歳)とは、今も交流が続く。
源三郎さんには、年の離れた妹と出かけたり、遊んだりした記憶はあまりないが、
実家が空襲に遭ったと聞いて入院先の病院に駆けつけると、
「お兄ちゃん」と笑顔を見せてくれたという。

源三郎さんは「岩崎さんたちが妹のことを語ってくれることで、
私が知らなかった妹の姿が見えてきてとてもうれしい」と話す。

男女一緒に机を並べる機会がなかった時代。
直接の2人との思い出はほとんどなくとも、
庶民が被害に遭ったことをきちんと残しておきたい、と岩崎さん。

「戦争は犠牲者の数で語られがちだが、
彼女らの写真を見て、一つひとつの命の重さを感じてほしい」

活動の原動力は「戦争の苦しみを子供や孫に二度と体験させたくない」との思いだ。

(佐々木大輔 32歳)

(2010年3月23日 読売新聞)

注)記事の原文にあえて改行を多く、和暦も追加した。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231267978517282_02/news/20100323-OYT8T00077.htm
☆ 【YOMIURI ONLINE】『東京の記憶 戦後65年  連載』 調布B29墜落  油まみれの犠牲者 ☆


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦時は翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代であるが、日本人のひとりの責務として、
戦争に関しても私なりにこのサイトで数多く投稿したりしている。
たとえばこの中のひとつとして、幼児、少年期に防空壕などで遊んだりした体験もあるので、
今回はこのことを中心に綴ることにする。


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人達はもとより、親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。

北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、
と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

250キロの爆弾と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。


我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。


私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。


この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。


今回、新聞記事を拝読する前はこのような思いであったが、この記事からは多々教示を受けた・・。
敗戦の四ヶ月前の4月に於いて、調布飛行場から迎撃で飛び立った戦闘機の『飛燕(ひえん)』が、
米軍爆撃機のB29に体当たりし、この中の一機が白煙を噴き出したB29が、
7、8機の編隊から離れ、ゆっくりと左旋回しながら墜落。

そしてB29に乗っていた米兵11人のうち10人も死亡。

何よりも私は空襲で焼夷(しょうい)弾の油を浴びて重いやけどを負い、亡くなった方たち、
このように数々の悲惨な実体験をされた方を思い馳せると、ご冥福を重ねながら、涙を流したりした。

そして、私は齢ばかり重ねた65歳の身であるが、
わが街の戦争の歴史についても余りにも無知ことが多過ぎ、
まぎれない過酷な戦争の実態を目をそらせず学ぶことこそ、
たとえ戦争を知らない世代の私でも日本人のひとりとしての責務と思っている。




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ふたたび、白木蓮(ハクモクレン)、そして紫木蓮(シモクレン)の想い・・。

2010-03-23 14:57:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
買物や散策の折、自宅の最寄の住宅街を歩くこともある。

3月の初旬の頃から、辛夷(コブシ)の花は少ないが、
純白の木蓮(モクレン)が数多くの家で咲きはじめ、私は微苦笑しながら、通り過ぎる・・。


30数年前頃、私は一軒屋を建てようと、住宅ローンの資金融資の依頼で、
駅前の大手の都市銀行を二行ばかり寄ったのである。

私なりの返済計画書を携えて、銀行の融資担当の方に懸命に説明し、
融資の依頼をしたのであるが、結果として断られたのである。

駅前の二行の銀行から去り、住宅街を落胆しながら、彷徨(さまよ)うように歩いたのである・・。
このような時に、ぽっかりと純白の花が見知らぬ家の庭先で見えたのである。


その後、小さな地方銀行で融資を受けて、
私は一軒屋を構え、18年のローンの重荷となったが、何とか返済ができたのである。

この間、家を建てはじめた後、実家にある紫木蓮があり、
その脇にあった小さな紫木蓮の幼樹を2本を貰い受け、一本は主庭に植え、もうひとつは玄関庭に私は植え込んだ・・。

頼りない幼樹であったが、5年過ぎた頃から、暗紫紅色の花が咲きはじめた・・。
私は幼年期、実家にあった大きな紫木蓮があり、
この世で初めて美麗の花と感じた想いで樹木であったので、私はひとしお喜んだのである。

この10年、幹元も10センチ、樹高も高くなり、私は剪定をしたりしている。

この時節、大きな莟(つぼみ)を数多く枝先があるが、小鳥が定期便のように飛来し、啄(つい)ばんでいる。

私は半分程残してね、と小鳥を見つめているが、玄関庭にある方は9割方食べつくしている。
主庭にある方は、私はときおり小鳥を睨(にら)んだりしているので、2割ほど残っている。


4年前頃、駅前に出た時、融資を断られた大手の都市銀行の二行は合併し、
どうしてなの、と微苦笑している。

そして、私が融資を受けた小さな地方銀行は、住宅ローンの返済が終えて、15年前後となるが、
私は年金の振込み先、国債の購入先に利用させて頂いている。


このように私には、純白の香(かぐわ)しい匂いの美麗な白木蓮であるが苦い思いが重なり、
紫木蓮は幼年期から、大きな莟の後、暗紫紅色の花が咲きはじめた情景は、
まぎない美と秘かに思い続けているので、片思いのような心情で見惚(みと)れて、60年ぐらいなっている。


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年金生活の私でも、『フレッツ光メンバーズクラブ』に加入の申し込みをして・・。

2010-03-22 15:36:27 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ数ヶ月、NTT東日本、KDDI、J-COMなどの販売代理の会社より、
回線の乗り換えなどで電話勧誘、郵送のパンフレットを頂くことがある。

我が家のインターネット導入時は、遅ればせながら私の定年退職時の少し前、2004年の夏季であった。
以前から、ADSL回線を検討したが、私の住む所は電話局から遠方なので断念し、
光回線は余りにも高い価格であったので、迷っていた時、
ケーブル・テレビとして名高いJ-COMの傘下の地元のケーブルテレビ会社が、
我が家の門扉に近い電信柱で施設工事を行っていた。

私が訊(たず)ねると、電信柱まで光回線を施設し、
そこから各家庭までの配線は、通信速度が下り30メガ、上り2Mメガを目標とし、
ADSL回線よりも安定した高速回線で、程ほどの価格であり、
テレビの伝送とネットのセットで、私は加入することとした。
従って、プロバイダはJ-COM Netの30メガ・プレミアとしたのである。


翌年の2005年の春頃から、NTT東日本が光フレッツの加入促進のキャンペーンに伴い、
我が家にも電話勧誘、チラシの広告が郵送されたり、そして新聞の折込チラシも入ったりしてきた。

光回線はもとより、ひかり電話もセットにすれば、
我が家のJ-COM Netとプシュフォン電話機の電話利用料金より、
料金面は廉(やす)くなる上、ネットの回線速度も早くなるので、6月に加入したのである。

NTT東日本の光フレッツ対応の初期工事は無料となり、
プロバイダはニフティを選定したが、数ヶ月お得キャンペーンに便乗したので、
通信回線も実質50Mメガ前後となり、私は心の中で小躍(こおど)りしたのである。

そして家内が何よりも喜んだのは、
私の定年退職前は家内のお気に入りであった旧態のダイヤル式の黒電話、
退職後まもなくプシュフォン電話機となり、そして現状はひかり電話となったので、
驚くほど電話利用料金が廉(やす)くなったことである。


この後、NTT東日本の販売代理の会社より、フレッツ・テレビ伝送サービスを利用すれば、
加入しているJ-COMより、お得です、電話勧誘されて、
私は切り替えたのは昨年の2009年1月であった。

この結果、NTT東日本の光回線の下で、電話は『ひかり電話』、ネット回線は『フレッツ』、
そしてテレビは『スカパー!光』となったのである。


過日、月例のNTT東日本より電話料金の請求書が郵送さた中で、
『FLET’S光メンバーズクラブ』の入会案内書が同封されて私は見ていたのであるが、
何かしらお得のサービスがあるので、ネットで検索したのである。

https:­/­/­flets-­members.­jp/­pub/
☆ NTT東日本『FLET’S光メンバーズクラブ』 ☆

そして、少なくとも会員になれれば2100ポイント(1ポイント1円相当)の商品券などの頂けるので、
私は入会の申し込みをしたのである。

そして会員IDとアクセスキーを採番して頂く為に、ネットで依頼し、
規約どおり2週間ぐらい電子メールで待ち、
指定された会員IDとアクセスキー、そしてパスワードを会員情報の入力すれば、
私も入会できるので微笑んでいるのである。

しかし、このようなサービスをするのは、NTT東日本の光回線の新加入、継続して利用されている維持であり、
国内の同様業者のKDDI、ソフトバンク、J-COMなどは脅威の施策のひとつかしら、
と単なる利用者の私は微苦笑している。

尚、私はモバイル情報の根源で゜ある携帯電話は使えず所有しておらず、
ネット情報はパソコンでインターネツトで利用しているひとりである。


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『酒も飲まず、たばこも吸わず、車も運転しないなら、納税義務を回避している・・』思い馳せられ・・。

2010-03-22 10:46:57 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の朝のひととき、いつものように読売新聞の朝刊を読んだりした。
この中のひとつの記事の『編集手帳』を愛読しているが、読み終った時に苦笑させられたのである。

この記事と同一が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を掲載されていたので、
無断であるが転載させて頂く。


(あなたが酒も飲まず、たばこも吸わず、車も運転しないなら、納税義務を回避している〉。
外国にそんな箴言(しんげん)があった。
無論、取りやすい所から取る、という税制の一面に向けた皮肉であろう

これからは下戸でもコーラやサイダーなどが大好きなら、堂々たる納税者として胸を張れる時代が来るかもしれない。
米ニューヨーク州が「砂糖入り清涼飲料税」の導入を目指している。
今月末に州議会で採決するそうだ

課税する理由は、甘い清涼飲料が肥満の人を増やし、州政府の医療費も膨らませているから、という。
まぁ何となく、もっともらしい理屈ではある

ただ、たばこならば受動喫煙の被害もあり、課税強化が支持されるのは分かるものの、
酒そして清涼飲料へとまるで“健康”を強要するような論理で増税の動きが広がるのは薄気味悪い。
例えば、立体映像テレビは目に刺激が強いから「3D税」を、などと言われたらたまらない

税金に関する外国の箴言をもう一つ。
〈この世で最良のものは無料であることだが、政府は絶対に課税する方法を見つけようとする〉。
日本では御免(ごめん)蒙(こうむ)りたいものだ。

(2010年3月21日01時24分 読売新聞)

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20100321-OYT1T00041.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 3月21日『編集手帳』 ☆


この記事を2度ばかり読んだ後、体力も衰え少しボケた私は苦笑したのである。

酒に関しては19歳を過ぎた後、ウィスキー、ビール、ワイン、日本酒などを愛飲してきた。
40代を迎えた頃からは純米酒の辛口となり、ときおりビールを呑むことが多くなった。
昨年の2月にメタボの研修を受けた時、麗しき保健女医の指導により、
冠婚葬祭、国内旅行以外は、殆どビールを呑んだりしている。

私はB型の熱血男児のせいか平素からおしゃべりのひとりであり、
酒席となれば益々饒舌となり、談笑しながら明確な発言もし過ぎて失敗を重ねたりしてきたが、
酒席の人たちと深く語り合い、貴重な人生のひとときを学んだりしてきた。

このようなこともあり私は酒も文化のひとつと確信しているのに、
ビール会社などが新種を開発し、世の中の人々から受けいられると、
何故かしら国税庁が酒税を考案したり、値上げをするのが不思議に感じたりのある。


煙草に関して綴れば、私が大学一年の夏の長期合宿で喫いはじめ、
これ以来は風邪などで自主的に敬遠しない限り、日に20本前後は愛煙している。
昨今、嫌悪ブームの風潮となっているが、受動喫煙もあり、分煙制度が積極的になればよいと思ったりしている。
しかし健康もさることながら、環境問題とするならば、自動車からの空気を汚染する方が遥かに酷く、
やはり数多くのメディアは自動車メーカーの広告出稿額を配慮すると、
手っ取り早く煙草を叩く風潮が世界の主要国に広まっている。

こうした思いもあるが、私は定年退職後は家の外の玄関庭の軒下、主庭のテラスなどで喫い、
外出の時は、携帯の灰皿を持ち、駅前などの指定された喫煙場で喫ったりしている。


自動車に関しては20代の独身時代は実家の自動車を愛用していたが、
結婚して遠方の賃貸マンションに住んで以来、いずれは自動車を所有する気持ちがあったが、
実家の近くに一戸建てを30代なかばに構えると、ローンの返済で苦渋したので、
とても自動車を所有する余裕はなかったのである。
そして40代なると、サラリーマンの私は益々業務は多忙となり、
ペーパー・ドライバーとなり、免許書の更新だけは持続したのである。
万一、失業した時の再就職した時、何かと便利と思ったりしていたのである。

この後、定年退職後の年金生活を始めた更新時に、私は免許書を破棄した。
何とか自動車を買えるようになり、時間もあったが、自身の判断力が鈍くなったのであり、
たまたま私の住む処は、都心の新宿、東京駅に行っても一時間ぐらいで行けるので、
公共交通のバス、電車を利用することとした。

そして、日頃は散策しているが、私は近所の住宅街も歩くが、殆どが自動車を保有しているが、
ときおり高齢者の方がおぼつかない運転を見かけると、
公共交通の利便性のある地なのに事故でも起こしたら、と憂いている。

高齢者となった私は、あなたの残された人生はたかがひとときの利便性に頼ると、
事故となったら悲惨な日々となる、と確信しているのである。


このような思いでいるが、私は年金生活をしていても、程ほどの税金に纏(まつわ)ることは滞納せず、
つたないなりに国民のひとりとしての責務を果たしている。

もとより財務省の諸兄諸姉は、国民から税金を集め、国家の財政基盤を安定することが最大の責務、
と私は思っている。
そして高齢社会を迎え社会保障額の上昇が最大の難問と思われるが、
高齢者の私は微苦笑しているのである。

昨今、医学の発達した現代、何より健康と叫ばれて長寿となっているが、
ただ齢ばかり重ねて生きがいを失くされた方は老害と思ったりし、
どうして余命ばかり伸ばし長寿ばかりこだわるのか、高齢者の私は判らないでいる。

私は好きな酒を呑み、煙草を喫い、好きな趣味を深く洞察できれば、
平均寿命などは関係なく、70歳を過ぎれば余命と思っている。

こうした身勝手な私の思考は、社会保障額の難問を解決するひとつとなる、
と微苦笑しているのである。


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東京郊外の住む私は、春の嵐の後、お墓参りとなり・・。

2010-03-21 15:21:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、南風が強く中、果たして明日の天候はと思いながら、布団にもぐり寝付いた。

深夜の未明に突然に目覚めたのである。
我が家は住宅街の外れの古びた二階建ての家であるが、2階の寝室で横たわっていたのであるが、
風圧のように感じられ、目覚めてしまったのである。
平素の私は、たとえば地震が震度3ぐらいの弱震では、目覚めることのない鈍(に)ぶい人であり、
悠然と熟睡するタイプであるので、瞬間風速も強く強風が吹き荒れていたのである。


今朝の6時過ぎに起きだして、玄関庭の軒下に下り立つと、
風は吹き、ときおり小雨が降ったりしていた。

樹木は雨に濡れ、地面は黒くなっていたので、未明時に激しい雨が降ったと思ったりした。
そして庭の片隅にはビール20本入りのプラスチックのケースが二つばかりあり、
ペットボトルの空き、缶ビールの空き缶が散乱し、
台所の外への出入り口の付近から強風で吹き飛ばされたのか、と苦笑したりした。

私は台所の外への出入り口の指定場所に拾い集めた後、この時節としては暖かさ過ぎると感じたりしたのである。

この後、私は地元の天気情報を視聴し、
朝の6時は16度、南西の風は強く吹き荒れ、ときおり雨も降る午前中となりますが、
午後は急速に回復して20度前後の快晴となります、
と報じていた。

私はどんよりとした暗い雲が急速に流れる空を見つめたりし、
本日の『春分の日』はお墓参りを毎年に午前中にしているので大丈夫かしら、と眺めていたのである。

そして7時半過ぎに陽射しが射し込んできたが、この後は暗い雲があたり一面の空を覆い、
ときおり小雨が降りだしたのである。

私は午後からにお墓参りにしょうかしら、とあきらめかけた後、
8時半頃にふたたび陽射しが射し込み、空は明るく青空が広がってきたのである。


毎年この日の『春分の日』は私達夫婦は長兄宅に行き、長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行く。

私はお墓参りは生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
生を受け、両親、祖父母、親族、祖先のお陰で私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

『春分の日』と称されているが、自然を讃(たた)え、生物を慈(いつく)しむ日、
と制定の時に定義している。

知識人の藤野邦夫氏に寄れば、
《ご先祖を尊(うやま)い、偲(しの)ぶ変りに、生きているものを慈(いつく)しむ日》
と解説されている。

私達夫婦は、それぞれ故人から頂いた心の思い大切にし、何気なく手を合わしている・・。


こうした思いで私はお墓参りをしているが、
いつものようにお寺の境内に行ったが、境内は樹木の枝葉が散乱して折、
快晴の青空の中、ときおり強い風が吹き、
昨夜からの春の嵐のような天上の気候の神々のしわざに苦笑させられたのである。

そして、お墓参りをした後、スーパーで買物し帰宅したのは、午後2時過ぎであった。

先程、私は主庭のテラスに下り立ち、陽射しが燦燦とした中で、
ときおり風が吹き、樹木の枝葉が揺れる情景を眺め、春の嵐は過ぎたと感じたりした。



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『暑さ寒さも彼岸まで・・』の古人の格言に微笑みながら・・。

2010-03-20 10:29:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝も主庭のテラスに下駄で下り立った。
数日前より私は足袋(たび)を履(は)かずに素足となり、春風を心身受け止めているのであるが、
寒さを感じることなく、何かしら心地よいのである。

紅濃色の満開となっている藪椿(ヤブ・ツバキ)を眺めたり、
モミジは幼葉となりはじめたり、紫木蓮(シ・モクレン)が大きな莟(つぼみ)なり開花の前の情景となっている。
そして私はかがみながら、黄色い花を咲かせているラッパ水仙、
純白の花をたわわに咲かせている鈴蘭水仙(スズラン・スイセン)を誉めたりした。、

この後、蕗(フキ)を片隅に群生させているが、朝露に濡れながら10センチぐらい育ち陽射しを受け、
春の確かな息吹きを感じさせてくれる。

このような情景を見ていたら、朝の投稿文を綴ることも忘れ、私は長らく見つめたりしていた。

そして居間に戻れば、地元の天気情報が、
朝の6時は6度、昼下がりは20度前後の5月のような暖かさとなり、
日中は快晴に恵まれます。と報じていた。

しかし明日の天気は午前中のひとときに雨、その後は回復して快晴となります、
と伝えていたので、お墓参りの時は、と思ったりしていた。


昨今の私は、過日の小笠原・父島滞在旅行から帰宅した後、
日中は買物と散策をした後は読書することが多く、ときには昼寝までしてしまうことがある。
年金生活をはじめた数年は何かしら現役の働いて下さる諸兄諸姉に罪悪感を感じることもあったが、
最近では年金生活の何よりの恵みと思い甘受している。

午後の大半を読書とするが、過日、駅前で買い求めた文庫本の三冊がある。
たまたま田草川弘(たそがわ・ひろし)著作の『黒澤明 vs.ハリウッド ~「トラ・トラ・トラ!」その謎のすべて~』(文春文庫)、
橋本忍(はしもと・しのぶ)著作の『複眼の映像 ~私と黒澤明~』(文春文庫)、
江夏豊(えなつ・ゆたか)著作、波多野勝(はたの・まさる)構成の『左腕の誇り ~江夏豊自伝~』(新潮文庫)、
たまたまこのような三冊である。

私は陽射しのぬくもりある居間で暖房いらず中、ソファーで読んだり、
眠くなったら、2階の和室の寝室で障子越しに陽射しを受けた中、布団にもぐり、
電気毛布も不要となった布団にもぐり、読んだりしたりしている。

そして、古人から伝えられた『暑さ寒さも彼岸まで・・』の格言に甘えている。



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